「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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迷走の果て:仮面舞踏会 (初出 2011.3.6 renewal 2019.9.15)

【補注】
初稿の頃は、(前)自民党政権の終わる頃である。国は“J-SaaS”というものを盛んに奨励していた。これは現在、立ち消えになっている。
“太閤検地”の昔から、お上は下々の経理状況をガラス張りにすることに熱意を上げている。
それまでは、商工会議所や商工会を使って、ネット経由での財務状況把握を行ってきたが、今ひとつ統一がなされていなかった。
たぶん国は、e-Japanの勢いを借りて、この機会に実現を図ろうとしていたと思える(確証はないが・・・)。
それが、政権変更により、白紙に戻った。
あくまでも、あくまでも私の個人的見解だが、私の知る限りにおいて、これをリセットしたことは、 政権変更の唯一の成果として挙げてもいいと思っている。

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2000年に掲載した、「迷走するITよ、いずこへ・・・」は、こう続く。

SF作家の予想外の第二点は、「携帯電話の普及がこれほどまで急激であること」
携帯の普及については、いまさら説明も不用だろう。当の電話会社でさえ、ここまで早く普及するとは考えていなかったようである。

予想外の第三点は、「分散コンピューティングの進歩」である。
ジョージ・オーウェルは、1948年、小説「1984年」を書き、巨大コンピュータ「ビッグブラザー」の支配する未来を描いた。 この予言が現実にならなかったことは、ご存じのとおりである。
(【補注】少なくとも1984年においてだが・・・)。
しかし、一時、コンピュータが巨大化する傾向があったことも確かで、このメインコンピュータを「ホスト」、 そして、これの手足となる端末を「ターミナル」と私たちは呼んだ。
その後、ホストと呼ばれたサーバーは、今では、情報を提供してくれるマシンという意味合いから召使い=「サーバー」と称せられるようになっているし、 単なるターミナル端末は逆に格上げされて顧客=「クライアント」マシンという身分を与えられている。
かつては高性能の中央コンピュータがすべての処理を行い、入出力だけを担当する端末が多数これにつながっているというシステムが普通だった。 国鉄の切符予約を見ればよくわかると思う。
しかし、今は1台1台のコンピュータの性能が格段に向上し、データは手元のマシンで処理し、それを中央のサーバーに送ったり、 また、サーバーから情報を受け取ったりするのが普通になっている。
これが、分散コンピューティングの実態だ。
さらに、第二番目の「携帯電話」、第三番目の「分散コンピューティング」に共通にからんでいるのが、“通信”。
通信という翼を得ることによって、コンピュータネットワークは、企業や家庭から飛び出し、世界へとつながる。
そして、この世界最大の分散コンピューティングシステムこそ、“インターネット”なのだ。。































今、コンピュータは再度、分散から集合の時代に向かっている。クラウドと呼ばれて・・・。
「予言が現実にならなかったことは、ご存じのとおりである。」と、オーウェルの世界を架空だと結論づけるのは、少し早すぎたかもしれない。

ITの世界では、主役がハードからソフトに入れ替わった。

大昔のコンピュータは、1台に1つの固有ソフトが組み込まれていた(こうした形のコンピュータを専門家はメインフレームと呼ぶ)。
コンピュータ内のプログラム(=ソフトウエア)はその機械の外に出られない。
そのうち、WindowsのようなOSができ。アプリケーションソフトは、OSの上に乗る形になった。
ソフトウエアは機材の制約から放たれた。とはいえ、自分で勝手に他のコンピュータに居場所を変えることはできないでいた。
そして、上記のようなクライアント・サーバーの時代に入って、コンピュータ間の役割分担が変わった。
やがて、インターネットの普及が進んで、ソフト自体がネット上を飛んでくるようになった。ソフトがハードに左右されないようになった。

そして次にくるのは、ハードは再び端末に格下げされ、何やらわからないもやもやした雲(=クラウド)の中に、 ソフトウエアが居所を構えるようになる世界である。
データもなにも、みんなそのもやもやの中に置かれる。 ユーザーからは、ブラックボックスになる。 その方が安全といえば安全だ。ソフトの保守のためのコストも格段に安くてすむようになる。

物事の流れとしては正しいし、国もJ-SaaSとか言って推奨しているので、私たちもそれを進める立場なのだが、 個人的にはどうしても“胡散臭い”感じを払拭できないでいる。
(【補注】先述のように、J-SaaSについては、再掲出時点(2019年)においても、まだ一般的にはなっていない。)

会社の財務データを社内のコンピュータで管理するのは、たしかに危険だ。 サーバーがダウンすれば即、経営危機になるので、バックアップを取るための二重三重の記憶装置が必要になる。 ハッキングやウイルス混入もある。 社員が内緒でデータをコピーしてもわからない。

しかし、だからといって、会社の財務データすべてを他人に管理させていいだろうか。 理屈ではわかっていても、どうしてもそれを受け入れるのには抵抗がある。
その抵抗感の源は、「大切なものを取り上げられる」という感情から来ている。
会社の財務内容は、経営そのものの実態である。それは、モデルのような美人でもなければ、ペットのようなかわいさもない。 しかし、経営者という人たちは、会社経営に“めちゃくちゃ感情移入”している人たちなのだ。
どんなに便利で安価になろうと、それをおいそれと差し出すとは思えない。

国はこの制度を利用すると中小企業にもメリットがあるといっているが、経営者にとってメリットといえば「売上げアップ」か「コスト削減」と相場が決まっている。 このご時世では、簡単に実現できるものではない。
具体的に“こういうところがお得”と示さないと、普及は難しいだろう。

インターネット技術が社会に与えた大きな影響は、「ただの“個人”が情報発信可能になる」という点にある、と私は考える。
現に私のような者でも、こうして手前勝手に意見表明する場を得ている。
とはいえ、どんな意見でも傍若無人に発信していいというわけにはゆかない。
労働紛争の中には、会社の内情をおもしろ半分にWebで公開したことがきっかけで解雇された、という事例もあるのだ。
(【補注】昨今のYouTube上における諸問題をみれば、例外的な事例とはいえなくなっている)

しかし,この程度なら、まだ影響は少ない。
本当の怖さは“匿名性”にある。

行きつけの焼き鳥屋がぼやいていた。
忙しい時間帯に「ネットに広告を載せませんか。“どっと混む”ですよ」といって営業が来る。
もう65歳になる主人にはいっている意味がよく分からない。「こんな小さな店、客がどっと押し寄せたら、たまらないよ」といって断る。 すると、翌日に、「あの店は品数が少なく、味も良くないうえ値段は高い」という、嫌がらせの書き込みをグルメの掲示板にされる。
(【補注】この店は、その後廃業した)

同級生は自由が丘で焼き鳥屋を開いている。
子供が小さいので、一人では放っておけず、店でよく遊ばせている。お客さんもよく知っていて、かまってくれている。 だが、飲食店紹介の掲示板には、「あんな環境の悪い場所で子供を育てるなんて、問題だ」と書き込みをされた。 「そういうことをいうなら、代わりに私の子供を育ててくれるのか!」と、友人は憤慨していた。
(【補注】この店は、その後廃業した)

昔はこんなこともあった。
あるWeb主催者が、「美味しいレストラン紹介の掲示板」というのを開いた。個人的に興味のある人たちからは好評で、たくさんの投稿があった。 ところが、それに気づいた飲食店の店主が、自分の従業員に、せっせと店の評判を良くする投稿をさせた。
そして、これに気づいた主催者は、その掲示板を閉じた。

世の中には出会い系サイトというのがあって、こちらからメールを送ると、きれいな女性が返事をくれるらしい。 けれども、それが本当に本人であるかどうかは、確認できない。女性でない可能性すらある。 それでも、せっせとメールを送る人がいるから、出会い系は成り立っている。

虚の世界と実の世界が交錯する。その中で、関係者は、何が虚で何が実か、わからなくなる。それがITの怖さだ。

今日(2011.2.29)のニュースでも、大学の入試中に問題の解答を求める書き込みがWeb上にあり、偽計業務妨害で大学が告発するという記事があった。
おそらく当事者は「利用できる技術があって、利用するのは能力のうちだ」と主張するだろう。 クイズ番組でも、外部の仲間にヒントを求めることができるものもある。 しかし、「だから当然」と認めるわけにはいかない。

昨今のタイガーマスク運動(【補注】最近は聞かない)も一般には好意的に受け止められているが、 “匿名”なら慈善をするが、“実名”だとできないのか、という疑問は残る。

情報発信が自由にできて、しかもそれが誰であるかわからない、ということを前提とするならば、どんな情報でも流せる。
別人のふりをしてもっともらしい情報を発信をすることだって可能だ。

そんなことへの反発から、このサイトは実名で発信している。
ところで、その名前は、本当に私の名前なのか? 購読者には、確認することができない。続く→