縄文の音霊 【ひとり言】

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言霊豆知識-21-1

「神霊の解剖」 神様を解剖するなどというと、今までの人は恐ろしくて罰が当たってはたいへんだと、そういうものに触れる人はないのです。 けれどもそこまで分からなければ神向きの真髄は本当に分かるわけがありません。 神様というと、ただ漠然としてありがたいような恐ろしいようなものになって、それに人間は触れることはならないように思われてきたのです。 というのは、今まで神様を本当に分かっていた人はなかったのです。つまりキリストでもお釈迦さんでも、どうも徹底しては分かっていなかったらしいのです。 神様が分からないと、病気、人間の生命力ということが分からないわけです。 なにしろ人間の生命は神様が造り、神様が握っているのですから、神様の根本が分からなければ生命に関したことも分からないわけです。 ですからそれを説いた人もないし経文にもバイブルにもそれはなかったわけです。 つまり経文やバイブルにしても、もっと低い所です。上面(うわつら)の所だけしか説くことができなかったのです。 ですから見真実といっても、見真実にも浅い深いがあって、深い所までは分からなかったというよりか、分からせなかったのです。 分からせてはいけなかったのです。ところが今度は分からせなければいけなくなったわけです。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-21-2

「言霊の神秘を暴くと経綸に支障が生じる」 「言霊学上、母音と子音、濁音および半濁音の働きの強弱について問われるが、これだけを説明してもしかたがないのである。」 言霊学は七十五声全部を説明しなければならないのである。

【「言霊学の起源について。」「この学問は二千数百年以前からあった。 天津祝詞のできたころである。その後断絶したのを、かの有名な本居宣長翁(もとおり のりなが おきな⇒老人を敬っていう語)が再興して、七十五声の言霊を解剖し、一々の活力を解説したのである。 その後静岡県清水市美保神社の宮司長沢雄楯(かつたて)師が宣長師の言霊学を基本として、いっそう深いものとしたのを、 大本教教主出口王仁三郎師が弟子となって学ぶとともに、より高いものとしたのである。】

言霊が本当に判ると、いろいろな神秘が判るので、経綸上支障があるからとされている。」
彼の『聖書』に、「太初(たいしょ=天地の開けはじめた時)に言葉あり、万物これによって作らる」ということがあるが、これは言霊の活動をいったものである。 それについて亘霊の根本義からかいてみるが、言霊は勿論人間の音声と舌、唇、顎の活動によって構成発射するものであるが、それを発する根本は言葉によって表現せんとする想念であることはいうまでもない。

想念は意欲の表われである。解りやすくいえば人間が何等かの意欲が起るその意欲を言葉に表わすべく想念が活動する。勿論想念の活動には正邪善悪、成不成等の判断力も活動する。 これを総合したのが智慧である。それ等を具体化したものが言霊であって、言霊を具体化したものが行動である。この理によって、想念、言霊、行為の三段階と思えば間違いはない。

右の如くであるとして想念は幽玄界に属し言霊は言霊界に属し、行為は現象界に属するのである。言わば、言霊は幽と物との中間である。念と行との媒介者といってもいい。 これによってみても言霊なるものは如何に重要性があるか判るのである。言霊は傀儡師(かいら し =首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。)と同様、鬼を出すも仏を出すも自由自在である。人を怒らすも笑わすも、 心配させることも安心させることも悲しませることも喜ばせることも、波瀾を起させるも、和を造ることも失敗するのも成功するのも言霊次第である。

斯様(かよう)な重要な言霊を軽々しく使用するのは、危険この上なしというべきである。しかしながら、言霊のみを如何に巧妙に操ったところで、単なる技術でしかない。 落語、漫才、講釈師(こうしゃくし=軍談や講談の講釈を職業とする人)と同様である。どうしても言霊はその根本に偉力を発揮せしむべき力がなくては、何の意義をなさない。しかも力といっても、それに善悪の区別がある。 即ち悪の言霊は罪を構成し、善の言霊は、徳を構成する以上、人間は善の言霊を使うべく努力すべきである。善の言霊とは、勿論誠が根本であり、誠は神からであるから、どうしても神を認めなければならない。

メモ1:父音とは、母音と配合して、子音をつくる一種の音なり。その音隠微(いんび=微妙で理解しがたい)にして、いまだ、判然と口外にあらはれたるものにあらず。されば、また、これを標すべき文字のあることなし。今、仮に、片仮名字を以て示すときは、五十音の宇列の、ク、ス、ツ、ヌ、フ、ム、ユ、ル、ウ、九個の子音より、母音を引き去りたる跡にのこれるもの、即ちこれなり。 子音とは、五十音の中より、五個の母音を除きたる、他の四十五音をいふ。こは、父母両音の配合して成れるものなれば、その音声単純ならず。

父音はk,s,t,n,f(h),m,y,r,w 
 母音はa,i,u,e,o 
 子音はka,ki,ku,ke,ko,……wa,wi,wu,we,wo 
であったことが解るでしょう。 

メモ2:文字の解析でいう二十という数字は今までにも昔から二十年という数字はたくさんありましたが、昭和というこの年号の文字につながる二十ということに、大いに意味があるのです。 昭和の「昭」という文字は日偏に召すという字ですが、「召す」というのは神道の方でいう「しろしめす」ということです。「統一」とか「治める」という意味です。 よく「天照大御神がこの土をしろしめし給う」ということがあります。それから「和」というのは、大和という意味ですが、「和」というのはやはり「世界」という大きなことの形です。 ですから「日がしろしめす世界」ということです。そうするとその日というのは太陽です。日という字は、丸にチョンですが、この象形文字です。 また「日がしろしめす」ということですが、それで天照大御神がしろしめすという意味でもないが、昼間の世界で太陽神が統治するという意味になります。 それで「和」(輪)というのは、「丸」で、「世界」ということです。

ですから日がしろしめす順序、段階として霊体が結ばれるというのが昭和二十年です。「天地の結び」あるいは「霊体の結び」というようなわけで、それでそういう意味から終戦になったのです。 神様の方の意味からいうとなかなか深いのです。それがだんだん進んで行って、昭和二十五、六、七というと、これはミロクですが、八で開ける(八は開く形で、無数の数を表わす。)、ミロクの神業が開け始めるということになるのです。

五が霊で、三が体で、また、五が火三が水で、いままでの世界は、それが三五で、水が上、火が下になっていた。三が体で五が霊で、体が上で、霊が下になって逆であった。 それで、いままでは三五の月の世界だった。今度は日の世界になりますから、五が上で三が下になる。それで、なぜに発展するかというと、いままでは霊的に非常に仕事ができている。 霊的には万教帰一され、世界は統一されているんですが、霊的では判らないから、三は体ですから体の働きが出てくる。それで目に見えて発展できるのであります。

メモ3:「七は完成の意味です。言霊でも「ナリナル」などと、できあがることです。一は初め、独一真神、二は陰陽、そこへ子が生まれて三、四は四方へ拡がる。 そこへ熱、火ができる・・・五、火によって氷が溶け水になる・・・六、今度は土ができて完成するのです・・・。五、六、七がすんで八となるので、ミロクが開くという意味になるのです。 それで八は開ける、九は「つくし」といって極点です。十は経緯結ぶことでこれが本当の完成です。 いまは九の世でありこれから経緯すなわち東西文化を融合する。十一は結んで始まる、二十一世紀というのは経緯が結んで始まる世紀というわけです。 二十で王となり、その上に最高の神様がお乗りになって世界を御経綸になるのです。また、七は土が本当で片仮名の「ナ」も土になるのです。

ミロクの世とは夜と昼間と入れ替わるんですから、夜のほうは非常に悪く、昼間のほうは非常に善いことになる。夜の世界は暗の世界で、たくさん溜まった汚れや埃(ほこり)を掃除する。 昼間の太陽の光によって黴菌(ばいきん)や、そういう悪いものを照らし、汚いものははっきりし、掃除する。掃除しなければ世界の進展が止まる。止まるということは、滅びることになる。

メモ4:文字の解析でいう「一は始めることであり二は分かれることです。十は結ぶすなわち完成です。十一は結んだのが始まる、統一です。 十八は結んで開く、観音様が十八なのは縦横結んで開くことです。二十三は応身の働きです。なぜなら応身の応は王と書くでしょう、三は身です。 百は十の十倍で「モモ」でいい意味です。百という字は十を十集めると百、すなわち十十で十十を合わすと井の字の形になる。すなわちミロクの世の形になる。

千は「チ」・・・光なり霊なり血です。珠数の百八つは煩悩といって、人間の煩悩は百八あるという。煩悩を絶つという意がある。霊統が絶えないよう繋がるという意味もある。 二十の意味は霊体、陰陽、男女、それを結ぶという意味で、結婚式なんかは二十一日がいいです。これは二人を結んでそれから始まるというわけです。 結ぶ日は七、十、十一はごくいい、二十一は「二人が結んで始まる」という意味で非常によい。で結婚には十、二十が基本になってればいいわけで、陰陽が結ばれるからです。

メモ5:いい日とは一、五、八の数がいい。その意味は、一ははじめであり元であり、主の神であり、五は出ずるであり、火であり陽であり、最高の数である。 八は五、三で、伊都能売(いづのめ)であり、火、水であり、発する、開く、拡がる、富士山の形、無限の数などで、また十一は、統一であり、経緯(たてよこ)結んで始まるという意味で、十五は結んで出ずる。 十八は、結んで開く、五六七、三六九の合計であり、また気であり、非常によい。二十一は、二つが結んで始まる意味で、結婚日にもよい。二十五は、五、五、二十五で、日が出ずるという意味で、非常に陽な意味である。 二十八は、二つが結んで開くのだから、いいに決まっている。また「二十」というのは「天地を結ぶ」ということです。つまり「王」という字みたいですが、二十は霊体を結ぶということになります。

キリスト教は月の宗教だった。いままでは月と地だった。数からいうと、月は六、地は七ゆえ、六と七であり、月と地・・・その上に日が乗るのである。 日は五である。それで五六七となる。五六七をミロクともいう、すなわち完成世界である。釈迦は五十六億七千万年と言った。五六七とすると、あまりはっきりするから、十と億を入れたのである。 これはあまりはっきりしたのでは、経綸ができなかったのである。ミロク完成世界の形は三三三となる。も一つの意味は月の数は三五の月といって、三五の数である。 その三五へ日が一つ加わる、それで三六となる。

メモ6:数から言うと五が男、三が女です。五は火、三は水ですから、三月三日が女、五月五日は男になったのです。 だから「伊都能売」は五と三と書いてもいいのです、イヅは火、ミズは水ですから。三五というと火が下になるから五三が本当です。

メモ7:観音様がインドで、観自在菩薩と申されたとき、二十八部衆といって、二十八人の御家来があったことや、法華経は二十八品となっている。 その二十五番が観音普門品(かんのんふもんぼん)であり、観音様は日の仏様だから陽である。ここで、ちょっと神秘なことを書いてみるが、だいたい仏教の教えは七である。 というのはお釈迦様は土のミロクであるから、土すなわち七である。 七の倍が十四で、その倍が二十八であるから、三すなわち水であり月であるとしたら、月と土の教えで、印度とは印が月で度が土であるという意味である。 陰土であり、昔インドは月氏国といったのである。

メモ8:「一年三六五日は非常に神秘」、「三六五日ということについてお話するが、一年は三六五日、何分何秒ということになっているが、三六五日と定ってるところに非常に神秘がある。 世界の一つの暗示になっている。三六五日だから、三・六・五、すなわち三六、ミロク、五は五大州、日は統一ゆえ、ミロクの前に五大州が統一さるることとなる。 三六は三六九を差す。本当書くと三六九と書くのが本当である。三六九は合計十八となる。三六も十八となる。六を三つでも十八である。三を二倍して六、三倍して九、三を三つ重ねる意味にもなる。 だから、結婚のときの三三九度もそういうことから出てる。支那人の礼拝は三拝九拝という。また、五六七も合わせれば十八になる。昔から観音様の御命日は十八日になっている。 観音様のお堂は十八間四面になっている。一寸八分ということもみなそういうわけで、ミロクということは完成世界の姿で、すべてが三段になる。

メモ9:いままでは二段の世界で、一段足りなかった。故に、今度はこれが三段になる、今度は二段が三段になる。 これからできる世界が三三ガ九。いままでは二二ンガ四ーニシである。故に、いままでは二千世界だった。二が、西が支配したのはそういう意味からでもある。 決して偶然ではない。よく神道によっては二つずつ手を叩く(火の時代ですので二礼三拍手が本当である)、それはやはりそういう意味である。之からは三つ叩く、故に、今度は一段殖えるわけである。 その一段殖えるのが日本文化が加わることになる。今日までの文化は月と地で、今度日が出て日が加わる。日すなわち日本である。 いままでは日が下で地が上になっていた。地がアジア諸民族、アフリカの土民など、白人は月の系統の人種だから、いままでは月の文化と土の文化だった。

五六七をミロクともいう、すなわち完成世界である。釈迦は五十六億七千万年と言った。五六七とすると、あまりはっきりするから、十と億を入れたのである。 これはあまりはっきりしたのでは、経綸ができなかったのである。それで、ミロク神とか、ミロク仏とか・・・そういうものが出るんではない。 ミロク菩薩は釈尊のときに出た。で、ミロク完成世界の形は三三三となる。も一つの意味は月の数は三五の月といって、三五の数である。 その三五へ日が一つ加わる、それで三六となる。もう一つ、昭和八年、十五日と二十日の日に月が金星と土星を呑んだことがある。

これは、ミロクに関して神秘がある。あの日の月は四日月である。三五の月は三日月をさすので、月そのものは三五で、月の一番照ってる(張ってる)のが、三五の十五の満月で、その三五の月へ四日月ゆえ三加わる。 一つ加わると日月ということになるのであって、金星と土星ということは、あらゆる物質ということになる。この翌年に皇太子殿下お生まれになり、その御名には日月がついた明仁(明⇒日⇒火、月⇒水・仁⇒人⇒「人」というのは霊と体ですから霊体(霊が主になる)と結ぶとなる。又ヒトとは火・十⇒火を中心として神となる。二は天と地、陽と陰、霊と体を表す。)これにはよほど関係があると思う。 ミロクということは、だいたいそういう意味があります。」

メモ10:色霊と言霊との違い。色のほうは目で見るほうで、言霊は耳で聞くほうです。それからアとンということは、「阿吽(あうん)の呼吸」と言って天地のことです。 アは天でンは地です。それでンということは生むということです。ですからアイウエオです。ですからンがおしまいということは地になるわでけです。」

メモ11:「片仮名、平仮名、漢字の起源とその働き、および漢字制限が行なわれたり、小学校で片仮名を教えませんが、これはいかに考えるべきか?」 「漢字は一番古く、次は片仮名、一番新しいのは平仮名です。また漢字は体で仮名が霊だからぜんぜん漢字をなくして仮名だけにしてしまうのはいけない。 言霊を表わすのは仮名ですから。姓名判断でもいままでのは言霊の音は研究されてない。字を見た感じとか、画数、陰陽、または五行で判断するがこれはその先生によってもいろいろ違う。 絵なんかでは墨絵は霊で彩色画は体であり、また書は霊で絵は体になります。 漢字制限はいいですが、必要ない字まで憶(おぼ=憶えるは、「心」と「意」です。「意」は「心に音(おさえる)」という意味。)えることはいりません。しかし片仮名はいりますね、英語なんか書くのはやはり片仮名でなければ、「とるーまん」では感じが出ません。 片仮名は霊であり男、火、直ですが、平仮名は体であり女、水、曲です。」また「平仮名の名前は画数をどのように数えるべきか?」「平仮名の画は「い」は二画、「ろ」は一画です。

メモ12:他人の穢れた言葉を耳にしたならば、ただちに清い払いの言葉(言霊)をもってこれを清めなければならない。

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メモ12:「各行の言霊の働き」

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●ア行は天、火、霊の働きで、●オ行は地の働きです。●ウ行は中間。

●ア行、基礎音、上の働き、例えばアタマなど。

●カ行、物を区切る働き、カ行者の人は几帳面です。

●サ行、天狗の音、サ行音の人は天狗で、言い出したら聞かない。サ行音が二つの人は特にそうです。

●タ行、物を強める働き。

●ナ行、地の音、七の働き。

●ハ行、閃く、また火の働き、八。

●マ行、女性音、オミナなど。目と芽も共通している。人間も赤ん坊のとき目があくと見えるようになる。 木も種から芽が出るということは、目があくために物が見えるようになるに通じてる。女の子を「め」と言うが、「め」は体の働きであり、水である。 名前でもマミムメモの音がつけば女らしいところがある。眼はまた日月である。天理教では月日様と言うが、これは陰陽が逆である。 日月と言うのが本当で、人間も右手を多く使うのは右は体になるからである。

●ヤ行、速度の働き。

●ラ行、龍神の働き。

●ワ行、和、輪、柔らげる働きです。

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「アイウエオは基礎で一番霊的になる。後は体的の働きが強い。■「ア行は基音であり、また霊になるのです。
物質的な働きはないが音としては最高です。■ア行いかは後の全部は物質的働きになる。
言霊では■アは天、■オは地、■イは天に近く、■ウは真ん中で、■エは地に近い。■ア行は根本で、■カ行サ行などは枝になる。

■カキクケコは決る言霊。

■サシスセソは一番問題な言霊で、天狗の働きになる。

自惚れ、自慢、威張りたがる。話をしてもこの音のある人には負ける。

特に女のサシスセソはよくない。ある場合は上になければよい。

■マミムメモは女性的。

■タチツテトは強い、人に負けない。

■ナニヌネノは智、女によい。

■ハヒフヘホは火で、霊的働きがある。女などこの音が入ると縁遠い。

■ヤ行はア行と同じ。

■ラリルレロは蛇に関係がある。龍神が憑り易い。

■ワ行はア行に似ている。

女でスミは、スは天狗の働きで、女性的でいいようだが、スは一人で、強く、人に頭を下げない。
天の行のある人は宗教心がある。
濁音は物質欲が強く、唯物的である。
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名前は非常に運命に関係がある。どうであろうご自身と比べてみてはいかがであろうか・・・。大体80パーセント位は当たっているであろう。後の20パーセントは奥に潜んでいる場合が多い。
名前は非常に運命に関係がある場合には名前を変えていくとよい。仮の名前にするとよい。

○必ず一度は没落する画数。四画というのは。どうもそういう傾向がある。太一・文子・友子などなど。下についているのはかまわない。たとえば善太郎とか・・・。
令(零)というのは、数でないという字になる。これはどうしても、生き別れ、死に別れになるおそれがある。女の子の名前で、子をつける場合、これは画数、言霊には関係はない。

○名前をつける場合いに霊が相応していれば良いが、霊より名前のほうが良すぎると調和しないから失敗する。だから天という字を書くと、必ず失敗する。普通の人間は地に住んでいるから、天じゃ高すぎる。天皇は別です。

○人間の名前には「大」の字を、決してつけちゃいけない。「大」の字は一番位が高い名前です。一人と書くからです。国としては天皇になり、神様としては一番最高になる。だから良過ぎるんです。ですから「大」の字をつけると必ず悪くなる。 鈴子は我が強い。弘子でもあまりよくない。変えた方がよい。

○一郎という名前の場合は「一」はもとって言って一番上ですから、そこで霊的に親から割合に早く離れるわけなんです。言霊からいけば「ス」がそうですし、「スミ子」だとか、 それから・・・霊返(たまがえ)しして「ス」になります。「スズ」もそうです。「ス」は一人と書く、ですから自分が一番上にならないと承知しない、家の中でも一番いばりたがるんです。 たいていそうです。で、一郎ってのも一番上になるんで、そこで親のそばにも長くいられないのです。子供が大きくなってから両親と別居の生活をしていることが一般に多いようです。一軒の主人にならねば承知しなくなっちゃうわけです。
静(しず)子は魂返(たまがえ)しで「ス」になり「ス」は一人と書くから、名前が良すぎて苦しい。

○養子は女の家が主体になる。養子を迎えるのは養子が女になるのです。名前で「三」の字がついたのはたいてい養子になる。例えば喜三郎とかです。「三」とは女の働きなのです。 姓名は非常に関係があり、名の言葉が働く。姓名を思っても働く。根拠は言霊である。三のつくのは女の働き、よく養子に行ったり嬶(かかあ)天下になる。

○姓名の言葉、文字、想念は、運命に大いに影響します。人が名前を呼んでも言霊が働き、また思っても働きます。それが運命に影響するのです。 で、姓名でも文字と言霊の両方から言霊は霊、文字は体となって働くのです。だからいい名をつけなければいけません。が、姓名は生まれながら運命通りつくのです。 これは産土の神が人間の手を通してつけられるのです。ふつうの人は名前は人間が勝手につけるように考えているが、実際はそうなのです。だからその人の御魂相応につけられるのです。

○言葉は言霊界に響くと活動が起り、種々の物質まで変化するのである。番肝腎なのは苗字と名前で、天地、陰陽になることです。姓は天で名は地か水がよい。姓と名がともにア行のはいけない。姓名を合わせて字画が偶数のほうがよい。

○基礎的知識としては、名と姓は天地になる。陽陰というようになるのがよい。姓が天なら名は水とか土が一番よい。霊返しは、オカダでも、アはア行、オは水である。 タが一番上の名と一緒になり、タの行が主になる故にアとなる。モキチ、キチはイ行、モにつけるとミになる。このようにオホヌマはア行、故に名はオ行がよい。 偶数、奇数いずれがいいかというと、字画の合計が偶数になればよい。母と子では、育つには名が合うのがよい。それは画数が働く。 一方が偶数なら一方は奇数がよい。夫婦でも偶数と奇数にした方がよい。サシスセソは二つ付けてはいけない。字の意は、名の意と合わなければいけない。合わぬとその子は出るようになる。

○言霊は霊で画数は体になり、霊体関係している。画数のみでは霊がないから体ばかりとなる。今迄は、木火土金水・・・五行の組合せ、字の意味、画数等を主としたものである。 また、天地陰陽で決めるのがある。姓の上と名の下を両方合して判断するのもあり、いろいろある。字義などは割合い正確である。 夫と妻が画数が同じだと離れる。画数もたしかにある。字の意味や字の配り等、ややこしいのはいけない。第一は言霊である。

○言霊はいろは四十八文字、五十音の組合せでみる。性と名は陰陽にする。姓が陽なら名は陰が本当である。一字一字の働きがある。 マ行は女性的。サ行は強情、談判などすると勝つ。サ行音の二つある人は凄い。三つになると変る。一つ位がいい。 これは天狗界の言霊で、天狗の働きで、威張りたがる。そして、しっかりしてやり通す意志がある。
信州は天狗が多い。(シナノ、シンシュウ)言霊が基本で、言葉の霊である。陽を主にし陰を従にするのが根本。人間も後ろが陽で、前が陰。

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「言霊の共通性」

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歯と葉、目と芽、鼻と花、皮と川などのごとく、同一発音のものは言霊的に、共通の意味をもっている。
歯は一種の骨、すなわち骨の枝の先という意であるから、植物の葉と共通している。
木が枯れる場合まず葉が枯れる。人間も年をとるとまず歯が抜ける。目と芽も共通している。
人間も赤ん坊のとき目があくと見えるようになる。
木も種から芽が出るということは、目があくために物が見えるようになるに通じてる。
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言霊というのは、原日本語(大和言葉・倭詞)にもとずく「上品」な言葉によって「活動」し、その音韻の波長をキャッチできる人によって、 受けとめられるのだ。(シズカニ→ハイワカリマシタ=受け入れ)言靈のみ働きは「万言文(よろずことふみ)造り主の神様、言知(ことしろ)の神様」が決められた根本であります。 像形仮名造根(そうかたかなつくり)=「天皇の勅により神人形(ひとかた)作」せよとある。

ちなみに不可思議の「S音」を挙げれば、いずれも「静か」の言葉を極める言葉になる。「鎮める」「静けさ」「清水」「涼しさ」「白む」「白々」「白ける」「滴」。 音読みでは「清純」「静ひつ」「静止」「静物」「静寂」「静穏」「静閑」「死」など。 なお、神輿をかつぐときの力声は「ワッショイ」の、ワとは、五十音の最後の行である「ワ」を象徴した重要な言霊であることです。ワの言霊には、世界の平安を祈念するための意味がこめられています。 そのワを背負う(ショウ=ショイ→引き受ける)は、「ア行からはじまった万世がラ行を無事はたし、最後のワの世界を成就せんと神が願う気持ちを、 人も共有する」の意味が隠されています。そのための方便として、祭りではみんなが和やかな気持ちをもって掛け声を出し合います。

当然ながら、セイヤとかソイヤ、スイヤではまったく用を足さないばかりか、などの系統は、悪霊を招く言霊である。また神の経綸に具現された言霊を無視し、下劣な掛け声をこのまま続けているかぎり、 当事者達の頭上には必ず100%の不運が訪れるでしょう(どんな形であろうと)。 ましてや神輿の上に人が乗るなどとはとんだ無礼になります。(神輿の形自体には異論がありますが)。

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「アイウエオ(神様の個性を現したのがアイウエオカキクケコ・・・である)・・・の五十音の中のヤ行のイ、エ、の完全重複音がある〈神様が二度現界に出現してこられる〉が二字を引いた四十八音には、その一音一音に意味があり、またア行カ行というように、その行にも意味があります。 この五十一音には大変深い意味がありまして、これを解くことによって、人類の過去の歴史もわかり、将来の世の様をも予言できるのであります。 人類の歴史は五十一音の順序で発生し展開されてきまして、現代は螺旋に廻る時代の<ラリルレロ>の時代に入っております・・・」

●濁音の意味はそのものの言靈の働きを【1】強める働き、【2】濁る働き、【3】振動を起こす働き、となります。神々(担当の神様)の強める働きであります。良く出来ているものです。

天地創造の発生時代には、アイウエオ、アエイオウの神様が働く。そしていよいよ神策ご成就の時に、ワ行のワエヰヲウの神としてまたご出現になります。その四十八音の神が、 火の洗礼のときに出てきて活動されるのが、ヨハネ(四十八音)の働きになってくるのです。四十八柱の神様からさらに母音(「母音とはつまり、あ・い・う・え・お (a,i,u,e,o)のことだ」)を除くと四十三になります。 母音(ぼいん)の神様は第六次元の神界のみ働きになってくるのです。

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言霊というのは「アイウエオ」が基本です。

アカサタナハマヤラワというのは九大母音で天の行ですから火です。

キシチニヒミイリヰというのは火の言霊です。 ケセテネヘメエレエというのは水の言霊です。

オコソトノホモヨロヲというのは下ですから地です。

タスツヌフムユルウというのは結(神霊)の言霊です。

それで中間は水ですから、そこで名字が火の場合には名前を水にしなければならないし、

名字が水の場合は名前を火にしなければならないので、そうすれば合うわけです。


◆そこで「オカダ」というのはア行です。最初の「オ」はオ行ですが、言霊(たま)返しでゆくと下の字支配するからア行になります。 「モキチ」は言霊返しで「ミ」ですから、火と水でちょうど調和するわけです。こういうことを知っていれば名前をつける場合には非常によいです。 でこれが分かると、いろいろな神秘がすべて分かってしまうのです。

◆画数は、偶数が陽、奇数が陰。偶数の名の方がスラスラいく。全体で偶数の人はあまり苦労しない。親が偶数なら子供を奇数にするといい。伊藤、加藤等、オ行の人は名をア行にするとよい。

◆夫婦の場合偶数と奇数がよい。その場合どちらが奇数でも偶数でもよろしい。夫婦どちらも奇数の場合は悪い。姓と名と全部で偶数になった方がよい。物が滑らかに行く。偶数、奇数の働きはいろいろ関係がある。

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ア・あ イ・い ウ・う エ・え オ・お
カ・か キ・き ク・く ケ・け コ・こ
サ・さ シ・し ス・す セ・せ ソ・そ
タ・た チ・ち ツ・つ テ・て ト・と
ナ・な 二・に ヌ・ぬ ネ・ね ノ・の
ハ・は ヒ・ひ フ・ふ ヘ・へ ホ・ほ
マ・ま ミ・み ム・む メ・め モ・も
ヤ・や ヰ・ヰ ユ・ゆ ヱ・ゑ ヨ・よ
ラ・ら リ・り ル・る レ・れ ロ・ろ
ワ・わ ヰ・ヰ ウ・う ヱ・ゑ ヲ・を
ン・ん

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●『ア行(ア行は基音であり、基本となる。霊になる。物質的働きはない。)』で世が開いて、(日本誕生)

●『カ行』で神々が出現し(文明定着までの期間)、

●『サ行』で作物がつくられ(狩猟から農業の時代)、

●『タ行』で戦いの歴史となり(日本統一までの歴史)、

【戦国時代 (日本)〜15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である⇒戦乱の時代⇒1553年〜1616年】

●『ナ行』で何でも凝った文明(面白い・精巧・充実・手・複雑・精緻・趣向・渋い・精密・独特)となり、

●『ハ行』で繁栄への知識を広め(明治維新と産業革命)、

●『マ行』で真と魔あるいは聖と俗の葛藤(世界の大戦)、

●『ヤ行』でやっと神のご計画わかるも(神の経綸=御神示)、

●『ラ行』で螺旋に廻り終末の世が激しくなり、荒々しい天変地異が起こり、その試練を経て、

●『ワ行』ですべてが和す。大体がこのようなことである。


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【ア〜ンまでの言霊訳】

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『ア/A』 無から有として現象化の働き。開く(上の方へ上昇の)働き。 天/日/霊/火/陽/神/明/光/五

『イ/I』 神の意思。イの一番の働き 意力 意

『ウ/U』 生む働き

『エ/E』 分かれミチ。体(ヨコ/物質)の面 枝/支

『オ/O』 大きい 神

■『アイウエオ』【神の意力により生んだものを神の技で大きくする】

『カ/KA』 縦(タテ)の働き。男性的な働き。陽の働き。 神/火/日/陽

『キ/KI』 万象の一番最初の種。神の霊気が物質化、生物化した始まり。気、木。無から有を生じる大元。生命の木(キ)聖書、第3章の6、7:天息、地息、太陽も11年に一回呼吸する(黒点の一番大きいとき)。地球は1分間に16回位息。人間は1分間に16、17回位。 気

『ク/KU』 クッと詰まる働き。笑い方でもハッハッハッとクックックッとでは違うのはここから来る(ハは開く、広がる。クは詰まる)。

『ケ/KE』 細かい、細い 毛 『コ/KO』 コリコリ固める働き 子/個/固

■『カキクケコ』【神の気を詰めた微細の世界を固める】

『サ/SUA』 (スァ)本物と偽物(善悪)を区別する働き。差。差別。割く、裂く。避ける。離れる。裁く。砕(さい)。細かく割れていく運動(砂/サ)。咲く(蕾が裂けるので咲く)。A: 発展 B: 破壊、分裂闘争。スの言霊と関連が深い。スのみ働きの開き方が悪いと裂く方のサになってしまう。

『シ/SI』 1: (サが発展して発散する方の陽の働き)分かれて先に伸びて展開する働き、救いの働き。2: (陰の働き)その人の魂を鎮魂、鎮める働き。静か。死。止。

『ス/SU』 締めくくり、統一、決定。終止符の意味。統一の力そのものの霊動を起こす。統一の果として「ウム(生む)/新しく生まれてくる現象(スー`)」。頭の義。枢機のス。中心の働き。物事を停止束縛の働き<ございまス>。スー(数:一切を生じる)。肉体やその人の運命を左右するほどの言霊。五十音の中央に位置する。 主/元/玄/五(数霊の真中で同義)

『セ/SE』 (スェ)受けて公平に分ける働き(正す働き)、左右に振り分ける働き。浄まる働き。分け方は1,2の両面あり。1:陽的な働き。主体性、積極性の働き 清/背/施 2:受け身、消極的な働き。せき止める働き。 瀬/勢

『ソ/SO/スd』 拡大の働き。 1: 祖( スd、スの一番最d)後2: 袖/袖のソ、裾のソ、外のソ

■『サシスセソ』【裂き、割き鎮めて主のみ役を分けて拡げていく】

『タ/TA』 成就、完成の働き。<○○しましタ>

『チ/TI』 普遍力、エネルギーのもとの、精神素の働き 霊/地/血/雷

『ツ/TU』 押し込んで詰める働き。つまる、詰める、積み重ねる。鎮もる。そこへ固定する働き(ふろしきで包む)。一定していく働き。詰めるをつつけば、続いてくる(ツ)。だから罪とは包む積むとなる。その反対は平たくする働き。水平になる津。

『テ/TE』 掟、法の働き 手

『ト/TO』 止まる、留める働き、泊まる、宿るもの、入れ物、容器の意味。 戸

■『タチツテト』【なりなってきたものを万象の掟で止める】

『ナ/NA』 成り生り也り鳴りの働き 『ニ/NI』 繋ぐ働き。(十字や上下左右に)結ぶ働き。会社でいえば副の役割。

『ヌ/NU』 滑るように抵抗もなくヌルヌルと霊から物質化する働き 無限を表わす 零

『ネ/NE』 働き 根

『ノ/NO』 天下って伸びる働き。大根元の神意そのものが天から降りて、この三次元世界に垂れ下る。

■『ナニヌネノ』【再生・転生をさせながら根となって伸びてゆく】

『ハ/HA』 1: 開く(下の方へ/横に広がる)働き。陽と陰が開く、万華して開く。末広がり。こうすると集散離合が起きるー「ル」になる。強めるとパ <パンニャ智> 2: 散る。

『ヒ/HI』 ヒ、日で太陽系の中心からスとなる。1: 非常に暖かく大らかな=日/火/陽/霊/神/五。中心の神の意。色でいえば紫がかった赤。 2: 非常に冷厳な世界。氷。悲。

『フ/HU』 1: 吹き分け 2: 吹き寄せ 吹き散る働き。吹き出す(物質化)。正す働き。 富/福 フの働きがフィとなる要素あり。

『ヘ/HE』 向こうへ行く。

『ホ/HO』 強く燃え上がる働き タテに働く。炎/火

■『ハヒフヘホ』【主体である日を開けて吹き上げて万生が燃え上がってゆく】

『マ/MA』 不思議な働き(絶対力、妙智力)<米+水+火=ご飯>。うまい働き(マ力)。真中心の働き。 1: 真 2:魔

『ミ/MI』 横の働き。水の働き。陰の働き。 霊/水/身/実 。

『ム/MU』 無生(ムウ)無産。産土(うぶすな)の力。無/ゼロ/零/霊/空 。

『メ/ME』 止むにやまれない力で出てくる働き 芽 『モ/MO』 1: 萌える働き。モクモク生える。2: モヤモヤ 。

『マミムメモ』【真の実は無にしてやむにやまれぬ芽となり春になって万象が萌え出て拡がっていく】

『ヤ/YA』 1:タテの働き。上昇の働き。 *矢/屋/天 2:広々とした原野、平野、平原、邦、邦、山 野 。

『ユ/YU』 1: 湧き出ずる働き 2: ユラユラ消え行く。

『ヨ/YO』 与える働き。

■『ヤイユエヨ』【天から湧いてくるものを与えて転換する世へ】

『ラ/RA』 陽の回転の働き。左回転。 太陽

『リ/RI』 しめつける働き。求心力。物事を固まらせる働き。右回転。戸締リ。リ(利)口。

『ル/RU』 ほどいて回転する。遠心力。この場合の回転は両方(左右、陽陰)の回転である。1:陽の面では、張ル、貼ル、芽生えル、ハリキル、ハッスル、萌えル、初めルなど。2:散ル、流浪のル。ワカレル。締「リ」の働きとの調和が大切。

『レ/RE』 1:火(陽)の回転 2水(陰)の回転 。

『ロ/RO』 回転の働き。安定な状態。居間宮居のこと(呂=宮)。<ロクロ、ロール>

■『ラリルレロ』【ラルロの嵐が到来し、神の大ミソギを経て天地が間釣り合った安定した状態となり、神の文明が創られる】

『ワ/WA』 和/輪  『ヰ/I』 ガッチリと組む姿。 井。

『ウ/U』 美しい、うまい。

『ヱ/E』 想いを形にして表わし通信しようとする 絵 。

『ヲ/WO』 終り、完成 。

■『ワヰウヱヲ』【ガッチリ組んだ和を生み神の計画が成就して終わる】

■『ン/N』 一体化の働き。神人合一。自人一体。1: 産みだす働き。2: おしまい「ン(運)の尽き」。


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○2012年12月21日〜12月23日ころでマヤ暦(学術的にもマヤ人の宗教観や未来観を知る上で意味がある。マヤの長老・カオロス・バリオス氏のインタビュー
マヤ暦が終了しても、世界はそのまま続いて行くしわれわれの生活も続いて行く。しかしながら、これまでとは少し違った基盤になるという事です。 マヤ暦の終了日が表しているのは、変化が集中して起きる特定の日ではなく、変化が現れる全体の期間を指し示しているに過ぎない。この変化の期間は、人類が調和を失ったとして創造主からの懲罰を受けるということでもない。 人間が精神的な成熟過程に入るために、これまでの生き方の方向を転換することが迫られるだけであると。)
が終りを告げるが、 その時には一つの文明が終りを告げ新しい神の文明(新真文明・霊文明)がやってくるのである。此れも全て何十億万年からの神の御経綸なのであるが、
これも全てラ行に隠されているのである。 唯一ついえる事は、小生も含め人間一人ひとりが改心さえすれば善い事なのであるが・・・。大峠の様を見た一説がある。(大本教の出口聖師が見た有様)死体が累々続くんや。その死体を踏み越えてなあ。 人が青い顔して、吐息をつきながら、生き残った人にあんさんも生きておりましたかと呟くんや・・・」どういうことか。これから起きえるものなのか、起きてしまったことなのか・・・。

また1947年頃大峰老仙(神霊)より授かったと塩谷が言う神示の一部です。 「あのな、人間はな、長いこと間違ったことをやり続け、魂も肉体も汚れてしまった。ところが『時』が来て、この罪汚れがごしごし拭い落とされることになった。また、 地球も汚してしまったから、これも洗い浄められ、修理されることになった。ここでいろいろな天変地異が起こってくる。人間もたくさん死ぬが、この大禊で魂も肉体も浄められた人が生き残る。 そしてきれいになった地球に本当の和(此れがワ行の わ である)の天国を創ることになる」。これからの世に起こりうるのが想像出来るでしょうか・・・。

この様子を見ていて一番悲しんで居られるのが神様である。人間を憎くてやるのではなくて大愛の心で相しているのであるがなかなか改心出来ないため、このままでは地球がだめになるからで、 あるいは宇宙そのもの(神霊界)にも影響しえないことが起こるからそうするとの事だが・・・。 今後神の火の気を強くするかどうかは神の御心次第で人類が意乗りを捧げ、その時期を延ばしていただくか、あるいは浄まった所を残していただこうという、天地の意乗りしかないのです。 全て神の意志次第でどうにでもなるわけで、太陽をさらに熱くなさることも、また月で冷やす事も全く神の自由自在なのである。

○ここに神示(啓示)の例を示すと★『終末とは、神界や宇宙天地の終末には非ず。進化途上の人類が、人知の行き過ぎに気付かず天地万生のあらゆる間釣り合わせの仕組み破壊すら招かん恐るべき反逆は、 許し得ざる限界と時を招来するを以って、その前に古く腐りたる人魂は改魂致さすか、大洗い致す外なき為、一段マコト文明期への大切り替えの方便として、 今までの在り方一切を大建て換え致す荒れさま世に起こるを終末と申させしなり。』

★人間丈の心にて考えて放つ言の葉を玉の緒といたすは信よ。 万象創造の神霊の霊力や仕組みの法より離れし人間が、勝手な屁理屈造りて申す言の葉信じてアオグが仰ぎ、人間に地の宝堀出す力先ずつける為、一時マコト神が神降ろし致せし方便の仕組みが信仰なり。 その時代は終わるなり。 それを判らす為行き詰まらす仕組みが「終末」と申させしものなり。 終末は同時に種人造りについで出来る選び子によるマコト神統一の文明への曙となるなり。

★『「火の神いよいよ燃え出でんとして、仏滅物滅の現象世に現われんとす」 神政復古の大経綸、神政成就への方便として、汚れたる地上人類火の洗礼期突入の為、 宇宙全般に神の火の精霊を増量、そのため一方、加減を誤れば、地球は大爆発の恐れが 出て参るので、急激な冷やしによりつつ、火の精霊を強くして行かれ、 次第に世界異常高温化へ、地上大建て換えへと持って行かれる大愛のみ働きと同時に、 来るべき人類様相の予めの御警告の型である。』

★『汝等は外より磨かるるを感謝しあれば、自らに浄まりて神の光通りやすく相成り、汝等、己の内より光により浄まり、みがかれ、明かな魂霊とミソガれ行き、 かくて汚れなき汝等を神は活かさん。 汝等を損わんとする邪霊は遠ざかり行き、求めざるだけに足早く天国入り致す身と相成り、かくして人類も悉く天国に住みなん。神にも人間にも心得違い多き世となりし為、 前にも申せし通り、世界を今一度大ヒックリ返し致し、火の海、泥の海と相成す天地かえらくの業目前に迫りあるよ。 なれど人間、神にお詫び申す心いくばくかをみてある神は、九分九厘迄まいりし時の一厘のドンデン返しの救いの業持ち合わせあるよ。せめてものことよ。 神には行きつまりは無きものよ。これからの世、心して往け、仮の教え(真如の教え)にては皆つぶれ行くのみ。バラバラに致せし世を一つに致す大仕組み始まるなり。』

★『今やその火の元つ国の国魂、人魂濁り、地の高天原濁りて、天の高天原に及ばんとす。 大ミソギのほかなく、五島を火島となさん愚かさを知れよ。

◆宗教というものは、この二、三千年の人類の導きのため出されたもので、決して永遠の真理を説いたものではなかったのです。
◆信仰というのはもともと、人間に地の宝を掘り出して、物質文明をおこす力をつけるため、主神が降ろした仕組みだったが、いよいよ時節が来たのでここで終わらせる。 そのことを人類に判らせるため色々な面で行き詰らせる仕組みを、神は「終末」と言わせたのです。

★そして<終末>というのは同時に、種人によって出来る<選び子>のことで、主神がなさろうとしている新しい統一文明つくりが行われる<曙>でもあるのだ、と神様は仰っているのです。 信仰が意味のある時代は終わることから仏滅(物滅)といわれ、終末であり、曙でもあるのが、これからの時代、二十一世紀ということです。そして最古でもやられていたように、 最後はスメラミコトが復活し、そして神と交流交感をされ、神意を伺いながら政治を実行されて行くことになるでしょう。取敢えずは宗教やら崇教がやって行くことでしょう。

◆物主な物、金中心の水の時代の終末です。

■以上の事を踏まえると相当厳しい状況が訪れることは、間違いないようです。そして、決して避けることは出来ないといわれています。
利他愛で、改魂、、霊相浄化、霊層昇華し、眠りから目を覚まし、真実を見る眼、霊眼(ひがん)を開く必要があるのです。
総体的に考えるとこれからは、世界の雛形である日本は常に世界の人々に発信していく役目であると同時に、痛みを一番先に味わねばならない国です。

●1.日本で最初の大災害が起きるようになるでしょう。
●2.日本は世界のひな型。
●3.やがて世界で大災害が頻発するようになるでしょう。
●4.大災害の時代にはいっていく。
●5.世界中の海面が上昇し多くの都市が沈没するでしょう
●6.大災害の時代は2017年まで続くでしょう。
●7.人類の数は1/3になるでしょう。
●8.食べ物がなくなるでしょう。
●9.海草類が助けになるでしょう。

★6の補足;人類は今まで薬を使ってきたが今後霊界が昼になるにつれて火素が増量し、今まで服用した薬は体外へ排除される。 薬毒の多い現代人はその時が到来すれば急激な浄化のため相次いで死亡し「人類は何分の一、何十分の一またはそれ以下に減ずるかもしれない。」 病気になるかならないうちに片っ端から死んでしまいます。これがキリスト教の聖書で言う最後の審判です。 日本人なんかでもごく三分の一・・・三割助かったら良い方です。あるいは助かるのは一割くらいかもしれません。 これがパタリ病(パタパタと死んでいく様子)ということである。

★今後、心していかなければならないのは地震による津波という訳ですが、海のちかく川の近くが危ないと言われている。津波による被害に巻き込まれていくとのことです。津波の高さは増幅して 百メートル以上のものが来るようですが・・・。高いところに非難出来る様に心掛けて行かな無ければならないと思います。出来れば日頃から近づかないように心掛けて下さい。 私事ですが神の岩戸が開く訳でありますから其れにちなんだ地名か町かだと思われます。例えば神戸→これは「かみのと」と読みます。福島とは神島です。此処も聖地ですので開けられる。岩手→「いわて」、之も開けられます。東北、これは引退された国万造主大神様 つまり艮(うしとら)の金神様がお隠れになった地方です。これは神代の時代に、古来東北方面(北海道の摩周湖に鎮もられたといわれている。アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー(山の神の湖)」という。

湖の中央に断崖の小島カムイシュ島がある。「カムイシュ」とはアイヌ語のカムイ(神、または神のような崇高な霊的存在)+シュ(老婆)の意といわれる。) つまりに艮の金神である正神の神を押し込め祭った方角です。これは人類共通の罪穢です。早くこの摩周湖付近での金神(こんじん)様の祀り込みをしなればならないのです。これは国(国立公園になっている)が本当の意味(霊的なこと)で分かって頂くしかないのですが・・・。其れとともに火の洗礼期なので在りますから・・・。 後は裏鬼門(福井県敦賀市明神町=敦賀発電所(つるがはつでんしょ)・(1号機は日本 最古の軽水炉=最古の商用炉は東海発電所1号機)・(東北方面⇒北海道の摩周湖を拠点からみた方位が南西が裏鬼門【金神様の火の霊統です】となり・福井県辺り)も気をつけなければならないと思われます。

摩周湖一帯の火山活動は約3万年前から始まった。山頂を失う以前の姿は富士山のような成層火山で、標高は2000m程度と考えられている。当時の安山岩質溶岩流が外輪山を形成している。

周囲は海抜600m前後の切り立ったカルデラ壁となっており、南東端に「カムイヌプリ(神の山)」(摩周岳・標高858m)がそびえている。湖内は阿寒国立公園の特別保護地区に指定されており、開発行為や車馬・船の乗り入れは厳しく規制されている。

艮の金神である正神の神を押し込め祭った方角は北海道の芦別山に押し込められたという説もあるのだが・・・。

とにかく日頃から自分自身もそうですが住まいの中、家の周りをよく浄めておく必要があると思います。今は火の気(爆発・火の火災)・水の気(水災害)・土の気(地震)この三つでこの世で起きて来ます。何も起きなければ良いのですが・・・。
神仕組み及び恨みの霊、憎しみの霊、そねみの霊、などの霊の活動により災害が増加していくでしょうが今の世界は全然気がついていないのではないでしょうか?。 さて身を守るの(生死を分けるときとか)が一番良いのは経験上天津祈言(あまつのりごと)の言霊が良いようです。


◆国万造主大神と造美大神が引退という時に、他の神々が造主大神を艮(ごん)の方向(北東・鬼門)の摩周湖へ押し込め、造美大神を坤(こん)の方向(南西・裏鬼門)の開聞岳(鹿児島県にある薩摩富士)に押し込めてしまった。 艮は丑寅の方角であることから造主を丑寅の金神と呼び、金神の中でも最も恐ろしい神として何人も近付かないようにしたのである。 ちなみに、この二柱の神の封じ込めを天津罪とし、大祓の中に暗号として残しているという。
◆東北・大震災=男神⇒国万造主大神様(クニヨロズツクリ ヌシ オホカミ)⇒艮(うしとら)の金神様。東北 出現。
豆知識1;男神 国万造主大神様(クニヨロズツクリ ヌシ オホカミ)⇒艮(うしとら)の金神様を女神の国万造美大神(クニヨロズツクリ ミノ オホカミ)が見送った地方が東北地方にある鳥海山(山の南側には夏、「心」の字の形に雪が残る)であるとされている。確かに富士山に良く似ている。

◆坤の金神=女神⇒国万造美大神(クニヨロズツクリ ミノ オホカミ)⇒未申(ひつじさる)の金神が、弥々(いよいよ)奧役となりて地の神界を主護いたして三千世界 を一厘の経綸で立直す役となり南西地震を起こし出現。

★今の日本中が被爆地となる日が近づいていること知れよ。被害を最小限に食い止めるためには、全原発の即時停止と核廃棄を進めなくてはならないのであるが・・・。何故わからんのか!見せているのに!!之でもわからんのか!!と神が仰(おお)せられるように思うのである。

★生き残らなくてはならない人は、神ご自身がお守りになる。神が守護されるのは、神のご恩に報いようとした人間(「種」は残される。)だけのようである。また生と死は、単なる役割分担に過ぎないのでもあるが・・・。

一休み;○宇宙にあると言われるフォトンベルトというものの話しです。フォトンベルトというのはプレアデスと太陽系を取り囲んでいるとされる、光子の帯のこと。そして私たちの太陽系がここに突入するのが2012年12月22日と言われていて、 2万年以上ぶりのことだとか。そしてこのフォトンベルトを太陽系が抜けるまでには2000年かかるといわれているらしい。 フォトンベルトに突入する2012年12月23日から3日間は太陽の出ない暗黒の世界になるそうです。もちろん星も見えないそうで。強力な電磁波?により現在の電気はいっさい使えない状態になるそうなので、もちろん電気の光もありません。 太陽が全くでないため気温もかなり下がるそうで、元々冬である北半球は一体どのくらいの寒さになるのか想像もつきません。

そしてその三日間が終わると今度は元の状態に戻るという説がありますがが、フォトンベルトに突入して強力な電磁を浴びることによって、人間は進化するというのです。 全員が進化できる訳ではないようですが、遺伝子の中のまだ使われていない部分が目覚める可能性が高いとか。更にフォトンベルトの中に入ることによって、今までにない新しいエネルギーを得られるとのこと。所謂これが2万年以上前にも在った霊的文明の始まりなのです。

○2012年12月22日からフォトンベルトに地球がすっぽりと入る。

○現在も地球の軌道の一部がフォトンベルトに入る時期があり、その時期になると火山活動や地震などが頻繁に起こる。

○最近自然現象の規模が大きく頻繁に起こるのはフォトンベルトに入っているから。


○地球がフォトンベルトから完全に抜けるのは2000年後。


○アメリカの著述家グレッグ・ブラディン氏は、「フォトン・ベルトによって地球磁場は年々減少し、2012年にはついに地球磁場はゼロとなる。 それがゼロポイントである。またその時点で地球の自転は止まり、逆回転をはじめる」と述べている。

○2012年12月23日というのはマヤ暦の終わりの日と全く同じ。

○人と神が一体となって共生する時代が始まるのだといわれてる。(現在は初期段階のようですが・・・。)

○「アセンション」という言葉がある。ニューエイジ・グループの人たちの間で常識的に使われてきた言葉だ。
「アセンション」とは、本来「キリストの昇天」そして「昇る」という語句で使われるが、ニューエイジの間では三次元から別の次元に移行するという意味で用いている。
われわれもこれから、この言葉の意味をじっくり噛みしめなければならない。
「アセンション」のために準備を始めなければならない時がもう来ている。

○われわれが暮らすこの空間は、時間軸と次元軸が交わる形で構成されている。さらに宇宙の基本要素とは、意識とエネルギーである。
アセンションが起きるということは、まったく新しい時間軸がスタートすることになるという。
さらに、アセンションの後の新しい時間軸のなかで人間は、本来の人間そのものに立ち返るという。つまり、アセンションすることで、肉体をもって生まれ変われるチャンスは今回しかないのだそうである。

○地球の地軸=地殻変動である。いわゆる地震でもある。

○宇宙の中心に地球あり、そのまわりに日月星辰あり、総て地球が中心であり、他の火星とか水星とか色々なものには、人間は住っていないのである。 この地球を統治する中心が何かと言うと、地軸又は地柱と言う。この神様の事を天照大神と申上げる。この神様が本当の統治権を持たれて居られたのである。 つまり人としてお産れになったのでお姿があるのである。

さて皆様はこれを読んで如何とらえるか、一人ひとり考えて之からの日々を送っていただきたいものである。


『公開いたします』今までは祝詞といったものはの神職方々しかやっていませんでした。此れからは誰でも出来る祈言を公開いたします。しかも最高奥義を公開いたします。 今世紀始まって以来の陰陽言霊であり地球規模の言霊であり全世界通じる言霊の威力の力が入った言霊なのです。これを唱え日々御自分の回りを清める以外に救われなくなるでしょう。 一刻も早くこの言霊の理解して戴きたいものです。皆さんが救われるのはこの方法以外に無いと思われます。此れまでいろんな事をやってきた結果この方法が一番最高の祈言(のりごと)であり言霊だと確信いたしました。
これ以上の祈言(のりごと)の威力があるのならばお教え戴きたいものです。仏教でも神道でもかまいませんが・・・。本当に死にたいものか生かされたいものか御自分で選んでいく時代です。
分かった方から早く修得して頂きたいと思うのでありますが、良いことはどんどん取り入れて実践して行くことが要だと思われます。色んなしがらみ等は何の役にも立たないと思うのである。 いろいろな経験と数々の神に関する書(神書)から皆様方が言っている神一厘の仕組みも小生なりの考え方ですが『取りあえず』は下記の言霊と実感い致しました。大奇跡が起きます。 実践してみてください。言霊に多少係わった方ならお分りになると思いますが・・・。読み方は、力まずに水の流れの如く読んでいただければよろしいかと思います。 息継ぎの仕方は「 、」で息継ぎをした方が宜しいかと思います。

極微実相玄幻子界 高天原(ごくびじっそうげんげんしかい たかあまはら)に神魂霊(かむたまひ)燃(も)え出(い)で坐(ま)す
神(かむ)ロギ神(かむ)ロミのみ力(ちから)もちて、 万生(ばんせい)と人(ひと)の御親神天津主(みおやかむあまつすの真光(まひかり)大み(おほ)神(かみ)
祓戸(はらひど)の大神(おほかみ)たち、もろもろの逆法魂霊(さかごとたまひ)の包み(つつ)気枯れ(きが)をば真光(まひかり)もて
開陽霊気与(はらひきよ)め霊削(みそ)ぎ給(たま)いて、神(かみ)の子(こ)の力(ちから)甦(よみがえ)らせ給(たま)えと申(もう)すことの由(よし)を
畏(かしこ)み畏(かしこ)みも白(まお)す
一拝
御親元主真光大御神  (みおやもとすまひかりおほみかみ) 護(まも)り給(たま)え 幸(さきは)い給(たま)え
二回拝誦 一拝
惟神 魂霊 幸(かんながらたまひちは)いませ
二回拝誦 一拝
四拍手 一拝


数多くある神道や宗教でも真光(マヒカリ=まことの光)という言霊を発言している宗教は殆どありません。マヒカリと発言することで、神様の光と通じ、神通力によって一切のものを浄化する力が出てきます。 極微実相玄幻子界とは非常に細かい粒子の世界、霊の世界よりもさらに細かい神々の掟の世界(因果の世界)に連なるマ中心に神様の魂が燃え出で座します。
火の霊力(回転)と水の霊力(回転)を用いて、
すべての万象万物(大自然、大千三千世界)、生命の産みの親神様である天界に光り輝く大神(正神、金龍神)よ、祓戸の大神(台風や嵐、雷を起こす神々)たちよ、もろもろの過てる魂霊を包み、衰えている精神力に、神の真の光をもって陽気を挿入し給いて、魂霊の曇りをとき払って人間本来の霊力(潜在能力)を甦らせ給えとかしこんで、明白(うそ偽りなく)にお願い申しあげます。
すべてのはじまりの元神様(主の神、エホバ、ヤハエ、正観音等)よ、護ってください、幸せにしてください。神様のみ心のままに幸せに導いて下さい。という意味なのです。 水の時代から火の時代に切り替わった以上、この『意乗り言』は重要な言だと思われます。

御親元主真光大御神様を神道や回教、仏教界の方は次のように呼んでも問題ありません。
例:御親元主天ノ御中主真光大御神  御親元「天照主」真光大御神  御親元主「弥栄(ヤハエ、アーラ、エホバ)」真光大御神  御親元主正(聖)観音もしくは御親元主アミダブハ等々)

注:決して一宗教を押しているわけでは御座いませんのでご理解ください。何遍も言いますが、良いことはどんどん取り入れて実践して行くことが要だと思われます。 其れによって最近皆様方が好く使われる言葉で『パクッてる』という言葉をお使いしている様だが、又一つのいち宗教の固有財産かのようにしているが、良く考えてみよ此の世に神という存在が在るならば一人のために能力遣わしたものか。
違うでしょう。その人を使い万人の方々を導き豊かにすることが神の御意志であろう。それが我ごときのみの固有財産かのよう面こと事態がオコガマシイのではないか?元々神より授けてもらったものなのに・・・。 (先人達はどの様に使うかなどは考えてはいないだろうと思うのである)尊重することは好いが皆が良くなることは其れでいいではないか?
個人個人が力を出して国々が知恵を絞り行くことがこの地球が良くなることではないか?。力を出し切って良くしていくことであろう?其れが嫌なら金庫に鍵でも付けて死ぬまでそうしたら好いではないか・・・。 もうごちゃごちゃ言うのではなく寛大に成る事ではないか?。まぁ其の事により利益を上げることは良くないとは思うが・・・。


豆々知識-1;余談ですが、この世の“月日”の本当の心を知っている者は全くいないだろう。(天理教のお筆先より) と言われていたのですが茂吉大先生により解き明かされました。またこれまではどんな神であっても目には見えないと言っていたが、これから新しい世になると、その神が本当に現れて話をするようになるという。 また、これからは何を言っても思っても、そのことがすぐに現象となって現れてくるという。なんと不思議なことか。  そのようなことがすべて終末の大峠を境にして見えるようになるという。だから早く身魂磨きを始めなさいと言っておられる。 で今世紀でインターネット(通信)を盛んにしているのは神様が出現してくる為と御声が聞こえさせる為であるというのである・・・。

これも神の経綸の一つです。また現代ではインターネットの次に来る世界が、量子(物を動かさずに状態だけが移動する)ネット世界に入ろうとしているのである。一つ段階が上がったよう気がしてならないのである。 流転であり、物質的である。全ては状態である。この状態こそ量子の世界が入ろうとしているのではなかろうか。小生はまだ一般に社会に携帯やらパソコンが普及していない時代に御神示の示された書を見たことがある。 携帯でいえば人間が歩きながら電話が出来るようになると。パソコンでいえば家にいながら全世界のことが分かるようになるとか・・・。そういう時代が来るという御神示である。

豆々知識-2;之からの世は関東が栄えないと日本は良くならないのである。首都は日本の心臓部であります。関東地区の責任は重要である。それに伴い支援をせねばならないのである。

豆々知識-3;「亡骸」という言葉には、失われた命を悼む気持ちがこもっている。祈言を拝誦。(「亡骸」に対しても非常に良い。)

★ あぁ惟神(かんながら)々々(かんながら)神(かみ)は愛(あい)なり力(ちから)なり生き言霊に光あれ!!

浄(きよ)めの祈壽言(の り ごと)

仏僧の方は天津祈言の代わりに拝誦。


紫微実相宮(しびじっそうきゅう)にましまし慈意妙陽(じいみょうよう)の如(ごと)く非体(ひたい)の戒雷(かいいかずち)のごと震(ふる)い給(たも)う
元主聖観音真観清浄(もとすせいかんのんまかんしょうじょう)の光(ひかり)もて諸々(もろもろ)の逆(さか)ごと魂霊(たまひ)の包 (つつ み)
気枯(きが)れをば祓(はら)ひ浄(きよ)め給(たま)いて
一切(いっさい)の病苦厄(やまいくやく)を除(のぞ)き祓(はら)い給(たま)えと慎(つつし)み 伏(ふ)して請(こ)い祈(ね)ぎまつる   
御親元主正(聖)観音  (みおやもとスせいかんのん) 護(まも)り給(たま)え 幸(さきは)い給(たま)え    南無福寿海無量(なむふくじゅかいむりょう)たらしめ給(たま)え   


伏(ふ)して⇒視線をそらして下を向く
請(こ)い⇒許しを求めたり願ったりすることをいう意味
祈(ね)ぎまつる⇒神の心を和ませてその加護を願うという意味

小生は、寺(照=光)に行く時は、上記拝誦したり致します。

生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-22-1

『生と死について』 生死という問題は、非常に複雑な要素をもっています。まず第一に、そのことを理解しなければなりません。生と死という現象そのものは、 簡単に言ってしまえば、生きているか、死んでいるのかという二つしかない。また、生と死とかいう現象は、形の上では皆同じです。しかし、その内容は一様に違いがある。 たとえばひと口に死といっても、救いの死と、裁きの死と、自然死というものがある。自然死ということになると、自然に死ぬ、すなわち枯れて死んでいくというわけですが、 これは天寿を全うした死ということです。ところがこんどは、救いの死というものがありますが、救いの死というのはどういう死なのかというと、 その人がこれ以上現界で行き続けていると、幽界へ行ってからの地獄の行が長くなるだけという場合に、あの世に引き上げられるというところの死です。

今はそれほどまでに業(ごう)の深い人が多いわけで、複合されたその人の罪穢といものが、いろいろな病気だとかいうかたちになって現象化してきている。 またその業というものが、人間にはなかなかわからないものであるが、その人の業といったところで、一人ひとり詳しく、徹底的に調べなければ到底わかるものではない。 その人は前世ではどいう人だったのかとか、そのもう一つ前の前世では何人の人を殺めたかだとか、そこまで調べてなければならない。その人の先祖の罪穢になってきたら、 もう到底調べようが無い。それでは人の罪穢といものはまったく解らないかというと、実はそれがわかる。

それは、現在のその人の生活環境などをみればわかるのである。たとえば、いくら真面目に一生懸命、しかも世のため人のためと思って事業やっていても、 八分目までゆくと、バサーッと霊障にやられて倒産という羽目になってしまう。そのような状態をみれば、ご自身は再生、転生中にどのような罪穢を犯してきたか、 あるいは、先祖からどういうような罪穢を引き継いでいるのかということは、およそ察しがつくものである。今までの罪穢の集約された結果として、 その人の現在の状態となって現れて来るものである。
要するに、その人の業(ごう)というものは、皆目(かいもく)わからないといのではなく、 一つ一つの罪穢を調べるのが大変だということなのである。次に救いの死とは、たとえば現界で生きておれば、七十歳位までは長生きするであろうとい人がいるとする。 また、その人は、先祖からの罪穢、それに自分の再生、転生中における罪穢を消すために、いわゆるこの現界にきたとする。

そうするとこの人は、現界で罪穢を消すまでは死ぬに死ねないということになる。しかし、そのまま生きていれば、罪穢を消すどころか、 その人は益々罪穢を積んでいってしまう状態になる。そうなってくると、上からご覧になった場合、穢れてしまった肉体(魂)は早く脱がさせ、 幽界におけるクリーニングをしやすいようにしてやって今度は幸せな人間として再生させたほうがいいのか、それともこのまま長生きさせて苦しませたほうがいいのか、 という問題になってくる。神様にとっては、幽界でのクリーニングしやすいように早く現界から引き上げてやろうとお考えになられた場合の死は、 これは救いの死になるわけで、その一家に生まれて若くて死んだ場合も、その一人の魂を幽界に帰させて、残った者たちが神の御用として弥栄えに栄えさせていかせるのも、 救いの死となってくる。このようにひと口に死といってもいろいろな場合があるわけです。このように、人が生きる、死ぬというのは、 すへて神様がなさっていることなので人が裁いたり死刑にしたりするのは人間のすべき事ではないのです。

遅かれ早かれ人間は肉体的には死という現界に直面するもので、天に任せるしかないのである。神がその時代時代に身分相応にその人間を現界に下し、 必要がなければ幽界に戻し何等かの形で行をさせて行かれるものでどの様なかたちで生き、世の中に幸せをもたらせられるかはその人自身で考えて行かなければならないものである。


最後に神に裁かれ与えられる死、これは幽界に行ってから、苦しい行をしなければならない。つまり、現界で消し残してきた罪穢を幽界で消さなければならない上に、 神に裁かれるだけの罪穢が出てくるから、この上なく不幸というほかない。しかし、そういう人はいい死に方はしないし、死にざまでわかるものである。要するに、その人が再生、 転生中に積み上げたところの罪穢の深さ、そしてその人の家の先祖からの罪穢の深さ、それに本人が現界で犯した罪穢の深さ、それらの総合された結果によって、 神は裁くより仕方がなくなってくるわけです。ここで勘違いをすると困りますが、神様はその人が憎いから裁くのではなく、 早く幽界でクリーニングをさせるために手段としてのことで、また再生なら再生を許す、そうすると、いい魂になって現界に降りてくる、そこで救おう、 とこうなる。いちばんに神が嫌うことは男女間の問題とお金の間違いの使い方のようです。これは神様の裁きが受けます。

このように生と死には天命や宿命によってすでに決定されている生死と、その他に裁きの死のような運命による死があるのです。
なぜ死というものが存在するのかと言いますと万物全てが生成化育する為であります。だから輪廻転生と言われるゆえんなのです。

「死とは、 決してすべてがなくなってしまうことではありません。 肉体はもはや生きていませんから、 土に返らなければなりません。 普通はこれを死と呼んでいるわけですけど、 人間の本質はあくまで霊なんです。 肉体はその入れものにすぎませんから、 死とはいわば住み家を替えるようなものなんです。 そうして魂の方は死ぬこともなくそのまま幽界生活に入るのですが、 より次元が高い魂に昇華するためには努力という人間の力が必要なんです。 でも、 人間の力だけではだめで、 人間の力と神様のみ意が一致した時、 つまり神人合一の境地に達した時に、 神様のみ力でスーッと引き上げられるんです。 そして究極的には、 この世に再生する必要のない魂へと昇華していってしまいます。 これが、 今まで説いてきたことです。 小生はああしろ、 こうしろという倫理や道徳は説いていませんし、 あれしちゃいけない、 これしちゃいけないというようなことも説いていません。 此処に書かれていることは、 哲学ではないのです。

こうしたらこうなりますよ、 神様と一致するにはこうしたらいいんですよという霊的法則を説いてるだけです。 その通りにやるかやらないか、 実践するかしないかは読んだ人の自由でありまして、 それに救われるかどうかも自由ということになります。 決して他力本願じゃ、 救われないんです。 与えられた問題を、 自分で解かないといけないんです。 誰かが解いてくれたら救われるというようなものじゃありません。 真の救世主は問題を解いてあげる人ではありません。 逆に、 問題を出す人なのでもあります。」 どの教えをも超越しているのミチです。 すべての教えの大元を説いたのですから、 どの信仰する人にも通用する普遍のミチなんです。


本当の母は肉体を脱ぎ捨てた霊魂です。女性の子宮とは解釈すると子の宮、所謂神の子を宿す宮である。とても神聖なところである。そこに宿す霊魂が魂そのものです。 魂が全ての人が私達の母なのです。人間の肉体は神からの贈り物なのです。その肉体を筏(いかだ)として生と死・束縛と解脱の間に横たわる生々流転の海を無事に渡りなさい。 肉体は道具として筏として扱いなさい。人間はさまざまの苦痛から免れる事はできない。自分自身を肉体だけから なると考える人にとっては人生は悩みと惨(みじめ)の連続になる。しかし肉体は単なる乗り物に過ぎないとして考える人としては不安や悩みはない。

死すべき肉体の中に宿る魂こそ神の力なり・物質界層における現われである!!

言霊豆知識-22-2

『善と悪について』 世の中悪のほうが多いのですが、悪に対する処置はきちっとしておかなければいけません。法律なら法律を勉強して、それにひっかからないようにする。 たとえ悪するものがあっても、全て受け入れ相手を転迷開悟させてあげることが必要です。善悪も同様です。あれは善だ。あれは悪だ。あるいはあの人はいい人だ。 この人は悪い人だと断定してはいけない。いいか悪いかは人間には分からないことです。どこまでいっても神様から見ての善と悪でなくてはいけないのです。 極端な言い方をすれば、泥棒が入ったとするとします。これは社会的に見たら悪に決まっている。がしかし神様から見たら必ずしも悪だとは言いきれない。

なぜならば、自分ではなかなか取れない曇りの財穢を、泥棒を使って取ってやって、それからお陰をやろうとされていらっしゃるからなのです。ですから泥棒は神様から見て 御用をしたことになるので善になるわけです。全てこのような原理で宇宙そのものが成り立っているわけなのです。だから陽と陰が存在するのです。陽と陰、善と悪はあってなく、 なくってある世界なのです。このように御考え成られれば、裁判やら弁護士やらの善悪の結末は決められないのです。又必要ではないでしょう。必要であるとするのならば 相手を転迷開悟させてあげる人材でしょう。裁く視点からではなく開悟させられる人を願うのであります。


人間では善悪は決められないということになるわけです。今の裁判制度もそうです。もし善悪を人間に下したならばこれは神の権限を越えてしまいます。(神の権限を犯した者として、 裁くものは必ず裁かれるという事になるのですが今の司法国家では良き事として受け入れがちですがとんでもない事をしているのです。必ずやその人自身か、その御子孫に影響するであろう。 これからは生業に関わる事が大変な時代になろうかと思いますが、よくよく考えて生きるべきでしょう。まぁ行く末を見定めてみましょう。 何が間違いで何が良いことなのか少しは分かってくるのかもしれませんが・・・。)

そんなに人間は人を裁けるだけの魂の人はこの世には存在しません。だけれども意見はいいのだけれども裁いてはいけないのです。ましては死刑制度も同じことです。 しかし遺族の悲しみはその方の遺族でしか考えられないでしょう。がしかし前後には必ず因果が隠れているのです。悲しいことすが・・・。

宗教もそうですが、○○会が悪いとか決め付けるのは違っているし、何故かというと神様から見てこの世に○○会を出して、眠っている仏教界を目覚めさせておいてから、 国常立(くにとこたち)大神様を出そうとお考えになられた。とすると○○会は悪ではないことになるわけであります。何が本当に良くて、何が本当に悪いのか、 一切が神様の世界だけに、私達では決め付けられないのが現状ではないでしょうか。ではほっといたらどうなるのかということに成りますが、確かに悪ばっかりに成るかもしれません。 (ただし神様は決して野放図ではありませんから・・・)

がしかし全て自分たちがそういう風に仕掛けたのではないでしょうか。確かに物質を発展させる為には戦争やら戦いが続きましたが、 ではなぜ人は聖者が現れ其れに従っていかなかったのか。物質(欲)は限りがありません。いつかは崩壊えと進んでしまうのです。そこえ神様はブレーキ役として其の時代 時代に聖者を降ろされているのです。あまりにも欲心ばかりを追ってきた結果がそういう結末になっていくのです。一旦は受け入れなければ成らないでしょう。身をゆだねることから 始まるのかも知れません。では病気は悪かと思っていたのが実は素晴しい神様のクリーニング現象だったときずくのであります。全てに於いて今起きていることは神様のクリーニング現象 で良くなの前兆と見られれば和やかにこの世を生きていけるのではないでしょうか。

まとめ;神様は人間に人知をお与え下さいました。 しかしその人知は、 全智ではありません。そして神様は人に物欲、競争欲などもお与えになったのです。それは神様の方のご都合で、必要なことだったのです。 しかしそれらからやがて“我(が)”が生じ、 それが一人歩きを始めて、 人間が神から勝手に離れすぎた結果として悪が生じたのです。 悪は人間の所産です。 だから一時的なもので、 絶対悪ではないのです。 神様のご想念は絶対の大調和ですけれど、 人間の想念は時には不調和を生み出すのです。それが悪だともいえるでしょう。 神はなぜそれを許したのか?」「あくまで方便として、此れまでには許しておられました。神様もそれを必要とされていました。今まではそういう時代(水の時代)だったのです。つまり、神様のお考えによるものなのです。 光を知らしめるためには闇も必要なことなのです。欲を十分に発揮させるために火・日の系統は引退を余儀なくされました。闇とは陰光の時代、水の時代なのであります。でも、やがて悪は許されなくなる天の時が来ました。」それが今の文明が火の洗礼時代なのです。

豆々知識-1;宇宙が神界、幽界、現界から成り立っており、目に見える人間の奥には先祖の界があり、先祖の界が現れてきたものが人間である。だから人間が悪いことをしたり、 神様の掟を破るような行為をしていれば、必然的に幽界の掟によって人間が裁かれてしまう。要するに見えない世界を蔑(ないがし)ろにしたり軽んじて、目に見えない法を犯すと先祖の界からは見えているわけだから、 必ず裁かれる。

豆々知識-2;ヒトは善の働きをする。といって副神(月の神)が無ければ欲心は出ない。善を完遂しようという欲すらない。大欲も出なれれば、人類発展のための物欲も出ない。人間の文化の進歩、 科学の進歩というものは起き得ない。そこで神様は、物質文化を発展させようとすれば、副神の方を強くすればよいのです。けれども副神の働きが度を過ごせば、悪が悪くなる。 そうすると破壊をし破滅をするように仕組んでしまってある。そこで正神と霊波線をつないでおいて下さった本霊が附与されているから、これで制御できるはずなのです。

それを人間界でいえば理性とか良心とかいうわけです。その理性でたえず自分がこれを牛耳って行かなければならない。神様はすでに、人間の方にはすでに、人間を創る時にそのことが できるように与えて下さっているのです。ところが、本霊を曇らせれば、霊細胞を曇らせ、包み積んでしまうことになり、気枯れさせてしまうからますます曇る。曇るから正神 の光がよく入らない人になる。従って欲心の方の力だけが強くなって、人間としてバランスが取れなくなる人間になってしまって失敗をする。

ですから魂霊(たまひ)に光を受けることに努めておれば、今の平面的な堂々めぐりなどしなくて済むわけなのです。しかるに我々は、哲学の良い教えを知ることも必要なのですが、もっと大切な問題は、 タテの運動、立体的霊智学を知る必要があると思うのです。(哲学はあくまでも観念の所産であり、人知であり、哲学で決して人は救えないのである。人が救えるのは観念ではない 実在の神のミチのみで、イエスが説いたのは日本で学んだ大古の時代に教わった神のミチなのである。)人間は色々と積んできた垢を少しずつとって行きなさいと神様の方では言われるのですが何も一変で取りなさいと 言っておられるのではないのです。それでも神様の方では待っておられるのです。それに神力が付いて行くわけなのです。そう致しますと、どんな人だも、だんだん心の世界は 立体的に上がって行くから、神様に近づいてゆけるのです。そしてさらに神様に教えていただけるような人間になれのだと思います。

★21聖(世)紀の宗教というものは、万教の大元を説く万教帰一の教えではなくてはならず、それを崇盟五道というのである。(五道とは仏教、キリスト教、イスラム教、儒教、道教の五つである)



一切の事は正面より見ずに反面より身よ必ず陰あり!!


言霊豆知識-23

『九の数霊』 九(ここの)たる前の数霊九です。株やさんでいえば一番欲しい数霊です。九の数霊、これは最高の数霊の数霊ということになります。 それは神様になる前の数霊が九であるからです。名前をつける時は九・十あるいは二十のような数はさけるようにすると好いでしょう。 霊相の非常に曇っている人にこういう数霊の名前をつけますと、とんでもないミソギがきてしまう。九が苦になる。それでキューというのです。

十もそうです。ですから、普通姓名学では十や二十、そして九をいやがるのはそのためです。 霊層の昇華が伴っていなければ姓名学でも非常に危険だということです。しかし霊的に浄まってからは、九とか十は非常に良い数霊になります。 九(ここの)たりで十になります。たりは十のことです。神代では九のことを「ここ」といっております。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-24-1

『霊界とは』 紫微実相(しびじっそう)の世界です。紫微あるいは極微(ごくび)というのは、非常に細かいという意味です。 空気中に浮かんでいるほこりはそれだけ細かいのですが、 このほこりの大きさを七で割った大きさを牛毛塵(ぎゅうもうじん)、さらに七で割ると羊毛塵(ようもうじん)、さらにこの羊毛塵から七と、 七で割っていくと遂に極微実相の世界になるのです。それほど細かい世界です。今日までおそらくこの極微の世界のことを仏門で説いた人はいないとのことです・・・。 いたのならば霊界の事が少しはお分かりになるのでしょうが・・・。この世界は言い換えると霊界になります。

現代の科学で説明すると分子を細かくしていくと原子になります。この原子を分解していくと素粒子になります。素粒子をさらに分解していくと、 量子力学でいうアンスィーン 波の世界、あるいは光の世界、光波の世界に入っていきます。では光波や素粒子の波は何で出来ているのかというと、 それをさらに割っていかなくてはわからない。結局、紫微の説明と同じになります。この紫微実相の世界のことを、神道では霊の界(霊界)といってきたわけですが、 紫微の世界には力が相互に働く関係、いわゆる連動関係が存在しています。

つまり三大霊界、三千世界というものが、きちっとした法則のもとに動いているのです。それが釈尊のいいたかった極微実相の世界です。 仏教では十一面観音様の下に四十八の仏様がおられる。これを四十八弁の蓮華の上に立たれた観音様とし表している。十一面観音といっても、十一もお顔を持っているのでは ないわけで、四十八の仏様を統一なさるという意味です。それを十一(とういつ⇒統一)としたのです。霊の世界をつかさどる法身(大日如来)と幽体神である報身(阿弥陀仏)と肉体化した 仏様、応神(釈迦)の三仏が一体になってのみ働きがなければ、仏教の教え、御救いは地上に起きてこない。

豆知識1:大日如来(だいにちにょらい)というのは、日本の天照日大神(あまてるひおほかみ)を記したものです。薬師如来は究極カムノン様で、神道では天地創造の大天津神 (おほあまつかみ)なのです。

豆知識2:三千大千世界という言葉がありますが、これは仏教で言う 三千大千世界のことですが、これは真如の教え、水の教えになりますから、神界が下になってしまいます。大千三千世界というのがほんとうです。この大千三千世界という のは、三大霊界、実相界のことで、ミロクの原理を知ればすぐにわかります。つまり「五・六・七」、「天・空・地」、「日・月・地」、「神・幽・現」といった三位一体 の世界をさします。神・幽・現の三つの霊界というのは、神霊界と神界から降りられた神々や、死んだ人が往った幽界と、そして現界の霊界、三つをさします。 現界といっても、神様から見ると、肉体(個々の所も大きな意味で秘め事になります。)はたいして重くみていらしゃらない。現界の霊界の方が大事なのです。

この三つの霊界のことを三千世界といいます。言い換えると三つのチの世界です。霊がコリコリなしてもチ・血もチ・神の霊というのもチ・百千万(モモ・チ・ヨロズ)の千もチです。 それを誰かが千という字にしてしまったのです。それから大千というのは、大きい霊の界、大神霊界ということです。神界、神霊界、幽界、現界という七次元(どうして七次元での構成になるのか後編で書いております) のピラミッドの原理の世界です。これは、神界、神霊界、現界の霊界と考えてもいいですし、神霊界、物質界、人霊界とお考えなってもいいです。要するに、三つの大きな霊界ということです。

ところが、この大千三千世界の秘め事を理解できなかったために哲学してしまい、苦しんできました。そして仏教では、十界互具(じゅっかいごぐ)の理というのができたのですが、 三大霊界がわからないために、無駄な説明を色々なされてきたのです。そしてこの議論に勝つと偉い坊さんという事になったのです。従って今日の仏教は、人間も万物の霊 も救うことができないような無力宗教と化して、神霊の上にあぐらをかいた宗教になってしまった。一つ一つあげたらきりがありません。

豆知識3:大千三千世界=大という字は「一人」と書きますが、つまり「一人」とは「主」ですから、これが元です。「千」は「霊」ですから、それで「三千」というと「三界=三つの霊界」です。神幽現、あるいは天地人で、三つに別けてあるわけです。 最初は一で、それが三つに分かれるのが本当です。ですから三つの方(三千)を上につけるということは間違いです。それで一は太陽で三は月、一は火で三は水ですから、大千三千世界という。

今まで神様は人類に木物金物による信仰は許してこられたが、真理、霊界の主に解き明かした宗教、信仰は許されてこられなかった。つまり、木物、金物を祈ったり、拝ませることにより、 神仏と人間の接点をつないでこられたわけです。この様な事で木物、金物を通して奇跡というものの時代(人々を救いに導く方便(手段)である)がありましたが、神の計画というものがありますから変わったので御座います。ですから今の時代は空念仏に成ってしまわれているのでございます。 じゃ今はどうされているのかと言いますと、此れまでは火(五・霊)と水(六・月)の関係上ひとつ足りませんでした。そこへ土(七・地)が物質の本体でありますので、人(霊体・幽体・肉体)を通して奇跡を出されているので御座います(五・六・七=ミロクともいう)。此れでやっと三位一体となり、人間が出来る所謂霊的光力(光の大玄霊)なので御座います。

補足:極微(ごくび=物質を最も微細なところまで分割した最小値の実体。)、仏教では「ごくみ」と読みます。原子レベルの大きさを指します。隣虚(りんこ)と訳された時代もあります。 すべての物は、この極微の組み合わせで出来ている、と考えられました。原子論の原型とも言える様な考え方です。 ひとつの極微に上下と四方=合計7個の極微が集結したものを微塵(みじん)と言います。木っ端微塵(こっぱみじん)の微塵です。微塵が物質の最小単位です。 お経によって名称や段階が多少異なりますが、だいたい次のようになります。最後の一つを除き、七つ集まると一つ上の塊(かたまり)となります。

 極微 の7倍が 微塵 or 微(み・び) or 阿耨塵(あのくじん)
 微塵 の7倍が 金塵 or 銅塵 or 鉄塵  
 金塵 の7倍が 水塵
 水塵 の7倍が 兎毛塵(ともうじん)
 兎毛塵 の7倍が 羊毛塵(ようもうじん)
 羊毛塵 の7倍が 牛毛塵(ごもうじん)
 牛毛塵 の7倍が 隙遊塵(げきゆうじん) or 向遊塵(こうゆうじん) or 日光塵
 隙遊塵 の7倍が 蟻(き)
 蟻 の7倍が 蝨(しつ)
 蝨 の7倍が 麭麥(こうばく)
 麭麥 の7倍が 指節(しせつ)
 指節 の3倍が 指
極微から麭麥までが立体的な大きさで、最後の二つは少し異なります。
 金塵は、金属の分子の間を動くことが出来る程度の大きさ。
 水塵は、水の分子の間を動くことが出来る程度の大きさ。  毛塵は、毛の端の塵程度の大きさ。
 日光塵は、日光の中に浮遊する微細な塵(ちり)のことです。
 眼に見えるのは・・・
極微は、見ることも触ることも出来ないモノ、とされています。微塵から水塵は、普通の人には見えない世界で、天眼と輪王眼と菩薩の眼に見える、とされています。 天眼は超人的な視力で、物を透過して見る事も出来るような能力です。輪王と菩薩は仏様の眼=悟りの眼と言うことです。 兎毛塵や日光塵あたりから、肉眼でもなんとか確認できる程度の大きさとなります。 また、微塵を小微塵、中微塵、大微塵に区分する分け方もあります。大微塵が普通の人が見ることのできる大きさで、遊塵とも言います。

逆に物を微塵に分解すると、その数は非常に多くなるので、極めて数の多いことを微塵数(みじんじゅ)と言います。

極微は地水火風の四大に依るところがあります。また極微を分析すると空になる、と説くお経=成実論(じょうじつろん)もあります。

霊子【極微(ごくびともいう)】がなかったら、あらゆる生物は死滅する。科学的に言うと電子、原子、霊子の順に微粒子になってゆく。勿論、霊子は最極微粒子である。 音は霊子の体で粒子が大きいから、音の運動は遅いのである。

大宇宙は無限で、まったく限りがない。そして宇宙の構造は大きいほうも小さいほうも限りがない。 小さいほうの黴菌だってどこまで細かいか判らないし、原子力の微粒子だって同様です。中間子なんて大きいほうですし、いまの顕微鏡で見えるんですから。 霊的光力するときこの掌から出る微粒子だって非常に細かくて原子と同じです。中間子よりもっと細かいのが霊子です。

そしてその霊子の中でも一番細かいのが神霊子です。さらにその神霊子の中にもいろいろあり、その神霊の階級にもよるんですが、細かいほど強く、見えないほど無限の力がある。 このことはなかなか簡単には説明できないけど、いずれはもっとはっきり判るようになる。この大宇宙はちょっと想像できません。

この大宇宙の中心は地球なんです。要するに、こうして万物を存在させ、生きてるものの生命を持続させるために日月星辰があるんです。 宇宙の日月星辰などはすべては地球のためにある。ですから、この点が判ると地球は実に値打ちがあり、本当に尊いものであり、そしてさらに、この地球をよくしてゆく人間も実に尊いものであることが判ってくる。 けど、そいつが判らないから人間を軽蔑するんです。まあ、あんまり汚いから軽蔑するようにもなるんで、こういうことが判ると人間ももっと立派になるんですが・・・。」

量子とはなんなのか!

* 考え方A:ミクロな世界の構成要素〜量子は、粒子でもあり、波でもある。
1個、2個と数えられる性質は粒子であり、回折や干渉を引き起こす性質は波である。
電子も、光も、粒子的な性質と波動的な性質の両方を持つ。
マクロな世界の常識では考えられない、この奇妙な性質のことを「粒子と波動の二重性」という。
* 考え方B:ミクロな世界の構成要素〜量子は、波である。
ただし複素数の波なのである。
複素数から物理的に意味のある値〜実数を取りだす過程において、複素数の波は1個、2個と数えられる性質を帯びてくる。
この粒子としての性質を帯びることを「量子化」という。

豆知識3:地球から水分をなくすれば、一瞬にして爆発する。そこで火素が爆発しないように水素が中和しているのだから、どっちかに片寄ったらぜんぜん駄目です。 水素がなくなれば火素は爆発し、火素がなくなれば水素は氷結する。ですから極端に水分を吸収すべき物質ができれば破壊ですが、原子爆弾というのはその原理によって生まれたものです。 空間の水素分を一瞬にして吸収してしまいなくなってしまうので、そこで爆発が起こるのです。それは針の穴ぐらいのものでも、爆発すれば次々に爆発してしまいます。一瞬にして水分が抜けるのです。

豆知識4:無限の火素⇒火の本を放射すると、人間の霊の内のつまり汚物で、これがまた、この粒子というのはどのくらい細かいか分からないので、やっぱり無限ですが、それにぶつかって行って、霊の内の不純物・・・汚物を焼くのです。 そこで汚物がなくなってきれいになるから、それが肉体に移写して、痛みがとれ病気が治るというわけで、これが霊的光力の科学的原理です。 素粒子論を縮めれば、どうしても物性論に行かなければならないのです。素粒子論というのは究極の粒子の性質を研究する学問です・・・。ですから霊と体というわけです。素粒子論は体のほうの極論の進歩したものです。それで物性論は霊のほうです。 ですから別々のようだか、結局密着したものです。

豆知識5:霊子を説明すれば三段階あって、その第三に位するものが今回の中間子の次に発見さるべきもので、その次に発見されるものが第二霊子であり、最後に発見されるものが第一霊子である、 そうしてこの第一霊子こそ霊的光力は最高級神霊から放射される霊子粒であるのであります。


豆知識6:霊界の本質は日、月、土の三精から成立っており、科学でいう酸素、水素、窒素であり、宗教的でいう火素、水素、土素の結合体である。 そうしてこの三原素中の土が物質の本体で、日が霊の本質、月が空気の本質となっており、この日月二者がコントロールしたのが大気であって、これが地上の空間を充填(じゅうてん)しているのである。 しかし火素が最も強力だが、稀薄なるため物の科学では把握出来なかったので、今日までは熱と光は分るが、精としての本質が不明であったのである。

豆知識7:われわれの周りに存在するもの全ての物質を分解すると分子から成り立っている。例えば水を分解すると水素原子2個と酸素原子1個より構成されるのでH(水素) ・ O(酸素) ・ H =O(酸素)にHが付いたものがH2O(酸素+水素→水)なる。 それをさらに分解すると原子というものに、分かれてい行きます。O(酸素)、HとH(水素原子が二つ)になり、さらに分解すると原子核になり(原子核のまわりに電子が回っていと されてきましたが、之は嘘であり実は霧みたいな雲みたいな中に存在するのが原子核になるのです。電子は実は波として広がっているのである。これを見ようとすると電子は見える様を 原子核の周りに電子が回っているとされてきたのです。) 原子核の中には陽子と中性子の部分として分かれて行きます。さらにさらに分解しますと陽子と中性子はクォーツとなります。これ以上電子は分解できないというものを現代では素粒子 として呼ばれております。

簡単に素粒子の寿命について説明します。読者としては、素粒子についてある程度の知識のある方を想定しています。素粒子の寿命にも不思議なことがあることを知って頂ければ幸いです。
素粒子の寿命
多くの素粒子には寿命があります。陽子や電子は安定ですが、ミュー粒子は2.2×10-6秒で、タウ粒子は2.9×10-13秒で、複数の素粒子へと、崩壊します。
この寿命があるという事実も、とても不思議なことです。ろうそくの寿命はそのロウの部分の長さで決まります。でも、それぞれの素粒子の寿命は、元から決まっているわけではないのです。 生まれて一年たった素粒子も、一万年たった素粒子も全く同じ素粒子なのです。言い換えれば、自分が何歳なのか全く覚えてないわけです。

それぞれの素粒子は単位時間ごとに一定の確率で崩壊しています。たとえば、素粒子は一秒ごとにサイコロを振って、1の目が出たら「崩壊する」、1以外の目がでたら、「崩壊しない」、というように行動しているのです。 サイコロを振るという表現は当然比喩なわけですが、どうやって、サイコロを振るのかという疑問もあります。 また、サイコロ試行の時間間隔はどのくらいの長さなのかという疑問も生じます。もしかすると、その時間間隔は時間の最小単位なのかもしれません。 このように、崩壊ひとつをとってみても、まだまだわからないことはいっぱいあるわけですが、この様ことで科学では解けないわけですが、上記ことを踏まえて見えない世界を少しでも考えるきっかけとなれば幸いです。


天界は意志想念の世なりせばすべてのものは霊体なりけり!!


言霊豆知識-24-2

『大乗と小乗とは』 仏教では、大乗と小乗について非常にやかましくいいます。大乗・小乗を説く学者もたくさんいて、書物を書いたりしていますが、結局わけが分からない。 実は大乗・小乗というものを本当につかもうとするのならば、神の御経綸・神の仕組みの置き手というものを知らなくてはならないわけです。神様の御経綸上、神の教えはホドかれて、 ホドケの教え(仏教の仏という字は火と水を解いた形を意味し、火=日=陽=霊=魂のことを省いた、あるいは隠した教えであることを示しています。火と水を解くからいわゆる解脱の教えで心(影・陰・物質・水)の教え、悟りであることを示しています。 佛は物に通じ仏教の教えも主神が人類物質文明発展の為に地上に降ろしてきた仮の教え、すなわち真如の教えであることを意味します。)になってから、大乗・小乗ということがはっきりしなくなってきました。『法門を開けば八万四千(はちまんしせん)望めば渺茫(びょうぼう)。大海の如く教えは高遠として、仰げば 泰山の如し』。これは仏教哲学者自慢の言葉だそうです。仏教の教えは大海の如き教えであって、向こうの方はかすんで何も見えないほどにその内容は宏遠(こうえん)であるという意味だそうです。

実在有力界を人知で推測し、憶測することにより、遂に仏教を哲学にしてしまったしか思えないほど神の世界を説かないで迷いごとだけを探索してみても、大乗・小乗を説くことは できないといわれております。肝心の救世、救霊といった現実的面の方は、一切他に転嫁してしまって、法門の護持と観光事業、それに儀式のために存在しているのが現状です。

法門と僧が檀家を救うのではなく、逆に檀家によって救われているのが今の仏教界であるといえるでしょう。とにかく大乗をとらえようと思ったら、この仏界に仏様が降り立たれた 時のことからわかってこないと(仏教では秘密になっているのですが)いくら論じても議論にならないわけです。これは神と仏の関係です。神様が仏様に降りられ、仏界の救いを されたということを、まず知らなければいけないのです。これは法華の一大因縁という秘密の経文になっていますが、実は神の経綸と深いかかわり合いがあって出現されたのが 如来や菩薩なのです。この如来とは来た如し、大日如来とは日の神様から来たようなという意味です。また菩薩というのは炎去(ぼさ)ったという意味で、どちらも元は神です。 ところが今は、神界の観音様にしても、現界の観音様にしても、とっくに神界の元のみ位座(くらざ)にお帰りになってしまわれています。そういう根本的な問題があります。

このような一大事因縁については、釈尊の最後の説法、ミロク下生の大預言書である『法滅盡経(ほうめつじんきょう)』にも出ています。神の経綸が進み、いずれ諸天竜神 が人類を捨てる世の中が来る。するとそこに正法を説く者が現れる。そしてミロクが下生して正法にはっきりと返す世が来るとあります。そして重大なことは、やがて仏僧がこれを 隠すようになるだろうということてす。果たせるかな、でもそうなってしまった。ここに、神の経綸がある程度明かされているのです。

これを見ると、釈尊の教えが神の経綸から来ていたことは明らかだそうです。このように如来とか菩薩という方々は、神界から仏界へと変化して降りられた方々で、本来は神様ですので釈尊に伝えられた教えも 神界の法(のり)でした。「自分達はこうやって来ているぞ。だから人間もこのように行かなければいかんぞ」という神法(かみのり)だそうです。

いいかえると、これは神が乗っていかれるミチにります。神はその道を真直ぐに乗っていかれる。そこで人間がやはり惟神に生きようと思ったら、また弥栄えのミチに生きようと 思ったら、神が乗っていかれるそのミチに乗り合さなくてはいけないのです。これがまた意乗りの言霊の始まりなのです。まあまずは大乗の乗というのは要するに乗るということです、 このノリを霊的に神の法という意味にとらず、唯物的に乗り物と考えてしまったのです。仏教哲学を見ると『乗とは運載(うんさい)の義なり』とあるそうです。

そして大小というのを、単に大きい乗り物、小さい乗り物と考えたようです。ところが実は、言霊、数霊の秘め事があって、大という字は火の精霊、小というのは水の精霊を 表すのです。しかし神様がおつくりになった時の言霊を解釈する力がなくなってしまったため、唯物的にのみ考えるようにになり、ただ単に大きい小さいとしてしまったのです。

お坊さんはよく「わが仏教は、転迷開悟(てんめいかいご)である」つまり迷いを転じて悟りを開かせるものである、とおっしゃいます。ところが実際はこれが開悟して いかないのが現状のようです。ますます迷わせているのが現状のようです。かの達磨大師(だるまたいし)が般若多羅(はんにゃたら)から教えを受けた時に、最後に枕元で 遺言と極意を受けられた。それは「大乗の機根(きこん)、東方にの国にあり。汝往(ゆ)いて必ず学べ」というものであったという。この根というのは霊き、宇宙の基盤 の根をさす。つまり大元がわかると初めて本当の転迷開悟ができる、いわゆる顕目(あきらめ)ができるということなのです。では迷いというものがどうして発する物なのか といえば、神の経綸と霊界の実相を知らないために、実際はあるものを無いとして推定していくところに迷いが出てくるのです。どうでしょうか。

今まで霊が無いと思ってみたらお話を聞いてみて又実践(霊的光力)してみて実在を知った人もいるのではないでしょうか。このように霊界現象を知らないことにはどうしょうもないのです。また御経綸の 進展によってだんだんと切り換っていくように仕組まれていることがわかると初めてはっきりとしてきます。そこで開悟ができる。こういう性質のものです。
さて小乗仏教ですが、 これは極端にいうと自分だけサトって自分だけ救われればいいという教えです。これは個人主義の発想になります。ですから仏教を研究して小乗仏教で教育されていくと、 非常に霊的にも現実的にも個人主義が多くなって、かたくなになってしまうのです。一方大乗仏教は、喩(たと)えると大きい乗り物です。

自分が仏の道によって転迷開悟するばかりではなく、今度は人様にも仏の道をサトらせ、救われていく世の中にしょうというものです。こうしてみると小乗仏教は徹底した個人主義、大乗仏教の方は社会主義とだいたい大づかみ 出来ることでしょう。この大という字は数霊でいうと五、即ち火です。太陽の日、陽、すなわち太陽心をもつことです。火は物を焼きつくしてしまうものであります。

そして霊であり、神であります。一方、小という字は水、月の教えで、数霊でいくと三、即ち体、物といった肉体をもった世界、あるいは知識の世界を表します。 次に原語をみると、大乗はマハヤーナ、小乗はヒナヤーナといいます。小乗のヒナヤーナですが、ヒですからタテを表します。つまりタテを成り生り也らせる働きです。 そしてヤもタテの働きをします。このようにタテを主とした教えだから、立て分けが非常にきつくなります。裁く心が強くなって、善かあるいは悪かというように、厳しく 裁くようになります。ですから小乗の人は何かというとすぐ人をけなす、すぐ判断してしまうというわけです。大乗マハヤーナの方は、マを開いてたてる。たてて長となす。

だから大乗の人は大らかであまり裁かない。自分も救われると同時に、人も一緒に乗せていこうというのですから、これはあまり裁きません。そういうのを大乗の機根とか、 大乗の心とか言ってるわけです。ところが問題は、マハヤーナの方もほどくという意味をもっているということです。つまりマを開けば、火と水の十字がホドケて別のものになる。

だから小乗よりは水の方も考えるからいいけれども、これをホドイて使うから困る。やはりこれもホドケの教えということになります。ですから小乗の方はかたくなに裁き方をし、 一方大乗の方はあれもあるだろう、これもあるだろうと考慮はしますが、結局はどちらも裁くことになります。ところが、ほどいてはものが産み出されない原理があります。 では本当の神法はどこまでも十字です。水素と酸素を結合すると水ができる。そうするともう水素でも酸素でもない。ないと思って水を分析すると、水素と酸素とに分かれる。

つまり絶対反対の性質のものを、タテヨコ十字に結び、万象を弥栄えさせる。これが神の原理です。これがマコトの大乗でもあります。大乗論、小乗論のどちらでもなく、 そしてどちらでもある。つまり大乗であって、小乗であって、大乗。小乗であって、小乗でなくて、大乗。このように、大乗と小乗を十字に結んだ姿を、本当の意味での、マの 大乗ということになります。しかし、十字に組んでも、どこまでも大乗が主で、小乗が従で調和します。そしてその調和は、その人の修養次第ということになります。


「大乗の善は小乗の悪であり、小乗の善は大乗の悪である」ということはなにごとにもあります。日本の忠君愛国(ちゅうくんあいこく=国を愛すること)の、天皇のため日本のためということが実は悪なのだから、 日本のため陛下のためのみを思うから大東亜戦争のようなものを起こしたのです。その「ため」と思った結果、朝鮮も中国も、ほうぼうの国も、みんな酷い目に遭うわけです。 そうしてみると、我欲、自己愛という結果になります。だから世界人類のためということが本当なのです。忠君愛国的のことは良くないのでありますから良くないことが起こるのであります。 ある程度は好いかも知れないが、あんまりそれに固執(こしつ=あくまでも自分の意見を主張して譲らないこと)するということは、やはり小乗的考えです。そこで世界人類というところに目標をおけば、これは本当に正しいことなのです。

生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-24-3

『覚りと反省』

我々が何か仕事をして、その結果が良く行かず失敗に終った場合に、よく「反省してみる」という言葉を使うのでありますが、そのような場合、「覚る」言葉の方が正しいのだと思われます。 この二つの言葉は至極(しごく=きわめてもっともな)簡単でありまして、その間にさ程の差異がないように思われますが、よく考えてみますと実は大変な相違が存するのであります。即ち精神的にこれを分析してみますと、 「反省」という言葉は消極的であり、退歩的でありますが、「覚り」ということは積極的であり、前進的であると思うのであります。 前者におきましては、その根底に「あのために失敗した」とか、「あんなことを為さなければよかった」とか、「あんなときには、こうすればよかった」とかいうようなある執着を含んだ悔悟的の精神状態によって生ずる言霊であり、 これをさらに煎じ詰むれば、「我」ということに到達するのではないかと思うのであります。 ところが「覚り」におきましては、そのことによって「かくかくと分らせて頂いた」「事の真相はかくあるものだ」という意味から出発する言霊であります。

積極的に一歩前進したことになり、非常に胸襟(きょうきん=心の中)が開けた明るい気持になるのであります
から、更にこれは、「素直にする」という事に繋(つ)がると思うのであります。 一方は地獄的苦しみの境地とすれば、他方は天国的救いの境地と申しても宜しいと思います。神向きの妙諦は我を出さないことと、素直にすることである、 この二つの言葉の間には甚だしい相違があるのでありまして、「反省」でなくして「覚り」でなくてはならぬのであります。 由来、人間意欲の中で最も魅力を持つものは、神秘を探り当てようとすることでありましょう。

熱心に神向きをするということも、神秘を探究するがためでありまして、一つの神秘を探り当つれば次の神秘を求め、更に次の神秘をというふうに、知れば知る程、益々その奥を求め極めんとするのであります。 そして「覚り」得たとき、換言すれば事物の真相を知悉(ちしつ=ある物事について、細かい点まで知りつくすこと)し得たとき、即ち神秘の探究に通ずるのでありまして、そこに神向きの魅力を感じ、妙味を覚えるというものであります。 「反省」はあっても、「覚り」がないからであります。按ずるに、今までは夜の世界でありまして、事物の考え方はすべて仏教より出発しており、 仏教にいわゆる反省とか、悟道(ごどう=仏道の真理を悟ること)とか申しておりましたのは、その根本におきまして、現界を苦の世界とし厭世的(えんせいてき= 人生や世の中をはかなむ傾向にあるさま)に諦(あきら)めるより仕方がないという事に基づき、 結局この世の苦を排除して天国的世界を作る力が、生まれなかったに因(よ)るものと言わなければなりますまい。ところがいよいよ時期到来し、昼の世界に転換し一切を解明する御力(おちから⇒御は神。つまり神の力⇒日本人が本来大切にしてきた力)を振わせらるる、 目覚めた人としては、「覚り」によって救っていただかねばならぬと思うのであります。

生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-25

『聖(ひじり)』は霊智(ひじり)です。つまり日を知ることです。日というのは霊界現象をさします。霊の実在と万霊の連携のある活動、 またその中におかれている法(のり)、仕組みの掟のことです。これは仏教でいう妙法です。霊界現象を智るチエを聖(ひじり)というのです。これを智った人でないと聖者とは いえないのです。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-26

『この世は全て偶然はなし。必然的に働いているのである。肉体的願望・我欲だけが現界的働きである。宇宙(霊界)は絶対的原理で働いている。』
『縁がないものは求めてはいけない!縁があるものは全て心【魂】の中にある!』


●なにかもこの世は必然的に働いている。すべてすべて何もかも、あぁ因果でまたこの命、生かされている。また悟りも出来るあぁ・・・・・。ありがたや、ありがたや。

●世の中に偶然というものは一切ありません。出会う人全てが御神縁(ごしんえん)というものです。

●宗教者ほど真理に目覚めて、 霊的救いをするべきでしょう。

●過ちとは、我のいたらない自分にあり!!

●家や家財道具などの財産も、働く職場や仕事も、あるいは愛する家族や知人も、自分のものではなく、縁あってこの世で巡り会ったものです。だからこそ求めてはいけないのです。


●人々の大半は、自分は生きて生きているんだと思っている。しかしながら生きていると思うといろんな苦悩が出てきてしまうが、生かされているという考え方をしますと、 苦悩から開放されるのであるまいか・・・。

一切は吾にうつりてあるもの神にして人なり人にして吾はまた神なりと自覚せるなり!!

言霊豆知識-27-1

『赤ちゃんには母乳で』

●もともと牛乳は牛の子が飲むもので、人間の子の飲むものではない。女の子に牛乳を飲ませて育てれば 色が黒くなってしまうし、赤ん坊のときから牛乳を飲ませて育てけば、牛乳には獣の霊がはいっているから、人間の魂は野性化してしまう。 小生の場合は母の母乳が出なかったので芋の汁を飲ませて育てたと聞いています。今の学校では給食では牛乳を飲ませてるのが 現状です。(豆乳に切り替えたらいいのではないか。)魂は獣性化してしまう。どうしても霊的のことを知らないとこういう結果になってしまう。今の子供は牛乳で育った ものが多いので、暴力的な子が多くなるのは当然のことです。やはり人間には人間のお母さんの母乳で育てなければいけません。 母親の乳というのは子供の成長に応じて、その時々に必要な濃度に変化するようになっている。親子の霊線のつながりというものは、 その子供の成長に応じて乳の養分と濃度が変わってくるから恐ろしい。これは瓶入りの牛乳ではできないことです。

牛の子が飲むものを飲んでもよいという理屈を信じさせられて、おまけに牛乳であるとの仮定の上に飲まされている人工牛乳は毒にさえなることが 明らかにされています。粉ミルクなどがそうです。天然の果汁を粉末にして、というキャッチフレーズの天然果汁も、そのほとんどは 科学合成品であって、みんな毒を飲まされている。そして果汁が良いからといって病人にのませている。その果物は農薬だらけである。


治る病人も死んでしまう。高いから良いといことではないようである。今の現代は騙し合いの世の中である。儲かれば良い。自分さえ 良ければよい、というように消費者は騙されっ放しである。情けないことである。これも霊的なことを知らないからである。

特に妊娠中、絶対に牛乳・乳製品を口にしないことです。保育園児にも もちろん呑ませない方がよいでしょう。アトピー性皮膚炎になる可能性もあります。喘息の方には良くはありません。発作が起こりやすくなります。

チーズやヨーグルトにも白内障の危険性があります。1970年には、「牛乳中のカルシウムは吸収されない」という研究結果が発表されていた。牛乳にするのであれば、豆乳にすることです。勿論 無農薬大豆の無農薬豆乳です。有機豆乳もだめです。

牛乳は「早熟早衰」の波動をもっているということができます。牛の骨に含まれるカルシウムは、人間の骨のカルシウムとは組成が違っているのです。 人間の赤ちゃんでも、ミルクで育てると体の成長は早いのですが、骨の組成が粗いため、すぐ骨折するようになり、また内臓などの老化も早いのです。 ブロイラーや養殖の魚を見てもわかりますが、人工的に早く育てられた生き物は、自然に育ったものに比べて肉に締まりがありません。 また、病気などに対する抵抗力も弱いのです。 ただ、ここで述べられているのは健康上の問題ではなく、霊的視点つまり波動の問題です。牛の食べ物を食べていると牛のような波動になるので、 獣の側に引き寄せられることになるぞと警告しているのです。

霊の栄養、すなわち「食べ物の波動」が大切だということです。農薬などを使わず、人が愛情を持って育てた作物は、最高の波動をしているはずです。 波動を汚さないためには、できるだけそういうものを手に入れて食べるように心がけたいものです。

牛や豚などの肉の場合は、育てられる環境の劣悪さと、殺される時の残酷さが肉の波動にイライラや恐怖の念として蓄積されていますので、 それを食べることによってイライラや恐怖の波動をとり入れることになり、波動を粗(そ)くしてしまう恐れがあります。 最近では、肉体の健康にとってもよくないことがわかっていますが、何よりも霊的に見て問題が大きいということなのです。

肉食者は敗血症になるからで、敗血症とは人も知る如く血管が破れ易く、又出血すると、容易に止まらないのである。
敗血症<感染症>;敗血症とはどんな感染症か 敗血症とは、肺炎や腎盂腎炎(じんうじんえん)など生体のある部分で感染症を起こしている場所から血液中に病原体が入り込み、 重篤(じゅうとく=重体は死に至るかもしれない危険な状態)な全身症状を引き起こす症候群です。


栄養学;今日罹病(りびょう=病気にかかること)するや、栄養と称し動物性食餌を推奨する為反って衰弱を増し治病に悪影響を及ぼす事になるのである。次に牛乳に就て注意しなくてはならない事は牛乳は歯の未だ生えない嬰児(えいじ=生まれたばかりの赤ん坊)には適しているが歯が生えてからは不可である。

弱体児童の防止法

日本人と西洋人の体質を同一であるとする事の誤謬(ごびゅう=まちがい)が抑々(そもそも)の原因である。それは、牛乳を多用する事と、妊婦の肉食及び妊婦と生児の薬剤服用である。

完全営養食

牛乳を飲むのは間違っているが、食物の味、例えば珈琲に入れるとか又は、菓子や料理に使用する位は差支えないのである。

弱体児童の防止法

薬剤の余毒と牛乳と獣肉に含有する獣血の毒素分とが、知らず知らず血液を溷濁(こんだく⇒いろいろなものがまじって濁ること)させてしまう事である。それが人体の自然浄化作用によって残渣(ざんか⇒濾過(ろか)したあとなどに残ったかす)汚血(おけつ⇒多量の血液があつまる)となり、汚血の再浄化が膿汁であるから、 それ等毒素が頚部けいぶ)付近、即ち耳下腺、淋巴腺、扁桃腺及び肺尖付近に溜結(りゅうけつ)するのである。幾千人に上る弱体児童を診査するに於て、其悉くが右の症状を呈するのである。 試みに夫等児童の頚部付近を指頭で探査するに於て、必ず大中小のグリグリを発見するであろう。そうして、指頭で圧すれば、可成りの痛みを訴えるのである。

治療士の心構え

困るのは薬であります。“薬は不可だ”というと、医師法に触れるからいけない。処が事実は薬は服むだけ治りがおくれるのでありますが、此点は特に注意して法規に触れないようされたいのであります。 第二に食物ですが、之も実に困るのであります。肉食特に牛肉と牛乳がいけない。何故かというと、非常に血を濁すものだからであります。 然し、之等も強いてという訳にもゆかないので、或程度 一患者の任意にするより致し方ないのであります。近来、医師により、肉食を不可とし、菜食を奨める人が相当多くなったのは、喜ぶべき傾向と思うのであります。

学校の成績が悪い原因

子供は、最初頭に瘤があるから、それを熔(トカ)しました。それが荒方解けると最初来られた時には、ボーッとしてゐたんでありますが、非常にはっきりして来て瘤が除れる 頃は眼付も大変よくなり頭もとても良くなって従って、学校の成績も驚く程良くなって来たんであります。段々査べてみると犬の霊が祟ってゐる事が判ったんであります。それは其の子のお父さんが犬を殺 した事があるのです。アイウエオの音丈はっきり言へないと言ふ事は犬である事を証拠立ててゐるのであります。

人間の全体を支配せるものは頭脳の真中であるから、これを清める要あり。此中清まれとかく、字の働きによって霊界が浄まる。頭の熱い人は精神散漫、物がよく考へられぬのであります。精神病など特にあ つい。特に物を考へると額に毒が集まる。八の字を引く所。学校の成績のわるいものなど皆これであります。

前頭部に毒素があり微熱がある人は、考慮が散漫で精神集注が困難となり、記憶も鈍く且つ物に倦き易いのである。学生なども成績の不良なのは斯ういふ症状によるので、私が治療した頃、此前 頭部の毒素を解消するに従ひその成績が目立って良くなったのである。又後頭部の毒素と微熱は、感情を惑乱させるから、焦燥感が起り易いのである。よく小児で癇が強いとか、虫気があるとかいふのは右 の理によるのであって、斯ういふ子供の頭脳に掌を宛つれば必ず微熱がある。その微熱が解消するに従って虫気がなくなり、学校の成績も佳良になるのであります。

よく泣癖の赤児がある、それは虫気の為とか虫が強いとかいうが、斯ういう赤児を診査すると必ず頭脳及び肩部に微熱がある、赤児で肩の凝っているものも沢山ある、之等を霊的光力によれば、 毒素は軽減し無熱となって泣癖は全く治癒するのである、又児童で怒り易く、親に反抗する性質のものも必ず右の赤児と同様の症状で、之又浄霊によって治癒し従順となり、争いを嫌うようになり、学校の 成績も可良となるのである、夫婦仲の悪い原因も同様で、霊的光力によって親和するようになるのである。根源は頭脳と首肩附近の毒結の浄化熱とすれば、それを全治させる事こそ唯一の解決の手段で ある。

そういうようで肩が柔らかいという事が一番です。子供でも学校の成績の悪いのは必ず肩が固いです。腺病質という、青い顔してヒョロヒョロしたのはみんな肩の病気です。子供などは簡単に肩 をやってやるのです。それで霊的光力の場合に、前から肩を狙ってやり後からやり、酷い人は上からやれば、だんだん柔らかくなって来ます。大抵本人が肩が凝るという事を言いますから、それで分ります が、子供は触ってみればすぐ分ります。それから赤ん坊に沢山あります。カン持ちや、ジレたり、非常によく泣くのはみんな肩が固いのです。


霊的光力の急所: 前頭部、前額部、後頭部、延髄、頸部、肩(前後、上から)、腎臓

■体力が弱ったことから書いてみるが、かの白人は先祖代々肉食人種であるからそれでよいとしても、日本人は異う。何しろ祖先から菜食の方が多い民族であったことは言うまでもないと共に、 明治から大正時代までは左程でもなかったが、昭和に入った頃から非常に肉食が多くなってきた。 殊に終戦後は国民の劣等感も手伝って肉食が増え、又、牛乳の飲用も旺んになったのは衆知の通りである。 以上
要注意;玄米食の話と同様の注意書きをするが、ここで抜粋(ばっすい)したこの教えを絶対的に正しいものとして、鵜呑(う)みにするのは、くれぐれも避けていただきたい。あくまでも、学び(情報)の一つとして、利用して頂きたいと思う。
また、現代の肯定派、反対派の論戦の状況、諸外国の状況、論者の経歴、資格(医師の資格を有するか否か)といった諸般の事情を吟味して、自分の頭で考えてほしいと思います。


牛乳の根拠の主たるものは次の通り。

・牛乳のタンパク質がカルシウムと結びつきやすいので、牛乳を飲めば飲むほど、体内のカルシウムが尿といっしょに体外に排出され、骨粗しょう症を促進する。
・牛乳のタンパク質がカゼイン蛋白であるため、消化不良を起こす。
・牛乳にはABBOSという蛋白が含まれるので、糖尿病になりやすくなる。
・牛乳のタンパク質は分子が小さく、直接血液に吸収されるので、アレルギーの元になる。

「牛乳信仰が現代の難病を作った」新谷弘美(アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授)著作「胃腸は語る」 弘文堂 1998年7月

牛乳の飲みすぎこそ骨粗鬆症をつくるのです。 (補足 牛乳のタンパク質がカルシウムと結びつきやすいので、牛乳を飲めば飲むほど、体内のカルシウムが尿といっしょに体外に排出され、骨粗しょう症を進行させる。) 牛乳をたくさん飲む国は骨粗鬆症が多い。例でいうとニューヨークの診療所には、よく背中の曲がったご婦人などが来て、「私は若いときから牛乳とかチーズをたくさんとってきたのに、どうしてこんなことになったのでしょう」と言われます。 それに対して、いつも言うことであるが、「そういうものばかり食べてきたから骨粗鬆症になったんですよ」というのです。よしんば、牛乳のカルシウムが吸収されたとしても、腎臓が、余剰カルシウムの排泄と、同時に、マグネシウムも亜鉛も鉄も他のミネラルもいっしょに排泄してしまう。 日本人の大半がそうである乳糖不耐症の人は、軟便や下痢によって、牛乳中のビタミンやカルシウムなど種々の栄養分とともに、腸内の栄養分まで道連れに排泄してしまう。

もちろん、それによって腸内細菌のバランスまで崩壊させる。骨粗鬆症を進行させるという効果のほかに 、新谷弘美が指摘している牛乳摂取の弊害をあげてみると、動脈硬化になれる。肝臓腎臓への負担増。 腸管から牛乳蛋白(異種蛋白)が血液内に入ってしまう人は、鼻づまり、ぜんそく、アトピー性皮膚炎、潰瘍性大腸炎などを起こすアレルギー体質になる。 アレルギー体質からガン体質に変わっていくかもしれません。最近の研究発表の中に、乳糖は白内障と関係が深いとか、乳蛋白は関節炎とか呼吸器系の病気を作りやすい等々があり、最近のアメリカの学者たちは牛乳・乳製品をむしろとらないようにすすめています。
そういう潰瘍性大腸炎とか顆粒性大腸炎(クローン病)の患者さんを治療するときに、まず牛乳と乳製品を全部やめさせてしまいます。

本当に奇跡のように改善されますし、また治るのです。食べ物で牛乳・乳製品をやめただけでも、そういう病気は改善されるということがわかっています。 胃相・腸相は牛乳を飲むことによって悪くなり、難病ともいえる悪性炎症性の大腸炎もできるということです。「牛乳摂取の問題点 ― 牛乳はカルシウム摂取源として有利な食品ではない」 堺薫(新潟大学医学部名誉教授)月刊「自然食ニュース」No.287(1997年11月)
まあ、牛乳が骨粗鬆症に有利な食品であると喧伝されている一つには、いろいろな利権が絡んでいるとも聞いています。

結果的には牛乳中のカルシウムは吸収できなくて、リンが、カルシウムを体や骨から追い出すので骨粗鬆症はかえって進行してしまう。 「生理学的にも牛乳は日本人にあわない ― ピンピンコロリと死ぬには生理学に適合した生活を」 星猛(静岡県立大学学長・東京大学名誉教授、元・東京大学医学部教授(生理学))月刊「自然食ニュース」No.289(1998年1月)
カルシウムの摂取や骨粗鬆症の予防にミルクを飲め飲めというのは全く無意味です。とにかく、大腸癌や乳癌など西洋型の癌になりたくなかったら日本食にして、マーガリンやミルクなんか控えた方がいいということです。

処が元来獣肉には一種の毒素が含まれており、この毒素が漸次集積し固結したものが真症癌であるから、自然はこの肉毒中和の必要からも野菜があるので、 穀類は別とし副食物としては相当量野菜を交ぜなくてはならないのである。 そうすれば決して癌は発生しない。次に注意したい事は、単に癌といっても真症と擬似との別がある。実は擬似の方がズッと多く、この擬似癌の原因は、無論悪性な薬毒の一種であるから、薬を廃止する事によって無くなるのは勿論、 罹病の場合薬を廃め菜食を多くすれば長くは掛かるが少しずつ治ってゆくから、左程心配はない訳である。万一癌病に罹ったとしたら、直ちに菜食に切換えれば長くはかかるが必ず治るのである。

★何が何でも現代医療に頼りたければというか、ここに書くことは躊躇(ためら)うのですが癌になったのなら群馬大学の医学部の中野隆史氏先生を訪ねるとよいでしょう。がん治療(腫瘍放射線学分野・重粒子線によるがん治療 )を行っております。
重粒子線治療は局所治療で副作用がないので様々ながん治療に適してはいるが、胃がん・直腸がんは手術し、残った部位を重粒子線にて照射。
群馬大学のプロジェクトは125億円の予算だが、国が80億円、県と市が37億円、群馬大学が5億円予算化した。1回の治療費は医療機器が高いので、1人314万円かかるが高額医療保険でカバーしてもらう。
しかし将来は健康保険の適用と、シンクロトロンのダウンサイズでどこの医療機関でもおけるようにしたいとのこと。


●海藻類の中では、ヒジキが牛乳の12倍以上もカルシウム含有量が多いことが栄養学では確認されています。 更に穀類の一つである玄米を上げれば、玄米の中には良質の澱粉質を多く含有し、更にはビタミン群が含まれ、それに準ずるものとして、ミネラル、鉄分、アミノ酸、脂肪も含まれています。 このように植物性のみの摂取で総ての栄養素は賄えるのです。 しかしこうした現実の中にありながらも、現代栄養学は植物性食品の中にビタミンB12のみは植物性食品の中には含まれていないことを厳しく指摘し、これを以て「栄養不足になる」と豪語しています。 その理由は、ビタミンB12という栄養素は卵やレバーなどの動物性食品のみが含有している栄養素だからです。 ところが、こうしたビタミンB12は、発酵食品である味噌や納豆の中にも、そして海藻類の中にも含まれていて、敢えて卵やレバーなどの動物性食品を摂る必要はないのです。 以上述べたことを整理すると、植物性食品は栄養学的見地から見ても、動物性食品に比べて格段に優れていることは一目瞭然であり、その上に言霊の、濁りのない、清らかな、正しい発声が可能であるということが上げられます。

雑学知識:肌にやさしい「純度の高い石鹸」の選び方⇒「純石鹸分」の表示も品質の目安になる⇒「純石鹸分98%」とか「純石鹸分99%」とか表示されていれば、きちんと塩析をして、「不純物が取り除いてあるんだな」ということがわかるからです。

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●人間が肉食に適さないワケ

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●歯の形

人間の歯は動物を取ってしとめるキバはなく、草食に適した臼歯がある。

●あごの形

肉食動物は食物を噛まずに飲み込むのであごは発達しておらず、臼歯もない。
人間は食物繊維を咀嚼(そしゃく)するための顎(あご)がある。
また肉食動物の顎は上下のみにしか動かないが人間や草食動物の顎は横にも動く。
これは穀物や草をすりつぶすためにある。

●手

人間には動物ハンティング用の殺傷能力のある爪はなく、木の実や果物を採取できるように親指を向かい合わせることができる手を持つ。これは人間が動物肉を食べるのではなく、果物や野菜を採集するのに適していることを示している。

●胃

肉食には胃酸を多く含む胃液が必要。
人類と草食動物の胃酸は、肉食動物に比べて20分の1の濃度である。

●腸

肉食には体内で毒素を作り出すので短時間で消化・排出のため、高濃度の消化器官と短い腸が必要。
肉食動物の腸は体長の約3倍であるのに対し、人間の腸は草食動物のように長く、体長の約12倍の長さの腸をもつ。

●精神面

肉食において影響する精神面  暴力的な傾向  動物的な性質  体臭をもつ  糞・尿などにも草食にはない異臭がある。

●肉食動物の特長

精神の安定はなく、常に危険や外敵の多い厳しい環境に住む。
種族存続のために残虐性を持ち、常に攻撃される環境から多頭出産である。
瞬発力にすぐれ、持久力はない。

●栄養面

[たんぱく質] 食品100g中  牛乳=約3g  ブロッコリー=約6g
同じ広さの土地で蛋白質を得るためには
肉=5倍   豆=10倍   野菜=15倍   ほうれん草=26倍  の蛋白質が取れる。

●[カルシウム]

牛乳は100gの中に100mgのCaを含みますが、小松菜=290mg   大根葉=210mg   のカルシウムが含まれます。

※緑黄色野菜は一般にCaを豊富に含み、ビタミンCが鉄分の吸収を2〜4倍上昇させる。

●経済効率

人間の肉食のために繁殖される草食動物(家畜)の餌は牛を1頭養うために1ヘクタールの草地が必要。
また、早期成長をはかり草食動物に動物の死骸、骨の粉、成長ホルモン、抗生物質、ぺスティサイド、また牛の血などを混入した濃厚飼料を与えて経済効率をはかっている。 (成長ホルモンの恐ろしさの項参照)
メス牛は生後1年で人工授精が施され、出産後すぐにまた母体が休む間もなく次の人工授精が行われます。牛の生理を無視した過剰出産、過剰搾乳により経済効率をはかり、5〜6年で「老廃牛」肉牛は2〜3年で屠殺(とさつ)。

●飢餓に苦しむ人々

現在の地球の人口63億人強。そのうち、8億3000万人の人々が栄養不足で、そのうち7億9100万人は発展途上国に暮らしています。つまり、世界の7人に1人、発展途上国では5人に1人が、飢餓状態。人類が肉食をやめれば、畜産で使われていた穀物分で途上国の飢餓を充分救えます。 約1kgの牛肉を生産するのに、16kgの穀物が必要です。豚肉を生産するのに必要なエサのエネルギー(カロリー)はその5倍以上、牛肉に至っては30倍以上必要です。 肉を食べるということは、貧しい人たちをさらに飢餓に追い込むこということになります。

●肉食をやめれば世界を飢餓から救える

●日本は玄米菜食だった

日本は農耕民族で穀物を主食とし、300年前まで玄米菜食だった。675年天武天皇により肉食禁止令が出されて以来7世紀から19世紀(江戸末期)までの間、肉食が禁止されていました。
卵も禁止されており、南蛮貿易、「開国」以来、肉食が解禁、外交政策上、天皇も公に肉食することになりました。戦後は欧米文化が取り入れられ、肉料理が普通に食されるようになりました。
肉食は解毒のため腎臓などに負担をかけるので様々な病気の原因を引き起こします。
また、屠殺時の恐怖により分泌されたアドレナリンも残留しているので、食すると穏やかな心を保つのがむずかしくなり、怒りやすく切れやすい性格になります。


●菜食で生きていけるのか

栄養不足や力が出ないなどの認識はウソ。
肉類は動物の老廃物の尿素と尿酸を含んでいるので、疲労と老化をもたらし活力を損失させます。

肉を食べると元気が出るように思えるのは、尿酸のためなのです。

動物性たんぱく質は、一度アミノ酸に分解して、それをヒトのたんぱく質に合成しなければならないのです。問題は、肉を加熱調理すると、たんぱく質が変性してアミノ酸が壊れてしまうことです。
●尿酸、別名尿酸化合物三酸化プリンは、カフェイン、別名尿酸化合物二酸化プリンに名前も似ており、体にも似たような影響を及ぼします。肉のかたまりは消化されるのに数時間かかり、刺激物も解毒されるのに同じくらいかかるのでエネルギー低下の原因となるのです。
 バナナには人体に必要な良質のたんぱく質がそのまま含まれているのです。
朝食に果物を食べ、それ以外の食事で生野菜を食べれば、充分な量のアミノ酸を摂取できますから、たんぱく質不足には絶対になりません。
現代人は動物性たんぱく質をとらなければならないと思い込まされていますから、レタスからたんぱく質を摂取するなどというのは突飛な発想のように思えるでしょう。しかし、土の中から芽を出して成長するものの中には、必ずアミノ酸が含まれているのです。

○ガンと肉食

発ガンの原因となる食品の代表は肉である。卵・牛乳などの動物性食品も同じである。
これらの食品で発ガンするメカニズムについては、腸内細菌の研究により理論的に解明されているが、ここ4世紀半のわが国の死亡原因の統計資料によっても明白である。大腸ガンや乳ガン、子宮ガンが急増しており、食生活の洋風化、 すなわち肉・卵・牛乳・乳製品の摂取量の増加との相関関係がはっきり認められている。

○肉を食べると元気になるという常識のウソ

「肉を食べろ、牛乳を飲め」と国や栄養士、医者などが勧めています。 その結果が近年の肥満です。肥満は糖尿病、高脂血症、高血圧などのリスクが高まる病気の元です。

オリンピック水泳で4つの金メダルを取ったマレーローズ、世界チャンピオン、ジョニー・ウァイスミューラー、マラソンのアベベ、テニスのナブラチロワ、陸上競技のモーゼス、カールルイスらは完全菜食で栄光を手にしている。

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★●菜食をする著名人の言葉

● アインシュタイン=「菜食がもたらす情緒面での変化並びに浄化は、人類に対して非常に多くの利益をもたらすと考えます。したがって菜食は人類にとって非常に幸多き、平和なことなのです。人類は菜食をすべきです」 「菜食主義への移行ほど健康と長寿に有効な方法はない」

●ピタゴラス=魂は不滅であり、肉体が消滅した魂は他の肉体の中に移住、肉食は動物の意識が身体を通過すると解いた。

●プラトン=「神は人間の体に栄養を補給するために、木と植物と種を創造した。」肉食が始まったことによって戦争が起こった。と解いた。

●レオナルド ダ ヴィンチ=「私はかなり若い頃から動物を食べるようなことは絶対にしなかった。動物を殺すことは人間を殺すことと同じである。人間がこのことを認識する日はいつか来るだろう」 自然や芸術を愛するが故にすべてのものの中に生命を見出し、動物の肉、魚、卵、チーズ、ミルク、蜂蜜などの動物性食品を一切食べない。

●ガンジー=肉食は我々人間に適さないと私は考えています。もし人間が動物よりすぐれているというなら、人間は下等な動物の真似をするという過ちを犯していることになります。と言った。

●トルストイ(1828〜1910)ロシアの小説家、思想家=ギロチンの公開処刑を見て、59歳で肉食をやめ、雛鳥と包丁を渡し、「僕は殺したくない。この包丁で自分で殺してください」と言って家族を納得させた。 「肉食をするすべての人が、自分でそれらの動物を殺すことになったら、彼らの大部分は肉食を敬遠するようになるであろう。」と言った。

●ジョージ・バーナード・ショー(1856〜1950) 私は現在85歳だが、これまでと同じように元気に仕事をしている。 もうかなり長く生きたので、そろそろ死のうかと思っているのだが、なかなか死ねない。ビーフステーキを食べれば、ひと思いに死ねると思うのだが、私には動物の死体を食べるような趣味はない。 私は自分が永遠に生きるのではないかと思うと、空恐ろしい気分になる。これが菜食主義の唯一の欠点である」と言った。

●アルベール・シュバイツアー=「動物を食べることは私の信条に合わない。だから、私は絶対に肉食をしない。」

●ベンジャミン・フランクリン=「私は肉食を忌避してきたので、時には不便な思いをしてきた。この特殊な性癖のためによく叱られたのである。しかし、軽い食事のおかげで、私は頭脳がより明晰になり、理解力も早くなって、 大変な進歩を遂げる事ができた。」

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倫理面

食用の畜産動物は「天寿を全う」することがありません。若くて「生産性」の高いうちにと殺し、経済効率を図ります。また、動物に過酷な飼育をするために、狂牛病(BSE)鳥インフルエンザなどが多発。

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電気棒[electric goads]

棒状のスタンガンの様な機器で直に感電させられ現在の牛追い棒とも呼ばれる拷問器具。
跳び下りることを強要したりきつい追い込みができる。
電気ショックによる打撃は非常に深刻で、体内の傷害や精神傷害にもつながる過酷な拷問である。
一度電気棒を当てられた動物は怯え切り、皮膚は膨れ上り黒く焦げ、または青くなり切り傷だらけになる。
屠殺の追い込み作業が容易になるため、現在ではこの方法での追い込みが多用されている。
食肉用の家畜はこうして屠殺されるまでには激しい苦痛とともに、骨盤、足などを骨折し歩けなくなっていることもある。

首を半分ちょん切られて血をぬく。牛ははっきり意識があり、歩いて行って苦しそうにもだえている。牛が倒れるまで放置。食べるためとはいえ、非情な世界である。とても人間のやることではない。 そして一瞬にして牛(牛にかかわらず動物・四足全て)の怨念が肉の塊として受け継がれている訳である。霊的面から観た見解である。人間も同じく脳死も同じで生きているのに臓器移植などもまさに今のような有様である。

人間は肉は害ばかりなのに、ここまでしてお肉を食べる必要があるのだろうか?いつぞやテレビで年老いた写真カメラマンという人間を見ていたが肉が体に良い長生きの秘訣は肉を食べているからだなどと言ってるのを 見ていたが、この様な年よりには、なりたくないものだ。色々と御苦労があったようですが年をとっても何の意味がない。テレビではそれを見ている人間が多くいるという事に気が付いてほしいものである。と小生は思うのである。


欧米人は肉食中心で進化してきており、腸の長さは肉食動物並みの4mになってきています。大腸ガンや潰瘍性大腸炎になりやすく、肉食大国アメリカでは大腸ガンは死亡率2位 日本人も戦後の欧米化によって肉食中心の生活になりましたが、(日本人はもともと農耕民族・穀菜食)野菜や穀類で進化してきたため、欧米人に比べ長めの腸を持っています(7m) ですので、日本人が肉食すると、腸は長い分だけ腐敗便を作りやすく、悪玉菌増殖の危険性、増加した動物性脂肪の影響などで大腸ガンや潰瘍性大腸炎その他の成人病を引き起こす可能性は他の民族に比べて大きいことになります。

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仙人の秘訣;長命の秘訣として食物、飲酒、入浴、性欲に関係するが長寿法は理論からも実際からも効果百パーセントは仙人の食物は松葉を細末したものと、蕎麦粉とを水で練り合わして、饅頭の如き大きさにしたものを、 最初は一日に三つ食るのである。そうしてそれを何年か続けている内に、今度は二つにし、終には一日一個にするのである。三年もたつと体が軽くなり病気にはならない。 そして機能の若返りが起り始めるのである。機能が若返る以上、全体的に若返らざるを得ない訳である。小生も何度か試してみたが本当に体が軽くなって行くのが分かるものである。 肉なんぞは日本人の体には適してはいないのが分かるものである。これも食たから分かるのである。

然るに菜食によって非常に身体が軽くなり、よく高い所から飛降りたりした事も出来るようになるというは本当であると思う。そうして、高所から下を瞰(み)下しても、不思議に恐怖を感じないという。だが其後、普通食になるに従って、漸次普通状態になのである。又肉食を食すると身体が重く、又病気に罹り易く、肉を制限してすると結果が良くなるという。

大峰老仙さんに教わったカラマツ。カラマツの葉を水で洗ったら折り畳んで口に入れ。一日3回毎食後に噛む。慣れないとかなり苦いが、どうやらこの苦味が体にいい影響を与えるらしい。どういう成分がどのように作用しているかわからないが、とにかく身が引き締まる。 そして、葉を噛むことで、歯がコーティングされ、歯の汚れも落ちるのだろう。論より証拠で、是非試してみてほしい。

いつも松葉や松の実を口に含んで松を食べると五感はもちろん、六感も鋭くなるという説がある。それがどこまで確かなものか判らないが、とにかく松葉や松の実を食することによって、 暗闇でも見通せるようになり、五百メートル先を行くかすかな足音さえ聞き分けることができ、かすかなにおいも嗅ぎ分けることができるようになるという。日月神示には「松、食せよ」とも示されている。また山中で採れるワラビやゼンマイなどの山菜や木の実を中心とした、菜食を食することである。

カラマツ=火山地帯に生育することが多く、荒れ地・痩せ地・湿地に生育し、パイオニア的性格を持つ。本来の生育地は亜高山帯からブナ帯上部であると考えられる。各地の高海抜地域にに広く植林されている。 樹高は30m近くになり、直径も1mを越えるものがある。葉は線形で長さ2〜3cm。短枝では葉は円形に配列され、枝先などの長枝では螺旋状に配列される。花は5月頃に咲く。 和名は葉の付いた様子が唐文様に似ているとの意味であり、落葉するので落葉松、富士山に生育するのでフジマツの別名もある。秋には黄葉し、春は新緑が美しい。

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生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-27-2

科学の分野において、特に進歩したという医学の実際が、右のごとくであるというのは誰しも不可解と思うであろうが、実は大いにその原因としての誤謬が伏在して居る事である。 それは何かというと、その根本が末梢的分析研究にのみ固執しているという事である。 結核激増の原因と治療法の発見は、現在の科学のみでは絶対解決が出来ない事である。 まず、結核初期患者を診査する時、その微熱の発生所とも言うべき場所を見出すであろう。それは淋巴腺及び頸部の付根、即ち肺尖の上表部に数個のグリグリを発見する。 その部所を指頭で圧する時、必ず痛みがあるがこれは膿の溜結である。 そうしてそれに軽重のある事は勿論であって、それは悪性ほど高熱とより痛みとがある事によってよく判別出来得るのである。 しからば、この膿はいかなる原因によって作為され溜結されたかという――それを識(し)る事が根本である。これに対し、第一に挙ぐべきは彼の種痘である。 人間が生れながらにして保有する天然痘毒素は、天然痘発病によって排泄せられるのである。

それが種痘によって病気発生を停止せられるのであって決して免疫されたのではない。即ちその毒素は排泄すべき力を失ったまでで、言わば毒素は陰性化して体内に残存するのである。 第二に挙ぐべきは肉食と薬剤の余毒である。輓近(ばんきん)――急激なる欧化主義の結果、肉食と牛乳飲用による血液の汚濁に気が付かない事である。 又、薬剤の服用及び注射は副作用に依って血液を汚濁させる事である。即ち、ある病気を治癒する以上に健康上不利な薬毒の害を残すのである。

前述のごとき、天然痘の陰性化毒素と肉食薬剤による毒素とそれらが相集まって、淋巴腺及び肺尖部上表に溜結するのである。 元来日本人は西洋人に比して、肉体の浄化力は非常に旺盛である事である。それは西洋人より天賦的に優秀であるからである。 西洋人が獣肉多食をしても害が少いという事は浄化力が少い為である。西洋人は肩が凝らないというのもそれが為である。 種痘と肉食と薬剤の毒素は、父母からその子供に遺伝するのは当然である。

しかもそれに気が付かない結果は、又してもその児童へその毒素を増加する方法を執るから堪らない。滔々(とうとう)として弱体児童増加の勢いは停止する事を知らないのである。 しかしながら淋巴腺と肺尖部の膿結は、医家も承知しているであろうが、それを解消する方法が発見されないのである――と言って、今更種痘を罷(や)める事は出来ない――又、肉食牛乳を全然廃止する事も不可能であろう。 これらは霊的光力で結核初期症状は完全に解消されるのである。

しかも短時日である事と無医薬であるが故に、費用の僅少なる点と相まって真に理想的である事である。そうしてこの療法は、何人といえども六ケ月以内にて習得されるのである。 これによって全国の弱体児童及び学生の体格改善は、数年にして成功され得る事はあえて難事でないと言う事を断言して憚(はばか)らないのである。 又、医家諸彦(しょげん=男性が手紙などで人々に呼びかけるときに用いる言葉。みなさん。諸賢。)においても速かにこの療法(霊的光力)を研究され習得されん事を望んでやまないものである。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-27-3

〇坊ちやんを作る健康法 〇現代医学の健康法としていう処は、人間は無理をしてはいけない、睡眠不足もいけない、消化の良い物を食べ、物をよく阻囁せよ、寒い思いをするな、 腹巻をしないと腹が冷える、外出から帰った時は含嗽をしろ、等々である。処が仮に右の通りの健康法を実行するとすれば、果して健康になり得るであろうか、 というと、私はその反対である事を明言する。それは必ず虚弱者になる事で、今簡単に解説してみよう。  先ず、無理であるが、人間は無理をするだけ健康になるのである。その証拠には、スポーツマンがレコードを造る場合、極端な無理をする。そのため技能が発達する。 水泳の古橋君の如きはその最たるものだ。この理によって、無理をすると無理の出来ただけ健康が増すのである。

 睡眠不足は結核の原因になる、などというがこれも反対である。その訳は最も睡眠不足の階級としては宿屋、料理屋、待合の女中等であろう。 処が事実この階級は結核が一番少ないということは医学でも言われている。故に私は成可睡眠不足の方針をとっている。  消化の良い物を食うと胃の活動力が鈍る。よく噛む事も同様で、造物主は消化の良い物、悪い物多種多様に造られてある以上、それらを食えという意味である。 故に烏賊、海鼠、蛸、沢庵、梅干、茄子等何れも不消化物と思えるが、食いたい物は何でも食うのが本当だ。

 風邪を引く事を恐れるが、風邪は最も簡畠丁な健康増進法であり、神が与えた唯一の恩恵である事は唱うる所である。  腹巻をすると、腹部の皮膚が軟弱になるから偶々外した場合冷えるので、腹巻を用いないと腹の皮膚が丈夫になるから冷えっこない。 故に決して腹巻はしない方が良い。含嗽はしない方がよい。何となれば、人間の唾は強力な殺菌作用がある。

虫類によっては人間の唾で弱るのがある。 その証拠には蚤をとる場合、指に唾をつけて蚤を制えると蚤は弱る。それ程の殺菌力ある唾を含蠍で一時的なくすのは、寧ろ含嗽時は危険という事になる。  以上の説明は理窟ではない実際に即している事は何人も肯き得る筈である。 故に医学の健康法は人間でいえば、苦労をさせない様にして甘く育てる坊ちゃん式で社会へ出ると抵抗力のない役に立たない人間になると同様の理である。

〇頭脳が完成しないうちに使うと発育が止まる

今日の教育は、子供のうちからやりすぎるのです。 ほかのことは別として一言だけ言っておきますが、教育は十二歳からやるのです。その前にやってはいけないのです。 今の人間は非常に頭が悪いのですが、これは早期教育のためなのです。というのは、人間はある程度頭の組織ができるのに十二歳くらいまでかかるのです。 それをもっと早く頭を使うと、頭がそこまでできないうちに発育が止まってしまうのです。 ちょうど労働と同じようなもので、労働はやはり青年になって初めてどんな労働でもできるのです。 それを十一か十二の子供に労働させると、発育が止まるのです。

ある方がに柔道をやった時に、十五歳以下は柔道をやってはいけないということでした。それは背の発育が止まるからです。 ですから柔道の先生などは割に背が低いのです。横は張っているが背は低いのでも分かります。それはつまり肉体的の発育が止まるのです。 それと同じで、頭脳もあまり完成しないうちに使うと発育が止まるのです。ですから働きが悪くなるのです。 そういうわけで十二歳まで遊ばしておいて、それからやると非常に覚えが良いのです。ですから今までよりか倍くらい良くなるのです。 十二歳からで、小学三年、中学三年、大学三年と、それだけやれば充分です。ところがそういうことを知らないから、早期教育をやるのです。 それこそ今は小学校の生徒などでも、いろいろと難しいことを教え込むのです。ですからつまり子供を早く大人にしようというやり方です。 今の子供をご覧なさい、以前ならちょうど親父が言うようなことを言ってます。子供の大人を作っているのです。

早く大人にするのを良いとしているのです。だからちょっと見るとたいへんませていて良いようだが、肝腎の頭脳の発育を止めてしまうのです。 だから後になって本当に大人になるに従って、言わば耄碌(もうろく)が早くなります。そういうことがたいへんな間違いです。 そこでそういう教育をするには学校を作らなければならないのです。ところが今では文部省令にぶつかります・・・。 十二まで遊ばせておくということがたいへんな問題になります。ですが本当は上記で書いたような事です。

なにしろ人間、生まれて七つや八つでは、まだ頭ができあがらないのです。中途半端なのです。ちょうど十ぐらいの人間に労働させるようなもので、 あんまり子供のうちから労働させると背が伸びなくなるのです。頭もそれと同じで、頭ができあがらないうちに使ってしまうから、 それで発育が止まってしまうのです。本当の働きというものができないのです。ですから十二になってから学校を受けさせて、 小学三年、中学三年、大学三年の九年で卒業できるのです。それから学問も、今はよけいな学問を半分くらいやってます。 医科大学とかやってますが、それは間違ったことです。その間違ったことに十年も十五年も無駄な努力をしているわけです。 そういうことはなくなります。

稲というものは充分に稔らしたほうが本当なのです。つまり育つだけは育たせたほうがよいのです。だから子供でも、教育を早くするのはいけないのです。 今の人間が馬鹿になるのは、学校教育を早くしすぎるためです。幼稚園などでも、まだ六つか七つですが、それで学校に上げるというのですから、 脳はまだ発達しないのに教育するために、今の人間は上面(うわつら)は利口だが中は馬鹿というわけで、育ってから超愚になってしまうのです。 今の人間は、稲で言えば早稲(わせ)なのです。

十五歳以下では剣道はやってはいけない。頭を殴られた時、血管が少しずつ切れ、内出血している。その浄化で熱が出ている。 額が痛いのはこの額を殴られ内出血している。骨ではない。まるで骨のようになっている。これは柔かになる。 そこへ熱をもって、重かったり締め付けられたりする。

〇子供に対する愛情について

最初の子が生まれるときは夫婦ともたいていまだ若いから人生の経験も少ないんです。 だから、どっちかって言えば親のほうが甚六なんですよ。そしてだんだん苦労して経験もたくさん積んでからできる末子はいい子になるんです。 それに、最初の子はどうしてもかわいがりすぎますからね、それがいけないんです。 ところが、だんだん子供がたくさんできてくると、かわいがることが薄くなるってわけじゃなくても、たくさんいて届かないようになるんです。 しかし、そういうほうが子供には独立心ができるようになるからいいんです。偉い人ってのは兄弟が多い中からできるんです。 兄弟が多いために甘やかされないからです。要するに独立心ができるんです。自分で自分を助ける、その信念が強く養われるんです。

一人っ子にはあまり偉いのがありませんね。だから始終かわいがられる子は偉くなりませんよ。むしろ愛されないほうがいい。 親の愛情にも間違いがあるんですよ。例えば、子供が転ぶと日本ではすぐ親が起してやるけど、西洋では自分で起きるように言いますね。 これなんかも西洋のほうが本当の愛情ですよ。そのほうが本当は愛情が深いんです。

いくら独立心がいいからって、愛情がぜんぜんなくちゃいけませんよ。そんなふうだと、子供によっては親の愛を知らない子供になってしまいますからね。 結局ね、「猫かわいがり」がいけないんですよ。だから兄弟の多い子供が偉くなるって言うんですよ。愛情にも大乗と小乗とがあるんです。 そして、ただ大事にするっていうのは小乗の愛です。子供が苦しんでいても、それを見て見ないふりをする、それが大乗なんです。

だから、小生だって間違ったことをやってても、ちょっと注意するくらいしかしません。間違ったことだときっとしくじりますからね。 そのとき自分の頭をあっちこっちへぶつけて苦しみ、そのあげく、ああ自分のいままでのやり方は間違ってたんだな、と気がつく、それが本当なんです。 そういうのを途中で注意したって駄目ですからね。

〇子供に対する叱責の是非

差別はないですね。怒るから叱るのでね。怒るのと、叱るのが、別々にするのがいたら変ですよ。 叱るだけのことを子供がすれば、親だって怒りますよ。 おかしいときに笑うなというようなものです。けれども、ただ適当なように・・・怒るべきときに怒って、叱らなければならないときに叱るのは良いが、 親によっては、屁ひったくらいで怒る者がいる。人間に・・・むやみに怒る人がある。どっちに偏ってもいけない。 それが、一つの修業なんです。み魂磨きです。

〇愛の表わし方 (淡白の味い)

これも程で、いくらいい事でも程がある。程度を越してはいけない。子供が迷惑せぬ程度にしてやめておけばよい。 およそ極端なやり方はいけない。気候でも寒過ぎても暑すぎてもいけない。 食物でも甘すぎても辛すぎてもいけない。あっさりしたところに味がある。一番飽きないのは白米と水である。 人間でも同じ事である。

〇霊界の身魂 

お腹に宿っている子どもが、此の世の執念を持っていて、早く世に出たいとか、霊界で十分に浄化しないで、宿る場合などは流産したりするし、また奇形児(発達障害)で生れ出でたりもする。 この様な浄化は人間として生まれる幼い生命にも及んでいる。私たちはこのような浄化について、よく知っておかなければならない。新たな生を享(う)けてこの世に生れ出た 嬰児(えいじ)は、前世のの霊界におけるものか、はたまた親のものなる汚れ出でた血の中に引き継いでいるものか、また母体での汚れが霊の影響したものか、父からのものなのか、 それとも本人そのものによる前世から及んでいるものなのか、それらを判別することはできない。がしかしこれらを否定することはできない。また母体にいる時などは母親の影響がも大いにある。

母乳だからいいと思いきや母親の精神状態が多大にうけている。精神的な不安は母乳を与えられている子どもは、熱を出さずにはいられない。母乳も不純なものになってしまうからである。 幼子の心には、歪み等はない。乱れた母親の汚れが母乳を通して幼子の体内に入って毒性のある乳を飲まされているのである。母親が自ら反省をして、乱れた心を平静に保つ事を せねばならない。男性よりも女性のほうがより神向きをせねばならない。責任重大である。とて男性も大いに関係があるので共に神向きが重大である。

母親の母胎にあったときは、頭が下にあるために、不純物が頭に溜まる場合がある。だから生れ出て育つ過程で、目やにや、耳垂れ、鼻汁、膿、頭部の吹き出物、首の吹き出物等の浄化 が激しく現われるものである。この毒素を薬等で止めいると、より一層いろんな症状が出始めてくるものである。また排泄する力が弱まり健康状態が悪化するばかりである。 なにしろ自然に体外に出ていくものを押さえてはならないのである。そして霊的光力を受けていれば早く排泄が済むわけである。このことに世間人は気が付いてほしいものである。




生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-27-4

〇天才児童はどうして出来るか 先頃新聞を賑わした、六歳で素晴しい絵を描くという児童があったが、こういう豆児童はどうして生まれるかを書いてみるが、天才児童は昔からも時々現れるもので、 西洋においても有名な音楽家等が六、七歳頃からピアノやヴァイオリンをよく弾いたり十歳を越してから大作曲を現すというような話もよく聞くのである。 彼のシューベルトなども十何歳から三十一歳の死ぬまでの間に五百種以上の作曲をしたと言うのであるから、驚くべき天才であったに違いない。 かような大天才の生まれるのは何か特別の原因がなくてはならないはずで、それをかいてみよう。 これはもちろん霊的であって、唯物科学では全然見当がつかないから致し方ないとしても、この原因を知る事も必要事であろう! その意味で吾らは霊科学から解説するのである。 この原因については、例えば音楽大家の霊の再生と憑依とのこの二つと思えばいい。

今年に大音楽家があるとする、死後霊界に行っても好きな音楽は忘れる事が出来ない、その強い執着のため速く再生する、これがその一つで、 別な一つとしては再生するまで待ち切れないため、自分の系統の者を探し求めてその児童に憑るので、手指の動くのを待って六、七歳頃になれば憑るのである。 何しろ大音楽家であるから驚くべき技能を発揮する訳である、ところが、この場合縁のない者へは憑る事が出来ないから、自分の霊統の者特に児童に憑る。 それは成人者より幼時ほど憑依しやすいからで、また思い通り自由に駆使されるからでもある。考えてもみるがいい、六つや七つの子供が普通であったら、 成人者のような技能は有るはずがないが、以上のような訳を知れば天才児童も神童も出来るのもあえて不思議はないのである。

しかし天才児童のことごとくが大成するとは限らない。中にはある年齢まででその後は普通になる者も往々あるが、これら再生ではなく憑依霊の場合に限るのである。 という事は再生の方は、その霊自体が人間であるから変りようがないが、憑依霊の方は神の使命や祖霊の思惑のため、ある時期までで許されたものであるからである。

〇乳幼児の健康;近来、日本における乳幼児の健康が非常に悪く、彼のアメリカに較べて死亡率三十五倍というのであるから実に驚くべきであると共に、 一日も早く解決を要すべき重大問題である。それにはまず原因が那辺(なへん)にあるかを発見しなければならないが、現在医学上においてその原因なる物はほとんど的外れであるから、 何程骨を折っても予期の効果は挙げ得られないのである。急激に西洋の児童の食物や育て方をするから、それが弱い原因である」と言うのである。 ところで最も滑稽なのは、在来の日本菓子を食べさせない。特に餡(あん)を嫌う母親がある。

「なぜ餡を食べさせないか」と聞くと「お医者は疫痢の原因になるからいけない」との事で、「それは理屈に合わないではないか、小豆は便通に良いとしてわざわざ煮て食う程である。 しかもそれを精製し、砂糖を混じえ液体としたのであるから、どこに悪い点があるか」というのである。 お医者さんが言う病人の食物なども西洋にある通りの食物、すなわち牛乳、オートミル、バター、林檎、ジャガ芋等によってみても肯くであろう」以上の理によって成人するに従い、 西洋流の食物を漸次的に混ぜる事は差支えないが、乳幼児から五、六歳までは、日本流の食物にする方が確かに健康にいい事は、幾多の経験によって断言し得るのである。 次に乳幼児に注射を多くすると、発育停止または発育不能となって首などグラグラし、痩せて力なく貧血状を呈するのである。これらの幼児を二、三年無薬にすれば、普通児のごとき健康状態となるのである。

●正しい食事法

さて、私達は食事の前に合掌して「いただきます」という言葉を発します。 この「いただきます」は、食物から「命を頂いている」から「いただきます」と言うのであって、人間に代わって、その命を投げ出した食物に対しての感謝の意味を現わした言葉であることを忘れてはなりません。 だから当然、食事をするには「正しい食べ方」と言うのがあって、少なくとも、次に挙げる三点には注意を払いたいものです。

1.自分の棲(す)んでいる土地で採れた穀物野菜類並びに海藻類を食べる。
2.よく噛んで食べる。
3.腹八分を心がける。

言霊豆知識-28-1

〇人は肉体を以っている間は、自由な行動を取らして居られる。つまり悪事をしても此れを守護して中止させる事は出来ない。唯一その人の良心、良識に衣たる事で善悪の判断 させるように任せて奥(置)くものである。其れゆえに現界では人間が形体を具えて居るから、その間は暫く放任して置いて霊界でその体制を受ける事と成る。

〇肉体の機能はその自体としては,善でもなければ悪でもない。生きんがために食べ、渇きを癒(いや)さんがために飲むのは、肉体の義務でもある。人間の欲望を人間の機能そのもの であると思い込み自然の機能を偏(かたよ)らせ、強くしすぎた時に悪は始まるものである。

○苦しみて数多の人に使われて始めて人を使うの道知る!!

〇人の喜ぶことを第一に考え、自分の好意が人に通じようが、通じまいが自分の内なる思いやる清い心が起きてきたことを有り難いと喜べばよし!

○「愛」というのは、他者のことをお世話すると共に、他者からもお世話になることの意味も含まれています。 また、「おかげさま」という言葉があります。漢字でこの「おかげさま」を書くと「御陰様」になります。見てわかると思いますが、「陰」という言葉の前後に「御」と 「様」という尊敬や丁寧を表す言葉があります。「陰」という言葉だと、暗いイメージがあり、あまり良い意味では用いられません。 例えば「あの人には陰がある」というと、何かその人の内面に暗い部分があると意味になります。また「草葉の陰」というのは、死ぬということにもなります。 しかし、陰の前後に「御」と「様」がつくことによって、良い意味に変わります。

ところで、この「陰」ですが、「陰」というのは、主なるものの後ろに隠れた存在です。つまり、陰というのは、けっして目立たないということです。 陰が目立ってしまったらそれはもう「陰」ではなく「陽」となります。「陽」となってしまったら、それは愛ではなくなります。 「愛」というのは、あくまでも他者のことを考え、思いやり、他者のペースに合わせて歩んでいくことです。

ということは、けっしてこちらの方が他者よりも目立ってしまったらいけないということです。 ある時には、自分の功績が評価されなかったり、無視されたりすることがあるでしょう。それにもかかわらず、わたしたちは、愛し続けていく必要があるのです。 いわゆる「縁の下の力持ち」的な存在です。このような存在になることもまた大切なことです。

今一度、この「おかげさま」という言葉を見直してみたらいかがでしょうか? 陰のように他者に寄り添い、陰からその人のことを見守っていく姿勢、 この変に出しゃばらない姿勢も、わたしたちには求められていることです。他者に対してどんな良いことをしたとしてもそれが余計なお世話になってしまったのでは、 意味がありませんし、それでは、愛にはなりません。その意味でも、もう一度、この「おかげさま」に含まれる意味をかみしめ、大切にしていくことが今の日本人に求められるのではないでしょうか?。

〇幽霊はあるか・・・昔から幽霊の有る無しについては、諸説粉々として今もって決定しないが、小生は有りと断定する。何となれば実際有るからである。 有るものを無いとは何人と雖も言えないであろう。かの釈尊の説いた地獄、極楽説も、ダンテの神曲における天国、地獄、煉獄も決して荒唐無稽な仮説ではない事を小生は信ずるのである。 そうして霊界とは如何なる所であるか、これを一言にして言えば、意志想念の世界である。それは肉体なる物的障碍がないから素晴しい自由がある。

霊の意志によって如何なる所へでも飛行機よりも早く行ける。かの神道において、招霊(しょうれい=年中行事の一つでお盆に先祖の霊があの世から帰ってくるとされるものを迎える)の際 「天翔(あまかけ)り国駈りましまして、これの宮居(みやい=神が鎮座すること。また、その場所。神社)に鎮りましませ」という言葉があるが、千里と雖(いえども=外から見ても、何が出てくるか解らない=推測はできるが確実な結果は解らない、ということです。 言えども=云えども=口では言えるが実践的にはどうであろうか?)も数分否数秒間にして到達するのである。但し霊の行動の遅速は、その階級によるのである。 高級霊即ち神格を得た霊ほど速かで、最高級の神霊に至っては一秒の何万分の一よりも早く、一瞬にして如何なる遠距離へも達するが、最低級の霊は千里(3927.27273 キロメートル)を走るに数十分を要するのである。 それは低級霊ほど汚濁が多いから重いためである。

また霊は霊自体の想念によって伸縮自在である。一尺【(一尺:約30.3cm :一寸:約3.03cm : 一尺:30.3cm :一尺五分:31.815cm 一尺一寸:33.33cm :一尺一寸五分:34.845cm 一尺二寸:36.36cm 一尺二寸五分: 37.875cm 一尺三寸:39.39cm 一尺三寸五分:40.905cm 一尺四寸:42.42cm )】巾ぐらいの仏壇の中にも数百人の祖霊が居並ぶ事ができる。 そういう場合、順序、段階、服装等は頗る厳格で、何れも相応の秩序が保たれている。勿論人間が心からの祭典は霊は非常に喜ばれるが、形式だけのものは余り喜ばれない。 その場合仏教では戒名、神道においては、み鏡、石、文字、神籬(ひもろぎ=神道において神社や神棚以外の場所において祭を行う場合、臨時に神を迎えるための依り代となるもの)等に憑依する。故に、祭典の場合は身分に応じ、できるだけ真心を込め、立派に執行すべきである。 昔から偶幽霊を見る人があるが、これら多くは死後短時日を経た霊である。新しい死霊は霊細胞が濃度であるから人の目に映ずるのである。

かのキリスト(イスキリ⇒イエスの弟)が復活昇天した姿を拝したものは相当あったという事は不思議ではなく、有り得べきはずである。 ただキリストは天に向かって上昇したという事は高級霊であるからである。そうして死霊は年月を経るに従い浄化され希薄になるので、目に映じ難くなる。

また幽霊は針のような穴からでも出入自在である。それは肉体なる邪魔物がないからで、このような点だけでみる時、自由主義者の理想郷のように思われるが、そうはいかない。 というのは霊界は厳然たる法則があって、自由が制限されるからである。また霊の面貌について一言述べるが、幽霊は絵にある如く死の刹那の形相であるが、 これは時日を経ないからで、時日を経るに従って徐ろに変化するのである。それは想念の通りになる。例えば消極的、悲観的、孤独的の人は寂しく痩せ衰え孤影悄然(こえいしょうぜん=一人だけで悲しむさま)たる姿であり、 鬼畜の如き想念の持主は心のそのまま顔の如く、悪魔的の人は悪魔の形相となり、醜悪(しょうあく・容姿=ようし=姿かたちがみにくいこと。行いや心がけなどが卑劣で嫌らしいこと。)なる想念は醜悪なる面貌(ようぼう=人の顔立ちのこと)となり、善美なる心の持主はその通りの容貌となるのである。 現世においては肉体という外郭によって偽装ができるが、霊界は総てが赤裸々に現われるのである。

そうして現われるまでにはだいたい一ヵ年以内とされている。ある有名な宗教家の著書にこういう事が書いてあった。 それは「人間は死後霊が滅消してしまい、霊の存続や霊界などあるものではない。何故なれば、もしそうでありとすれば、昔から死んだ人の数は何億に上るか分らないから、 霊界は満員になっていなかればならない」と言うのである。この人などは仏教界の偉人でありながら、霊魂の伸縮自在を知らないからである。

◆人間によって霊のエーテルの多いものと少ないものがあり、霊界の霊はエーテルを自分の身体へ吸収して、自分の霊へ入れる。 それで霊が濃くなり、人の目に見える。これが幽霊である。新しい霊程見え易い。古いほど見えぬ。執着の強い霊など濃く見える。従って救われるのが遅い。 神様は最も稀薄である。濃度の強いほど鈍重で、霊界で移行するのが遅い。

★明るいと霊は活動出来ないため暗い時に好く出てくるが如何してか。それは低級霊だからである。よく暗くして何か良からぬことをする行為は低級霊である。人間には低い霊(ふつう出てくる霊は八衢(やちまた)程度で、地獄の霊も天国の霊も出ません)が憑いたりしますが、人間の霊の天狗霊が懸る場合もある。神は決して出ない。こういうのは外道です。

★写真というものは人間の目の五倍の強さを持つ鋭いものなので、見る感覚が強いんです。見る感覚と言っては変ですが。なんて言うか、写る強さって言うか、写る濃さが強いんです。で写真によく霊が写るんです。 そのようなことで写真には人の霊が写ることが多いんですが、中には作り物もあるようです。霊は人間より小さく写る。

★霊は玉になって移動する。人間も神様も玉になる。人間の霊はボーッとしている。曇りの多い少いでよけいボーッとしたりはっきりしたりするのがある。 男は黄色く、女は白いが・・・青味がかっているのは罪の多いものである。神様のは光っている。人魂は、極く遠くまでは行かない。霊が低いと速度も遅く、遠くへ行けぬ。上になる程遠くへ行ける。 日本人の霊は大抵日本国内だけ行ける。外国へは物に憑いて行くのである。(本など)お金の霊の場合もある。金は霊気が強い。金気という霊気を発し、金は霊気が強いものである。

○良く人によって人魂を見る人、見えない人があるが、必要だけに見せられるというのは良いんです。不必要に見えるというのはいけない。狐とか・・・です。狐が憑ると透視が出来る。法華経行者は皆狐を使う。一時的である。

○透視と霊視;透視というのは、例えばこの煙草入れの中に煙草が何本入っているかということを中を見ないで当てることです。人になんの霊がついているかを当てるのは術ではなく、霊視です。 これは確実に当たることもあるし当たらぬこともある。が、ぜんぜんでたらめではないんです。透視はだれでも習えばできますよ。十二、三歳のころから仕込むと青年になるころはかなり能力ができます。

★催眠術の原理;自分の霊で相手の霊を負かす方法である。であるから自分の霊より以下の霊なら術がかかるが、自分より以上の霊の者にはかからない。 催眠術にかかるのはたいてい女性に多い。それは女性の霊は男性に負けるからである。いずれにしてもこれは副霊の作用で、邪道であるからやらないほうがよい。 副守護神を制(おさ)えるのである。動物霊同志で制えつけるのである。であるから、かかる人とかからぬ人がある。かからぬ人は強いのである。よく催眠術にかかって喋るのは副霊で、寝言と同じようなものである。故に絶対のものではない。

★仙人は霊化する;仙人でも行を積むと霊化する。今でも仙人はいるが、現界とあまり交渉しない。後藤道明の弟子に瑞慶仙人あり、絶対菜食で、現界との交渉を断ち山にいると非常な能力が出る。超人間的な力が出る。今は世の中が変って、こういう事をする人はない。

■物品移動と物質化現象

狐など、物品の霊を持って来ると物質が付いてくる。人間が壁を突抜ける事もある。霊を持ってくるのは非常に早く、人間の眼に判ららない。 武術の早業、忍術等すべて霊がやる。宮本武蔵などは出来た。武術の奥儀とは天狗が憑る。そして不思議な事をする。 人の眼・・・視力を失わす事なども霊が出来る。また大蛇、蛙等、現実でなく見せる事も出来る。 エーテルの多いもの、エーテルの殖える(与える)のがあるが、霊的のエーテルは特別なものである。するといろんな不思議が出来る。

生れつきエーテルの多い人間を西洋では探す。霊媒のエーテルを抽出する。それに死霊にエーテルを送り濃くすると人間の眼に見える事がある。 (窓)明るいと霊は働けぬ。幽霊と握手するのがある。それはそう冷たくないものがある。 写真に写る場合は、霊が濃いからである。執着によって濃いのは、これは幽霊で、これは別の例である。死んで間もないのは濃い。段々霊界へ行くうち薄くなる。

キリストの復活など見たものがある。この霊は怨みやなどでない。物質になる粒子があり、(元は土である)それに陰陽粒子が働いている。石も生きている。石が死ぬとポロポロ欠ける。 石には硬化して金属になるのとポロポロして死ぬのがある。肉身のまま昇天、胎・・・。西洋の例で、俳優で、楽屋の裏から壁を抜けて出るという記録が英国にあった。 ラッパ舞鳴、テーブル浮游、襦袢のみ抜ける(縛ったまま)・・・バラモン行者の霊である。(酒)

狐のやる物品引寄せでがある。ただ大勢見てると狐は人が大勢見てるとやらぬという。なぜかというと人々の疑いの想念が固まって、霊界に妨害的影響を及ぼすので、狐の霊が圧倒されるのであるという。 印度のバラモンでもよくやる。酒など空瓶に一杯に入れるなど、空ッポの甕へ呪文を唱えて酒が一杯になる事がある。しかし、こういう事は盗みだから、長くは続かない。

霊の物質化は沢山ある。物質の霊化もあるという。いずれは人類も霊化する事も出来るようになるという。蛇、狐は物質の霊化、霊の物質化が出来という。 霊化させる場合に祖霊が、狐霊に頼んでさせる場合もありますが祖霊自身する場合もあるという。祖霊が遣る場合は祖霊の戒告です。

○気が散ったり眠られないときには鎮魂するとよい;人間ってものは始終心が動いてて、なかなか一箇所にいないものなんです。人間の心はいろんなことを思いますからね。 で、これは心が分散してるんですが、それを一箇所に集めると落ちつくんです。だから、眠られないときなんかこれをやると分散してた霊が戻って来て落ちつくから眠れるんです。 左を下にして小指から組み、親指は右を下にし左を上にし、坐るとき左足の親指を上にし右を下にする。気持ちがイライラしてるときにやると落ち着きます。で あまりやってもいけない。 霊が入りやすくなりますからね。

〇アイヌの先祖はコーカサス人で、古代において日本へ侵略して来たものである。 すなわちソ連の系統で、歴史にみる八十梟帥(やそたける)、川上梟帥、長脛彦(ながすねひこ)などのごときはそれで、神武天皇に征せられた匪族はこのアイヌである。 彼らが圧迫された怨みの系統が現代の共産党の熱心な主導者に生まれている。 先祖のこういう霊的の関係もあって共産党は天皇に反感をもっているのであるからなかなか因縁深いものである。

〇人は腹立つことがあっても、腹立てないようにせよという。腹を立てては家内の不和を起こすという。人と仲たがいするという。腹をたてて我が身を捨てる者があるという。
『心得』腹を立てることを自ら戒めよという。腹が立っても我慢して、腹の立つのは押さえ込んでいる。無理に押さえ込むのは気分がいためる。もう一つ進んで腹の立つという ことを知らないということになるがよいという。
補足;人間は物事を早く解決したがる心がストレスになって腹が立ったりするので、出来るのならゆっくりした精神を日々心掛けて行くと良いのではないでしょうか。


○『一切が感謝』今日、親と子の問題や育児の問題が一部騒がれているようです。親の育て方がまずいとか、子供に対する愛情のかけ方が間違っているとか言う理由で、 家族に亀裂や不和を生じさせている面もあるようです。しかし、例え親が愚かであっても、子はその親のおかげでこの世に肉体を持って生まれてくることができたのだ、 そういった親に対して感謝報恩の慈心を持って生きることが大切なことです。 たとえどのような親であっても、親のおかげでこの世に肉体を持って生まれてくることができた、そのことに感謝し、親を大切に思って行けばいいのです。両親から生また子供 だったら子供だと悟ればいいのです。いくら走ったところで父母よりは年上にはなりはしないのです。両親が恋愛をしなければ、現界に肉体を持つという体験は永久に出来なかった のです。仮に幽界に霊成型(ひながた)が創られたとしても、神の物質化現象の仕組みと両親がいなくては肉体界の体験が出来ないのです。

たとえ馬鹿な家から馬鹿な親から生まれた以上、自分は前世の罪穢は人よりも悪かったに決まっている。だからそういう家に生まれる仕組みをうけるのです。したがってそれを反省し、親を助けて一家を持ち上る。 反対に親は自分の馬鹿だと思ったらス直にそれを悟って息子の言うことを聞いてやればいい。というように、まずは一切を神に感謝する行をすることが大事なのです。

感謝してお互いに助け合うという気持ちが大切になるのです。人というものはどこまで行っても練り鍛えて行かなければならないのです。その為に砥石(といし)と磨き粉というものがあるのです。 自分にとって嫌だなあと思うときは磨き粉(他人は)になって自分を磨いてくれるし、自分に叱ってくれる時は砥石(他人は)になって自分を鍛えてくれているのです。(砥石と磨き粉は減る一方です。) そのように人は自分の練り鍛えてくれるのです。ですから感謝出来るようになるのです。自分を自分で悟る事は限界があるのです。 そこに人間がいるし、位の高い人もいれば、低い人もこの現界にはいるのです。

〇人はこの世に働く為に生まれてきたものではない!人は家を建てるために生まれて来たものでもない!人は誰かを愛する為に生まれて来たものでもない!人は子孫を増やす為に 生まれて来たものでもない!人は各々の事を通じて精神(魂)を高める為にだけ生かされているのである!そこには自分の主型(霊成型)あるのみ!観よ人の死んだ姿を!何も持って行かれないではないか!魂(光の世界)だけではないか! 全て精神を高めるために用意されているだけではないか!!

●他人の生命はもとより、自らの生命にも触れてはならない。それは神のものであるからである。

●闘争によって物事を処理するは素手で激流を堰ぐに等しく、自らも生命を落とすこととなる。

●澄みて清らかなるは天来の魂で、穢れて醜なるは凡心の迷いである。 迷える心は鎮め、穢れる心は祓って、常に心身を洗い清めれば清浄の人生を保つことができる。

●大なる宇宙も、小なる我も共に神の掌中にあるものであるから、狭い心で物事を図ってはいけない。

●日々仕事に励むことはよいが、身に余ることをするのは無理で、無理の中に光明はない。

●他人の富を妬まず(ねたまず)自らの富を産め。富の蓄積は善である。しかし生かして使わなければ悪になる。

●祖先の霊を敬うは己の魂を敬う義で、己の魂を踏みにじるものは祖先と子孫を穢す義である。


○欲の打勝には真理に到達することです。神を信じ、仏を信じたら、あとはすべて神仏に委(ゆ)ねることです。神や仏の仕組みに感謝することだけに念ずることなのです。人間の 一番悪い癖は執着心なのです。捨てることです。

○依存度多い心の人は喜ばしくない!喜ばしくない結果をもたらすものである。またそのことにより喜ばしくない作用を引き起こすものでもある。然るにその為に学び(霊学は哲学とか道徳とは違います。)が必要なのです。

○唯物主義者は死後に痴呆となる;生きている時に天国や霊界を信じない人が死ぬと、言葉が幼稚園の子供位より出来ないのである。 これは神仏を信ぜず霊界を知らぬ為死後の用意がないから中ぶらりんとなってしまう。霊界を知らず、死後の世界を信じない者は、一度霊界に往くや安住するを得ず、そうかといって現界人に戻る事も出来ず中有に迷うのである。 これは全く生前において霊界の存在を信じなかった為である。無信仰の学者等は実に実に悲惨である。実に最近は多く見受けられる。

唯物主義者は霊的には痴呆症になっている。霊界へ行くとチンプンカンプンである.唯物主義者は、上面の頭は非常によく、しん(心)は非常に悪い。 これが政治などをやってるから、うまく行きっこない。忌憚(きたん=きらいいやがること)なくいえば「愚かなる者よ汝の名は唯物主義者なり」と言ってよいほどである。


〇「霊的遺伝」遺伝にも・・・母親の方と父親の方とは違うから簡単には言えません。 それから、徳を積むと遺伝があっても起らずにすみ、間違ったことをすると、子孫に遺伝がもっと大きく出る場合もある。そういう点もあります。霊的遺伝とはそういうものである。 世の中で言う遺伝とは霊的遺伝のことであって全て霊界の遺伝である。もちろん薬毒もそうです。手術の薬は深部まで滲み込む。

〇霊界には夜昼はない。故に知る事は出来ぬ。
霊界は時を超越している。現界へ往く事などによって時を知る位である。
霊界は空間にあるから物質ではない。
空間を超越するのは最高の神である。
霊界では寝る事もなくはないが、殆どないようである。
人間の体は肉体を休めるためである。
それ故霊が憑ると不眠症になるのは、霊は眠らぬからである。


○霊界は想念の世界でありますが、霊界ではどういう方法で意志の疎通を計るのかといいますと、言葉がぜんぜんないわけではありません。 ごくわずかの言葉が用いられておりますが、多くの場合 目で行なっております。霊界人は非常に敏感でありますから、相手の気持ちを知ることもできます。 現界では肉体があるため、それがかえって邪魔になり、分からないのであります。

さらに高級霊となると目も使わず、気持ちだけで通ずる。現界では間違ったことをしたり、想ったりして、霊が曇っているので、感受性が鈍っている。 唯物的な教育で、智慧は出てもこういう働きは落ちているが、本来なら霊線を通じ、遠くの人の考えていることがわかるくらいになるべきであろう。


○霊界には学校はありません。その代わり智慧証覚を得るように自然に養成されるという。霊界でも、八衢以下だと少し違ってて、ある程度教護師のようなものが説教をするという。 けど、それも人間の心の修養とか学問とかとは違って、執着をとることや信仰のなんたるかをよく教えるという。そして天国のほうは、その階級に応じて自然に智慧証覚を得るようになるという。

〇人体は腹の真ん中と前頭部の奥(魂=額の奥10p位の所にある松果体(しょうかたい)とで天と地となり相通じ合っているのです。 ですから高天原を人体で言えば眉間です。邪神がつくと眉間へ来たがってしかたがない。 眉間を占領すればその人を自由にすることができるから。 そこで眉間へ来れぬときはその人を怒らせる。 怒ると頭の霊細胞が薄くなるから眉間へ来れるのです。 そのうちまた気持ちが平静になり霊細胞が濃くなると邪霊は下のほうへ下がるのです。 ヒステリーなんかはこれです。

〇「お金には霊がよくつく」この事は、意外と世の人は知らないでいる。なぜかというとお金で苦しんだり、妬んだり、恨んだりする。そのお金という霊の面にはそれぞれの思いの入った 想念が入りその人その人の恨みつらみの念がお金に付く物である。お金というものは人間と同じように殆ど生きてるようなものである。 お金は霊気が強い。金気という霊気を発しているものである。よく霊的光力をしてから使ったら良いものである。

〇昔から悪銭身に着かずという言葉があるが全くその通りである、それについて小生は霊的に解釈してみよう。投機といえば、株式相場を初め、商品の上り下り、競馬の賭等々種々あるが、 その中の代表的のものとして株式相場について解釈してみるが、小生も無信仰者時代には競馬・競輪・パチンコ(霊的にジャラジャラの言霊は邪霊を引き寄せる---その中にいたらどうなるか・・・。)などなどに手を出し、数年間したが、ついに大失敗をした、それが神向き生活に入る一の動機となった事ももちろんであると共に、 霊的方面を知るに及んで決して為(な)すべきものではないという事を知ったのであるから、この一文を賭け事、又相場に関心を持つ人に対し、ぜひ読まれん事を望むのである。 相場なるものは、まず百人損をして一人儲かるという事をよくいわれるがその通りである。一時は一獲千金の儲けによって成金となっても、それが長く続く者はまず一 人もあるまい、しかも大儲けをする者程大損をするものであって、儲かれば儲かる程その人の前途は断崖が口を開けて待っているようなものである、まず霊的にみれ ばこうである。損を蒙(こうむ)った大多数者は、口惜しい残念だどうかして損を取返したいと思うのは人情である。

従ってその怨みの想念がどこへ行くかというと、自分の金を吸いとった人間に行こうとするが、それはどこの誰だか判らないので、自然取引所を目がけて集注するばかりか、それが紙幣に集まるという事になるのである、 この際霊眼によって見れば取引所にある紙幣の面には怨みの人間の顔が何千何万となく印画されており、その一つ一つの顔と、その本人とは霊線で繋っているから、 取返そうとする想念がそれを常に引っ張っているという訳で、その紙幣は所有主の金庫には決して永く安定してはいない、いつかは引っ張られるから大損をし一文なしになってしまうのである。

右は投機ばかりではない、金銭上のあらゆる事に共通するのである
。いわば不正によって得た富や与えるべき金銭を与えなかったり、故意に減らしたり、借金を返さなかったりする場合、 先方は怨むから矢張り前述のごとく吐き出さざるを得ない事になるのである。今一つ知らなければならない事は、昔から宗教上の建物が、火災のためよく灰燼(かいじん)に帰する事がある、 浄財を集めて建築された清き社寺や殿堂、伽藍等が焼失するという事は不可解に思われるが実は理由がある。というのは、その基金を集める場合無理をする、例えば信徒または末寺に対し一定の額を定め強要する 事があるが、これは自然ではない、信仰的献金としては本人の自由意志によって任意の額を決めるのが本当である。

気持よく献納する事こそ真の浄財になるのである、今一つはその建造物を利用する上においても神仏の御心にかなうようにすべき で、間違った事をしたり、汚したりするような事があってはならないに関わらず、そうでない場合火の洗霊を受ける事になるのである。
ただし、相場をとる目的でなく、金利すなわち配当をとる目的で買うのは結構であって、これは何ら怨みを買うような事にはならないのみならず、むしろ産業発展のた め有要な事であって大に奨励すべきものである。

〇「蛇の絵なんかにはよく霊が憑くものです。つまり霊界にはたくさんの役なしの霊がいる。だからどこかに憑きたい・・・居所です。それを求めて、絵なら絵に憑くし、どうしても行き所がないと字にも憑きます。 字も水に関係した字に憑きます。・・・サンズイです。しまいには、画家のサンズイのついた名前の人に憑きます。住宅難は現界どころではない。霊界のほうがずっとひどい。 万物は形を現そうとします。それに居所がないから、良く画いてあるほうがよけい憑きます。現界を慕うという意味で姿を表わそうとする。そして早く生まれ変りたいのです。 蛇の霊はたいてい人間ですから、人間に生まれ変りたいのです。」

〇如何して人間が霊界に往って蛇の行場に行きますかと申しますと、霊界の掟と言うものが在りまして、蛇というのは執着の罪です。そういう行場へ行きたくないのなら執着を取ってくださいと申しているので御座います。

〇執着がとれると高級霊になる!;高級霊より低級霊の方が転生の率が多いでしょうか。八百万の神は肉体を持って現世に出られる事があるでしょうか。 低級霊の方が多い。高級霊は少ない。霊界に長くいる。ズーッと高級霊になると生れ替る執着はない。生れ替って来ても、何千年に一遍位生れるようになる。 低級霊は執着が強い。執着がとれると高級霊になる。浄化不足のまま生れるから欠陥が種種ある。高級霊は殆んど生れない。肉体の姿で霊界にいる。 極く中心の太霊無極は未だ生れぬ。表現は生れた。八百万神は全部人間には生れている。

〇「井戸には龍神が殆ど住処としている。埋める場合は、生米、塩、酒、生魚、生野菜など上げてやってから、祈言(のりごと)を上げてやると良い。そして空気穴を設けてやると良い。 よく感謝の言霊を奏上する。」勝手に埋めたりすると病人が出たり早死にしたりすることもある。

〇台所の下の井戸を埋める場合;代りの井戸か池のようなもの、または大きい甕(かめ)をいけてやる。そして縁の下の方はお祭りの形式にし、お住居作ったからお移りねがうと言い渡す。


○蛇を殺す場合によく頭を潰すので、その際眼をも潰し盲蛇になるので、その死霊が人間に憑ると人間の眼が見えなくなるのです。それが為、蛇の眼球も共に失明するからそれが憑依する以上盲目となるのである。 また固まってる場合もある。目薬を一滴でも非常に固まるものである。目の固まったのはなかなか溶けない。一回やっても見えるようになる底翳もある。(全然薬を使わぬ場合) 霊的光力して変化のないのは固まっているのである。目の裏をよく霊的光力する。目を狙ってやる。目脂など出ればきっと治る。また、目の上も肝腎である。(後ろから眉間へ来て目へ下るのである) 故に眉間が熱いとか、熱くなるのは結構である。霊的の原因もあるが、若い人に多い。霊的なら早く出る。大抵蛇の霊である。盲は蛇を祀るとすぐに治る。

〇木を切る場合の注意点;古い木には木龍神がついている場合があります。其の事により色んな禍が起こったりしますので要注意です。大抵は耳が聞こえなくなったり致します。
○木龍移転の作法;樹木の同種性を側に植えてその木にお移り頂いてから切る事。又、木一本あると、上へ狐、下へ龍神が憑く事もある。 ○同種の木が無い場合は何か代りの似た木を植えお断りしてから木に移るようにお願いする事。甘く見てはいけなのである。

〇人間が悪い事をすると、霊線によって幽庁に通じ、記録され残っている。空間の霊界にも、人間の行為の記録が残る。一軒の家でも、始終喧嘩している家は感じが悪いのは、 その家の霊界に悪い想念や行ないが記録されているのを感ずるからである。また、史蹟などを訪れるとその時代の雰囲気が漂っているのは、昔作られた雰囲気が残っているからである。 すべて想念は霊界へ反映して、曇りや悪気になるのである。人間が善い事をするようになると、善い記録が残るから、感じがよくなるのである。

○波動は同じ波長に同調し、波長が合わなければ通り過ぎてしまうという性質を持っている。これを「波長同通の法則」といい、意識の波動の世界にもこの法則が働いていると予測される。 意識の世界では、善性のレベルにおいて時間の質が異なるために、異なる世界の階層が形成されている。この世界の階層性は、意識の波動性によっても説明することができる。 意識の波長が異なる場合は、お互いの認識が同調しないのでお互いに相手を認識できないが、同じ波長の意識同士では、お互いが認識可能である。

ゆえに同じ波長の意識同士において1つの閉じた世界を形成することになり、波長の差による世界の階層を創り出す。 ゆえに意識の世界では、目に見えない電波が混在しているように、あらゆる意識が混在していると同時に、波長によって住み分けがなされているのである。

これらの混在する意識の交流を図るために、創造主は3次元物質宇宙(限界・現界)を構想した。創造主は物質波となってすべての意識の波長と同調し、共通の世界として翻訳された世界を映し出しているのである。 国際会議で外国語の同時通訳を行うように、創造主は我々の意識を物質においてつなげているのである。

ゆえにすべての意識と同調することができる物質の構造には、すべての意識の構造を映し出している可能性が秘められているのである。

ここでしっかり認識しておくべきことは、引き寄せるものは、その人が「希望するもの」ではなく、その人と「同じバイブレーションレベルのもの」という点です。 もしある人が常に不安を抱き続ける傾向をもっているならば、その人の周りには不安を感じやすい人が集まり、不安を感じさせるような出来事や場面が多く集まるということです。

そしてその人は、自分の不安のバイブレーションを共振によって高め、不安のバイブレーションをもつ存在を、さらに自分の周りに引き寄せることになっていくのです。 良いバイブレーションをもつためには、自らが発する意識の波動のバイブレーションレベルを高めることです。


★脳波とは;人間の霊は外部へ発散したり集中したりする。仕事するときは集中し、眠るときは発散する。であるから生霊の憑くときなど非常に眠いものである。 神道の行事に、鎮魂という言葉があるが、これは霊がほうぼうへ放射し分散されたのを(気の散ったのを)本元へ集めるのである。

霊が還ってくると気が鎮まり、いい気持ちになるもので、そのうち頭の霊が一番よく出る。以上のごとく霊が放射する。それが脳波であって、特に頭だけ出るのではない。 全身から放射するのだが頭からが一番よけいに出る。

〇空間に・・・霊界中に言霊界といってもいい言霊が働く世界がある。も一つ奥に想念界がある。それが霊界へ響いて働きが起る。霊線などは想念界の世界を活動している。 例えば、家を作ろうと思うと、想念界で設計が出来て、出来る。言葉で大工を呼んで指図すると言霊界へ出来る。次に現象界へ出来る。

○今がどんな時期かをサトらせてあげることと。 現界の人々の時間感覚ではまだ何千年か先のことであっても、 幾億万年という高次元の神御経綸(火の洗礼)の中にあっては、 本当に目前に迫っているといえます。 やがてミロク下生の時を迎えた時、 聖霊が降下します。この世は、 その十字に組むべきものがばらばらで分化対立している『ホドケの世』になっております。 水が縦となり、 水と火はほどけているのです。

「天の岩戸がまだ閉じられている」「だが、 やがては解かれている縦と横が、 再び十字に組まれる時代が来ました。 それが神のご計画なのです。 数十億年にわたる神のお仕組みの前では、 ほんの目前なのです。 天の時は迫っているのです。」

○祈(意乗り)りとは、 神様の波調と自分の波調を合わせることなのです。 人が神様に対して祈りがあるように、 神様にも人に対する祈りがある。 それを聞き取ることが大切なのです。 まずは思念を凝集して祈る。 祈りが御神意にかなっていれば、 必ずかなえてくださる。 その絶対的信頼心が大事なのである。 神様にすがりきって、 お任せしてしまう。

でも、 やるべきこともやらないでただお任せというのは違うのである。 そのように神様のみ意に合っていなければ、 祈ってもかなえては下さらない。 または、 祈ってもかなえられないのは、 神様がもっと深い別のお仕組みをご用意下さっている時とか、 あるいはまだ時期ではないなどなど、 神様のほうのご都合もあるのである。


○感謝とは  今、 生かされているということ自体が感謝なのである。 再生転生中に、 どんな罪穢を積んできたか分からない。 それでも神様は許して、 生かさせてくださっている。 感謝以外はないだろう? 息を一つ吸わせて頂いた、 これとて神様のお許しがあってのことで、 奇跡以外の何ものでもないのである。

〇徳とは、人道を悟って行為に表すことであり、人を感化し、また敬服させる力がある人であり、すなわち善徳である。また神の教え方は、形に表れるものではなく人の持つ霊と神の霊とに相感応するものである。 いわゆる霊を以って霊に対することが神理である。

〇人間といえどもその三原素の力によって生命を保持されているのはもちろんである。 そもそも宇宙における森羅万象一切は大別して三つの要素から成立っている。 それは火、水、土である。すなわち火である火素は太陽の精であり、水素は月球の精であり、土素は地球の精である。 そうして天界は太陽、中界は月球、下界は地球というように三段階になっている。

そうして人体中の重要機関として三つの機能がある。 すなわち心臓、肺臓、胃の腑である。この三大機能の活動は火素、水素、土素の三原素を吸収し、それによって生が営まれる。 すなわち心臓は火素を、肺臓は水素を、胃の腑(ふ=はらわた。内臓。臓腑)は土素を吸収するのである。

〇目は日月、日月は神となる。(眼は日月(カ―火、ミ―水)、目はカミになる。)「日月地」は大神で神の位です。これで五六七となってお働きが完全になる。火と水そして土が加わると力が強くなる。土とは人体です。

〇水の洗礼とは、人間を体的に救済することである。これはキリストがやっていた事である。

○火の洗礼とは、人間を霊的に救済することである。いわゆる霊的光力である。今までの違った(真如の教え)すべてのものものを焼き尽くし、真の教えを布かれることである。
○火は霊であり、水は体である。

○火は水によって強くなる。


〇昭和六年の半(なかば)頃から黎明期(れいめいき=夜明けにあたる時期。新しい文化・時代などが始まろうとする時期)に入ったのである。

その時を契期として、漸次(ぜんじ=しだいに。だんだん)太陽は上昇しつつ昼の世界に入った訳である。


○日枝神社の出し物はほとんど猿でありました。猿とは猿田彦命の事で、昔から神様の案内役でありました関係であります。関東では日枝神社と、大宮の氷川神社が関東二大官幣大社であります。これが御夫婦神ともなるのであります。

〇智慧の浮かぶ時期まで待つ・・・ちょっと考えて良い考えが浮かばない時は間を空けてみる。考えが浮かばないということは、時が来ないのです。 それで時が来ると神様の方でヒョッと知らせ来るまで待つ。そうすると、苦しまないで実にスラスラと順序良くいくものです。 とにかくこの妙技は、今までの頭では信じられないものですので。時を待っていれば苦しむようなことをしないで行かれるのです。

〇骨を埋めないと、霊は霊界で行く所へ行けない。よく分骨とか聞きますがこれは非常に悪い。 自分の死骸なども片づいていないとそれに引っ張られる。 骨などいくらか霊線が残っている。霊的に捉えた場合であるが・・・。霊線が消えるのならいいのだが・・・。 骨をとっておく人があるが大抵病気になる。 風葬(ふうそう=遺体を風にさらし風化を待つ葬制)など間違っている。また最近は良く耳にするが海に撒き散らすことなども然るである。海に溺れたようなものである。しっかりと土に返すことである。間違った事して始末すると、その罪を霊界にきて苦しむ訳である。

〇アイウエオの音だけはっきり言えないと言う事は犬である事を証拠立てているのであります。 大抵の動物は七十五音の内どれか一種を発する事が出来るのです。 犬は、ワヰウヱヲの音で、ワンワンと鳴き、ウーウーと唸り、 足等踏まれたり、轢(ひ)かれたりした時はヰーヰーと うめき遠吠えする時は、ヲーヲーと鳴くのは、皆さんも御存じの通りであります。 その他猿はカキクケコ、鼠はタチツテト、牛はマミムメモ、馬はハヒフヘホと言う様に 各動物は一種の音声を特徴として神から一切与えられているのであります。

〇日本人は鳥的人種で、西洋人は獣的人種であります。(中略)色盲は、人間以外の霊が憑く為であります。 畜生や鳥の霊などは想像も付かぬ程に物体が変って見えるのであります。馬などは、人間が非常に大きく見えるといいます。 ですから馬が暴れた時、人間が両手を拡げると必ず停るというのであります。で、畜生は人間の様にあらゆる色彩を見る事が出来ない。 それは人間の様にあらゆる声音言葉が現わせないのと同じ訳で、動物の音声は一種か二種より現わせない。 そのごとく色彩も一種か二、三種より判らないのであります。

〇霊性に、日常の食というものが重大な影響を及ぼしている。暴飲暴食や肉食(牛・馬などの四ツ足)は断固として慎むべきである。日本人の体には合わないのである。精神性を高め導くもの(日本人)としては 血(霊)を綺麗に保っていかなければならない。血が濁れば邪心が復活してくるものである。食を正して血(霊)を浄めれば、肉体細胞が浄まることになり、それは結局、魂のレベルまで左右する。 「身魂磨き」とは、そういうことでもある。神に近づくときは肉食をしてはよくない。霊覚を妨げるものである。まず光の体になるには食を考えるべきである。 天眼通、天耳通、天言通、自他心通、宿命通の五大神通力を体得する為にも考えなければならない。

これからは肉体にも精神にも良い影響を与える「正しい食べ物」は何かということを徹底的に考え、肉食が体に害を及ぼすものであることを知ることである。 しかも肉食は、精神(霊性)に影響を与えて理性を狂わせ、争う心を起こしやすくなる。肉体的にも様々な害を及ぼし、奇病・難病・業病が流行り、医療費は増大し、 国民は重い税負担を強いられる。子どもたちの心は荒れすさび、イジメや校内暴力の嵐が吹き荒れる事にもなるのである。

肉というものは、食物としては年をとっているのです。

だいたい肉というものは、食物としては年をとっているのです。言わば野菜のほうが若いのです。というのは野菜のほうが土から生えるのですから原始的なものです。 それで肉というのは動物から作られるから老廃物に近いのです。ですから白い物が増えるというのは理屈に合ってます。 ところで肉食は滋養があるということは逆になるわけです。これは完成した、年をとったものですから、人間が完成すれば年寄りになるのと同じです。 赤ん坊は若いものですから、植物がそういうことになります。だから植物を食べていると、一時は栄養が少ないようだが、そのほうが粗雑なだけにまだ活力を持ってます。 そこで体のためにはそのほうが本当に力が強いわけです。それが真理ですから、この理屈さえ分かれば何事でも同じことなのです。

未完成のものがだんだん完成になるという理屈が、何にでも表われてます。そうして老廃して、それが亡びてしまって、それからまた新しいものが生まれてくる。 そうしてだんだん成育して、それがまた老廃する。という具合に、循環して行くわけです。 ちょうど冬から春が来て、だんだん夏になって、秋から冬になるというのと同じです。だから赤ん坊といって、でき立てのほうが赤いわけです。 そうして年をとるに従って白くなって、白髪になるというわけです。

〇スポーツの奇蹟

体験話:御蔭話はバレーの競技であるが、最初から敗北としか思われない形勢を霊的光力(応援席から選手に向けて霊的光力を遣ったのである)によって見事挽回勝利を得たという変った奇蹟であるが、この経路を読む時偶然やマグレ当りの点は、 いささかも見られず、どう考えても神力のためであることは、疑う余地はない。従ってスポーツに関係ある人は大いに霊的光力の偉力を発揮し、この面からもの偉大なることを世人に知らせるべきである。

〇スポーツマン早死の理由

今日世間で最も不思議に思っていることはスポーツマンの人達が割合早死である事である。何しろ体育協会の会員であり、体育については常から出来るだけ錬磨しているにかかわらず、右のごとくであるとすれば、 ここに疑問が生ずるのは当然である。特に結核の多い事も衆知の通りであるが、これに関して医学の方でも全然分らないで困っているようだから、根本原因をかいてみよう。これは経験にもよるのであるから、絶対間違いないと思って貰いたい。 まず体格を見ると、右とか左とかのある局部に必ず毒素の固まりがある。それは何がためかというと、運動の場合姿勢が一定しているからで、その一点へ力が集るという訳で、そこへ毒素が集まり固結が出来るのである。 常に言っているように、毒素は神経を使うところに寄るという意味に外ならないのである。ところがその固まりへ浄化作用が起り、発熱で溶け、咳が出、痰が出るので、それを医師は結核と診断するのである。 しかしこれも放っておけば必ず治るのであるが、色々な浄化停止手段を行う結果段々悪化し、ついに不帰(ふき)の客となるのであるから困ったものである。

●霊界にいて、地獄の霊などは罪を犯す。よく祟ったのなどはそうである。祟った霊は段々地獄の下の方へ落ちてゆく。すべての罪の元は執着である。 執着を除るのが霊界である。我と執着を除ると非常に楽になる。苦しみが減る。 人間は怒るという性能を神から与えられているから、怒るのもいいが、短かければいい。長いのはいけない。神の怒りは大きい。人間の怒りは小さい。 こんな世界ではいけない、悪魔の横行する世界である――これは神の怒りである。怒りも大きければ罪にならぬ。

地上天国建設のごときも一種の怒りである。世の中が地獄みたいに悪魔、邪神がやっている、怪しからぬ、この怒りで人間は救われる。 我と素直は上の人の言った事のみでなく下の者の言った事にも素直になる。部下の者に対する素直も必要である。これは民主主義で、大勢の者の意に従うのである。 素直なら争いがない。両方で意地を通そうとするから争う。負けたために発展する。先方を怨ますのでなく、出来るだけ感謝されるようにする。感謝されると光になる。 怨みは一種の悪霊になる。霊界へ行くと罪を犯すのは現界より少なくなる。霊界へ行くと善悪や罪などはっきりするからである。

〇便秘の誤解

●よく医学では、便秘は健康に害があるように云ったり、病気によっては原因を便秘にする事がよくあるが、これは本当の病原が分らないからである。 ところが便秘は何ら健康には影響はないもので、安心して可なりである。そうして前にもかいた事があるが、滑稽なのは子供の病気によっては原因を便秘のため、 自家中毒が起ったからと言うが、実に馬鹿馬鹿しいにも程がある。これは便が溢れて全身に廻るように思うためであろうが、そんな事は決してない。 便通がなければ、便は糞袋の中に段々固まるだけである。右のような訳で、下剤や浣腸で無理に出させるが、こっちが反って悪いのである。 何となれば排便機能を退化させる事になり、反って常習便秘者となるからである。

◆人が死に対して、逢いたい人があるとか、挨拶したい人がある場合、その想念で霊が玉になって行きます 人間霊の玉はボーとしています。だいたい男は黄色、女は白色です。が、その霊の曇りの多少でボーと仕方が違い、また罪の多い人の場合は青みが加わります。

〇松に宿る龍神(雄龍)の働きにより客が集まり財物が集まるからです。本当は門の左に松、右に柳(雌龍)を植えるとよけい繁昌いたします。

〇葬式の参列の帰りに用達やお墓詣りしてはいけない。
それは結婚や葬式は人生の最も大切な行事です。それですのにお葬式のついでに、こうしたことをするのは死者に対して礼を失することになります。慎みましょう。

〇この世の中には、唯物的では解決のつかない事が随分あるのである。
そうして怨霊はすべて執着の為、龍神となって活動するものである。 次に、地縛(じばく)の霊というのがある。これは変死者の霊であって、溺死、縊死(いし)、轢死(れきし)、墜死、毒死、自殺、他殺等であるが、 これらの死霊はいかに懇ろに葬るといえども、その死所を放れる事が出来得ないもので、ちょうど、地に縛られたごとくであるから地縛の霊というのである。
これらの霊は、居所が墓場と異なり孤独であるから相手を求めたがるのである。それが為、その霊の付近を通行するものを誘って自殺又は変死させんとするのである。

世間よく轢死者があったレールの付近や、溺死者のあった水辺等に、次々変死者が出るという事は、誰も知る所であるが、右の理によって肯(うなず)れるであろう。 そうして地縛の霊は三十年以内には離脱出来得るものであって、死者の近親者等の供養のいかんによって、離脱に遅速のある事は勿論である。
さてここで何故霊は地に縛られるのかと言うと人間、死のうとする時に先ずは場所を選んでいるはずである。そしてそこにて実行しょうとする。その行為自体が自分の魂が固まってしまうからであろう。 だから楽にもなれず心も魂自身もが塊(かたまり)、動きが取れずに居るからであろう。自分で選んだとはいえ後悔しきれないのである。だから恨めしいし、また寂しいしから 誰かを引きずり込もうとするものである。これもまた余計に自分の心・魂をも固めてしまう結果となるのである。


〇言葉(言霊)は非常に働く。言葉の組合せの善い悪いがある。ア行の字、カ行の働きなど皆ある。その人の性質にカキクケコを入れると締まる 頑固な武骨者にマミムメモを入れると優しくなる。サシスセソは自分の言う事を通す。ひびく・・・。 人が呼ぶと言霊界へ働き、自分がその名を思ってると想念界に働き、自分に働く。それによって運命に影響する。

〇「音楽も言霊のような働きをなす」「音楽もそれを弾く人の想念によって言霊のような働きをする。器楽を通じて指先からその人の霊が音律へ入ってゆく。 笛など息から入る。故に音楽でも人格者や、神向きのある人・霊界を知る人ほどよいもので感じよいものである。」

〇霊衣とは魂の光で、敬虔なる者、善を考え、善を為し、健康なる者程厚く、その反対の者程薄く、霊衣が厚ければこそ、種々の危難危急を免れるものである。 こうした光の色、光の波は、到底肉眼をもってしては見得べからざる超微粒子であって見えないのが普通である。 見ゆるもよし、見えざるも可、神様への神向きとその実在の認識が素直になり切れるか否かが、私達の救われるか否かでありましょう。 霊衣はその人の心掛次第で厚くもなり薄くもなるので、人間はこの事を信じて大いに善徳を積むべきである。例えば汽車自動車などが衝突しても、 霊衣が厚ければ車の霊は霊衣につかえて当らないから助かるが、霊衣が薄かったり無である場合、死んだり重傷者となるのである。信じがたいであろうが何度となく経験していることである。

〇本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂は重きをもって下降する。 故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。 すなわち霊的光力を習得し受ける事である。

〇生れる時は上げ潮、死ぬ時は引き潮である。人間の肉体はすべて月が支配している。日と月がすべての元である。人体の七割は水で、熱は心臓である。 火水で光になる。光のみでは力が薄い。土(肉体)を通して火水土となる。

〇一から二十の各数及び三十、四十等、百までの数理について

一は初め、本である。神にすれば造物主(独一真神)である。日本でいえば天の御中主大御神である。
二は陰陽(霊体)、高御産・神御産霊で、タタ・カカで父母となる。陰陽に分れる事。
三は子を産む。子(陰陽から子が生れる)
四は東西南北四方へ開けてゆく。(拡がる)
五はそこで火を発する活動力。熱が出る。
六は水の数で、火により氷がとけて水になる。水によって火が燃える。火は霊で、それによって水が出来、土が出来、初めて完成。ムユ(六)――火が燃える事。
七は完成の意。重要な事に使う。完成して大地が出来る。ナナとは成り、成る。出来上った事。ナルは、言霊で、発する、鳴り渡る事。 九は尽しで、発達し、極点に達する。極まる。出来た頂上にゆく。つくしの海。(九州) 十は陰陽結ぶ。(経緯)本当の完成である。人類文化ある程度まで進化する。十になると力が出来る。結ぶと力が発生する。
(今日、東西文明結び完成に近づきつつある)(今は九の時代、つくしの時代。東洋、西洋文化結ぶ)
十一は結んで始まる。(これが二十一世紀である。二つのものが結ばれ、二十は王、十一は初め、二十は結び、王になる。上に乗るのが主である。最高神が世界を経綸する事になる)
十二、十三は―先の一、二、三、四は原始からの順序であるが、十になると一旦完成して、それからのは変ってくる。今度は前とは違う。
百は、十が十、=、五六七の世の型になる。今に、四角のもの、五つのお宮が出来る。百は意味深く、モモと読む。また、一と白である。一は天、ノは下る、日は○にポチでス、これは神秘がある。


豆知識;数理とは、宇宙の法則、自然摂理であり、言葉に数理があると言う事は、言葉に宇宙法則や自然摂理を持っているのです。数理を持つ言葉・言語としては、世界で以下の3つしかないと言われております。

(1)日本語 五十音 (いろは48文字)

(2)古代ヘブライ語 (22文字)

(3)ギリシャアルファベット(ギリシャ語24文字、アルファベット26文字)


〇最近刺青(いれずみ=タトゥー)とかして好むのは蛇の転生が相させるのである。入れ墨は夏は涼しく、冬は寒いので風呂が大好きなのである。蛇の習性なのである。 冬はとくろを巻いて冬眠するのである。知る知らないに限らずそういう転生というものが存在しているのである。

〇墓碑建立につきて、常識的に留意すべき事項

 方向――墓地の都合もあり、どちら向きでもよろしい。本当は北が霊ですから北向きが最良とも言えますが、仏教は西方浄土とも言われますので西向きも可です。

 型――ふつうの型が可。

 石――ふつうの石で、でき得るだけ白い色がよく、黒色、青色の石は不可です。

 盛土の高さ――  一尺五(一尺:30.3cm・一尺五分:31.815cm)、六寸(一寸:3.03cm・六寸:18.18cm)のふつうの高さがよろしい。

 植樹――櫁(しきみ)、黄楊(つげ)、高野槙(こうやまき)、かなめ、もち、などの常緑木で、背丈の伸びぬ潅木(かんぼく)がよろしい。

〇人間が災難に逢うとか、大怪我をするのも何年何月何日と実は決まっているのです。

ところが神様の御守護のある人は大難を小難に振り替えていただけます。 それが一番軽いのは夢ですませていただけるわけで、高所から落ちるのは地獄へ落ちるわけでたいへん結構な夢です。 また死んだ夢を見るのもよく、いままでの自分が死んで新しい自分が生まれるわけです。 右のような夢は篤信(とくしん=神向きのあつい方=家族)の方がよく見ます。 正夢は正守護神が未来の出来事を夢で知らせてくれたので、その際事実を見せる場合と寓意的(ぐういてき=ある意味を、直接には表さず、別の物事に託して表すこと)に見せてくれる場合とあります。 歯の抜けた夢など、必ず凶事の知らせです。

〇よく山で遭難するのは、山を汚し、山を軽蔑して、天狗の霊が怒ったからです。
よく六根清浄と申しますが。 五臓六腑の六腑を浄め、その諸機関から生ずる諸(もろもろ)の欲を去ることで、よく山へ登るときに唱えますが、昔から山は聖なる霊場として敬虔なる風装、 態度で登山したものでした。いまは山を征服するなどと申して、山に祭ってある神様や、山に鎮まる天狗の霊などを無視しますが、よく山で遭難するのは、 山を汚し、山を軽蔑して、天狗の霊が怒ったからです。遭難は山の危険の程度より、山の天狗霊の性質によることもあります。ですから、登山は敬虔な態度で、 大小便などをするときも汚してすまぬと詫びるくらいの神向的態度が欲しいものです。 勿論山そのものが非常に危険で、そのため遭難することもありますが、そんな山でも神様にお願いして登山すると万事好都合です。

〇彗星(すいせい)と天変地異とはなにか関係があるか。
これはあります。きっと世界になにか大変動が起きる前兆です。天地は合わせ鏡とも言い、相影響し合っています。 神道では彗星のことを「浄め箒(ほうき)」と称するそうですが、まんざらこじつけではありません。

〇「 霊憑りは危険」霊憑りというのは、、最初は非常に興味があるものですが、危険です。色んな霊が憑かるようになったりする。精神障害をもたらすのでやめた方がよい。 ただ、ある場合に祖霊や何かが出て、一時的に憑る事がある。また警告を与えるというのは良いんですが、霊憑りを全然いけないと言うのではないが、それを心得ておかなければならない。 しかし、霊憑りは面白いので、みんなやりたがるが危ない。それで、いかなる場合にも常識的に考えれば分るんですが・・・。邪霊であれば必ず余計な事を喋舌(しゃべ)りたがるもので、 よくあるノベツ幕なし立て続けに喋舌るなどは、狐霊と思えば間違いない。 憑霊に口きらせるとその人にいろんな霊がかかる。その結果精神病になりやすい。霊問答はだれもが好奇心を持つが、問答は求めてすべきものではない。

霊的光力の場合先方から霊が浮いて出ることがある。そういう場合問答するのは自然であるから差し支えない。そういう場合は霊の目的をきく。 また動物か人霊かをきくのであるが、憑霊はたいてい祭ってもらいたいようなことが多い。その他狐がからかうこともよくある。 そういう場合騙されまいと努めるよりは、馬鹿になって騙されてやるとかえって早く暴露する。」 日蓮宗など霊が浮いてくると「口がきける」と言って喜ぶのですが、これも精神病になるから危い。また狐は畜生だから、こんなのをよく使っていると自分自身が畜生道へ堕ちてしまう。 だから行者なぞにはあんがい不幸な人が多いんです。

〇台風禍 知らるるごとく今年程、後から後からと物凄い台風が現われた年は、今までに覚えがないであろう。 そうしてこの災害たるや人畜をはじめ、田畑、道路、堤防、橋梁、船舶等々全部の被害を換算したら、どのくらいの額に上るか見当もつかない程である。 ところが情ない事にはこの台風に対しての対策は、政府始め地方当局においても、余程以前から年中行事のように、鋭意あらん限りの方策を講じてはいるが、 いずこも同じ秋の夕暮で財政逼迫(ひっぱく)、計画通りの実行はとても困難で、手も足も出ない有様である。としたら今後当然来るであろう数知れない台風に対しての、 その不安たるや考えるだけでも慄然(りつぜん)とするのである。それもこれも台風なるものの本体が全然不明であるからで、その根本を知らしたいためここにかくのである。

言うまでもなくその原因は科学迷信の結果、何事も唯物的方法をもって解決しようとする、その考え方が根本を外れている以上、一時的膏薬(こうやく)張でしかないのである。 という訳で、どうしても真の原因である唯心方法によらなければ永久的解決は不可能である。では唯心的方法とは何かというと、つまり台風なるものの真の発生原因を知って、それに合う対策を立てる事である。 それは度々言うごとく台風は天災ではなく人災であって、人間が作って人間が苦しむという呆(あき)れる程の無智なためである。 といったら現代人は驚くであろうから、これを詳しくかいて一般の眼を覚そうと思うのである。

そもそもこの世界とは見ゆる物質と見えぬ霊との二つから成立っており、ちょうど掌のようなもので、表(手の平)は体で裏が霊と思えばいい。 つまり表裏結合一体となっている。そうして一切は霊が主で、体が従であるのが万有の法則である以上、現界に発生するすべては最初霊界に発生し、それが現界に移写するのである。 ゆえに台風も最初霊界に発生するのはもちろんであるから、この発生原因を作らないようにすればいいので、それ以外の方法は決してないのである。

ところがこの理を知らない人間は、結果である物質面のみを対象とする。ちょうど医学の対症療法と等しい訳で、一時的効果でしかない訳である。では霊的原因とは何かというと、すなわち霊界を曇らす事である。 その曇りがある程度を越えるや、ここに自然浄化作用が発生する。これが台風であるから、この曇りを作らなければいいので、それには人間の想念と言葉に注意する。


というのは想念が悪に属するもの、すなわち憎(にくし)み、妬(ねた)み、そねみ、怨み、嫉妬(しっと)、不平等が霊界に反映し、気候不順の原因となると共に、今度は悪に属する言葉、 行為すなわち讒侮〔誣〕(ざんぶ)、中傷、欺瞞(ぎまん)、愚痴、卑劣、あらゆる罪悪等で、前者は一次元、後者は二次元の霊界を曇らす事になる。これを台風という自然浄化作用発生によって払拭(ふっしょく)するのである。 今一つは全然物質的原因である人肥金肥等の肥料、病虫害防止の薬剤等によって土を汚すため、自然はこの浄化のため大雨によって水で洗い流すのである。 といったようにすべては人間の無智が作るのであるから、この事を知って原因を作らないようにすれば解決するのは当然で、大災も小災となり、小災も無災となる。 これが宇宙の真理であるから、これを守る以外根本的効果のない事は断言するのである。

〇宗教と恋愛とは相通ずるものがある。宗教の神秘に憧(あこがれ)がれる点と、恋人に憧がれる点とがよく似ている。従って神向きの極致は神への恋愛である。 この点恋愛と異うところは、誰かが言ったように、恋愛は結婚が終極点であるとの通り、結婚が成立すると大抵は魅力の大半を失うものである。 ところが神への恋愛は、その点大いに異う。というのは、一つの神秘を暴けば、次の神秘を求める、知れば知る程いよいよその奥を究めようとする。 そこに神向きの妙味があるのである。以上のような意味で、神秘を探るには神人合一の境地に到らなければならないと思って、 それによって身魂を磨こうと一生懸命に御神書を読みあさっている。

それと共に、自己ばかりではない、他人に向かってこれは帰神を抜いた鎮魂のみの法がある。ところが実際は他人に向かう場合、鎮魂ではなく浮魂である。 鎮めるのではなく浮かせるのである、浮かせて口を切らせる。それは憑霊に喋舌(しゃべ)らせる事である。それによって霊界の実相と憑霊現象を知りたいからである。 この方法も霊界を知るためには、幾分の効果はあるが、弊害もまた少なくないので、初心者は触れないように注意している。 小生などは経済的余裕もなく、確実な収入の見込もないが、実に不安定極まる生活でもあるが、 しかし絶間ない奇蹟のおもしろさで、経済不安など忘れてしまう程である。実に歓喜の生活である。ただまっしぐらに今は霊的研究と病気治療の研究に没頭している次第である。 最近はどうも無信仰者や唯物論者とか言う人に会ったりするがその場から早く立ち去りたい気分になるのである。好い霊気出して居ないからすぐわかるものである。 又よく小生の話を聞き入る人がいるがこの様な人は素直で非常に心地がよいものである。将来が楽しみである。殆どの成功者は自己能力以外に見えない世界の力を感ずると言う。

●愛と云うものは両方共の問題で初めから嫌いなものは仕方がないが、お互いに少しでも好きなところがあったら、好きな度が深まって行く。だんだんそれを耕して行く、耕して行くから、つまり面積も広くなる。 広さと深さを二人で拡め深めて行く。それは出来ると思う。それは恋愛である。

〇『訪ねは聞にも通じ、聞は学びであり恥にあらず。又、自らの足を運び広きを知るにある』・・・訪ねるということは、自分にとっても相手にとっても何かを聞くことになる。 聞くことは知の広がりであり、知らざることを聞いたとしても決して恥ではない。聞きたいとき、訪ねたいとき、いずれも自分の足を運んでいきなさい。遠く広く知識が身についてくる。 訪ね、聞き、交流をはかることが如何に大切か!ともすれば相手側から訪ねてくれることを望み、また、いろいろなことを教えてくれるのを待つ悪い癖がないとはいえません。 神々の場合も同じです。心から神を信じお意乗りし訪ねてこそ神の守護があるわけで訪ねもしないで何を授けてくれというのか。と言っているように聞こえてきます。 『訪行』の法則は、こちらから訪ねるのが原則なのです。

〇神業に従事する人であっても、そのことで位があがったり、幸せになったりするものではない。それはひいては神業に従事したから救われる、従事しなかったから救われないという差別 も存在しないことでもある。神はもともと人を救うために、因縁のある魂に神業させてる居るだけである。

〇通り過ぎない風はない。だが傷がつくかもしれない。また雨が降らないことはない。またやまない雨もない。時が必要である。 あやまちは知る事が出来る。正しさは知る事が出来ない。正しい選択をすることである。

〇世間よく怨霊といって、昔から稗史(はいし)や伝説等にいろいろあり、恐ろしきものとなっている。そうして怨霊とは怨みの霊がその復讐として、 当事者又はその子孫に対し、危害を加えようとするものである。これらも決して想像や仮想的なものではなく、実際にある事は争えない事実である。 この世の中には、唯物的では解決のつかない事が随分あるのである。そうして怨霊はすべて執着の為、龍神となって活動するものである。

〇人間不幸の中に幸せが隠れてあり、幸の中に不幸せが隠れているものである。此れ辛抱として生きていかねばならないものである。それが宇宙の理でもある。

〇霊細胞が浄まっとらんと祈力というものは出てこない。そこで浄まれば段々自分で思うように、思ったように世の中の方が動いてくれるようになり、運命の方が動いてくれるようになってくる。 こうなってくる訳です。そういうのは元は気の、祈力の向上にある訳です。

〇よくよく宗教によっては、少し熱心な信者となると、献金献金に追われ通しで、年々貧乏になってゆき、古い信者になると、 飴の吸殻(すいがら)しのようになってしまう者さえよく見るのであって、これが新宗教を警戒したり、敬遠したりする原因ともなっているようである。 これらもいつもいう通り、霊的には救われても、体的には救われていないのである。
ここの部分をよく考えるべきである。 医師も薬も必要なくなると共に長患いなどする者もないから、これが経済面及び精神上に及ぼす御蔭は大変なもので、病気で休む者などほとんどなくなるから、 能率の上からいっても、その利益は莫大なものである。 病気から救われれば働く事もでき、日々感謝の念が起き今までとは、とって代わるから体的にも救われていくのである。普通の信仰ではこうはならないのである。 なぜ宗教の力にたよらなければならないかというに、それは見えざるものを信ずるという信念である、ところがそれは宗教のみの分野であるからである。

○よくよく神向きに対しての邪魔をしたり、いろいろ良からぬ人が入ったりしてきます。ところがそういう人に 「あいつは悪い奴だとか、あいつはいけない」とか言いながらも、結果においては、なかなか良い役をしてます。 それは悪い人間でなければできないような良い役をしてます。だから本当に御苦労様と礼を言いたいくらいです。 これがちょうど、善の役と悪の役と両方こしらえてあるということがはっきり分かるのです。

もっとも芝居でも映画でも、脚本でも、善人ばかりでは芝居にならないので、悪人に善人が苦しめられるという、そこに一つの脚色ができるのですから、 なるほど芝居という意味から見ると、悪の役も入り用だったわけです。そういうようで、神様がやられることは実に深いです。

ですから「あの人はああいうことをしているから悪い、間違っている」ということは、とても言えるものではないです。 そう言っている人は、実はその人自身が悪いことをやっていて、悪いことを言われている人は良いことをやっているかもしれません。 お筆先に「一生懸命、神のためと思い、間違うている事をしている人は、神も困るぞよ」というのがあります。

「これが神様のためだ、これが本当だ」と言って一生懸命にやっていることが、案外神様のお邪魔になっているというわけです。 そこで人間、特に信者は、善とか悪とか決めることはたいへん間違っているのです。また分かるものではないのです。 ただ、自分が良いと思うことをしていればそれで良いので、人が善いとか悪いとか言う、それが一番危険なわけです。

〇本守護神と正守護神は決して浮かないんです。浮くのは副守護神だけです。変わった動作は副守護神の動物的本性なんです。ペラペラしゃべるのは狐です。 狐ってものは休みなくしゃべり続けるんです。ヒステリーになった女性はとてもしゃべりますが、あとで聞いてみると、そんなこと言ったのかって言いますが、 あれは霊が浮くんで自分では判らないんです・・・。 それから、霊的光力されて浮き出してくるのは苦しいからで、苦しくて落ちついていられないんです。 ところが、その人が浄まってくると副守護神の力がだんだん弱るから、そういった変な挙動はしだいになくなるんです。

人間は霊が浮かないのが本当ですが、そうかと言って浮かないほうがいいとばかりも言えないんです。 浮かないのでも、浄まってて浮かないならいいんですが、毒があまり多すぎて感じなくなって浮かないって人もあります。 ちょうど、毒素がなくなって健康な人と、毒素はたくさんあっても、それが固まっている外見だけの健康な人とあるようなもんです。 始終浄化を起すのはこの中途半端な奴でこれが一番多いんですが霊の場合もこれと同じようなものなんです。

〇急死の場合は死の霊は生きてるつもりでいるが、肉体がないから探す。霊線の繋りあるものに憑く。子供は一番憑きやすい。 人間は急死したのは不仕合せである。反って仕合せだなどというのは間違いである。霊界あるを信じ、覚悟があれば、霊界へ行っても間誤(まご)つかぬものである。 無神向者・物質主義者などなど霊界を知らなくて死んだ場合特に子供には一番憑きやすい。こんな霊でも救わなきゃならんのであります。散々霊界なんかあるものかと吐いている者でさえ。

〇「幽世の大神とはいかなる大神様か。霊界を支配している神様である。国常立尊様(くにとこたちのみこと)で、この神様は大国主命(おくにぬしのみこと)に幽界の主宰を委ねられ、いまは現界でお働きになっている。 なにか分からないことがあるときは国常立尊様にお伺いするとよい。力のある神様でどんな邪神でもこの神様にはかなわぬ。観音力とは国常立尊様のお力が元である。 また審判の神様でもある。」(またの名を、国常立尊様(くにとこたちのみこと)⇒「艮の金神」「素戔嗚尊(スサノオノミコト)」とも言います。

〇『無限の界』すなわち生命と法則と産土の力動の世界であると言います。五官の界を絶つと絶対力(神力=神の光)が生み出されて、それは不安や恐れのない力、 不壊の力や施無畏の力となって顕現されるようになるわけです。

〇神界に於いては、現界とは全然次元が異なり、時間(何百年何千年)空間を超越した世界である。神界に於いては、時間的に見るとすると、何万年何千年は瞬時の内である。

○「三界の意味」「三界は神幽現で、幽は仏界、現界は娑婆である。霊界は経緯三段になっている。天界・中有界・地獄の三段で、緯は含まれている。 現界、科学的にいえば空気界で、本当いうと地獄とか中有界というその中へ含まれているもので、極楽とか天国はその中にある。三界万霊とは、神幽現三界の無数の霊である。」 「神、幽、現、の三界。神、仏、現界。経(たて)は天国、中有界、地獄。緯(よこ)は現界、空気界(地獄、中有界)。のことを言うのである。また五六七となる。」

「経にゆけば神(界)、仏(界)、現(界)となり、仏界は幽界になり、地獄という事になる。一番上は幽玄界である。中有界は極楽・地獄の間という事で、八衢には幽庁や冥官があるから幽冥界という。 一番上が幽玄界である。仏教では六道の辻といって、極楽への道が三つ、地獄への道が三つある。神道では八衢という。

神道では天国は仏教の三段より一段上まであり、地獄は根底の国といって、また一つ余計にあるので、四つずつで八つになる訳である。 幽玄界、想念界、言霊界は緯になる。科学は宗教の一部なりというのが本当である。
「胎臓界は仏界であり金剛界は神界である。」


〇神界に於いては既往(過去)を知り、未然(これより起こる事・未来)の事柄を察するのは当然のことであろう。

○霊が一番強いですから・・・。そこで日本という国は、邪神の方では一番に狙うわけです。ですから日本人が良くなると世界中が良くなるのです。世界の種みたいなものです。

〇人間の霊魂は増減するものである。どれ位と計量、計られるべきものでは無いが、増減するものである。

〇養子取りや、子のない時養子をとる時など、先祖が霊線を辿っては霊界で候補者を探す。そして産土神の許可を受ける。それで結ばるるのである。

〇人から騙されるということも騙すほうが悪いというのは半分です。騙されるほうも騙されるだけの曇りがある。そしてむしろ騙されることにより曇りが除かれるのです。・・・

〇正しい神を信ずれば光を受けて曇りはそれだけ消されるが、邪神を拝めば反って曇りが増すのである。ところが普通人は霊的智識がないため神とさえいえばことごとく正神と思うが、 これが大変な誤りで、実は邪神の方が多いのである。その証拠には先祖代々熱烈な信仰を続けているにかかわらず、不幸の絶えないという家をよく見かけるが、これは拝む本尊が邪神かまたは弱神であるからである。 ゆえに正神に帰依し、人を救い善徳を積めば積む程、光は増すから霊衣も厚くなる。 この厚さは普通人は一寸くらいだが、善徳者になると五寸から一尺くらいに及び、神格を得た高徳者になると数十尺から数哩に及ぶ者さえある。

〇人が善行を為せば此の霊魂は増す(与→霊)。良好を乱せば神は之の霊魄(魂)を奪う「霊魂を罰する」

●全てに共通する事でありますが、自分にそぐわないこと(会話してる時など・・・。)がある場合には他人に対してニガテナンですとお断りすると良い。 神向きに於いての心得としては相手が物欲で生きてる人こそ見下げたりしてはいけないのである。霊がそうさせているが為にまだ無知な為であるから、そこはするりと交わしてしまうことである。 ニガテナンですとお断りするとお互いにそこには、蟠り(わだかまり=執念・影響・拘り心残り・確執・反目・傷・不和 )がないのである。無理に自分の会話をすると口論となったりするものである。出来れば関わりたくないものですが・・・。失敗談でした。

○人生は波を打たないと伸達の業はないのですから、災難だとは思わないことです。一見して自分の意に沿わない出来事も、総てを「あるがまま、なすがまま」に受け入れることで、我(が)をおさえていく必要もあります。 例えば電車に乗り遅れたとしても、そのことを悔やんだり文句を言ったりするのではなく、『神様』から御守護を戴いて、乗り遅れなかったら事故に遭うか、あるいはそこまでいかなくても電車の中で不快な思いをするはずだったところを乗り遅れることで護られたのだと感謝してしまうのです。

レストランで店員の相手のミスにより注文したものと違うものが出てきても、文句を言うのではなく、その間違って出てきたメニューの方が今の自分の体にとって必要な栄養なのだから『神様』がそう仕組まれたのだと、感謝して出てきたものをいただくのです。 素直に現在の自分をつかまえる。それから周りの状況をつかまえる。これができれば失敗するはずがないのです。大成された方々を見ていますと、木に引っかかった時に無理押ししない。あるがまま、なすがままになってさっと処(しょ=対処する)する。

面白い話:イソップ物語に「酸っぱいブドウ」という話があります。 キツネが、たわわに実ったおいしそうなブドウを見つける。食べようとして跳び上がるけれど、ブドウはみな高い所にあって届かない。 そこでキツネは、「どうせこんなブドウは、酸っぱくてまずいだろう」と捨て台詞を残して去る。この話は、一般的にはキツネが「負け惜しみ」を言ったのだとし、自分の防衛機制・合理化の例と考えられています。

しかし、角度を変えてこの話を見ると、キツネが言った言葉は真実かもしれないのです。自分の我(が)によって、そのブドウを食べようとした。しかし、どうしてもそのブドウに届かないという状況が与えらる。 つまり、そう仕組まれたということです。はたして、もしそのブドウに届いていたら本当に酸っぱくてまずいか、あるいは体を壊してしまうようなブドウだったのかもしれません。

それを覚ったキツネはブドウに届かないという状況を「あるがまま、なすがまま」に受け入れ、ブドウを食べたいという我(が)を捨て、素直にその場を立ち去ったともいえましょう。 この素直の姿を身につけ、すべてを「あるがまま、なすがまま」に受け入れて、『神』のみ意に素直になることが、やはり幸せいっぱいになるためにはどうしても欠かせないことだといえましょう。


〇人間幸福になるにはどうしても霊を浄めて軽くし、少しでも上位(霊界の上位・霊が重ければ下位の方に行く=汚れていると意味)になるよう心掛くべきで、それ以外に方法は絶対にないので、ここに霊的光力の大いなる意義があるのである。

★【宗教というものは元来、何かに依存することではなく、自分自身を強くしてくれる場所(少し変な話をするが、お金を出して人に施術する事なんか一般的には考えられないかもしれないが、処が其れはとんだ間違いなのである。 何となれば、あくまでも場所とは道場である。道場とは何かをやってくれる所ではなく、自分自身を鍛えてくれる所であり、その為にお金を払い強く授けてくれる場所である。ボランティアなんぞとは違うのである。だから自分自身が事を始めなければ何も成し得ないのである。)でなければならないはずである。このことを世の世人達は忘れている。宗教人たちは深く反省をしなければいけないのだと思う。】

○心が不調和なまま禅定に入ると霊が憑依してきてかえって危険な状態になるおそれがあります。人は精神統一すると、霊に憑(か)かかられやすくなるの危険性があるのです。だから禅定をあまりすると、ほとんどは動物が懸ったりするものである。 キツネ、タヌキ、ヘビなどのほか、牛などなど。そして動物ばかりでなく、髪をふり乱し苦痛にあえぐ表情の女なども懸り、それらは同じような苦悶の表情で修行している体の中にどんどん入っていくものである。 ○玉という字は上下が天地で、真ん中は十の字で、天地を結ぶという字で、天地の結ばれるのが玉で、あるいは天地人三才を結ばすという意味にもなる。
そして、これは神様ということにもなる。丶が上へのると主という字になる。そういう意味と、玉が日本、川が外国、玉は魂、また、カワは外部、ミを打てばガワ、すなわち側です。
皮膚などもカワといい、「とりまく」ものをガワという。また、玉は真で、玉川というのは、日本と外国ということにもなる。
それで、玉川は日本と外国と両方の経綸になる。ちょうど玉川のすぐ向こう側が神奈川になり、神奈川県は外国の型になる。
川からこちらが日本の型になる。

田は○に十の字の象形文字、○は世界、十は経緯結ぶ形であります。外国は三五です。三は体、五は霊で、体が上で霊が下になるゆえ外国で、体霊であります。日本は霊体、五が上で三が下、霊主体従ですから五三となる。 体霊、霊体両方結ぶのが十の字ですから、今度は霊体一致ということになる。三五は三五の月というように月で、五三は日で、どっちも日であって月であります。 また月であり日であり、三五は月が上で、日が下ですが、日本は霊主体従、外国が体主霊従で月が上、日が下、日月相結んで伊都能売または観音であります。

○☆盤古神皇が漢方薬を発見

中国は盤古神王の系統が統治していた。 神農とも書く。漢方薬の絵によくある。 日本は伊都能売大神であらせられた。 盤古はよい系統だが、漢方薬を発見して、人間を助けようとした。 この奥にたいへんな邪神がいる。故に漢方薬は非常に悪い。 盤古の系統は邪神系にやられた。 文明の創造で一番始めに、薬を飲み始めたところを書いてありますが、 つまり原始時代に人間がだんだん増えるにつれて食物が足りなくなるので、山野にある物を何でも取って食べた。 それから虫類とか貝類を取って食べ、それに中毒をして痛むとか・・・苦しみ、 それを治したいためにいろんな草の葉や何かを考え出して、それで浄化を止めたわけです。 それが薬の始まりです。それで一番いろんな薬を発見して・・・要するに薬物というものを、一つの完成というか、させたのが盤古(ばんこ)氏という人です。 漢方薬の元祖です。それが素晴らしく薬物を進歩させたのです。原始時代に身体が悪くなると、擦って治したからクスリという言葉が出た。

○ユダヤ人は現在も薬を飲んでいない。

一方ユダヤの陰謀としての、薬を飲ませて世界人類を亡ぼそう(内的に)とたくらんでいる。 ユダヤ人にはいろんな種族があって、そうして非常に信仰が強い種族があるのですが、これはユダヤ人の正統らしいのですが・・・。 薬を飲ませたのは、邪神・・・神様です。 それは、薬をなぜ飲ませたかというと人間を弱らせなければ物質文化は発達しなかった。 それで弱らせるために神様は毒を薬のように思わせて、それで人間に飲ませた。 それで観音様は薬師如来となって薬は飲めと瞞(だま)したのです。お釈迦さんも薬草彙本(やくそういほん)を説いて飲ませたのです。

人間の死後と畜生道・・・人間の死後はその罪によっては畜生道に堕ち、再生の暁畜生となる。

さて、いかなる訳で畜生道に堕ちるかという事である、 それは生きている内に、畜生と同様の想念を持ち、畜生のごとき行いをするからで、形は人間であっても、霊はすでに畜生になり切っているのである。 死とは、もちろん亡骸(なきがら)を娑婆に打ち棄て、霊だけ霊界へ入るのであるから、霊界に入った時は畜生そのままという訳である、 そこで、どんな人間でも改心せざるを得ない事になるが、といって仲々簡単にはゆかない、 そこでほとんどの霊は、生前の罪を悔い、いかなる難行苦行をしても、一日も早く人間に生まれ変りたいと思い世のため人のため罪の償いをするのである、 であるから畜生は好んで苦難を求め犠牲になりたがる。 その意味を知らない人間は動物虐待防止などをいっているが、実は畜生にとっては有難迷惑なのである。かといって殺生することも心が痛がる。

畜生道といっても種々ある、というのは、現世における時、その行為に相応するので、 たとえば執着の強い者は蛇、人を騙した者は狐、横着な奴は狸、スパイ行為は犬、無鉄砲な奴は猪、 怠け者は猫、奸智にたけた奴は猿、チビチビ金ばかり貯めたがる人間は鼠、年中ブラブラして活動を嫌う者は牛、 獰猛な奴は虎や狼、またノド自慢を種に罪を作る者は小鳥等に生まれるものである。 特に、○○主義者のごときは、霊界へ往くと悪龍または鬼になるものである。

従って、これなどは、再生までに長年月苦しむのは当然で、これも仕方がないであろう。 以上、概略かいてみたが、要するに人間生きてる間に、神を信じ出来るだけ善事を行い、死後の準備をなしおくべきである、 その結果安楽往生を遂げ、霊界に往くとすれば天国の天人となり、再生の場合幸運者となるのは明らかである。 これは長の経験によって帰納(きのう=法則などを導き出すことされた結論)で、一点の誤りのない事を断言するのである。茂吉大先生の論である。

〇人間の賢愚(けんぐ)・・・今一つおもしろい事がある。 旅行の時など特に親しみのある場所があるが、それは前生においてその付近に居住または滞在した事のあるためである。 また他人であって親子兄弟よりも親しめる人がある。 それらも前世において親子、兄弟、主従、親友等であったからで、因縁とはこの事を指して言ったものである。 それと反対にどうしても親しめなかったり、不快を感ずる人は、前世において仲が悪かったり苦しめられたりしたためである。 また古の偉人英雄や武将等で、特に崇拝する人物があるが、これらも前世において自分が臣下や部下であったためである。 また熱烈な恋愛に陥る男女の場合、これは前世において、相愛しながら恋愛が成立しなかった男女が、 たまたま今生において相知り、その時の執着が強く霊魂に沁み付いているため、目的を達して喜びのあまり夢中となるのであるが、 これらは当人自身でも不可解と思う程情熱が燃え上がるものである。 また男女共独身を通す者があるが、これは前生において男女関係が原因で、刑罰や災害等により生命を奪われる際、 悔恨の情にたえず、男女関係に恐怖を抱いたためにほかならないのである。 その他水を恐れたり、高所を恐れたり、人混みを恐れたり、またはある種の獣類、虫類等を恐れたりする人は、右の原因による死のためである。 以前こういう例があった。その人は人のいない場所をおそれ、一人もいなくなると恐怖に我慢が出来ず往来へ飛び出し、家人の帰宅するまで家に入らないのである。 これは前生において急病等のため、人を呼びたくも誰もおらず、そのまま死んでしまったためで、その霊が再生したからである。

現世における職業、たとえば遊女は狐、芸妓は猫、というように、相応の運命に墜ちるのである。 従って人間はどうしても人間としてはずかしからぬ行為をなすべきである。 また色盲という病気は動物霊の転生であって、その動物の特異質が残存しているためである。 すべて動物の眼は物体が単色に見えるもので、ちょうど動物の音声が一種または二種ぐらいの単音である事と同一である。 その他多数の実例があるけれど略すが、すべて転生の場合、残存せる動物霊の性能が多分にあるものである。 そうして動物に人語を解するのと解せないのとがあるが、人語を解せないのは純粋の動物である。 猫や蛇を殺したりすると祟るというが、これは人間が転落し再生した動物であるからで、そうでないのは祟るような事はない。 よく田舎など青大将がふるくからいるが、これは祖先が蛇となってその家を守護しているので、 こういう蛇を殺すと必ず祟って、次々に死人が出来たり、甚だしきは家が断絶する事さえある。 それは折角守護していた祖霊を殺したため、非常に立腹するからである。 そうして、人間性のうち執着が蛇霊となり、偽りを好み人を騙したりする結果は狐霊となるのである。 最近の振込み詐欺何かはこの部類に墜ちる。こんな事が解ったら遣らないだろうに! 一旦畜生道へ落ちて転生しても、その一代はあまり幸福ではない。 特に女性の独身者の多くはそれである。

人間生まれながらにして賢愚(けんぐ=かしこいことと、おろかなこと)があるのは、いかなる訳であろうか。 これについて解説してみよう。それについて前もって知らなければならない事は、 人間は一度は必ず死ぬが、死とは何ぞやという事である。 死とは実は老廃したり、大負傷したり、病気の為衰弱したりして、その肉体が使用に堪えなくなったために、 霊魂がその肉体を捨てて霊界へ往き、数年、数十年、数百年にわたって浄化作用が行なわれる。
それは現界における生存中に、いかなる者といえども相当の罪穢を犯し、それが溜まっているので、 ちょうど長く清掃をしない家や衣服と同様であって、浄化された霊から再生する訳は後項(霊線について)に述べた通りであり、 もちろん人間の霊には再生が多いが、新生の霊もある。

この新生の霊は霊界における生殖作用によるのであって、これは現界の生殖作用と異なり神秘極まるようである。 かくのごとく再生の霊と新生の霊とがあり、新生の霊は人間としての経験が乏しいため、どうしても幼稚であるに対し、 再生霊に至っては、人間としての経験を積んでいるため賢い訳であるから、 再生の度数の多い程賢く、偉大なる人物は最も古い霊魂という訳である。 次に転生というのがある。仏教に輪廻転生という言葉があるが、この事である。 これは人間が生存中に犯した罪が重い場合、畜生に生まれる。 すなわち狐、狸、猫、犬、蛇、蛙、鳥等が主なるもので、多くの種類がある。 なぜ畜生道へ堕ちるかというと、生前の想念と行ないが人間以下に堕落し、畜生同様になったからである。霊が一旦何らかに執着心を起すと、それを思い反す事がなく、一本調子に進む癖がある。 こういう事をいうと、現代人はとかく信じ難いであろうが、小生は二十数年にわたり、無数の経験によって動かすべからざる断定を得たのである。

〇再生と転生・・・霊界はどこにあるか、われわれが呼吸しているところにこのまま霊界は存在する。 いま肉体が歩いてるとき、霊体は霊界を歩いている。故に、こういう霊界にはいろんな霊がいる。こんな話を聞かせられていれば、霊界の霊は何万となく来て聞いている。 そして声を霊(背後霊・守護霊・指導霊)は聞いている。中には聞けないのもいる。木龍神とか憑く場合とか聞こえない。

諸士(高い教養と徳を備えた人)に憑ってその耳によって聞いている。死の前知人に霊が別れに行く例があるごとく、霊界に起ったのが現界へ従う。 故に、霊界と人間の霊身は非常に重大なものである。故に、人間は始終霊界と現界を往き来している。

霊界はだいたい浄化作用をする所、人間が現界でいろいろ罪をつくって曇りが霊身に非常に溜まる。あまり曇りのひどいのは人間になれず畜生道へ行く。 再生 人間が人間に生まれる。転生 人間以外のものから人間に生まれる、畜生などより人間に生まれ代わる。 人間は畜生のような心行をもつと、それ相応におちる。猫、犬、鳥など、スパイや探偵など犬に、だませば狐。

獣は苦しむから罪がゆるされる。そして人間に生まれる。これを転生という。現界の死は霊界で誕生という。極楽へ行く霊は誕生祝いをする。 楽を奏し、花の咲いてる所へみんなで迎える。これはよい往生する人などがみる。 きれいな着物を着て、音楽を奏し、大勢の人が駕籠(かご)や御輿(みこし)をもって迎えに来る。

そしてそれにのせ、かついで行く。霊は無限に新しい霊ができている。神仏を信ずるという霊は古く、神代の時代に何度か生まれた霊である。 神はふつうの人間の形をしてすばらしい不思議な力をもっていた。そういう記憶があるから神向し得る。 神というものがなくなってから生まれた霊は神のことが分からぬ、神の経験がないから分からぬ。

神をさがすことができぬ。ちょっと神の話をしてピンとくる人は、神の経験があり、ぜんぜん通じぬ人はその後に生まれた新しい霊である。
どんな人でも罪を犯さぬ人はない。なにも悪いことをしないという人も、どんなに罪を犯してるかわからない。 キリスト教など、女性をよしと思っただけで姦淫の罪を犯したことになるという。

つまり心の罪だが、これはいくぶんか罪になって溜まるが、いっぽうで非常に良いことをすれば消せる。最近での神の啓示では人を神向に導けば先祖(先祖=自分)の霊が可なり救われると言う。 悪いことをしなくとも良いことをする人は少ない。そういうのがなかなか曇りとなって溜まる。そういうのは霊界で浄化される。 現界で執着のない人は霊界で速く浄化作用される。二百年くらい霊界にいなくては充分浄化は行われない。

〇稲荷とは;だいたい稲荷というのは、百姓が稲を守ってくれというだけのもので、他になにも意味はないです。 だから、稲荷というものは、外に祀らなければならない。 田んぼの一ヶ所をきれいにして、そこにお宮を作って祀るんです。 人間の家で祀るべきものではない。 人間の家に祀って拝むというと、狐は人間の上を歩いているものです。本当は地以下です。 狐を拝んでいれば、霊的に地獄になっている。 狐のほうで人間を拝むなら良いが、人間が狐を拝むというのは、狐以下になっちゃう。 狐以下の運命になるよりしょうがない。

だから、狐を祀って拝んでいれば、必ず不幸になりますよといっているのです。
というのは、狐というのは、だいたい、天照大神様が、最初日本の人口が増えるに従って、 米をたくさん作らなければならないというので、豊受明神(とようけみょうじん)に命じて、 早く日本中に稲種を配るようにと言うので、豊受明神が狐に命じてくわえさせて配られた。 だから豊受明神というのは、狐に乗って、狐が稲をくわえているでしょう。 そういう御神体です。

だから百姓は狐にお礼を言って、稲作を御守護してくれと、お宮を作ってお参りしたものです。 ところが狐のやつ、自分の職務以外の範囲にのさばってきた。 というのは、力がある。なかなか霊力がある。

しまいには、日蓮上人と仲良くなって、日蓮宗は狐を利用して開いたものです。 また畜生道に落ちて狐の親玉になった訳です。 ですから日蓮宗の信者は全部狐が憑くのです。 今迄あれだけ盛んになったという事は、狐がやったのです。

ドコドンドンと叩きますが、ああいう浮かれるような事は狐が大好きなのです。 一種の浮かれたようになって太鼓を叩きながら歩いていますが、あれは狐が面白くて嬉しくて仕様がないのです。 人間の方は狐の入れ物で、やっているのは狐がやっているのです。 そう言うとはなはだ形無しになってしまうが、もうこうなったら早く分った方が良い訳です。」

そんなようにして、だんだん狐が一大勢力を得てきた。 豊川稲荷、伏見稲荷だとかいろいろできた。


狐を家の中に入れて拝むというのは、地の下になることになる。 狐は穴を掘って住んでいるから、これを家に祀ると地獄に住む事になるから、きっと不幸になる。 狐は四足ですからね。だから外が本当なんです。

またむやみに帰らせたり、処分したりすると怒りますからね。 しかし、狐もいろんな御利益なんか与えるから、人間のほうが乗っちゃう。 しかしそれも一時的で、だんだん地獄のほうに行っちゃう。だから禍いがある。 だから、神様をお祀りして、少なくとも一年以上経ってから、正式にお祀りしてお帰りを願う。 稲荷神社のお札は処理した方がよい。一年はそのままにしておき、月に一度位お祀りしてやる。」 野狐と違って、伏見の稲荷は良いです。解りが良いです。

一年以上経ったらそうすれば良い。その後で元の御座(みくら)にお帰りを願いますと言い渡す。 主の神様は最高の神様だから、霊界が天国になるから、禍が来ないで、良いことばかりくることになる。

豆豆知識;法華経を聞くと神通力(狐とっては非常に良い。人間を騙しやすい。)が出るという。天津祈言(あまつのりごと)を奏げると狐は逃げる。日蓮宗に関係したものは置いてはいけない。狐がそれを本拠にする。
稲荷の行者は畜生道に堕ちている。また行者はよく神経痛とか変な病気になります、あれは水を浴びたりなんかして冷やして固めるからで、だから体なんかカチカチになるのです。
断食したり水浴びしたりするのは邪道ですよ。稲荷の行者は死後狐霊の世界に堕ちるものである。生きてるうちからもう畜生道へ堕ちてます。だから不幸ですよ。

日蓮宗は狐がやっているのですが、その奥は龍です。それで「タチバナ」の「タツ」という言霊(ことたま)は、龍ですから、龍の花ということです。 ですから立正安国論というのは「立」は「龍」です。ですから立○○○会とか、「立」という字を非常に使うものです。 「主」という字の中の「十」をくずして、こう(//)すると「立」という字になるのです。ですから「十」が神の形ですから、陀の形はホトケと言って、ほどいてそれを龍神が世の中を支配するのです。 つまり神を解いて、神はほどけて、そうして龍が天下を掌握するというわけです。

〇稲荷の跋扈(ばっこ=広がる)」

「伊勢の内宮および外宮併祀の由来およびその意義。」


「内宮は天照大神、外宮は豊受明神を祀ってますが、天照大神は主食につき非常に関心を持たれ豊受明神に命じて全国に稲を配らせた。 このとき明神は狐を使って配らせた。稲を荷ぐと書いて稲荷というのはそのためで、そのときの功により祀られたのです。 だから稲荷は百姓が拝むべきで、いま芸者や女郎などが拝むのは狐が堕落したのです。 勿論ふつうの稲荷神社も豊受明神の御分霊が祀られたのですが、狐のほうが強くて御分霊の力が弱くなり統制がつかなくなった。 しかも夜の世界で天照大神は御引退になっておられたのでよけい狐が強くなったのです。 豊川稲荷なんか途中からダキニ天神を祀ったが、これは金毛九尾の狐です。」

「精神病は殆ど狐で、狐にも団体がある。大きいのは何千万も何億もある。親玉は金毛九尾で、日本の狐は皆その眷族である。 眷族の多い集団の土地には精神病が多い。伏見など割にいい。稲荷では、総取締りである。」

注-1)天照大神(あまてらおほかみ=奥様=水=夜の世界;主人は天照主日大神=昼の世界=非常に厳しい神=順序正しい世界=ミロクの世)伊勢での祭り方が間違いである。日の神を 内宮とし外宮には水の神として、順序を正し十字に組んで今聖紀の時代を修理固成して頂かなければならないのである。また天皇の立つ位置が間違っているのである。男性が左、女性は右に 来なければならないのである。宇宙の理であるからにして、逆の世になっているから、入れ変わらなければ発動力が出てこないのである。国民に早く知らしめてくださっていただきたいものである。

★西洋の写真はみんな男が右になっている。女が左になっている。夫婦でも必ずそうなってます。これは逆になっている。ですから外国の方は体主霊従です。 それで日本は霊主体従です。それを日本が外国のまねをして、天皇陛下の御真影もあべこべになってます。陛下の方が右で皇后様の方が左になってます。 これは今まではしかたがなかったのです。それで霊主体従になれば初めて本当に平和な世界ができるわけです。


★伊勢神宮においては、通常は天照皇大神(アマテラス スメ オホカミ)、あるいは皇大御神(スメ オホミカミ)と言い、祭事の際神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおほみかみ)などとも言う。

○【天之御中主神】  天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、日本神話に登場する神。  古事記では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。 神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味である。宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。天之御中主神は最高位に位置づけられている。

○【天照大神】  太陽を神格化した神とされ、皇室の祖神(皇祖神)のひとつとされている。

●天照大神様については 天照主日大神様(神代七代前期・天御光太陽貴王日大神(アメミヒカリ オオヒナカ キ オウヒ オオテルヒ オオカミ))は男性神です。 天照皇(アマテラススメ)大神様は女性神です。崇神(スジン)天皇【【神倭第十代 御間城入彦五十仁殖尊 ミマサイリヒコイニエノミコト 崇神天皇ともいう】の時に、それまでお祭り申し上げてきた天照主日大神様のご神体の方が隠され、 女性神の方の天照皇大神様( 皇統(上古)第22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(アマサカリヒニ ムカ イツヒメ ミヒカル アマツ アメノ スメラミコト)を天照大神と呼ぶようになる)をお祭りしているのが今日の伊勢神宮です。日本の神道を国家神道にするために、天照主日大神様を隠してしまいました。 現在は天意転換が行われて、元のように天照主日大神様を順序正しくお祭りする必要があるのです。

天照主日大神様は幽体を持って肉体化し、現界の高天原(地上)へ天降られました。人の霊成型通りに人の肉体を造られた神様です。ここで五色人の誕生となり、 霊の元つ国(日本)より人類が世界へ拡がって行きました。 天照主日大神様は人を統治、指導教化するためにスメラミコト(天皇)を地上に降ろされました。

注-2)アマテラスオホカミ=天照大神と表されていますが、天照大神というところの男性神と女性神は全く別の神様です。

男性神の天照大神様は天神第七代-天御光太陽貫王日大光日大神(天照主日大神様=アマテラ ス ヒ オホカミ)。

女性神の天照大神様は皇統第二十二代-天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇(天照皇大神様=アマテラ スメ オホカミ)のお二方です。

天照主日大神様は天照皇大神様のご先祖に当たられる神様ですが、近世神道ではその両神を混交しています。 天地創造は神代七代により成されて行きました。

天地創造を行われた大元の神様が、天神第一代の元無極躰主王大御神様です。 天神第一代の元無極躰主王大御神様が天神第二代から天神第七代までの神々を産み出されて行かれたのです。 天神第七代の神様が天照主日大神様です。 天神第七代の天照主日大神様が神霊界から地上に降り立たれて、霊成型通りに五色人を生み出されます。この五色人が生み出された地が霊の元つ国(日本)です。 天神七代かかって人を生み出されたのです。

天照主日大神様がご降臨された場所が現在の信濃から飛騨の高山にわたる一帯といわれています。現在の伊勢の皇大神宮のご祭神、天照皇大神様の一番のご先祖様がご降臨になった地です。 古文献による天祖降臨は、少なくても五千万年以前に行われていたとあります。 この五色人類を指導教化する。そして天と地を結ぶ天職(アママツ)り役として皇統一代の天日豊本葦牙気主身光天皇を降ろされ、天照主日大神様は神霊界にお帰りになられます。 以上のように天照主日大神様は、天祖・皇祖・人祖の神様ということになります。

天職り役とは、神代の惟神(かんながら)の時代には神と人は常に一体化してますから、本来スメラミコトの役割というのは祭政一致で神様にひとつひとつお伺いを立てて、そして人を指導していかれたのです。 あくまで天皇、スメラミコトの役割というものはアママツリ(天職)役、マツリ役でなければなりません。神へ向かって五色人の平安、人類の平和を祈って、人を神様と結びつける役が本来のスメラミコトの役だったのです。 神霊界にお帰りになられた天照主日大神様は非常に暖かく、お優しい神様だったので、天照主日大神様をお慕いする信仰が天照(主)信仰となり、太陽信仰の始まりとなります。 この太陽信仰から日来神堂(ピラミドウ)といわれるものが世界中に造られました。 だからピラミッドが世界各地にあるのです。

宇宙を創造し人が生まれるまでの天神七代のみ働きが、太陽信仰という形で残っているのです。 崇神天皇の時から、それまでお祭り申し上げてきた天照主日大神様にならべ女性神の天照皇大神様もお祭りするようになり、やがて天照主日大神様のご神体は隠されてしまいました。 そして、女性神の天照皇大神様だけが祭られているのが今日の伊勢神宮です。たいへんな間違いをしたままで今日に来てしまっています。日本の神道を国家神道にするために、天照主日大神様を隠してしまったといわれています。 天意の転換時代となり、神界では正神の神様がどんどん元の位に戻られるため、神祭りを正しくしませんと、いっそう強い戒告を受けるようになります。その戒告が大東亜戦争の惨めな敗戦となって現れたのです。 天照主日大神様を表に出され、正しいお祭りをされることが望まれます。

そして、天地創造が成された天神七代から、歴代天皇一覧にもある初代の神武天皇以前の膨大な神々の歴史が抹殺されてしまっています。当時の事情などから古事記や日本書紀も抹殺、改竄されるということも起きています。 日本神話に天照大神様が岩戸に隠れられるという伝説があります。 そして、天照大神様が岩戸から出て来られるという神話です。 しかし、実際に出て来られたのは、天照主日大神様の奥様の方だったのです。 神国日本でありながら、神々の歴史について間違ったものが伝わっているというのが現状の姿です。


まとめ:天照主日大神様を表に出され、正しいお祭りをされることが望まれます。 そして天地創造が成された天神七代から、歴代天皇一覧にもある初代の神武天皇までの膨大な神々の歴史が抹殺されてしまっています。当時の事情などから古事記や日本書紀も抹殺、改竄されるということも起きています。 古事記や日本書紀は以上のことから途中が抹殺され、途中から繋げられているので、天之御中主神様や天照大神様を最高神としています。そこに矛盾などが起きていて、神々の歴史が正しく伝わっていません。 皇統第四代の天之御中主神身光天皇の時代に大変動が起きています。 それによって万国と万物がことごとく死し、その時もスメラミコトは避難されておられます。この時の大変動により、太平洋に在ったムー大陸が陥没しその大陸の人類万物もことごとく滅亡したとあります。 この大変動が終わり、世界が落ち着いてきた時に、天之御中主天皇は人類文化のご指導に再び天下られ、世界の再建に東奔西走されたとあります。 日本の古文献に残っている人類の大アガナヒ現象、天地かえらく現象は大きく分類して、少なくても六回起こったとされています。

日本の神道の一部では、天之御中主大神様を天地創造神のように伝えるものもありますが、それはこの天地かえらくの後の再建運動を間違えて伝えているのです。
再建にあたっては天皇の皇子十二人を世界各地に派遣されましたが、これが十二神将の始まりであり、十二支の元です。それからさらに七十一名の皇子を諸外国に派遣しておられます。こうして世界人類、文化の一大復興にあたられ、復興完成の主体者となられたとあります。

豆豆知識;日蓮宗の行者の病気の治し方の一例がある。行者が南無妙法蓮華経を唱えながら、その合間合間に小さな声で、「お前達二人はこの人の歯痛を治すんだよ、治したら稲荷に祀ってやるから一生懸命にしろよ、 お前は何々稲荷、お前は何々稲荷と名を付けてやる」と何回となく命令してやるのである。「この二匹の狐に治させる」のである、行者の病気の治し方の一例である。場合によっては一匹から3−三匹位でやらせるのである。 行者等神様が憑るというが、人間に神様は決して憑らぬ。上等なのは天狗位で、殆ど動物霊である。また病気が楽になるだけで(治るんではない。)狐が憑ると透視が出来る。法華経行者は皆狐を使う。一時的である(治るんではない)。

〇大酒飲むのは狸か天狗の霊」

「酒毒というものはあるものか。」;酒毒はやはりありますよ。これも昔はあんまりなかったんですが、いまはよけいあります。いまは酒に防腐剤を使ってますから、この防腐剤の毒がまた多いんですよ。 酒は一時興奮させるんですが、一番興奮するのは胃の辺りで胃が一番熱をもって血を寄せますから酒毒は一番胃へくるんですよ。すると、胃壁がだんだん柔らかくなって、ブヨブヨになってくるんです。 そこへ固いものを食べると胃壁に亀裂を生じ出血するんで、これが胃潰瘍です。それから酒を飲むと中風になるって言いますが、これはそれほどでもないようです。 胃潰瘍が一番多いですよ。まあ、酒なんてものはある程度にしとかないといけません。また、神向に入るとある程度で止まるんです。 酒飲むのはどうせ狸か天狗です。酒飲んで理屈を言うのは天狗であり、居眠りしたり御機嫌がよくなったりするのは、あれは狸です。

〇泣き上戸、泣き中気は狸の憑依」

「笑い上戸と笑い中気は、狸または狸の憑いた死霊が憑依したのであります。泣き上戸と泣き中気は霊的なもので、死ぬとき悲しんで泣いていた人の霊が、再生して憑依した場合が多いようです。」

〇タヌキは左横腹に憑霊する。「狸霊は左横腹へ憑く。漸次治る。湧くのは霊が移動する時、そんな感じがする訳である。副霊であるから追い出すのは難しい。畏縮さすのみである。

先祖霊に化けて何かを企てる動物霊が多いから注意を要する。動物霊が祖先のことを知っているのは、その憑依の対象となる人間の肉体霊の知っていることを、直ちに知り得るからである。 動物霊が人間の言葉を使うのは不可解にも思えるが、それは例えれば、他人の家に入り込んで其処に有る道具類をそのまま使うのと同じ道理である。動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、 ある程度その人間の持つ言葉を使いこなせる。日本人に感応すれば日本語を、米国人ならば英語を語ることが出来る。

基本的に下級霊や動物霊は人間に感応はするが肉体の内部までは入り込めない。しかし、感応の度が強ければ入ったと同様に見える場合が有る。 例外として人間の魂と動物の魂が入れ替わっている事も有る。こうした場合は肉体に入り込んだと考えて良い。例えばそれが狐なら狐の様相を露呈するから、すぐ判るが悪行を積んだ霊などの場合は、 その時代時代に合わせて化けているので見破る事が中々難しい。

〇霊体と肉体とはピッタリ合致しているので、それで、霊体が脱出するのを死というのであります。 一体病気が起るという事はどういう訳かというと、初め霊体に曇が生じ、それがそのまま肉体に映って、それで病気となる。 例えば、怪我や不摂生(ふせっせい)の為の病気ですが、これも根本へ遡(さかのぼ)ればやはり霊体が先であります。 怪我をしたり、鉄砲に当ったりするのは、肉体が先のように思われますが、実はその前に霊体が轢(ひ)かれたり、鉄砲弾にあたっているのであります。 鉄砲を向けた時、未だ弾の出ない内に、弾の霊が、人間の霊体へあたっているのであります。ですから、その肉体を外れて打っても必ず命中するんであります。 これらも決して不思議ではない。霊界の方で、もう先にそうなるんであります。ところが、こういう事がある。

それは霊体に鉄砲弾が命中しようとしても、その「うたれる人」が、曇のない立派な磨けた人とすると、その人は霊衣が厚いから、その厚い霊衣にはあたらない。 それが霊的法則であります。それで、霊衣の厚いのはなぜかというとその人の心魂が磨けているからで、厚い程、霊光の度が強いのであります。 そうなるには、偉大なる信念を有し、身魂を磨き、善徳を積む事によって得らるるものでありますから、こういう人は、病気に罹(かか)る事は絶対にないので、 勿論天寿を全(まっと)うするのであります。

〇『霊と体の法則』霊に体が従う事は、万物の法則であります。従って、霊を治す事によって体の病気は治るのであります。 たゞしかし、霊の病気が治って、直に体に映る人と、遅く映る人、例えば半日か一日位かゝる人があります。 これは曇の多い少いの関係であります。よく痛い痛いとうなっていたのが、眼の前で治る事がよくある。 それは、霊体から肉体へ映るのが、すこぶる速い人であります。

○霊的良識は神示や神典類(しんてんるい=神または神代のことを記した書物)によって、また体験によって養われる。

〇本来、人間の霊体はその中心に心があり、心の中心に魂があって、三段になっているのである。 そうして魂本来は良心そのものであるが、断えず外界からの影響によって曇らされるのである。 即ち、魂本来は日月玉のごとき光明であるが、その外殻である心が曇れば、魂の光輝は遮断され、魂は眠るのである。 故に、明鏡止水のごとき心境にあれば、魂は晴天の日月のごとく輝くのである。 右のごとく人間が覚醒(かくせい=目を覚ます事)するという事は、睡眠状態であった魂が、豁然(かつぜん)として輝き出す事である。

その手段として今日までは、右に説いたごとく、説話や読書等の道徳的手段があるのみで、 それによってまず魂が覚醒し輝き出すから心の曇が解消し、次で霊体が浄化さるるという順序である。 右によってみるも、魂・心・霊の三者は、常に明暗(めいあん=良し悪しなどがはっきり決まるの状態)が平均しているのである。


○偶然の真理を悟る事が大切である。この世に偶然というものは、ひとつも存在しない。高い所(神界、天界)から来るから人間には偶然や奇跡と見えるのである。 神からの現われであり、その手順が現界の人間には全く分からない為にそう見えるだけである。これが判れば大安心、立命である。 人間の肉体は最底部をなすものであるから、肉体的動きの以前において必ず霊的動きが有る。また、肉体的には小さな行為であつても霊的には大きな意味や働きをしている場合が多い。

○天界で起こった出来事は必ず現界にも起こる。しかし、その時の現界の状況にもある程度左右され、早くなったり逆に遅くなったりする場合がある。また、時によっては順序が違う場合もある 天人や天使の行為が人間にうつるのであるが、逆に人間の自由や能力の如何によっての行為も天界や霊界に反映する時もある。日本や外国では土地が違うように天界へのうつり方も違うのである。

〇霊界は火素を主とする太陽霊であり、空気界は水素を主とする太陰霊であり、物質界は土素を主とする物質原素である。 この関係が認識出来得れば心、肺、胃の器能も判明されるのである。 即ち、心臓は火素を即ち霊気を呼吸しつつあるので、それが鼓動である。 肺臓は水素即ち空気を吸収しつつあるので、それが呼吸である。 胃は土素から成る食物を吸収しつつあるので、それが伸縮運動である。

○人間が現世に生まれるという事は、神の命によるのである。生命の命は命令の命と同一である。誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。 この事を真に把握せざる限り、正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚(くうきょ=内部に何もないこと。また、そのさま)な酔生夢死(すいせいむし=何もせずに、むなしく一生を過ごすこと。生きている意味を自覚することなく、ぼんやりと無自覚に一生を送ること。)的人生におわるおそれがある。 しからば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界、言い変えれば地上天国を建設する事である。 とはいえそれはおそらくその規模において、その構想において、壮麗(そうれい=規模が大きくて美しいこと)雄大なる言語に絶するものがあろう事は想像に難からない。

何となれば無限に進歩しつつある文化は、極まるところがないからである。この意味において現在までの世界歴史は、その基礎的工作に過ぎなかったのである。 そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更(かわ)り死に替わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。 従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要なる一過程に過ぎない事を知るのである。

そうして今はいかなる時かは詳細説いたごとく、夜昼転換期のそれであり、全世界は今まさに新時代に向かって一大飛躍せんとしつつあり、 今人類は野蛮の衣をカナグリ捨て、高度の文化人たる域に達せんとしつつある事である。ここにはじめて戦争も病気も貧乏も終焉を告げるのである。 以上のごとく、神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。 それはいかなる手段によるかというに、霊層界においては人間一人一人の種が存在する。この種を名づけて幽魂という。この幽魂にまず命が下るのである。 しかるに幽魂は人間霊体の中腑にある現魂に向かい霊線を通じて神の命を伝達するのである。

しかしながら一般人間が神の命を直感し得ることは至難であって、ある程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。 それは大多数の人間は、多量の曇りに遮られ感知出来得ないばかりか、その曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。 右の証左としていかなる人間といえども、自己の企図する事が意のごとくならない事や、予想もしない方向に運命が転ずる事があろう。 また人間は常に何物かに支配されいる感や、どうにもならぬ運命の経路を辿(たど)る事があるであろう。 そうして霊層界にある幽魂はそれ自体の階級によって、使命も運命も差別がある。

すなわち上位の階級にある幽魂ほど神命も大きく高級でしかも幸運であり、下位に降る程漸次右と反対で薄幸となり、最下段は最も不幸者となるのである。 何となれば上位は天国に相応し、病なく争いなく物資饒(ゆたか)に歓喜の世界であるに反し、下位に降る程それと反対に、病気、争闘、貧窮に充ちたる苦悩の世界であるからである。 この意味において人間が真の幸福者たらんとするには、まず霊層界における幽魂をして向上せしめなくてはならない。しからばその方法如何というに、それは霊体を浄める一事である。 本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂は重きをもって下降する。 故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。

それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。 すなわち神向きと霊的光力の教修を受ける事である。此れを習得すると、精神的にはまず人生観が一変する。智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得られる。
前途に光明を認め、不安は解消する。楽観的になり、初めて真の安心感を得た。また物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなる。 不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。全く救われた。有難いという感謝の声は日々無数である。

人間の肉体そのままの形体である精霊があり、その中心に心があり、心の中心に魂がある。その魂こそ神から与えられたるもので、これが良心そのものである。 幽魂と人間の現魂とは霊線によって繋がれており、絶えず人間の思想行動は霊幽魂に伝達され、それが神に通じており、また神よりの命令は霊幽魂を経、霊線を通じて人間に伝達さるるのである。

何等か自分に対し見えざる支配者があって、自分を操っているように想われる事を大抵の人は経験するであろう。 すなわちこの支配者なるものが右の幽魂から伝達さるる神の意志である。故に神意に反する場合何程努力するといえども、努力すればする程逆効果になるものであるから、 人間は常に自己の考えが神意に合致するや否やを深く省察(せいさつ=自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること)しなければならない。

しかしながらこの場合私欲邪念があるとすれば、それは神意の伝達を妨害する事になるから、一時は良いように見えても、ついには必ず失敗するものである。 この理によってなんらかの計画を立てる場合、よくよく自己を省(かえり)み、その目的が善であるか、社会人類に役立つべきものなるや否やを深く検討しなければならない。

ここでおもしろい事は、邪念のため神意に添わずために失敗苦境に陥る場合、その苦難によって、邪念の原因である罪滅が滅減する事になるから、そのため魂が磨かれる結果となり、 今度は神意と合致するようになり、成功する事になる。世間よく一度失敗しその後成功する例がよくある事や、特に失敗の度数の多い程大成功者となる例があるが、右の理によるのである。 以上のごとくであるから霊層界のより上段に霊魂の籍をおく事が幸運者たり得る唯一の方法である。

元来霊魂の位置は一定してはいないもので常に昇降している。なぜかというと軽い程上方に昇り、重い程下向するのであって、この軽重の原因はいかなる訳かというと、 人間の行為の善悪によるもので、善事を行ない徳行を重ねれば罪穢が減少するから軽くなり、悪事を行ない罪を重ねれば罪穢が増すから重くなるという訳で、昔から罪の重荷とはよく言ったものである。 故に善悪の心言行そのままが霊線によって神へ直通するのであるから、この理を知ったならどうしても善徳者にならざるを得ないのである。

前述のごとく人間は神の命によって、運命は疎か生死までも決定するのであるから、人間の生命の命の字は命令の命の字である。 故に死とは神よりの命令解除である。それは世の中に害毒を与えたり生存の価値なきためであるから、人間は命令を解除されぬよう神に愛され社会有用なる人間にならなければ、 長寿と幸福は得られる筈がないのである。霊層界の上位へ行く程病貧争のごとき苦はなく、溌剌(はつらつ)たる健康と、饒(ゆた)かであり善美である衣食住を与えられ、歓喜の生活を営まれるから、 そこにいる霊幽魂の幸福は、霊線によって現界の人間に直通し幸福になるのである。その反対に霊層界の下位にある霊幽魂は、霊通によってその人間に反映し、常に地獄的生活に喘ぎつつ一生不幸におわるのである。

世間よく家相方位などに関心を持つ者があるが、霊層界の上位に在る者は、移転や建築等をなす場合、自然 良方位、良家相に移住する事になり、反対に霊層界の下位にある者はいかに努力するといえども、 悪方位悪家相に移住する事になるのである。また結婚の場合、良縁も悪縁も右と同様の理によるのであって、これは霊体一致の原則による以上、この絶対力はいかなる人間といえども抗する事は不可能である。

ここで宿命と運命について一言するが、宿命とは生れながらに決定せるもので、それは霊層界の上中下三段のどれかの一段の圏内に限定され、それ以外に出づる事は不可能であるが、 運命は右の宿命圏内の最上位に行くも最下位に行くも努力次第であるから、宿命の不変であるに対し、運命はある程度の自由を得られるのである。 したがって人間は常に善徳を積み、罪穢を軽減し霊層界のより上位に吾が霊幽魂を住せしむべきで、それによる以外幸福者たり得る道は決してない事を知るべきである。

〇人間はいろんな行(滝行・水行・断食行・その他)をやって見た所で霊細胞一つ浄める事は不可能な事である。こんなことをやると憑依霊が憑くのがおちである。 何故かという体行とは横の働きであり月の働きでもあり何処まで言っても霊の面に到達出来ないからである。やるのであれば霊行をやるべきである。 これを知らずしてやっている人がいるのであるが何んとも情けない事である。これでは人々を導いていけるのか不安を抱くばかりである。 そして絶対に霊細胞やら前世から積んだ罪穢を消すことはできないでしょう。やって見た所で一時の気休めにしかならないと断言できる。 この霊的光力(大元の大元霊光力)以外になす業はないのである。しかし断っておきたいのが神の霊界(経綸)に応じて、どんどん進展ゆきます。

〇人間には仏教で言うところの「因果応報(いんがおうほう)」神の仕組みのほうから言えば「間り合わせの理」、相応の理があります。自分は世のため人のためにしたから善人だ、私は 悪い事などしていないという人でも実は威張れるものでもない。実を言うと罪穢を前世で犯しているものである。だから人間界では哲学的に善とか悪だということを批判すること、 それそのものが、すでに裁きの心になって、神霊界では罪をつくってしまうという関係になってしまっている。そういう霊界の仕組みが、いろいろあるのだがそこの所から成り立っている 神の仕組み、神の戒告現象というのが起こってきているのである。

〇恋愛とは霊愛である。霊同士が好きになるからであるが厄介なのがこの霊に懸かってくる動物霊であるがこの動物霊同士が結婚すると子供が2,3人出来ると必ず喧嘩が絶えなく、 そしてあげくの果てに離婚まで持っていかれるものである。最悪は殺し合いまでさせるものである。ですからそうならないために神向きを最低1年位は霊的光力を受けさえすれば このようなことは避けられるものである。動物は霊的光力をきらうからである。また動物霊が懸かっていると霊的光力をきらうためにその人から離れていくものである。

〇守護霊と背後霊の役割について;テレビなんかでなんでも面白おかしく取り出されたりしていますが、本当は最も感謝していかなければならないのである。まず守護霊は自分の 想念(相応)と同じ霊が一人が付くようになっているが、しかし自分の想念が変わる度に入れ替えが起こって守護するものである。(成長の未熟な部分の埋め合わせをすることになります。) 強い弱いがあるがそれもこれも自分が何かのきっかけで、あぁ何か分からないが守護されているなぁと思った瞬間に霊線が先祖と繋(つな)がり感謝すればするほど守護されているのが自分自身も分かるようになってくるものである。 次に背後霊の役割については数名(複数)がその人の後ろに控えていらっしゃるのですが、守護霊と背後霊も人間に憑くようなことはしません。なぜなら霊界の掟というものがあるからなのです。

何か事が起これば瞬時に守護霊(一人だけです)が指示し状況にもっともふさわしい専属的な背後霊が当ることになります。その中で今の自分にふさわしい指導霊と呼ばれる霊が担当します.これは全て先祖が自分に最も相応(ふさわ)しい方達が付いていらっしゃっるのです。 例えば何かの事業やろうとした時に先ず動くのが守護霊が察知し背後霊に申し伝ええるのであるがそれにより他の霊に呼びかけたりして応援を頼むのである。そして指導霊が受け持つ。持ちつ持たれつの世界が霊界 なのです。其れをいいことに自分の力だと思って慢心(神は一番嫌うものである)してまうと段々に上手くいかなくなってしまうものである。まさに霊魂のなせる業である。

ですから霊界が先で現界に移ってくるのである。人生で霊的成長をなすためには、苦しみの体験を通して今まで積んで来た業(先祖から今の自分まで)を清算しなければなりません。そうした場合は、いかに愛情があっても直接、 手出しをすることは許されません。守護霊は、苦しむ本人よりも辛い思いを我慢してその人の成長を見守るのです。

守護霊;人を守る(護霊的役割)というよりも、生を受けた人の霊的目的を達成するための霊で現世とは離れた所(霊界)にいるために直接現世に干渉することが難しいとされています。 本人が善い行いや善い想念によって霊層が大きく向上しますと、それまでの守護霊では守護しきれなくなって、もっと霊層が高い霊と交替します。 指導霊(より現世の近くで活動できる霊)は、その人の得意分野での指導的なサポートをします。 ... 子供の頃は歌がうまくて絶賛されていても、その人の努力がなかった り生活態度が堕落したものなら、 せっかくの高級な指導霊がついても 波長の変動によって、指導霊は交代する場合がありす。 守護霊は少し霊層が高いだけなので、本人の運命にかかわるような大きな事柄については判断ができにくいため、有効に守護できません。 そこで、数名について一人の指導霊がいます。本人が小学生とすると、指導霊は担任の先生のような存在です。指導霊は本人が霊層を向上し幸せになれるように指導します。 指導霊はたいてい中有界の上部から温暖遊化界(極楽界と中有界との間)の下部くらいの霊層の霊です。守護霊も背後霊も、人が肉体をもって現界で生きるときには付き添っていますが、死んで幽界にいるときには解任されて不在です。 守護霊は高次元の霊視で視られるとも言われる為、一般の霊能者には本物の守護霊を霊視する事はほとんどないとされ、この説に則るならスピリチュアリズム(人間等の死後存続⇒霊体・幽体・肉体の構造知識、霊界知識)の知識のない霊能者が指導霊や補助霊、 若しくは憑依霊を守護霊と視誤るケースが少なくないと考えられる。 守護霊を補佐するような形で背後霊団がいます。霊団といっても、たいてい2体か3体です。背後霊もたいていは本人の先祖で、その得意な分野について守護霊を支援していると考えられます。 これから分かることは、「人が悪い事をしても、誰も見ていなければ大丈夫だ」などということはあり得ないということです。

悪いことをすれば、その報いを受けて辛い想いをして反省するようにする[因果律] がしっかり運用されるように、守護霊、指導霊たちがしっかり見ているのです。これが限界に おける幸福・不幸現象を引き起こす原因結果なのです。人は現界にいても、幽界にいても日々悟っていかなければならないからです。 また絶対のご存在がお造りになり、運営なさっているきめ細かい仕組みに驚かされますし、感謝あるのみです。


豆々知識:幽界は「過去の悪い行為を反省し、悪いカルマを解消するためにある」と言っても言いすぎではありません。したがって、[因果律]の知識があって幽界に行くのと、なしに行くのでは、悟る速さに格段の違いがあることは当然です。 「知識ディバイド」と言ってもいいでしょう。 このようにして、いくつかのカルマを解消して、時が来れば現界に再生します。もちろん、カルマのすべてが解消しているわけではありません。 自分に縁があるところ、両親のもとに再生する場合もあれば、それまで縁がなかったところ、両親のもとに再生する場合もあります。 再生までの時間は長い場合も短い場合もありますが、平均すると大体300年くらいです。しかし、極楽界の上半分に上がった人は、普通は現界に再生することはありません。 これが、インド人が理想とする解脱(げだつ。輪廻転生のサイクルから離脱すること)です。現界で行うべき修行が完了したというわけです。さらには、四次元界の最上 神界への格上げ(神上がり)ということもあります。

まとめ;人間は末端の神々が個々の問題に当たられる。そしてこの神々が皆さんの守護霊を指導し、守るのである。その守護霊(しゅごれい) は、皆さん一人ずつについて守護するという仕組みで指導されいてるのである。結局は神様にはツーツーになっているのです。その世界がわからない者は、めくらということになる。 これこそ本当のめくらであって、とても正法など人生を歩むことはできない。ですから、年中、何かアガナヒ現象が起き、警告現象が起きるのである。

〇肉体をまとった地上人は霊的感性を失っているため、物欲や肉欲の誘惑に簡単に負け“低級霊”を自ら呼び寄せるようなことをしてしまいます。時には心が、完全に“邪悪霊”に支配されてしまうこともあります。 そうしたときには守護霊は、もはや援助の手を差し伸べることはできなくなります。仕方なくいったん手を引き、低級霊のなすがままにさせ、地上人に苦しみの時がくるのを待つのです。 苦しみの中で反省の念が湧き出るのを、じっと待ち続けるのです。その人の内に反省心が呼び戻され、低級霊との縁が切れて向上心が芽生(本人が改心して想念が変わる)えるようになると、 守護霊は再び援助を開始します。どのような時でも守護霊は、決して地上人を見捨てることはありません。よく守護霊は誰かと関心を持つ人がいますが、守護霊の身元を知る必要は全くありません。しかし一般的には 類魂(るいこん)とされております。
〇進化の道というのは永遠に続きます。また4〜5回の地上体験だけでは、地上世界のすべてを知ることは不可能です。 そこで今度は、自分のカルマのパターンを分霊に託して、霊的な種のようなものを地上の母胎に宿らせることになります。(地上界での男女間の「まぐあい」の想念にも影響がありますが・・・。) 要するに、自分が魂の親となって、魂の子を造るのだとでも言えば、分かり易いでしょうか? 魂の子供を地上に送り出して、自分はその分霊の守護霊として、新たな体験をしていくことになるのです。もちろん、この守護霊にも、さらに霊の親がいて、その親にもまた親がいて....と言うぐあいに、 霊的な大家族が構成されており、それを「類魂」(るいこん=グループ・ソウル)というのです。霊の子には、霊的な親の因果の型が、受け継がれています。勿論薬毒もそうです。 類魂には中心霊がいて、類魂全体を統括しています。大きな類魂になると、中心霊という存在は、分霊にとっては雲の上の存在でしょう。

同じ類魂に属する霊の経験は、他の霊も共有することが出来ます。Aという霊の体験を、B霊も自分自身の体験として『知る』ことができるわけです。 馬鹿馬鹿しいと思うかも知れないが、われわれが前生で犯した罪の償いのために地上に再生するというのは、ある意味では本当なのである。 前生は自分の一生であってまた自分の一生ではない。いいかえれば、自分と同じ類魂に属するある魂が自分がこの世に生を受ける以前に前生生活を送り、自分の地上生活のための枠組みを造ったのである。 要するに中心的存在は神様であり、その神様が物質を発展させる為に御自分が神である事を置き忘れてしまったので御座います。ですからいろんな事をさせ復活させようとしているのです。
これはまさしく創造的再生である。

類魂は一にして多である。一つの霊が全体に生命を吹き込んで多数の魂を一つにまとめている。脳髄に中枢があるように、心霊的生命にあっては多くの魂が一つの霊によって結びつけられ、その霊によって養われているのである。 地上生活にあった時も類魂の一分枝に属している。その場合本霊は目に見えない根のようなものである。最上位が幹の先端でもある。又魂的な次元の人の多くは再び地上に再生しようとは思わないものである。

憶えてもいない前世の為に「不運に巻き込まれ」るなんてまっぴらだと思うかも知れませんが、そのような、前世からのカルマが呼び寄せた不運が、魂の発達に役立つものなのです。 ですから高級霊界でも、人間の進化に役立つ限りにおいて、そのような不幸や悲しみも、ワザと見過ごす事もあるのだそうです。
類魂の本霊は、生命と心の光によってそれの所属する植物、樹木、花、昆虫、魚、獣、人間など、進化の様々な状態にある生物を養っている。 そしてまた死後の世界の様々な意識の段階にある魂にも命を注ぎ込んでいる。同時にまた、他の天体の生物さえ養っているのである。 というのも本霊はあらゆる形態における経験を収穫物として集める必要があるからである。

総まとめ;(「前世・現世・来世」)=今の自分(現世)は、来世の結果であり、前世の結果は今の自分(現世)である。これをどう考えるかは御自分次第である。バトン(良い状態で未来の自分)を渡せるか否か?。

一休み;普通の人は、死ぬと幽界に行きます。肉体を離れても、49日間は現界を巡って名残を惜しむことができますが、それを過ぎると、幽界に行きます。霊界の掟です。 幽界は沢山の層に分かれていて、死んだ人は、それまでに蓄積され未解消のカルマに相応した層に行きます。

〇『九分九厘迄まいりし時の一厘のドンデン返しの救いの業持ち合わせあるよ』九部九厘まで参りし時の一厘の救いのドンデン返しの業とはどのようなことを言っているのでしょう。 神様はこの日のことはまだ人類に示してはおられませんし、秘め事になっています。「汚れなき人魂を神は活かさん」とは、魂が浄化されて、神の光の放射体となっている種人が、 世の中に渦巻いている邪神邪霊を退け、いわゆる人間社会から追い出してしまう。 (神様の光は邪神や邪霊、邪な魂にとっては恐ろしく、耐え難くひびくものであり、これ以外に邪霊を退ける方法がない。 又神様が直接種人の霊体即肉体を使って邪な魂を裁いてゆかれるのです)。

人類が心を改めることなく進んでゆくと、人類界の九分九厘は邪神界に支配されるようになってしまう。政治、経済、メディア、治安、教育、宗教、学問等、 そのすべての権威が善を装う悪者達に奪われ、支配されるようになってしまう。これによって世の中は闇のようになってしまうが、 神様は救いの大ドンデン返しの大業(開く準備が出来た者にしか訪れない)を用意されておられます。ただし、それは人類の魂が清く、改心の兆しが見られる場合においてのみ働きかけてやれるもので、 埋もれている清き人魂(闇の勢力に押さえ込まれている人々)も、その本性を埋もれさせている、曇らせたままではその大業も示現させることはできないのだと言われています。

大中小でいえば中の上で話せば、一厘で手の平を返すというのは・・・一厘で手の平を返すことになる。今までのあらゆる間違った文化や教えやらです。所謂真如の教えなんかはそうです。 それをはっきりさせるために・・・ひっくり返っちゃう。ただ、理屈だけじゃ駄目だから病気は薬をなくして治して健康にしてしまう。 それから、食糧でも・・・作物でも、肥料を使わないで増産する。農業をひっくり返しちゃう。それから、犯罪は魂さえ神様と繋がれば犯罪はなくなる。みんな一厘でひっくり返すという意味になるんです。

夜の救いが昼の救いになる。つまり、暗(くらやみ)が昼間になるというわけです。神様のほうは、そういう風に決まっているんであります・・・。 一時病気を薬で止めているとその後が怖い。止まらなかった悪質な病気がうんと増えだすということになる。

これもすべて人間の浄化を止めよう止めようと努めているせいである。やれ薬だ注射だとかいって医者は人々にけしかけている。なにしろ今までのやり方では、二致も三致も行かなくなるんです。 で霊的光力というもの、これはなるほど病気もよく治ります。病気を治すだけのものじゃない、つまり魂を治す、魂にある悪をです。これが一厘でひっくり返すという意味にもなるんです。

★キリスト教にある最後の審判ですが、お釈迦様の言う仏滅の世と、・・・これはいろいろな教祖、開祖が言われてますけれども、この二大聖者のことだけに留めておきます。 それは、最後の審判というのはどういうことかと言うと、ただ最後の審判だけではなにか神様がこう・・・地獄でなくこの現世に閻魔様が出てきて裁くんじゃないかというように思うのですが、そうじゃない。 これはちょっと、未信者の人には、分かりにくいんですけど、霊界というものがあるんですね、霊界・・・。

このわれわれが物質をさわったり、見えたりするのはこれは物質界ですね、現界・・・それからその奥に霊界がある。その中間に空気界がある。空気界までは分かっているけれど、霊界は分からない。 ちょうどさっきの野蛮時代から文化時代、文明時代とこういうような順序です。この三段階のうちのその物質界、それから空気界、霊界と、この三段階になってます。 ところが世界の循環率・・・循環率によって明暗ですね、暗くなったり明るくなったり、これが一昼夜の二四時間にそれがあるのではなくて一年にも明暗がある。

一年の明暗というものは、仮に冬は暗いということになると夏は明るいという、こうなるんですね。太陽の光線から言っても夏が一番強烈なのです。冬は一番薄いんだからして、これも明暗になっています。 これがまた、十年にも明暗があり、百年にも明暗がある。歴史上平和時代もあるし、また暗黒時代もあるのは、やはりそういった一つのリズムなんです。それから今度は千年にも万年にもある。 それでいままではこの暗の時代であった。

暗い時代だった。今度明るい時代になる。明の時代ですね。そこで、さっき文明時代、文明の明の字を書く、明るいという字、化ではバケですから駄目。 そうすると明るい時代になると、そうすると、いままでの暗い時代のものが整理される。そして私のほうで言うと夜の世界と昼の世界、夜の文化と昼の文化と・・・こう言っております・・・そうすると夜の文化でいらないものがたくさんできて来る。 昼間になると電灯やいろんなそういうものがいらなくなる。

というように、夜の時代のものがここでいらなくなることが滅びるということです。審判ということはその夜昼を分けるのです。 いらないものは、まずしまうか、あるいは毀してしまう、これから明るいものをだんだん造っていくと、こういう具合です。 そうすると、いまの、霊界が明るくなるとどういうことになるかと言うと、人間にですね、人間というものはやはり体と霊とその間に空気に相応すべき水分というものがある。

水蒸気ですね。これが人間の体に非常にある。そういう三段階になっているうちの人間の霊ですね。魂と言ってもいい、それが霊界に属している。 霊界が明るくなると、それの明るさに相応しない魂の人は、どうしてもその相応するように、その曇りを取られるのです。 取られると言って、なにか故意に取るわけではなくて、自然に浄化すべき、汚いものを、きれいに替えなければならない。

そうすると魂の汚い人は、霊界が明るくなるにつれて掃除をされる、それが、ま、苦しみです。で、病気の原理もそういうことに説いてあります。それでやると病気というのはよく分かるのです。 いままでは霊ということを知らなかった。無視していた。ようするに魂しいを知らなかったのです。魂というものの働きというものは、大きなものです。 たいへんなものです。例えば、昨日、一年ぶりくらいで来た人がいるとする。ところが一年ぶりくらいで、一昨日その人のことをひょっと頭に浮かんで、ああいまどうしているのだろうと思ったのが、 昨日来たので「ああ霊が先に来てるんだな」とこう思うのである。

と言うのはこっちで・・・、AさんがBという人が、一生懸命に会いたい思っていると、その想念というものは向こうに行くのです。 行って、その人の体に入り、頭に留まり・・・すると、ふっと浮かぶんです。逢おうと言って、来るようなものです。 要するに霊線と言って、そういう場合に交通するんです。

これは、この霊線の働きなどということを恋愛問題になんか解釈すると非常におもしろいんです。けれどいま恋愛問題の目的じゃないですから・・・。 これは神向きに入ったらそういうことも分かってくる。そうすると、その恋愛というものは非常に良いものなんですけれども、あれはその、ただ、悲劇に終わる。 また、どういうものだということを知るには、霊的のこと、霊線のことを知ると一番よく分かる。

これは馬鹿にできないのです。いろんな世の中の、問題やなにかに、問題の上に女があるなんて言う・・・ いやな事件の裏には必ず女ありと言いますけど、・・・まあ、あれはつまり恋愛ですね。 そういうことが分かると、大いにそういう悲劇や社会悪なんかがなくなるんだと・・・。ま、それはそれだけにしておいて。 いま言ったような具合に、霊です。

霊の曇りを明るさに相応するようになるときに、病気くらいですめばいいけれども、そうでなくてもっと強くすると、もう病気なんかに堪えられないで、その人は死んでしまう。 病気というものも、少しずつ来るから病気で、いいのですが。あれで一遍に来たら倒れてしまう。最後の審判というのはそれなんです。 そこでだんだんだんだんこの霊界が明るくなるにつれて、そして一遍にやられることになると、そのために命を失うことになる。

それが大量になる。大量になってはかわいそうだからというので、そのことを知らせる、と。知らせて助けなければならないというのが、神様の御意志である。 そうしておいて、つまり釈迦とか、キリストとかいう人が、「天国は近づけり」と、いまにいい世の中が来るという予言をされた・・・予言をされたそれをですね、 実はキリストや釈迦は預言者で、実行者が入なかった。だが今は皆が出来るように霊的光力を下された。それを実行する、と。

本当にその世界をして、病貧争絶無の地上天国を造ると、・・・造れということを神様から命ぜられたのです。その代わり私が作るのではないから、決して骨が折れることはない。 万事神様がお膳立てしますから。ただ、形に表われたものだけをやればいいのです。これは、非常な楽であり、責任は重いんです。

まあ、おそらく人類肇(はじ)まって以来でしょう。そうするとそれによって、偉い人たちの予言が合ってくるんです。 ですから、もしキリストや釈迦の言った予言が、実際実現性がないとしたら、予言ではなくて虚言だと言うことになるわけです。 いわゆる虚言とは嘘つきです。

あんなに偉い人が嘘をつくというはずがないんだから、いずれはだれかが、実現されるものが出なければならんというような意味で、 それで、その担当者として選ばれたのが茂吉大先生だったということです。

ノアの洪水のことをちょっとSさんが言われましたが、あれもまあよく似ているのです。ノアの兄弟というのがありますね、兄弟がやはり神憑りになって神様から知らされた。 「もうじき大洪水がある、人類の大半はそれに捲き込まれてしまう、だから一人でも多く助けろ」と言うのでノアの兄弟は非常に怒鳴(どな)った。 知らせたところがなかなか信ずる人がなかった。

それで信じた人はたった六人なのです。ですからノアの兄弟二人と合わせて八人です。八人だけは信じたわけです。そうしてどうすればよいかと言うと、方舟を作れとこう言うのです。 ノアの方舟というのは、ちょうど銀杏の実の形をしたものです。というのはこういうふうになるのです。だから洪水のときもこの上に、猛獣だとか、大蛇とか上ってくる。 その危険を救うために考えた、方舟を作ってそして待っていたところが、あれは、四十日雨が降ったという説と、百日雨が降ったという説がありますが、これはどっちみち幾日も続いて降ったんです。・・・

そしてだんだんだんだんその水嵩(かさ)が増して、そして洪水になった。そうすると方舟に乗ったものだけが助かったけれど、あと、ふつうの舟に乗った人や、山の上に上った人は、 みんな、猛獣やうわばみや、そういうものが上ってきて食い殺してしまった。それで、助かったのは、八人だけが助かったのです。 その子孫が今日の白人だということになっていますが、これはだいたい間違っていないと思う。

なんとなれば、日本でも伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)尊ですね。(神の世界ですからこの様な事をして生んだというか創られたのでしょう。) この二柱の神様は、天の浮橋の上で、そうして剣を、この泡みたいなのをかきまわして・・・潮こーろこーろとかきまわすと、 そこへ、島生み国生みと言って島や国が生まれたと、こういうことになっています。

あれは洪水に違いない。神道のほうで言うと、潮干(しおひ)の業と潮満(しおみつ)の業と両方あるということになっています。 潮干の業というのは、水を干やすわけです。ですから伊弉冉尊は潮干の業をなす。 それで・・・為(し)たために島生み国生みと言うのは、あれは洪水の水を捨てたんです。というか降らしたという方が正しい。

いままで水底にあったなにが現われたと・・・こういうことだと。それはノアの洪水のときだと思うんです。 そういうような具合で、今度は、キリストの・・・これは黙示録やいろいろありますが、ヨハネは水の洗礼をすると、キリストは火の洗礼をするということ。 ヨハネの水の洗礼はもうノアの洪水ですんだわけです。今度は火の洗礼となると、これはやはりたいへんな、大きなことなんです。前記で記している。だいたいこの様な事です。

で 一厘で手の平を返すというのは・・・今まで良いとされてきたことが、一厘で手の平を返すことになる。今までのあらゆる間違った文化です。・・・ それをはっきりさせるために・・・ひっくり返っちゃう。これが一厘の仕組みです。

◆現在の世界は唯心思想と唯物思想とが離れ離れになっている事であって、これが文明の一大欠陥である。これをたとえてみればよく分る。科学は肉体派であり、宗教は精神派であるから、 現在はバラバラになっている訳で、これでは平和幸福など得られる訳はない。例えば人間にしてもそうで、精神はこうすればいいと思っても、肉体が言う事をきかなければ必ず間違った行いをする、

といって肉体の方で精神を自由にする事は無論出来ない、というジレンマに陥ると同様、すべてが巧くゆくはずがない。どうしても霊肉一致でなくては幸福は得られないのである。 これと同様世界も霊肉バラバラになっているから、今日のごとき混迷状態であり、人類は苦しみの坩堝(るつぼ)に蠢いているのである。

という訳は全く科学に捉われ、精神面を無視していたからに外ならないのである。このバラバラである霊体を一致させた文明こそ真の文明である。 とは言うもののこれが大問題である。というのはいかにしてこの科学過信思想を目醒めさせるかという事であるが、その方法こそ科学で不可能である事を、可能なる事実を示す事である。

すなわち科学以上の超科学であって、それには偉大なる力を要する。もちろん既成宗教の教祖、聖者、偉人くらいの力では到底及ばないどころか、空前の絶対力すなわち神力である。

さていかなの文明か 唯心の科学が霊主体従の法則に従い歩調を共に前進する事こそ平和幸福の文明世界を生むべき根本真理である。換言すれば宗教と科学が一致する時代でもある。 それには何よりも霊の実在を認識させる事であるから、その手段としての奇蹟であり、霊的光力である。もう一つ書かせていただくなら神中心の世界になるということなのです。何べんも言いますが神縄文時代になるという事です。 ★小生だけの考えですが一厘の救いというものもある。(大天変地異とか。ただこれは外的一厘に過ぎない。) 多分オーラとかオーブとか云われている事(神の光⇒大玄霊光力)で救われるのでは無かろうか?これも神の意識が無い人では難しいし意乗りもない人にはこれも 難しいのだと思われます。要するに霊線を濃くしていかなければこれも神としては出来ないものではなかろうか。 小生は二度だけその一つとしては車と自転車の事故でこの神の光(オーラ)で子供さんが包まれて怪我もなく見せられた事がありました。

これも経験しているから分かるのかもしれないです。又もう一点の神一厘の仕組みとは、あらゆる悪神も現界の悪の心も、その根本の錯誤が組み直される霊的秘儀のことと言えるのではなかろうか。 そして神が奥の手として最後に発動する経綸とは、神と霊線でつながれているすべての人間に宇宙的な霊力を注ぎ込んで、霊動を起こし、誰もが嫌が上にも自己を超えた神秘力に直面し、 この世界の真実相に参入することではなかろうか。なぜならば神が創造し創られた世界であり人間の霊型を創ったからである。

そもそも何故顕意識(表面意識)と潜在意識(無意識)を創られたのか。顕在意識は十パーセントで潜在意識は九十パーセント であるとされている。そして我々は、この顕在意識しか使われていないということである。 しかし小生は此の潜在意識に入る方法が解かったのである。入り方は自己の反省から心を軸とした 瞑想である。また高周波を出す磐笛(石笛)と土笛(小生の笛)である。 この神の領域に入ると何でも出来てしまう事が最近になって解かって来ました。

例えば一瞬で病気の人を癒すことが出来るのですね。要するにエネルギーというものであります。 エネルギーというものは、強いエネルギーは弱いエネルギーを飲み込んでしまうからであります。 だからたとえこの世では考えられない奇怪な病でも癒されてしまうのです。 そもそも病気は其の方の何らかの形でエネルギーが阻害されているからであります。 強いエネルギーを体得するには 少なからず心の軸をしっかりとしたものにしなければなりません。 そうすることで未知の世界が流れ込んできます。

とここからは「想像の世界ですが」人間は半霊半物質的なことがほぼ瞬間的におきてしまうことも考えられる。潜在意識を物にしてからですね。 更には深層意識(超意識)神との一体感を 感じる意識レベルです。自己を認識し、真理を深く知っていくことにより、到達する事が出来る意識です。 物理界と心理界のマスターとなりますね。

潜在意識は、活用する前に、『浄化する(縄文土笛・縄文磐笛・縄文土鈴・縄文太鼓)必要があります。』浄化しなければ活用はできないのです。 潜在意識は、善悪混交の意識領域です。よいことも悪いこともごちゃ混ぜになっています。 その潜在意識を、むやみやたらに表に引っ張り出してきたら、よいことも起こるでしょうが、悪いことも同じだけ起こり得るのです。 潜在意識は、浄化すべきものなのです。

また潜在意識にインプットしたことが、この世の現象として現われるというのは本当です。 だから、潜在意識の活用を説く人たちが、潜在意識に願望実現のイメージを埋め込むように指導しているのでありますね。 この潜在意識の力が、表面意識(顕在意識)よりもはるかに大きいということもよく知られています。 ところが、その潜在意識のさらに奥に、潜在意識よりもさらに大きな力を振るう深層意識とも呼ぶべき意識領域があることを知らねばなりません。

隠れた意識層を、潜在意識という言葉でひっくるめてしまうのではなく、潜在意識とははっきりと区別される深層意識があると知ることはとても大事なことなのです。 「知ることは力」であるのですね。 人間の意乗りに応じて、潜在意識を浄化していく力を持っているのが、深層意識であります。 「意乗り」とは、潜在意識に願望を蓄えることではありません。 「意乗り」とは、深層意識の光明をこの世にもたらすことです。

潜在意識のさらに奥の世界、深層意識(神意識)の世界です。この深層意識こそ、人間の本心、悟りの意識、神としての霊止(ヒト)意識であり、宇宙意識と称えるべき意識であります。 また呼び起こすべきは、深層意識なのです。 潜在意識わゆり動かして、深層意識の光明で浄化してしまえばよろしいのであります。 さて此処で気が付かれたかと思いますが実はこの世の全ての現象は、この個人個人の知らない間に深層意識の働きでもあるわけですね。 発明とか・奇跡とか・天災とか・・・。

さて「意乗り」というと宗教行事のように思う人が多いことでしょう。 意乗りとは、潜在意識を浄化して、深層意識の光明をこの世にもたらすためのものです。それが本来の宗教の役目でありますね。

エネルギーについて追加しますが、貧困なエネルギーは、非常に強力で心が弱い人は飲み込まれて行きますね。 目先のお金や、性欲に目がくらんでしまうパターンも、このエネルギーに飲み込まれる事が多いわけであります。 から、向上心のエネルギーは、より良い状態を生み出そう(潜在意識から引き出す)とする心理状態でもある訳であります。 例えば、『今よりもっと高い意識を目指そうとか、もっと世の為に良い物を創ろうとか、 高い意識を持つことが向上する訳でありますね。 それに伴って、意欲的になり、行動が自然に出て来るものであります。


実例:〇ロクロ首実例 (半人半蛇)より
二十四歳の女性が嫁に行き、一週間程にて離縁となりしため親がその理由をただせしところ、中々口をききませんでしたが「実は夫婦で寝ると夜中に首が長く伸び天井を舐める」との事、 親は喫驚して「家にいる時はそのような事はなかった」ということです。 所が天井にはナメクジの這ったような跡があり、夫は嫁の事とて誰にも言えなかったのでしたが、恐る恐る申し出ました(伸びた時は首に縦縞があるそうです)と言う事であります。 ロクロ首である。無論蛇・・・蟒(うわばみ)で、本当に人間になり切っていない。人間が蛇に堕ちまた人間に生れてくる。半ば意識があるべきだが、意識がないのはよほど蛇そのものになっている。美人である。治るのは難しかろう。半人半蛇である。 ココとは関係はないが人間は半霊半物質(肉体)になり得る事がわかるのである。神の発動気が成されれば。人間霊化して飛行する。霊の物質化は沢山ある。物質の霊化もある。いずれは人類も霊化する事も出来るようになる。

こういうことも言われております。火の洗礼の大峠が行なわれた時に空中軽挙は聖霊降下が行われ、種人となる人類に憑き、空中へ持ち上げると言われています。 肉体ごとなのか、魂霊だけなのかは説明されていません。人類が核戦争を起こすことをきっかけに地球は火の海、泥の海となると言われています。 このことから種人を空中軽挙させ、地上から離さすというものです・・・。

〇『時代は神経綸』(神様の深遠広大な御計画のこと)と共に変化し、動いているのだから、宗教や人間の教え、考え方もその時代時代において変化してゆくものでなければなりません。 今までの時代は、神様助けてください、救って下さいと祈ってもそれが許される時代でした。しかし現在は真神(正神、火の霊統)が出現している時代なので、 人を助けようとする心にて神様に祈り、かつどのような苦しい状況下にあっても世を人を恨んだり憎んだりするのではなく、一切神様の鍛え、魂磨きとして受け取ってゆく者が神様から救われてゆく時代に切り替わっています。 正神は犠牲を嫌うのでそのような真人が救われてゆく、華を咲かせてゆく時代に切り替えて行くのだと言われています。

〇万物の精神(心)は神が等しく与えられているが、その受ける者によって千差万化で尽きることが無い。精神正しければ即ち正神に感合し、邪なれば即ち邪神に感合する。

〇天の数歌とは天宇受売命(あまのうずめのみこと)が帰神で唱えられた、古き神代より伝わりもの、天地万物の霊力発動して、万物活動致す様に天の数歌で示してあるものである。祭事では物事の祈願に 於いて、これを用うるのである。祈願致す目的におおじて神に通ずるものである。最も御神徳の受ける言霊である。小生も毎日させて頂いていル。一二三四五六七八九十百千万 (ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり もも ち よろづ)天地開くる時

〇病気鎮魂(ちんこん)法。として「ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここの、たり、ふるべゆらゆら」の祝福の言霊を用い、「もも、ち、よろず」を唱える。 この天の数歌は、実用面においては、病気平癒等に用いるが、各音に漢字当てられているように、宇宙創世の順序を示している。すなわち各音に当てはめられた漢字の表す状態 を経て、宇宙は誕生したということである。宇宙の中で生まれた我々は、同時に自己が小宇宙であり、宇宙と人間は形の詳細こそ違え、本質は相似なのだということである。 この考え方に基づけば、宇宙の真理に通じる呪文があるのならば、それをその内に存在する何ものに適用しようとも、それなりの効力を発揮する事は十分にうなずける筈である。

人は一度霊験に魅入りられれば、人より優れたものを追い続けること、吟味し続ける事を忘れてしまう結果になり兼ねない。真に強力な、これ以上のものがないという霊力を 経験しなければ盲信的に霊術へ憧れることは危険である。
数多い、霊術の中で、どれがもっとも有効かということと、どれがもっとも安全かということは、結局同義であるといえるであろう。

天の数歌とは天地ができたときの順序で、だいたい七が完成で、七は「ナリ」「ナル」です。殖えて発展することが八です。一は独一神であり、それが陰陽に別れる(二)、そこへ子が生まれ(三)、そして四方へ発展し(四)、火が燃え(五)、 水ができ(六)、それで完成(七)です。キリスト教は七でできたから日曜を安息としています。九は「つくし」と言って極点であり、いまは九の世の中です。 十で結び、十一で始まる。天の数歌は天地創造の順序を数で表わしたもので、これを唱えれば霊界で順序・・・活動力となる。つまり神の力徳が順序の言霊で力を発揮するのです。 気持ちよくゆっくり上げたらよい。」(天数歌・・・一二三四五六七八九十百千万(ひとふたみよいつむゆななやここのたりやももちよろず)
「特に重病の場合とか精神病、癲癇などには唱えるとよい。」
ひふみ祝詞【祈言(のりごと)】;「ひふみ よいむなや こともちろらね  しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか  うおえ にさりへて のますあせゑほれけん」

〇昔から格言にも、内剛外柔(ないごうがいじゅう)という表現がある。その反対が外剛内柔である。われわれの修行で大切なの一つは「心の下座」というが心の下座とは外剛内柔 の方である。己の内に持っているものが、豊かで強いもの、偽りの形の下座ではない。心から下座する人です。心の世界が富んでいるから、威張ろうとしないし、下座することを 情けないとも感じない。弱そうに見えても実は剛である。教育の場においても、小学校や幼稚園の時は子供は何も知らないから威張り、やんちゃで物を壊そうが何をしようが、 それが育っていく運動であるから許される。しかし中学を卒業し高校、大学に入学して、いろんな事を知るに応じて、まだ知らない事がどれだけあるか、段々分からないという

ことを悟るようになる。

それが大学時代の意味であり、結局ますます謙虚(けんきょ)になってこなければ嘘であり哀れである。社会に出て人に煽(おだ)てられて、少々のお金が得られるようになのと 傲慢(ごうまん)になる人を見かけるが真に哀れである。(能ある鷹は爪を隠すとはよく言ったものですね。)同じように一つのことを見ても、 あらゆる角度から見られるだけの内容が豊富になった人は将来の文明の指導者になれる資格があることになる。

人は誰であっても成功すれば自惚れるものであるし、自分の知恵におごって高ぶることもあります。しかし、霊の障りを受けてしまうのも殆どが人間の我と慢心が原因であります。 又すべてを自分の力であると自惚れていたり、あるいは自分は能力があるからだと錯覚してしまうと、突如として、この勘、即ち神霊との交流がストップしてしまう、 断ち切られてしまうようになります。事業で大失敗したり、あるいはリストラやイジメ等によって人間関係が上手くいかなくなる。 私たちが不幸不幸と言って悩んだり苦しんでいる大部分の原因もこの勘を失っているために起きてくるのです。


〇人間的知識や学問も必要であろうがしかし、何より肝要なのはまず神霊界の実在を知り、神界の経綸を知ることなのである。神はどのようなことを計画しておいでか、その神(真) 意をよく把握することである。これなくして、人間界の動きなど読み取ることは不可能なことと断言できる。そのことを良く知り自分の立場を動かして行く事である。

教とは人の覚りの及ばざる神の言葉の御告げなりけり!!

言霊豆知識-28-2

〇霊が浮かび出した場合の対応策・・・これは霊界の浄化が劇(はげ)しくなってきたので、霊がどうしても落ちつけないもんだから、早く救ってもらおうとして出てくるんです。 だから、これからはこんなのが殖えてきます。こういうのは前頭部を一番よくやってあげるんです。 そしてあまり出る場合には、「御鎮り御鎮り」って言って手で抑える格好をすると、その言葉の働きで割合に効果のあるもんです。 当人が半意識で、霊が出そうでなかなか出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「御鎮り」とかやると、元へ戻るのがあります。 それから合掌した手を上下に振るのは狐です。鳥の霊だと、最初の合掌から拍手を打つ姿勢になり、それを続けるとともにしだいに大きく動かし、 ついに鳥が飛ぶごとく両腕を左右に伸ばして上下に振る格好をお示しくださる。

そして飛び上がります。一尺でも三尺でも平気で飛び上がります。ひどいのになると天井を突き抜いたのがありましたが・・・。 霊が浮いて出たときに口をきかせるのはよくないんです。口をきかせるのは邪道なんです。 なぜかって言えば、あれは醜態ですから。醜態を見せて恥をかくようなことはいけないことなんです、神様は愛ですから。 だから口はきかせないようにしなくちゃいけないんです。しかし、これは人によっていろいろあって、意識を失うとすぐ口をきくのがありますが、 こんなのはそうしろっていう神様の御意志だし、あるいは正守護神がさせるんですから、これは口をきかせていいこともあります。

口をきき始めたら「あなたはどなたですか」とか「何者だ」とか聞くんです。そうするといろんなことを言いますが、中には嘘を言うのもあるんです。 しかし、最初から言うことを疑ってかかっちゃいけないんで、言うことをそのまま信じていいんです。

で、だれだってことが判ったら「なんのために出てこられたんですか」とその目的を聞くんです。 そうすると、祀ってもらいたいとか、こうしてもらいたいとかいろんなことを言いますから、その要求が無理がないと思ったらその通りにしてやるんです。 そうしてやると喜びますからね。

しかし、中にはこっちをたぶらかそうとするのもありますが、これはその言う通りに聞いていていいんで 「わしは何代前の祖先で武士であったがどこの戦いで戦死をとげた」とか言ったら、「お生まれになったのはいつですか」なんて訊くんです。 そうすると「〇〇〇年前」とか答えるでしょう。そしたら、「その時代は何将軍でした」とかいうふうにだんだん訊いてゆくのがよい。

その霊が本物だとチャンと答えますが、ニセだと答えられなくなって狐だとかなんだとか本音を吐きます。 だから、始めッから疑ってかからないほうがいいです。で鎮める場合は浮くときは上がってくるから、手を上げ、なで下ろすようにして御鎮りと言います。 副守護神は臍下丹田(せいかたんでん)と言い、腹にいるのです。

〇憑依され易いタイプは、暗愚な妄想家・荒行をする行者・長い間水を絶ったり、絶食したりして、滝に打たれたりすると肉体が衰弱して空虚ができるから、そこに霊が感応します。 目的のある憑依霊は人を選んで懸って来ます。正しい霊が感応する時は、眉間から来ておでこがボッ〜と暖かくなるようです。憑依霊は人の欲望につけ入り、隙を見つけて背中や 足から憑依してきて風邪でもないのに背中がぞっく寒くなるような時は気を付けた方が良いでしょう。人の肉体を占領した憑依霊は腹の中に治まって、人の声帯や手足などの 諸器官を我が物と思い込み、自由自在に扱います。

さらに厄介なのは、人間の記憶と想念の中に入り込みますから、先祖の名や声やしぐさ、過去の出来事などをうまく引き出して、 ころっと騙します。このように人間にかかると、その人の意識を占領してしまいます。懸られた人は、その実感がありません。だから憑依霊の考えが自分の考えだと思い込んで しまいます。憑依霊自身も、いま自分が人間に懸っているという実感がない。自分が、この人間そのものだと思い込んでしまうのです。

霊界にも地獄(下層階)にもそれぞれ何百段階という次元(レベル)が、前記にも書いたようにあります。本当の住人ではない邪心霊が霊界を見る力も無ければ、資格もない(神の正しい光は己の邪悪な姿を映し出す、眩しすぎる ものなんですから、神界にほとんど近づけないのが当たり前)最近の霊界情報をうっかり信じてしまうと、それこそ邪心霊の思うツボです。次々と信じ込ませて、気がついたら とんでもない不幸に見舞われてしまうことにもなりかねません。科学万能のハイテク時代の今だからこそ、かえって人々は超物理的な現象を見せられると弱く、簡単に騙され、 ス直に信じてしまうのです。現代人共通の心の隙間がここにあることを思い知っていたほうが懸命なのではなかろうか・・・。

○病気は浄化作用(症状)の発生とその過程を示すばかりではなく、霊の作用とも密接不離な関係にある。

〇霊的光力を嫌う人と好む人があり、霊的光力を願いたくとも嫌うのがある。嫌う方は動物霊で、副守護神で、浄まって改心してくると貰いたくなる。 正守護神がして貰わす場合と、本守護神が希望する。弱ってくる事があって、副霊を制える力がない時に望む。あまり嫌う場合はしない方がよい。 機会を待て。段々好くようになる。奥さんが龍神である時。龍神は主人を持つと・・・夫を持つと行(ぎょう) の妨げとなるので離婚まで持っていくが普通は結婚が出来ない。。 それで独身を通すのがある。長くやってるとそういう事はなくなる。狐が憑っている場合は無理にやってはいけない。本人の嫌がる事はやらぬ方がよい。

いずれは好むようになる。霊〇会は他信仰を非常に嫌う。こんなのは無理にしないで、眠ってるときなんかにするといい。 だましだましやってゆけばそのうちにだんだん狐が弱ってきます。狐になった人間は霊的光力をやらせる。
良くない霊が憑るので苦しいのである。霊は人間が弱ると憑る。ある程度衰弱すると憑る。霊細胞が稀薄になると、それを充実するだけの霊が憑る。 霊的光力していれば判る。
子供さんなんかによくない事が起こりだした時なんかは、お父さんかお母さんが浄まれば、親子は霊線が繋がっているから、それによって娘さんもよくなります。 まずごお父さんかお母さんが徳を積むことです。これによってその魂が光りますから、霊的光力が娘さんに及んで、邪魔してる霊はしだいに萎縮してついには離れてしまいます。 すべて一家の中で、ある者が反対している場合でもお父さんかお母さんがやればいいんです。子が悪いのは、親が悪いから、親が浄まればだんだん治るでしょう。 治らないのはその子に問題があるかもしれません。
上記の注意事項;@他人に鎮魂又は霊的光力を行う場合には、真心を以ってまず神様に祈願し、自分をただ御神力をお取り次ぎする一個の媒介者(ばいかいしゃ)と心得て行うべし。 A病人を見ても可哀想と思う念で行なってはならない。施術に妨げになる。額の霊魂浄める場合には、霊を浮かせるような方法で光を絶対に与えないよう注意が必要である。あくまでも神の御光りを注ぎ込む想念でやるべし。他は何も考えずやるべし。 B神向に浅い場合には力が入ったり、力みすぎたりする場合がある。此れでは光があまり出ない。施術の基本は手の力を抜く事である。又急所が外れいたりする場合がある。よく身体の急所をつかむ事である。。

霊査(れいさ)の仕方;「先ず最初にこの方の肉体にお憑かりの御霊様が居りましたのなら、只今から神様の取り次ぎ役として私が質問をさせて頂きます。よろしく御願い致します。最初の言葉は此れでよろしい。 次にこれから何問か質問させていただきます。その質問が合っておりましたなら、首を前後におふり下さい。間違えておりましたのなら、首を左右におふり下さいと言う。 まず一つ目の質問ですが、イ、あなた様は〇〇家のご先祖様ですか? ロ、〇〇家の方ですか? ハ、最近亡くなられた方ですか? ニ、大人の方ですか? ホ、赤ちゃんのご霊様ですか? (赤ちゃんの場合には次にいく。違う場合はへ、は省略)) ヘ、生まれてから、病気か事故で亡くなったのですか? ト、死産、あるいは流産されたのですか? チ、あなた様は 〇〇さんとはどういう関係にあるんですか?お孫さんですか? リ、あなたが憑くには、何か理由があるんでしょう。

何か頼みたいことがあるのですか? ヌ、あなたは、お祀りされていないのですか?  ル、(ここでは祖霊に対してですので)、それでは、お位牌をつくってお祀りしてもらいたいのですね、わかりました、今までお位牌がなくて大変失礼致しました。早く作って いただくようにお話致します。オ、ここで霊界の神の仕組みと法則をお話してさしあげる。また別の霊が懸っているときはこの様な諭し方もある。あなたの執着心が、 そのまま地獄を作り出しているといことを諭す。 ましてやあなたは幽界脱出の大罪を犯してこの方にとり憑き、 この方のお邪魔をしてこの方を苦しめている。 あなたは大変なことをしていることを。 あなたを救えるのは、 あなた自身です。 あなたの想念転換だけだいうことと。 早くあなたが本来いるべき幽界に帰って、 修行ができるように神様に祈ることだということを諭す。 大まかにはこのように霊査をしてさしあげたらよいでしょう。ここに書きましたが必要以上にやらないほうが宜しいかと思うのである。本人が悟れば本来は良いのであるから、憑依霊(ひょういれい)に振り回される危険性も多くひそんでいるからである。

★サニワをする心得: それには先ず神様の本をよく読む事です。神様の書物ばかりでなく天文学とか或いは地質学とか、鉱物学とか物理とか内外歴史等、諸般の学術の本を務めて広く見て腹に入れておかねばなりません。 何故かと申しますと、わずかな物事の事をお伺いするにも、大略の事を心得ておかぬと、お示しの事を正確に受け入れかねるのであります。鉱物学の事をお尋ねする時には、やはり好物に関しての智識がないと、 お伺いを立てるに支障を来します。これらが先ずサニワに一番必要な条件だと思います。

●どなたでも出来る諭し方。愛を持って接する事です。

いいですか、良く聞きなさい。あなたは救われたくはないですか。救われたくはないですか。 もし救われたいのなら、私の話を良く聞なさい。いいですか。私の話を良く聞きなさい。

貴方は、なぜ今苦しんでいるか解かりますか。良く聞きなさい。 私たちは本来あの光り輝く天上の世界からこの地上の世界に自らの魂の修行に 来ております。

この地上の修行が終われば、又あの光り輝く天上の 世界に帰ってこそ真の 成仏ができます。

この地上の思いを残しますと、その思いが執着となって救われることはできません。 この地上界から一切の思いを放して下さい。

いいですか。あなたは、あの実在界からこの現象界に修業にきて 生活をなさいました五十年、百年を、よく振り返ってみて下さい。

私たちは、この肉体の故に、或る時は怒り、妬み、謗(そし)り、愚痴、恨み、憎しみ、 足ることを知らぬ欲望に捉われて、自らの心を苦しめてきました。 その苦しみが錘(おもり)となり、あの光の世界へ上がることができません。

真(まこと)の神、仏は言われます。

私たち人間に対して、『いとしき我が子たちよ、そなたたちは幸せに生きよ、 健やかに生きよ、おのれ自身を苦しめること勿れ、己を大切にし、 己を大切にするがごとく他を大切にせよ」と言われます。

自らの心を苦しめることは、神のご意志に背きます。 神のご意志に背いて、何者も救われることはできません。

その過ちに気付けば、自らのこの世での生活をよく振り返り、 自らが作った過ちに気付けば、今、心を素直にして、いいですか 自ら作った過ちの一つひとつを真の神に、お詫びしてみなさい。

その時、あなたの心は安らぎ、必ず天上の世界へ救われます。 いいですか。よく反省しなさい。神よ、光をお与えください。

調和と安らぎをお与え下さい。意識に光をお与え下さい。

罪をお許し下さい。あの光の世界へお救い下さい」と言って意乗って下さい。 どうですか。明るくなりましたか。明るくなりましたら其の光の方へ云って下さい。

そして行きましたら、その場所で貴方の修業場所が在るはずです。 そこで修業してください。解かりましたね。

はい、此の方の当体よ意識はっきりしなさい。目を開けてください。 はっきりしていますか。よく勉強して波長を会わせないでくださいと教えてやるとよい。以上




生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-29-1

『病気の原理』 病気や疾患などは先天的、後天的に分けられますが本来、遺伝は無いと考えるのが妥当だと思います。現代医学では説明ができなかったり、 過去に症例がなかったりすると原因不明の現代病、成人病、あるいは逃げ口上として、遺伝という症名を押しつけることも多いので、気をつけるべき名称でしょう。 そして先天的、後天的いずれにしても病気や疾患などの原因は、先祖からの罪穢れ、自分の過去世などや現世における罪穢れであり、それらの中には諸々の悪業の他、 薬などが堆積した穢れも含まれています。これらを標準的にとらえると、先天的なものは罪穢れが濃縮されて根の深い場合が多く、 後天的はそれに比較して軽い状態であると考えられます。

これら、霊界・現世の罪穢れが浄化作用の過程で物質化し、人体を経由して排泄されたり、人体の一部に隠れて残留していた毒素や汚れが溶け出て、体内を循環する際、 一般的に病気と呼ばれる症状となるのであって、これらの病気などは一定の節度をもって対処し、魂や体内に蓄積した毒素・汚れを体外へ出すことを心掛ければ、 意外と早く、そして元通りとなるのが浄化作用の基本的な姿です。そして、このもっとも分かりやすい現象が、「風邪」です。 精神的な病いも、後頭部・延髄などへ毒素や因縁による汚れが溜まって、血流が悪くなることに主因があります。当然、癌やその他成人病と呼ばれる症状も同様で、 毒素・汚れの種類や溜った量、場所によって現われ方に個人差が生じるだけです。

また、現代医学ではウイルスや病原菌を悪者に仕立て上げていますが、特殊な環境内は別としても、これらの多くは人の免疫力の低下によるものであり、 免疫力の低下は人間が罪穢れを体内に溜め込む結果にすぎません。アトピーや喘息などもそうです。中には、人体の中の病巣に群がり、 病巣の汚れを食べてくれている細菌さえも、悪玉と呼ばれている場合もきっとあるでしょう。

現代では風邪程度でも薬剤類の処置によって浄化を止めるので、一時的には良い状態と見えるものの、結果として浄化作用を複雑化したり、 あるいはかえって厳しい病状へ追い込まれる原因となるのです。この場合、浄化を止めたことが予想外のところへ飛び火する場合もあり、親の手術が後年、 子供の大病や事故に転化するなど人の目には連続性が見えないものの、実は因果応報としてつながっているのです。


実に現代医学は浄化を病気に変え、病気をより複雑に、より悪化させているのが実態と言えましょう。ただし、霊界の汚れがひどく、 脳性マヒや肉体的欠損など物理的な障害と至っている場合は次の転生以降に期待するしかないのですが、彼等にも生まれた理由があり、生まれた以上、当然使命もあり、 現世での徳積みいかんでは輝く来世が待っているのは言うまでもありません。

●大自然の法則は、一切が健康なんです。太陽も月も大地も、完璧なほどを健康に創られている。従って、人間とて自然の一部ならば、つまり大自然の法則のままに生きているのならば必ず健康で、病気など存在し得ようがない。 つまり、大自然の法則を破った場合、宇宙の調和を乱したとき、健康は狂って病気になる。調和を乱すことは罪だ。 宇宙もこの大地もとにかく大自然というものは大商はなのです。 そして、人間も。だから病気になっているという人は、どこかでその大調和を乱しているという罪を犯してますよという看板を首から下げているようなものだなのである。 だから、自然の調和を、宇宙の均衡を乱すとき、心の中に張りつめていた糸が緩んで調和に戻そうとする反作用が生じる。それが病気というものなのです。

人間と神が、すなわち人間と自然とが一体化するとき、力が与えられる。与えられる力(光力)は補助的なもので、本当の意味で病をどう救うかは、その病に苦しむ人の自覚しかないのです。 自覚とは、人が神や自然と一体であり、すべては調和で成り立っているということを自覚することなのです。人を救うということは、そういった自覚を苦しむ人に持たせるということなのである。 それも理論理屈で言っても、口から出る言葉は右の耳に入ったら左の耳から出ていってしまう。要は魂をもって相手の魂を揺り動かすということなのである。

●手(奥の業))で癒す(奥の業)こと、吹く息(中の業)・手あて(初の業)にはすごい力があるが、忘れてならないのは想念である。憎しみや恨みの念ではなく、その力を最大限に発揮するのは愛の念の力が絶対的なのである。

今日、病気で苦しむ人たちの真の原因の多くは、空中の目に見えない悪霊の仕業ですが、悪霊は狙う人に憑依し、その人を操って神の法を破らせ、よって病気にさせてしまう。 全部が全部そうではないが、まあ、十あるうちの八ぐらいまではそうであろうと思う。悪霊の力は人の心を自由に操り、暗くしてしまう。しかし、真の自覚を人々に促すことのできるものは、 この悪霊の力をも制することができる。確かに空中の悪霊は、この世に生きている人間の力ではどうすることもできない強力なものもいる。だからこそ神様と一体化し、その力(光力)を頂くしかない。


豆豆知識1;身体の悪い人は甘いものを好かないです。だから、病人でも治るようになると、甘いものを食べるようになる。 これは覚えておくと良いが、病人というのはスッパイものが好きですね。で、良くなると甘いものが好きになる。

豆豆知識2;病人によく梅干を食べさせるが、これは胃には非常に悪い。食欲を最も減退させるものであります。元来梅干は、昔戦争の際兵糧に使ったもので、それは、量(かさ)張らないで腹が減らない為であります。 梅干と田螺(たにし)の煮たのを多く兵糧に使ったそうであります。腹の減らない為に使ったものを、粥を食う病人に与えるのは間違っております。 よく梅干は殺菌作用があるといいますが、空気中ではそうではありましょうが、腹の中へ入ると成分が変化する以上ーそれは疑問であります。


豆豆知識3;食物の量と、食事の時間を規則正しくせよという事で、之(これ)が非常な誤りである。何となれば人間は機械ではないのと、食物なるものは不同であるからである。それはどういう訳かというと、食事と食事との間の時間中、運動をする事もあれば、 運動をしない事もある。それによって食物の消化に差異が生ずるのは当然である。又(また)、食物に於(おい)ても、其(その)種類によって、消化に遅速あり、一時間で消化する物もあれば、三時間以上費す物もある。故(ゆえ)に、規則正しくするに於(おい)ては、 食事の時、空腹である事もあれば、未(ま)だ空腹にならない事もある。空腹ならば食欲旺盛で消化は良好であるが、未(ま)だ食欲が起らないのに、時間であるからといって無理に食物を摂(と)れば悪いに定(き)まっている。 然(しか)るに、不自然な食事法と共に、軽症の胃病発生するや、大抵は胃薬を服用するのである。今度は薬毒で様々な病気と化す。

正しい食事の方法とは、前の食物が充分消化し尽(つく)してから食事をとるのである。そうして、前の食物が消化したか否かは、食欲といういとも正確な指針があるから間違いないのである。故(ゆえ)に空腹即(すなわ)ち食欲があれば食い、 なければ食わないというようにするのが本当である。従而(したがって)、正しい食事法とは食いたい時に食いたいものを、食いたい量だけ食うという、言わば自然である。そうして食いたいと思う物は、其(その)時何等かの必要上、身体が要求している為であるから、 それを食えばいいのである。又(また)量も同一の意味で、必要なだけ即(すなわ)ち食いたいだけ食うべきである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-29-2

『人相・ホクロ・アザとの宿命・運命』

人相はその人の運勢や使命などが出ている。で、人相で宿命が当る事がある。人相が変るのは、運命の方も変る。 善い事してるか、悪い事をしているかというのは人相ですぐに出る。善い事をしていると晴々している。 変な事をしているとキョトキョトしたり、目付が晴々しない。画相などはよく当る。 疣(いぼ)などでも分るし、耳、眼、鼻等でも。顔は代表であるから表われる。
人相のほうでも言いますが、眉間は天帝、目の上が目上、下が目下で、目上の少し上が祖先を表わすのです。
だから目上の人となにか関係があるときは目の上になにかの変化が起るのです。
人間の身体はまことに微妙なものである。
ホクロ、疣(イボ)、耳の形、位置など運命に関係がある。眉毛と眼の間のホクロは親の財産を潰す。
口辺一寸(いっすん= 3.03030303 センチメートル)以内のホクロは食うに困らぬという。口辺、鼻柱にホクロのある者は必ず陰部にホクロあり、男は女難、女は男難ありとしてある。
アザには黒と赤の二種類あります。黒は怨みの霊で、それが霊に染みついて霊界の浄化でも取りきれないうちに生まれた場合です。
例えば肩を切られて死んだ場合、その怨みが向こうの肩へ行く。赤のアザのほうは自分が斬られたり槍で突かれたりした場合、やはり霊界で不浄化のまま再生しものです。

ほくろは運命のしるしです。口のはたのほくろは「食いぼくろ」と言って食うに困らない。
首すじのは「着ぼくろ」と言って着物に困らず、目の縁のは「泣きぼくろ」と言います。いぼもとれるのと、とれないのとあります。
やはりその人の運命のしるしです。

口辺のホクロは非常に良い。運がいい。女性でも境遇のいい女性など皆ホクロがある。生活に困ってる女性にはホクロがない。
目の下の涙道は一番わるい。鼻柱附近のホクロは男難や女難がある。眉毛と目の間にあるホクロは親の財産を潰す。
目から上のホクロは、宗教的因縁があるという。ホクロは人間の運命に関係がある。ソバカスの女は美人が多い。一種の毒素である。ホクロは多いほどよい。
腕にホクロがあると、腕を使う仕事をする。右の黒子の位置はさほど悪くない。特に口左下部は最もよいから、大切にしておくべきである。
眼と眼の間に青筋があると癇癪(かんしゃく)持ちとなる。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-29-3

『霊的光は手術以上』 ある方は〔略〕は最初肺浸潤と診断され、加療中左側腎臓結核が併発したため、腎臓摘出手術をせよといわれたところ、幸いある動機によって霊的光力を受ける事となり、それでドシドシ快くなったので、 早速診断を受けたところ、手術の必要なしと云われる程に治り、しかも肺浸潤までも治ってしまったので、現在健康で職務に従事しているのである。 このように医学は手術によって貴重な内臓を除去する以外方法はないのが現在であるから、全く幼稚なものである。

言うまでもなく真の医術とは、内臓を原形のままで病だけを除るのが本当である事を知って貰いたいのである。 ゆえに病と共に臓器まで除るとしたら、人間医学ではない、動物医学である。この理によって医学が手術を廃(や)めない限り、非医術と断定するのである。 、故に人間医学と動物医学とでは根本的に違う事を認識していただきたいものである。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-29-4

『闘病という言葉』

この言葉程間違ったものはない。これでは病気を敵と見ている訳だから、そんな気持が少しでもあると仲々治らないのである。 霊的光力をやっている方はよく知っているはずだが、病気は最高の健康法であり、大いに感謝すると共に、歓迎すべきものであるから、人間は出来るだけ病気に罹るようにすれば、益々健康になり病気には罹らなくなるものである。

明日に光あれ!!

言霊豆知識-29-5

『霊的療法の不可』

そもそも霊的療法は、今日までのあらゆる療病法と異り、霊に偏せず、体に偏せずして、霊を治し、又、体を治す療法であって、全く古今に絶している療法である。 ここに、従来の療法たる霊的及び体的療法について解説してみよう。まず霊的療法とは、ある種の宗教・祈祷者・行者等が行いつつある一種の祈念的療治とも言うべきもので、 それらは人も知るごとくヤレ死霊の祟りとか、亡霊が憑いているとか、狐霊・天狗・龍神が悩めているとか、祖先の霊が病気にしてるとかいう類(たぐい)であって、これを法力祈祷力にて退散又は、 得度(とくど)改心さす等の手段を執(と)るのであるが、これも全然迷信として片付る事は出来ない。 確に前述のごとき霊的原因によって、起る病気は多々ある事も事実である。

しかしながらこれは非常に困難な事であって、よく祈祷者達が言うごとく、果して祖先の霊であるか、祖先の霊ともあるものが、何が故に子孫へ憑依して病気を起させ、苦しめているのか、 又、死霊生霊・狸・龍神が、何が故に憑依せしか、又は果して人霊であるか動物霊であるか、正確に見別ける事が可能なりや否や、事実それが正確なりとするも現代の一般人が、それを承服し得るであろうかという事である。 又、各種の霊を見別くるまでの霊眼や霊覚者たるには、どれだけの修行を積まなくてはならないか、それら霊能を得るには職業を抛(なげう)って、何年も山へ籠り断食等をなし難行苦行をしなければ、中々得られないものである。 従って、世界人類は愚〔疎〕か日本「一国」どころか一都会を、救うだけの人間を養成する事も実際上出来ないであろう。

又、仮に悪霊退散に依って、治病の目的を達し得たとしてもその追払われた悪霊は、一体どうなるんであるかという事である。悪霊は常に人間を苦しめんと、絶え間無く狙いつめているし、一現代のごとき汚れの多い人間が充満しているから、悪霊が入ろうとする人間は随所に転がっているのである。 故に、一時立退きを食って、宿無しになった悪霊は、沢山ある空店を選んで憑依するのは当然である。

かように、一方を助けても直ぐにお代りが出来る様な救いでは、何にもならないのである。故に「霊的光力法」の治療は悪霊などに係わりなく霊的浄化法を行うのであるから、憑依せる悪霊も倶(とも)に浄化されて、悪霊は善霊に変化してしまうのである。 又、悩める患者に憑依せる悪霊を、一時退散さして小康(しょうこう=悪化の方向にあった病状が治まって、安定した状態になること。)を得るとも、依然として精霊の浄化作用が行われなければ、再び相応の悪霊が憑依するのは知れ切った事である。故に邪霊退散などの方法は、ホンの一時的であって完全な病気治療とはならないのである。


豆豆知識1;その家の罪穢があるとすれば必ず、子孫に先祖が憑(か)かり、家の曇り取りをさせられるのです。だからよくその家から道楽息子が出たり、脳溢血で倒れたり、中風で動けないとか、 必ずその家の財産がすっかり神様にお返しができるまで、先祖が憑かってアガナイをさせるのです。

★『最も重要・豆豆知識2;霊的光力(神秘光線の放射)の意義について・・・「額の霊的光力は魂を包む曇りを取る」霊的光力の際、よく額をやるのは、本守護神をいっそう浄めるのでなく、魂をつつんでる曇りをとり除くためである。 あたかも魂である太陽の光を雲がさえぎってるようなもので、これをとり除くのが霊的光力である。』霊的光力をすると外から浄まり、御神書を拝読いたすと中から浄まるのである。

霊的光力をすれば苦しまなくても浄化されて霊の曇りがとれるんですから、だからこれはたいへんな神の恩恵です。昔はバラモン行なんていうのがあって難行苦行をしたもんです。 いわば難行苦行がバラモンの宗教なんです。釈迦なんかもバラモンの出です。達磨は面壁九年と言って、九年間あぐらをかきっぱなしだったって言いますが、そうすることによって曇りがとれたんです。 いままでは、人間がそうして苦しむことによって曇りが減ったんです。だから災難や病気などの苦しみで立派な浄化をいただくのです。 苦しむだけ死んでから楽をするんです。ところが病気なんかの場合には苦しみをとろうと思って医療を加えるんですが、それで苦しみが楽になったところで、ただ浄化を伸ばすようなもんです。

◆霊的の毒粒子が灰になって、それが漸次集合して、それが大便、小便になる。霊的光力すると、下痢をするとか痰が出るとか、排泄物が出ますが、それが灰です。 火素の放射によって毒粒子が焼ける。霊的光力は物質でないから霊を焼く。また不純水素というのは、水素中の毒粒子、薬毒が固まったもの。火素によって全滅し、漿液中に吸収される。 漿液(しょうえき=粘性物質を含まない、比較的さらさらした透明な分泌液。胃液などの消化液、漿膜からの分泌液など)の中に流れている膿というものが、神経を使う所に固まる、それが毒素ということになり、 血の中に凝結して残っている部分と、それが漿液に混ざる部分とがある。

人間の臓物を美にしなければならない。まずどんな人でも、一皮むいたら、それはもう血膿でいっぱいです。とにかく筋肉や骨の量と、今の血膿の量とを比べたら、血膿の方が多い人が大部分です。 おそらく、世の中で汚い物と言えば、血膿だと思います。これは糞小便よりもっと汚いと思います。馬鹿に汚い話ですが、その血膿というのは、なにからできたかというと薬です。 薬が変化したものが全部血膿です。そこで今の人間はウンと薬毒が入ってますから、とにかく毒血と血膿がいっぱいに詰まっているわけです。 だから、おそらく一番汚いのは人間です。いろんな寄生虫がわくというのはあたりまえなのです。だいたい人間の体に虫がわくということはあり得ないのです。 だからみんなきれいなことを言っていても、御自分の腹の中ときたら、それこそ糞溜めより汚いのです。だから真善美の美の世界と言うが、これはまず人間の腹の中から美にしなければならないのです。 その因が薬毒ですから、薬毒からなくしなければならないのです。それで、体の中が汚いから、そこで想念も汚くなるわけです。

これは霊体一致ですから・・・。そういうようなわけで、美というものは、まず人間の腹の中というこれです。光力というものは、つまり美にする働きです。 汚いものをきれいにするというわけです。今の世で心のきれいな人間が非常に少ないということは、心でなく肉体が汚いのだから、どうしても霊的光力ということによって、一番根本的に本当に結果を得られるというわけです。 霊的光力は人間を使って個人個人に掃除をしてくれる仕事です。神様はそういう方法をとられたわけです。ところが霊界がだんだん明るくなる、昼間になるということは、 人間の霊体の霊身の方が全体的に浄化されるわけです。そのために、つまりいろいろ病気が起こる。

だから神様の方で全体的に病気が起こるようにすると、人間の方で=神と人との共同作業で、汚いものを除る、出してしまうということでです。ところがその薬毒、血膿というものは非常に多いのです。 それは実に想像もつかないくらいなものです。まずその人の一生涯でそれがすっかり除れる人はないでしょう。薬毒が自然に除れるということはまずないです。 時々風邪引きとか下痢するとか熱が出るということは、勿論それだけ毒が減りますが、それはわずかなものです。

それで霊的光力を何十回何百回やるということは、かなり除れます。そういうようなわけで、人間は意外に薬毒が多いということと、血膿というものは薬毒の変化したものということと、 人間の美というものも体の中がきれいにならなければ、本当の美ではないということです。やっぱり腹の中が美になれ・・・肉体が美になれば心も美になりますから、そうすると美しいものを好むということになります。 美などを見る、音霊を聞くとか、あるいは見ているうちに趣味が出てくるということは、やはりそういったような汚いものが精神的にそれだけ減ってゆくわけです。

つまり魂が美から受けるその作用によって、魂がそれだけきれいになるわけです。非常に必要なことです。神様はそういった、つまり楽しみながら魂をきれいにする、 要するに浄化ですが、そういうことをやられるわけです。だからして真善美の美ということの一番の根本は、人間の体の中を美しくするということで、 その方法は、つまり直接には霊的光力、間接には教えを耳に聞き、それから美を目から入れるということです。

要注意:霊動とは危険なものである。また女性は、男性よりも遥かに魔界の生物に憑依されやすく、自由にされやすいものです。この霊動に興味を持つくらい危険なことはありません。 霊動に興味を持ったら、すでにその人は、魔界の生物に狙われていると考えて差し支えありません。神々は、霊動への興味は持ってはならぬ、と折にふれて戒められます。

豆豆知識3;額からも御光は出ています・・・。

言霊豆知識-29-6

霊主体従の法則によって、ここならここの病気が治るということは、この細胞というものがまた無限なので、どのくらい細かいか分かりません。 ですから医学の方では、細胞の数は何万、何千万と言ってますが、これは滑稽なのです。細胞一つを作っている細胞がまた何万、何千万あるか分からないくらいで、そのまた一つがそれと同じようにどのくらいあるか分かりません。 ですからすべて一切は無限なのです。その無限であるために分からないので、その分からないところに本当はおもしろさがあるのです。 よく地球の年齢ということを学者が研究してますが、これは無限ということを知らないからです。地球の寿命というものがまた無限なのです。

ですから人間でも、いくども生まれ変わり死に変わり行くのですから、人間の寿命というのは何万年か何千万年か分かりません。 霊の方は永久なのですから、早死にを恐れることはありません。ただそれが人間の心に記録されてないから、新しく生まれて新しく死ぬように思うので、心細い感じがするのです。 そういうふうに考えると、まったく医学の研究などというのは実に気の毒なものです。これを仏教などでは大づかみには説いてあります。

「一切無だ」と言いますが、一切無だということは無限という意味を表わしたわけです。なぜと言えば、「有る」ということは言えないわけです。つまり「有る」ということは唯物的の観念です。 「無」というと唯物的ではないということを表わしているわけです。その意味が分かればよいわけです。ここ(掌)から出る霊光も粒子なのです。 粒子ということは無限的粒子です。それでこれが殺菌法です。殺菌というのは、霊の曇りがつまり毒ですから、その毒を火素で焼いてしまうというので、それが肉体にもすぐ写るのです。 つまり霊主体従で、そのままに物質の方も従うというそれで病気は治るわけです。これが真理なのですから、治るのがあたりまえなのです。


人間は薬剤から全く離れた時、日の経るに従い年々健康を増進するのである。何しろ薬から離れることこそ健康の源となる。病気にかかるのは生前に薬を入れたか、前世のの曇りからなる病気か添加物を体内に入れたか、父母からなる濁毒を受け継いだかである。 どうだろうか、身に覚えが無いだろうか。

明日に光あれ!!


言霊豆知識-30-1

『聞法因縁五百生(もんぽういんねんごひゃくしょう)』、『同席対面五百生(どうせきたいめんごひゃくしょう)』という言葉がある。 五百ペン生まれ変わりした長い深い因縁のお陰で今の尊い教えを聞くことが出来たという意味である。また席を同じどうし、顔を合わせることが出来た。 なんと在り難いことであろうかという仏語であって、お茶でいう一期一会(いちごいちえ)とまったく同じある。人生というものは、 この言葉のように深い縁(えにし)の不思議な出会いなのである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-30-2

★結構面白い話;これは実際の天国と地獄を見聞してきたというような体験談ではなくあくまでも寓話(ぐうわ=比喩によって人間の生活に馴染みの深いできごとを見せ、それによって諭す事を意図した物語)である。 さて白髪の神様に案内されて、天国と地獄を操訪した人がいた。まず連れていかれたのが地獄だった。なんとも重たい空気感である。そこでは多くの罪人が業火に焼かれ、苦しんでいた。ところが地獄にも食事の時間 があって大きな円いテーブルには、大きなドーナツ状のテーブルで、ドーナツの穴の中央の小さなテーブルにいかにも美味しそうなご馳走が山と積まれている。地獄にもこんなご馳走 がある。しかし、ドーナツ状のテーブルとドーナツの中心のテーブルとの間にはかなりの距離があり、その間には深い穴が空いていた。やがて人々に、長いスプーンが渡された。

スプーン自体は中央のテーブルには十分届く長さであったが、それでご馳走をすくっても、自分の口元まで手操(たぐり)り寄せるまでの間に食べ物は深い穴の中に落ちてしまう。 それでも人々は何とか長いスプーンで食べ物を救って自分の口元に手繰り寄せようするが、結局は無駄な努力であった。そうして、誰もが食べ物を一口も口に出来ないうち、食事の時間は 終わってしまった。次に天国に案内された。なんとも地獄とは違い、麗しい(うるわしい=精神的に豊かで気高く、人に感銘を与えるさま。心あたたまり、うつくしい)空気感である。そしてやはり天国でも食事の時間だった。 ところがなんと、天国の食事のテーブルも地獄と全く同じドーナツ状であり、遠く離れた中央のテーブルにご馳走が盛られている。そしてその間は、やはり深い穴となっている。だが,人々は全員満足そうな顔をしているのだ。 やがて、地獄と同じように長いスプーンが人々に手渡された。

しかし地獄と違うのは、人々はスプーンですくった食べ物を自分の口元に手繰り寄せず、左右にスライドさせてスプーンの先の所にいる人に食べさせている。つまり互いに食べ物を 食べさせ合っているのである。手べ物は、ひとつも穴に落ちる事はなかった。『これが天国です』と白髪の神様は言われた。そして白髪の神様はひとつ付けくわえた。地獄の霊を 天国に連れていくと「うわぁ!こんな所は、いやだ!」と叫んでさっさと地獄へと帰って行くそうである。と 話をしてくれた。どんなに苦しかろうが相応しないところには住み心地が悪いのだろうか?。


★人間の物欲の最たるものが、金銭欲だろう。世の多くの人は金目的で牛馬のごとく働き、多額の財を得て初めて幸福だと考えるようだ。お金のためなら血の闘争、汗の労働、涙の悲劇を繰り返し、人格をも変貌させ、人間関係をも損ない、 時には殺人にまでエスカレートする。だが、確かにお金がないと生きていけない世の中であることも事実である。

しかし今の世の中の人々は、お金についての価値を真剣に考えていないのではなかろうか。例えば、何かを買うにあたって、お金を出して求めるが、さてこの時にお金を出す時に考えたことが あるだろうか。買うに当たって、ここまでの過程(完成される前までにいく多の人が関わっているのか)に対して感謝し、自分に与えてくれたことに感謝して買うだろうか。 お金を払うのは代価としてではなく、それぞれの人々に感謝を形に表すものの、それが本来のお金の在り方なのだということを気が付いているだろうか。何かを手に入れる、何かをしてもらう、そのことへの感謝の表れである。

例えば 植物性にせよ魚肉類にせよ、その命を食するからには無駄に扱わないことや、あるいは米なら米を育てた多くの人々の労苦への感謝、米が育ったことに対する無窮の力への感謝、そして命の尊さなども含まれているのです。 また 電車に乗るために切符を買うわけだが、電車に乗れる感謝を形に表す『乗車御礼』なのだということを! ただ拝むのは心の中 一呼吸して心の中で手を合わせるのである。 しかし こう考えると、あまりお金に対する執着はなんて馬鹿げたことなのかということが解ってくるものである。

元来神様はお金の扱いにはくれぐれも注意するようにと伝えてもあったようである。所謂感謝を忘れ、物が代価としだけの価値しか見いだせなくことを恐れたのである。だが今の 時代にはもう許せる時代ではないのである。感謝を形に表すことが出来なければ全て取り上げられてしまうという状況に持っていってしまわれるのである。現に振込詐欺やら泥棒やら 証券詐欺やらで型示されているのである。感謝があればこそ不必要にお金を出したり入れたりしなくなるものなのである。


感謝の秘訣は、できるだけ自分が感謝されるようなことをすること、そうしたら自然と自分も感謝できるようになってくる。感謝し、感謝され、それを教えているのが上からの感謝を表す△、下から感謝の想念を浴びる逆三角▽、 その逆三角と三角形を合わせて「カゴメになる」カゴメの理は吹き寄せ、吹き上げのあのカゴメの理と違うようで違わない。 そしてやがて地上天国・ミロクの世ではお金は消滅していると思う。物は何でも無料で手で入る、 提供している人も代金はもらわない。お金がなくなっているのだから、もらいようがない。じゃあ、何がもらえるかというと、感謝の想念と感謝の波動を受けてそれが代価となり。やがて自分も人様に感謝はすることで、自然と不自由のない生活が仕組まれる。 お金の代わりに感謝の想念と波動を、お互いに「支払う」のだ。だから労働も楽しくなる。これまでのような、お金のために嫌々するものでなく、自発的に何かさせて頂こうと思ってやるのが労働になる。誰か今何かをさせて頂きたいと思ったその時、必ず必要としている人がいるものだ。

これが本当の21聖紀の霊主文明における霊的な経済学だろう。こういう考え方についていけないと言う人は、ミロクの世に入るためにはかなりの想念転換が必要だと思う。そういう霊主の考え方の人でないと、ミロクの世には入れない。 どうしてもこういう考え方にならない魂は,淘汰され得る危険性さえあるのではないかと思う。神様がお考えのミロクの世・地上天国というか理想世界はそういういう世界だから、お金ももらえないのに人様のために働くなんて真っ平ごめんという想念の人々は、今神様が猶予下さっている今のうちに想念転換しないと、 そのままの想念で理想世界に入れたら秩序も和も乱して結局は理想世界が理想世界ではなくなってしまうから、神様は一気に火の洗礼に持っていかれてしまう。

しかし現代の世の中で上記したことを受け入れられないのは判ってはいるが、霊界の上位では普通に成されているのである訳で、勿論限界にも映って来るわけでありますから受け入らざるを得ない訳でして 霊主の考え方に切り替わる以外に無いわけであります。

この世に生きる物たちの明日に光あれ!!


言霊豆知識-30-3

●最上の善とは水のようなものである。水はあらゆるものに利益を与え、争わない。それは人の嫌う地味な場所でいつも満足している。このように、水は「道」に近いものである。 我々は住むために、地味な場所を好む。いろいろな考えのためには、奥深さを好む。友だちとの交わりには、心やさしさを好む。言葉には、誠実さを好む。 政治には、良き秩序を好む。出来事においては、能力を好む。行動においては、正しい時を好む。このように、我々は争わないから、まちがうことはない。

●なにかを手にもって自慢するなら、それをもたない方がよい。人がその窮境を主張しても、その状態に長くとどまることはないだろうから。 部屋に貴重品が満ちあふれていても、誰れもそれらをまもりつづけることはできないだろう。富裕で高い地位にあって自慢すると、不幸を招く。 仕事が完全に成しとげられ、その任務が充分に終われば、自分の地位を去る。これが「自然」の道である。

●しっかりと見ないから、何も見えない。それは形のないものと呼ばれる。しっかりと聞かないから、何も聞こえない。それは音がないものと呼ばれる。 しっかりとつかまないから、何もつかめない。それは実体のないものと呼ばれる。これら三つをつきつめることはできず、混ざりあって一つになっている。 上にあっても明るくなく、下にあっても暗くない。目に見えず、どんな名前でも呼びようがない。それはまた無にもどって行く。 それは形のない形と呼ばれ、イメージのうかばない形と呼ばれる。それはつかまえにくいものである。近づいて行ってもその顔は見えず、ついて行ってもその後ろ姿は見えない。 遠い過去の「道」をつかまえ、現在あるものを制御すると、原始の始まりが理解できる。これが「道」の本質である。

●三十本の輻が車輪の中心に集まる。その何もない空間から車輪のはたらきが生まれる。粘土をこねて容器ができる。その何もない空間から容器のはたらきが生まれる。 ドアや窓は部屋をつくるために作られる。その何もない空間から部屋のはたらきが生まれる。これ故に、一つ一つのものとして、これらは有益な材料となる。 何もないものとして作られることによって、それらは有用になるもののもとになる。

●戸口から出ないで、天下のことを知る。じっと外を見ないで、天の道(神の法則)のすべてを知る。遠くへ行けば行くほど、知ることはいっそう少なくなる。 だから、賢人は出かけないで、あらゆるものを知る。見ないでも、あらゆるものを確認し、行動しないでも、あらゆることを成しとげる。学問をするとき、日ごとに蓄積していく。 道を探し求めの時、日ごとに減らしていく。減らしたうえにまた減らすことによって、何もしないところにゆきつき、道は陽炎(かげろう)と知るであろう。そして、すべてのことが理解できるのだ。

明日に光あれ!!


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