「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

 INDEX

勝利者なき結末 (初出 2010.5.23 renewal 2019.9.15)

【補注】
この話はフィクションです。

******

会社は、B子に和解を申し出る。
ところがだ。B子はこれに応じない。これには、弁護士も頭を抱える。
こうした問題を調整する側としては、もめ事の当初から「最後の落としどころ」を模索していくのが普通だ。
「この辺で、和解したらどうだろうか」とB子の弁護士は助言するのだが、彼女は意志を曲げない。
実のところ、事の発端でB子が望んでいたのはA部長の謝罪だけだった。
しかし、その後の展開で、B子の心は著しく傷つき、もはやそれでは納まらなくなっている。
今、B子の望んでいるのことは、ただ一つ「A部長の破滅」である。

B子の支援者は、目標をA部長と会社の糾弾からB子の気持ちを静める方向へと転換し、必死でB子を説得する。
ここで表沙汰になれば、賠償金は大幅に減額される。 先々の生活の見込みが立たないB子にとって、金銭解決の額は重要であり、支援者はそのことをよく知っている。
最終的には、B子もこれ以上の復讐はできないなと覚悟し、折れる。

表面的にみるならば、問題は両者の和解によって終結したことになる。
大企業である○×株式会社とA部長は、謝罪のためにかなりの金額(1千万円を超えると推定)をB子に支払った。 B子の弁護士は、そこから、それなりの謝礼を受け取る。

一方、A部長は、幹部会に呼び出され、こう告げられることになった。
「キミもずいぶん社内を騒がしたようだね。このままじゃ、居づらいだろう。ちょうどうまい具合に○○支店の次長が定年で退職するんだ。 しばらく、そっちに赴任して、事が落ち着いてから、また本社でがんばってもらいたい。それが、幹部会の決定だ」
言うまでもないが、A部長が本社に復帰する日は来ない。

A部長は、事の次第を妻に報告する。
これまでの経過で、事情は家族にもバレバレだ。当然、返事は冷たい。 妻:「私は、あなたが退職金を受け取るまで、離婚するつもりはありませんから・・・」
娘:「あんたなんかが、自分の父親だなんて認めない」

かくして「A部長を破滅させたい」というB子の願いは、彼女が手をくださないままに現実のものとなる。

B子にとっては、長い長い戦いが終わった。

裁判費用を除いても、かなりの金額が残った。
さあ、これから新しい人生を踏み出せる。
そう思って、彼女はビジネススクールに通い、社会人として新たな一歩を歩き出した。
再就職先は、小さな販売業だったが、それだけに仕事は各人に任されるところが多く、やりがいがありそうなところだった。
しかし、小さい会社だけに人間関係は濃密だ。誘われた飲み会を断ることもままならない。
オヤジさんたちは、職場でヌード社員の載った週刊誌を読みふけっている(=これも立派に「環境型」のセクハラ)。
B子の脳裏に、かつての○×株式会社での記憶がフラッシュバックする。 「いつか、同じセクハラをされるのではないか」という不安が、B子を次第に蝕んでいく・・・。

A部長とB子の関係は、当初、了解づくの不倫関係であった。 にもかかわらず、後日、B子は、「セクハラ」であったと主張している。
A部長とて、最初からセクハラ行為を意識してやったわけではない。事が決着した後でさえ、A部長に聞けば「自分は潔白だ」というだろう。
これが事実なら、単なる男女間のトラブルだ。
それが、いつの間にか「セクハラ」というレッテルを貼られ処理される。 告発する側は、おそらく「地位利用」という名目を押し立ててて糾弾することになるだろう。そうしないと告発できない。

セクハラでいちばんやっかいなのは、男性の側が「本当にその女性を好きになって誘惑してしまった」場合だ。
男性の側は、誠心誠意まごころを込めて、その女性を口説いている。
女性の側にしてみれば、最初はそれほと嫌な気はしなかったのでテキトーに対応していたのだが、 相手の行為がエスカレートするにつれて、どうにもこうにもウザったくなり、我慢できなくなる。

職場の先輩・金子雅臣氏に言わせると、現実にセクハラの加害者と言われる人に会ってみると、「加害者」というイメージからは、 およそほど遠い人が少なくないそうだ。
「身の程を知る」。これが大切だ。

セクハラの案件において、何がセクハラであり、何がセクハラでないか、その判断の決定権をもっているのは、被害者その人である。
ポンと肩をたたかれて「最近、元気ないじゃないか」と言われても、それが好きな人ならば、セクハラだと感じない。
しかし、嫌いな人に「今日の服よく似合っているね」と言われれば、「こいつ下心があって・・・」と受け止められて、立派なセクハラだと糾弾されることだってある。

かなり不謹慎な表現だが「セクハラとは何か」ということを一言でいい表すならば、 「好きな人にやってほしいことを、嫌いな人からやられること」となる。この定義、ことの本質を実によく言い当てている。

そして、加害者側が「合意」だ、あるいは「悪意はない」と主張しても、被害者が「力づく」だ、「嫌がらせだ」と言えば、被害者の意見が通ってしまう。
少なくとも、争いは成立する。争いになれば、「加害者」と名指しされた方が圧倒的に不利だ。
会社の飲み会の帰り、泥酔した部下(女性)を親切心から、タクシーで家へ送ったとしよう。
車中で、彼女がぽつりとつぶやく、「私、今日は帰りたくない・・・」。
そこで、ついその気になり、近くのホテルへ誘ってしまった。
ところがそのウワサが社内に広がり、彼女は退職。後日、「あの日のことはセクハラだった」と訴訟される。
法廷で、被告人は「誘惑したのは彼女の方だ」と反論する。
しかし、判決はこうだ。「確かに彼女の側にも問題はあるだろう、しかし、責任はあなたにある。慰謝料150万円支払いなさい」  男の側からすれば「そんな馬鹿な・・・」という思いは大きいだろう。
気をつけなさい。よく似たケースが現実にはあるのだ。

かつて、労働相談担当だったとき、外部から「セクハラは増えているんですか」という問い合わせを、よく受けた。 統計的に見ると、セクハラ相談は増えたり減ったりしてながら2000件前後で推移している。
2000件は、全体で5万件に及ぶ相談件数全体から見ると、さほど大きな数字ではない。
個人的には、セクハラ問題は減っているように思える。だが、一方でセクハラを訴えやすい環境要件というのも整ってきている。 そういう中で、何か話題が出ると(例えばどっかの議会でセクハラ的なヤジが飛ぶとか・・・)、急にセクハラが表面化したりする。 そういう状況が繰り返されているのではないか。
ただ、確実に言えることは、日頃から「嫌なやつ」だと思っている上司にもっとも強烈なダメージを与えるとすれば、これほど効果的な手段はない、ということだ。
それまでセクハラを認め、「逃げ隠れしない」と言い張っていた加害者が、賠償請求額を見せられた途端に、事実否認をするということもよくあると言う。

******

セクハラに関しては、いくつか常識を覆す事実がある。

その1:加害者の年齢によらず、セクハラは発生する。

世間では、セクハラの被害者・加害者は若い者同士という先入観がある。しかしこれは間違いだ。加害者にも、かなり高年齢の人がいる。
裁判の被告となっているのは社長さんたちだから、50代、60代の年齢であり、もういい加減、人間が枯れてきてもいい歳である。 にもかかわらず、こうした年代でもアブナイ。
分別盛りの人たち、しかも、社会的にも家庭的にも重い責任を担っている人たちが、どうしてそんなことをしでかしてしまうのか。
年を取ると、誰しも自分の能力の衰えを感じるようになる。 私たち凡人は、「最近、息が切れるようになって・・・」「老眼が進んで・・・」「健康診断で・・・」と、ため息をつきながら愚痴をこぼす。 そして、仲間内で「そう、オレも」という共感を得ることで、ストレス解消している。
しかし、中には「年寄りの冷や水」を地でいくような豪快な人物もいる。そういう人は、自らの衰えを認めたがらない。「まだ、がんばれる」と自慢する。
この「まだ、がんばれる」という意気込みが、セクハラ行為と一脈通じているのではないかと、私は思っている。
若い女性への欲望というよりも、「若かった頃の自分への憧憬」といったものが加害者にあるのではないか。
みんな、ジェームスボンドに憧れていたのだ。でも、誰もあんなタフガイになれない。

その2:セクハラに関して、身分の高い人が安心というわけではない。

セクハラは「自分の影響力下に相手を置きたい」という支配欲の一種だから、むしろ社会的身分の高い人の方が問題を起こす可能性がある。
身分の高い人は、比較的年齢が高い。年齢が高くなると、肉体的な衰えも出てくるし、社内での発言力も弱体化してくる。 上述のとおり、「まだ、がんばれる。負けてなるものか」といったエネルギーが、こうした人たちの支えとなっているハズだ。
およそ人間というものは、誰しも世の中で「自分自信が一番大切」だと感じている。 そして、自分のテリトリーにあるものも自分の延長であって、同様に大切であると考える。
大切に思う気持ちが、「自分の思いどおりにできる」という考え方とすり替わる。
テリトリーの大きさに対する欲求は、個人差がある。なわばりを広げたいという意識、すなわち支配欲は管理職の方が強いのが普通だ。
セクハラもまた、「自分の影響力下に相手を置きたい」という支配欲の一種である。「英雄色を好む」というのは、現代ではかなりリスキーなのだ。

その3:逆に、被害者の条件は問われない。

事実、年齢の高い被害者からの「セクハラ」の訴えも少なからずある。
おじさんたちが何の気なしに話している猥談が、従業員にとっては、人権侵害だと思われてることだって多い。
20歳だろうと60歳だろうと、それは同じだ。
説明したとおり、セクハラかどうか判断するのは被害者であり、訴えるか訴えないかのボタンも、被害者が握っているのだ。 点火ボタンを押す権利をもっているのが、若くて美しい女性だと決めつけるのは危険だ (と、書いただけでもセクハラだと言われるご時世なのだが、説明のためにこう書いている。ご容赦を)。
「恐れながら・・・」とやられれば、行為者は間違いなく懲らしめられる。 職場は地雷原のようなもので、よほどの注意が必要だ。

その4:うまく丸め込もうを考えるのは逆効果

最初は些細な訴えであったものが、セクハラだと大きな訴訟に発展する場合がある。 なぜならば、こういった問題を最終的に白黒つけるのは、裁判所しかないからだ。
しかし、もうそこまで行くと、双方ともドロドロの争いになってしまっていて、勝っても負けても、ボロボロになってしまう。
加害者とされたのが会社の偉い人だと、調整役は何とか穏便に処理したいと思う。
ところが、これが事態を悪化させる 事が穏便に収まるか、訴訟沙汰になるかを分ける一番重要な役割を担っているのは、実は被害者でも加害者でもなく、最初に相談を受けた人物である。
この人は、たいがいは被害者の直属の上司であって、被害者はそれなりに信頼しているからこそ、その人に相談に行く。
しかし、上司とて会社の人間であり、会社の名誉に傷が付かないよう、何とかうやむやに解決したいと考えるのが、普通だ。
そこで、被害者を説得にかかる。
曰く「あなたにも隙があった」
曰く「そんなことは大したことではないから、気にする方がおかしい」
曰く「個人的な問題だから、相手と二人でじっくりと話し合え」
曰く「どうして『嫌だ』と拒否しなかったのか」
こういった言葉は絶対に言ってはいけないと、金子雅臣氏は、警告している。

場合によっては仲裁に入った者も責任が問われることもある。
ちなみに、A市職員事件(横浜地裁 h16.7.8)では、相談窓口の対応にも問題があるとして、 慰謝料総額220万円のうち88万円(弁護士費用8万円を含む)が、苦情処理担当の課長の対応ミスの責任とされている。 相談を受けた部長が、「A係長とは古い知り合いで嫌がらせをする人間ではない」と否定したりしたためだ。
あやふやな対応から、被害者は、信頼する相談相手にまで見捨てられたと、絶望する。 事が公になり、「もう私の人生は終わりだ。だったら、会社とセクハラ野郎を道連れにしてやる」といったところまで、追いつめられてしまう。
こうなったら、被害者には、もうとことんやるしかなくなってしまうのだ。(終)