「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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モラルハザード:老人たちの街 (初出 2012.1.21 renewal 2019.9.15)

【補注】
私の予言は10年後の今でも、当たっているように思える。

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私のような者は、今後の我が国の行く末・・・などという立派な論を吟じる立場にはない。が、確実に言えることはある。
『日本は高齢者国家になる』ということだ。
国も都道府県も、あれやこれやで子供の数を増やす政策を行っているが、すでに団塊の世代の次の世代は、50代にさしかかろうとしている。
経済の縮退により、若者の給料が下がり、共稼ぎ世帯が増えれば、子供の数も抑制される。
それに、世間で起こる猟奇的な事件の多くには“家族関係”という要素が絡んでいる。 子供をもつリスクは、経済的分野だけに留まらない。

だから、どんなにがんばっても、子供の数は急激に増えない。
そして、人口は減っていく。
このまま少子化が進んで孫もいないということになれば、年寄りの余った資産は、なおのこと使い道がない。 “伊達直人”になってランドセルを寄付することがせいぜいだ。 (【補注】初出当時、漫画のタイガーマスクの主人公になぞって、伊達直人を名乗る寄付が多出していた)

2012年、東京のあちこちで新しい巨大ビルの建設がどんどん進んでいる。 その周辺地域では、「テナント募集中」の張り紙がはがせないビルが増えている。
シャッター化した商店街にLEDの街灯が煌々と点るのを見ることがある。 マンションの1階、本来なら企業が入るべきところがトランクルームになっている。
(【補注】最近では、貸し会議室とか、貸し事務スペースとかも目立つ)
街が活気を失いつつある。

そのとき私の脳裏に蘇るのは、昔見た「渚にて」という映画のラストシーンだ。 核戦争が勃発し人類が消滅した都市でむなしく横断幕が風にはためいている。
そこには『まだ、時間はある』と書かれていた。

産業の空洞化に歯止めがかからなければ、経済(国内)は右肩下がりになる。
弱いところのしわ寄せがくる。
仕事が見つからない人たちが街を徘徊する一方で、企業内では過労死する従業員が出る。
そういった社会を、私たちは望んでいない。
国内では年間の自殺者は毎年3万人を超える(【補注】現在は3万人を下回っている)。 つまり、10年で30万人都市が一つ消滅しているということだ。これは異常な事態だと思う。

しかし、そうは言っても、子供は増えない。
社会からリタイアした老人と忠誠心の薄い少数の若者の国。国全体がモラルハザードだ。
それが日本の将来像だとすると、国家として維持していくことすら心配される。国力が弱まれば、海外からの労働力の調達も難しくなる。

だから、ぼちぼち現実を認めて、『年寄りばかりの国、日本』として、どうやって生き抜いていくべきかを、真剣に考える時期に来ているのではないかと思う。
若々しく溌剌とした社会が無理なら、せめて年寄りが終の棲家として安心して暮らせる日々を実現してほしい。 「老人が老人を奉仕する社会」とは何か、を考えなければならない。
課題は、社会保障はもとより、産業や国防まで多岐に渡るだろう。
政策提言として掲げるには、あまりにもかっこわるいテーマだが、正直言って、真剣にそれを考えなければならない時代が、すぐそこに来ている。

そういう内容の議論が真剣になされないと、国民は安心して日々を送れない。安心できなければ、当然、消費も進まないのだ。

日本はかつて、勝ち目のない世界大戦に突入したことがあった。 しかし、最初から負けると信じていた人は少ない。 「必ず勝つ戦争だからやってもいいんだ」という前提で戦を始めた。
3.11の原発事故についても、「絶対安全なのだから、地震があっても安全だ」という思い上がりから、対処が遅れた。
もちろん、そんな大きな“事象”でなくても、同種の出来事は日常的に起こっている。
「いい商品は必ず売れるから、どんどん作ってもいいんだ」 「この組織が潰れることなんかないから、多少の無駄は当然だ」 「景気はどのみち回復するに決まっているから、今、思い切った投資をしておこう」
都合のいい前提条件から、勝ち目のない道をひたすら歩いている企業人は、たくさんいるだろう。

そういった、無謀な判断をしてしまうのは、彼らが無知であるからではない。 それなりに豊富な知識があるから、その知識の中から自分にとって都合のいい断片だけを取り上げて、「結論」を創造してしまう。 だから、疑うことをしなくなる。
失敗すれば、いとも簡単に「想定の範囲外」という言葉が口をつく。 最初から「想定」の範囲に入れていなければ当然だ。

もし、間違った判断を避ける工夫ができるとすれば、それは単純に知識に頼るのではなく、「常識」を見る目を養うことだろう。
常識とは「世間の圧倒的多数の人々が信じている準拠点」と考えられる。 「ごく普通に考えたら、どうなるだろうか」という立場で、まずは思いを巡らせてみるべきだ。
偉い学者先生や有識者と呼ばれる人たちが自分の立場からだけ言ったオピニオン、テレビや新聞や行政が都合良く切り貼りして流す情報だけを、 鵜呑みにするのは危険だ。
心をフラットにし、先入観を廃し、一般常識で考えてみること。 それが、正しい判断を下す上で、とても大事だと思う。

ずいぶん話は脱線してしまったが、 取りあえず、最後にこの二つの違いについてだけ、言及しておく。

「労働」とは、誰かの命令によって行うこと。 下っ端は、その指示にもっとも適した知識を拾い上げて計画を立てる。 これを承認するかどうかは、命令者の判断だ。 結果が成功か失敗かは、労働者の責任ではない。命令した者がその責を負う。 命令者に人望がないと、労働者は「間違っているとわかっていながら、上司の命令に従う」という、最後の手段を使う。 だから、その職場は荒廃する。

「しごと」とは、個々人が、自らの判断で行うもの。 自らの心の声に従い、自らの判断で事を進める。責任も自らが負う。そういったものだと思う。

この日本の繁栄は「しごと」人が作り上げてきた。 その人たちの多くが老人になってしまった今日、常識を持った新しい「しごと」人の育成が急務となっている。

なまけものの私としては、できれば「労働」はしたくない。「しごと」をすることはいとわないが。
そう思う、昨今である。(終)