「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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迷い犬 (初出 2011.1.6 renewal 2019.9.15)

【補注】
この話はフィクションです。

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「今日は仕事がはけてから、カラオケに行くぞ」
リーダーの治雄は、メンバーに言った。グループの業績は相変わらず低迷していたが、それでも久しぶりに大きな商談がまとまったので、お祝いというところだ。

「れば夫!カラオケボックスの予約取っとけ」「れば夫!注文はまだか」「れば夫!酒が足りないぞ」「れば夫!余興に踊りでも踊れ」と、 アルコールが回るにつれ、治雄の要求はどんどんエスカレートした。
極めつけに治雄はこう言い出した。「れば夫!オマエは犬だ。これから、このコロッケを投げるから、口で受け取れ」
そう言って、治雄は昭夫にコロッケをひとかけら投げる。昭夫はうまく口で受け止められない。 「どうしたんだ。ご主人様の言うことが聞けないというのか?」 治雄は昭夫を足蹴にした。
「罰として、今日の払いの端数はオマエ持ちだ。悔しかったら、自分でも商談見つけてこい。 オヤジのコネもあるんだろ。そうすりゃ臨時ボーナスも出るから、ちょっとばかしの損は帳消しになるさ」

昭夫は後日、そんな一部始終を上司に報告し、善処を促した。 しかし、上司からは意外な答えが返ってきた。実は、上司も昭夫の広言癖にへきへきとしていたのだ。

「治雄の行いはやり過ぎだ。追って注意するが、若い連中のやることだから、時には羽目を外すこともある。 仕事はチームワークが大切だ。キミは、まだ仲間に溶け込めていない。 いくら知識が豊富で、資格があっても、契約が取れなければ社会人としては評価されない。」
と、そこまでは神妙に聞いていた昭夫だったが、「お父さんからは、現場の厳しさをよく教えてほしいと頼まれている。」という一言で、キレた。
「オレはオヤジの操り人形じゃない!」 職場中に昭夫の大声が響いた。

昭夫の父親は仕事熱心な人物だった。帰宅するのはいつも夜遅くだったため、兄弟2人は、まるで母子家庭のように、母親に育てられた。 兄はしっかりした性格で、これといった努力をしなくても、何事もそつなくこなした。 父親の会社を継ぐのは当初より兄と決められていた。家族には無関心な父も、後継者としての長男には厳しい態度で接した。

次男の昭夫はおとなしい性格で、ビデオを見せていれば一人で黙々と見ているし、ゲームをやらせておけば、それに没頭する、手のかからない子だった。
母親はこのままではいけないと思い、昭夫が独り立ちできるように、子供の頃から何かと英才教育を行った。 ビデオやゲームを与えられるのと同じように、昭夫は言われるがまま学習塾に通った。 結果的に、昭夫は優等生になった。

なんの問題もないと思われていた昭夫だったが、その深層心理には「いずれボクは家族から捨てられる」という気持ちが潜むようになっていた。
母親の期待を体現しようとしてひたすら勉強したのも、職場であれこれ知識を吹聴しウケを狙ったのも、治雄の傲慢な態度に黙って従ったのも、 要するに「周囲から見放されたくない」という気持ちの表れだったのである。
それでいて、人から指図されることは嫌いだった。 父の願いを反故にして、自由気ままな生活を選んだ兄をうらやむと同時に、その身代わりでこんな苦行を強いられている自分を「運が悪い男」だと卑下した。 そして、そういう状況に追い込んだ兄や父母を憎んだ。

カラオケ屋の事件と上司との一件があって、昭夫は3日間ほど会社を休んだ。
これをきっかけに、以前の高慢ちきな態度はなりをひそめ、昭夫はすっかり無口な人間に変わってしまった。 しかし、それでは営業マンは勤まらない。

周囲からは「単なるやる気のなさ」という風にしか見えなかったが、それとは逆に、昭夫は、何とか成績を上げなくてはならないと心の中で絶えず苦悶していた。 営業用の勉強も必要だし、スマートなセールストークも身につけなければいけない。 ともかく1社でも多くの得意先と接触しなくてはならない。
しかし、思いっきりアクセルを踏んでいるはずなのに「心のエンジン」がかからない。 何か新しい物事に取り組もうという気力がわかないのだ。
昭夫は、心の病に取り付かれていた。

昭夫にとって唯一の救いは、恋人の奈津子だった。 しかし、奈津子は今、司法試験を目指して勉強中。それに、こんなに落ちぶれた自分を見せたくない。

もっとも、奈津子の方は昭夫を特別な存在とは意識していなかった。 “親しい友人”くらいの認識である。だから、連絡はもっぱら昭夫の側からの一方的なものでしかない。 要するに、昭夫は近年よくあるタイプの「人間関係の距離感がうまく把握できない」男なのである。
当然のことながら、メールの回数も減るにつれ、彼女とも疎遠となっていく。
そして、昭夫の孤立感はますます深刻になっていった。続く→