縄文の音霊 【ひとり言】

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縄文の掌(たなごころ)

縄文人の世界観は、北/南、山/海のような直線的な二元論ではなく、円環的で同心円状だったといえる。しかし、野中堂環状列石のように、 おおよそ東西南北の四方向に大きな石が置かれているのをみると、縄文人は東西南北という方位をあるていど意識していたことがうかがえる。 環状集落にも四つに分節されているものがあること、土器の模様は4を単位とするものがもっとも多いこと(小林, 1994: 203-6)も視野に入れると、 縄文文化に四分制的世界観が存在したことも想定できる。

柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、人間も柱を上がって神のところへ行く。柱はそういう天と地、 神と人間を媒介するものであると思います。

これらの遺跡には柱を何年かごとに立て替えた跡があります。真脇遺跡からは、無数のイルカの死骸などが出てきました。 そのサークル状に囲まれた空間は神秘的な儀式が行われる場所であったに違いないのです。それは天と地を結ぶ遺跡、神と人間を結ぶ神事の場所であったに違いないのです。

そのような柱の遺跡が、諏訪神社の6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いないと思います。 そこには世界を循環で考える方があります。

このように考えますと、縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、そして生きとし生けるものがすべて、 この世とあの世の間を循環する世界観であるということがわかります。

この共存の世界観は、近代の世界観である、人間が一方的に生きとし生けるものを支配し、 その支配することが人間とって幸福であり進歩であるという近代の人間中心的な進歩史観とは全く違います。この「生命の永久の循環」という考え方は、 生命と言うものを遺伝子と言い換えれば、まさに現代の科学の解明した世界観であり、これこそ今後の人類に必要な世界観であります。

シャーマン【shaman】
神や精霊との直接接触からその力能を得、神霊・祖霊などと直接に接触・交渉し、卜占(ぼくせん)・予言・治病・祭儀などを行う呪術(じゅじゅつ)・宗教的職能者。
シャーマン。縄文時代にはこの様なシャーマン的存在がいて神との直接交流交換がなされていたのでしょうか。
音楽療法概論は古代文明の歴史にあるのです。原始時代の音楽は@魔法としての音楽Aシャーマン(音楽術者)B太鼓・ガラガラ・土笛・鈴などの音である。今の現代で使われているような綺麗な音楽ではなかったのです。
治療を行う前にはこの様な音でやっていたようです。又魂の浄めを何よりも重視し、医術(霊術)による身体の浄めとともに音楽を使用していたように思われます。そして音楽療法の基本的な原理は この様に確立されて言ったように思われます。原始社会では病気が起こるのは「精霊」(人類が古代から普遍的に持つ観念としての、命や神や霊や魂などを表すときの言葉の一つ)という超自然的なものによって起こると考えていました。 あらゆる不幸の根源も精霊にあると考えていた。

また不幸の根源(魂の回復)それを防ぎ、癒すのがシャーマンの役割だった。シャーマンはこの2つの世界を渡り歩き、2つの世界(霊界と現界)のバランスを取り、ヒーリングをもたらします。 文化・時代にかかわらず、この条件を満たすものは「シャーマン」と呼ばれます。

人間が自分たちのエゴのために、自然界の存在を必要以上に破壊する行為、調和を重んじる自然霊たちの攻撃対象であるという。
「聖域侵害阻止」と「バランスの乱れの阻止」が、木霊を始めとする精霊たちのミッションなのだろう。
木霊や精霊の祟りに遭うと、心身に様々な異変が起こると古代シャーマンは言う。

古代シャーマンたちは、樹木を含む、自然の多くの存在たちを守護する「守護霊」的な存在があるのだと言う。
例えば、森の各木々、それぞれ自身には生命力はあっても、人を祟るような霊力は無いとシャーマンたちは考えている。
しかしだからと言って「木々に人間が無礼を働けば、祟られるのも事実だ」とする。
(人間も自分の領域の中に入り込むと何らかの処置をするのと同じである。○物的人間には解かるまいが・・・。) それは、木々の生長をサポートしている「守護精霊」が存在していて、それらの霊が祟るのだと、考えるのである。
この守護精霊とは、人間でもなければ木でもなく、いわば、物質界と神界の中間に位置しているエネルギー的存在だと言う。

今や日本の縄文はこれからの世界を救う鍵があるとされているのです。世界の学者の中にはそのように考えられている とのことです。小生は今後の時代は神縄文所謂新縄文(此れまでとは全く違う霊主時代の到来なのだと思います。)文明なのだと思います。

邪霊と聖霊について  ふと悪い考えが自分の中に起きる現象。これはいわゆる邪霊≠ゥらの霊的作用である。またふと善い考えが起こり、他人に対して善行を施す。これはいわゆる聖霊≠ノよる導きである。

霊治療は、その方法や治療メカニズムの違いによって、さまざまに分類される。代表的なものとして、シャーマニズム信仰における呪術治療、手当て・手かざし治療、浄霊治療、心霊手術、医療リーディング、遠隔治療、霊界の医師(霊医)によるスピリット・ヒーリング等があげられる。

縄文時代の食生活は、日常の摂取カロリーの約8割が植物性の食物から摂っていたというデータがある。例えば、海岸沿いにある千葉県古作遺跡の縄文人の人骨の炭素と窒素の安定同位体比の分析により、主要食料カロリーの80パーセントを栗やクルミなどの植物で補っていたことが判っているし、内陸部にある長野県北村遺跡の場合も、エネルギーの大部分を木の実に依存していたことが判明している。 古作遺跡の場合、80パーセントの残りのうち11パーセントが魚介類で、9パーセントが小型の草食動物である。熊、鹿、猪などの大型動物はほとんど含まれていない。 このように日本人は、縄文時代の頃より、必要なエネルギーの大部分を植物性の食料から摂取してきたのである。

何故今現代に縄文が必要なのかと申しますと縄文時代には神様に向き合った生活をしていたのです。(モノの文化が発達していればいるほど人々は理屈をこね回し、 逆にモノがない方が素朴で、 原始的で、 ス直で、 神さながらなのだ)そして自然に感謝をし自然と共存していたのです。また人間は再生することを しっていたからなお更神に向合った生活を営んでいたから長く続いていたのでしょう。今の現代に最も必要な正しき『神』に向き合う姿勢が必要な事なのです。

又今の現代は物は豊かであるが故(ゆえ)に心が貧しいように思うのである。要するに 心を豊かにしようとしないで 物で豊かにする事が それが満足すものだと思い違いをしているのだ。 考えてみればお分かりだと思う。人間は一つ満足すると又一つと限りが無い物である。限度が無い物である。物質では満足を得られないと覚るまで永遠に続くものである。

だから物では満足感は得られないものである。心が満たされないから続くものである。心 所謂 魂の所に往(い)きつくものである。魂というものはある一定の所まで往(い)きつくと安らぎ感を得られ 心地よい物である。確かに物質界に生きている以上 人とのつながりは切っても切れませんが、ご自身がその様な心の持ち方であれば必ずそれに引き合う人たちが集まってくるものです。 それが天国と言われる所以なのだと小生は思います。

カミは「神」=「上」という意味です。位置が上なのではなく、物事の元・原点・始まり、という意味での上です。物事は上の次元、階層から下へ順次降りるという意味。

焚き火や囲炉裏の炎は原始的で、太古と同じ光で辺りを照らしてくれる。焚き火を起こし食す生活が、現代人として、見えなくなっていたものなどが見えてくる!五感が刺激され、全身に自然の呼吸が感じてくるものである。都会の中で生活圏をしていると、なかなか難しいことかもしれないが自分をそこに持っていくことも必要であろうかと思う。

謎解き;縄文時代初めに誕生した当初の土偶は、頭部がなく胴体だけで表現されているものが一般的だ。顔が明確に表現されるのは、縄文中期(約5千年前)とされている。
縄文土偶に頭部が無いのは、それは頭部から下は地(肉体)で、頭部は魂と考えていたから首から上(魂)は天に返すという意味で無いわけで、首から下は肉体とみなし土に返すといことを知っていたから人間が死を迎えた時に土偶を創って土の中に埋めてたのではなかろうかと小生は思っています。

人間には、人間にあった生活のスピードがあるような気がする。縄文時代はおよそ8千年。急に生活が変わり始めたのは数十年前から。そのたった数十年の間のあまりに速い移り変わりのなかで、 私達は色んな大事なことを置き忘れてきてしまったのだと思う。今の人間は目と心を閉ざしている。見ようとしない目、感じようとしない心、物やお金にあまりにも執着しすぎているからである。 子供の目から見れば世の全て万物が謎かけである。所が世の中を知り得てくると自分の物差しで見てしまう。ここに我の「ガ」という目で見てしまうからである。この「ガ」こそ自分の心を閉ざし入るものである。 しかし 一歩下がって子供の目線で見れば見通すこともできるのである。見る目を持てば世の万物がその答えにも生りえます。

縄文の暮らしは、狩猟採取といって、魚や小さな獣を捕ったり山菜や木の実を採ったりして食べ物とし、それを捕るための道具や保存の為の工夫、また、美味しく食べる為の方法などすべての事に知恵を働かせながら生活していた。 しかし、そのすべてが大自然からの恵みであり、気まぐれな自然の前に右往左往する事もあったろうし、様々な病は、我々の考える以上にそのダメージは大きかったろう。

そんな中で縄文の人々は自然そのものを神とし、その脅威の前にはひざまずき、豊かな恵みを授かったときには心からの感謝を捧げる。 そんな【祈りの毎日】ではなかっただろうか。きっと、縄文人は自分達人間のことを、人間以外の存在、 例えば虫や獣、草や木、石ころや土にいたるまで、すべてのものが神(自然)の前では同列のものと考えていたのではないだろうか。

そして、そのすべての存在の中にはそれぞれの神が宿っていると考えていた。だから、物は決して粗末に扱う事はなかったろうし、すべてのものに対してやさしく謙虚に暮らしていたのだろう。 耳を澄ましてみて下さい。「人間は決して、この地球上で唯一選ばれた生き物ではないし、全てのものが人間の為にあるのではない。

勘違いするんじゃないぞ。」そんな縄文人の声が聞こえてきそうな気がしませんか。 これから私達が、そして私達の子供や孫達が、ずっとずうーっと、この地球上で平和に暮らせるように、いま、縄文の人々に教(おそ)わらなければならないことが、いっぱいあるように思えてならないのです。

人は感謝の想念と感謝の波動を受けてそれが代価となり。やがて自分も人様に感謝はすることで、自然と不自由のない生活が仕組まれる。 お金の代わりに感謝の想念と波動を、お互いに「支払う」のだ。だから労働も楽しくなる。

これまでのような、お金のために嫌々するものでなく、自発的に何かさせて頂こうと思ってやるのが労働になる。 誰か今何かをさせて頂きたいと思ったその時、必ず必要としている人がいるものだということを忘れないでほしい。

自分の目の前に、現われし人達は何のために現われ去っていくのか。現われ一瞬一瞬の人達は何か自分に伝えし者たちとは気がつかないでいる。しかし確かに後になってしまえば その人達は自分を導いてくれる人物達である。そのことをどうして、気がつかないのであろうか。『ガ』という我は何んと愚かな自分であることを。其のことに気付いた時 初めて全てを 覚ることであろう。世間でいう富や地位よりももっと尊い物がある。奪う力よりも分け与える力、恥じる力を持つ力、自分で手にした力、あるいは富は取るにあたる(意味が無い)ということを 知る力を見出して欲しいと思う。

全て自分自身の『気質』を変える事から始まる事のように考えます。(万物を構成する物質である気によって形成される物の性質。人間がそれぞれ別にもつ身体的、精神的な性質をいう。) 形を取り去り無になれ!水のように、驕(おご)らず流れ続ければいい。才能とは心に宿るものである。

縄文文化の超自然観より引用

言霊豆知識-1

今の世に一言

元(はじめ)にお断りいたしておきますがここに書き込んでいる言霊のひとつひとつに威力(神秘)が隠されているのでありますから心を清らかに以って読むんでいただきたいものですが、 然しながら固く為ることも無くただただ素直にリラックスして熟読して頂ければ判って来ると思われますので読みたい時に読んでいただければ幸いです。また小生が学び研究してきた成果を受け継いで欲しいと望んでおります。 そして究極の生老病死(せいろうびょうし)の答えが記してあります。生⇒試練である。だから楽しくもあり辛くもある。老⇒肉体ではない魂の問題である。病⇒これは生き方によります。それに生じて病となります。死⇒生あるものは全て枯れて行きます。 ただ魂は永遠であります。

又霊愛(恋愛)でもなんでも人生に悩み迷ったら読んでみてください。必ず何かを掴(つか)むことが出来ると確信いたします。此れから事業を起こす人・経営者(人は使うのではない。用いるのである。用い用いられて、互いに感謝の念に生きれば光明を得ることができる。又 類は友を呼ぶものである。 其の起業に集まってくる人々も創業者と同様の考え方が集まってくる。

金銭に対してガリガリ盲者で、札束を見ると無上の喜びを、感じる人では長続きはしないものである。)などは絶対に読まれることをお勧めいたします。又宇宙の実態・地球上の歴史とは・人間とは・生きるとは・病とは について 追及していきたいと思います。ぜひ読んでみてください。心の目を開いて、真実に対して子供のように素直になることが一番の近道だと思います。


【『序文』 小生は思うのであるが何一つとっても、いかなる事も(宇宙、地球)、ここに書かれている事の意義は全世界に通用するものであり、地球上の如何なることも、根本原理はここに記載している事から始まっているからである。また全てを超越(ちょうえつ=ある物が別の高い次元にあることを表す語彙・概念である。)しているからである。 ここに書かれいる事無くしては語れないのであるから、人間ならば知る必要があろうかと思うのである。時間は掛かるであろうが是非大人から子供へと伝えてほしいと思う次第です。

人間は何かを理解しょうとする時には、幾つかの視点を交差させる必要があります。(ものの見方はその人の感情が決めます。同じ一つの物事であっても、視点を変えると幸福にも不幸にもなれます。 人は視点を変えることでその人生を変えられるのです。)その時に、もしかしたら全てが交わる一点が見えてくるかもしれません。

自分の視点だけで考えるのではなく可能な限り多くの視点を取り入れることが必要であると思う。そして私たちは常に幅広い思索と大胆な仮説、謙虚な判断が大切だと思われます。

また一つの国として考えた場合、どの国も世界の一部でしかすぎません。国(国家というよりも人々と言った方が良いかもしれません)という小さな欠けらでしかありません。そしてその欠けら(人々)が集まって完全な世界が造り上げているに過ぎません。其の事が判らなれば人生についても何も理解することが出来ないでしょう。 又こう云う事も言えるかも知れません。宗教的な事を解かなくては此の世の仕組みも解りえないのかも知れません。つまり究極の覚りとなるものは真なる実相の世界を知る事であると思うのであります。その真なる実相世界を一つ一つ解き明かしていこうと思います。

その上で良く学んで頂ければ宜しいのではないかと思います。小生も人生とは何かと考えた時に答えが見つからず最後はこの部分(宗教的なこと=人間の意欲の中で、神秘を探りあてようとする事程魅力あるものは無いでしょう。 信仰に熱が増すのは神秘探究心からであるからでしょう。

従って昔から神秘の多い宗教程発展するのであると思う。もっとも神秘の表現化が奇蹟であるから、神秘と奇蹟とは切っても切れない関係にあると思う。


一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程いよいよその奥を究めようとする、そこに信仰の妙味があるものであると思う。しかしてどの文字! どの行! どの頁! それを一々挙げることができ無いものこそ神向き真行であると思うのである。 そして霊魂の存在は宗教界の一部ではよく聞かれる洗脳とは違った主体性が存在しているために、ある意味では健全さが見られます。)ではないかと導き出した次第です。この疑問がお解り頂ければ此の世の全てがお分かり頂けるのかと思われます。

ここに書かれている事は学歴があっても学力があっても頭が良くても、わからろうとしない人にはわかりません。当り前ですが! わかるにはただただ「素直な心」」が必要なことだけです。 また、本当の歴史が解りますと個々に書かれている全てが理解(日々真剣に 自分と向き合った姿勢が大事です。又いざという時には必ず後悔しないことでしょう。)できるようになります。

小生が此の歴史を信じるようになったのは数々の体験をし、奇跡というものを目の当たりにしたからです。しかし神秘の体験をしなければ、頭の中での認識してもどうしても魂の中まで往きとどかない訳でありまして、ただの認識で終わってしまうのであります。 それでは何にもならないのであります。しっかりと自分のものにしなければ何もならない訳てあります。そうすることで本当の歴史が理解できるわけであります。「知る事」と「分かる(解る)事」は、違います。

そこで初めて見えない世界が見えてくるものなのだと思うのであります。神とか宇宙とか霊魂とか次元世界とか・・・。要するに全てにおいて筋道が通っているかがなのであります。卵が先か鶏が先かの問題であります・・・。全てにおいて元があるわけでして、所謂雛型というものが有ってそれが原点なのであります。

なぜなら『神』という御存在、宇宙の構成、全てにわたって解き明かしているからです。一つの物事に対してどう思っているのか、長い歴史があるのか、思いを寄せる事が大事であって、心を寄せると答えてくれるものである。 書くにあたっては、いろいろと言葉を拝借(はいしゃく)して書いてありますので悪しからず!

私達人間がこの世において真に繁栄、平和、幸福を築くためにはどう〜しても先ず、お互いに与えられている生命力というものを正しく認識し、その始めと終わりがどの様な形であるのかを 極めなければならないかと思うのであります。つまり生死の問題がここで検討されなければならないのであると思うのであります。

上に立っている宗教人たちに云(い)えることは宇宙そのもの根元を知らないために間違った教えをして、人々を迷わせているだけなのです。そして多くの信者を抱えて本当らしきことを教えているのが現状の様な気がしてなりません・・・。

ある宗教のトップの中には死後の生命は宇宙の生命体に帰納一体(大宇宙という生命体に融合する)となり個々にはもう存在しない、と 云う事を唱えている方が見受けられるが、霊魂・霊界の実相の事が分かればその様なことはないと思うでしょう。 魂という根元を知れば生命体が宇宙と帰納(きのう=個々の具体的な事例から一般に通用するような原理・法則などを導き出すこと。)一体に成るわけがない事を知るにあたる。

さらに個々には存在しないということが間違いだということも解る。魂というものは相応の理で仕組まれ生かされているということが解れば存在しないなどと言えるはずがないものである。魂は永遠と 繋がっているものであるし其のことにより生まれ変わり死に変わりということが続くのである。これを輪廻転生(輪廻するということは、普通に考えれば、輪廻する主体が存在するということでもある。

そして普通に考えれば、それは肉体とは別の「精神的主体」、つまり「霊魂」ということになる。生まれ変わるのであれば、死後に存続する主体、つまり霊魂を想定しなければならないだろう。 また、私たちのいる世界が現象世界と潜象世界(見えない世界)と相対する世界が存在しているように、物はすべて対立したものの組み合わせで出来ているのです。)という。
 断わっておくが非難をしているのではなくて『こうなのです』と言っているのであります。

ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。何故なれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、 霊界は満員になっていなかればならない」と言うのである。この人などは仏教界の偉人でありながら、霊魂の伸縮自在を知らないからである。

霊魂・霊界の実相を無視するため というか宇宙の生命体に帰納一体(大宇宙という生命体に融合する)の考えから仏教は死を格別賛美していないような感じである(かの有名な道元禅師はその著「正法眼蔵」の中で霊魂の不滅を否定・池田大作氏もこちらの考え方の様である)。 死よりも生まれた意義とか現実の生活に重点を置いているようです。生きられるだけ立派に理想的に生活しようとする事を主としているようです。

確かに此れまでの仏教自体が真如(しんにょ=真の如く説かれているからでしょう)であるから仕方がないのかもしれない。では此れまで真如の教えで来た人達は如何したら良いのかということになりますが、此れも心を広く受け入れられる人でないと耳を傾ける事が出来ないことでしょう。所謂(いわゆる)ス直の二文字になるでしょう。

釈尊がいっておりますように”真如を説く”で、大元をかくしたものを真如というのです。人類創造期の崇教から「ホドケ」させて気高い教え(崇)ではなく、宗教(仮の教え)をつくらねばならなかったから真如という教えを出さなければならなかったのである。 しかし本体があらわれていれば、これは真=シン=マコトになってしまう。

マコトの霊智になる。真ドウ一偏倒(一方にかたよること)では唯物の思想が起きないという神のご経綸上、この本体を釈尊はかくされなくてはならなかったし、 イエスにしてもある程度ボカシながらブレーキはある程度人類へかけなければならなかった。

それが当時の神・仏・基・孔・孟の教えなどの、宗教宿命であり『宗教の本質』なのである。 イエス・キリストや釈尊たち聖者たちは水の時代(物欲の時代)の「真如の教え」「仮の教え」を人類に説いて行かれました・・・。 しかし釈尊は正法 (しょうぼう、しょうほう=仏教で、正しい法(真の教え)のこと)を説くもの現われるとはっきり言っておられる。
釈尊はミロク菩薩(ぼさつ)と称(とな)えておりますが、これはミロク大神(天神五代・六代・七代の神様を表わす)が仏界へ降りてこられたのをこうして申し上げるので、五(火)六(水)七(土)と書いてミロク(三六九)とよませています。

生命現象が成り立つには、その元に成る。根元的なものとして『いのちの進化』の法則があります。それを知るには、まず神の本質を知らなければなりません。神の本質とは、 命の進化を実現させていく、次元を超えた巨大な意志であり、霊的波動が神とかいわれる存在なのです。

これを天(あめ)なる道とか、天の法則とか言われてます。その霊的波動から個々のいのちが生じるわけでありまして個々の命と神とは切り離せない存在なのであります。

さてこれから下記を読んで此の事柄を実践出来るか出来ないかではなくて、此れからどうするかが問題である。今後はこれらの書かれている法則でやれれば光明を得る事が出来るであろうと思う。 そもそも人間は人生そのものが神業である、即ち神から与えられたものであると考えるだけでも、今まで見えなかった光が見えてきます。

人間というものは悪い星の下に無意味な人生を送るために生まれてきた人は一人も居ません。 自分が万が一悪い星の下に生まれてきたとしても、悪い思念を持つことが、自分の人生に悪影響を与えているだけの事です・・・。

※想念というものを、意志、結合、精神、情動、生命と五つの階層に分けて考えると、この階層のどこから生じた想念であるかによって、その力を運ぶ粒子の大きさが決まってくると考えています。 この場合、意志エネルギーの粒子が最も細かく、次に結合エネルギー、精神エネルギー、情動エネルギー、生命エネルギー……と続きます。言霊も同様に、霊(たま)なのか魂(たま)なのかによって、階層と粒子の大きさが異なってくるでしょう。 そして、言霊から生じる細かい粒子は人体のDNAに到達することができると考えています。言霊発動の鍵は、「意志」である。 言霊は、宇宙根本を司るものでありますから、言霊の働きによって神々が産まれたものでございますから、其の働きが現象かするのでございます。

以上のことから、一切が「想念」から展開され、しかも「想念」は身魂相応に湧き上がる言であるといえるのであります。所謂身魂磨きとは想念を正すことから始めなければならないのであります。此れまでの限界的な知識やらを取りはからい正すことであると思われます。 私たちは、この肉体の故に、或る時は怒り、妬み、謗(そし)り、愚痴、恨み、憎しみ、足ることを知らぬ欲望に捉われて、自らの心を苦しめてきました。これを反省をして正すことです。全て欲する我に在るから生じて来るものなのだという事を知った時から、反省から安らぎが生まれて来るものなのです。


若し人類が、初めからひとつの霊界のある事を知ってたとしたら、物質文明は今日の如く、素晴らしい発達を遂げ得なかったに違いない。何となれば霊界を無視したればこそ、無神思想が生れ、其思想から悪が発生し、その結果善と悪との闘争となり、 人類は苦悩に苛(さいな)まれつつ、遂に唯物文化の発達を余儀なくさせられたからである。之を深く考えれば、全く深甚なる神の経綸でなくて何んであろうか・・・。

死後の生命はあるのか? 死んでも今の自分は存在し続けるのか? このことを知ると知らないとでは地上の生き方は全〜く違ってきます。死後の生命があるかどうかは、人類にとって最も重要な問題です。 「死後もあの世で意識を持って生き続ける。死によって生命が終わるのではない」――これを難しい言葉で「霊魂説」と言います。今後はどの様に捉(とら)えるかは読者次第です。

よくよく宗教界では地上天国という言葉を使うが此の本体とは、人類総体の生活が向上し、芸術・音術(音霊)その他の清い楽しみが大いに発達する世界をいうのである。 また良く言われることであるが御魂磨きとは神霊の世界(いい加減な心で探ったりすることはしないことです・・・。)を知ることに尽きると思うのであります。

そのことにより人間とは何んなのか! が解りだすと心から魂が光り出すのであると思うのである。小生は元来宗教というものは孤独から解放し、あらゆる障害を乗り越え得る、魂に注ぎ込む力水みたいなものでなければならないと思うのである。 そして心霊上、信仰上、微妙な問題に関しても充分の解決を与えてこそ、人それぞれの人生の大目的に添い得ることではないだろうか。そう行かねばならないでしょう。

最後はみんな神の子の姿をこの地上に現わさなければなりません。誰もが愛深く平和な心になって、真に大調和(大調和とは神との約束です)した社会を建設していかなくてはなりません。 それは神様のお望みのとおりに、健やかで幸せに生きることです。本当に全員が命の煌(きら)めきと命の歓びに感謝して生きられるような地上天国に この地球世界を完成していくことが最終目的だということを・・・。

★自分らしさとは何か?。 大事なのは、人生について考え理解することだろう。だが、悲しいかな! 人間とは表面的なものに踊らせられる。日和見的(ひよりみてき=ある定まった考えによるものではなく、 形勢を見て有利なほうにつこうという考え方)な状況に流されやすい。しかし、心の中に内在する神理に目覚める事です。それが自分自身であるからです。

序文の最後に幽霊が居るか居ないかについて最大の疑問があると思いますが、この問題も解決しなければ見えない世界のことも解らずそして何よりも人間の構成を説かなくては 何も解決できないものなのだと知る事でしょう。この問題が解決した時に初めて自分とは何か見えてくることでしょう。

また死後の世界が在るかという事にも疑問が在ることかもしれないが・・・。しかし脳神経外科(科学的に脳の研究)の世界的権威医師 エベン・アレグザンダー氏 医学・科学の名門 1980年 デューク大学の学位を習得 又 世界医学界に招かれ数々の受賞を得ている。また世界でトップクラスといわれる脳神経外科のハーバード・メディカル・スクールに在籍して200本以上の論文を執筆し研究者としてその名が世界に知れ渡った。)が 此れまでは死後の世界を完全に否定(幽霊とは脳の錯覚と語っていた人物である。

そして科学で証明できるものは受け入れ、証明できない物は受け入れないという人物であったが しかし死後の世界が有ると結論を出し強く言い出したのである。(2010年10月のことである)自分自身が体験したからだという事である。所謂臨死体験(奇跡の体験が在ったからだという)ということである。


エベン・アレグザンダー氏が死後の世界を知ることとなったきっかけは 2008年11月10日のことであった。細菌性骨膜炎という病気で倒れたのである。。細菌性骨膜炎とは細菌が 脳や脊髄を包む骨膜に感染して脳を攻撃する病気のことである。最も恐ろしい病気であるとされている。しかし運悪く、最もひどい大腸菌という病気に犯されていた。これは100万に一人というまれな病気である。 致死率は90%以上といわれている。また覚醒しても重度の障害が残る可能性が高いとされている。大腸菌の感染から無償で生還した例はないとされている。この様な事の中で死後の世界を見てそして無事に生還したのである。本が出ているので読まれたし。(ブルーフ・オブ・ヘブン(天国の証明)『リンク』に動画があります。ご覧あれ!

『生と死』 言霊豆知識-20-9  『人間の責任』 言霊豆知識-20-13 『霊界と現世はリンクしている。…この世は霊と物質(体)の二重構造 』 言霊豆知識20-4を参照

小生は此の事により 人は、何処から来て、何処へゆくのか。人間がこの世に生まれるという事は、どんな意味が在るのか。死とは何か。 宇宙と如何して出来たのか。魂が在るとしたならばその意義を知りたい。心とは何か、神とは如何なるものなのか。こうした諸問題、つまり、宇宙と人間、人間の存在意義、 心の実相とは何なのか。こう云う諸問題を考えてもらいたいのである。誰がその様な次元を創り、何のために創りだしたのか? それは何時ごろなのか?此れが皆様が考えるべき課題ではないだろうか? それが分かり出しますと今までの考え方 そして現在宗教に属している方々は目が覚め本当の物は何なのか 自己判断が出来るように望んでおります。

さて今の物質だけでの世界の考え方では行き詰まる事を知ることで、物質世界と見えない世界との調和が必要だということを知る事でしょう。

また物質を中心とした成長時代を経て、今は、人々の価値観は少しずつ変わりはじめ『21世紀は本物の時代』とも呼ばれています。

★断わっておきますが「手あて療法・霊的光力」は病気治しが目的ではないし、一宗教に留まらせてその人間を支配してしまう事でもない。いつも言うことでもあるが宗教とは導き手なのだと思うのです。またその人の心又は魂を強くさせてあげられれば良いわけでそれ以上もそれ以下もないのだと思うのである。 そして全て万人に「人は神の子」たる尊厳(そんげん=気高く犯しがたいこと)をさとらしめ、全人類を種々な偶像支配から解放しようとするものである。方法としては専門治療家をつくることが目的ではなく、家庭療法として発展させ、人類一人々々の人間回復を図ることが元来の目的なのである。

いわゆる泰山府君 【たいざんふくん=人間の寿命をつかさどる神】 に近い業でもある。人間界では助からない病を復帰する業でもある。時と場合にもよるが・・・。ちなみにスサノオ(素戔嗚(スサノオ)尊=イザナギとイザナミの間に産まれたとしている)とクシナダヒメの間には多くの子供が生まれ、6代目の子孫に大国主命(オオクニヌシノミコト)が生まれた。

スサノオの子孫にあたるのがオオクニヌシノミコト(大国主の命=ダイコクさまの呼び名で親しまれています=だいこくさまは、「天の下造らしし大神」とも申しますように、私達の遠い遠い親達と喜びも悲しみも共にせられて、 国土を開拓され、国づくり、村づくりに御苦心になり、農耕・漁業をすすめ、殖産の法をお教えになり、人々の生活の基礎を固めて下さいました。

また、今もなお人々の病苦(霊的光力で)をお救いになる等、慈愛ある御心を寄せて下さったのです。 だいこくさまは、救いの親神さまであると共に、すべてのものが「おのずから」の姿にあるように護って下さる親神です。)・幽冥主宰大神(かくりごとしろしめすおおかみ)とも称されます・国を平定したあと幽政(幽界)を主宰する大神(おほかみ)=人々の霊魂をもおさめられる神さまです。人々の亡くなった後の霊魂が帰る世界でもあります。

人間の体にトラブルを抱えた状態の人を施術(霊界医師・霊医)する。これこそ霊的光力(実はこの原理を知り、ある期間の修錬を経れば、決して出来得ない事はないのである。特に日本人は世界に比類なき霊性に富む以上、霊電波発揮には最も優秀である。 ただ何人にも出来得るという訳にはゆかない。人により生れながらに素質と信念の強弱優劣があり、それが重大関係(霊符=一般的な霊符とは全く違う=しかしながらこの事の説明に当って最も困難と思う事は、現代科学の理論においては、それを説明し得るまでに到っていないという事である。

従って、やむなくただその効果によってのみ肯(うなず)き得らるる現在で、満足の余儀ない事を告白するのである。但し霊科学的理論によって説明ならなし得るのであります。書いてあるので読んでいただきたい。)をもつからである。
従って、日本人中何人位出来得るやという事は正確には判らないのである。

しかしながら治病に関してのみは何人といえども可能である。 又神に意乗りをするにもある程度のやり方を一定区間学ぶべきかと思う。そして後にご自身でやられれば宜しいかと思う。)ではないかと小生は考えております。ですから本来は健康状態に戻して差し上げるお手伝いと考えても良いと思います。 究極は霊的に目覚め差し上げていくこと。治癒力を高めて差し上げること。決して病気治しの業ではなく、 その人の霊を浄め、 霊的に開眼させるための業(術)なのです。 以上の事を踏まえて考えられたら良いと思われます。

人は苦しむことによって浄化されるのです。精神的にも肉体的にも、すべて苦しみは浄化です。その苦しみによって曇りがとれのです。ですから感謝しなければならない訳であります。 霊的光力をすれば苦しまなくても浄化されて霊の曇りがとれる訳ですから、だからこれはたいへんな神の光力です。病気なんかの場合は苦しみをとろうと思って医療を加えるんですが、それで苦しみが楽になったところで、ただ浄化を伸ばすようなものです。

人の病気というものは、自分自身の霊界にある曇りと現世にある曇りが在る為に起こってくる現象に過ぎないのである。 妬み、恨み、誹り、怒り、愚痴、詐欺、横領、騙し、等などしなかったかです。所謂不調和な事をしなかったかで起こる現象なのです。

だからこそ悔い改めどうすればよいのか、よくよく考えて生きなければならないのであります。怒ったり、愚痴は如何して出てくるのか原因を探り、そして見直すことです。 全て自己欲から発生するものなのです。

薬や病院に行くのも一つの方法でしょうが、それでは霊界の曇りや現世の曇りは取り除かれません。またいつか倍になって帰ってくるのです。 要するに体ではなく霊の方に原因があることに気がつかなければ何時まで経っても同じことの結果になります。


■薬についての流れ(薬と付いている全てのもの・添加物も勿論そうです。);毒を入れる→血液が汚れる→霊体に曇りが生じる→福守護神の活動が容易になる→悪の活動 これには異義もあるでしょうが、薬を強い麻薬と置き換えると分かり易いかも知れません。 麻薬常習犯による、凶悪犯罪の発生や思考低下による異常な行動。薬はすべて長い間の服用によって、やがては同じ様に人の精神作用まで影響してしまうということになってしまうでしょう。

確かに薬を飲んでも直ぐには害が出ない。だから一時停止しても効果があるかのように錯覚してしまう。だが一時停止くらいならまだしも段々停止しに向かって言ったら、如何なる事やら・・・。 人間はいつかは死に至りますが、結局は薬毒を入れて死ぬか、薬毒を入れないで死ぬか二つに一つという判断になろうかと思います。各自の自由選択です。

薬は効かなければ手を変え品を変えて登場する。『私は(薬)皆さんの為にやって参りました。無害安心な私をどうぞおきなく使って下さい。動物実験も済ませましたので安心の高い私(薬)です』と・・・はぁはぁはぁはぁ(薬の笑い) しかし人間の方は次はきっと効く新薬だろうと思い込み新しい薬に飛びついてしまう。もう理性が働かないのですから仕方ない・・・。騙される方も馬鹿と言ってしまえばそれまでですが・・・。 とにかく、信じている人(薬)にとっては他の情報など頭に入れる隙間が無いわけですから・・・。

根本には触れない以上、丁度枯死せんとする樹木が、原因が根にあるのを知らず、枝や葉を研究するようなものである。 もっと言えば長い間の土壌が原因であることを・・・。人間も然るであるのに・・・。現代医学は根本が不明である為合理性がない低科学である。

※○薬剤や機械等の物質を以て修理しようとする甚(はなは)だ単純な考え方であって、併(しか)し事実はそんな簡単なものではない。 人間は肉体以外生命力という寧(むし)ろ『肉体以上重要な霊的個体なるものが存在しており、』 それが体との密接不離な関係にあって、人間は生きて活動出来るのである。 併(しか)し霊は無に等しいものである為、唯物科学では発見されなかったのである。という訳で科学は肉体のみの研究に耽(た=ふける 物事に深入りする)っていたのは、彼の死体の解剖などを見てもよく分る。

従って何程進歩したといっても、両者の一方だけであるから披行的進歩でしかない以上、如何に努力したとて結局徒労(とろう=むだな骨折り)以外の何物でもないと言えよう。  以上の如く人間は霊と体との両面から成立っており、霊が主で体が従となっているのであって、これが万有の法則である。

そうして病気なるものは体にある保有毒素が霊に移写して曇りとなる。それへ自然浄化作用が発生して曇りが解消すると共に、それが又体に写って毒素は溶解し排除されるので、その苦痛を言うのであって、つまり前者は霊体一致の緯の作用であり、後者は霊主体従 の経の作用であるのであって、この理を充分知る事が肝腎である。

では一体曇りの本質は何かというと、これこそ無色透明である霊に不透明な部分が発生するそれをいうのであって、これが実の病原であるから、これを払拭すれば病気は治るに決っている。 この方法が霊的光力である。

薬と名の付くものはことごとく毒であり異物である以上、消化吸収されず、体内に残って病原となるという簡単な理屈が分らないというのは、全く医薬迷信の虜(とりこ)になっているからである。 薬について医学の解釈であるが、それはどんな薬でも余毒は自然に排泄消滅するものとしている考え方で、これが大変な誤りである。

というのは元来人間の消化器〔機〕能は、消化される物とされない物とは自ら区別されている。すなわち消化されるものとしては、昔から決っている五穀、野菜、魚鳥獣肉等で、それらは人間の味覚と合っているからよく分る。 これが自然に叶った食餌法(しょくじほう)である以上、これを実行していれば病気に罹(かか)るはずはなく、いつも健康であるべきである。

元来薬といものは月の光です。月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗(やみ)ということがあるのです。そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。 だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるということは絶対にできなかったわけです。 それは歴史を見ても分かるとおり、無論天下が長く続かず、それからまた何代もうまくゆくという家はあまりなかったのです。

そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪いことが幾日も続くということはないのです。

そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。 一時的しか得られないわけです。すべてがそうです。だから今までのことはみんな一時的で、続かないのです。

ちょうど病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、少なからず再発するようなかたちになるわけです。なにもかにもそうなっているわけです。 つまり永遠性がなかったわけです。

●霊的光力は受ての想念が70パーセント位であり、施術の想念は30パーセント位です・・・絶対とは言えませんが、数字で表わせばですが・・・。・・・これが何を意味するかというと、たとえ同じ霊的光力を受ての人に同じように放射しても、結果は受ける人それぞれの想念で違ってしまうということです。 全ての人に同じ結果なるようには思えません。「この理由は何かというと、人間は神の時代から存在する’因縁’を感じ取ることができないからです。

もしそれが過去の罪だけだったら、それらは告白によって明らかにすることができます。しかしながら、霊的存在でいた間に霊界の法則を破ったことは、自分には決してわからないのです。

言うまでもなく、自分がどんな罪や穢れを積んできたか、今日現れた正神の神様に反抗して自分のご先祖様がどんなことをしてきたか、そういうことは普通の人々にはわからないのです。」 「また、たとえそれが判ったとしても、どうすることもできないのです。・・・結局は、罪や穢れの問題は、神の火の聖霊による洗礼、すなわち霊的光力よってしか、取り除くことができないものだと思うのであります。」

【★掌から出る力(霊的光力=万霊救済度の業=癒しは「神癒」です。)はいったいなにかということは、一番知りたいと思います。一番分かりやすく言うと、霊的原子爆弾なのです。というのは、原子爆弾というものは非常に熱度が高いのです。  で火力ですから、火力で焼けてしまうのです。原子爆弾の説明には、つまり太陽の小さいものを造るのだということを言ってますが、そういうものなのです。太陽熱というものは熱の体ですから熱いとか光るというわけです。 (ちなみに太陽 の表面温度は6000℃、中心は数千万度といわれています。 )

ところがこの霊というのは目に見えず五感に触れないものです。いつも言うとおり、霊の方が力が強いのです。ですから太陽の火力の霊が伝わると言いますか、これも説明しにくいのですが、とにかく太陽と繋がっているわけです。 それでこれは見えない霊科学ですから、それが、霊の火力が患者の病気の所に放射すると治ってしまう。治ってしまうということは、霊体の曇りを溶かすということになります。

曇りというのは不純水素と言いますが、不純水素というものは、水素の中に毒粒子・・・薬毒が固まったものです。薬毒は、最初の、薬をのんだり注射をしたときは霊全体に拡がっているのですが、だんだん固まって、つまり硬化作用ですが、そうしてここならここが痛いとか、腫れるというのは、そこに固まったわけです。 固まったその不純水素というものは、つまり毒粒子がたくさんそこに集まってしまうのです。ですから肩が張る、ここが固くなるということは、今の毒粒子がだんだん固まってしまうわけです。

それで、霊射すると顕微鏡などでつかまえることはできないくらい細かいものですが、それが焼けてしまうのです。 毒粒子が焼けた後の灰・・・生物とすれば死骸・・・それがいろんな排泄物、膿(うみ)とか痰(たん)・鼻水になって出るわけです。(これを浄化作用というのです)

もうちょっと詳しく説明すると、霊的の毒粒子が灰になって、それが漸次集合して、それが大便、小便になる。霊的光力すると、下痢をするとか痰が出るとか、排泄物が出ますが、それが灰です。 火素の放射によって毒粒子が焼ける。霊的光力は物質でないから霊を焼く。また不純水素というのは、水素中の毒粒子、薬毒が固まったもの。

火素によって全滅し、漿液中に吸収される。漿液(しょうえき=粘性物質を含まない、比較的さらさらした透明な分泌液。胃液などの消化液、漿膜からの分泌液などの中に流れている膿というものが、神経を使う所に固まる、それが毒素ということになり、 血の中に凝結して残っている部分と、それが漿液に混ざる部分とがある。

ですから放射して、痛みなら痛みがなくなりますが、痛みはなくなっても灰はそこにあるのです。あっても痛くないということは、みんな死んでしまって活動力がなくなるからです。それが、活動力があると動くので、痛みとかいろいろあるのです。 それで、死骸になると人間の神経を刺激しないから痛くなくなるのです。これが掌から出る根本原理です。 で病原体は、今言ったとおり、霊の曇りが病原体とすれば、霊ですから、それを治すとすれば、霊をもって治すのが本当なのですが・・・。

此れほど画期的(かっきてき=新しい時代をひらくさま)なことはなかったことでしょう。どうですか?。他人にも出来るし、尚(なお)いつどこにいても自分にも出来る事が素晴らしいのではりませんか? まぁ理屈はどうでもいいんですが薬を使わずして、あらゆる病気やら手術をしないで、痛みがとれたらそれでいいのではないでしょうか。百聞は一見に如かず  です。(百回聞くよりも、たった一度でも自分の目で見たほうが確かだということ )】 此ののちに、あれこれ考えればよろしいのではないでしょうか。


★霊的光力(神秘光線の放射)の意義について・・・「額の霊的光力は魂を包む曇りを取る」霊的光力の際、よく額をやるのは、本守護神をいっそう浄めるのでなく、魂をつつんでる曇りをとり除くためである。あたかも魂である太陽の光を雲がさえぎってるようなもので、これをとり除くのが霊的光力である。』 霊的光力をすると外から浄まり、御神書を拝読いたすと中から浄まるのである。【元来、人間の四肢五体の根元いわゆる人間全体は頭脳にあり、いわゆる病原の中府ともいうべき所であるから、まずこれを浄めて取掛るのことである。原則としては、最初は患部へ向って右の人差指を 指頭を患部に軽く当て、病原を指頭を以て探り当てるのである。

指頭に霊を集注させ、病原を溶すごとき心持を以て軽圧するのである。右は原則を示したのであって、実地としては適宜、按配(あんばい〜程度・加減)としてよいので、場合により掌を利用してもよいのである。またできるだけ奥に通るように自分の心で思うことです。 原則として、術者は上座に坐らなくてはいけないので、常識から見て、その部屋の上座は自ら判るもので、大体入口の方が下座と思えば間違いないのであります。

しかし、その外の場合はなるだけ下座に居るべきで、それが謙譲の美徳であります。大変良く治る時と治らぬ時、又治る人と治らぬ人とがありますのは、右の様な種々の関係もあるのであります。


※霊的光力のひも解きですが『霊』これレイはゼロは無限という意味をもっています。所謂霊界を差します。

それで『的』これはマトです。要するに中心を意味します。『光』はヒカリで『力』なるものを言霊上から説いてみますと、チは血であり、霊であり、カラは空であり、躰(からだ)であり、体であるとしたら、力とは、霊体が合致して生まれるものでありますが また人という言霊を解釈してみるとヒトのヒは霊でありますから霊が体へ止まる。 すなわちヒがトまるのでありますから以上のごとく、力とは霊体が一致したのものであります。

次に文字でありますが、力の形は最初縦棒を引き、次に横棒を引いて十字に結ばせておいて、次に横棒の末端から、やや斜めの棒を引き、その尾が跳ね上がる。つまり経緯結ぶや活動が起こる意味で左進右退(さしんうたい)に回転し始めるのが力の活動であります。

『霊的光力⇒無限のゝ(チョン)ホチの光の力⇒七次元よりから発する。霊気を発する』となるという事になります。此れこそ不老不死の源(みなもと)だと思います。


イエス・キリストが言われた言葉があるようですが・・・。神のように自分にもなれる。それは自分が証明していると・・・。でも信徒は誰ひとりそうは思ってはいない矛盾。神のひとり子 だから、他人が神の様にはなれないと・・・。後のは邪悪の神であるかのように思い込んでいる。 ましては人の体を直すなどとは悪に魂を売るかのような考えを思っている。では薬(禁断の果実ではないのか)はどんなものなのか疑問に思えてしまう。今の文明はイエスの時代からは想定付かないほど発達はしたがイエスの時代と何ら変わらない。 いくら神の言を説いても分かろうとしない。実在を見せても 所謂霊的光力を見せても信じようともしない。聞こうともしない。どうだろうかこれでも変わったといえるだろうか?・・・。

実はイエス・キリストは神の業(霊的光力)として奇跡の癒しを行ったのである。だがそのような病気の癒しを売り物にするのは低次元な御利益信仰かというとそうではないのである。あくまでも肉体上に映るものは必ず川上であるところの霊的(霊魂)救いの為の方便であったのである。

★現在の科学で説明出来ない事を一概に迷信だ、非科学的だと排斥(はいせき〜受け入れられない)するのは早計(そうけい〜早まった考え)である。殊に医学に於いて然りである。医学(と云うより治療医学)は、本来経験から生まれたもので、科学的根拠から生まれたものではない。発達するにつれて科学的裏付けがなされ、又更に進んで科学的理論から治療技術が生まれるようになったのである。 従って何よりも大切なのは経験である。霊的光力を施せば、病気が治る、健康になるという事実である。何か新しい療法が現れ、これに依って病気が治ると云う事実を提示したなら、謙虚な態度でこれを研究して見るべきである。

そして良きを採(と)り、悪しきを捨てて己の薬籠(やくろう)を豊にすべきである。ところが現在の医学界の風潮は反対である、貴重な人命を取り扱う医師達に対し、きびしく警告を与えねばならないと思うのである。 これは単に、医学界ばかりではなく、生命の霊的本質、宇宙の実相を知らざる時代遅れの唯物的思想家や、物質万能の科学者達にたいして与える啓蒙(けいもう〜人々に 正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと)の金言(きんげん〜手本とすべき内容を持つすぐれた言葉)であらねばならない。


もう一点 読者の皆様にお聞きしたいのであるが、これまで地球始まって以来誰か魂を殺したなどと聞いたことが在るだろうか・・・。殺人なんかは年がら年中聞いてはいるが 魂を殺害したなんて聞いたことが在るだろうか・・・。おそらくないだろうと思う。出来ないからである。肉体があれば出来るが 実態がないからである。でも実際に魂というものが  生あるものには必ず在るのである。この魂を無くすことが出来るのがたった御一人である。それが神という御方以外には存在しないのである。どんな科学を屈しても魂を消すことが出来ないのである。 ある宗教では○○切り称して遣っているみたいだが そんなことは出来ない事である。何故かというと 魂 見(そ)のものが霊界に在るからである。少し霊界の知識があれば分かるものである。

★神性と霊性を復活をする法をお教えすれば、どんな方でも恐ろしい神秘な力を出し得るものをしまって、実はもってしまっている。それを開発するのが、実は宗教の役割だったのですが・・・。 今日の一部を除いては、あらゆる宗教は実は宗教哲学であって宗教ではない。やはり神秘と奇蹟のない宗教は哲学でしかないと思うし、奇跡(奇跡を否定するのであれば、此れまでの聖者という人達を否定することにもなる)ばかりを望むこともあまりよくないとは思うが しかし、苦しみから解放できるか、出来ないかに、最後は関わってくるのではないだろうか?。今 痛い、苦しい、助けてほしい、死(肉体)んだ霊魂も然るである。これを取り除く事こそ元来の宗教というものではないだろうか。

(また たいていの病気によく効くが、殊に「痛み」にはすばらしくよく効く、いま薬物で痛みに効くものは麻薬以外にないのである。) 故に 其のあとで、その様なことが如何して起こってくるのか、解き明かすのが元来の宗教というものであろうかと思うのである。全世界の宗教は哲学されて奇跡的な事は何一つ出来ない。 一部を除いては、よくよく考えてみれば本来持つ人間の霊性を教える事も出来ないで胡座(あぐら)をかいて座っている状態ではなかろうか。また真剣に取り組む事もしないで 天から何かを得られるのではと其の下の方では 又 胡座をかいている状態ではないだろうか。これでは何一つ掴むことも出来ないかもしれない。

★本来(霊性)は誰でも使えるものであり、知らずに誰でもある程度使っているものです。例えば、お腹が痛い時にはお腹に手を当てますよね。ケガをした時等も同様です。 手を当てますとなんとなく痛みが減少した経験がある方、多いと思います。人体に生まれつき備わっている能力の1つです。

通常は、霊性を扱える通路が閉じぎみなので、通路を開いてエネルギーをたくさん取り入れられるようにすればよいだけです。水配管で詰まっているパイプを綺麗にする行為と考えていただくとわかりやすいでしょうか。 これにより、水配管内の水の流れがよくなる。つまりは身体のエネルギー(霊性)の流れがよくなるのです。また神の歴史認識が出来ると霊的光力や奇跡き能力が出来ると霊界より聞いております。実際にそうです。

欧米では、認識度が高く大学や病院等で霊気を取り入れているところもあるそうです。また、場所によっては健康保険の適用もあるところもあるそうです。


★今日まで地球上に強く霊的光力が現われなかったかというと、これには大なる神秘的理由がある事であって、それを詳しく書いてみよう。巳に述べた如く人間は霊と体との両原素から成立っている と同様、地上といえども霊界と現界との両面から成立っており、その霊界も又二つの原素から成立っている。その一つは霊気界、今一つは空気界である。そうして前者の本質は火主水従(霊気界)であり、後者のそれは水主火従(空気界)であり、 即ち陽と陰である。この理によって万物は太陽の精と月の精が抱合一体となって地球を哺育(ほいく)している。つまり父と母が協力して子を育てるようなものである。

というように日月他の三位一体によって生まれる。これが自然力であって、これによって一切万有は生成化育されているのであって、これが宇宙の実相である。然もその中心としての王者が人間であるから、 人間なる者は神を除いての長高位の存在である。この故に万物は人間の為に存在し、人間を哺育(ほいく)する以外の何物でもないのである。以上は人間と宇宙との関係である。で 今や昼の世界真っ只中に転換せんとする、その火の洗礼期が現在である。詳しくは読んでいただれれば解るように書いてあります。

以上の如く火主水従の霊気界、水主火従の空気界の両素が渾然(こんぜん=すべてがとけ合って区別がないさま)融合し大気界が構成され、この地球を囲繞(いにょう=とり囲む)しているのであって、五感で分る一日の昼夜なるものは、言わば体的昼夜であって、これとは別に時間を超越した霊的昼夜のある事を知らねはならない。 これこそ最も重要な意義であり、宇宙の大神秘である。即ち現界の昼夜を無限大に拡げたようなもので、空と同様であるから人間には分らないが、併(しか)し規則正しく流転しつつある。 然もそれが十年に、百年に、千年、万年といったように大中小になっている。

その一期間は三、六、九合計十八になっており、これが宇宙の実相である。 彼の釈尊が唱えた五十六億七千万年後ミロクの世が来るとの説は、文字通りとすれば、余りに長過ぎて実際上無意味であるのは、全く右の数字を示唆したに外ならないのである。 そこで前へ戻るが、今までの夜の世界は月の主宰であり、月は水であり体であるから、物質文化が発展したのであるが、それに反し昼の世界は日の主宰で、日は火(霊)であり、精神的であり、又これを善悪に別ければ体が悪と なり、霊が善となる。これが真理である。

従って今まで悪主善従であったのが、今度は善主悪徒の文明世界に転換するのである。つまり悪主善従の為現在の如き地獄世界が生まれたので、これが長く続くとしたら、 結局人類の破滅にまで及ぶのは勿論で、彼の原子爆弾の発見もその一つの示唆(しさ=それとなく知らせること)に外ならないのである。

このように神の経綸の深奥なる到底人智などで窺知(きち=うかがい知ること)し得られるものではない。 以上によって世界の今後の動きは略々(だいたい)分ったであろう。彼のキリストのいった世の終りと、そうして天国は近づけりとの予言もこれである。

一日も早くこれに目覚められん事である。 ここで今一つの重要事がある。それは前記の如く物質文化発達の途上長年月に亘(したが)って犯した悪主善従による罪穢の堆積(たいせき)である。 これを人間に就いていえば、体的には薬毒であり、霊的には悪による曇りである。 これが霊界における火素の増量によって、浄化作用も旺盛(おうせい)となり、最後は決定的清算が行われるのである。 これが又キリストのいった最後の審判でもあるとしたら、この難関を切り抜けなければならないが、それに失敗したら何人を問わず永遠の滅びと となるのである。

この事は今小生が唱えるのではない。幾多の聖者、賢哲(けんてつ=かしこくて、物事の道理に通じていること)が幾千年前から予言された事であって、これを信ずる信じないはその人の勝手だが・・・。

★「霊学」;学問という辞書的意味には「勉学すること、修めること。一定の理論に基づいた体系化された知識と方法」がある。霊的なものを扱う学問の一つに霊学があるが、霊学は「超感覚的認識能力の開発・深化を前提とした修業的・実践的霊界探求」であり「それに依拠した霊的知識の獲得を目的とする“学術”であり、何よりも行的学問」である。 霊学は人間サイドからの霊界探求である。霊訓は読む人の理解度に応じて、同じ霊訓であっても浅く読むのか深く読むのかによって違いが生ずるし、実生活における具体的適用にも差異が生ずる。また時代背景によって慎重に考えて、現実にどのような形で私たちの生活に応用できるかを考えなけ ればならない。  詳しくは言霊豆知識-12を参照。

また 霊学といえるためには実践や行を伴わなければならないが、「実践」とはまさに「利他愛の実践」であり、「行」とは「霊優位の生活スタイルの確立」といえる。この実践的思想の淵源(えんげん〜物事の起こり基づくところ。根源。みなもと)は最も高い霊界にあり、地上世界に霊訓という形で明かされた知識に沿って実践や行 を行う 。

幽の世界とは あの世 または幽界〈かくりょ=ゆうかい)ともいうが、一般には見えない世界である。其の見えない世界を考察するのが霊学である。幽から顕(この世=顕界=うつしょ) を見る目をきたえていくと、こんどは逆に幽の世界が見えてくる。そうすると未来状態における顕の世界が分かってくるものである。日本の宗教界全体が物質文明から古神道の霊主文明 の方向へと歩んで入ったときに、これまでの時代に解決出来なかった部分の霊的問題が解消していくことになるのだと思う。

○一つの物体が存在するという事は、その形と同じ姿の見えない霊というものが存在して両者一体になって存在しているのが原則であり、人間とて霊体と肉体が一緒なって現界に存在しているのである。

○人は全てその顕体よりも精神に重きを置いて造化されたものであることを窺い〈うかがい=すでにわかっていることをもとにして推測し、そのあらましを知る)知るべきであり、もはや物質万能の時運は既に過ぎて、神霊万能主義と交代しようとしている時運が到来しているのである。これに今の人類は気がつかなければならないのだと思うのであります。 そして、幽界相通(ゆうかいそうつう)の道が開かれれば、世の中は自ずと泰平(たいへい=世の中が平和に治まり穏やかなこと)になるのであります。

そして幽霊とか申す類のものも、やはり幽冥(ゆうめい=死後の世界)に属するもので、このものが確実に存在することが明白に知られるようになれば、なおその上に神が厳存(げんぞん=確実に存在すること)し給うことも自然に判然(はんぜん=はっきりとわかること)といたす道理であります。


思えば誰もが皆、自ら生まれようとして現界に生まれ出てきた訳ではなく、父母や環境を選ぶ自由も与えられずに人生の出発点に立たされ、「我思う、故に我あり」と自覚した時には、その好むと好まざるに関わらず、宿命を担った人生の第一歩を踏み出していました。 そして「人生とは何か、人生いかに生きるべきか」を人生観と称し、人は皆それぞれの人生観に基づいて生きて行きますが、その人の抱く人生観によって生き方が大きく左右されることは疑いのないところでしょう。

そこで最大の問題は「最も正しい真の人生観とはいかなるものか」ということになりますが、この「人生観」は「生死観」と換言(かんげん=言いかえること)してもよく、帰幽後(きゆう=人が神の世界から生まれ、 神の世界に帰ることを 「帰幽(きゆう)」 と言います。 あるいは生前)の世界である幽界の実相や魂の行方が明らかになれば、自ずと「現界生活とは何か、 現界生活をいかに送るべきか」の答えも明白になるはずで、先師たちによってもたらされた幽界の実消息は、まさしく人生の道標(どうひょう、みちしるべ)となるべきものであると確信致します。

★霊層界においては人間一人一人の種が存在する。この種を幽魂(ゆうこん〜神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更(かわ)り死に替わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。 従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要なる一過程に過ぎない事を知るのである。この様に神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。)という。この幽魂にまず命が下るのである。 しかるに幽魂は人間霊体の中腑にある現魂に向かい霊線を通じて神の命を伝達するのである。しかしながら一般人間が神の命を直感し得ることは至難であって、ある程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。

それは大多数の人間は、多量の曇りに遮(さえぎ)られ感知出来得ないばかりか、その曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。 右の証左(しょうさ〜証拠)としていかなる人間といえども、自己の企図(きと〜もくろみ)する事が意のごとくならない事や、予想もしない方向に運命が転ずる事があろう。

また人間は常に何物かに支配されいる感や、どうにもならぬ運命の経路を辿(たど)る事があるであろう。そうして霊層界にある幽魂はそれ自体の階級(現世における幸不幸は、幽体の住する界層の階級によって定まるものである。よって人間が人為的にいかに幸福を求め、実現しようと努力しても意のごとくならないのは、右の理によるからである。)によって、使命も運命も差別がある。 すなわち上位の階級にある幽魂ほど神命も大きく高級でしかも幸運であり、下位に降る程 漸次(ぜんじ〜だんだん)右と反対で薄幸(はっこう〜幸せに恵まれないこと)となり、最下段は最も不幸者となるのである。

何となれば上位は天国に相応し、病なく争いなく物資饒(ゆたか)に歓喜の世界である。要するに贅沢ではないが現界的には楽な生活が出来るようになる。これは事実であります。今の自分に照らし合わせるとよくわかる。に反し、下位に降る程それと反対に、病気、争闘、貧窮(ひんきゅう〜貧しくて生活に苦しむこと)に充ちたる苦悩の世界であるからである。働けど 働けど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る 。と石川啄木が歌ったのは まさしくこの現象である。 さてこの意味において人間が真の幸福者たらんとするには、まず霊層界における幽魂をして向上せしめなくてはならない。しからばその方法如何というに、それは霊体を浄める一事である。

本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂(うんこん)は重きをもって下降する。故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。 (幽体が何故上中下に分離するかという事であるが、それは左のごとき理由によるのである。即ち、幽体の重量によるのである。軽い程上層に、重い程下層に往くのである。

そうして軽いとは幽体が清浄であるからであり、重いとは溷濁(こんだく)しているからである。溷濁とは勿論 罪穢に因るのであるから、清浄な幽体たらんとするには、その罪穢を滅消しなければならない。 しからば罪穢とは何ぞや、言うまでもなく自己愛による不正、虚偽(きょぎ〜真実のように見せかけること)の手段を以て人を苦しめ世を毒するという悪の行為によって発生し堆積するのである。霊が浄化されると上ってくる。すると前の所は相応せず、良い所へ越す事となる。 霊が変ると、体が引ずられる。従って、良い所へ行っても、霊が伴わなければすぐ出てゆく事になる。黙っていても霊さえよければ、良い所へゆく。)


それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。すなわち霊的光力の講話を受ける事である。本来は時間を掛けてゆっくり講話しなければならないのであるが、なんせ現代の人々は時間の割り振りが出来ないので短縮して要点だけでもと、思い立ちあがった次第です。一回ではなかなか把握できないので何度でも聞かれた方が宜しいでしょう。 霊的光力の受教者 が異口同音に言う事は、精神的にはまず人生観が一変する。これは今日の人間は直に信じられまいが、このことは神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、 底の底まで知り得たのであるから、寸毫(すんごう〜ほんの少し)の誤りはないのである。(岡田茂吉大先生の談話である。小生も此の事は非の打ちどころがない事であることを知りえたのである)

智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得られる。前途に光明を認め、不安は解消する。楽観的になり、初めて真の安心感を得る。また物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなる。 不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。この様な事であるから早く率先してやられることをお薦め致します。 不幸現象を味わいたいのならば別ですが・・・。人生は短いですから骨折り損のくたびれ儲けにはならないように・・・。

●偶然、運命のきまぐれ、奇跡、偶発事故というものはこの世(人間のいう奇跡)には存在しません。 と書いたりしますと宗教的な感じがありますが、ですが尽きつめて考えて行きますと 如何してもその原理を知りえることにより、この言葉に成ります。 もし因果関係が何らかの理由でキャンセルできるとしたら、神の公平が根本から崩れてしまいます。

だから、すべては整然(せいぜん=きちんとして、 正しく整っているさま。)とした犯すべからざる連鎖の法則(無数の原因、条件が結び(無数の命が寄り集まってこの世に生を受けている。所謂父、母 其の上の父、母というように)付いている。それは『因=いん』 と 『縁=えん』 (例えば悪いこと良いことが異なれば全く別なものが生じてくるものである。)にしたがって働く『因果律』なのです。自然の摂理がこの全大宇宙を支配しており、どこで何が起きようとも、全てにその法則が働いているのです。

そこには人間的願望や意志の入る余地はありません。自分の考えや見解や願望によって『その法則』を都合のよいように変える事は出来ないということです。生命のあるところには霊が存在し、霊が存在するところには生命があります。

此の関係がある以上は変えることは出来ないということです。要するに、別の次元の法則が働くからこそ、そこに思いも寄らないことが生じるわけです。何らかの原因に対する結果を見ているにすぎません。 もう一言書かせてもらうならば、治癒力というものがありますが実はこれは人間が呼吸し、物を考えたり、見たり聞いたりの生活を可能にしていたのと同じ生命力なのです。

同じ力が形を変えて働きだして再び同じことを可能にさせているだけなのです。所謂(いわゆる)霊の力を患部に働かせればそこに失われていたものが回復させることが出来るという理屈になります。

●また病原なるものは、霊の曇でありますから、それを払拭するには、病人より清い魂の持主にして初めて目的を達し得らるるのであります。故に、病人と同一程度の曇のある人はいかに治療するも、その効果は、差引無い訳であります。しかしこの霊界知識を得る事で、近年にとっては瞬時とまではいかないがかなりの効果が得られるのであります。 (体験話であるが、交通事故で十年以来腰から足が痺れ(しびれ)た状態であるということで、霊的光力を腰からそして左足に注ぎ込んだのち歩かせてみたら痺れがなくったというので、今度は右足に霊的光力を注ぎ込んだ。此の時間なんと三十秒くらいだと思う。再び 歩かせてみたら痺れがないという。という訳である。)又、病人より曇の多い人が治療すれば、反って、曇を移増するから、病気は悪化するのが事実であります。(出来ますれば大古時代で遣られていた特級研修位の講義位は身につけておかれた方が宜しいかと思われます。少しだけ書きます。)

これによってみても、治療するものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けねばならぬと思うのであります。

★とても大事です。【大古時代で遣られていた特級研修(嵩い教え)少しだけ(聖者と言われている方は此れを習っております。=モーセ・キリスト・老子・孟子・孔子・釈尊などなどの方です); 大宇宙は、とてつもなく大きな一つの生き物です。天成る主の体の一部なのです。当然生き物ですから宇宙生命(宇宙神)と言ってもよいでしょう。この宇宙生命(宇宙神) は初めも無く終わりも無い、永遠の命なのです。過去の在る時に爆発して出来たものではなく、未来の在る時に消滅するものでもないのです。無限のそのものなのです。

ですから呼吸もします。それが我々の生きているこの宇宙であり、太陽であり、地球なのです。ですから生き物故に、大宇宙には心も体もあります。心は宇宙意識とか宇宙意志ともいいます。、 体は宇宙エネルギー体なのです。そしてこの宇宙エネルギーそのものが、心を持っているのです。つまり原子にも原子独自の心があるのです。ですから星も太陽も大宇宙の一つの 細胞であり、器官であり、それぞれが生きているのです。生きているゆえに太陽には太陽独自の心、地球には地球の独自の心、月には月の独自の心があるのです。

そしてそれらをコントロールする超次元的な巨大な意志であり愛と光とエネルギーの調和の大法則が『天なる道』つまり、天の法則(神の法則)なのです。生命の創造と進化の実現という目的 を持っています。私達が住んでいる地球が生き物であるということは、すべてにおいて、水や空気、全ては此の地球の一つの細胞であり、一つの器官なのです。そして此の地球に ある全てのものは、時と所を得て生まれたり、死んだりしながら他の細胞と協力し合い、全てにおいて調和し合って生きてゆき、同時に地球を生かしていきます。

これを『すず明の道・すずあかのみち』と言います。ですから、此の地球自身や、他の細胞をむやみに傷つけたりしてはいけないのです。例えば木の伐採により山の災害、農薬の散布により土壌の汚れ、地球外の開発、などなどがいえます。人間の体に例えればお分かりだろう! で全てにおいて 持ちつ持たれつの関係があるので上手くいくのに、それを人間の勝手な言い分で開発したり思いあがった考えでやるから良くないことが起こり始めるのです。


人間という生き物は、いったん肉体を携え地球の人間となった以上は、物質世界の制約と時代的制約を免(まぬが)れることはできなくなります。 がしかし少しでも霊性(霊的な進化意識の目覚め・自分自身の内側から変える事、この世は求めて飽くことのない欲望と執着こそが苦しみの原因でもあるからそれを制御すること。 即ち心を整える事、何事にも囚われない心、その心境に到達することこそ人間がたどるまことの進化なのである。)を磨く事に重点を置く事が大事なのです。 最後に天なる主(ス)の存在に目を開く事である。そして冥加涙(気がつかないうちに授かっている神仏の加護の御蔭で 出る涙)になる心になれば良いのではないでしょうか。

宇宙及び地球 全ては立体であり、渦であり、球(タマ)である。 宇宙及び生命を、縦軸(縦線)、横軸(横線)の時空に於いて把握する。 霊と体・善と悪・上と下・前と後・左と右・高と低・長と短・経と緯・表と裏・陽と陰・昼と夜・生と死・有と無・天と地・陸と海・山と川・男と女・雌と雄・等々切り離しては存在できない相即不離の関係である 。 しかしてその真相は、正反二方向の対称性、そのヒズミとのバランスの上に成り立っている。 またそれは、メグリ(回転、旋転)旋転しており、凝縮性と波動性、左回りと右回り、陰陽作用の正反性質を持っている。

更には、周期性、循環性を持っている。  この様に万物は、陰と陽の対向を通して生成発生する。そして、その作用には同種系と異種系があり反発親和性を持つ。また、その作用は、重合統合、互換性を持つ 然(しか)るに 宇宙の森羅万象がこのような弁証法的変態構造下で螺旋的に上向下向しながら生成流転しており、潜象界と現象界を輪廻し続けている。全ての物質や生命はこの経綸の中で存在している のである。

宇宙と生命、は相似象であり、いわば大宇宙と小宇宙の関係に在る。生命の発生過程は、宇宙の発生過程を刻印しているのである・・・。 】

この世でも、あの世でも上手く生きて行く秘訣はすべて、見ている現象は過ぎ去るものであるから、流れるように生きてゆけばいいのであって人間というものは、 何かにつけ其の物(好きな事には特に)に留まろうとするから、上層に上がれない結果となってしまうのである。 今見ている全ては陽炎(心の模様を描いてるにすぎないし、いつかは消えてゆくもの、例えばこの世に存在する全てのもの、形あるものとは大空にある雲のようなものであって 雲は刻々とその姿を変えている。そして消えて無くなってしまう。つまり無(む)=空(くう) とは 無いのではなく半物質でありまた物質として出てくるものである。

この世に存在する形あるもの全ては永遠不変などはあり得ない、いわゆる固定的ではなく流動的に動いている。自分だけで存在している訳ではなく、相互に依存して存在しているにすぎない。 又人間にはスガタ、形は見えないが 又 再び形を変えて出てくる(本質は変わらない)ものである。 だから留まるものにあまり心を動かされては往けない物である。かと言って開き直る必要もないのである。後は今ある現象を楽しむように生きてゆけば好いだけである。)と思って生きてゆけば好いのである。

■何べんも言いますが、病気の根本は霊体に発生し、しかして後肉体に表われるのであるから、薬剤は肉体的には多少の効果ありとするも、霊体に向っては全然無力であるから、肉体へ顕出した現象を、外部から停止さすに過ぎないのであります。 しかして、霊体の曇が移行した結果である患部は、汚物停滞であり、それが自然浄化によって、体外に排泄さるるその行程が病気であるから、病気そのものの苦痛が病気治癒になるのであります。 故に、薬剤やその他の方法によって、病気現象を停止せんとする事、それが取不直(とりもなおさず)、自然治癒の妨害をする事になるのであると思う。

故に人間の血液は、絶対清浄を保つべきもので、血液清浄なれば決して病に侵されないのである。即ち、霊体の曇が血液の汚濁となり、その浄化作用があらゆる病気であるから、いかに霊体は清浄でなくてはならないかと言う事が判るのである。此れほど明快な答えはないだろうと思う。

そして病気(病気というものは、大半は主として精神と肉体と魂との間が連絡正しく行われていないことも起因しています。つまり完全な一体関係が保たれていれば、健康と安定性と落ち着き機敏性をそなえています。要するにどうしても避けられない要素の一つに、患者自身のカルマ(宿業・因緑)の問題があります。 当人の霊的成長の度合いによっても決ってきます。要するに精神と身体の関係です。)・不幸現象・金銭関わる問題等を解決策を授けることも念頭に置いて書かせて頂いています。長い間時を得て数々の書物やら大先生方の霊体験・自分自身の霊体験等などにより導き出したものでそんなに間違いはないと思うのであります。(参考になればという事で書かせて頂きました) 世界中の人がこの真理を知ったら、もはや豪気・強欲を出すものはいないだろう。心(魂)でこの真理を理解しさえしたら、恐いことも危ないことも経験する必要はなくなる。人間心(上面)だけで考えるからわからないのであります。

霊主体従の法則によって、ここならここの病気が治るということは、この細胞というものがまた無限なので、どのくらい細かいか分かりません。 ですから医学の方では、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽(こっけい)なのです。細胞一つを作っている細胞がまた何万、何千万あるか分からないくらいで、そのまた一つがそれと同じようにどのくらいあるか分かりません。 ですからすべて一切は無限なのです。その無限であるために分からないので、その分からないところに本当はおもしろさがあるのです。よく地球の年齢ということを学者が研究してますが、これは無限ということを知らないからです。 地球の寿命というものがまた無限なのです。

ですから人間でも、いくども生まれ変わり死に変わり行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分かりません。霊の方は永久なのですから、早死にを恐れることはありません。 ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。そういうふうに考えると、まったく医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大づかみには説いてあります。

「一切無だ」と言いますが、一切無だということは無限という意味を表わしたわけです。なぜと言えば、「有る」ということは言えないわけです。 つまり「有る」ということは唯物的の観念です。「無」というと唯物的ではないということを表わしているわけです。その意味が分かればよいわけです。ここ(掌)から出る霊光も粒子なのです。

粒子ということは無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇りがつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にもすぐ写るのです。 つまり霊主体従で、そのままに物質の方も従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのがあたりまえなのです。

人間は薬剤から全く離れた時、日の経るに従い年々健康を増進するのである。何しろ薬から離れることこそ健康の源となる。病気にかかるのは生前に薬を入れたか、前世のの曇りからなる病気か添加物を体内に入れたか、父母からなる濁毒を受け継いだかである。 どうだろうか、身に覚えが無いだろうか。

霊的な根元を見出せばというか学べば、人としての摂理、病気や健康の原理が判り、病気の概念が変わって対策も変わり、基本的に病気が大幅に減少して、健康者、幸福者が激増すると思います。そしてその上で、必要があれば、現代の医療技術を活用すれば良いのではないでしょうか。

【人間の肉体は元々、毒を食すれば早急に下痢をさせて排出するものであり、悪い微菌が飛込めば、熱という大殺菌作用が行われ、又 物に中毒かすれば、内臓へ入れないまいと外部 へと押出して、皮膚に赤く斑点を現わし、痒みと熱を以って消失せしめ、又中毒によっては、肝臓の大活動となり、水分で洗い、小便に依(よ)って排出せしめ、塵埃(じんあい=ちりとほこり)を多量に吸えば、 痰(たん)にして吐き出す等、実に巧妙を極めた構造になっている。】ロバートメンデルソン博士(診療・研究・教育の三分野で業績をあげ、「民衆のための医師」として大勢の人びとに敬愛された 故)は「医学の九割は不必要だ」と言っている。

人間はどんなに苦しくとも、病状が重いようでも食事さえ摂れれば先ず死ぬ事はないのであって、人間は病気の苦痛で死ぬのでなく、衰弱で死ぬのである。 服薬注射は食欲を急激に減退させるものである。特に長期療養者の食欲減退は致命的であって次第に衰退の一途を辿って斃(たお)れるのである。 即ち薬毒衰弱死というのが本当なのである。

★此れらをを読んでいくうちにこの様な事は知らなくても普通に生きていられる人達が一杯いるではないか、と 思うかもしれませんがしかしなぜそんなに災難に遭わないで生きていけるのか  と申しますと生前(たいした善いことも悪いこともしない人も含まれる)に徳を積んだからなのです。

現界的にいえば貯金をしていたからなのです。当然貯金が有る内はいいのですが、無くなるとどうなりますか? 勿論ちょっとのことでも災難を受けるようになるのです。ここぞという時に貯金(天の蔵)がないからです。そういうことで人それぞれ貯金の度合いが違うのです。 親と子でもそうですが人間というものはそういう風に創られているのです。

というか 宇宙の法則とでもいいましょうか、神の法則とでもいいましょうか、如何とらえてもいいのですが、この様に世の中とは成立っているのです。要するに貯金があれば楽にこの世の中を過ごすことが出来るのです。苦労せず全てほしい物は与えられるようになって来るのです。考えられないでしょうが事実ですので仕方ありません。

で答えは 『生命ある限り玄徳を積なさい』(はかり知れない徳=明日の自分の為に!そして未来の自分の為に!・・・!。)という事が言えるでしょう。

そしてこの様な事も言えるのかもしれません。その人の智慧(ちえ=物事の道理を判断し処理していく心の働き)証覚(しょうかく)です。 まず智慧証覚を磨くという事が一番肝腎です。 自分の生き方早く発見(見つめ直す)し、早く知るという事が智慧証覚です。心の鏡に写る訳です。

ですから鏡が曇ると写りが悪いから良く見えないし良いのか悪いのか判断がし難いから上手くいかないし、誤った情報やらで終始人生が終わってしまうのです。 始終鏡を磨いているとよく写るから、何が真なのか良く見えるし、振り回されない自分に成るし、良いことも悪いことも早く発見するという事になる訳です。・・・覚りという事は智慧です。

ですからいろいろな事が気が付き発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というのは心の曇が少ない訳です。そこでその曇りを少なく、心の鏡が綺麗に澄んでいるという為には、神書(個々に書かれている事をお勧めいたします)を沢山読むという事が一番よい訳です。 何べんも書いてありますが人間は金持ち(他者を蹴落としてでも「成功者(=お金持ち)こそが正義」という価値観です。)になる事が目的ではないのです。魂を上げるために人間は存在しているのです。

その上でこの限界(げんかい=限りのある世界=現界)を楽しむという摂理が用意されているだけなのです。魂を上げるという事を念頭にお読みいただきたいと思うのです。また魂(人間を成長させて行くものである)は二つにわかれている。 一つの魂は精神を支える気(脳に宿る=日・火の霊性・魂は陽に属して天に帰する)、二つめは魄(はく=人間の外観、骨組み、また、生まれながらに持っている身体の設計図=脊髄に宿る=月・水の霊性である。魄は陰に属して地に帰する)なるもの。この魄(はく)は肉体を支える気を指すもの。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。 これで人間の活動が行われる。死すると魂は霊幽界へ魄は肉体とともに土へ帰るとされるが・・・。お役目返上・・・。


ちなみに神道の言葉で魂を分けると右の四つになる。和魂(にぎみたま)は人と親和する魂、幸魂(さきみたま)は人に幸福を与える魂である。荒魂(あらみたま)は勇気である。奇魂は智意を司る魂である。 なお、荒和魂は厳(いづ)の魂といい、幸奇魂(くしみたま)は瑞(みず)の魂といい、この厳瑞の魂が調和されてイヅノメすなわち真の大和魂となる。

天地が始まった時、神 七神(とはいっても一神の分け御霊ですが・・・。ゝ(チョン)ホチ) は先ず『幽界なる次元』を治め後に日、月、地球を顕界(現界)を生み、天地を創造したといわれる。ここに公開致します。 ゝ(チョン)ホチ 所謂太陽の芯ですが太陽が出来あがる前のこと。所謂リンゴの種みたいなものでリンゴが出来あがる前の状態。全てゝ(チョン)から始まり 其の「イリキ」で全てが出来あがって行く。

天神時代(神代=神霊界)第四期のはじまり

★【往古時代(おうこ=過ぎ去った昔・大昔)、この地の世界において、造化気運の変遷(へんせん=時の流れとともに移り変わること)に伴う幽政上の画期的一大変革が行われました。 それは、天孫降臨(てんそんこうりん)に先立って行われた幽顕(ゆうけん=生の両面のことであって、生の実践外面を顕といいその本源内面を幽というのである=あらわれたり,見えなくなったりすること。)分界(幽界と顕界を完全に分離すること)です。

【この世界だけがすべてではない】【幽顕分界という歴史的事実=日本の古伝によると、世のはじめ、いわゆる「神代」といわれる時代は、現在のように顕界(けんかい=あらわよ=現界)と幽界(ゆうかい・かくりよ)とが判然と分かれていなかったために、 神と呼ばれる存在と人(ひと=日・火 十=横は水・縦は火=合わせて火水=かみ 人とは火の神となる。ちなみに人間とは人になる間となります)とが雑居する時代でした。】神代の惟神(かんながら)の時代には神と人は常に一体化してます・・・。

日本では、天孫降臨以後の御三代(邇邇芸命(ににぎのみこと)、日子穂穂出見命(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと))の約2500年を経る間、 なお幽顕相通の事実があり、神人雑居のままに推移しましたが、人皇(じんこう=神代の神々に対して、神武天皇以後の天皇をいう)第一代神武天皇の御世に及んで、造化気運の向かうところ遂に神人(しんじん)分居の隔世期(かくせいき)が到来し、それ以来、 人の寿命も短縮して今日のような人間の世と一変したことが伝えられています。

幽顕分界とは、地球上の神政を顕幽の両政に分かち、顕事(あらわごと)に属する諸事を天照大御神の神孫(しんそん=神の子孫)邇邇芸命(ににぎのみこと)に分任し、幽事(かくりごと)に属する諸事を須佐之男命の神孫大国主神に分任して、 顕幽両界に関する分治の原則が定められたことです。【三貴子(さんきし)の誕生= 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つきよみのみこと)、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)】

これを神の側からいえば、人界(人間界・現界)という一つの独立した界を立ててこれを顕界(けんかい=現界=現われた界=本来であれば人間界を仕切るのが天皇(スメラミコト)のお役であられる)とし、神や顕界(けんかい=げんかい=現界)を去った霊の世界を幽界として、明らかに神人分離の制を敷いたということになりますが、 このことによって造化の気運もまた変化し、地球上における玄妙霊異(げんみょうりょうい)の気線も極めて低下したものと考えられます。

神武天皇の時代になって、幽界の一界として山人界(さんじんかい=神界より下の位置する霊界の一種=神と人間界との中に立ちて神の御事をおこなう)が創設され、地上霊異の人物の多く(いわゆる縄文人)がこの界へ編入された伝えられていますが、これも幽顕分界の一余波と見るべきでしょう。

何のために幽顕分界が行われたかは、造化大元霊・元無極躰主王(もとふみくらいぬしのおお)大御神(はじめに霊が指示を出し、気の勢いをもって質に影響を与える」という法則)の深き神量(かむはかり)によるものであり、 人智で測り知り得るところではなく、ただ太古の地球上にこのような大変革があったということを古伝承(こでんしょう=古くからある慣習や風俗、信仰、伝説、技術や知識などを受け継いで後世に伝えていくこと、

もしくは、そのように伝えられた事柄や物を指す。)によって知識し得るに止まりますが、太陽神界(高天原)の天津神(あまつかみ)である邇邇芸命(ににぎのみこと)を地球に降して地界の顕事を治(し)ろしめすこととし、 地界(ちかい=地上の世界)の国津神(くにつかみ)である大国主神(おおくにぬしのかみ)を昇遷(しょうせん)して幽中の神政を治(し)ろしめすこととした天地交流・陰陽交差の玄理を拝する時、青人草(人類) に対して何ごとかを期待される深遠なるご神意を感じます。


地上に生を享(う)けて生きとし生けるものは、寿(こと)を終えた後、必ず霊魂は幽中(幽体というものは顕界よりは見えませんが、幽中で霊魂に備わる幽身体で、その体は霊魂と同じように顕質を通貫することも自在ですので、 顕質によってこの幽体を損なうことはなく、幽質によって顕体を損なうこともありません。身後、未(いま)だ高尚(こうしょう=けだかくてりっぱなこと)な神霊界に帰することができず、幽冥(ゆうめい=死後の世界)にあって霊魂向上の修練中である人魂(ひとたま)が、たまたま顕界(けんかい=げんかい=現界)に現れるのを幽霊といいますが、

これは刀でも斬れず、鉄砲で撃っても当たらないのであります)に入りますが、既に太古より数十万年を経過し、その数を累計すればどれほどの数とも知れず、 天文学的な数に及ぶ帰幽霊の出自進退集散(しゅつじしんたいしゅうさん)に関する幽中の神政こそは、幽事(ゆうじ=神の世界)中でも最大の幽事に属するものであることは間違いないでしょう。

【「死」と呼ばれる現象=日本古学によれば、人は死亡と同時に天国へ昇ったり地獄へ直行したりするものではありません。また、よほどの悪行をはたらいて悪因縁をつくった者とか、恨みや憎しみの念で凝(こ)り固まった者、 あるいは自殺をはかった者でなければ、死の直前の苦痛というものはほとんど感じないのが普通です。

ただ、生前に霊魂の存在とか死後のことなどにまったく無関心だった人は、自分が死んだことが分からず幽界にてさ迷うようになるという・・・。 】この幽事を主宰する神は、よほど大徳霊威でなければ、このような大任を務めることが困難であろうことは想像に難くありませんが、 この大任に抜擢され、八百万神を統率して幽政を主宰する大神(おほかみ)こそ大国主神(国造主大神様・伊都能売大国魂大国主=大国魂とは、世界各国の国魂(くにたま)を統(す)べる、つまり統率するという意味=宗教によって呼び名が違ってきます)です。 その大徳は天性の神性もさることながら、数度にわたる生死の関門をさえ潜(くぐ)り、耐え難く忍び難い経験を経ながらも、温厚誠実な信念(神念)を貫き通した至誠貫徹(真心・誠意を貫き通すの意味)の成果によるものと拝察されます。】

■目で見える現象面を追うだけでは分からない場合も多く、この世には存在している事も否定出来ません。また現代日本社会においてもこの点(霊的なこと)の解釈と問題点の指摘ができる人は極めて少数であり、しかも、指摘される側も身体に染みついた癖を直していくようなものですから、性根をすえた真面目な取組みが要求される難解な問題と言えます。 いずれにしても、霊主心従体属(霊⇒心⇒体=物質よりも神を中心とした霊性を重んじる価値観のことです)の問題を乗り越えずして、幸福という目的地には到達できないのが厳然たる事実ですから、心して立ち向かいたいと思います。

小生は思うに、神様とは信じる如何かというより次元を超え、歴然とて存在しておられる お方である と同時に信仰という語の『信』は存在を信じるのでは無くて信頼することであり、さらに突っ込んで神様に信じてもらえる人になることなのではないだろうか。

これから先は、毎日“日月(火水=神秘・秘密(火水)・神)”が人間を見極めをして、後継者づくりの段取りをすのだという。此の関係は親が子を見極めて後継者づくりの段取りをするのと同じである。   でこの終末の御用をしてくれる人間は、女性であろうと男性であろうと関係ないのだという。

どのような人間でも“日月(火水=神)”の判断で引き寄せて御用((憑代(よりしろ)→神霊が人間に依り憑く(よりつく))守護・指導霊に対して指導していく事のようです。その為に内在されている心を開かなくてはならないのだとも言っておられるようです。)をさせるのだという。 現界などの 考えられない奇怪なことなどなども、当然奇跡なども起こせ得るものである。すべては神が請け負ってやることだから、どんなことがあっても心配する必要はないのである。神の目にはこれから先に起こることはすべて見えているのだという。

将来に備えて財産をつくるのはしばらく待っていなさいと忠告をしている。(どうしもというのであれば高台にせよという。豪雨により川の氾濫。地震により津波の害。 というわけなのだ!だからそんなことをしても、これからの大峠の天変地異によって泥水の中に落としてしまうことになるからだと教えている。) 人間界では考えられまいが、今までに一度もなかったことを始めるというのも、世の元を創造した神であるからできるのであるという。

終末期の霊的ステップはより清い魂が昇格するようであり、また逆に、余りに汚れてしまった魂(無信仰な魂)は、何度生まれ変わったとしても神の判断下(己の罪穢れを清算する現象でしかありません)で消されてしまうという。 学校にたとえるならば、さしずめ退学と言えましょうか。不合格と烙印を押された魂の中でも、汚れの程度が軽い魂については、これまでは再再度のチャレンジを許されて来たようですが、 この度の試験は最終的だともされており、どうなるかは定かではありませんが、今読んでる間でもどんどん消されていってる(どんな現象であろうと)人間が沢山いる。ニュースを見ればお分かりだろう。

●しっかりと見ないから、何も見えない。それは形のないものと呼ばれる。しっかりと聞かないから、何も聞こえない。それは音がないものと呼ばれる。 しっかりとつかまないから、何もつかめない。それは実体のないものと呼ばれる。 これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。

それはまた無にもどって行く。それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。それはつかまえにくいものである。近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。 遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。これが「道」の本質である。

神の忠告;【もう時期がきたので神霊界(霊界=四次元世界=最上界の事だと思われる)と現界を結ぶ往還の道を創る(憑代(よりしろ)→神霊が人間に依り憑く(よりつく))ということでしょう。 これまでは殆んどキツネやタヌキくらいの物が憑いて面白おかしくやっていたが此の度の経綸上では始まって以来のことであるという。

確かに世界でも数名位はいたにはいましたが・・・モーセ・キリスト・釈尊・・・。此の度は違うのだという)。この道づくりを世間並みのことと思ってはいけない。これこそ万古末代の決まり(法則)となるものである。この往還の道をつくる対象となる人間が どこにいようと限定しているわけではない。

神霊界とつながると身の身辺に病気や不幸な出来事が起こってくるだろう。このような不幸な出来事が起こるのは、神の忠告(道に落ちていく姿が見えているから)であり、立腹(りっぷく=はらをたてること。怒ること)によるものであるから、それぞれによく考えてみるがよい。   この話をどんな気持ちで聞いているか。これは人間が可愛いあまりに説いて聞かせているのだ。

どんなに忠告し、立腹していると言っても、決して人間を助けないと言っているのではない。【神は無神論者を救う手段として採(と)られたのが、神の実在を認識させる事であって、其方法こそ霊的光力である。】 人間が我が子に忠告をするときのことを考えてみよ。「痛い思いをしないと本当のところは分からないのか」とか、「人は苦しみの中に学び、悩みによって成長ができるのだ」といった類の、親が子によく使うではないか。 腹を立てるのも我が子が可愛いからであろう。そのことをよく考えて、心を決めて しっかりとついてきなさい。
そして人間は本来の心の持つ本当の働きが理解できないから大掃除をするというのである。そしてその意味とは もっと「心」や「魂」といった目に見えない世界を大切にして生きなければならないと気づく人が増えはしてはきたが、 がしかし、それでも、まだまだそういう人たちは少数派であるという。 また現代人のほとんどは、生きているこの現実世界のみが唯一人間の住む場所であると断定している。神や霊界など目に見えない世界、死後の世界は否定し神を求める者、信じる者を変人と扱う風潮が常識的となり、神や先祖に対する意識も薄れてしまった。 もっと多くの人間が、物質ばかりでなく、心や魂の大切さに目覚めなければいけない。

そうしないと、人類は滅びの道を突き進んでいくことになるのだという。人間はどんどんと物欲的になってゆき、ひたすら自分のものを増やすだけのため、実にたくさんのものを発明して、 いつしかもう昔のように(縄文思想)いろんなものをみんなで分け合ったりしなくなっている。また人に対しのいたわりのこころが大切なのであるが、現代人は何か大切なものを失ったようであると・・・。 このいたわりの心が無くなり、やがてこのことは大きな分裂を生むこととなったという。

これからは“日月(火水=神)”としては、人間(神の子)はみな同じ魂で、その体は神からの借り物であるということを、世界中の人間にしっかりわからせたいと思っている。これさえちゃんとわかってくれたら、もうお互いが傷つけ合うことになる根本原因はなくなってしまうはずだ。  と神の御言葉である。此の事はどの様に捉えてもよいが心ある人ならお分りであろう・・・。】

★しかし霊界があるのが解かり出すと というか認識するというか、どちらでもいいが どうだろうか、これでも今の現界(この世)に金や物や富に現界(限りがある)を感じずに欲望が膨らむだろうか。要するに霊界ありとすれば この世は四分で霊界を六分として 生きられれば最高の幸せなのではなかろうか。

さてさまざまな魂のレベルの人々が雑居しているのは この世、三次元世界だけなのではあるが、だからこそ、この世は大いなる魂の修業の場なのであり、人が死んだらその魂の レベルに相応(ふさわ)しい世界へずっと引き寄せられる。これは磁石の原理みたいで嫌おなしで引き合うのである。ちなみに地獄とやらは、悪人が罰せられるために落ちるところ ではなく、そういう地獄に行くのに相応(ふさわ)しい魂が自ら選んでというか好んで行くのである。なぜならこの世の現実世界を見ても分かるのものである。

例えば夜を好む人間、人を騙す人間(振込詐欺)、麻薬を好む人間、人の事を考えない人間(其の人が如何なるのか考えない・家族・友人・知人等)、この様に取り出したら数えきれない物である。いわゆるゴキブリやコウモリが暗いじめじめした所が 好きなように、明るい日向に出すと大急ぎで逃げ出して元の暗い所に帰って行くようなものである。ここで言えることは姿や形を言うのではなく、いわゆる内なる心より深い魂の事を言っているのである。また地獄に落ちた霊魂達の姿は、霊の本性に応じて幽霊体が変形していきます。

彼らの魂は憎悪、軽蔑、復讐の念と争いに満ちているのでその姿は魂に応じて怪奇な姿に変わって行くのです。この様に地獄という所は争いが絶えない、苦しみと汚れに満ちた所といえます。あるのは恐ろしく醜い、我欲の対立だけの世界なのです。 この様なところに落ちると思わないで遣っているのが今の世界です。もしこれが現実に明らかになればだれもやろうはずがない物である。しかし古文献にはその様な事が書かれているのである。

さてこの様に、この世でも、魂のレベルの違う人が同時に存在し得ても交際範囲という点では、やはり同じ魂のレベルの人同士が付き合っている傾向がある。

家族も同様である。 其の家族と合わない人間は家に寄り付かないし、家から出て行ってしまうのである。どうだろうか身に覚えはないだろうか。やはり一定のレベルの魂同士でないと住み心地が悪いし長時間 側には居たくないものである。

しかし、この世では魂は人の努力次第で魂のレベルを上げる事も可能で、死んだら生まれてくる前にいた世界よりも、上の世界に帰る事も出来るのである。しかしこの反対も言えることでもある。 誰しも、今の生活よりも上に行きたいであろうし、今の自分より下へ落ちてもよいという人がいるだろうか・・・。なので人生とは修業の場というのは此の事を云うのである。

因果応報というものがあるが、これは今までの人達が考えているような業報すなわち行為を要因としてこれこれの悪事をしたから、したがってこれこれの報いを受けなければならない  ということばかりではない。

本来その霊魂に浸み込んでいる痕(残渣ともいうべき霊的汚素が、現世に生を営みつつあるその子孫に向かって、絶えず流れ来つつあるのである。) や癖が唯一の要因となって、肉体にあるだけの外的世界を受け入れるまでのことである。たとえば霊魂に痕跡を深く刻みつけている人は、みずから努力してその痕を治癒させてしまうまでは何年いや何百年たっても、何度生まれ変わりしてもやはり付きまとうだけである。所謂薬毒みたいなものです。

■霊の本性;あくまでも生まれ変わる事を想定しますが、現在殺人事件を起こした人間が死を迎えたとします。また同じく生きてた人間社会も死を迎えます。さて死んだ人間が、又生まれ変わったとします。 此の時にあいつが人を殺したなどと思う人間がいますか。分からないでしょう。僕はあいつにいじめられて死んだ人間だなどど、生まれ変わったら分かりますか。

分からないでしょう。これが魂というものです。見えないんです。人間の悪さと、ずるさなんかは肉体では隠せますが魂は隠せようがないんです。また生まれ変わらないにしても霊魂とした場合にも同じです。見えないですから如何様にも出来ます。例えば霊界を抜け出して この現世に仇を討つためにしっかりと相手が生まれ変わるまで待つことも出来るのです。ですがこれをやると霊界の掟を破るわけですが、そんなことはそっちのけで仇を討つだけに待っているのです。そしてその人にとり憑いて仇をとるのです。

だからやられたら(殺されたら)やり返すというふうに続いて行くわけです。人から受ける怨念の恐ろしさがどれ程恐ろしいものか、之でお解りかと思う。これが霊とか憑依霊とかで言われることなんです。でこれが霊障の本体なのです。

★呪怨(じゅおん);強い恨みを抱いて死んだモノの呪い。それは、死んだモノが生前に強く接していた場所(強い念が有るところ)に蓄積され、「業」となる。その呪いに触れたもの憑かれたものは必ず 命を奪(うば)われ、新たな呪いが生まれる。

■【一休み】;護霊(ごれい)……あらゆるものから何かを守護する霊能力。最も宿す者が少ない。

授霊(じゅれい)……万物の霊長をはじめ、限りある“生”に延命を与える。護霊に続き宿す者が少ない。

鎮霊(ちんれい)……封印と浄化を司る。邪悪な力を鎮める、清める霊能力。

承霊(しょうれい)……あらゆる力を吸収し、自身の体内に取り込む又は捨てる霊能力。身体的負担が大きい。

蘇霊(それい)……「人間」以外の生命の蘇生、一切のものを治癒する。破霊の次に宿す者が多い。

破霊(はれい)……妖魔を滅する力。一族のほとんどの者が宿している。

鎮霊(ちんれい))……共振による呼応(こおう)が結合を招いて物質が生まれること。結合のエネルギー。

★人は欲心に溺れることなく、転生の道である往来も覚り、男女を結び和して人としての教えを導き、心を養うことである。(ただ単に色欲に溺れては身を枯らすものである。)再び転生し、この世に帰って来るときに、素直なものは良き人として生まれ、邪欲に凝り固まった者は、獣などに生まれ変わってしまい、 正しく転生することができぬものである。これは霊界の実在を認識しつつ、輪廻転生と人の心のあり方を示しているものである。

●さてさて本文に入る前にだいぶ長くなりましたが最後に二つ三つ書かせて頂きます、人間は心にゆとりが生まれ、他人を愛し、人の過ちを許す心が芽生えましたか。山河を慈しみ、花鳥風月を愛で、天地、四季の恵みに感謝できましたか。自分の利己欲で人を悲しませるようなことはありませんでしたか。 しかし、残念ながら十分に快適となったはずなのに、さらなる物質欲やより以上の利便性、快適性を得るため、次世代への影響や他人の痛みも考慮せず、目先の欲に走り、金銭が儲かると分かればそれ以外の価値を無視して、地形や地勢を変え、森を破壊し、川や沼や干潟を潰し、海岸線をも変えました。

多くの生き物たちは絶滅の道をたどっているにもかかわらず、生態系や環境の破壊、汚染など気に掛けさえしない。節度をわきまえない。

西欧型科学文明は経済至上主義と結びつき、地球上では自分たちの際限ない欲望を満たすために、他人の尊厳を無視し他民族を崩壊させ、時には資源を奪い合って部族同士で殺し合いが起きるまでに進展しています。 資源を取り尽くせば放棄して荒れ果てた大地が残る。そしてそれらで作られた文明の道具も使えなくなれば配慮なく捨てる。廃棄物とゴミの山。

まさに幼児の行為に等しく、愚かにもすべての調和を崩し、利己的な利益追求主義に陥っているのではありませんか。これでは『神』の大天変地異が云々というよりも、誰が考えても可笑しな状態ではありませんか・・・。これを阻止する人は誰でしょうか?。 人間が出来ないのであれば、・・・するほかないではありませんか?。『上』=『神』=『親』以外には いないのではありませんか?。 跡かたずけも出来ないだらしない子供(大人)の為に!愛の為に!。地球の為に!

★「神霊の解剖」; 神様を解剖するなどというと、今までの人は恐ろしくて罰が当たってはたいへんだと、そういうものに触れる人はいないのです。けれどもそこまで分からなければ神向きの真髄は本当に分かるわけがありません。神様というと、ただ漠然としてありがたいような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れることはならないように思われてきたのです。 というのは、今まで神様を本当に分かっていた人はなかったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分かっていなかったらしいのです。 神様が分からないと、病気、人間の生命力ということが分からないわけです。なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分からなければ生命に関したことも分からないわけです。 ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面(うわつら)の所だけしか説くことができなかったのです。ですから見真実といっても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分からなかったというよりか、分からせなかったのです。分からせてはいけなかったのです。 ところが今度は分からせなければいけなくなったわけです。

●光の根元的な話をすればというか、宗教的に言えば「造物主」とか「神様」とかいう事になっておりますが、それは余りに古い事で、想像の範囲を超えております。故に、そうであるとしても、一人残らずそれを信ぜしめる事は到底不可能でありましょう。 しかるに、何人といえども絶対に否定し得ない大事実がある。それは誰しも「自分は親から生れた」という一事であります。自分は親に造られたという事、言い換えれば自分の造主は親であるという事であります。

ツマリ「人間の造主は人間である」という事、これこそ一点疑う余地のない厳然たる事実である事であります。人間には、人間を造り出すという・・・不可思議な力があるとすれば・・・その人間の肉体の破損ともいうべき病気を治す力(霊的光力)があるのは、当然であります。 人間なるものが機械力で作られた「ロボット」のようなものである・・・とすれば、それが破損は勿論機械力で治るのは、これまた当然な訳であります。

この事をはっきり認識出来得るにおいて初めて「人間の病気を、真に治すのは「人間(人間から出る光 以外にない!薬ではない!)」でなくてはならない」事が判るはずであります。」

●火の霊と水の霊と物質との・・・三位一体が完全に調和活動して、真の健康と長寿を得らるゝのであります。この三つの中、火が第一番で水を流動させ、水が二番目で火を燃やして互に表裏一 体の活動をして土を力動させているのである。火は水を動かし、土を支配するものであれば、根本は火である太陽活動に存するのである。

●数年前なら考えられもしなかったことだが、現代医学教に対する信仰を捨てればよいのである。 最近ではたくさんの人が現代医学教から脱け出している。 逃げるに限る・・・?現代医学に代わる治療法はあるのです。この日本にも沢山出てきています。

そして中には偽物もあるのです。すると、医学教側ではすぐこう言います。「医学に頼らないとひどい目に遭う。そんな事で治るなら医者も薬も要らない」と。 しかし偽物の中にちゃんと本物が隠れているのです。すべて偽物ばかりでないのです。偽物だから他に本物を求める。しかし、またも偽物に出会う。そしてまた偽物に帰る。これじゃ、何にもならない。

本物を見る目を養うこと。これはもう自己責任です。

医者に対して、薬を使わずに自分や自分の子供を治療してほしいとはっきり意思表示をすることだと思うのである。如何だろうか。そんな医者がいたら儲からないしやめてしまうだろう。 さて薬を使わず手術もしないで出来るのであれば人は奇跡と呼ぶだろう・・・。だが誰でもこれが出来る時代になったというと信じられないだろう。 下記の歴史改竄(かいざん=文書などの 字句を直すこと。)の所で神主 武雄心親王(たけおごころしんのう)が教えた術が書いております。

信じろとは小生は云わないがしかし体験をすれば誰でも分かりやすいことは事実である。小生もその一人である。それからというもの数々の考えられないようなことを体験を通して、もう一つの世界(摩訶不思議な世界=奥の世界)を知り得たのである。 所謂 霊性に目覚めた人類というか人間は神霊科学と唯物科学の霊体一致の完全科学を創成して無限の進展と幸福を築き続けてゆくことになるのであると確信するのである。


★すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。 ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。

根っこの所で罪穢を積んで成功しても後で必ずその子孫に禍が起こってくるものである。

根底に罪穢を積むとその後いくら普通にやって成功しても何もならないのである。
又間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったり、足を怪我したり、動かなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだり、祖霊の誤った祀り込みをしたり、その罪に因るものである。 後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省(かえり)みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。詳しくは言霊37-2を参照。

※ ●ひげを生やしてもよいか〜髭(ひげ)は男には威厳(いげん)が必要だから神様がくださったのです。生やしたって差し支えありません。頭の毛は伸ばしたほうがいいですね。頭を短くするのは坊主の型でもあり、また外国では懲役人だし、軍国主義的にも見えますからね。国際的になってきた今日、 やはり伸ばしたほうがいいですね。髭を生やしたからって言ってよくよく髭は慢心に繋がるというがあまり関係はない。 (霊的に考えればわかる事・髭を生やさなくても慢心する人間は沢山いる。全てその人の心がけである。)一宗教ではやかましく言っておられるがよくよく考えてみたらわかるもの・・・。まだ霊性を見えてない証である・・・。

★これは一個人の意見としてではなく、日本人としては、天照主日大神様を尊信し、伊都能売神又は、観世音菩薩に対し奉り、御守護と御霊徳を願い奉る事が、最も間違いない神向である事を、心得ねばならないのである。これが解らないために色々と遣ってきても御神力を得られなかったわけである。

★顕界(現界)をよく観察してみると、多くの異次元世界で存在している構造になっていることがわかります。まずこの地球上は、気界(人間が生活をしている地上世界)や水界(水の中の世界)、地界(土の中の世界)などに分かれています。 気界にはさらに、わたしたちが住む界や動物が住む界、鳥たちが生活をする界などがあり、それぞれ異なった社会を築いています。

水界も、海中界や川中界、湖中界などに分かれており、さらに深度などの違いにより数多くの世界に分類され、そこで数多くの生命体が暮らしています。 地中の世界もまた、層の違いや大陸の違いによって、多くの界に分かれており、生命体が存在している界もたくさんあります。

また、鰻(うなぎ)や鮭のように海中界と川中界を往来するものもあれば、セミのように変体によって地界から気界に移住するものもあり、植物のように気界と地界、水界と地界にまたがって生息する生命体も存在しています。 人間の社会を見ても、ビジネス界や政治界、学界など、さまざまな世界(○○界)に分かれています。

さらにビジネス界についても、製造業界や飲食業界、マスメディア業界など多種に分かれており、製造業界もまた自動車製造業界、精密機器製造業界、食品製造業界などに細かく分類され、多くの人がそこに属してします。 そして当然そこには人の往来があり、それぞれの界がお互いに影響し合っています。

またインターネット界など、技術の革新によって新たな界が構築されるような変化が起こっていることもわかります。このように、宇宙間にはわたしたちが五感で認識できる顕界以外に、数多くの次元が異なる幽界が存在しているとしても不思議なことではありません。 もしも水界に住む魚たちに思考能力があるものとして、その魚に向かって、「きみたちは水界に住んでいるから水中が習慣となって、水界の常識や自分の肉体のことを基準にして考えるため、水界の他に人間が住む気界というものがあり、 そこでは八百万(やおよろず)の人々が自由自在に遊び暮らしているなどということは知らないだろう」といっても、その魚は、「この水界の他に気界などあるはずがない。

第一、水がなければ息をすることすらできないので、生活するなんてことは不可能だ」と答えるでしょう。またこの魚に対して人間が作り出した製作物を示しても、その造化の方法を知らないために、怪しむだけで信じようとはしないでしょう。 人間界の一般常識(とされていること)や、自分の肉体を基準にして幽界のことを考えると、疑念が生じるのはもっともなことです。しかし、その一般常識と呼ばれるものをくつがえしながら人類の文明が進歩してきたことも事実でしょう。

★今話題のSTAP細胞〜今のSTAP細胞は再生医学であまり薬を使わなくても自分の細胞で臓器が再生できる可能性があります。もちろん、霊的光力で血液が増えたり、臓器が元に戻ったりするのはその次の段階かもしれませんし、いずれ霊に原因が あることが分かればそうなるでしょう! そうすると薬が全くいらなくなるので、邪神(ユダヤ金融資本)としては都合が悪く、人類を薬で支配できなくなります。 もちろん、今は薬でも、紙幣制度での、教育、農業でも全てユダヤ金融資本の都合の良いようになっています。残念でありますが・・・。

●お経というものについて書いてみたいと思います。

私達は永い歴史の中で、お経というものは、お坊さん達や私達がお寺でお仏壇の前であげるものだ、先祖供養のためにあげるものだ、お経をあげるのが信仰が深いのだ、というように多くの人は考えてきました。

他力本願の信仰からいえば、その方がよろしいようにも思われます。 お経というものは、今から二千五百年前、ゴーダマ・シッタルダーが四十五年間、もろもろのサロモン(比丘)、サマナー(比丘尼)、衆生達に説いた一つひとつの言葉であり、神理である。

それが後にお経になってしまったのです。それを後の坊さん達が、お経はあげるものだといってしまつたために、今のようになってきたのです。 お経を見ますと、はじめに必ず「如是我聞(にょぜがもん)」とあります。

これは「私はこのように閧ォました」ということであり、大事なことは、お経の中身をよく知って、自分自身の心と行ないの指針とすること、それが本当の信心なので、お経をお朝毎?あげることは大きな問違いなのです。 弘法大師が、「般若心経秘健(はんにゃしんぎょう ひけん)」というお経の中に、「私は霊鷲山(りょうじゅせん)においてブッダの法を聞いた。そのために般若心経を説くことができるのだ」というようなことを書いていられます。

人間の生命というものは永遠であり、皆さん自身の心の中には、あらゆる転生の事実を誰しもが記憶しているのです。 皆さんは、皆さんの心のテープレコーダーやビデオテープに記録されている体験を、そのスイッチを入れる方法を忘れてしまったために思い出すことができないだけなのです。

それは皆さんが、自分自身の生まれた環境や思想、習慣を通して自分自身の心にスモッグをつくり、神の光を自らして遮ってしまったために、あまりにも抵抗が大き過ぎて自分自身の偉大なる智慧と偉大なる体験を忘れてしまったためなのです。 しかし、いったん心を美しく調和させてゆきますと、その事実を誰しもが思い出すことができるのです。


その結果、弘法大師も、インド時代、かつて自分自身がガランダ長者として、ベルべーナー即ち竹林精舍(ちくりんしょうじゃ=仏教で建てられた最初の寺院)を喜捨(きしゃ=功徳を積むため,あるいは宗教的な戒律にしたがって,金銭や 物品を寺社や困っている人に差し出すこと)したのであるということを思い出されたのです。

マガダ国のラジャグリハ・バースト、そこの王様であったビンビサラーといわれる方とは親戚同士、ビンビサラーの命により、ゴーダマ・ブッダの道を聞かんがためにベルべーナーという所を喜捨して、マハーベッシャー即ち大富豪としてブッダの神理を聞いた体験を持っていられたのです。 人間は、永遠の生命として転生するものであるとはいろいろ説かれているけれども、具体的に確証を得ないために、多くの学者達は否定しております。

しかし、我々の身辺にある森羅万象はすべてが輪廻転生を繰り返し、一刻として現在というものを保持する事ができないのが真実であります。 物質世界において、みな転生を繰り返しているように、我々の生命も当然なことであります。

それを私達はいたずらに、五官で捉える肉体的現象、そのものが絶対だと思っているところに問題があるのです。 皆さんは永遠の生命であり、肉体舟の船頭さんである魂、心が皆さん自身なのです。その“心”というものについていろいろと本が出されたりして騒がれているけれども、なかなかわかりにくいですね。

そのために我々は五官で感ずるものがすべてだと思ってしまう。 お経一つ見ましても同じことがいえるのです。「摩訶般若波羅密多心経」というお経があります。これはインドの言葉を中国の漢字にあてはめた当て字なのです。

玄奨三蔵(げんじょうさんぞう)といわれる方が中国に生まれた頃、仏教というものはすでに学問化し、天台仏教というものが当時の人々に知らされておりました。 一方において、金剛智三蔵(こんごうちさんぞう)といわれる方が出ておりまして密教というものを勉強し、人々にその道を説いておりました。

『 紀元六世紀、釈尊滅後一千年、すでに中国に伝わってきていた仏教は、あるお経にはこう書いてある、ところが別のお経には違ったことが書いてある、どれが本当の釈尊の教えかわからなくなっていた。 それで玄奨法師はインドへ行って本当の教えはどうであつたか、それを調べてこようということでインドへ行かれたのである。

往復十七年かかつてインドからお経を持って帰られた記録が『大唐西域記』(だいとう さいいきき)』であり、『西遊記』はこれをもとにして つくられた小説であるわけです。

玄奨三蔵は、なんとかしてその真実を知ろうとして、違いインドのナーランダという所まで十七年間もかかって経典を取りに行きます。その時に「大般若経」を持ってまいります。 その「大般若経」の中身を圧縮してそのエキスを取ったものが「般若心径」なのです。

しかし、さすがに玄奨三蔵も「摩訶般若波羅密多心経」という当て字を使わざるを得なかったというのは、この中に含まれている偉大なる神理というものを中国の言葉では簡単には表現できなかったからなのですね。 「摩訶」というのはインドの言葉です。皆さんは「摩訶不思議」という言葉を使っているでしょう。「摩訶」は「大、大いに、偉大な」で、「これは大いに不思議だ」というのを「摩訶不思議」というのです。

ゴーダマ・シッタルダーを育ててくれたお母さん、この方はパジャパティという方でした。 尊称をつけて偉大なるパジャパティ、即ちマハー・パジャパティといっております。

また、皆さんが毎年八月に行なわれるお盆の創始者である大目蓮といわれる方も、ゴーダマ・シッタルダーの弟子になって、わずか十日くらいの間に完全に心の眼を開き、自分自身の過去を知り、転生の秘密を知り、しかもまた、お母さんが地獄にいることまで見ることができるようになりました。 その結果、彼は、母親を地獄から救うにはどのようにしたらいいでしょうか、とゴーダマ・シッタルダーに質問します。大目蓮のお母さんはマハー・バラモン、大パラモンです。この際にもマハーを使います。

当時、バラモンというのは最上級の階層です。そのバラモンの中でもマハー・バラモンというのはさらに最も上の段階にある人達です。 そのバラモンの下にクシャトリヤという武士の階級があります。その武士階級の中にもラージャンといわれる王様の階級、貴族階級があります。

さらにその下にベッシャーという商工業者の階級があります。この商工業者の中にも、ガランダやアナタピンデ力というようなマハー・べッシャー(偉大なる商人)といわれる人がいるように、同じ段階でもまたたくさんの段階に分かれております。 また一方においてはシュドラーといわれる奴隸階級があります。この奴隸階級に生まれた者は永久に奴隸です。このようにして当時のカースト制度というものは、バラモンを中心としてつくられたものですね。

バラモンは神の使いとして、主としてクシャトリャ、ベッシャー、こういう人達に対するところのお祀り、祀りごとをやっている種族です。 この中にもマハー・バラモンの出身であったコリータ、即ち大目蓮といわれる方は、そのようにしてお母さんがその環境の中にいられるために、人々から布施をされてもそれを当然だと思って自分からは絶対に人に施されない。

多くのベッシャーやシュドラー達から貢(みつ)ぎ物は受け入れても人々に愛の手をさし伸べることは全くしなかった。そうして地獄界に落ちていたのです。 そのお母さんを救うには、お母さんの分として、「お前は一年に必ず一回は多くの人々に布施をし、そして奉仕しなさい」と、このようにゴーダマ・シッタルダー、釈迦牟尼仏(しゃかにぶつ)から教えられたのです。それが後のお盆になったのです。

「マハー」という言葉は中国で「摩訶」という字を当てられました。 「般若」というのもインドの言葉で、「パニヤー」といいます。「パニヤー」とは智慧のことです。

我々は智慧と知識というものがどのようなものであるか、混同し錯覚している人々が多いようです。 知識というのは、皆さんが耳を通し、目を通し、体を通して体験したもの、あるいは学校などで聞いているもので、それを心の中に知識として蓄えております。皆さんが学問的に学んだもの、また、こうして説いている道、それを頭で覚えて知識となっているものを実践した時に、そこから出てくるものが智慧なのですね。


そういうことで、般若(パニヤー)というのは、神理を知ってそれを活かした時に出てくる智慧、知識として知っていることを実践した時に起こってくる智慧、その偉大なる智慧ということです。 つぎの「パラ」というのは、行くとか到達するという意味で、この意味で当てはまる中国語がなかったので、「波羅」という字をつくってあてはめたのです。

この間まで般若心経の解説書を出していられた奈良の薬師寺のお坊さんは、信二氏の『原説般若心経』を出版してから大分中身が変わってきておりますが、般若の面を見ても奧ゆかしいとは思いませんが、般若の面は奧ゆかしい、と書いていられます。 心のあり方のわからない人達は、あたかも自分がさも芸術を理解しているかの如く、般若の面は奥ゆかしいなどといっておりますが、ああいう鬼のようなものはこの地上界にも天上界にもおりません。

地獄界にはおります。地獄界のものがなぜ奥ゆかしいのでしようか。 知らないということは恐ろしいことです。わかっていないからこじつけるのです。

「パラ」(波羅)というのは「到達する」です。 「密多」、これも当て字です。密が多いと書いてあります。インドでも中固でも密は貴重品です。この「密多」というのは「内在する」ということです。心の中に内在するということです。

直訳いたしますと、「マハーパニヤパラミタ」というインドの言葉は、即ち「摩訶般若波羅密多心経」というのは、「内在された偉大なる智慧に到達する心の教え」ということになります。 「内在された偉大なる智慧に到達する心の教え」というのは、皆さん自身の心の中には、あらゆる転生の秘密が、その宝物が、誰しもあるのです。皆さん、お寺へ行かれますと多宝塔というのがあるでしょう。

お寺では多宝塔をつくって拝ませていますが、多宝塔は皆さん自身の心の中にあるのです。


輪廻転生の過程において、ある時は王様として大衆を慈愛によって導いたこともあるでしょう。ある時には権力をかさにきて大衆を犠牲にし、私利私欲をむさぼったこともあるでしょう。 あるいは奈落の底において、きびしい人生の体験をした記憶を持っているでしょう。皆さん自身は誰しもがその偉大なる体験を持っているのです。

今生のわずか七十年や八十年の人生において体験したものを絶対的なものだと思ったら、とんでもないことです。 皆さんは永遠の生命として、自分が新しい人生の体験を学習するために、今あるのです。永遠の生命の今、皆さんは、最もきびしい地球上という物質界において己れ自身の魂を磨いているのです。

そして自分自身の身近かにある諸現象は、皆さん達の心がいかなる方向へ進むべきかを教えていてくれるのです。 ところが、我々は自分の心の本性を失っているために、いやなことをいわれると、「こん畜生」と思ってしまい、あるいは、自分に都合の悪いことが起こると相手を怨み、本当の自分いうものを失ってしまうのです。

自然界を見ますと、すべて、万生万物は相互関係によって安定しております。 単体でそれ自体ひとりで存在しているものは何一つとしてありません。

こういう相互関係を考えたならば、皆さん自身の肉体舟の船頭さんであり、皆さん自身の心の王国の支配者である本当の皆さん自身も、お互いの人間の間の相互関係によって成りたっていることを知ったならば、我々はしっかりと自分自身を制御し、偏らない中道の道を通し、常に自分自身を第三者の立場に置いて、正しいものの判断をした想念や行動というものが必要になってくるということがおわかりになるでしょう。 真実とは何か、ということを知ってゆくにしたがって、人間は偉大なる智慧を持っているということを、皆さんは知っていくのです。

テープレコーダーやビデオも、人間の知識が実践されて智慧となったものによってつくられたものです。 そのような偉大なる智慧は、皆さん自身の心の中には誰しもが持っているのです。それを多宝塔というのです。

つくっている多宝塔というのは、人間のあらゆる智慧をあのような形に現わしたものなのです。 人間は頭がいいですから、拝ませるためにいろいろなものをつくります。本来は多宝塔というのは、石やなにかでつくったああいうものではなく、 皆さん自身の心の中にそのような偉大な智慧があることを現わしたものであるということを知って欲しいのです。

「観自在菩薩行深般若波羅密多時(かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじ)」というのは、これは中国の言葉に完全に直してあります。 インドのゴーダマ・シッタルダーの当時の言葉では「アポロキティシュパラー」といいます。

これは「観ること自在なる神通力を持たれた方」ということです。そういう神通力を持って悟られた方を「ブッダ」(ブッターともプターともいう)とうのであります。

「シュパラー」というのも、“パニヤパラミタ”(般若波羅密多)、内在された偉大な智慧に到達していられる悟られた方。 心の曇りをきれいに払ってスモッグがない、神の光に燦々と満たされているために、過去、現在、未来を自由自在に見通すことができられた方、それを「アポロキティシュパラー」(観自在菩薩)といいます。


ゴーダマ・シッタルダーの生まれた力ピラ・バーストに来て、いろいろな神的なこと、予言的なことを話していたバラモン教のアシタバというイッシー(仙人)がおられました。 この方が、「我々のこのインドの地に、必ずアポロキティシュパラー・ボサターが生まれられる」ということを予言をしておりました。

あるいはまた、仏教の如来といわれている人の中に「阿悶如来」といわれる方がいられます。この方はババリーといわれるマハー・バラモンです。 この方も、「やがて偉大なるアポロキティシュパラーが現われて、混乱した思想を統一して下さるであろう」という予言をしておりました。

そのような人々を「アポロキティシュパラー」(観自在菩薩、過去、現在、未来を自由に見通すことのできられる悟られたボサター〔菩薩〕)といっておりました。 行深、偉大なる内在された智慧に到達する行を深く行じた時に、さて、どのように行じたかということが問題ですね。

ところが玄奨三蔵さんも、ではどのように行ずるかということを書いていないのです。ですから、
「般若心経」はわかった、なんていっている人がいたらインチキですね・・・。 なぜなら、内在された偉人なる智慧に到達する道順が書いてないのですから。

それを、「般若心経」はりっぱなんだよ、あれは功徳があるんだ、仏様にあげれば救われるんだ、果ては写経をすると救われるんだ、などといっている人は、余程救われない人達です。 アポロキティシュパラーがパニヤパラミタした時に、観自在菩薩が神理を知って、正道を実践して、初めて偉大な内在された智慧に到達した時になにがわかったかというと、「五蘊皆空」があり、「一切苦」であるということがわかったというのです。

それで“行深”、何を深く行ずるかというと「八正道」を行ずることによって、内在された偉大な智慧に到達するということなのです。 釈迦が悟ったのは、八正道を実践することによって悟りに到達する道です。その道を「中道」というのですね。 
 

「八正道」について

お釈迦様は正しく見なさいとおっしゃいます。人間が幸せになる方法の一つとして、まず物事を「正しく見なさい」「正しく思いなさい」
「正しく語りなさい」「正しく仕事をしなさい」「正しく生きなさい」「正しく道に精進しなさい」「正しく念じなさい」「正しく定に入りなさい」
この八つの正しい生き方を説かれました。「八正道」ですね。これを日々の生活に生かせたら、私達は幸せになれるのです。

●1.正しく見る

正しくとはどういうことか、なかなか分かりません。
自分を中心としてものを見ると、自己保護と、自我我欲の色眼鏡に振り回されますから、常に相手の立場に立って、自分中心の見方をしないこと、これが正しい見方です。

●2.正しく思う

常に他を生かす愛の思い、これこそ正しい思い方です。

●3.正しく語る

相手を思いやり、相手に安らぎと喜びを与える言葉や、その方が幸せになるよう、生きる勇気を与える言葉を語ることです。

●4.正しく仕事する

私達は一人では生きられません。この社会の数え切れない多くの人々の恩恵を受けて、生きさせてもらっています。
このいただいた恩恵のご恩返しの行為こそ正しい仕事で、金もうけが正しい仕事とは違うのです。

●5.正しく生きる

常に自分を厳しく見つめて生きていくことです。

●6.正しく道に精進する

これはまず家庭の調和を築かなくてはいけません。両親からいただいた無条件の愛、その愛に対して感謝し、ご恩返しを行うことです。
これを忘れては、幸せになれません。夫婦が喧嘩ばかりしていて、神様に夫婦仲良くさせて下さいといくら拝んでも駄目です。

家庭の調和に為には、子供に片寄った愛情を持ってはいけません。子はわがものではなく、神様から預からせてもらったものです。
肉体を分け与えたと思ったら間違いです。魂は皆独立した立派な人格者ですから、神様から預かった子と思って豊かな愛情をもって育てて欲しいですね。
そして自分が幸せになったら又他の人にもその幸せを分け与えていくこれが正しく道に精進するということです。

●7.正しく念じる

常にしっかりした目的を持って、そこに心を向けることが正しく念じることです。

●8.正しく定に入る

「定に入る」とは死ぬことではなくて、常に反省して安らぎと感謝のひとときを持たせてもらうことですね。
今日一日を反省し、間違ったことがあったら悔い改めて二度と再び繰り返さないことを誓って、そのあとで感謝と安らぎのひとときを持たせてもらうことです。
このようにすれば必ず幸せが来ます。

★仏教学者や一般のお坊さん達も、「空とは空っぽ、無ではなくて心だ」などとうまいことをいい、「実在界」だなどと、信二先生の書いたことをそのまま真似て書いております。 まあ、それも間違ったことを教えるよりはよいことだと思います。そのように教えているのが現代の宗教指導者達です。

皆さん、空とは一体なんぞや。 ああ、あれは、あると思えばあるし、ないと思えばないのだといっている宗教家もおりますが、それで一体わかるでしようか。 それをまた、わかったような気持ちになっている人がある。全く哀れな人達です。

そんなものじゃないのです。「空」というのは「実在」「ある」「ある世界」ということで、何もないのではないのです。 その実在のある世界を通して見た時に、我々自身の一切の苦しみ、災難というものは、自分自身の五官を主体とした考え方が作り出しているということがわかったというのです。

実在の世界(空)を知らないから、煩悩だけで見たもの、耳で聞いたこと、身体に触れたもの、それを絶対だと思い、自分に不都合なことを見たり聞いたりなどすると、怨んだり、憎んだり、怒ったり、悲しんだり、妬んだり、嫉んだり、そういうものを心の中につくり出すのです。 「五蘊」とは、五官を通してつくり出す煩悩のことで、これは自分自身の外因性と内因性とからつくり出してくるのです。

『 玄奨三蔵法師は、「アポロキティシュパラー」を、中国語に翻訳される時に「観自在菩薩」と訳し、「パニヤパラミタ」(内在された偉大なる智慧)に「般若波羅密多」という中国字をあてはめられました。 ところが「実在界」に相当する中国語を何にしょうかといろいろと苦心された揚句に、他に適当な言葉がないので、「空」「無」という字を当てられたのであります。日本の仏教界は、その「空」「無」の解釈を巡っていろいろの論争が続けられてきた。

奈良朝時代に中国から人ってきた仏教は中国語で書かれたお経がもたらされたわけであるから、その中国語で書かれたお経の意味はどういうことであるかということを翻訳する訳経僧と、当時は印刷技術がなかったから、お経を持ちたいと思えば筆で書くしかなかったから、お経を写す役目の写経僧と、そのお経をわかりやすく大衆に話をする説教憎とに分かれてきました。 説教するにしても、単調では大衆が飽きるから、身ぶり手ぶりよろしく節をつけて話をする説教節が生まれてきました。この説教節がもとになって浪花節(なにわぶし)、講談(こうだん)、浄瑠璃(じょうるり)、長唄などというものが生まれ、肓僧琵琶といって琵琶をひき語りする盲目の僧なども出てきました。

皆さんが、想念で自由由自在に想像します。その想像していることが正しければ心に曇りはつくらないけれども、それが偏って自己中心的、肉体を中心とした考え方になってくると、思っただけでも心に苦しみをつくり出してゆきます。 「一念三千」といいますが、我々の心というものは非常に千差万別、人それぞれに違った思いを待ちます。どのように思うことも無限です。皆さんはどんなことを思うことも白由です。

我々の肉体の船頭さんである魂、我々の中心にある心というものは、無限大に広く、また、無限大に変化致します。 その変化する無限大の心を、正しく偏らない中道の道に持ってゆくならば、どのような苦しみも災難もないから、光明に満たされた安らぎと調和という生活環境がつくり出されてくるということになります。

やがて私達は、この肉体舟を捨てなければならない死の時がきます。

人間自身が神理を知ってあの世へ行くならよいが、他力本願という長い歴史の中で地獄界に落ちた人々の霊が、心というものが不在で一所懸命に拝んでいるような人達にパアッと憑依する。この頃、日本人に外国の地獄霊が憑依するようになってきました。

ペラペラッと外国語をしゃべりますが、よく見ると外国人の地獄霊ですね。 今までは外国人の地獄霊が出たなどということはなかったのです。 最近では地獄でも大分外国語が流行しているようです。

(最近、キリスト教会辺りで異言をしゃべるという青年達が出てきている。そういうものを「えらい」と思ってはいけない。地獄霊が多いのである。)

霊媒とか、拝み屋さんとか、そういう人達も芝居が上手になりました。東北地方で育って東北弁しか知らないお母さんの霊を呼び出してもらったら、その霊媒を通して関西弁でしゃべっている。 ところが聞いている人はそれが芝居だということに気がつかない。おかしいことであるのに聞いている人は真剣に思ってしまう。このへんを皆さんは知らなければいけません。欺されてはいかんのです。

正しくものを見るには、霊感者、霊能者といわれる人達の、まずその人の生活行為を見ることです 。一つひとつ、正しく語っているか、正しく生活行為をしているかなど、そういうことを確認せずに、「あの人、霊感があるのよ」、はなはだしいのになると、「うちの教祖、今日はご機嫌が悪いのよ」、「お賽銭のあがりが少ないからなんですって」といったりします。

そういう婆さんに十万人も信者がいるのですから、日本人は余程間抜けです。そういう所でまた救ってもらえると思っているんだからおかしなものです。

神様はお金などいらないのです。あの世にはお金などありません。 そんなお金を要求して、お金の包み具合によって起源がよいとか悪いとかいったらとんでもないことです。

そんな宗教がいっぱいあります。 神様は金なんか一銭も必要としてはいられません。 神様が必要としていられるのは、美しい、慈愛の心を実践している人達です。然しながら慈善事業では無いという教団もあります。確かに此の現界はお金も幾らかはかかりますがね・・・。電気代・水道代・場所代という風にね。

それだけに皆さん自身が、霊媒とか新興宗教とかいろいろあるでしょう、そういう所で金の高で人間を評価するような所は、これはもうインチキだということを知って下さい。 金は、自分自身が真実の存在であり、そして真にこの道しかないとして出してくれる金であったら、これはいいのです。

しかし本当は嫌なんだけれども、出さなかったらいろいろとそばからうるさいから、なんていうのでしたらいけないのです。 我々人間は、それぞれ一人ひとりの心の中に神の子としての偉大なる智慧を湧現させるための神の協力者なのです。

こういうことを知ったならば、他力本願ではないということがはっきりわかります。 「舍利子」とありますが、これはシャリープトラーのことです。

ゴーダマ・シッタルダーの弟子の中にウパティッサといわれる方がおります。 マハー・バラモン―大バラモンの指導者でアサンジャーといわれる方がおります。 その方の弟子の一人にウパティッサといわれる、やはり大バラモン出身の弟子がおりました。

彼は、道を極めようとしてアサンジャーの弟子になったけれども、自分自身の心を悟り得ず、当時のインドの修行者の中からホンモノのアポロキティシュパラーが出ていられるに違いない、 そのような方に巡り合って弟子になりたいといって、ホンモノの師を求めてラジャグリハの町を遊行しております。

たまたまその時に、アサジといわれるゴーダマ・シッタルダーの五人のアラハン(阿羅漢)の一人が遊行している姿を見て、顔色といい、態度といい、もしやこの方こそホンモノのブッダかもしれない、アポロキティシュパラーかもしれないと思って、後をついてゆきます。

当時のバラモンは、あらゆる当時の教典を読み、その教典によって自分で捏造し、自分があたかも悟ったかのように書き加えたものを持ち、非常に理屈っぽくなっており、今でいえば創価学会みたいなものです。 そういう修行者が多かったので、ゴーダマ・シッタルダーはアサジ達に対して、「お前達は、他の修行者が論争を挑んできても決して彼らと論争をしてはならない。挑んできたら逃げなさい」と、このように教えたのです。

というのは、そばからいろいろいわれると、つい自分の心そのものに迷いを来して毒を食べてしまいます。そういうことを戒めていたために、アサジも「ああ来たな、これはもしかしたら大論争を挑んでくるかもしれない」と内心警戒しながら、 たまたま遊行先でいただいた粥を、ピハラという大きな樹の根元で食べようと思って腰を下ろそうとしたら、「どうぞ、これにお座り下さい」と、草で編んだきれいなゴザをさし出します。

これは、この修行者は少し違うぞと思っていると、「もしゃあなた様はアポロキティシュパラー・ボサターではいらっしゃいませんでしょうか」といわれます。 「いや、私は違います」というと、「一体、あなたのようなお弟子さんを持っていられるあなたのお師匠さんは、なんといわれる方でしょうか」と聞かれます。

ここで初めてアサジから、人生とは何ぞや、一切の苦しみの原因はどこから生じてくるか、その原因を正さない限り、人間はその苦しみから救われることはないのだということ、そして“縁生”ということをこんこんと説かれていきます。

ウパティッサは、アサンジャーや他のマハー・イシ(大仙人)、マハー・バラモンから聞いてその中で心の中に引っ掛りのあった一切の疑問が、アサジの説明によってすべて氷解してしまいます。 そしてそれから二日後に、彼の友達であるコリータ(のちの大目蓮)とともにブッダに帰依していくのです。

ところがブッダに帰依したその時、もうすでに千七百数十人の弟子達がベルべーナー (竹林晴舍)におります。ゴーダマ・シッタルダーは、ウパティッサ(舍利弗)とコリータは、過去の転生の過程において自分の弟子であったということがわかります。 それで多くの弟子達の前で、「ウパティッサとコリータは、やがてあなた達の指導者となるであろう」といったので、たいへんなことになりました。

自分達は六年前から帰依してきているのに、昨年ボンと来た者が我々の指導者になるなんてと、これは、むくれてくるのは普通の人問として当然です。

しかし、ゴーダマ・シッタルダーは、人間の永遠の生命というもの、人間にはそれぞれ魂の兄弟というものがあり、その魂の兄弟を通して輪廻転生を繰り返し、自分が過去六仏として、その時その時にいろいろな国に生まれて法を説いた時に、そのすべての時において自分の弟子として神理を学んだ者であったということを説明します。 そうして、今ここにいられるところのウパティッサ達は、すでにお前達の生まれる前から私の弟子であったのだということを説いていったのです。

ウパティッサのお母さんはシャリー、お父さんはテッサーといわれている方、お母さんのシャリーという方は、当時のインドでは稀に見る賢夫人で名前を知らない人はいない。 それでその母の名を名乗りなさいとゴータマ・ブッダにいわれて、”シャリープトラー”と名づけたのであります。

シャリープトラーにはバラモンの兄さんがおりました。 「舎利弗」というのは、釈尊当時の弟子達の代名詞のようなものだったのです。

そういうわけで、こういうことからして、「舎利子(しゃりし)」とあるところは、「諸々の弟子達よ」といえばよいのですが、同時にそれはゴーダマ・シッタルダーが舍利弗に説かれた神理、それがなんであったかということも意味しているのです。 そこで、「色不異空(しき ふ い くう) 空不異色(くう ふ い くう) 色即是空(しきそくぜくう) 空即是色(くうそくぜくう) 受想行識(じゅそうぎょうしき) 亦復如是(やくぶくにょぜ) 含利子(しゃりし)」と、こうなっています。

「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空である。空は即ち是れ色である」 二回も三回も同じようななことをいっているようであり、「あると思えばないんだよ、ないと思えばあるのだよ」といわれる所以もわかるような気もします。 ところが、これは決してふしぎでもなんでもないのです。

これをつなげてゆきますと輪になります。 色不異空―空不異色―色即是空―空即是色となり、つづいて、色不異空―空不異色......となる。 これは円になり、円になるということは転生するということを意味しているのです。

色というものは色心不二である。空というのは、何もないのではなくて我々の目の見えない世界のこと。色というのは、皆さんが色彩を通してすべてのものを感知する世界のことですね。 その色彩、我々自身の視覚の範囲というものは本当は狭いものなのです。


紫外線、赤外線、X線、Y線、S線も、さらに電波も見ることはできません。しかし存在しています。我々の目に見えない世界の方が多いのです。 しかし、昔の人ですから、ここまでいうのが精いっぱいだったと思うのです。

「目に見えるものはみな”色”がある」と、色彩が目に映る。“色”があるから色でよろしいと。この色というものは万生万物ということです。 皆さんの肉体も色です。色は空に異ならず、色 即ち現象の世界は、空 即ち実在界と異ならず。

異ならずということは一体であるということ。色と空は一体だと書けばよかったのですが、いろいろ文学的に頭のいい人達がいて、いい方を変えて、かえって難しくしてしまったのです。 色と空、この世とあの世は別のものではないのだ、一体だということです。

ですから、お経というものは、否定してみたり、肯定してみたりしているうちになんだかわからなくなってしまって、わからないのがお経だなんてことになり、なんでもかまわないから、あげればいいんだというようになってしまったわけですね。

そうすると、エネルギーというものと質量というものは不二一体であります。 心の世界と肉体の世界というものは不二一体であるということになるのです。 この理論が原子爆弾の理論、平和利用されるエネルギーの根本原則になつているのです。

(神仏の意識は大宇宙体を支配していおられます。 大宇宙体は神仏の体である。大宇宙体は物質で構成されており、物質はエネルギー粒子の集中したもので、これは質量とエネルギーの法則であります。)

目に見える世界、体で触れる世界、聞こえる世界、こうした三次元の世界が色の世界であります。 三次元世界に対して、目に見えない世界、体で触れることのできない世界、聞こえない世界、それは四次元以上の世界でありますね。

共産主義の世界は物質の世界です。世の中は資本家と労働者との不断の闘争によつて発展してゆくという理論の根拠は、すべて物質中心だからです。 そして、権力はいらないといいながら自分達が権力者になって大衆を犠牲にしています。

心というものがないから今日の友は明日の裏切り者になります。 多くの人々はこういう物質的な見方だけできていたのです。

我々の魂は永遠不滅です。肉体は無常なものです。 我々は、今までこの肉体が絶対だと思っていた。しかし肉体舟はこの地上界に置いてゆかなければならない。

持って帰れないのです。 インドのお釈迦様も持って帰れなかった。一定の時がくれば、誰でも皆さんはこの汚れた、人生体験をした肉体舟は置いて帰らなければなりません。

このように、色の世界は、目に映る世界は一時として今という時問を保つことができないしだんだん、だんだん、変わっているのです。

それ故にこのような世界は無常なものである。そういう世界を我々は色の世界といい、その反対側というか、上の方というかその世界を空というので、そこが実在の世界です。 我々はこうして、あの世(空)とこの世(色)とを転生輪廻して、今、この場にいるのです。

そして永遠の生命としてこの場所で魂の修業をし、自分の正しい生き方を暗中模索して本当の自分自身を発見しようとしているのです。 一切の苦しみは、すべて自分自身の思うことと行うことが作り出しているのです。 それ故に、その苦しみや悲しみの原因を取り除かない限り、また同じ苦しみを自分自身が作り出してしまうのです。ということになりますと、私達は常に正しい心のものさしを持って生活する以外にない筈です。

今、そのものさしを得ようとして皆さんは生活しているのです。 そのものさしを得ようとして生活していったならば、経済的な、精神的などんな苦しみがあろうとも、自分を見つめてしっかり判断をして、その原因がどこにあったか、それをはっきり把握して、そして自分をより豊かな自分に完成させてゆくことができる筈です。

神様は決して皆さんに罰など与えるものではないのです。我々がつくり出したスモッグによって公害をつくり出していますが、神様が、お天道様が公害をつくっているのではないのです。 我々の心の中に、怨み、妬み、怒り、謗り、自分さえよければよいという自己保存、こういう自分本位のものの考え方が、一切の苦しみをつくっているのです。

罰は神様がつくるのではなく、自分自身の心のあり方と行ないの問違いがつくっているということです。 自分の心が光明に満たされているならば、人間はそのような不調和な諸現象を引き起こすものではありません。皆さんは、まず自分自身の今の自分をしっかりと見つめてみることです。

そして自分の欠点を直すことができるのは、己自身だということです。そして、皆さん自身が生まれて現在に至るまで、つくり出してきた一切の曇りを、うそのつけない善なる心で一つひとつチェックし、 「ああ、こういう間違いを犯した」、「こういうことを思った」、「こういうことはここに原因があった」と、しっかりと、自分の心の中を反省し、その間違いを修正したならば、皆さんの心の中にあるところの偉大なるパラミタ、内在された偉大な智慧に、皆さんはスイッチを入れることができるようになります。

その時に人生というものがいかに重大でありいかに楽しいものであるか。目に映った一切の自然現象は、神の偉大な贈り物だということを皆さんは自覚することかできるのです。 まず皆さんは、そのような神理をしつかりと自分が会得し、自分の心の中の一切の曇りを晴らすために、勇気をもって生活して欲しいと思います。


摩訶般若波羅蜜多心経」は「マーハ パニャーパラミターストラ」と言い、その意味は「心の奥底に内在されている偉大な智慧に到達する心の教え」ということです。 摩訶はマーハ、偉大、般若とはパニャ、智慧です。波羅蜜多は「腹を見た」のではなく、パラミター、到達するという意味、心経は心の教えです。(心行は言霊豆知識-45-48の最後に書いてあります。)

「観自在菩薩」とは過去・現在・未来を見通す能力を持たれた仏を目ざして修行されるお方のこと、そのお方が正しい生活を日々深く行じられた時「行深般若波羅蜜多(ぎょうじんはんにゃはらみった)」なのです。「照見五蘊皆空度(しょうけんごうんかいくう)」の照見とは照らして見ること、ブッダは人間を観察し、人間を五つの部分に分けられました。 色(肉体)、受(感覚)、想(表象)、行(意志)識(判断・理性)。色は人間の肉体つまり物質的要素で、受想行識(じゅそうぎょうしき)は精神的要素、心の作用でこの五つを五蘊(ごうん)といいます。その五蘊はみな、空なり、つまり実体がない、と説かれています。


般若心経を上げると、迷える霊が成仏すると言われますが、それは書いてあるお経の内容が素晴らしい教えであるからというよりは、それを伝える方の愛の心がその方の音声すなわち音霊に乗って、迷える方の心の奥底にまで響き、神我の目覚めを促す結果なのです。

伝える方がお経の意味を十分に知らず、生活において行いに表わせていなかったり、愛がなかったりすれば、相手の心には届きません。お経はよく理解し、実践した時に功徳が現れてきます。言葉によって神癒が起こり病気が治るという仕組みも、これと同様に考えられます。

本文

★考えても見よ!人間たるや 何の為に生かされておるのか!人それぞれの思いもあろうが、しかし全て煎ずれば死を迎えるものである。さてどのようになるのか、考えたことがあるであろうか。 之までに死というものはタブー(ひかえる)とされてきたのではあるが、今の現代では少なからず分かってきていると思うが、しっかり捕まえることが出来ないから困惑していることなのかもしれない! しかしこれから下記の記述を読んでいただけるのならば少なからず何かを発見出来るであろうと小生は考え書き記すのであります。人間は必ず死を迎えます。遅かれ早かれ来ます。若くても年老いても死を認識しなければ先ず先は何も見えてきません。早く知る事です。

ちなみに 人間の生死、これは極めて神界の秘密なり。

是非これを読んで今後の皆様の人生にとりまして確かな栄光と弥栄を願っている次第です。之からの世は之までに大先生方が神示(魂=湧き上がる叡智。 それはずっと上の方から、 直接に脳天に流れ込んでくるような感覚。主魂にひしひしと感じること。 それも一種の御神示でもある。)を賜ったものを皆に広め誰のものとかではなく、一宗教とか捉われずに全世界に伝えねばならないと思うのである。 また此処に書かれているのは学びの書でもある。学ぶのと教えるとは基本的に全く違うのである。教えるとは全く其の様にやることであり、学ぶとは自分で考えて導き出すものである。生きている時こそチャンス(覚り)が在るのではなかろうか。


●一個の宗教を得てこれに帰依(きえ=すぐれた者 (特に人格者) に対して,全身全霊をもって依存すること。)しようというのではなく、各種の宗教の原理を抽出してそれを総合した上、確乎不抜(かっこふばつ= 意志がしっかりしていて動揺しないさま)の真理を把握しようとすると個々に書かれている結論となるであろう。

★「神の御意志を実行する」これが人生の目的です。これを「天職」と言いいます。今日はこの天職が忘れられています。 自分に合う仕事のことを天職と言いますが、それは本来は天職と言わずに、日常的に授けられた「生業」と言います。  生業というのは私たちの肉体を養うための仕事のことで、こちらの仕事も大事ですが、生業だけが人生だと思ってしまいがちです。此処の当たりを良くお考えいただきたいと思います。要するに親(神)はどの様に為さりたいのかを知る事です。 其のことにより我々人間が行使することだと思われます。よくよく考えて行使することです。

勘違いしていただきたくないのは人間という生き物は、意味が在って行かされているものであってその人その人個々の役割が在って生まれてきたのであって、その中には無数の命(魂=父と母=其のまた父と母=其のまた父と母・・・)が育まれているのであります。 ですから自分でしか出来ない役割を果たすために生かされているという事をわきまえて生きる事が大事なのだと思います。

豆知識;『チ』 のコトタマ(言霊)〜チとは血であり、霊(霊力)のことである。物の中に存在している根源的なもの(生命力)を意味する。コトタマの場合、チチと重音になっても意味は 変わらない。たとえば、乳(ちち)は医学的にみても血液が組成変化したものであり、赤ちゃんにとっては文字どおり生命維持のための原動力であり、それゆえに、母親である 母から与えるものを〈乳〉といい、父親を〈父〉というのは、母からは血を継ぎ父からは霊を継いでいるからである。

 〈いのち〉とはコトタマ学にみても、身体の中に宿っている生命力のことである。この〈いのち〉が神と一体することを〈意乗り〉が通じたというのである。 意は音と心すなわち、イノリとは文字どおり〈イ〉が〈ノル〉ことである。いうなれば、イのチが神から発出した〈いのち〉のながれに乗ると、 〈意乗り〉はその流れに乗って過去でも未来でも、自分以外の存在にまで一瞬のうちに辿り着くことが出来るのだ。

又、イキ(息・生)という語はコトタマ学的みると、この〈イのチ〉がつづまって出来たコトバである。すなわち〈いのち〉が促音化して〈いっち〉になり〈っ〉が脱落して〈イチ〉になり、 さらに音便化して〈イキ〉になったのである。呼吸(イキ)が生命力(いのち)そのものをあらわしている。これを科学的に考察して。

血液を清浄化して循環する力を強めれば生命力は増大する。それだけ自分の霊力をパワーアップすると考えてよい。霊力がなくなるから、 抜けた霊力を求めて身体が勝手にさまよう様を〈たまげる〉、〈魂消る〉義[⇒肉体(魂)→殻→消える]である。 自殺者は不自然な手段を用いて肉体を棄てると、肉体に係わるすべての感情はそのまま人の魂の中に残されている。いわゆる魄(はく)という肉体を支える気がその地に留まらせることになる。要するに土にも還る事も出来ずどうする事も出来ずにその辺をうろうろすることとなる。

自然死の場合は、肉体の衰弱とともに、肉体に結びついた緒感情も部分的に消滅していくもので、自殺の場合は、突然穴が空けられてしまったという感情が生み出す苦悩の他に、自殺の原因となった満たされない欲望と願望とが苦悩を生み出していくのである。
この様な事なのでイノチを大切に。

ここで一言;世間いわれる「自殺の名所」と呼ばれている場所がありますが、そこでは実際に地縛霊(その地で縛られて、そこから離れられない場所⇒霊界の掟です)たちが自殺を繰り返している可能性があります。面白半分で近づいたりすることはとても危険ですからやめたほうがよいでしょう。 憑依されて自覚のないまま自殺してしまう恐れがあるからです。しかし正しい法を説ける人であればそこの自縛霊は救われて行きます。ですが正しい生活している人で無ければ其の霊たちの心には届きませんね。

もう一言;自殺者の霊を慰めるには神の道を説いて聞かせてあげねば、なぜ死んではいけなかったのか、どうして死んでいるのに死んだ感覚が無いのか諸々のことを説いて差し上げねば 其の霊は浮かばれないし、永遠に闇の世界から抜け出すことは出来ないでしょう。今でいう、お経やら除霊なんかで、お祓いしても無理でしょう(なぜならば霊魂とは光の霊であり霊幽魂であるからにして、光でなければ 霊の世界にいる人を救うことは出来ないからであります。光を注ぎ込んで上げてから言霊をたむけて差し上げるとよいでしょう)。しっかりとした霊界の掟、神の掟を知る人でなければ出来ないでしょう。

そしてお祓いをするのではないのです。霊魂を救って差し上げることが一番でしょう。その霊魂が救われる一番の近道は、先ずは家族(御家族の因縁もあるからです)が神向きすることです。 でなければ子孫に悪影響(死んでも家族の霊線というのがしっかりと繋がっているのです。もし自分が苦しみながら死んだとして、誰に一番に縋りたいですか。やはり家族ですよね。そういうことです。)が及んでいくことにもなりかねません。

自殺しても、肉体のみ消滅するだけで何ら解決しないばかりか、苦しみは増大(身を投げた場合には死ぬ瞬間の一時が永遠の苦しみから逃れられないようになっているのであります。 何故解るのかと申しますと霊魂の霊査により判明したからです)するのです。

なぜなら自殺しても肉体は無限の命の小さな表れでしかすぎませんから、根元的な進化の霊力とは繋がったままの状態であり、進化の法則が働き、逆進化にあるものは苦しみという現象が生じてくるものなのです。

「苦しみから楽になりたいとして、自殺しても楽になるどころか、苦しみが今よりも増すわけです。ですからつらくとも自殺してはならない訳であります。ここで 云えることは、霊魂や神の存在を認めず、命は肉体生命の ことであり、死ねば全てがなくなって楽になると取り違いをして自殺する人は、命の意味合いを理解していないというか、世の中の人々が大勢 理解していないのではないでしょうか。

さて、なぜ人は苦しみや、不幸、災いがあるのかというと、自分の進化からは、ずれつつあるのみで、苦しみ、不幸、災いが起こってくることに気がつくべきです。 全てが自分で引き出したともいえべものなのです。一旦は受け入れなければならないものなのです。そしてこの世を超えた次元に意識の目を開く事です。意識の目を開く事によって、 見えないものの意味が全て見えてきます。

で 意識の目が開いた人は、今までの自分本位の意識がたちまち消えるかと言うとそれはありえません。 初めの頃は逆戻りしたり、ほんの少しの間(人によっては早い人もいれば数年かかる人もいる。その人によるという事です。意識の問題です。魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには少し時間が係る。)、意識が開いたり閉じたりを何度か繰り返します。 それは精神の内なる戦いが続くからなのです。そうして心を大掃除してからの新たなる出発が初まるのです。

人間の臓物を美にしなければならない。その因が薬毒ですから、薬毒からなくしなければならないのです。人間はウンと薬毒が入ってますから、とにかく毒血と血膿がいっぱいに詰まっているわけです。 それで、体の中が汚いから、そこで想念も汚くなるわけです。そして血膿というのは、なにからできたかというと薬です。薬が変化したものが全部血膿です。

人の世に用無ければ生命の無きと等しく詫しきものなる!!

平成をひも解きますと、先ず平=一、八、十、となります。一から始まったものが八方に開き(八は開く形で、無数の数を表わす。)、十は経緯結ん全てまとめる。神の権限化に入ります。よく岩戸が開くとも言いますが・・・。 成は七で成(ナ)る生(ナ)る鳴(ナ)る也(な)るとなり現象化するの意味を表します。いわゆる神力が右回転(陰)しますと、物質化される物質文明が起きてくるわけです。 全ての世はこの様になるのです。そしてラ行の時代ですのでラ行とは左回転(陽=火)する働きがありますので軸(縦)が出来るわけです。要するにこれまでの物質(横)は終わり(我よしの考え方)ですよと隠されているのです。 之からは神と向き合った時代に入りますよ。神世が開いてくるよ。神の時代(水=物から火=霊=魂の時代に移行))に成りますよ。という意味が深く隠されているのです。で平成とは偶然つけられたわけではないのです。全て必然的になされているのです。

平成二十四年とは。二十とは「天・地(二)の結び(十)」あるいは「霊・体の結び」というようなわけです。四は四方へ拡がる。東西南北へ拡がる意味です。又善の世界になるという意味でもあります。 これで精神文明(霊・体=霊主⇒肉体・物主・体従)の型が始まるのです。数字は神の秘め事になるのです。一は始めることであり二は分かれることです。十は結ぶすなわち完成です。 【十は神であり、八は寄せると人と云う字になります、ですから十 八は神人という事にもなり又十八は十は結びの形、八は開く形ですから経緯結んで開くという意味にもなります。 一厘の力は小さくても非常な力であります。いかなる悪魔の力も敵わないのでこの力で始めて全世界の一切が救われるのであります。しかして千手観音様は一厘の働きであるという事です。】

七の数字をもう少し説明致しますと、天地創造の神代七代の時、神様はまず神々に変化されました。この変化される方が成りです。変化して「成ル」ということです。で火と水・男と女・ おしべとめしべを十に結んで、物質化現象を起こすもとになります。そうすると、神道でいわれる産土力(うぶすなりき)あるいは産霊(むすび)の力が生まれる。これが「生り」 です。現在ではこれを生産力といってますが、あらゆる物の生産力、これを神代では、産土力または産霊の力といったわけです。そして活動すると「鳴り」になるのです。

そして、今度は物が完成していきますから、天も地も人類もあらゆる生物も完成します。この完成する姿が成就する方の「也り」です。動物も植物も、そして最後に人間も成り 生り鳴って也ったのです。ナルは音霊(おとだま)です。神様は万生をおつくりになられる時に、色霊・音霊・数霊・言霊によって創造されております。音霊は言語のもとにならず、 鳥や獣が鳴いたり、吠える声や、松風、波の音、風の音、鈴虫の音という音になる。

このようにこの音楽によって、奏でられているのが、天地、自然の姿です。しかしそれだけでは地上に神の文明が起こし得ることは不可能ですから人間に言霊を賜ったわけです。人間の想念を言葉にして表すところの力、源力(これを源霊という)を賜ったのです。ですから言霊、 これは人間だけが科学文明をおこし得る基礎条件になっています。言語と文字は五色人の中に共通につくられたのです。このように人間界でいえば、文明を完成するということ。 神界のような文明を地上に成り生り鳴り也らせて、物質で現象化していく。これが神の子ヒトの役割なのです。


平成二十五年とは。「五」というのは、数では「一」は一番根本ですが、「五」というのは尊いのです。だから山をみても五が一番頂点になるのです。一、二・・・と上って、五が一番上で、六、七・・・と下りている。 だから位からいうと一番高いのです。「五」という字は、「火」だから、「火」は「一人」ということで、「主神」ということです。

「五」という字は神様です。尊い年になりますが大変(大きなに意味で)な年にもなります。五をイツとも読む。「イ=五」というのは「人」ということです。ですから「人」というのは霊と体ですから霊体(霊が主になる)と結んだ世になり神の霊線が濃くなるのです。で体(物主)を主にしてる人は苦痛になるでしょう。 ツは十八になります。前記参照。二十五=二⇒再び⇒十⇒神⇒五⇒出ずるの意⇒再び神出る。

太陽は現在、2013年の極大期(11年周期の太陽活動のピーク・十一年目で呼吸するのである。此れまでもそうで有ったのですが非常に大事な年です。)に向かっている。

豆知識1;ヒ・フ・ミ (火・風・水)について〜火と水はすでに明らかですが、フ (風)は、この場合は 火と水の理が交り合ったときに生ずる音と、宇宙の息吹に核当する。 さらに フ のコトタマには、吹く ことから吹き分けるの義がでてくる。すなわち、二つ以上に分ける。あるいは、縦と横に分けるの意味がでてくる。とくに、後者は火と水の性質から 立て分けの義がでてくる。一般的には、火は縦にのぼり、水は横(水平)に流れる といわれる。

そして色彩的にいうと、火は赤、水は青にたとえられる。ここから青を横軸、赤を縦軸とすると 十字 を創ることができる。もちろん、陰陽が極まると、互いの性質に転化していくように、火も極まると水のように水平に這っていくし、水も極まると 火のように垂直に立ち昇っていく。この極まる状態こそ宇宙その物であり無くてはならない物であると思われる。フ のコトタマ には、吹き分けることから出てくる厳しさがある。

しかしこれは火と水の理から生じたものであり、鳴り 生り 成る ときの厳しさであり、本来は創造的なものである。さらに、フ のコトタマは 吹く ことに原義があるように、 一度吹いたら、今度は逆に吸わなければならないのである。当り前ですが・・・。これが天地が呼吸すると言われることである。話が変わるが、それを現わしているのが土笛の吹く フ の原理である。

豆知識2;ヒトを陰陽両面からコトタマ学的に考察すると、火と水の理が交り合った時、ヒナガタとして止まった時、ヒト となるのである。ヒトは霊が交り合い止まっているだけではなく 霊線という天と結ばれていることに気がつかなければならないのである。

豆知識3;人体は、頭脳から理性も記憶も感情も生まれ、手によって物は造られ、足によって人体を自由に移動せしめ、毛髪も皮膚も爪も眼、鼻、口、耳等必要なものは、実によく備わっている。 額、第三の目。足裏、大地からエネルギーをもらうもの。汗線、体内を浄化できる。

ちなみに、指が五本なのは人間のアンバランスを表しています。親指、中指、小指はそれぞれ権威、怠慢、色情つまり欲の霊性を現し、人差し指と薬指は慈悲と慈愛つまり徳の霊性を表します。 だから妖怪は指が三本しか無く、神には二本の指しかないのです。

身体と霊的象徴と言えば、小宇宙である人体と天地自然の照応であり、左目は太陽(霊的)であり、右目は月(体→物的)である。 『神道大意』には「頭に七穴あるは天の七星なり。腹に五臓あるは地の五行なり。合わせて十二であるのは天神七代地神五代の数と同じである」というようなことが言われている。 神などにも格差があるらしいです。正神界・魔界→邪霊界ともに、181の階級があるらしいです。

生きとし生ける物達に光あれ!!

数霊は宇宙空間の果てから、人体の隅々に至るまで生命として呼吸をしながら、天と地と共に、神と人と共に、太古の昔から生き続けているのです。 そして、言霊と数霊は表と裏の関係に有り、表裏一体です。又、言霊から数霊へと変換したものを言霊数と呼びます。 言霊数は解りやすく計算しやすいように表になっていて、アカサタナハマヤラワのア行が1から始まり5まで、カ行が6から始まり10までというように、言葉と数字が一対になっています。 その表(下記参照)でいくと、「ラ」の言霊数は41(4+1=5)です。

他にも言霊数41のものは、カミ(神)、テンタイ(天体)、ケツエキ(血液)、ヘソ(臍)、ノウカン(脳幹)・カンノウ(間脳)、サイノウ(才能)、シンネン(信念)、 タツカン(達観)、サホウ(作法)、センニン(仙人)、コメ(米)などが有り、皆、神41が居て下さり重要なものばかりです。ラの持つ言霊力、波動の偉大さは万国共通で普遍的なのです。 又、音霊としてのラも大きな力を持っています。

水に対してラ(41=4+1=5)の音階を聞かせると、他のどの音を聞かせた時よりも安定した波動になることが、知られています。 水自身もラの音を聞くことで、最もストレスが溜まりにくくなるのです。数霊には音霊があり又言霊も隠されているのです。それを如何するかによって響いて行くのです。 時代の背景もありますが・・・。求める人によっても、聞く人によっても違いが出てくるものですが、いつまでも続くとも思いませんが・・・。これがヒントになるでしょう。

豆知識1:およそ1万2千年前に突如海底に消えてしまったムー大陸。そこでは王のことを「ラ・ムー」又は、「ラー・ムー」と呼んでいたのだそうです。

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豆知識2 参考程度:十二支(じゅうにし)

 1.子年/鼠年  子(ネ)=ねずみ
2.丑年/牛年  丑(ウシ)=牛
3.寅年/虎年  寅(トラ)=虎
4.卯年/兎年  卯(ウ)=うさぎ
  5.辰年/龍年/竜年  辰(タツ)=竜
6.巳年/蛇年  巳(ミ)=蛇
7.午年/馬年  午(ウマ)=馬
8.未年/羊年  未(ヒツジ)=羊
9.申年/猿年  申(サル)=猿
 10.酉年/鳥年  酉(トリ)=鶏(トリ)
11.戌年/犬年  戌(イヌ)=犬
 12.亥年/猪年  亥(イ)=いのしし

<日本語の読み>

子:ね 丑:うし 寅:とら 卯:う 辰:たつ 巳:み 午:うま 未:ひつじ 申:さる 酉:とり 戌:いぬ 亥:い

<音読み>

子:し 丑:ちゅう 寅:いん 卯:ぼう 辰:しん 巳:し 午:ご 未:び 申:しん 酉:ゆう 戌:じゅつ 亥:がい

十干(じっかん)

干支(えと)の「干」は「十干」のことで、以下の10種類です。
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸

<日本語の読み>

甲:きのえ 乙:きのと 丙:ひのえ 丁:ひのと 戊:つちのえ 己:つちのと 庚:かのえ 辛:かのと 壬:みずのえ 癸:みずのと

<音読み>

甲:こう 乙:おつ 丙:へい 丁:てい 戊:ぼ 己:き 庚:こう 辛:しん 壬:じん 癸:き

天球を約12年で1周する木星の運行を目安として、天を12の方角に分けて名前を付け、1年12ヶ月の暦をあらわしたのが十二支の成立(それぞれに動物の名前を当てたものです。)であるといわれます。 十二支にも陰・陽があり、「子・寅・辰・申・午・戌」が陽、「丑・卯・巳・未・酉・亥」は陰で、陰陽が交互に割り当てられています。 十二支の時間で現在にも引き継がれているのは、午前、午後です。午の刻(12時)の前と後です。また、地球の子午線は十二支での方位、子(北)と午(南)とを結ぶ線です。

「干支(えと)」とは、正確には「十干(じっかん)」と「十二支(じゅうにし)」の組み合わせです。 2012年の場合、十干は「壬(みずのえ・じん)」、十二支はご存知の「辰(たつ・しん)」なので、干支は「壬辰(みずのえたつ・じんしん)」となります。

十干は、陰陽五行説に基づいて「木・火・土・金・水」の五行と、「陰・陽」の「兄(え)・弟(と)」に分けたものです。 五行説とは、古代中国の思想で、木・火・土・金・水の五元素(五行)が万物を構成すると考えるものです。陰陽道も中国からきた思想で、すべては「陰」と「陽」の2つに分けられるというものです。 こうして、五行をそれぞれ兄(え)と弟(と)に分けたのが十干です。兄は「陽」を、弟は「陰」を意味します。本来はこの十干を「えと(兄弟)」というわけです。 木(き)は甲・乙、火(ひ)は丙・丁、土(つち)は戊・己、金(かね)は庚・辛、水(みず)は壬・癸。木は、陽である甲が「木の兄(きのえ)」、陰である乙が「木の弟(きのと)」、火は、陽である丙が「火の兄(ひのえ)」・・・と割り当てられます。

五行・・陰陽・・・十干・・よみ

木   陽    甲   木の兄=きのえ
    陰    乙   木の弟=きのと
火   陽    丙   火の兄=ひのえ
    陰    丁   火の弟=ひのと
 土   陽    戊   土の兄=つちのえ
     陰    己   土の弟=つちのと
金   陽    庚   金の兄=かのえ
    陰    辛   金の弟=かのと
 水   陽    壬   水の兄=みずのえ
     陰    癸   水の弟=みずのと

今後数年の干支

2012年(平成24年)から2016年(平成28年)までの干支は下記のとおりです。
2012年 壬辰(みずのえたつ・じんしん)
2013年 癸巳(みずのとみ・きし)
2014年 甲午(きのえうま・こうご)
2015年 乙未(きのとひつじ・いつび)
2016年 丙申(ひのえさる・へいしん)

十干十二支(じっかんじゅうにし)は六十干支(ろくじっかんし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。。「干」は木の幹、「支」は枝を意味します。非常に重大な意味があるんであります。
六十干支

 十干と十二支を組み合わせたものを干支という。これは、60の周期となるので六十干支とも言う。これを年に割り振ると60年で一回りすることになる。60歳を還暦というのもこのためである。 それぞれの行の一方と組み合わせれば他の一方とは組まないようになっています。甲子、乙丑はありますが、甲丑や乙子はありません。

1・ 甲子 きのえ ね      13・ 丙子 ひのえ ね
2・ 乙丑 きのと うし     14・ 丁丑 ひのと うし
3・ 丙寅 ひのえ とら     15・ 戊寅 つちのえ とら
4・ 丁卯 ひのと う      16・ 己卯 つちのと う
5・ 戊辰 つちのえ たつ    17・ 庚辰 かのえ たつ
6・ 己巳 つちのと み     18・ 辛巳 かのと み
7・ 庚午 かのえ うま     19・ 壬午 みずのえ うま
8・ 辛未 かのと ひつじ     20・ 癸未 みずのと ひつじ
9・ 壬申 みずのえ さる    21・ 甲申 きのえ さる
10・癸酉 みずのと とり    22・ 乙酉 きのと とり
11・甲戌 きのえ いぬ     23・ 丙戌 ひのえ いぬ
12・ 乙亥 きのと い      24・ 丁亥 ひのと い

25・ 戊子 つちのえ ね    37・ 庚子 かのえ ね
26・ 己丑 つちのと うし   38・ 辛丑 かのと うし
27・ 庚寅 かのえ とら    39・ 壬寅 みずのえ とら
28・ 辛卯 かのと う     40・ 癸卯 みずのと う
29・ 壬辰 みずのえ たつ   41・ 甲辰 きのえ たつ
30・ 癸巳 みずのと み    42・ 乙巳 きのと み
31・ 甲午 きのえ うま    43・ 丙午 ひのえ う
32・ 乙未 きのと ひつじ   44・ 丁未 ひのと ひつじ
33・ 丙申 ひのえ さる    45・ 戊申 つちのえ さる
34・ 丁酉 ひのと とり    46・ 己酉 つちのと とり
35・ 戊戌 つちのえ いぬ   47・ 庚戌 かのえ いぬ
36・ 己亥 つちのと い    48・ 辛亥 かのと い

49・ 壬子 みずのえ ね     
50・ 癸丑 みずのと うし     
51・ 甲寅 きのえ とら      
52・ 乙卯 きのと う       
53・ 丙辰 ひのえ たつ      
54・ 丁巳 ひのと み      
55・ 戊午 つちのえ うま    
56・ 己未 つちのと ひつじ    
57・ 庚申 かのえ さる      
58・ 辛酉 かのと とり      
59・ 壬戌 みずのえ いぬ     
60・ 癸亥            

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生き言霊・数霊に光あれ!!

言霊豆知識-2-1

晴朗無比にして、澄切り澄み切って一点のゝ(チョン)ホチが発生しスースースースーと四方八方に限りなく、極(きわ)みなく伸び拡がり膨れ上がり、(丸く円形に大きく結ばれていって呼吸をはじめるのである。また○は全てのもの生み出す力もっています。) 遂には「ス」(全ての言霊の中心を司っている。いろは
を外から内に円を描く様に描いて見てください。スが中心に来ることが分かる。スの神という)は極度に達して

「スウースウー」と「ウ」の言霊を発生する。(ス声が成長して、スーゥとウ声に変わってウ声が生まれる=神名=宇迦須美の神=ウガスミ)「ウ」は万有の体を生み出す根元にして(ウは霊魂=神霊の元子 のもと 物質=大元素 のもとであります。=霊と体を生みです根源)、 ウーウーウーと鳴り 生り 成りて 「ウ」の活動極まりて、又上へ上へ上へと昇って(霊魂の完成〜神霊の大原子である霊素が発生、これを霊系の祖神高皇産霊神(そしん たかむすび の かみという=男性的要素を持つ神)次に下に降っては物質の大原子である体素を醸性、これを体系の祖神神皇産霊神(そしん かみ むすびの かみという=女性的要素を持つ神)  「ア」の言霊(神の妙の働きにより=天津日鉾の神=アマツヒコ)を生み出す、又「ウ」は降っては遂に「オ」の言霊(大津瑞穂の神=オホツミズ)を生み出す。上にア下にオ声と対照で気を結び、そこに引力が発生するのである。

さらに降って「ヱ」の言霊が生まれさらに「イ」の言霊を生む。「ア」「オ」「ウ」「ヱ」「イ」の五大父音が完成した。ここに天の言霊の原点がある。【ちなみに『ウ』の言霊は万有の霊と体を産み出す根げんであります。】 之を理解出来なければ音と言霊の関係が解らないであろう。言霊は、第六次元界(カゴリミ神界=国万造主(くり よろず つくりぬし)神霊界)に坐(ま)します。

天日言文造主大神(あめ ひ ことふみ つくりぬし)によって作られたのです。したがって、天地創造の時、「言葉は神なり」「初めに言葉ありき」といわれたのも、 こうしたことからなのでス。「ス」は、七十五音声を誕生させた後には、数字で言えば0になる。0とは無(ない)という意味ではない。無限の可能性を秘めているということで、 実数の正と負の中心にあり、また虚数と実数の境に存在する。これを紫微(しび)天界という。

実は太陽の音を読者は聞いたことがあるだろうか? 実は「スウー」と言う音が出ている事が聞いたことがあるだろうか。ホワイト・ノイズ(すべての波長の音をふくみスーあるいはサーといった音に聞こえる)みたいな音を出しているのである。

主の神の生言霊大原理知らずば天地の成立解らず!!

言霊豆知識-2-2

言霊に関する概要を知る上で重要な事。@宇宙は言霊の発生と共に形成された。A言霊には発生の順序がある。B「ス」が最初の言霊である。 @につてい『新約聖書』ヨハネ伝に、 「初めに言葉があり、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」とある。言葉というと、人間が話すものと思い込みがちだが、宇宙創世の頃から、事、物の変化とともに言霊が鳴り響いていたというわけだ。

言霊は「根源的な音」ととらえた方がふさわしいだろう。変化が起こるという事は、そこに「力」が働いているという証でもある。また変化が連続的に起こるという事は、一つの言霊に注目すれば、自ら生み出した「享受(こうじゅ)する力」と次の言霊を生み出す「付与(ふよ)する力」とがあることになる。 後者の力こそがその言霊の働きということになる。一方変化とは新しい「個性」の誕生であるから、その音(言霊)はその個性の「象徴(シンボル)」となる。

言霊を唱えると、力が発揮されるといわれる理由は、現象の中に含まれるその言霊に由来する成分(個性)がより強く顕在化(けんざいか)することであり、 さらにその言霊特有の働きが行われるということになるといえよう。たとえば、火事に遭遇したときは「火」に由来する言霊を唱えれば鎮火(ちんか)するであろう。 小生も幾度か遭遇したことがあるが、やはり言霊の威力は凄いもので鎮火するのがわかる。

何も火事に限ったことではないが台風の時は小生の家にオーラというかオーブというかバリヤというか要するに危険状況下に有る時に言霊を家に向かって発するとその家自体が包まれて災害から守れてしまうという 経験をしている訳です。(家から三メートル離れてた大木が台風が去った後の朝に外え出て見るとねじられる様に倒れていました。普通であれば屋根直撃でした。霊的な力がこの家全体に漂っているのは感じる。)如何に言霊の意力が凄いものかを目の当りにしたものです。 本当にその時は鳥肌が立ち呆然とした自分がありました。 又山での天候が危うい時は天に向かって言霊を奏上すると山から降りるまでの間なんとか雨が降らなかったという経験をしています。

いつのことか忘れてしまったのだが、道を通ると犬(ドーべルマン)が吠えるので波動というものをおくってみた。いたずらに恐がったり相手に敵愾心、対立の想念を持たぬこと、心を調和させることだと自分に言い聞かせたのである。 いたずらに怖がったり敵対心の波動が動物にも伝わって危害を加えようとしてるんだということが分かったのである。 そして、友だちなんだよっていう魂の波動を、相手にも与えてやるということを学んだのである。其の日を境に吠えなくなったのである。

全てこれも経験しているから解るものである。限りがないので載せることは省きます。 次にAであるが、事、物が変化するときは、順序が自然と決まってくる。たとえば、人の生まれる前に地球ががなくてはならず、地球が生まれる前に太陽がなければならず、 先ほど@で説明したように、すべての個性に固有の言霊があるのならば、事、物に順序が決定される。すなわち「ア」が存在するための前提が「ウ」であり、 「ウ」の前提が「ス」であり、そうして「ス」が万物の根源である。最後にBであるが、これこそ神観(神に関する考え方)を如実(にょじつ)に表すものである。 「ス」は「素」であり、すなわち万霊・万物の根源である。

さらに「主(ス)」でもあり、「統べる」主体を意味する。信仰する神、或いは御本尊の数だけ宗教団体があるのだから、この考え方に賛同出来ない方も居られようが、 言霊の元の発生順序というものを考えれば少しは解って頂けると思う。各々が正しいとか間違いとかではなくて、その時その時の時代に応じてミ働きが違うのである。 また真如(しんにょ)の教え(仮の教え)だとかで説かれたりするのはその為である。(又釈尊は或日弟子から仏教の真髄を訊かれた事があった。

世尊は『左様一言にしていえば真如である』と仰せられた。真如とは無論真如の月の事で其時既に仏法は月の教えである事を示されたのである。) そうして真如という文字は真の如し(真の如く教える)とかくのであるから、真ではない訳で此点もよく考えなくてはならない。それから仏典では実相真如と言われているが之は逆である。 何となれば実相とは真実という意味で即ち昼の世界である。真如は夜の世界であるから順序からいって、真如が先で実相世界は次に生れるのである。これが「真如」ではできなかったが、「実相」ではできるのである。


だが元は一つから成り立っていることに気がついていただきたいのである。さらにこれから書いていくことの中で理解をして頂きたいものである。

豆知識1;神道では高天原に神魂霊鎮もり坐す(しずもります)と唱えたり、神留坐(かみつまります)と表現しますが、これでは神様が活動することができないので、 また現在は火の神様(正神)が神霊界で活動なさっておられるので「燃え出で坐す」と発言します。 高天原→これはタカアマハラ言います。タカマガハラとは言いません。マガというのは「曲津神」のお呼び出しになります。曲津神は邪神系統の神です。 タカアマハラは、「天津神」即ち正神に通じます。言霊は一言間違えばとんでもない結果となります。

霊界ではいよいよ左進右退的活動が始まっていますが、そうするとそれはどういう結果になるかというと、火の霊気はつまり火素ですから、浄化作用が強くなるわけです。 そうするとこの左進右退の渦巻きが一切のものに行って、ある程度浄化されたきれいなものは中にはいれますが、汚いものは外にはねられてしまうのです。大浄化作用です。 ですから残ったものは善で、はねのけられたものは悪ですから、自然に善悪の立別けがついてしまうわけです。

それでこの渦巻きを自然に通って、はねのけられない人を作るのが霊的光力です。しかしあんまり慢心したり取り違いをしたりすると危ないですから、そこをうまくやればよいのです。 それで中にはスーッと通る人もあるし、通っても閊(つか)えたりして、かなり苦しむ人もあります。それでそれが一番現われるのは病気です。これは始終霊的光力していて、だんだん浄化が強くなって、強くなるとどっちかに片づくのが早くなるのです。助かる死ぬということがはっきりしてくるのです。

★夜の世界と昼の世界(これを小さく地球にたとえてみればよく分る。夜は月が上天にあって照らしていたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に隠れる。すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、これが昼間の世界である。 そうなれば天は火であり、中界は水素の世界であり、地は依然として地であるから、これが五六七の順序である。右を一言にして言えば、昼の世界とは、今まで見えなかった日が、中天に輝く姿で、それが昼の世で五六七の世で順序正しき世である)、夜の文化と昼の文化とでも言いましょうか、 そうなると夜の文化でいらないものがたくさんできて来る。昼間になると電灯やいろんなそういうものがいらなくなる。

というように、夜の時代のものがここでいらなくなることが滅びるということです。審判ということはその夜昼を分けるのです。いらないものは、まずしまうか、あるいは毀してしまう、 これから明るいものをだんだん造っていくと、こういう具合です。そうすると、いまの、霊界が明るくなるとどういうことになるかと言うと、人間にですね、人間というものはやはり体と霊とその間に空気に相応すべき水分というものがある。

水蒸気ですね。これが人間の体に非常にあるわけでして、そういう三段階(物質界、それから空気界、霊界と、この三段階になってます)になっているうちの人間の霊です。魂と言ってもいい、それが霊界に属しているわけです。霊界が明るくなると、 それの明るさに相応しない魂の人は、どうしてもその相応するように、その曇りを取られるわけです。

取られると言って、なにか故意に取るわけではなくて、自然に浄化すべき、汚いものを、きれいに替えなければならない。 そうすると魂の汚い人は、霊界が明るくなるにつれて掃除をされる、それが、ま、苦しみですね。で、病気の原理もそういうことに説いてあります。それでやると病気というのはよく分かるのです。

いままでは霊ということを知らなかったというか。無視していたのです。しかし霊のことが分りだすと 全てが見通すことが出来る様になる。また霊の曇りを明るさに相応するようになるときに、病気くらいですめばいいけれども、 そうでなくてもっと強くすると、もう病気なんかに堪えられないで、その人は死んでしまう。病気というものも、少しずつ来るから病気で、いいのですが一遍に来たら倒れてしまう。 最後の審判というのはそれなんです。そこでだんだんだんだんこの霊界が明るくなるにつれて、そして一遍にやられることになると、そのために命を失うことになる。

それが大量になる。大量になってはかわいそうだからというので、そのことを知らせる。知らせて助けなければならないというのが、神様の御意志である。しかしノアの洪水のことでもそうですが、 今世紀での霊的光力しらせてもなかなか信ずる人がいないのが現状のようです。しかし今度は火の洗礼となると、これはやはりたいへんな、大きなことなんですが・・・。

さてさて体主霊従(夜の世界)と霊主体従(昼の世界)との文化の交代である。日本人と欧米人との霊性について、最も解り易くいえば、日本人は、霊六体四であるに対し、西洋人は体六霊四というような訳である。 故に、来るべき文化は霊五体五となるので、それが真の理想的文化の真髄である。そうして体的文化とは、人体にたとえれば肉体文化である。 肉体はいわば外殻である。樹木にたとえれば枝葉であり樹皮である。西洋医学の研究と理論が、すべてにおいて外殻的である事である。

しからば病原は西洋医学の外部から内部に向って侵入する説とは反対に、霊的光力は内部から外部へ向って排泄するというのである。故に、西洋医学の唱うる対症療法とは、外部に表われたる症状を抑止、鎮圧する方法で、それは外殻的である。 しかるに霊的光力を処すれば症状に対するよりも、症状として表われたるその根源そのものを解消するのであるから、根本的である。

神向というものは人間の欲望の制限ができるのです。自己愛という、自分だけ良ければ人はどうでもいいという思想、考え方というものが、むしろ反対になるのです。 まず自分の利益を考えないで、人の利益を考えるという利他愛の思想が信仰の根本ですから、その考えでやれば、労働者は大いに働いて良い物を作って、単価を安くして売れるようにする。 それから資本家の方では、儲かれば彼らに利益を分配するというように考えるのです。それで両方がそうなれば、明日からでもすぐに解決するのです。 解決するどころでなく、そのために事業は非常に繁栄します。輸出品というようなものでも、良い物が安くできるのですから世界一になります。そうしてたくさんできますから、税金なども楽に払えるばかりでなく、 国家としてもよけいな金はいらないから、国の台所がずっと楽になりますから、税金問題というものもなくなってしまいます。国民の方では言われないうちに税金を収めたいということになります。 ですから、そういう結構なことにするのはわけはありません。

ただ自己愛と利他愛をちょっと向きを変えればいいのです。かえってその方が楽で易(やさ)しいのです。ところがそんな結構な神向というものを、低級だとか迷信だとか科学的でないとかなんとか言って、偉い人やジャーナリストたちが批判したり嘲笑(ちょうしょう=あざわらうこと)したりしているのです。 しかしそれはそうかもしれません。獣から見れば、人間はなんと間抜けな奴だろう、オレたちは山でも谷でも一遍に飛び越えてしまうのに、人間という奴は二本足で一生懸命に駆け出しても、じきに息がきれてしまって情けない奴らだ、と思うか思わないか分からないが、そんなものだろうと思います。

そこで濁りを取り去る、取ってしまうというのが霊的光力です。ところが取られるのはなにかと言うと、やっぱり副守護神という生きている霊ですが、これは取られるのが怖いのです。 取らなくてもそういった獣性の因が萎縮すればいいので、いばらなければいいのですが、それがつらいから人間を反対させておどらせるのです。 いろんな妨害というか、自分をやっつけそうな神様に触れてはたいへんだから、触れないように一生懸命自己擁護しているわけです。

それで今までは自己擁護もできたのです。それで彼らの一番恐ろしいのは光なのです。昔からいろんな宗教で、キリストや釈迦とか偉い人がいろいろ出ましたが、つまり光がごく薄かったのです。 そのために徹底的な迫害にあって、生きているうちにほとんどやられて、死んでから何年もたってからやっと芽が出るという有様です。光はつまり太陽の光で強いのですから、生きているうちに勝ってしまうというわけです。 そしていまは新文化の原始時代である。以前のは人間のできたての本当の原始時代であったが、今度は
人間が一大飛躍して神縄文時代(神精神文化)となる。

◆根本にさかのぼり、不幸な者ができんようにするのを考えないで救うと思っても根本から出ぬようにしなければ、これは根絶することもできず、いつまでやっても際限のないことになるのであります。 救うのも必要だが、不幸な者のたくさん出ぬようにするのが一番良いのであります。

社会事業は箆棒(べらぼう)だ、いっぽうで不幸な人を造り、それを救うのであります。それが出ぬようにするのが本当なのだ。これがごまかしの世界なのであります。 悪の出る根本はどこにあるか、これは、支配階級が正しい行いをするのが根本であります。宗教家や政治家は、良いことをせねばなりません。上流が濁れば下流が濁るのがあたりまえであります。

すべて源にあるのであります。源の人間が本当の働きをすれば善いのであります。ところが、いまの上流は、それをやるのが嫌なのだろう。 妾(めかけ) を置いたり、芸者買いをやったり、女子に手をつけたりする。こういうことが止められんのであります。根本を良くするのが嫌なのであります。

政治家も神様を祭り、政治を行なう前に、まず神を拝んで、しかるのち行なえば良い政治ができるからよいが、待合や料理屋でやらなければ、会議ができん。 乱れているから本当のことができないのであります。何でもそうですが何かをやる前にまず神を拝んですれば上手くゆかない訳がありません。

●左進右退とはまわるのことで拡がることです。(火の洗礼ともいう=霊主体従ですから、霊が先です。霊界の世界)

●右進左退とはすぼまることです。(水の洗礼ともいう=体従霊主ですから、物が先です。物欲の世界)


●最近「ら」抜き言葉として、「見れる」「食べれる」「来れる」「起きれる」「着れる」などの使い方が違うと言われています。若い方達には、「どちらでもいいんじゃない、 通じてるんだから」という思いもあるでしょうが、言葉には霊魂(れいこん)があるということが分かりますと、やはり正確に言うべきだなあと思います。

●「ら」という言葉を抜くと言うことは、「ラの神様」の言霊の作用を省くということになります。

●「ラの神様」は、「羅針盤」のように物事の行くべき進路を示して下さる神様でもありますので、「ラ」を抜いてしまいますと、どちらの方向に行ってよいか分からなくなります。
大事な「ラ神番」であられるのです。
勿論、それだけの意味ではありませんが、言葉は正しく使わせて頂くとよいと思います。言葉の乱れは世の乱れにつながりますから、「ら」抜き言葉は使わないようにしたいものです。

●音にも同じように霊魂がありますから、「音霊(おとだま)」と言い、色にも霊魂がありますから、「色霊(いろだま)」と言い、数にも霊魂がありますから、「数霊(かずだま)」と言います。

●言葉にも音にも数にも色にも魂が込められています。ということは、それぞれに神様が宿っておられるということです。

●太陽の光線が七色として、それをグルグルまわすと白になる。

●音についてもう少し書いてみよう。聴覚には限界があるが量的にも質的にも確認されうる、人間にとって、大砲の音は大きい。しかし、そばの木の上の蝉は、平然鳴いている。 これに対し、針が畳の上に落ちる音は小さい。一メートル先に落とされても、通常は聞こえない。しかし、蝉は、たちまち飛び去る。識域が異なるのである。もっとも、静坐 (禅、鎮魂を含む)の行に徹しゆくところ、ときに、それよりも微細な音すら明瞭に聞きとらうる。それは、通常の識域を超えた、ふかき実感である。

これに対して、地球が秒速三万キロのスピードで太陽の周りを公転するとされるが、その音が聞こえない。大きすぎるのである。また、一般に音の質についても、人間の耳には、秒間二万振動以上では 低すぎる。すなわち、聞こえない世界が無制限にあるのである。

●余談ではあるが、嗅覚以下については、その識域の制限は一そう容易に気付かれる。例えば、「廁に居てその嗅を忘れる」等は、日常の経験がある。人間よりも犬猫はよく嗅ぎつけるが、木材も 敷物も器物も、また、空気も土地も、それぞれ独自の臭いがあるべく、それを感受していては、その神経が瞬時も耐えられるものではない。

それぞれの分限があればこそ、この現実に生きえるものである。同じ食物でもその他同じ風土の下においても、食物等の質材は、「地」によっては異なるものである。

●言霊の神様、音霊の神様、数霊の神様、色霊の神様、それぞれにそれぞれの意味が秘められています。

豆知識2:●「波動」は宇宙一切は波動により構成され、そして運営されていきます。「波」とは、生命力となり、万象成生(ばんしょうせいせい)と化育(かいく)の根元力であり、 宇宙と天地剖判(てんちほうはん)という宇宙創造の時代から、万生の伸達(しんたつ)させるための神の方便なのです。すなわち神の仕組み、天地創造のときに定められた 「大仕組みの置く手」で、万象が、神も人も一切乗っていかなければならにない掟・乗り、すなわち法の一つでもあります。


宇宙の音霊試聴  聞きながら読んで頂くとよく理解出来ますよ。



生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-2-3

「いろは」について!上古第二代造化氣万男天皇(つくりぬし き よろず お すめらみこと)の時代の作で、 天皇と皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ=天皇または皇帝の女子を指す)が旅先で惜別(せきべつ=別れを惜しむこと)の意を込めて詠じたものといわれています。 文字の型は、はじめは豊国文字でした。後の不合朝(ふきあえずちょう)第六十四代豊日豊足彦天皇(とよ ひ とよ たるひこ すめらみこと)が作成されたヒカラ文字から、 「イロハ」をひらがな文字としたのです。

さらに、「イロハ」には、ひらがなの沓冠(くつかむり)に秘められた暗号があるのです。歌の七行ずつ区切っていって、横に並べてみる。上段七行の上を右から左へとさらに下段を七行を右から左へと詠むと「いちよらやあゑ とかなくてしす」という言葉になる。

これは「イチヨラ(唯一神)のヤハエ(エホバの神様=ヤ→立て、ハ→開く、エ→枝・エ→枝、ホ→炎→立て、バ→開く)を説かなくて死す」つまり 「イチヨラのヤハエ(一番最初にイスラエルに行かれた神様=エホバの神様=ユダヤ教の神=エホバの日本名が天照大神)について知らなければ世界のことは何も解けません」という意味です。 もうすこし解りやすく言うと、天地創造の時、物質界の創造にあたられました元の神様である天津御祖(あまつみおや)ス神が解らなければ、 「いろは四十八文字」の意味は解らないということの謎賭けです。「イチヨラ」とは一つしかないという意味です。

また神様の御経綸が解らなければ人類は滅亡する、という重大な予言がそっと隠されています。しかしながら、そうしたこととは無関係に「言葉は生きもの」である。いろは、という言葉((言葉=光透波(九十八)=十八=神開く=コ→七、ト→十七、 バ→六六=九〇=九十波=九のように数循環波動でもあり、生命エネルギーであり、言葉(言霊)と数(数霊)は根深くつながっている))そのものが我々日本人の存在(魂)と深く結びついていることは否定出来ないでしょう。
真実(まこと)の九十八(ことば・言葉・光透波)には正神の〇(みたま・御霊)が籠る(こもる)のでありそれを言霊(ことだま)というのでありそれぞれの身が〇九十(まこと)の九十八(光透波)九十〇(ことたま・言霊)で世を浄めねばなにもならない。

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「イロハ」四十八文字参照
  ゑ ・ あ ・ や ・ ら ・ よ ・ ち ・ い
  ひ ・ さ ・ ま ・ む ・ た ・ り ・ ろ
  も ・ き ・ け ・ う ・ れ ・ ぬ ・ は
  せ ・ ゆ ・ ふ ・ ゐ ・ そ ・ る ・ に
  す ・ め ・ こ ・ の ・ つ ・ お ・ ほ
  ん ・ み ・ え ・ を ・ ね ・ わ ・ へ
    ・ し ・ て ・ く ・ な ・ か ・ と

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いろはにほへとちりぬるを
わかよたれそつねならむ
うゐのおくやまけふこえて
あさきゆめみしゑひもせすん

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豆豆知識-1

「竹内文書」の実在を前提に、「竹内文書」の研究者であった酒井由夫博士(昭和50年没(80歳))の遺稿(きこう=死後に残された未発表の原稿)から神代文字及び「いろは歌」の由来を取り上げてみる。 「人類の祖国日本の固有文字は、まず最初に神代において神代文字を考案された。すなわち、アヒル文字、アヒルクサホ文字、像形(ぞうかた)カナ文字の三種類である。アヒルクサホ文字は、天神第6代の国万造主大神の弟神である天日萬言文造主神(あめひのよろずことぶみつくりぬし)と天神第7代の天照日大神(日球神)とによってつくられた。

国つ神 皇統(ことう=天皇の血筋)第1代天日豊本葦牙気皇主天皇(アメヒノモトアシカビキミヌシスメラミコト)が天越根国(アメノコシネノクニ))に人の世を開き給うた時、これ等の神代文字をそのままそこへ移し植え給うたが、この際これら以外の文字も考案なされ、全体として十六種類の文字が出来た。

十六種類の文字の中に、伊豫(イヨ)文字がある。天日豊本葦牙気皇主天皇の第五十五番目の皇女に天日向愛姫神( アメヒノムカイアイヒメカミ) がおられる。伊豫の国に天降られる天日向愛姫に父天皇から授けられた文字がイヨ文字であり、イヨ文字は、その子孫によって代々伝えられたものである。

このイヨ文字は、他の神代文字のようにヒフミ順に配列されないで、イロハ順に書かれている。国つ神 第二代の造化気万(萬)男見光天皇(ツクリノシキヨロズヲミヒカルスメラミコト) は、五色人統治の必要上、天神人祖一神の存在する神国を中心とし、それより十六方にむかって神々を御派遣になった。

その時、遙か西南の方向には命を受けてヨイロハ・アダムイブヒ赤人女祖神(あかひとめそかみ)が天降られた。このヨイロハ姫神の叔母に当たられるのが、此処にいう天日向愛姫神である。

祖国を離れ遠く西南(ヒイロ)の地に赴(ふ=おもむく)かれるので盛大な宴が開かれた。

その席上で父君(ちちぎみ=父を敬っていう語)の天皇がヨイロハ姫神に、この歌を留別(りゅうべつ=旅立つ人が、あとに残る人に別れを告げること)されたのである。

同席した天日向愛姫神は深く感動なされて、その時以来この歌を書き留めて愛誦(あいしょう=好んで口ずさむこと)されたと云う。

「色は匂へど」ってのはどういう意味でおっしゃっているかというと、古文献に説明があるんです。いい香りを放つお年になりましたねぇ、ということです。 これから、ペルシャからイスラエルの方を開かなきゃならん、お前を派遣をしなきゃならんが、そのいい年頃になったねぇ。だから相当若いときに派遣をされた訳です。 「散りぬるを」、今こそ親から離れていかなければならんが。ワシからお前を離さなきゃならん。

「我が世誰ぞ常ならむ」というのは、もう今でも言いますが、人生無常だってねぇ。有為転換をする、流転の世である。人生は流転である、あれと同じ事です。 「我が世誰ぞ常ならむ」誰でも有為転変・人生無常を味わうものだよ。それは結局は神の鍛えの宿命なんである。

「有為の奥山今日越えて」、従って今この時が来てお前は海山を越えて、そして神のミチを教え、又色々人類に文化を教えなきゃならん。その時分(じぶん)までに神様のこの、 筆・墨・紙作ることから、筆作ることから、墨作ることから、文字書くことから、神代文字書くことからもう全部、全部神様教えておられる、み子に。

そしてそれを全世界に普及して歩かされた。「浅き夢見じ酔ひもせず」、もう天国等へ、日の神様の大元へ等へ、帰って来ようというような執着を捨てて、 あるいは自分のいるお母さんに会いたいとかいう執着を捨てて、一所懸命にやってらっしゃいよ、いう意味で「浅き夢見じ酔ひもせず」いう言葉を発しておられるんです。 それを今度はイロハに致しましたのが、片仮名にしたのは弘法大師様であります。これもチャンと載ってます。ですからあの歌を弘法大師が作ったっていうのは真っ赤な嘘であることが分かる。 歴史書(古代史)には誰が書いたのか書かれていてる。

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イロハ歌 = 解釈

イロハニホヘド =イロハ姫も匂うが如く美しく成長したが

チリヌルヲ= 今やチリジリに別れて此処から去り行く事となってしまった

ワガヨタレゾ =しかしこれも我が人間世界では

ツネナラム =誰もが逢わねばならぬ運命であろう

ウヰノオクヤマ  ケフコエテ =しかし今日こそおまえは有為変転の多くの山々を越えて使命を奉じて旅に立つが

アサキユメ ミジ エヒモセズ =よもや再び天国日本を見ることも、親子が会うことも出来ないであろう

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又「カナ」というものはひとつひとつの個性を持った神様の「カタ」を表したのが「カタカナ」である。

豆知識:「日本の国には神様がお作りになった象形文字(=酒井由夫の著作にある像形[ぞうかた]カナ文字)からカタカナ天日霊文字からひらがなと言う神代文字から出来た 日本の文字がありますがカタカナもひらかなも象形神字(カタカナ)であり日霊神字(ひらかな)であって神字でありますが此の事を忘れて油断している所へ 頭の良い人たちが外国から来てカタカナは漢字の片方を取って作った文字であると言って阿=ア 伊=イ 宇=ウ 江=エ 於=オ 加=カ 多=タ 賀=カ 奈=ナ 此の様に字を書いて 説明されたからさあ大変すぐ信用してしまいました」「ひらかなは神代文字である天日霊草文字(あひるくさもんじ=酒井由夫の著作にあるアヒルクサホ文字)より出来たので日霊神字(ひらかな)であって日本の字となりましたが神字であります。
それを日霊神字(ひらかな)は平仮名であった平易な一時的な仮の文字であると言う訳であります」 「ひらがな文字は(アヒル)クサホ文字から変化したものであり、葺不合朝時代から盛んに使用された。
「新形仮名文字は、神武天皇即位五十年を記念する大祭の時定められた文字であり、ひらかなと共に現在の我が国で使用されている文字である。
この文字は、葺不合朝時代に広く用いられていた古文字を更に簡略化したものである。

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竹内巨麿が祖父より譲り受けた世界の歴史や太古の天皇家を記した古文献(いわゆる竹内文書)や真正な神器とされる神宝の正当な認知や皇祖皇太神宮の国家による日本国の再興を求めて、1900年に茨城県において御嶽教天都教会を開く。

1965年教団創設者であり、管長(教団代表)竹内巨麿が逝去し、子息の竹内義宮が管長の座を引き継ぎ、現在に至っている。

上古二十五代(皇統第二十五代)の天皇(スメラミコト)様がイロハ歌に変えられた(イロハの順序)もので、天皇(スメラミコト)様が全世界に皇子(十六人)を派遣(統治者)される時にイスラエルに行かれる皇子に送られたのがイロハ歌なのです。
上古二十五代のスメラミコトは、「天浮舟」(あめのうきふね)と呼ばれる飛行船にのって、世界中を飛び回り、人類が生きるに必要なことを教えて歩かれた。皇子を全世界に派遣し、世界を統治していた。

文字は日本で一番最初に創られたものである。一番最初は神代文字で在りました。またアメリカの学者がABCDのアルファベットは何処から来たものか研究した結果紀元不明と 結論を出されましたが、日本に来て神代文字を見てびっくりされた事も事実であります。全て日本から文字は出ておられるわけです。

余談話1(秘話);アルファという文字の音は『ア』で、 遥か太古に神様がお造りになった『神の御名の型の文字』つまり『象神名(カタカムナ)』の最初の文字で、 横の線が斜めとなり、 斜めの線が横に貫き、 一点で連なる斜めの線は縦となって上にあがって輪舞する。 その意味は、 『天』で、 だから最初の文字なのです。

余談話2(秘話);実は方角とか云われていますが霊界には方位等はないのであります。何故なら宇宙そのものが円で構成されているからであります。何処まで行っても円中心に動いているものであります。 ですから方位とか方角とかは本来は無いのであります。ただ基準を決めるのに過ぎないのです。いわゆる手相学・占星学・などなどは宇宙霊界には存在しないと言われております。 ただ神の御心にそっていけばなにも考える事は無いとされております。後は起きたことを受け入れていけばよしと言われております。

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十六綺形紋章の由来

上古初代(皇統第一代)スメラミコトは、天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみぬしみひかりおほかみすめらみこと)といい、二十一世続いた。上古二十五代(皇統第二十五代)のスメラミコトは、「天浮舟」(あめのうきふね)と呼ばれる飛行船にのって、世界中を飛び回り、人類が生きるに必要なことを教えて歩かれた。 皇子を全世界に派遣し、世界を統治していた。

皇統第2代 造化気万男天皇(皇統第二代天皇)の時、十五人の皇子、及び一人の皇女とを万国(世界)にお遣わしになり、此の十六人を十六方位と定められ、日本を中心として十六放射の形を作って定められたのが、 十六綺形の紋章(菊の紋章)であり、これを天皇の紋と定められた始めである。意外と知らない人が多いようです。世界各国に十六綺形の紋章(菊の紋章)が観受けられるようです。

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菊花紋章の由来

皇統第二代の時、地球全部を十六方位に別けられ、これを規形となしたるものを、天下(世界)ただ一人天皇の紋章と定められたのであるが、不合第一代天皇の御代、天皇自身、この綺形に菊花の弁、十六を並べられ、この十六菊花の紋章と定められたのが、現在の菊の紋章である。

ウガヤフキアエズ朝第1代タケウガヤフキアエズミヒカリアマツヒツギアメノスメラミコトは神託に従い詔して御紋章を制定された。
天照日神をかたどった日の丸を中心として十六方位の御光條を各方位にほどこし十六菊の紋を作りこれを皇室の御紋章となされた。
またヒヒイロガネによって菊の御紋章を造られた。

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三種の神器について

上古22代アマサカリヒムカツヒメノミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコトはヒヒイロガネを素材として剣、鏡、玉を造り 以上3箇を天皇が常に体に着けられた。これが三種の神器である。

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豆豆知識-2

大国主の神様は大国魂神(おおくにたまかみ=“国の魂”という意味なので、国を作った神、つまり開拓者の御分魂(ごぶんこん=人間の魂の人間には人霊しか障っていませんが、分魂には御神霊も障っているのです)の神様)で、神代において全世界に分派され、これが世界各国の建国、例えばイスラエルとかエジプトの文明を起こすのに、物の豊かさを導くため大活躍されました。 日本の大国主(物質の担当権)の神様は、かつて他の国に派遣された大国主神のご子孫にあたる方で、本国に帰られて、時代の文明開発に活躍された神様です。 大国魂の神様は、本来物質の開発の財宝を握っておられた神様ですから、大国主神のご出現と共に、日本で初めて鉄の兵器を開発し、これを使って 出雲から今日の兵庫県、そして浪花、熊野、伊勢と、紀伊半島の全域、さらに今日の愛知、長野、富山、新潟にわたる地域を平定されました。 それによって、出雲大和朝ができるわけで、大和朝や奈良朝ができる以朝(神武前)に、すでに日本の中央部は、平和文化へ出発していたわけです。

それで大和朝は、平和に国造りができたので、日本の新建国否復興大和の基礎として、 再建国上見失うわけにはいかぬのが本当です。しかし、この大和朝に至るまでの日本の平定、即ち大和朝への国造りは、分家の方の大国主のご系統がされたわけで、その平定の後は支那の勢力を握っていた 盤古系である神武天皇のご系統が引き継いで統制し、新しい奈良朝の建国になります。そしてイスラエル系の平安朝にかわり、それから南北朝へと移るわけです。 このようにして、同じ霊統でありながら、血統の面では、天皇家の争い、皇族と皇族との争いが常におこなわれてきています。

豆豆知識-3

言霊と数霊は一体である。其処に出てくるものは、『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十  ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ、いつ、むぅ、なな、やぁ、ここの、とぉ』であるが、 そしてヘブライ語では 「HIハイア、FAファ、MIミ、YOヨッ、TSIAツァ、MAマ、NANEナーネ、Yヤー、KAKHENAヘーナ、TAWOタウオ」と発音するそうです。 へブル語で出て来いを意味する言葉が、「TETSE てつぇ」または「TSI つッ」で、つ は 出てこいという掛け声。
ハイアてつぇ(ひ・とつ) ファてつぇ(ふ・たつ) ミつッ(み・っつ) ヨッつッ(よ・っつ) ツァつッ(いつつ) マッつッ(む・っつ) ナーネつッ(なな・つ) ヤーつッ(や・っつ) ヘーナつッ(ここの・つ) タウオ(とお)
HIハイア、FAファ、MIミ、YOヨッ、TSIAツァ、MAマ、NANEナーネ、Yヤー、KAKHENAヘーナ、TAWOタウオは、『誰がその美しい方を出すのでしょう。彼女に出ていただくために、いかなる言葉をかけたらよいのでしょう。

(上古第二十二代の天照大神 (あまてらすおほかみ=女性神)天照大神の岩戸隠れの時に唱えられた祈りのことばであるとされます。)』という意味だという。

【知恵袋1】;ジャンケンポンがヘブル語だと ジャン(隠して)、ケン(準備)、ポン(来い)。はっけよい、のこった、のおなじみ相撲の掛け声、これがヘブル語だと 「撃ってしまえ。やっつけろ!」 の意味になるそうです。 「ヨイショ」 は、主、助けたまえ。 「ワッショイ」は 神が来た。 「ヤーレン ソーラン」は 神が答えてくださったそうです。エッサホイサッサはこれがヘブル語だとエッサ(持ち上げる)の意味で、 「サアー!」はサア!(出発)。  「ミヤ(宮)」はミヤ(神様のいる場所)。「映(は)える」はヘブル語でハエルは輝く。「打破(だは)」はヘブル語でダハは打ちのめす   「ヤッホー!」はヤッホー!(神様)。  「アリガトウ」はアリ・ガト(幸運です)神への感謝の言葉だそうです。 エンヤラヤ という言葉がありますが、へブル語で 「我こそヤーエー(ヤハウェ)を賛美し奉(たてまつ)る」。という言葉が「エァニ、アーレル・ヤー(エァニ・ハレル・ヤー)」。 他に掛け声では 「ヤーエ」はヤハウェの意味。

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【知恵袋2】君が代

   【日本語】     【ヘブライ語】      【ヘブライ語の意味】

君が代は       クムガヨワ         立ち上がる

千代に         テヨニ           シオンの民

八千代に      ヤ・チヨニ         神・選民

    細石の      サッ・サリード   喜べ・人類を救う、残りの民として

   巌となりて     イワ・オト・ナリァタ    神・予言・成就する

   苔の生すまで   コ(ル)カノ・ムーシュマッテ 全ての場所・語られる・鳴り響く

   【したがって歌らしくすれば】

   立ち上がれ、神を讃えよ!

   神の選民 シオンの民!

   選民として 喜べ!

   人類に救いが訪れ!

      神の予言が成就する!

   全地あまねく 宣べ伝えよ!


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「君が代」 〜漢字の「君」は、「口」ヘンと「尹(イン)」を組み合わせた文字ですが、「尹(イン)は、「手」に「|」(つえ)を持っている姿です。 これは「聖職者」をあらわします。「口」は、その聖職者が口を開けて、何かを説いている姿です。つまり「君」という字は、会意形成文字で、高貴な人をあらわす文字です。 読みは「クン」です。「君主(クンシュ)」となると「高貴な人=君(きみ)の主人」なので、それだけ偉い人です。 つまり「君」という字は、高貴な人であり、だからこそ、源氏物語は朝顔(あさがお)の君や、藤袴(ふじばかま=キク科の多年草)の君など、美しい女性たちに「君」の尊称をつけています。 「君」が天皇をあらわすというのなら、源氏物語の女性たちは全員、天皇ということになってしまう。

実は、古代日本語で「き」は男性、「み」は女性をあらわす言葉なのです。日本神話に登場する最初の男女神は、イザナ「キ」、イザナ「ミ」であり、「おきな=翁」「おみな=嫗」という言葉もあります。 イザナキ、イザナミ以前の神々は性別がなく、日本の神々で最初に性別を持った神として登場するのが、イザナキ、イザナミです。その最初の男女神は、イザナキ、つまり「いざなう男」、イザナミ「いざなう女」として登場します。「いざなう」は、漢字で書けば「誘う(いざなう、さそう)」です。 つまりイザナキ、イザナミの神話は、誘(さそ)いあう男女の物語でもあるわけです。

二人は天つ御柱で出会い、キ「我、成り成りて、成り余るところあり」ミ「我、成り成りて、成り足らざるところあり」と声をかけあい、互いの余っているところと、足りないところを合体させて、子を産みます。(ミは三で一と二が十字に組むと三で子供が出来る。) ここで大切なことが、男女が互いに「成り成りて」というところです。「成り」というのは、完全に、完璧に、という意味です。知性も肉体も、まさに完璧に成長し、成熟したのです。

ところが、完璧に成長したら、互いに「余っているところ」と「足りないところ」があった。これは矛盾です。 そこで二人は互いの余っているところと、足りないところを合体させて、より完璧になろうとしました。すると「子」が生まれたのです。「完全に完璧な成長」は、尊敬の対象でもあります。

ですから「きみ」は気は火で男であり、みは水で女で、「完全に完璧に成長した男女の喜びであり、尊敬し敬愛する人の喜びであり、「きみが代」は、その「愛し尊敬する人の時代」という意味となります。 その「愛し尊敬する人の代」が、「千代に八千代に」と続くのです。ちなみに千代の「千」はセン・チで光であり霊であり血です。また「千」は絶えないようにという義がある。それで「代」となる。光・霊的な面が絶えない世にして、「八千代」にという事になるのです。「八」は八方に開いていく様を現わしています。八は寄せると人と云う字になります。霊止ともいう。

歌はさらに「さざれ石の巌となりて」と続きます。さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となっているという点です。ひとつひとつは小さな小石でも、大きな力でみんなで団結したら、それは大きな「巌」となる。 つまりさざれ石は、「きみ=男女」の結束、そして生まれて来る子供達や新たに親戚となる者たちなど、そのすべての人々が、大きな力のもとで固く固く団結しあい、協力しあうことの象徴でもあります。 そして最後に「君が代」は、「苔のむすまで」と締めています。

苔は、冷えきったり乾燥しているところには生えません。濡れていて、水はけの良いところに生育します。カビとは違うのです。つまり、濡れたものと、固いものがしっかりと結びついたところに苔は生えます。 すなわち「苔」は、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって汗を流し、涙を流し、互いにしっかりと協力しあい、長い年月をかけて生育する。それは、男女のいつくしみと協力を意味します。 そんな意味の歌でもある、ということになります・・・。


豆豆知識-4

◆蘇生の術;祭壇を組んだ後、呪文⇒「例え、定業(じょうごう=その報いとして起こる結果が定まっている行為)、限りの命なりとも一度蘇らせてくれ給え・・・。一二三四 五六七八 九十百千万 布瑠部由々良々止布瑠部 (ひと ふた みぃ よぅ いつ むゆ なな やぁ ここの たり ももち よろず ふるべ、ゆらゆらとふるべ 三回奏上する)肉体から離脱した人の体に蘇えらせることは出来ないが、まだ肉体と霊線が繋がっているのであれば可能であるといわれている。

◆生命延長の秘め言:たまのをを むすびかためて よろずよも み むすびの かみ みたま ふゆらし  最後に 惟神 魂霊 幸(かんながら たまひ ちはいませ) と拝誦(はいしょう)する。と唱える。三回唱えるとよい。 古神道のまじないです。民間伝承された神道系の言霊です。

厳密には 両手、口等をすすぎ浄める。 → 二礼三拍手 → 「祓(はら)い戸(ど)の大神達(おおかみたち)、祓(はら)い給(たま)え護(まも)り給え浄め給え」を三唱 → ここで気持ちを静め精神統一 → 一礼→ 「たまのをを むすびかためて よろずよも み むすびの かみ みたま ふゆらし」と三唱 → 「祓い給え護り給え浄め給え 惟神 魂霊 幸(かんながら たまひ ちはいませ) と拝誦(はいしょう)する。」を三唱 → 一礼 四拍手です。火の時代ですので 礼 拍手 等は間違わないようにしてください。蘇生の術もやり方は同じです。



生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-3

『ラリルレロの言霊の実体』

神道の一派、真の道という小さな団体が、昭和三十五年に「ヤユヨが終わってラ行に入る」という経綸を知っていたようです。 また、それに先立つ昭和二十五年には、大峰神霊(役小角の一番弟子=幼名・ハビ)という千三百年前の古代霊から、福田くらという女性神道家に霊示として、「五十音の仕組み」を知らされていたことが判明しています。 福田くら女は、大峰神霊からの霊示をふまえ五十音のことを次のように話しています。

「アイウエオ五十一音(二度(神が二度出てきて経綸をする)出ている字が三つ(「い」「え」「う」)あるから、実際は四十八音)には、その一音一音に意味があり、またア行カ行というように、その行にも意味があります。 この五十一音には大変深い意味がありまして、これを解くことによって、人類の過去の歴史もわかり、将来の世の様をも予言できるのであります。 人類の歴史は五十一音の順序で発生し展開されてきまして、現代は荒魂時代の<ラリルレロ>の時代に入っております・・・」 すなわち通称の「五十音」の謎は、こうして福田くら女によって具体的意味が明らかにされたのです。

日本の単一的固有財産の一つである言霊に、かくも不思議な意味が隠されていたことは俄に信じ難いものですが、 五十音配列の中でもっとも注意すべき存在であるラ行の裏言霊の説明に入ります。 ラ行の裏言霊はほかのアカサタナハマヤラワ行には見られなかった強烈なプログラムが隠されているという事です。

つまり、ア行(ア行は基音でありまた霊になるのです。物質的な働きはないが音としては最高です。) から始まって、今はラ行の時代に入っている事実を凝視すると、ハッキリいってとんでもない時代であり、避ける事が出来ない時代である。

なんの時代がなんの言霊に当たるかということを知っている人はないんです。全てご神示か霊界により伝えし言でなければ判りえないことである。

さて、ラ行の裏言霊に象徴される「火・昼・陽・左・表・東・太陽・・・・」などをふまえてひとつひとつ解説していきます。ラ行の言霊が、「火・太陽」を象徴している。

◎ヤ行の時代まで下、または従とされていたものがラ行時代になって「上」または「主」となって、浮上、昇る、報われるといったはたらきが顕著になります。

◎ヤ行の時代まで陰、または凹であったものがラ行時代になって「陽」または「凸」なります。凹が凸になるわけですから、 地下に潜っていたものや凹んでいたものが地表に出るという意味です。一面では、収縮していたものが伸張現象を起こしたり、また、 陰として隠れていたものが陽になる事で、形が明確になります。

◎ヤ行の時代まで裏面、または内側であったものが、ラ行時代になって「表」または「外」に顕現します。すなわち、これまで裏側に隠れていたものが表側に出て、 内部に隠れていたものが外部に姿を現すという意味です。 ◎ヤ行の時代まで水、または右の摂理で動いていたものがラ行になったことで「火」または「左」の摂理で動くようになります。



別の見方をすると、これまで水の時代(唯物的文明=物・金主義の時代)であったのが火の時代(霊的文明。オカルト文明に非ず)になるという意味です。つまり、 ヨコ(水)の時代がタテ(火)の時代になって、立て分けがハッキリする時代でもあります。しかも、いままで右回転であった摂理が、左回転の摂理に変わりますから諸々の現象が活発になります。 さらに、いままで冷たかったもの(水)が、熱くなり(火)、固まっていたもの(氷)が熱せられて溶けてきますから、気象変化も顕著になります。


◎ヤ行の時代まで月の影響下にあったものが、ラ行時代になり太陽の指揮下に入り、月や星の時代から太陽の時代に移行します。 60年代から始まったラ行の時代は、毎年に暖冬現象が頻発化し、最近では連続的暖冬異変が続いているのは周知のとおりです。

今までの西洋文明主導から東洋文明主導の時代へ変化していきます。つまり、欧米の時代(西)から、日本やアジアの時代(東)へ移行するわけです。 また、人間は生理的にも精神的にも太陽の影響を強く受けるでしょう。

◎ヤ行時代では、はたらきが軽減されていたラ行の表言霊(ラ行音を含む名前、地名など)が、いよいよラ行時代になったということで、 ラ行の霊威である「回転・流動・変革・衝動」「火の霊性」などが、前項までのラ行時代摂理と複合作用を起こして、面白いように具体化していきます。

昭和六年六月十四日までは三千年の夜の世界が終わり、昭和六年(一九三一年六月十五日)の半(なかば)頃から黎明期(れいめいき=夜明けにあたる時期。新しい文化・時代などが始まろうとする時期・世界は昼になったのである)に入ったのである。
その時を契期として、漸次太陽は上昇しつつ昼の世界に入った訳である。霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。その三千年の転換期が黎明期に当るのである。 「ラ行の時代(火の洗礼期=一九六二年=昭和三十七年一月から入りました。」また気象学界では一九六〇年より地球全般的の気象変化が起こり始めたと発表しているのである。


すなわち「太陽の時代」のことでもあります。現代がラ行の世だというのは、ラはランでもあるけど、むしろそれより龍神です。 ラっていうのはラセン(螺旋)で、まわることなので、火がまわるという意味です。

今度は浄化作用がまた本格的になりますから、凄いことになります。だから間違ったことは全部訂正されてゆくわけです。政治・経済・医療・宗教。企業・スポーツ・相撲(国技)・その他全てのもの・・・。 その代わり人間でも、善は残り悪は滅びる(暴かれるの意)ということになります。


「リ」というと、締まるという意味で、求心力です。「ル」というと、離れることになり、遠心力で、悪い方に働くと、陰と陽とが離れる運動になります。そこで、「ラリルレロ の行」にリとルがあるわけです。「リ」は、締めることで、だから戸締りというし、締った人のことを利巧ともいう。分かれる時は、両方離れてゆくからワカレルといい、 けっしてワカレリとはいわない。

しかし、戸をシメルといえばルになるではないかというかもしれませんが、それはいわゆる戸が、戸袋を中心とすると一度離れてゆかないと締まらん、戸締りにならないから戸を締めるというわけです。 すなわち、戸締りをするために、戸袋から出してゆくという運動を指しているのです。結果は締まってしまわなければ、シマリになりません。これが「リ」と「ル」のみ働きの違う根本です。

龍神の憑依しやすき文字はラリルレロの行で気象やらに、すごく係わってくるものである。この行には狐霊のほうはあまりないものである。

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まとめ:

■『ラ/RA』 陽の回転の働き。左回転。太陽

■『リ/RI』 しめつける働き。求心力。物事を固まらせる働き。右回転。戸締リ。リ(利)口。

■『ル/RU』 ほどいて回転する。遠心力。この場合の回転は両方(左右、陽陰)の回転である。A:陽の面では、張ル、貼ル、芽生えル、ハリキル、ハッスル、萌えル、初めルなど。 B:散ル、流浪のル。ワカレル。締「リ」の働きとの調和が大切。

■『レ/RE』 A:火(陽)の回転 B水(陰)の回転

■『ロ/RO』 回転の働き。安定な状態。居間宮居のこと(呂=宮)<ロクロ、ロール>

■『ラリルレロ』【ラルロの嵐が到来し、神の大ミソギ(大天変地異=天空及び地上に起こる異変。大規模な自然災害もこれに含む。)を経て天地が間釣り合った安定した状態 となり、神の文明が創られる】

■ここの行で『ワヰウヱヲ』【ガッチリ組んだ和を生み何十億万年からの神の計画が成就して終わるのです。】

■『ン/N』上の点は太陽を現わし 下から斜めに伸びた線は月を現わす。 これで太陽と月の所謂火と水の一体化の働き(夢中と化す)。神人合一。自人一体。A: 産みだす働き。B: おしまい「ン(運)の尽き」この様にして神様のご計画があったのです。 この様なご計画が判れば人間界の争い等々は如何にくだらなかったのかお分りになるでしょう。又恨む霊魂も恨まれる霊魂も互いに許しあうことが賢明でしょう。

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音秘め言は、言霊と数霊が組み合わさっているのです。

1 ア 2 オ 3 ウ 4 エ 5 イ
6 カ 7 コ 8 ク 9 ケ 10 キ
11 サ 12 ソ 13 ス 14 セ 15 シ
16 タ 17 ト 18 ツ 19 テ 20 チ
21 ナ 22 ノ 23 ヌ 24 ネ 25 ニ
26 ハ 27 ホ 28 フ 19 ヘ 30 ヒ
31 マ 32 モ 33 ム 34 メ 35 ミ
36 ヤ 37 ヨ 38 ユ 39 エ 40 イ
41 ラ 42 ロ 43 ル 44 レ 45 リ
46 ワ 47 ヲ 48 ウ 49 ヱ 50 ヰ
51 ガ 52 ゴ 53 グ 54 ゲ 55 ギ
56 ザ 57 ゾ 58 ズ 59 ゼ 60 ジ
61 ダ 62 ド 63 ヅ 64 デ 65 ヂ
66 バ 67 ボ 68 ブ 69 ベ 70 ビ
71 パ 72 ポ 73 プ 74 ペ 75 ピ
76 ? 77 ? 78 ? 79 ? 80 ?
81 ン − − − −


アオウエイ
カコクケキ
サソスセシ
タトツテチ
ナノヌネニ
ハホフヘヒ
マモムメミ
ヤヨユエイ
ラロルレリ
ワヲウヱヰ
ガゴグゲギ
ザゾズゼジ
ダドヅデヂ
バボブベビ
パポプペピ
アカサタナ ハマヤラワ カザダバパ
オコソトノ ホモヨロヲ ゴゾドボポ
ウクスツヌ フムユルウ グズヅブプ
エケセテネ ヘメエレヱ ゲゼデベペ
イキシチニ ヒミイリヰ ギジヂビピ

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これは、何の並びかと言いますと、言霊の並びなのです。
これそのものが、「祈言(のりごと)以前は祝詞(のりと)でしたが火の系統が活動されますので祈言(のりごと)と言います。」でもあるのです。
通常知られる「アイウエオ」とは違っていることが解ります。

「時、変わらんとする兆し」


生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-4

神社とかのお参りについて。神前に立って柏手(かしわ)を打つときに、両手を合わせ、右手を少し手前に引くが、 これは左は火足(ひたり→火から垂れ下がる→霊の面→霊界)であり、陽(ひ、よう)であり、霊(ひ、れい)であり、右は水極(みぎ→体の面→物質界)であり、陰であり、体である。左右の両手を合わせるのは、陰陽の結合、 調和であり右手を少し手前に引くのは陰が一歩下がる。つまり霊(ひ、れい)主、体(たい、からだ)従を意味すものである。手を打ち鳴らすのは、天地開闢の音霊であり、 天の磐戸開きであり、意乗(いの)るとき、そこに天地が開け、磐戸が開き光明があふれるものである。

拝をするのは身をかがめ畏まることで、至上のものに対する畏敬の念の表現でもあるが、同時に、地に垂直に立つ足と、地に平行に屈した上半身は、それぞれ縦に伸びている火の気であり、 横に流動するのは水の気である。火と水の交合した姿、すなわち火水(かみ)となる。ヒトを陰陽両面からコトタマ学的に考察すると、火と水の理が交じり合い、 それがヒナガタとして止まったとき、〈ヒト〉となる。いうなれば、小宇宙としてのヒトが誕生するとき、大宇宙創造のヒ、フ、ミの原理が働いているのだ。

以前から思ってた事ですがお参りをして投げ銭をしている方々が多すぎるのではないでしょうか。ここいらで考え方を改めては如何と思うのであります。 賽銭というのは、乞食にやる時の投げ銭のことです。お稲荷さんや龍神さんにお参りして賽銭箱へ投げ入れるのは構いませんが天照主大神様や明治神宮へいって、賽銭を投げ 入れるなんてとんでもない事です。お賽銭ではなくて、感謝の箱とか奉納箱に、どこまでも捧げ奉るという気持ちでないといけないのです。だから『玉串奉てん』というのが本当だそうです。 賽の河原に投げる賽銭や、地獄の霊に投げるお金とは違うのです。

言霊豆知識1;神祀り⇒神様を一番に奉ると言っても、神社にお参りに行って感謝を奉げるとか、御利益を求めることではありません。また御経綸上では全国殆どの神社には真大神はおられないことになっています。 (神霊界に帰っておられる)神祀りといっても、そこには正神ではなく、水神や稲荷等を祀る神社も少なくありません。(それらの神社を否定するものではありません)。 ここで大切なのは主神の御経綸に合った神様との波長合わせをするということです。

主神は現在水の時代から火の時代に大転換
を策っておられることは記載してきた通りですが、殆どの人類は水の氣が強く、火の氣が弱い、つまり現界主でどうしても物欲、肉欲、あるいは権力、名誉だといった現界主義になっています。 そのような自主自利愛の相念を転換してゆく、捨ててゆく(改心する)ことが、現代のおける主神の乗り法に乗ることになるのではないかと思われます。 そのためにはもちろん主神を主に置き、また一番に土台としなければなりません。ただし一般の人は主神を祀ることはできないので、せめて想念のほうだけでも主の経綸に乗り合わせることにより、 大きなご守護を頂けるようになるのではないかと思います。

言霊豆知識2;光について、現、今の世は月の系統の神様のみ世を終わって、日の神様の系統による神霊界の政治へと大交替が行われております。で神の光も、日の光、陽の光、 すなわち神道でもバイブルでも、真の光といいますが、この光の方へ大切り換えするのです。そして神のみ光の色合いの方で行きますと、銀色の方ではなく、金色に輝く光ということになります。 色霊で行きますと、赤帯びた光、したがって光は日の入った晃(ヒカリ)という文字に成るわけです。

もうひとつ予備知識として「神宮」は正式にはカムノミヤとお読みいたします。「ジングウ」と読みますと、月の系統の神々の時代は許されますが、日の神様の時代に成りますと、言霊が逆になって悪い霊動が世に起きて、神道が滅びる時代が来るという一生 懸命読みあげていたものである、神々がおっしゃっているのです。そうではなくカムのミヤ、すなわち、カムは、本当の神、濁りのない神のことで、ジングウですと濁ってしまい、 しかも水の働きを言霊では表現してしまっています。

グウですと、グウグウ眠るとか、グズグズしたりクで苦がきてクタバッてしまう。したがってミヤですと、ミズ、現界は水(物)であるけれども、いずれこの水は、ヤのタテの働きと十字に結ぶカムの働きのミヤ、すなわち、ミは霊、ヤは場所、で神の場になるわけです。「大」はオオではなくオホと読むのである。 いわゆるホの神、炎の神、火の神の出現期である。というように、これからは全てが火の系統の言霊の表現に成って行きます。


言霊豆知識3:榊(さかき)とは、神前に祭られている榊がありますが、これは祭りのノリトにも「朝日が逆登(さかのぼ)る」というサカキの義で副神の天若彦神(あまわかひこがみ) が正神を追放しようとした邪心を持たれた時の物語りには、サカサ矢が射られていて「禍(まが)あれ」と祈言されています。それは逆にする働きです。今の火の時代にこの様な事を やっていては火の霊統が活動できないのです。ヒノキ(檜=日・火の木)などはいいのですが・・・。おそらく逆世逆法の世の呪術ではないかと思われます。日の神を封じ込める呪術ではないかと思われます。

ヒノキ(檜=日・火の木)を門に植え、東北の方角金神(こんじん)様にヒノキを添えることが望ましいのである。



生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-5

立春の祭りついて!!国万造主大神様の奥様は国万造美大神様(くに よろず つくり み おほかみさま)と申し上げます。 天神第六代の国万造主大神様(くによろずつくりぬしおほかみさま)が出現され、宇宙万象の霊成型(ひながた)を造られたのです。 この神様はスの神様を霊の面とすると、体の面のみ働きをされる神様です。国万造主大神様と国万造美大神様でスの大神様はじめ天神第五代にわたる神々さまを、 ご観請(かんじょう)申し上げ万物万象が永遠に弥栄えていくようにと、お願いと感謝のみ祭りをされました。

これが全ての祭りのはじまりでコノメハルタツの祭り、つまり立春の祭りといいます。五色人をお造りになった主のご直系の神様が、主の大神様の神代におきますと天祖をお祀りしょうというご決心をされ、五色人が出来上がると 同時に、神自らが、天祖、人祖を祀られたことが文献に出ています。そしてその時を初めて肇国(ちょうこく)の元旦と定められ、天祭りを始められたのが、旧暦の二月五日に当たる関係に なっています。これが本当の『春立つ日の祭り』であり、世界の始まりであるわけです。主の体の面に当たる人類の、主のご霊統の神が直接神に仕えた。つまり、その時の 神主がスメラミコトで、これが数千年来の今日の神主の発祥であり、ご皇室にご観察のしきたりが残っているのもこのためです。

スメラミコトは神と交流交感をされ、いちいち神意を伺いながら政治を実行されたものであることの片鱗(へんりん=多くの中のほんの少しの部分)が『古事記』・『日本書紀』にも記されています。今日では、天皇といっておりますが、 当初は、国も人種もまだ区別されていない時代で、五色人人類のために、神霊と人間を結ぶ役をなされたのがスメラミコト家でした。そういう古い歴史を持っておりますのが、 立春の祭りなのです。これが人類最古の祭りです。又知る知らないにかかわず立春祭を境に神様のご計画(御経綸)が進展されて行くのが立春祭でもあります。此れまでもそうで在った様に此れからもそうです。

無限絶対無始無終の宇宙の大元霊!!

言霊豆知識-6

なぜ人は困っ時に祈(神の意が波になって波動となる。これが祈りです。祈りの霊力(精神力))るのか。神に対して素直(神が送ってくれている光を霊的に受け止めることが出来る)になり、謙虚な気持ちになることは勿論大切である。神向(しんこう)とはまず神に任せるところから始まる。しかし、 それはあくまでも自分自身の足で歩き、努力を重ねた上でのことである。自分は何も努力もせず、何も考えず、すべて他人任せで、 他者に判断と責任を押し付けているようでは、いつまでたってもけっして神の御意に添うことは無く、又自分のためにもならないものである。 一つの宗教に囚われ、無我夢中になることは神意ではなく、かと言って頭から否定し、 「神がいるのならさっさと救ったらいいのではないか」と主張することもまた神意ではない。

われわれ一人一人が確立すべき生き方とは自分の頭で真剣に考え、判断を下しそれに基づいた行動を起こし、しかる後に反省しその行動に対して自ら責任を取るというプロセスの繰り返しである。 その中で神仏にたいする敬謙な思いを片時も忘れず、すべてにおいて任せ切るという真の神向を持つことが必要となってくるのである。 このバランス感覚は難しく思えるかも知れないが、この姿勢こそ神が我々に期待される行き方であり、これ以外に道はないとおもわれる。 自分自身が体験を通じて会得するしかないのである。そうして行くうちに改めてその本質的価値が見えてくるものである。

神様にもイノリ(意乗り・祈り)がある。意力の発動がある。神様が、ご自分のご想念に乗って行かれるイノリ、すなわち、神の大経綸があるわけです。その大経綸を成就するためには、 それに必要なご想念、秘めたお心があるわけで、それが神理正法(しんりせいほう)という法(のり)となってきます。これが天意、神意となります。したがって、人間もその 正神のみ意(こころ)に合わせなくてはなりません。意(い)を乗り合わせなくてはならないのです。

だから、み仏のみ意を成就しようと思っても、神のみ意に合おうと思っても、この大元を失っては祈りにはならないのです。言い換えると、神と波長を合わせるということは永久に不可能です。 水の時代ならまだ良かったのですが・・・。「意の乗り合わせ」、すなわち祈りにはならないし、神にも通じない。これはラジオのダイヤルを合わせることと同じです。 神の大経綸というものがわからなければ、釈尊やイエスが説いてきた教えの結果のように、惑いが起きるようになり、いわゆる無明(むみょう)になります。 火と水が不明瞭になると、十(かみ)を失うこととなり、そうすると、霊の面と体の面とがどういう働きをするかもわからないようになる。

これはまさしく無明であり、闇の世界を歩くと同じことになってしまうのです。すなわち、釈尊の言う「惑い」やイエスの言う「迷い」が起きる。迷いが起きれば、人間は人間の 知枝(知恵)だけで考えるよりしかたがなくなるから、哲学が興(おこ)る。すなわち、哲学は迷いの産物で、ついには惑いにさえ陥(おちい)ってしまいます。

この哲学が、神様や霊の世界から離れてしまうと、カチカチの「鉄学」になってしまい、人生に渇きが起きます。そして、荒廃(こうはい)した人類文明、すなわち「砂漠文明」を興(おこ)すようになってしまいます。 それが今日の闘争の世なのです。愛も無ければ真もない、理論の世界しかなく、学理の世しかできない、そうすれば、「学理ガックリの世」となってしまうのです。

まとめ;他力と自力を調和させる、間釣り合わせる(神と波長合わせる)ことによって他力が発動してくる。そのための祈り、神様の意に乗ることが大切であり、祈っては行じる、 努力してゆくことが成功や発展に結び付く因であり古来先哲や偉人、成功者が実行してきている秘め事です。

真理の大道、真の神の道の実体はあまり遠大であり、あまりにも奥深い・・・。

神が創った人間の体の仕組みを、より巧妙に模倣(もほう)や応用を創り上げられたのが、今の現代社会なのです。神のいる霊界と人間のいる現界との間は、 相応の理によってつながっているとすれば「霊界=現界」ということになるのではないでしょうか。例えば富士山があってこそ、富士山の写真がある。富士山が霊界で、その写真 が現界。霊界が宇宙の実体界で、現界は霊界の移写、つまり映像の世界である。

ともすれば人間的な立場から現界こそが実体という考え方が一般的だけれど、実は霊界が存在 しなければ、現界も存在しえないのです。現界にあったことは霊界にもあり、また、霊界にあったことは現界にも、相似のものがあるのです。 「霊界=現界」、このことを知ってもらえるならば、人生が大きく変わっていくことになるでしょう。

霊(冥界=みょうかい=死後の世界・あの世=冥途=めいど ともいわれる)の世界は大きく分けて、神界、霊界、幽界がある。
そして、幽界は人間が死後すぐに入る世界【(三〇年以内にこの世に対する一切の執着をとる修行をした後、を限度とし行き先が決まるのである。 そして霊界先というか霊界における三段階は大別しての事ではあるが・・・。幽界は霊界に行くための準備段階〉今度は二〇〇〜三〇〇年かかって前世の一切の記憶をとるため修行するところです。

そして霊界で修業期間に入る。本来はここで魂と霊幽体がすっかり浄化したところで、再び現界人として生まれ出てくるのですが・・・。)】、霊の世界では、この現界に一番近い。
幽界にいる霊は現界に近いために、物質化現象を起こしやすく、幽霊がそれ。また、霊界に入るには、この幽体を捨てて、幽界からさらなければならないが、それを「第二の死」という。


生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-7-1

本の紹介を致します。人生の旅、とでも言いましょうか非常に役に立つ事なので読んで頂きたいものである。「旧事本紀」という本である。 つまり「先代旧事本紀」は超太古の記録を忠実に写した「先代旧事本紀」と「神代皇代大成経(カミツミヨスメラミヨノフトナシノフミ)」の二つを一つにしたものが「先代旧事本紀大成経七十二巻(正部三八巻、続部三四巻)から成り」 
「首一・神代皇代大成経序、首二・先代旧事紀目録、
巻一・神代本紀(天地開闢と祭祀の発祥)、
巻二・先天本紀(偶生神七代の系譜)、
巻三・陰陽本紀(国産み・神産み神話)、
巻四・黄泉本紀(黄泉国神話)、
巻五〜六・神祇本紀(三貴子の出生)、
巻八〜九・神事本紀(天岩戸神話)、
巻九〜十・天神本紀(ニギハヤヒの事蹟)、
巻十一〜十二・地祇本紀(くにつかみのもとつふみ)(出雲神話)、
巻十三〜十四・皇孫本紀(ニギハヤヒの子孫の事蹟)、
巻十五〜十六・天孫本紀(日向神話)、
巻十七〜二二・神皇本紀(神武〜神功)、
巻二三〜二八・天皇本紀(応神〜武烈)、
巻二九〜三四・帝皇本紀(継体〜推古)、
巻三五〜三八・聖皇本紀(聖徳太子伝)、
巻三九〜四四・経教本紀(神道教理)、
巻四五・祝言本紀(のりとのもとつふみ)、
巻四六・天政本紀(あまつりまつりごとのもとつふみ)、
巻四七〜四八・太占本紀(ふとまにのもとつふみ)、
巻四九〜五二・暦道本紀(こよみのみちのもとつふみ)、
巻五三〜五六・医綱本紀(いがくのたいもうのもとつふみ)、
巻五七〜六〇・礼綱本紀(いやまいのもととなるもとつふみ)、
巻六一〜六二・詠歌本紀(うたよみのもとつふみ)、
巻六三〜六六・御語本紀(みことばののもとつふみ)、
巻六七〜六八・軍旅本紀(いくさのもとつふみ)、
巻六九・未然本紀(いまだしられざるもとつふみ)、
巻七十・憲法本紀(いつくしきのりのもとつふみ)、
巻七一・神社本紀(うたよみのかみのやしろのもとつふみ)、
巻七二・国造本紀(くにのみやつこのもとつふみ)、以上、全七二巻・付録二冊。」
からなっている。
解読書98,000円(全九巻)(消費税込み)筆者、須藤太幹から出ている。
先代旧事本紀の研究 全二巻. 著者名, 鎌田純一参考までに
一生かけて読んでも良いくらいの内容が濃く、「宇宙的」とでも言いましょうか、「地球的」とでも言いましょうか、「生きる道」とでも言いましょうか、・・・。

奥が深く、人間の目に見えない心の世界まで解き明かし、心と肉体はどう繋がっているのかを解き明かし、「天文学」と「気象学」と、「地形学」と「家相学」、さらに人間の生まれる前から死んだ後のことまで、すべて教えている書でもある。 「旧事本紀」とは森羅万象、すべてにあてはまる不変の理である。あらゆのものに通用し、目に見える世界、目に見えない世界、そして其の両方が重なり合い、溶け合った世界も理解し尽くせる。 また「能力」をも開花させる。今の易学ではどうしてもわからない「先天の理論=木星は一昼夜に進んだり退いたりすると、一度余ることの十分度の一つ間を進んだり 退いたりする。火星は一度のうち七分度の一余りあり、しかも六年二百二十一日九十二刻(とき)余りで天を周(めぐ)る。土星は一度の内三十分度の一余るをもって辞(しりぞ)く。 二十九年、百五十五日二十五刻(とき)をもつて、天を周(めぐ)る。これは惑星の公転のことについて述べた部分である。」が「旧事本紀」の書には記されているのである。 これは易学に限ったことではない。医学にしろ、原子物理学(物理学の究極は無→霊界につながる)にしろ、気象学においても「旧事本紀」の理論は、其の専門家が何十年にも研究したことを、いとも簡単に根本的な謎を解明することができてしまう。 だから「旧事本紀」を読んだだけででも、現在の学者から見ると、「天才」といわれる存在になれるのである。「天才」になるのが本質ではなく、大事なのは教える学問書なのである。

この書を自分のものに出来たとき、どうなるのか。人間は生まれながらにして楽しく穏やかに生きていくことができる。

人間は誰しも幸せな人生を送りたいと願っている。
究極の願いを叶えてくれる書ではないでしょうか。


幸せに生きるためにはどうしたらいいのか。今どうしたらこの病気を克服できるのか。病気の原因はどこにあるのか。 どうしたら家族が幸せに過ごせる家を建てられるのか。そのためにはどのような土地を選べばいいのか。個人の幸せだけでなく、一軒の家はどうやったら治められるのか。 町はどうやって治めればいいのか。国はどうやったら平和が保て、繁栄するのか。こうした人間に関わることが全てを教え、学ばせる学問書である。 「旧事本紀」を編纂(へんさん)した聖徳太子と秦河勝(はたのかわかつ)という人物であるが、目的は「人が幸せに生きるための知恵を残そう」としたのだろう。

「未だ知られざるもの」という書を残した聖徳太子が夢殿(ゆめどの)の中で、この日本という国の未来と世界の未来、 他の国が今後どうなっていくかということを見たままに記したものだという。こうした意識の共鳴を自在に行っていたのだろう。だが意思的な共鳴は。誰でも出来るという。 今やコンピューターは何でもできる、人間の脳よりも優れていると思っている人もいるかも知れませんが、戦後GHQが「旧事本紀」の存在を知り、 その資料を本国に送ってコンピューターで解析したことがあったという。 だが、コンピューターで解析できなかった。それはこの書が無限の可能性を秘めているからだ。10人の人が読めば十通りの答えが出、百人が読めば百通りの答えが出る。 同じ人が読んでも、二十代に読んだのと、五十代になってから読んだのでは、違う発見がある。「旧事本紀」とはそういうものなのだ。無限の可能性と答えを有し、 読んだ人が最も必要としている叡智を教えてくれる。

だから、読む人によって答えが違うからといって、真理に矛盾しているわけではないのである。「旧事本紀」を解くためには、人間だけが持つ感性が必要なのである。 そして其の感性(=神性=神様自身御一人お一人の個性があるからです)は一人ずつ違う。読む人によって、その人に心ふさわしい答えが出るのはそのためである。全世界の宗教界及び科学界、医学界、諸々の原点はここに有るといっても過言ではないと思われる。 物事は二者択一ではなく、真ん中がある。この浮動地帯を上手に利用すれば、無駄な悩みや苦労から解放されて生きて生けるはずであると教えている。 最後に「旧事本紀」とは「物事を生かす」ための緻密に積み上げた文書であるが、自分も含め、誰かを蹴落としたり、不安にさせたり、けなしたり、 蔑(さげす)んだりすることの上には何も成り立たない。全てをありったけ生かし、それも、出来るだけ上手に生かし、自分も、他人も、状況も、気象も、 活用できるものは残さず生かしなさい。また肉体のよさもある。精神のよさもある。その両方がバランスよく混ざればもっとよい。よいことを効率よく見つけ、才能も 、環境も、システムや組織も、と。

■神が人間の前に姿を現すときの形は竜である」とはっきり書かれています。

聖徳太子の没後、長い年月を経た延宝7年(1679)に、先代旧事本紀大成経(サキツ ミヨノ フルコトノ モトツフミ オオイナルオシエ )は伊勢神宮の伊雑宮(いさわのみや・いぞうぐう)の神庫から神道家の永野采女(うねめ・男性)によって発見されたのです。 その本は当時、大変な反響を呼びました。皇室と直結する伊勢神宮 内宮の別宮である伊雑宮の方が、本宮(内宮)よりも社格が上である事を示す記述があったからです。つまり、本当の伊勢神宮は伊雑宮である、とあったのです。

これには伊勢神宮側の猛反発を招き、「先代旧事本紀大成経」は禁書とされ、出版した書店主は追放、永野采女や伊雑宮の神官らは流罪となりました。

現在、伊雑宮の扱いはかなり低いものですが、元々天照大神を祀っていたのは伊雑宮であり、その後に内宮・外宮が造られたと言うのはあながち間違いではないようです。 伊雑宮の御田植えの祭りの日には7匹の龍が、的矢湾から川をさかのぼって伊雑宮の大御田橋まで上がってくるという言い伝えもあり、謎の多い宮である事は確かです。 伊雑宮は縮小され、こうして表の世界から隠されました。内宮や外宮に匹敵する宮だと知られては不都合だったのです。

彼の後ろには八咫烏がおり、日本の未来に伊雑宮が重要な役割を果たす事が分かっていて、それまでは世界からこの宮を護るために封印したものと思われます。 その為、伊雑宮にあった聖十字架も内宮に移したのです。

最も重要なイエス・キリスト、すなわち天照大神の宮を封印することで人々の目から絶対三神を隠しました。
地図で伊雑宮と伊勢神宮内宮・外宮を結んで行くと、その先に元伊勢のひとつ籠神社があります。

元伊勢と称する神社は27ヶ所もありますが、「本伊勢」と称す神社は籠神社と伊雑宮しかありません。 そのどちらも裏社紋はカゴメ紋・六芒星なのです。

籠神社の奥宮の天真名井神社に立つ石碑には、かつてこのダビデの星が刻まれていました。 伊雑宮の鳥居の前にも六芒星を刻んだ石灯籠があったそうです。

これらはあまりに噂になった為、今は違うものに変えられてしまったようです。 籠神社と伊雑宮は阿吽(あうん)を示しています。

最初の言葉である「あ」と、最後の言葉である「ん」は、イエス・キリストの「わたしはアルファでありオメガである。初めであり終わりである。」と同じ事を表しています。 天照大神の大和における最初の御神体の上陸地点は籠神社で、最後の鎮座場所は伊雑宮だと言うことなのです。

そして、伊雑宮にも内宮・外宮と同じように地下宮に心御柱に匹敵するものが存在しました。 それが、十字架の上に掲げられた「罪状板」でした。

それにはイエス・キリストの名前がヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語の3つの言語で記されていました。 こうして伊雑宮が本宮だとされるのは、イエス・キリスト=天照大神の名を持っているからでした。

いずれの日にか、伊雑宮の封印が解かれる日が来ると言います。 飛鳥昭雄氏に八咫烏の大烏が会見を許したのも、近いうちに隠されてきたものが表に出るという事なのかも知れません。

先代旧事本紀大成経(サキツ ミヨノ フルコトノ モトツフミ オオイナルオシエ )には神武に先立って「天日子光殊星亜肖気尊」の記述があります。

天上界から光輝く超生命体が降臨してきたようなイメージの名前です。その方のことは以下のように記述されています。

{天日子光殊星亜肖気尊}

その鼻の長さは約2メートル、背の高さは約10メートル、口はつぼまっていて、目はきらきらと輝いて三種の神器のひとつである「八咫鏡(やたのかがみ)」のように輝き、赤くなったホオズキに似ていらっしゃいます。

{神武天皇}

背の高さは約3メートル15センチ、胴回りは両手を伸ばして一抱えした長さに約15センチほど足した長さ。頭には9センチほどの角が二本あり、それはまるで雪のような色をしています。 背中には龍のような背びれがあり、その長さは約1メートル20センチ。尾の裏側には大きな鱗が72枚あります。105歳のときに皇太子の位に就かれました。

{綏靖(すいぜい)天皇}

身長は約3メートル、目は黄色に光り、まるで水星のような輝きを放っています。背中に鱗があり、怒られたときにはそれが逆立ちました。

{考霊(こうれい)天皇}

天皇の生まれながらのご容姿は、他の方とは大きく異なり、お顔が長く龍のようですが、決して醜くはありません。耳は逆立ち、その耳の後ろには白い鱗があります。胸にも9枚の鱗があり、その9つの隙間から気を放っておられます。

{崇神(すじん)天皇}

背の高さは、1メートル90センチほど、額に10センチほどの青い角が一本あります。下あごの歯は長く鋭く、上あごの歯は短く丸く、舌は長く鼻にまで届きました。

{垂仁(すいにん)天皇}

背の高さは約1メートル80センチ、髪は右回りに顔を九周するように生え、頭頂部で輪のように巻いて留まっていました。両脇の下には金と緑の羽根を持ち、肘にも同じような羽が根ざしておられました。

{神功(じんぐう)天皇}

ご容姿は非常におだやかで美しき、その眼にはふたつの瞳をお持ちでした。乳には九つの穴があり、力は強く建物の柱を揺るがすほどでした。

{応神(おうじん)天皇}

背の高さは、約2メートル、肘には弓を射る時の「鞆(とも)」という丸いあて皮のような形がありました。 目の形は引き絞ったときの弓のような三角形をしていました。中の角は天に向かってまるで弓に鏃(やじり)をつがえたかのようでした。 胸には72本の青い毛が牛の尾のように生えていました。その長さは馬のしっぽほどで、とても強く根ざしていたので、最後まで抜け落ちることはありませんでした。

★いかがでしょう。以上が先代旧事本紀大成経からの抜粋です。わずらわしいので、現代語訳のみを載せました。これらの記述は正しいのか否かは別にして我々日本人の出身の常識を根底から揺るがすもののように思います。



明日に幸あれ!!

言霊豆知識-7-2

霊界と人間について;「霊界は、天国八衢(やちまた)地獄の三段階(上層・中層・下層部)になっている。これが人間の運命と密接な関係が有る事を、ここに説こうとするのである。 また大体三十年(幽界で垢落する期間・執着・現界で云えば仮登記・仮免許状態期間)を限度とし行き先(引越し)が決まるのである。そして霊界先というか霊界における三段階は大別しての事ではあるが、細別すれば一段は六十に別れているので合計百八十段になっている。勿論、層になっているので、霊層と名付けるのである。 そうしてこの霊層に対し、人間はいかなる関係があるかを順次説いてみよう。さきに、人間は肉体と霊体と幽体とは密着している。 霊体と幽体が肉体を支配しているのである。

この意味において、人間の生命の真の根源は、霊体と幽体そのものであるといってもいいのである。 そうして霊幽体とは、霊界の生活者であるから、人間死するや、霊体と幽体とで修業に入る(この間で霊的意識に早く目覚める事が大事である)。 それは生前、肉体と密着していたのと同様の意味である。又 霊体(霊界で使う体)は、霊界における百八十段層(上層・中層・下層部)のいずれかの層に属している事は勿論である。 しかしながら、居点は常に一定する事なく、その層の段階を常に上下しているが、普通時はある範囲内に限られているのである。 稀(まれ)には、その範囲外へ出ずる事がある。それが肉体的に表われる場合、運命の急転となるのである。 人間の運命即ち幸不幸は、霊幽体の居点である霊層の階級によるので、それは実に決定的である。


そうして霊界においても主宰神があり、八百万の神が分担管掌(かんしょう=自分の管轄の職務として責任をもって取り扱うこと)している事は、さきに述べた通りであるが、 霊幽体に対し、断えずそれぞれの命令が下るのである。従って、その受命者の任務遂行が霊体に反映し、肉体に反映し、肉体がそのごとく動くのである。 いかなる人間といえども、自己が計画し企図する事が、常に実際において意のごとくならない事の多いのは誰もが経験する所であろう。

従って予想外な運命や、意外な結果に逢着(ほうちゃく)するという事は、実は現世の人間の予想や思念は、霊体と幽体の運命に左右されなければならない法則であるからである。 又自分自身に対し、眼に見えないある大きな力が常に支配しつつあるような感想が大抵の人はあるものである。 この支配者とは即ち霊界における支配者即ち神であって、健康、富裕、平和の世界であり、これに反し、下方にゆく程、病気、貧困、争闘等の絶間ない醜悪世界である。ただ今は自分においてまぁまぁいいと思えるのは先祖事態が積み上げた功績が在るからで それを好いことに自分自身が我が身 のみ と思うところに落とし穴が存在するのである。これが下方に下がる所以(ゆえん)でもある。ただ勘違いをして頂きたくないのは試練と苦しみとは違うということなのです。試練その方が上にあがるための法則みたいなものです。苦しみは何やっても先が見えない状態のことです。

さてその中間帯である八衢(やちまた⇒中層部)がちょうど現界に相応しているから、現世は健富和の幸福、病貧争の不幸と入り混っている事は、誰もが知る所である。 右の理によって、現世における幸不幸は、霊体と幽体の住する界層の階級によって定まるものである。 従って、人間が人為的にいかに幸福を求め、実現しようと努力しても意のごとくならないのは、右の理によるからである。

しかし、現世においてこういう例もある。それは富裕者でありながら足るを知らず、吝嗇(けち)なる事貧困(ひんこん)者と異ならない人があるが、 これらは人為的に苦心努力の結果、一時的富裕(ふゆう)者となったまでで実は霊幽体は下層にあるから、かような人が死後霊界に往くや、霊幽体相応の貧困者となるので大いに後悔するものである。 かの釈尊の十人の弟子と言われた一人の目けん連(もっけんれん モッガラーナ・神通(じんずう))第一といわれた。餓鬼道に苦しむ母(生前インドでも有数な金持だったにも関わらず一切人の為に尽くそうとしなかった。 お金持ちに成ったのは自分達の努力したからだと思い込み自分の為のみに生きた。)を救うため、自恣(じし)の日に多くの僧を集めて供養したといわれ、これが盂蘭盆会(うらぼんえ)の起こりとされる。大目連。目連。(もくれん) 【神通第一……神通とは超能力のようなものです。親友の舎利弗(しゃりほつ)とともに釈迦に帰依し、地獄道に堕(お)ちた母親を救いました。】の話があります。

故に、幸福者たらんとするには、霊幽体を上層に住する事より外(ほか)に道はないのである。 しからば、それはいかなる方法によるかというにこれは何人といえども知らねばならない事であろう。ここで、霊幽体が何故上中下に分離するかという事であるが、それは左のごとき理由によるのである。 即ち、霊幽体の重量によるのである。軽い程上層に、重い程下層に往くのである。そうして軽いとは霊幽体が清浄であるからであり、重いとは溷濁(こんだく)しているからである。 溷濁とは勿論 罪穢に因(よ)るのであるから、清浄な霊幽体たらんとするには、その罪穢を滅消(めつしょう)しなければならない。

しからば罪穢とは何ぞや、言うまでもなく自己愛による不正、虚偽の手段を以て人を苦しめ世を毒するという悪の行為によって発生し堆積するのである以上、 それを滅消するには、その反対である利他愛による正義真実等の善的手段によって人に幸福を与え、国家社会の為になる行為を多くすることより外にないのである。


勿論それは厳然たる天則で、人力のいかん共為(な)しがたいものである。衷心(ちゅうしん=心の奥底。まごころ)から信じ得らるる人こそ幸福の門に一歩入ったというべきである。 右の霊層界について、今少し言う事がある。天国に相応する所の上層界は、健富和の活力が生々として流通しつつ、上層程それが高度である事は勿論である。 かかる説は、観念による仮説と思われ易いのであるが、決してそうではなく、事実である事を記述してみよう。 永い間、霊的光力によって患者が治癒した場合、健康恢復のみではなく、性格も一変する事である。摩訶不思議な世界である。

それは争(そう)を厭(いと)い、親和的となり、楽天的となるのである。特に講習(大古時代にモーセ、キリスト達の聖者が受けた講義、神霊界の秘密)を受け病気とそれに関する霊的事象を知るに及んで人生観が一変すると共に、不思議な現象が起り初めるのである。 それは健康のみではなく必要な物資も恵まれ豊かになる事であって、しかも、人為的では更になく、惟神(いしん)的に思わざる所から、奇蹟的に人手するのである。 この事は受講後の誰もがいうのであるから、誤りはないのである。

又、今まで不和であった人と親和し、今までよりも人から尊敬を受け引立てられたり、希望が実現したり、仕事の能率が上り、試験にパスする等幸福的の事象が非常に多くなるという話をよく聞くのである。 右は、いかなる訳かというと、病患の治癒(ちゆ)者、特に受講せし者は、人間の健康や生命の真実を知るに及んで、盲目であった霊魂が、飜然(ほんぜん)と覚醒(かくせい)するのである。 彼(か)の釈尊がいった等覚(とうがく=菩薩(ぼさつ)の最高位)を得て仏となり、正覚を得て菩薩となり大覚を得て如来となるという意味と同一であろう。 従って、受講者は等覚を得るのであるから即身即仏(そくしんじょうぶつ=仏教で人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になることである。)となり、霊的地位が向上する訳で一躍霊層界の上級に転位する事になるので、右のごとき事象に恵まるる事となるのである。

霊界の構成(上層・中層・下層部)はさきに述べたごとく、天国(静けさとと安らぎと希望の光あるのみの世界みたいです。)、中有(だいたい現界と同様みたいです。)、地獄(ここは闇の世界であり希望がなく光も無くただの苦の世界みたいです。)⇒(上層・中層・下層部)⇒天・中・地の三段階が三分されて九段階(3×3=9)となっており、 一段はまた二十に分かれ、一段階二三ン(2×3=6)が六十段となり、三六(さぶろく=3×6=18)十八すなわち総計百八十段(これは神の数霊による数である。でたらめになる数ではない。)となる。 名づけて霊層界という。その上宇宙の主宰者たる主神が坐(ましま)すのである。主神の主の字は一二三本の横線を縦の棒一本を通し、上にヽが載っている事はおもしろいと思う。

そうして人間と霊の関係を詳しく説明してみるが、人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂があるという具合に、大中小の三段否三重となっているが、 その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。この魂の故郷すなわち本籍地ともいうべき根源が、右の百八十段階のいずれかに属しており、これを名付けて霊幽魂という。主神の一座で総合計百八十一(181⇒1+8+1=10⇒十⇒火+水⇒神)段階となっているという。 此の関係もよくできているものです。

【よく神の世界には差別があるか否か問われるが此れは差別ではなく霊の修業段階なのである。(又霊界という事を認識しなければとんだ誤解をしてしまうだろう。全てにわたり霊界目線で書かれているので読者はそのつもりで読んでいただきたい。しかし真の事なので信じていただきたいことも一言添えておきたい。)其のことにより下に行くものあり上に上がるものもあり常に覚りの為にあるものである。 その為に色々な現象を自ら起こし、それを覚りにし魂を上げるための一つの手段として現象化してくるものである。なので死とか限界で不具合が遭ったとて魂の覚りであればそれも致し方がないものである。当事者やその家族にも影響するものだがそれもこれも因縁によるもので 全て何らかの関係で悩み苦しみを受けなければならないものである。その中で覚りを抱かなければならないものなのであると思う。そして神様の方では死は格別重要視していないといわれているのであるが、それは常に魂だけの向上を願っているだけなのであると思われる。 魂とは永遠なのであるからである。 で差別などどこにもないものである。自分自身の覚りの為のものである。】これは修業のランクである。人間も修業するためにいきなり上級を習うわけにはいかないでしょう。その為の上位があるためです。誤解のないように!

もっと詳しく説明⇒例えば上層だけ捉えると第一層目が縦に三段(Aランク,Bランク,Cランク)あり、その三段の中に個々二十段(A'〜T')の層になっている。で上層だけで六〇段層(三段×20層=60層)になっているのです。霊想(生前の生き方によるもののようです)に応じて振り分けられていくことのようです。当然下の層(Cランクの修業が終わるとBランクそしてAランクへと上がる)から上の層に上がるにつれて明るい世界のようです。

人はこの世に生きているうちより、死んでからの長い霊界生活について考え、少しでも良いところで修行が出来るように出来るだけ善徳を積み重ねて、罪になるようなことはしない様に、くれぐれも 地獄のようなところへ落とされるような目にならぬよう心掛け、そのほかにいろいろと極力霊を浄めてしっかりした神向き行を生活するとともに準備をしながら心がけて生きていくことが 肝要とおもわれる。それにしても変形自在な霊界には、真に現界では見られない幾多様々な界があるようです。書ききれないので大まかなことを記しています。

この霊幽魂と人間とは霊線によって繋がれており、絶えず人間の思想行動は霊幽魂に伝達され、それが神に通じており、また神よりの命令は霊幽魂を経、霊線を通じて人間に伝達さるるのである。 この例として人間が種々の企図計画をなし、目的を達成せんと努力するも事志と違い、思わぬ方向に赴(おもむ)いたり、意外な運命に突当ったりする場合つくづく顧(かえり)みる時、 何等か自分に対し見えざる支配者があって、自分を操っているように想われる事を大抵の人は経験するであろう。 すなわちこの支配者なるものが右の霊幽魂から伝達さるる神の意志である。故に神意に反する場合如何に 努力するといえども、努力すればする程 逆効果になるものであるから、 人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察(しょうさつ=自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること)しなければならない。

しかしながらこの場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、ついには必ず失敗するものである。 この理によってなんらかの計画を立てる場合、よくよく自己を省み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。 ここでおもしろい事は、邪念のため神意に添(そ)わずために失敗苦境に陥(おちい)る場合、その苦難によって、邪念の原因である罪滅が滅減する事になるから、そのため魂が磨かれる結果となり、 今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。世間よく一度失敗しその後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理によるのである。

以上のごとくであるから霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。元来霊魂の位置は一定してはいないもので常に昇降している。 なぜかというと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、この軽重の原因はいかなる訳かというと、人間の行為の善悪によるもので、善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、 悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。故に善悪の心言行そのままが霊線によって神へ直通するのであるから、 この理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。前述のごとく人間は神の命によって、運命は疎(おろ)か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。

故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なきためであるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、 長寿と幸福は得られる筈がないのである。
霊層界の上位へ行く程病貧争のごとき苦はなく、溌剌(はつらつ)たる健康と、饒(ゆた)かであり善美である衣食住を与えられ、歓喜の生活を営まれるから、 そこにいる霊幽魂の幸福は、霊線によって現界の人間に直通し幸福になるのである。その反対に霊層界の下位にある霊幽魂は、霊通によってその人間に反映し、常に地獄的生活に喘(あえ)ぎつつ一生不幸におわるのである。

世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然 良方位、良家相に移住する事になり、反対に霊層界の下位にある者はいかに努力するといえども、 悪方位悪家相に移住する事になるのである。また結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、これは霊体一致の原則による以上、この絶対力はいかなる人間といえども抗(こう=さからう)する事は不可能である。

ここで宿命と運命について一言するが、宿命とは生れながらに決定せるもので、それは霊層界の上中下三段のどれかの一段の圏内に限定され、それ以外に出づる事は不可能であるが、 運命は右の宿命圏内の最上位に行くも最下位に行くも努力次第であるから、宿命の不変であるに対し、運命はある程度の自由を得られるのである。 したがって人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が霊魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者たり得る道は決してない事を知るべきである。

霊・体;一切万有は霊主心従体属が原則であるとしたら、幾多の奇蹟もこの理が分れば敢えて不思議はないのである。 例えば危機に際し間髪を容れず難を免れたり、高所から墜ちても疵(きず)一つ受けず助かったり、博士や大病院から見放された重難症患者でも、何なく治るという事実である。 しかしながらこれを充分徹底するには、どうしても宗教的解説が必要であるから、読者はそのつもりで読まれたいのである。それについてまず知っておかねばならない事は、霊界と現界との関係である。

というのは人間という者は肉体の着衣と同様、霊も霊衣(アウル)を着ており、霊衣とは一種のエーテルであって、これは霊から放射される光で朦朧(もうろう)体ではあるが、肉眼で見る人もある。 そうして霊衣なるものは天気と同様、常に晴れたり曇ったりしている。すなわち善を思い善を行えば晴れ悪を思い悪を行えば曇るのである。

ゆえに正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。ところが普通人は霊的智識がないため 神とさえいえばことごとく正神と思うが、 これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。

ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。この厚さは普通人は一寸(3.03030303 センチメートル)くらいだが、善徳者になると五寸( 15 センチメートル)から一尺( 30.3030303 センチメートル)くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。 大宗教家などは数国もしくは数民族にも及ぶもので、釈迦、キリストのごときはこの種の人である。ところが救世主となると人類全体を光に包むという実に驚くべき威力であるが、 しかし今日まで救世主はいまだ世界に現われた事のないのは歴史が示している。以上によっても分るごとく、霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。

例えば汽車自動車などが衝突しても、霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのであるから、霊的光力を身につけていれば災害を免れるのもこの理によるのである。
次に運不運も同様であって、この理もザッとかいてみるが、人間の体は現界に属し、霊は霊界に属しており、これが現界、霊界の組織である。 そうして霊界は大別して上中下三段階になっており、一段階が六十段で、それがまた二十段ずつに分れ、総計百八十段になっている。

もちろん下段は地獄界、中段は中有界といい、現界と同程度の世界であり、上段が天国になっている。上記記述。そうして一般人のほとんどは中段に位し、その人の善悪によって上にも昇れば下にも降る。 すなわち善を行えば天国に上り、悪を行えば地獄に堕ちるのである。しかも現界と異って霊界は至公至平にして、いささかの依怙(えこ)もないから悪人には都合が悪いが、 この事が信じられる人にして、真の幸福者たり得るのである。 もちろん地獄界は嫉妬、怨恨(えんこん)、嫉み、憎み、貧窮(ひんきゅう=貧しくて生活に苦しむこと)等仏教でいう貪瞋痴(どんしんち。仏語。むさぼりと怒りと無知。貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴。三毒)が渦巻いており、下段に降る程濃厚となり、 最下段は根底(こんてい)の国、または暗黒無明、極寒地獄、煉獄(れんごく)ともいわれている。といっても死後ばかりではなく、体は現界にある以上、霊そのままが移写されるから、 七転八倒の苦しみの末、一家心中まで企(くわだ)てる者のあるのは、常に新聞に出ている通りで、人間の運不運は、霊界の地位いかんによるのである。 もちろんその因は善悪の因果律による以上、悪人程愚かな者はない訳である。事実 悪で出世をしても一時的で、いつかは必ず転落するのは前記のごとく霊界における籍が地獄にあるからである。

それに引替え現在いかに不運であっても、その人の善行次第で、霊界の地位が向上する結果、いつかは幸運者となるのは、厳として冒(おか)すべからざる神律である。 従ってこの理を諭えるのが宗教本来の使命であるにかかわらず、今日まではなはだ徹底しなかったのは経典と説教を主とし、肝腎な実力すなわち奇蹟が伴わなかったからである。 ところがいよいよ時節到来、主神は今や絶対力を発揮され給い、霊的光力(摩訶不思議な業)の驚くべき奇蹟を現わし、人類の迷妄(めいもう)を覚ますのであるから、いかなる人といえども信ぜざるを得ないであろう。

補足1;宇宙の仕組みの根本が「霊主心従体属」の法則です。心を動かす霊が主となります。 今までの世の中は肉体が主で、心は肉体に従って動かされ、そして心によって霊を曇らせてその働きをなくしてしまった。そのために、医学にせよ、経済理論にせよ、また幸福の理論にしても、すべて真(神)理とは逆になってしまった。 いくら宗教を信じようが、哲学を勉強しようが、医学を経済学をやろうが、法を学んでも、逆に世の中は悪くなる一方で、不幸者ばかりになってきます。

そういう逆法をひっくり返して、霊を主にした正法に返し、すべてをインスタントに転換してしまうことを小生は主張しています。 霊と心と体というのは「霊主心従体属」であると同時に、相即相入になっており、密実一体となっている。したがって、霊が浄まると心が浄まり、心が浄まると肉体が浄まる。 と共に、逆に肉体が濁ると心が濁り、心が濁ると霊が曇るという悪循環の場合もあり、この場合は清浄化(ミソギハラヒ・病気・貧乏・争い等の不幸現象)を受ける人になってしまいます。 このように、宇宙はすべて循環してくる理、メグリってくる理で仕組まれているのです。

こういうわけだから、霊は川上だから重要だが、心(心行)は従で肉体(運動・体力)は川下だから放っておいてもよいと考えると、とんだ間違いとなります。本霊の力を強くするにしても、同時に自分の精神力(心の行)を徹する事に努力しなければいけないのです。 神様にお参りに行こうとすると、邪霊は身体をダルクしたり、神の真の光が苦しいためにお参りを止めさせようとする。精神力の弱い人だと、霊のお邪魔にうまく引っかかってしまいます。 憑依霊に打ち勝とうという闘霊精神を強くしなければ、憑依霊に操られてしまうことになります。本人(本霊)の精神をしっかり持つことが大切です。

このように、霊主心従体属の仕組みは、密実一体として連動しているのです。
一般の宗教の教えは心従体属、つまり心の教えです(哲学的な考え方である。本来は違う⇒心の在り方(ハ正道)が霊的な事に影響するというのが本来の説き方でありますね。所謂心の持ち方も大切で在る為に全て中道的な考え方が最も良いのでありますね。どちらにも偏らない事が大切だという事です。あまり霊が主体だと捉われない事です)。 一方、唯物的な考えは体主心従、物質的なことがメインです。そこで唯心、唯物の考えがはびこってしまいました。しかし、心も体も否定されるべきのものではなく、もう一つ、唯霊という考えを出すことで、霊・心・体が相即相入の循環関係にあることが分かってきます。これが唯心、唯物を超えた霊主の宇宙観なのです。

補足2;霊界の中で曇りのひどい所と、そうひどくない所とあって、ひどい所はよけいに水が出る。人間でも霊体の非常に曇ってる者は、曇った霊界へ行くようになる。 曇った人は曇った所へどうしても行くことになる。霊体のきれいな人はきれいな霊界へ行く。そしてきれいな霊界の所へは水が行かない。どうしても曇った所へ行く。 そういうふうに世の中はできているからそうなるので、その浄化法として雷・竜巻などがある。ああいう強い電気でなくては霊界が清まらぬから、稲光がピカピカするのも曇りに相応してゆく。竜巻も然るである。

電気も曇った所に相応して落ちる。曇りの程度を越えた人は雷で死ぬことになる。ちょうど震災のときなど、被服廠( ひふくしょう ) などは曇ってるんでちょうど曇った人があそこへ行きたくなる。 曇ってない人は行かぬ。間違えて被服廠( ひふくしょう ) へ入った人でも、いよいよの最後のときは旋(つむ)じ風が起って、それに捲き込まれて池・川の中などへ投げられる。 それは相応しないから弾け出されるんであります。また、引っ越しの家を見つけるにしても、方角も家相もない。 曇りのない人は家相の悪いとこへ越せない。越そうとすれば故障が出てくるという具合であります。

補足3;人間の肉体のすぐ下の部分に、幽体があるとされているがこれは肉体と違い、物質ではないので、みることは出来ないがあきらかに 存在している。幽体は言うなれば人間の原型である。さらに幽体の下にある霊体であるが、これは大きく分けて、四十八の霊質があってその霊質は一人に一つずつ、霊体の中に入って いると言う。霊質とは、その人の霊体が初めて出来た時、入れられた大本の性格である。これを霊的な性格と言う。何回、輪廻をくりかえしても、人間は生まれてくるたびに、 人それぞれ、さまざまな性格を持ち、その霊質は常に変わることがないと言う。次に霊魂についてであるが、これは眉と眉の間とされている。人間の死というものは、肉体を脱いだ 霊魂が幽体・霊体と共にオーラに包まれて、死後の見えない世界、所謂四次元世界に入って行くのである。霊魂は『霊』の部分と『魂』の部分に分かれ、霊の部分は生きている間に 色々思い続けてきた執念(しゅうねん=ある一つのことを深く思いつめる心)、または怨念(おんねん)ともいうが、それが死ぬ時に、固まりとなって一気に表に出てくるわけである。これが霊である。魂というものは、何回生まれ変わり死に変わりを 繰り返してきた輪廻の旅の中で、積み重ねてきた本能なのである。

補足4;人間の肉体がすぐ下に幽体なるものを持っているが、動物にも植物にも、山にも、宝石にも、あらゆる物に半物質の幽体なるものが 存在しているのである。全てのこの根源はこの幽体なるものである。山には山の幽体が初めて存在して山となり、その逆に、川が干し上がっては、川の存在がなくなり、半物質になって 幽界に入り、また再び地上に現われてくるのである。命あるものは、やがて死に、半物質となり、また再生し、物質となのものである。

補足5;幽体は、霊体と肉体の中間的なもの。人間は3部構造で出来ている。霊体(霊界で使う体⇒魂⇒霊魂)⇒霊界、 幽体(幽界で使う体⇒ほぼ肉体と同じ⇒器官が無いだけ)⇒幽界の内院で現界にて着した汚れを払うところ。⇒幽界、 肉体⇒物質界なのであるが最後に本体は神界(全て霊線で繋がっている。)にある。

ある種の集団に入らない人々は救われないということを耳にしますが、 現界という盲目の世界で、 皆が手を取り合って神理に近づいていくという姿(主型)が本当の姿(主型)だったなのですが・・・。
そして絶対他力にて創造され、 生かされていることを認識した上で、 その他力に与えられた自力で精一杯精進し、 一人一人の自覚と覚醒(かくせい=目を覚ますこと)が大事なのだという事なのです。現界とは、 難しくも厳しいところです・・・。しかしそれ以上に霊界の置き手(掟)と秩序の厳しさがあるようです。

補足6;本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂は重きをもって下降する。故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。 それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。すなわち神向きと霊的光力の教修を受ける事である。此れを習得すると、精神的にはまず人生観が一変する。智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得られる。

注;ある種の集団(宗教・崇教団体に所属などしないと拒否してみたところで、 すべてが神のみ意(こころ)成就のためになることなら、 それは方便となる。)

■寿命と長短について〜長寿して苦しむ場合もあり、短命でも幸を得る人があるように、寿命の長短は前世の報いではありません。

此の二つが大事;「感謝」 と「ス直」・・・「 自分が 生きているというより、 生かされているということだなのだ。 人と出会うことも、 もっとさかのぼってふるさとを離れていろんな場所へ来ていることも、 すべて神様のみ意(こころ)で動かされている。 自分の意志に反することもあっても、 あとになってすべてが仕組まれていたんだと分かる。 結果はすべてが善なんなのである。 自分たちは、 神様がおつくりになって『よし』とされた世界の一部であり。 悪いと思われることも、 神様からご覧になればすべて良かれと思って神様がされている。 だから、 人間の人知では、 善悪の判断何てできない。 できないから、 いいに付け悪しきにつけ、 ことごと一切感謝が大事なのである」 決してあらたまって、 さあ説教だというような感じで言っているのではないし、 日々の暮らしの中の何気ない話の中に、 そのようなことが盛り込んでいってほしいわけで・・・。 「いいことも悪いと思われることも、 すべてにス直に従っていれば間違いはないわけで。 神様の大愛によるお仕組みなのに、 人知で屁理屈言って逆らったら、 神様に申し訳がないのであります。」

人間空腹を覚えている肉体とて、 自分のものではないのだ。 自分で造ったものではない。 さらには魂までもが、 自分のものではない。 すべてが神から与えられ、 仮に自分のものになっているにすぎない。 死して幽界へ行けば、 肉体は土に還る。 魂とて、 神の御分魂なのだから、 自分という存在は一切が無なのだ。 すべてが貸し与えられている借り物である。 それこそが自由になるということで、 自分を束縛するものは、 何もないのである。 その境地こそ、 神人一体の最たるものである。

悟れよ悟れ言霊の生命の御光(みひかり)!!

言霊豆知識-7-3

「日本の歴史の改竄(かいざん=文書などの 字句を直すこと。)」 かつて日本はヘブンとよばれ又、天国とも呼ばれていた。つまり政治の中心地が日本にあったわけです。
又日本は高天原と呼ばれ正に世界の中心地であった。その名残を残しているのが現在の日本列島の形と言えるでしょう。
日本の五島は全世界の形を示していることは古文献の先達者が訴えてきたことです。いろいろ考えてみれば神が居るならば自分のやってきた事を無くして、人間界に全てをお任せになるとは考えられないのである。 然るに必ず何処かに自分のことを伝えるべく処に置いてあるはずである。それが神というものであろう・・・。それが文字であったり、神示であったりするものであろう。凡人では計り知れないだろうけれども・・・。

日本が五色人の大元、五色人の発生元であり、神武天皇以前、日本には神代七代、皇統二十五代、不合七十三代という膨大が歴史があるにも拘わらず、 つまり日本が世界の本国であって世界でもっとも栄えた高度文明を持っていた民族である歴史を抹殺してきたわけです。

又、蘇我臣安麻呂(そがのやすまろ)という人物はかつて天智天皇(てんちてんのう )に討伐(とうばつ)された蘇我の馬子(そが の うまこ)と入鹿(いるか)の血縁になっている。 つまり天智天皇を憎んでいた彼等はその御弟君であられる天武帝を利用することにより、かつての皇統(こうとう)、聡明(そうめい)であられた皇統を逆に極悪非道にでっち上げたり、 五色人の発生経路そのものを日本人にわからないように歴史を改竄したとある。

そして蘇我臣安麻呂に助言されてか、当時の天武天皇(てんむてんのう)が日本の歴史である日本書紀と古事記を改めるよう太安万侶(おお の やすまろ)と稗田阿礼(ひえだのあれ)に勅命(ちょくめい)を出されたわけです。
いわば日本の歴史の背景には朝鮮勢力、また支那の勢力の陰謀が隠されている。秘められているわけです。


つまりフリーメイソンやこういった外来勢力が日本に及ぼしていることとは、日本人そのものの神に対する認識であったり、日本が五色人の本家である認識を消し去るところにあると言ってよいと思う。 その為に仏教書や日本の神道の根幹を成す日本書紀や古事記といった日本を代表する正史、古文献から神代七代の歴史、また皇統の歴史などを隠してあるわけです。

つまり、人は神の子であるという根拠をなくしてしまうことにより、言い換えれば日本人を皇統から引き離そうとしたり、或いは神そのものの考え方、観点を民族から抜き取ろうとしているのです。 そういう意味で、今日の日本人は本当に目的を失ってまるで浮き草のように歩まざる得ない。そういう状況に差し掛かっているのは明白です。 つまり、これら外来勢力がもたらす富や快楽によって多くの日本人が芯、志を見失ってしまっている。 日本人は今、何をなすべきかと言えば、この隠されている歴史を明らかにして行くと共に抜き取られている神様に対する認識を取り戻さねばならないでしょう。 そしてこの外来勢力、フリーメイソンに日本人がどう対抗、付き合って行けば良いか。又、日本人はどうあるべきかを考えて頂きたいものである。

【古文書が偽作とされている理由は、9世紀初頭、斉部(イツクべ)広成が斉部(インベ)一族の再興を企図して著した「古語拾遺/序文」に、「上古の世に、未だ文字有らざる時に、貴賎老少、口々に相伝へ…」と記載されており、この一点を取り上げて、古代日本には文字は無かったとされているのです。

ところが13世紀半ば、斉部広成の子孫で南朝に仕えた忌部(インベ)正道は、神代巻口訳で「神代の文字は象形文字だったが、推古天皇の頃から日本の文字に漢字を当てはめるようになった」とし、斉部には漢字以前から日本で用いられていた文字を、秘文字として隠していた事実を明らかにしています。

これは、広成の時代に、日本固有の文字を抹殺しようとする強大な圧力があったことを思わせますが、残念ながら忌部正道が南朝に属していたため、その指摘は結局葬り去られてしまいました。】

大陸沈没、歴史改ざん

ウガヤフキアエズ朝69代スメラミコトの時代、日本島に大地震発生。のちに世界で二回にわたり大地震があり、タミアラ、ミヨイ島全没。 後にアトランティス、レムリア大陸と呼ばれることになる。この時代も現代と同様科学文明が発達し人間はエゴと欲にまみれ国同士が対立していた。 2島はそれぞれ島民が発した悪想念による因果の結果により、一夜にして沈没したのであった。 最盛期だった日本は原始的穴居生活にもどった。これ以降日本のスメラミコトによる世界統治力は衰退していき、73代神倭磐余彦(のちの神武天皇)の時代には完全に世界統治を放棄せざるを得なくなった。この頃より枝国であるユダヤが本格的に勢力をもつことになる。古代の歴史は改ざんされ、多くの古文献は燃やされていった。 その一例としてアレクサンドリア図書館はあまりにも有名である。竹内文書も戦時中にその多くが燃やされたが、残った一部の文献は大切に保管されている。また古事記、日本書記は事実をモデルにした作り話である。 ユダヤについて・・・エダナという呼び方がのちにユダヤとなった。

豆知識1;日本人で「サカイ・ショーグン・故酒井勝軍(さかいかつとき)」って方は神代文字が読めた方で、訳して本を書いております。また茨城県の磯原に天津教っていうのがあって、そこには神武以前七十二代までのことが神代文字で書かれてるとのことです。

豆知識2;フリーメイソン、そしてそのユダヤの霊界が着目したのが日本の隣国である現中国や朝鮮です。中国という国は以前は支那と呼ばれており、これは枝、分家という意味がある。 そしてその本家はどこになるのかと言えば、これは日本以外にありません。中国は太古の昔から日本の枝国であり、この分家という立場を覆そうとはかって来たのが始皇帝であったり、また古来支那を統一した権力者たちになる。

大知識;日本書紀、古事記成立以前には、文字で書かれた記録がなかったとされている。ところが、漢字以前に神代文字(かみよもじ=かみよもんじともいう)と呼ばれる古代和字があり、この神代文字で書かれた太古よりの記録が在ったという。
古史古伝と呼ばれるものである。一般には、文字はなかったとされているので、神代文字で書かれていたと言うだけで、文献批判も、詳しい学術調査もされることなく、 これらの記録は、後代にねつ造されたものであると歴史学の世界では一般に認識されている。


注)此の歴史が如何とらえるか!猿が進化して人間(人類の進化論・猿から進化したとしておけば当然神という存在を隠すことが出来るのである。)になったなど唱えることが出来るであろうか。そして此れほどまでの歴史が物語りで創れるのかよくよく考えてみよ!そして此れが神の子といわれる所以である。 此れでもわからないのであれば、なにを示せばわかるのであろうか?。この過程がお分かりいたたければ霊的光力(摩訶不思議な業)なんぞは誰でも出来るのであるのだが・・・。しかしながらこの膨大な歴史は世界どこを探しても無いであろう・・・。

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宇宙創造の秘儀を悟ると天地を動かす神秘力が得らるるのであります。その為には自己を知り、大にして世界を知りそして宇宙と人間の本質を悟る事である。
ただし、この神秘力・幽幻力発揮に当って心得べき事は、私利私欲のごとき不純なる観念が、いささかにても混るとすれば、それは効果がない事である。
飽くまでその目的が、国家社会人類の為である正義感、これを一言にしていえば至誠(しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。)によらなければならない事である。


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※知ってもら王(おう)本当の日本の歴史・全人類を一体化するにはこの歴史を分かってもらうしかないのである。それで初めて地球が一つであるように、絶対の神が一つであるように、一つの神から五色人が発生していることに目覚めなければならないのである。

年数による疑問があるかもしれませんが小生の考えですが、神様の中でも歴史の係りが居られたと思うのである。だが神という存在を踏まえた考えでないと前には進まないのである。  でそれをある一定の神から神え伝えそして限界(現界)にも神代文字で伝えてたのであると思う。だが時が絶つにつれて神代の時代かだんだん自分たちが神だった事も忘れ人(ひと=火+十=火の神)から人間(ひとに成るまでの間)となり変ってしまったのであると思う。

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【◇天神代(年代不明)】

【天神1代〜七代まで】 宇宙天地万物創造の時代
【天神第1代】 元無極躰主王(もとふみくらいぬしのおお)大御神
【天神第6代】 国万造主(くによろずつくりぬし)大神
【天神第7代】 天照日大神


【天神第一代】 元無極躰主王大御神
モトフミクライヌシノオオミカミ
(天地身一大神) 宇宙創生。在位(ある地位にいること。また、その期間。):記載無し

【天神第二代】 中未分主大神尊
ナンナシワカレヌシノオオカミ
地球の分化。 在位:年歴無数

【天神第三代】 天地分主尊大神
アメツチワカレフトノミコト
天地剖判。在位:224億320,016歳

【天神第四代】 天地分大底主・女大神二神
アメツチワカシオオソコヌシ・ミドノオオカミ
大陸形成。在位:記載無し

【天神第五代】 天一天柱主大神躰光神天皇
アメハジメアメハシラヌシオオカミミヒカリノカミ
地球(地美)の完成。 神々の地球視察。在位:160億萬歳, 260億100,000歳 天一天柱ニ神、大空の天に登る所を天一柱と 名付相合す180億萬歳、国万造主大神生ませる

【天神第六代】 国万造主大神身光天皇
クニヨロズツクリヌシオオカミ
文化や祭祀の始まり。在位:110億500萬歳

【天神第七代@】 天御光太陽貫王日大光日大神
アメミヒカリオオヒナカキオウヒオオテルヒオオカミ (メシア)
文明の始まり。暦、方位、時間の制定。在位:360億年

【天神第七代A】 天御光太陰貴王女大神
アメミヒカリオオインナカキオオメノオオカミ (月神身光神)
陸上や海に生物発生。黒石に黒人祖。在位:3億年

以上が【天神1代〜七代まです。】もっと詳しい説明は言霊豆知識-43-2で記述しております。

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天神七代により天地創造が行われました。

天神一代・元無極躰主王大御神(天地創造の最高神・主神)

その主神より産み出された神々が以下のようになります。

天神二代・中末分主大神尊

天神三代・天地分主大神

天神四代・天地分大底女大神二神

天神五代・天一天柱主大神躰光神天皇

天神六代・国万造主大神身光天皇

天神七代前期・天御光太陽貴王日大御神→天照主日大神様のことであり男性神です。

天神七代後期・天御光太陰貴王女大神

これらの天神七代の神々の歴史が古神道といわれるものです。

旧約聖書には、この神々の歴史のことを第七日と表されています。

★天照大神様については天照主日大神様は男性神です。

★天照皇(アマテラススメ)大神様は女性神です。

崇神天皇の時に、それまでお祭り申し上げてきた天照主日大神様のご神体の方が隠され、 女性神の方の天照皇大神様をお祭りしているのが今日の伊勢神宮です。

日本の神道を国家神道にするために、天照主日大神様を隠してしまいました。 現在は天意転換が行われて、元のように天照主日大神様を順序正しくお祭りする必要があるのです。

天照主日大神様は幽体を持って肉体化し、現界の高天原(地上)へ天降られました。 人の霊成型通りに人の肉体を造られた神様です。

ここで五色人の誕生となり、 霊の元つ国(日本)より人類が世界へ拡がって行きました。 天照主日大神様は人を統治、指導教化するためにスメラミコト(天皇)を地上に降ろされました。

【上古王朝期】

天照主日大神様は皇統一代・天日豊本葦牙気主身光天皇を地上に降ろされ、天上へ引き上げられました。 天照主日大神様は日の神様であり、非常に朗らかで暖かく、正しく、善で美しい神様であり、 人々からは非常に慕われた神様だったそうです。

天照主日大神様は日(火)の神様であり、天照信仰、太陽信仰の元となった神様です。

太陽信仰の元は、実は天照主日大神様の神幽られた後における、お慕い申し上げる祭りで、 それが太陽を拝む信仰になり、遂には太陽神を祀る社の信仰になり、ピラミッドにもなったのが 世界の太陽信仰であるといわれています。

聖書でいうところのヤハウェ(エホバ)の神様は天照主日大神様を指します。

また、天照主日大神様は神界から仏界の救いに天下りされています。 その時のお名前が「大日如来」となります。

大日如来様は、サンスクリット語ではタタギャータといわれ、「高い所に立った方」となり、 「大きい日の神様から来て大変高位の神様から来た如し」という意味になります。

お寺の語源となったものが、天照主(アマテラス)日大神様の照(テラ)から来ています。 お寺とは、遍く光を照らす明るく、陽気な場所ということになります。

皇統二十二代・天照皇(アマテラス スメ)大神様の出現となり、この神様は女性神です。天照皇大神(アマテラス オオミカミと読んでいる事が多い。間違いです。)

大国主の大神様(大国魂神)については

大国魂神とは、そのご神魂は多くの神々が大地の神として、全世界にわたっておられます。 近世では、日本の大国主の神様もそのご分魂神として出現し、きわめて庶民的な神として知られています。

大国主の神様は大国魂神の御分魂の神様で、神代において全世界に分派され、これが世界各国の建国、 例えばイスラエルとかエジプトの文明を起こすのに、物の豊かさを導くため大活躍されました。

日本の大国主の神様は、かつて他の国に派遣された大国主神のご子孫にあたる方で、本国に帰られて、 時代の文明開発に活躍された神様です。

大国魂神は、本来物質の開発の財宝を握っておられる神様です。

大国主の大神様の姿がヨーロッパでは、サンタクロースの元となった神様です。

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天神第二代になると混沌とした宇宙から地球の文化が始まる。「土(どろ)の海を石に凝(こ)り、岩に凝り、土水分未(ドロミズイマダワカレズ)に天地分玉如奈り(アメツチワカレテタマノゴトクナ) 年歴無数」この時代を司る神は、中未分主大神尊(ナンナシワカレ ヌシ ノ オオカミ)【天日光神】と 中未分美大神尊(ナンナシワカレ ミノ オオカミ)【月ノ神】 の二神である。此の神々の名に見られるの日と月は、星としての太陽と月ではなく宇宙全体の陰と陽を象徴するものとして考えられる。つまり凝縮(ぎょうしゅく)された状態 にあったエネルギーに陰と陽の分化が起こり、その化合によって物質が生まれたのである。陰陽の始まりである。つまり三次元である物質世界の始まりである。

天神第三代は、天地が分離するいわゆる「天地剖判(テンチボウハン)」の時代である。「天と地(アメ、ツチ)と始めの分離別(ワカレタワカ」し主王(ヌシオウ)の尊(ミコト) 中未分主大神尊(ナンナシワカレ ヌシ ノ オオカミ)より二百二十四億三十二万十六歳に、天地別躰(アメツチワカレ)て大空の中が出来る」

天神第一代は、宇宙も地球も、まだエネルギーだけの混沌(こんとん=すべてが入りまじって区別がつかないさま)とした状態。

天神第二代は、エネルギーが凝り固まり、星らしきものを形創るが、まだ土(どろ)の海である。陰陽が発生する。

天神第三代は、地球の周りに大気が生まれる。いわゆる「天地剖判(テンチボウハン)」の時代

天神第四代は、最初の夫婦神が登場し、大陸が現われ生命が誕生する。天地分大底主・女大神二神 (アメツチワカシオオソコヌシ・ミドノオオカミ)の夫婦神(メオトガミ)が司る。 「地球(チガタ)大空の中より、清き物、煙の中より、天(あめ)に男神生 (ホドカミナ)り、独身男女神生(ヒトリガミ ホド ミド ノカミナマセル)媾合(マグアイ) の始めて術志都(ワザシツツ)、清物煙如棚引(スメルモノ ケムリノゴトク タナビキ)、先久方之天来(マサヒサカタ ノ アメナリクル)」

神々の媾合(マグアイ)は人間の場合とは異なり、エネルギーの結び合いである。これが三次元の地球上では、生命の発生を引き起こす。また「万の国乃凝り始め」とあり、このころに 大陸が出来始めたことも示唆(シサ)れている。こうして天神第四代までで地球はほぼ出来上がる。

天神第五代は地球創世を行っていた神々が天から地に降り、無台は宇宙から地上へと移ってくる。この時代を治める神は、天一天柱主大神躰光神天皇 (アメハジメアメハシラヌシオオカミミヒカリノカミ)と天一美柱神(アメハジメミドハシラノカミ)の夫婦神である。 地上においては初めて天皇、皇后の称号をもった神でもある。それまでは、名も無く泥の固まりの星に、初めて「地美(チミ)」と名前がつけられたのもこのときである。

地球の最初の名前である。

ちなみに地球の地固めをするのに恐竜をだして地を固めて行ったと聞いております。それが終わると氷河時代となり、恐竜時代は終わりを告げたのである。人間が住める様に計画されていったとのことである。

人間の体は何億もの細胞で形成されているが、そのひとつひとつの細胞は、ひとりの人間とは比べようもないほど、小さな存在でしかないのである。しかし、その小さい細胞の ひとつひとつの中には、遺伝子としてひとりの人間を型創るすべての情報が含まれているのである。

このことからも、宇宙に存在するものはすべて、この宇宙構造にのっとって相似形をなしていると考える事ができよう。こうした考え方は、宇宙の構造を解き明かすといわれている 最新のブラクタル理論(ある図形の任意の一部を取り出した時、それが全体と相似形であるような図形をブラクタル図形という。こうした宇宙のすべてのものが、ブラクタル理論) であり、最新の物理学として注目を集めている)こうしたことを前提に日本を地球規模で見ると、まさに日本は地球すべてを内に秘めたミニチュア版の地球ととることができよう。

「天・地・人 すべては相似形をなしている」もしかしたらこの地球の法則こそが、どの宗教にも見られる。「神が自分に似せて人類を創造した」という言葉の真相ではないだろうか。 私達人間は、神と比べるべくもない存在だが、神と同じだけの可能性を秘めた存在ともいえるのである。

陽と陰の世界〜陽の気と陰の気は、全ての物事を発生させる働きをもつ。陽は太陽、に代表される光の世界、陰は月に代表される闇(かげ)の世界である。これが全てを司っているのである。

尊〜本来 尊(ミコト)とは、思う事、言う事、行う事の三つがそろっている人格を示すものである。

夫婦神〜一元のエネルギーから、陰陽 二元のエネルギーとなったことを示す。人間界においては、男と女の夫婦という形に、其の働きが象徴されているのである。

天・人・地 の相関性を現わしたものが星雲・胎児・日本列島・世界の大陸すべてが渦巻き状(龍体)をなしているのである。

現在では考えられないほどの文明が進んでいたのが、天神時代なのである。

この世のことを「うつしよ」という。何を映しているのかといえば「あの世」のことである。あの世というとあまり気持ちのいいものではないが、簡単にいえば次元の異なる 世界のことである。当然その中には、神々がいる高次元の世界も含まれる。つまり、現世は目には見えない次元の影響を受けて存在しているのである。我々人類が生活しているのは 三次元であるが、その三次元の統治神が天皇である。この天皇は四次元の神々によって任命され、同時に指導も受け、三次元の世界を統治している。今日はどうかわからないが・・・。神代の時代はそうであった。そして四次元の神は 五次元の神の・・・というように、それぞれの神が上の次元の神の任命と指導のもと、各次元を統治しているのである。

神と言うと絶対的なものと思うかもしれないが、絶対的な神は元無極躰主王(もとふみくらいぬしのおお)大御神であって、それ以下の神々は、やはり人間のようなさまざまな心をもった存在の様である。

さて地球の創世記である天神時代、四次元を司っていた神は、大変な統治力があったが、その分とても厳しい神でもあった。そのためかその下にいる神々は不満をつのらせ、次第に反発するようになっていった。 そうしてさらに上の五次元の神々に統治神の交替を申請した。つまり神政内閣が起こったのである。五次元の神は、今までの神でないと四次元を統治することが出来ないことを 知ってはいたが、他の神々にもそれを納得させた。また成長させるためのチャンスとして交替を許したのである。それがミロク大三代会議である。日・月・土の神である。

これによりて現在日本で行われている封じ込める「豆まき」行事になるのである。また正月に食べる雑煮(五臓六腑を食べるという義=臓腑を煮て食べるという義)ということにもなるのである。さて今までの統治神は任を解かれ、他の神々(月の系統の神々)の 自由な学習期間を見守ることとなったのである。これが所謂艮(うしとら)の金神(こんじん)である。所謂御二(おんに)の神、二番目の神のことである。これを鬼としたのである。

所謂 国造主大神様は、主の神様を霊の面とすると体の面(物質)のみ役、いわゆる『に』のみ役ですから『御 二』の神ともいうのです。「七五三縄」これはシメナワと読む。子供の祝い事としてやられているが実は封じ込め行事である。祝い事をやるのであれば「三五七」となるのが正しいのである。

四次元の神々が交替すると、それに合わせて三次元の天皇の御魂(みたま)もそれに即したものにかわってくる。四次元の神々が統治権を奪えば、当然三次元でも地球上の国々 が世界の統治権を争うようになる。神々の統治が生き詰り、その影響が人類にも及ぶと天変地異が起こるのである。

このようにいうと人間は被害者のようだが、必ずしもそうではないのである。その証拠に、心正しいもの、神の定めた秩序を守って生活していた人々は、天変地異のとき、神によって命を救われているのである。この現象は今も続いているのである。小生自身が体験しているからである。 さて不合第(ふきあえずちょう)七十一代の記録にも「神生まれ信仰する人、神守救助(カミムタスクル) 」と明記されているのである。


●人間が胎児から出来あがる日数は約10ヶ月10日といわれている。この日数も神による仕組みである(数霊による)。十+十=二十の意味は霊体の結びである(人の完成である)。

地上で生活するための準備期間である。所謂地上における人が霊界人(現界)になる為なのである。

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【上古二十五代 「天浮舟」で世界をかけめぐったスメラミコト時代 】

【上古第一代の統治期に「大空乗公運尊」(おそらのりあるきのみこと)が天空船や水船を建造】

1代 天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇
在位:160億60万年[21世]

2代 造化気万男身光天皇
在位:320億年[33世]

3代 天日豊本黄人皇主神天皇身光神
在位:270億5万年[24世]

4代 天之御中主神身光天皇
在位:250億年[22世]

5代 天八下王身光天皇
在位:100億20万年[22世]

6代 天目降美身光神天皇
在位:110億年[22世]

7代 天相合美身光天皇
在位:100億23,003年[21世]

8代 天八百足日身光天津日嗣天皇(大苫彦尊)
在位:120億年[20世]

9代 天八十万魂身光天津日嗣天皇(青橿城根尊)
在位:160億年[22世]

10代 高皇産霊身光天津日嗣天皇(タカミムスビ)
在位:110億100万年[20世]

11代 神皇産霊身光天津日嗣天日天皇(カミムスビ)
在位:100億50万年[20世]

12代 宇麻志阿志訶備比古遅身光天津日嗣天日天皇(宇摩志阿斯訶備比古遅神)
在位:80億年[18世]

13代 天之常立男身光天津日嗣天日天皇(天之常立神)
在位:90億年[19世]

14代 国之常立身光天津日嗣天日天皇(国之常立神)
在位:200億年[22世]

15代 豊雲野根身光天津日嗣天皇(豊国主尊)(豊雲野神)
在位:100億年[18世]

16代 宇比地煮身光天津日嗣天皇(沙土煮尊・天合尊)(宇比地邇神)
在位:190億年[16世]

17代 角杭身光天津日嗣天日天皇(天三下尊)(角杙神)
在位:100億年[11世]

18代 大斗能地王身光天津日嗣天日天皇(大戸道尊)(意富斗能地神)
在位:125億5年[10世]

19代 面足日子天津日嗣天日天皇(於母陀流神)
在位:110億年[15世]

20代 惶根王天津日嗣天日天皇
在位:110億年[13世]

21代 伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇(イザナギ)
在位:100億年[16世]

22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(アマテラス)
在位:170億年[11世]

23代 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇(アメノオシホミミ)
在位:130万年[7世]

24代 天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇(ニニギ)
在位:131万年[5世]

25代 天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇(山幸彦)
在位:163万7,890年[8世]

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【時代の行方】

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皇統第 1代 天日豊本葦牙気皇主天皇 16方位を定め、16綺形の紋章を天皇の紋章とする。

皇統第 2代 造化気万男天皇  『日の丸』を『日の神赤玉の旗』と名付け天皇の旗とした。日本の国旗の始め。

皇統第 3代 天日豊本黄人皇主天皇の時代(第1回大天変地異)

皇統第 4代 天之御中主天皇の時代(第2回大天変地異 500万年前? ムー大陸最初の陥没)

皇統第14代 国常立天皇の時代(第3回大天変地異)

皇統第21代 伊邪那岐天皇の時代(第4回大天変地異)

皇統第22代 天疎日向津比売天皇(天照皇大神)の時代(第5回大天変地異 20万年前?)

不合第(ふきあえずちょう)六十九代 神足別豊鋤天日嗣天皇
カンタルワケトヨスキアメヒツギスメラミコト
 第6回目の 「人皆死す天地かえらく(大天変地異)」。

特に日本は、壊滅的な打撃をうけた。この結果、世界がバラバラになり、世界の統一が失われ、世界各地に国が独立し、
覇(は=武力で天下を取る者)をあらそう弱肉強食の時代をむかえるようになった。


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上古 別称(皇統)

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【上古第一代】 天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇
アメヒノモトアシカビキミヌシミヒカリオオカミスメラミコト
在位:160億60万年[21世]
天孫降臨(地球への大移住)。国名の制定。天空船(あめのうきふね)、水船の建造。天越根国(日本の飛騨・越中地方)に天神人祖一神宮の設立。
神代文字の発明。万国地図の作成。

【上古第二代】 造化気万男身光天皇
ツクリノシキヨロズヲミヒカルスメラミコト
在位:320億年[33世]
五色人の誕生。息子の世界各地への派遣。

【上古第三代】 天日豊本黄人皇主天皇身光神
アメヒノモトヒノヒミイヌシスメラミコトミヒカルカミ
在位:270億5万年[24世]

天皇の万国巡幸の始まり。地球大変動。天皇皇子一族、天空浮船(あめのうきふね)で一時避難。地球再建のため、再降臨。
越中・御皇城山を復興拠点として各地を再建。音楽舞楽の始まり。

【上古第四代】 天之御中主神身光天皇
アメノナカヌシカミミヒカルスメラミコト
在位:250億年[22世]

二度の地球大変動を経験。万国政法(国際法)制定。数字の改定。紙、墨の製造と歴史書の編纂。
武器の製造と賊人、罪人(反乱軍?)の平定。万国巡幸。万国国境の測量と尺度の制定。

【上古第五代】 天屋八下王御光天皇
アメヤクダリオオミヒカルスルラミコト (土神)
在位:100億20万年[22世]
万国巡幸。井戸の掘り方や穀物の育て方を世界各地に伝授。土器の製造。

【上古第六代】 天目降美身光神天皇
アメメクダリミドミヒカルカミスメラミコト (木神)
在位:110億年[22世]

初の女性天皇。万国巡幸。草木根安堵峯に遷都。

【上古第七代】 天相合美身光天皇
アメアヒアワスミトミヒカルスメラミコト (火神)
在位:100億23,003年[21世]

万国巡幸。速日別国嶋浮岳に遷都。地球大変動。

【上古第八代】 天八百足日身光天津日嗣天皇
アメヤホタリヒミヒカルアマツヒツギスメラミコト (金神)
在位:120億年[20世]

万国巡幸。綿糸、絹糸の製造や衣類の作り方を伝授。若狭三圀山へ遷都。

【上古第九代】 天八十万魂身光天津日嗣天皇
アメヤソヨロズタマミヒカルアマツヒツギスメラミコト (水神)
在位:160億年[22世]

万国巡幸。酒造や牧畜、漁業、建築技術を伝授。地球大変動。
ヤソヨ文字・・・上古第九代二十二世の御代に作られたと伝える。

【上古第十代】 高皇産霊身光天津日嗣天皇
タカムスビミヒカルアマツヒツギスメラミコト
在位:110億100万年[20世]

越中・鷲羽山に遷都。万国巡幸。越中・御皇城山に遷都。ヒヒイロカネで屋根を葺いた神殿を建造。
天神人祖神宮を皇祖皇太神宮に改名。神宮の四方に大鳥居を建造。世界中から五色人が集まり、神宮を参拝。

【上古第十一代】 神皇産霊身光天津日嗣天日天皇
カミムスビミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト
在位:100億50万年[20世]

上代の歴史を編纂。世界地図の作成。阿波京桂山に遷都。地球大変動。

【上古第十二代】 宇麻志阿志訶備比古遅身光天津日嗣天皇
ウマシアシカビヒコチミヒカルアマツヒツギスメラミコト
在位:80億年[18世]

野道路彦上毛宮城に遷都。万国国政法制定。万国巡幸。南米で賊に襲われるが、「指にてひねり殺す」。
ヒヒイロカネで刀剣を製造。遠津海スルカ不老山(富士山)に遷都。富士王朝の始まり。

【上古第十三代】 天之常立男身光天津日嗣天日天皇
アメノトコタチヲミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト 
在位:90億年[19世]

皇子皇女を万国に派遣。吉道路国筑父母山(筑波山)に遷都。

【上古第十四代】 国之常立身光天津日嗣天日天皇
クニノトコタチミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト  
在位:200億年[22世]

万国巡幸。食器製造法の伝授。月山に臨幸、天皇皇后入浴した場所を湯殿と名付ける。狭依信濃飛太国位山に遷都。地球大変動。
天皇非難し、越中・祖来ヶ岳に再降臨。歴史の編纂。天空浮船の飛登行所を羽根と名付ける。

【上古第十五代】 豊雲野根身光天日嗣天日天皇
トヨクモヌネミヒカルアメヒツギアメノスメラミコト
在位:100億年[18世]

越中・呉羽山に遷都。万国観察使を派遣。国常立天皇より以前の神々を上代の神として歴史を編纂。
出雲石窟文字 トヨノ文字書嶋字。

【上古第十六代】 宇比地煮身光天日嗣天皇
ウヒチニミヒカルアメヒツギスメラミコト  
在位:190億年[16世]

石楠茶を製造。上毛地蔵山に遷都。カカコノ山のヒヒイロカネで神宝を製造。建依那国雲光山に遷都。

【上古第十七代】 角杭身光天津日嗣天日天皇
ツヌグイミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト (木神)
在位:100億年[11世]

草木根国高豊峯に遷都。地球大移動。

【上古第十八代】 大斗能地王身光天津日嗣天日天皇
オオトノチオウミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト (水神)
在位:125億5年[10世]

ヒヒイロカネで宝剣を製造。越中・御皇城山に遷都。越後・蒲原栗ヶ山に遷都。万国巡幸。地球大変動。一時避難し、再降臨。

【上古第十九代】 面足日子身光天津日嗣天日天皇
オモタルヒコミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト (火神)
在位:110億年[15世]

万国巡幸。皇祖皇太神宮を御皇城山に改築。日向国法禮山に遷都。

【上古第二十代】 惶根王身光天津日嗣天日天皇
カシコネオウミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト (金神)
在位:110億年[13世]

越中・呉羽山赤土山に遷都。丹波但馬身栗利(三国)岳に遷都。万国巡幸。

【上古第二十一代】 伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇
イザナギミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト  
在位:100億年[16世]

>伊弉冊(イザナミ)皇后、火傷の治療のため、アフガニスタンに帰郷。天皇も皇后を追ってアフガニスタンに。
帰国後、筑後・御前山に遷都。呉羽山赤土山に遷都。飛騨・乗鞍岳に遷都。地球大変動。桃木文字

【上古第二十二代】 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇
アマサカリヒニムカイツヒメミヒカルアマツアメノスメラミコト (天照大神)
在位:170億年[11世]

地球大変動。天皇再降臨。皇祖皇太神宮を再建。位山の大宮から神通川を川船で下り、御皇城山に遷都。万国法政を制定。
弟の速進男尊(スサノオノミコト)の乱暴狼藉で天皇、日玉国の磐屋に隠れて神政を放棄。速進男は壇国に追放。
群臣の神楽や祈りが天皇に通じ、磐屋開き。速進男は帰国後、出雲で山田の大蛇を倒し、そのときの剣を天皇に献上。
天皇、速進男に恩赦を与える。速進男と櫛名田姫の子を立太子に決定。

【上古第二十三代】 天之忍穂耳身光天津日嗣天日天皇
アメノオシホミミミヒカルアマツヒツギアメノスメラミコト
在位:130万年[7世]

御皇城山に遷都。肥前神崎に遷都。日向国高千穂に遷都。

【上古第二十四代】 天仁仁杵身光天津日嗣天日天皇
アメノニニギミヒカルヒツギアメノスメラミコト
在位:131万年[5世]

御皇城山より高千穂に遷都。天空浮船で万国巡幸。越中の皇祖皇太神宮を大改築。陸奥・眉ヶ平に遷都。
尖山、十和利山などに神殿建造。伊勢二見に還幸。高千穂再遷都。火明尊、琉球に渡る。

【上古第二十五代】 天津彦火火出見身光天津日嗣天皇
アマツヒコホホデミミヒカルアマツヒツギスメラミコト
在位:163万7,890年[8世]

御皇城山に遷都。奇日隅稲王山に遷都。探湯祭を定める。天空浮船で万国巡幸。道路奥烏帽子山に遷都。
道路奥矢大臣山に遷都。奇日根国高屋山に遷都。呉羽赤土に遷都。

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上古(皇統)25代

1代 アメノヒトヨノモトアシカヒキミノシミヒカリスメラミコト

  アメノヒトヨノモトアシカヒキミキサキノミヤ


肉体を有する神人であり初代人皇。66柱の神々ご出生。皇子皇女に神政内閣の各政務を担当させる。世界萬国の地図完成。

各国の国名定める。16方位を定め、その統治者(※初代人皇の孫たち含む)を16方神と称する。


ヒトツ方・・・アメノトヨノモトヒノヒミノシ神

ヒウケ方・・・アメノヒトヨノモトアシハラオオヒコ神

ヒコネ方・・・バンイダナテイシン民王

ヒウイ方・・・インダウテンジクバンサンクロヒ民王

ヒムア方・・・トコヨクニゴガクイブキ神

ヒアケ方・・・トコヨクニヤココロイソイコトツクリニトノ神

ヒカシ方・・・オオヤマクサキタネマキノシ神

ヒタツ方・・・アジア・アンナムノハノイ青人王

ヒイタ方・・・アメノヒミヒカリミドノヒ女神

ヒタミ方・・・アメノミハシラフキオ女神

ヒナタ方・・・オオソラキリクモアメフキハラヒ神

ヒイロ方・・・ヨイロパ・アダム・イブヒ赤人女祖主神

ヒコシ方・・・アメノヒヨロハヒメ神

ヒサリ方・・・アメノムクライナガイキノシ神

ヒニル方・・・アメノヤオヨロズヒクサノシ神

ヒイル方・・・アシア・シャム・バンコクムス白人祖民王


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2代ツクリシキヨロズオミヒカリスメラミコト

    ツクリシキヨロズミキサキノミヤ

五色人発生。43柱の神々をご出生される。この内、第22子から第37子までの16柱が五色人の国王として各地に赴かれそれぞれの国の国祖となられた。

第22子バンイダナテイシン民王

第23子インダウテンジクバンサンクロヒ民王

第24子インドチュウランヤ黒人民王

第25子ヨイロパアダムイブヒ赤人女祖

第26子オストラリニ日ニニンシュイタム赤人祖王

第27子オストリオセアランド赤人民王

第28子アシアシャムバンコクムス白人祖民王

第29子アジア・アンナムノハノイ青人王

第30子アフリエジフト赤人民王

第31子ヨハネスブルグ青人民王

第32子ヒナタエビロスイソム赤人民王

第33子ヒナタエビロスアルヘナ黄人民王

第34子ヒウケエビロスヒルコネ黄人祖民王

第35子ヒウケエビロスボストン赤人民王

第36子ヒウケエヒスカスケムコ赤人民王

第37子アフリアビシアムズ赤人民王


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3代アメノヒトヨノモトヒノヒミノカミシスメラミコト

  アメノヒトヨノモトヒノヒミミドノキサキノミヤ

  20柱の神々をご出生される。天の浮船で各国を巡礼。この時代に地球人類始まって以来最大の天変地異が起き地球上は一面土の海と化す。

時の経過と共にその変動も平静となり、その時点で天照日神より『萬国の天津ひつぐは汝の子々孫々まで天壊と共に極まることなかるべし。汝は天越根国に降り 再び地球萬国を開きて治めよ』とご神託賜り、再び皇族を全国に配置した。

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4代アメノミナカヌシスメラミコト

  アメノミナカミキサキノミヤ

天変地異の後政治が乱れたためスメラミコトは民の生活環境を平和なものにするため様々な改革を遂行される。

それらの事業が無事達成されることを祈願して天神人祖一神宮で祭典を挙行なされた。

この時代にも地球上に大変動が発生した。その際現在の太平洋に存在していた大陸が一夜のうちに太平洋中に没する。

2代にわたって大変動が発生し、人類は絶滅の危機に瀕したが、数多くの御子をご出生され子孫を繁栄させる。

尺度、重量、容積の制定。各国に農事教官派遣。製薬と医術の伝授。上代の歴史の作成。楽器の製造。12支の守神定める。

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5代アメノヤクダリオミヒカリスメラミコト

  アメノヤクダリミキサキノミヤ

農耕、牧畜、井戸掘りや言語に関する教育。前代同様各国に御子を派遣され、各国の統治をなされる。

天神人祖一神宮の祭主となり政治を挙行される。

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・・・以降25代を上古(皇統)時代と呼ぶ。

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その後ウガヤフキアエズ朝73代を経て、現在よく知られている神武天皇からはじまる神倭期に入る。※73代スメラミコト(カムヤマトイワレヒコ)と神武天皇は同一人物である。

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【不合朝(ふきあえずちょう)七十三代】

【スメラミコトの世界統治が揺らぐ時代】
皇統26代(不合初代)武鵜草葦不合(たけうがやうきあえず)天皇 16綺形の紋章を『16菊花紋』に改め、天皇の紋章とする。
太古に天神第5代天一天柱主大神を祀ったとされる天柱石。下に祭祀跡が残る 不合69代 神足別豊耡天皇の時代(第6回大天変地異・前1500年頃ノアの洪水)

神倭朝(かむやまとちょう)

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・・・・・神代文字・・・・・

アヒル文字ーーーーーー上古第一代七世
キミ文字ーーーーーーー上古第一代十世
アシカビ文字ーーーーー上古第一代
スメル文字ーーーーーー上古第二代
カタカナ文字ーーーーー上古第二代三世
ヒマラヤ文字ーーーーー上古第二代六世
アタヒル文字ーーーーー上古第二代七世
 ツクリ文字ーーーーーー上古第二代
鳥足文字ーーーーーーー上古第二代
結縄文字(けつじょうもじ)⇒縄文字(なわもじ) ーーーーーーー上古第三代
ヒノムト文字ーーーーー上古第三代二世
ヒツギ文字ーーーーーー上古第三代三世
イソフ文字ーーーーーー上古第三代五世/九世
ヒル文字ーーーーーーー上古第三代十世
とおみ文字ーーーーーー上古第三代十四世
天日字(あひる)文字ーー上古第四代
天日草形文字ーーーーー上古第四代
数文字ーーーーーーーー上古第四代
中主文字ーーーーーーー上古第四代二十一世
恵比壽(俗.アイヌ)文字ー上古第七代
ヤソヨ文字ーーーーーー上古第九代
ヤソヨロツ文字ーーーー上古第九代
ヒフ文字ーーーーーーー上古第十代
メモスビ文字ーーーーー上古第十代
コソナ文字ーーーーーー上古第十代
タツ文字ーーーーーーー上古第十二代
ウマシ文字ーーーーーー上古第十二代
モモキ文字ーーーーーー上古第十四代
クサビ文字・ーーーーー上古第十四代
テントヨ文字ーーーーー上古第十五代
トヨノ文字ーーーーーー上古第十五代
スイチ文字ーーーーーー上古第十六代
チニ文字ーーーーーーー上古第十六代
クイボク文字ーーーーー上古第十七代
モモノ木文字ーーーーー上古第二十一代
サカリヒミ文字ーーーー上古第二十二代
ヨモツモモノ木文字ーー上古第二十二代
蛇踊文字ーーーーーーー上古第二十三代
神代文字ーーーーーーー上古第二十三代
ホメミ文字ーーーーーー上古第二十三代
キネクサビ文字ーーーー上古第二十四代
ヒカリ文字ーーーーーー上古第二十五代
クサビ文字・ーーーーー上古第二十五代

・・・・・以上上古代までによる神代文字・・・・・

たねまき文字ーーーーー不合第一代
まての文字ーーーーーー不合第二代
クサビ文字ーーーーーー不合第四代
ハンチ文字ーーーーーー不合第九代
まがきり文字ーーーーー不合第十一代
桃木文字ーーーーーーー不合第十九代
きぶく文字ーーーーーー不合第二十三代
桃木文字(ヨモツ文字)ー不合第二十六代

・・・・・以上鵜草葺不合朝までによる神代文字・・・・・

イソヒ文字ーーーーーー神倭第七代
・・・・・以上神倭朝(かむやまとちょう)までによる神代文字・・・・・

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神代文字の存在は、多くの言語学者、考古学者が否定している。だが、アヒル草文字、イズチ文字、トヨクニ文字といった、漢字ひらがなでも,カタカナでもない文字が全国各地で見つかって、 いるのも事実である。

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【 日本の天皇の時代】

不合73代(神倭初代)神日本磐余彦天皇(神武天皇)

鵜草葺不合(ウガヤフキアエズ)王朝・73代天皇(竹内文書)
※赤字は媛天皇(女帝)

・・・【代数】・・・【天 皇 名】・・・

・・・【読   み】・・・

・・・【在  位】・・・


【1 武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇 】
タケウガヤフキアハセズミヒカリアマツヒツギアメヒノスミラミコト
在位:283万8042年(283万8040年)

【2 日高日子身光天日天皇軽島彦尊 】
ヒタカヒコミヒカリアメヒノスミラミコトカルシマヒコノミコト
在位:21,831年

【3 真白玉輝彦天日天皇 】
マシラタママカカヒコアメヒノスミラミコト
在位:22,020年

【4 玉噛尊天津日嗣天日天皇 】
タマオギノミコトアマツヒツギアメヒノスミラミコト
在位:13,000年

【5 天地明成赤珠彦天日身光天皇 】
アメツチアカナルアカタマヒコアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:11,170年(5,799年)

【6 石鉾歯並執楯天皇天日天皇身光天皇 】
イシホコハナラビトリタテノスミラミコトアメヒノスミラミコトミヒカリスミラミコト
在位:1,630年(同年)

【7 櫛豊媛尊天日身光媛天皇 】
クシトヨヒメノミコトアメヒノミヒカリヒメスミラミコト
在位:597年(同年)

【8 光徹笑勢媛天皇天日身光媛天皇】
ヒカリトホリワラハセヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリヒメスミラミコト
在位:468年(466年)

【9 千種媛天皇天日身光媛天皇 】
チグサヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリヒメスミラミコト
在位:521年(5,121年)

【10 千足媛天皇天日身光万国棟梁天皇 】
チタルヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリヨモツクニオムヤノスミラミコト

在位:595年(同年)

【11 禍斬剱彦天皇天日身光万国棟梁天皇 】
ワザキリツルギヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリヨモツクニオムヤノスミラミコト
在位:793年(同年)

【12 弥広殿作天皇天日身光天皇 】
イヤヒロドノツクリノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:550年(同年/同年)

【13 豊明圀押彦天皇天日身光天皇 】
トヨアカクニオシヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:380年(同年)

【14 火之進奇猿媛天皇天日身光天皇 】
ヒノススムキサリヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:460年(同年)

【15 臼杵天皇天日身光天皇】
ウスキネノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:353年(同年/同年)

【16 産門真幸天皇天日身光天皇 】
ウブカドマサチノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:316年(同年)

【17 表照明媛天皇天日身光天皇】
ウハテルアカリヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:496年(同年)

【18 依細里媛天皇天日身光天皇 】
ヨリホソリヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:480年(同年)

【19 少名形男彦天皇天日身光天皇 】
スクナカタオヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:350年(同年/449年)

【20 天津明少名大汝彦天皇天日身光天皇 】
アマツアカリスクナオオナムチヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:450年(同年)

【21 天饒明立天皇天日身光天皇】
アメニギアカルテノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:433年

【22 天押開神魂彦天皇天日身光天皇 】
アメオヒラキカミミタマヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:330年

【23 天饒国饒狭真都国足天皇天日身光天皇 】
アメニギクニニギサマツクニタルスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:318年

【24 天饒国饒黒浜彦天皇天日身光天皇 】
アメニギクニニギクロハマヒコノスミラミコトアメヒミヒカリスミラミコト
在位:329年

【25 富秋足中置天皇天日身光天皇 】
トミアキタルナカオキノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:460年(/同年)

【26 種浙彦天皇天日身光天皇 】
タネカレヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:302年

【27 建玉天皇天日身光天皇 】
タテタマノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:348年

【28 天之海童楽之雄天皇天日身光天皇 】
アメノソリエラギヲノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:280年

【29 神豊実媛天皇天日身光天皇】
カミトヨミヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:397年

【30 円脊之男天皇天日身光天皇 】
マルセノヲスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト 在位:476年

【31 橘媛天皇天日身光天皇 】
タチバナヒメノスミラミコトアメヒミヒカリスミラミコト
在位:306年

【32 花撰媛天皇天日身光天皇 】
ハナヨリヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:387年

【33 清之宮媛天皇天日身光天皇 】
スガノミヤヒメスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:372年

【34 八千尾亀之男天皇天日身光天皇】
ヤチヲカメノヲスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:313年

【35 花媛天皇天日身光天皇 】
ハナヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:203年

【36 若照彦天皇天日身光天皇】
ワカテルヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:439年

【37 松照彦天皇天日身光天皇 】
マツテルヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:387年

【38 天津太詞子天皇天日身光天皇 】
アマツフトノリトノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:206年

【39 神足伊足彦天皇天日身光天皇 】
カミタルイタルヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト 在位:368年

【40 神楯媛天皇天日身光天皇】
カミタテヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:278年

41 神楯広幡八十足彦天皇天日身光天皇
カミタテヒロハタヤソタルヒコノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:355年

【42 鶴舞媛天皇天日身光天皇】
ツルマヒヒメノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト

在位:356年

【43 豊足大御中天皇天日身光天皇 】
トヨタルオホミナカノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:376年

【44 大炊気吹天皇天日身光天皇】
オホカシフキノスミラミコトアメヒノミヒカリスミラミコト
在位:7年

【45 空津争鳥天皇天日嗣天皇】
ソラツアラソトリノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:181年

【46 鳥言足清男天皇天日嗣天皇 】
トリコトタルスガノヲスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト 在位:328年

【47 大庭足媛天皇天日嗣天皇】
オホニハタルヒメノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト

在位:303年(/同年)

【48 豊津神足別天皇天日嗣天皇 】
トヨツカミタルワケノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:286年

【49 豊足彦天皇天日嗣天皇】
トヨタルヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:380年

【50 神足別国押之女天皇天日嗣天皇】
カミタルワケクニオシノヒメスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト

在位:235年

【51 国押別神足日天皇天日嗣天皇 】
クニオシワケカミタルヒノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:303年

【52 天津紅之枝玉天皇天日嗣天皇 】
アマツクレノエタマノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:389年

【53 天開明知国束天皇天日嗣天皇】
アメヒラアカリシリクニツカノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:296年

【54 高天原輝徹国知天皇天日嗣天皇 】
タカマノハラテリトホルクニシリノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:262年

【55 天津玉柏彦天皇天日嗣天皇】
アマツタマカシハヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:293年

【56 天津成瀬男天皇天日嗣天皇 】
アマツナルセヲノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:320年(/同年)

【57 天津照雄之男天皇天日嗣天皇 】
アマツテルヲノヲスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:461年(/同年)

【58 御中主幸玉天皇天日嗣天皇 】
ミナカノシサキタマノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:382年(/383年)

【59 天地明玉主照天皇天日嗣天皇】
アメツチアカタマノシテラススミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:487年

【60 天照櫛豊媛天皇天日嗣天皇 】
アマテラスクシトヨヒメノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:235年

【61 豊足日明媛天皇天日嗣天皇 】
トヨタルヒアカリヒメノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト

在位:206年

【62 天豊足別彦天皇天日嗣天皇】
アメトヨタルワケヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:238年(/258年)

【63 事代国守高彦尊天皇天日嗣天皇 】
コトシロクニマモリタカヒコノミコトスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:360年(/330年)

【64 豊日豊足彦天皇天日嗣天皇 】
トヨヒトヨタルヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:280年

【65 勝勝雄之男天皇天日嗣天皇 】
マサリマサルヲノヲスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:282年

【66 豊柏木幸手男彦天皇天日嗣天皇 】
トヨカシハサチテヲヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:337年

【67 春建日媛天皇天日嗣天皇】
ハルタテヒルヒメノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト

在位:217年

【68 天津日高日子宗像彦天皇天日嗣天皇 】
アマツヒタカヒコソオラヒコノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:238年(/同年)

【69 神足別豊耡天皇天日嗣天皇 】
カンタルワケトヨスキノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:428年

【70 神心伝物部建天皇天日嗣天皇 】
カンココロツトフモノノベタテノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:230年

【71 天照国照日子百日臼杵天皇天日嗣天皇 】
アマテルクニテルヒコモモヒウスキネノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:216年

【72 彦五瀬天皇天日嗣天皇 】
ヒコイツセノスミラミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:35年

【73 狭野尊天日嗣天皇(神武天皇)】
サヌノミコトアマツヒツギノスミラミコト
在位:136年


【フキアエズ朝第73代・狭野尊天皇は、カムヤマト朝初代・神武天皇となったので、フキアエズ朝は実質的には、72代と言う事になる。】

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【不合朝最後の天皇である第73代は狭野尊(サヌノノミコト)。天皇は、神武天皇と名を変え神倭時代(かむやまと)へ入る。先古代文明から歴史時代へと突入していく。】

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【それぞれ何をなされたのか説明を記する!】

【◇鵜草葺不合朝<ウガヤフキアエズチョウ>(年代不明)】

【不合第一代】 武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇
タケウガヤフキアワセズミヒカルヒツギアメノスメラミコト
能登宝立山、秋津根山城ミクシ峠、出雲松江、穴門根長門天乞山、愛媛国千里山、速肥後ノ八代宮、 遠津海伊豆天城山、遠津海サガミ大山、道路奥彦下毛湯岐山、天王田、道路奥岩木山、越中・御皇城山に計十二回遷都。 ヒヒイロカネで十六菊章を製造。万国巡幸の際、天皇旗(日の丸旗)と皇后旗(三日月形の旗)建てる。 イビスイシカソウウケ山に遷都。道路奥陸中六角牛・早池峰・甲子に遷都。道路奥アカ井ノ岳に遷都。武蔵津海安房鋸山に遷都。 草木根紀伊安堵峰に遷都(せんと=都(みやこ)を他所へうつす(遷す)こと。)

【不合第二代】 日高日子身光天日天皇軽島彦尊
ヒダカヒコミヒカルアメノスメラミコトカルシマヒコノミコト
御皇城山に遷都。豊日別豊後万年山に遷都。

【不合第三代】 (皇弟)真白玉真輝彦天日天皇
マシラタママテルヒコアメノスメラミコト
越中・呉羽赤土山に遷都。天皇の寿命が短くなる。万国巡幸。全国巡視。祭日、祭りの法の制定。房事の度数の取り決め。

【不合第四代】 玉噛彦天津日嗣天日天皇
タマカミヒコアマツヒツギアメノスメラミコト
地球大変動。万国巡幸。霧島に大神宮分社造営。

【不合第五代】 天地明成赤珠彦天日身光天皇
アメツチアカリナスアカタマヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(天竺ヒミラヤ)。筑前国シマウキ岳に遷都。

【不合第六代】 石鉾歯並執楯天日身光彦天皇
イシホコハナミトリタテアメノミヒカルヒコスメラミコト
天皇の見守りとして十六菊紋を羽衣につける。

【不合第七代】 櫛豊媛天日身光媛天皇
クシトヨヒメアメノヒメスメラミコト
万国巡幸(オーストラリダイビ)。

【不合第八代】 光徹笑勢媛天日身光媛天皇
ヒカリトホリイヒセヒメフメノミヒカルヒメスメラミコト
丹波別天橋大宮で死去。

【不合第九代】 千種媛天日身光媛天皇
チクサヒメアメノミヒカルヒメスメラミコト
万国巡幸。

【不合第十代】 千足媛天日身光万国棟梁天皇
チタルヒメアメノミヒカルトコヨノクニオムヤスメラミコト
万国巡幸(ヨイロハ国)。国内温泉行幸。貨幣の製造。光池上鶴ヶ城に遷都。松島金王山に遷都。日根別大隅桑原大田に遷都。

【不合第十一代】 禍斬剣彦天日身光万国棟梁天皇
マガキリツルキヒコアメノミヒカルトコヨノクニオムヤスメラミコト
万国巡幸(アフリカ、ゼイラ)。月山に月陰明神祭る。

【不合第十二代】 弥広殿作天日身光天皇
ヤヒロトノツクリアメノスメラミコト
万国巡幸(ヒナタイビロス国)。広島・葦嶽山など全国四ヵ所に日来神宮(ヒラミット)造営。速日別肥後阿蘇に遷都。 越中・ニイヤクニノの山で八柱の薬師神を祭る。越中・呉羽アンネン山に遷都。

【不合第十三代】 豊明国押彦天日身光天皇
トヨアカリクニオシヒコアメノスメラミコト
万国巡幸(イジフト国)。富士西富士に遷都。

【不合第十四代】 火之進奇猿媛天日身光天皇
ホノススムキサヒメアメノミヒカルスメラミコト
富士大宮で即位式。富士浅間神社の再建。万国巡幸(オイストラリア国、天竺マラツカ)。越中・王津(魚津)天神に遷都。 御皇城山に遷都。狭依信濃彦国コマ山とタカヒ山に遷都。

【不合第十五代】 臼杵天日身光天皇
ウスキネアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(支那国黒龍江、ヒウケイビロス国)。愛媛伊予三津浜着九万に遷都。

【不合第十六代】 産門真幸天日身光天皇
ウミカドマユキノアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヨモツ国=ヨイロバ国)。淡海根近江アサイミツチ(三国)山に遷都。

【不合第十七代】 表照明媛天日身光天皇
オモテルアカリヒメアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(天竺国、アラビア)。蝦夷国祖弥山に遷都。道路奥陸上トリボシ山に遷都。越中モロタツ山に遷都。 豊日豊後大分星岳に遷都。

【不合第十八代】 (皇妹)依細里媛天日身光天皇
ヨリホソリミメアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(支那国バイカル)。武蔵津海アカリ羽に遷都。岩槻のカケキノ山で大蛇を退治。岩槻に遷都。天越根国で大地震。

【不合第十九代】 (皇弟)少名形男彦天日身光天皇
スクナカタオヒコアメノミヒカルスメラミコト
御皇城山、鶴ヶ城に遷都。万国巡幸。常陸・ツクリハノ山に遷都。豊日別豊後直入宮城に遷都。

【不合第二十代】 天津明少名大汝彦天日身光天皇
アマツアカリスクナオオムチヒコアメノミヒカルスメラミコト
世界各地で大地震。万国巡幸(アフリカ国、ガラランド国、アジア国)。加賀国安宅水門の山代に遷都。 秋津根河内千早コンゴ山に遷都。常陸信太奥津宮(阿波宮)に遷都。

【不合第二十一代】 天饒明立天日身光天皇
アメニギアカリタツアメノミヒカルスメラミコト
河内古市宮に遷都。万国巡幸(ヒナタイビロス国)。日向・速日岳に遷都。

【不合第二十二代】 天押開神魂彦天日身光天皇
アメオシアケカンタマヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(支那唐クニヤムスク、天竺カルカリ)。遠津海伊豆田方天照山(天城山)に遷都。

【不合第二十三代】 天饒国饒狭真都国足天日身光天皇
アメニギクニニギサマツクニタルアメノミヒカルスメラミコト
神宮神主を竹内と名付ける。万国巡幸(ヒウケイビロス国、ヨモツ国=ヨイロバ国)。 道路奥陸前モノカノ郡カムタテ山(大刈田岳)に遷都。

【不合第二十四代】 天饒国饒黒浜彦天日身光天皇
アメニギクニニギクロハマヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(天竺、アフリ国)。カカノ国ノミツ郡安宅に遷都。

【不合第二十五代】 富秋足中置天日身光天皇
トミアキタラナカナカオキアメノミヒカルスメラミコト
越根中日見日高見鶴ヶ城に遷都。神代文字を万国へ伝授。越中・呉服宮、フジイル山に遷都。

【不合第二十六代】 種淅彦天日身光天皇
タナカシヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(アシア沿岸国、ロツ阿国、アジアトル国)。 道路奥矢大臣山に遷都。吉道路下毛・鹿子宮に遷都。越中・呉服宮に遷都。

【不合第二十七代】 建玉天日身光天皇
タテタマアメノミヒカルスメラミコト
信濃・立クワ山に遷都

【不合第二十八代】 天之海童楽之雄天日身光天皇
アメノウナドノエラキノオアメノミヒカルスメラミコト
婚礼式制定。高千穂に遷都。

【不合第二十九代】 神豊実媛天日身光天皇
カミトヨノリヒメアメノミヒカルスメラミコト
吉道路下毛・三本遺鹿子(甲子)山に遷都。

【不合第三十代】 円脊之男天日身光天皇
マルセノオアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(天竺、アフリ国)。霧島山に遷都。能登・高クニ山に遷都。

【不合第三十一代】 橘媛天日身光天皇
タチハナヒメアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(オイストラリ国)。高千穂山に遷都。加賀・宝達山に遷都。

【不合第三十二代】 花撰媛天日身光天皇
ハナエリヒメアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヨイロバ国)。越中・八ッ王(八尾)に遷都。日見日高見平鶴ヶ城に遷都。

【不合第三十三代】 清之宮媛天日身光天皇
スガノミヤヒメアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(イダナ国・ヒウケイビロス国)。摂津住吉・ヲイサカに遷都。乗馬術の神を祭る。

【不合第三十四代】 八千尾亀之男天日身光天皇
ヤチオカメノオアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヒナタイビロス)。豊日別キミスミ山に天空浮船を使って遷都。建日別薩摩朝日岳に遷都。

【不合第三十五代】 花媛天日身光天皇
ハナヒメアメノミヒカルスメラミコト
速日別肥後タラダケ山に遷都。越中・鶴ヶ城山に遷都。

【不合第三十六代】 (皇弟)若照彦天日身光天皇
ワカテルヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(支那国、ヨモツ国)。阿蘇山に遷都。上毛赤城山に遷都。

【不合第三十七代】 松照彦天日身光天皇
マツテルヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヒナタイビロス国)。天空浮船二六隻を建造。道路奥戸来山に遷都。

【不合第三十八代】 天津太祝詞子天日身光天皇
アマツフトノリトコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヒウケイビロス国)。野道路彦上毛サホクニチヲ山に遷都。

【不合第三十九代】 神足伊足彦天日身光天皇
カンタライタラシヒコアメノミヒカルスメラミコト
冠の制定。万国巡幸(天竺カリカル、イダナシカエ国)。陸前ザオ山に遷都。

【不合第四十代】 神楯媛天日身光天皇
カンダテヒメアメノミヒカルスメラミコト
天照大神岩戸開きの由来記する。

【不合第四十一代】 神楯広幡八十足彦天日身光天皇
カンダテヒロハタヤソタルヒコアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヨモツロハ国イタリ国で十六菊紋日丸旗建てる。オイストラア国)。 肥後菊地皇ノ山に遷都。出雲大ノ木山、三瓶山にに遷都。

【不合第四十二代】 鶴舞媛天日身光天皇
ツルマイヒメアメノミヒカルスメラミコト
皇子六十四人を万国に派遣。神代文字や製紙法を伝授。

【不合第四十三代】 豊足大御中天日身光天皇
トヨタリオミナカアメノミヒカルスメラミコト
万国巡幸(ヒウケイビロス国)。空門根別長門栗野、天ノリ(天乞)山に遷都。

【不合第四十四代】 大炊気吹天日身光天皇
オオカシフキアメノミヒカルスメラミコト
天皇、神を祭らず、石楠(不老茶)も食べず。即位七年で譲位。

【不合第四十五代】 (皇弟)空津争鳥天日身光天皇
ソラツアラソイトリアメノミヒカルスメラミコト
江尻山に遷都。皇后を立てず。女官百八十人と遊ぶ。神を祭らず、石楠花茶も飲まず。

【不合第四十六代】 (皇弟)鳥言足清男天日嗣天皇
トリコトタルスガオ天ヒツギスメラミコト
万国巡幸(アフリ国、ヒナタイビロス国)。越前・高須山に遷都。

【不合第四十七代】 大庭足媛天日嗣天皇
オオバタルヒメアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(支那西蔵、アフリ国)。蝦夷・イトヨイ山に遷都。

【不合第四十八代】 豊津神足別天日嗣天皇
トヨツカンタルワケアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヒウケイビロス国、アジチ唐イダ国)、豊日別豊後久住に臨幸。

【不合第四十九代】 豊足彦天日嗣天皇
トヨタルヒコアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチ国、アフリスイダンクカ)、秋津根別山城宇賀伊吹山に臨幸。

【不合第五十代】 神足別国押之媛天日嗣天皇
カンタルワケクニオシノヒメアメヒツギスメラミコト
武蔵海別武蔵所サワに遷都。

【不合第五十一代】 国押別神足日天日嗣天皇
クニオシワケカンタルヒアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヒナタイビロス国)、豊後御越宮に遷都。越中・ニイヤ五百石に遷都。

【不合第五十二代】 天津紅之枝玉天日嗣天皇
アマツクレノエタマアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヨモツ国)、豊後久任宮に遷都。草木根別紀伊大雲取山に遷都。

【不合第五十三代】 天開明知国束天日嗣天皇
アメヒラキアカリシルクニツカアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチ国)、常陸カクシマ山に遷都。

【不合第五十四代】 高天原輝徹国知天日嗣天皇
タカマハラテルトオルクニシルアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチ国)、日見日高鶴ヶ城山に遷都。

【不合第五十五代】 天津玉柏彦天日嗣天皇
アマツタマカシワヒコアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヒウケイビロス国)、丹波天野二井宮に遷都。

【不合第五十六代】 天津成瀬男天日嗣天皇
アマツナルセオアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アフリスイタン国、オイスト国)。越中・三日イチ天神宮に遷都。 越中・高岡守山宮に遷都。御皇城山に遷都。

【不合第五十七代】 天津照雄之男天日嗣天皇
アマツテルオノオアメヒツギスメラミコト
天地大変動。万国巡幸(ヨロツパ国、アジチ国奉天)。磐城・アカ井山に遷都。

【不合第五十八代】 御中主幸玉天日嗣天皇
ミナカヌシサキタマアメヒツギスメラミコト
不義氏、神農氏来日。遠津海駿河フキジテ山(富士山)に遷都。

【不合第五十九代】 天地明玉主照天日嗣天皇
アマツチアカリタマヌシテルアメヒツギスメラミコト
天皇の神政統治に陰り。官位十八級を制定。万国巡幸(天竺)。陸奥烏帽子山に臨幸。越中湊宮に遷都。

【不合第六十代】 天照櫛豊媛天日嗣天皇
アマテルクシトヨヒメアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヒナタイビロス国、アフリ国)。筑波山に遷都。

【不合第六十一代】 豊足日明媛天日嗣天皇
トヨタルヒアカリヒメアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチ国)。帰国後病死。常陸カクシマ山に葬る。

【不合第六十二代】 天豊足別彦天日嗣天皇
アメトヨタルワケヒコアメヒツギスメラミコト
皇祖皇太神宮を一宮、丹波伊勢岩家神宮を二宮、日向高千穂二上神社を三宮とし、皇子を神主に。

【不合第六十三代】 事代国守高彦天日嗣天皇天日嗣天皇
コトシロクニマモルアメノヒツギスメラミコトアメノヒツギスメラミコト
万国巡幸(ヨモツ国)。呉羽山に遷都。

【不合第六十四代】 豊日豊足彦日嗣天皇
トヨヒトヨタルヒコアメヒツギスメラミコト
万国に教官を派遣神代文字を伝授。万国巡幸(アジチ国)。越中・ニイヤの水門近くに遷都。

【不合第六十五代】 勝勝雄之男天日嗣天皇
カツカツオノオアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチオセア国)。常陸・ニイハル(太祖大塚)に遷都。

【不合第六十六代】 (皇弟)豊柏木幸手男彦天日嗣天皇
トヨカシキサキテオヒコアメヒツギスメラミコト
万国巡幸。秋津根大和ニムネ日山に遷都。

【不合第六十七代】 春建日媛天日嗣天皇
ハルタテヒルヒメアメヒツギスメラミコト
日向高千穂に遷都。

【不合第六十八代】 天津日高日子宗像彦天日嗣天皇
アマツヒタカヒコソオラヒコアメヒツギスメラミコト
万国巡幸(アジチ国)。越中・呉羽山に遷都。

【不合第六十九代】 神足別豊鋤天日嗣天皇
カンタルワケトヨスキアメヒツギスメラミコト
地球大変動。万国巡幸(アジチ国、ヨモツロハ国)。御皇城山に遷都。奇日根大隅文ゲン山に遷都。 モーゼ来日(ここで霊的光力授かる)、大室姫命を娶る。ミヨイ、タミアラ大陸沈没。
天地万国大変動5色人全部死ス、ミヨイ国(アトランティス)・タミアラ国(ムー)海ノ底ニ沈ム ・アアオトロシヘ

【不合第七十代】 神心伝物部建天日嗣天皇
カンココロツトウモノベアメヒツギスメラミコト
日向高千穂に遷都。釈迦来日(ここで霊的光力授かる・手当て等)。

【不合第七十一代】 天照国照日子百日臼杵天日嗣天皇
アマテルクニテルヒコモモヒウスキネアメヒツギスメラミコト
日本列島大地震。万国巡幸(ヨモツ国)。秋津根別大和生駒に遷都。

【不合第七十二代】 彦五瀬天日嗣天皇
ヒコイセアメヒツギスメラミコト
即位三十五年で死去。

【不合第七十三代】 狭野尊天日嗣天皇(神武天皇)
サノミコトアメヒツギスメラミコト
皇祖皇太神宮の分宮を畝傍山に造営。神倭朝開く。

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◇神倭朝(かむやまとちょう)(〜現在)

【神倭第一代】 神日本磐余彦尊
カムヤマトイワレビコノミコト (神武(ジンム)天皇) 在位:76年
ヒヒイロカネ十六菊紋など神宝を奉納。新カタカナを作る。輸入促進。老子来日。

【神倭第二代】 神渟淳名川耳尊
カムヌナカワミミノミコト (綏靖(スイゼイ)天皇) 在位:33
特記事項なし。

【神倭第三代】 磯城津彦玉手看尊
シキツヒコタマデミノミコト (安寧(アンネイ)天皇) 在位:38年
孔子来日。

【神倭第四代】 大日本彦耜友尊
オオヤマトヒコスキトモノミコト (懿徳(イトク)天皇) 在位:34年
特記事項なし。

【神倭第五代】 観松彦香殖稲尊
ミマツヒコカエシネノミコト (孝昭(コウショウ)天皇) 在位:83年
特記事項なし。

【神倭第六代】 大日本足彦国押人尊
オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト (孝安(コウアン)天皇) 在位:102年
孟子来日。

【神倭第七代】 大日本根子彦太仁尊
オオヤマトネコヒコフトネノミコト (孝霊(コウレイ)天皇) 在位:76年
秦の始皇帝の使いとして徐福来日(日本では縄文時代から弥生時代に移り変わろうという時期、秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。 徐福の身分は方士で、不老長寿の呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じた学者でした。 そのため、あるとき不老不死の仙薬を求めいていた始皇帝より、仙薬の入手を命ぜられました。海苔は『神仙菜』と呼ばれていた。『不老不死の仙薬』。)富士山噴火。

【秦の始皇帝の命を受けて蓬莱の地を求め来日し、日本の古代史に興味を持った徐福がまとめたと伝承されている古文書を、「神皇紀」という名で発表されたのですが、別編として徐福伝があり、 この一節には徐福が秦始皇帝に上白した言葉が記されていて、「東海に蓬莱・方丈・瀛州という三神山がある。これは全世界の大元祖国であって、大元祖宗の子孫がいて不老不死の良薬を持っている。… 」 とあり、ここに日本が大元祖国、すなわち、世界の元の国であることが示されています。

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■徐福の不老不死薬(日本各地)複数の薬を合わせたものではなく、単品を言う。
佐賀市金立山    フロフキ(カンアオイ)
福岡県筑紫野市天山 エヒメアヤメ
宮崎市       ハマオモト(ハマユウ)
京都府伊根町    黒茎のヨモギ、九節のショウブ
和歌山県新宮市   テンダイウヤク(天台烏薬)
東京都八丈島    アシタバ
青森県小泊村    トチバニンジン、ギョウジャニンニク
山梨県富士吉田市  コケモモ、ニクシュヨウ
山口県祝島     ナシカズラ(シマサルナシ)地元呼称:コッコー

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太古の棟梁天皇は不老長寿を図る為に石南茶(せきなんちゃ)を飲んだ事が書かれています。
シエキナ樹から採られたお茶なのですが、現在では皇祖皇太神宮でしか飲めない様です。
このお茶を飲んだ棟梁天皇は何億歳も生きたのですが、段々寿命が縮まって現在の寿命に成っています。
代々の竹内家でも六十六代のうち百歳以下で死んだのは十七人しかおらず、三人は自害・殉死なので十四人しか居ないとの事です。
この石南茶は、第十九代オモタルヒコスメラミコトの御代に、皇子カシコネヒノヒタカキモリノミコトが創製して以降の天皇が常飲したとされています。

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【神倭第八代】 日本根子彦国牽尊
ヤマトネコヒコクニクルノミコト (孝元(コウゲン)天皇) 在位:57年
大陸文化の流入開始。

【神倭第九代】 稚日本根子彦大日日尊
ワカヤマトネコヒコオオヒヒノミコト (開化(カイカ)天皇) 在位:60年
白木造りの神殿の始め。

【神倭第十代】 御間城入彦五十仁殖尊
ミマサイリヒコイニエノミコト (崇神(スジン)天皇) 在位:68年
皇統(上古)第22代の天疎日向津比売天皇を天照大神と呼ぶようになる。

【神倭第十一代】 活目入彦五十茅尊
イクメイリヒコイサチノミコト (垂仁(スイニン)天皇) 在位:99年
キリスト来日(ここで霊的光力授かる)。皇統第22代 天疎日向津比売天皇の御神骨、御神体を伊勢五十鈴川上流に祭る。伊勢太神宮を天照皇太神宮と呼ぶ。

【神倭第十二代】 大足彦忍代別尊
オオタラシヒコオシロワケノミコト (景行(ケイコウ)天皇) 在位:60年
武内宿禰、天空浮船で万国巡幸。キリスト、青森で死去。ヒヒイロカネの原材料がなくなる。

【神倭第十三代】 稚足彦尊
ワカタラシヒコノミコト (成務(セイム)天皇) 在位:60年
特記事項なし。

【神倭第十四代】 足仲彦尊
タラシナカヒコノミコト (仲哀(チユウアイ)天皇) 在位:9年
特記事項なし。

【神倭第十五代】 息長帯媛天皇
オキナガタラシヒメノミコト (神功(ジングウ)天皇) 在位:69年
唐人の大流入。

【神倭第十六代】 誉田別尊
ホンダワケノミコト (応神(オオジン)天皇) 在位:110年
特記事項なし。

【神倭第十七代】 大鷦鷯尊
オオサザキノミコト (仁徳(ニントク)天皇)在位:45年
武内宿禰死去。

【神倭第十八代】 大足去来穂別尊
オオエノイザホワケノミコト (履中(リチュウ)天皇) 在位:6年
特記事項なし。

【神倭第十九代】 丹比瑞歯別尊
タジヒノミズハワケノミコト (反正(ハンゼイ)天皇) 在位:5年
特記事項なし。

【神倭第二十代】 雄朝津明稚子宿禰尊
オアサズマワクゴノスクネノミコト (允恭(インギョウ)天皇) 在位:42年
特記事項なし。

【神倭第二十一代】 穴穂尊
アナホノミコト (安康(アンコウ)天皇) 在位:3年
特記事項なし。

【神倭第二十二代】 大泊瀬幼武尊
オオハツセワカタケノミコト (雄略(ユウリャク)天皇) 在位:23年
上古第四代以降の神代史の抜粋の書写を許可、古事記編纂の骨子(こっし=全体を構成するうえで重要な部分)となる。

【神倭第二十三代】 白髪武広国押稚日本根子尊
シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコミコト (清寧(セイネイ)天皇) 在位:5年
特記事項なし。

【神倭第二十四代】 袁祁石巣別尊
オキノイワスワケノミコト (顕宗(ケンゾウ)天皇) 在位:3年
三種の神器など神宝保護を指示。

【神倭第二十五代】 意富祁尊
オフキノミコト (仁賢(ニンケン)天皇)在位:11年
特記事項なし。

【神倭第二十六代】 小泊瀬稚鷦鷯尊
オハツセノワカサザキノミコト (武烈(ブレツ)天皇) 在位:8年
神代史と神宝の護持のため平群真鳥を越中に派遣

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【聖人来日記録・来日順】

伏義・神農(ふっき・しんのう) 不合朝五十八代、御中主幸玉天皇の時代
      [神武前4,066〜4,030年
      (即ち、神武即位BC660年を足して、BC4,726年〜4,690年)]

モーセ・ロミュラス 不合朝第六十九代、神足別豊耡天皇の時代
      紀元前13世紀ごろ活躍したとされる古代イスラエルの民族指導者である。
      [神武前617年〜387年
      (即ち、神武即位BC660年を足して、BC1,277〜BC1,047年)]
      [天皇即位二百年イヤヨ月円六日〜十二ヶ年
      (即ち、天皇即位200年3月16日〜12年間)]

      ■西洋暦の年号表記でおなじみの「AD(Anno Domini=【ラテン語】紀元後)」と「BC (Before Christ=紀元前)」という表現が、キリスト教を中心としているため。

      ■西暦(せいれき)とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の翌年を元年(紀元)とした紀年法である。欧文表記はヨーロッパ各国で異なるが、日本語や英語圏では、ラテン語のA.D.又はADが使われる。

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豆豆知識;■天国日本、葺不合第六十九代神足別豊鋤天皇の即位二百年イヤヨ月圓六日(西暦紀元前1425年3月16日)に、ヨモツ国アラビヤカバ、シナイ山より、五色人の政治法王であり、 天支王であるモオゼ・ロミュラス(※モーセ)が大海原を船に乗り、天国の越根中国能登の室達水門に安着し、直ちに五色人の祖神である皇祖皇太神宮へ参拝し、引続き天皇の仙洞に参朝礼拝した。 その時、ムオゼの表・裏・眞 の三つの誡めに加えて、縞瑪瑙石製の魂ヒ形石とを天皇に捧げ奉った。

 天皇は詔(みことのり=しょう⇒天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書)して、ロミュラス王に能登の寶達山に居住するように命じられた。そしてムオゼは結局十二年間其処に滞在することになるが、その間に天国日本の国風に触れ、日本の生活様式を学び、また皇女の大室姫と結婚し、その間に三名の御子が誕生した。  ムオゼは、自国民およびその他万国の民族を統一するために必要な十誡をシナイ山上に製作していたが、その内容に対する勅許をこの日本滞在期間中に天皇から得る段に及び、これを一日も早く自国で交付したいと考え、帰国を思い立った。  そして、神足別豊鋤天皇の即位二百十二年カナメ月立一日(10月1日)に、御皇城山に参朝して暇を乞い、同年カナメ月立六日に天国能登の寶達山(ほうだつさん)より、此の度は天空舟即ち航空機に乗ってヨモツ国イタリーのボロニヤに天降り、 そこからさらにシナイ山に登り、ムオゼの十誡の政治を開いたのである。

 話は戻るが、モオゼが参朝した時に天皇に捧げ奉った表・裏・眞の三つの誡と縞縞瑪瑙石製のモオゼの魂ヒ形石など五個の寶物は、これを受取られた天皇が皇祖皇太神宮別宮に御納祭なされた。そのような経緯で、それ等の寶物は今なお日本に保存されている。  さて、モオゼの娶った大室姫命は、葺不合六十三代天皇の媛君である。その大室姫命は、

(一)モオゼの帰国後二年目に、天皇の勅許を得て、皇祖皇太神宮にモオゼの十誡の法が無事公布されることを祈願なされ、

(二)六年目には、ローマ姫命と改名なされ、

(三)十年目にはその御子三名をつれてシナイ山に赴かれた。

(四)その後ムオゼ・ロミュラスによるローマ建国が緒に就いた時点で、モオゼと大室姫とは再び日本に来朝した。その際、ニューマポリン・ヒリウスとヒホシン・ヒリウス、ヒホユラ・ヒリウスの三人の子を彼の地に残した。

(五)能登の国の寶達山において薨(身分の高い人が死ぬ)じた。(石川県の宝達山(ほうだつさん)の麓に葬られたというのである。この墓は現在、三ッ塚とよばれ、石川県羽咋郡宝達志水町河原地内に、 「伝説の森公園(モーゼパーク)」として整備されている。林の中に小さな土まんじゅうといえる円墳が3つかすかに確認できる。そして、その麓の朽ちかけている小さな社がある。 この小さな社の祭神は、モーセと大室姫と孫の3体であるという。麓の別の神社の狛犬がある。エジプトのスフィンクスそっくりである。

モーセと対決したとされるころのファラオであるラムセス2世が造った古代エジプトのカルナック神殿やルクソール神殿の参道にはスフィンクスが狛犬のように神殿を守っている。 そのスフィンクスそっくりなのである。)
ムオゼの遺言に曰く、「天国の神に誓って云うが、モオゼの十誡法に逆くなよ。天国日本の神に逆くなよ、モオゼの十誡に逆くなよ。逆くと天罪罰死するぞ。 アジチの五色人よ、赤き心にて天国の神とモオゼの十誡の寶石を礼拝する者には、天賦天然の幸徳、長寿、勝利、大成功を誓って与える」と誌されている。さらにまた、「必ず天国の神に逆くなよ。逆くとマケ死すぞ」と繰り返している。

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モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、カナンの地につくまでの四十年間、その間にシナイ山に登り、実はそう見せかけて反対側に降りてこの国(日本)に来て十戒を授かった。 その時モーセは。この国(日本)で一人の娘を嫁にもらっている。その娘は三人の子を設け、 モーセがカナンの地に戻ってからも、モーセの嫁になったその娘さんはこの地にとどまり、 六年後に三人の子をつれてカナンの地へと行った。 その女の名が、ローマ姫なのだ。 一方モーセはカナンの地にあと一歩という所でイスラエルの民のことは向こうでの子供であるヨシュアにすべて任せて、自分は死んだことにして身をくらませたという。

「 それが、 モーセの百二十歳の時のこと」「 その後、モーセはローマ姫とともに、ローマを打ち建てたのである。イスラエルの民はその後一時偶像崇拝に走って神の怒りを買い、 ほとんど滅ぼされかけたが、 モーセの子孫はちゃんと残るという仕組みだったのだ」 「 確かに、 神様はモーセに『あなたを大きな民に増やそう』と、そう仰せられたと『出エジプト記』にあります」 「 モーセはローマを建国した後、この国からローマ姫がつれていった三人のこのうちの一人のヌーマボンをローマの王とし、そしてアメノウキフネに乗ってこの国に舞い戻ってきたという訳である。」

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●まとめ:ウガヤフキアエズ朝69代カムタルワケトヨスキスメラミコトの即位200年3月6日ヨモツ国アラビアアカバのシナイ山よりモーゼロミュラスが来朝し、五色人の祖神の母屋である皇祖皇大神宮に参拝した。 次いでスメラミコトにモーゼの表十誡、裏十誡、眞誡、縞瑪瑙(しまめのう=種々の色層の重なっているメノウ。研磨面に美しい模様が出る。オニックス。オニキス。)、魂形石の五点を献上した。

その後モーゼは能登国の寶達山に12年間滞在することとなった。その間63代スメラミコトの娘、大室姫を娶り、二人の間に三子が誕生した。
※古代の人は非常に長寿であった。
その後モーゼはシナイ山に帰還し十誡の法政を開いた。その後大室姫は羅馬姫と改名なされた。
暫くの時を経てモーゼは自ら手がけたローマ帝国が起動に乗り始めたのを見届け、3子をその地に残し統治をまかせた。

モーゼと大室姫(羅馬姫)は再び来朝し日本にて残りの人生を過ごした。69代スメラミコト即位421年7月25日のことであった。
同年11月25日能登国の寶達山にてその生涯を終えられた。

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【表十誡】(神代文字を翻訳す=イスラエル民の為の十誡である)

 天国の真神のナムモ 天人地(アーメン)
天国の母屋(オムヤ)(の)神(を)礼拝せよ
他人の物取るなよ
他人の乙女を横取りしるなよ
他人に虚言吐くなよ
他人を騙かすなよ
他人を害するなよ
他人の栄えをクジリ(愚図る)なよ
天国の天皇(カミ)に逆(ソム)くなよ
〈我の教ひ法に逆くなよ〉
他人を困らすなよ
   五色人の法  モオゼの十誡
豫母都(ヨモツ)イタリー シナイ山 城にて造り。
「世界の正史」山根キク著(平和世界社 昭和39年刊)より補う(但 本文はカタカナ)

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一、 天国の祖神(おやがみ)様を礼拝しなさい。
二、 他人のものを盗むな。
三、 他人の妻を横取りするな。
四、 他人に嘘をつくな。
五、 他人をだますな。
六、 他人を殺すな。
七、 他人との境目を破るな。
八、 天国の神に背くな。
九、 わが教えに背くな。
十、 他人を困らすな。
そして、 最後にはこう書いてある。
アダムイブロクジユウタイロミユラス、 イツイロピトノ ムオシェノトクヮペ、 ヨムツクニシナイシャンシロニテツクリ」
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【裏十誡】(神代文字を翻訳す=全世界の為の十誡である)

アダムイブ六十代目ロミュラス法を造りマツル
母屋頭領(オモヤカミ)足別豊鋤天皇日嗣二百年 ムオゼ十誡
 天国母屋日本(の)神(を)拝せよ
 オムヤ(母屋)日嗣天皇礼拝せよ
 日の神に逆くなよ、逆くと潰れ死すよ
 天国母屋(の)天皇(の)法に逆くなよ
 母屋の天皇に逆くなよ
 天支地(アジチ)五色人の法守れよ
 天支地州(アジチクニ)の法きめる分邦國(アジチクニ)人の母屋の法(※表十誡)に逆くなよ
 赤きを助ける、黒き心(を)直せよ
 聞かしめる、この他に神はなし
 魂(ヒ)の頭領(カミ)拝礼せよ 二度アアメン
 万国の法 シナイ山 モオゼ十誡 (一部神代文字省略)
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一、 日の神を拝礼せよ。
二、 人類発祥国にて日嗣の神を礼拝せよ。
三、 日の神に背くな。 背くと死ぬぞ。
四、 天国(地上の天国=日本)である世界の霊(ひ)の元(もと)の神の律法を守れ。
五、 世界の大祖国の大祖王(スメラミコト)に背くな。
六、 世界の律法を守れ。
七、 それぞれの国の律法を制定するそれぞれの祖国の律法を守れ。
八、 正邪、 白黒をはっきり立て別けよ。
九、 聴け! この他に汝モウシェの他に神はない。
十、 日の神を礼拝せよ」
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◆今や、 イスラエルの民のための十戒だけが、 この世に伝えられている。どうしても此の日本を神の国だということを隠したいのだろう。 そして裏十誡を見つけ出して壊すことを未だに水面下で探しているのである。

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【眞誡】(神代文字を翻訳す)

ムオゼ十誡 ロミュラス法(を)開く法
母屋神霊(オモヤカミノヒ)に逆くなよ
天支地五色人守れよ
母(の)神(天皇)を拝礼せよ
天支地王ロミュラス
赤き黒きを法政(ホマツ)る規定(キメ)
アーメン日國母屋(ヒクニオムヤ)(の)頭領(カミ)、足別豊鋤天皇日嗣二百年 天支地萬國(アジチトコヨ)の王(一部神代文字省略)

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※以上三つの誡はいずれも石に彫刻されているものである。石に刻まれた文はユダヤ人の王モーゼが自分の思いをアジチ文字で誌しこれを天國日本の神豊鋤天皇に捧げ奉ったモウゼの魂の石の刻文である。 この石はユダヤ民族が多年に亘って探し求めてきた縞瑪瑙の魂の石である。

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●モーゼがなぜこの十誡を出したかというと、これは日本の神代に三十六誡がありますが、モーゼはそのうちの表十誡と裏十誡の二十誡をもってユダヤへ行っているからです。 やはり惟神の神道(霊的光力・光の大玄霊を学ぶ)を学んでいることは明らかである。釈尊の説いた八正道も、元はモーゼと同様に神代の日本にある三十六誡から出ております。ただ八正道では、“天国の親神を拝礼せよ”ということは言っていません。 それは釈尊がホドキの役即火・日から水・月へホドかねばならなかった関係で、天国の神に背くなということは、省かなければならなかったのではないかと推測しています。

しかし、それを意味するものが全くないということではありません。正見とか正念という言葉で、正しい見解とか、正しい思念を持たなければならないことを要求しておられます。 しかし、正しい見解とか正しい思念であるところの正覚というものは、神のご経綸を知らなければ分からない。本当に正しい善悪の判断をすることは、永久に人類ではできなくなるのです。

モーゼはその点はっきりと、“天国の神に背くな”ということを言っております。仏教の八正道では、その点は正見、正念ということでぼかしておりますが、その他はモーゼが日本から持って行った神示の十誡と同様で、 “悪口をいうな”とか“殺生をしてはいけない”とか“他人の女房を横領するな”とかいうことは八正道では「正業」のところに出ております。そのほか、“他人に後ろ指をさされるようなことをしてはいけない”とか、 “意義あることに努力しなければならない”とか、いろいろありますが、それらはすべてモーゼの十誡と同じことを説いているわけです。

ですから、八正道にしても十誡にしても、みな日本の惟神(かむながら)の神道から出ていることが明らかです。いずれも釈尊やモーゼの発明したものではない。 そして、モーゼは天国の教えを守れ、とユダヤ人に要求しておりますし、イエスも、これが五色人の守るべきこととして遺言書に書いているわけです。

以上のように、歴史上あるいは宗教上からも、今日大きな間違いを犯し、一切は迷蒙の雲でおおい隠してきてしまっているのです。そして、自分の方が真理だとか、自分の方が偉いのだ、といって信者を獲得する競争をしてきたのが宗教なのです。 それ故“為に逆法真如をば正法神理と錯覚迷いつつ あわれ胎臓陰光の中にまさぐり分化しし過ぎ 十字に結ぶ総合を成すべき力弱り果て 唯徒(いたず)らに分化対立し 末法末世暴逆の世と化せしめしぞ口惜しき”でまことに口惜しいことである、 と神様はおっしゃるわけです。

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●人類発祥の国、つまり天国で、国の言葉ではアマグニとい。また『天国』という意味は、いろいろとあるが、そのひとつはトヨアシファラ・ミドゥフォのくにという。 「 ミズラーホ」ともいう、ヘブライ語で「 東」を意味する言葉。語源は、「 日の出る処」 である。「 昔からイスラエルの国でいわれている『ミズラーホの国』とは、この国いわゆる日本のことなのである。」

●かつて大洋に沈んだムーの国の一部だった時、 島国に当たる部分は相当高い山であったという。 そしてムーが沈む時、 人々はその山に逃げ込んだ。 だから今は島となったこの地にとどまった人を「山にとどまった」 という意味で「ヤマト人(びと)」 といい、 その土地をヤマトというようになったらしい。 「ヤマ」 はあくまで縦・日・火を現す。ゆえに、日の国(火の国)で、太陽の直系国、 霊の元つ国なのだ。

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釈迦(しゃか) 不合朝第七十代、神心伝物部建天皇の時代
      [神武前350年
      (即ち、神武即位BC660年を足してBC910年)]
      [天皇即位百七年カナメ月立十日来る。八十五歳入滅す。
      即ち、天皇即位107年10月10日来る。85歳入滅す]

豆豆知識;●日本に来られたのは、不合朝第七十代、神心伝物部建天皇の時代で、これは神武天皇より三百五十年前くらいではないかと推定されます。 バイブルに出てくるノアの大洪水、つまりムー大陸が最後に陥没したのが、神武天皇よりおよそ千年前と古文献にありますので、その大陥没が治まってから暫らく後ではないかと思います。 おそらく地球の大変動が治まった頃に、本家の方の国の様子を見に来られたのでしょう。

釈迦のこと:ウガヤフキアエズ朝70代カミココロツタエモノノベタテスメラミコトの時代インドのカビラ国の王子、釈迦が修行のため日本に来朝。 天皇は天越根中国主と神幸神主命(亦名カララ仙人)の門に釈迦を入門させた。

「カピラの王子、シャカ来る。天のスメラミコト<アマコシネヌシノミコト>に命じ、シャカの入門を許さる。」ここで釈尊は太古神道(霊的光力・光の大玄霊を学ぶ)にはいり、赤池の白龍満堂に立てこもる歴史があるのです。 この時のお名前がシャカ天空坊というふうに呼ばれています。イエスも日本に来られた時は、天狗坊、天狗太郎というふうに呼ばれていました。

さらに古文献では、この時釈尊は、天照大神様のご神霊にお会いになって、超人的な天眼を開かれたとあります。色々な神霊界の掟を見た、あるいは生と死の関係をハッキリと見たと伝えられています。 インドの学者の説明では、ゴータマ・シッダッタのいう『天眼』とは、神の本体を見とどけるマナコということであり、到霊眼(パーラミター)のことを指すのです。

ある経文には、『我、見神実に入れり』とありましたが、これが支那仏教にいくと『見真』というふうにしてしまい、一切霊的な関係を抜き去って、哲学化した仏教に変えてしまったのです。 (ゴータマ・シッダッタとは光の玉を知った人と言霊で言います。)このように、釈尊のご先祖が日本人であり、釈尊ご自身も日本に来られ、神(神霊界)について学ばれたことは明白なのです。

まとめ;◆ウガヤフキアエズ朝70代カミココロツタエモノノベタテスメラミコトの時代インドのカビラ国の王子、釈迦が修行のため日本に来朝。 天皇は天越根中国主と神幸神主命(亦名カララ仙人)の門に釈迦を入門させた。 神幸神主命ことカララ仙人は天竺の国王に任じられ、釈迦を伴ってインドに赴任された。 釈迦は35歳のとき悟りを開き、のちの仏教を樹立した。ただし彼は宗教を確立することは望んでおらず、自らの智慧を広く知らせた結果信者によって宗教がつくられたのである。これはキリストやモハメットの場合も同様。

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老子(ろうし) 神日本磐余彦天皇(神武天皇、BC660年即位)の御代
      [神武即位百二十四年ウベコ月籠三日
      即ち、BC660年から124年を引いて、BC536年4月23日]

孔子(こうし) 神倭朝第三代、磯城津彦玉手看天皇(安寧天皇、BC510年即位)の時代
      [即位18年ウベコ月
      (即ち、BC510年から18年を引いて、BC492年4月)]

孟子(もうし) 神倭朝第六代、足彦国押入天皇(考安天皇、BC392年即位)の時代
      [即位41年イヤヨ月
      (即ち、BC392年から41年を引いて、BC351年3月)]

徐福(じょふく) 神倭朝第七代、大日本根子彦天皇(考霊天皇、BC290年即位)の時代
      [即位72年ウベコ月
      (即ち、BC290年から72年を引いて、BC220年4月)]

イエス 神倭朝第十一代、活目入彦五十狭芽天皇(垂仁天皇)の時代
      [BC29年〜AD70年]
      (磔は弟イスキリ(伊須気余理彦または石切彦という名)が身替わりになり、青森県戸来にて百八歳迄生きたとされている)
イエスキリスト(五十鈴彦または伊勢津彦)は二十一歳のとき日本に渡り十二年間神学(仏教伝来以前に神の掟を伝えてきた古神道があり、それを学びに来たということである。そして霊的光力(光の大玄霊)を学ぶ)について修行を重ね三十四歳のとき、ユダヤに帰って神の教えについて伝導を行いました。
当時のユダヤ人達はキリストの教えを容れず、かえってキリストを捉えて十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし偶々イエスの弟イスキリが兄の身代わりとなって十字架の露と果てたのであります。

他方、十字架の磔刑から遁れたキリストは、艱難辛苦の旅をつづけて、再び日本の地を踏み、この戸来村に住居を定めて百八歳の長寿を以て、この地に没しました。この聖地には、右側の十来塚にイエスキリスト、左側の十代塚に弟イスキリを祀っております。以上はイエスキリストの遺言書によるものと謂われております。

【キリストは、元々真理を求めてやまぬ天才的能力と正義感の強い青年でした。ローマの圧制に苦しむ民を救いたいという願いから、神の心力を得て、民を救うよりほかに方法はないと確信されました。
それで、聖人の釈迦をしたってインドに向かいます。釈迦はキリストより1000年前の人物です。
インドに渡り、釈迦が師と仰いだカカラ仙人の居住だったヒマラヤの壇得山(だんとくせん)に登りました。
そこで、カララ仙人の子孫にあたる当時の師より、真実の話しを聞かされて、キリストは日本を目指すことになりました。
キリストが到着したのは能登半島の宝達(ほうだつ)の海岸でした。何故、キリストは日本を目指したのでしょうか。当時の世界は日本の天皇が世界天皇として統治されていました。 そして日本には天地創造からの神が祭られており、そこには真理の教えがあり、世界の宗教全般と世界の政治の全権を統括されていました。
キリストが求めたものは日本にあったのです。能登に着いたとき、キリストは18歳でした。垂仁天皇即位10年の時です。】


そして、天地創造からの神が祀られている、越中の皇祖皇太神宮の神官であった、武雄心親王(たけおごころしんのう)の弟子となり、様々な修行を積むことになります。 神理のミチを求めて、 そして偉大な聖者、 ゴータマ・ブッダの教えを知り、その人のお墓がこの国(にほん)にあると聞いてはるばるとやって来たという。

神倭朝11代垂仁天皇の時代、ユダヤにキリスト生まれる。キリストはインドおよび日本において修行をした。 日本では神主の武雄心親王(たけおごころしんのう=武雄心親王は皇統八代孝元天皇の孫にあたり、この時代において人格、識見とも比類のないほど素晴らしい人物であった。)に師事し古神道の神秘秘術を学んだ。12年間の修行を経て神通力を身につけ帰国。 ユダヤにて教えを説き、その後仲間たちと世界を一周したのち日本八戸に上陸し日本各地を遍歴する。神倭朝12代景行天皇の時代、108歳にて生涯を終えられた。

神主武雄心親王(たけおごころしんのう)の弟子となり、日本の言葉や文字を覚え様々な修行を重ねたという(これは足掛け5年に及び、このときに病気を治す術や、姿を隠す術(背後のものになって融け合う。また空気そのものと融け合うから姿が消えるという。術の原理は全て同じであるという。)、一丈以上もある高木への飛び上がり、飛び降り、 さらに海や川の上に竹ざおを投げ、それを伝って水面を歩くこと、空中を歩くことも出来るようになったそうです。また室内や地を清めの術も身につけたそうです。但し無闇に使ってはならない術もあり、それを使うと命を縮めるものもあったという。そして天眼・天耳の神通力を身に付けた。)修行を終えたキリストは日本を去り、モナコに上陸してユダヤへ帰り神の実在を説いた。 親王はイエスに、これからいろんな事があるだろうが、「絶対に死ぬな」と明言されたそうです。武雄心親王は配慮を示し、神通力の持ち主の神主二人を付けてユダヤに戻してくれた。 福音書の中には、時折、二人の白い衣を着たみ使いが出てくる。(普段は姿を消されていたようです)

●ユダヤにおける当時の宗教は、非常に形式主義で、儀式ばかりやっていて、モーゼの教えだけを守るという封建的なものであった。それから、どこまでもユダヤ民族のための宗教で、世界人類のことは考えない。 ユダヤ民族だけが救われればよいという考え方で、したがって、その内容が非常に排他的で、よその民族を絶対に寄せ付けない。さらに、ユダヤ人の中でもパリサイ宗とサドカイ宗とに分かれていて、 たがいに反撃しあうといった状態でした。イエスは、このようなユダヤにおけるものは、宗教の本体ではないと強く感じていた。イエスは万教主義で、全人類が信じる宗教、人類教を興こさなければならないと考えて、宗教改革をすることにしたのです。

そこで、形式主義から精神主義に切り換えようとして、盛んに精神の教育を説いたわけです。それから、民族的ではいけないということで、それには霊的に目覚めさせようということで、惟神のミチ(霊智)を説くわけです。 即ち、人類は一体である。神と一体である。天地創造の神が主体であって、それに一体化するのが人類であるということを説いた。そのことがバイブルにも出てまいります。 非常に抱擁力のある、いわゆる人類愛を説いたり、“右のホホを叩かれれば左のホホを叩かせよ”というような隣人愛についてのことを盛んに説いた。そして、人類愛的な教えを知らしめ、これを世界に普及しようと考えたのです。

●イエスの見せた奇跡は日本での修行の賜物だったのです。そして、天皇からユダヤの王の紋章(きくのもんしょう)を賜り、ユダヤの人々に道を説くために帰国することとなりました。 親王はイエスに、これからいろんな事があるだろうが、「絶対に死ぬな」と明言されたそうです。

祖国に帰ったイエスは、道を説き、人々の人気を集め始めると、親王らが危惧(きぐ=あやぶみ、おそれること)したとおり、ローマ帝国による迫害が待ち構えていました。 母国に帰ったキリストは、日本の天皇や親王達が危惧したように迫害を受けるようになり、ついに十字架の処刑ということになりました。 ここで、最大の問題が起こるのですが、キリストより3歳年下のイスキリが身代わりになる事を買って出たのです。弟のイスキリはイエスと容姿がそっくりだったようです。

弟が言うには、「貴方は、親王より絶対に死ぬなと言われています。日本で修行した貴方にはこの先、天皇が再び世界を統治する御代が来るのだと言うことを、人々に伝える大事な役目があるのです。ここで死ぬことは、その天皇の命に背くことになるのです。」と必死に兄キリストに説得したそうです。 そして、ついに弟の処刑が行われました。悲嘆にくれたイエスは弟の死を見取った後、世界中をくまなく周り旅の最後には、再び日本へ来ています。 弟を身代わりにするほどの大切な役目を必死で果たそうとしたのです。このときイエスには14人の弟子がいたそうです。

そして、イエスの再上陸の地は青森県八戸の松ヶ崎港であります。この近くには、戸来岳(へらいだけ)があり、ここには越中皇祖皇太神宮のご分霊がおまつりされていました。 再び日本に来たイエスは日本語と文字を学び、日本国中を巡廻することさらに十年が経ちました。

当時の垂仁天皇にも拝謁(はいえつ=身分の高い人に面会すること)し、戸来岳(へらいだけ=青森県新郷村と十和田市の堺にある山)の麓の神宮に戻り、隠遁(いんとん=俗世間を離れて隠れ住むこと 『戸来に住居を定めてからは「十来太郎大天空」とし 日本人を妻にして娘を三人もうけた。 )されました。

さらに驚くことは、それから、日本を拠点にして15年毎(ごと)に3度も世界各国を旅回りして歩いているそうです。 それは、母国の民を救い、親兄弟の安否も確かめ、弟子達をも導き慰(なぐさ)めたかったからであります。 イエス107歳の時、自身の遺言書とともに、自身の像形を刻み込んだ父母の骨像石を自身の霊として、皇太神宮に納祭してもらいました。

そして、108歳の時に生涯を閉じました。遺体は遺言どうり、戸来岳に風葬(ふうそう=遺体を風にさらし風化を待つ葬制)されました。この様に文献には書かれているのであります。 一般に知られているキリスト像とはあまりにもかけ離れたものですが、聖書にはキリストの12歳から30歳位までの約17年間が空白となっているそうです。


遺書の一節に 「不老石南(しゃくなげ)ヲ食ス」と書かれている。不老長寿の秘薬か・・。

迦毘羅飯命(カビライ イノ ミコト)=釈迦の先祖(悉達留多=シッタルタ=シャカ)・野安押別命(ノア オシ ワケ ノミコト)=イエス キリストの先祖【モーゼ=母宇世・イエス=伊恵斯】

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●生誕:崇神天皇即位61年(紀元前37年)1月5日

●来日:垂仁天皇即位10年(紀元前18年)、18歳

●死去:景行天皇即位11年(西暦82年)4月5日、108歳

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モハメット 神倭朝第三十三〜三十五(ママ)代、推古天皇〜舒明天皇の時代 
      [AD592年〜AD645年]

      イスラムの創始者、マホメットについては、モハメットとか、ムハンマドとか呼ばれます。
      神の啓示を受けた預言者、実際的にはもともと多神教だったアラブ世界の宗教を一神教として確立した宗教改革者
      神倭朝35代推古天皇の時代、政治および神道の修行のため来朝。9年間の修行を終えヨモツ国アラビアのメッカに帰る。

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●何万年も経っても錆びないという白銀色の謎の金属でスメラミコトは剣や鏡、鈴の神宝を作らせたり、又、スメラミコト【上古第十代 高皇産霊身光天津日嗣天皇 タカムスビミヒカルアマツヒツギスメラミコト 】はヒヒロイロカネという金属を使って 越中の御皇城山(おみじんやま)に広大な神殿を造り、モーセ、釈迦、孔子、孟子、キリスト、モハメットら世界各地から聖人達が来日し、神の宮に参拝したとしている。

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予備知識1;上古二十五代は、代こそ二十五代ですが、各代がそれぞれ二十一世続くとか二十世続くとありますから天皇の数にして実に四百三十七人、しかも殆どの天皇が「即位後・・・億年にしてカミサル」という超長寿命です。 だから、この上古二十五代もやはり天文学的な期間と考えないわけにはゆきません。なお、この期間に地球を一変させるような大異変が幾度も起こり、 その影響で文書にいう、神々の子孫をも含めて人間の皮膚の色に変化が生じ、五色人(いいろびと)【五大人種】が発生しました。

九州の真ん中にある熊本の幣立神宮は、高天原神話、発祥のお宮です。弊立神宮にある御神宝の五色面はこの五色人を指していると思われます。 また、各代、各世の皇子や皇女が地球の各地に派遣され、民王としてそれぞれの地の住民の始祖となり、天越根国(日本)の支国(えだぐに)として高度の文明を築き上げました。 けれどもその後地球の支配権争いから天皇と皇弟との間に戦争が起こり、さしもの超古代文明を誇った「上古」代も次第に衰え、末期に立て続けに起こった大異変によって、ついに没落したのです。

予備知識2;天神第一代・元無極躰主王大御神、またの名を天地身一大神、あるいはナンモ、、アミン、ノンノ、【カンナガラ】、【メシア】などともいう。

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総まとめ;超太古に天神七代の時代に、宇宙がつくられ、地球が造られ、天地万物自然がつくられ 最後に人類が造られた。ちょうど創世記の順序と同じである。 天地と人類創造が完成して、天神第七代天照日大神は、地上の統治の代行者として肉体をもった神であるスメラミコトを置かれた。これが後代天皇と宛字されるようになった。

後代の天皇ちがい、天神の意志を取り次ぐ人格神であった。 上古初代(皇統第一代)スメラミコトは、天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみぬしみひかりおほかみすめらみこと)といい、二十一世続いた。

上古二十五代のスメラミコトは、「天浮舟」(あめのうきふね)と呼ばれる飛行船にのって、世界中を飛び回り、人類が生きるに必要なことを教えて歩かれた。ここの「天浮舟」(あめのうきふね)を「ふき船」と解釈するならば「吹き船」で「帆掛け舟」になるが・・・。 皇子を全世界に派遣し、世界を統治していた。上古から現代までの間に、何度も天変地異があった。地球全体が滅びる天変地異は6回あり、 特に最後の6回目の大天変地異で古代のテクノロジーは完全に失われてしまった。

六回目の「人皆死す天地かえらく(大天変地異)」は不合朝(ふきあえずちょう)末期にあった。 特に日本は、壊滅的な打撃をうけた。この結果、世界がバラバラになり、世界の統一が失われ、 世界各地に国が独立し、覇をあらそう弱肉強食の時代をむかえるようになった。天地創造神の代理として世界を統治していたスメラミコトは、日本の天皇となった。


幣立神宮で行われる五色神祭;太古の神々(人類の大先祖)は、大自然の生命と調和する聖地としてここに集い 天地・万物の和合をなす生命の源として、祈りの基を定められた。 この歴史を物語る伝統が五色神祭である。   この祭りは、地球全人類の各々祖神(大先祖:赤、白、黄、黒、青(緑)人)がここに集い 御霊の和合をはかる儀式を行ったという伝承に基づく、魂の目覚めの聖なる儀式である。 これは、五大人種が互いに認め合い助け合う和合の世界、世界平和のユートピア建設の宇宙的宿願の啓司である。幣立神宮の古代的真実、宇宙的理想の実現こそ、今日の全地球的願望である こういう神話や天皇家の成り立ちを子供たちに教えていれば、今の日本ではないはずです。まぁ、DNA遺伝子の深い部分ではインプットされているのでしょうが それを呼び起こすのが難儀なことで・・・・。

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上古第2代の天皇は「造化気万男身光天皇(ツクリノシキヨロズオノミヒカリスメラミコト)」で、この御世の時、天下万国全部土ノ海トナルコト84度、その大異変により世界に“5色人”(イイロヒト、黄・黒・赤・白・青)の皇子・皇女を生んだ。 黄人(キ ビ ト)は アジア人(日本人を含む)、 赤人(アカビト)は アメリカインデアンやユダヤ人等に痕跡あり、 白人(シロビト)は 白い肌とプラチナやブロンドの髪をもつ。 黒人(クロビト)は インド人(原住民族)やアフリカ人など、青人(アオビト)は 肌が青白(パールホワイト)に近い、現在純血種はほとんどいないと記している。

上古第2代天皇は、25人の皇子を世界各地に派遣した。皇子たちは、それぞれの赴任先の土地を”支国“(エダグニ)つまり・・・植民地として支配し、その“民王”(ミットソン)におさまった。 支国としてインダウ天竺万山黒人民王やヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏、オストリオセアラント赤人民王、ヒウケエビロスボストン赤人民王、アフリエジフト赤人民王、「ヨハネスブルク」、「ニューヨーク」などなど。

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【まとめ】

●磐支那黄美王氏 - 中国を統治

●インダウ天竺万山黒人民王 - インドを統治

●インドチュウラニヤ黒人民尊 - 同上

●ヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏(あかひとめそ=切り開いた土地名を女祖炎民野・メソポタミヤという) - ヨーロッパを統治し、アダムとイヴを生んだ

●ニンユイタム赤人民王

●オストリオセアラント赤人民王 - オーストラリアを統治

●アジアシャムバンコクムス白人祖民王 - タイを統治

●アシアマンナムノパノイ青人民王

●アフリエシフト赤人王

●ヨハネスブルク青人民王 - アフリカを統治し、ヨハネスブルクの由来となった

●ヒナタエビロスイエム赤祖民王

●ヒナタエビロスアルヘナ黄人祖民王

●ヒウケエビロスヒロコネ黄人祖民王

●ヒウケエビロスボストン赤人民王 - アメリカを統治し、現在のボストンの名を生んだ

●ヒウケエヒスカスケムコ赤人民王

●アフリカビシアムス赤人民王 - アフリカを統治し、アフリカの語源になった

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五色人(イロヒト)についての知識

●五色人について

(上代第一代)天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇[御身魂 大地将軍]の皇子女のうち、日本の人種の皮膚の色とは違う、
黄色・青色・白色・黒色・赤色のそれぞれは黄人・青人・白人・黒人・赤人すなわち五色人に対応し、これらを世界万国での《五色人の鼻祖》(いろびとおや)という。
鼻祖より生まれた子孫が漸次外国に派遣されて定住した。これが世界万国に於ける各人種の祖である。

●各国の色人種の分布

・支那     [中国]      黄人
・沿海州    [ロシア極東地方] 黄人
・中央亜細亜  [中央アジア]   黄人・白人
・小亜細亜   [小アジア]    黄人・青人・白人・黒人・赤人
・西伯利亜   [シベリア]    青人
・南支那    [南中国]     黄人・青人・白人・黒人
・台湾     [台湾]      黄人
・フィリピン諸島[フィリピン]   黒人・赤人
・濠州諸島   [オーストラリア] 黒人・赤人
・印度     [インド]     黒人
・東・南欧羅巴 [東・南ヨーロッパ]黄人・青人・白人・赤人
・西・北欧羅巴 [西・北ヨーロッパ]白人
・亜仏利加   [アフリカ]    青人・赤人
・北亜米利加  [北アメリカ]   黄人・青人・白人・黒人・赤人
・南亜米利加  [南アメリカ]   黄人・青人・赤人

◆赤人:アメリカインディアン・ユダヤ・アラブ
◆黒人:アフリカ・インド
◆黄人:日本・中国・モンゴル
◆青人:北米・スラブ
白人:ヨーロッパ全般ことではないかとされている。
ただ神々が降臨する以前にも、地球には黒人祖という黒人の先祖がいたことになっている。


●黄人(ひびと)と黄人種との違い

黄人種とは支那・沿海州等に住居する人種であり、日本人の黄色とはその意味が異なる。日本人は黄人と書いて「ひびと」と読み、「五十五の人祖」より蕃殖したものであり、 黄人種とは五色人種の黄色人より蕃殖したものであり、その根元が異なると定義されている。

●五十五の人祖とは?

国祖である「国万造主大神」が竜體(霊質)の一部を取って、地球の、日の本の土壌中に埋め、火・水・土の三質によって多年蘊醸(うんじょう)し、やがて土壌中に蠢くものが生じ更に漸次養育して約二万年を経て、初めて人體の男を得た。 「国万造主大神」は御自神の分霊神である「大地将軍」の神霊を附与して身魂なし、生存活動自在で意識能力を持つ神に通じる便利な人體を創造を完成した。 これが、大地の上の将軍である。
◇大地の上の将軍[御身魂 大地将軍]  → 男人祖

同様に「常世姫大神」は、男人祖を標本として竜體から女人體を化成創造し、御自神の御身魂を附与し、常世姫尊と名付け、女人祖とした。

◇常世姫尊   [御身魂 常世姫大神] → 女人祖

更に「国万造主大神」は育成により、三十二の男體を得た。

◇三十二男尊

更に「金竜姫大神」以下十六神は、竜體より十女人體を得た。各々御自神の身魂を分与した。

◇十女尊

また次に「天輝彦大神」以下十一神は、竜体より十一男體を得られ御自神の身魂を分与した。

◇十一男尊

以上、合計五十五尊の男女體を創造したこの場所を特に日本島に選定し、地球上人類発生地とした。 五十五は人類の団体が一個の社会を成立する最小単位となるべき人員である。人祖はすなわち皇祖でもある。

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【参考文献】;・竹内文献(たけうちぶんけん)  ・富士古文献(宮下文書)  ・向山文献(さきやまぶんけん)  ・上津文(うえつふみ)  ・九鬼文献(くかみぶんけん)   ・秀真紀(ほつまき)  ・契丹古伝(きったんこでん)  ・カタカムナノウタヒ  ・かたいぐち記  ・東日流外三群誌(つがるそとさんぐんし)  ・物部文献(もののべぶんけん)

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◆竹内文献とは、越中富山(富山市)の御皇城山(おみじんやまー現在の呉羽山)にあった、皇祖皇太神宮(こうそ こうたいじんぐう)に伝わった古文書類である。

伝承によればー、今から1500年前ー、紀元5世紀の日本。(西暦401年から西暦500年までの100年間を指す。日本では古墳時代にあたる) 時の天皇、25代・武烈(ぶれつ)天皇に仕えた大臣に、武内宿禰(すくね)の孫、平群真鳥(へぐのまとり)がいた。 正史・日本書紀では、平群真鳥はクーデター計画が発覚し謀反人(むほんにん)として殺されたと伝えられている。

だが竹内文献では、このとき、真鳥は死んでいない。 当時、武烈(ぶれつ)天皇は、新興の勢力(既存のものに対して、別の勢力が新しくおこること)から日本古来の伝承を伝える文献の引き渡しを強要されていた。

天皇はこの文献を守るため、平群真鳥(へぐの まとり)を殺したと見せて実はひそかに越中(えっちゅうー富山県)へ落ちのびさせた。 この密命が、越中富山の御皇城山(おみじんやま⇒天神七代を経て天孫降臨の御神勅により、皇統第一代「天日豊本葦牙気身光大神(あめひのもとあしかびみひかりおおかみ)天皇」が、人間社会の統治者として神定され天降られた地とされております。 )にあった、天神人祖一神宮(てんじんじそ いちじんぐうー皇祖皇太神宮)に伝わった古文献の守護だった。 この平群真鳥の子孫が竹内家である。

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豆知識1;「竹内文献」を研究していた山根キクの出版本に酒井勝軍の名前が無い理由は、酒井、山根、竹内巨麿の三人が竹内古文書の情報を共有していたことを、世に知られないか絶えず気にしていたからだとされている。 3人は皇祖皇太宮で度々密会を繰り返していたとされる。・キリスト教の立場からなぜ反対しなかったのかに関しては、人間の神 (=天皇) に話したかったからとされる。 天皇は神と思われていたが違う、と言う事を知らせたかったからである。当時の政治の流れは戦争に進んでいたことから、竹内古文書の情報は本当だと思いキリスト教を離れ、神道に入ったとのこと。 天皇家は神道であり、同じ神道の立場から、今の天皇は神ではない、偽の天皇だと世間に知らせたかったからとされる。

豆知識2;第25代武烈(ぶれつ)天皇で仁徳天皇の血筋断絶 (武烈天皇で第16代仁徳天皇から続く天皇家直系の血筋が断絶します。)

豆知識3;消えた北イスラエル王国の10支族が・・・。

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応神天皇の時、秦氏(はたうじ/し=渡来系氏族)一族が渡来;応神天皇の時、記録にあるように、大陸から渡ってきた秦氏一族(120−127県(あがた)=数千人から1万人規模)が、天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。 また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。

秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。 すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した。

現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、アミシャブからも認められている。 秦氏によるユダヤ文化の導入: ここで、最も驚くべきことは、大和朝廷を建て上げるために天皇家を大いに助けた秦氏一族は、クリスチャン、しかも、ユダヤ教的な(あるいは、ユダヤ人の)、しかも、原始キリスト教徒(一部、景教徒も含む)であったことである。 それは、秦氏が設立にかかわった宗教的な建物や習慣に、ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ性だけではなく、新約聖書からの教理や教えが、秦氏が渡来した初めから含まれているからである。

秦氏が建てた建物;「 初期の天皇の系譜について」を引用。

伊勢神宮の外宮

外宮が建てられたのは21代雄略天皇の時(内宮は11代垂仁の時とされるが詳しいことは分からない)と言われている。 神道用語で「造化三神」である、アメノミナカヌシ(豊受大神)、クニノトコタチ、ウカノミタマ(顕現の神、稲荷大神)は、明らかにキリスト教の三位一体(それぞれ、父なる神、子なる神、聖霊)を表している。 外宮には、このうちのアメノミナカヌシ(天の真中に座す神=父なる神)が祀られている。

秦氏は、内宮で祀られている、カナンやエジプトの地にもあった偶像崇拝起源の「太陽神(アマテラス)」ではなく、旧・新約の両方に共通の「父なる神」を祀ったのである。

稲荷神社 ;景教(ネストリウス派・東方キリスト教)では、イエス・キリストのことを、しばしば、「JNRI」、あるいは、「INRI」と表現する。 これを読むと「インリ」、すなわち、「イナリ」となり、「稲荷」は当て字である。

安閑天皇の時代に、秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てた。 最初に建てられた稲荷神社は、和歌山県有田市の糸賀稲荷で、この地方は現在も「王子信仰」が盛んな地でもある。 建立時の稲荷神社は霊験あらたかで、瞬く間に日本全国へ広がった。(狐が祀られるようになったのは、後の8世紀になってからで、空海による)

四天王寺 ;聖徳太子が建てた四天王寺は、実は神社であり、玉造(たまつくり)の地にあったことがいくつかの文献にある。イナリの神が祀られ、聖徳太子はそこで戦勝祈願したといわれる。 587年に最初に建てられた地には、現在「玉造稲荷神社」が建っていて、鳥居は赤くなく、西向きであり、現在の四天王寺の西門にも鳥居がある。

宇佐八幡宮 ;現在応神天皇が祀られている宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は、元々、応神天皇が拝んでいた神が祀られていた。 宇佐八幡宮は、秦氏が創建した全国の八幡神社の中心であり、そこには本殿が3つあり、本来は3つの神(三位一体の神)が祀られていた。「八幡」とは、元々「ヤハタ」と読み、「ユダヤ」を意味するヘブル・アラム語の「ヤェフダー」、あるいは、「秦氏の神」の「ヤハ・ハタ」から来ている。 749年に、ここから初めて神輿(みこし)が上京したが、神輿は旧約聖書の「契約の箱」に酷似している。

稲荷神社;「 稲荷神(Wikipedia)」を引用。

日本にある稲荷神社は2万社とも3万社とも言われており、屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると、稲荷神を祀る社は無数と言って良いほどの数になる。 江戸時代には、江戸に多い物として「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」というはやり言葉があったほどである。 本来は穀物・農業の神であるが、現在は産業全般の神として信仰されている。

伏見稲荷大社について『日本書紀』では次のように書かれている。 稲荷大神は欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日、「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、 早速方々へ使者を遣わして探し求めたことにより、和銅4年(711年)2月初午の日に秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))が鎮座した。 諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、 127県の秦氏を引率して帰化したという記録があるが、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられている。

雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。 朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろう。 彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。

こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立した。 深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理(はたのとり)の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようだ。

八幡神社;「 八幡信仰」を引用。

八幡神社のルーツは宇佐八幡宮 八幡系の神社は稲荷社についで多く、その数は全国に二万ともいわれる。その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある。 神格の起源については不明な点が多いが、もとはこの地の土俗的な神だったと思われる。本来の神格については、海神・鍛冶神・渡来系の秦氏の氏神など諸説がある。 豊前北部のヤハタ神と南部のヒメ神の信仰が融合したとも考えられている。

「比賣大神」(卑弥呼?)が主役

現在,宇佐神宮の本殿は三殿で構成されているが、「比賣大神」の鎮座する「二の御殿」が中央に位置し、最も大きい。 応神天皇(一の御殿)と神功皇后(三の御殿)はむしろ「脇役」であるかのようである(京都の岩清水八幡宮では応神天皇が中央に祀られている)。 宇佐神(比賣大神)を中心としたこの地の初期の信仰を伝えているのであろうか。

宇佐神の祭祀集団(秦氏)のこと

宇佐神の祭祀集団は中国・朝鮮とのつながりも持っていたらしく,道教系(注:景教系と言うべきか)の医術をよくし,しばしば天皇の治療にも当たったという。 六世紀なかばに大神比義(おおがのひぎ,おおみわのなみよし)なる者が祭祀を主宰していたが、その時、宇佐神から「われは応神天皇(ホムタワケノミコト)である」という神託が下った。 これにより宇佐神は、天照皇大神を祀る伊勢神宮につぐ皇室の第二の宗廟としての地位を得て、天皇家にさらに接近することになった。 神亀二年(725)には現在の地に奉斎され,天平三年(731)には官幣を賜った。

奈良東大寺の大仏の造にも活躍した秦氏

745年に奈良東大寺で大仏の鋳造が始まったが、神託によって大神氏は奈良に入り,鋳造にともなう諸問題を神託によってたびたび解決した。 宇佐神の祭祀集団が最先端の金属加工技術を持っていたことをうかがわせる。 大仏が完成した天平勝宝元年(749)には宇佐神が奈良に入り,これをきっかけに宇佐神が国家の重大事に関与することになった。 弓削道鏡を退ける託宣を下したことがよく知られている。(神託を得た場所は宇佐神宮の摂社大尾神社とされる。) 早くから仏教と深く習合したことも八幡神の特徴である。天平十年(738)には早くも宇佐神宮の境内に弥勒寺が建立されていた(今は礎石が残っている)。最澄の崇敬も厚かった。

柞原八幡宮のこと

天台僧の金亀(こんき)が宇佐で「大分郡に別宮を建てよ」という神託を得て,由原の地に宇佐神を分霊した(天長四年?827)。 これが大分市八幡(やはた)に鎮座する柞原(ゆすはら,いすわら)八幡宮である。 貞観二年(860)には大安寺の僧が京都男山の地に宇佐から八幡神を勧請して岩清水八幡宮を建て、都の守りとした。

清和源氏の氏神になった八幡宮

十世紀ころから清和源氏が氏神として信仰し、源義家は岩清水八幡宮で元服して「八幡太郎」を名乗った。 これ以後,武士の勢力範囲の拡大とともに、八幡信仰は関東・東北にまで広がっていった。 鎌倉幕府が岩清水八幡宮から分霊して鶴岡八幡宮を建てて崇敬するようになってからは、武神としての性格をいっそう強めた。 ことに十三世紀末に中国が企てた侵略戦争(文永の役、弘安の役)では、神威を遺憾なく発揮し、中国(元)朝鮮(高麗)連合軍の戦意をくじいてこれを殲滅した。 現在,八幡神社の祭神は、誉田別尊(ホムタワケノミコト;応神天皇)、比賣大神,気長足姫命(オキナガタラシヒメミコト;応神天皇の母すなわち神功皇后)の三神である。

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参考;(1)「竹内文献」は神武天皇以前の歴史を記しており、古代天皇が、人間として活躍している様子が描かれている。
(2)酒井のピラミッド説は、大和朝廷以前の政権の存在を示唆するものであり、それは天皇の出自に関係していく事項である。
(3)天皇を「現人神(あらひとがみ)」と規定し、日本書紀を国書とし、神武天皇からはじまった日本と規定した体制に、神武天皇以前の歴史は必要でなかった。
これらの理由より、政府は、「竹内文献」の弾圧へと向かったとされる。


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竹内文献

参考⇒『竹内文献で解けた地名の謎』 竹内文献には、奇妙な文字で書かれた古文書と、これも奇妙な機器類があった。この古文書をさして「竹内文書」といい、機器類を「御神宝(ごじんぽう)」といい、この総称を「竹内文献」と呼ぶ。

巨石遺構の存在を記した古文書であり、越中富山(富山市)の御皇城山(おみじんやま、現在の呉羽山)にあった、皇祖皇太神宮に伝わった古文書類のことである。 伝承によれば、紀元5世紀、25代武烈天皇に仕えた大臣の武内宿禰の孫、平群真鳥(へぐのまとり)がクーデター計画を発覚し謀反人として殺されたと伝えられている。 しかし、竹内文献では、このとき、平群真鳥は没しておらず、実は、新興の勢力から日本古来の伝承を伝える文献を守るために、武烈天皇は平群真鳥を殺したと見せて、ひそかに越中へ落ちのびさせたとされる。 この密命が、皇祖皇太神宮に伝わった古文献である。なお、平群真鳥の子孫が竹内家である。 「竹内文書」は元は神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。

内容は超古代の歴史が記されており、日本だけでなく、世界全体を対象とした地球規模の壮大な文明の存在が綴られる。日本書紀では、歴史は神武天皇に始まるが、竹内文献では、 神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に、25代・44世にわたる上古代があり、さらにその前にも数十代の王統があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。 「竹内文献」が世に出てきた所以は、竹内家66代目にあたる竹内巨磨が、明治・大正時代に宗教結社「天津教」を設立して普及活動を始めてからである。

「御神宝(ごしんぽう)」と呼ばれる機器類には、謎の金属「ヒヒイロカネ」で造られた皇室の三種の神器である鏡・刀剣(とうけん)、また、古代文字が彫り込まれた石や、天皇の骨で造ったという神骨像など数千点にも上るおびただしい量の物だった。

「竹内文書」には超古代の歴史が記されており、それは日本だけでなく、世界全体を対象とした地球規模の壮大な文明の存在だった。

日本の正史・日本書紀では歴史は神武天皇に始まる。 だが竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に25代・436世にわたる上古代があり、さらにその前にも天神7代の神の時代があったといい、過去3000億年にさかのぼる奇怪な歴史が語られていた。

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★『古文献を隠しもつ竹内家は、常に時の権力から弾圧されてきたと、竹内文書は記す。』 徳川時代、前田家の所領となった時代には文献の提出を命ぜられ、それを拒んだところ神宮の所領は没収の憂(う)き目にあい、竹内家は悲惨な生活に苦しんだとも記録されている。 この竹内家66代目にあたるのが、竹内巨磨である。

一代記「竹内巨磨(きよまろ)伝」によれば

彼は、権大納言(ごんだいなごん⇒大納言の権官⇒権官(ごんかん)は、朝廷の官職について、正規の員数を越えて任命する官職)・庭田重胤(しげたね)の私生児といい、母は伊勢の神官の娘・奈保子という。 明治7年、奈保子は出産のため、越中富山に身を寄せ、翌明治8年元旦、男子を出生した。 これが後の巨磨である。 だが、その年の春、赤子を連れて桜見物に出かけての帰り道、暴漢に襲われて、母・奈保子は自刃(じじん⇒刀物で自分の生命を絶つこと)して果てる。こうして遺棄(いき)された赤子は、婦負(ねい)郡神明村の竹内三郎右衛門に拾われ、孫養子として育てられた。

巨磨が、竹内家の秘密を明かされるのは、17才のとき。 1500年の長きにわたって封印されてきたが、世は文明開化の時代だった。 「この秘密を発表する時期かもしれない」三郎右衛門は、巨磨に宝物を託して世を去った。

神代文字

明治二十七年、巨磨は上京。巻物を解読できる人物を捜し求めて、あちらこちらの神社を訪ね歩く。 そうする内、 御嶽教(みたけきょう)の官長・鴻雪爪(おおとりせっそう)から、 古文書の奇妙な文字が神代文字であることを教えられる。 だが日本には、日本古来の文字は存在しないというのが、本居宣長((もとおり のりなが)以来、日本の定説である。

しかし、のちの調査によれば、竹内文献には、じつに四百種類もの神代文字が伝わっており、竹内文献研究家の竹田日恵氏は、現代の世界各国の文字で、漢字とひらがなを除く表音文字のすべてが、この日本の神代文字から派生したものではないかと云う。 古代エジプトや、中東ヒッタイトの象形文字、ヘブライ文字からハングル文字、果ては、 ABCのアルファベットに至るまで、世界の表音文字のすべての文字の原点が、 じつは日本の神代文字にあるというのだ。 これは平成の現代の話である。

巨磨は、御嶽教(おんたけきょう)で修行を積みながら文献の解読につとめ、諸国をめぐってその傍証(ぼうしょう⇒直接の証拠とはならないが、その証明を補強するのに役立つ証拠)を求めた。 この間、巨磨は、京都の鞍馬山(くらまやま⇒おそらく天狗の霊が懸かったとおもわれる)で修行し、霊能力を身につけたともいわれる。 こうして明治四十二年、茨城県の磯原で宗教結社「天津教」を設立し、祖父から預かった膨大な古文献をご神宝としてその普及活動に入った。 巨磨の情熱的な運動はじょじょに広まり大正時代の終わりごろには、貴族や軍部の上級将校から次々と ご神宝拝観の申し込みが来るに至ったのである。

日来神宮 このー竹内文献の中に、問題の「巨石遺構」に係わる記述があったのである。それは、竹内文献に伝わった「御神宝」の中の御神体石(ごしんたいせき)に神代文字で彫り込まれていた。

  『イヤヨ月円(まど)六日、 吉備常根本国
   大綱手彦命天皇霊廟  亦ノ名メシヤ
   日ノ神月ノ神  造主神日来神宮』
下記参照


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★「竹内文献」が世に出てきた所以は、竹内家66代目にあたる竹内巨磨が、明治・大正時代に宗教結社「天津教」を設立して普及活動を始めてからである。 もとは神代文字で書かれていたが、平群真鳥が、漢字・カナ混じり文に書き改め、竹内家ではこれを四代ごとに筆写し、代々、秘密裏に伝えてきた。 内容は超古代の歴史が記されており、日本だけでなく、世界全体を対象とした地球規模の壮大な文明の存在が綴られる。日本書紀では、歴史は神武天皇に始まるが、 竹内文献では、神武天皇以前にウガヤ・フキアエズ朝72代、それ以前に、25代・44世にわたる上古代があり、さらにその前にも数十代の王統があり、過去3000億年にさかのぼる歴史が語られている。

竹内文献によれば、今から数十万年前の超古代の日本列島は世界の政治・文化の中心地であった。そして、越の国、つまり、いまの富山県・神通川(じんつうがわ)の御皇城山(おみじんやま)を中心に、 飛弾・乗鞍にかけた一帯が神話で云うところの高天原であり、すべての人類の元宮として建立された「天神人祖一神宮(てんじんじそ いちじんぐう」という壮大なパンテオンがあった。

世界の人々は、こぞって、この元宮にお参りに来たという。ーと云っても、現在、みなさん方が神社にお参りするという感覚ではない。つまりここに世界の統治本部があったといい、それがある場所を高天原と呼んだというのである。 高天原とは首都、世界の首都の意味だと、竹内文書はいう。竹内文献をたどると、その中に浮かぶ世界がいかに驚くべきものかが分かる。 古の神々は天空を超高速で駆ける「天浮之船(あめのうきふね)」と呼ばれる飛行艇に乗って世界を巡行したという。

『ケサリ月円五日、詔(しょうー召して)して万国巡行、大力勇神通力にて一日八千里、天空浮舟乗行給ふ。又一日一万一千里行給ふ。時に万国五色人王、又尊者貴く、 天神の御来光と云ふ拝礼す』この記述が登場するのは、上古十八代・大斗能地王天皇(おおとのちおう・すめらみこと)の時代。 二月十五日に天皇が世界の巡行にお出かけになった。一日に八千里、つまり、三万二千キロ、あるいは、一万二千キロを、天之浮船に乗って行かれた。 そして、世界の各地を訪れて礼拝された、というのだ。

■ヒヒイロカネ 竹内文献には謎の金属が登場する。それは、火炎のゆらめきにも似て朱くかがやき、けっして、 錆びることのない金属。比重は金よりも軽く、その純粋な物は鉄よりも柔らかだが、合金すると、 プラチナよりも硬くなるという、まぼろしの金属ーそれが、ヒヒイロカネである。ヒヒイロカネで造られた茶釜で湯を沸かすと、木の葉数枚の燃料で湯が沸騰するというのである。

このヒヒイロカネは、カカコノ山(酒井勝軍はこの山が竹内文献にいうカカコノ山ではないかと見当をつけた。昭和13年、釜石市側の甲子(かっし)町を調査しヒヒイロカネの原石を発見した。 ・岩手県南東部/釜石市、大船渡市、住吉町にまたがる)で産出したという。こういった金属が、伝説のアトランティスにもあったという。それは、炎の金属ともいわれ、特異なエネルギーを放射したという。

ヒヒイロカネは、緋緋色金、日緋色金とも表記し、火廣金(ヒヒロカネ)、ヒヒイロガネ、ヒヒイロノカネとも呼称し、青生生魂(アポイタカラ)はヒヒイロカネを指すといわれる。竹内文書によれば陸奥のカカノコ山が原産だといわれる。

上古第一代の統治期に「大空乗公運尊」(おそらのりあるきのみこと)が天空船や水船を建造したという記述がある。
天空浮船は1日8,000−11,000里(約32,000−44,000キロ)飛行できたという。太古の昔に空飛ぶ船があり、天皇がそれに乗って万国を巡行していたという。
太古の神々は天空を超高速で駆ける「天浮之船(あめのうきふね)」と呼ばれる飛行艇に乗って世界を巡行したというのだ。

『ケサリ月円五日、詔(しょうー召して)して万国巡行、大力勇神通力にて一日八千里、天空浮舟乗行給ふ。又一日一万一千里行給ふ。時に万国五色人王、又尊者貴く、天神の御来光と云ふ拝礼す』
この記述が登場するのは、上古十八代・大斗能地王天皇(おおとのちおう・すめらみこと)の時代。二月十五日に天皇が世界の巡行にお出かけになった。 
一日に八千里、つまり、三万二千キロ、あるいは、一万二千キロを、天之浮船に乗って行かれた。そして、世界の各地を訪れて礼拝された、というのだ。
御神体石(ごしんたいせき)に神代文字で彫り込まれていた。

  ★『イヤヨ月円(まど)六日、 吉備常根本国
   ★大綱手彦命天皇霊廟  亦ノ名メシヤ
   ★日ノ神月ノ神  造主神日来神宮』

要約すると、三月十六日に吉備津根本国(きびつね もとつくにー備前・備後の国をさす)に、大綱手彦天皇(おつなてひこ すめらみこと)の霊廟(れいびょう)を造ったと云うのだがー、 この文章の最後の一節に「日来神宮」という言葉が登場したのである。なんと読むのかー?発音は、ヒラミット。そうー、ピラミッド、なのである。

■キリストの墓(青森県の戸来村⇒現在の新郷村にあり)をはじめとして相模のゼウスの墓・能登のモーゼの墓(石川県の宝達志水町に存在している。)・信州の釈尊の墓などが日本にあるのである。

「イスキリス・クリスマス(イエス・キリストとされる)の遺言」という「イスキリス・クリスマス。福の神。八戸太郎天空神。五色人へ遣わし文」で始まる文書がありそれによると十字架上で死なずに渡来(ゴルゴダの丘で処刑されたのは、弟のイスキリと記する)、 1935年(昭和10年)8月初に竹内巨麿が青森県の戸来村(現在の新郷村)で発見した十来塚(竹内巨麿が村長に書くようにいった)が「イスキリス・クリスマス」の墓であるすなわちキリストの墓とし、モーセの十戒は実は表十戒であり、 裏十戒・真十戒を含む原文の記された石を天津教の神宝として天津教が所有し、天皇が、来日したモーセに授け、モーセの墓が石川県の宝達志水町に存在している。

釈迦をはじめ世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えたことになっている。 世界には五色人(いついろひと。黄人(きびと、日本人を含むアジア人)、赤人(あかびと、ネイティブアメリカンやユダヤ人等に少し見られる)、青人(あおびと、肌が青白い。現在、純血種ほとんどなし)、 黒人(くろびと、インドの原住民族やアフリカ人等)、白人(しろびと、白い肌やプラチナ、ブロンドの髪をしたヨーロッパ人))が存在していた。 皇祖皇太神宮が全世界の中心である。注:現在茨城県に存在する神宮は、遷宮したもの。

3000年以上前の上古2代天皇の時代に16人の弟妹たちが全世界に散らばり、彼らの名前は今も地名として残っているという。その中には「ヨハネスブルグ」「ボストン」「ニューヨーク」といった名前が見られるが、これらの都市が建設されたのはかなり新しい時代である。 約3000年前の不合朝64代の時代に皇子(みこ、おうじ)31名と皇女(ひめみこ/こうじょ/おうじょ)43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。

竹内文書では神武天皇からはじまる現在の皇朝を「神倭朝(かむやまとちょう)」と呼び、これ以前に「上古25代」(または「皇統25代」)とそれに続く「不合朝(あえずちょう)73代」(73代目は神武天皇のことである)があり、 さらにそれ以前に「天神7代」があったとしている。 ちなみに上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(『古事記』では月読命、『日本書紀』では月弓尊)であり、 スサノオ(『日本書紀』では素盞嗚尊・素戔嗚尊、『古事記』では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。

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過去第五回の大天変地異の前には『木に餅がなる』とい記述があるが、これは『木にも地がなる=これは木に砂ぼこりか土ぼこりがたまるという意であろう。』木に積るということであろう。それにより土地がダメになり食料が取れなくなってしまうという。

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◆第六回目の大天変地異になるが、それからというもの、国にあった世界政府もなくなり、高度文明も崩壊し、生き残った人々は原始的な生活を余儀なくされるようになったという。 今残っているこの島国こそ、 かつての沈んだ帝国の重要部分で、 いちばん大事な所は沈まなかったということだという。 生き残った人々は工夫して、 何とか命を取りとめてきた。 きらびやかな服もなくなり、 黄金の宮殿も民家もなくなり、人々は動物の皮衣を着て洞窟に住み、 何とか生き延びようと必死だった。

石を削って武器にして動物を捕らえては食い、やがて土器を焼くことを覚え、そして稲作が始まってやっと今に至っているのだ。 しかし今はまだ、公(おおやけ)にはできないでいる(記録がある)。 エフライムはあとからやってきてこの国(日本)を統治しようとしている以上、この国(日本)が世界の中心だった文明発祥国では彼らにとって都合が悪いのだ。

そこで歴史を捏造(ねつぞう=実際になかったことを事実のように仕立て上げること)し、改竄(かいざん)してでもこの国が原始から始まったことにしないと困るのだ。彼らにしてみれば!。 原始文明から始まったこの国(日本)の人々に自分たちの文明を教えるということで、自分たちのこの国での支配を正統化しようとしているのだ。今でもそうである。


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予備知識1;●皇祖皇太神宮のいわれ

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神宮は宇宙開闢の神皇 天地神一大神(あめつちまひとつのおおかみ) (元無極體主王御神(もとふみくらいみぬしおおかみ))から 天御光太陽貴王日大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうひおおてるひおおかみ) (またの名メシヤ)までの天神七代、天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から二十六朝千百六十八代、そして神武朝の現代までの代代の天皇、皇后を合祀したお宮でありまして 皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)と申し上げます。

本来は 天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめたましいたまや)と称して 天超根中国の皇城山(あまこしねなかつくにおみじんやま)(元宮が富山市金屋字平奥五六四三番地(呉羽山近く)に建立され、毎年八月大祭が施行されます。) に遷(うす)し奉祭されてありましたが、上古第十代 高皇産靈身光天都日嗣天皇(たかみむすびみひかるあまつひつぎすめらみこと)の御代に神勅があって、初代天皇以来千二百九十三代の今上天皇までを合祀し奉る神宮を皇祖皇太神宮、万国の五色人祖祖(いろひとおやかみ) (外国の国王、王妃、民主尊(みっとそん)ら)を祀る神宮を 別祖大神宮(とこおやおおたましいたまや)と改名されたのであります。(内宮外宮のはじまり)

代々の天皇は必ず、皇祖皇太神宮の大前で、自ら祭主となって大祭礼を行いたまい、即位された後、天津高御座(あまつたかみくら)に御せられ、南面し、手には万国棟梁(とうりょう)天皇としてなくてはならぬ神剣 神日本魂剣(かみやまとたましいつるぎ)を執(も)ち、 身には天照日神の稜威燦(あまてらすひのかみみいつさん)として十六方に光り輝くさまを現した日輪章(菊型御紋章)をつけたまい、世界万国から集まった尊者民主(みっとそん)の祝賀を受けられました。 天皇が日本国だけの天皇となったのは神武天皇以後のことで、それまでの代代の天皇は一代に一度は必ず万国を巡幸(世界一周)されることを恒例(こうれい=いつもきまって行われること)とし天空浮船(あめそらうきふね)に乗って巡幸されながら、万国それぞれの国王、尊者、民主に謁(えつ)を賜り、 任命されるなど光明赫灼とした、正に万国の棟梁、世界天皇でした。

神宮には上古第二十四代 天仁仁杵身光天皇(あめのににぎりみひかり)(五世つづく)の御代(みよ=天皇の治世。また、その在位期間)に懸族四社(護法守天空神、稲荷福主王神、赤池白竜神、五色商運神)をはじめ九十七狐王の魂も妃られました。 また、不合朝六十九代 神足別豊(かんたるわけとよすき) 天皇の御代にモーゼ、七十代 神心伝物部建(かんこころつとうものべたて)天皇の御代に釈迦、神倭朝初代 神武天皇の御代に老子、第三代安寧天皇の御代に孔子、第六代考安天皇の御代に孟子、 第十一代垂仁天皇の御代にキリスト、第三十代欽明天皇の御代にモハメットとそれぞれ来日、参朝し、修業して帰りました。

このように皇祖皇太神宮は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。 神州日本に生きる民族としての誇りを堅持(けんじ=自分の考えや態度などをかたく守って)し、世界の五色人もまた皇孫(こうそん=すめみま=天皇の子孫)であるとの秘史(ひし=隠された歴史上の事実)の教えにしたがい、祖宗を祀り、世界の平和と繁栄のためにつとめることが、神宮を奉斉(ほうさい=神仏をつつしんで祀(まつ)ること)する私たちの使命です。

皇祖皇太神宮ホームページより

予備知識2;「声は心の柄」だという。「柄=杖=剣」であれば、剣は言霊の表象物である。 「言葉に精霊が宿る」という言霊の概念は、決して非科学的な迷信ではない。三種の神器「鏡」「勾玉」「剣」の内、鏡は天照大神、 即ち「魂」の象徴だが、勾玉も「魂」の表象物である。だとすると、鏡は勾玉を映し出して内観する道具だとも言える。 剣は、鏡に映し出された我(邪気)を斬り祓うという意味なのだろうか。では、剣は何を象徴しているのか……剣は錬磨して威力を発揮する。 つまり、鏡と共に「剣」は身魂磨きを表していると言えるが、それだけでは何か説明が物足りない。

草薙(くさなぎ)の剣のルーツは、「アロンの杖」だという説がある。モーゼはアロンの杖に命令して、様々な天然現象を操る奇跡を起こした。 天然現象は電磁波の活動だが、これに指令を与えるのがアロンの杖であるなら、それは言霊の象徴だと考えられる。


モーゼやイエスが起こした奇跡、日蓮、空海、などの言霊の大家が起こした奇跡は、やまとことば(ヘブル語・アラム語・古代日本語) に秘められた言霊の作用によるものなのだろう。だが、縄文人に言葉がなかった訳ではなく、古史古伝を見れば分かる通り、古代イスラエル(ヤマト)民族が日本に渡来する以前から日本語の原型はあり、 神道の神名が見られる。 縄文人のルーツの1つとしてはネイティブ・アメリカンで、その中のホピ族の生命の道と、古神道の神惟(かんながら)の道は、万物に霊魂が宿っているというアニミズム観や祭祀に共通点があり、 究極的に宇宙意識と自分が一体化することである。そして、ネイティブ・アメリカンとイスラエル民族は、共にシューメルを祖とする民族(アリオンのいうアマ族)である。 素粒子は意識であり、言葉であり、宇宙の創造力である。神の受肉である人間もしかり、意識が言語化したのが言葉であり、素粒子に指令を与えて宇宙を建設する。 人間の意識(素粒子)が宇宙を創造している。

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■キリストに神業を伝授した神主の武雄心親王の孫である武内宿禰【たけしうちのすくね】がスメラミコトの代行として万国巡航したのを最後に一つだった国がバラバラになりそれぞれ 独立した国として、自己主張をするようになった。超古代文明の記憶は歴史の闇えと奪われてしまった。 スメラミコトとその一族は天の浮き船で地球以外の惑星に避難してそして時を経てふたたび新しい文明を築くことを繰り返していた。

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不合朝第六十四代天皇は、三十一人の皇子と四十三の皇女がいたと竹内文書は伝えている。その三十一人の中に「知勇大力(ちゆうおおりき=知恵と勇気をもった大きい力のある人)」の皇子がいた。その名は「万国巡知彦尊(ヨロズクニ メグリシル ヒコノミコト)」といい、またの名を「桃太郎」という。 この若い皇子はその名から察するに、言わば天皇の名大として世界各国を巡る「巡察使(じゅんさつし=臨時に設置された官)」であったらしい。「桃太郎」といえば「鬼退治(悪心神=邪心神)」があるが、人一倍すぐれた「知勇大力」でもって世界を巡察するのが仕事だったとすれば、もちろん、治安問題の局地的解決も行ったであろう。 その「お供」の例の三匹の動物であるが、キジは航空隊、サルは工兵隊、そして犬は騎兵隊のようなものだったのではないかと竹内義宮氏は述べている。

航空隊は、大異変によって失われた「天浮船」の残存艦隊。サルの工兵隊は技術部隊。犬の騎兵隊は高速機動の機甲部隊だった。 エホバが天神第五代の天一天柱主大神(アメハジメアメハシラヌシノオオカミ)であり、アダムとイブが上古第二第天皇が中東に派遣した皇子(民王)の孫であり、モーゼが渡日して不合朝第六十九代天皇から律法を授けられたとなると、 イエス・キリストが竹内文書に登場してきても別に不思議でない。竹内文書によれば、キリストは神倭朝第十一代垂仁天皇のとき、十字架の難を弟の身代わりによって逃れ、チチの国である日本の八戸に上陸、青森県の戸来村に住み、百八歳でなくなったという。 このキリストの日本渡来という驚天動地の仮説に挑戦したのは、山根キクだった。昭和13年のことだった。彼女の研究によれば、キリストは神倭朝第十代崇神天皇の即位六十一年の一月五日(十二月二十五日ではない)、エルサレムの郊外ベツレヘムの地に生まれた。

その後ヘデロ王の幼児虐殺を神のみ告げで知り、エジプトに逃れた一家はやがてユダヤに戻り、ナザレに住みついた。十二歳のとき、エルサレムで神殿の祭司たちと議論して勝ったほどの天才少年のイエスは、やがて父母弟妹に別れを告げて真理探求のため東方へ旅立つ。 目的の地は日本だった。途中インドのヒマラヤの山中に釈迦の師といわれるカラ仙人の子孫を訪ねたりして、日本の能登の国の宝達港に着いたのが十八歳、垂仁天皇の即位十年のときだという。

イエス.は越中の皇祖皇太神宮の神官武雄心親王の弟子となり、足かけ五年修行し、天皇からユダヤ国王の印授を賜わり、帰国の途についた。しかし、ローマの圧制下のユダヤに帰ることは、ある意味では戦場にもどるに等しかった。 それだけに天皇は彼に「向こうでは死んではならぬ」という異例の勅を下した。また恩師の武雄心親王も、はなむけに神代伝来の「天国天座合作の小刀」を守り刀として下賜した。ところが、ユダヤに戻ったキリストには、天皇や親王が危惧したように迫害が待っていた。 そして十字架で処刑されるべくゴルゴタの丘に送られた。しかしキリストは死ななかった。実際に十字架にかかったのはイエスの弟だった。山根キクのいう十字架身代わり説をとれば、キリストの復活の奇蹟の謎も解ける。

キリストがユダヤを後にして、世界各地を伝道しながら日本の青森県・八戸に上陸したのは、十字架の奇蹟の四年後のことだったという。彼は「八戸太郎天空}と名乗り、各地をめぐり、上陸七ヵ月後に越中の皇祖皇太神宮に参拝、恩師の武雄心親王と再会した。 その後、また各地を巡ったが、景行天皇即位十一年の十二月二十五日、戸来嶽で死んだ。 竹内文書によれば、偉大な五色人は必ずといってよいほど来日し、天皇にお目にかかり、皇祖皇太神宮を参拝した。この慣例(かんれい⇒繰り返し行われて習慣)は後世ー不合朝末期から神倭朝初期ごろになると、いくらか変質して来た。

つまり、単に表敬のためだけでなく、上古代以来の歴史や万国政法(トコヨノクニマツリホ)を探り、宗教のあり方などを学ぶために、皇祖皇太神宮を訪れるということになった。 というのも、不合朝後期に、いわば集中的に襲った大異変によって、世界各地の上古代以来の文明がほとんど壊滅したため、文明の基礎的ノウハウさえ、この皇祖皇太神宮で学ぶ以外に方法がなくなってしまったからである。 したがって、この皇祖皇太神宮留学のために、すでに記したモーゼやキリストだけではない。中国古代の伝説的帝王である伏義氏(ふっき・ふくぎ)、少し下って儒教を開いた孔子や、その流れを汲み王道政治を唱えた孟子などの聖賢(せいけん⇒人格にすぐれた人物)。インドで仏教を開いた釈迦。 さらに中東からはイスラム教の開祖マホメットらが来日したと伝えている。


現在の日本の国旗「日の丸」を制定したのは、不合朝初代天皇である。と竹内文書は伝えている。上古第二代。神々の子孫がこの新しい住地である地球に住んで、第二の世代が生まれたころだ。 気候温暖で、地上の楽園でもあった天越根国の青空にへんぽんとひるがえっていた「白地に赤」の日章旗。これは地球の各地に住む五色人たちに対し、「太陽の直統国」−自分達の真の祖国ーへの無限の誇りと憧憬(どうけい⇒あこがれ)とを慫慂(しょうよう⇒他の人が勧めてそうするように仕向けること)するシンボルだったのであろう。 このシンボルが、大異変のために衰亡した「上古二十五代」王朝に代わって、新たに地球に君臨(くんりん)した「不合朝」によって、やはり国旗として採用制定されたのも、同王朝が、「太陽の直統国」としての自覚を抱いていたからであろう。

竹内文書によれば、現在皇室の紋章である「十六弁菊花」の紋章もやはり上古第二代天皇が作ったことになっている。もともと菊は日本の植物ではない。平安初期に中国から渡来した中東原産の花だ。 この「菊の紋」と同じモチーフの紋章が西アジアに散見される。古代ペルシャの王室の紋章、聖都エルサレムの「嘆きの壁」に刻まれている紋章にもこの「菊の紋章」がみられる。だが、竹内文書によれば菊花紋章の起源は、植物の花のモチーフではなく、太陽(日輪)のモチーフだという。 皇室が「日の御子」である以上、その紋章は日輪でなければならない。上古第二代天皇が、地球を十六方位に分けた、そしてその方位(地域)に皇子らを民王として派遣した。それをモチーフとしたものを天皇の紋章として定めた。つまり「菊形」であっても、決して「菊花」ではないという。

佐治芳彦「謎の竹内文書」より引用。

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■変わった人物

★【不合朝第一代 武鵜草葺不合身光天津日嗣天日天皇 】( タケウガヤフキアハセズミヒカリアマツヒツギアメヒノスミラミコト)日の内に万国何万里遠く行く神通力を持っていたという。

★【不合朝第十九代 (皇弟)少名形男彦天日身光天皇】 (スクナカタオヒコアメノミヒカルスメラミコト)身の丈三尺に足らず、皇后(こうごう)七尺五寸、大力の宮なり山野を巡覧をするときは必ず天皇の左手にのせていくという。怪力皇后であったという。

★【不合第四十四代 大炊気吹天日身光天皇 】( オオカシフキアメノミヒカルスメラミコト)と【不合第四十五代(皇弟)空津争鳥天日身光天皇 】(ソラツアラソイトリアメノミヒカルスメラミコト)いずれも「神祈らず、祭らず、石南不老も食べ」なかったという。無神論者であったという。

★【不合第四十五代(皇弟)空津争鳥天日身光天皇 】(ソラツアラソイトリアメノミヒカルスメラミコト)「皇后(こうごう)を立てず、女官百八十人を率い」て、江尻宮で遊んだという。

★【不合第六十四代 豊日豊足彦日嗣天皇 】( トヨヒトヨタルヒコアメヒツギスメラミコト) の皇子(みこ、おうじ)。「万国巡知彦尊(ヨロズクニ メグリシル ヒコノミコト)」といい、またの名を「桃太郎」という「知勇大力尊(ちゆうおおりきのみこと)だった。世界各地を巡回する警備隊長。


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此れが現在の歴史である。それ以前(神武天皇以前)は隠されているままである。

1 黎明期【レイメイキ】(初代から15代)
2 古墳時代(15代から26代)
3 飛鳥時代(27代から37代)
4 白鳳時代・奈良時代(38代から50代)
5 平安時代(50代から77代)
 5.1 平安時代初期(50代から54代)
 5.2 平安時代前期(54代から60代)
 5.3 平安時代中期(60代から71代)
 5.4 平安時代後期(71代から77代)
6 鎌倉時代(77代から96代)
 6.1 鎌倉時代前期(77代から88代)
 6.2 鎌倉時代後期(88代から96代)
7 南北朝時代(96代から102代、北朝初代から6代)
8 室町時代・安土桃山時代(102代から107代)
9 江戸時代(107代から122代)
 9.1 江戸時代前期(107代から114代)
 9.2 江戸時代後期(114代から122代)
10 明治時代以降(122代から125代)

●結論としては、超古代からの正しい歴史が世に出ない限りにおいては、いつまでも混沌として世の中になり果てて行くのが今の世である。

一人でもこの歴史を世に広めさせて頂きたいと思うのである。然るに広めて行った人々には必ずや神の光を頂くこととなるであろう!! なぜなら神が望んでおられるからである。人間は人間の間で努力し見つけ出し祈念の念で神を思う心に成らねばならないのである。もう、あーでもない、こーでもないと人間の屁理屈は無用(お前たちには時間が残されてはいない)だと示されている。歴史を明らかにし超太古時代の神道の復活が これが本当の岩戸開きだという。そして本物の神道をはかるにはどうするのか。 『記紀』だとか 今表に出ている神道を追求しても 当然得るものは少ない。いったい 日本神道の神髄というべきものは、どこに示されているのか。 それが黒住(くろずみ)、天理(てんり)、金光(こんこう)、大本(おおもと=昼に近い教えになったのである)、救世(きゅうせい=昼の教えになったのである。 真如=夜の教えから正法の教えとなったのである。)、真光(まひかり)の一連の神道系新宗教に出されている。観念論ではなく、活気凛々(りんりん)として として実在する『神』を認め、神霊的な概念を含めたうえでアプローチがなれけば結局〃芯〃(一神)〃のぬけたものとなってしまう。神霊実在主義に基づく、正しい建国史の追及することである。

明日に幸あれ!!

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●エジプトのツタンカーメンが、なぜ一番最初に日本で展示されるようになったか、その委員長が「なんだか日本へお返ししたような気がした」などという発表をしたか、 あるいは、ツタンカーメンの靴や短剣に十六の菊のご紋章が出ているか、というような謎や、イスラエルの“開かずの扉”の裏に十六の菊のご紋章の付いているのはどうしてかということで、 現在学会の謎になっていることなど、すべての謎が解けるわけです。

そのほか、伊勢神宮にどうして白馬があるか、そして、イスラエルでは今日でも、日本からメシアが白馬に乗ってくる、日本からメシアが降臨してイスラエルを救いにくる、という信仰を持っているのはなぜかということや、 “光は東方より”“大乗の機根東方の国にあり”“大日如来汝の腹中にあり、日本に帰れ”などといわれたことは、すべてこの意味がはっきりとしてしまいます。


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言霊豆知識-7-4

竹内巨麿が参籠中に授けられた神歌31首とその効果神歌

神歌01:すめるもの、けふりのことく、たなひきて、まつひさかたの、あめとなりにき
     清 物   烟 之 如   棚 引   先 久 方 之 天 成 来
神歌02:ひさかたの、あめのまはしら、ゆきめくり、まくはひましつ、めをのふたかみ
     日 刺 方 天 神 柱   行 巡   婚 媾 坐 津 女 男 両 神
神歌03:いものかみ、かむさりませる、みいかりに、うちきりたまふ、かくつちのかみ
     妹 神   神 退 坐   御 怒   打 斬 給   軻 遇 槌 神
神歌04:あやまちを、のりあらためし、よことより、うみなしたまふ、おほやしまくに
     過 乎   言 改   吉 事 従   産 成 賜   大 八 洲 國
神歌05:あれますや、うみみとのかみ、かせのかみ、こたまやますみ、ぬつちけのかみ
     生 哉   海 水 戸 神 風 神   木 神 山 祇 野 槌 食 神
神歌06:なかつせに、うきしつみ、またかつきつつ、みみのけかれを、そそきたまひき
     中 瀬   浮 沈   又 潜 筒   身 体 穢   滌 給 畿
神歌07:あまのはら、しほのやほあひ、あめのした、ことよさしたまふ、みはしらのみこ
     天 原   潮 八 百 會 天 下   事 依 給 布 三 柱 珍 子
    神歌08:あまてらす、ひのおほかみの、みいのりに、かむあそひなす、やほよろつかみ
     天 照   日 大 神   御 祷   神 楽 為   八 百 萬 神
神歌09:あなとふときし、かかみたまつるきこそ、かきりもあらぬ、くにのみたから
     阿 南 貴   鏡 玉 剱       限 母 有   國 之 神 寶
  神歌10:きみあふき、みたみなてつつ、いかしほこ、なかとりもてる、くにそさかゆく
     君 仰   御 民 育   嚴 矛   中 取 持   國 曾 栄 行
神歌11:あさことに、ひかけあふきて、いはやとを、ひきあけたまふ、かみのたちから
     朝 毎   日 影 仰   窟 戸   引 開 玉 布 神 之 手 力
  神歌12:かしこきや、やまたのをろち、きりはふり、をよりえたまふ、つむかりのたち
     恐 也   八 岐 大 蛇 切 散   尾 後 得 都 牟 苅 大 刀
神歌13:いかつちの、かみのまもりし、このかまは、とつくにまても、なりひひくなり
     雷     神 守     斯 釜   外 国     鳴 響
神歌14:あたなせる、やそのかみたち、おひさけて、くにつくらせる、やちほこのかみ      敵 城   八 十 神 等 追 放   國 造 良 為 八 千 矛 神
神歌15:もろもろの、やまひをしをさめ、ましなひの、のりをもさため、たまふいさをし
     諸 々   病 癒 治   禁 厭   法 乎 毛 定 給 有 功
神歌16:さきみたま、くしのみたまの、くしひにて、あめのしたをは、つくりましけり
     幸 魂 奇 之 魂 櫛 備 煮 天 天 之 下 乎 波 造 坐 来 
神歌17:みこころを、すかのところに、みやつくり、みめもろともに、こもらせりけり
     御 心   清 地     宮 造   御 妻 諸 共 籠 芹 来
神歌18:もろもろの、やそのこのたね、まきはてて、しけるのやまも、かみのいさをし
     諸 々   八 十 木 種 蒔 果   繁 野 山 母 神 之 功
神歌19:おもひかね、かみのみことに、おもはしめて、よろつのことも、はかりたまひき
     思 兼   神 命     令 思 弖 萬 乃 事 毛 量 給 岐
神歌20:ひのおほみかみ、たかきかみ、すめみまを、あまくたします、みはかりはしつ
     日 大 御 神 高 木 神 皇 孫   天 降 坐 御 議 波 為 津 
神歌21:いはねきね、くさのかきはも、ことやめて、やすくになせる、たけふつのかみ
     石 根 樹 根 草 片 葉 禁     安 國 成   建 布 都 神
   神歌22:みふねをは、あをふみかきに、うちなして、みまのみことに、くにわたしけり
     御 船   青 柴 垣   打 成   御 孫 命 仁 國 奉 来
神歌23:あまつかみ、おほみかみもて、いつもなる、きつきのみやは、つくらせにけり
     天 神   大 神 以   出 雲 在 杵 築 宮 者 造 良 芹 来
神歌24:やゑくもを、ちわきにちわき、たひけらく、あまくたります、すめみまのかみ
     八 重 雲 道 別 千 別 平     天 降 座   皇 孫 神
神歌25:すめみまの、かみのみためと、いはさかに、ひもろきたてて、くたしまつりき
     皇 孫   神 為     盤 境 爾 神 籬 立   降 奉
神歌26:やちまたに、まちをりたまひ、すめみまを、みちひきましし、かみのいさをし      八 街   待 居 給   皇 孫   導 座 之   神 之 功 有
神歌27:あさひさし、ゆうひひてらす、ところそと、みつのみあらか、つくらせりけり
     旭 刺   夕 日 日 照 地     瑞 之 御 舎 造 芹 来
神歌28:わたつみの、かみのはかりし、つりはりは、しほのみちひる、たまもえしめつ
     綿 積   神 能 量   釣     母 潮 満 乾 玉 母 令 得
神歌29:ひさかたの、かみのみほこの、したたりそ、をのれとこりて、しまとなりける
     瓢 葛   天 御 矛   瀝 曾   己 登 凝 弖 島 成 来
神歌30:うらのあしの、ひとよにはらむ、ふたこころ、まことよりこそ、ほにはいてけり
     浦 蘆   一 夜 孕   貳 心   従 誠 社   穂 庭 出 来
神歌31:かしはらの、みやにはつくに、しろしめす、すめらみことの、みよはよろつよ
     白 橿 原 宮 初 國   知 良   天 皇 乃   御 代 萬 代

全ての最後に 惟神 魂霊 幸(かんながら たまひ ちはいませ) と拝誦(はいしょう)する。

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[神歌の効果]

神歌01:其方の身は清々しくなり、如何なる禍も免かるること得べし。
神歌02:子孫長久し、且つ陰陽和合の歌なれば武術を行うに於ては欠くべからざるの名歌なり
    武術の達人たらんとせば常に此歌を忘るべからず。
     神歌03:立どころに蘇生す、其他病気火の災、熱病の類は此の神気にて平癒す、神気は電気の
    如きものなり。
神歌04:今まで犯した罪は消えて吉に向ふ、又家屋を新築し道路を開通する時には此の神歌を
    唱へて着手せば必ず成就すべし。
神歌05:如何なる山奥海河へ行きても災難なく、又如何なる物を食するも更に害なし。
神歌06:水行に就て水の害を受けず、且つ病気、災難、身の不浄を除き身体を強健ならしむる。
神歌07:生命の全きを保ち、備りたる身命は必らず満足にて終る、世の中には病気になりて
    より命乞ひなす者あり、是れは愚なる者なり、平素身体を大切にし信仰心を怠たらざ
    る者は必ず備えたる命は全うするを得るなり。
神歌08:又人の年祭り、開運立身の祭り等総て吉事の祭典に唱ふる此神歌を唱ふれば益々立身
    開運福徳を増進す。
神歌09:是は其家に悪魔外道の類が入らざる様に唱ふるもの、主人たるもの夫婦が手を八つ
    打ちて唱ふべし。
神歌10:此歌を唱えて天児屋根命の神様を祈念すれば知覚を明敏にし又山野に出でて、野宿な
    どをする事あるも、決して狐狸等に魅せらるることなしとの事。
神歌11:家の普請、地祭、小児の虫封じ其他不運を除きて開運を祈るに用ふる。
神歌12:狩猟も幸ひを得、又悪魔を撃退し、悪人を見現し、敵を破るに妙なり。
神歌13:鳴動式とは釜鳴りの祭事にして、其の鳴動の如何によりて吉凶を判断し、且つ諸願成
    就を祈る往昔吉備津彦命の始め給へし祭事なり、阿蘇姫とは祭事に興(あずか)りて仕ひ
    奉るの役目にして、性来月経のなき女子を採用す、其の祭事を行ふ時は真心を以て
    天御中主大御神、天照大御神、須佐男神、雷神を始めとし天神地祇を祈念し、神代文字
    を以て神秘の術を執行せば鳴動すべし、「然れども常人の家にて釜鳴りのすることある
    も、是れは凶事にして必ず一家に災禍ありとも知るべし、該事の時は左の神歌を唱ふべ
    し。」
神歌14:悪魔外道を除去する。
神歌15:病気災難を攘除する。
神歌16:之れ身体を養ひ智能を磨くに於て、此の神歌を唱ふれば霊験著し。
神歌17:此の歌唱へて神秘の伝授を行へば、乳の出でざる者に霊験あり。
神歌18:農工商に関係ある者が唱ふれば霊験著しい。
神歌19:智謀を増進し、諸人と和合し、軍学の上に於ても霊験あり。
神歌20:子孫繁栄諸願成就。
神歌21:青人草(国民、人民、民草の意)が病気、障り穢れ、悪魔外道に襲われ難義する者を助くる。
神歌22:婚姻に就ては其吉兆を祝せんには左の神歌を唱ふべし、必ず夫婦間の円満平和を保つを得べし。
神歌23:猛獣に出会したる時是を制服する。
神歌24:家を浄める。神歌を唱え八柱の神を家の八方に祀る。
神歌25:病災を攘除する。神歌を唱え八柱の神を家の八方に祀る。
神歌26:軍法武術の必勝を得るの神歌を授く。
神歌27:人は武術の達人となる程慢心は禁物なり、第一之を慎むべし、次には食べ物を注意すべ
    し、人は嫉妬に逢ふ事あり、之れ恐るべきものなり、其の結果は毒殺などに罹る実例
    少なからず、必ず注意せよ、貴殿は後日大に立身はするが人の嫉妬は免かれず、呉々も
    油断すべからず、其難関を通り過ぐれば竟にはこの神歌の如くになるぞよ。
神歌28:往古火須勢理命、火達理尊の兄弟の神あり、兄の神は邪にして弟の神は正なり、兄神は
    弟神を種々に苦しめたるも、竟には弟神に勝つ能はずして降伏せり、人は正道を守れば
    邪は遂に勝つ能はざるものぞ、左の神歌を鑑とせよ。
神歌29:天神地祇を祀らば諸願成就すべし之を記せよ。
神歌30:是れは婦人の産前産後長血、白血等には左の神歌を唱え、斯々の神秘を行はば病気平癒せん。
神歌31:家屋の新築、家移り、全ての祝事、政治の始等総て吉事に唱ふるの神歌あり、此神歌を
    唱へば悪魔外道を攘除し、敵を降伏せしめ幸福を招くべし。

★但し神術を得たるを知りへたとて慢心を起したる為神伝を取返さるることを一言付け加えておく。



生き言霊に幸あれ!!

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生活環境を平和なものにするためには引き寄せの術を使うことです。この世は全て自分で自分が引き寄せているのです。例えば成功したいと強く思うことです。毎日毎日思うことです。 強く思うことです。思考(しこう=考えたり思いを巡らせたりする行動であり、結論を導き出すなど何かしら一定の状態に達しようとする過程において、筋道や方法など模索する精神の活動である。) は引き寄せます。これが宇宙の法則の一つでもあります。絶対であります。しかし望まないことを思ったりするとやはり引き寄せてしまいます。これが良くないことが起こる原因にもなりうることなのです。

脳波で宇宙に伝達されるために判断(考えることに対してすべて区別しないで引き寄せてしまいます。)はそこにはありませんので思うそのものに原因があるのですから、出来る限りあまり良くないことはイメージしないことに限ります。 とにかく望むことだけを考えて生活することが現実するのです。これが神が与えている仕組みでもあります。ただ時間差がありますのですぐに実現するわけでもありません。 それはいったん霊界に入り現象化するまでの時間があるということです。それから限界に下り降りてくるのです。なにしろ好い気分で生活することが一番です。たとえ悪いことが起きたとしても早く切り替えることです。

健康だ、幸せだと思うことです。例えそうでなくても思うことです。そうすることで宇宙は同化してそれに従って起こってきます。現実化してきます。とにもかくにも考えを変えてみることです。思うことです。そして気分を変えるには音楽を聴くことも一つ言えることでしょう。又は美しいものを考えることもまた一つです。 こう云う風に他のものは遮断することです。こして思考や感情をコントロール出来るようになれば大成していきます。

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飛天の術というものがある。これは竹内家66代目にあたる竹内巨磨がなされていた術である。だがこの後誰も会得できないだろうと言い残した。それはなぜか、おそらく現代の食べ物が汚染され、人間の 体質が変わってしまうことに懸念していたのかもしれない。本当に神聖な食べ物を食べていない限りは、この術は出来ない事を知っていたのかもしれない・・・。

巨磨の四男で、高畠家に養子に言った天神祖一神宮(てんじんじんそいちかみのみや)の高畠吉邦(たかばたけよしくに)氏が実際にみているという。なんと父は両手に榊を持ち、 言魂を発すると、その榊が光りだしてロケットの炎のようにやがて空え垂直に五十メートルも浮かび上がったというのである。そしてしばらくして垂直に降りてこられたという。

おそらくこういう術は小生は出来うる事だと信じる。なぜかというとこの様な体験をしているからなのである。あるとき自転車に乗った子供さんが車に引かれる寸前に、危ないと思い霊的光力で子供さんに オーラを浴びせたのである。そしたら 鈍い音(ドスン)とともに子供さんが浮いて五メートルも飛ばされてまたストンと降りたのである。車のバンパーは凹んでいるが、子供さんと自転車は何もなっていないのである。 これでお分かりいただけるであろうか・・・。

人間には霊衣と言って霊の衣がある、それは普通人には見えないが、身体の形の通り、白色の霧のようなものに蔽(おお)われている、もちろん厚い薄いがあるが、これは魂の清濁によるので、魂の清い程厚いのである、 普通人はまず一、二寸くらいだが、有徳の人は二、三尺、神人となると無限大である。

それに引換え濁った身魂は、霊衣が薄く貧弱である。そうして災難を免れる場合、例えば自動車が人間に衝突しようとする刹那、自動車にも霊があるから、人間の霊衣が厚いと、突当る事が出来ないで、横へ外れてしまうので助かる、 高い所から落ちた場合、霊衣が厚いと地や石の霊に打つかってもフンワリ軽く当るから、怪我をしないし、また家にも霊があるから、その家の主人が有徳者であると、家の霊衣が厚いから、火事の時など火の霊はそれに遮ぎられて、燃え移らないのである。

汽車がぶつかる瞬間に霊的光力を浴びせると一瞬にして汽車の霊を止めてしまう、その場合何百、何千里でも、一秒の何十分の一の速さでその場所へ到着し救われるのである。 以上によってみても、奇蹟なるものは、決して偶然やマグレ当りではなく、立派に理由があるのであるから、それが判ったなら、奇蹟は不思議でも何でもない事になるのである。

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宇宙の法則

今日広く知られるようになった宇宙の法則、同様の意味で因果応報、引き寄せの法則とも言いますがこれは万物の創造主、ムトフミクラエシヌシノオオミカミの働きそのものでありましょう。 これには正しいものを成り立たせ、歪んだものを消し去る働きがあります。病気も苦悩も過去から現在に至るカルマが消えていく現象に他ならない。 自分の行いは全て自分に返ってくるという非常にシンプルな現象であります。

愛を与えれば愛が、怒りを与えれば怒りが返ってくる。 批判するものは批判され、他を見下し馬鹿にしていれば他者から同様の仕打ちを受けることになります。

過去地上に降りた神托(しんたく=神が,不思議な夢や神憑(かみがかり)などを通して,その意志を人間に伝達すること)も、広い意味ではこの法則を伝えたかったのでしょう。
大切なのは今ある心であり、全てのカルマを消すために天に徳を積むことです。

基本的にこの世に罪の無い人間は存在しません。 前世も含め皆必ず誰かを傷つけたことがあります。そこで、もう二度過ちを繰り返さないようにしようと思うことが大事なことでしょう。
ひとりひとりが心構えを変えれば、戦争も家庭内や職場の不和も無くなります。
無条件の愛、ゆるしは自分自身のみならず世界を救うことにも繋がるのであると思います。

今まで地球には時間が存在したが、2012年末以降どんどんこの時間という観念が消えていきます。
これは、人間の知覚が変化するという意味であり、人類は過去でも未来でもなく、今この瞬間を生きるようになるのです。
これはもう決まっていることなので確実にそうなる。本来宇宙に時間は存在せず、ただ永遠の今があるばかりです。

時間というものは地球上で文明が栄えていくうちに造りだされたものであり、太古の人類は時計に頼らない生活をごく自然にしていたのです。
自分の内側にある感覚をなにより大切にし、自然と調和した生き方を基盤としていた。本来そうやって生きるように人類は創造されたのだが 現代人は分刻みで行動し、『〜しなければならない』という強迫観念に翻弄され、神経を苛立(いらだ)たせている。その結果世の中では争いや殺人事件が絶えない状況です。

このような状況はいったんリセットする必要があります。
宇宙創造神は全てを愛と調和に導く。歪んだものをリセットする仕組みもしっかり計画しているのです。
その時がちょうど2012年12月21日にあたる。
マヤやホピ族らは太古の智慧を受け継ぎ、この変革期のことをよく把握している。
世界各国に存在する先住民族やシャーマン、日本ではユタ、イタコと呼ばれる人々も深く宇宙と繋がっており、また彼らは最初の神々の血を濃く受け継ぐものたちでもある。
グレゴリオ暦や貨幣制度、階級等を創造した闇の勢力は最初の神々の血族を根絶やしにすべく何度も先住民族達を殺害したのです。日本人も第一次、第二次世界大戦によって多くの民が殺されました。 さらに彼らは第三次世界大戦を起こし、日本を分割統治する計画であるといわれております。

今後今まで時間差のあった因果の結果があっという間にあらわれてくることになるでしょう。
心の中の反映がすぐに形になるのです。今までも法則は健在だったが、時間差があったため多くの人はその事実に気付かず 憎しみや怒りの心を増大させては他者を責め、再び憎んだり怒ったりしたくなる状況を自ら引き寄せ、負のループにはまりこんできたのです。
今現在カバルとそれを操る生命体たち、地球を完全に支配しようと躍起になっている存在にも宇宙の法則は当てはまります。
彼らは自らの行いを自ら受け取ることになるのです。暫くの間因果の結果即ち、「混沌(こんとん=すべてが入りまじって区別がつかないさま)」したことがが起きることでしょう。
その後、長い歴史を経てようやく黄金時代の幕があけるのであると思われます。

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神葬(しんそう)方法が来生の幸不幸を決定する

竹内文書には、人間に生まれ変わりがあることが書かれている。上古十代・高皇産霊天皇のときの、神葬についての詔(みことのり= 成り立ち)にそのことが表れている。

「先の代天皇始め、上下民万国五色人神幽りし人體骸(じんたいこつ)を地の中に奥都宮(おきつノみや=墓のこと)を造りて、神に葬(ほうむ)ることに定む。
神幽る體骸(たいがい=体の骨)を葬(ほうむ)る主始め、葬らるる神霊も、天然に神に葬り祭りしせよ。
葬る主の顕世(げんせい)、安泰平安長寿孫(あんたい へいあん ちょうじゅ まご)まで安全するぞ。


先の代(よ)に、支人(さえにん)の造り竝(なら)べし教法にて葬ると、生きるに惑(まど)ひ、死に迷ひ、万の災に会ふぞ。遍ボ短命、万苦しむぞ。先の代に悪人困難に生まれるぞ。
神州人、万国五色人よ、天然の神に葬ることとせゐ(い)よ。守れよ。葬る主(ぬし)は、身體健全(しんたいけんぜん)、富貴(ふうき)繁栄するぞ。万事言勝和合天職守るぞ」

このころすでに、外国の葬儀方法が国内に入ってきていたのだろうか。その方法で死者を葬ることを堅く禁じている。
それでは葬る人も葬られる人も不幸になるというのである。
なかでも、死者が生まれ変わるときに、悪人になったり困難な人生を歩んだりすると指摘しているのは、非常に興味深い。
つまり、竹内文書では生まれ変わりを認めているのである。

それも、このように戒めに来生の話を使用するということは、生まれ変わりが広く一般に信仰されていたことを意味しているのである。

天皇の世界統治が完全に崩壊していた不合朝五十九代、神葬方法について、天疎日向津比売天皇霊(天照大御神)より神勅が下っている。
神勅を受けたのは、皇后宮糸玉姫命である。

「天国神州の天皇始め、上下万民万国五色人上下ワ、神幽る體骸を神に葬ることをせゐよ。
先の代に必ず支のさまざまの教法造り竝べし教法に惑ふなよ、生に惑ふなよ、死るに迷ふなよ。

迷ふて別教法に體骸を葬ると、国と家と子孫へ万災、遍(へん)ボ、悪人、又、(中略)、万病者に生まれるぞ。
神州人よ、万国五色人よ。天然の神州の神に葬るこそ、神幽體骸の神霊、體骸を葬る顕代主の天の道にかなひし幽顕とも、転職天資ありと知れよ。

神幽霊、四つに祭るを云う。幽顕も無極楽の世に生まれ出るぞ」

上古十代とほぼ同じであるが、最後に「四つに祭るを云ふ」とあり、具体的な神葬方法として、四魂ごとの葬り方を教えている。
四魂とは、一般的には人間の霊魂を働き毎に四つに分類したもののことをいうのだが、竹内文書では独特の意味が与えられているようだ。
残念なことに、それぞれの魂が具体的に何を表すのかははっきりとしたことはわかっていない。以下、小生のわかった限りの解釈を付記する。

@ 荒魂は體骸に付けて葬れ。

これは、遺体の埋葬方法のことで、場所は神勅によって決定する。

A 奇魂は天神日の国へ葬れ。

これは魂を霊界に送る儀式の必要を説いているもので、ここでいう天神日の国とは魂の古里である神霊界を指す。いわゆる「お葬式」である。

B 和魂は子孫の家に伝ふ。零牌に霊遷し祭る。

これは仏教風にいえば位牌のことである。位牌を開眼し、遺族が先祖の魂を祭ることの大切さを説いているのである。

C 幸魂は皇祖皇太神宮へ神に合せ、百日目零遷し祭る。

これは、死後百日目に皇祖皇太神宮へ行き祭りを行うことを説いている。

以上の四つの法則を守ることによって、人は来生の不幸を回避することができるというのである。

現代の日本人は、生まれたときは神道でお宮参りし、結婚するときには教会でキリスト教式、そして、死ぬときは仏教という人が少なくない。
現代社会に多くの不幸が生まれてしまう原因は、意外と神葬の方法を忘れてしまったところにあったかもしれない。


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神葬(しんそう)の場所や年忌祭りの時期には細かい取り決めが

 竹内文書では、死ぬことを「神幽(かみさ)る」、神葬(しんそう)を「神葬」と表現している。これは人間が、神の直系の子孫であることを表すためである。
現代でも葬儀に関しては、さまざまな決まりごとがあるように、超古代でも神葬に当たってはさまざまな約束ごとがあった。
「天日豊本黄人皇主天皇、即位三百十億年六月二十六日、詔して定む。先の代々、天国神州、天皇初め上下民・支国五色人等よ。神幽りし體骸を神に葬(ほうむ)るを神勅に定む。
神幽(かみさ)る體骸を峰に葬る一年祭、三年祭、五年祭に神骨體を造りして、神明を神代文字にてミドジ(凹字)刻り付け、天神人祖一神宮へ合せ祭り、十年祭、三十年祭、五十年祭、百年祭、千年祭するを定む」
これは「神霊正典」による上古三代の記録である。ここには、はっきりと埋葬地は神勅によって定めるようにとの指示がある。
上古時代世界各地に天皇の御陵が造られたが、これらすべて神勅によって決められていたのである。
さらに、上古時代の御陵名に「山宮」がついているのも、当然のことであった。山の峯に葬るまで決まっていたからである。
また、年忌祭りの時期にも細かい決まりがある。一年、三年、五年めにご神骨像が造られている。
その後は、天神人祖一神宮(後の皇祖皇太神宮)において、十年、三十年、五十年、百年、千年と祭りをするのである。
現在は人類の寿命が短くなってしまったため、親の五十回忌を行える人は少ないが、超古代の寿命を考えれば、千年祭りはたいていの子供が充分できることだったろう。
しかし、こうした神葬のルールも、絶対的なものではなかった。その時代に合った方法が決められているのである。

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言霊豆知識-8

神や祖霊または墓について説明いたします。心霊科学上からいうと、神や祖霊の祀り方は、人種、地域によって霊界の法則は一様ではないが、 ここでは大体アジア人には共通していえる。心霊原則について参考。神様の祀り方はまず其の家の奥座に鎮座させて頂くこと。 また鎮座している上は絶対に足を運ぶ事はしてはいけない。たとえば2階がある家の場合。又は屋根に上がる場合。已む無く上がる場合にはお許しを願う必要がある。

★正しい仏壇の祀り方する。古い仏壇は破棄し、小さくても真心のこもめてさせて頂く。そして新しくしましたので古い仏壇から新しい仏壇に移ってもらう。 抜魂(御霊抜き) をして新しい仏壇の開眼(魂入れ)をいれる。きちんとした手続きのもとで遣る事。必要条件です。適当には出来ないです。開眼戻し(かいげんもどし)ともいう。 祖霊祀りともいう。

細かい詳細はまだ在るがここでは書ききれませんので・・・。先祖は最低必要条件である位牌の正しい祭祀と、日々の供養の方が、墓に関係したことより、 現界の不幸にはごく強く働きかけてこられている。かといって墓は全然問題がないかというとそうでもない。墓石にヒビがはいっていたり、欠けたり、 十五年も二十年も墓地が草ぼうぼうであったりする場合には、警告現象を起してくるのが現状である。人間が死ぬと、其の肉体を祀った目標が墓である。 肉体を子孫や親戚の者が丁重に土にかえすまで、肉体から抜け出た方は見ている。

本来、墓はその家の裏庭なり畑なりに築いていたが、戦国時代、百姓一揆の防止のため、個々の家の墓を一箇所に集め、集団墓地になったのである。結局、 墓は先祖にとって、子孫が先祖を敬い、尊ぶ気持ちがあるか、ということによって先祖自体の生前の徳の反省の「よすが」にするくらいである。之に比べて、 位牌(亡くなられた方は指導霊が迎えに来て位牌にかかり五十日目【此れは数霊から来ているもので適当な数字を表しているものでもない。この世に与えられている数字である】に霊線をひいて帰る。 要するに人も一人前の人間になっていくように、亡くなった方の霊も安定的な供養によって普遍的な祖神になっていきます。)の方は先祖にとって、 食べなければならない(ある一定の年数。諸外国は配給制なのでアジア人とは違う。また火の元はミ働きが違うために責任も重大である。

東洋の霊界は大体立体的で、特に日本の霊界は最も立体的であり、西洋の霊界は大体さほど段階はなく平面的である。西洋はキリスト教一種といってもよいのであるから、 全く経と緯の相違である事は明らかである。故に前者は多神教で後者は一神教というのである。また日本の社会が特に階級的段階の多い事もそれが為であり、 西洋が非階級的で平等なのもそれが為である。)という切実な絶対必要な媒体である。

墓と位牌とは、根本的に性格と其の効用が違うのである。その二つを混同するために、おびただしいほどの戒告現象を受け、それによって不幸や災害によって苦しんでいるのが今の現代である。 今自分があるのは父、母の愛であり、又その父、母の愛であり、更にずっと上まである。だから魂で繋がってる事に気がつかなければならないのである。経験上から書かせていただきました。ちなみに、欧米の霊界では、 神様から直接(但し配給制なので自由に食べる事は出来ません。)いただくことが出来るので、お仏壇による子孫の供養は必要なく、毎日、生花やお食事をお供えする文化もありませんし。 東洋人は親は親、子は子、別々の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的な様なものではありません。この様なことは東洋人は霊と霊のつながりが濃いためでもあります。 また戸籍は変えられても霊籍は変えられないものである。これも神の掟なのです。

いかに日本の国に生まれしことが有難い事なのか悟っていただきたいものである。又個人的には私たちを生み育ててくれたご先祖様に感謝し、大自然の偉大な力に畏敬の念を抱く……。 この気持ちを表現すること、個人の自我を超えた生命と自然のつながりを感じて生活することが、元来「祀る」ということではないでしょうか?。

霊は想念によって伸縮自在である。故に、一尺位( 30.3030303 センチメートル)の幅の仏壇の中に数十人数百人の祖霊が居並ぶ事も出来得るのである。その場合、順序、段階、服装等は頗る厳格であって、 ことごとく相応の秩序が保たれているのである。勿論、仏教にては戒名、神道にては御鏡又は神籬(ひもろぎ)に憑依するのである。 又よく幽霊の有無をいうが、これは勿論実在のものであって、死後短時日の間ほど死霊の霊細胞が濃度であるから、たまたま人間の眼に映ずる事がある。 そうして年月を経るに従い浄化され、稀薄になるので、容易に見え難くなるものである。

ご先祖様が存在するお陰でこの世に肉体の生を受けることができたという宿命があります。すなわち、ご先祖様あってはじめて人としての現界のみ役を果たせる関係があるので、 ご先祖様を大切にする必要があります。また仏壇、位牌は幽界と現界の接点、交流の場でもありますので大切にしなければならないのです。 さらに、神界・幽界・現界三界の連動の関係があるので、先祖をないがしろにすると、神様がお喜びにならないから、祖霊を祀り、供養することが大切な行になるのです。

神様が四六時中、私達に、先祖霊の中から選んで守護霊(守護霊と背後霊の役割についての記述を参照)をつきそわせて、いろいろに活動させる仕組みをなさっておられます。 守護霊への感謝の現れとして祖霊を祀ります。大部分の現代人は神界・幽界・現界三界の存在や連動の仕組みを理解しておらず、正しい祖霊祀りを行っていないため、 祖霊の戒告を受けている人が多いのが現状です。位牌を通じて食物の供養をすることにより、ご先祖様の幽界での修行がしやすくなります。 ご先祖様が霊的に浄まり、昇華されれば子孫も現界で昇華します。つまり幸福度が向上します。

祖先の霊を敬うは己の魂を敬う義で、己の魂を踏みにじるものは祖先と子孫を穢す義である。

子は成長しては常に親の心を推し図って念え。この念願によって、尊敬と慈愛との光明世界に親と共に入ることができる。

最後に欧米人は子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。 子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。最近は東洋人にも家族的関係をもたない関係が出てきている。悲しい事でもある。

予備知識;○キリスト教、特にメソジストでは毎朝の祖霊様の供物はしておりませんが、祖霊様は飢に苦しんでいるのか。 これはそうである。キリスト教によっては不幸な人が多い。祖霊が憑って知らせるが判らない。全く気の毒である。 外国の霊界は緯(い=よこ)で、外国では、外国の霊は殆ど現界と同じようで、一つの、霊界の食物を与えるような所が出来ている。 そして、そこから配給されるようなもので、大きな共同生活式になっている。それで日本人のキリスト教徒は不幸な人が多い。 それで外国は民主的・・・。最も単純な意味では、権力者に対しての意味での「民」が政治の主とする。注;(個人の財産を認めるのが資本主義。個人の財産を認めないのが社会主義。 財産を認められれば、その財産を使って個人が自由に事業拡大できるのが資本主義。 自分の財産ではないので、どんなに繁盛していても役所の許可無しに事業拡大できないのが社会主義。)

○霊界ではキリスト教の霊界が出来ており、そこの団体へ入る。日本では割合い低い所である。第三天国に相当する。仏教の方が上である。 その人の好き好きがあり、霊によっては余り好かぬ霊と好む霊とある。地獄の霊などは天国へやると苦しくて逃げる。つまり相応の所へ行く。 キリスト教徒などはその霊界で満足する。ただ祖先を祀らぬから、霊界でも祖先と一緒にならぬ。独自の生活をする。 大抵霊界へ行くとキリスト教をやめる。

○あるクリスチャン、霊的光力をいただき感謝しながら死にましたが、このような人はやはり死後キリスト教の霊界へ行くのか。 ただ感謝しただけじゃ観音様の霊界には行けません。やっぱりキリスト教のほうの団体へ行きます。 しかし、まあ霊界へ行ってから、自分は観音様のほうの団体へ行きたいからってお願いすれば行けないこともないですが。 いったんはどうしてもキリスト教のほうへ行きます。

日は火で、火は経に燃ゆるものであり、月はその反対に水で緯に流動するものである。従って日の本質は高さであり、月の本質は広さである。 この理によって今地球を説明してみると、地上の空界は水素が緯に流動しており、火素は経に上下を貫いている。つまり経緯の精が綾(あや)のようになっており、布地のごときものである。 しかもそれが想像を絶する程の密度であって、この事実として卑近な例ではあるが、人間が横臥(おうが)すれば寒いのは、緯に流れている水の精によるからであり、 起きて経になれば暖かいのは、経に昇降している火の精によるからである。また火は霊的、精神的、陽であり、水は体的、物質的、陰である。

この理は世界の東西文化をみてもよく判る。東洋は経であるから霊的、精神的であるに対し、西洋は緯で体的物質的であるから、今日のごとき科学文化が発達したのである。 宗教においても仏教は経であるから、経文といって経の字を用いており、祖先を崇拝し、子孫を重視すると共に、孤立的であるに反し、キリスト教は祖先を祀らず、夫婦愛を基調とし、隣人愛を本義とし、どこまでも国際的緯の拡がりである。

右のごとく、今日までの世界は、東洋文化の精神的に偏した思想と、西洋文化の物質的に偏した思想とであったがため、どちらも極端に偏する以上、一切が巧くゆかなかったのである。 従って人類の苦悩はいつになっても解決出来ず、世界の混乱は停止するところを知らない有様である。 こうみてくるとどうしても経緯両方が結ばれなければ、完全な文化は生れないはずである。火の神と水の神が、これまではバラバラだったので、再び十字に組んで天国文明(理想世界)を完成させるのです。間違った解釈をして火の系統だけがやられるのではないので ‘政権交代をして、火の神様が与党になったのだから、野党の水の神様に祈ったって、力が無いのだから祈ったって無駄だ!’などと、思い違いをしてはいけないのです。十字に組んでいかねばならないのです。また火が主ですから縦で 水は横として組まなければ従事致しません。

豆豆知識-1;白木の位牌は長く置いてはいけないです。白木の位牌は四十九日までが本当です。それからはふつうの位牌(黒塗りに金文字で書く)で、それから先は、霊が嫌がります。 人間が間違うと霊界はちゃんとその通りに響きます。だから霊界では、行く所に行けないということになる。浮遊霊になる。仏壇を早く作るべきだ。 人間で言えば住居である。 人の死するや、仏教においては四十九日、神道においては五十日祭をもって一時打切りにするが、それはその日を限りとして霊界へ復帰するのである。 それまで霊は仏教にては白木の位牌、神道にては麻で造った人形の形をした神籬(ひもろぎ)というものに憑依しているのである。

ここで注意すべきは、死者に対し悲しみの余りなかなか忘れ得ないのが一般の人情であるがこれは考えものである。 なぜなればよくいう「往く所へ往けない」とか「浮ばれない」とかいうのは、遺族の執念が死霊に対し引止めるからである。 故にまず百ケ日位過ぎた後はなるべく忘れるように努むべきで、写真なども百ケ日位まで安置し、その後一旦撤去した方がよく、悲しみや執着を忘れるようになった頃また掛ければよいのである。 何辺も書きますが、数霊は神様の秘儀です。数霊は深い意味がありますので・・・。


人の死後四十九日間は位牌を仏壇の中にお祀りせず、別にお祀りする。 死者の霊は五十日間霊界へ行けぬ規則である。最初の一週間は一拍手でよい。音をさせない。以後は二拍手にする。

極度に苦しんだ場合、霊になってから霊がボンヤリしている。一週間位はまとまっていないからである。 また体がバラバラになって死んだような場合、霊がもとの形になるのに一週間くらいかかります。

二拍手は体がないからである。霊は火と水である。極善の霊は四十九日もいないで、死後直ちに天国へ行く。 また極悪者は家にいないですぐに地獄へ急落する。普通は大体八衢(やちまた〜中段=中有界)に行くので、その際の霊は五十日間家にいるのである。

四十九日を過ぎると黒の位牌にするのは、理由がある。白木に字を書いてあるのは仮であって正式ではないのです。 そうして黒の位牌に金で文字を書くのは霊界の一つの約束になっていることなのです。

だから四十九日が過ぎてから金文字の新しい位牌を作って、それにお移りを願うといことになるのです。 四十九日を待たずに黒の位牌には霊界の規則になっているのでお懸かる事が出来ません。

新仏は、特によくしてやると霊界で違う。初七日など特によくしてやるとよい。出来る事は良くしてあげるのが大切です。


★本当は人間の身体は水であるし、霊は火であるし、体は土であるが、土も根本は水である。 創造の場合、軽きものは天となり、重きものは地となったとなっているが・・・。土は水が固修して出来たものである。

骨をおいておくのはいけません。霊は非常に嫌います。納骨は一年以内にというので、早いほどよいのです。一年たってから入れろというのではありません。

お骨は早く処分すべきで霊が残っているということは少しの間です。それは、早く出るのと、遅く出るのとありますが、それは問題にはならないです。 遅く出ると言っても、ちょっと遅くなるぐらいなもので、いつまでもいやしないです。

残るのは執着のためですが、焼く間際までくっついているのがあります。どうしても死にたくない、生きていたいという決死の覚悟でついてますが、しかしそれでも焼いてしまえば出てしまいます。 しかし執着によっては、死骸のすぐ側にいることはあります。

そういうのは死骸の処分や何かの仕方によって、非常に怒ることがあります。一番執着をするのは、骨を葬らないで、放っておくと、非常に気にするものです。 ですから、よくお寺などに預けておきますが、それはいけないので、早く処分しなければいけないのです。

幾分でもそういう形が残っていると、それにくっついていることができるのです。だから焼いてしまうのはそれはないです。骨をしまっておくのは必ず病気になる。 決る事が決らぬと霊も手続上行く所へ行けないのである。だから骨を埋めないと霊は非常にイヤがるのである。霊は早く埋めてもらいたいため病気にするのである。 自分の死骸なども片づいていないとそれに引っ張られるからで、骨などいくらか霊線が残っているからである。

骨を分けるってのはいけません。髪の毛や爪なら分けるってことをしますがね、骨はいけませんよ。歯は分骨しても構わぬ。四肢五体(ししごたい〜 からだ全体のこと ) の附属物であるから。

豆豆知識-2;<お嫁さんが、嫁ぎ先のご先祖様に、下記の様に御挨拶をする>

嫁ぎ先の御仏壇の前で申し上げるのが最も良いのですが、直ぐに行けない場合は、自分の家で、上座にご先祖様達が数百名も数千人もいらっしゃると思って、 その方々に対して下記のご挨拶を申し上げます。 御挨拶が遅れた場合には『嫁いだ時に挨拶も致しませんで、大変ご無礼を致しました。 改めてご挨拶させていただきます。 この度は、○○さん(夫の名前)と結婚させていただきまして誠にありがとうございます。 ふつつか者ではございますが、この家の嫁として1日も早く馴染ませていただけますよう、一所懸命に努力いたしますので、どうぞよろしくご指導の程、お願い申し上げます。』

<ご主人側も、お嫁さんのご先祖様に、下記の様に御挨拶をする>

御挨拶が遅れた場合には『嫁いで頂いた時に挨拶も致しませんで、大変ご無礼を致しました。 改めてご挨拶をさせていただきます。 この度は、娘さんの○○さん(妻の名前)と結婚させていただきまして、誠にありがとうございます。 まだまだ至らぬ私ではございますが、○○さん(妻の名前)を路頭に迷わせたり、困らせたりすることがないよう大切に致しますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。』

◎【エスカレートする戒告現象】

●頭をぶつけたり、体の左側のケガなどの小さな戒告に気づかないと、戒告現象はだんだん激しくなってきます。

●収入があっても、出費がかさみ家計が赤字続きになったり、経営する事業が倒産に追い込まれることもあります。商売に失敗したり、大きな借金を抱え込んで、苦しい生活を続ける人もいます。

●また先祖の供養は一家の長の当然のつとめです。怠れば、その責任を負わなければならなくなります。先祖もはじめはそれほど厳しい戒告はしませんが、いつまでも気づかないと、ついに一家の主に大戒告が来ることもあります。 一家の長が重病に倒れたり、ひどい場合には死に至ることもあるのです。

●幸福の基本である家庭が崩れようとしています。最近の日本では、離婚が増え、母子家庭や父子家庭が急増しています。

離婚に至らなくても、妻が夫を軽んじたり、夫が妻に暴力をふるう険悪な家庭が多くなっています。仏壇・位牌がなかったり、正しい供養がされていない場合、いつまでも問題の絶えない家庭になる可能性が高くなります。

●最近は家で動物を飼う様ですがこれは先祖が仏壇をやってくれないが為に自分が落ちてまでも動物に憑いて食事にあり付きたい為もあり、さらに大事にしてくれるから子孫に懸かって動物を 飼うように仕向ける場合もある。元々動物と人間とでは生きる世界が違うにも関わらず、人間のエゴで家の中で飼うようにした為に動物は修業が出来ないでいる。

更には之に懸かってくるからタチガ悪いのである。此れも人間が悪いのである。最初から先祖供養さえすれば良いわけである。動物を飼うのであれば外で飼えばよろしい。しかし毎日の掃除やら出来ればの話である。飼わない方が賢明である。 またこういう話も聞く。用心のために飼う人もいるが、元来自分に罪穢などなければ絶対に何も起こらない物である。あるから盗まれたり、火事にあったり、怪我したり、するものであり天地に曇りなければ 自分には害はないものである。所謂霊界(あの世の幽魂)を上げる事である。

◆先祖供養で大切なこと

幽界にいらっしゃるご先祖様は、子孫の考えていることは手に取るように分かります。ですから、いくら形だけ供養していても、感謝や真の無い、心がこもっていない上辺だけの思いでは、本当の供養にはなりません。 先祖供養で、大切なことは「心」と「形」と「行」です。

1.「心」とは、ご先祖様に敬意を表し、感謝の想いを持つこと。

2.「形」とは、仏壇・お位牌によるご供養。

3.「行」とは、日々のご供養、つまり、毎朝仏壇のお扉をお開けし、感謝の想いで毎日お食事をお供えすることです。

先祖供養がなぜ大切なのかといえば、この宇宙には、神様がつくられた法則が存在します。生き死ににかかわらず、すべての魂にこの法則は適応されます。 ある意味では、人類がこの法則を知らなかったがため、地球上に多くの不幸現象が起きているのです。―先祖のために、子孫が正しい供養をさせていただくこと。 これが実践されただけでも、どれほどの不幸現象がなくなるでしょう。最近ではテレビ等でも多く口をそろえて申していますが、しかし今もたくさんのご先祖様が供養を受けられず、苦しい思いをしています。 そのことを子孫に分かって欲しくて、世界中でたくさんの不幸現象が起きているのです。宇宙の法則に沿った正しい先祖供養を実践することで、ご先祖様も子孫も、お互いに救われるのです。

そして心を込めた供養が先祖に届くには、家庭に祀った、位牌を通してです。お寺等が遣ってくれているから自分の家では遣らなくては良いなど自己の怠慢にすぎず祖霊は苦しんでいるのである。自分(亡くなった方)が生前遣ってもいないのに なぜ子孫が遣らねばならないか、などど云うが無智なためであり今此れを読んでいる方なら、読んだ責任であり祖霊が導いたのであるからス直に実践すべきであろう。


【★元来は祖霊の祀り込みをしなければなりません。普通の人は出来ないというよりも想念的にも分からないためでもあります。いきなり宇宙とか神とか次元世界とか行っても分かりづらいからです。 ですのでこの辺の所を良く理解出来る方にお願いするかして祖霊の祀り込みの仕方をやって頂いた方が宜しいかと思います。でないと祖霊というものはお懸かりすることはできません。 あの世の厳しい掟が在りますので・・・。】変な祀り方をしたらかえって動物霊が懸かり易くなるばかりです。そこを住みかとする場合があります。注意してください。之までに仏壇をやられている方は 水の時代には許されていた祖霊たちも火の時代にには許されないという御経綸があるので正法的な祀り込みをしなければならないのであります。

●現界に自分が存在することについての、神様と先祖に感謝を表すため。
●神幽現三界の連動の関係があるので、先祖をないがしろにすると、神様がお喜びにならないから先祖を祀ることが必要になる。
●位牌を通して食物の供養をすることにより、先祖の幽界での修行をしやすくして差し上げるため。

●仏壇や位牌は、ご先祖様が幽界修行をするためには欠かせない重要な物です。
●位牌はご先祖様と子孫の接点、通信機のような役をするといわれています。
●ご先祖様と位牌とは、霊波線でつながっていて、霊波線をとおしてご先祖様は、食べ物の気を吸い、食べ物の供養を受けているのです。そして子孫を見守っておられるのです。

●仏壇の設置場所は、家の中の最上位の部屋となります。
●二階建ての家ならば二階の一番日当たりが良くて明るい部屋となります。
●二階建ての家で一階に仏壇を置いたならば、ご先祖様が下になるので、ご先祖様の頭を踏みつけるようなことになるので仏壇は二階に置きます。
●神棚が有る場合は、それを最上位に置き、仏壇はその次の場所にお祀りします。


●位牌には大きく分けると、黒塗りの札位牌や金箔塗りの札位牌、繰り出し位牌、白木位牌、そして紙位牌の五種類あります。

●お位牌は、原則としては黒塗りに金文字の位牌が良いとされています。
●紙位牌や白木位牌は、応急用のもので、家に例えればバラックやムシロ小屋にあたります。そのため先祖の霊格が低くなり、先祖の霊も安心して憑かれないので、あまり良くありません。
また、たくさんの位牌を重ねて枠に収める繰り出し位牌も、好ましくありません。先祖からすると窮屈で仕方ない、というのです。先祖が食事をとるには、毎日食事を供えるたびに枠から出し、 それぞれの位牌を正しい順序で並べなければならないのです。そんな手間のかかることを毎日続けるのは大変ですから、繰り出し位牌は避けたほうが良いのです。

繰り出し位牌はたいてい扉があり、その中の板に数名分の戒名が書かれています。
繰り出し位牌に入れたままでは、最初の戒名のご先祖様しか食事の供養が受けられないのです。2枚目からあとのご先祖様は食事の供養が受けられないということになるのです。
金箔塗りの札位牌は、例えて言えば御殿や宮殿です。子孫としては立派な位牌でお祀りしょう、先祖に喜んでもらおうと金塗りの位牌を選ぶのですが、それが逆効果になっているのがほとんどです。 ご先祖がそんな位牌にかかると、落ち着いて修行ができないようです。
過去帳を位牌代わりに仏壇に入れている家もあるようですが、過去帳は位牌の代わりにはなりません。亡くなった人の命日や戒名を記録した覚書ですから、仏壇の引き出しなどに保管しておきます。
戒名がなぜ必要かといいますと、亡くなった人には戒名を付けるのが普通です。先祖霊は、あの世で現界の執着をとる修行をしています。生前の名前で供養するのは、その修行の妨げになるからです。
執着をひととおり落とす霊界修行のこの第一段階は、ほぼ三十年です。その修行を助ける意味でも、没後三十年未満の先祖は、戒名を書いた札位牌でお祀りします。
三十年を過ぎた先祖は、「〇〇家先祖代々之霊位」という位牌に合祀します。そして戒名位牌による供養は卒業するのが原則となります。

祀ってはいけない霊は、先祖供養は、その家族の生命の流れに対するお祀りです。他の流れ、つまり他家で供養すべき人の位牌は置かないことが原則です。この流れが乱されると、現界の家族にも同様に、いろいろなトラブルが起きてきます。
例としては、妻の実家の親の位牌を一緒に同じ仏壇に入れてお祀りすることなどです。これは霊界の先祖たちを混乱させることになるのです。この場合は、別に小さな仏壇を用意して、下座にお祀りします。
夫婦は、一つの位牌にお祀りします。兄弟姉妹は、一つの位牌に生まれた順で向かって右から並べて書いて良いです。
水子の供養は、妊娠五ヶ月を過ぎた胎児は、正式に戒名を付け、個々にお祀りします。
水子や、生後一、二ヵ月で亡くなった乳児の中には、供養もされず、あの世で苦しんでいる霊がたくさんいます。幼子と思って軽視すると、ひどい戒告現象で供養を求めてきます。 戒告のあるなしよりも、この世の生を全うできなかった子供に対し、心を込めた供養をするのは親としてなすべき当然の務めといえるでしょう。

●位牌の並べ方も大切なのです。

複数位牌を置くときは、先に生まれた先祖の位牌を上位(中央)にしなければいけません。
二番目のご先祖様の位牌は上位(中央)の位牌の右側となり、三番目のご先祖様の位牌は、上位(中央)の位牌の左側に置く形になります。
この順序をデタラメにすると、戒告現象が現れてきます。特に頭にかかわる現象。背骨にかかわる現象。その家に関わる人の現象。体の左側全てに関わる現象。大まかに以上です。

位牌が無かったり、食事の供養を受けられない先祖の幽界生活はまことにみじめなものです。飢餓に陥り、必死になって子孫に助けを求めてきます。
子孫の肉体に憑依し、位牌供養をしてもらおうと様々な現象を起こして来ます。これを「戒告」と言います。先祖供養も間違えれば戒告現象を招くことになります。
お墓は、霊魂の抜け殻の骨だけがあるので、亡くなった方の霊はそこにはいません。お墓参りしただけでは先祖の供養にはならないのです。

お墓は、先祖にとって「子孫が先祖を敬い、尊ぶ想念があるか」という判断の基準であるとともに、先祖自身が「生前の徳を反省するためのよすが」であると示されています。

★お供えするものとして

●明るい新鮮なお花。一輪の花でも良いです。
●食事
●ご先祖様へのお食事は、水とご飯だけではいけません。
●食事供養は、少なくても一日一回、お膳に小さな仏壇用の食器と箸を準備します。
●そして、私たちが毎日食べる物、食卓と同じ物を差し上げます。
●肉(鶏肉類)や魚などを煮たり、焼いたりして食べられるように料理して差し上げます。
●酒(アルコールないもの無添加類等)なご先祖様が好きだったら、それらも差し上げましょう。タバコは火を付けてお供えしますが極力やめていただく事。
●みかんやりんごなどの果物は皮を剥き、小さく切ってお供えします。
●お菓子も包み紙を取り除き、すぐに食べられる状態でお供えします。
(よく見受けられるのが御先祖様にといってそのまま包んだ状態で御上げしている事が多いようです。これでは食べられません。御自身のことを考えればお分かりでしょう。食べる時はどうしますか!)
●写真は飾りません。(霊にとっては、後ろ髪を引かれることになり、幽界での修行の妨げになるからです。)
●仏壇には、観音菩薩や阿弥陀如来などの仏像や掛図やお札などを一緒に祀ることはなるぺく避けたほうが良いです。
●仏壇は先祖供養をするのではなく、ご本尊様を仰ぐためにあるのだ、という意見がたまに見受けられます。これは大変誤った考え方です。あくまで主体はご先祖様となります。

ご本尊様(仏教寺院や仏壇などに最も大切な信仰の対象として安置されたり、お守りとして身辺に常時携帯される、仏や菩薩などの彫刻・絵画・曼荼羅(まんだら)・名号などのこと。)を仰ぐのは一人の人間の幸せの為に、世界の平和の為に、「○○○と唱うべし」と仰っているのです。 ○○○に向かい、法である「○○○経」を唱えることによって、人である貴方が最高の幸福境涯に入っていくと言っておりますが神とご先祖とは全く違うのであります。 ましてや生前に法とやらを遣らなかった方、理解もしない方に、お経やらで救われる訳もありませんですね。法とは生前に良く学びそれを心の物差しとして生きて行くためのものですからね。 神を仰ぎたいのなら先祖とは別々にしなければなりません。先祖とは修業をしながら上、上と上がり魂を上げのことにあります。 ですので人である人間は先祖が修業しやすいよう日々御供養が大切なのです。
人間は幾は修業したからとて食を絶つことはできません。然るに死んだからとて五感はないが霊魂(幽・霊体)は連綿としてあるわけで、現界の執着がある訳でしてその為の取る修業がいるわけです。 それを子孫がやるのです。しかし執着やらを取った方ならば仏壇を遣る必要はないかと思われますね。覚った方ならばという事に成りますね。 子孫がやってくれるから安心して修業 所謂執着ということを取って行くのです。 「○○○経」を唱えることによって、人である貴方が最高の幸福境涯に入っていくと言っておりますが入りません。 全て生前に妬み、嫉み、怒り、嫉妬、愚痴、悪口等しなかったか、下ならば反省をして自分自身で反省をし、悔い改めて天上界の神に謝ることから始るのであります。人のお経なんかでは救われない訳ですね。全て自分に在るわけです。 それと 死後の生命は宇宙の生命体に帰納一体とはなりませんし 仏とは全部神様が化けたもの。ここにいろいろと神秘があります・・・。 ですので人間と神とは同化致しません。親と子の関係であります。この魂の根元を知ればお分かりいただけるのではないでしょうか。上記で説明いたしております。

●線香は普段はあまりあげません。(ご先祖様は煙たがられるといいます。)線香を上げたいならば、極上で香りの良いものを少量お上げするか、お香にするのが良いでしょう。月に一度くらいするといいでしょう。


★日々のお参りとして

●仏壇へのお参りは、一拝二拍手一拝で行います。
●朝起きたら扉を開けてご挨拶をする。
●食事は少なくても一日に一回、毎日欠かさず差し上げることが大切です。
●食事の合図として鈴を二回鳴らし一拝二拍手一拝をして「○○家先祖の皆様で、お食事をお召し上がり下さい。」と声に出して呼びかけます。 お供えした食事は二、三十分経ったらお膳を下げます。
●命日やお盆にはお経などをお上げする。 朝と晩の二回、感謝と敬いの気持ちを込めてお祈りを行います。
●夜は就寝前に、その日を無事に過ごせたことを感謝し、先祖にお礼を申し上げます。ここでも口に出してお祈りします。そして仏壇の扉を閉めます。 (ろうそくは使わず、仏壇内に短い蛍光灯を取り付けるといいでしょう。)また、細々した願い事は、頼まれても出来ないご先祖がほとんどですから、しないことです。

★●お掃除について

●出来るだけ仏壇内、位牌を綺麗にして極楽感を与えてさしあげます。
位牌は先祖の依代です。そこには、生きた霊が憑かっています。
先祖の霊がそこで実際に生きていることを、私たちが心に感じることから正しい先祖供養がはじまるのです。(敬神崇祖の先祖供養法、ほかより引用)

敬神崇祖は大切なことです。霊界の法則に則り、正しい先祖供養が必要となります。此れらはすべて長い間、神霊及び霊魂・数々の経験から導き出した結果ですので信頼出来る事ですので実践することが何よりだと思います。

豆豆知識-3;外国人への再生 往生した日本人の霊が外国人に再生する事があるのか。 外国人に再生する事がある。 日本人で外国を崇拝して、外国へ生れたらよかったと思う人がある。 こういう人は外国に生れる。 外国人で日本に生れた人もある。
異人種に再生する事があるのか。 大いになる。米国人など、日本人や支那人の生れたのは多い。

●真宗なら真宗の霊界があるし、日蓮宗なら日蓮宗の霊界がある。いろいろ宗派によって霊界があるのである。限界で色々あることと同じである。移し世である。

●「家の紋章」:家の紋章は家系を表わす。紋が一つならば祖先はそこから出た事となる。その他に大した意味なし。

●「朝鮮人の死後」:朝鮮人が死ねば朝鮮の霊界へ行く。日本で祀って、朝鮮の霊界へ行って・・・。日本で祀ると反って厄介である。

●「治病遅速の原因と祖霊」:毒素の多寡(たか=多いことと少ないこと、その量)、霊的光力の霊力の強弱・・・いろいろあって祖先の関係もある。祖先で救われたのがあると、霊界で力があるから、良い教導師を引っ張って来れる。 堕ちている(地獄で苦しんでいる)祖先はそういう事が出来ない。それで良い教師を得ず、救われぬ事がある。祖先の贖罪の場合、子供を身代りにして犠牲にする場合がある。 症状は吐く。その他種々の原因がある。



祖霊に幸あれ!!

言霊豆知識-9

よく言われることで、神とはと言う疑問を少し解明いたします。歓喜そのものであり、宇宙は弥栄の法則と秩序により、呼吸をしている。其の一部は、我々人間の目からは、 人格神や人霊として顕れることもある。よく言われている神の化身とかで表現している。解りにくいところかも知れないが、これもまた、 一神則多神汎神(いっしんそくはんしん)の原理である。 さらにこれをつきつめていくと、言霊、数霊、文字に集約されていく。(全ての文字、数字にはチョンが初めにくるのである。)神霊(虚数の世界⇒霊の世界)、 物質(実相の世界⇒体)このことは、世の真理を解明する上での、 いわゆる奥義にあたる部分にぞくすることである。

ほんの少し奥義に触れると実は神には名前などは無いものである。ただ御働きのみである。 神の御働きを付けたのが名前とされています。そのみ役、み力を表現したのが五十音字で、象型神名(カタカナ)です。だから人間も一人一人御働きが有るのであって、 それが何か分からずに生きてる人たちが多い。その御働きが四十八神(48文字)にあたります。

もう一つ今後お参りする機会があるのであればどんな御働きの神様なのかお聞きになられてから参拝をなさったほうがよいでしょう。 御働きが分からない所は避けたほうがよいと思います。(よく霊界を見たとか、ましては神霊界などは見えるはずがありません。なぜならば神の正しい光は己の邪悪な姿を映し出し、 眩しすぎて見得るものではないのです。それに神界には殆ど近づけないのが当り前なのです。霊界情報とか霊界通信とかありますが、うっかり信じてしまうと危ないですね。気をつけてください。)

豆豆知識;神体(しんたい)⇒ 古来からあり、神が常にいる場所や神そのものの体や、比較的大きい伝統的な神の宿る場所やもの。

神奈備(かんなび・かむなび・かみなび) ⇒ 神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記し、神が鎮座する山や神が隠れ住まう森を意味する。

磐座(いわくら) ⇒ 神が鎮座する岩や山または、特に磐境としたときは神域や常世との端境である岩や山を指す。

神籬(ひもろぎ) ⇒神が隠れ住む森や木々、または神域や常世との端境。現在では神社神道における儀式としての神の依り代となる枝葉のこと。

御霊代(みたましろ)依り代(よりしろ) ⇒ 代(しろ)とは代わりであり、上記のほか神が一時的に降りる(宿る)憑依体としての森羅万象を対象とした場所や物を指す。

巫(ふかんなぎ) ⇒ 神降ろしのことで、神の依り代となる人(神の人への憑依)を指す。

神道で祭っている御神体は、自然神。 天地信仰、天照大神、龍神、風神、雷神、など。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-10-1

数と文字とのかかわりについて!!数理とは、数の霊動で作られています。たとえば、酸素(O)一つと、水素(H)二つが一緒になって、水(H2O)ができます。 このように、数霊によって万象の生成は規制されており、言霊と数霊が万象の元になっているのです。万象が物質化現象し、それが生成化育していくのは、 みな数霊が元になっているのです。「スウ」(数)というのは、万象を統一されている元の力である。「ス」の働きが現れ、万象を産むということです。 スは、一つ元から生じますから、数では「一」が一番元になり、その奥に霊(0=ゼロ=レイ)があります。

アインシュタインが天才たるゆえんは、その学績もさることながら、つぎの言葉に象徴されるでしょう。 「この宇宙の森羅万象について科学が説明できることなど、無にひとしい。また人間科学(仮学)時代より霊の科学に足を踏み入れ神学(かがく)と進まねば何事においても解けないであろう。」

ルネ・デカルト(フランスの哲学者で科学者でもある)は宇宙は物質世界と意識の世界の二つの世界から構成それており、意識の世界には神が存在し、二つの世界は神が創造し 統治していると考えていた。デカルトは、このように宇宙を正しく認識した上で、科学の研究領域を物質世界だけとしたのである。しかし、その後の科学や神の存在を忘れて (あるいは宗教の分野に追いやって)宇宙は物質がすべてであるとする科学になってしまったのです。デカルトは、宇宙は物質世界と意識の世界(見えない世界)からできており、 見えない世界が宇宙の本質の世界であると、宇宙を正しく認識していたのだが、その後の科学者がデカルトの決めた科学の枠組みに促わず、宇宙を正しく認識しなくなった。

これが現代科学が欠陥科学になったそもそもの原因である。また、見えない世界は、構成している超微粒子が小さすぎて、現代科学の測定器で検知できない。このことも現代科学が 欠陥科学になったもう一つの原因である。知識とて見えない世界の超微粒子(宇宙エネルギー)は、物質世界の物質を構成する材料になっている。すなわち、現代科学の物質 の究極である電子、陽子、中性子、あるいはクォークは、すべて見えない世界の超微粒子でできている。物質世界は、すべて見えない世界が、産みの親で物質はそこから生まれた 子供である。


目に見えない一つの素粒子の波は一つの空間の働きである。空間イコール素粒子である。 しかもそこには目に見えない世界によって、自由にどんどん変化していくものである。 量子論(量子論というのはミクロの世界で起こる出来事を記述するための体系です。)を追及していくと究極は前記の記載に到達するでしょう。

豆知識 数霊
『一 /ヒィ/ICHI/HI』 最初、ものごとの始まり、始め、宇宙の屋根、この世とあの世との境、別れる前、火と水が一緒のとき。「日・絶対・数」
『二 /フゥ/ニNI/FU』 字、継ぐ、分離してほどけた状態。相反する火と水。
『三 /ミィ/み/SAN/MI』 理、完成、調和された状態、立体的、火と水に土を加えた状態。<いち、にい、ノー、さん><ホップ、ステップ、ジャンプ>
『四 /ヨ/よ/SI/YO』 善 与える、火・水・風・土の四大源力、四角(□)でしっかりした状態。四方八方の広がり行く様。
『五 /イツ/ゴ/ご/GO/ITSU』 日 火 陽 霊 縦に働き 意 
『六/ ムゥ/むゆ/ROKU/MU』 水 陰 横の働き 結び
『七/ ナナ/なな/SICHI/NANA』 土 成る生る鳴る、現象化する様。段々に手順よく成長する様子。例えば、形や音(鳴)として具現化する手順として、 最初に想い(成:せい:性(男性・女性))とか種の状態があって、それが、組み合って鳴る(オギャー)と生まれるようなもの。 「形・成・生・鳴・也」現象化は促進とか進展を現わし、七つの燭台、樹、七重の輪などなど。
『八/ ヤ/や/HACHI/YA』 末広がり 開く
『九 /ココノ/ここの/ク/く/KU/KOKO』 子 
『十 /タリ/たり/ト/ド/タJYUU/TO』 答 神 新しい創造 相反するものが調和した形 
『〇/ zero/レイ』 霊  
『人』 一十
『言』 九十
『伊勢』 五十
『太』 二十
『山』 八〇
『岩戸』 一八十

数霊 南(な→7)無(む→6)妙(みょう→5)法蓮華経 南無妙法蓮華経これは水の時代には良かったと思いますが言霊の光力がありません。
やっていらっしゃる方なら薄れているのがお分かりかと思います。今は火の時代ですから順序正しく 1 2 3 4 5 6 7 と成らなければいけないのであります。
南無妙法蓮華教や南無阿弥陀仏のナムアとは数霊で七、六、五と表します。七、六、五(現、幽、神)ナムアは水の時代の逆法の世、五濁・五逆の世。
正神のご出現を願わない祈りなのです。いずれは滅び去る運命にあるのです。
ナムア、ミダブツ、ナムアミ、ダブツは、逆法の祈り。五、六、七(神、幽、現)ミロク(アミダ)は火の時代の正神の世。正法の世ということになります。

阿弥陀とは完成した方を表します。ナム、アミダブツ、アミダブツが正しい祈り。
霊(邪霊・外狐霊)が萎縮するのは天津祈言(あまつのりごと)であります。
霊の世界を司る法身(大日如来) 幽体神である報身(アミダ仏) 肉体化した仏様、応身(釈迦)の三身。
この三仏が一体になっての、み働きがなければ、仏教の教え、救いは地上に起きてこないといいます。




生き数霊・言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-10-2

〇内臓の三位一体と心臓の重要性

※ 最重要これは何が何でも覚えていた方が良いと確言する

●内臓の三位一体とは心臓、肺臓、胃を指していうのである。 この機関こそ全内臓中の基本であると言ってもよいので、最重要な役目を果しているのである。 今日までのあらゆる医術は、胃と肺臓に関しては相当研究もされ、その活動へ対しての認識もやや成ってはいるが、 ひとり心臓に至っては全く不明であると言ってもよい状態である。

しかるに実際は、この三臓器中、心臓が最重要な機関である。 医家が死の直接原因を、心臓麻痺というにみても識るべきである。 かように最重要である心臓の機能活動が判明しなくては、真の治療は確立されるはずがないのである。

現代医学は、肺臓の呼吸運動に依って血液を浄化し、それを心臓に送ると言い、 血液浄化の法として、清澄なる空気を呼吸せしめんとし、大いに転地療法を奨めるのである。 又、飲食物を重要視して、栄養と消化の研究には、最大努力を払っているのである。 かように、肺と胃に対しての、器能活動の研究には、絶えず努力しつつあるに係わらず、独り心臓に対しては、あまり研究をしないようである。

これはまことに不思議であって、全く心臓なるものの機能の本体が、把握出来ないと諦めた結果であろうか。 この三臓器中心臓のその活動こそ、人間の健康の基本であると言ってもよいので、 この心臓の不明である限り、治療法と健康法は決して解決されない事を、断言するのである。 しからば、最重要たる心臓の活動の本質は何であるか、鼓動は何であるかを、詳説してみよう。

肺臓が一分間何十という呼吸運動をしているのは、今日の医学で説明が付くとしても、心臓の鼓動については何の為であるかを説明し得ないのである。 例えば、肺患者が転地して、新鮮な空気を吸い、胃には充分なる栄養を摂取しても、容易に治らないのは何の為であるか。 又、海岸居住者にして肺結核に罹病する者がすくなからずあるという事は、いかなる理由によるのであるか。 これらについても現代医学は、未だ説明が出来ないのである。

これは全く心臓の器能が不明であるからである。 この事の説明に対しては最初に、この地球の現象界の組織から説いてゆかねばならない。 我々が住んでいるこの地上の構成は何であるかと言うと、それは、三つの元素界から成立っている。

●三位一体

骨、筋、肉、皮等の物質体は――「現象界」に呼吸し・・・肉体(現実界) 土

それと同一の形態である――水素質のエーテル体が「空気界」に呼吸し・・・水霊(空気界)、 水

又、それと同じ精霊体が、――「精霊界」に呼吸しているのであります・・・精霊(精霊界で人間主体))。 火


故に、右の理によって「病気の根本」は其精霊体にあるのであるから、「精霊体そのものの病」を治さなければ、肉体の病気は絶対に治らないのであります。・・・・ 人間の精霊は精霊界に属しているのは前述の通りでありますが、精霊の中心に心があり、心の中心に魂があるのであり、殆んど之は、求心的に三段になっているのであります。 従而、其中心に位する魂は健康に重大な関係があるのであります。然し乍ら、人間は肉体を有っている以上霊気ばかりという訳にもゆかないので、 火の霊と水の霊と物質と土の――三位一体が完全に調和して、真の健康と長寿を得らるるのであります。

★ 一、霊界、二、空気の世界、三、物質世界である。

しかるに、今日までの発見では、空気の世界と、物質界の二つのみであって、最重要なる霊界は未だ発見されていないのである。 この三段の組織を称して、仏語では、三千世界、又は三界といっているのである。 この三段階の元素を説明してみれば、第一の霊界とは、空気より一層稀薄にして、今日の科学では、これを測定すべき方法がない霊素ともいうべきものである。

しかし、最近の科学において発見せる電子、陽子、中性子、核等の研究は、この霊界に一歩突入したのであるから、 いずれは霊界の実在を認識するまでに到るであろう事は、信じ得らるるのである。 この説は、科学よりも一歩先へ前進しているだけである。

しかして、霊界は火素を主とする太陽霊であり、空気界は水素を主とする太陰霊であり、物質界は土素を主とする物質原素である。 この関係が認識出来得れば心、肺、胃の器能も判明さるるのである。

即ち、心臓は火素を即ち霊気を呼吸しつつあるので、それが鼓動である。霊界から火素を吸って体温を保っています。心臓の鼓 動は火素を吸っているためであります。
肺臓は水素即ち空気を吸収しつつあるので、それが呼吸である。空気界から空気(実は水素)を吸っているのであります。
胃は土素から成る食物を吸収しつつあるので、それが伸縮運動である。地球上に生じた食物を食べ、土素をとって肉体の栄養を保っているのであります。


肺と胃の活動は、説明を略して、心臓を主として説明をしてみよう。

本来血液は、霊の物質化であるという事は既に述べてある通りで、 この人体生命のエネルギーである血液を、不断に活動させつつ、なお浄化の工作をなすその力こそ火素である。 そうして心臓は絶えずこの火素、一名霊素を吸収しつつあるが、空気にも清濁あるごとく、この霊界にも大いにそれがあるのである。 故に、この霊界においての清浄という所は、霊素が充ちているのであり、それは、光と熱との量積が、多分に在るという事である。 しかるにこの霊素が稀薄である所は、反対に汚素が多分に在るのである。

汚素とは一種の霊的曇である。別言すれば、霊界において、霊素の濃度なる所は、晴天のごとき明るさを感じ、霊素の稀薄なる所は、曇り日のごとき陰欝を感ずるものである。 しからば、霊素、汚素の多少はいかなる原因かというと、霊素の多い条件としては、正しき神霊を奉斎する事であり、 又 善に属する行為と言葉によるのであって、汚素の原因としては、右と反対に邪神や狐狸の霊を奉斎し、 又は、悪に属する行為と言葉を発するが故である。

故に、この理によって心臓の活動を旺盛にし、その結果たる血液を浄化せんと欲せば、前者の方法を実行すれば良いのであって、 そうすればする程、健康を増し、不幸は解消するのである。 しかるに、現在大部分の宗教は、光と熱を霊射する正神が少なく、大抵は暗黒に相応する邪神が多いのと、 しかも、人間の行為と言葉が、悪に属する方が多いから、霊界は曇るばかりであって、全く無明地獄である。

従って、ここに褄息する人間は、この曇れる汚素を常に心臓が吸収するから心臓は弱り、心臓が弱るから、愛の情動が稀薄になるのである。 現代の人間に愛が乏しく、とうとうとして稀薄になるのは、実にこの理によるからである。

しかしながら、この暗黒界にいよいよ大いなる光と熱の、無限の供給者たる光明如来、即ち観世音菩薩が救世之光となって出現されたのであるから、 御神体からは無量にその火素、即ち、光と熱を放射され給うので、その家の霊界は、漸次曇が消滅して明るくなるのである。 その結果、そこに住する人間の心臓は、火素の潤沢(じゅんたく)によって活動力が旺盛になるから、愛が湧起するのである。 その結果は争が無くなり、血液も浄化するから、健康となるのである。

右のごとく、愛と健康を以て、業務に従事する以上、繁盛と栄達は当然の帰結であって貧は無くなる。 病貧争絶無の根源は、これに依ても瞭(あき)らかであろう。 ここで、今一つの基本的解説をする必要がある。 それは、火と水との性能本質である。 元来、火は水に依て燃え、水は火に依て流動するのである。

もし、火を起すべき燃焼物に、全然水が無かったら、火は燃ゆる時間がなく、一瞬に爆発してしまう。 又、水に火の影響が全然無ければ、凍結のままである。 火の熱によって解溶するから、流動するのであって、なお進んで蒸気となり、動力発生となるのである。 本来、肺臓は水の性能である。

空気は、酸素、窒素等の原素はあるが、実は、水素が主である。 故に、肺臓は主として空気、即ち水素吸収機関であるから、冷性であり、理性の発電所である。 それと反対に、心臓は、火の性能が本質であるから、神霊界の火素(霊素)を吸収しつつあり、熱性であるから、愛と感情の根源である。
故に、肺臓の水性を活動させんとするには、心臓の活動によって、熱素を充分供給しなくてはならない。

故に、肺臓の活動が鈍いのは、心臓の愛の熱が少い為であるから、肺患治療に対しては、心臓へ火素を、より吸収させる事である。 心臓へ火素を潤沢に与えんとすれば、その住する霊界を清浄にするより外なく、それは、正しき神霊を奉斎(神仏をつつしんで祀(まつ)ること)する一事である。

この理によって、心臓を強め、心臓病を治癒するには、清浄なる空気を肺臓に与うればよいので、 そうすれば肺臓の水性が活動するから、心臓の火性を揺り動かす事によって、心臓は健康になるのである。 故に、近来肺患者の激増の原因は、各人の心臓の衰弱が原因である。


それは、二つの理由がある。一は前述の霊界の曇の濃度、即ち、邪神狐狸の奉斎と、悪の行為言葉による影響の為と、今一つは西洋思想である。 元来、西洋思想は、科学を基本として成った関係上、理論偏重である。 その結果として冷性になり、愛の情動が稀薄になるからである。 肺患者は理性の勝った者が多いので、薄情になりがちである。

利己的であって、利他愛が少い傾向を帯びているのは、争えない事実である。 又、心臓患者はこの反対であって、感情に走り易く、激怒し易いのであるが、 近来、実際の心臓病患者は、まことに少いのである。

〇心 臓

人体の機能中、最も重要であるのは、心臓であって、機能中の王者と言うべきものである。 従って心臓機能の本体が根本的に判らない限り、真の病理は確立するはずはないのである。 医学においても他の臓器は手術が出来ても心臓は出来ないに見ても肯れるのである。 ところがこのように肝腎な心臓機能が、医学では適確に判っていない事である。

ただ僅かに肺臓から酸素が送られ、浄血作用を行う機関くらいにしか思っていないようで、ほとんど取るに足らない考え方である。 では心臓機能の真の働きとは何であるかを詳しく書いてみよう。
そもそもこの機能は、霊界と最も密接な関係のある点である。 というのは左のごとき事を前もって知らねばならない。 というのは地球の構成原素である。

それはさきに説いたごとく三段階になっている。 すなわち一、霊界、二、空気界、三、現象界であって、これを一言にして言えば、一は火素が本質であり、二は水素が本質であり、三は土素が本質である。 もちろん一は日の精、二は月の精、三は土の精であって、この三原素の力によって、一切は生成化育されている以上、 そこで三原素を吸収すべき主要機能としては心臓、肺臓、胃の腑である。

すなわち心臓は霊界から火素を吸収し、肺臓は空気界から水素を吸収し、胃の腑は物質界から、土素を吸収するのである。 だからこの理を基本として、人体の構成を見ればよく判る。 しかるに今までは肺臓は空気を吸い、胃は食物を吸収する事だけしか判っていなかった。 従って心臓が火素を吸収するなどは、全然判っていなかったのである。

ではなぜそうであったかと言うと、それには理由がある。 すなわち空気も、食物も科学で測定が出来るからであるが、ひとり心臓機能のみはそれが不可能であった。 というのは霊界は無とされていた以上、機械的には把握不可能であったからで、これも無理はないのである。 早く言えば三原素の中、二原素だけ判ったが、一原素だけが判らなかった訳である。

ところがこの一原素こそ、実は二原素以上重要なものであってみれば、これが判らない以上、完全な医学は生まれない訳である。 ゆえに今までの学理は、言わば欠損的であった事は言うまでもない。


以上のごとく最重要な火素を吸収すべき機関が心臓であって、水素を吸収するのが肺で、土素を吸収するのが胃であって、それによって人間は生きているのである。 ところが病気であるが、病気とは再三説いたごとく、毒素の排泄作用であるから、固結毒素を溶解する場合、熱が必要となる。 その熱を心臓が吸収する役目であるから、平常よりも余分に熱を要するので、心臓はそれだけ活動をさかんにしなければならない。

発熱の際鼓動が頻繁なのはそれがためであって、その際の悪寒は体温を心臓に補給するため不足となるからで、 また呼吸頻繁なのは心臓の活動を助けるため、肺臓は水分を余分に供給しなければならないが、それには熱は水分を加える程力を増すからである。

また発熱の際食欲不振なのは、消化に要する熱量を、心臓へ奪われるからである。 このようにして毒結の溶解が終れば、熱の必要はなくなるから解熱するのである。 これで心臓の実体は掴めたであろう。


〇心臓医術

腎臓に次いで重要なる機能は、何といっても心臓であろう。 従って、霊的療法によって心臓が健全になった場合、疾患及び全身機能、精神的方面等に対し、いかなる好影響を及ぼすかという事を説いてみよう。 まず、腎臓の余剰尿が集溜する局所としては、肩胛骨(けんこうこつ)と脊柱との間が多い事はさきに説いた通りであるが、それはちょうど心臓の裏面に当る所である。 故に、この毒結が心臓を圧迫している為、心臓の活動が妨げられるのは当然である。

そうして心臓の活動の強弱はいかなる影響を与えるかというに、さきに説いたごとく、人体において心臓は火であり、肺臓は水であり胃は土であるという原理によって、 それは次のごときものである。

まず初め、心臓圧迫の毒素を溶解するにおいて、心臓の活動が旺盛となり、その結果として火素の吸収が増加するから、水である肺臓の活動が強化されるのは勿論である。 ちょうど水を温める火力が強くなるようなものである。 従って、肺臓の活動が旺盛になれば、結核患者の肺臓内に固結している毒素は、溶解排泄が速かとなるので、治癒が促進される訳である。

又、肺臓の活動は胃の活動を促進するから、食欲は増進するので、両々相まって非常な効果を挙げ得るのである。 そればかりではない、ここに見逃す事の出来ない事は、性格的に好変化が表われて来る。

元来、心臓なる機能は、熱の本源である関係上、性格的には愛の湧出する機能である。 故に、心臓の活動力旺盛は、愛の情動が盛んになる事で、性格が一変する訳である。

その例として、肺患者の性格は押並べて愛の熱が淡く、理性の方が勝つという事で、これは事実である。 それは心臓が弱い時は愛の熱が不足する。その為、水が温くならないという訳である。 この意味において、この心臓医術によれば、肺結核の治癒は促進され、罹病者は減少するのであるから、 結核問題解決に効果のある事は贅言(ぜいげん)を要しないのである。

人間の腹の中が汚いという、そのことをよく知っておくとよいです。 それがために婦人などは、顔色が悪いとか顔が荒れるとか唇の色が悪いとか言って、いろんな化粧品を使って、そうしていわゆるごまかしているわけです。 それがために、まず美人というのはないです。 化粧しなかったら、今の女性の顔は見られやしません。女性が薬をのまなくなったらどんなに美人になるか分かりません。 あまり化粧しない女性の顔を見ることがありません。男の方がよほどきれいです。最近の若い女性の顔を見ると、実に汚いです。

骨を折って、金を使って化粧して、体の中は薬毒で汚くするし、外は化粧品で皮膚から染み込ませて汚くしているのです。 それに気がつかないで、ますます念入りに化粧してます。 だから化粧品が売れるのです。売れるから広告などにたいへんな金を使うのです。 そういうわけで、汚い・・・ほとんど血膿を皮膚で包んでいるのだから、きれいなはずがないのです。

人間気がつかないが、人間の皮膚ぐらいありがたいものはない。もしこの皮膚がなかったら、汚くて、とうてい人前には出られない。 だからその皮膚の恩恵も感謝しなければいけない、そういうようなわけで、つまり美人を見てもあんまり美に酔わされないためには、中身を考えてみる必要もあると思います。
そうなると恋愛ということも、ちょっと熱が冷めます。しかしそうなるとやっぱり精神的に心の方の美を求めるから、かえってよいかもしれません。

そういうようなわけで、人間は意外に薬毒が多いということと、血膿というものは薬毒の変化したものということと、人間の美というものも体の中がきれいにならなければ、本当の美ではないということです。 やっぱり腹の中が美になれ・・・肉体が美になれば心も美になりますから、そうすると美しいものを好むということになります。 つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要なことです。

神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、要するに浄化ですが、そういうことをやられるわけです。 だからして真善美の美ということの一番の根本は、人間の体の中を美しくするということで、その方法は、つまり直接には霊的光力、間接には教えを耳に聞き、 それから美を目から入れるということです。

とにかく神仏に向かっていれば、たとえ馬鹿馬鹿しいことをやっていても、それだけの心掛けであれば、兇悪犯罪をするということはあるわけがないです。 霊的光力を浴びていれば、寄せ付けない霊光体になってくるのです。


そうすると特に狐や狸というのは自分の居所がなくなるようなわけですから、つまり萎縮してしまい、活動ができなくなるのです。 彼らが一番怖いのは光ですが、霊的光力で救うのです。 ところが一方祖先とかいうのは、光によって浄められれば霊界の地位が上がりますから、救われたいというわけです。 よくお蔭話で、祖霊が喜ぶ状態とか、副守護神が邪魔しているのがありますが、それが分かってみれば、実によく分かります。 近ごろ非常に精神病が増えたということは、そういった動物霊が働きやすくなったからです。

働きやすくなったということは、人間の霊が曇ると彼らの活動力が増しますから、ここに汚い血膿なら血膿があれば霊の方は曇りが強いわけです。 それで曇りがあるほど動物霊というのは、そこで仕事をしやすくなるわけです。


だから了簡の間違った者や罪を犯す者は、副守護神、つまり動物霊が働きよい状態に置かれているわけです。 だから犯罪者が多いということや、さっき言ったとおり正義感が少ないということは、それとチャンと平均しているわけです。 だから今日正義感が薄いというのは世界的です。

すべて一時的御都合主義で、本当にこれが正しいと言って、それをやろうとする人はほとんどないです。 これは年中新聞やラジオで各政党や政治家がいろんなことを言っても、これなら本当に国民のためになる、世の中のためになるということはないので、 お座なり的で、実は、わが党が大きくなるとか、わが党のためになるとか、自分が出世する、というケチな考えで、こういう政策が本当に国民のためになるということをやる人は、ごくわずかしかないです。 そういうようなわけで、心が曇り、肉体は毒で埋まっているということがよく現われてます。

★体内に残る残留農薬の問題や食品添加物による体内汚染など、知らず知らずのうちに人体は蝕まれています。そして、胎児の奇形の問題や乳幼児のアトピーなどをはじめ、今では遺伝子にまで 影響を及ぼそうとしているなど、多くの問題を抱えています。肥料や防除薬剤等の使用を止めることからスタートしなければ、この問題の解決にはなりません。霊的光力でせっかく曇りをとっても、食べ物 で肉体を汚していては、いつまで経っても改善できません。安全で安心できる食生活を心掛けていただきたいと思います。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-10-3

〇食卓の知恵袋

市販の塩の問題点

 にがり分を全く含まないNaCl純品の公社塩は、人間が食べる塩としてはミネラル分がなく危険。また減塩塩としてKClを多く含む塩は有害ともいうべきです。乾燥剤(表示は隠している)を加えてサラサラにして いる塩もあります。海外で安く生産されたNaCl純度の高い天日塩に、にがり分を加えて再結晶させたいわゆる再生塩はピンからキリまであり、真面目に作っているのは「赤穂の天塩」くらいです。これなら50点 くらいの点数だと谷さんは話されていました。他の再生塩は、公社塩を原料としているものや、海辺の井戸水で作るからにがり分を含むと称するものなどがあり、おすすめできません。海水から作られているとする高価な 塩も、ほとんどは海水に安い輸入塩を加えており、実態としては再生塩です。それらを分析するとMgが著しく少ないことから、その正体が分かります。

また一括表示にCaが多く表示されている塩はよくありません。そのCaは硫酸カルシウムで、肝臓、腎臓の負担となります。要するに煎合の工程でアク抜きを怠った有害な塩です。  この他、いろんな謳い文句で高価に売っている塩についても評価に耐えるものはまずありません。 食卓塩には意外に添加物を加えたものが多く、グルタミン酸ソーダ、 塩化カリウム、クエン酸3ナトリウム、硫酸マグネシウム、乳酸カルシウム、塩化マグネシウム、二酸化ケイ素、リンゴ酸、クエン酸、炭酸マグネシウム、リン酸三カルシウムなどの食品添加物が使われています。

■市販の油の問題点

 ☆遺伝子組み換え作物として、すでに流通している大豆、とうもろこし、菜種、綿はいずれも大豆油、コーン油、菜種油、綿実油としての油の原料です。したがって、これらをブレンドしている市販の油は全て絶望的な状況にあります。

 ☆ポストハーベスト農薬汚染については、特に大豆がひどく、菜種(15〜20%が対象とされる)、とうもろこし(秋〜冬にかけては対象としないケースがある)など輸入原料は全て心配です。また、チェルノブイリの放射能汚染地域からの大豆の輸入も行われています。

 ☆大手メーカーの市販油のまず全てがn-ヘキサン抽出を行っています。n-ヘキサンはそれ自体が有害な石油系の劇薬であり、不純物として3.4ベンツピレンを含むことでも知られているものですが、近年n-ヘキサン抽出で処理した油の分子がシス型から有害なトランス型へと転換してしまうことが問題となっています。 トランス型脂肪が精神病、心臓病、ガンなどの原因になると指摘されています。アメリカの精神科へうつ病で訪れる患者に医者はマーガリンを食べていませんかと質問する時代なのです。

 ☆まともな油はお湯でガムなどの汚れを取ったり、静置ろ過などで精製してゆくものですが、市販油は硫酸、苛性ソーダー、活性白土など工業用化学薬品(その不純物も問題)で化学的に精製されてゆきます。カミネ油症事件は、まさにこの脱臭・脱色工程で機械からピンホールでPCBが混入した事件でした。

 ☆酸化防止剤(リン酸、クエン酸)の使用

 ☆消泡材(シリコーン樹脂)の使用

 ☆超高温水蒸気による脱臭

一見よいと思ってしまう油

 ☆オーガニックのオリーブ油、エキストラバージンオイル  ヨーロッパ産はチェルノブイリの放射能汚染が心配です。

 ☆米ぬか油

  米ぬかは遺伝子組み換えが問題となっておらず、遺伝子組み換えの表示対象として米ぬか油(国産が主、輸入は一部)に切り替えていく 動きがあります。しかし、米ぬか油や大豆油に圧搾法はなく、全てn-ヘキサン抽出によるもので、安心できるものではありません。

■市販の蚊取り線香や殺虫剤に使われているペルメトリン、アレスリンなどのピレスロイド系の物質は人間には低毒性であるとされているにもかかわらず、人によっては、悪寒、嘔吐、頭痛、呼吸障害を起こすことがあり 「家庭の農薬」と呼ばれています。虫に強い作用を及ぼすということは、人体にも何らかの影響があると考えても間違いないでしょう。

■天地間、森羅万象、あらゆる物は常に陰陽の理に外れる事はない。食で云えば、穀類が陰である。米は陽で、麦は陰である。野菜類が陽である。野菜の中にも陰陽があって、根とか実とか、白色、赤色、黒色とかは陽であり、菜の類、葉の類、すべて青色の物は陰である。 魚・鳥はほぼ陽である。男性としては動物性食と植物性食の半々が好ましく、女性としては植物性を七分、動物性を三分位が望ましい。大人になってからの牛乳は体力が衰えてきます。後記で説明しております。 故に、理想から言えば、其の時の場合におおじて陰陽を用いればよいと思う。常に十字に組むことを忘れなければ良いと思う。

◎ 【 薬毒残存濃縮の恐怖 】

       庭山 石松 著 (注1;故庭山十郎先生 の旧名です)      ☆薬の進歩は病気の進歩

 抑々人間の生命と健康は自然尊重が原則であって、人体内には食物以外は入れてはいけないのであって、味覚によって定められてあり、薬や 異物は胃腸が処理出来ず体内に残存してしまうのである。  薬毒残存濃縮の現実によって、薬はどんな微量でも有害である事を深く認識する事が極めて大切なのである。

 永い年月病気は薬で治すものとの観念に支配されて来た人類は、どうしても薬は悪いものであり、病気の原因が薬であるとは思われないので ある。例え薬は毒であると思っても、病気の苦痛を取去る為に仕方なく薬を用いて苦痛をとって来たのである。苦痛をとれば病気は治ったと思 っても、薬毒残存によって体内の毒は増加し、次の病気の苦痛を増大してゆくことに気付かなかったのである。だから薬を飲めば飲む程、病気 は次第々々に重くなってゆくのである。

 医学が進歩すればする程、病気が重くなってゆく現実は、何人も否定する事は出来ないのである。医学が結核予防を熱心にやればやる程、 結核が増加してゆき薬を強くして病気を抑えつけようとしたり、乱用したりする程、癌とか肝硬変その他薬剤性肝炎が増加してゆくのである。

癌は現代医学では治す方法はないにも拘らず、癌の予防と早期発見に力を入れれば入れる程癌患者が増加してゆく事になるのである。 ストレプトマイシンがストマイ@@ぼ(注2;耳の不自由な人差別語のため伏せ字))を作るのも今では常識である。一時は救世主の如く医学界に君臨した ペニシリンも、真菌症という解剖せねば判らないカビ病を作り出してしまったのである。

抗性物質が医学界で批判と検討の時代というのに、何も知らない患者は言われたままに、思うままにどんどん薬を体内に入れ て居るのである。全く空恐ろしい事である。若しペニシリンが禁止になったとしたら、今迄飲んだ人の損害補償は一体誰がするのであろうか。

厚生省も医師もその能力も意思もないように思われる。患者は体内にカビを生やしたまま泣寝入りとなるのは、終戦直後の日本国民の姿を思い 出せば想像に難からないであろう。苦情の持って行き処がないカビ患者の悲痛は自業自得と言ってしまうにはあまりにも哀れというの外はない。

 他の事ならどんな苦労も、やり直しも出来る。七転び八起きということも可能であるが、人間の生命だけは一度で終りであるだけに問題は深 刻である。

 治り難い結核性疾患時代から治し得ない癌性疾患時代へと推移しっつある病症現況は医学の進歩がその根幹となって、薬毒、農薬、肥料、消 毒剤、食品添加剤がどんどん増加して来たのが原因となっているのである。

 副作用がなけれはよい − 微量なら無害という薬毒物に対する医学的考え方が、今日の薬剤禍に人類がおののかねばならなくなった根本思 想である。而もこの考え方は病気は天恵の浄化作用であるという真因を見究める事が出来ず、病気を悪化作用と判断し、苦痛をとれば病気は 解決するものと錯覚し、苦痛を逃れる為には薬は毒であっても必要悪として使用を継続して来たのである。ところが医学は薬毒残存濃縮の原理を 知らなかった為に十年二十年三十年と長年月の間に、或は寡用より乱用へと進む内に遂に薬では治らない病気が続出し始めたのである。

 昭和四十二牢四月二日名古屋に於ける医学会総会で副作用を医原性疾患と銘打って検討の対照とせねばならなくなった医学界の新課題は、 来るべき近き将来薬剤放棄論という議題に変更せねばならなくなるのは、火を看るより明らかであって、既に時間の問題なのである。副作用とい う事は、実は本作用であって症状を押えつける作用の方が副作用である事に気付けばよいのである。薬を主にせず人体を主にして考えれば、 直ちに解る事である。

 病気とは人体内に入れられ集溜固結、蓄積濃縮された薬毒が、やがて時期が来て自然良能力の発動によって溶解排泄される時の症状と苦痛で あって、体内にある毒物の排除をする浄化作用なのである。集溜固結を第一浄化作用と請い、溶解排除を第二浄化作用と請うのである。 普通病気といっているのは後者である。勿論親から受継いだ先天性毒素も同様である。即ち薬が病気の原因であったのである。

 原因である薬をなくすれば病気がなくなるのである医原性疾患を解決するには薬を止めればよいのである。  薬が病気を作っている!薬の種類が多くなると病気の数も多くなる。 薬が進歩すれば病気が進歩するき何という間違いであろう。

 新潟県下の死亡者の内脳疾患による死亡者は七〇%で第一位を占めているのも、脳溢血を異常なまでに気にするからである。 血圧を下げる為に用いる薬が脳溢血をどんどん増加せしめて居る事に気が付かない。

薬はどんどん後頭部、延髄附近に集溜してゆくからである。高血圧の原因は頸動脈の周囲に毒素集溜して動脈を圧する為、その 部分の血圧が上り腕の動脈にひびいて血圧計が上るだけであって、脳溢血とは直接の関係はないのである。

脳溢血の原因は後頭部延髄附近から首筋にかけての集溜毒結が溶解するのであって急所が違っているのである。 血圧がどんなに高くても脳溢血にならない人もあれば、低血圧の人でも脳溢血になるのは右の原因が違うからである。 後頭部延髄から首筋にかけての毒素を浄霊法で減少してしまえは脳溢血にはなってみようがないのである。

高血圧にしても然りで頸部動脈周辺を数回浄霊すれば簡単に血圧は正常になるのである。高血圧者は心臓が強く、低血圧者の方 が遙かに要注意者であるにも拘わらず、高血庄をわいわい取上げて神経質になっている事がおかしいのである。

遺伝性も勿論大きく影響しているが、医薬、農薬肥料等が追打ちをかけて脳溢血、神経痛、リユウマチ心臓病等がクローズアップされて来たのである。

  ☆ 薬乱用の警告

 薬毒残存濃縮の恐怖は一部医学者や識者層には解りかけているのである。  新大医学部四教授の座談会で、次の様な談話があった。(新潟日報四二・一一二一二)

 K教授「本来薬なんていらないと言っていい位なんですよ。  薬は体の代謝迄すっかり変へてしまいますからね。正しい使い方は別ですが 乱用した事で病気も変り、薬では最早や治らない病気が現われて来たのが現状です。こんな事をしていたら病理学の教科書を書き替えなくては ならなくなる。極端な言い方ですがそんな事を言いたくなる位、全くひどいものです。薬で治そうなんて欲を出さないこと」

 T教授「兎に角薬さえ飲めば治るという感覚には困ったものです〜近頃薬による肝障害「薬剤性肝炎」が多くなって居るんです。 明らかに乱用の結果としか思われません。その一つが経口避妊薬です。これはフィンランドやアメリカなど外国ではかなりの床例が出ています。 精神安定剤も急性肝萎縮で死んだのがあり発売禁止になった例もあるし、抗性物質でも肝障害が出ます」

 K教授「結核の薬にも肝障害の出るものがありますこうした薬は肝臓ばかりではない、腎臓もやられます「肝腎かなめ」と言うぢやないですか 。更にステロイド(副腎皮質ホルモン剤)では骨髄迄やられます。これは恐いですよ。

このステロイドが出た時にはいろんな症状がピタリと抑えられたので一時は救世主の様に非常にもてはやされたものですが、 その後いろんな副作用があることが解ったのです。たしかに効果もあるが害もある。将に両刃の剣です」

 K教授「こんな例がありました。或る母親が子供をクル病じやないかと決め込んで薬局でビタミンD剤を買って何年も飲ませていた。それが元で 腎臓と肺に石灰の沈着が出来て死んでしまったのです。ビタミンD剤過剰投与による障害の動物実験の結果と一致してじまったんです」

 T教授「兎に角人間の体には病気に対する抵抗力がある事を忘れてはいけません。例えば風邪を引いた人に医師が薬を使うのは患者の苦しみ を放っておけないから使う。基本は安静です」 K教授「風邪薬を飲んで仕事をする事自体がおかしいんです。且って森鴎外が、患者を温存せよ、自然の療養あり。

と言っている言葉などなかなか当を得ています」 S教授「安静が治療の根本だという事は、すべての病気に言える事です。   薬だけで生きれらない事を考えたらすぐ解る事なんですがね」 I教授「市販の保健剤を買う位なら蛋白質の多い食物を買いなさいといいたいですね。 バランスのとれた食事こそ綜合保健剤です」

 W教授「薬は人体のバランスを崩してしまう事さえある。医療では止むを得ず薬を依っている事を正しく認識して欲しいものですね」

 右四教授の語るところは一々大いに心すべきと思うのである。薬剤依存は近い将来壁に突き当り、薬剤放棄に転ずべき無数の事実を露呈し始 めているのである。

 各種予防接種の悪作用もさる事乍ら、結核予防対策の切札たるレントゲン写真もその]線放射による障害は薬剤に優るとも劣らないものがあるのである。 米国の某博士は「一回のレントゲン放射により二十日の寿命が縮まる」と発表した事があったが、実は二十日如きものではないのである。 心臓と肺の機能を弱め、且つ肺部にある残存毒結(痰)の硬化を強め排揆を抑止するのである。

レントゲン技術者が放射線にやられてジリジリ死への行進を続けて行く]線障害禍は今日では知らぬ者ない常識である。

 BCG問題にしても専門家の間でさえ賛否両論相対峠して国民に強制出来ぬものであり、種痘にしても種痘法実施後、結核が急増した現実を 指摘した医学者の居た事や、結核予防法を作って結核の予防と治療に努力すればする程結核は増加し、結核を戎程度抑えたと思うや癌時代から 其菌症問題迄も生み出しつつある現況を思うと、終戦前の軍閥に劣らぬ医学封建思想の根強さに長大息の外はないのである。

 結核が薬で治るなら予防する必要はないのであって薬を止めて排疾していれは完全に治るのである。

 排痰、排毒作用という素晴らしい浄化作用の真意が解れば病気を恐れるどころか、有難く且つ楽しくもなるのである。排毒されただけ健康は 増進し天寿を完うするに近づくからである。

   ☆  肥料農薬の害

 一切の病気の原因である薬剤と、阿賀野川有機水銀中毒の新潟水俣病や神通川のイタイイタイ病の如き特例な毒物の他に、飲食品から人体内 に入ってくる異物による障書が又大変なものである。

 普通は病気をしなければ薬を用いないから毎日服薬する人は余程の薬剤信仰の強い人でない限りそう多くはないだろうが、飲食品に至っては 毎里二度三度体内に入って来るのだから問題は大きい。

 米麦、野菜、果樹に用いる農薬肥料の人体に及ぼす弊害は、その味覚を著しく低下しつつある味覚文明の退歩と共、にそろそろ識者に問題視 される時代になって来た事は喜しい事である。

 稲熱病の予防薬である水銀剤が昨年から禁止になり三年間で全廃になる事や、パラチオン剤(ホリドール)や二四が批判されつつある事は人 体に大きな障害となりつつある事が解って来た結果である。

 右のパラチオン剤(ホリドール)はDDTに替って登場した強力殺虫剤で、第二次大戦でイギリスが開発した毒ガスであって、ネコイラズ同様の リン剤で青酸カリに近い猛毒がある。ソ連でさえとうの昔に農業用には禁止されている。このホリドールの毒性の五分の一しかない水銀剤が禁 止になったにも拘わらず慢性毒性が少ないという理由だけでその五倍の猛毒を有するホリドールを禁止出来ないという農林行政と厚生管掌の手 緩るさと矛盾に義憤を感ずる人も少くないと思うのである。

 農薬を使用している農民の四十二%が中毒にかかっている事は見逃し得ない事実であり、農薬病、農民痛が問題視され出したのも当然な事なの である。農薬を使い始めてから二十年足らずでこの有様なのだから、もう二十年も経ったら如何なる症状に進展するかと思うと慄然たるものが あるのである。

 米国では牧草でさえDDTの様な弱毒性薬物も禁止されているのである。勿論DDTが牛肉、牛乳、バターを通じて人体にどんどん入り込んで来るか らである。最近では去る四月十二日ストレプトマイシン、ペニシリンに対して牛を始め、動物の治療に使用を禁止する方針を定め、いずれ抗生 物質全般に及ぼすとの発表があった。牛豚鶏卵等から人体に薬毒の入る影響を明確に把握した為である。

 去る四月九日の川参院予算委員会で園田厚生大臣は「食品添加物や農薬、洗剤などの安全度は根本的に検討しなければならない。農薬、洗剤 は最近ふえている奇型児の原因になっているのではないかと思う」と発言した事は関心の高まって来た事には違いないが、まだまだぬるま湯に つかって居る様なもどかしさでいらいらする思いは私一人ではあるまい。

 抑々農作物の病虫専が発生するという事は肥料が原因なのであって金肥人肥を止めない限り病虫害はなくならないのである。

 窒素、燐酸、カリの三大肥料は作物の食糧であるとの肥料迷信が病虫害を発生し農薬を使用せざるを得なくなった根本原因であって、 間遠った原因が間違った結果を生むのは天地の律法であって、いよいよ益々肥料、農薬によって健康と生命は追いつめられて行くのである

。 農作物と雖も植物である。米麦野菜のみが三大肥料を必要とする理由は迷信以外の何物でもない。自然はそんな事を教えていない。 植物は一視同仁自然に生育さるペきものである。増産の為には仕方がないとして毒物を撒布する事は、生きる為には泥棒してもよいという考え方であって、泥棒し なくても生きて行ける方法を実行すればよいのである。自然農法によって種子と土から肥蕃、農薬寿が解消した味には素晴らしい増産が出来る 事を知ったなら、大自然の恩恵に驚嘆するであろう。

 肥料という毒物を土に入れて土を模して酸性土壌化し、弱土は弱物を作って病虫害を発生する、そして農薬を撒布するーーー将に天に向って 唾をする姿で、この反自然の応報は農民だけにとどまらず国民全部が負う事になるのである。脳溢血、リュウマチ、神経痛、心臓病が増加し、 果ては奇型児、癌にまで及び、農薬、肥料による影響は医薬と共に見逃し得ない重大要素となって来てしまったのである。

 例のサリドマイド禍によるアザラシ児を始め相当数の奇型児問題が発生している事は想像に難からないのである。寄型児にまでならない小児 が白血病、内臓ガン、脳腫瘍、骨肉腫等悪性腫瘍の症病に現われて来るのである。

最近テレビでここ数年来この種の病気による小児の死亡は事故死に次いで第二位となり、益々増える傾向にあると報じていた。完く以て恐ろしい事である。 時々テレビで報ずる婦人科医師も妊娠したら風邪を引いても薬を飲んではいけないと異口同音に呼びかけている。  薬毒は恐ろしいものであるという認識を深める事が肝要である。

    ☆ 毒と共に在り(食品添加物)

 食品添加物がなかなか莫迦にならない。  新潟日報昭和四十三年四月十二日の記事をそっくり借りてみよう。

 「或一日の食事を考えてみましよう。先ず朝食、ご飯に味噌汁、魚ミリン干に沢庵だとします。すると味噌汁の味噌には変色防止の塩化アルミニュウム、 保存料のデヒトロ酢酸が入っています。味噌仕立てでなく醤油のすまし汁だとすれば、その昔油には何と着色剤(赤色三号、黄色四号、五号など) 甘味料(サイクラミン酸ナトリウム、サッカリン、ズルチンなど)保存料(パラオキン安息香酸など)食品製造用剤(塩酸、炭酸ナトリウムなど四、五種類の 添加物が加えられているのです。

 みりん干になるとズルチン等で甘味をつけ、トルエン系の酸化防止剤を加え、発出しには繊維素グリコール酸ナトリウム。沢庵漬になるとサッカリンの甘味、 黄色の着色剤で毒々しい厚化粧というわけです。

 さて昼食。パンに牛乳、マーガリン、それにハムとすると、パンの小麦粉には漂白剤の次亜硫酸ソーダなど、マーガリンには保存料、酸化防止剤、着色剤。 ハムにもやはり保存料、酸化防止剤、殺菌料、結着剤、そして生のままと考えられている牛乳ですらヴィタミン入り、練乳、粉乳の場合は第二リン酸ソーダが使われています。 又間食にアイスクリーム。

夕食にヤッコ豆腐を食べたとすれば安いアイスクリームは殆どアルギン酸ナトリウム、カゼイン等の糊料と人工甘味料で作ったもの。 牛乳やパターで作る本物のアイスクリームとは似ても似つかぬものですし、豆腐の場合は硫酸カルシウムで固まらせ、シリコン樹脂で泡を消すとい った具合。又グリーンピースに緑、ゴマに黒、切り昆布は緑という具合に色を強調したり、蜜柑の皮に艶出しのワックスを塗ったり。

 こうして一日を考えてみると厚生省で許可したものだけでも無意識のうちに七十種に近い添加物を食べていると主婦連では発表しています。

 ではこれ等の添加物は人体にどんな影響を与えるのでしようか。新大薬理学教室の松田教授は一番困るのが色素剤、次に保存剤と酸化防止剤 だと言います。着色剤がいけないという理由は、色素が細胞にくっついてしまうからです。 微量ではあっても毎日食べて居る間に蓄積され、それが刺激になってガンを発生するという事が動物実験で明らかにされています。

特に緑色と青色などが有害で緑色一号という着色剤はネズミに連続投下注射と経口投与をしたところ何れも発生ガンを見られましたし、 赤色五号、オレンヂ一号、黄色一号等も肝臓障害、腎臓障害を起すことが解っています次に保存料ですが腐敗は一種の酵素の働きが起きる訳ですから、 保存料はその働きを抑えるため添加されるのです。

ですからそれを食べると肝心の人間の腸内の酵素の働きまで抑えてしまって消化力を落してしまいます」  右の外水道の水、清涼飲料、菓子類、野菜の染色消毒にも油断は出来ない。且って毎日新聞に左の記事が載っていた。

 「癌を起す物質と分っているバターイエローがマーガリンに色付けされ、同じ系統のサンセットイエローはジュースのオレンヂ色を誇っている。 又之も米国で発癌物質として問題になっているズルチンが砂糖代りに公認され、色々なものに使われている。 それからサッカリンとてもその構造上から毒物と見られるのだが、一定量以下ならよいとして大手を振って出廻っている。

 色素以外にも恐るべきものが我々の回りに渦巻いている。例えばアメ等を晒す晒粉であるが、これが白くして清潔をカムフラージュするために用いられる。 これで極く僅かまぎれ込むかもしれない微生物は殺菌されるだろうが、あの臭い塩素を毎日々々飲まされたのでは住民の健康はどうなるのだろう。 金魚だって水道の水では忽ち死ぬではないか。

 毒物まかり通る危険な色素や農薬をこのままのていたらくで為すペき事を為さずに論議を重ねているのでは、原子力時代の真只中において 日本及び日本人は科学の敗者として滅び去るの外はないだろう」と。

 以上の外、化粧品、美容剤、石鹸から歯磨、煙草、酒類等の中にも殺菌剤、消毒剤等の有書物の入っているものもあるだろうと想像されるし、公害問題、 自動車の排気ガス等々、我々の周囲には何とおびただしい健康破壊文明の数々が張り巡らされている事だろう。

 医原性疾患、農業性疾患、食品処理性疾患、飲料性疾患、噂好品性疾患、美容品性疾患、公害性疾患、交通性疾患、等々まさに現代人は槍衾(やりぶすま)と 刃の垣に取囲まれた如く薬毒オンパレードの渦巻の中に而もその残存濃縮の恐怖を背負うて一体何処へいつまで歩き続けてゆくのであろうか。

 医薬、農薬、食品添加物等々の薬毒残存濃縮の事実が奇型児を生み、不治の病を製造している現実は果して真の文明と言い得るであろうか。  不幸を生む文明は魔悪の文明であって人類の文明ではないのである。  現代は半文明半野蛮の時代でないと言い切れる人が居るだろうか。

 余すところ三十年で二十世紀を終ろうとしている人類は、この期間に薬毒を追放する事が出来なければ満二十歳の成人式を了えて、 二十一世紀の輝やかしい真文明原子時代を迎える事が出来ないであろう。

                               庭  山  石  松

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上記の論文は昭和45年、1970年の掲載文です。約三十年も経ているのに、未だに この論文が古くさくもなく真実を伝えているということに気がつくでしょうか?

 著者 庭山先生は過去において、水銀農薬中止論を掲げていたのですが、当時の県衛生部長(後の県知事) から呼び出しを受け「厳重注意」を受けた事があるそうです。その「厳重注意」とは「農薬等に関して薬毒云々等のことを広めてはいけない・・」 という様な趣旨だったと言うことです。

が、その後どうなったでしょうか? 現に水銀農薬は中止され、世界は環境ホルモンとかと名付けて人類存続の重大危機を大きな問題として取り上げる 様になりました。

そして、この論文掲載後三十年後のこんにち、現実はどう大きく変わったのでしょうか? そして、吾々日本人は現在も未来も安全な環境に居るのでしょうか?

三十年前の警鐘は人々の心に響いていたのでしょうか? 現実と較べてそんな不安は解消しているのでしょうか?

その当時所属していた会の機関誌に投稿された論文をスキャンしたものです。 誤字等は私の構成がお粗末のせいです。また読みやすい様に少々の 改行を加えてあります。

注 詳しい説明はここでは省略しましたので、ご理解ください。

要点は「薬毒の人体内への残存濃縮」を理解出来れば、人類にとって真の 健康と医療について大きく前進できるーーーという思いで掲載させて頂きました。

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ネットで見つけましたので載せていただきました。有り難うございます。そして感謝致します。合掌。



生き言霊に幸あれ!!

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