「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

 INDEX

迷走の果て:バリアー (初出 2011.3.6 renewal 2019.9.15)

【補注】
ここに書いた心配事は、10年後の現代、さらに大きくなっている。
今は雇用状況が緩んでいるので、企業は従業員の選別を進めていないが、風向きが変わったとき、 どんな風になるかさらに心配だ。
本稿に例示したような人たちは、かつてよりずっと増えているように思えるので・・・。

******

いろいろ怖がらせてきたが、実のところ、私が一番心配しているのは、“一人の人間としての社会的境界線が喪失する”ことである。
こんなことをいうと、自分を歳をとったなと思うのだが、出勤途上でよく見る以下の行為は、社会人としていかがなものかと感じる。 私にはとても看過できない。(【補注】現時点ではさらにエスカレートしているように思える)

(1) 携帯電話で、周りに中身が聞こえることは無頓着に、個人的な会話を続ける。
(2) 携帯電話の画面を食い入るように見つめながら、メールを打つ。しかも、その内容はかなりレベルの低いもの。 そのうえ、満員電車なので、隣にいると全部読めてしまう。
(3) シャカシャカと音漏れを解せず音楽を聴く・・・のは、まだ許せるが、 音楽そのものが周囲に漏れ出して、その人の好みまでよく分かってしまう。
(4) ゲームに夢中になって、電車の出口で、乗り降りをじゃましている。
(5) 通勤電車内で、平気でパンなどをむさぼる。
(6) 通勤電車内で、平気でお化粧をする。
(7) 電車内に座り込む。床に寝ることもある。

これらの行為を、私は実際に見たことがある。
ITの普及とは関係のないものもあるが、現代の社会的な雰囲気が生み出している点では共通する部分でもある。
ルース・ベネディクトは、日本の文化を“外的な批判を意識する恥の文化”とした(Wikipedia)が、 だとすると上記の行為は“恥の文化”が衰退していることの証左ともいえる。 バリアーなし

電車で外国人と乗り合わせると、よく分かるのだが、 日本人がひたすら沈黙を維持するのに対し、外国人はひじょうに明るく、大声で会話を楽しんでいる。
対する日本人は、周りと自分とを隔絶している。それは、周囲の人間を無視しているからではない。 むしろ、必要以上に意識しているからこそ、周囲に気がつかないふりをしているのだ。
その方が、せまっ苦しい国土や住宅環境や地域社会の中で生きていくのに、便利だからだ。

ところが、前述の(1)~(7)の行為は、“自分と他人との境界線を忘れた行為”である。

IT機器と繋がっているとき―― 古くはウォークマン、今ならi-Podで音楽を聞き入っているとき、 携帯電話で知り合いとメールや会話をしているとき、ゲームに熱中しているとき―― 今の日本人は周囲の視線を忘れることができる。

そこには、周囲の視線をはね返す、強固なバリアーが張られているのと同じだ。
バリアーあり こうした社会現象が浸透するにつれて、日本における“恥の文化”が駆逐されているのではないかと、心配でならない。

今は家族は小人数だ。子供には兄弟が少ない。両親は共働きであることが多い。
私も一人っ子だったから、よくわかる。子供の頃は、架空の友達を作って遊んでいた。 そういった環境下で育ってしまうと、どうしても『一人遊び』が上手な人間になる。

しかし、そういう人間であるがゆえ、身近な誰かとの結びつきの喪失に苦しむ。 だから、パートナーを求める。

IT機器は格好のパートナーだ。
そして、パソコンや携帯の向こうにいる相手にしがみつこうとする。
直接、生身の人間とはコミュニケーションできない小心者でも、携帯の向こう側にいると大胆な会話ができるかもしれない。

実在の人間でなくて、ゲームの登場人物だっていい。音楽でもいい。自分の渇望を癒してくれるものであれば、何でもいい。
そうすることで、彼は自分の存在を確認できるのだ。
彼は、友人が欲しいのではない。“繋がり”が欲しい。
携帯の向こう側が、実在の人物であれ、ゲームのような仮想現実の場合であれ、彼にとっては、それはどうでもいいことだ。
“繋がり”であれば、それでいいのだ。

そして、相手先が見つかれば、その中に隠れる。その狭っ苦しい世界で、安息を得る。
一種の“ひきこもり”と同様だ。
ひきこもりは自宅の自室の中だけとは限らない。虚構・ヴァーチャルな世界があれば、いつでも、どこでもひきこもることができる。
そして、その中から、黙々と、携帯やゲームを通じて外界に働きかける。

成人してからもそのままだと、 9時から5時までの職業生活は仮の姿で、それ以外の仮想現実が本当の自分の姿だと感じ始めてしまう。
このため、同僚との間の正常なコミュニケーションがとれなくなる。
心の病で、常にブツブツと仮想の人物(=自分)に語りかけている人がいるが、それが虚構の存在にすり替わったといえる。

離人症という病気があって、その症状は「自分自身の思考や行動・身体・外界に対して現実感を喪失した状態。周囲の情景がピンとこない妙な感覚にとらわれる。」 (出所:メンタルヘルス雑学)とある。
IT依存症はそれとは逆だ。
自分の思考や行動は確たるものとして把握されているが、それが実社会と“ズレ”ているのに気がつかない。
そして、その反作用として、繋がってくれる相手方との結びつきが異常に太くなる。
だから、見ず知らずの人間が練炭自殺したりすることも、生じるのだ。

それはそれで問題だ。とはいえ個人的な範囲に止まる。
私が危惧しているのは、社会そのものが“ヴァーチャル社会”になったり、組織が“ヴァーチャル組織”になったりすることだ。

企業ではリストラが進んでいて、どんどん従業員数が減っている。
少ない従業員では仕事が成就できないので、外注できる部分は、どんどんアウトソーシングされるようになった。そのこと自体は当然の成り行きだ。
しかし、それが長く続くと、従業員の現場感覚が失われる。特に大企業では顕著だと思う。

私は労働相談を2年間やらせてもらったので、相談者から、ひじょうに生々しい社会の実情をたくさん聞かせていただいた。本当に勉強になった。

世の中、なかなか理屈通りには進まない。
しかし、ヴァーチャルな世界で成長してきた人たちには、仮想と現実の世界の境界が曖昧だ。
難しい受験戦争を勝ち抜き、名門の大学を出、社会の実相を知ることなく大企業のエリートとして経験を重ねてきた人たちは、どこか現実離れしている。
そのような従業員の考え方は、IT如何に関わらず、私たちオジサンから見ると“ヴァーチャル”。
オジサン流に分かりやすい言葉に言い換えると“机の上だけの理論”が行動原則となる。
そして、仕事の大半がアウトソーシングされてしまったので、そのことを再教育される機会を得ることができない。

もしかして今は、そういうエリートがこの国全体の舵取りをしている。
そう思うと、背筋が寒くなる。(終)