「しごと」と「労働」に関するよもやま話(renewal)

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白と黒の狭間で:再び、使命感と共同意識 (初出 2019.9.15)

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例示した中に、「サラ金の借金を肩代わりするのと交換に反社会的仕事をしろ」というのがある。 「貯金を使い尽くして、手っ取り早くお金を手に入れたいので、風俗で働く」ということもある。
ある意味では、これらは企業側のニーズと従業員側のニーズが一致しているケースだ。
やっていることの是非は別として、こういう関係は持続しやすい。
もちろん違法行為を行えば警察に捕まるだろうが、第三者がどんなに批判したとしても、その第三者が従業員に生活費を提供するわけじゃない。
「なっとくずくでやってるのだから、ほっといてよ」と、彼らは言うだろう。

ブラック企業と従業員の利害が一致している限り、ブラック企業はなくならない。
では、別のケースはどうか?

「就職が楽そうだから、毎年たくさん採用している企業を受ける」 「誰でもできて高収入と宣伝しているというので、この会社がいい」
これも、企業と従業員のニーズが一致しているケースだ。だから、こういうブラック企業も存続していく。

「実力本位の会社で働きたい」というのも従業員のニーズである。
やがて消耗品のように使い捨てられるかもしれないが、選んだのは従業員側だ。
また、こういう企業は、得てして「見栄えのいい仕事」をしている。若い人はそれに引っ張られる。
「友だちからうらやましがられる企業に入りたい」というのもしかり。
「最先端の技術」「流行している商品・サービス」「イメージのよい社名」も同じ。
わかりやすくいうと「見栄を張りたい」という従業員側のニーズが、ブラック企業側の採用戦略に合致しているのである。

しかし、これとはいささか異なるカテゴリーがある。
「自爆営業を行わせる」「従業員を洗脳して商品の信奉者にする」がそうだ。
ここには、「使命感と共同体意識」とよく似た状況を見て取れる。
従業員はその仕事が好きだからやっている、充実感が得られるからやっている。それが経済的なものとは別の報酬になる。
だから、辞めない。それゆえ、ブラック企業が成り立つ。最近では、そういうのが目立つ。

昔よく言われていた。
1.日本のスポーツ選手の年俸が安いのは、王選手、長島選手のせいだ
2.日本のアニメーション業界の給料が安いのは、手塚治虫先生のせいだ

当時の事情を知らない人たちは、何とでも言える。
王貞治選手の絶頂期は、本塁打55本を打った24歳の頃、翌年(1965年)の年俸は1,440万円。
長島茂雄選手の絶頂期は、打率3割4分1厘、本塁打37本を打った28歳の頃、翌年(1963年)の年俸は1,400万円。
当時の大卒初任給は今の半分程度だったという。が、2人の年俸額を倍にしても、その額はあまりにも安い。
(資料出所:net~甲子園 http://net-kousien.com/nagashima-nenpou/)

手塚治虫先生も、このような物言いをされると、かなり怒ったということだ。
当時としては安い予算でなければ番組を作らせてもらえなかったし、キャラクター商品とタイアップすることなど、考えられていなかったという事情がある。
むしろ手塚先生のプロダクションの給料は良い方だった、という情報もある。
だが、アニメーターの給料が薄いというのは確かで、今でも若手アニメーターの平均年収は200万円以下だと言われている。

私の好きな「特撮」分野で神様と呼ばれた円谷英二も、1本700万円かかる30分番組を500万円で受注していたという(通常の30分ものは300万円程度)。
当たり前だが、作れば作るほど円谷プロの赤字は累積していく。
それでも、円谷英二は現場に対し「もっといい映像を撮れ」と言って、何度も何度もリテイクさせていたようだ。
また、現場は現場で、「とても人間の働くところじゃない」と保健所から言われるような灼熱環境で、夜を徹して作業していたという (当時のカラーフィルムは感度が悪いので、照明を明るくする必要があった)。

「安い給料で長時間労働」というのがブラック企業の定義とすれば、こういった話は美談ではなくなる。
しかも、この傾向は今でも残っている、というか昔より顕著になっている。「吉本」関連のお笑い芸人の状況を聞くと、まさしく何も変わっていない。

これらに共通する点は一致している。つまり「やりたいことを仕事にしている」からだ。

だが、もう一歩踏み込んで考えてみよう。
「給料が安くて、拘束時間が長くてもいいから、やりたいことをやっていきたい」とは、そんなに悪いことなのか。
「納得できないけど、給料はそこそこ出るし、仕事も楽だから勤めている」ということが、そんなにいいことなのか。
この国で、全部が全部、後者のような考え方となったとき、過酷な国際競争の中で、日本って国が生き残っていくことが、できるのだろうか。

「働き方改革」が叫ばれている。
その個々の項目が目指すところは、私も否定しない。
だが、「そこそこの給料で楽な仕事」がいいとは、どうしても思えないのだ。
そういう考え方が支配的になれば、会社の風土から「使命感と共同意識」が枯渇してしまうのではないか、と心配している。
やはり、「好きでやっている仕事だから、少しでも良い結果を残したい」「仲間には負けたくないが、困っているやつは助ける」 そんな状況の中で、この国はここまでやってきたんじゃないだろうか。

だから、「働かないことが良いこと」というムードが高まることに、なんか、違和感を感じる。
ま、古い人間だからなのかもしれないけど。
もう仕事をしていない人間に、こんなことを言う権利があるのかどうか、わからないけれど。(終)