はじめに:


私は、医師でもないしましてADDの専門家でもない。ただ、ADDの特徴を持っている一人間の立場として書いている。ADDとADHDは本質的に同じ障害で、ただ現れ方が違う。ADHDとは多動性で、一時もじっとしていられないのが特徴で、子供、それも男児に多い。この多動性は、大人になるに従って収まってくる場合が多いが、根本のADD障害が治ったわけではない。大人は矯正によって自分の行動を制御できるので多動性が見られなくなるだけのことだ。

私もかつて多動性の典型症状があった。いまは、そんなことはない。確かに気がつけば椅子の上でひっきりなしに体を動かしたり体中をやたらにさわったりしている。無意識の時はかなりきょろきょろしているらしい。大人になってからも落ち着きのない人とよく言われた。

今私の年齢、五十代後半になれば多動性はほとんど目立たない。子供でも多動性を伴わないADDはある。いずれにせよ、今の私はADHDには当てはまらないので、ADDとして話を進める。ただし、一般名称としてすべてをADHDとするという専門家も居ることを付け加えておく。というより、ADHDという呼び方に統一されつつあるようだが、今までと同様、呼び方は将来も変わる可能性がある。このサイトは、ADDedというタイトルなので、ADDでないとちょっと具合が悪い。

私は未診断である。受診する事にはあまり乗り気ではないが、いずれしなければならないのかとも考えている。乗り気でない理由は、全般に医師不信があるからだ。一部ではあるが、今までいろいろな病気で医者にかかったとき、患者を頭から子供扱いにして、ろくに説明もせず、まるで子供に言い聞かせるような口調で接する医師が大勢居た。病気についての専門家でありその知識を頼って患者は病院に行くのだが、人間としての価値は医師も患者も変わらないだろう。小児科ならともかく、社会人であれば自分と対等の人間として患者を扱うべきではないのだろうか。尊大で、患者を一段低く見る医師が多いのは事実だ。医者になるには大変な努力が必要で、その努力をしてきたのはわかる。そのために、実際の人間に接する機会を逸しているのではないか。とにかく、患者を対等な人間として見る目を持っていない医師は、それだけで失格だと思えてしかたがない。

重ねて言うが、問題のある医師は少数派だ。なんと言っても私は今まで何度も医師に助けられてきたのだし、人格的に立派な医師が大半だとは思う。何しろ、基本に人の苦しみを取り除きたいという願いがあって医師を志した人たちがほとんどであろう。だが、激務に追われ、わがままな患者に大勢接し(時として患者は子供に還っている場合がある。わがままな患者が多いのは事実だ)そして、患者や周りのスタッフにちやほやされているうちに初心を忘れてしまった場合もあるだろう。

医師が激務で自殺率が高い事も知っている。が、親が医者だからあとを継いだ、収入が安定しているから医者になったと公言している医者を知っている。金目的で不必要な治療を施し、金のあるなしで対応を変えるまるで小説に出てきそうな商売医者も実在する。そして、脱税をするのは、パチンコ屋と並んで医者がいつも上位に出てくる。

大部分の医師は使命感に燃え、本当に患者の身になって自分の時間も健康も犠牲にして頑張っていることはもちろん知っているし、心から尊敬している。医師も神ならぬ身、不完全な人間であり、疲れているとき、不機嫌なときがあるだろう事も理解する。わがままで無知な患者が多数居ることも充分見聞きしている。それでもどうして尊大な医者にばかり出会うのかが不思議だ。もしかしたら私のADD性が影響しているのかもしれない。

ADDは未だ広く認知されているとはいえない。大人にはADDは無いと言う医師もいるし、子供のADDしか診ないという医師もいるし、ろくに患者の訴えも聞かず、鬱病だろうからとりあえず薬を出しておこう、はいさよなら、という医師も多いときく。鬱病なら鬱病で慎重に診断し、薬の作用がどう効いているかを確認しなければなるまい。さらに、鬱病だと言いながら、しっかりしなさい、がんばりなさいという医師が居ると聞く。鬱病患者には禁句なのだ。従って、ADDではないかと訴えても、そんなことはないというケースが多いらしい。ADDなのに鬱病の薬を飲まされても、有害だろうと思う。専門家の中には、ADDなどという障害は存在しないと考えている人もいる。

いずれにせよ、日本はどうしてもこの分野で立ち後れている感が否めない。専門家が居たとしても、大人の診断はしない医者がほとんどと言っていい。正しく診断してもらうために、医者探しを辛抱強くしなければならないが、これがADD者にとって苦手なことなのだ。見つけたとしても、予約をしてかなり待たなくてはならないとしたら、なおさらだ。そして、本当にADDだとは限らない。

仮にADDと診断されても事態が変わるわけではない。確かに薬物による状態の改善の道はあるだろうか、私の場合二次障害による被害が大きかった。それは直接は薬物より、自分自身の努力で克服してゆかなくてはならない。薬物の効果は一時的であり、依存性もあるようであまり気が進まない。今私が必要なのは、ADDの知識をもっと得ることではないのか。そんな次第で、今受診をしようと言う気はあまりない。

子供時代に大きな問題を抱えていても、通常は大人になるにしたがい自らの努力で改善してゆく。従って、大人には子供と同じような障害は現れにくく、また男性は女性に比べてADDによる障害が看過されるきらいがある。それが上記のような判断を生んでいると思われる。

ADDには他の障害が共存する場合が多く、また二次障害も生じやすい。さらに、躾、環境,本来の性格などでADD障害として現れる症状が見られる。従って、ADDの診断は非常に難しい。

ADDは完全に認知はされていないし、主として子供の障害と思われている。したがって、大人のADD障害者の診断をしてくれる機関は少ない。また、支援グループも多数あるが、ほとんどが子供のための物である。インターネットサイトに大人の障害者参加型のサイトがある。が、女性で、三十代が多いようだ。大人の男性の、しかも私のような年輩者はあまり参加していない。考えられる理由として:

1)私の年齢でインターネットをやっている人自体が少ない。

2)私の年齢になればかなりの障害を矯正してそれなりに人生を作り上げている。したがって、自分の障害をADDによるものと考えていない。むしろ、この年齢ではADDの存在自体を理解できないのではないか。

3)私の年齢が育ってきた時代では男尊女卑が普通であり、女は慎ましく、男は多少乱雑、不潔でも当たり前とされてきた。従って、男性が多少ADD的な障害を持っていても許されてきた。

4)言い換えれば、女性はADD的な障害をよりはっきりと指摘され、自覚するのでADDであることを発見しやすい。

5)子供は障害の矯正が出来ず、したがってADD/ADHDの障害がそのまま現れる。子供の障害に悩んだ若い母親がADDの説明を聞き、自分の障害を改めて自覚する。

そんなところか。しかし、ADD自体がごく最近認知され始めたのでADDを自覚した若い人たち、男女に関わらず、将来どうなるのか不安を持っているのではないか。まあ、私のようになる可能性がある。もっとうまく行かない場合もあるだろうし、障害など物ともせず、医師、経営者,芸術家などなど華々しい成功を収めている場合もある。出来るならそのような成功を収めている人たちの例を私も聞きたいが,とりあえず普通の人間の経過も参考になるかもしれないのでこのサイトを開いた。

重ねて言うが私は専門家ではない。従って私自身かなり知識不足でこれからも知識を得てゆかなければならない。また、私のやってきた方法がすべて正しいわけではむろん無いし、個人個人に適したそれぞれの対処の仕方があるに違いない。その上で、何かの参考になればと思う。反面教師としての意味もあるだろう。

次に確認しておきたいのは、私が今まで、そして将来も悩むであろう数々の主として性格上の障害、不具合欠点そして長所が何から何までADDがらみというわけではない。環境、健康、躾、生来の性格などなども、時としてADD的特徴をもたらす。その上で、私がADDであるならばそれが不具合の非常に大きな直接原因であり、そして二次的な不具合をもたらしていることは間違いない。

ADDに悩む人間を、患者と言っている。確かに、神経科や心療内科、精神科で受診すれば医者から見れば患者なのだろう。英語でもpatientといっている。が、視聴覚障害や運動機能障害を持つ人たちは普通患者と呼ばれないのではないか。確かに障害を持っているのだから障害者というのは当たっているかもしれないが、それもありがたくはない。障害というより、不都合な特徴を持っているだけなのだが、とりあえずこの場ではADD者と言うことにしておく。しかし、必要に応じて障害者といわなくてはならない場合もあるだろう。

ADD障害が一般の障害と違って非常に困難を生むのは次のような理由によると思われる。

下半身に障害を持っている人は、誰の目にもはっきり見えるから、彼(彼女)が速く移動できず、そのために他の人間に負担をかけたとしても誰もが納得する。また、彼も周囲もその障害を誤り無く認識できるので、正しく対処できる。つまり、障害の程度に応じて杖を使ったり、松葉杖を使ったり、歩行器、車椅子を正しく使えるし、可能であれば手術で機能をある程度回復できるだろう。義足も有効な選択肢だ。リハビリも正しい方法で行える。本人も周囲も歩行困難という障害を正しく認識できるからだ。もちろん歩行困難であることは大変なことだろう。自転車便のスタッフになる夢や、普通のサッカー選手になる夢はあきらめなくてはならない。が、人間の能力でいえば歩行能力はごく一部のものだ。歩けなくとも芸術的な才能を花開かせたり有能なビジネスマンになったり出来る。歩行に難があったところで、その人の人格に対する評価は下がらないし、尊敬に値するなら正当に尊敬される。
語弊があるかもしれないが、歩行に障害があれば公的補助もいろいろ受けられる。

が、ADD者にとってそれは非常に難しい。まず、障害が目に見えないため自分でも思い通りにならない人生にいらだち、その原因がすべて自分の努力不足だと思いこみ、自己嫌悪に陥る。周囲も、能力があるのに努力をしない怠け者、自分勝手で周りとの協力が出来ない困り者と思われ嫌われる羽目になる。尊敬を得るなどかなり難しい。たとえ周囲がADDを正しく認識したところで、人格に関わる障害なのでやはり尊敬の対象にはなり難いだろう。

ADDでは、子供の頃は自分をコントロールすることが出来ないので,親にして見ればまるで野生のチンパンジーを育てているような気持ちだろう。学校の先生にしてもどうしようもない問題児としてしか見ないし、能力はあるのに努力しない児童として扱うだろう。もちろんクラスでもつまはじきにされ、いじめの対象になる場合が多い。その結果、ADD児は親や教師、級友に不信感を持ち、自己嫌悪に陥り、精神的に追いつめられ不安定になり、最悪の場合自ら命を絶つという事にもなりかねないのだ。すべては、ADDが目に見えない障害だからだ。

前述したが、ADD者は、知能的には全く問題がない。時に平均以上の知能を有する場合も少なくない。が物事に集中できないという一点のために本来の才能を開花させることが出来ず、学校、仕事、家庭を全うできない場合がある。自分自身と周囲との戦いに疲れ果てすり切れてしまうのだ。将来はADDが障害として広く認知されるだろう。だが、いまはまだせいぜいADDを理由とする困り者でしかない。身体障害者に与えられている公的保護も、いつかは与えられるようになるかもしれない。が、判定が難しいために、誰の目にも明らかな身体障害者と同じというわけには行かないだろう。

IQや頭の良し悪しに就いては傍証 IQに詳しく述べた。興味があったら、のぞいてみていただきたい。

今は子供のADD障害が知られてきていて早い時期に適切な治療を受けられるチャンスもある。悲惨なのは、現在大人になってしまっているADD者だ。今から適切な治療を受けるチャンスはあるかもしれないが、人生の非常に大切な部分を無駄に過ごしてしまった事実は取り返せない。

一般の身体障害でも同じだが、ADDは全く本人には責任がない。むろん、親にも周囲の誰にも責任はない。しかし、それによる不都合はすべて本人が被らなければならず、本人が解決しなければならないのだ。足が悪くて歩けないことが本人や周囲の誰の責任でもないことは明白であり、別に説明しなくとも誰でも納得する。それによる不都合はむろん本人が一番被るのであり、本人が努力して事態を向上させなければならない点はADDと同じだ。
だが、たとえば電車に足の悪い人が乗ってくればほとんどの人は席を譲るだろうし、バリアフリーの建物も増えてきているし、足が悪いことでその人を嫌う人間は居ないはずだ。
ADD者は首から自分はADDですという札をぶら下げて歩いているわけではない。普通のレストラン、電車内、公共の場でいちいちADDであることを説明して人にかばってもらうなど出来ない。仮に説明しても首から札をぶら下げていても必ず理解され受け入れられ、舌打ちをやめてくれるわけではない。目に見えない障害は、たとえ理論的に理解できても感情的に受け入れがたいものなのだ。

身体的障害の場合、親兄弟にも負担はかかるだろう。大変だろうが、それを理不尽な負担だと思う親兄弟は居ない。が,ADDの場合は、それが正しく理解されないうちは親兄弟にとって理不尽な負担なのだ。そして親兄弟が正しくADDを理解したとしても、それで親兄弟の周囲との戦いは終わるわけではない。それはどう考えても理不尽な負担なのではないだろうか。

さて、自分の不具合がADDのためだとはっきりしたところで、それだけでは何もならない。誰も不具合の肩代わりはしてくれない。自分で努力しなければならないのだ。その点は目に見える障害でも同じ事だが。

ADDと判明することでより効果的な対処が出来ると前述した。薬もかなり有効な場合があることもはっきりしている。それでも薬は二次障害には効かないし、効果は持続しないし、根本的な解決にはならない。が、ADDによる障害が、努力で相当改善されるのは、一般の身体障害と同じなのだ。

足が悪くて歩けなければ、杖や松葉杖、歩行器、車椅子、義足そして車の運転も可能だ。つまり、かなりの部分をカバーでき、慣れればそれをあまり意識しないほど生活を改善できる。何もしなければ、日長天井を眺めて寝ていなければならないのだが、そうするより仕方がないなどとあきらめている障害者は居ないはずだ。たとえ全身が動かない障害をもっていても、口や瞼でワープロを打ち、絵を描き、インターネットをやっている人もいる。あきらめてしまえば何も手に入らないが、勇気を持てば生き方はいくらでも有意義に出来る。

ADD者もあきらめる必要など絶対にない。十分に改善可能なのだ。身体障害者と同じく、普通の人が全くしなくて良い努力を強いられるが、誰にも肩代わりさせることは出来ない。愚痴をこぼすのは無駄なだけだ。

ADD障害といっても人によりその現れ方は様々だ。その深刻さも様々だ。また、二次障害も度合いも様々であり、何がADDによる障害か、何が二次障害か、何が全然別個の障害かも判別は不可能で、結局不具合があれば自分の努力で改善しなければならない。

大人のADDの場合、まず例外なしに問題になるのは集中力のなさだ。何かに注意を向け続けることが不可能なのだ。元凶はその点にあると言っても大きな誤りではなく、それさえ克服できれば、他のことは自動的に解消されるとさえ、私の場合は思う。何かに集中し、やり遂げることは普通の人は普通にやることだ。継続は力なりという。地道に続けていれば、間違いなく何事でも上達するし極めることも出来る。ADD者にはそれが極めて困難なのだ。おそらく、その感じは普通の人には理解しがたいだろう。毎日少しづつやっていればいいのだ。なんでそれが出来ないの、と人は言う。何でもう少し人の話を落ち着いて聞いていられないんだ、と叱られる。なんで、いきなり関係のない突飛なことをいい出すのか、と会議の席上言われる。なぜ、約束時間を守れないのか、おまえはそれでも社会人かと言われる。どうしておまえはそんなに整理整頓が出来ないのか、どうしてそんなに汚いだらしない格好をしているのか、やる気があるのか・・・良い大人になっているのにそんなことをなぜ言われ続けるのか、何でもないことがどうして出来ないのか。すべて、集中力のなさ、衝動的に行動してしまう事から発している。

かつて私は上に書いたすべてが当てはまった。かつて、というのは今は自分なりに相当まともになっていると感じているからだ。しかし、それは制御する方法を学んだからだし、日常的に繰り返す行動を、体に刻みつけたからだ。注意力がない、何事にも集中できない、衝動的に考えを変えるという障害は、子供の頃から全く改善されていない。改善できるものではないのだ。足のない人が義足で不自由なく行動できるようになっても、足が生えてくることは決してないのと同じ事だ。

以上のような表面に現れにくい問題を,私という素材を使って浮き彫りにしてみようという意味でこのページを開いた。


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