「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

 INDEX

終局 (初出 2011.1.6 renewal 2019.9.15)

【補注】
この話はフィクションです。

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職場には来るものの、昭夫の仕事ぶりはどんどん悪くなっていった。

治雄はとうとう業を煮やして、上司にくってかかった。
「あんなヤツがいたんじゃ、チームの士気が高まりません。いいかげん、クビにできないものでしょうか。」
「東野君もよく知ってのとおり、西川君は上得意の御曹司だ。とてもこちらから解雇することはできない。自分から辞めてくれれば、結構なことなんだがな・・・。」
「れば夫自らが、退職希望するように仕向ければいいんですね。」
その提案に対しては、上司は明言を避け、ただ黙り込むだけだった。

翌日から、治雄グループの昭夫に対する“いじめ”は、アフターファイブだけではなく、勤務時間中も露骨に行われるようになった。
まず最初に、仲間内でメールをやりとりするとき、昭夫だけが「cc:」で連絡を受けるようになった。 いわゆる「よそ者扱い」がITの中で始まった。
そして、重要な打ち合わせは、昭夫の不在時間に行われるようになり、昭夫には仕事上の情報が入ってこなくなっていく。
上質な顧客は彼の担当からはずされ、がんばっても成果が出ない客や、訪問しても大声で追い出されるような客ばかりが、昭夫に回されるようになった。
しかし、この頃になると、もう昭夫には周囲に反発する気力がなくなっていた。

そのうち、社内での彼の存在は“幽霊”のような扱いになっていく。
デスクにいても、あたかも誰もいないかのように周囲が対応するのだ。
そして、昭夫の耳に入るような大声で、治雄は話す。 「居たって居なくったって、役に立たないヤツなんか、消えてなくなっちまえばいいのにな!」


そして、話は元に戻る。

昭夫の遺書めいた手紙には、この間の様子が几帳面に記載されていた。
「○月○日、21:15 駅前カラオケボックスにて、東野治雄は自分のことを“犬”だと言い、放り投げたコロッケを口で受け取れと命じた」
「○月○日、10:00 東野治雄がグループ内で談笑しながら、自分を指さし、“れば夫”と呼称すると通告した。 “れば夫”の意味は不明だが、嘲笑する意味合いがあるものと直感」
「○月○日、16:00 上司に東野の行為を止めるよう願い出るも、“キミは、まだ仲間に溶け込めていない”と言って、取り合ってもらえない」
「○月○日、2:30 東野治雄が自分に対して、居ても居なくてもいい人間であり、いなくなってほしいと言う」・・・・・・
このような事柄が延々と書き綴られていた。
事実関係を説得する書面としては、書いた人の感情や憶測で表現が踊っている文章よりも、このように淡々と事実関係を記載した内容の方が説得力がある。

弁護士はさっそく、会社側に事実関係の調査を依頼した。
しかし、会社の態度はにべもなかった。
「彼はプライドが高く、どうも周囲に馴染めなかったようだ。それは事実だ。 それじゃ、社会人として組織で仕事はできない。私はそれを注意しようとしたが、急に怒鳴りだして、聞き分けてもらえなかった。 その様子を見て、他の従業員もさらに敬遠するようになったようだ。 たしかに、気の毒ではある。しかし、その原因の大半は本人の気質によるものであって、社として責任はないと確信している。 確かに、東野は体育会系の人間で、その行為には行き過ぎがあったかと思う。 しかし、職場外での出来事は、あくまで個人対個人の関係だ。会社にその責任を求めるのは酷ではないか」というのが、上司の主張だった。

社にはきちんとしたコンプライアンス担当がいなかった。そのため、こういった対応になった。 弁護士は、裏付け証拠となる昭夫の手紙があることを示唆したが、ほとんど門前払いの形で企業は交渉を中断した。

示談の可能性が無くなり、弁護士は民事訴訟を提訴した。
請求額は慰謝料として3,600万円。
裁判所は、いじめの加害者である東野治雄に1,000万円の賠償を、会社側に安全配慮義務違反として500万円の支払いを命じた。
しかし、何よりも会社にとって損失だったのは、社名が大きく新聞報道されたことだ。
長年の取引企業の多くが、この報道をきっかけに、○○トレーディング社から遠ざかっていった。
○○トレーディングは医療機器のディーラーであり、相手先は病院関係である。 「人の命を軽視している」というレッテルを貼られた会社は、得意先の信頼を失った。その後業績が低迷し、やがて廃業の憂き目に遭う。

最後に一つだけ補足したいことがある。
それは、学校のいじめと、企業でのいじめの違いだ。先に言及した「スタンフォード監獄実験」との関連性にある。

学校のいじめは、同じ生徒同士の間に起こるものだが、この実験の中で発生したいじめは、監視と囚人という役割分担の中で誘導されている。
ところで、企業内にあっては、常に私たちは、例えば“上司”と“部下”といった、何らかの「役割」を分担している。
そして、近年の企業社会では、「成果主義」とか「コスト削減」とかいった行動規範をその役割の演者に与える。 その結果として、演者たちに“いじめ”を肯定する“大義名分”が与えられている危険性がある。

ひょっとしたら、企業社会自体が、スタンフォードの実験場になってしまっているのかもしれない。 とすれば、参加者の誰もが、意識しないままに、いじめの加害者になったり、被害者になったりしている。
それって、かなり怖いことだと思われる。(終)