縄文の音霊 【ひとり言】

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言霊豆知識-45-1

『霊的光力(摩訶不思議の業)・霊的能力(スピリチュアル)・心霊能力(サイキック)の極意と清浄化の基本』

 病気治しでも、「ぜひ治したい」とあまり思うとかえって治りが悪いようなものです。それからあまり「助かりたい」と思うと、かえって反対の結果になるようなもので、 やっぱり執着が邪魔する訳です。 「結核を治すには肩をやるのが一番」なのですが、これは結核ばかりではなく、心臓病なども必ず左の肩が凝ってます。 ですから心臓病はやはり肩の病です。この肩の固まりが少しずつ溶けて下に垂れて行って心臓の付近に固まって圧迫するのです。ですから心臓病は肩を主に霊的光力をすればよいのです。 それから胃病の人は必ず肩が張ってますから、それを霊的光力をすると必ず食欲が増すという事はそういう訳なのです。ただ肩に関係のないのは中風だけです。 これはむしろ肩の柔らかい人が多いのです。というのは肩の柔らかい人は健康ですが、中風というのは健康な人ほど起るのです。弱っている人には起らないものです。 結核で痩せた人というのは決して中風は起るものではないので、中風というのは、かっぷくの良い脂ぎった血色の良い人に起るものです。

そのかわり中風の人は頚の周りに必ず固まりがあります。それは右か左です。それから後頭部ですが、これも右か左にあります。つまり毒素が下に行くべきが、 上に行ってそこに固まってしまうのです。これはその人の職業的体の使い方によってそこに固まるのです。そうしてそれが急に溶けてきて頭の中に入るのが脳溢血です。 そうして右が凝っている人は左の手足がブラブラになるのです。中風だけは肩でなく、頸部(けいぶ・頭と胴体がつながっている部分-くび)の固まりです。そういう人は極少ないのですが。また結核、肺、心臓病、 胃腸、赤痢等々がありますが、赤痢は後頭部の毒血が溶けて肛門から出るというものです。

ですから大抵な病人は、先ず一番最初首を下げて頭の中心を霊的光力するのがよいです。人間にとって一番の中心ですから、真ん中が体全体に影響するのです。 ここを浄めて、それから肩ですが、肩は前からそこを狙ってやり、それから後ろからそこを狙ってやるのです。それから着物の上からでもちょっと触って、 凝(こ)っている人は肩の上からやるのです。そうして肩を柔らかくすると頸の周りの固まりもずっと溶けます。

それから手足の具合の悪いのもやはり肩です。

ですから足が具合が悪いという人は、肩をやると足の具合がよくなってしまいます。それから頭は、前頭部と後頭部とは違うのです。 後頭部は赤痢か痔で毒素が出る順序ですが、ここで心得ておかなければならない事は、肩をやりますと胸が悪くなることがあります。胸がむかつくとか軽い嘔吐感があります。 これは溶けたのが胃に集まってくるのです。そこで今度はそこを霊的光力でするのです。霊的光力をしなくても下りますが、そうするとお腹が痛くなります。 ですから肩とか頸をやりますが、それが溶けると胸がむかつく事と、その次にお腹が痛くなる事がります。それを知っておかなければなりません。 頸が悪いというのにお腹が痛いというのはどういう訳か、という事を聞かれるが、それは溶けたものがお腹に下って下痢になって出るのです。 男の方はそうですが、婦人の方は下痢でなく前の方から出る事があります。コシケとか、後は皮膚の粘膜から出るのです。

その場合にはピリピリするとか痒いという感じがあります。男は下痢(くだる)いっぽうです。そういうように心得ているとだいたい間違いなくいく訳です。それが普通ですが、 人によると腰に溜る場合があります。これは腎臓ですが、薬毒は最初腎臓に集まって、腎臓が薬毒を処理する所です。ところが僅(わず)かしか出ないで、 それが肩に行って固まる時と、それが腰に行って固まる事があります。それはその人の職業によるので、手を使ったり根を詰めたりすると肩に固まるのです。 それから農業をする人は非常に腰を屈折したり、座る仕事でも腰に力を入れる人は腰に集まります。そうして腰に集まったものが少しずつ溶けて足に流れて行き、 そこで足が悪くなるという訳です。脚気(かっけ)というのはそういう訳です。それからよく足が吊るとか、痺(しび)れるとか、だるいとか、膝がガクガクするとか、すべて足に関係したのは、 いったん腰に集まったものが足に流れて行くのです。ですから足に関係したのは、まず腰の中心、尾テイ骨を狙って背面から霊的光力するのです。

そうすると足をやらなくても足がずっと軽くなります。それからこの事が息切れに関係するのです。というのは腰から足が悪い人は、 歩いたり坂でも上ると非常に骨が折れるのです。軽く行かないのです。その軽く行かないのが息切れになるのです。とにかく心臓を大いに骨折る為に、 その力が心臓に影響する訳です。その為に息切れがするのです。この息切れという事は肺ですが、肺の呼吸が頻繁になる事です。というのは心臓は火で肺は水ですから、 心臓が骨が折れると、心臓の火、熱が、肺を活動させる力が薄くなるので、肺の活動が悪くなるのです。そういう理屈になります。

こういう事もお医者の方では全然分かりません。ただ部分部分で研究の結果を発表するに過ぎないのですから、実に幼稚(ようち)なものです。 いま話をしたのはごく大ざっぱですが、それが分かっていれば、他の事はそれによって解釈すれば、元が分かるから霊的光力の場合でも非常にやりよい訳です。

 何事でもそうですが、まず急所です。霊的光力での場合でも急所を発見する事です。急所を発見するという事は、いま言ったような事を大体知っていると急所が非常に分かり易い訳です。 自分で自分の健康診断をする場合にも、体中を触ってみて熱のある所に毒素があるのだから、触ってみてずっと冷たければよいですが、どこかに熱がありますから、そこが急所です。

それから押してみて必ず痛い所があります。人によってはまるっきり痛くない人がありますが、これは何かというと毒がなくて痛くない人はまず無いでしょうが、 毒が固まりきって少しも清浄化が起ってないのです。それで痛いという事は固まりにいくらか清浄化が起っているから痛むのですが、清浄化が全然起ってないと痛まないのです。 ですからこういうのはかえって危ないのです。大抵な人はどこか痛いのです。そういう所を自分で霊的光力するなり、後ろの所は人にやってもらうなりすると、それは健康になります。

それで自分で霊的光力するにも一番は肩ですが、肩で固い所がありますからそこをやればよいです。そうしてごく小さい固まりがある事がありますが、それを霊的光力するには、 指から光力を出すのです。これはいつも言うとおり触ってはいけません。二本の指でやって、中指から光力を出すようにするとよいです。(中指の腹・指紋の所)この指から出る光力は強いですから、 小さい固まりはよく溶けます。そういう事で何でも急所です。ところがこの急所を外れている事が多いのです。これは病気ばかりではないので、日常の事や話や、 いろんな事、どうしようかと、迷っている時に急所をピタッと言えば、解決するという事になりますが、その急所を見つけるのがなかなか難しいのです。 然しその人の智慧証覚が進むと、急所の発見が早くなります。どんな事でもその急所をやる事です。

それからその急所が見つからない時に、焦ってはいけません。それはまだ時期が来ないとか、いろいろな事情があるのです。ですから普段心掛けていれば、 時期が来さえすれば急所は見つかるものです。ですから病気でも、どうも熱が冷めないという時に、ちょっと急所に来ると冷める事があります。 これは日常でも経験する事があるでしょうが、急所を発見するという事が、人生の最大の条件です。『霊的光力(摩訶不思議の業)とは小生なりの解釈です=霊光力=霊射=神光力=神力=力光(ちからのあるかみ)』霊因療法⇒霊因を取ることです。

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(上記補足1)  それから前述で「結核は肩が肝腎だ」という事を言いましたが、これは結核ばかりでなく、心臓病、胃にも非常によいです。それから胃の悪い人、 特に消化不良には素晴らしい効果があります。いろんな病気の原因は一旦肩に固まったものが頸の方へ行くのです。 肩をやると頸の周りの固まりも非常に溶け易くなります。ですから肩こそあらゆる病気の急所です。ただし中風はの人はかえって肩が柔らかいのです。 その代わり頸に固まるから、それが溶けて脳の中に入ってゆくのです。

だから中風の人は頸と後頭部の右か左にコブみたいな固まりがありますから、それさえ溶かせば必ず治ります。それで一番肝心な事は、 余程固ければ固いほど力を入れてはいけません。溶かそうとするのに力を入れてしまうと溶けにくいのです。

これは溶けないなと思う時は必ず力が入っているのです。だから力は、ほんのあるかなしか位で、フワフワとやるのが最も効果的です。 そうして想念だけは強く通す気持ちですればよいのです。力を抜くとずっと治るのです。そういう具合で、肩を柔らかくするという事が一番の急所だと思っていればよいです。 それから熱ですが、頭やほうぼうにある熱も肩をやると大抵は下がります。だから健康診断を見るには肩をみるに限るのです。柔らかければ、 きっと健康です。・・・それから試してみると、肩の柔らかい人は随分重い病気でも治りがよいのです。それから肩の固い人に限って治り難いのです。 そういうことですから、肩がまず健康の急所です。

 病気などは特にそうですが、急所の発見という事が一番肝腎なのです。自分の霊力が弱いのだろうとかいろんな事を思うが、そういう事は極少ないので、 本当は急所を外れている事と条件が理屈に合わない事が一番多いのだから、そういう事に気がつくようにならなければならないです。

それはその人の智慧(ちえ=物事の道理を判断し処理していく心の働き)証覚(しょうかく)です。 だからまず智慧証覚を磨くという事が一番肝腎です。智慧証覚が磨けると急所の発見が早いのです。ここに書かれている全て理解できたならば神人一体に成ることと確信致します。
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(智慧証覚の補足)  合っている理屈を早く発見し、早く知るという事が智慧証覚です。心の鏡に写る訳です。ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、 早く発見するという事になる訳です。・・・覚りという事は智慧です。ですからいろいろな事が気が付き発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、 覚者というのは心の曇が少ない訳です。そこでその曇りを少なく、心の鏡が綺麗に澄んでいるという為には、神書を沢山読むという事が一番よい訳です。

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(補足2) 心臓病の人は必ず左の肩が凝ってます。これが溶けたものが心臓の周りに固まって圧迫するのです。それが心臓病です。喘息も無論それです。 喘息の方は横隔膜の方に固まるのです。ですからよく医者の方では心臓性喘息と言います。それで心臓の活動が悪くなるから肺の活動が悪くなるのです。 肺は水で心臓は火ですから、火が多くなれば水がよく活動しますから肺にもよい影響がいく訳です。

そういうことで肩を柔らかくすると肺が良くなるという事は、心臓が良くなるからです。それから肩が柔らかくなると非常に腹が減るのです。 食欲が増えるという事は胃の活動が良くなる訳です。ですから肩を柔らかくするという事は、肺と心臓と胃が良くなります。 ですからこの三つが良くなるという事は、他に問題ではありません。他の事は付録みたいなものです。肝臓が悪いと言ったところで、やはり肩から行って溜るのです。

それから腎臓が悪いと、こういう所(腰)に溜りますが、それも肩から下ってくるのです。それから糖尿病は膵臓(すいぞう)ですが、左の方です。ここも肝臓と同じ様なもので、 肝臓が悪くなるから圧迫されて、胆嚢(たんのう)も起り黄疸も起るという訳ですから、だいたい肺、心臓、胃、とこの三位一体が良くなれば問題はありません。あとは頭ですが、 いまは頭を非常に使わなくては生活できません。昔のように暢気(のんき)な時代ではないから、どうしても頭を使います。それで頭を使うと、これに固まりが来ます。 これはだいたいは肩に溜ったものが、頭を使うのでここに来るのです。ですから肩を柔らかくすると、これも柔らかくなります。

それで後頭部に溜ったものが溶けただけなのですが、やれ赤痢だとか、手をよく洗えとだとか、実に滑稽(こっけい)です。手が赤痢菌の原因と言うのですから、 現代医学というのは子供騙しだと昔から言ってますがまったくそうです。そうすると手に黴菌(ばいきん)がついて、 それが口から入るというような訳でしょうが、これがおかしいので、そうすると人間がすべて手づかみで食べ物を食べると思っているのです。

尤も南洋のタイだとかマレーの方では、みんな指で食べてます。その理屈で行くと、向こうは赤痢になる訳です。しかし日本人は、 箸(はし)かフォークかサジで食べます。手づかみでは食べないから、手だけ洗えという事は変です。(洗う事は良いことなのですが?。)これは分からないからで、一つの気休めです。多分手だろうという訳です。 しかし赤痢は頭の毒素が出るから、赤痢くらい結構なものはありません。これは最初は肩から段々行くのです。 そこで肩を柔らかくするという事が根本です。それでただ肩に関係のないのは中風です。中風の人はかえって肩が柔らかいのです。

その代わり中風の人は頸に固まりができます。中風の人は健康な人に限ってます。弱い人は決してなりません。健康で威張っている人が必ずなります。 脂ぎった赤ら顔の頑健な人に起ります。簡単に言うと、健康な人は中風になり、弱そうな人は結核にならないという訳です。 中風と結核は極端に反対な病気と言ってもよいのです。そういうことで中風は肩の柔らかい人が多いのです。あとはみんな肩の固い人です。 スポーツマンが割りに早死にというのは肩が固いからです。

砲丸投げとか棒高跳びとか水泳とか、みんな肩に力を入れるから肩が固いのです。またスポーツマンに限って結核になります。これは肩に固まったものが、 浄化熱が起って溶けて咳(せき)と痰(たん)が出ますから、それは医者に行けば結核(けっかく)にされます。そういうようで肩が柔らかいという事が一番です。 子供でも学校の成績の悪いのは必ず肩が固いです。腺病質という、青い顔してヒョロヒョロしたのはみんな肩の病気です。子供などは簡単に肩をやってやるのです。

それで霊的光力の場合に、前から肩を狙ってやり後ろからやり、酷い人は上からやれば、段々柔らかくなってきます。たいてい本人が肩が凝るという事を言いますから、 それで分かりますが、子供は触ってみればすぐ分かります。それから赤ん坊に沢山あります。カン持ちや、ジレたり、非常によく泣くのはみんな肩が固いのです。 それからよく熱を出すのがそうです。それから扁桃腺は子供に多いですが、やはり肩の毒が行くのです。結局上は肩を主にして、それから頸の周りです。

それから頭は脳天の奥に毒がある人が多いです。これは始終心配するとここに行くのです。それから頭を使うとここに寄ります。記憶とか、 学問をするとか、そういう考えるのは前頭部です。後頭部は感情です。ところが心配するのは感情と知性と両方使うから脳天に来るのです。 そこでここの中心が重い人や苦しい人は沢山ありますが、それはここ(脳天)です。それから後頭部、延髄という順序でやって行けば、何の病気でも良くなります。

いまのは上半身ですが、下半身は、腰の悪い人は足が悪いのです。よく、くたびれ易いとか足がだるいとかです。それから腰が悪いと息が切れます。 じっとしていると切れないが、歩いたり坂などを上ると息が切れますが、それは腰です。即ち腰が悪いと心臓の毒血がここに固まるのです。それで足の悪い人は、 尾テイ骨をやれば必ずよくなります。尾テイ骨を中心にやって、それから腎臓ですが、そういう人は腎臓の下部の方が多いです。それからお腹の張る人は、無論腎臓です。

それからもう一つはお腹の張る人は小便の出が悪いのですから、臍の下から下腹の中心をやればよいです。
みんなここに両方から尿毒が寄って来ますから、 そこの中心をやればお腹はずっと軽くなります。むしろ下の方がよいです。恥骨(ちこつ)といって毛の生えている所の辺がよいです。そうすると膀胱の毒が取れてゆきます。 それから足のあがきの悪い人は腿(たい)の外側を押せば固いですからそこをやるのです。それから膝(ひざ)から下の悪いのは膝の裏をやるのです。 追加 トクホン及び湿布類は皮膚呼吸を止めると共に病気の原因をも作りかねないのです。それと仁丹は消化機能が弱り果て麻薬中毒の軽いような症状になりますので止めた方がよいでしょう。

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●足の悪い方には霊的光力放射する。 両脚のそけい部、 もも内側のくぼみ、 膝の裏の少し下、 足首の順でパワーを浴びせる。肩も忘れずに。 そして最後に目を閉じさせ、 眉間から全身に向かって、 そして主魂に向かってパワーを注ぐ。 ぜんそくの方には、 背中の二つの骨の内側をよくさぐって盛り上がっているはずだから、そこに霊的光力放射して濁毒を溶かしてあげる。 目が見えない人は後頭部と目頭。 目頭は親指の先で。ほかの四本の指は頬に当てる。 そうしないと、 間違って親指が目を突いてしまったらたいへんです。それと、あごの下の、骨がちょっとくぼんでいる所の内側と、 首の下の骨の内側、 それから乳のちょっと上「腹部の上の方が痛い? 痛いっていう所に手のひらをぴたっと当ててみて、 熱があったらその裏と表。 裏を心持ち長めに。 熱がないようだったら、眉間を霊射する。

●霊的光力放射する心得;心を無にし、自分の想念を大いなる宇宙エネルギーである神の波長と合わせ、そうすればそうするほど、自分の掌を通してエネルギーはどんどん相手のの身体へと注がれるものである。

●病原なるものは、最初に述べた通り霊の曇であるから、それを払拭するには、病人より清い魂の持主にして初めて目的を達し得らるるのであります。 故に、病人と同一程度の曇のある人はいかに治療するも、その効果は、差引無い訳であります。又、病人より曇の多い人が治療すれば、反って、曇を移増するから、病気は悪化するのが事実であります。 これによってみても、治療するものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けねばならぬのであります。ラジュウムについて説明致しますが、ラジュウムは「病気を治す力」は無く「固める力」であります。 人体霊光は「病気を溶解する力」、ツマリ、ラジュウムと反対の作用であります。

●宗教的に言えば「造物主」とか「神様」とかいう事になっておりますが、それは余りに古い事で、想像の範囲を超えております。故に、そうであるとしても、一人残らずそれを信ぜしめる事は到底不可能でありましょう。 しかるに、何人といえども絶対に否定し得ない大事実がある。それは誰しも「自分は親から生れた」という一事であります。自分は親に造られたという事、言い換えれば自分の造主は親であるという事であります。

ツマリ「人間の造主は人間である」という事、これこそ一点疑う余地のない厳然たる事実である事であります。人間には、人間を造り出すという・・・不可思議な力があるとすれば・・・ その人間の肉体の破損ともいうべき病気を治す力(霊的光力)があるのは、当然であります。人間なるものが機械力で作られた「ロボット」のようなものである・・・ とすれば、それが破損は勿論機械力で治るのは、これまた当然な訳であります。この事をはっきり認識出来得るにおいて初めて「人間の病気を、真に治すのは「人間(人間から出る光 以外にない!薬ではない!)」でなくてはならない」事が判るはずであります。」

●火の霊と水の霊と物質との・・・三位一体が完全に調和活動して、真の健康と長寿を得らるゝのであります。

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●霊的光力は受ての想念が70パーセント位であり、施術の想念は30パーセント位です・・・絶対とは言えませんが、数字で表わせばですが・・・。・・・これが何を意味するかというと、たとえ同じ霊的光力を受ての人に同じように放射しても、結果は受ける人それぞれの想念で違ってしまうということです。全ての人に同じ結果なるようには思えません。 「この理由は何かというと、人間は神の時代から存在する’因縁’を感じ取ることができないからです。もしそれが過去の罪だけだったら、それらは告白によって明らかにすることができます。しかしながら、霊的存在でいた間に霊界の法則を破ったことは、自分には決してわからないのです。 言うまでもなく、自分がどんな罪や穢れを積んできたか、今日現れた正神の神様に反抗して自分のご先祖様がどんなことをしてきたか、そういうことは普通の人々にはわからないのです。」 「また、たとえそれが判ったとしても、どうすることもできないのです。・・・結局は、罪や穢れの問題は、神の火の聖霊による洗礼、すなわち霊的光力よってしか、取り除くことができないものだと思うのであります。」

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●偶然、運命のきまぐれ、奇跡、偶発事故というものはこの世には存在しません。すべては整然(せいぜん=きちんとして、 正しく整っているさま。)とした犯すべからざる連鎖の法則にしたがって働く『因果律』なのです。自然の摂理 がこの全大宇宙を支配しており、どこで何が起きようとも、全てにその法則が働いているのです。そこには人間的願望や意志の入る余地はありません。自分の考えや見解や願望 によって『その法則』を都合のよいように変える事は出来ないということです。生命のあるところには霊が存在し、霊が存在するところには生命があります。此の関係がある以上は 変えることは出来ないということです。要するに、別の次元の法則が働くからこそ、そこに思いも寄らないことが生じるわけです。何らかの原因に対する結果を見ているにすぎません。 もう一言書かせてもらうならば、治癒力というものがありますが実はこれは人間が呼吸し、物を考えたり、見たり聞いたりの生活を可能にしていたのと同じ生命力なのです。 同じ力が形を変えて働きだして再び同じことを可能にさせているだけなのです。所謂(いわゆる)霊の力を患部に働かせればそこに失われていたものが回復させることが出来る という理屈になります。

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●病気というものは、大半は主として精神と肉体と魂との間が連絡正しく行われていないことも起因しています。つまり完全な一体関係が保たれていれば、健康と安定性と落ち着き 機敏性をそなえています。要するにどうしても避けられない要素の一つに、患者自身のカルマ(宿業・因緑)の問題があります。当人の霊的成長の度合いによって決まる。 精神と身体の関係です。神霊治療の仕事の大切な要素は身体を治すことではなくて、魂の琴線(心の奥深くにある、物事に感動・共鳴しやすい感情を琴の糸にたとえていった語)にふれさせることです。 魂を目覚めさせ、身体の支配力を大きくさせ、生きる目的を自覚させ霊的存在としての本来の自我を表現させることに成功すればよいわけであります。また負債が大きすぎて、手の施しようがない人がいます。 肉体を犠牲にするつまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。精神的要素のために治らない人もいます。 もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな場合は、一時的には快方へ向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。

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豆豆知識1;【さむはら】 さむはら(天御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神の三神の総称)とは、宇宙森羅万象の気をととのえて、世のゆがみを正道にもどすことをいう。 日月星辰も、人体もことごとく気と気の交流の結果生まれたものであるから、世界の気、宇宙の気を調整しなければ、 やがては邪気を発して、風害、 水害、火災、戦争、病気、飢餓がおこる。 このすべての邪気を、天授の真理によってみそぎして、地上天国の極楽浄土を建設することを、さむはらという」

『さむはら』は聞き慣れない神名ですが、福岡県前原市に聖武天皇の御世725年(千七百数十年前より伝わる秘符)にインドから渡来した高僧、清賀上人(せいがしょうにん)が 開創したと伝えられる雷山(らいざん)千如寺があり、身代わりの御守り『サムハラ』を授けています。 御利益は、十転化の功徳(悪を転じて善と化す。邪を転じて正と化す。愚を転じて賢と化す。貧を転じて富と化す。賤を転じて貴と化す。乱を転じて治と化す。危を転じて安と化す。 禍を転じて福と化す。迷を転じて悟と化す。痴を転じて仏と化す)です。


★物の原子。即ち造物主の使命達成のために現れた九星(一白、二黒、三碧、四緑、五黄、六白、七赤、八白、九紫)の気である。

豆豆知識2;かつて否現在も存続する薬寿(やくじゅ)龍王(『竜王』  四次元界はハセリミ・カケリミ神霊界といいます。この世界で活動される神は、流体化して霊界を駆けまわられます。この時、非常な早さで動くため、波を打って流れるように飛んでいかれる。 流体化すなわち龍体化されるのです。この神霊界に感応した人が龍体化して活動する神々を見て、そこから龍神という呼び名がでてきたのでしょう。黄金の光の神がこの界に降りられて龍体化すると、これを光龍神と呼ぶのです。)と呼ばれる道反玉(ちがえしのたま)を持つ龍神が存在しました。(しているの方が正しいでしょう)道反の玉とは、十種(とくさ)の神宝(かむだから)の一つで、人間の体を壮健にして軽い霊障を清める癒しの神徳です。 現在の浄霊とやらををはるかに越える尊霊発動の秘儀です.言ってみれば癒しの神法です。



魂霊(たまひ)に栄光の春来たらんを知る!!


言霊豆知識-45-2

『原子爆弾は破壊の力、火素の方は建設の力、創造の力』 掌から出る力はいったいなにかということは、一番知りたいと思います。 それを知るとともに、人に聞かれて、どういうわけで治るかということをどうしても説明しなければならないし、それには充分肚に入れておかなければならないから、 それを話します。これは、一番分かりやすく言うと、霊的原子爆弾なのです。というのは、原子爆弾というものは非常に熱度が高いのです。 これは今まで地球上に現われたことがない熱です。つまりピカドンですが、そのピカドンで地上にある物は全滅してしまうのです。

それはなにかというと、火力ですから、火力で焼けてしまうのです。原子爆弾の説明には、つまり太陽の小さいものを造るのだということを言ってますが、そういうものなのです。 太陽熱というものは熱の体ですから熱いとか光るというわけです。ところがこの霊というのは目に見えず五感に触れないものです。 いつも言うとおり、霊の方が力が強いのです。ですから太陽の火力の霊が伝わると言いますか、これも説明しにくいのですが、とにかく太陽と繋がっているわけです。 これはやっぱり科学なのですが、科学というと見えるものばかりを言うが、そうではないので、これは見えない霊科学です。 それが、霊の火力が患者の病気の所に放射すると治ってしまう。 治ってしまうということは、霊体の曇りを溶かすということになってます。 曇りというのは不純水素ということを小生は言いますが、不純水素というものは、水素の中に毒粒子・・・薬毒が固まったものです。 薬毒は、最初の、薬をのんだり注射をしたときは霊全体に拡がっているのですが、だんだん固まって、つまり硬化作用ですが、そうしてここならここが痛いとか、腫れるというのは、そこに固まったわけです。 それで固まったその不純水素というものは、つまり毒粒子がたくさんそこに集まってしまうのです。 ですから肩が張る、ここが固くなるということは、今の毒粒子がだんだん固まってしまうわけです。

それで、霊射すると、ここから出るほとんど計算ができないくらいの強い火力・・・原子爆弾よりずっと強い・・・それがゆくと、毒粒子が焼けてしまうのです。 要するに粒子ですが、粒子と言っても、非常に細かいもので、顕微鏡などでつかまえることはできないくらい細かいものですが、それが焼けてしまうのです。

毒粒子が焼けた後の灰・・・生物とすれば死骸・・・それがいろんな排泄物、膿とかになって出るわけです。 ですから放射して、痛みなら痛みがなくなりますが、痛みはなくなっても灰はそこにあるのです。 あっても痛くないということは、みんな死んでしまって活動力がなくなるからです。 それが、活動力があると動くので、痛みとかいろいろあるのです。 それで、死骸になると人間の神経を刺激しないから痛くなくなるのです。

しかしまだあるのです。ですからこれはどうしても排泄しなければならないのです。 そこで人間には、邪魔物はそこにおいておくわけにはゆかないという活動カがチャンと備わっているのです。 よく、お腹の子供が死んだ場合に、医者は切開して出しますが、これは霊射すると死骸は出てしまいます。


それは、そこにあってはならないものはどうしても出るという作用が起こるのです。 ですから、お蔭話にあるとおり、針をさして、これを霊射すると、結局出るのです。 この間のお蔭話にも足に針をさして、それが何カ月かたった後に、針の先がだんだん移動して行って、反対側から先の方から出てしまったというのがありましたが、そういうようで、 人間の体にあってはならないものはどうしても出ることになっているのです。

それで、今言う曇りの中にある毒粒子も、死ねば必ず出るのです。それを殺すということは焼き殺すわけです。それがここから出る火素で、この火素というのはそういうものなのです。 とにかくちょうど原子爆弾を発見したのと、この霊射が出たのと、だいたい同じです。 二十世紀後半ですから、時期はだいたい同じなのです。 そうすると一方は体のすばらしい強力な熱であり・・・原子爆弾の熱は二万度とか三万度とか言ってますが、水素爆弾になるともっと強いのですから、これは測定はできないというわけです。 掌から出る火素はもっと高いので、とうてい原子爆弾どころではないのです。 ただ霊ですから、そういった物質的なものはないわけです。この火素の火力というものは無限と言ってもよいのです。 この間も無限力ということを言いましたが、とにかく無限力です。 それで病原は、今言ったとおり、霊の曇りが病原とすれば、霊ですから、それを治すとすれば、霊をもって治すのが本当です。 ところが、それを体の物質で治そうとする医学はぜんぜん見当違いなのです。そこで治らないというわけです。 だいぶ難しい話になりましたから、このくらいにしておきますが、原子爆弾は殺人光線、霊の方の火素は活人光線と名をつけたのです。

片方は殺す光線で、こっちは生かす光線で、反対なわけです。それがちょうど同じころに地球上に現われたということは、非常に意味があるわけです。 いつも言うとおり地上天国というのは創造・・・建設ですが、つまり破壊と創造です。ですから原子爆弾は破壊の力です。 それで火素の方は建設の力、創造の力です。 だから霊射によって、滅ぶべきものを生かす、破壊さるべきものを創造するということになりますから、その点から言っても破壊と創造ということがよく分かります。 医学が病気を作り人間を破壊し、こっちは霊射でそれを治すのですから、これも破壊と創造ということになります。

言霊豆豆知識-1;福島原発事故による放射能と広島・長崎原爆の放射能の違いは?

核爆弾の放射能は爆発した時に拡散し、その後は半減期に沿って『減少するだけ』でしたが、福島原発のソレは今も核反応と放出を続けてるので、半減期とか意味が無くって、 放出を続ける限り全国各地の「汚染濃度」がどんどんと濃くなって、広範囲に広がる事になります。

補足;放射能というのは、放射性物質が放射線を出す能力のことです。 放射性物質は、そこに存在するだけで放射線を出します。また、核分裂の連鎖反応(臨界)を起こすと、出てくる放射線の量が増えます。 ただし、放射線自体は、そこまで遠くまで届くことはありません。問題になるのは飛んでくる放射性物質が出す放射線です。 原爆は、さほど多くの放射性物質を使用しません。少ない放射性物質をいっぺんに分裂させて(即発臨界)、膨大な熱と爆風を発生させます。 原発は放射性物質の濃度を低くしてあるので、じんわりと加熱します。(といっても、結構な熱が出るんですが)また、大量の放射性物質を炉内に入れて使用するので、 仮に放射性物質が漏洩すれば環境への影響は甚大になります。

自然放射性物質による食物からの内部被爆の日本平均は 0.41 ミリシーベルトらしい。これをベクレルに換算すると、 1 日にセシウム 86 ベクレル分に相当する。 これは、日本人が生きていくうえで避けることができない被爆だが、今まで誰も気にしていなかった。まさに知らぬが仏。計算方法 0.41 / (0.000013 * 365) = 86.4 Bq (ベクレル)

放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律(環境の規制)

では、一般公衆が生活する事業所境界の外は、3ヶ月で0.25mSvを超えてはならないと定められています。(年間1mSv相当)

「すでに日本中が福島第一原発から漏れ出す放射線に汚染されているが、東北・関東地方は特にリスクが高い。福島第一から100km以上離れている地域でも、 風の流れや地形の問題で放射線が吹き溜まっているところがあり、妊婦やお子さんの旅行先には注意が必要です」


言霊豆豆知識-2;放射線について

(1)放射線、放射能、放射性物質の違いについて
「放射線」は物質を透過する力を持った光線に似たもので、α(アルファ)線、β(ベータ)線、γ(ガンマ)線、X(エックス)線、中性子線などがある。放射線はこれらの種類によって 物を通り抜ける力が違い、それぞれ異なる物質で遮ることができる。この放射線を出す能力を「放射能」といい、この能力をもった物質のことを「放射性物質」という。

放射線の種類と透過力

(2)単位について

1)Bq(ベクレル)

放射能量、すなわち放射線を放出する能力の強さを表わす単位であり、1 秒間に1 個の原子核が崩壊して放射線を放つとき1Bq という。ただし、放射性物質の種類によって放出され る放射線の種類や強さが異なるので、同じBq の放射能を有していても、放射性物質の種類が異なれば、人体への影響は異なる。

2)Sv(シーベルト)

放射線の種類による生物に対する影響の違いを加味して、同じ数値なら同じ生物学的影響を与えるようにしたもの。測定結果が同じSv であれば、人体に与える影響は同程度である。

3)CPM(カウントパーミニッツ)、CPS(カウントパーセカンド)

CPM は1 分間あたりの計測された放射線数を示し、CPS は1 秒あたりの計測された放射線数を示す。

(3)放射線測定器の種類について

1)ガイガーミュラー計数管式サーベイメータガスを封入し、電圧をかけた容器に放射線が入射すると発生する電流を信号として検出する測定器。シグナルを電気的に増幅するため誤差が大きい。

(4)外部被ばくと内部被ばくについて

放射線による被ばくには「外部被ばく」と「内部被ばく」の2 種類がある。「外部被ばく」とは、体外にある放射性物質から放出された放射線を受けることで、「内部被ばく」は放射性物質 を含む空気、水、食物などを介して、放射性物質が体内に取り込まれることによって起こる。
「外部被ばく」は放射性物質から距離をとることで被ばく量が減るが、「内部被ばく」は放射性物質が体内に残るため、体外にその物質が排出されるまで被ばくが続く。

(5)放射線被ばくの規制について

国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection、以下ICRP)によると、公衆被ばくは1 年間で1mSv を線量限度としている。なお、1 年間に浴び る自然放射線は、世界平均で2.4mSv(日本では1.5mSv)とされている。 食品安全委員会は今回の福島第一原子力発電所の事故において緊急に検討すべき物質として、「放射性セシウム」と「放射性ヨウ素」を挙げており、厚生労働省はこれらの放射性物質につ いて暫定規制値を設定している)。

最後に放射線・放射能を受けたならばというか受けなくても人間の体と言うものは霊(霊には影響は無いが)であるから、又肉体を保持しているので先ずは肝臓・腎臓を霊光力し心臓に霊血(血は霊だからである)を入れてあげれば何事も無いはずである。 毎日霊的光力(摩訶不思議の業)を受けていれば問題は無いはずである。此れは小生の見解である。試しに遣って見てはいかがであろうか。まぁこういう自体になると言う事は何か神様は意図があってのことだとは思うが・・・。 今後はこの様な自体からは逃れられない事に気が付かなければならない事だと思うのである。何を施しても早く人間は見えない世界を受け入れなければ解決は出来ないのである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-45-3

『絶対力』

そもそも宇宙における森羅万象の活動の源泉は、言うまでもなく神の力である。一切の生成流転も力の現れであり、万有を動かすのも、静止させるのももちろん力である。 人間始めあらゆる動物から、黴菌に至るまで力によって生まれ、力によって死滅する。要するに、力こそ無限絶対なる支配者である。 こう書いてくると限りがないから、このくらいにしておくが、詮じ詰めれば宇宙そのものが力である。 そこで小生は力について、おのおのの角度から書いてみようと思うのである。

まず力なるものを言霊上から説いてみると、チは血であり、霊であり、カラは空であり、躰(からだ)であり、体である。としたら、力とは、霊体合致して生まれるものである。 また人の言霊を解釈してみるとヒトのヒは霊であるから、霊が体へ止まる。 すなわちヒがトまるのである。以上のごとく、力とは霊体一致したのものである。

次に文字であるが、力の形は最初縦棒を引き、次に横棒を引いて十字に結ばせ、次に横棒の末端から、やや斜めの棒を引き、その尾が跳ね上がる。 つまり経緯結ぶや活動が起こる意味で左進右退に回転し始めるのである。すなわち力の活動である。 という訳で、いつも言うとおり言霊も文字も、全く神様が造られた事が判るであろう。 次に今度は実際面の事から説いてみよう。これを最も大きな意味から言えば、世界の二大思想である。

言うまでもなく、唯心思想と唯物思想であり、精神主義と物質主義であり、霊的文化と体的文化である。 これを宗教的に見ると一番判り易いからそうしてみるが、右の表われが世界の二大宗教としての彼の仏教と基督(キリスト)教である。 前者は東洋的経(たて)であり、霊であるに反し、後者は西洋的緯(よこ)であり、体であるのは、しばしば小生が言う通りである。

ところが今までの世界は、この経と緯とが別々になっていたため、本当の力が出なかった。 その何よりの証拠は、今もって世界的和合統一が出来なかったため、人類は救われなかったのである。
その事については、まず歴史を見てみよう。 原始時代を経てようやく人間の生活らしいものが生まれてから、最初は太陽崇拝、自然物崇拝、人工物崇拝というようになってから、ついに人間崇拝とまでになったので、 その頃から原始宗教が各地に現れ始めたのである。 それから、ようやく初期文化時代となって生まれたのが仏教、回々(フイフイ)教、次いでキリスト教であるが、前二者はもちろん根本は経であるから、 真の力が出ないと共に、キリスト教も根本は緯であったから、ヤハリ力が出なかった。 という訳で、結果としては前者は経に片寄り、失敗とはゆかないまでも、仏教はようやく日本にだけ形を残しているに過ぎないと共に、フイフイ教もアジアの一部に伝統的に固まっているのみである。 また後者のキリスト教は緯であるから、世界の大部分に広がってはいるが、目標の理想世界は実現しないどころか、地獄が多分に残っている現在としたらこれも失敗であるといえよう。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-45-4

〇心臓は太陽の霊気を吸う

この療法は霊的療法ですが、ところが、いままでは心臓が非常に無視されている。 この療法で、肺は月、心臓は火、胃が土という記述をしましたが、 胃は土ですから七で、肺は水で六、心臓は五で、やはり五六七になっている。 実は五が主で、心臓は霊気を吸う。太陽の霊気を主として吸う。 根本は太陽の霊気を吸うにある。このことも血が浄化される。 きれいになればあらゆる病気は治る。

それを知れば空気中に酸素があれば、それで血が浄化されると思っているが、心臓が絶えず霊気を吸収して血がきれいになる。 これが本当の心臓の働きおよび霊気である。血が浄化されるからきれいになればあらゆる病気は治る。 要するに霊気が一番重要な役目になっている。

要するに、この療法は霊気療法で、世間にも霊気療法はあるが、本当のことは知らない。 霊気も人間の霊界じゃない。太陽を主とした月も交わった霊気です。 で、観音力でするにも無論霊気は出ている。それで血が浄化している。 空気のいい所へ行こうとするのは旧時代の療法で、今度はいい霊気のある所へ行き養生するのです。 いい霊気のある所はどこかといえば、七次元(ス神)よりほかにはない。 ほかにも多少あるがごく弱い。月の霊気もある。むしろ月の霊気は違う。

太陽の霊気は放射する霊気、月の霊気は汚いものを洗う贖罪的(自分の犯 した罪)のもので、これは限りがある。 すなわち水のほうには限りがある。日のほうは無限でいくらでも燃える。浄化される。 その霊気はどこから発生するかというと、七次元よりから発する。

霊気を発する。それによって絶えず霊気を発して浄化される。
元々、浄化療法とか浄血療法とかいっても、健康の根本は霊気を浄化するのが根本で、 空気のいい所へ行っても肺で死ぬ人はたくさんにある。 東京からそうとう離れた空気のいい所へ行って、そうとうの効果はあっても、 絶対にすばらしい効果は得られない。

また空気のいい所にいて肺病にならぬとは限らぬ。 霊気は、空気より何十倍何百倍いいもので、 空気だの紫外線など言っていても、この光の本体は科学で発見されず判っていない。

月は汚いものを洗う霊気であり自分の犯した罪を洗う霊気でもある。そして日の霊気は放射する霊気でもある。そして太陽の奥の奥は黒点であり、その火力はは無限に燃え、すべて浄化される。 これは霊気自体を浄化するものである。

★どんなことを言っても此処に書かれている事をを読めば、どこか引きつけられることがあるように書いてある。 ですから、読んで実践をしていけば好いわけで、それが一番で、それによって一つの種を蒔くのです。 活字で種を蒔くのは非常に力のあるもので、これを読めば病気が治るのであるが、どんな病気でも、だれでも病人に読んで聞かせ、また自分が読んでも治る。活字には意力があるのである。此れ全て神の文字(もんじ)なり!!



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-45-5

『鰯の頭も信心とは大いなる誤りである』

昔から唱えられて来た「鰯(いわし)の頭も信心から」と言う言葉がある。その言葉を一般の人は、真理であるかの様に思っているのであるが、これは大変な誤りである。 そもそも人間が、神向的信念を以て拝む場合、その本体即ち、的であるところのものは、飽くまでも崇高なる神格と、正しい第一義的の神霊でなくてはならないのである。 それは、いかなる意味かと言うと、崇敬し、拝跪(はいき)すべき御神霊は、人間よりも、霊的段階の最上位の御神格程良いのである。何となれば、 常に礼拝する御神格が高ければ高いだけ、人間の霊魂はより向上すべきものなのである。 この理によって、鰯の頭を拝めば、鰯の頭以下の霊格に墜ち、狐狸を拝めば、獣類以下に墜ちるのは当然である。

故にこういう低級信仰を続けるにおいては、知らず識らず、その人の心性は獣類以下に下劣となり、利己的となるものである。 その結果、善に属する事よりも、悪に属する行為をし勝ちになり、それが又、罪を構成するから、その罪によっていつかは不幸を招き、悲惨な境遇となるのである。 故に熱心な神向をしながら、不幸や病気、災難などに、次々悩まされるという訳は、その神向の的たる神霊が、実は、低位の神か又は邪神系統に属する神なのであるから、 その点を充分注意しなければ、反って信仰すればする程、不幸な境遇に陥るのである。

真に正しい、高位の神仏を神向、礼拝するにおいては、月日を経るに従い、病人は無くなり、物質は豊かになり、一家円満にして、自然に栄えてゆくものである。 しかし、こういう神向はまことに少いので、世の中を見渡しても、ほとんど見当らない位である。 大抵の信仰は、いか程信仰しても、不幸が消えないので止むを得ず、不幸は神の試練だとか、罪障消滅の為だとか、種々苦しい言訳を作り、果(はて)は不幸を楽しむのが、 真の信仰に徹底した人のようにいう様になったので、実に間違いもはなはだしいのである。これを以てみても、今日までの信仰の価値は想像出来るであろう。

しからば真に正しい、高位の御神霊は、何神で被在(あらせ)らるるかというと、それは主の神の表現神で被在らるる天照皇大神様であられるのである。 天照皇大神様は、最尊最真の御神格に渉らせらるる故に、人民が自己の希望を念願し奉るごときは、まことに恐多いのである。 恐多き儀ながら、陛下に対し奉り、人民が直々に、何とも願い言は叶(かな)わないのと同じ意味であるのである。
この故を以て、主神は、伊都能売神(いづのめのかみ)を介(かい=通して )して観世音菩薩に、救の力を与え給うたのである。

ここに、一切衆生を救わせ給うとしては、神の御名においては、その格位に対する神律上、ある程度より下らせ給う事は、不可能であるから、止むを得ず、 神界より下位である仏界に、顕現され給うのである。しかも菩薩位は仏界においても、低位であるから、いかなる卑しき、賤(しず)が伏屋(ふせや)でも、 奉斎する以上、鎮まり給いて、御守護被遊(あそばさ)るるのである。随って、正しき事は、すべて受入れ賜うのである。

最高の御神格に被在(あらせ)らるる、天照主日大御神様を御奉斎するには、相応の理によって、その神床も祭壇も、在厳にして、清浄でなくては恐多いのである。 勿論一切檜造りにして、礼拝する上にも、その都度斎戒沐浴して、弥(いや)が上にも慎重な心構えを以て、なさなければならないのである。今日のごとく、 千余年以上、仏教弘通された為に、神を忘れておった日本人としては、今直ちに、厳格なる式法を以て臨むのは、全く無理であろうと思うのである。

それ故に、いかなる家、いかなる場所といえども、それ相応に、簡略に奉斎され得て、しかもいかなる願事を申しても、非礼の罪を赦させ給うのが、 観世音菩薩の大慈大悲の御心であり、又、時所位に応じ円通自在、自由無礙なる所以(ゆえん)であり、到るところ、救いの光を恵ませ給い一切衆生をして一人も漏れなく、 慈光に浴せしめん、有難き御本願であるのである。無礙光(むげこう)如来の御名こそ、まことに能(よ)く、それを表わし給うと思うのである。

又現今、各宗教の祭神及び本仏は、外国系統が多いのであるが、それはほとんど、世人は気が付かないのである。日本人は、最優秀の霊格であるから、それに相応しない、 外国の神仏を拝むのは、大いに間違っているのである。今日これ程多くの宗教があり、それぞれ信仰をしているに拘わらず、病気や不幸が多い原因としては、 それらの点もすくなからずあるのである。 これを要するに、日本人としては、天照主日大神様を尊信し、伊都能売神又は、観世音菩薩に対し奉り、御守護と御霊徳を願い奉る事が、最も間違いない神向である事を、 心得ねばならないのである。

言霊豆知識-46-1

『胃癌(いがん)』  此病気も既記の如く真症と擬似とあるが真症だけを書いてみる。真症は殆んど霊的原因で、最初胃部に固結が出来るが、気の付かない位小さなものが漸次膨大(ぜんじぼうだい)し、 拳大又はそれ以上に及ぶものさえある。そうして固結が胃部又は幽門部を圧迫食欲不振となり、痛苦を伴い衰弱死に至るのである。右の固結は一個又は数個のものもあり、 指頭を以て探れば柔軟なるが如くで、中心は頗(すこぶ)る硬く、治癒は非常に困難である。此病気の特異性としては末期に至るに従い必ず頻繁(ひんぱん)なる嘔吐を伴い、 特に吐瀉物は透明なるヌラでその多量なる事驚ろくべく殆んど無際限とさえ思われる程である。又此ヌラは癌毒から発生せる液で普通は無臭であるが、 人により頗(すこぶ)る悪臭のものもある。重症は此ヌラが胃中に充満し食欲を絶無ならしむるのである。

 真症癌は霊的で特に胃癌はその代表的のものである。然らばその原因は如何にというに、竜神の再生者が前世竜神時代の罪穢に因るのである。 竜神は蛇であるから、蛇の時代多くの生物を呑み、その多数霊の怨霊が残存し、人間に再生してから執拗(しつおう)に苦しめる為で、 その霊の物質化が癌とそうしてヌラである。

勿論之等も一種の浄化作用である。故に真症癌患者の面貌(めんぼう)は殆んど竜神型である。霊光力を放射するが衰弱が甚だしときは、 症状により相当長期間を要するものである。

胃癌でありますが、これには真症胃癌(本当の胃癌) と疑似胃癌(ニセの胃癌)とがあります。そして実際には疑似胃癌(ニセの胃癌) の方がズット多いものです。 そうして本当の胃癌はその原因が霊的ですから宗教的になりますので、ここではニセの胃癌に就いて説明します。

もちろんこの病気の原因は薬毒でありまして、前に説明しましたよう胃の中に残っていました薬が一旦背中に固まり、それが胃にもどった時に医療(医学的治療法)は浄化作用を止めようとする結果、薬はまた固まります。 つまり薬は二度固まる訳です。これは普通の固まりより悪性です。何故ならば毒素に変化したものが更に固まるからで、これが問題の癌であります。しかしニセの胃癌の原因は薬毒でありますが、 これは薬の性質によりますのでどの薬でもそうであるとは言えません。ニセの胃癌は薬毒が原因となって起こる浄化作用の一つですから、放っておきましても長くは掛りますが必ず治るものであります。

胃の具合が悪かった時、放っておけば直に治ってしまったものを何しろ医学迷信に陥っている現代人のことですから薬を服まないと治らない、放っておくと段々に悪くなると心配して少しでも早く医師に罹ったり売薬などを用いたりします。 そんな訳で全く薬によって重症胃病を作り上てしまう訳であります。何と恐ろしい、又愚かな話ではありませんか。 ところがそれはこうであります。大体胃の薬というものは、もちろん消化を良くして早める薬ですから、消化剤は必ず重曹が基になっています。

誰でも知っていますように重曹は物を柔かくする力がありますので、煮物などによく使われますが、その理由でいつでも消化薬を服みますと食物ばかりではなしに、 胃壁まで段々に柔かにしてしまいます。そうなった時に固い物などを食べますとブヨブヨになっている胃壁の粘膜に触れますから傷がつきます。 その傷から血液が漏れるのであります。


血を吐き出す場合、鮮血色の血は新しい血で、破れた局所が大きい程多量に流れ出るのであります。処が人によってはコーヒー色の液体でその中に黒い粒が見える事もありますが、 これは古くなって変色した血で、粒とは血の固まりであります。 又よく大便に黒い血の固まりが混じる事がありますが、これは古い治の固まりが混じる事がありますが、これは古い血で傷口から出ました血液が胃の底に溜まって固まったものが溶けて出たものであります。 しかしこのコーヒー色の古血を吐きます場合は非常に量が多いもので、一度に一升から二升位毎日のように吐く患者さえありますが、こうなりましても霊的光力を受けますと割合に治りいいものです。 しかしこの病気は医学の方では中々治り難いものとされていますが、全く原因が薬でありますからお医者さんとしましたら具合が悪い違いありません。

何しろ薬をやめなければ治らない病気ですから、従ってこの病気は薬をやめて気長にしていれば必ずといいたい程に治るものでして、その方法は最初血液が少しでも見えます間は流動食にしまして、 血液が見えなくなるに従いまして次第に普通食にすればいいのであります。

先ず薬を服みますと一旦胃に入り、前に説明しましたように薬は処理(消化)されませんので胃の中に残ってしまいます。人間は仰向けに寝ますから胃の中の薬は胃の裏側の背中の方にしみ出て固まります。 この固まりが浄化作用によりまして溶かされ胃にもどってきますが、その時には毒素に変化していますので胃はこの毒素を外に出そうとします。 その刺激が胃痙攣の激しい痛みですから、この病気がおきましたら何もしないで我慢していれば、痛みが終われば毒素は下痢になって出てしまいますからすっかり治ります。

しかし毒素が全部出てしまう迄は何回も痛みが起こりますが、これは仕方がありません。しかし痛みが起こる度に必ず痛みは前よりは軽くなって、毒素が出切ってしまいますと全快という訳であります。


『アレルギー性疾患について 』

近年、日本ではアレルギー性疾患が急増しており、医者は様々な症状に対して様々な名前をつけ、様々な治療法を用意しているようです。アレルギー性鼻炎についてもですが、 実は、多様な症状として現れるアレルギー性疾患も元は一つに過ぎません。 テレビのワイドショーや製薬企業の宣伝でも、アレルギーはたいへんだと言って、適切な医薬処置を誘導していますが、これこそ悪の権化であり人類への犯罪だと小生は受け止めています。 もちろん、生死を分ける緊急時や外科的処置については、やむを得ない場合もあり、また技術進歩によって救われた人も多いと思っています。

人間の体、メカニズムは極めて精緻にしかも大胆につくられており、例えば体に切り傷ができれば痛いと感じ、その痛み具合で傷の程度が分かり、 それ以上のダメージを回避するような行動を自然に起こすものであり、また、体にとって良くないものを食べた場合、それを体内から排泄するため、 下痢や嘔吐が起きるように、体に良くないものが蓄積された時は、それを改善するために緩やかに排泄しようとする機能が働くのです。

その改善機能の分かり易い状態が発熱、痰、鼻水、汗、下痢、排尿であり、いずれも毒素排泄のために起きる現象で、その一連の状況が一般的に風邪と呼ばれる症状です。 インフルエンザも風邪も発生起源(引き金)が異なるものの、根本原因はその人自身の体内浄化機能が働き、体内毒素を排泄すべき状況に至ったことに過ぎません。 ウイルスを主犯に仕立て上げてみても、インフルエンザや風邪を100%防ぐことはできません。元来予防接種は入らないものです。一旦体内に入れると色んな病気を引き起こす原因を作るのです。 風は自分の体を健康へ戻すために起きる自然の体質改善メカニズムです。

しかし、現代日本は金拝思想であり、権威主義ですから医者や製薬会社は金儲けのために過激な誘導広告を行い、洗脳教育をして患者を作り上げ、 金のなる木である顧客として囲い込むシステムを構築し、一般人は一般人で頭脳優秀な医者が言うことだからとして、鵜呑みにそのシステムへ参加し満足しているのが実情です。 こうして、風邪を引くことで排泄すべき体内毒素を薬で止めることが常識となってしまえば、体内の毒素はどんどん溜まり、しかも服用した薬も毒として体内に蓄積されますから、 体中が毒だらけになっているのが現代日本人の姿です。

体が毒だらけになれば、また風邪を引きますが、さらにそれを薬で止める悪循環を繰り返し、体が悲鳴を上げる状態となった時、杉や檜の花粉、寒冷、 カビなどが引き金となってアレルギー疾患などを発症します。ですから、杉や檜がこの世から消え去ったとしても、別のものが引き金として代替するだけでしょう。 現に、私自身が約30年前に杉のアレルギー鼻炎(当時は花粉症の言葉が無かった)で散々苦しんだ経験がありますが、体質改善の結果、先日も杉の森の中を歩き回ったものの何ら症状は出ませんでした。 風邪は「毒素が溜まったので排泄します」のサインであり、アレルギー性疾患は「毒素が体の限界まで溜まりました。 これ以上放置すると取り返しの付かない重病に陥る危険性があります。」のサインに過ぎず、本当は感謝で受け止めるべき現象です。

そのサインをきちんと受け止めて正しく対処すれば、一定の期間で本来の体に戻るのですが、薬で止める悪循環によってアトピー、喘息はもとより脳疾患、癌、精神病などの重病へと進化して行くのです。 人それぞれの抵抗力や、体質によって現れ方に個人差が生じますが、薬を用いるのは命を掛けるような厳しい状況に限るべきでしょう。なお、 薬については漢方薬の方が体内組織と癒着しやすく、排泄しづらいため厄介です。 とくに、この薬禍は毒素のエキスとして子孫へ伝わりますので、日本人の場合、1950年代以降、食品添加物や薬などを摂取する量が急激に増えているので、 団塊世代の孫を筆頭に年齢が下がれば下がるほどアトピーや喘息、アレルギー疾患が増加する傾向にあるはずです。

それを解決するためには霊的光力がもっとも適切ですが、日本人は神向き嫌いが多いので次善の策を考えるとすれば、

1、徳を積むこと。

  2、健康的な汗をかくこと。

  3、薬を使わない。(とくに漢方薬)

  4、農薬、添加物の少ない食生活を送る。

5、体を冷やさない。

6、感謝の気持ちを多くする。

7、先祖供養を心がける。

8、自然に即した生活をおくる。

9、ストレスの無い生活を心がける。こんなところでしょうか。


霊格を高め、免疫力、抵抗力を高めることにつきると思います。

とは言え、神向嫌いや神向の本質を学ぼうとしない心が、すでにゆがんでいるかもしれませんが。 また、近年うつ病も増えており、様々なストレスの影響も大きいのですが、根本的には延髄周辺に薬毒が溜まり、それが脳への血流を妨げ正常な判断が損なわれることに起因していると思います。 極端な場合は脳内の貧血を利用して動物霊や怨霊が入りやすくなり、精神障害や自殺などに深化するケースもあるでしょう。

さらには、癌になりましたと悲しい言葉をたびたび聞きますが、言葉を裏返して厳しくお応えするならば、「愚か者のいいわけ」でしかなく、癌もウイルスや遺伝ではなく、 霊界の罪穢れの量と現世で作った不徳と薬毒の量による影響であり、本人の生き様の結果に過ぎません。生き方や考え方を変え、徳積みを励行し感謝の心が拡がれば、 少なくとも癌の進行は止まり、心が根本的に生まれ変われば消えるのが摂理です。

日本人にはどうしようもない正真正銘のたわけ者が増殖中ですが、それを誘導する医者(医者の後継が三代続かないと言われています。この原因はなぜか。)や製薬関係者の罪は恐ろしいものがあると思います。

医者とはユダヤの石屋(石屋⇒医者になった)が考えだした。墓石をやっていたユダヤの商人が、倒産するようになったから何か方法が無いかと考えているうちに、木か草の根で病人を治したのが始まりです。 オデキか何か。それが始まりになっちゃって、医薬によって治す、これは儲かるなあと始めたのが医学なんです。ユダヤ医学なんです。医学の歴史ですから。お医者さんに聞いてみて下さい。

●言霊豆知識;@神向とは神に向かって波長を合わせる事です。A信仰とは人の言(ことば)を仰(あお)ぎみた事です。この違いを世の人は勘違いしているのです。本来は@の方です。


生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-46-2

『喘息(ぜんそく)』 喘息に関しては、医学では全然判っていないのである。というのは医学における喘息の説明は、ほとんど問題になっていないからである。 ヤレ、アレルギー疾患だとか、迷走神経の緊張だとか、神経過敏性とか、そうかと思えば食物とか、土地とか、中には部屋の構造、壁の色まで関係があるというのだから、むしろ滑稽でさえある。 従ってなるべく詳しく説明してみよう。 医学でもいうごとく、喘息は大体二種ある。気管支性と心臓性(近来こちらはアレルギー性ともいう)とである。 まず心臓性からかいてみるが、これは最初横隔膜の外部に、薬毒が固結するのである。それに浄化が起るや微熱によって溶解、液体状となり、肺へ浸潤して喀痰となって出ようとするが、 この場合横隔膜部は肺臓から距離があるので、液体の方から浸潤する事が出来ないためと、肋間に毒結がある場合浄化によって液体となったが、人により肺膜の厚い場合容易に浸潤し難いので、 肺の方から最大限に拡がり吸引しようとする。そのように大体右の二つの原因であるという訳は、肺はそのような猛烈な運動のため、肝腎な空気を吸う力が減殺されて、窒息状態となるのである。

何よりもその際肺に侵入した毒液が、咳と共に痰になって出ると、発作は一時楽になるという事や、また肺炎に罹ると一時快くなると言われるが、これは高熱のため固結が溶解され、痰になって出るからである。 右の理が間違っていない事は、何よりもまず心臓性喘息患者の、横隔膜部を指で探れば、必ず固結を見る事である。

次に、気管支性喘息であるが、これは肋骨付近に固結している毒結が、浄化によって少しずつ溶けるので、それをヤハリ肺の方から吸引しようとして肺臓は猛烈なポンプ作用を起す、 それが咳であるから、これによって痰が排泄され、一時快くなるのである。しかし痰の量が多く出れば出る程、短期間に治るのであるが、それを知らない医学は、極力固め療法を行うので、 少しづつしか痰が出ないばかりか、薬毒も追加されるのと相まって、治り難くなり、慢性となるのであるから、丸で笊(ざる)へ水を汲んでいるようなもので、 人により何十年も苦しんで治らない者はそういう訳である。 これを考えたなら患者も医師も、実に気の毒の一語に尽きるが、何とか分らしたいと常に思っているのである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-47

病気や怪我、あるいは人生における一切の忌み事、嫌な出来事すべては、「霊界の曇りを払拭する作用であり、先祖や自分自身の魂向上のために起きる現象である」しかも、 「本人が乗り越えられない現象(試練)は起きない」事になっております。また「清浄化は神の大愛」とも表現されています。ですから、人によっては、 病気になると「清浄化だ」といって喜んで、なかなか治癒しないのを「神から愛されている」と解釈する人もいますが、これも誤解であって、なるべく速やかに改善され、 浄化たらしめることが大切でしょう。この浄化たらしめるという点について、最も重要なことは気づきだと小生は思っています。

すなわち、一切の病気や忌み事が霊界の曇り払拭のために引き起こされ、乗り越えられない現象(試練)は起きないということは、実は魂向上を図るための学びの現象であり、 霊界の曇りの原因を想い、体験している忌み事から何かを学び、反省し、気づき、そしてそれらの反映としてこれからの自分の新たな生き様を模索する。 大げさなことではなく、我利から利他へ向かう日々の積み重ねの中で、こうした一連の心の動きこそが学びに必要な要件のように考えます。

こうして、忌み事の中に神からのメッセージを汲み取り、その答えを腹に落とすことで始めて自分(心)が変わり(自覚なく変わっている状態)、 真に浄化できたと言えるのではないでしょうか。 表現を変えれば、病気や忌み事の治癒は現世における物質的側面の回復と云って良いかもしれませんが、浄化は魂レベルの治癒であり、 伴って霊主心主体属の法則【たとえて見ますと水は川上から川下えと流れます。そして霊、心、体の関係は相即相入、密実一体〈三位一体〉となっております。 川上と川下とは離れている分けではありません。これは密実一体になっている理由です。流れてくるのは、必ず霊の方から流れてくるのです。霊が変わると初めて肉体が変わってくる事になるわけです。

したがって霊の面の川上が曇りますと、放っておいても、心の世界も、すぐに曇り、やがては体には、濁微粒子が発生します。心の面、体の面と一生懸命努力しても、霊の面に曇りがあれば、 どんな真面目な方でも、立派な方でも、事故にあったり病気をしたり、殺されたり、商売、事業がうまく行かなくなったり、生活が苦しくなりするわけです。】によって、 治癒は当然として、心が向上し、精神的、肉体的、経済的など他の部分でも、以前よりも何らかの向上が観られるわけです。


逆に病気や忌み事を、文字どおり「イヤ!」「辛い」「逃げたい」など苦悩や悲嘆に受け止めれば、想念に曇りが生じて浄化どころか汚濁化となり、 病気になって医薬にすがるのもそれに該当しますが、ましてや苦しさのあまり、犯罪や自殺、他人を苦しめる行為に至れば悪化の度合いはますます激しくなり、 病・貧・争の地獄的世界へ堕ちて行く結果が待っていることでしょう。 そしてこれらは、この世の摂理として起きる事象ですから、前記を知る、知らないにかかわらず、 あるいはキリスト教・イスラム教など他宗教であろうがなかろうが、人類すべての人に共通することなのです。

どうして霊界があるとやかましく言うのかと申しますと、たとえばアメリカと日本が霊界で戦争が始まると必ず現界では日米両国は戦いを始める。このように集団が霊界で戦いを始めると 全世界が戦争が行われる。武力で相手を征服すればやられたほうの霊統に必ずやられる。こんなことを繰り返していたら人類はいつまでたっても現界には幸せな時代は訪れないのである。 各先祖と現界とは霊線でつながっているから、両国間の感情衝突が起こって戦争が突発するしこれが集団霊障となるのです。また動物を大量に殺しますと必ずその動物霊が人間達に 憑依して仇をしてくるものである。この様に霊の世界を知らないと結果的には全て霊障を受けるようになるのです。ですから受けないように浄よまりなさいと口やかましく言っているのです。

豆々知識;此れまでの前記を読んで、よく誤解したり非難したりする場合があるようですが一部の悪い点だけを誇張していう癖があります。一体世の中に完全なものがあるだろうか?。 どんなに良いものでも十のものなら八か九つ良くて一つ二つ位 悪いという事は止む得ない事でもある。それを八つか九つの良いことを蔽(おお)いかくして、一つの悪い点を全部かのように思わせるような悪宣伝をする者もある。 体験もした事のない人がよく言う事である。又経験が出来ないというのも霊的なことかもしれないが?。大いに警戒すべきことだと思う。後もう一点であるが如何(どう)しても伝えなけなければならない時には 方便ということを使う時などもある。今の人間はやれ証明しろだとか根拠がないだとかへ理屈ばかり言って喧(やかま)しいが、何かを得るためには物事に余りとらわれない事も肝要である。だが奇跡ばかりの安易な考え方もあまり思わしくないのである。もっと上を見てほしいものである!!

またどの辺りが方便なのか検討できるかが御自分の霊的な神性が要求されるものである。そして自分どんなところが大切なのか解ってくると小さき事など如何(どう)でもいい事であるものだ。 そして最後にいかなる宗教・崇教と云えども欠点がある。それは人間に欠点があるからである。教える人も教わる側も皆欠点があるからである。 神がこの人を使えさせようと思うと、たとえどんな経歴の持ち主だろうが遣わすものである。人間的な考えなど及ぶものではないのである。これが神から見た映写である。 肝心なのは見えない世界があるということと、霊界から全て流れてきていることと人間は神の主型であるというほかならないのである。 今まで色々記述してきましたが後は知識として受け入れて行けばよろしいかと思うのである。


●旧約聖書の中に次のような話があります。アブラハムは、「ウル」を出た後、神様からさらに試みられています。アブラハムが神様と話された時、神様から「あなたは私を信じることができますか」 アブラハムが「はい、信じます」と言うと、「それではあなたの子イサクを、私の生け贅として供えなさい」と神様が言われたと、そのように書かれています。 神がこんなことをおっしゃるはずはありません。アブラハムが、もう七十、八十歳になってからできた、そのいとし子を殺して私に供えなさいなど、そんなことを言うのは、神でなくて悪魔です。

しかし、聖書には言葉としてはそのように書かれています。それは、自分の可愛い子供より以上に神を信じる、それほどの思いをもって神様を信じなさいという譬え(比喩)です。 丸呑みをしてはいけません。しかし、それを信じて堂々と説いている指導者もありますね。とんでもないことです。盲信、狂信の世界に人を引きずり込みます。

●さて神様には奥深い考えがあるから、その人を色々と試し使おうとしているのではないでしょうか。世人達はある程度したがって時を見定める必要もあるのではなかろうか。その後自分自身の霊性を生かして見定めたらいいのでは ないでしょうか。全てにいえる事だが、一朝一夕(物事を達成するには難しい短い時間のたとえ。)には理解出来ないし時間がかかるものであるから、根気強く遣らねば達成できないものである。
物事とは無になる事はこの世には存在しないものであるから例え自分にとって必要が無かったと思われる事でも必ず後になれば解るものである。

● 人間はいろんな方向性に分かれて行く。例えば岩に落ちた種みたいなもので、根が無いからしばらくは良い教えも続くが試練が来ると直ぐにぐらついてしまう。

● 道端に落ちる種みたいな人間とは、御教(みおし)えは聞くには聞くが、すぐ闇の世界(いろんな人間が云う言葉)の言葉が囁(ささや)き、御言葉を奪ってしまう。

● イバラに落ちる種みたいな人間とは、御言葉(みことば)を聞くには聞くが富や快楽で心を塞いでしまう。決して実を結ぶことはない。

● 好い地に落ちる種とは、御言葉(みことば)を聞いたらそれを正しい心で守り、好く耐えて豊な実を結ばせる人のことである。




生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-48

『霊的光力(大玄霊光の主)』はあくまで手段として、治病の方法のひとつであって目的そのものでなく、本当の目的は今までの医学でも、 また世界の聖人でも説けなかった「薬毒と病気」の関係を示しているものですし、また正法を知らせる為でもあります。 病気の原理とは治病力などはそれを証明する枝葉のことです。人類想念一大転換(Uターン)の時なり

●本当の治病力は人に備わっている神からの治病力 自然良能力 なのです。

しかもその自然良能力が心身の掃除としての「病気」(浄化作用)を引き起こす原動力となっているのです。 それで病気は決して悪いものではない。どこまで行ってもそれは体の清浄作用であり、原因は想念からの霊の曇りと体的は薬毒の濁りを掃除してくれる、 偉大なる神からの贈りものであるというのです。 (そこで、幼児期の病気はとなるでしょうが、それは人は人から人へと連鎖して繋がっているので生まれたばかりの赤ん坊に悪の想念やら薬毒を飲んだなどとはあり得ないのですが、 それは肉体的には先祖からの薬毒連鎖であり、魂的には生まれる時にそんな肉体に同調する状態であり、しかもそれを自分自身で選択権を持っているので、 「神の命令」というより「自分が望んだ自由意志」の範囲だと思います。) それがたとえ苦痛に満ちて、しかも死へ確実に向かう状況といえども、それは神の恩恵なのです。 死を悪いものとする見方も考えなおさないと、病気に対しての恐怖感や罪悪感も消えないでしょう。

霊的光力にしても、すべての病気が治るかというと、それは無いでしょう。 治病は自らの魂レベルで選択しているのです。表面意識だけで、また肉体レベルだけで解決できない病気もあると思います。 そして病気それは原因の解消経過でもあり、無条件で解消しようとするのは本当は自然ではないのかも知れません。 せっかくの病気という体験を通して得られるものを何も意識せずに消して貰うことが果たしてそれが良いのかというと、それは表面意識としては単純に良いのでしょうが、 本質的な奥の意識としては必要なものかも知れないのです。

霊的光で治すのはそんな事も考えて行なうことで、治るも良し、治らないも良しとしないととんでもない解釈をしてしまいます。 信仰心が足りないとか、御礼の金額が足りないとか、みな人にとって都合の良い解釈をしてしまうからです。 そして、病気は悪でないと言いながらも病気をしているのはその人に悪があるという知らずのうちに裁きをしているのです。


人が病気をしている人の本質を分かることは出来ないのです。いろいろな理屈をつけて見たがるのは真実を知らないからでしょう。 本当に知っている人は黙ってその人の本心からの目覚めを見守っているだけです。 卵の殻を外から割ったらひよこは死んでしまいます。 自ら内側から殻を破って出る時期がその人に与えられている本然の力です。

病気治しにしても、それを真に望んでいるかどうかは表面意識だけでは分かりません。奥の魂がその人に今病気という体験を与えて必要なものを発見させようとしているのかも知れません。 そういう意味で、人は病気をしないと分からないことがたくさんあるのでしょう。そしてその病気をするには原因を作っておかないと結果が出せないのですから、 見方を変えると医学の誤りこそ人類に病気という体験を作り出すチャンスを与えてきたと言えます。 人類がまだまだ病気という苦しい体験を通じて何かを手に入れることを選び続けて行っても良いのでしょうが、薬が毒だというのは、時代が変化しようと、 それは変わらない真実だと思います。

そして、その薬が病気を治しているかの様に見えていたのも限定手的な真実でした。 しかし永遠の真実ではないのでその浄化が行なわれます。 それが今の時期から盛んになって来るようです。 繰り返しますが、病気は決して裁きでも悪でもなく、浄化清浄化の過程です。 それによって死を迎えるとしても、死は終わりではないのですから、新しく生まれるためにかえって良い事とも言えます。 一生健康で長生きしたから良いとか病気ばかりして早く死んだから悪だという決めつけはないのです。 しかし、薬で病気を治すという事は浄化の元を作るだけです。 もしこれからも自分にも子孫にも病気の種を作っておいて、もしもの必要な時には病気をして・・・・と考えられているなら、それも良いのです。 すべては自由です。

ただ、小生は自分なりの世界を見た世界として「医学の革命」つまり薬毒が病気の原因となることをひとつの真実として捉えているだけです。 治療としての霊的光力の考え方もいろいろありますがこれも自分の世界で見たものです。 また宗教に入って何々をするというよりも、人ひとりひとりが神との直結したものを感じとりそれが健康と病気を支配しているものと理解できるならと思います。 何よりも本当の救いは 例えとして、河に溺れる前にその原因を知ることです。正(まさ)しくこれに限ると思います。

河に溺れている人を救うのはまだ根本でなく、誰もが河に溺れないように、または、溺れたとしても自らはい上がれるのだと理解することが一番の救いだと思うのです。 今の時代においても薬毒を知らせるには効果的な方便とは思いますが、未だに病気となる原因は薬毒が認識されずに相変わらず治療に薬を使っている現実を見ると、 医学論がよりよい発信方法が宗教という形態にあるのはイタシカタないと思うことがあります。 それは簡単に考えると解ると思います。

誰もが自分の信じている宗教が一番だと思っていますし、さらにその宗教以外には真理は認めたがらないという垣根も出来てしまいます。 いくら偉大な宗教家であっても、また真理を深く知り得た聖者であっても、この地上世界のすべてを知り尽くして話しているかというと、 それは一人の肉体をまとっている形では不可能だと思います。 いろいろな分野での真実をいろいろな人物を通して伝えていくのが自然でしょう。 ゆえに人物を通して真実がたくさん伝えられたからと言って、その人以外に真理は無いなどと考えることは不自然だと思います。 さらに時と共に変化して進展しているこの宇宙の原則から言うと、その時点で最高の真理だと思っていても刻々と進展して行く流れから見ると、 それはもう最高ではなくなっていることも考えられます。

教祖・教え主が人々に伝えようとした神からのメッセージや、真理の道への教えとかは、各宗教団のここかしこに残されているのも事実ですが、活動は活動として、 個人個人が、自分自身で学びを深めて行く決意が必要でしょう。今日の人達は依存症が増えているよう思われます。好いも悪いも自分で学んでほしいものです。霊眼(れいがん)を開いて・・・。
ユダヤ医学は唯物の医学で、細胞ばかりいじくっている。最後に小生が思う事は医学から本当の医術に変えていかなければ医学は崩壊するであろうと思うのであります。 この辺で私心を捨てて考えを改めては如何と思うのであります。

●自然を尊重せよ

医学では、安静を最も重要とされているが、これは前にも述べたごとく大変な間違いである。ではどうするのが一番いいかというと、何よりも自然である。 自然とは自分の身体を拘束する事なく、無理のないよう気儘(きまま)にする事である。例えば熱があって大儀な時は、寝ろという命令を身体がすると思い、寝ればいいのである。 また寝たくない起きたいと思うのは、起きるべしと命令されたと思い、起きればいいのである。歩きたければ歩き、駈出したければ駈出し、大きな声で唄いたければ唄うがいい。 というように、何でも心の命ずるままにするのが本当である。気が向かない、心に満たない事は止すことである。要するにどこまでも自然である。 これが結核に限らず、いかなる病に対しても同じ事がいえる。

食物も同様で、食べたい物を食べたい時に食べたいだけ食う。これが最もいいのである。 薬はもちろん不可(いけ)ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食わなかったりするのも間違っている。 人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に、食べたくないものは食べるなという訳である。そうして結核に特に悪いのは動物性蛋白である。 少しは差支えないが、なるべく野菜を多く摂る方がよい。ところが今日の医学は、栄養は魚鳥獣肉に多いとして奨めるが、これが大変な誤りで、必ず衰弱を増すのである。 本来栄養とは植物性に多くある。考えてもみるがいい。動物性のもののみを食っていれば、敗血症などが起って必ず病気になり、生命にかかわる事さえもある。

それに反して菜食はいくらしても健康にこそなれ、病気には決して罹(かか)らないばかりか、長寿者となるに見ても明らかである。 これについてある体験をかいてみるが、結核で死の宣告を受けた方が、それまで動物性食餌を多量に摂っていたのを、ある動機でその非を覚り、菜食にしてみたところ、 それからメキメキ恢復に向かったので、医学の間違っている事を知り、薬も廃めてしまい、三ケ月間絶対菜食を続けたところ、それで病気はスッカリ治り、病気以前よりも健康体となったのである。 その後他の病気はしたが結核のケの字もなくなったのである。

もしその時それに気が付かなかったとしたら、無論あの世へ旅立っていたに違いないと、今でも思う度にゾッとするのである。 今一つは喀血の場合である。これこそ菜食が最もいい。以前こういう患者があった。肉食するとその翌日必ず喀血するが、菜食をするとすぐ止まるという、 実にハッキリしていた。これでみても菜食のよい事は間違いないのである。 今一つは、医師は疲労と睡眠不足を不可として戒めるが、これも間違っている。それは原理を知らないからで、疲労とはもちろん運動のためで、 運動すれば足や腰を活動させるから、その部にある毒素に浄化作用が起り、微熱が発生する、微熱が出れば疲労感を催す、それが疲れである。 しかしそれだけ毒素が減るのだから結構なのである。何よりも運動をさかんに行い、常に疲労を繰返す人は健康であるに見ても判るである。

だから草臥(くたび)れた際足や腰の辺りを触ってみれば必ず微熱があるにみて、それだけ毒が溶ける訳である。
また睡眠不足は、結核には何ら影響はない、むしろいいくらいである。
これは事実によってみればよく判る。何よりも睡眠不足の階級を見るがいい。 旅館の従業員や花柳界の人達には、結核が最も少ないと医学でも言われている。 これについても説明してみるが、睡眠不足だと起きている時間が長くなるから、活動の時が多くなり、浄化が余計起るからそれだけ疲れるのである。 ところが逆解的医学である以上、睡眠不足を不可とするのである。今一つこういう事でも判る。それは普通朝は熱が低く、午後三時か四時頃になると熱が出てくる。 これも右の理と同様で、たとえ寝ていても神経を使うから浄化が起るのである。

●全ての教えやらは必要ではあるが、其の事に溺れてもいけない。しかし離れてもいけない。まずは其の教えに関して皮から高みへ肉へと、そして骨から隋まで得ることが必要な事だと思います。
此れ、そのものの原理を得たことなれば若くして得るもの成れば最も能力が開花するであろうし、老年して得たのならば、素晴しき人生を得たようなものである。風雷伝より

●神の言と逆な結果(これを神鍛え・神試しという)神ぶるいがでてもなおどこまでも神を信じる事ができるか。心を変えずに神にすがる心。人間の助かりはまず心の開放にあり。人間の心はあまりにも厚く暗黒の雲に覆われている。

※最後に人間を神様が創られたのならと云われることだが、先(未来)のことが分かるようにつくったらいいのではないかと云う人がいますが、人間に自分の過去も先もわからないようにしてあるのが、 神の仕組みのひとつなのです。なぜかというと、神様の天意(あい)は万生が進歩進化することにあります。もしも先のことがわかってしまってしまうと、進歩進化が止まってしまう。 例えば十八歳になった人に、これから一生懸命、神様の御用をしなさい。しかし神様の御用をしても三十八歳で死ぬだろう、などわかってしまったら、努力する気もなくなってしまいます。又 とても社会のためになろうなどとも考えられないでしょう。ですから神の仕組みによって、明日の運命がわからないようにしてあるのです。そしてこの仕組みが万生、特に人間の 進歩を起こしてきたわけです。そういう意味で、神様が人間につくらせてこられた文字も、言葉も、すべて連携がとれているのを、人間はわからないものですから判ろう判ろう としてきたのです。そこに人間の思想の進化進歩があったのです。それと、神理というものがなかなか明らかにされませんでした。これは釈尊やモーゼを通してもわからないようにしてありました。

ですから日蓮や親鸞が出て、少しでも神理を解明しようとしたわけです。そしてわからないで悩む。悩むから仏教が進歩するし、人間の思索が進歩してきたというわけです。
さて一番最初に神様は言霊をおつくりになられました。寺というのは、天照主の照から出た言葉で、元は光、光の場という意味です。神の光を伸べる、あるいは神の光を発揮する 場所のことです。これが朝鮮へいってチーラ、インドへ行ってチューラになったとのことです。ですから言霊は、照らすということなのです。釈尊の説法の本体は、悩みを 消して陽の気へ転換させていこうとしたのです。しかし弟子達が議論をあつめた集大成で釈尊の教えは、経典(釈尊が説かれたとされるたくさんのお経がありますが、 経典として成立したのは、釈尊がご入滅(亡くなる事)後、何百年も経ってからのこと)を作る際に殆ど省いてしまって判らなくしてしまったとの事です。

本当の釈尊が説こうとした教えは、何処いったのかわからないのが、今の仏教界だそうです。このように色んな形を変えて都合のいいようにしてしまうのが人間なんでしょうね。 小生も含めてですが。そこでブレーキ役が出てきては説法したでしょうが、今の世ではそうは行かないのである程度神理正法が説き明かされたのです。 小生ごときが言うことではないが神理正法が説き明かされた所で先ずはお聞きになられてはいかがかと思うのであります。また聞くのと知るとでは大きな違いがあります。しかしながらいくらこの様に書いても理解してくれる人も 少ないし、霊魂の実在を説いても、屁理屈ばかりでなかなか在るものを在ると認めない。理解出来ない!理解しようともしない!見えないんだからと言いはり頭から決め付けて受け入れようとせずただいたずらに 不幸になって平然としているのが現代人です。

なぜ富を得た人々がいるのかと言いますと、神様が物質文明を発展発達させる為(物質文明発展のためとは言え、人間が今日までに養ってきた心とは、 相手よりも上の立場に立ちたいとか、相手よりも権力や名誉を持ちたいとか、人を支配したい等という欲望、我欲です。このような人間の我欲は人間社会の物資の発展には有用なのですが、 一歩過ぎてしまえば他人を苦しめたり殺すことにもつながりかねない心です。神様は今、人間のそのような自分さえ良ければよいという心を捨てることが大切なのだと示しております。) しかしこれからは心の文明 所謂 霊文明に成りましたので心の文明 を栄えさせる人々にはどんどん栄えさせていく(お金がどんどん入ってくる)のが神の仕組みのひとつである。そして神性化した物質文明を栄えさせていくのが神の経綸である。

又これまで富を得た人々は天の蔵に積んだお金ではないので最後には神様の方では全て取ってしまわれるのである。(自分の為だけ、家のためだけ財産を増やした人) しかし人類の為に金を使うような人に富を与えて行く方向へ切り換える。此れが神性化した物質文明の発達でもある。かといって物質文明を発展発達させたのですから 神様の御用と言えば御用たったのですが、それに伴って罪穢(財穢)を積んでしまわれた場合はミソギ(人間を使ったりしてどんどん財産を無くさせる役目の人をその家に入れる、止めるには神向き以外に無い、 神に意乗る他にない、財穢を綺麗にする他内)という形で綺麗しなければならないのであります。よく耳にします所の 恵まれない人々に寄付をするというのは自ずと解っていらっしゃるかと思うのであります。

「豆々知識-1」 物質文明を裏で仕切っているのはユダヤ民族(所謂フリーメーソン)であるが、そのユダヤ民族と神の子集団が本当は手を結ばなければならないのに世の中はまだそのようになっていない。

フリーメーソンがなぜ膨大な富と権力を握って言ったかと申しますと霊界を知り人間は肉体と幽体と霊体といものの存在を少なからず知っていて人間の世界をコントロールしようとして 考え出して永い間かかってこの世界を握っていったのである。なぜなら人間は金欲・性欲・快楽の方向に目を向けさせていけば後は簡単に操る事ができてしまうからである。 先ずはそのためには医者というものを創り其れで雁字搦(がんじがら)に人間に植え付けて女性をファションに目を向かせ男をそそり立たせる手段を使って終いにはフリーセックス を広めさせ霊性などは閉ざさせていったのである。実に巧妙な策略である。だが彼らの本質は一つの世界にしようとしている事は確かではある。ただ彼らも神一厘という仕組みは解明できてはいないのである。恐れてはいるのである。

「豆々知識-2」 ヘビ地獄とは ;少なくとも300匹、だいだい500〜600匹くらいはいるヘビの霊に苦しめられる行場です。ヘビに巻きつかれて首を絞められたり、噛まれたりします。 生前人の上に立った人だけが往く行場で、主に権力で人を苦しめた人が往きます。会社の社長や政治家等が堕ちやすい。人の上に立つ上役ほど徳を積まなければならないと云われております。 又富や権力で下の位の方のお役に立つことが大切だと言われています。この辺のところは霊界の所謂行場と言うところのようです。皆さんは死んだら天国でもいけるような思い出 居られるようですがそんな甘いようなところでは無いようです。

キツネやタヌキには幽体を持ったものを見えるようですが、霊体神になってくるともう見えないです。キツネやタヌキ等が憑かると神というものを動物霊がなかなか信じません。それでも人間は少し解ってくると神の存在を認めようとしますが このキツネやタヌキの霊が憑かられると絶対信じようとしませんね。今の時代ほとんどこのような状態です。 現世における職業は非常に霊界往くや大きく影響するものである。たとえば遊女は狐、芸妓は猫、というように、又ヤクザなんかは蛇かニワトリに転意する。相応の運命に墜ちるのである。従って人間はどうしても人間としてはずかしからぬ行為をなすべきである。 不動産これは人に対していい物件を与えて喜ばれるのならば良いが殆どは利益の為にやっているから霊界に往くや畜生道に墜ちタヌキにさせられそこで業をさせられる。

★フリーメーソンの意図

猶太(ユダヤ)の秘密結社であるフリーメーソンの意図を赤裸々にかいてみよう。彼らが最後に到って全世界を掌握せんとする――その方法として最も力を入れたものは各民族を去勢する事である。 即ち民族特有の魂を抜く事である。その理由としては各国家の存立が強固である。その主因としてはその国民の祖国愛である。 仮に日本に例をとれば、忠君愛国であり、孝道である。勿論これは見えざる意志の活動と信念の力である。従って何よりもまずこの見えざる力を抜かなくてはならないという事になる。 その抜く方法としての逆的効果を狙ったものが即ち唯物思想である。故にその意図の下に構成されたのが今日までの猶太文化であり、猶太的学問の機構であった。 従って、彼らの理論はことごとく物を本位とし、物を離れた理論は成立たないのである。この物本位の学問によって教育された所の現代人であるから、見えざる力を信じ難いのはやむを得ない事であろう。 フリーメーソンというのを知ってる方はお判りですが、二千年も前からフリーメーソンという結社を造り、今日もさかんに活動しているんであります。 陸軍中将の四王天延孝(のぶたか)という人が研究家として知られていますが、このフリーメーソンは、最初石屋の組合だったんで、それがだんだん変化してこういう結社を造り、日本でも 有数な人がたくさん入ってるそうであります。よく知りませんが、幣原(しではら)とか財部(たからべ)とかいうのも会員だそうで、ああいう階級にまでもあるんであります。 日本にもそうとう侵入していますが、外国では英国皇帝とか、大きい金持ちロスチャイルドなどあり、そういう階級はみんなフリーメーソン結社の社友になっているんであります。 社友はなにごとも非常に秘密にしていて、秘密結社になっているんで、社友がちょっとでも秘密をもらすとすぐに殺されるんであります。

ですから、結社の社員で抜け出そうとしても、どうしても抜けることができぬ。抜けてどこへ行っても必ず殺されるんであります。この間なにかの本でそういうことの話が出ていました。 そういう結社で、一名石屋というんで、医者ということがやはり石屋ということになります。そのフリーメーソンが医学を造り、病気を治るように見せかけて、人間の生命をとるんであります。 この医学に全世界の人間が生命を任せているんで、全世界の人間の生命はユダヤ人に任せてあるのであります。医者に生命を任してるんですが、その医者のやってることはユダヤ人が造ったもので、深く考えるとユダヤ人に全世界 の人間は、生殺与奪の権を握られてるのであります。 ユダヤ人はその他の世界の金権とか、各新聞雑誌とか、言論機関一切を掌握しているのであります。 そうしてあくまでも世界を蹂躙しようとしているんであります。 で、観音様は日本の神様で、伊都能売之大御神とも、国常立大神とも、天照皇御神様にもなるんであります。 で、観音様は、それをそうさせまいとして蹂躙されないために、たいへんな仕事を始められるのであります。

ヨーロッパにおける現われとして、ヒトラーであります。 ヨーロッパにおけるそれに対する反対運動であります。ユダヤ人を追っ払ったり、御自分のマークは観音様の紋をつけております。 で、観音様は、ドイツだけはフリーメーソンのない国をまず造られる。要するに観音様の国をまず造られるのであります。 ですから、ドイツの背後に観音力がありますから、疲弊しているにもかかわらず、非常な力があります。その証拠にはヒトラーの宣言によって、全欧州がブルブルとしております。 これは非常に不思議に見えますが、背後には観音様が控えておられるのですから、これからドイツはすばらしい威力を発揮して行くものなんであります。 ナチスのやり方は観音会と違って、どこまでも体的でありますから、観音会のごとく平和的ではないのであります。

ところで、邪神界のほうでは二千年以前から大きい野望をしてる。それがフリーメーソンであります。新しい宗教とか、新しい思想とかが起ると、すぐにそれを狙う。 そして、これもご承知のことですが、将来世界を自分のものにしようというために、ユダヤ人はいまもって国家を形成していない。 キリスト教は表面ああなっているが、実権はユダヤ人が握っている。彼は最後にならなければ表面にならない。で、ロシアなどはまだ本当に表面に出ていない。 奥の奥で操っている。フリーメーソンは各宗教へ働きかけている。そして世界の人間を残らずフリーメーソンの会員にしようとしている。 そのため、金はみんな自分のほうへ吸いとってしまうというやり方で、ご承知の通りインターナショナルなどははっきりと貧乏を謳歌している。

つまり、貧乏人を非常に待遇をよくし、金持ちには恐怖を与え、金持ちになるのをイヤにさす。日本なんかは最近だんだんそういうことは影が淡くなったように見えるが一しきり金持ちは非常に恐怖心を抱 いたもので、それはできるだけ金持ちを造らず、その国家が富まぬようにする。これが彼らの重大なる方針で、金がなかったら国防や軍備などが充分にできぬ。 彼の策略としては各国を貧乏にして、自国が大いに軍備を造るので、今日ロシアなど自国の軍備を世界一にならしめようとして、他国を貧乏にしようとしている。 この方針はキリスト教も実はそれにかなっている。この前に、「金持ちの天国に入るは駱駝の針の穴を潜るより難し」という、これは有名な標語ですが、 実はユダヤから出ているんで、金持ちにさせないためのもので、金持ちが一番恐い、金持ちがいると軍備をされるからです。

今ちょっと話すると共産主義の元は、やはりフリーメーソンですね。マッソン秘密結社と言って、二千年前に出来た。世界を掌握すると言うんです。 それが、中途で派に分かれた。フリーメーソンの方は、その中で極く良い方です。これは資本主義を作ったものです。アメリカはフリーメーソンです。 アメリカの偉い人はほとんどフリーメーソンの会員です。一方マルクスです。あの方は共産主義を作った。学理と労働です。 これによって世界を得ようと言うんです。ですから、全然反対同士が、今戦っているんです。その他に――この根本はユダヤです。

生粋のユダヤ人もあるが、これは宗教否定どころか、固いユダヤ教信者です。そこで、マッソンですね。根本と言うのは、素盞嗚尊じゃないんですが、素盞嗚尊が非常に働かれたんです。 その奥の奥と言うのはサタンです。最初マッソンが出来た時には、事務所を当時の石屋組合ですね。そこを事務所にした。 ですから、フリーメーソンの儀式の時には前掛けをしてます。非常に厚ぼったいのを。あれは石屋の前掛けです。

それで「石屋」と言う言霊は「医者」になる。だから医者は石屋なんです。そこで石屋組合は、どこまでも神はないと否定した。 そして、全て物質でないと行けないと言う事を二千年もかかって吹き込んだ。そこで病気なら病気にかかっても、物質で治すと言う事を見せようと言う事が、唯物科学の医学になった訳です。それは、神はない。人間の病気も物 質で治すと言う事を信じさせようと言う一つの深い謀略です。それにみんな引っかかった。ところが仲々うまく行かない。 うまく行かないが諦めては、彼らの目的は達しられないから、どこまでも治るように見せかけてやっている。その根本は人間の体を弱らせなければならない。

つまり、謀略で弱らせて自分の目的を達しようと言うんです。その犠牲者が労働者ですね。文化民族を作って弱らせるんです。これは非常に神秘なんですよ。 そこで高度の文明国というのは段々弱くなる。その一番弱ったのはイギリスとフランスです。非常に戦争嫌ってます。それからアメリカが段々そうなって来た。 ところが神様の方では仲々――マッソン系統より神様の方が知恵が上ですからね。そこで神様のやりかたと言うのはアメリカに非常に色んな武器の発明をさせて下さった。 原子爆弾とかは神様が教えているんです。そうしないと、先の目的通りにやられちゃう。まぁこのようなことである。


●『総まとめ』;霊の界の掟に反するような想念(我や慢心、唯物主、利己主義等のいわゆる汚い心)を持っていると、それが先祖の界や神様の霊界に響いてゆきます(それにより神霊界、幽霊界が汚れ、曇ってしまう。相即相入即連動の義)。 神様は常に清浄の願を持っておられますので、そのような汚い心や醜い心を万霊(邪神邪霊等)を使って浄化されようとされるわけです。「他力と自力」の中においても「怨み、そねみ、憎しみ。いたずら、戒めの為の万霊を盛んにウヨウヨ働きかける他力を、 神は一杯生かしありといわれております。」想念の界(霊の界)において神の掟を破るような心を発していれば、それを見透かしてこれらの霊がさやりかけてきます。 いわゆる波長が合ってしまうわけです。逆に波長が合わない、霊の界において邪神邪霊につけはいられてしまう隙がなければ(悪想念や我と慢心を見せない)逆に霊による障りは起きません。 これを相応、間釣り合わせの理と言います。霊障を生じさせてしまう心の隙がなぜ生じてしまうのかというとやはり神向心がないか、あっても薄いためです。 常に実在する神様、活動される神様と向き合っていれば心に隙が生じにくいのです。

この世生まれてくるときに神様との約束によって再生が許されてくると言います。その人が現界において成すべき事の約束です。 それは人生のどのあたりでその人に明確になるかはわかりませんが、時期を過ぎてもその約束を果たさないとなると、神様は霊障を使って本人に気づかせようとさせます。 これは小生の体験から書かせてもらっていますが、特に神様との特別な役割を持って再生してくる人はその霊障も厳しくなるのではないかと思っています。 時期が来ても神様との約束を果たさなければいくらアガイても霊障を解いてくれませんし、約束を果たす見込みがなくなると神様は幽界へ引き上げてしまわれる。 とりわけ地獄界から再生を許されてきた魂であれば、邪神邪霊界はその魂を昇華(霊層界を昇華)させないように必死になっている、その上で約束、 役割を果たさないのなら主神はそれらの邪神邪霊の好きなようにさせてしまわれる、そのような厳しい現界の立場にあるのが地獄界から再生を許されてくる魂ではないかと思います。 又正法の教えを伝えても聞かないし、わかろうともしないと神様は霊障(憑依現象)を使ってその曇りを裁かれようとされる(これを霊、火の洗礼と言います)。神様は「火の洗礼か陽光の文明を求めるのか、 二つに一つの返事をしなさい、人類はその返事をしなければならない時代にはいってしまっているのだ、「選ぶ外なき今人類」と言っておられます。

歴史的に有名な人物、織田信長や秀吉、家康等も最近のテレビでドラマ化されました坂本竜馬なんかもすべて神様の掟の仕組みによって現界に下ろされて、それぞれが役割(日本国の破壊と創造、建て直し)を果たすとすぐに幽界に引き上げられてしまう。 釈尊、イエス等も同様でしょう。このような歴史に名を残しているような人たちだけでなく、すべての人が何らかの使命、神との約束の元に現界に生まれています。 そのすべてを生み出してそれを統一運営されておられる主の神様を主体として生きるのか、それとも限りのある世界(現界)だけを主体において生きるのか。 霊主心従体属、神の掟、法に乗って生きれば(水を去って生きれば)人生も自然に栄えてくる。釈尊はそれを仏教の中で妙法と教えています。

水=物、唯物現界主の考え方を少なくする、捨ててしまえば妙、つまり不思議と栄えてくる。(妙はうまい、儲ける、幸運等の意味があります)又カーム、 カはチカラでムは言霊ではムゥになり、無の世界、霊界、神の世界からすべてか生み出されてくる、栄えてくるのだと示し、般若心経の中では色即是空・空即是色と表現しています。 色、つまり目に見える世界は即空の世界、無の世界から成り立ち、無の世界、霊界からすべての物質社会が成り立っていると表現しています。無の世界、霊界の世界、掟を主として生きれば不思議に人生も、何にしても栄えてくるのだと言っています。 今の世人達に一人でも気がついてほしいと思います。

●実は人間がどうして人の病気を治す奇跡又災害等から救う奇跡が出す力が身につくのかと申しますと、人間は人類の発祥(はっしょう)という天地創造の詳しい歴史をお調べにならればわかりますが、 本来は神の肉体へ顕現(けんげん)、変化(へんげ)したものである。だから実際は人間一人一人というものは神の子ではなく、み仏の子でもなく、天地初発の人は神自身であり、神人であり、 み仏そのものであったのです。ただそれが何十万年ものずいぶん永い間年代を経て、孫の孫、大孫時代になってしまったから遠慮(えんりょ=遠い将来のこと を考えず目先のことばかり考えている)して、実質的に神の子であった時代があるのです。 したがいまして、神性と霊性を復活をする法をお教えすれば、どんな方でも恐ろしい神秘な力を出し得るものをしまって、実はもってしまっている。それを開発するのが、実は 宗教の役割だったのです。今日は哲学になってしまった。今日のあらゆる宗教は実は宗教哲学であって宗教ではない。

【宗教とはその人がもっている神性と霊性を復活、開発させ、法力化(ほうりきか)し、どんな方でもイエスにも釈尊にも復活させることができる。】どうしてそれが開発せずにきたかという問題がここに人類問題、人道問題として宗教時代史 に残るのです。要するにそういう力、パアーの発動し得る本体を皆様は体の中にちゃんと神代から持ち続けていながら、あまり唯物の科学理論に夢中になって迷い路へ紛(まぎ)れ 込んで、人間というものは肉体の細胞だけ、素粒子や電子の回転でできあがっているものと思ってしまった。それがために人間を「もの」と間違えてしまい、宗教までだんだん 霊力界、霊性界から退化して、とうとう唯物の科学に迎合する時代になってしまった。

したがって、古からあったように、人力プラス神力というような次元的に高度な原始宗教(神縄文)、霊的な科学の研究は全然なくなってしまった。早くこの霊性を発揮できる事に目覚めてほいものです。ということなので、元来お守りとかは必要ではないのであるが・・・。光の正体を御つかみ戴けたならばの話ですが・・・。 「魂が神様と一体になり、 波調が合うと、 魂が光明に満たされて、 神の叡智が流れ込んでくるのです。」神様と大調和のご想念と波調を合わせること。 神様の世界は、 肉の眼では見えません。 要は、 魂を磨くことです。 肉体の五官による一切の執着やとらわれれを捨て去って。 物質中心の想念を霊主の想念に切り換えることが大事です。 すべてを霊的に考え、 自らの魂の曇りを落としていかないといけない。 そして誰もが神の子で、 魂は神様から頂いたもの、 本来は水晶のごとく透明で輝く魂だったはずなのです。 魂は必ず輝きます。 肉の目を閉じて霊の眼を開くことです。


人は神様など知らない方が幸なのか。普通の人に生まれて、普通の人で暮らし、普通の幸せを得て、普通に死んで行く。その方がどれだけ幸せであろうか。さて本当にそうか?。小生は幾たびの人々を見てきたが知らないが為に余りにも小さきごとに囚(と)われ 迷路に入ってしまっている。いろんな災害・爆発・地震・交通事故 はたまた病気 教育問題 家庭問題などなどに巻き込まれている。果たして本当にそれでいいのか・・・?。

★救いの力

●これまでに色々書いてきたが、素晴しい治病奇蹟は、いくら話をしてもこれを読ませても、疑いが先に立って信ずる事は出来ない程に、既成宗教や現代医学の説に捉われ切っている人を見ては、余りに可哀想でしかない。 全く恐るべきは今日の社会である。そうしてことごとくの宗教は、自分の宗教こそ最高のものという独善観念が強く、他宗はことごとく邪教と思い込ませているので、これも無理はないが、その信者は気の毒なものである。 それというのも、今までになかったから信じ難いであろうが、いずれは世界的に知れ渡るに決っているから、その時こそこの(霊的光力)救いの力が分り。渇仰(かつごう)するようになるのはもちろんである。 信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。今まで記述し書いてきたが何れにも偏(かたよ)らぬ最も正しい考え方を教えているのであるから誤解の無いように!! 然しながら医学は善意の罪悪という以外言葉はないのであるが、宗教というのは、 究極は救いの業です。元来、政治も医学もすべては救いの業ですが対症療法しかやられていないわけでして、本当は 目指す頂上は同じだと思います。 その中でも宗教は、 最も霊的な救いの業にならなくちゃいけないでしょう。

★最終章

●『自分が願ったので生まれてきたというわけではなく、無智という根本原因によって生まれてきた。自分が願って死にたいとは思わないのに、因果応報の理によって死んでゆく。 生まれることは喜びではなく、その後にいろいろな苦しみが起こる。死ぬ事も喜びではなく、さまざまな心配がやってくる。生まれたのはつい昨日のように思っていたが、老いは すぐにもやってくるものだ。今日の朝は元気であっても、明日の夕方には病んだり死んだりすることになる。風に揺れる秋の枯葉のようなもろい命、朝になれば消えていく露の ようなもろい命をどうにかやっと保っているが、人間の生命は泡のように儚(はかな)いものだ。自分の生命が一時的なものであるのは夢や幻のようなものだ。 いったん無常の風が吹いてくると、身体の四つの構成要素はばらばらになり、あの世の使いがやってくると、家族のだれもが頼りにはならなくなる。朝から晩まで生きるために 働き、毎日、恩や愛の対象との絆にしばられてながら生きている。父や母と死に別れれば内ひめたるほど悲しむ、配偶者や子供を失ったりすれば、涙がかれんばかりに泣き叫ぶのである。 地獄に墜ちて猛火に焼かれたとしたら殺生を犯した罪によるし、餓鬼道で醜い姿となるのは物惜しみた罪によるものだ。この世界からあの世へと輪廻転生の輪をめぐって、 あるときは人間、あるときは餓鬼と生まれ、病によって苦しみもだえるのである。なんと悲しくもつらいことであるのか、これらの世界に生まれるということは、何と苦しいことであるのか。 輪廻するということは。善き師の正しい導き、大慈悲の功徳(くどく)がなかったら、どうしてこれらの輪廻する世界から抜け出して、永遠の悟りに到達できるであろうか。あぁ・・・合掌。』

●体にトラブルを抱えた状態の人を施術(霊界医師・霊医)する。これこそ霊的光力ではないかと小生は考えております。ですから本来は健康状態に戻して差し上げるお手伝いと考えても良いと思います。 究極は霊的に目覚め差し上げていくこと。治癒力を高めて差し上げること。決して病気治しの業ではなく、 その人の霊を浄め、 霊的に開眼させるための業だ。 以上の事を踏まえて考えられたら良いと思われます。 奥義は普通の除霊や浄霊と違うのは、普通の除霊や浄霊では、行力やパワーで霊を祓います。しかし霊は一時的にはその人を憑くのをやめますが、改心も悟りもしていないために、しばらくすると再びその人に憑いてしまいます。 しかし、施術の救霊は成仏できない霊たちになぜ成仏できないかを愛念をもって言霊で説得し、本当に改心した霊を本来いるべき霊界に導くものです。本人も悟ると(霊は取り去ることはできますが、自身を高めなければまた他の霊を呼び寄せてしまいます。)、 一度救済された霊は再びその人に憑くことがないのです。ともかく”霊”の影響を受けるのは自分の波長が霊と同調するからで、自身の霊性を高める必要があるのです。

●霊界を知る人のみが今後は生き残っていけると断言できる。なぜならば霊界というものは現実にあるし神の経綸上これからの種人として生かされるのであればなおさらでしょう。ただし今の 現状で必要な人間、神の御用として使われている方々は無くてはならないが、他の人間はどんどんふるいにかけられているし現状がそうであるからである。肉体を持って次の 文明に使って頂きたいのならば先ずは霊界を知る事である。それと共に目を凝らして真偽を見極めるという自分自身(夫婦でも他人でもない)が「自己防衛術」を身に着けなければ生きて生けない世の中になってしまった。 そして心というものは、 目に見えるものしか解決できないんです。 五官に振り回されていては、 永遠なる霊の世界は体得できないでしょう。 五官のような肉体ではなく、 あくまで目に見えない霊の方が主体です。哲学と霊的法則を十字に組めば、 すごい智慧となることでしょう。

●これからは、本当に世界人類のためになる、自分の利益を犠牲にしてもそれをやるという、非常に高い思想、いわゆる崇高教縄文(すうこうきょう=けだかく尊い教え) がこれからの未来を変えていくのだと思っています。これこそ新縄文イコール崇高教縄文であると思います。争いの無い文明。薬を入れない身体。想念の高い人になる。神に通じる霊体。 誰でも霊界法則・身体法則を身につけさえすれば誰でも霊的光力(霊光力・霊光・霊力光・霊射)身に付けることが出来るのであります。見えない世界を理解しなければなりません。そして神と霊線を繋げれば好いだけなのです。 そんなに難しい事ではないのです。素直になれば所謂赤子になれば好いのです。どんな人間でも最初は赤子なのです。如何に若かろうがお年をとっていようがみんな赤子から成長しただけなのだから もう一度赤子に成ればいいだけなのです。知識やら名誉・学歴なんかは何も要らないのです。ただ赤子になればよいのです。その上で受け入れる事が先決です。 みんな一人ひとりが出来るように指導するのが小生が目指すところなのです。そして豊かな音で奏でる世界=新縄文=神縄文(ワラは互いに寄りあえばナワ=縄になる。そして和が出来るのである)が小生達の役目なのです。 此れは宗教ではなく神(しん)縄文であり生きる術を授けるものである。小生はそう思うのである。またこれを読んで一人一人が学んで頂ければもう既に神縄文人だと思っています。 一集団を創る目的ではないからです。心の中で繋がっていれば良い(これが難儀なことでもありまして、その為に各々を受け入れる必要がある次第です)わけでありまして、神様より言われている事でもあり、であるから神縄文に拘(こだわ)るのである。 それで世界で初めて小生が付けた次第です。神縄文時代です。


●『あることわざがある』

●『ある人に魚を一匹与えれば、その人は一日食える。 魚の取り方を教えれば、その人は一生を通して食える。』

●インディアンのことわざにもこのような言葉がある。『お金は必要だが、重要ではない。』という言葉があるそうです。全て早く覚る事です。


●『最後にここで一言』

●自分で選んで手術を受けたり、また手術を受けさした親も病気を治してやりたい一心でやったのだし、 医師とても同様善意でやった事であって、誤った医学以外には誰にも罪はない訳ではないが・・・。 それが事実であり、最も正確な見方である。信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、 無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。何れにも偏(かたよ)らぬ最も正しい考え方を教えているのであるから 誤解の無いように!!

●『万物は全て根源がある。真実の宝を見よ!!万物控えめであれば心ひろく自由でいられるものである。』

●真理とは神の置き手、 天の律法であり、 真理の峰は一つしかありません。 真理は一つであり、 世界は一つであり地球の底も一つ、 人類の先祖も一つということに他なりません。 人類界は、 長い間孜々営々(ししえいえい=せっせと精出しして事に励むさま)として一つしかない真理の峰を希求(ききゅう=強く願い求めること)してきたのです。 例えばそれはの山に登るようなものであって、 ある人は南から山に登り、 またある人は北側から登るかもしれません。 それぞれが高みを目指して登ってみれば、 高嶺の一角に合流するのであります。 山頂の峰に立ってみれば光陽光燦々と輝きて、 遠く下界を存分に見渡すことができるでしょう。 然(しか)るに山頂に辿(たど)り着く前に中腹で議論が始まり、 喧々諤々(けんけんがくがく)と興(キョウ=コウ)じている間に雲が出てきて周りは見えなくなり、 迷妄の雲の中で右往左往(うおうさおう=混乱しうろたえて、右に行ったり左に行ったりすること)していたのでは真理の峰に辿り着くことはできなくなってしまう。 今世の人々は真理を求めて五里霧中(ごりむちゅう=〔五里にもわたる深い霧の中に居る、の意〕方角が分からなくなってしまうこと。物事の様子がまったく分から中で迷いよろめいている様子)の登山者のようです。 議論に明け暮れる暇があれば、 まず山頂を目指さなくてはならない。 真理の峰に立てば、 陽光燦々と輝きて美しい下界を共に喜び合って眺めることができるでしょう。 このように真理の峰は一つであり、 思想や哲学を超えています。 目の前の迷妄の雲を払ってしまえば、 太陽が輝き全貌(ぜんぼう)が明らかになっていくことをサトらなくてはなりません。哲学は難しいです。 でも神様のミチとは所謂、真理です。其の真理とは本来は分かりやすいもので、 聞いたらすぐ実践できるものです。 神様の御経綸は日々進展していますから、 ぐずぐずはしていられないんです。 肉身は現界にありながらも常に神霊界と通じ、 霊的にものごとを考えていただきたいと思います。 また、 皆さんもそうであってほしい望んでおります。 そうでないと神様と波調が合わなくなって、

●御経綸が進展すればするだけ神様から離れていってしまうことになりましょうし、だれしもが、 神の御経綸の進展について知ろうとしなかった。 人々が神様から想念的に離れすぎますと神様の大愛のみ意のよる大洗濯が始まって、 一気に火の洗礼期へと突入してしまうというか入ってしまいました。 そのへんをご理解頂きたいと思います。

●救われるというのは、 結局神様の幸せの門に入れて頂けることです。 でもその門は、 すごく狭いんです。 言葉を換えて言いますと、 真理の門はすごく狭いんです。 なぜなら今の世の中は、 一切が真理と反対の方向へと流れているんです。 逆(さか)さまなんです。 逆(ぎゃく)なんです。 逆(ぎゃく)の世なんです。 世間で言われる常識という波に乗ってしまったら、 今まではいいですが、 でもやがて時が来れば一気に滅びの道に入って行くことになるんです。 その滅びの門はとても広くて楽に入れるんですよ。 人は、 感謝をしなさいって言われて一所懸命訓練しますが、 でも、 不平不満や怒り、 ねたみ、 人の悪口なんて、 訓練しなくっても楽にすっと出るでしょう。 でもそこで、 方向を転換しなければならない 。世の中で常識といわれていることが神様の世界から見ると案外非常識だったりするんです。 そして、 非常識だと思われるようなことが実は常識だったりするんです。 だから、 人知では判断は難しい。 いや、 危ないんです。そうでしょう? 皆さんは病気をしたらクスリを飲む。 これが常識です。 でも、 せっかく神様が体内の毒素を溶かして排泄させて上げようというお仕組みをクスリで止める。 神様からすると、 それは非常識なんです。 熱が出た、 鼻が出た、 下痢をした、咳が止まらないだとか、みんな有り難いことなんですが・・・。ああ体に毒素が溜まったなのだなと想念転換すればいいだけのことで、それに体の中がきれいになるんですから。 だから、 ああ、 有り難いと感謝する。 それが常識なのに、 世間の人々はそれを非常識と言う。 全くもって変な世の中になったもので。あぁ・・・。

●すべて(有る程度)の神理が公開される時には・・・。 それでもまだ広い門の方を求めているようでは、その後すぐに神様の狭い門はバタッと閉じられてしまうんです。 (ノアの箱船の時と一緒です。又到来しますがこれが七回目=七は完成の意味です。言霊でも「ナリナル」の天変地異が最後なのだといわれております・・・本当に数霊とは良く出来ているものです。また上手い具合に成り立っているものだと驚くばかりです。)例えば門限が過ぎて家の戸が閉められたら、 それに遅れて戻ってきた召使がいくら戸を叩いても戸は開けてもらえないでしょう? その時に『私はあなたといつもいっしょにいたじゃないですか』って叫んでも、 主人は『おまえなんか知らない。 さっさと出て行け』って言われてしまうんです。これと同じで、 いくら話を聞いても、形式だけやっていても中身が伴わない、 内面的な想念転換ができない人は、 『あなたなんか知らない』と言いわれてしまいます。 冷たいようですけど、 これが神様のお示しですから仕方がないんです。これまでに書かせて頂いたことなどなど神様のみ教えを生活の中で実践することです。そうすることで神様のみ意とも合いますから早く救われに入っていけるんです。

●誰かが皆さんをおんぶに抱っこで救われの道につれて行ってあげるのだなんて思っていたら、大きな間違いです。 自分の足で歩くしかないんですよ。そして自分の足で神様のお宮までたどり着いたとしてもちょっと中を見て『ああ、 素晴らしい。 いいものを見せて頂いた。 有り難うございました。 はい、 さようなら』で回れ右、 後は地獄へ一目散って人が多いんです。 「そして門が閉じられてから慌てて戻ってきても、もう遅いんです。ですから神様のお宮の門にたどり着いたのなら中へ入れて頂いて、お庭を拝見させて頂いて、お宮の中にまで入れて頂いて、いちばん奥まで通される人になってください。

●そこには皆さんのご先祖や預言者はもちろん、 いろんな賢者が世界中から集められています。 ただそこでは、 後(あと)のカラス(うっかりしていると後のカラスに追い越される意)が先に立ったりします。さて霊的光力は其の人の神向きの厚さが、 救いとなる場合があります。霊的光力は施す方の想念は三分で、受ける方の想念が七分なんです。実はこのようなこと(霊的光力)なのです。 しかし信仰心なんてない人々が次々に癒されて、奇跡が起こったりするのはなぜか。その人がすがる心は信仰の中でも最も大事なことなんです。それと、やはり見せる奇跡というのもある。神様は、そのみ力と栄光を表すために、信仰心がないものにでもまずは救いの綱を投げてくださる。 そういう場合の奇跡は神様からお借金をしたようなものだから、奇跡のその後の信仰心(神見向き)が実は大事なんです。

■求めるものには必ず与えてくれるものである。例えば子供が靴が欲しいと言って、其の親は帽子をあげるだろうか?探す物には必ず見つけ出すように授け、扉をたたく者には必ずや開けられるであろう。 それが神のみ意(こころ)であろう。親にたとえたら一番わかるであろう。また命は食べ物よりも勝る。体は服よりも優れている。捉われの心を早く捨てる事が肝要である。人間はいろんなことに思い煩(わずら)うよりも一日でも長生きが出来たら好いであろうに!!

●ほとんどの人が少しは調子がいいなぁといい、ハイさょうならで言ってしまうのです。それが現状です。それは信じきる力が無い為です。何でもそうですが信じる力こそ最大なんです。 これまで色々と記述してきましたが、此の事柄が現実に神様・霊界というものが「ない」、「ある」という疑問があるとしたとしても「ある」ほうに考えて生きたとして「なかった」らそれはそれでいいだろうし、 「あったら」これは大変なことである。想念を悔い改めるなどそんな簡単に出来ることではないし、相当な年月(よくて三十年間位)が掛かるのである。だから此の現界で修業があるのである。向こうで(霊界)あったなら考えればいいだろうなんて邪(よこしま)な考える 人もいようがとんでもない考えである。

●何故かというと今あなたたちの周りにどれだけの人間が「ある」として生きている人たちが居るであろうか。そのような人間の集まりの中で 受け入れられることも出来ない人が何故、向こうの方に行ったら悔い改められようか? また霊界という所は同じ想念の集まりで修業する所であろうし・・・。 「ない」として生きた人間とは天と地の差が生じてしまうでしょう。また「ある」として生きたからってなんら、得すらしようが損はしないだろうし「ある」として生きた方がどんなに良いことであろうか(日々が大切なんです)。と小生は思うのである。

●元来みんな神の子なんです。 だから誰でも神様のみ意(こころ)にかなえば、 神性化できます。 神と人とは、本来一体なんです。父と子が一体で、或いは家族が一体であるように。そのことがはっきりと分かる天の時が、 間もなく訪れます。 時が来たらすべての人は墓の中、 つまり無智と不信と罪の中で生活していた人々もみんな這い出して、 今までの再生転生中の過程での罪穢を清算させられるんです。 信賞必(しんしょうひつばつ=罰罪を犯し、罰すべき者は必ず罰するという意味)の世になるんです。その時には、 人口は今の数十倍に膨れ上がっているでしょう。何しろ、過去の清算のために、 魂が一斉にこの世に再生または憑依(人間に憑く)してきますから。 風火水雷もみんな神様の使者です。すべては神様のみ手内(てぬち)にあるわけでして、人だってそうなんです。 ましてや人は、 地上の物質によって神の国をこの土に顕現させるために遣わされた神の子なんです。 神様の地上代行者なんです。 それが、 人類なんです。 ですから、 神様に仕えることを本職とされている方々は、 人類に仕えなきゃいけないんです。神職でございってふんぞり返って神宝である人類を見下していては、 神様に仕えていることにはなりません。等しく神の子である人類は、 互いに拝(おろが)み合わなければならないでしょう? それを、人類を蔑(さげすさ)んで、 神様だけを崇敬することはできないはずです。

●此処に記している事は、すべて神様に教えられたことを、神様のみ意のまにまにお伝えさせて頂いているだけです。 自分の意志や自分の考えなんてものは入っていませんし小生が根拠を示したところで、 それが何になるでしょうか。この奇跡の業、 そしてそれによる救われの事実、 その報告は山と積まれている現状。霊的光力は降る星のごとく日常茶飯事に起こっています。 これこそ神様からの直接の証言であり、証拠です。そのことを謙虚に神様に下座して受け止め、ス直に受け入れてみたらよいかと思われます。神様からの証言を受け入れないということは、 神様の教えを心にとめていないということになりましょう。 おまえに言われる筋合いはない! 素人の分際で!というかもしれないでしょうが、この霊的業を認めないのは、 正統と思っている宗教的基盤と相容れ(あいいれ=主張・性質などが異なって居て一致しないことです。)ないからでしょう。 頑(かたく)なに否定しようとするのは、 神職としての地位を守るためでしょう? 神職たるもの、 そんな奇跡の業を信じたとなれば、 立場がないからでしょう。 または破門になって、 失業もしかねないですからね。神様から受けるよりも、人間から受ける名誉の方がいいに決まってますね。 そちらの方が大切なんでしょう、きっと。でも、そんな物質レベルでしかもの考えていないから、 この叫びを受け入れられないんでしょう。人間同士でも栄誉ばかり気にして、 神様から与えて頂ける栄誉には関心がないんですね。そのような方をどうすることもできませんけど・・・、ある種の教えの通り、毎日それを生活の中で実践しているでしょうが、しかし長い年月がたつうちに神様のご計画も進展しますし、また形骸化して停滞もするんです。

◆お金持ちになるということは祖先がきっと善行を積んだか、悪行を積んだかになるでしょう。そのお蔭でその家には財がある。でも、 財は罪(ざい)に通じるんです。 金持ちであるってことは、 祖先の善行の果ですから、 別に悪いことではありません。 しかし財をなしたということは、罪穢も積んできています。 多くの方を苦しめてきたと思います。そんな汚れた財産は、 なくした方がいいのです。人々を苦しめた罪穢は罪穢で魂が曇っていますから、 そういった因縁(めぐり)を一度生産しないと、 魂の曇りは取れません。 罪穢を積んだままだと、 いつかは神様のお洗濯、 アガナヒが来ます。 神様はすべての人類は等しく神の子だから、すべての人類を愛しておられます。その愛する神の子の魂が曇っていたら、 神様はきれいにしてあげようとお洗濯をしてくれます。 ところが、 神の愛のゆえのお洗濯なのに、人々はそれを『不幸な現象』と呼ぶんです。 それがアガナヒです。でも、自分で人々を救って歩き、 神様の光とミチを伝え、 神様に奉仕の精神を持っていけばそれが積極的アガナヒとなって、 神様からのアガナヒは受けずに済むというのが実相なんです。 自分の罪を自覚し、そういった積極的なアガナヒの行によって罪は消えます。どんな罪びとでも罪を自覚し、詫び、人救いに励めば罪は消えます。

●人というものは決して裁いてはいけません。ただ、 無智なだけです。 無智とは恐いものです。 人と対立の想念を持つのは厳禁です、時には長い目で見ることも必要です。また教え人に押し付けたりしてもいけません。説き伏せようという想念もいけないのです。 神様の教えは、 議論するべきものじゃあないです。人に納得して頂くには、相当年月がかかる場合もあります。覚悟して対処しないとなりません。 今は人の魂が曇っているから、いや、すべての全人類がそうです。魂が曇っているんです。 だから神の光も神の教えも入ってこない。でもいつかは必ず分かる時が来ます。すべての人類は神の子・親の子ですから。そう信じています。以上です。

●心の下座といものがあります。「人類はみな、神様に逆らってきたという罪を共通で背負っているんです。だから、家族の中に逆らう人が出る(例えば主人)。 そして何より、 遠い過去世でご主人を神様のミチから引き離した張本人が、 自分自身かもしれません。 だから今、逆らう人(主人)が出るというのはその逆のお役を頂くんです。 そういう場合はですがね、 御主人に徹底下座し、 とにかく逆らわないこと。 あなたの方が、 其の方にに対して負債を背負っているんです。 家族をお救いさせて頂きたいと思ったら、 何でもス直に『はい』『はい』と聞いて上げるんです。 愛と真(まこと)で仕えるんです。 これが行(ぎょう)だと思ってください。正法はしばらくおいておいて、 ご主人に徹底的に下座をする。 そして何よりもまず、 自分がすっかり変わってみせることです。 『おや? こいつ、 この頃変わったな? その秘密は何だろう』と、 放っといてもご主人の方から求めてきます。 ご主人とて、 その本質は神の子ですから。 でも、いくら口で立派なことを言っても言葉と行(おこな)いがちぐはぐでは、ご主人の心を溶かすのは難しいでしょう。まず、自分が熱くなることです。熱く燃えるんです。 熱さはすべてを溶かします。 こんな素晴らしい神様の教えを頂いておきながら、自らの至らなさのために相手に分かってもらえないとしたら、 神様に対しても申し訳ないじゃないですか?。 最後に家の空中に霊的光力やるこことです。 でも、 空中といっても、 本当はその家の霊界なんです。 曇ったら拭く、これが神様の大愛の仕組みです。 七日間は家の周りで霊的光力をするとよいです。この世と霊界は表裏一体なんだから、霊界を浄めることが大事なんです。

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●最後にもう一つ、肉体的なことも分からずに、次元が高い霊的なこと(現世(うつしよ)よりも高き次元の、 さらに今の想いの界よりもまた高き次元の魂の界に住するもの)を話をしても指導はできないのです。病気治しではなくて無病化が目的だけど、ここのことをしっかりと体験を積んで、業(わざ)積みをして行かなければ体得できないものです。

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★さて此れまでの言がある程度理解できたならば、実験をして見てください。何でもいいんですが分かり易いものであればというか、変化が表れるものと言った方がよいかもしれません。 ます缶ビールを二つ用意をして見てください。一は自分の前に置いて、もう一つは放して(正面にはおかないでください)置いて下さい。さてここからですが、缶ビールに向かって二十センチくらいの所で手をかざすように (寒いときにストーブに手を温めるような感じです。親指は良いですが残りの指と指の間は開けないような感じで遣って見てください。) して見てください。肩には絶対に力を入れないでください。そして缶ビールに集中して宇宙のエネルギーと自分の手に一体するようなイメージで遣ってみてください。もちろん缶ビールは 開けないで下さい。十五分間くらい遣って見てください。終わったら開けて飲んで見てください。もう一つの缶ビールと比べて見てください。何か変化に気がついたでしょうか。これが霊的光力というものです。変化が なかった人はまだ理解が出来てないのかもしれません。もう一度真剣に取り組んで見てください。また出来た人は、絶対に他人の額には遣らないでください。 なぜなら人間は霊でありもろもろの霊が入っているからであります。それをやったりすると自分に入ったりしてきますので遣らないでください。その方の想念意識が上ならよろしいかと思いますが?。遣れるようになのにはもう一つの業がありますがここでは伏せておきます・・・。

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曇りの解消とは一体どういう意味かを説明してみるとこうである。すなわち施術者(霊界医師・霊医)は患者の患部にむかって掌をかざすや、施術者の掌から一種の光波が放射されるのである。ではこの光波とは何かというと、分かりやすく言えばこれは太陽の精であって、これを火素と名付けた。 すなわち空気の本質は水素であるに対し、霊気の本質は火素であるからで、もちろん火素といえば火には違いないが、人間が現在目で見、熱く感じるそれは火素の体であって、右の火素とはつまり火霊である。 この火霊が人霊の曇りに向かって放射されるや、曇りの中の不純分子だけ焼尽され、その灰に相応する分子が排泄物となって体外へ排除され、純粋分子は漿液中に混入されてしまい、ここに曇りすなわち病原は解消されるのである。 ではこのような治病力ある火霊が、なぜ放射され得るかというと、これは御守から発する光波である。所謂、光、光力、大光力の三大光力である。これこそ主の神(エホバ)の神霊が、霊体を中継として御守に伝達され、御守から掌を透して放射されるのである。 しかしこの説明を聞かされても、すぐに信ずる事は出来まい。 むしろ反感を抱く者さえあるかも知れない。そんな馬鹿な事がこの世の中にあってたまるもんか、インチキにも程があるとするかも知れないが、それも無理とは思わない。 何となれば有史以来、かくのごとき超物理的例はないからである。しかし事実はあくまで事実であり、百の議論よりも一の事実にしかずである。これを一言にしていえば、いよいよ天の時来って、神は人類救済の大任を命じられたのである。 その一着手としての医学の革命であるから、この事を知ったなら今行っている事は、何ら不思議はないはずである。以上のごとくこの項はすこぶる神秘的な説明になったが、これは神秘でも何でもない。実は純然たる科学である。 ゆえにこれを読んで神秘と思われるとしたら、それは現在科学のレベルが低いからで、将来一層も二層も進んだ暁、容易に理解出来るのはもちろんである。そこに到って初めて科学と宗教との一致点が見出され、真の文明は生まれるのである。 そうして今日口を開けば学問の目的は、真理の探究にありとしているが、最早真理は発見されたので、その解説がこの著である。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

◆今の人々は木物・金仏や石の像に拝んだり願い事をしているが、人々を癒すことが出来るのか嵐を鎮める力があるのか? 木物・金仏や石の像の頭にハエ一匹とまっても自分ではどうすることもできないものに、 何ができるというのか? もちろん、 其の方たちの信仰を否定するつもりはありません。でも、目に見えない本当の神様のみ力は、 人間が与えられた力を十分に使ってやるべきことをやった時に、 はじめて手を差し伸べて下さって足りないところを補(おぎな)って下さるのです。 与えられた力を出しきらないで、 ましてや今のように何もしないで、『神様、 お願いします。 神様、 お願いします』じゃ、 だめなんです。 天井に向かって、パンが落ちてくるのを期待して口を開けて待っているようなものです。 「人が神様から与えられた力を出しきった時に、 神様は救いの手を差し伸べて下さるのです。 もちろん、人間の力が万能だとうぬぼれてはいけません。これまでに記述して来たことは哲学などではなくて、 神様の霊的な法則なんです。 神様は、 この世のことは人間に任せておられるんです。 救いを現すにしても、 人間の体を通してなんです。 神様の世界には神様の世界のやり方、この世にはこの世のやり方があって、 同じではないんです。その神様を拝むのなら最高の捧げものをするべきで、 それは同じ神の子である兄弟である他人を一人でも多く救う、 これが最高の神様への功(いさおし)なんです。 祈りは大切ですけど、 祈っているだけでは神様はうるさいとおっしゃいます。祈ったら、行動に出ることが大事です。一人ひとりが隣人にしたことを、神様はして下さいます。 隣人に何もしないで祈っているだけでは、神様も何もして下さいません。」人知の掟は捨てて、霊的に目覚めることです。もう一度考えてみてください。

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■人間は蟻のように働き(普通のサラリーマンが稼ぐ生涯賃金はせいぜい3億円程度)、夜になると眠り、朝が来ると働きだす。何のためにそうした生活を営んでいるのか。ただ生の為に生きんとするのであろうが、また利を求めてかもしれないが・・・。 しかし老と死はまことにやってくる。そんな有り様で人生に何の愉(たの)しみがあるだうか。しかしも終点(限界の終点)の近いことを考えようともしないのはなぜだろうか・・・。

人間は剣が峰(それ以上少しの余裕がない。ギリギリの状態)まで来ないと、人間は悟れないのか・・・あぁ・・・合掌。

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神より離れて穢れきっている今の世人達に、魂を浄めておかないと、とてもこの度の天変地異は乗り越えられないという。人々の魂に訴えかけて、まずは神(父の怒り)の怒りを告げ知らせる。 そして神縁(かみゆかり)の濃きものは、必ずや吹き寄せられるという。ただ人を集めればよいというものでもない。大いなる改心の出来るものたちでなければ何もならないことだといわれている。

それが魂の救いであり、肉体的にも死後の世界でも留まらないものであるという。これは一切が御神示であり、そこには疑問も疑いも狭むことすらできないものである。御神示というものは 絶大なる神の至上命令なのである。ただどうするかは選ぶ自由が与えられてはいる。ス直に聞くか、聞かないかはその人の自由でもある。


先ずは、この天変地異を乗り越えるにはどうしたらよいか・・・。

魂の状況が、浄まっていなければ、同じ魂の世界というか同じ枠の中に入れないのと同じで、いわゆる合格者というべきかもしれない。過去世における罪穢の人々が魂を濁らす、 曇りとなって、現状は神の声が入らないようになっている。だから神様は罪穢、つまり神様への借金を清算して、魂霊の穢れを霊削(みそ)いでいくことを要求されている。因縁のみ魂だと、 まずは神様はパーッと救いの網をかけてくださる。(オーブといわれているもの)だが一向に魂を浄めようと、自らの身魂磨きの精進をしょうとしない人の場合には、結局は因縁の 魂で救われの網を掛けてあげたのに、「もったいないなぁ」と神様は思われる。逆に浄まって魂の場合には、どんな天変地異が来ても、まるで映画の一シーンを見ているかのように何ら問題もない状況化になるものである。 これは小生は経験しているから判る様な気がする。人間がやられるのではなく直接神の放射、所謂霊線の濃い人達に発動されるというものである。

浄まっていなければそうはいかないのである。助かるも助からないものとが区別されていってしまうのが今回の第七度目の天変地異になるのである。例えば同じ水槽の中に同じ大きさのピンポン玉 を入れても、鉛玉は必ず沈み、ピンポン玉は浮く、それ同じようになるのである。また種人探しとはこの度の精神文明に先駆けての養成するものでもある。 どんなに恐ろしいことになるのか、今の人間の浅はかな経験では計り知れないことでもあるかもしれないが、ス直に聞き入れていく必要があると思うのである。

神様は何遍も書きますが選ぶ自由を仕組んでいらっしゃるけれども、大災害を乗り越えて時期文明 所謂 霊的文明建設に補ってもらわないといけないでしょうから、百パーセント の人類が滅んでしまっては今まで神様の何百憶万年もの間御苦労を重ねて人類を創造されたかということになってしまうでしょう。しかし今は人間の改心を待っている状態である。一刻も早く精進と身魂磨きをしなさいと御示しなのである。

そうすることで想念が神様と波長が合ってくるわけで救いの事実が生じるわけです。あまりごちゃごちゃ書いても仕方がないのでまぁその通りにやっていただくしか無いわけでして 実践するしかないのであります。最後に何事に於(お)いても全て徹底的に感謝するのが神のミチの基本中の基本でもある。このことを良く覚えるのではなく肝に入れてほしいのです。

実は天変地異により神様に滅ぼされるようでいて、実は神様に滅ぼされるのではなくて、人間が自分で勝手に滅んで行くのである。これを何と云うのかというと実相の世というのである。 此れからはひとを裁く想念は、お持ちにならないようにする事と、また、ほかの宗教に対しても悪口を云ったりするような想念を発する暇があったら、自分の身魂(みたま)を磨いて いくことが肝要であると・・・。

今の世の中、人々の関心は金、金、金だ。そして快楽と女性は乱れ、男性は働く意欲がなくなり家庭崩壊となって、また ただお金の為にだけさんざん働いてお金が貯まると、 物質的快楽を求めている有様である。今まさに人類に危機が迫っている事も感じていない。

さて、もしかしたらこれを読んでいる皆様にとっては、世の中の異常な世界に包まれ込んでいってるかも知れません。これまでの歴史を見回すとやはり同じ状況がありました。そこで たった一つだけ救いがありました。祈ったのです。誰に! そう神様という存在に祈ったのです。(大自然と神とは一体だったのです。神が怒れば自然が荒れ狂って、海や森が人々を拒絶する。ならばどうする? 何はともあれ神(霊的な父親)を宥(なだ)める他はない。) これ以上国々の争いや殺人やらまだ見えやらぬ不合理な死などなど、しかしこの様なことにも麻痺している現代の人々の姿は異常といえましょうが全然素知らぬ顔で生活をしているのが現状でしょう。がしかし人間は言うでしょう。起こってしまったんだからしょうがないと。

さて本当に自分自身に降りかかったらそう言える人が何人いるでしょうか・・・。やはり後悔するでしょう。出来ることなら避けたいことでしょう。そうならない為にもよく考えて生きてほしいものです・・・。

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★人間というもの、何事も有るものを存在しないと思えば、存在しなくなのもので、人間の感覚とはそういうものである。ただ信じる力というものも必要であろう。 神の存在も然るであろう。神を信じられれば必ず神は何事にも置いて守られのものである。信じる心が大であればあるほど、ただ試練というものもあるから、信じきられるかが 問題である。神とはそういうものであろう。
ただただ真(ま)ス直になりて、 不可視の力界(りきかい)の作動にまかせおればよきなり。 人知人力にての思い、 神より見ればまだまだ幼児にも至らぬものなれば、 やがて必ず神の力を知らん!
今はただ真ス直となること肝要なるべし。 屁理屈申さず、 ひたすらわが言霊を神の声と聞きて受け入るべし。 汝らは、 必ず光明の証(あかし)を得んと……
――真ス直に……
心の中のわだかまり、 疑惑……それらのすべてを取り払うことが真ス直な主型であろう。
人の人生にとやかく言うことではないが、不完全な人生より完全な人生を歩んで行ったら好いのではなかろうか。(肉の目は開いていても、 霊の目を閉じていたら何にもならない)相反する和である!!


お年寄りであっても、子供さんであっても、どなた様であっても理屈なく即、分かるのが「法の力」

「心行全文」 寝る前に読み上げると良いでしょう。心が休まります。

心行は 宇宙の神理 人間の心を言霊によって表現したものである
それゆえ心行は拝むものでも暗記するものでもなく
これを理解し行うものである
正法は実践のなかにこそ生命が宿ることを知れ

われいま見聞し正法に帰依することを得たり
広大なる宇宙体は万象万物の根元にして
万象万物相互の作用により転生輪廻の法に従う
大宇宙大自然界に意識あり意識は大宇宙体を支配し
万象万物をして調和の姿を示さん
万象万物は、広大無辺な大慈悲なり
大宇宙体は意識の当体にして意識の中心は心なり
心は慈悲と愛の塊にして当体意識は不二なることを悟るべし
  この大意識こそ大宇宙大神霊・仏なるべし
神仏なるがゆえに 当体は大神体なり
この現象界における太陽系は大宇宙体の小さな諸器官の一つにすぎず
地球は小さな細胞体なることを知るべし
当体の細胞なるがゆえに細胞に意識あり
かくの如く 万物すべて生命にして
エネルギーの塊なることを悟るべし

大宇宙体は、大神体なるがゆえにこの現象界の地球も神体なり
  神体なるがゆえに 大神殿なるべし大神殿は 万象 魂の修行所なり
  諸々の諸霊 皆ここに集まれり諸霊の輪廻は三世の流転
この現象界で己の魂を磨き
神意に添った仏国土・ユートピアを建設せんがためなり 
さらに 宇宙体万象が 神意にかなう調和のとれた世界を建設せんがため
己の魂を修行せることを悟るべし
  過去世 現世 来世の三世は生命流転の過程にして
永久に不変なることを知るべし

  過去世は 己が修行せし前世すなわち
過ぎ去りし実在界と現象界の世界なり
  現世は、生命・物質不二の現象界この世界のことなり
熱 光 環境 一切を含めてエネルギーの塊にして
われら生命意識の修行所なり
神仏より与えられし慈悲と愛の環境なることを感謝すべし
来世は次元の異なる世界にして
現象界の肉体を去りし諸霊の世界なり
  意識の調和度により 段階あり
この段階は神仏の心と己の心の調和度による
光の量の区域なり

  神仏と表裏一体の諸霊は 光明に満ち実在の世界にあって
諸々の諸霊を善導する光の天使なり
光の天使 すなわち諸如来 諸菩薩のことなり
  この現象界は神仏より一切の権限を光の天使に委ねしところなり
  光の天使は慈悲と愛の塊にしてあの世 この世の諸霊を導かん
さらに諸天善神あり諸々の諸霊を 一切の魔より守り正しき衆生を擁護せん
肉体を有する現世の天使は諸々の衆生に正法神理を説き
調和の光明へ導かん

この現象界におけるわれらは過去世において
己が望み 両親より与えられし肉体という舟に乗り
人生航路の海原へ己の意識・魂を磨き
神意の仏国土を造らんがため生れ出でたることを悟るべし
肉体の支配者は 己の意識なり己の意識の中心は心なり
心は実在の世界に通じ己の守護・指導霊が
常に善導せることを忘れるべからず
善導せるがために 己の心は己自身に忠実になることを知るべし
しかるに 諸々の衆生は己の肉体に 意識・心が支配され
己が前世の約束を忘れ自己保存 自我我欲に明け暮れて
己の心の魔に支配され 神意に反しこの現象界を過ぎ行かん
  また 生老病死の苦しみを受け己の本性も忘れ去るものなり
その原因は煩悩なり

  煩悩は
眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が根元なり
  六根の調和は 常に中道を根本として己の正しい心に問うことなり
  己の正しい心に問うことは反省にして反省の心は
己の魂が浄化されることを悟るべし
  己自身は孤独に非ず意識のなかに己に関連せし
守護・指導霊の存在を知るべし
  守護・指導霊に感謝し さらに反省は
己の守護・指導霊の導きを受けることを知るべし
  六根あるがゆえに 己が悟れば菩提と化すことを悟るべし
  神仏の大慈悲に感謝し万象相互の調和の心が
神意なることを悟るべし
肉体先祖に報恩供養の心を忘れず両親に対しては孝養を尽くすべし
  心身を調和し 常に健全な生活をし平和な環境を造るべし
肉体保存のエネルギー源は万象をふくめ 動物・植物・鉱物なり
このエネルギー源に感謝の心を忘れず
日々の生活のなかにおいて己の魂を修行すべし
己の心、意識のエネルギー源は調和のとれた日々の生活のなかに
神仏より与えられることを悟るべし己の肉体が苦しめば 心脳乱し
わが身楽なれば 情欲に愛着す
苦楽はともに正道成就の根本にあらず
  苦楽の両極を捨て 中道に入り
自己保存 自我我欲の煩悩を捨てるべし

一切の諸現象に対し
正しく見 正しく思い 正しく語り 正しく仕事をなし 正しく生き
正しく道に精進し 正しく念じ 正しく定に入るべし
  かくの如き正法の生活のなかにこそ
神仏の光明を得 迷いの岸より悟りの彼岸に到達するものなり
  このときに神仏の心と己の心が調和され心に安らぎを生ぜん
心は光明の世界に入り三昧の境涯に到達せん

  (この諸説は末法万年の神理なることを悟り、               日々の生活の師とすべし)

         〜 感謝・合掌 〜

尊き全ての魂に光あれ!!

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いままで色々書きましたが、理解し難いものがあると思われたら、それはそれで良いのです。
しかしながら今の世の中の人々は薬だとか医者ということでしか救われないのだと洗脳され脳死状態と思うのであります。 聞く耳、見る目を持って、全て個人個人に委ねる事でありますから強制するようなものではありません。霊的光力は実は病気治しそのものが目的ではありません。 この霊的光力を通じて、神仏の実在を知らしめると共に、あの世とこの世に迷っている霊達を救う霊法なのであります。 最後に小生から願いですが一人一人がこの世に生まれ、善き人生を送っていただきたい事が一番の願いでありまス。又皆様方からよく言われることがあります。もう少し早く 茲にたどり着けたらよかったと・・・。開く準備が出来た者にしか訪れない(天窓)!悟りの世は過ぎて、神人(しんじん)・自人(じじん→自然と人の) 差取(さと)り合作の天の時の到来なり!!


尊き魂に光あれ!!

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