縄文の音霊 【ひとり言】

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                        言霊豆知識-48-追加最終章

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言霊豆知識-41

『通夜や葬儀』などは霊体を直接的に清める最期の機会であり、心を込めて弔うことが死者の霊をより高い霊層界へ押し上げるので、 質素でも死者に感謝をお返しするような深い思い入れが大切であり、坊さんに頼んだから良いとか、世間体にとらわれて豪華にすれば良いなどの考え方は感心できません。 こうした意味で、、死の認定や献体(けんたい)、臓器移植などについては大きな問題をはらんでおり、人間的には善意に満ちているようでも、 霊界から見れば極めて危険な行為と言えます。臓器を取られた本人は霊界にては大変な苦しみを抱いてしまいます。いくら脳死状態(魂が松果体にあるので魂が抜けている状態が死です。ですから脳死とは言えないのです。

ですからこのような考え方では生きる人も死んでしまうのです。)にあっても霊線が切れていない状態では死んではいないのです。であるから生きている人から臓器を採ることは許されないのです。 また御家族にもいろんな意味で影響が出てまいります。現代医学には困ったものです。他人の死を期待し待つ医療も問題があり、人間の体を何と考えているのか・・・。しかし臓器移植でしか助からない人はどうするんだ、 という意見もありますが、本来、命というのは、自分には自分に与えられた一生(たとえ一日だろうが百歳生まできていようが与えられている寿命がある)がある。

その一生のなかの生き方であって、臓器移植によって仮に寿命がいくらか延びたとしても、それは死期の引き延ばしをしているだけで、本当にその人が移植をして延びた寿命が納得できるのかというと、 やっぱり「もう何年か生きたい」と延長してくる。死ぬ人が死なないのではなくて、死ぬ時期が変わるだけなのです。
そうはいっても寝たきりになればお金もかかるし、ましては入院となれば かなりのお金もかかるであろうし、家族で支えるにも限度があるだろう。しかし何を考えても結局は生きる智慧(ちえ=相対世界に向かう働きの智と、悟りを導く精神作用の慧)を身につけて行かなければならないだろうと思うのである。もう一度生きるとはどういう意味なのか考えていただきたいものです。幾度も書き記しますが命の価値は魂の向上にあります。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-42

★怨みは、怨まれる方に問題の発生起源があり、怨まれる方が悪いわけですから、怨んでいる方が悲しみや苦しみの心から少しでも解放されて、 そして怨みの心と怨まれる心が和解し、共に癒され、互いに許し合う心となることは、一切の幸福の原点であり、世界平和、地上天国への入り口だと思えてなりません。(究極は霊相を浄化させて、 神様と一体となった新しい種人を造ろうとされておられるのです。)

○人間の曇りなどにより、人間のあらゆる事件などは根本はそれによって起る。非常に曇ったときには戦争などがある。その点がはっきり判れば、もう自分はきれいになるよりしようがない。 始終悪いことをしゃべったり、嫌いなことをしゃべると、言葉が一種の曇りになる。以前、見た人の話によると悪口言ったりなどするときは、煤みたいの鼠色の雲となって出る。 神様の話したり、神様を讃美するようなことを言ってると白い光になって出る。ですから、多くの人が神様を讃えるような言葉をたくさん言えば、曇りがとれて光のほうが多くなるわけであります。 そして天災地変がなくなる。これが判ったら恐ろしいくらいであります。

★想念波動が物質化して、ドス黒い雲になって大雨となり一面が川や用水路があふれ出して泥の海になってしまうのである。これが人間の汚濁物である。現象化した現れでもある。

○人に怨みを受けると怨みの想念が来て、それが曇りとなってその人を取り巻く、一人くらいならいいが、百人千人となってその人を取り巻くと、その人は病気になる。 曇りが多いと悪霊が寄って来るから、どうしても病気災難など受ける。反対に人を助けるとありがたいと思う想念が光となって行く。

■何しろ果てしない怨念は、 肉眼でこそ青い空のいい天気に見えるが、 霊眼で見るとどす黒い厚い雲になって、・・・地方全体を覆っている。 「この因縁を解決しなければ、 やがて天の時が到来するその前に、その地その地で大変なことが起こります。

次に、★現代医学がたいへん偏った科学的追及の上に構築されていると思います。それは、人が霊体と幽体と肉体の三重構造の存在にもかかわらず、物質としての面からしか研究されず、 しかも対処療法、部分的注視対処であるため、人の本質や、人体各部の緻密な関連性を無視した学術となっていることです。 人体と病いに関する原理は極めてシンプルであり、人体の免疫力、回復能力など非常時対応メカニズムや人体各器官等の関連性は精緻で強力です。しかし、 症状は人それぞれ異なり複雑な状況が生じます。ですから基本的に抵抗力を強くし、回復メカニズムを助成することが有効であり、部分的に対処しようとすればするほど、体全体の機能がバラバラにされ泥沼に陥るものです。

外科的治療や緊急処置治療は別として、一般的な病いに対しては残念ながら何ら効果のない、むしろ弊害を積み上げて、かえって病いを呼び込んだり、事を複雑化、新たな病いを作り出しているのが医療の現状であるように思います。 その意味で、風邪は極めて効率の良い回復メカニズムの一つですから、休養タイムと心得て、薬を使わず体を温めながら栄養をつけ、ゆっくり休息することが適切であり、痰や鼻水など出るものは出すことで体質が強化されていきます。 今は頭を冷やしたり薬を飲んで熱を下げたりしていますが、熱が有るのは発散させる力があるからで一番怖いのは霊力がなくなり、心臓が火の気がなくなった時が危ない。急激に心臓の脈動数が早くなり熱が下がると死にいたります。 そうならない為にも心臓の裏・表を霊的光力を入れる。

また火の気(心臓に寄って起こる)、水の気(肺から)、土の気(胃腸から)の密合によって起きるものであります。まずは食べたい物ものを食べる事である。 従って全て霊的光力が加われば、スムーズに効果的に作用し、発熱に対しても心配がなくなり、しかも嫌な時間帯が楽に早く過ぎていくのです。 とくに粘着性の強い毒素の場合、排出に向かってゆっくりと体内を移動しながら、毒をもって毒を制するように、体内各所にある毒素を吸着しつつ排出されます。しかしながらお医者さん達が改心して 人間の体内に毒を残さないで、クリーニングを上手に促進していく、クスリとか、病体人間だった者でさえだんだん無病かしていけるような、無毒有効なクスリとか、放射線とか いうようなものを発明してくれるのを願いたいものです。

●霊魂について・いじめ・自殺について;人を憎んだり怨んだりすると、 その想いは自分に跳ね返ってくる。 それはどういうことかというと、「その人の霊魂が怨んだり憎んだりした相手の霊魂が浄い場合、 怨みや憎しみの想いは自分に跳ね返ってくる。 強い念の力を持っている場合は、 はっきりとそうなる。

●人間は必ず言う。自分は何もしていないから誰にも恨まれのことなどしていないと!!本当に何も悪いことはしていないのか?
じゃあ、世間でいう子供のいじめなんかはどういうことなのか。 何であんなにいじめられて、 苦しい思いをしなければならないのか。
何でも他人が悪い、 友達が悪い、 先生が悪い、 大人が悪いって決めつけて、 人を怨んで生きていく心に、 安らぎがあるのか?
いじめられたりとか、 病気とか、 そういった不幸せなことは、 必ず罪という原因がある。

●人間は言う。 僕には罪なんかないものと!

●だが今は覚えていなくても、 生まれてくる前の世界では何か悪いことしてきたかもしれないということを!!亡くなった子供は又その人を恨み仕返しをやるでしょう。そしてまた、いじめられている子供は言うでしょう。僕は何もしていないと!!

●人間はその家その家に生まれ、そこで父母の袂で生かされ、相応の前世での因縁で生き、その中で導き出さなければならない。因縁ということを父母が教えてくれるならいいがほとんどの人間は見えない世界やら前世ということを口に出して子供たちに話などしないのが現状である。 人間はこのような因縁について、よく知っておかなければならない。新たな生を享(う)けてこの世に生れ出た子供は、前世のの霊界におけるものか、はたまた父母親のものなる汚れ出でた因縁という血の中に引き継いでいるものか、それとも本人そのものによる前世から因縁が及んでいるものなのか、それらを判別することはできない。 がしかしこれらを否定することはできない。そん中で子どもたちは、どうやって闇の世界から抜け出させてあげられようか?。一つでも輪廻の法を現在の子供たちに教えてあげればと思うのである。そして自分の結果を見れば過去の原因が分かるという因果律と照らし合わせれば、 自分をいじめる者に対しても自分が前世でどんなひどい仕打ちをして来たかを痛感できるだろう。何もいじめ問題だけでは無い。現在の環境に於(お)かれている人々も、苦しい思いをしている人々も然るである。前世、前々世に於いて人を苦しめたことが無かったか? そしていじめに関しては、いじめられているという事実によって、自分が積んできた罪穢が認識できるというものだ。

その前世の罪穢というものは現界に居る限りは分からなくなっているものだから、いじめという現象を通して自分の罪穢を教えてくれて、さらには罪穢のアガナヒまでさせてくれるいじめっ子たちに本当はむしろ感謝をしなければならなかったのだということが分かってくるものである。罪穢を消してはくれたが、いじめという行為によって自分たちがまた新たな罪穢を積んでしまったのだ。 そんな罪穢を積ませてしまったということに尚も深く反省せねばならないのである事を・・・。

もう少し書かせてもらうと弱い小動物を捕まえては残酷な方法で殺したり、虫を捕らえては面白半分にいたぶっていたのかもしれない。いじめっ子にされていたことの数倍の苦痛を、自分はもっと弱者にしていたのかもしれないである。 そんな自分であったのかもしれない・・・今の人間の前世前々世(どんな酷いことをしてたのかもしれない)というものが少しでも分かったならば目を背けたくなるものである。 前世の結果は現世(今の世=自分に起きる事すべて=人に味あわせた苦しみは必ず自分も味合わなければならないという宇宙の法則である。何時来るかもしれない苦痛の味わい。また前世女性か男性であって人を苦しめてたかもしれない。生まれ変わるとは男も女もない。)でもあるのだが・・・

オギャーと、この世に生を受けどんな形せよ死していかねばならないのであれば因果であろう。だから意乗りであり悔い改めることをなさねばならないのである。さて誰が最初に苦しみを 味あわせたのかという疑問が出てくる。これは卵が先か鶏が先かという問いに成るであろう。然るに自分に置かれている立場の時に解消しなければ永遠に続く不合理な死になってしまうのである。 しかし此の事は受け入れるか否かはその当事者以外には知りえないことでもあるが・・・。あぁ・・・。合掌


●父母・大人は愛ゆえに子供に教え導こうとしてくれていたことも。無知な分子供は、その愛を愛と感じることもできないで喘いでいる。父は自分の成長だけを楽しみにして、仕事に精を出し、母も厳しく自分を導いてくれている。 そして何よりもこうして肉体を持って現界に存在しているのも、すべて父と母のお蔭なのである。それだけでも父母の恩は空よりも高く、数十年間(年数ではない)も育ててくれた恩は海よりも深いといえる。そしてそんな父母に、 人は今まで一度でもいいから心から感謝をしたことがあっただろうかと思う。もしも感謝が出来てたら少なからずいじめはなくなって行くだろうと思うのである。そして愛に包まれて育てられたその愛に、人は万分の一でも報いただろうか・・・。 子供達は言う。大人は汚いし、許せない……確かに成長した子供たちは、むしろ大人の裏が見えていたりする。だが、許せないという想念は、自分がまだその人よりも魂が下であるという証拠なのだ。大自然の調和は、互いに許し合い、譲り合って成り立っている。

雲が自分を隠したとて文句を言う太陽はない。広く円い心で人を許していくこと自体が自分の心の広さを表すことなのであるし、許せなかった人を許していく。誰もが、人を裁くことはできない。なぜなら、自分は裁かれずに許されているのだ。 許されて、大地の上で息をしている……すなわち、計り知れない罪穢を思うとき、許されてこうして生かされていること自体が奇跡なのである。決して、人を裁けるはずなどない……だから、果てしなく人を許していかなければならないのである。 神様からの莫大な借金を背負って生きているお互いなのである・・・。


●人間は誰でも現界に新たに誕生した時はその心は丸いはずだったが、成長するに従って我(が)というとげを出し、イガイガになってしまう。神から頂いた時は水晶の玉のように透明だった魂を、再生転生を繰り返すうちに罪穢によって曇らせてしまったため、 心もトゲトゲになってしまうのであろう。我と慢心、自己顕示欲、そしてものごとへの執着、これらのものほど調和とは正反対のものはない。さて人間は罪穢をサトってお詫びをし、お借金返しのための積極的なアガナヒを明るい想念でしていけばいいのである。

●教えの内容自体はいくら正しかったとしても、相手の心を考え、相手のレベルまで下座することもなしに、ただ押し付けていたのではなにもならない。どんなに正しいことでも、自分に厳しくするあまり他人にまでそれを押し付けてしまうのは、 本当の愛ではないし、厳しくするときは厳しさも必要だろうが、その厳しさは自らへの厳しさに裏打ちされたものでなければならない。もちろん、他人を甘やかして優しくするだけなのも本物の愛とは思われない。まず他人に厳しくする前に、 自分の厳しくすることが大切なのであると・・・。。 自分への厳しさを縦に、他人への大らかさを横にして二つを十字に組んだものが、本当の愛ではないかと思うしこれこそ神の愛であり、自分に甘く人に厳しくするのは最低で、中道とは、他人には他人への大らかさで自分には厳しさということではないかと思うのである。

●どんなに罪深い人間でも、今日もこうして生かされている。さらには、細やかな至れり尽くせりの神仕組みの中で、何不自由なく生活できるように一切が与えられられている。 そのことを有り難くしみじみと感謝し、反省とは自分を責めることばかりではなく、自分自身をよく見つめ直すということであると・・・。

●これまでの自分を、想いの界でひっくり返すことが大切で、 神様の世界は肉体や物質の世界ではありません。眼や耳や鼻や舌や身や意識などという肉体を通しての現象は通じません。まずは想いの界をひっくり返し、後はそれをどれだけ形に表すかが大切ですなのだと・・・。 正しい心の物差しを基準に、偏らない立場で現在・過去・未来にわたる輪廻の輪の中で今を止観して心を正すことで、一切の執着、とらわれの心、こだわりの心は地獄だということを認識することです。しかし今の世は簡単な教えを人知の屁理屈でこね回して、哲学にしてしまいました。 さて最後に心を清めただけではだめで、その奥にある魂を浄めなければなりません。それができるのは反省という心の行だけではだめで、唯一神の光によってのみ可能となります。霊的光力を受けることです。だからといって反省・感謝・心の行は無視して良いとは言えません。言葉の文(あや)であります。 反省・心の行は必勝であり、それ無くしては又奥は在りません。其の奥にもっと段階が在ると言いたいのであります。一つのものだけを絶対として取り上げ、他は悪としてすべて排除するような姿勢では、経綸の真相をつかむことはできないのです。

●人間は霊魂ということを知らないと、限界的な考えでは解決は絶対できないと断言できるのであるが・・・。霊的解消しなければ・・・。

●人間は人を苦しめた分、 人を助ければいいんであって、普通の人間は自分の時間を自分のために使って生きている。自分の生きざましか見ていないからでしょう。しかしほかの人のために使う時間が必要とされるのである。此れが妙諦(みょうてい)である。 また神様がどうすれば喜ぶかなって考えて、その通りするのが本当の義ってものである。父・母がどうすれば喜ぶかなって考えて、その通りする。この義であろうかと思う。

●ここでもう一つ知恵をつけると、神様は人間に『選ぶ』という自由を与えて下さっている。選ぶことによって人間は神様の近くまで昇って天国にも入れるし、地獄に落ちることにもなるけれど、全部それは人間の自由であって、天国に行くのも地獄に行くのも、人間には選ぶ自由を下さっているのである。 だから、怠けていてはだめで、自分の力で努力することが大切なんです。

●時を選び採れず 命受けしものよ、親も選び採れず 生まれ出でしものよ!親なれば 力尽くすとも 親なれば全ては 果たし得ず!親らしくと 思いは深くとも 親らしくが たやすとも 見いだせず、時を選び採れず 命、受けものよ 時の澱(よど)みに身を染めず しなやかになれ!!

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-43-1

『発熱』 医学上発熱の原因として今日行われている説は、既記の如く発熱中枢なる機能が頭脳内にあって、 それがなんらかの刺激によって発生するとされている。 又運動による疲労のためや肝臓及び腎臓、胃腸障害、其の他各所からの発熱に対しては、その理由漫然としているようである。 しかなが発熱中枢なる機能など人体内に無い事は既に説いた如くであるが、 茲に見逃がす事の出来ない事は「体温が食物の燃焼によりて発生する」という説である。 此の様な馬鹿々々しい事を唱えるのは多分消化機能をストーブのように想い、 食物の消化を石炭の燃焼と同様に推理したものであろう。

発熱の原因を説くに当って読者に断っておきたい事は、之はあまりにもかけ離れている説であるから、 心をひそめて熟読玩味(じゅくどくがんみ)していただきたいのである。 そもそも、宇宙における森羅万象一切は大別して三つの要素から成立っている。それは火、水、土である。 即ち火である火素は太陽の精であり、水素は月球の精であり、土素は地球の精である。 そうして天界は太陽、中界は月球、下界は地球というように三段階になっている。 之は日食の際、明らかにみえるのである。

右は経の三段階であるが、之が緯の三段階にもなっている。即ち経緯交錯(けいいこうさく)の三次元的密合でありそれが人体にも当てはまるのである。 そうして人体中の重要機関として三つの機能がある。即ち心臓、肺臓、胃の腑(「腑」は内臓の意)である。この三太機能の活動は火素、水素、 土素の三原則を吸収し、それによって生が営まれる。 即ち心臓は火素を肺臓は水素を、胃の腑は土素を吸収するのである。

◆大熱の出た後などはよく腎臓病を起しますが、それは心臓熱で燃焼した灰が尿に混って出るので、之を蛋白(たんぱく)といひ、病気と思ふのでありますが、実は浄化作用の残渣であります。 牛乳を飲むと蛋白が少くなるといふのは、腎臓を弱らすから、洗ふ力が少くなるからであります。

◆扁桃腺炎の後などは、よく腎臓が悪くなると謂ひますが、之は腎臓が悪くなるんではない、ヤハリ病素の洗ひ渣が蛋白となって出るので、非常に結構な事なんで、間もなく治るのであ ります。之故に蛋白の出るのは決して悪い意味ではないのであります。腎臓は、そういふ訳で、水の方の浄化作用の役目で、心臓は火の方の浄化作用の役目であります。ですから、心臓と腎臓は、重要な夫婦役になります。 それで、心のシに濁りを打つと腎のジとなってゐるのも面白いと思ふのであります。

◆蛋白とは腎臓のまわりに溜ったものが滲みて出る。人間の内臓はすべて滲(にじ)みるように出来てゐる。蛋白は小便に混った膿である。 蛋白とは何であるかといふと、実は然毒(遺伝毒素とも言われ、先祖から遺伝子や母胎を通して受け継がれた毒素で、天然痘・ハシカ・小児麻痺・小児喘息・ アトピー性皮膚炎等々は、この毒素が 原因でおきてきます。 (医学では、上記の病原をウィルスとしています。 )又は尿毒(出生後、腎臓活動の鈍化にともない余剰尿が体内各所に集積し

毒化したものです。万人等しくこの毒を所有しており、健康者に 見えても大量の毒を所有しています。)、薬毒(現在難病と言われている癌をはじめ、心臓病、脳疾患等々の大半は、 薬毒が原因の場合が多くあります。薬とは病気を治すもの、と信じている方には奇異に感じられるでしょうが、薬、即毒ではなく、残留薬剤が体内に沈殿し、年月を経るに従い毒化して、 それが各器官の周辺背面部、首や肩に固結して諸器官の活動と血流を阻害して病気を発生させます。)が、背面腎臓部に凝結し、それが体温計に表はれない程の微熱(掌を宛てれば良く判るのである)によって溶解し、一種の液体となって腎臓内に浸潤し、尿と共に排泄せらるるのであって勿論浄化作用の為である。

故に、蛋白が排泄せらるるだけ病気は軽減するのである。その證左として、多くの腎臓病患者を治療の際その溜結毒素の溶解施術を行ふや、微熱が発生して、一時は蛋白の排泄が非常に多くなるのであるが、 漸次少量となり、終に全く無蛋白尿となって完全に治癒するのである。


無蛋白腎臓疾患とは、如何いふ訳かといふと、背面腎臓部に凝結せる毒素の浄化作用がおこってゐない為である。故に、斯様な無蛋白尿患者は、有蛋白尿患者よりも悪性である事は勿論である。 そうして此症状である患部は必ず無熱である事で、無熱であるから、凝結毒素が溶解しないから、蛋白が無いのである。

◆腎臓部の治療を第一とし、肩胛骨部を第二とし、その他は第三の順位にすれば良いのである。又一般に、右側腎臓部の毒結が多いのであるが、左側のそれも重要である。但し、 盲腸炎の原因は右側の萎縮腎である。そうして、腎臓部の毒結を溶解するに於て溶解毒素は腎臓内に浸潤し、尿と共に排泄されるのである。

◆人間は腎臓さへ健康になれば、凡ゆる疾患は治癒すると共に、心身共に健全となり、幸福と長寿を得るのである。

◆葡萄糖(ぶどうとう)などは悪いのです。これはまず駄目です。

◆栄養剤やサプリメントなどは最も悪いものです。

◆日本人は御飯が一番栄養になるのであります。その御飯を美味しく食べるために副食物があるのであります。副食物は野菜を主とし、魚、肉食を従とすればいいのです。


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●霊的光力(有力光・I am that I am)とは無限の火素・・・・火の本を放射すると、人間の霊のうちのつまり汚物で、これがまた、この粒子というのはどのくらい細かいか分からないので、やっぱり無限ですが、 それにぶつかって行って、霊のうちの不純物・・・・汚物を焼くのです。そこで汚物がなくなってきれいになるから、それが肉体に移写して、 痛みがとれ病気が治るというわけで、これが科学的原理です。ですから霊の曇りなり、また放射する火素なりの粒子というのは、やっぱり無限です。 それで無限であればあるほど力が強いのです。そこで神様の力というのが一番強いという事は無限の為です。無限という事は、ごく細かい、 細かい極端が一番力があるわけです。

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光力とは、難しくいうと、七次元界(神界、霊質のない所=イリキ・レイリキのみの世界、地球を創ろうとする力・力=姿がない)という高い次元から発してくる光で、この光で、この光が幽界で集められ、組み合わされた時に 半物質となり、この世で組み合わされた時に、物質となるわけである。すなわち我々、人間も光からできているということがかわりがない。具体的に言うなら、光が組み合わされて 肉体が作られるが、死んで幽界に入ることによって、肉体を作った光の組み合わせは溶解し、下の半物質を作っている光の組み合わせである幽体が、霊体やオーラと一緒に残る といわれている。人間に影響を及ぼしているのは、憑依している霊達で、この人間の光の組み合わせである幽体の上に、光でできている霊の幽体をかぶせているのである。 これを憑依霊ともいう。要するに復讐霊・恨む霊ともいう。これが光と霊の実態である。

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ひと休み;●ヘブライ語(ギリシャ語の原典の言葉)では「エイーエ・アシエル・エイーエ Iam that I am. 私は、在りて有るは実在で有力で、しかも天地創造の時の神霊の総割した存在で有力の義。(現代訳でわたしは、あらゆる存在の根源である。) 「エイーエ・アシエル・エイーエ」。これは伊勢神宮の外宮の御神体のマンナの壺の裏にはハッキリとヘブライ語で「エイーエ・アシエル・エイーエ」と書いてあるということです。 そういうように「エイーエ・アシエル・エイーエ」というのが伊勢神宮の外宮の御神体に書いてあるということです。八尺の鏡の裏にも書いてあるということですが此れが本当なら・・・。 その書いてある「エイーエ・アシエル・エイーエ」というのはそれではヘブライ語の思想かというとそうではない。 天地創造の神様が数で表してあるというだけのこと

※【字を数霊でみますと、「一・五・十・五・一・二十一・二十・一・五・十」となります。そしてこれこそが天地創造の神を表現しているのです。 (一)は初め、本(もと)である。神にすれば造物主(独一真神)である。(五)は火を発する活動力。熱が出る。(十)は陰陽結ぶ。(経緯)本当の完成である。人類文化ある程度まで進化する。 十になると力が出来る。結ぶと力が発生する。「天地の結び」あるいは「霊体の結び」というようなわけです。それをやられるのは一神であり王であり火であり水であり回転するものであると。 (五)は 日いずるであり、火であり真中心であり (一)は 初めの元である主の神である。そして(二)二つのものが(十)結んで(一)始まる。それが二十一である。 二十で王となり、その上に最高の神様がお乗りになって(上に乗るのが主である。)世界を御経綸するのです。此れが数霊のあらましです。 此れをまとめて話すと我(一=一つ、一人、初まり)は日(五=火)であり神(十)である。(五)日出(ひいず)る(一)神である。 天地を結ぶ(二十一)主(二十=世界+宇宙を御経綸する)である。もう一度申すぞ我(一)は日(五=火)であり神(十)であると。)】

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●その数は日本の古代史の数の通りになっている。 ただヘブライ語で書いてあるからその思想が外国から来たというふうに解釈してるところに大きな根本的間違いがある。 モウシェの十戒の石を見ましてもこれは向こうにないないと言いますけれども日本に来ちゃってる。 日本に来たのはいかにも取って来てるようですけれども、結局は霊的に考えますと日本の物は日本へ帰って来ておるのが当たり前のことなのです。 従ってイエス様がカゴメにチョンチョンの十を書きまして自分のサインとするのも当然である。というようにあらゆる宗教界の謎が、解けて参ります。 又、一番最初のタテとヨコを十字に組むみ役がある。 だから、十字の印をサインとしたのである。

●「在りて有るもの」とは、観念の神ではなく実在する神なのだ。ここで議論するつもりがないが、目に見えないから神様はいないとするならば、目に見えないから空気はないというのと同じ議論であろう。 科学ではないから迷信とする考えならば、ひっくり返せば神様や霊魂も証明できない科学は幼稚な低次元科学ということにもなろう。超一流科学者アインシュタイン博士や 湯川博士などは、それぞれ「宇宙意志」「ある絶対的なもの」と言葉こそ違え、神に到達していると考えるのである。神の科学の前では、人間の科学は眉毛一本、ケシの種一つも 創りだせない幼稚なものである。人間がたとえロボットを作ったとしても、それは神から拝借したものを加工したにすぎず、人間には「無」から創造はできないものである。

ましてや、人間が作ったロボットは、神が創造されたものと違って繁茂繁栄生成化育(はんもはんえいせいせいかいく)することは決してないのである。そんな幼稚な科学をもって、 「科学万能」とうぬぼれているのはまさしく「科学迷信」であって、幼児に剃刀(かみそり)を持たせててるようなものであると。ところが世人たちは言う。「神がいるんなら 見せてみろとか、証拠を見せろ」と。実はキリストも至る所で、この「証拠を見せろ責め」に遭(あ)っている。キリストは言った。「よこしまな者たちは証拠が欲しがると」 しかし彼は証拠を示した。多くの病人を癒した。話を聞いただけでは信じない屁理屈屋(「 ス直」 というものを忘れ去っていたる人達)に、 これでもかと神様が見せて下さる。しかし医薬によってではなく。

神の業(霊的光力)として奇跡の癒しを行ったのである。だがそのような病気の癒しを売り物にするのは低次元な御利益信仰かというとそうではないのである。 あくまでも肉体上に映るものは必ず川上であるところの霊的(霊魂)救いの為の方便であったのである。
それでも信じない人々がいたのである・・・。キリストは決して一宗教を打ち建てようとしてのではなく、「在りて有るもの」神様に命じられるままに教えを伝えただけなのである。 本当に之からの世は原点に還るべきだと願っているのである。


神は人間を創造されたとき、「我われに似せて」と仰せになりました。つまり人間の体(霊成型)は「主の神」に似せて創られたので我われ人間の形は「主型=スガタ」というのです。

しかしながら今日の科学は水素及び土素は確実に把握しているが、火素は未知であった。それには理由がある。即ち水素は半物質、 土素は物質であるに係わらず、火素は非物質であるからである。 右の理を一層掘り下げてみよう。即ち非物質である火素は地上の空間を充填しており、之を霊気界(れいきかい)という。 同じく地上空間を充填(じゅうてん)している水素は空気界を造っている。従って心臓は霊気界から火素を吸収しており、 その運動が鼓動である。

勿論肺臓は空気界がら水素を吸収する――――それが呼吸である。胃の腑(ふ)は又土素がら生産された食物を吸収する。 之は誰も知る処である。 右の理によって体温とは心臓の鼓動によって不断に霊気界から吸収している火素である。故に発熱とは毒結溶解のため、 所用の熱を多量に吸収するからで、発熟時鼓動の頻繁(ひんぱん)はその為である。 この理によって死後急激に血液が凝結するのは火素が霊気界ヘ還元するからであり、 死体の乾燥は水素が空気界ヘ還元するからであり、死屍(しし→しかばね。死体)の土壌化は物質であるから土素に還元するのである。

次に注意すべき事は、発熱の場合世人は全身的と思うが実はその殆んどが局部的である。 例えば高熱の場合、指頭を以て発熱の焦点を探査する時、指頭位の小塊(しょうかい→小さいかたまり)を発見する。 之は火の如き強熱さでよく判明する。 それを溶解するや忽ち全身的に下熱するのである。之によってみても発熱中枢なる機関など無い事は余りも明らかである。 又世入が信ずる如き体温計なるものは正確とはいえない。 何となれば発熱中心部が腋下(えきか→わきの下)に近い場合高熱が現れ、腋下に遠い頭脳かあるいは脚部等の場合は割合体温計に高熱は現われないのである。

即ち発熱中心部から遠くなるに従い、放射状的に低熱化するからである。此証左として人により左右の腋下を計熱する場合、 五六分位の差異を往々発見すのである。 次に高熱に対し水冷法を行うが、之は最も不可でる。それは人休適正の体温は三十六度台であるという事は、 その程度が機能活動に適しているからである。

然るに水冷は零度であるから水冷を受ける局部の機能は、その活動を著るしく阻害され失う事になる。 それは凍結的麻痺状態になるからである。脳溢血(のういっけつ)、肺炎(はいえん)、窒扶斯(ちぶす)、その他高熱病の場合、 その本来の病患の為ではなく水冷の為に死を招く事実は少なからずある事である。


大知識;●御霊の調整はカゴメ(陰陽師⇒五芒星⇒之は星のマークではない。太陽の意味である。 ⇒五(火・日)⇒カゴメは初めに上から左斜め下え、そして右左斜め上え、そして左真直ぐにそして斜め右下え、最後に上に戻る。 此れがカゴメの1〜5までの型である。五は「火」で十「水と火」で日の神となる)に最後にチョンチョンの十を書きまして、呪文を唱える。(秘め事である)

生き言霊に光あれ!!

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言霊豆知識-43-2

神霊界の実相について

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言霊豆知識1;●霊成型(ひながた=霊成型を造っても今度は人の肉体化させる)とは、

○霊体(霊波)⇒神の波

○幽体(幽波)⇒先祖の波

○肉体(肉体波)⇒現界 これは神幽現界の三位一体(さんみいったい)の世界なのです。

●今は神霊(神示により。もう一つ付け加えるならば此ののち神霊の世界は三百年は内ち明けられないという・・・。)により神霊界の秘密をある程度は打内ち明けられるけれるようになった。 だが神霊界の大根元神の裏の経綸(しくみ)というものもあるのだ・・・。それはヨモツ国の神霊界にいる若武姫神の野望。 現界ではイシヤの仕組みとして物質化してやがて世界を覆うという仕組みでもある。現在がそうである。これが神霊界の動きの現界への投入である。 最後に時が来ればタテの神様のみ働きがある霊の元つ国の霊(ひ)と、○○○○○のヨコのみ働きがある物力を十字に組んで、エデンを織りなすという神の御計画がある。

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言霊豆知識2; 現在の世界は唯心思想と唯物思想とが離れ離れになっている事であって、之が文明の一大欠陥である。之を譬えてみればよく分る。科学は肉体派であり、 宗教は精神派であるから、現在はバラバラになっている訳で、これでは平和幸福など得られる訳はない。例えば人間にしてもそうで、精神は斯(こ)うすればいいと思っても、 肉体が言う事をきかなければ必ず間違った行いをする、といって肉体の方で精神を自由にする事は無論出来ない、というジレンマに陥ると同様、凡てが巧くゆく筈がない。

どうしても霊肉一致でなくては幸福は得られないのである。之と同様世界も霊肉バラバラになっているから、今日の如き混迷状態であり、人類は苦しみの坩堝(るつぼ)に蠢(うごめ)いているのである。 という訳は全く科学に捉われ、精神面を無視していたからに外ならないのである。此のバラバラである霊体を一致させた文明こそ真の文明である。
とは言うものの之が大問題である。

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神霊界の段階的な構造

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●七次元世界(第七都卒天);時間の神・空間の神・男女一体神⇒意力だけの神の界(神界)⇒隠身神界(カクリミシンカイ)

強烈な意力あるいは魂力だけの神です。この界の神々が一度その意思の波動を発せられば、神霊界から霊幽界・物質界とあらゆるバイブレーション(光子波・素粒子波・電波など)となり、太陽でも地球でもできてしまうのです。 意力を発動する神々の世界がこの七次元神界で、具体的には時間の神(時間の神というのは同時に物質界を成生する霊質から物質を造るところの化学変化を起こす神様)=中末分主神(ナカスエワケヌシノカミ)様、 空間の神(空間の神というのは空間というものが永遠に空間と時間を規制されていきます神様になります。空間の神の方は今度は霊質の方を造る神様そして霊質界を造る神様のみ役)=天地分主神(アメツチワケヌシノカミ)様、火玉の神、 水玉の神など、天地創造の源力となった神々の世界です。

この様に、大神様は火玉の神、水玉の神をお創りになった。それがだんだん霊体化、幽体化してきて、天照主日大神(あまてらすひおほかみ)、天照主月大神(あまてらすつきおほかみ)、 土大神(つちおほかみ)のミロク神となられ、これがさらに現界では天照主日大神(あまてらすひおほかみ)、天照主月大神(あまてらすつきおほかみ)、スメラミコトとして出現される。物質化して 太陽、月、地球が出来上がったわけです。そもそもの大元はいえば、何百億年か前、天地創造の神が火玉、水玉の精霊がお創りくださったことに発するのです。

この世界が最高・最奥の神界で、仏教的にいえば三千大千世界(大千三千世界が本当である)そのものにあたり、「宇宙の万神万有をそのうちに包括し、それ自体の活動の定律たるロゴスのまにまに永久に正々存々して息むことなき、唯一なる絶対者」ということになる。

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●(天神七代)

  ●一代・元無極躰主王大御神(モトフミクライ ヌシ ノ オオカミ=ナアモ、ナムモ等) 

   エネルギーがただ在る状態であった。宇宙創生。


  ●二代・中末分主大神尊(ナンナシワカレ ヌシ ノ オオカミノミコト)

     (時間の神様) 地球の分化。エネルギーが動き大宇宙の創生を開始する。この運動をつかさどる存在。土の海を石に凝り、岩に凝り、土水未に分玉のごとくなり
   宇宙剖判と地球修理固成。  宇宙球の完成。


  ●三代・天地分主大神(アメツチワカレ ヌシ オオカミ)

     (空間の神様) 天地剖判。宇宙球の中に無数の星が誕生。天地別れて大空の中が出来る。神界統一

  ●四代・天地分大底女大神二神(アメツチ ワカシ オオソコ ミド オオカミニシン)

     太陽系惑星が創造される。(霊質(火の精霊)・物質(水の精霊)を創られた神様) 大陸形成。

  ●五代・天一天柱主大神躰光神天皇(アメハジメ アメハシラ ヌシ オオカミ ミヒカリ ノ カミ スメラミコト)

     (時間、空間、火霊、水霊の四大源力を全て持たれた神様) 大空の天に登る所を天一柱という 地球に神界を創設(所謂人間界)。
   地球(地美と名付ける)の完成。神々の地球視察。


  ●六代・国万造主大神身光天皇(クニヨロズツクリ ヌシ オオカミ ミ ヒカル スメラミコト)

     地球は火山噴火、地盤変動が激しく流動性に富んだ星であった。地球の公転運動のひながたを作る。それをつくり固め、生物の誕生、繁殖の基盤を設定。
   暦の制定(文化や祭祀の始まり)=立十日・円十日・籠十日を合わせ、三十日を一月とし、十二月を一歳と定める。


  ●七代前期・天御光太陽貴王日大神(アメミヒカリ オオヒナカ キ オウヒ オオテルヒ オオカミ)

     〔天照主日大神様のこと〕〔男性神〕文明の始まり。暦、方位、時間の制定。

  ●七代後期・天御光太陰貴王女大神(アメミヒカリ オオインナカ キ オオメノ オオカミ)

     陸上や海に生物発生。黒石に黒人祖。

  ●この天神七代の神様は主の大神様が直接変化されたものです。正神の神々。そしてこの天神各一代は凡そ20億年かかっているということです。

  ●天神七代の物語が、聖書での七日七夜と表されているのです。この聖書がいつどこで書かれたものか疑問が湧いてきます・・・。

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富山県負婦郡神明村久郷、そこは神通川の水害と冬の冷気に長年悩まされてきた所である。そんないかにも北陸地方らしい寒村に、遥かな太古、日本、否、世界の中心たる聖地だったと主張する年代記と文書群があった。 その文献こそ「古史古伝」の代表として、良くも悪しくも有名な『竹内文献』である。

広島県庄原市の葦嶽山ピラミッド説や、青森県新郷村のイエス=キリストの墓など、古代妄想と呼びたくなるような怪しげな噂はそのほとんどが、この『竹内文献』に由来するといっても過言ではない。 だが、いわゆる神代文字で書かれていたという年代記の原本はもはや地上から永久に失われてしまった。

ただ、戦前の刊本やメモから復元されたテキスト(『神代の万国史』等)と現存する皇祖皇太神宮(茨城県北茨城市磯原町)の祭祀から、失われた神話の大要を偲ぶことはできる。

『竹内文献』の決定版といわれる『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)をひもといてみよう。その冒頭に現れる神名は、天神第一代・元無極躰主王大御神、またの名を天地身一大神、あるいはナンモ、、アミン、ノンノ、カンナガラ、メシアなどともいう。 こうした異名の数々はこの神が持つ究極の神性を表現するためのものらしい。この神は「天地ヲ産祖神」であり、「天地乃大根元身体乃大神」だという。

したがって、この神が現れた時、宇宙はいまだ「天地未分ス、鶏子乃玉子如奈リ」という状態であった。  続く天神第二代の出現で、泥の海に岩石のような塊ができ、ようやく土と水が分かれて天地は玉のようになった。その変化には「年歴無数」の時間を要したという。

 天神第三代の出現から二百二十四億三十二万十六年後、天地が別れてようやく大空に中空ができる。そして天神第四代、その中空の中に清らかな煙がたなびき、天上に男神としての日の神、地上に風の神としての女神が生じ、男女の別が定まった。  天神第五代、天の底にあたる地上で祭天の儀が始まり、天越根日玉国狭依国越中国(飛騨・越中)が天国の柱、天皇・天神の宮が置かれる国と定められた。

また、万国の底を地美、造化の男女二神がマグワイした所を淡海根(近江)と名付けた。これらは地上における最初の国名である。それから百六十億万年のちには泥の海がすっかり固まり、二百六十億十万年後には天神五代の神々が天に登った。 その神々が天上に登った所は天一柱の国と名付けられた(『古事記』では天比登都柱は壱岐の別名)。

 天神第六代、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動のヒナ形を造った上、天上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の海となった。 高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという。

さらに神々は天の底の天神人祖神一神宮で造化の神々の像を造って祀り、天皇をその祭主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動をつかさどり、月の女神も現れて大地を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。  天神第七代の位を受け継いだのは、前代に現れた夫婦の日神である。

この神々によって暦はさらに整備され、星々の運行まで定められた。また、この神々の皇太子は日玉国の位山(現岐阜県宮村の位山)に大宮を造営した。そして、その皇太子の即位によって上古二五代の御代が始まるのである(その初代は天日豊本葦牙気皇主尊天皇)。

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さて冒頭の この『七』の数霊がなにかというと「成り生り鳴り也る」となる、「成る」という字は主の大御神様ご自身が変化した姿で、天神七代の神々は全て主の大御神様ご自身のみ働きで、そのような形が「成る」という意味です。 次の「生り」は、この変化された神々から多くの神々が生まれてくる。火と水の神々が一体化することによって神々が結ぶ、産霊と言います。そしてこの産霊力が発生すると産土の力、産土力というものが働いて新しい神々か生まれる。

「鳴る」という字は、この神々が宇宙で活動する。五次元神霊界は耀身神界(カガリミ シンカイ)であり、この耀身神界の神々を光神、光龍神といいます。それから三次元のすぐ上の四次元神霊界は馳身神界(ハセリミ シンカイ)、 四次元神霊界の神々が流体化(龍体化)した龍神というような形に変わっていくわけです。このように「鳴る」というのは神々が霊界、神霊界で動き回られる姿を「鳴る」と表現するのです。 そして最後に「也る」ということで全ての宇宙創造ができた。これが旧約聖書では「七日七夜のみ働き」ということになっているわけです。

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●男女一体神=即ち神界の神様は一体神(人間界で例えるならば男の性質も持ち且つ女性の性質も持っている神、今で言うオカマさんとは違う)、男心女体神、真のカクリミ神、魂(霊)そのものであり、想念の力そのものの神様

今の天地分大底大神(アメツチ ワケ オオソコ オホカミ)、天地分大底美大神(アメツチワケ オオソコ ミド オホカミ)という二神の神様をお生みになっておりまするがこれが今度は霊質界の創造をした神様であり、 霊質界と物質界とを分けて 物質界をお創りになった神様の方が女神の方でいらっしゃる。ですから天地創造の時に既に物質界と霊質界をハッキリと立て分けておられる。 そして霊質から物質を現象化す、但し今日の原子核物理学が既にできあがってたってことがハッキリ分かる。これらの神様のことが天地創造の時の重大な神様になる訳なんです。

もし霊界霊質から物質に化するところの担当する神様、即ち原理がなかっとすれば、中間子というものがもしなかったら、科学的に言えば、 中間子がなかったとすれば永久にガス体に終わったであろうし、即ち霊質だけで終わっちゃった、という推定は妥当(だとう)な推定と考えられるでしょう。

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●六次元世界[神霊(体)界];天一天柱主大神躰光ノ神⇒物質以前の霊質体(霊+体)が固まった神の界(神霊界)⇒仮凝身神界(カゴリミシンカイ)
カゴリミとは言霊でいうと、カは霞のカ、仮のカで、つまりカスミのように透きとおった霊質体(霊+体)ということ。そしてゴリ(コリ)は固まるという意味で、 カゴリミとは物質以前の霊質体(霊+体)が固まった神ということになります。創造神界でもあります。

この階位の神は、宇宙最高処に位して絶えず万物創造進展の御意志を醸(かも)し出しておられるという。

殿方神は国万造主大神(クニヨロズツクリ ヌシ オホカミ)・奥方神は国万造美大神(クニヨロズツクリ ミノ オホカミ)⇒草種の諸神・木種の諸神・星種(星の配置、天体の配置をせしめられる)の諸神

国万造主大神の弟神である天日萬言文造主神(アメヒノ ヨロズ コトフミ ツクリ ヌシカミ)と天神第7代前期の天照日大神(アマテラス ヒ オホカミ・日球神=四季を定める。地球人類の祖先を創造。神代文字製作=アヒルクサホ文字)とによってつくられたのが、即ち言霊と文字を造る神様である。【天日言文造主大神(アマヒ コトフミ ツクリ ノ(ヌ)シ  オホカミ)ともいう】

【知識として;二柱の神は、地球の公転運動から暦を定め、また無数の星々を造りあげた。この御代で、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動の雛型を造った上、 天上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の海となった。高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという。 さらに神々は天皇を地球の祭主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動を司り、月の女神も現れて夜を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。

国万造主大神(クニヨロズツクリ ヌシ オホカミ)と国万造美大神(クニヨロズツクリ ミノ オホカミ)が引退という時に、他の神々が造主大神を艮(ごん)の方向(北東・鬼門)の摩周湖へ押し込め、造美大神を坤(こん)の方向(南西・裏鬼門)の開聞岳(鹿児島県にある薩摩富士)に押し込めてしまった。 艮は丑寅の方角であることから造主を丑寅の金神と呼び、金神の中でも最も恐ろしい神として何人も近付かないようにしたのである。 国祖・国常立尊さまが「艮の金神」として世に隠れてお仕組なされたという因縁の霊山・艮(ごん)の方向(北東・鬼門)北海道の芦別山(標高1726m)に押し込められたという説もある。

ちなみに、この二柱の神の封じ込めを天津罪とし、大祓の中に暗号として残しているという。また、日本から見て南西にイスラエルがあり、イスラエルから北東にあるのが日本で、両者のつながりを 表鬼門と裏鬼門になぞらえる説もある。かごめ歌の鶴と亀はイスラエルと日本で表裏鬼門とも云われる。 また神々の争いは幾度となく繰り返され、今日に至っている訳であるが、それらは偶然ではなく全て必然であり、生成発展を遂げる上で避けて通る事の出来ぬ道である。

国では異国の神々の争いが勃発している。一応の決着が着くまでは介入すべきではないと考える。八百万の神々も同じ思いであろう。我が国は世界の雛型である。我々は争いの後を見据えて、 まずは妖悪不浄の雲に覆われ穢れたクニの禊祓いを行い、全ての日本人に神の子たる気概を呼び起こし、日本を建て直し世界の光明と成すべきと考える。】

■天津神(あまつかみ=高天原にいる、または高天原から天降った神の総称)、国津神(くつかみ=地に現れた神)。

造化三神の天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神や神代七代の國之常立神などは、天神七代の次の代から始まる、上古二十五代天皇に属しているのです。

天之御中主神が上古第四代天皇であり、高御産巣日神が第十代天皇、神産巣日神が第十一代天皇、國之常立神が第十四代天皇ということになります。

古事記では、始源神、創造主として、造化三神である天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が登場します。

その後、宇摩志阿斯訶備比古遲神、天之常立神が続き、神代七代(かみよななよ)の筆頭國之常立神となっています。

日本書記では、古事記の神代七代の筆頭である國之常立神が最初の神として登場します。

しかして これらの神が、造化三神、神代七代であるというのは、古事記編纂者の改竄ということになります。天神七代は造化三神以前の神、真の始源神なのです。

ちなみに、天神七代を祀っている神社はほとんどありませんが、福岡県の大根地神社には、祭神名こそ書かれていませんが、天神七代が祀られています。

伊邪那岐(イザナキ)大神……日之大神。

伊邪那美(イザナミ)大神……月之大神。

男性神の天照大神様は天神第七代-天御光太陽貫王日大光日大神(天照主日大神様)。

女性神の天照大神様は皇統第二十二代-天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(天照皇大神様(あまてらす すめ おおかみ)

天地創造を行われた大元の神様が、天神第一代の元無極躰主王大御神(モトフミクライ ヌシ ノ オオカミ)様です。

そして天神第七代の神様が天照主日大神(アマテラス ヒ オオカミ)様です。

天神第七代の天照主日大神様が神霊界から地上に降り立たれて、霊成型通りに五色人を生み出されます。この五色人が生み出された地が霊の元つ国(日本)です。 天神七代かかって人を生み出されたのです。

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●五次元世界;⇒光輝く霊体を持った神の界⇒耀身(カガリミ)神界

カガリミとは光り輝くお姿を持った神ということで、この界の神の霊体は光り輝いているのです。聖書に「神は光りなりき」とありますが、このカガリミ神のお姿からきています。統一神界であります。 インドでは観音様を光世音とも呼びますし、仏教では大日如来、そして神道では天照大神などとお呼びしています。天照主日大神、大日如来、月読菩薩、月光菩薩などとお呼びする神仏のおられる界。

天神第六代目にあたる国万造主大神様(クニヨロズツクリ ヌシ オホカミ)の時、先代の神々より「霊力、神霊に勝るものはいらぬねど、物を動かし、開発する能力においては神霊より勝るものを創れ」 という神勅をお受けになられたのが人のはじまりだと伝えられています。

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●四次元世界;天照日神・日の神⇒流体化すなわち龍体化した神の界⇒馳身神界(ハセリミ・カケリミシンカイ)

四次元界はハセリミ・カケリミ神霊界といいます。この世界で活動される神は、流体化して霊界を駆けまわられます。この時、非常な早さで動くため、波を打って流れるように飛んでいかれる。 流体化すなわち龍体化されるのです。この神霊界に感応した人が龍体化して活動する神々を見て、 そこから龍神という呼び名がでてきたのでしょう。黄金の光の神がこの界に降りられて龍体化すると、これを光龍神と呼ぶのです。

この界の神々は幽体(エクトプラズマ)を持っているので、人間に化けることもできます。また人間のほうも肉体が死ねば、霊幽体となってこの界の下層に入ります。 この下層界は幽界と呼びます。われわれの住む物質次元より一段上にあたる四次元界というのは、われわれ肉体人に直接かかわりのある神々が住み給う世界。

またこれらの神霊はさらに一段高い五次元の神と「交通」しているが、三次元界の我々が一段次元を飛んで直接五次(元)の神と交通する事は絶対に不可能である。



人間が死んで霊幽体となってこの界の下層の界に入ります。

幽界(仏界)と呼ばれています。

人の霊魂の本当の故郷です。

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第三次元界の世界は仮の世界。

●三次元世界;天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇=アメヒノモトアシカビキミヌシミヒカリオオカミスメラミコト(国万造主大神様の子にあたる天照日大神様が皇統第一代にあたる神様を地上界に降ろされた。) ⇒霊体・幽体の他に肉体を持って生きる世界・われわれの住む物質次元の世界のことである⇒限身神界(カギリミシンカイ)

限(げんかいがある=現=あらわれた世界=見える世界=顕界ともいう)身(肉=身体)神界

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●二次元世界;平面の世界

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●一次元世界;点の世界

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●天照大神様については 天照主日大神様(神代七代前期・天御光太陽貴王日大神(アメミヒカリ オオヒナカ キ オウヒ オオテルヒ オオカミ))は男性神です。 天照皇(アマテラススメ)大神様は女性神です。崇神(スジン)天皇【【神倭第十代 御間城入彦五十仁殖尊 ミマサイリヒコイニエノミコト 崇神天皇ともいう】の時に、それまでお祭り申し上げてきた天照主日大神様のご神体の方が隠され、 女性神の方の天照皇大神様( 皇統第22代 天疎日向津比売天皇を天照大神と呼ぶようになる)をお祭りしているのが今日の伊勢神宮です。日本の神道を国家神道にするために、天照主日大神様を隠してしまいました。 現在は天意転換が行われて、元のように天照主日大神様を順序正しくお祭りする必要があるのです。

天照主日大神様は幽体を持って肉体化し、現界の高天原(地上)へ天降られました。人の霊成型通りに人の肉体を造られた神様です。ここで五色人の誕生となり、 霊の元つ国(日本)より人類が世界へ拡がって行きました。 天照主日大神様は人を統治、指導教化するためにスメラミコト(天皇)を地上に降ろされました。

天照主日大神様は日(火)の神様であり、天照信仰、太陽信仰の元となった神様です。太陽信仰の元は、実は天照主日大神様の神幽(かみさ)られた後における、お慕い申し上げる祭りで、 それが太陽を拝む信仰になり、遂には太陽神を祀る社の信仰になり、ピラミッドにもなったのが世界の太陽信仰であるといわれています。聖書でいうところのヤハウェ(エホバ)の神様は天照主日大神様を指します。 また、天照主日大神様は神界から仏界の救いに天下(あまくだ)りされています。その時のお名前が「大日如来」となります。

●この様に神々の変化していることを考えてもお解りのように魂とは永遠に繋(つな)がっており人間とて同じで、肉体は単なる付属するだけで、時が来れば捨てなければならない物であるがしかし、短い長いにかかわらず肉体とて 神より頂き物なので粗末にしてもいけないのだと思います。

●段々と次元の、次の次元へ次の次元へと神々をお創りになり、但しその次元の神様には必ず中心になる各次元界の中心になる神様をキチッと決めておられる。 所謂統治者の、運命を担わなきゃいけない責任を果たすのが「スの霊統」という。そしてそのスの霊統の回りに四十八の神様の霊統が四十八神の霊統が取り巻く訳です。 そして、五十音の働きをする、五十のカ(ちから=リキ)、神名の働きをしまして、それが一体化する、「ン」で一体化して活動していく。 それが今度はピラミッドの神界の姿になる訳です。ですからおしまいに「ン」という字が付いてるんです。

●人間というのは本来神の子なのですが、長い間モノやカネ中心の考え方を続けていると、いつの間にか自分たちを生んだ神を忘れてしまうようになる。 そこで人間たちが神から離れすぎたり忘れてしまわないよう、またそのために大しくじりをしないようにとの神のはからいで、神の世界を人類に判らせるために降ろした使いの神の化身が釈尊、 イエスなのです。外側は肉体を持った人間だが、中身は神霊体になっている。このように人間の姿に変身させて地上に出さないと、神霊体のままでは人間の目には映らないし、 又教えを伝える言葉も人間に通じないからだ、というのです。そして主神や大天津神ご自身が人間に変化するわけにはいかないので、使いの神にさせているというわけです。

神様といってもピンからキリまであるものなので、この大宇宙を支配されるというより。大宇宙そのものであられる唯一絶対の主神(ス神またはチョンとか言われる神様)を頂点として、 宇宙を運営するためにそれぞれの場で活躍される多くの大天津神といわれる神々がおられる。銀河宇宙や太陽系の主催神もいれば、地球を主催される神様、 また世界各地の担当神と実に多くの神々がいらっしゃる。地上のそれぞれの地域を守護する神々も活躍しています。宇宙唯一の絶対神が、人間に変化したり、 人間の周囲に現れたりすることは、絶対にあり得ないことは誰にでもわかるはずです。

あるいは宇宙空間で活躍するような大神霊が、人間に変身するというのも考えられないことなのです。 こういうわけで、人類の先達や導きの主として人間に変身してこられるのは、神霊界でも人間に化けやすいお使いに適した神様だということなのです。 釈尊やイエスというような聖者は人間になる前は、神霊界でそれぞれ神様だったわけです。人間に変身しやすい程度の大きさの神だったのです。


●日本に残る超太古文献によると、宇宙の創造は神代七代にわたったというように書かれています。その過程はまずはじめに七次元神界が創られ、次に六次元神霊界ができ、 ついで五次元、四次元神霊界そして三次元というふうにして、物質界の宇宙が創造されるまで神代七代かかったというのです。 一代といっても実は何十億年という時間ですから、宇宙創造には数百億年かかったということになります。

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点と線の世界が一次元であり、広がりの加わった平面の世界が二次元、そして厚みと幅の加わった立体の世界が世界が三次元世界です。 三次元世界までは物質の世界ですが、四次元界から七次元界までが非物質の世界ということになるのです。


次元界の神々が五次元界に現われてくると霊体を有し、五次元界の神々が四次元界に現われてくる龍体化してご活動される。原則として上の次元の神々のみ自由に下の次元 に行き来でき、龍体化したり、肉体化する。これを天上(あまあ)がり、神上(かみあ)がり、天降(あもる)天下(あまくだ)る、等で出てくるのはこういうことです。

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大豆知識:故出口王仁三郎の「影の参謀」と呼ばれた人物が、元海軍エリート軍人で、退役後大本系の神霊研究に深くかかわった故矢野祐太郎氏である。
日月神示(故岡本天明氏)は、霊統的に、黒住経(黒住宗忠が江戸時代(文化11年11月11日・西暦1814年)に開いた教派神道)・天理教(日本で江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖(おやさま)とする宗教団体である。) ・金光経(安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である)・大本教(この辺りから昼に近い教えになったという)と時代を経るにしたがって発生じた神道系新宗教の流れをくんでいる。生長の家系・救世教系・真光系になる。 そのため、日月神示だけを見ていたのでは意味がよく判らない箇所もある。

とくに、大本の霊的系譜を色濃く受け継いでいることは事実で、岡本天明を筆頭に、何人もの大本神業関係者がこの神示にかかわっている。 中でも、矢野祐太郎の妻・シンと日月神示に関する興味深いエピソードがある。

矢野シンは、日月神示を初めて目にした時、にわかに神憑かりとなり、「これは日の出の神の延長である」という声が肚から口をついて出てしまったという。 そんなシンの亡夫で、元海軍エリート軍人であった矢野祐太郎の偉業は、ほとんど世間には知られていない。

矢野はその後、大本からは異端視されていた福島ヒサ(出口ナオの三女・王仁三郎と対立する)の大門正道会や「肝川」の神業⇒【兵庫県川辺郡猪名川町、当時は中谷村と呼ばれていた山間部で、車末吉の妻小房(31歳) 車小房という、五人の子を持つ貧農の主婦が、細々と暮らしていた。小房は、大正3年の秋に出口直のような神憑りとなり、大声で叫び出した。これらの神示をまとめたのが『由来記』で、その正統性のほどはともかくとして、大正初期の頃の大本は、この肝川と深く関わりあっている。

小房の神憑りの力と啓示は、次第に大本の信者の間でも評判になり、大勢の人が肝川に集まってきたという。やがて肝川は、大本の支部と位置付けられる。 王仁三郎自身、何度も小房と会っていたことは事実のようである。開祖昇天後、王仁三郎が直受した『神諭』(狭依彦注 伊都能売神諭)にも、肝川の名は多く記されている。】のグループなどと接触、それまでの博学な知識や豊富な霊的研鑽を動員して神理の解明に全精力を傾けた。 自らも霊媒的素質があったようで、神霊から直接教えられるということもたびたびあったことが、シン筆の遺稿に記されている。

また矢野は、神意により茨城県磯原の皇祖皇太神宮に接近、今日『竹内文書』として知られる古文献を繙(ひもと)いて、これぞ神代からの歴史の真実が伝えられた書としてその研究に没頭、代表的著作である『神霊密書』(後に『神霊正典』として復刻)の著述を開始するに至る。 そしてこの『神霊密書』が官憲の目に触れて逮捕投獄されることとなり、一千日にも及ぶ堂々の陳述もむなしく、獄中で非業の死を遂げてしまう。死因は毒殺だったと言われる。

ここで紹介しようとしているのは、命を賭けた研究の結実とも言えるの矢野氏がそうした苦労の中でまとめ、「解明」したとされる重層的な神界論である。

日月神示にも、日の出の神とか国常立大神はもちろん、稚比売君大神とか龍宮乙姫とか、雨・風・岩・荒・地震の五柱の神といった御神名が出てくるが、こうした神々の素性については日月神示には記されていない。 そうしたことを知るには、大本の神典はもとより、むしろ矢野祐太郎の編纂(へんさん)物、あるいは、やはり大本創生期に極めて深い関係を持った「肝川」の神業といったものを含めて調べていかないと判らないのである。

以下、矢野祐太郎謹述『神の世界の御話』(発行:神政龍神会/絶版)にもとづき、神霊界の実相について簡潔に取りまとめてみた。 まず、神霊界の段階的な構造であるが、矢野説ではこれを七次元界まで分けている。上記で記述

極めて簡潔に言えば、以上の七次元界に至る世界が、矢野祐太郎の解明した神霊界の基本的な重層構造である。これにより大先生方に受け継がれていく。

豆知識:矢野祐太郎氏は、明治14年(1881)3月15日、東京の築地に産まれた。中学を卒業後には、海軍兵学校へ進学、そのまま軍人となっていった。大正8年には大佐に昇進、大正11年には少佐に昇進するという所で、海軍を辞めてしまい、大本に入り神霊研究に傾倒していく。 大本内部でも、王仁三郎氏の入蒙の歳に、色々と手配するなどの活躍をしていた。

しかし、入蒙の後に、矢野祐太郎氏は王仁三郎氏と袂を分(たもと=行動を共にした人と別れる)か った。その原因はハッキリ分からないものの、矢野氏は大本を離れ、前述した福島久一派の「世界大門」に入り「日之出神諭」の研究に入った。昭和4年10月2日には、矢野氏の奥さんである矢野シン女史に、肝川八大龍神が懸かり「正道会(大門)には一人として、神の御心を理解しうる者が無い」 と伝え、これ以降矢野氏は、大門とも袂を分か って独自に日之出の神の神業を行うようになっていく。

矢野はもともと史学経典(きょうてん)については博学であった。『記紀』はもちろんのこと、『上記(うえつふみ)』『天津金木(あまつかなぎ)』『九鬼(くかみ)文書』及び黒住、天理、金光の各教説、キリスト教は新旧の両聖書に、仏教は八宗(はっしゅう=全ての大乗仏教の宗旨・宗派のこと)の教理に通じていたという。 昭和5年11月6日に「大出口直霊大神」という、昇天後の直子開祖の神名を名乗る神から「棟梁皇祖太神宮(おむやこうそだいじんぐう)へ行け」との神勅が下り、その場所を調べた結果、北荻城の磯原にお宮がある事が判明、同年11月14日に、矢野氏は棟梁皇祖太神宮に参拝に赴(おもむ)いた。そこの館長が竹内巨麿で、偽書(ぎしょ=製作者や製作時期などの由来が偽られている文書)としても名高い「竹内文書」の研究者であった。

同年11月14日、矢野は皇祖皇太神宮に参拝し、管長の竹内巨麿(きよまろ)と会い、『竹内文書』の研究に取り組むことになる。 そして昭和7年の節分の夜、矢野祐太郎自身に、『神霊密書』の執筆(しっぴつ)の神示が降りる。 こうして、矢野祐太郎氏は、竹内文書や奥さんのシン女史(じょし=女性の名前に添えて敬意を表す語)の霊媒能力を使った実験などを纏(まとい)めた「神霊密書」を完成させた。この密書を100部刷り、各宮家や有志に配った。 すると竹田大妃宮から「天皇様に差し上げたい」旨依頼があった。折り良く北白川宮若姫の婚礼の儀で、宮中から使いの女官が往復しはじめたので、この機会に、女官を使って内密に天皇へ御嘉納(かのう)する事に成功した。

しかし、この頃(昭和7年)既に、矢野氏は特高から目を付けられていた。その為ついに、昭和11年当局に連行されてしまった。しかしその内容に、不信な点が無く、正当な理由無しに有罪を立証する事が難しくなり、検察側としては精神病という事で解決をしようと試みたらしい。が、それも無駄に終わり、とうとう監獄の中で、矢野氏は毒殺されてしまった。 昭和13年8月22日夜、悲報を聞いた長男と、中里弁護士は、遺体を引き取りに向かった処、遺体の引き渡しを拒まれた。それでもと、強引に引き渡しを翌日の午後まで、抗議し続けたところ、死因について詮索しない事を条件に、ようやく遺体が引き渡される事となった。矢野氏の遺体は、明らかに毒物によるもので、体のあちこちに、斑点が浮き出ていたという。

『竹内文書』の影響を受けている新宗教教団は、解脱会(げだつかい)を始め幾つかある。先の矢野祐太郎の『心霊正典』を通して『竹内文書』を教義に反映させている。“子供の頃、岡田光玉さんがよく出入りしていましたよ”と述懐(じゅっかい)するのは皇祖皇太神宮現管長の竹内康裕氏。 康裕氏は『竹内文書』類を利用して活動している教団の実情を語り、某(ぼう)書道家によって神代文字がデフォルメ(対象を変形して表現すること。変形(する)されて世に出されたことを嘆(なげ)く。

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●『上記まとめ』

天神第六代の国万創主大神様は御自身と同じ型を持つ人の霊成型を創造された人類にとっての親神様にあたり、その人間が実際に肉体を持って地上に現れてきたのは天神第七代目にあたる天照日大神様の時になります。 国万造主大神様(くによろず つくりぬし)の子にあたる天照日大神様が皇統第一代にあたる「あめひ豊もとあしかび主」を地上に残して神霊界にお戻りになるとき、その太陽のような暖かい御神格を敬い、 五色人が集って天照日大神様を崇めた、それが今日に残っている太陽信仰と呼ばれているものです。

天神第一代の主の神様(別名大根元の神、元無極主王身光大神、宇宙大元霊大身体、ノンノ、カミナガラ、ナムモ、ナアモ、アミン、アーメン、メシア等)から天地万物の創造が始まり、 天神第二代の時間の神、三代の空間の神、四代の火魂、水魂の神、そして神霊界、地上界の創造に六代目の国万造主神、人の肉体化に七代目の天照日大神様が携わり神代七代にわたって万物が創造されたと言われています。
またス神としては人類の物質文明を開拓してゆくためには、人類を直接指導しているヨトヤ神の欲望を引き立てなければなりません。

そしてヨトヤ神の親神にあたる火の霊統等の神々を争わせるように仕組んでいます。国万造主系統の神々を互い争わせた、文献によれば世界各地の物質文化を開く役でそれぞれの大国魂神をエジプトやイスラエル方面等に派遣しますが、 それらの神々が争いを起こすようになります。もともと火(ス)の霊統で現界でも一切の物質を握っておられたのは大国魂神なのですが、これらの神々が争っている間に別の霊統である乙姫の勢力が各地の大国魂の神々を押さえ込んで行きます。 これによって神霊界でも権威の地位にあった大国魂神が乙姫にとって代わって政権を握られるようになり、神霊界でもヨトヤの神々が欲望を発揮しやすい環境が整えらていったわけです。

仏教の方ではではこれを観音という字でぼかしています。観音の音は乙を観るという意味から来ている言葉であり、観音様が乙姫の活動する世をじっと我慢して見るという意味があります。 これが国常立のスメラミコトが艮(うしとら)の金神となってしばらく我慢されるという伝説の元になっています。 乙姫が神霊界の権威を握られたとき、その眷属の神々が乙姫様の弥栄を祈り、正神(火の霊統)封じの為に鳥居を作らせたり、しめ縄(七・五・三とも表記する)を張って正神と人類を接触させないようにしてきた。

(しめ縄は右回りで閉められているので右=水=物の働きを示す)又鬼は外、副は内等と人類に呼ばせてきたわけです。
これを「正神真神天の岩戸に押し隠し」と示し、人類が神様を押し込んでしまって出てこられないようにしてしまっているのだと言います。 乙姫が神霊界で実権を握ると闇という字になります。(乙姫が宮門の中に入って権力を握る)釈尊はそこをとらえて胎臓の世(腹の中のように真っ暗な世の中)と表現しています。

世の中が真っ暗になると、これはどうしても魔道が起こります。人類が三毒を積み、五濁の世を迎えるようになります。三毒とは仏教で言う貧・瞋(しん)・痴のことです。 貧というのは貧しさのことでただ自分だけがよければいいという考え方であり、瞋(しん)とは非常に怒りっぽいということで、すぐに何かと反抗したりケンカしたりするいわゆるキレやすいということです。

痴というのは不平不満ばかりを言って感謝できないことを言います。五濁というのは眼・耳・鼻・舌・身が濁るという意味で、肉体の快楽や肉欲に一生を捧げてしまう、 霊主即神の子ではなく肉主四足獣人と化してしまうということです。神道では真大神の岩戸隠れ、仏教では胎臓の世、キリスト教ではエデンの園(その)からの追放というように、 どの宗教も言葉は違っても同じことを伝えています。


●『最後に神様の御名(みな=御働き=唱えると)を知る者は奇跡をもたらすと秘め事として言われています。 』

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●『総記まとめ』

●まずス神しいうものの存在を考え、理解してください。主神、その御方は、宇宙創造の大本の、絶対神でいらっしゃる。『ス』という言霊は、本来一切を統一し、決定するという 意味をの働きをもっています、主神、すなわち、神道でいう天照皇大神(あまてらすめおほかみ)、仏教でいう梵天、密教でいう大日如来、ユダヤ教でいうヤハエ、キリスト教でいう エホバ、回教でいうアラー、と呼ばれてきた、その大本の神様です。宇宙一切を統(す)べる神ということなのです。初期に「欲心を与えられたもうた」、「欲心」、それは 人類存続のために欠かせない物質世界を形成するための物欲であり、人類はまた、その「欲心」の使途を誤ってしまったのでした。この世、森羅万象(しんらばんしょう)は、神霊界によって統治されているのですが、人類の誕生、そのはじめは、「火の系統の神さま」によって統治されておりました。 「火の系統の神様」は、善一筋で悪を許さないという、強烈な性格の神でありました。しかし、主(ス)神は、一時、神霊界の統治を陰の光を放つ、「月の系統の神様」にゆだねられたのです。

それは、まさに神慮というべきおはからいそのものなのですが、判りやすく言うと申しますと、こうなるのです。人類によって地上に神の世界と同じ天国文明を築かせるためのはからいだったのです。 「月の系統の神様」は、いってみるならば、正神「火の系統の神様」のあくまでも副神・・・。「ヒト、人類はもともとが神の子、神の似姿として作られたのです。ヒトとはW霊止W という文字に書くべきものなんです。副神、W月の系統の神様W(欲心をつかさどる)の統治が進むにつれて、致命的な混乱が起こったのでした」物質文明、その尖端(せんたん)は 科学によるものということになるのですが、人類は、なぜか。自滅兵器、核兵器までを作り上げてしまった。

精華(せいか=そのものの本質をなす、最もすぐれている点)ではなく。しかし、人類が、物質文明の、ゆきどまりというしかない、核兵器を作り上げてしまった事実は否めない。主神は、何度も、人類に警告を発せられてきました。 しかし人類は、やはり、物質文明の方向を間違った方向へとみずから暴走に気がつかない、その時は主神は一挙に天変地異を起こさねばイタシカタない状況になっているのだと啓示されているのです。

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●補足;宇宙創生の神主神は、宇宙を七つの次元(数霊でもお分かりのように七で完成の義)によって構成するように創られた。詳しくは上記説明を参照。七次元から五次元までが神霊界であり、四次元が幽界、 三次元が私たちの住む現界である。この現界が最後に創られたが、その目的は、神霊界とは別に、物質による地上天国の文明を、神の子である人類に創らせようということであった。 そのために、主神は肉体という地球生活用の<宇宙服>を造ってそれに魂を宿らせ、さらに欲心を植えつけて繁殖させ、物質欲による自由競争を開始させたのである。

そういうわけだから、ヒト(人)とは神霊の器であり、霊を止めた肉体という意味で、本来は霊止(ヒト)と書くべきものだった。元来神が地上に降りて全ての経綸を地上の人間に 伝える時には神の分霊としての霊が止まるところの肉体が必要である。この霊の止まる機関が『人』の本当の意味なのである。また、「人間」というと、善悪入り混じった普通の ものだが、『人』というと神の止まるもので、すなわち神の代行者を意味するものである。こうしてヒトは神の子としての清い霊のまま肉体に入り活動を開始したのである。

ところが、物質文明を築くために神から与えられた欲心は、両刃の剣であった。つまり、物質文明を築くためには、欲心はなくてはならないものではあるが、 その使い方を誤って行き過ぎると、「霊主」のあり方を忘れて、他人を殺したり憎んだり怨んだり、物質中心にどんどんのめり込んでいくものだったのである。

しかし主神の計画は、とにかく人類のなすがままにさせ、自分の力でどこまで物質文明を築くことができるかやらせてみる、というものだった。 時代を経るにしたがい、神人であったヒトは超人程度になり、いっそう堕落して人間となった。人間とは、人になるには間がある、ということなのである。 人類の切り開いてきた物質文明は、ことここに到って、物質的には頂点を極めたが、同時に、人類自らの滅亡を招き寄せることにもなった。 主神はその間、人類に何度も警告を発し、人類が自らの滅亡への道に陥っていることを、人類自身が気づくように仕向けてきた。イエスが、また釈尊がこの世に遣わされたのも、そうした意味からだったのだ。

しかし、人類はそうした主神の警告に耳を貸すことなく、来るところまできてしまった。そのため、主神は最後の警告を発せられ、霊的光力の業をすべての人々に与えられることによって、汚濁を極めた現界を徹底的にクリーニングすることを命じられたのだ。 こうして物主から再び霊主への文明原理が始動された。しかし、これによっても人類が自らの暴走に気づかないときには、主神は一挙に地上の大浄化をはかろうとされている。 それが《火の洗礼》という大ミソギハラヒなのである。そうなれば、いずれにしてもこれまでの物主な世界の終末を迎えることになるのは間違いないのである。 そして正しい歴史の認識は平和活動の大きな要だと思います。世界中の人々に宇宙から降臨した我々の先祖の歴史をお読みいただき、宇宙レベルで地球をもう一度、見つめなおしてほしいと切に願っていまス。


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●大豆知識;もう少し簡単にまとめると一番最初、大元の神様が居て、二代の時代にまずは時間の神様をつくる。それから三代の時代に空間、これは霊層界、霊界というもので、 霊界の一番下に現界をつくった。そして四代の時代に火と水を生み出した神様ができる。大元の神様を主の大御神様(ス神ともいう、スの光の神様ともいう)ということになっているわけですが、 そこからたくさんの神様が出来上がっていく。一番先に出来たのが時間の神様、その次は空間の神様、そして火と水の神様、この四大原力をもって宇宙を創造された。

天神五代に至って、四大原力全てを兼ね備えた天一天柱主大神様がこの四大原力をもって、まず宇宙創造をしようという働きが天神五代に始まったわけです。 天神六代の神様が国万造主大神様で、今、霊成型の部分がDNAという研究になってきておりますが、あらゆる森羅万象、万象万物の霊成型をつくり、最後に五色人、 人類の霊成型をつくったのです。そして天神七代の天照主日大神様が、この霊成型通りに宇宙を創造され、創造した地球の上に人を降ろした。

そのようなわけで天孫降臨というものは何かというと、神々がそれぞれ神々の分けみ魂を与えて霊成型通りに人というものが出来た。 これが神が人になったという天孫降臨の言い伝えであり、五、六、七代の神代の宇宙創造の仕組みとして、神道ではこのように言われているわけです。 五六七のみ働き、天地創造の原理が神理正法というものであって、神様のつくられた原理というか簡単に説明すれば神霊界の秘密がこれです。 だから、あらゆる神界から現界まで神・幽・現三界に亘る原理、神様の宇宙創造された原理そのものが五六七の原理であるわけです。そしてこれは七代で完了したのです。

このようにしてタテとヨコを十字に結ぶと、大変な産土力が生まれるようになり、これが回転すると三十字の理というふうになります。 タテ、ヨコを十字に組まなければ神の真力は出てこない。宇宙の繁栄、人類の繁栄を招く事はできないものです。三十字の理(三位一体の原理)により、神は天地創造をなされたのです。 また二つの性質の違うものが十字に組むと大きな力、産土力が発生するという法則があります。火と水が十字に組むと新しい神々が生まれてくる。 その神々が共同作業をして、宇宙創造をしていくというものです。このように絶対神の下に眷属の神々が多数おられます。 これが神霊界の実相であり神理なんです。


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●「神の御意志を実行する」これが人生の目的です。これを「天職」と言いいます。今日はこの天職が忘れられています。  自分に合う仕事のことを天職と言いますが、それは本来は天職と言わずに、日常的に授けられた「生業」と言います。  生業というのは私たちの肉体を養うための仕事のことで、こちらの仕事も大事ですが、生業だけが人生だと思ってしまいがちです。此処の当たりを良くお考えいただきたいと思います。

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●一個の宗教を得てこれに帰依しようというのではなく、各種の宗教の原理を抽出してそれを総合した上、確乎不抜(かっこふばつ= 意志がしっかりしていて動揺しないさま)の真理を把握しようとするとこれまでの結論となるであろう。(又あまりにも追窮するがために、心に独自の宗教を大成しようとする)

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●遍歴者というより「求道者」

実際に、心のよりどころを求めて様々な宗教を渡り歩く人はいる。そうやって入信してきた人を「節操がない」と見る人や、「前の神が妨害している」と見る人もいるが、多くの場合は様々な教えを経てやっと正しい教えに辿り着いた人だという事で好意的に受け入れる事が多い。

●合理主義者は求道者になりやすい

参謀のように合理的な考えを持つ人は明確な答えを求める。しかし、宗教ではそういった明確な答えはなかなか出てこないため、合理主義者は更なる答えを求めて求道者になりやすいのだと思う。 新興宗教の場合は明確な回答を出してくれることが多いため(極端な例で言うと、詐欺まがいの新興宗教では「この壺を買えば病気が治る」など、相談に対し明確な回答が得られる)、意外と合理的な人が没入することもある。

●神棚に二つの神様を祀ることは良くない

例えば医者が患者に薬を処方し、後日その患者の枕元に別の医師が処方した薬も一緒に置いてあるのを見たら、自分は信用されていないと気を悪くするだろう。早くお返ししてくるのが礼儀だと思う。

●『与える』とは、上向きの三角を例にして説明すると、上から下への恵みが与えられる姿、逆の三角は下が上を吹き上げる姿。上の者は下の者に愛と情を惜しみなくどんどんと与え、 下の者はその恩恵に感謝し、 上の者を立てて吹き上げていく。その両者の関係がしっくりと十字に組み合わさった時に、万象は弥栄えていく。上に立つものは、下の者に与えていくみ役。 与えて与えて与えっぱなしにしておけばよい。 下の者はそれに感謝し、報恩をもって上の者を立てていく。上の者は下の者から感謝を受けたなら、それがそのままさらに上への感謝となろう。

それが感謝の極意であろう。下や周りにどんどんどんどん与え、与えっぱなしにし、感謝を受けたら自ずと自分が頂いていることへの感謝ができるようになる。そして究極の『上』は神様であろう。 神様から頂いた恩恵に感謝し、神様を吹き上げるのが神の子人の役目であろう。 神様はそれでどんどん万華(ばんげ)し、御名はますます弥栄えていく。 そういう仕組みである。 だから、皆が一人ずつ、自分の中にこの神護目(カゴメ)の印をしっかりと刻むことである。 神様は天の御父すなわち親で、 人は皆神の子である。だが、人も自分の子を生めば親になる。

その時に、子供に愛情与えに与えて親としての行をしっかり積むことが、神様のみ意に少しでも近づくことになる。神様に対しては人間は神の子であるが、親としての行を積んで親の立場、 神様の立場に近づくこと、それが神性化というのである。いつまでも、神様の恵みに甘え、子供の立場で求めむさぼるだけでは進歩はない。神様は、人間に早くひとり立ちせよと望んでおるのである。人間の親も然るであろう。

●言霊豆知識1;●気体は科学でははっきりつかむことは出来ないので、「たぶんあるべきだ」というところまではゆくのですが、ところが気体よりかもっと奥があるのです。 つまり霊、霊界といって、これが何段にもなっているのです。そこで霊にも上中下といろいろあるのです。その霊の根本というのは光なのです。光の根本は太陽なのです。 太陽の光の根本というのは、太陽の黒点なのです。これがつまり大宇宙の種の芯のようなものです。光力の根原とは。それは何かというと太陽の黒点なのです。太陽の黒点が宇宙の支配力の中心なのです。あそこから力が出るのです。 それでス(○の中にゝ)のゝ(チョン)が太陽の黒点なのです。これがたいへんなものなのです。ですから霊的光力の力の元は太陽の黒点から来るのです。 だからおもしろいとも言えます。それで学者もやっぱり昔から太陽の黒点を研究してますが、遠すぎてそれは到底分かりません。中にいくつも黒点が大きい小さいのが混じってます。

それを総合してみるとチョンになるわけですが、それがなんだということは、学者がいくら想像してみても、それは到底分かるはずはありません。 それで昼間の世界という事は黒点が変化するのです。それで太陽の熱というものは、太陽の黒点から放射されている一つのエネルギーですが、火力というものは太陽よりか黒点の方がもっと強いので、 それは神秘なものです。その黒点の代表者が主神(スシン・スノカミ)です。そこから体に光が来ているのです。だから病気などを治すのは何でもありません・・・このことは神霊大学の講義かもしれません。 それ以上のところまで知る必要はないが、ざっと話してみればそういうようなものです。

●言霊豆知識2 補足;●光力は不純水素の毒粒子を焼いてしまうのですが、その焼く熱度というものが大変なものなのです。ですからここ(掌)から出る光の熱は、それこそ寒暖計では計れない程の熱ですが、ただ熱の霊なのです。 ふつうの熱いというのは熱の体なのです。熱の霊というのは、体ではないから、その熱さは感じないのです。その代わり熱としての力は非常なもので、むしろ無限といってもよいくらいなものです。 霊的光力の原理は、分かりにくい点があるだろうと思います。その一番分かりにくい点は火素の力です。急所というのは曇りです。曇りというのは水素の中にある不純物で、毒粒子ですが、この毒粒子は細かくてとうてい顕微鏡では見られません。 それをここ(掌)から出す火で焼くのです。水の中にあるものを焼いてしまうのです。ところがこの場合の水素というのは、ごく微粒子で、希薄なものです。それでこっちから行く火素の熱度というものは大変なものです。

原子爆弾よりももっと高いのです。だからこの火素の力に遭えば、原子爆弾でも大丈夫なのです。また、それは物質ではないので、物質なら限度があるから弱いのです。原子爆弾でも、その力というのは弱いのです。それでもっとも強い力というのは、もっとも物質的でないものです。 要するに目に見えず感じもしないという、極希薄であればあるほど力は強いのです。ですから一番強いのは風の力です。風というのは大きな家でも倒したり吹き飛ばしますが、これは一番目に見えないもので、おそらくどんな大風でも目に見えません。 見えるとすれば、それはホコリとか他の物質が見えるのです。風そのものは絶対に見えないのです。その見えないものがそれほどの力があるのです。ですから希薄なものほど強いのです。

考えたものを物質に現わす場合の働きが言葉ですから、言葉のほうはそれ以下という事になります。そういうようで、目に見えないものほど力が強いのです。それで一番目に見えるものの力は馬力という馬の力ですが、これは一番良く見えます。これがいまの霊的光力の原理の急所というわけです。 このことはちょっと難しいのですが、一通りは知っておかないと、ああいう事を聞いたり読んだりした時に、全然分からなくてはしようがありませんから。今の科学でもっとも進歩した説は素粒子論というのですが、素粒子というのはうまい言葉を使ってます。 「素」というのは粗いという事で、つまりまだ仕上げが出来てないというわけです。物質のもっとも細かい、その物質の粒子を素粒子というのです。ところでこれも最初は湯川博士が理論はそうだという考え方だったのですが、宇宙線撮影のときに、写真に六つか七つ写って、それが素粒子だという事になったのです。

次に物性というのは、物の性、つまりこれは霊で、一つの気体です。これはたぶんそういうものがあるだろうという想像なのです。それが粒子科学の今一番進歩した説なのです。ところがその物性粒子よりまだまだもっと細かいものがいくらでもあるので、さっき読んだとおり無限なのです。 そこで今の物性粒子より先に行くと科学では分からない、というよりか、どうする事もできないのです。つまり顕微鏡がもっと発達しない限りしようがありません。そうなると一つの気体になるのだから、気体は科学でははっきりつかむことは出来ないので、「たぶんあるべきだ」というところまではゆくのですが、 ところが気体よりかもっと奥があるのです。つまり霊、霊界といって、これが何段にもなっているのです。そこで霊にも上中下といろいろあるのです。その霊の根本というのは光なのです。光の根本は太陽なのです。太陽の光の根本というのは、太陽の黒点なのです。 これがつまり大宇宙の種の芯のようなものです。しかし天文学ではこれはとても分からないのです。黒点は一つに見えますが、いくつもあるものです。


●光についてもある程度知っておく必要があります。要するに、つまり光と光の戦いです。邪神の光と神様の光との戦いです。邪神の光というが、邪神にも光はあるのです。 今のレントゲンの光は邪神の光です。ですから光の喧嘩です。ところがあれは邪神の作ったものだが、邪神にもやっぱり偉いのと偉くないのがあって、だいたい神様の方の光を押さえる偽の光というものがあるのです。 しかし根本において違うわけです。では邪神の光はどういう働きをするかというと、固める働きをします。今までのいろんなこと、霊術師とか宗教というのは固める力なのです。固める光です。つまり邪の光、邪光です。

だから今までは信心してよく病気が治る場合もありますが、それは固める治りであって、溶かす治りではないから、御利益があったと喜んでいても、こっちで治すのと違い、いろんな排泄物は出ないから、一時治るのであって、 根本において医学と変りはありません。物質的光です。だから固める光というが、固める光というのは月の神様から出た光です。ところがだんだん霊界が昼間になってくると、固まらなくなってきたのです。

そこで既成宗教というのはだんだん病気が治らなくなってきたというので、どんな宗教でもみんな病院を作った原因なのです。そういうようで、これからだんだん霊界が明るくなるに従っていよいよ治らなくなるという事は、最近医学の方でもだいぶ現われてきてます。 最近の新聞に出てますが、レントゲンを扱った人がだんだん死ぬというのです。その死に方がだんだん早くなります。結局少なくとも、もう数年ならずして扱う人はなくなるかと思います。それまではレントゲンというものは固める力ですから、実によく固まります。

それは石のように固まってしまいます。・・・その固める力は素晴しいものです。ですから今までの信仰でも放射線療法でも、固める事が効果があるという事で用いられたのです。それがだんだん固まらなくなり、それでレントゲンを扱う人がそうなるという事は、 固めたものが溶けるから死んでしまうのです。それから溶ける前にはいっそう固まるという事もあるので、これは心得ておかなければなりません。たいてい肩などが溶ける前にはよけい固まるのです。それから霊的光力してかえって固まる事があります。 これはある程度固まってから溶けるという事が一つの原則なのです。それは少ないですが、ごく固まりきったものは溶けるのに楽なのです。というのは固まりきると、強い熱が出るのです。それからだとよく溶けるのです。ですから溶けるのも限度があるのです。 ある程度まで固まって、それから溶けるのです。

●つまり掌から出す光はレントゲンが通らないという事は、光が細かいからです。レントゲンの方はもっと粗(あら)いのです。そうして力というものは細かいほど強いのであり、 粗(あら)いほど力がないのです。・・・ですから掌から出る光は、光としては一番密度が細かく、濃いのです。 それでレントゲンの方は粗(あら)いからして通すことが出来ないのです。つまりそういったものは細かいほど高級で上等なのです。 だからうまい事を言ってますが、素粒子といって、「素」というのは粗(あら)いという事です。素粒子というのは細胞の小さいものです。

それで物性子というのは、物の性質の原になるもので、これは目に見えないものです。これを見ようとして実験科学をこれからやるのですが、 これをつかまえる事はできようがないのです。だからどうしてもこれをつかまえるには、顕微鏡で見えない世界に入るよりしようがないので、 その世界というのは宗教の世界です。この宗教の世界といっても、今までの宗教というのがごく下の世界なのです。だから今までの宗教は科学よりかもっと粗いのです。 科学が素粒子を発見したとすると、今までの宗教は素粒子よりも粗いのです。大素粒子です。なぜといって、各宗教では今病院を造ってますが、ということは、 もう科学にお辞儀をしているのです。科学との戦いに負けているのですから、負けたほうは粗(あら)いのです。つまり宗教のほうは素粒子まで行ってなかったのです。

結局科学との戦いで、科学が今までのように進歩してないうちは、宗教の方が勝ったのです。昔からの古い宗教はとにかく多くの人を救えたのです。 ところが今は宗教の方が力がなくて科学の方が力があるから、そこで無神論者が増えるのです。それは科学をやれば無神論者になります。 科学を勉強した人だと無神論者になりますが、それはそうなるのが当たり前です。そこで科学をやっつけっれるのは霊的光力よりないのです。

これは素粒子よりずっと細かいのです。レントゲンで通すことは出来ないのです。・・・湯川博士という人は割合に信仰心のある人で、 結局科学も窮極(きゅうきょく)は神だという事を言っている人ですから、割合に分かると思いますが、そうかといって、科学者が宗教家に頭を下げるのは、どうも体裁が悪い、 体面上具合が悪いですから、簡単に頭を下げるというわけにはゆかないが、これからの窮極に対するヒントを与えるという事になりますから、 よけいな無駄をしなくてすむわけです。そのヒントを得るという事はどういう事かというと、研究を変えるという事です。しかし研究を変えるという事は、 医学は科学では駄目だという事です。他のことは科学で結構なのです。いろんな機械にしろ、原子科学とかはどこまでも進歩させなければならないのです。

ただ人間は他の物質と違うという事が科学ではまだ分からないのです。
というのは人間は非常に高級な動物だから、人間の病気を治し、生命を延ばすという事は、 人間以上の力を持たなければ出来ないのです。ところがそこらにある物質上の発明、電気や動力というものとは、ぜんぜん段が違います。 ところがそういうものと人間の体、人間の病気、生命を同じに見ているところに、たいへんな間違いがあります。その認識さえ出来れば、 科学者は医学の研究をやめて他の研究を一生懸命にやれば良いのです。そして霊的光力ですが、霊射(霊的光力)で治す事も、ある期間までです。つまり霊射(霊的光力)とは薬毒をとる方法ですから、 薬毒を入れないようになれば霊射(霊的光力)の必要もなくなるから、薬毒を入れないという真理さえわかればよいのです。

●霊的光力は光の霊です。ですから、ピカピカ目に見える光は、光の体なんです。で、光の霊は、目に見えないが、光の体より強いんです。 光の体だけなら、レントゲンとか電気とかでやれば治るわけなんです。光の霊と体は、反対の働きをするので霊の方は毒素を溶かすんです。 体の方は固めるんです。ですから、レントゲンとか太陽灯は、光の体ですから、毒素を固めるんでレントゲンなんかかけると、豆粒のようにコチコチに固まるんです。 霊の方は溶かすんです。それで、これ(霊的光力)でやると、霊が行って、霊の曇りを溶かすんで溶かすと黴菌が発生しなくなるんです。霊の曇りというのが黴菌の因なんです。 ですから、こう(霊的光力)やることは、黴菌を殺すことでなくて、黴菌の発生源をなくすることなのです。

●今までのいろんなこと、霊術師とか宗教というのは固める力なのです。固める光です。つまり邪の光、邪光です。だから今までは信心してよく病気が治る場合もありますが、 それは固める治りであって、溶かす治りではないから、御利益があったと喜んでいても、霊的光力で治すのと違い、いろんな排泄物は出ないから、一時治るのであって、根本において医学と変わりはありません。 物質的光です。だから固める光というが、固める光というのは月の神様から出た光です。ところがだんだん霊界が昼間になってくると、固まらなくなってきたのです。 そこで既成宗教というのはだんだん病気が治らなくなってきたというので、どんな宗教でもみんな病院を作った原因なのです。 そういうようで、これからだんだん霊界が明るくなるに従って、いよいよ治らなくなるということは、最近では医学の方でもだいぶ現われてきてます。

●レントゲンでは骨を通すことはできませんが、霊的光力の光は骨でもなんでもドンドン通してしまいます。

●言霊豆知識3;本当の力とは神力です。経緯結んだ火と水の力です。「カ」は「火」で、「ミ」は「水」ですから、「カミ」の力です。 この力を行使したという人は世界肇(はじ)まって以来ないのです。それで言霊から言うと「シン」の言霊返し(最初の文字と最後の文字をつなぎ合わせる言霊=ローマ字で書くと分かりやすい。SI N =Nはつまると う となる=U でSU=ス)は「ス」になりますから「神力」は「主の力」とも言えます。 それでいつも「ス」は○にチョンと書きますが、チョンが火で、丸が水になります。太陽の黒点はチョンになります。黒点というのはあらゆるものの一つの力の根原、精気の根原と言ってもよいです。 ですから一切を支配しているのです。それから宇宙の中心と言っもよいでしょう。それで太陽の熱度というものはたいへんなものです。 学者はあの黒点を研究してますが、それは今言ったことなのですから、別に研究の必要はありません。

この太陽の黒点のチョンがたいへんなものです。つまり宇宙の魂です。果物なら種です。それで今までの世界はチョンがなかったのです。 丸だけだったのです。要するに空だったのです。それでいよいよ世界にチョンを入れるわけです。ヽなのです。


●言霊豆知識4;今の宇宙科学は最終目的は月の世界に行くことだそうですが、月の世界は学者には本当に分からないため、月の世界に行ける、地球と大差ないように思っているらしいのです。 だからロケットを作ったり、その中に空気を溜めたりして、そういう研究をやってますが、実に子供がオモチャを作っているようなものです。 月の世界というのは氷の固まりですから、その冷たさというものは、太陽の反対ですから、零下何度という簡単なものでは分かりません。 ぜんぜん熱がないのですから、もし行けたとしても、行った瞬間、月世界の手前まで行った瞬間凍りついてしまいます。

●言霊豆知識5;今までの宗教というものは幼稚なものです。ですから本当を言えばキリストでも釈迦でも、それはまだまだごく子供みたいなもので、幼稚なものです。 しかしその時分には、やはりそれほど深い所や高い所を人間に知らせる必要がなかったから、あの時代の人間にはああいうような説き方でよかったのですが、 もうそんなことを言っては追いつかないからして、結局、時がそこまで進んだわけです。 文化がここまで進んだということは、もうそういうことも知らせなければならないという意味もあります。 他に悪魔(邪神)の方の関係もありますが、それは別の話になりますが、今は科学、文化の発達の先をお話すわけです。 そういうわけですから、もう近い将来、ある時期に行くとだんだん分かってきます。

最近アメリカでは「今の医学は駄目だ。医学でないもの、そういった薬とか機械を使わないで治す方法を研究しなければならない」と言っている一派ができたそうですが、 だいぶ近づきつつあるわけです。それから浄化も、本当の浄化が強くなって病人が至る所に続々出て来ております。 霊界が明るくなるその順序から考えてみると、少なくとも二、三年先になって著しくなり、はっきりするというような順序になってきつつあります。 これは最近はっきり分かりました。ですから結局今は神様はその準備を抜け目なくされているのです。

これらは時の進むに従ってはっきりするのは、やはり時が来るとそうなってくるのです。ですからとにかくおもしろいものです。 それで神様の方は早過ぎもせず遅過ぎもせず、ちょうどうまい具合にやるのです。


●言霊豆知識6;そこで科学の方では、その霊を認識しなければならないという手前にまで来ているのです。 で、薬や機械で病気を治すということは、実に低級な未開人的なものです。それを薬などをありがたがってのむということは、これが二十二世紀ぐらいになってみると、二十一世紀の奴はナンテ幼稚なものだったか、 実際あの時分に文明とか文化と言ったが、実際哀れなものだと言って笑うことになります。ただそれを咀嚼(そしゃく=物事をよくかみ砕き、味わうこと。)するだけの頭脳が今の人にはできてないから、なかなか難しいのです。 けれどもやはり真理ですから、一時は分からなくても結局は分かることは間違いありません。ただそれまで時を要しますが、それを証拠立てるためにこうやって病気が治るということを見せているというわけですから、 その点から言えばそんなに難しくはありません。

●宗教の教えまたは祈りによって光明を受け、今まで眠っていた魂が目覚め悔い改め、善を想い善事を行なうに至り、魂の輝きによって毒微粒子の衰滅となるのである。 以上は宗教の科学的説明であって、ここに到っては唯物科学もなく、唯心科学もなく霊体一致の科学であり、今や来たらんとする高度の文化時代の科学の真相である。

●元来 万有の構成原理は、人間と人間以外の一切とは、根本的に立別けられており、本質ももちろん異っている。 それというのは元来 人間は地球の王者であり、支配者であるに対し他のあらゆる物質は、ことごとく人間に隷属(れいぞく)しており、人間の自由意志のままに動かされ、 人間の肉体を保護し、人間生存上必要なそれぞれの役目を果しているからであって、分り易くいえば主人と家来との違いさである。 この理によって人間以外のあらゆる物は、人間が作った科学によって思いのままに変化させ進歩させることが出来るのは当然で、それがため現在のごとき素晴しい文明が構成されたのである。

しかも最近に到っては原子科学というような驚くべき発見がある等々、これら現実を見る人間は、ついに科学一辺倒となり、何物でも五感に触れないものはことごとく非科学的と言う、 今日の人間にはお誂向(あつらえむき)の魅力ある言葉をもって抹殺してしまい、これが社会通念となっているのである。 特にこの考え方が智識人に多く、文化人のマークとなっている程で、形は異(ちが)うが迷信邪教信者と何ら撰(えら)ぶところはない。

その結果科学の分野に非(あら)ざる人間生命の問題にまで立入ってしまった。それが医学であるからむしろ僭上沙汰(せんじょうざた)といっていい。 そのような文化的侵略者たる医学としたら、真の医学ではないことはもちろんであり、このような非医学をもって生命の神秘を暴(あば)こうなどは、木によって魚を求むるのと同様である。 この意味から医学の誤謬に対し、事実をもって彼らの眼を開かせ、真の医学を教えるので、これが神の意図(今までは真如で教えてきたがこの度は、ある程度はこの人間界に公開するということである)である。つまり病だけは神の力以外地球上に治す力はあり得ないのである。

●言霊豆知識7;霊界における太陽の精気、黒点の精気が非常に強くなりますから。 あれは学問の方では十一年目に黒点が強く現われるということになってますが、黒点が強く現われるということは、これが十一年目にこういうように開くので、強くなるのです。 あらゆるものは一定していないのです。すなわち呼吸運動が行なわれているのです。太陽もやはり呼吸運動が行なわれているのです。十一年目に一回行なうのです。

黒点は十一年目に増大するといわれているが、増大する時ははく息が極点に達した時である。また今までよく言われた、月の光は太陽の光の反射であるとされているが、 同様太陽の燃えるのは、月からの水気による事を知らなくてはならない。また、月は二十八日で盈虧(えいき=月が満ちたり欠けたりすること)がすむが、これも月の呼吸運動である。

拡がったり、つぼまったりする呼吸です。それはなんでもそうです。太陽でも月でも地球でも呼吸運動をして、それによっていろんな変化が起こるのです。 春夏秋冬の四季も呼吸運動の小さなものです。地球は一年に一度の呼吸ですが、息を吐くときが春から夏で、吸うのは秋から冬にかけてです。 だから春からは上に昇り、秋からは下へ降り凋落(ちょうらく)するのです。地球は火の塊りで、それが息を吐くんだから暖かいわけです。

地球は一年に一回呼吸するのですが、息をはき始める時が春で、漸次吐きつつ極点に達した時が夏である。 地球の吐く息も人間と同じように温かい。それは地熱の放散によるからで、春になればそれが濃く、万有は生育しはじめ、まず草木が萌え始める。 あらゆる物は上方に向かって伸び、人間も浮き浮きする。 夏になるに従い草木はいよいよ繁茂し、極点に達した時、今度は地球が息を引き始めるから、草木は凋落(ちょうらく=花や葉がしぼんで落ちること)し、万物はすべて下降状態となり、人間も冷静になる。

それがまた極点に達したときが冬であって、これが大自然の姿であるが、地球が吐く息は地の霊気で、科学でいう窒素であるから、草木が成長するのである。 この窒素なるものは、不断に上昇しつつ空気の存在する高さまで上昇集積され、雨によって再び地中へ還元する。 これが天然の窒素肥料である。この意味において、空中から特に窒素を採り、それを肥料にすることは過(あやま)っている。 なる程、一時は窒素肥料によって作物の収穫が殖えるが、長く持続するときは、土壌は窒素中毒を起こし、痩土(やせつち)と化す。 その理由は、窒素過剰結果として土壌自体の活動力が鈍化するからである。

火は水で燃え、水は火によって流動するという意味があるのです。太陽は月の水気で燃え、月は太陽の光で輝くのです。 太陽の黒点はその呼吸であり十一年目ごとに大きくなっているのです。太陽はまた男であり月は女になる。 西洋は麦であり東洋は米を主とするが、これも陰陽になっており、月が満ちたり欠けたりするのも呼吸です。 黒点が大きくなるのは息をさかんに吐くのだからすべてのものが育ち、また太陽の精気が強くなるから浄化も強くなり、いろいろなことが起るのです。

月は地球より早く一日一回ずつやっている。人間の肉体は月の精であり、人間の霊は太陽の精です。肉体に関係ある字・・・例えば腕とか腹とか脳とかが月偏なのはこのためです。 ところが心臓の心は月偏がない。これは「火」が「心」に移ったからです。これはみんな神様が作らせたわけなのです。こんなふうに月の霊線が肉体に連なっている。 だから月の満欠が肉体に関係するのです。死も同じです。

十一年目に一度とか、百年目に一度とか、千年に一度という大きな呼吸もあります。哲学のような天文学のような話になってしまいましたが・・・。


○一休み;生れる時は上げ潮、死ぬ時は引き潮である。人間の肉体はすべて月が支配している。日と月がすべての元である。人体の七割は水で、熱は心臓である。 火水で光になる。光のみでは力が薄い。土(肉体)を通して火水土となる。大自然に習うのである。

心臓は火素、肺は水素、胃は土素を吸収するが、人間の身体でいうと、太陽の出没は心臓の鼓動、月の盈虧(えいき)は肺の呼吸、地球の四季は胃の蠕動(ぜんどう)ともいうベきで、心臓は太陽の霊気を吸い、 肺は月の精気を吸収し、胃は土の精分を採る、月が二八日で盈(み)ちたり虧(か)けたりするのは肺の呼吸にあたります。これが医学の根本である。

人間の中心が臍(へそ)になる。だから臍はたいへんな働きをする。目に見えない働きをしてるわけです。臍は人間の胆力、勇気を出す所なんで、つまり神道で言う荒魂が臍に当たるわけです。 眉間を天帝と言いますが、上の天帝と下の臍とで天地になるんです。天帝は奇魂になるんで、天帝から智慧、臍から勇気です。天帝で考えて臍で「やれ!」ってわけです。だから中心になるんです。 日本は龍神の型をしてますが、富士山が日本の臍になるんです。だから、富士山はただいい格好をした高い山というだけじゃなくて、非常に重大な意味があるんです。


●言霊豆知識8;大体病気というのは黴菌が今は二十万倍まで見えるというが、これが千万倍、一億万倍となっても、もっと細かいのです。 それはなんだというと無限なのです。これはちょうど大空の広さが無限なのと同じように、小さいものもまた無限なのです。 ですからして病原というのは無限なのですから、顕微鏡が発達しようと、どんな機械ができようと、それは分かりません。 それはちょうど大空の壁を発見するようなものですから、分かるはずがありません。 ですから医学が科学的に研究してもなにもならないので、害を与えるようなものです。結局は霊だからなのです。

●言霊豆知識9;最後に宇宙構成は火は水で燃え、水は火によって流動する」という意味があるのです。太陽は月の水気で燃え、月は太陽の光で輝くのです。 太陽の黒点はその呼吸であり十一年目ごとに大きくなっているのです。太陽はまた男(陽)であり月は女(陰)になるのです。

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●『全宇宙の成立ち全総記まとめ』

◎天神時代(神代七代)の御作業

天地創造期の一番最初の状態、その一端を知る為にまず日本の本当の古代正史、神代文字で書かれました古代正史を、古代史を紐(ひも)解きますと日本の古代神道の精神と天地創造の神のみ意の関係がハッキリしてきます。

●天地倍判

要するに多くの神生み、神生みと申しますが、天地創造する即ち人類を発生せしめる前に、天地剖判という言葉で、神道の言葉でいきますと宇宙倍判、天地倍判というのがある訳です。要するにまず宇宙というものの構成、 それから太陽系の中におきますところの天地の天地(あめつち)です。天地倍判を分けるとこから始まった。

それから霊質から物質を造るところの世界、即ち霊界と物質界を造る担任の神様が出現しておられます(火と水の精霊、火魂、水魂の神のこと)。それからその中に今度は地球を中心にした色んな工作が綿密に行われている訳です。 そしてそれらの神々を沢山が担任の神々によって、玉子の白身みたいなあのドロドロしたヌルヌルした、透き通った地球のまだ固まらない内にあらゆる植物、草種木種の神から先ず御配置になって、そして魚だ、 果物だというものが一杯できあがって、最後にそれらの経験を集約されまして初めて所謂(いわゆる)神の代行者をお造りになる。

●人の生成

人間の霊成型(設計図の意)をお造りになります時に、造らせる時に元無極躰主の神即ち大御親大根本と文献では申し上げている親神様、丁度親神様が国万造主の神様に命じておられます。 汝等神々と同じような霊力はいらない。
大霊力はいらないんだ。しかしながら物、物質ですね、物を動かす、動かすという意味が太古の動かすという意味でありますが、一切の物質の開発からそれに技術を加えることから、 加工することからそういうようなことを全部ひっくるめた意味のものです。即ち物を動かす力においては汝等神々に勝るものを創れという御神勅、バイブルで言えば契約を国万造の神とされるわけです。 即ち御神勅を下すというのが、これが一番最初の、日本の神勅でもおそらく一番最初の神勅です。

そこで国万造主の神様が初めて霊質から人間を造るということになるわけですが、チョッとやソッとでは行きませんけれど、とにかく何億年かかって木種草種の神々に木、木まで造らせる。 その時にこの星種の神か出現されまして、星の配置、天体の配置をせしめられる。

というようなところから万象をお創りになったそれらの全知全能を傾けて、今度はその神勅に取りかかられる訳です。そして初めて人間の成生時代が起きる、即ち人の霊成型から、 万象の成生が終わって人の霊成型を造っている、霊成型を造っても今度は人を肉体化させなければならない。

これもあらゆる霊質からあらゆる物質をお造りになった。その今日で言うところの所謂(いわゆる)新しい科学と言いますか、原子核、物理学、素粒子論とかいう今日では非常に細かな理論があったことが、 今ようやく人間は知るようになりましたが、既にその原理であらゆるものを物質化した。その又チエ、それを全部集約されまして神の子人類というものの肉体化運動までされたんです。

ですからそのことが詳しくバイブルにはページがなかった訳じゃないでしょうけれども、それらの物語は省いて全知全能の神がチエを絞り上げて「人を神の姿の如くに造り給えり」に続いてくる訳です。 ですから日本の記紀よりはかえってバイブルの方が正しい日本、人類正史というものを伝えていると言える。

そこで一番最初にお創りになっているのが火の神様ということがここでよく分かります。この「火」というのは日玉の神で要するに火の精霊である。即ちタテの働き、 陽の働きをするところの所謂(いわゆる)陽光を放つ光の神をまず出現せしめておられる。

それから天日言文造主大神(アマヒ コトフミ ツクリノシ オホカミ=言霊)、と天神第7代前期の天照日大神(神代文字製作=アヒルクサホ文字)とによってつくられた即ち言霊と文字を造る神様。日本にはもう初めから天地創造の時から言葉の神がまず出現しておられる。

●時間空間の神

ここに時間、空間の神というのが出て参ります。時間空間の神という意味は、まず時間の神というのは同時に物質界を成生する霊質から物質を造るところの化学変化を起こす神様とか、 それから空間の神というのは空間というものが永遠に空間と時間を規制されていきます神様になります。 空間の神の方は今度は霊質の方を造る神様。霊質界を造る神様のみ役をしておられます。

●国万造主大神

それらの準備が整って、火の神様をまず第七次元に出現させておいてから国万造の神様が生まれられる、お生まれになっています。また奥様がいらっしゃいます、女神がいらっしゃいます。 そして最初にこの神様がご長男で出られますと、それから今度は月の所謂(いわゆる)水の方の精霊、火の精霊、水の精霊。月の性格を持った水の精霊をまず発生せしめる。 これが天地創造の一番の大元になってくる。これを両方お持ちになっておられますから、天地創造の神様のことを「カーミ」カーミの「カ」は「ア」、音韻学上転韻しますから「アーミ」とも言う。 「アーム」とも言う。そのようにして神のみ名が出てくる訳です。

そこでこの時にはコッチ(火と水どちらかという意)、火の神と水の神に化けたり、これは変化しておられる。所謂(いわゆる)「天地を陰と陽に分かち給えり」とバイブルに出てくるのは当然である。

●天照日大神

それからこの神様から天照日大神様という今度は今で言うニニギノミコトが出て来ます。そして今度は太陽と月の神、これの出現期が来る訳です。

ここで気を付けなければならないのは、最初のときにその次にこのまず七次元界で天照日大神と、六次元界で天日言文造の神というふうにまず文字と言霊を造る神を造っておられるということです。 即ちそれが正しくバイブルに伝えられておられる。即ち「神は言葉なり」あるいは「太初に言葉有りき」というような旧約聖書に出て参りますが、実に太古史を正確に伝えています。 ただ細かいことがバイブルでは書き得ない。

●バイブルの天地創造の七日

そこで天神第一代の七次元の神様のおやりなりました作業、それから六次元の神様の作業というように書かないで一日にしているというだけ。 七次元の神様の御作業が七日にしてあるというだけであります。実際問題としてそんな一日で出来るようなことは有り得ない。原子核物理学から意っても有り得ない。 とにかくココの間は現人神の出現まではまだ計算出来ませんが、少なくとも数百億年を使っておられるというように実際の歴史ではでて参ります。 だからとても七日では出来ない。正直言って出来ない。しかし要するに七次元・六次元・五次元・四次元・三次元・二次元・一次元というように神の出現の段階としてはハッキリ七日にしてあります。

ご承知のように天地創造をすっかり終わってそして人間の霊成型造りも終わって、それから天御光太陽貫王日大光日大神 (アメミヒカリオオヒナカキオウヒオオテルヒオオカミ)または古文献では ヒタマオオヒナカオオキオオミ光の神「たま天のみ光太陽(おおひ)(中断)」中という字を高いという字に書いてあります。 意味は高い、タテの働きをするという意味なんです。 「(続き)おお日大神大光日天神(おおひおおみ、おおかみおおひかりひあまつかみ)」非常にお長い名前です。又名天照日神または日の神と称える。 略するということが古文献に出て参ります。

従ってここで初めて太陽の神が出現をし、この太陽の神様が霊成、国万造主の神様お造りになった霊成型、人間の霊成型を肉体化してできあがりましたのが、 今の五色人の先祖、五色人(五=ヒト、フタ・・・イツのイです。色=いろのいです。⇒いろびと)と言います。これをイロビトと言うんですが漢字で五色人と当ててあります。即ち五色人が発生しておられるわけです。

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日本の国を造られた神様⇒大国主神様、アメリカの国を造られた神様⇒恵比寿(エビス)神様、ギリシャの国を造られた神様⇒阿弥陀(アミダ)神様という。

天神七代から世界の八方に天降りして世界を分治したとされる神 八方八降神(ヤモヤクダリシン=国狭槌尊=クニサツチノミコト=ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの神々であったという)此の神々の偉大な業績を讃える『呪文』であるとされている。

豆々知識1;一年に一回の言霊、『あいうえおかきくけこ・・・大きなお声で「ン」と上げます。つまり四十八の神の一体化したお力で永遠に護り賜え〜!

豆々知識2;実は日教組は日本の歴史を潰そうとしているので御座います。だから今の若い人たちは、日本の歴史が解らないし、日本が神によって創られたことも知らないで生きているのです。

●豆々知識1;人間の体は現界に呼吸しており、霊は霊界に生きている以上、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが肉体に映るのであるから、人間の運命のその根本は霊界にあるのである。 そうして霊界も現界と等しく、上中下多数の段階になっており、これを分ければ大別して三段階になっている。その内の一段が六十階、それが三分され二十段ずつになって、合計百八十一階級である。 そうして一は主神であるから、主神以外はいかなる神様でも、百八十の中のどれかの段階におられるのである。右は経(たて)をいったものであるが、今度は緯(よこ)をいってみると、 緯の広がりの一つ一つの段が、地獄から天国までそれぞれ異っているから、仮に現在自分の霊とすると、下の六十段のそのまた下の二十段にいる場合は、最低地獄に相応するから、 これ以上ない程の苦悩に満ちた世界で、これが体に映って苦境のドン底にある訳である。

またその上の二十段に上ると幾分楽になり、そのまた上の二十段はもっとよくなるというように、それぞれの段階一段一段その苦楽の異うのはもちろんである。 それで右のごとき下の六十段を突破すると、今度は中の段階になる。すなわち中有界、八衢であるから、現界に相応するので、 そのまた中から上の六十段へ入ると、ここは天国であるから天人の地位となり、歓喜悦楽の境遇となるのである。

右のようにその人のいる段階そのまま通りが運命となるのだから、一段でも上に行くよう心掛けるべきで、上になる程益々苦しい忌わしい事がなくなり、幸福は増すのである。 つまり浄化すべき苦痛の必要がなくなるからである。だから人間は霊身が下段にある間は、どんなに智慧を振い、骨を折っても駄目である。

というのはこれが神の天則であって、霊主心従体属の法則も厳として冒す事が出来ないからである。 ゆえに幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに霊的光力の大いなる意義があるのである。

●豆々知識2;神と波長を合わせとは神理正法(しんりせいほう)という法(のり)となってきます。これが天意、神意となります。したがって、人間もその正神のみ意(こころ)に合わせなくてはなりません。 意(い)を乗り合わせなくてはならないのです。だから、み仏のみ意を成就しようと思っても、神のみ意に合おうと思っても、 この大元を失っては祈りにはならないのです。

言い換えると、神と波長を合わせるということは永久に不可能です。

●神と魔釣りを真釣り戻すには、アヤマチで曇った心を綺麗サッパリ掃除することが唯一絶対の条件である。体主心従霊属の魔釣り世を、霊主心従体属の真釣り世に、一気に立て替え立て直して、末代倒れない真コトの真釣りの神の世に戻す、それが、元つ大神の最後の大掃除である。 あなたは、真釣り戻すために今世に産まれたのであるが、今のあなたが何をしているのか、よく考えてみることである。真釣る順番を逆さまにして、水(小天)が、支える火の如く振舞って水(カタチ)を支配すれば、真コトの火(支え)が消えた水(カタチ)ばかりを追いかける世界となる。 水(物質・女・陰・・・)と水(物質・女・陰・・・)が組み結んでも、やがてはすべて流れてしまう。順番とハタラキを間違えて世を進めれば、その世はすべてが滅ぶ宿命を持つ。全くの逆さまであるから、アヤマチを持ちすぎているほど、知識がありすぎるほどわからない元つ仕組みである。 心のアヤマチを一つ残らず捨てることが自分の命を救う唯一の術である。

●豆々知識3;三毒五濁を人間は自ら浄め得ないわけですから、神様のほうは仕方がないからミソギハラヒをしなければならないことになってまいります。そうなりますと、そこには人間のほうから見ればいろいろの「アガナヒ現象」が生じてくる、ということになる。 いわゆる“四つアの世”になってくるわけです。アバキ、アガナヒ、アガキ、アカナヒの世である。神様はどんどんアバいて、人類をどうしょうもないように行き詰らせていく。 行き詰まらせるよりほか、反省なり、サトリなりしようがない低次元生物化してしまった以上しかたがない。したがって、人間の理論では行き詰ってくる。それが学問の世界では、全学連が型として出てきているのも、その一つである。経済界に通貨不安を招いてきているのもそれです。 人間の経済理論では、どうしても行き詰まらざるを得なくなる。神様はそのような型をあらゆる面で示してゆかれ、その度合いを次第にキツクして行かれるわけです。

それから、神理正法を知らずにいれば、神の戒告やご先祖の戒告などで、わけのわからない交通事故、その他の異常現象が起きたり、火事が起きてみたり、いろいろな不幸現象が起きる。医者にかかればかかるほど病気は治らず、金や時間ばかり使わなければならない、というようにして、 すべての面で人類を行き詰らせてみようという神の経綸になってきてしまう。
現にそうなって来ているのです。それを神様はアバキサバキの世とおっしゃるわけです。 また、宇宙の火の気が強くなりますから、邪霊のほうはアガキだし、一層不幸現象が起きてくる。浮きっ放しの人が増えてくるから変質者がたくさんできる。したがって凶悪犯罪とか、常識では考えられないような間違いが起きてくる。霊のアガキの現象である。 それに加えて、農薬を撒いて、自然と人間界、生物界との共存体制のバランスを崩してしまう。やがて人間は、草の根か木の根を食ってゆかなければならなくなる。

このようにして、神様の清浄観から発するところの、ミソギハラヒのご想念、観音様の清浄の発願もこれから出ている教えで、その冷厳なほうのみ働きである“悲体の戒”のほうがきつくなってくるわけです。 “悲体の戒”の悲は火に通じておりますから、そこで火の洗礼期が始まるわけです。“霊(ヒ)火の洗礼招きし人類自壊や恐るべし”ということになる。 さきほど申し上げましたように、ヒという言霊は溶かしたり、焼いたりするほうのヒ(火)とそれから、冷たいほうのヒ(氷)とがありますが、悲体の戒は、火の洗礼期というものと、戒告現象というものが、一緒になって出てくるものである。 そこで、“霊(ヒ)火の洗礼招きし人類自壊や恐るべし”で自分で滅びてゆくではないか、とおっしゃっていらっしゃるわけです。

●豆々知識4;【ミソギハラヒの原理】ミソギハラヒの霊削(ミソ)ぎという意味は、魂に積んでしまった曇りを削ぎ取るという意味です。 魂が曇ってくると神様は、償(あがな)いというもの、病貧争災というような色々な災い事、逆事、苦しいこと、辛い事をミソギとして与えてこられます。魂に積んでしまった曇りを削ぎ取るためには、それだけの苦しい病貧争災といった償いをしなければならないのです。 ミソギハラヒのハは開くという言霊であり、ラは陽(ラ)、左回転を表し、太陽を表しています。そしてヒは霊ですから、ハラヒは陽霊を開くという意味になります。 つまり、曇りを取り祓うと本来の明かな霊(ひ)に還れる、元の魂へ戻れるという原理で出来ているのです。ミソギハラヒの原理は、「償いなくして明かな霊になれぬ」という原理で出来上がっているものです。

ミソがれた後、救いの奇跡が起こってくる。神様は綺麗にして救いというものを与えて下さる。汚れたものは必ず綺麗にして行こう。クリーニングして行こうという清浄の願を神様は持っておられる。 洋服が汚れたら洗濯して綺麗にしよう、ということと同じことです。ミソギは清浄の願という神様の願いから発生していますから、神様の大愛に対して感謝する。 ミソギに感謝するということが大切になってくるのです。痛い、苦しい、辛い、その時感謝する。そういった想いの持ち方をした時、それを乗り越えて良くなる という奇跡、救いが与えられていく。そういう原理でミソギハラヒの原理が出来ているのです。
●ミソギハラヒとは、神大愛の清浄願(観音経)とクリーニング現象のことです。

●自然現象では、「風」「火」「水」「雷」の祓戸の四柱の神様が活躍しておられ、自然界の汚れた所は綺麗にしょうと働きかけられています。その他には吹雪、太陽があります。 キリスト教では、ミソギハラヒのことをバプテスマといっています。「バ」は開くという言霊で、強く開くという意味。「プ」はフのみ働きの強い意味。「テ」は手で、「ス」は主神で、「マ」は真中心の真という意味を表しています。 「真中心の神様の手で陽霊を開く」という意味です。魂に積んでしまった罪穢や、曇りというものを溶き祓って、元の綺麗な魂に元還りしていくこと。また、憑依霊を取り除くということも含まれます。 それがミソギハラヒやバプテスマと言われるものです。神の大慈、大悲とは、以上のように厳しいものでもあることが良く分かられたと思います。 不幸現象(病、貧、争、災)を起こして神は、人に厳しい試練、神鍛え、神試しをされて、その人の信仰は本物なのかを試されるものもあります。

また神は、魂の曇りを取ろうとして、邪霊やサタンなどを必要悪として使われるといいます。こういった試練を与えられて、その人の魂を綺麗にしようとされるのです。 改魂させるための神の方便としても使われるようです。他には、怨念霊(憑依霊)による不幸現象(霊障)というものもあります。今、自分の周りに起こっている現象は全て神様がされている。 神・幽・現三界を通して見たとき、自分に起こっている現象は全て平等であり、神様はどの人も平等に愛してくださっているのですから、自分のことも神様は必ず愛して下さっているのだという神向を持ったとしたら、本当に妙法を体得するレベルまで入って行けるだろう。 そして、妙法を体得するためには物中心にものを見ないで、霊界中心にものを見る見方をすることが大切だと示されています。これらは因果応報の原理から起きて来る現象なのです。 そして、これが宇宙の法則の一つとなります。


●そこで究極は聖観音でも国万造主大神でもヤハエでもエホバでも、天地創造のときの真の神代七代中の主宰の神様を、その本家の神として表現しているのか、分家の神様としているかの違いだけで、ご本体はご一体なのです。 回教のアラーの神もこの神様です。究極は三大宗教の崇めているところの神様は、天地創造人類創造の万能の神様として、その結論は一つである。ただ、その神様の表現、み名が、民族や時代や地域の違いによって、それぞれの分かりやすい言葉で付けられているだけのことです。 三大宗教の元の神様はみな元は同じであるということを、特に提唱しておくのです。今日多くの宗門宗派ができて対立すること自体がおかしいわけで、大元の神様からみればこれは途方もなく勝手な人間の屁理屈ということになるわけです。それを正さなければならない時代が今日であり、 天意の転換上おきているということを主張しているわけです。以上のことだけをみましても万教は元一つ、信仰の元は一つ人類は元一つ地球は元々一つだということに、人類は気付かなければならない。その事をしっかり掴んで頂きたいと思っております。

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●現世(うつしよ)の人の眼は眩(くら)みたり天地の創始の原理を知らずて!!

●真(まこと)なる 神の教へし医(いや)す術は 病の因(い)をぬぐひ去るなり
恐ろしきは 薬を毒と知らずして 憧(あこが)れ用(よ)ゆ世の悉々(ことごと)は
いたつきを 作る医学を 病を 治す医学と誤りし世や
薬もて 病が治るものなれば 世に病(なお)む人はあらじと思ふ
人間の 病の因(もと)は薬なり これを知らすが我使命(わがしめい)なる

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言霊豆知識-44-1

東京都の衛生局長の○○博士がはっきりと薬は恐るべき毒である、薬そのものは症状を止めるということは出来るけれども治すということは不可能なものである、 という本質を書かれた。問題は後に残っちゃう、即ち副作用というものが必ず起きる、また副作用というものが起きないような薬は止めることが出来ない、という原理です。 そこでいかなる薬も薬と名のつく限り毒であってその毒性による副作用無くしてある一つの器官をその症状を止めることが不可能なのが薬である、という結論をはっきりお書きになっております。

●医学の始祖ヒポクラテスは言った「病をひき起す物質は、同時に病を治す力あり」と本草綱目にも「毒は毒を以て制す」と元来薬なるものは毒であることを知らなくてはならぬ。 これは一医師の私がいうたと思うと却って怪しからんといわれるが、すでにニューヨーク内科・外科大学アロンゾ・クラーク博士(Dr.Alonzo Clark)がいうておる「我々の使う療薬はことごとく毒物であり、 従って一服毎に患者の活力を削減する。医師達は良くしようという熱意で、却ってはなはだしい害を起している。 自然に任せれば恢復(かいふく)するであろうと思われる多くの人々を医師たちは墓場へ急がせている」。

又ジョセフ・スミス博士(Dr. Joseph Smith M. D.)はいわく「循環の中へ入る一切の薬物は病を起す毒物と同じように血液を中毒させる療薬が癒すのでなくて病気は常に自然良能により癒されるのだ」と。 英医サー・ジョン・フォーブス博士(Sir John Forbes M. D.)は「ある患者は薬剤のカによって恢復するが、薬剤の助けがなくても恢復する患者はもっと多くある」と。 病気は以上諸大家のいうごとく、薬により治るというのは一時抑えにすぎないので、自己良能即自分自身丈夫になろうとする力に依ってのみ回復するのである。

それ故ヒポクラテスは言った「自然が病を治し、医者がその礼をとる」と。 われわれの病気になるのは自己良能が鈍るからで、この鈍をとり除いて生きる力を充分に働かせるには薬ではない、霊的光力(霊射)こそ、その方法であるのにこれを迷信と称する医学者又は医薬崇拝者が多いのである。

●フランスのF・デュマレ博士(Dr. F. Dumaret)は「結核病患者の保健生活」において、「医学とは人をだます技術であって、その教訓はたとえ人が、どういう意味に解そうとも虚妄たるに変りはない」と。 医学は進歩し、薬物は発見されたというても病人の数は減らないし、病気の数は殖えておる。昔は四百四病というたものが今日根気のよい学者が数え上げたところ十七万六千あったという。 我国厚生省の統計に上ってるのだけでも一千二百余種ある。現在はもう少しふえたが・・・。そしてこの中病源の分ってるものが三百四十余種その残りの八百何十種は原因不明であるという。

かかる状態で医学は進歩したといえようか、これは薬物による被害からである。我等はも少し理想を遠大にして薬物なくとも人間百歳以上の長寿を保てる方法を講じなくてはならぬ。ある著名の医学者は「百歳会」を作り、資金を集めて長寿薬を研究しておるが、 しかも会員は明日をもまたず、脳溢血や、癌に罹ってこの世を去ってゆく、あるいは廃人となる。これでは遅いのである。薬に頼らずとも健康の研究、生命の研究の先手をとらなくてはならぬ。 すべて病気を治すのでは後手でわれわれは薬などのまなくとも丈夫な身体をつくり神の霊的光力を信じて百歳の寿を作り上げねばならぬのである。


●補足;自然良能では、あらゆる病気・症状の原因は医学的には以前は動かない関節と言われていた「仙腸関節の変位」からくる骨格の歪みと、それによる「血液循環障害」からくる自然治癒力(恒常性)の低下が原因であると考えます。 最近では医学的にも「仙腸関節」は着目されるようになってきています。

●変な話ですが農薬(なぜ農薬を使うのかと、なぜ薬を呑むのかと一緒の原理です。現に農薬を使わないもの全て美味しいですし、見かけは好くないかもしれないがとてもおしい。)を粒にしたりオブラートに包んで飲んでいるようなものですよ。恐ろしいでことです。さて基本的に薬は毒と言う事がお分かり頂いた所で、とくに毒素の強い部類があり、正露丸はその一つです。本来、肉を切らせて骨を断つような状況でしか使用すべきでない薬でしょう。 歯痛の際、これを歯に詰めると楽になるとされていますが、あまりに強い毒によって、神経が麻痺した現象にすぎません。したがって、常時服用すれば毒が体内に蓄積され、 徐々に体全体の機能が劣化し、体質の虚弱化は避けられないのです。そして、体全体から生命力を奪っていくため、全身には、まるで分厚いカキがこびり付いているかのような、 体になるでしょう。

また、霊的光力が加われば最初は下痢とかで排出しますが、下痢は体の掃除機能の一つでありますから、何か体に良くないものを排泄しようとしたに過ぎず、 正露丸の服用によって排泄機能が麻痺させられ下痢が止まり、後は、その正露丸自体を排泄しようとするために下痢が続くわけです。 事実、下痢をすると正露丸の臭いがするはずです。 霊的光力でやっても、あまり体全体へ毒素が蓄積されると、肉体が厚い遮蔽幕となって、魂に届くはずの光を遮っていたようになります。

ノーシンは中毒化する。肩へ薬毒が固まっているから、それを溶かせばよい。霊力が強くないと溶け方が遅い。固い所へ、奥へ入るよう集注すとよい。

霊的光力を受ける側の心や体(身魂)に曇り(罪穢れ)が多ければ、光が体の深部や魂まで届きづらく、回数を重ねて曇りをはらわなければ効果が期待できないのです。 また、罪穢れが多いということは、その人の霊界自体が汚れているわけですから、霊界の位置としてもそれほど高いはずもなく、先祖の力も弱いため、光に対する反応も弱くなるわけです。 一方、徳が積まれている人は霊界での位置も相応に高いはずですから、当然心や体に曇りも少なく、光は心の深部や霊界まで届きやすいのです。また、先祖の働きも活発なため霊的光力の反応が出やすくなるものです。 (「魂」が鎮座する場所は、肉眼では見えない霊的な存在が内包されている場所があります。おおよその位置は、 顔の正面から推測して、眉間のやや上から約10センチ直線に延びた、脳の真ん中あたりにあると考えられています。仏像などの眉間にある小さな丸は、 この存在を示したひとつの証拠です。いわゆる第三の目です。)




生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-44-2

『薬が不幸を作る』 薬については今まであらゆる角度から検討して来たが、薬と不幸の関係については、まだ余り詳しくかかないような気がするから、ここにかいてみるのである。 そもそも人間の幸不幸の原因はどこにあるかというともちろん霊界にあるので、この事が充分判らなければならない。 では霊界なるものの組織をかいてみるが、そもそも霊界は百八十段階の層になっており、これがまた上中下六十段ずつに分けられている。

もちろん下段は地獄界、中段は中有(ちゅうう)界、上段は天国界となっており、右の六十段がまた上中下二十段ずつに分れており、そのまた二十段中でも上中下があるのである。 という訳で単に地獄といっても、下段に行く程最も苦悩がはなはだしくなるのはもちろんで、最低地獄に至っては難病、飢餓、闘争等が極度になっている世界である。 これを神道では根底(ねぞこ)の国といい、仏教では暗黒無明、極寒地獄といい、ダンテは煉獄といっている。

しかしこれが漸次上段に昇るに従い段々緩和され、中有界に至って始めて普通の社会状態になる。つまりここは苦も中くらい、楽も中くらいというその名称通りである。 ところがそこを上方に突破するや、ここに天国界に入るのであって、こここそ仏語(ぶつご)にある極楽浄土であるから、病なく貧なく、飲食(おんじき)豊かに和気藹々(あいあい)とした幸福に充ちた世界である。 右のごとくであって、一般人の大部分は中有界に籍が置かれているのである。 ところがそこは決して安心は出来ない、というのはその人の心と行い次第で上にも下にも行けるからである。 だが多くは下に落ちるので現界もその通りである。

以上現界と霊界との関係をザットかいたのであるが、いつもいうごとく万有の法則は霊主心主体属で、人間といえどもそうである以上、霊界における霊の地位いかんによって幸不幸が決まるのである。 これが真理であるから、この事を知ってよく守りさえすれば、幸福者になるのも敢(あえ)て難しい事ではない。

という訳で現在いかに幸福と自分も思い、人に思われても霊界において天国に籍がなければ、その幸福は一時的で早晩在籍通りの地位に転落すると同様、現在いかに不幸であっても、 その人が正しい神向きによって徳を施し、人を救うというように善事を行えば相応の地位に向上し、幸福者となるのである。 そうしてこの根本原因であるが、それは霊が下段に堕(お)ちるのは霊に曇りが溜り、霊が重くなるからである。従って曇りが減る程軽くなり上昇するから、それに伴って幸福も増すのである。

つまり人間の幸不幸は霊の曇りの多少によるのであるから、この原理を知っただけで、その人は最早幸福者の仲間に入った事になるのである。これこそ霊界における千古不滅(せんこふめつ)の鉄則であるから信ずる外はない。 では曇りとは何かというと、昔から宗教では罪穢としているが、これは誰も知っているから説明の要はないが、それは表面だけの事であって、その奥の深いところに大きな原因があるのでこれが曇りの本元である。 それは何かというと、これこそ世人が最も結構なものとして、昔から現在までも旺(さか)んに使用している彼(か)の薬剤である。

といったら何人(なんぴと)も仰天するであろうが、これは神示によって知り得たのであるから、絶対信じて貰いたい。
すなわち薬を体内に入れればその毒によって血液が濁る。血液が濁れば霊体一致の法則によって霊が曇るのである。ゆえに薬程恐るべきものはないのである。 つまり薬で霊を曇らし、重くなって、霊界における地位が段々下降し地獄界に堕ちる。 そこで相応の理によって醜悪な行いをする人間が増える結果、病貧争氾濫の苦の娑婆(しゃば)となったのである。 以上のごとく人間を不幸にする根本こそ薬剤であるとしたら、平和幸福の世界たらしむるには、何よりもまず世の中から薬剤を廃止する事で、ここに根本を開示して警告するのである。茂吉大先生のお話しである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-44-3

■個今の化粧品には薬がはいっているのです。昔はおしろいというと、鉛毒くらいでしたが、今は鉛毒の外に化粧品に薬毒が加わってますから、今の女の人は実に肌が悪くなってます。若い人でも、化 粧をしなければ見られないくらいになってます。それで化粧品はますます進歩してます。進歩と言っても、ごまかす進歩です。それで、ちょっと見るときれいなのです。その代りにいろんな化粧品を厚くつ けなければならないのです。美容院に行ってタオルでむしたりしてやりますが、大体そんな手数をかけなくても、女はきれいになって居るべく神様が造ってあるのです。第一今口紅をつけますが、これは唇の色が悪いからです。 それから頬紅というのもおかしいのです。ホッペタは赤いに決まっているものなのです。

ですからみんな薬毒で悪くしているのです。だから近頃の女の子というのはますます化粧品に身をやつしているのです。今の若い人の支出では、化粧品代が一番の王座を占めているでしょう。 顔を気にしていろいろするのは、少しおシャレをする人は命がけというくらいです。それで霊的光力を受けていると女の人もだんだんきれいになります。それは何故かと言うと薬をのまないで、霊的光力 で血がきれいになるからです。それはまだまだずっときれいになりますが、先祖代々のが残っているから、孫の代くらいになったら、ずっと美人が出て来ます。

化粧品中毒が如何に恐ろしいかという事をちょっと話してみます。その人は歯がグラグラするのですが、これは歯医者に行けばすっかり抜いて総入歯というところです。この原因は何処 にあるかというと、この人は顔に始終熱があるのです。霊的光力して熱をとるのですが、なかなかしつこいのです。この熱がとれるに従って歯が締まってくるのです。この熱というのが化粧品中毒です。

言霊豆知識-44-4

『薬剤の害毒』 人病(やまい)に罹るや、直ちに医師の門に駈け付け、治療を乞うのであるが、医師はまず投薬療法をする。 この場合、服薬と注射、塗布薬等であるが、これが治療上における誤謬のそもそもの根本である。何となれば、 再三述べたごとく、病気の根本は霊体に発生し、しかして後肉体に表われるのであるから、薬剤は肉体的には多 少の効果ありとするも、霊体に向っては全然無力であるから、肉体へ顕出した現象を、外部から停止さすに過ぎ ないのである。しかして、霊体の曇が移行した結果である患部は、汚物停滞であり、それが自然浄化によって、 体外に排泄さるるその行程が病気であるから、病気そのものの苦痛が病気治癒になるのである。故に、薬剤やそ の他の方法によって、病気現象を停止せんとする事、それが取不直(とりもなおさず)、自然治癒の妨害をする 事になるのである。

人間の血液は、絶対清浄を保つべきもので、血液清浄なれば決して病に侵されないのである。即ち、霊体の曇 が血液の汚濁となり、その浄化作用が病気であるから、いかに霊体は清浄でなくてはならないかと言う事が判る のである。黴菌に対し、浄血は殺菌力が旺盛であるという事は、他面から言えば、人間の血液の掃除夫である黴 菌が侵入するも、汚濁が無ければ、掃除の必要がないから、繁殖出来ないで、衰滅する訳である。

故に、薬剤の作用は治癒を妨害すると共に、その余燼(よじん)は血液中に吸収されて、血液を汚濁させるの である。この事実は長年に渉る薬剤服用者の皮膚を見れば、瞭(あき)らかである。その皮膚は蒼白にして、光 沢及び弾力なく、若くして老人のごとくである。これらの患者へ対し、薬剤使用を停止さするにおいて、時日の 経過による自然浄化が、薬剤中毒を消滅さすから、生気を増し、皮膚は光沢を呈し、健康を快復するのであって この事に専門家も患者も、今日まで気が付かなかったという事は、実に不思議である。

さて病気と薬との関係である。今日誰しも病気に罹(かか)るや、薬の御厄介になる。恐らくこの際何らかの薬を服まない人は一人もないであろう。 もちろん薬を服めば治ると思うからで、この考え方は随分古い時代から、人間の常識とさえなっているのである。 そこでこの事について今まで何人(なんぴと)も思ってもみなかった意外な事を以下かいてみるが、それには充分心を潜めて読めば、至極簡単に分るはずで、 難しい事は少しもないが、何しろ長い間の迷信が災して、分りそうで分らないのである。

そこでいとも平凡な説き方をしてみるが、それはこうである。 例えば普断至極健康で働いていられたのは、薬を出来るだけ服んでいたからで、それがたまたま懐(ふところ)都合が悪くなったりして薬を買う事が出来ず、 一時服む事を休めざるを得なくなった。言わば薬が切れたのである。そこで今まで健康を維持していた薬が止まった以上、病気が起ったのであるから、 早速無理算段しても、命には代えられないから、金を作り、薬を買い、からだへ入れたところ、たちまち快くなったので、ヤレヤレと胸を撫で下したというようなものである。

これはちょうど一度か二度食事を抜いたため腹が減り弱ったので、早速食事をしたところ、たちまち元気快復して働けるようになったと同様な訳である。 これだけ読んだら、誰でも分ったような分らないような、不思議な気持になるだろう。ところが今日世の中の全部の人がそんな変な事を行っていながら、 当り前の事として気が付かないのである。そうかと思うとよく自分は健康だから薬を服まないと自慢している人もあるが、これも可笑(おか)しな話となる。 薬を服まないで健康であるという事は、最初にかいた薬を服むから健康だという事とは全然矛盾する。またこういう事も沢山ある。 それは年中薬を服みつつ病気ばかりしている人である。これも可笑しな話で、薬で病気が治るとしたら、薬を服む程健康になるから、いい加減で止めてしまうのは当然で、 何を好んで高い金を出して不味(まず)いものを服む必要があろうか。

今一つの分らない話は、世間には健康だから薬を服まない。薬を服まないから健康だという人と、その反対に弱いから薬を服む。薬を服むから弱い、 という人との二通りあるのが事実で、むしろ後者の方がズッと多いであろう。としたら右の二様の解釈はつかないのはもちろんである。 なぜなればこの説明が出来るくらいなら、病気は医学で疾(と)うに解決されているからである。この解釈こそこれまで記載して来た通りのことで、 医学で治らない病人がドシドシ治るのであるから、これが何よりの証拠である。それを説明してみれば実に簡単明瞭である。 すなわち薬が病気を作り、薬をやめれば病気が治る。ただそれだけである。


以上によってみても分るごとく、今の世の中は薬で病が治るとする迷信で、高い金を費(つか)って病気を作り、悪化させ、苦しんだ揚句(あげく)命までフイにしていながら、 それに気がつかないどころか、反って満足しているのだから馬鹿どころではない。馬鹿を通り越して言葉では言い表わせない。 それは昔からこれ程の馬鹿はないから、言葉が生まれていなかったのであろう。そこで止むなく超馬鹿では耳障(みみざわ)りと思うから、前にも超愚とかいた次第である。 このような訳で医学の蒙(もう)を分らせるのには、普通のかき方では、迷信のコチコチ頭を打ち砕く事は難しいので、これでもかこれでもかと色々工夫して、 新熟語を考え、目を廻すような鉄拳を喰(くら)わし救うので、この文がそれと思って貰えばいいのである。此の辺まで読んでくると相当魂も開花しているであろうと思う。

病人と同一程度の曇りある人は如何に治療するも、その効果は、差し引き無い訳であります。又、病人より曇りの多い人が治療すれば、反って、曇りを増殖するから、病気は悪化するのが事実であります。 之によってみても、霊的光力するものは「常に操行正しく、社会の模範的人格者」たるべく心掛けなくてはならぬのであります。この人を治したら金がうんと入るとか、出世するとか、 勢力を得るとかいう気持ちでやると、ちょっと治りがよさそうに見えても、結局はあまりよくないですね。また一人でも多く助けなくちゃいけないっていう心の人にやってもらうとどうしても治りがいい。

それから一つ注意しておくことは、慢心すると霊力はずっと減少となります。人によって、霊力の強弱があるし、基本的は長くやってる人程霊の放射は強いのである。 そして、神霊放射は火素であり、火素を吸収するのは心臓である。神向きの強い人は光力を強く受けて出す力も大なのです。一番影響するのは、その人の熱心的な神向きな想念が非常に影響します。

知識:●毒素の多寡(たか⇒多いことと少ないこと)、霊的光力の霊力の強弱・・・いろいろある。祖先の関係もある。祖先で救われたのがあると、霊界で力があるから、良い霊力の霊を引っ張って来れる。 堕ちている(地獄で苦しんでいる)祖先はそういう事が出来ない。それで良い霊力の霊を得ず、救われぬ事もある。祖先の贖罪(しょくざい⇒罪滅ぼし)の場合、子供を身代りにして犠牲にする場合がある。 症状は吐く。その他種々の原因がある。

●霊的光力を加減するのは肺病の場合のみである。例えば結核なんかは一週間に一回か二回くらいが良い。で肋膜とか子宮がんとかは一日何回でも受けるとよい。二、三十分おきにやる。数によって霊力が強いと同じである。




生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-44-5

全病気は体的症状であり、その本原は霊にある以上、霊を治さなければ病気は治らないのは、前項までに大体説 いたが、これについてなお詳しくかいてみよう。

それはまず、霊と体との根本であるが、人間なるものは既に述べたごとく、霊体は結合一致していると共に、 万物の法則としては霊が主で体が従となっている。卑近な例だが人間の五体が動くのは、体が勝手に動くのでは ない。霊の命によって動くのである。としたら霊が主人公であり、体は従属者である。従って病気の場合、最初 霊に発生し体に映るのであるから、体のみを治そうとしても、一時的で根本ではないから、もちろん霊を治して こそ根治となるのである。ところが科学は唯物理念である以上、いかに進歩したといっても治らないのは当然で ある。度々言った通り医療は一時的、外部的治癒でしかないので、必ず再発するのは、この理を知ればよく分る であろう。

右のごとく病気は、最初霊に発生するというその経路をかいてみるが、それには薬毒の作用である。薬毒が体 内に入るや一旦血液中に混入されて濁血となる。この濁血が多量の場合は全身的に拡がるが、少ない場合はそれ だけ局部的に集まる。そうして濁血は霊体一致の法則によって霊に写ってそれだけ霊を曇らすのである。ところ が人体なるものは不断に浄化作用が行われている以上、濁血を浄血にする浄化活動が絶えず行われている。そう して濁血が腐敗し変化したものである。これが霊主体従の法則によって、霊の曇りが減っただけは、体に映って 濁血及び膿は減る事になる。この過程が病気である事はすでに説いた通りである。

この理は天然現象にみても分る通り、地上の霊界に汚穢が溜れば、低気圧が発生し、風で吹き払い、雨水で洗 い、天日で乾かすと共に、消滅するという作用が自然発生する。これが天地間の浄化作用である。従って人間の 病気でも霊の浄化が発生し、体に映るや発熱によって毒素を溶解し、種々の排泄物にして体外へ出すのである。

この理によって汚物は出れば出る程、人体は清浄化し健康となるのであるから、浄化作用を援(たす)ける事こ そ、真の治療法である。しかるに何たる事か、それを逆に解し、汚物を出さないで元通り固めようとする。とい うのは既記のごとく浄化に伴う苦痛を病と称し、マイナス的危険作用と解したのであるから、まことに驚くべき 迷盲であった。この考え方が医学を生んだのであるから、これに目醒めない限り、人類は病の悩みからいつにな っても解放されないのである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-44-6

病気に対する心構えとして、闘病という言葉を使うが、私(茂吉大先生)からからみればこれほど間違った言葉はない(小生も同じである)、 全く病気の根本原因を知らないためとはいいながら、私(茂吉大先生)からいえば愛病といいたいくらいである、つまり病は愛すべきもの、 有難いもの、感謝すべきものと思うのが本当であるからである。ところが医学においては、一度病気に罹るや悪い意味に考え、 ちょうど悪魔が体内に入り込んだかのように心配する、よく病魔という言葉を使うが、その意味であろうし、また闘病という文字も、 敵が体内に侵入したので、味方の肉体と、大いに戦うという意味でもあろうから、実におかしな話である。

人体には始終毒素が溜り易く、それがある程度を越えると、活動に支障を及ぼすから、 その毒素を排除すべく自然作用が起り、働くのに差支えのない程度に清めてくれる、それで健康体になるのであるが、 その毒素排除には幾分の苦痛が伴うので、その苦痛を称して病気といったのだから、病気ほど結構なものはない訳で、 全く神様が人間の健康を保持せんがため、御造りになった事がよく分るのである、何よりも病気の際痰や洟(はな)が出たり、 盗汗(ねあせ)をかいたり、下痢、嘔吐、痛み、痒み等の症状にみても、汚いものが色々の形になって出る事が分るのである、


だからその場合苦痛を有難いと思って、少し我慢さえすれば、割合楽に相済み、後は体内が綺麗に掃除されるから、 健康は益々良くなるのである、以上のごとく、人間にとってこれほど結構なものはないとしたら、病気になったら喜んで大いに祝うべしだ、 だから吾々は寒冒でも、結核でも、伝染病でも結構、大いにお出で下さいと歓迎するくらいだ、そう思っているせいか皮肉にも病気というお客様は、 仲々来てくれないのでちょっと寂しい気がするが、これも嬉しい淋しさであるからまた有難いとも言える、こういう訳だから、 吾々が頂いているこの幸福さは、一般人は想像もつかないであろう、だから一人でも多くの人に、こんな有難い事を教えてやりたいと常に思っている。

そもそも、病気を最も判りやすくいえば病気とは体内にある不純物、すなわち有毒物を種々の形によって排泄さるるその過程をいうのである、 従ってこの世の中に病気ほど結構なものはないので、もし人間から病気をなくすとすれば、人間は健康を保ち得ず、 到底長命などは覚束(おぼつか)ない虚弱者となるのである、これが千古不滅の真理であって、これを基本として成った医学こそ真の医学である、 ゆえに、もしこの真理に外れたいかなる医術といえども、それは真の医術とはいえない疑似医術であるから、到底病気は治し得ないのである。

そうして有毒物とは、彼の喀痰、鼻汁、喀血、出血等の汚血や、膿汁、下痢便、濁尿、汗、唾液、目脂(めやに)、涙、耳ダレ、発疹、 皮膚の紅潮、仝〔同〕斑点、田虫、水虫、フケ等々であって、まず喀痰、鼻汁、汗、濁尿等の排泄作用が感冒であり、下痢や痔出血等は全身毒素が腹部へ集り、 肛門から排泄されるのである、また膿汁毒血等は腫物によって排泄され、各種の毒血は天然痘、麻疹(はしか)、猩紅熱(しょうこうねつ)、 発疹チフス、疥癬等によって皮膚面から排泄され、その他は毒素はそれぞれ、種々の形によって排泄されるのであるから、病気とは換言すれば、 人体の清掃作用である以上、清掃された結果は血液が清浄化するから、健康を増すのである。

そのため血行の循環はよくなり、殺菌力は強化され、体力強靭となるから罹病し難くなり、精神的には爽快感の持主となり、楽天的となるのである。 これに反し、常に寒冒に罹りやすく、絶えず不快で、根気なく怒りやすく、憂鬱で、神経衰弱や結核に罹りやすいのは、濁血が原因であるのは言うまでもない。 そうしてあらゆる病気の中でも、最も簡単にして健康上効果顕著なのは感冒に越したものはないのである、従って、出来るだけ寒冒に罹るようにするのが最もよいのであるから、 常に感冒に罹るよう心掛ければ、結核及び神経衰弱などに犯される事はないといってもいいのである。

しかるに、この理を知らない医学は、およそ反対の解釈であるから、いかに誤っているかが判るのである、 何よりも今日医学は進歩せりと言いながら実際的効果ははなはだ疑問である、むしろ進歩すればする程、真の医道と遠ざかるばかりである、 見よ、今日寒冒の原因すら不明であり、結核の解決さえもいかに苦心努力しても思うようにならないというに見ても明らかである。

右の理によって、今日至極簡単な病気でさえも容易に治らないのは逆療法によるからである、事実、吾らからいえば、病気なるものは、 まことに容易に治るものである、それは神が与えた清掃作用である以上、不純物がある程度溜れば人間自身が持っている良能力の活動が発生し治るからであってみれば、 ほとんどの病気は、何らの手当もせず自然に放任しておくだけで速かに治癒するのである。

ところが、いつの時代か判らないが、前述のごとく、病気を逆の意味に解し成った医学である以上、いか程進歩したとても治るはずがない、 それどころか反って苦痛は増し、生命にまで危険を及ぼすのであるから実に恐るべきものとし、適当の手段を行わなければ安心出来ないという訳で、誤りを解決するのに誤りをもって発達したのが今日の医学である、 とすれば、何と恐るべき愚法を続けて来たかと言えるのである、しかも、これがため何百何千年間人類はいかに大なる犠牲を払って来たであろう、それらを考える時全く聖書にある禁断の果実とは医薬をいったのではないかとさえ怪しまれるのである。 しかしながら喜ぶべし、いよいよ天の時至って、この誤謬の真相を開明し、病なき世界を出現させようとするのであるから、 近き将来すべて人間の寿齢は百歳以上は可能となり、且つ無毒者が殖えるに従って、病なく貧なく争を好まない人間が増える訳である。

●将来、来るべき文化の根本理念は勿論霊的のそれでなくてはならないが、実は今日までの文化の推移を仔細に検討する時、それは明かに霊的方面に一歩一歩前進しつつある事実を看取さるるのである。 最近における無線科学の進歩は、電波、光波、音波等の躍進となり、今現に各国とも盛んに応用されつつ、戦力にまで至大関係を持つに至っている。 しかしながら私(茂吉大先生)の解釈によれば右は霊科学における体の面である事である。即ち霊においても、その霊と体との二面があって、人間の五感によって知り得る範囲は、霊の体の面に属するのである。

しかるに今ここに述べんとする所のものは霊の霊であって、五感に触るる能わざるもの、即ち見えざる光、無声の声、捉える事の出来ない電波である。 右のごとく無にして無に非る存在、仮に名付けて霊電波又は幽幻力といおう。この幽幻力においての原素の活動こそ、あらゆる力の本源であって、その中心としての主動力こそ宇宙意志であり、これによって戦争も起り、平和も来すのである。 勿論無限大から無極微に至るまでの森羅万象一切の変転流動の根源のそれである。

故に、一切の活動の根源が幽幻力であってこの幽幻力こそ「絶対無限の力」そのものである。しかるに今日までの人間は、力といえば物質力即ち唯物的力を強大と信じて来たのであるが、それはすべて逆の観方であった事に気付かなければならない。 何となれば物質力はいかなるものといえども限度がある。例えば火と水の力によって発生する動力といえども、何馬力という限定線があって、それ以上は許されないのである。 限度を超ゆる時、それは機関の爆発という危険があるからである。

しかるに、近代科学は前述のごとく、一歩霊の体の面にまで進んで来たという理由によって、物質力の限度を破って、無限とさえ見らるるのであるが、 実はこれらも機械力によって捕捉する事も出来、又抵抗力の発現も可能であるというによって鑑ても、無限力とは言い得ないのである。 しかるに、幽幻界において発生するところの無に等しい幽幻力こそ、これは絶対であり、無限であり、万有の創造力でもある。 従って、この幽幻力の発揮こそ、科学に非ざる科学であるといえよう。

この力の存在の発見と利用によってのみ、初めて理想的なる人類文化の建設さるる事を信ずるのである。 この意味において力の強弱を測定する場合、物質は最も弱く、非物質であればある程その強度を増す事で、勿論これが宇宙の原則である。 そうして私の創成した(茂吉大先生)この医術の原理こそ、右の幽幻力の一部の利用である事を告げたいのである。 まことに奇蹟のごとき驚くべき治病力を発揮するという事もそれが故である。

しかしながらこの事の説明に当って最も困難と思う事は、現代科学の理論においては、それを説明し得るまでに到っていないという事である。 従って、やむなくただその効果によってのみ肯き得らるる現在で、満足の余儀ない事を告白するのである。 故にこの意味において私をして忌憚なくいわしむれば、現代医学のごときはあまりにも水準の低い事を思わせるに拘わらず、 現代人はこれを無上のものと信じ、貴重なる生命を託すというのであるから、いかに危いかという事は、この医術を知る限りの人にして首肯し得らるるであろう。

今一つ重大なる事を言わねばならない。それはこの幽幻力を戦争に用うる事である。 たとえば、墜落しない飛行機、弾丸の当らない飛行機、沈まない艦、死傷者の現在より十分の一に減ずるという奇蹟の作為も、あえて不可能ではないと想うのである。 この医術の効果に驚き、人々は現代の奇蹟というのである。しかし奇蹟とは思わない。何となれば霊科学的理論によって説明なし得るからである。 又、幽幻力は霊である以上、いかなる精巧な機械といえどもその発生は不可能である。

独り人間の霊力即ち魂から発生する訳であるから人体こそまことに神秘霊妙なる存在である。 しかるに今日までの人間は機械の発達にあまりに幻惑された結果として物によってのみ一切を解決なし得ると思惟した為、人間に潜在するところの超物質力に気づかなかったというのが真相である。 同様の意味において人間の病気といえども、物によって治癒すべきものと思い込んで進んで来た。それの理念に終止符を貼るというのが医術の生命である事は勿論である。

ただし、この幽幻力発揮に当って心得べき事は、私利私欲のごとき不純なる観念が、いささかにても混るとすれば、それは効果がない事である。 飽くまでその目的が、国家社会人類の為である正義感、これを一言にしていえば至誠によらなければならない事である。 そうして小生は幽幻力発揮に当って文字と言葉の重要性について少しく述べてみよう。

文字と言葉とは、吾々人類社会にとって、いかに大きな作用をなしつつあるかという事を考えなくてはならない。 吾々文化民族の社会から文字を取去ったとしたならば、最早文化の進歩も興隆も停止さるるであろう。 否文化そのものがあり得なくなり、文字なき時代即ち原始時代に還元するより外はあるまい。 又言葉も勿論そうである。文化的意志の交換がなくなるとすれば、これもまた原始時代に還元あるのみであろう。

従って、文字が作用する力や言葉の偉力によって人を動かし、国家も社会も世界をも動かし得るという事実は、今日東条首相やヒットラー、ムッソリーニ、スターリン、ルーズベルト、チャーチル等の言説にみても明かである。 しかるに、ここに言わんとする所は、前述の例は体的、物的に動かし得る力であるが、右に述べたところの幽幻力即ち幽幻的に動かし得る文字も言葉も有り得るはずである。 故に、幽幻力発揮の方法として文字と言葉を使用したり、又は絵画を使用する場合もあり音楽同様で、意念を用うる時もあるのである。

そうしてこれらの方法を行う事は、まことに簡易である。

しかしながら、幽幻力発揮などというと、一人の専売のごとく想わるるかも知れないが、実はこの原理を知り、ある期間の修錬を経れば、決して出来得ない事はないのである。 特に日本人は世界に比類なき霊性に富む以上、霊電波発揮には最も優秀である。ただ何人にも出来得るという訳にはゆかない。 人により生れながらに素質と信念の強弱優劣があり、それが重大関係をもつからである。従って、日本人中何人位出来得るやという事は正確には判らないのである。 しかしながら治病に関してのみは何人といえども可能である事はさきに述べた通りである。又神に意乗りをするにもある程度のやり方を一定区間学ぶべきかと思う。そして後にご自身でやられれば宜しいかと思う。

今日までの新しい発見や発明が、当初においては、その有用価値が小ではあるが、漸次進歩大成するに従っていよいよ大となるという事も、幾多の経験が示されている通りである。 従って、この幽幻力といえどもその将来においては広範囲に人類の福祉に一大貢献をなすであろう事も予想し得らるるのである。

★そもそも神様から、尊い使命を受けてこの世に生まれて来た人間が健康を害ねるという事は、大自然の法則即ち神意に背いているからで、それはいかなる点が反しているか――という事を探求し、発見する事 こそ根本的解決法でなければなりません。

その反自然とは何かと言えば、即ち大自然が行う「浄化作用」の停止をした事であります。天地間における天文現象をみる時、地上に汚穢が溜れば、風で吹払い、雷火で焼き、雨で洗い浄め、天日で 乾燥させるのであります。故に人間の健康も病気も飽くまで大自然の摂理を基本として考え、解決すべきが本当で、それが「真理の具現」であります。 それで霊的光力は飽くまでも大自然を本とした方法であります。自然療法であり、神霊療法であります。



生き言霊に光あれ!!


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