『喘息(ぜんそく)』
喘息に関しては、医学では全然判っていないのである。というのは医学における喘息の説明は、ほとんど問題になっていないからである。
ヤレ、アレルギー疾患だとか、迷走神経の緊張だとか、神経過敏性とか、そうかと思えば食物とか、土地とか、中には部屋の構造、壁の色まで関係があるというのだから、むしろ滑稽でさえある。
従ってなるべく詳しく説明してみよう。
医学でもいうごとく、喘息は大体二種ある。気管支性と心臓性(近来こちらはアレルギー性ともいう)とである。
まず心臓性からかいてみるが、これは最初横隔膜の外部に、薬毒が固結するのである。それに浄化が起るや微熱によって溶解、液体状となり、肺へ浸潤して喀痰となって出ようとするが、
この場合横隔膜部は肺臓から距離があるので、液体の方から浸潤する事が出来ないためと、肋間に毒結がある場合浄化によって液体となったが、人により肺膜の厚い場合容易に浸潤し難いので、
肺の方から最大限に拡がり吸引しようとする。そのように大体右の二つの原因であるという訳は、肺はそのような猛烈な運動のため、肝腎な空気を吸う力が減殺されて、窒息状態となるのである。
何よりもその際肺に侵入した毒液が、咳と共に痰になって出ると、発作は一時楽になるという事や、また肺炎に罹ると一時快くなると言われるが、これは高熱のため固結が溶解され、痰になって出るからである。
右の理が間違っていない事は、何よりもまず心臓性喘息患者の、横隔膜部を指で探れば、必ず固結を見る事である。
次に、気管支性喘息であるが、これは肋骨付近に固結している毒結が、浄化によって少しずつ溶けるので、それをヤハリ肺の方から吸引しようとして肺臓は猛烈なポンプ作用を起す、
それが咳であるから、これによって痰が排泄され、一時快くなるのである。しかし痰の量が多く出れば出る程、短期間に治るのであるが、それを知らない医学は、極力固め療法を行うので、
少しづつしか痰が出ないばかりか、薬毒も追加されるのと相まって、治り難くなり、慢性となるのであるから、丸で笊(ざる)へ水を汲んでいるようなもので、
人により何十年も苦しんで治らない者はそういう訳である。
これを考えたなら患者も医師も、実に気の毒の一語に尽きるが、何とか分らしたいと常に思っているのである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-47
病気や怪我、あるいは人生における一切の忌み事、嫌な出来事すべては、「霊界の曇りを払拭する作用であり、先祖や自分自身の魂向上のために起きる現象である」しかも、
「本人が乗り越えられない現象(試練)は起きない」事になっております。また「清浄化は神の大愛」とも表現されています。ですから、人によっては、
病気になると「清浄化だ」といって喜んで、なかなか治癒しないのを「神から愛されている」と解釈する人もいますが、これも誤解であって、なるべく速やかに改善され、
浄化たらしめることが大切でしょう。この浄化たらしめるという点について、最も重要なことは気づきだと小生は思っています。
すなわち、一切の病気や忌み事が霊界の曇り払拭のために引き起こされ、乗り越えられない現象(試練)は起きないということは、実は魂向上を図るための学びの現象であり、
霊界の曇りの原因を想い、体験している忌み事から何かを学び、反省し、気づき、そしてそれらの反映としてこれからの自分の新たな生き様を模索する。
大げさなことではなく、我利から利他へ向かう日々の積み重ねの中で、こうした一連の心の動きこそが学びに必要な要件のように考えます。
こうして、忌み事の中に神からのメッセージを汲み取り、その答えを腹に落とすことで始めて自分(心)が変わり(自覚なく変わっている状態)、
真に浄化できたと言えるのではないでしょうか。
表現を変えれば、病気や忌み事の治癒は現世における物質的側面の回復と云って良いかもしれませんが、浄化は魂レベルの治癒であり、
伴って霊主心主体属の法則【たとえて見ますと水は川上から川下えと流れます。そして霊、心、体の関係は相即相入、密実一体〈三位一体〉となっております。
川上と川下とは離れている分けではありません。これは密実一体になっている理由です。流れてくるのは、必ず霊の方から流れてくるのです。霊が変わると初めて肉体が変わってくる事になるわけです。
したがって霊の面の川上が曇りますと、放っておいても、心の世界も、すぐに曇り、やがては体には、濁微粒子が発生します。心の面、体の面と一生懸命努力しても、霊の面に曇りがあれば、
どんな真面目な方でも、立派な方でも、事故にあったり病気をしたり、殺されたり、商売、事業がうまく行かなくなったり、生活が苦しくなりするわけです。】によって、
治癒は当然として、心が向上し、精神的、肉体的、経済的など他の部分でも、以前よりも何らかの向上が観られるわけです。
逆に病気や忌み事を、文字どおり「イヤ!」「辛い」「逃げたい」など苦悩や悲嘆に受け止めれば、想念に曇りが生じて浄化どころか汚濁化となり、
病気になって医薬にすがるのもそれに該当しますが、ましてや苦しさのあまり、犯罪や自殺、他人を苦しめる行為に至れば悪化の度合いはますます激しくなり、
病・貧・争の地獄的世界へ堕ちて行く結果が待っていることでしょう。
そしてこれらは、この世の摂理として起きる事象ですから、前記を知る、知らないにかかわらず、
あるいはキリスト教・イスラム教など他宗教であろうがなかろうが、人類すべての人に共通することなのです。
どうして霊界があるとやかましく言うのかと申しますと、たとえばアメリカと日本が霊界で戦争が始まると必ず現界では日米両国は戦いを始める。このように集団が霊界で戦いを始めると
全世界が戦争が行われる。武力で相手を征服すればやられたほうの霊統に必ずやられる。こんなことを繰り返していたら人類はいつまでたっても現界には幸せな時代は訪れないのである。
各先祖と現界とは霊線でつながっているから、両国間の感情衝突が起こって戦争が突発するしこれが集団霊障となるのです。また動物を大量に殺しますと必ずその動物霊が人間達に
憑依して仇をしてくるものである。この様に霊の世界を知らないと結果的には全て霊障を受けるようになるのです。ですから受けないように浄よまりなさいと口やかましく言っているのです。
豆々知識;此れまでの前記を読んで、よく誤解したり非難したりする場合があるようですが一部の悪い点だけを誇張していう癖があります。一体世の中に完全なものがあるだろうか?。
どんなに良いものでも十のものなら八か九つ良くて一つ二つ位 悪いという事は止む得ない事でもある。それを八つか九つの良いことを蔽(おお)いかくして、一つの悪い点を全部かのように思わせるような悪宣伝をする者もある。
体験もした事のない人がよく言う事である。又経験が出来ないというのも霊的なことかもしれないが?。大いに警戒すべきことだと思う。後もう一点であるが如何(どう)しても伝えなけなければならない時には
方便ということを使う時などもある。今の人間はやれ証明しろだとか根拠がないだとかへ理屈ばかり言って喧(やかま)しいが、何かを得るためには物事に余りとらわれない事も肝要である。だが奇跡ばかりの安易な考え方もあまり思わしくないのである。もっと上を見てほしいものである!!
またどの辺りが方便なのか検討できるかが御自分の霊的な神性が要求されるものである。そして自分どんなところが大切なのか解ってくると小さき事など如何(どう)でもいい事であるものだ。
そして最後にいかなる宗教・崇教と云えども欠点がある。それは人間に欠点があるからである。教える人も教わる側も皆欠点があるからである。
神がこの人を使えさせようと思うと、たとえどんな経歴の持ち主だろうが遣わすものである。人間的な考えなど及ぶものではないのである。これが神から見た映写である。
肝心なのは見えない世界があるということと、霊界から全て流れてきていることと人間は神の主型であるというほかならないのである。
今まで色々記述してきましたが後は知識として受け入れて行けばよろしいかと思うのである。
●旧約聖書の中に次のような話があります。アブラハムは、「ウル」を出た後、神様からさらに試みられています。アブラハムが神様と話された時、神様から「あなたは私を信じることができますか」
アブラハムが「はい、信じます」と言うと、「それではあなたの子イサクを、私の生け贅として供えなさい」と神様が言われたと、そのように書かれています。
神がこんなことをおっしゃるはずはありません。アブラハムが、もう七十、八十歳になってからできた、そのいとし子を殺して私に供えなさいなど、そんなことを言うのは、神でなくて悪魔です。
しかし、聖書には言葉としてはそのように書かれています。それは、自分の可愛い子供より以上に神を信じる、それほどの思いをもって神様を信じなさいという譬え(比喩)です。
丸呑みをしてはいけません。しかし、それを信じて堂々と説いている指導者もありますね。とんでもないことです。盲信、狂信の世界に人を引きずり込みます。
●さて神様には奥深い考えがあるから、その人を色々と試し使おうとしているのではないでしょうか。世人達はある程度したがって時を見定める必要もあるのではなかろうか。その後自分自身の霊性を生かして見定めたらいいのでは
ないでしょうか。全てにいえる事だが、一朝一夕(物事を達成するには難しい短い時間のたとえ。)には理解出来ないし時間がかかるものであるから、根気強く遣らねば達成できないものである。
物事とは無になる事はこの世には存在しないものであるから例え自分にとって必要が無かったと思われる事でも必ず後になれば解るものである。
● 人間はいろんな方向性に分かれて行く。例えば岩に落ちた種みたいなもので、根が無いからしばらくは良い教えも続くが試練が来ると直ぐにぐらついてしまう。
● 道端に落ちる種みたいな人間とは、御教(みおし)えは聞くには聞くが、すぐ闇の世界(いろんな人間が云う言葉)の言葉が囁(ささや)き、御言葉を奪ってしまう。
● イバラに落ちる種みたいな人間とは、御言葉(みことば)を聞くには聞くが富や快楽で心を塞いでしまう。決して実を結ぶことはない。
● 好い地に落ちる種とは、御言葉(みことば)を聞いたらそれを正しい心で守り、好く耐えて豊な実を結ばせる人のことである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-48
『霊的光力(大玄霊光の主)』はあくまで手段として、治病の方法のひとつであって目的そのものでなく、本当の目的は今までの医学でも、
また世界の聖人でも説けなかった「薬毒と病気」の関係を示しているものですし、また正法を知らせる為でもあります。
病気の原理とは治病力などはそれを証明する枝葉のことです。人類想念一大転換(Uターン)の時なり
●本当の治病力は人に備わっている神からの治病力 自然良能力 なのです。
しかもその自然良能力が心身の掃除としての「病気」(浄化作用)を引き起こす原動力となっているのです。
それで病気は決して悪いものではない。どこまで行ってもそれは体の清浄作用であり、原因は想念からの霊の曇りと体的は薬毒の濁りを掃除してくれる、
偉大なる神からの贈りものであるというのです。
(そこで、幼児期の病気はとなるでしょうが、それは人は人から人へと連鎖して繋がっているので生まれたばかりの赤ん坊に悪の想念やら薬毒を飲んだなどとはあり得ないのですが、
それは肉体的には先祖からの薬毒連鎖であり、魂的には生まれる時にそんな肉体に同調する状態であり、しかもそれを自分自身で選択権を持っているので、
「神の命令」というより「自分が望んだ自由意志」の範囲だと思います。)
それがたとえ苦痛に満ちて、しかも死へ確実に向かう状況といえども、それは神の恩恵なのです。
死を悪いものとする見方も考えなおさないと、病気に対しての恐怖感や罪悪感も消えないでしょう。
霊的光力にしても、すべての病気が治るかというと、それは無いでしょう。
治病は自らの魂レベルで選択しているのです。表面意識だけで、また肉体レベルだけで解決できない病気もあると思います。
そして病気それは原因の解消経過でもあり、無条件で解消しようとするのは本当は自然ではないのかも知れません。
せっかくの病気という体験を通して得られるものを何も意識せずに消して貰うことが果たしてそれが良いのかというと、それは表面意識としては単純に良いのでしょうが、
本質的な奥の意識としては必要なものかも知れないのです。
霊的光で治すのはそんな事も考えて行なうことで、治るも良し、治らないも良しとしないととんでもない解釈をしてしまいます。
信仰心が足りないとか、御礼の金額が足りないとか、みな人にとって都合の良い解釈をしてしまうからです。
そして、病気は悪でないと言いながらも病気をしているのはその人に悪があるという知らずのうちに裁きをしているのです。
人が病気をしている人の本質を分かることは出来ないのです。いろいろな理屈をつけて見たがるのは真実を知らないからでしょう。
本当に知っている人は黙ってその人の本心からの目覚めを見守っているだけです。
卵の殻を外から割ったらひよこは死んでしまいます。
自ら内側から殻を破って出る時期がその人に与えられている本然の力です。
病気治しにしても、それを真に望んでいるかどうかは表面意識だけでは分かりません。奥の魂がその人に今病気という体験を与えて必要なものを発見させようとしているのかも知れません。
そういう意味で、人は病気をしないと分からないことがたくさんあるのでしょう。そしてその病気をするには原因を作っておかないと結果が出せないのですから、
見方を変えると医学の誤りこそ人類に病気という体験を作り出すチャンスを与えてきたと言えます。
人類がまだまだ病気という苦しい体験を通じて何かを手に入れることを選び続けて行っても良いのでしょうが、薬が毒だというのは、時代が変化しようと、
それは変わらない真実だと思います。
そして、その薬が病気を治しているかの様に見えていたのも限定手的な真実でした。
しかし永遠の真実ではないのでその浄化が行なわれます。
それが今の時期から盛んになって来るようです。
繰り返しますが、病気は決して裁きでも悪でもなく、浄化清浄化の過程です。
それによって死を迎えるとしても、死は終わりではないのですから、新しく生まれるためにかえって良い事とも言えます。
一生健康で長生きしたから良いとか病気ばかりして早く死んだから悪だという決めつけはないのです。
しかし、薬で病気を治すという事は浄化の元を作るだけです。
もしこれからも自分にも子孫にも病気の種を作っておいて、もしもの必要な時には病気をして・・・・と考えられているなら、それも良いのです。
すべては自由です。
ただ、小生は自分なりの世界を見た世界として「医学の革命」つまり薬毒が病気の原因となることをひとつの真実として捉えているだけです。
治療としての霊的光力の考え方もいろいろありますがこれも自分の世界で見たものです。
また宗教に入って何々をするというよりも、人ひとりひとりが神との直結したものを感じとりそれが健康と病気を支配しているものと理解できるならと思います。
何よりも本当の救いは 例えとして、河に溺れる前にその原因を知ることです。正(まさ)しくこれに限ると思います。
河に溺れている人を救うのはまだ根本でなく、誰もが河に溺れないように、または、溺れたとしても自らはい上がれるのだと理解することが一番の救いだと思うのです。
今の時代においても薬毒を知らせるには効果的な方便とは思いますが、未だに病気となる原因は薬毒が認識されずに相変わらず治療に薬を使っている現実を見ると、
医学論がよりよい発信方法が宗教という形態にあるのはイタシカタないと思うことがあります。
それは簡単に考えると解ると思います。
誰もが自分の信じている宗教が一番だと思っていますし、さらにその宗教以外には真理は認めたがらないという垣根も出来てしまいます。
いくら偉大な宗教家であっても、また真理を深く知り得た聖者であっても、この地上世界のすべてを知り尽くして話しているかというと、
それは一人の肉体をまとっている形では不可能だと思います。
いろいろな分野での真実をいろいろな人物を通して伝えていくのが自然でしょう。
ゆえに人物を通して真実がたくさん伝えられたからと言って、その人以外に真理は無いなどと考えることは不自然だと思います。
さらに時と共に変化して進展しているこの宇宙の原則から言うと、その時点で最高の真理だと思っていても刻々と進展して行く流れから見ると、
それはもう最高ではなくなっていることも考えられます。
教祖・教え主が人々に伝えようとした神からのメッセージや、真理の道への教えとかは、各宗教団のここかしこに残されているのも事実ですが、活動は活動として、
個人個人が、自分自身で学びを深めて行く決意が必要でしょう。今日の人達は依存症が増えているよう思われます。好いも悪いも自分で学んでほしいものです。霊眼(れいがん)を開いて・・・。ユダヤ医学は唯物の医学で、細胞ばかりいじくっている。最後に小生が思う事は医学から本当の医術に変えていかなければ医学は崩壊するであろうと思うのであります。
この辺で私心を捨てて考えを改めては如何と思うのであります。
●自然を尊重せよ
医学では、安静を最も重要とされているが、これは前にも述べたごとく大変な間違いである。ではどうするのが一番いいかというと、何よりも自然である。
自然とは自分の身体を拘束する事なく、無理のないよう気儘(きまま)にする事である。例えば熱があって大儀な時は、寝ろという命令を身体がすると思い、寝ればいいのである。
また寝たくない起きたいと思うのは、起きるべしと命令されたと思い、起きればいいのである。歩きたければ歩き、駈出したければ駈出し、大きな声で唄いたければ唄うがいい。
というように、何でも心の命ずるままにするのが本当である。気が向かない、心に満たない事は止すことである。要するにどこまでも自然である。
これが結核に限らず、いかなる病に対しても同じ事がいえる。
食物も同様で、食べたい物を食べたい時に食べたいだけ食う。これが最もいいのである。
薬はもちろん不可(いけ)ないが、食物としても薬だからとか、滋養になるとかいって、欲しくないものを我慢して食ったり、欲しいものを我慢して食わなかったりするのも間違っている。
人体に必要なものは食べたい意欲が起ると共に、食べたくないものは食べるなという訳である。そうして結核に特に悪いのは動物性蛋白である。
少しは差支えないが、なるべく野菜を多く摂る方がよい。ところが今日の医学は、栄養は魚鳥獣肉に多いとして奨めるが、これが大変な誤りで、必ず衰弱を増すのである。
本来栄養とは植物性に多くある。考えてもみるがいい。動物性のもののみを食っていれば、敗血症などが起って必ず病気になり、生命にかかわる事さえもある。
それに反して菜食はいくらしても健康にこそなれ、病気には決して罹(かか)らないばかりか、長寿者となるに見ても明らかである。
これについてある体験をかいてみるが、結核で死の宣告を受けた方が、それまで動物性食餌を多量に摂っていたのを、ある動機でその非を覚り、菜食にしてみたところ、
それからメキメキ恢復に向かったので、医学の間違っている事を知り、薬も廃めてしまい、三ケ月間絶対菜食を続けたところ、それで病気はスッカリ治り、病気以前よりも健康体となったのである。
その後他の病気はしたが結核のケの字もなくなったのである。
もしその時それに気が付かなかったとしたら、無論あの世へ旅立っていたに違いないと、今でも思う度にゾッとするのである。
今一つは喀血の場合である。これこそ菜食が最もいい。以前こういう患者があった。肉食するとその翌日必ず喀血するが、菜食をするとすぐ止まるという、
実にハッキリしていた。これでみても菜食のよい事は間違いないのである。
今一つは、医師は疲労と睡眠不足を不可として戒めるが、これも間違っている。それは原理を知らないからで、疲労とはもちろん運動のためで、
運動すれば足や腰を活動させるから、その部にある毒素に浄化作用が起り、微熱が発生する、微熱が出れば疲労感を催す、それが疲れである。
しかしそれだけ毒素が減るのだから結構なのである。何よりも運動をさかんに行い、常に疲労を繰返す人は健康であるに見ても判るである。
だから草臥(くたび)れた際足や腰の辺りを触ってみれば必ず微熱があるにみて、それだけ毒が溶ける訳である。
また睡眠不足は、結核には何ら影響はない、むしろいいくらいである。これは事実によってみればよく判る。何よりも睡眠不足の階級を見るがいい。
旅館の従業員や花柳界の人達には、結核が最も少ないと医学でも言われている。
これについても説明してみるが、睡眠不足だと起きている時間が長くなるから、活動の時が多くなり、浄化が余計起るからそれだけ疲れるのである。
ところが逆解的医学である以上、睡眠不足を不可とするのである。今一つこういう事でも判る。それは普通朝は熱が低く、午後三時か四時頃になると熱が出てくる。
これも右の理と同様で、たとえ寝ていても神経を使うから浄化が起るのである。
●全ての教えやらは必要ではあるが、其の事に溺れてもいけない。しかし離れてもいけない。まずは其の教えに関して皮から高みへ肉へと、そして骨から隋まで得ることが必要な事だと思います。
此れ、そのものの原理を得たことなれば若くして得るもの成れば最も能力が開花するであろうし、老年して得たのならば、素晴しき人生を得たようなものである。風雷伝より
●神の言と逆な結果(これを神鍛え・神試しという)神ぶるいがでてもなおどこまでも神を信じる事ができるか。心を変えずに神にすがる心。人間の助かりはまず心の開放にあり。人間の心はあまりにも厚く暗黒の雲に覆われている。
※最後に人間を神様が創られたのならと云われることだが、先(未来)のことが分かるようにつくったらいいのではないかと云う人がいますが、人間に自分の過去も先もわからないようにしてあるのが、
神の仕組みのひとつなのです。なぜかというと、神様の天意(あい)は万生が進歩進化することにあります。もしも先のことがわかってしまってしまうと、進歩進化が止まってしまう。
例えば十八歳になった人に、これから一生懸命、神様の御用をしなさい。しかし神様の御用をしても三十八歳で死ぬだろう、などわかってしまったら、努力する気もなくなってしまいます。又
とても社会のためになろうなどとも考えられないでしょう。ですから神の仕組みによって、明日の運命がわからないようにしてあるのです。そしてこの仕組みが万生、特に人間の
進歩を起こしてきたわけです。そういう意味で、神様が人間につくらせてこられた文字も、言葉も、すべて連携がとれているのを、人間はわからないものですから判ろう判ろう
としてきたのです。そこに人間の思想の進化進歩があったのです。それと、神理というものがなかなか明らかにされませんでした。これは釈尊やモーゼを通してもわからないようにしてありました。
ですから日蓮や親鸞が出て、少しでも神理を解明しようとしたわけです。そしてわからないで悩む。悩むから仏教が進歩するし、人間の思索が進歩してきたというわけです。
さて一番最初に神様は言霊をおつくりになられました。寺というのは、天照主の照から出た言葉で、元は光、光の場という意味です。神の光を伸べる、あるいは神の光を発揮する
場所のことです。これが朝鮮へいってチーラ、インドへ行ってチューラになったとのことです。ですから言霊は、照らすということなのです。釈尊の説法の本体は、悩みを
消して陽の気へ転換させていこうとしたのです。しかし弟子達が議論をあつめた集大成で釈尊の教えは、経典(釈尊が説かれたとされるたくさんのお経がありますが、
経典として成立したのは、釈尊がご入滅(亡くなる事)後、何百年も経ってからのこと)を作る際に殆ど省いてしまって判らなくしてしまったとの事です。
本当の釈尊が説こうとした教えは、何処いったのかわからないのが、今の仏教界だそうです。このように色んな形を変えて都合のいいようにしてしまうのが人間なんでしょうね。
小生も含めてですが。そこでブレーキ役が出てきては説法したでしょうが、今の世ではそうは行かないのである程度神理正法が説き明かされたのです。
小生ごときが言うことではないが神理正法が説き明かされた所で先ずはお聞きになられてはいかがかと思うのであります。また聞くのと知るとでは大きな違いがあります。しかしながらいくらこの様に書いても理解してくれる人も
少ないし、霊魂の実在を説いても、屁理屈ばかりでなかなか在るものを在ると認めない。理解出来ない!理解しようともしない!見えないんだからと言いはり頭から決め付けて受け入れようとせずただいたずらに
不幸になって平然としているのが現代人です。
なぜ富を得た人々がいるのかと言いますと、神様が物質文明を発展発達させる為(物質文明発展のためとは言え、人間が今日までに養ってきた心とは、
相手よりも上の立場に立ちたいとか、相手よりも権力や名誉を持ちたいとか、人を支配したい等という欲望、我欲です。このような人間の我欲は人間社会の物資の発展には有用なのですが、
一歩過ぎてしまえば他人を苦しめたり殺すことにもつながりかねない心です。神様は今、人間のそのような自分さえ良ければよいという心を捨てることが大切なのだと示しております。)
しかしこれからは心の文明 所謂 霊文明に成りましたので心の文明
を栄えさせる人々にはどんどん栄えさせていく(お金がどんどん入ってくる)のが神の仕組みのひとつである。そして神性化した物質文明を栄えさせていくのが神の経綸である。
又これまで富を得た人々は天の蔵に積んだお金ではないので最後には神様の方では全て取ってしまわれるのである。(自分の為だけ、家のためだけ財産を増やした人)
しかし人類の為に金を使うような人に富を与えて行く方向へ切り換える。此れが神性化した物質文明の発達でもある。かといって物質文明を発展発達させたのですから
神様の御用と言えば御用たったのですが、それに伴って罪穢(財穢)を積んでしまわれた場合はミソギ(人間を使ったりしてどんどん財産を無くさせる役目の人をその家に入れる、止めるには神向き以外に無い、
神に意乗る他にない、財穢を綺麗にする他内)という形で綺麗しなければならないのであります。よく耳にします所の
恵まれない人々に寄付をするというのは自ずと解っていらっしゃるかと思うのであります。
「豆々知識-1」 物質文明を裏で仕切っているのはユダヤ民族(所謂フリーメーソン)であるが、そのユダヤ民族と神の子集団が本当は手を結ばなければならないのに世の中はまだそのようになっていない。
フリーメーソンがなぜ膨大な富と権力を握って言ったかと申しますと霊界を知り人間は肉体と幽体と霊体といものの存在を少なからず知っていて人間の世界をコントロールしようとして
考え出して永い間かかってこの世界を握っていったのである。なぜなら人間は金欲・性欲・快楽の方向に目を向けさせていけば後は簡単に操る事ができてしまうからである。
先ずはそのためには医者というものを創り其れで雁字搦(がんじがら)に人間に植え付けて女性をファションに目を向かせ男をそそり立たせる手段を使って終いにはフリーセックス
を広めさせ霊性などは閉ざさせていったのである。実に巧妙な策略である。だが彼らの本質は一つの世界にしようとしている事は確かではある。ただ彼らも神一厘という仕組みは解明できてはいないのである。恐れてはいるのである。
「豆々知識-2」 ヘビ地獄とは ;少なくとも300匹、だいだい500〜600匹くらいはいるヘビの霊に苦しめられる行場です。ヘビに巻きつかれて首を絞められたり、噛まれたりします。
生前人の上に立った人だけが往く行場で、主に権力で人を苦しめた人が往きます。会社の社長や政治家等が堕ちやすい。人の上に立つ上役ほど徳を積まなければならないと云われております。
又富や権力で下の位の方のお役に立つことが大切だと言われています。この辺のところは霊界の所謂行場と言うところのようです。皆さんは死んだら天国でもいけるような思い出
居られるようですがそんな甘いようなところでは無いようです。
キツネやタヌキには幽体を持ったものを見えるようですが、霊体神になってくるともう見えないです。キツネやタヌキ等が憑かると神というものを動物霊がなかなか信じません。それでも人間は少し解ってくると神の存在を認めようとしますが
このキツネやタヌキの霊が憑かられると絶対信じようとしませんね。今の時代ほとんどこのような状態です。
現世における職業は非常に霊界往くや大きく影響するものである。たとえば遊女は狐、芸妓は猫、というように、又ヤクザなんかは蛇かニワトリに転意する。相応の運命に墜ちるのである。従って人間はどうしても人間としてはずかしからぬ行為をなすべきである。
不動産これは人に対していい物件を与えて喜ばれるのならば良いが殆どは利益の為にやっているから霊界に往くや畜生道に墜ちタヌキにさせられそこで業をさせられる。
★フリーメーソンの意図
猶太(ユダヤ)の秘密結社であるフリーメーソンの意図を赤裸々にかいてみよう。彼らが最後に到って全世界を掌握せんとする――その方法として最も力を入れたものは各民族を去勢する事である。
即ち民族特有の魂を抜く事である。その理由としては各国家の存立が強固である。その主因としてはその国民の祖国愛である。
仮に日本に例をとれば、忠君愛国であり、孝道である。勿論これは見えざる意志の活動と信念の力である。従って何よりもまずこの見えざる力を抜かなくてはならないという事になる。
その抜く方法としての逆的効果を狙ったものが即ち唯物思想である。故にその意図の下に構成されたのが今日までの猶太文化であり、猶太的学問の機構であった。
従って、彼らの理論はことごとく物を本位とし、物を離れた理論は成立たないのである。この物本位の学問によって教育された所の現代人であるから、見えざる力を信じ難いのはやむを得ない事であろう。
フリーメーソンというのを知ってる方はお判りですが、二千年も前からフリーメーソンという結社を造り、今日もさかんに活動しているんであります。
陸軍中将の四王天延孝(のぶたか)という人が研究家として知られていますが、このフリーメーソンは、最初石屋の組合だったんで、それがだんだん変化してこういう結社を造り、日本でも
有数な人がたくさん入ってるそうであります。よく知りませんが、幣原(しではら)とか財部(たからべ)とかいうのも会員だそうで、ああいう階級にまでもあるんであります。
日本にもそうとう侵入していますが、外国では英国皇帝とか、大きい金持ちロスチャイルドなどあり、そういう階級はみんなフリーメーソン結社の社友になっているんであります。
社友はなにごとも非常に秘密にしていて、秘密結社になっているんで、社友がちょっとでも秘密をもらすとすぐに殺されるんであります。
ですから、結社の社員で抜け出そうとしても、どうしても抜けることができぬ。抜けてどこへ行っても必ず殺されるんであります。この間なにかの本でそういうことの話が出ていました。
そういう結社で、一名石屋というんで、医者ということがやはり石屋ということになります。そのフリーメーソンが医学を造り、病気を治るように見せかけて、人間の生命をとるんであります。
この医学に全世界の人間が生命を任せているんで、全世界の人間の生命はユダヤ人に任せてあるのであります。医者に生命を任してるんですが、その医者のやってることはユダヤ人が造ったもので、深く考えるとユダヤ人に全世界
の人間は、生殺与奪の権を握られてるのであります。 ユダヤ人はその他の世界の金権とか、各新聞雑誌とか、言論機関一切を掌握しているのであります。
そうしてあくまでも世界を蹂躙しようとしているんであります。 で、観音様は日本の神様で、伊都能売之大御神とも、国常立大神とも、天照皇御神様にもなるんであります。
で、観音様は、それをそうさせまいとして蹂躙されないために、たいへんな仕事を始められるのであります。
ヨーロッパにおける現われとして、ヒトラーであります。 ヨーロッパにおけるそれに対する反対運動であります。ユダヤ人を追っ払ったり、御自分のマークは観音様の紋をつけております。
で、観音様は、ドイツだけはフリーメーソンのない国をまず造られる。要するに観音様の国をまず造られるのであります。
ですから、ドイツの背後に観音力がありますから、疲弊しているにもかかわらず、非常な力があります。その証拠にはヒトラーの宣言によって、全欧州がブルブルとしております。
これは非常に不思議に見えますが、背後には観音様が控えておられるのですから、これからドイツはすばらしい威力を発揮して行くものなんであります。
ナチスのやり方は観音会と違って、どこまでも体的でありますから、観音会のごとく平和的ではないのであります。
ところで、邪神界のほうでは二千年以前から大きい野望をしてる。それがフリーメーソンであります。新しい宗教とか、新しい思想とかが起ると、すぐにそれを狙う。
そして、これもご承知のことですが、将来世界を自分のものにしようというために、ユダヤ人はいまもって国家を形成していない。
キリスト教は表面ああなっているが、実権はユダヤ人が握っている。彼は最後にならなければ表面にならない。で、ロシアなどはまだ本当に表面に出ていない。
奥の奥で操っている。フリーメーソンは各宗教へ働きかけている。そして世界の人間を残らずフリーメーソンの会員にしようとしている。
そのため、金はみんな自分のほうへ吸いとってしまうというやり方で、ご承知の通りインターナショナルなどははっきりと貧乏を謳歌している。
つまり、貧乏人を非常に待遇をよくし、金持ちには恐怖を与え、金持ちになるのをイヤにさす。日本なんかは最近だんだんそういうことは影が淡くなったように見えるが一しきり金持ちは非常に恐怖心を抱
いたもので、それはできるだけ金持ちを造らず、その国家が富まぬようにする。これが彼らの重大なる方針で、金がなかったら国防や軍備などが充分にできぬ。
彼の策略としては各国を貧乏にして、自国が大いに軍備を造るので、今日ロシアなど自国の軍備を世界一にならしめようとして、他国を貧乏にしようとしている。
この方針はキリスト教も実はそれにかなっている。この前に、「金持ちの天国に入るは駱駝の針の穴を潜るより難し」という、これは有名な標語ですが、
実はユダヤから出ているんで、金持ちにさせないためのもので、金持ちが一番恐い、金持ちがいると軍備をされるからです。
今ちょっと話すると共産主義の元は、やはりフリーメーソンですね。マッソン秘密結社と言って、二千年前に出来た。世界を掌握すると言うんです。
それが、中途で派に分かれた。フリーメーソンの方は、その中で極く良い方です。これは資本主義を作ったものです。アメリカはフリーメーソンです。
アメリカの偉い人はほとんどフリーメーソンの会員です。一方マルクスです。あの方は共産主義を作った。学理と労働です。
これによって世界を得ようと言うんです。ですから、全然反対同士が、今戦っているんです。その他に――この根本はユダヤです。
生粋のユダヤ人もあるが、これは宗教否定どころか、固いユダヤ教信者です。そこで、マッソンですね。根本と言うのは、素盞嗚尊じゃないんですが、素盞嗚尊が非常に働かれたんです。
その奥の奥と言うのはサタンです。最初マッソンが出来た時には、事務所を当時の石屋組合ですね。そこを事務所にした。
ですから、フリーメーソンの儀式の時には前掛けをしてます。非常に厚ぼったいのを。あれは石屋の前掛けです。
それで「石屋」と言う言霊は「医者」になる。だから医者は石屋なんです。そこで石屋組合は、どこまでも神はないと否定した。
そして、全て物質でないと行けないと言う事を二千年もかかって吹き込んだ。そこで病気なら病気にかかっても、物質で治すと言う事を見せようと言う事が、唯物科学の医学になった訳です。それは、神はない。人間の病気も物
質で治すと言う事を信じさせようと言う一つの深い謀略です。それにみんな引っかかった。ところが仲々うまく行かない。
うまく行かないが諦めては、彼らの目的は達しられないから、どこまでも治るように見せかけてやっている。その根本は人間の体を弱らせなければならない。
つまり、謀略で弱らせて自分の目的を達しようと言うんです。その犠牲者が労働者ですね。文化民族を作って弱らせるんです。これは非常に神秘なんですよ。
そこで高度の文明国というのは段々弱くなる。その一番弱ったのはイギリスとフランスです。非常に戦争嫌ってます。それからアメリカが段々そうなって来た。
ところが神様の方では仲々――マッソン系統より神様の方が知恵が上ですからね。そこで神様のやりかたと言うのはアメリカに非常に色んな武器の発明をさせて下さった。
原子爆弾とかは神様が教えているんです。そうしないと、先の目的通りにやられちゃう。まぁこのようなことである。
●『総まとめ』;霊の界の掟に反するような想念(我や慢心、唯物主、利己主義等のいわゆる汚い心)を持っていると、それが先祖の界や神様の霊界に響いてゆきます(それにより神霊界、幽霊界が汚れ、曇ってしまう。相即相入即連動の義)。
神様は常に清浄の願を持っておられますので、そのような汚い心や醜い心を万霊(邪神邪霊等)を使って浄化されようとされるわけです。「他力と自力」の中においても「怨み、そねみ、憎しみ。いたずら、戒めの為の万霊を盛んにウヨウヨ働きかける他力を、
神は一杯生かしありといわれております。」想念の界(霊の界)において神の掟を破るような心を発していれば、それを見透かしてこれらの霊がさやりかけてきます。
いわゆる波長が合ってしまうわけです。逆に波長が合わない、霊の界において邪神邪霊につけはいられてしまう隙がなければ(悪想念や我と慢心を見せない)逆に霊による障りは起きません。
これを相応、間釣り合わせの理と言います。霊障を生じさせてしまう心の隙がなぜ生じてしまうのかというとやはり神向心がないか、あっても薄いためです。
常に実在する神様、活動される神様と向き合っていれば心に隙が生じにくいのです。
この世生まれてくるときに神様との約束によって再生が許されてくると言います。その人が現界において成すべき事の約束です。
それは人生のどのあたりでその人に明確になるかはわかりませんが、時期を過ぎてもその約束を果たさないとなると、神様は霊障を使って本人に気づかせようとさせます。
これは小生の体験から書かせてもらっていますが、特に神様との特別な役割を持って再生してくる人はその霊障も厳しくなるのではないかと思っています。
時期が来ても神様との約束を果たさなければいくらアガイても霊障を解いてくれませんし、約束を果たす見込みがなくなると神様は幽界へ引き上げてしまわれる。
とりわけ地獄界から再生を許されてきた魂であれば、邪神邪霊界はその魂を昇華(霊層界を昇華)させないように必死になっている、その上で約束、
役割を果たさないのなら主神はそれらの邪神邪霊の好きなようにさせてしまわれる、そのような厳しい現界の立場にあるのが地獄界から再生を許されてくる魂ではないかと思います。
又正法の教えを伝えても聞かないし、わかろうともしないと神様は霊障(憑依現象)を使ってその曇りを裁かれようとされる(これを霊、火の洗礼と言います)。神様は「火の洗礼か陽光の文明を求めるのか、
二つに一つの返事をしなさい、人類はその返事をしなければならない時代にはいってしまっているのだ、「選ぶ外なき今人類」と言っておられます。
歴史的に有名な人物、織田信長や秀吉、家康等も最近のテレビでドラマ化されました坂本竜馬なんかもすべて神様の掟の仕組みによって現界に下ろされて、それぞれが役割(日本国の破壊と創造、建て直し)を果たすとすぐに幽界に引き上げられてしまう。
釈尊、イエス等も同様でしょう。このような歴史に名を残しているような人たちだけでなく、すべての人が何らかの使命、神との約束の元に現界に生まれています。
そのすべてを生み出してそれを統一運営されておられる主の神様を主体として生きるのか、それとも限りのある世界(現界)だけを主体において生きるのか。
霊主心従体属、神の掟、法に乗って生きれば(水を去って生きれば)人生も自然に栄えてくる。釈尊はそれを仏教の中で妙法と教えています。
水=物、唯物現界主の考え方を少なくする、捨ててしまえば妙、つまり不思議と栄えてくる。(妙はうまい、儲ける、幸運等の意味があります)又カーム、
カはチカラでムは言霊ではムゥになり、無の世界、霊界、神の世界からすべてか生み出されてくる、栄えてくるのだと示し、般若心経の中では色即是空・空即是色と表現しています。
色、つまり目に見える世界は即空の世界、無の世界から成り立ち、無の世界、霊界からすべての物質社会が成り立っていると表現しています。無の世界、霊界の世界、掟を主として生きれば不思議に人生も、何にしても栄えてくるのだと言っています。
今の世人達に一人でも気がついてほしいと思います。
●実は人間がどうして人の病気を治す奇跡又災害等から救う奇跡が出す力が身につくのかと申しますと、人間は人類の発祥(はっしょう)という天地創造の詳しい歴史をお調べにならればわかりますが、
本来は神の肉体へ顕現(けんげん)、変化(へんげ)したものである。だから実際は人間一人一人というものは神の子ではなく、み仏の子でもなく、天地初発の人は神自身であり、神人であり、
み仏そのものであったのです。ただそれが何十万年ものずいぶん永い間年代を経て、孫の孫、大孫時代になってしまったから遠慮(えんりょ=遠い将来のこと を考えず目先のことばかり考えている)して、実質的に神の子であった時代があるのです。
したがいまして、神性と霊性を復活をする法をお教えすれば、どんな方でも恐ろしい神秘な力を出し得るものをしまって、実はもってしまっている。それを開発するのが、実は
宗教の役割だったのです。今日は哲学になってしまった。今日のあらゆる宗教は実は宗教哲学であって宗教ではない。
【宗教とはその人がもっている神性と霊性を復活、開発させ、法力化(ほうりきか)し、どんな方でもイエスにも釈尊にも復活させることができる。】どうしてそれが開発せずにきたかという問題がここに人類問題、人道問題として宗教時代史
に残るのです。要するにそういう力、パアーの発動し得る本体を皆様は体の中にちゃんと神代から持ち続けていながら、あまり唯物の科学理論に夢中になって迷い路へ紛(まぎ)れ
込んで、人間というものは肉体の細胞だけ、素粒子や電子の回転でできあがっているものと思ってしまった。それがために人間を「もの」と間違えてしまい、宗教までだんだん
霊力界、霊性界から退化して、とうとう唯物の科学に迎合する時代になってしまった。
したがって、古からあったように、人力プラス神力というような次元的に高度な原始宗教(神縄文)、霊的な科学の研究は全然なくなってしまった。早くこの霊性を発揮できる事に目覚めてほいものです。ということなので、元来お守りとかは必要ではないのであるが・・・。光の正体を御つかみ戴けたならばの話ですが・・・。
「魂が神様と一体になり、 波調が合うと、 魂が光明に満たされて、 神の叡智が流れ込んでくるのです。」神様と大調和のご想念と波調を合わせること。 神様の世界は、 肉の眼では見えません。 要は、 魂を磨くことです。
肉体の五官による一切の執着やとらわれれを捨て去って。 物質中心の想念を霊主の想念に切り換えることが大事です。 すべてを霊的に考え、 自らの魂の曇りを落としていかないといけない。 そして誰もが神の子で、 魂は神様から頂いたもの、
本来は水晶のごとく透明で輝く魂だったはずなのです。 魂は必ず輝きます。 肉の目を閉じて霊の眼を開くことです。
人は神様など知らない方が幸なのか。普通の人に生まれて、普通の人で暮らし、普通の幸せを得て、普通に死んで行く。その方がどれだけ幸せであろうか。さて本当にそうか?。小生は幾たびの人々を見てきたが知らないが為に余りにも小さきごとに囚(と)われ
迷路に入ってしまっている。いろんな災害・爆発・地震・交通事故 はたまた病気 教育問題 家庭問題などなどに巻き込まれている。果たして本当にそれでいいのか・・・?。
★救いの力
●これまでに色々書いてきたが、素晴しい治病奇蹟は、いくら話をしてもこれを読ませても、疑いが先に立って信ずる事は出来ない程に、既成宗教や現代医学の説に捉われ切っている人を見ては、余りに可哀想でしかない。
全く恐るべきは今日の社会である。そうしてことごとくの宗教は、自分の宗教こそ最高のものという独善観念が強く、他宗はことごとく邪教と思い込ませているので、これも無理はないが、その信者は気の毒なものである。
それというのも、今までになかったから信じ難いであろうが、いずれは世界的に知れ渡るに決っているから、その時こそこの(霊的光力)救いの力が分り。渇仰(かつごう)するようになるのはもちろんである。
信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。今まで記述し書いてきたが何れにも偏(かたよ)らぬ最も正しい考え方を教えているのであるから誤解の無いように!!
然しながら医学は善意の罪悪という以外言葉はないのであるが、宗教というのは、 究極は救いの業です。元来、政治も医学もすべては救いの業ですが対症療法しかやられていないわけでして、本当は 目指す頂上は同じだと思います。
その中でも宗教は、 最も霊的な救いの業にならなくちゃいけないでしょう。
★最終章
●『自分が願ったので生まれてきたというわけではなく、無智という根本原因によって生まれてきた。自分が願って死にたいとは思わないのに、因果応報の理によって死んでゆく。
生まれることは喜びではなく、その後にいろいろな苦しみが起こる。死ぬ事も喜びではなく、さまざまな心配がやってくる。生まれたのはつい昨日のように思っていたが、老いは
すぐにもやってくるものだ。今日の朝は元気であっても、明日の夕方には病んだり死んだりすることになる。風に揺れる秋の枯葉のようなもろい命、朝になれば消えていく露の
ようなもろい命をどうにかやっと保っているが、人間の生命は泡のように儚(はかな)いものだ。自分の生命が一時的なものであるのは夢や幻のようなものだ。
いったん無常の風が吹いてくると、身体の四つの構成要素はばらばらになり、あの世の使いがやってくると、家族のだれもが頼りにはならなくなる。朝から晩まで生きるために
働き、毎日、恩や愛の対象との絆にしばられてながら生きている。父や母と死に別れれば内ひめたるほど悲しむ、配偶者や子供を失ったりすれば、涙がかれんばかりに泣き叫ぶのである。
地獄に墜ちて猛火に焼かれたとしたら殺生を犯した罪によるし、餓鬼道で醜い姿となるのは物惜しみた罪によるものだ。この世界からあの世へと輪廻転生の輪をめぐって、
あるときは人間、あるときは餓鬼と生まれ、病によって苦しみもだえるのである。なんと悲しくもつらいことであるのか、これらの世界に生まれるということは、何と苦しいことであるのか。
輪廻するということは。善き師の正しい導き、大慈悲の功徳(くどく)がなかったら、どうしてこれらの輪廻する世界から抜け出して、永遠の悟りに到達できるであろうか。あぁ・・・合掌。』
●体にトラブルを抱えた状態の人を施術(霊界医師・霊医)する。これこそ霊的光力ではないかと小生は考えております。ですから本来は健康状態に戻して差し上げるお手伝いと考えても良いと思います。
究極は霊的に目覚め差し上げていくこと。治癒力を高めて差し上げること。決して病気治しの業ではなく、 その人の霊を浄め、 霊的に開眼させるための業だ。 以上の事を踏まえて考えられたら良いと思われます。
奥義は普通の除霊や浄霊と違うのは、普通の除霊や浄霊では、行力やパワーで霊を祓います。しかし霊は一時的にはその人を憑くのをやめますが、改心も悟りもしていないために、しばらくすると再びその人に憑いてしまいます。
しかし、施術の救霊は成仏できない霊たちになぜ成仏できないかを愛念をもって言霊で説得し、本当に改心した霊を本来いるべき霊界に導くものです。本人も悟ると(霊は取り去ることはできますが、自身を高めなければまた他の霊を呼び寄せてしまいます。)、
一度救済された霊は再びその人に憑くことがないのです。ともかく”霊”の影響を受けるのは自分の波長が霊と同調するからで、自身の霊性を高める必要があるのです。
●霊界を知る人のみが今後は生き残っていけると断言できる。なぜならば霊界というものは現実にあるし神の経綸上これからの種人として生かされるのであればなおさらでしょう。ただし今の
現状で必要な人間、神の御用として使われている方々は無くてはならないが、他の人間はどんどんふるいにかけられているし現状がそうであるからである。肉体を持って次の
文明に使って頂きたいのならば先ずは霊界を知る事である。それと共に目を凝らして真偽を見極めるという自分自身(夫婦でも他人でもない)が「自己防衛術」を身に着けなければ生きて生けない世の中になってしまった。
そして心というものは、 目に見えるものしか解決できないんです。 五官に振り回されていては、 永遠なる霊の世界は体得できないでしょう。
五官のような肉体ではなく、 あくまで目に見えない霊の方が主体です。哲学と霊的法則を十字に組めば、 すごい智慧となることでしょう。
●これからは、本当に世界人類のためになる、自分の利益を犠牲にしてもそれをやるという、非常に高い思想、いわゆる崇高教縄文(すうこうきょう=けだかく尊い教え)
がこれからの未来を変えていくのだと思っています。これこそ新縄文イコール崇高教縄文であると思います。争いの無い文明。薬を入れない身体。想念の高い人になる。神に通じる霊体。
誰でも霊界法則・身体法則を身につけさえすれば誰でも霊的光力(霊光力・霊光・霊力光・霊射)身に付けることが出来るのであります。見えない世界を理解しなければなりません。そして神と霊線を繋げれば好いだけなのです。
そんなに難しい事ではないのです。素直になれば所謂赤子になれば好いのです。どんな人間でも最初は赤子なのです。如何に若かろうがお年をとっていようがみんな赤子から成長しただけなのだから
もう一度赤子に成ればいいだけなのです。知識やら名誉・学歴なんかは何も要らないのです。ただ赤子になればよいのです。その上で受け入れる事が先決です。
みんな一人ひとりが出来るように指導するのが小生が目指すところなのです。そして豊かな音で奏でる世界=新縄文=神縄文(ワラは互いに寄りあえばナワ=縄になる。そして和が出来るのである)が小生達の役目なのです。
此れは宗教ではなく神(しん)縄文であり生きる術を授けるものである。小生はそう思うのである。またこれを読んで一人一人が学んで頂ければもう既に神縄文人だと思っています。
一集団を創る目的ではないからです。心の中で繋がっていれば良い(これが難儀なことでもありまして、その為に各々を受け入れる必要がある次第です)わけでありまして、神様より言われている事でもあり、であるから神縄文に拘(こだわ)るのである。 それで世界で初めて小生が付けた次第です。神縄文時代です。
●『あることわざがある』
●『ある人に魚を一匹与えれば、その人は一日食える。 魚の取り方を教えれば、その人は一生を通して食える。』
●インディアンのことわざにもこのような言葉がある。『お金は必要だが、重要ではない。』という言葉があるそうです。全て早く覚る事です。
●『最後にここで一言』
●自分で選んで手術を受けたり、また手術を受けさした親も病気を治してやりたい一心でやったのだし、
医師とても同様善意でやった事であって、誤った医学以外には誰にも罪はない訳ではないが・・・。
それが事実であり、最も正確な見方である。信仰者はすべて罪悪的非現実的に考えるし、
無信仰者は唯物的にのみ考えるがどちらも本当ではない。何れにも偏(かたよ)らぬ最も正しい考え方を教えているのであるから
誤解の無いように!!
●『万物は全て根源がある。真実の宝を見よ!!万物控えめであれば心ひろく自由でいられるものである。』
●真理とは神の置き手、 天の律法であり、 真理の峰は一つしかありません。 真理は一つであり、 世界は一つであり地球の底も一つ、 人類の先祖も一つということに他なりません。
人類界は、 長い間孜々営々(ししえいえい=せっせと精出しして事に励むさま)として一つしかない真理の峰を希求(ききゅう=強く願い求めること)してきたのです。 例えばそれはの山に登るようなものであって、 ある人は南から山に登り、 またある人は北側から登るかもしれません。
それぞれが高みを目指して登ってみれば、 高嶺の一角に合流するのであります。 山頂の峰に立ってみれば光陽光燦々と輝きて、 遠く下界を存分に見渡すことができるでしょう。
然(しか)るに山頂に辿(たど)り着く前に中腹で議論が始まり、 喧々諤々(けんけんがくがく)と興(キョウ=コウ)じている間に雲が出てきて周りは見えなくなり、 迷妄の雲の中で右往左往(うおうさおう=混乱しうろたえて、右に行ったり左に行ったりすること)していたのでは真理の峰に辿り着くことはできなくなってしまう。
今世の人々は真理を求めて五里霧中(ごりむちゅう=〔五里にもわたる深い霧の中に居る、の意〕方角が分からなくなってしまうこと。物事の様子がまったく分から中で迷いよろめいている様子)の登山者のようです。 議論に明け暮れる暇があれば、 まず山頂を目指さなくてはならない。
真理の峰に立てば、 陽光燦々と輝きて美しい下界を共に喜び合って眺めることができるでしょう。 このように真理の峰は一つであり、 思想や哲学を超えています。
目の前の迷妄の雲を払ってしまえば、 太陽が輝き全貌(ぜんぼう)が明らかになっていくことをサトらなくてはなりません。哲学は難しいです。 でも神様のミチとは所謂、真理です。其の真理とは本来は分かりやすいもので、 聞いたらすぐ実践できるものです。
神様の御経綸は日々進展していますから、 ぐずぐずはしていられないんです。 肉身は現界にありながらも常に神霊界と通じ、 霊的にものごとを考えていただきたいと思います。 また、 皆さんもそうであってほしい望んでおります。
そうでないと神様と波調が合わなくなって、
●御経綸が進展すればするだけ神様から離れていってしまうことになりましょうし、だれしもが、 神の御経綸の進展について知ろうとしなかった。
人々が神様から想念的に離れすぎますと神様の大愛のみ意のよる大洗濯が始まって、 一気に火の洗礼期へと突入してしまうというか入ってしまいました。 そのへんをご理解頂きたいと思います。
●救われるというのは、 結局神様の幸せの門に入れて頂けることです。 でもその門は、 すごく狭いんです。 言葉を換えて言いますと、 真理の門はすごく狭いんです。
なぜなら今の世の中は、 一切が真理と反対の方向へと流れているんです。 逆(さか)さまなんです。 逆(ぎゃく)なんです。 逆(ぎゃく)の世なんです。 世間で言われる常識という波に乗ってしまったら、
今まではいいですが、 でもやがて時が来れば一気に滅びの道に入って行くことになるんです。 その滅びの門はとても広くて楽に入れるんですよ。 人は、 感謝をしなさいって言われて一所懸命訓練しますが、 でも、 不平不満や怒り、 ねたみ、 人の悪口なんて、
訓練しなくっても楽にすっと出るでしょう。 でもそこで、 方向を転換しなければならない 。世の中で常識といわれていることが神様の世界から見ると案外非常識だったりするんです。 そして、 非常識だと思われるようなことが実は常識だったりするんです。
だから、 人知では判断は難しい。 いや、 危ないんです。そうでしょう? 皆さんは病気をしたらクスリを飲む。 これが常識です。 でも、 せっかく神様が体内の毒素を溶かして排泄させて上げようというお仕組みをクスリで止める。
神様からすると、 それは非常識なんです。 熱が出た、 鼻が出た、 下痢をした、咳が止まらないだとか、みんな有り難いことなんですが・・・。ああ体に毒素が溜まったなのだなと想念転換すればいいだけのことで、それに体の中がきれいになるんですから。 だから、 ああ、 有り難いと感謝する。 それが常識なのに、 世間の人々はそれを非常識と言う。
全くもって変な世の中になったもので。あぁ・・・。
●すべて(有る程度)の神理が公開される時には・・・。 それでもまだ広い門の方を求めているようでは、その後すぐに神様の狭い門はバタッと閉じられてしまうんです。
(ノアの箱船の時と一緒です。又到来しますがこれが七回目=七は完成の意味です。言霊でも「ナリナル」の天変地異が最後なのだといわれております・・・本当に数霊とは良く出来ているものです。また上手い具合に成り立っているものだと驚くばかりです。)例えば門限が過ぎて家の戸が閉められたら、 それに遅れて戻ってきた召使がいくら戸を叩いても戸は開けてもらえないでしょう?
その時に『私はあなたといつもいっしょにいたじゃないですか』って叫んでも、 主人は『おまえなんか知らない。 さっさと出て行け』って言われてしまうんです。これと同じで、 いくら話を聞いても、形式だけやっていても中身が伴わない、 内面的な想念転換ができない人は、
『あなたなんか知らない』と言いわれてしまいます。 冷たいようですけど、 これが神様のお示しですから仕方がないんです。これまでに書かせて頂いたことなどなど神様のみ教えを生活の中で実践することです。そうすることで神様のみ意とも合いますから早く救われに入っていけるんです。
●誰かが皆さんをおんぶに抱っこで救われの道につれて行ってあげるのだなんて思っていたら、大きな間違いです。 自分の足で歩くしかないんですよ。そして自分の足で神様のお宮までたどり着いたとしてもちょっと中を見て『ああ、 素晴らしい。 いいものを見せて頂いた。 有り難うございました。 はい、 さようなら』で回れ右、 後は地獄へ一目散って人が多いんです。
「そして門が閉じられてから慌てて戻ってきても、もう遅いんです。ですから神様のお宮の門にたどり着いたのなら中へ入れて頂いて、お庭を拝見させて頂いて、お宮の中にまで入れて頂いて、いちばん奥まで通される人になってください。
●そこには皆さんのご先祖や預言者はもちろん、 いろんな賢者が世界中から集められています。
ただそこでは、 後(あと)のカラス(うっかりしていると後のカラスに追い越される意)が先に立ったりします。さて霊的光力は其の人の神向きの厚さが、 救いとなる場合があります。霊的光力は施す方の想念は三分で、受ける方の想念が七分なんです。実はこのようなこと(霊的光力)なのです。
しかし信仰心なんてない人々が次々に癒されて、奇跡が起こったりするのはなぜか。その人がすがる心は信仰の中でも最も大事なことなんです。それと、やはり見せる奇跡というのもある。神様は、そのみ力と栄光を表すために、信仰心がないものにでもまずは救いの綱を投げてくださる。
そういう場合の奇跡は神様からお借金をしたようなものだから、奇跡のその後の信仰心(神見向き)が実は大事なんです。
■求めるものには必ず与えてくれるものである。例えば子供が靴が欲しいと言って、其の親は帽子をあげるだろうか?探す物には必ず見つけ出すように授け、扉をたたく者には必ずや開けられるであろう。
それが神のみ意(こころ)であろう。親にたとえたら一番わかるであろう。また命は食べ物よりも勝る。体は服よりも優れている。捉われの心を早く捨てる事が肝要である。人間はいろんなことに思い煩(わずら)うよりも一日でも長生きが出来たら好いであろうに!!
●ほとんどの人が少しは調子がいいなぁといい、ハイさょうならで言ってしまうのです。それが現状です。それは信じきる力が無い為です。何でもそうですが信じる力こそ最大なんです。
これまで色々と記述してきましたが、此の事柄が現実に神様・霊界というものが「ない」、「ある」という疑問があるとしたとしても「ある」ほうに考えて生きたとして「なかった」らそれはそれでいいだろうし、
「あったら」これは大変なことである。想念を悔い改めるなどそんな簡単に出来ることではないし、相当な年月(よくて三十年間位)が掛かるのである。だから此の現界で修業があるのである。向こうで(霊界)あったなら考えればいいだろうなんて邪(よこしま)な考える
人もいようがとんでもない考えである。
●何故かというと今あなたたちの周りにどれだけの人間が「ある」として生きている人たちが居るであろうか。そのような人間の集まりの中で
受け入れられることも出来ない人が何故、向こうの方に行ったら悔い改められようか? また霊界という所は同じ想念の集まりで修業する所であろうし・・・。
「ない」として生きた人間とは天と地の差が生じてしまうでしょう。また「ある」として生きたからってなんら、得すらしようが損はしないだろうし「ある」として生きた方がどんなに良いことであろうか(日々が大切なんです)。と小生は思うのである。
●元来みんな神の子なんです。 だから誰でも神様のみ意(こころ)にかなえば、 神性化できます。 神と人とは、本来一体なんです。父と子が一体で、或いは家族が一体であるように。そのことがはっきりと分かる天の時が、 間もなく訪れます。 時が来たらすべての人は墓の中、 つまり無智と不信と罪の中で生活していた人々もみんな這い出して、
今までの再生転生中の過程での罪穢を清算させられるんです。 信賞必(しんしょうひつばつ=罰罪を犯し、罰すべき者は必ず罰するという意味)の世になるんです。その時には、 人口は今の数十倍に膨れ上がっているでしょう。何しろ、過去の清算のために、 魂が一斉にこの世に再生または憑依(人間に憑く)してきますから。
風火水雷もみんな神様の使者です。すべては神様のみ手内(てぬち)にあるわけでして、人だってそうなんです。 ましてや人は、 地上の物質によって神の国をこの土に顕現させるために遣わされた神の子なんです。 神様の地上代行者なんです。 それが、 人類なんです。 ですから、 神様に仕えることを本職とされている方々は、
人類に仕えなきゃいけないんです。神職でございってふんぞり返って神宝である人類を見下していては、 神様に仕えていることにはなりません。等しく神の子である人類は、 互いに拝(おろが)み合わなければならないでしょう? それを、人類を蔑(さげすさ)んで、 神様だけを崇敬することはできないはずです。
●此処に記している事は、すべて神様に教えられたことを、神様のみ意のまにまにお伝えさせて頂いているだけです。 自分の意志や自分の考えなんてものは入っていませんし小生が根拠を示したところで、 それが何になるでしょうか。この奇跡の業、 そしてそれによる救われの事実、 その報告は山と積まれている現状。霊的光力は降る星のごとく日常茶飯事に起こっています。
これこそ神様からの直接の証言であり、証拠です。そのことを謙虚に神様に下座して受け止め、ス直に受け入れてみたらよいかと思われます。神様からの証言を受け入れないということは、 神様の教えを心にとめていないということになりましょう。
おまえに言われる筋合いはない! 素人の分際で!というかもしれないでしょうが、この霊的業を認めないのは、 正統と思っている宗教的基盤と相容れ(あいいれ=主張・性質などが異なって居て一致しないことです。)ないからでしょう。 頑(かたく)なに否定しようとするのは、 神職としての地位を守るためでしょう? 神職たるもの、 そんな奇跡の業を信じたとなれば、 立場がないからでしょう。
または破門になって、 失業もしかねないですからね。神様から受けるよりも、人間から受ける名誉の方がいいに決まってますね。 そちらの方が大切なんでしょう、きっと。でも、そんな物質レベルでしかもの考えていないから、 この叫びを受け入れられないんでしょう。人間同士でも栄誉ばかり気にして、
神様から与えて頂ける栄誉には関心がないんですね。そのような方をどうすることもできませんけど・・・、ある種の教えの通り、毎日それを生活の中で実践しているでしょうが、しかし長い年月がたつうちに神様のご計画も進展しますし、また形骸化して停滞もするんです。
◆お金持ちになるということは祖先がきっと善行を積んだか、悪行を積んだかになるでしょう。そのお蔭でその家には財がある。でも、 財は罪(ざい)に通じるんです。 金持ちであるってことは、 祖先の善行の果ですから、 別に悪いことではありません。
しかし財をなしたということは、罪穢も積んできています。 多くの方を苦しめてきたと思います。そんな汚れた財産は、 なくした方がいいのです。人々を苦しめた罪穢は罪穢で魂が曇っていますから、 そういった因縁(めぐり)を一度生産しないと、 魂の曇りは取れません。
罪穢を積んだままだと、 いつかは神様のお洗濯、 アガナヒが来ます。 神様はすべての人類は等しく神の子だから、すべての人類を愛しておられます。その愛する神の子の魂が曇っていたら、 神様はきれいにしてあげようとお洗濯をしてくれます。
ところが、 神の愛のゆえのお洗濯なのに、人々はそれを『不幸な現象』と呼ぶんです。 それがアガナヒです。でも、自分で人々を救って歩き、 神様の光とミチを伝え、 神様に奉仕の精神を持っていけばそれが積極的アガナヒとなって、 神様からのアガナヒは受けずに済むというのが実相なんです。
自分の罪を自覚し、そういった積極的なアガナヒの行によって罪は消えます。どんな罪びとでも罪を自覚し、詫び、人救いに励めば罪は消えます。
●人というものは決して裁いてはいけません。ただ、 無智なだけです。 無智とは恐いものです。 人と対立の想念を持つのは厳禁です、時には長い目で見ることも必要です。また教え人に押し付けたりしてもいけません。説き伏せようという想念もいけないのです。
神様の教えは、 議論するべきものじゃあないです。人に納得して頂くには、相当年月がかかる場合もあります。覚悟して対処しないとなりません。 今は人の魂が曇っているから、いや、すべての全人類がそうです。魂が曇っているんです。
だから神の光も神の教えも入ってこない。でもいつかは必ず分かる時が来ます。すべての人類は神の子・親の子ですから。そう信じています。以上です。
●心の下座といものがあります。「人類はみな、神様に逆らってきたという罪を共通で背負っているんです。だから、家族の中に逆らう人が出る(例えば主人)。 そして何より、 遠い過去世でご主人を神様のミチから引き離した張本人が、 自分自身かもしれません。
だから今、逆らう人(主人)が出るというのはその逆のお役を頂くんです。 そういう場合はですがね、 御主人に徹底下座し、 とにかく逆らわないこと。 あなたの方が、 其の方にに対して負債を背負っているんです。 家族をお救いさせて頂きたいと思ったら、 何でもス直に『はい』『はい』と聞いて上げるんです。
愛と真(まこと)で仕えるんです。 これが行(ぎょう)だと思ってください。正法はしばらくおいておいて、 ご主人に徹底的に下座をする。 そして何よりもまず、 自分がすっかり変わってみせることです。 『おや? こいつ、 この頃変わったな? その秘密は何だろう』と、 放っといてもご主人の方から求めてきます。
ご主人とて、 その本質は神の子ですから。 でも、いくら口で立派なことを言っても言葉と行(おこな)いがちぐはぐでは、ご主人の心を溶かすのは難しいでしょう。まず、自分が熱くなることです。熱く燃えるんです。 熱さはすべてを溶かします。
こんな素晴らしい神様の教えを頂いておきながら、自らの至らなさのために相手に分かってもらえないとしたら、 神様に対しても申し訳ないじゃないですか?。
最後に家の空中に霊的光力やるこことです。 でも、 空中といっても、 本当はその家の霊界なんです。 曇ったら拭く、これが神様の大愛の仕組みです。
七日間は家の周りで霊的光力をするとよいです。この世と霊界は表裏一体なんだから、霊界を浄めることが大事なんです。
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●最後にもう一つ、肉体的なことも分からずに、次元が高い霊的なこと(現世(うつしよ)よりも高き次元の、 さらに今の想いの界よりもまた高き次元の魂の界に住するもの)を話をしても指導はできないのです。病気治しではなくて無病化が目的だけど、ここのことをしっかりと体験を積んで、業(わざ)積みをして行かなければ体得できないものです。