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私の場合の問題 人のことは推測では書けないが、自分のことなら書けるし責任も持てる。しかし自分の経験をすべて書く必要はないし、乱雑にすぎる。従って、わかりやすく整理して書くつもりなので、実際の経験を編集することにする。経歴など、脚色している部分もある。細かい一つ一つは事実の再現ではないが内容としては正確だと思っていただいて良い。問題の本質を説明するためには、幼少時から書き起こす必要がある。 私が四、五歳の頃、母親は一時として気の休まる事がなかったろう。そのころの事はあまり覚えていないが、それでもたとえば床屋で散髪をしてもらう間、私は一秒もじっとしていることが出来なく、髪を刈る床屋の主人と私の頭を押さえつける奥さんのペアでしか私の散髪が出来なかった。つまり、その間他のお客は奥さんの手が空くのを待っていなければならないわけだ。 私を銭湯に連れてゆくのも、母にとっては難事業だったに違いない。少し目を離すと私はそこらへんを走り回り、同年の子供にちょっかいを出し、よそのお母さんたちに追っ払われ、挙げ句の果てに浴槽に落ちておぼれかけよそのお母さんに引っぱり出してもらった。結局、母は私を捕まえておいてすっかりあらい、脱衣場で全部着せ、家に送り出してから改めて自分が洗う事になった。 私がいつも居なくなるので母にしてみれば心配の種は尽きなかったろうが、幸い当時は年長の子供が小さな子供の面倒を見ながら遊ぶ風潮があった。また、しっかり者の姉がいつも私についていた。おそらく母から言われていたに違いない。それで私が行方不明になって捜索願が出されることもなかった。 私が小学校にはいると、母は再三学校に呼びつけられたらしい。家に帰ってきては、私に懇々と説教をした。今と違い、教師は落ち着きのない生徒を力尽くで席に押さえつけることが出来たし、教室の後ろに立たせて置くことも出来たし、場合によってはひっぱたいても今のような騒ぎにはならなかった。従って、今問題になっているような学級崩壊も、ADHD障害児もあまり問題になっていなかった。が、それでも私が問題児であることは間違いなかった。級友たちとも絶え間なく悶着を起こし、口より先に手が出る、つまり喧嘩に明け暮れるようになった。幸か不幸か、私はそのころは平均よりかなり身体が大きく、喧嘩慣れもしていて、喧嘩は結構強かったし、集団によるいじめの対象になったとしても黙ってうじうじ引っ込んでいるような事はなく、とにかく傷だらけになり着ている物が破れても相手に飛びかかりやりかえした。つまり、私は大人たちから見れば相当な乱暴者であり、凶悪な小学生だったわけだ。 むろん授業には集中できず、勉強などひとかけらもしなかった。が、自分の好きな事は当時から結構熱中したし、結構本も読んでいた。入学前に絵本ではない、もちろん子供向けだが漢字混じりの本も読んでいた。最初に読破した本は覚えている。「ザウサント兵隊」(ゾウさんと兵隊)というカタカナ書きの旧仮名遣いの本で、所々にイラストの入ったぺらぺらの仙花紙の本で、厚さが1.5センチくらいだったようだ。南方のジャングルを進軍する日本軍の中で、象に荷物などを積んで移動するある兵士と象の触れあいの話だ。私は、平仮名よりカタカナ、そして旧仮名遣いを最初に覚えた。 また意味は分からないにせよ、新聞に興味を持ち、母親にこれは何という字、どんな意味だと訊き、それなりに読んでいた。自分の名前はもちろん、相当数の漢字も書けた。おそらく、二桁くらいの足し算は出来た記憶がある。入学したとき、担任教師は私の母に、ロクスケ君は六年生でも知らないことを知っている。頭はすごくいいのに、やる気がないのが困りものだ、と言ったとのこと。 三年生の時だと思うが、IQテストがあった。そして、私の指数が、相当ずば抜けて高かったらしい。それが、事態をますます悪化させた。私は能力があるのに学校、教師、勉強を全く馬鹿にし努力をせず、反抗ばかりしている怠け者生徒というレッテルを貼られてしまった。(とは後で母に聞いたことだ) 子供同士の評価は、大人の評価とは少しばかり違う。そのように喧嘩ばかりしている問題児ではあったが、完全に嫌われつまはじきにされていたのでもなかった。それなりに仲間はいたし、クラス委員のまねごともしたし、学芸会などでは結構活躍したし、話題が豊富で人を惹きつける面もあった。地域での子供会などもあり、そこでもそれほどつまはじきになっていたとも思わない。結構アイデアを出してリーダーシップを発揮することもあったのだ。なにより、弱い者いじめは絶対にしなかったし、いじめられている者をかばったりもした。いじめられる辛さを身にしみて知っていたからだ。 相変わらず各種問題は起こしたが、当時はそれでも受け入れるだけの要素を子供たち自体が学んでいた。ほとんどに兄弟が居て家庭内でルールを学び、外でより広い人間関係からルールを学んでいた。塾やテレビ、ゲームなどがなければ子供たちは外で一緒になって遊ぶ。大勢居ればルールが出来るし、今と違い喧嘩をしてもちゃんと仲裁役が居て、さらに相手が大けがをするほどの結果にはならない。喧嘩のルールも確立していたからだ。つまり、問題児でもちゃんと居場所があったのだ。 しっかり者の姉の存在も非常に大きかったし、かばってくれる姉を悲しませたくないと自分なりに意識してもいた。 ADD/ADHD障害を抱えた人間がその障害の本質を本人、周囲ともに知らない場合、たどる道は大体同じだ。周りに繰り返し繰り返し責められ、次第に自己嫌悪に陥り、周囲と自分自身の心との戦いに疲れ果て、すり切れてしまう。その結果、鬱状態になったり、性格的に極端な引っ込み思案になったりもっとも運が悪ければおそらく一生を台無しにするだろう。 むろん、知能レベルには問題がないから、自分が原因は何であれ普通の人間にはない障害があることを認識し、それを克服しようと努力する。ただ、その努力が当方もなくエネルギーを要するため、他のことにまでエネルギーを回せないのだ。 具体的なことは各種の良い本が出ているし、また関連のWEBサイトもあるし、そして運が良ければ正しい理解をしている専門医やカウンセラーから学ぶことが出来るだろう。 私の体験を一例として続ける。繰り返すが、私の例はあくまで一人の人間の例であり、障害の現れ方は人により千差万別なのだ。私の例とまるで違うからADDではないとは考えないでいただきたい。 私が育ってきた時代では、男女の立場が今とは大変違い、社会の仕組みが違い、そして子供と大人の関係も違った。だから当然私がたどってきた道も現代では当てはまらない部分がたくさんある。 子供時代の落ち着きのなさは、中学校時代にはほとんど姿を消した。相変わらず落ち着きはないが、授業ももちろん聞いていられるし、喧嘩は減ったし、友人たちともなんとか付き合うようになっていた。成績は、中学の二年あたりから次第に下がり始めていたが、まだ上位に居た。クラブ活動では部長をつとめ、生徒会の役員に推されなんと当選した。私などよりもっと成績の良い先生の覚えめでたい立候補者たちを私が退けた事に驚いたのは教師たちで、職員会議でロクスケを役員にするのは問題だ、悪ガキたちがおもしろ半分に票を入れたに決まっているから、ロクスケは辞退させて他の生徒を任命してはどうかという意見が多数出た、とは担任から聞いた。だが、生徒に選出されたロクスケを辞退させれば生徒が教師を信頼しなくなるだろう、やらせてみよう。そのかわり強力なお目付役の先生をつけようと言うことになり最終決定は校長が下したとのことだ。確かにこの校長にはかわいがられた。 選挙の時、私は別に買収や脅しを使ったわけではなく、応援者が結構居たのだ。ただ、その応援者たちのほとんどが問題児たちで、それが教師たちには信用できなかったのだろう。 当選後、私はその問題児たちに協力をたのみ、それなりに成果を上げた。むろん、優等生たちの多くも結構努力をしてくれ、成績などには関係なく信頼して任せれば誰でも力を発揮すると,おそらく私は知っていたのだろう。教師からにらまれている問題児たちにもそれぞれ子分が居て、一度彼らが力を貸してくればそうとうな成果を上げられたのだ。もちろんはしにも棒にもかからない連中もいたが,全く自分のことしか考えない奴は優等生の中にもいたし、そのころは昔と違い自分の思い通りに動かない連中をぶん殴るようなことは決してなかった。・・・・あまり無かった。 このことは、私が自己嫌悪に陥り自信をなくしていたという記述と相反する。矛盾するようだが、実は私は全身全霊をあげて装っていた。それと、一度そのような立場になってしまうと、どうしてもその場から転落するわけには行かない。必死でその状態を保とうとした。また、うまい具合に、私のおっちょこちょい、注意散漫を補ってくれる仲間がいたし、また、私のお目付役になっていつもそばにいたベテランの先生が、実は大変な理解者だった。校長にも助けられた。思い返せば中学入学の時の担任が非常に温かい目を持った理解のある先生だったのがきっかけだと思う。今考えてみても、小学校の時の担任は,全く無理解なただ問題児を嫌い、差別し叱るだけの教師だった。 普通の子供にとっても良い教師に会えるかどうかは一生の大事だ。まして、ADD障害を抱えた子供にとっては大問題なのだ。 そのころは質の悪い教師が問題になり、仕事がないから先生にでもなるしかない”でもしか先生”が大勢いた。小学校時代は典型的なでもしか先生に当たり、中学校に入って初めて真の教師に出会ったわけだ。もちろんいやなセンコーも居たが、十分に精神的に対抗できた。 高校時代は私が一番まともに過ごした時代ではなかったろうか。全く受験勉強をしなかったが、高校入試に失敗するなど想像もしていなかった。そして、事実ちゃんと入学できた。 クラブ活動でリーダーになり、今までコンクールではいつも等外だったクラブを地域で優勝させた。むろん私一人の力ではないが、実にクラブの結束が堅かったのは事実だ。生徒会活動も協力を依頼され、やった。中学校時代の人脈が役立った。 順風満帆だった。ただし、成績をのぞけば、だ。実際、成績は下がる一方だった。また、もうひとつ問題にされていたのは私の服装のだらしなさだった。がそれを私に面と向かって言う者は無かった。卒業式の日、好きだった女の子と一緒に歩き、三年間服装にもっと気を使ってほしかったと言われるまであまり気にしていなかったのだ。 ADDがすべてにマイナス面しか持っていないと考えるのは間違いだ。状況が整えば人一倍の能力を発揮することが出来る。私は自分でそれを体験したと思うし、現実にADD障害を持ちながら医師、実業家、学者、芸術家とあらゆる分野で一流になっている人たちは大勢居る。本来なら自分がやらなければならない細々と、しかし整然とやらなければならない事を部下がやってくれる立場になれば、ADD者も本来の能力を発揮できる。また、気の向いたことに集中して、言い換えれば他のことに注意を向けることが出来なくなるほど熱中して取りかかることがあり、大きな成果を上げる場合も珍しくないという。菊池寛は時間の無駄だと言ってほとんど風呂に入らず、顔も洗わず、歯も磨かなかったそうだ。それでも偉大な文豪だという評価は変わらない。彼がそんな立場にいなかったら、ただの汚い親父でつまはじきにされながら一生を終わっていたのではないか。菊池寛がADDだったかどうかは分からない。いずれにせよ、まともではなかったが、才能がそのすべての欠点を補っていたのだ。同じようなことは現代でも時々見聞きするし、歴史上には無数にある。誠に残念ながら、そのような才能は私には無かった。が、特定分野では人並み以上の成績を上げる事はその後も体験している。 幸福な高校時代にも私なりに様々な問題処理にエネルギーを費やしていたが、いっさいその効果が現れなかったのは成績だった。 大学に入るにはとにかく優秀な成績を収める必要がある。むろん私もそれは承知していて、私なりに成績を上げようと努力していた。母や先生や友人たちは私が苦労していたなど信じないだろう。勉強を頭から馬鹿にして、勉強などしたことがない、だから成績が下がるんだと思っていたに違いない。 私は勉強しようとし、教科書やノート、参考書を広げて必死に集中しようとしていた。が、絶対に不可能だった。一分として一つのことをやっていられない。歴史の教科書を半ページ読んだところでそこに出ている単語の英語を調べなければならないという強迫観念が出てきて辞書を探し、頭にひらめいた単語の意味を調べる。ついでに他の単語の意味も調べはっと気がついて、クラブで明日やる練習内容を決めて置かなくてならないと思いつき、副部長の家に出かける。こんな夜遅くなぜ、と相手がいぶかり明日学校で話そうと言うことになってまた家に帰るが、勉強も明日やればいいだろうとなってテレビを見る。 次の日学校で、副部長に何の話で昨日来たのかと訊かれ、何を話すつもりだったかすっかり忘れていることを説明するのがいやで、その場ででっち上げたつまらない提案を持ち出す。変な奴だと内心思っている彼の顔を見つめながら、私は話を逸らす。 早く帰って昨日出来なかった分を勉強しなければと思っているのだが、クラブで遅くまで過ごし、家に帰った頃は数学の断片をかじり、化学の本を開き、英語の二三節を口ずさむ。この連続だった。勉強をする気は十分にあった。が、必要に駆られてやる勉強は全く手に着かず、好きな本で自分の受験科目ではない天文や中国史,民族学の知識を深めて喜んでいた。 受験の少し前十二月の終わり頃、これは運が悪かったとしかいえないが、ちょっとした病気になり、入院した。それで、どうも私の悲観意識が頭をもたげたのではないか。三年の終わりには成績が問題外の処まで落ちていて、どうせ受験勉強などまともに出来るはずがないと思っていたところにその病気はちょうど良い口実を与えてくれたわけだ。 それから現在に至るまで成功したとは言い難い。三十回ではきかないであろう転職を繰り返した。仕事に対して理解できなかったとか能力が低すぎたとは必ずしもいえない。どこの会社でも一から始めるわけで知識の習得は誰にとっても大変だろうが、私は割合早くおぼえたし、結構戦力になったと思っている。問題は、人間関係だった。自分の雑学をひけらかしているのを、相手は相当いらだっていたろうと気がつくのは、いつもその後なのだ。一度気がついたら止めればいいものを,知らないうちにまた繰り返している。 一度自分の意見を述べ始めたら止まらなくなり、人の意見を聞くことが実際苦手だった。時によって、他の人間が馬鹿に見えて仕方がなかった。無気力や無責任に腹が立ってならなかった。(実際無気力で無責任,無能な人間は大勢居た)。上司や顧客にオベンチャラを言うことがどうしてもできなかった。 人間関係以外の問題は、嫌いなことや興味を持てない仕事を、それが必要であることを十分に認識しながらやり通すことが出来なかった点だ。 ファイリングが絶望的にだめだった。書類が机の上に山積みになり、よく紛失し、とんでもないファイルに関係のない書類が綴じ込まれていた。共同で使うファイルや資料を、使った後元に戻すことが出来なかった。さらに、つまらないミスを際限なく繰り返した。 高校時代ほどひどくはないにしろ、一般社会では通用しないほど不潔で服装がだらしなかった。 仕事を先延ばしにしお客があきらめることがあった。必死になってごまかしたが、ごまかしきれなかった。だが、興味を持った仕事はお客がびっくりするほど素早く、手際よくこなし、私の評価は客先によって天地ほどの差があった。曰く、二度と来るなというものから、ロクスケさん以外には頼めないまで。 年を重ねれば経験を積むし、それなりに自分をコントロールできるようになる。したがって、後になればなるほどより長い期間一つの会社にとどまっていられるようになる。一番長い会社はおそらく最後につとめていたところで、七年だとおもう。ここの仕事は極端な激務で、各種手当てがおおく、それまでに比べて収入は割合良かったが、結局は人間関係で辞めたし、会社勤めに見切りをつけて自営に踏み切ったという理由もあった。 それまでも何かと金をためようとしたし、ある程度の貯金は出来たが、少したまると、とんでもない物に使ってすっからかんになることの繰り返しだった。自分に計画性が無い弱点は身にしみていたので、私としては異例の努力をし、忙しすぎて金を使う暇がなかったことも幸いしてなんと会社を辞めたとき、退職金も含めて一千万円以上の金を持つことが出来た。 有限会社を興し、その手続きはすべて自分でやった。行政書士などに依頼すれば会社設立の費用だけで三、四十万はかかる。自分でやったおかげで印紙代七千円プラスアルファですんだ。このような能力が自分にあることには何の疑問も持っていなかった。 自分一人で会社を切り盛りするとなると、どうしても経理をやらなくてはならない。経理や税金の申告を会計士に頼めばそれだけ金がかかるし、第一自分の会社の状態を把握するには自分で経理を理解する必要がある。何冊かの経理関係の本を買って勉強し、自分でソフトウェアを組み、毎日元帳をつければ自動的に貸借対照表、損益計算書などを作ることが出来るようにした。そのソフトは我ながら感心するほどうまくできた。後からは、注文書、注文請書および、請求書、納品書、領収証が一度に作れて自動的に記帳されるように改良し、これもうまく行った。ただ一つの経理上の問題は、私が毎日の元帳をつけず、領収証,納品書、請求書の整理が出来ず、支払いが頻繁に遅れて納入業者から催促をうけたことと帳簿があわないことだった。 相変わらず仕事の基準を損得や要不要ではなく、好き嫌いに置く傾向が改まらず、仕事の優先順位を決められず、勤めていたときのようにそれを訂正してくれる人間が居なかった。必要だと痛感しながら先延ばしにし納期はお話にならないほど遅れまくり、誰も言い訳を聞いてくれなくなった。 会社を興したとき、自分である機械を開発するつもりだった。それを開発する知識、技術は十分にあったと思う。一般論だが、何事も最初から失敗なしにできるものではない。が、私が予定していたのは最初から順調に開発が進む行程と期間で、開発費用の手当もそれしかしていなかった。だから、何度かつまづきがあり開発が続けられなくなった、というより投げ出してしまった。全く金がなくなり、やっと日銭を稼ぐしか出来なくなった。 負け惜しみではないが、私がその機械を完成しなかったのは正解だったといえる。現在では大手のメーカーからもっと効率の良い機械がやすく出ている。そもそも、当時から同じような機械が市場にあったのだが、私が知らないだけだった。私が金をつぎ込んでいたらとんでもない借金を背負って居たろう。 自分の好きな仕事をしたいばかりにその機械の開発に取り組んでしまったが、肝心の、事前の業界の動向、需要などを調査していなかったことが原因だった。 つまり、私は自分を律することが絶望的に不可能なため、一人で自営などは出来るはずがない。それは理解したが、再就職するにも人間関係を円満に続けることが出来ず、今はほとんど口を利く人間が周りにいない。買い物に行っても売り子とは最低限の会話しかしないし、時には無言で品物と代金のやりとりですませる。これは実質引きこもりと同じで、ただ世話をしてくれる人が居ないから外に出るだけの生活になっている。 いよいよ金がなくなり、アルバイトをした。ある大手のサービス業のカウンターだ。サービス内容によって実に細かな料金体制や補足条件があり、それに応じて予約を取り、コンピュータに入力し、客が来たらそれに応じて応対をする仕事だった。これらの仕事内容を理解し覚えるのは大変で、どんなに若い人間でも最低三ヶ月はかかるから、ロクスケさんは焦らないでやってくださいといわれた。私はそれを一月足らずで覚え、結局三ヶ月目にはその部署の責任者になった。ただし、最初に決めた時給は上がらず、仕事だけが増えた。人の分の責任もとらなければならなかった。 人が足りなくて、人材派遣会社から派遣社員が来たが、仕事を覚える時間がないままに入れ替わりが激しく、仕事を教える立場の私のいらだちが募った。同じ年輩か、少し年輩の人たちが来た。長くつとめるという。が、年金生活者であり、税金の関係で私のように毎日仕事をするわけではない。若い人間と違い、仕事はまじめであり、責任感もあり、そして他の業種を勤め上げてきた人たちだったので客に対しても私がはらはらするような言葉遣いはしなかった。問題は仕事を覚えることが出来なかったことだ。頭が固くなっているのか、何度教えても自分のやり方を通そうとする。自分なりに社会で同一の仕事を長くつとめてきたという自負があり、私よりも年輩だという意識もある。(私は年よりもかなり若く見える)若い人間に教えるような方法ではだめだとは十分知っていたが、時々癇癪玉が破裂した。彼らは、それでも表面上は私を立てていてくれ、結局私の態度は彼らにして見ればますます我慢なら無い物になった。彼らなりに初めてさわるコンピュータを一本指でもとりあえず打てるようになったが、数分ですむ作業に四十分かかり、客を怒らせた。一人は健康を理由に辞めていったが、後から聞いたところ責任者に私の悪口をさんざん言っていたとか。その責任者の言葉がどれだけ信用できるかはともかく、納得は出来た。 アルバイトの同僚や社員と絶え間なくトラブルを起こすようになった。また、客とのトラブルも増えた。たいていの人は、自分の仕事関係や友人の間では全くの自分そのままを出すことはない。わがままであろうが乱暴であろうが、それを隠して生活をしている。地のままの自分を出せばトラブルになることを知っているからだ。が、相手がサービス業の係員となると、そんな遠慮は要らないと考えるのもそんな人たちの常だ。で、代金はごまかす、設備を汚したり壊してもしらを切る、約束は守らないという客が、感じでは十人に一人は居る。 そこの責任者は、客とはそうした物であり、とにかく金をもらうなら何を言われても腰を低くしているのがサービス業だと言う。一理あるが、競争が激しいこともあり利益が薄いので、十人のうち一人の客がトラブれば九人分の利益が消えてしまう。 原価意識がまるでなく、営業所ごとにとにかく売り上げだけを上げるように尻をたたかれるので、不良客とわかっていても受け付ける。利益が上がっているのかどうかは全く考慮されているとは思えなかった。利益が上がらないとなれば、結局は臨時雇いの人間の給料にも響いてくるのだ。親会社から出向してきている責任者たちは、文句は言われるだろうが首にもならず収入も減らず本社に帰る日まで首をすくめてつとめていれば良いと割り切っていた。本人が言ったのだから本当だろう。 一方アルバイトは、よほどへまや不正でもしない限り、最初に決まった時給をもらえる。中にはとにかくさぼることだけを考え仕事を覚えようとしない者がいる。若いだけに私より時給は良いかもしれないのだが、その分の負担は私にかかりがちであり、そんなこともあって責任者ともめてそこを辞めた。 以上は私の一方的な言い分で、周りと協調しようとせず、客ともトラブルを頻発させる私は,サービス業としての評判を落とすだろうし、人材派遣社員やアルバイトも居着かないとなれば、責任者として私を引き留める理由はないだろう。むしろ辞めさせる機会を待っていたかもしれない。それは、私自身理解できる。 私の言い分はともかく、社会人として私がはなはだ不適切な人間であることは痛感している。そのすべての原因がADDではないだろうが、何にしろ私が対人恐怖の傾向を強めているのは事実だ。自己否定の傾向が強まっている。おそらく、鬱の状態にもなっているのではないか。これはかなり危険な兆候なのだ。 この原稿も今は熱中しているから書けるが、そのために何もしないで横たわる時間を三十時間ほど過ごし、その間食事もしなかった。突然ガソリンが切れて何もできなくなる時間がもうじき来るだろうと思っているが今のところ、まだ書き続けられる。後で読み返せばかなりくどいだろうとは思うが。 ADD障害を説明するために何でもかんでも一度に起きたかのように書いている。実際は六十年近く生きていれば相当なことも慣れで出来る。自分なりに、とりあえず今ホームレスにもならず生きているのだから運が良ければあと二十年このままでいけるのではないか。家庭を持たず、周りに口を利く人間が居ず、自分を全く律することが出来なくとも、食べたいときに食べ、寝たいときに寝、やりたくないことはやらない状態が続けられる間は、別にトラブルではないのだ。自分が崩壊するのではないかという予想もあるが、あまり危機感も感じない。 私の周りにADDかもしれないと言う人間は見あたらない。そもそもそれを観察できるような近い対象が居ない。それでもADDを理解し,二次障害を理解してみると、おそらく私たちの目に触れない形で崩壊して消えていった人間たちは大勢居るに違いないと想像する。生存意欲が無くなることはかなり危険だ。そして悪いことに、自分の内部を探ってみてもかなり前から強烈な生存意欲が無くなっている。インターネットは私にとって一つの外界との接触点だが、ありがたいことだ。インターネットを足がかりにして再デビューする夢も捨てては居ないのだ。 かつて結婚していたし、何人かの女性たちとつきあい、何人かと生活をともにしたのは、別に他の男性と変わることはないだろう。女性は人生の大きな要素だが、まあ私も人並みの経験はありますよ、くらいの記述で良いだろう。それぞれの相手と長続きしなかった理由をまた書く必要もあるまい。 はじめに ADD/ADHDとは このホームページの趣旨 運営方針 私について ADDは言い訳の理由にならない 自己診断 治療法 ADD以上の問題 ADD以外の問題 私なりの工夫 掃除の手順 パートナー,家族などとの共同生活 ADDであるからこそ得られる人生の特典ー標題の由来 その後 参考になる本 ご意見など お気楽ページ システム手帳 次へ ー 白日夢 トップへ |