縄文の音霊 【ひとり言】

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言霊豆知識-11-1

なぜ人は霊魂を認めないか、この問いに触れていきます。心霊研究で霊魂の存在は証明されたといっても、全ての人がそれを認めたわけではありません。 心ある人でも霊魂を認めない人が多いです。それではなぜ認めないのか、ということですが、一には科学教育が徹底してしまって、 人間はサルの子孫だということになってしまいました。そしてこれが真理だと教え込まれています。これは現代の科学権威による迷信ですが、その災いは大きいです。 また仕組まれたことも事実だと言うことです。それからもう一つは、科学が発達したから物質生活が発達していって便利になりました。 そうすると霊魂がいないんだということが完全な世間常識になってしまったんです。

もう子供も先生もおじいさんもおばあちゃんも霊魂はいないんだというふうになってしまいました。 こういう雰囲気の中で漬かって生きていますからどんなにすぐれた人でも、もう魂(松果体)が洗脳されて、その上に科学の権威によって人間はサルなんだと、 肉体なんだと誘導されてしまった。相当目のある人でも霊魂があることはみとめないですね。

それくらい今の世の中は霊魂の存在が信じ難い。それから心ある人でも霊魂を認めない理由は、もう一つあるのです。 頭のいい人とか聡明な人とか器量のある人とかお金のある人とかは、みんな出世してしまうからそういう知能指数 のいい人はどんどんいい学校を出ると、もう座っていたっていいところのイス、権威についてしまうからです。そうすると、 そこからお金も得られるし名誉も得られるし権力も出てくるし生活も良くなります。

もうそこに座り込んでしまって、現代文明を否定する気にならないんです。
否定されることをおそれるのです。現代は霊魂はない、物質だけだというふうな地盤の上に文明がつくられ、 そこで出世してきているのですから。その反対の霊魂はあるんだということを言ったら、自分の座っているイスがパーンと取り払われてしまう。権威を失う、名誉も失う、地位も失う、お金も失う、恋人も失う、生活は破壊されてしまう。 と思っているかどうかは知れませんがそれに近いことが想像されます。

だから心ある人は捨てないですし、霊魂はあると言わないですね。権威ある学者の中にはそういう人が割合多様です。以上なことで残念ながら実状はそういうふうになっていて、 心ある人も霊魂を認めないという状況になっているのです。とかく人間というものは、自分の意識によって独力で生きているかのように思いがちですが、 本当はそれぞれ自分の魂の意志によって生きているのです。そしてその魂はどことつながっているかというと、神霊界、すなわち神とつながっております。

ですから神の子とか言われる所以です。火の元の重要性について、肉体だけの、衣だけの、考え方を速く切り替えて霊界があると言うことを察知してほしいものである。
夢や空想的なことではない。現実にもう一つ奥の世界があると言うことに気がついてほしいのである。よく言われることですが霊魂とかあの世があるとか宗教にすがるのは 精神が弱いからだとか何かに縋(すが)りたいからだとかよくよく言われることがありますが、殆どの人は霊障(れいのさやり)である。これも事実であり実態でもある。

今の現代社会での教育は、偏差値を上げ名門大学入学、一流会社の就職という、「本心」を置き去りにした社会的評価(高学歴、高収入)としての「外分」のみ発達させる方法 ばかりを考えてるわけですから・・・。人生何十年で身につけてきた知識や教育、技術、資格などなどが、果たして本当に「心=魂」にまで届いて「内分」を豊かにして、魂を 向上させる役に立ったのか。そうでない付け焼き刃的な「外分」は、霊界では垢のように簡単に、ポロポロと剥がれ落ちて行きます。

己の魂を豊かにして「生活」することを知らずに、お金や学歴や地位名誉などという社会的評価基準の目安になる。「外分」ばかり志向し蓄えて、結果は世渡り上手な「生存」をしてきただけの人生の人は、なんと無駄な努力をして 生きたてきたのか。できうるならば、「生活」と「生存」の違いを、今からでも遅くないので、認識して残りの人生を生きてほしいと思います。

私達が人生で身につけてきた、知識、教育、技術、資格、お金。学歴、地位、名誉、など、これらのそのものは「魂」の本質には関わらない、全て焼き刃的な「外分」なのです。この霊界では、不応無しに剥 ぎ落とされていきます。
しかし、だからといって、「知識〜名誉」が完全に無駄でも意味がないものと、勝手に早合点しないでいただきたいのです。肝心なのは、「知識〜名誉」 を得るために、どの心の次元(レベル)で関わったか、ということなんです。例えば疲れて眠たい目をこすりながら、勉学に励んでいく。そうやって試験を克服し「資格」を得た場合、 「努力」「克己(こっき)」「達成感」など、さまざまな心のレベルの収穫があります。これらが「内分」を豊かにするのです。ですから「外分」と「内分」とでは天と地の差があるのです。

霊科学の無視が大欠落

霊の実在と霊的善悪両面の人間の影響については、あらゆる実証がある。たとえば
(1)太古より惟神道あり、近代神道あり。仏教、基教の三大宗教は、霊現象を基調としていることは明らかであり、各宗教に蜜行(みつぎよう)あり、予言あり、巫術(ふじゅつ) あり、法力(ほうりき)の行あり、霊媒信仰あり、印(いん)わ切る法あり、禁厭(きんえん=まじない)の幾多の法あり、祈祷(きとう)による善悪幾多の事件あり、あるいは 仏壇あり、墓あり、法要、供養あり。これらは、太古からの万霊活動キャッチ可能人類時代の、驚くべき高次元科学知であり、今日も全世界にわたって数限りない憎(にく)しみ、 そねみ、怒りの霊障いっぱいの事実は、どうしようもない証(あかし)であろう。

(2)モウゼ、釈迦、イエスは申すに及ばず、日本の古い世代の効験あらたかな法主(ほつす)の歴代時代や幾多優秀な霊行者、仙術者は夥(おびただ)しく歴史の上に残っている。

(3)日本は、神霊科学の世界では欧米に比して遅れはとったが、今日も何百という物理学者の心霊科学に関する物理科学的精細な実験研究発表だけでも、夥(おびただ)しい 文献がもう出ている時代であるのに、前述のように不思議なほど、日本のこの方面は百年くらいは遅れている。

  自動書記現象(Automayic writing)
  霊言現象(Spiritual talking phenomena)
  念写(Spirit photograph,or Nen-graph)
  霊の物質化現象(Materialization phenomena of spirit)
  霊の物理現象(Physical phenomena of spirit)
  霊の交流交感(Alternate current and feeling of spirit)
  人体への憑依現象(Possessed phenomena on humanbody)
  予言の科学的研究(Scientific study of prophecy)

等々世界一流科学者による総合研究は、ここ百年前からの努力と実証は、至れりつくせりとはいえないまでも、もう常識化してだけはいるではないか。

(4)正しいという意味や、救われに対する正邪とかいう意味ではなく、今日行われている霊活動の実証的面では、地上に至るところに、依然として霊媒信仰は事実、消し去る ことができぬではないか、日本でも恐山のたくさんの巫女(みこ)現象、科学では説明もつかぬし、どうしょうもない。出雲地方や山陰山間奥地に残る「つきもの持ちの家」の実際現象。
悪祈祷師による悪のれい霊障事実は、依然としてあり、トルコ、印度、パミール、マニラ等々の霊手術者の実在。等々、心霊科学上研究したら果てしないものが、研究と探求の素材と実例はいっぱいである。 この様なことが在るにもかかわらず現代科学は、唯物的の科学面だけの時代で、霊科学までは到底は入ってこれていない。だがもう霊をの存在を無くしては生きては生けない時代が到来してしまっているのである。

豆豆知識1;皆さんの怨んでいる霊や先祖だって、先祖の霊なり戒告しようという霊なりあるいは怨み晴らしたろうなんて霊なりが入るとどうですか、ただ皆さんの所に住まいはどこであろうと脳神経のある所にヒヨッと、懸かってしまう。 今日で言いますところの脳砂っていうものがあります。脳砂の霊細胞の所に入ってしまうと皆さんを自由に操れてしまう。目方も何もないわけで、霊なんて。 姿さえ見えないくらいだから、位牌の中にも入りゃ床の隙間からも自由に出入りするほど小さくも薄くもなれる。 フニャフニャのものがチョッと脳砂の所へ来てそして一生の怨み晴らしやろうと思うと、どんなことでもやるじゃないですか。自動車事故起こさせようと思えば自動車を落とす、自動車と電車とぶつけてやろうとすると、直ぐ衝突事故起こさせる。 そして彼等はなんでもない、チャンチャラおかしいわけでありまして、そして回りに集まっては事故の現場で酒飲みやってんだから。宴会開いているんだから、直会を。 それでも人間の方は分からないじゃないか。人間みたいな馬鹿な生物はいないちゅってね、彼等は思っているんだからしょうがない。 お前たちの体の中に入ったってまだ分からないんじゃないかって言ってんだから、そして医学医学と云ってるけれど医者も見つけられんじゃないか、何が医学は進歩したんだ、といって冷ら笑ってますね。 一個の霊でさえそうなんだから。狐や狸の霊だってそのくらいの力は発揮するんだから。そうして頭痛めさせりゃ頭痛ませるし、出来物作らせようとすりゃ直ぐ出来物作るし、 始末に悪い程やるじゃないですか。たった一匹の霊でもそうです。まぁこんな事で霊の存在を不定してもしなくてもウヨウヨしているし、皆さんにも五体位は懸かっていらしゃるし その事にも気がつかないで生活しているのであるから情けない事です。

豆豆知識2;財団の前身となる「心霊科学研究会」の創立者・浅野和三郎(1874-1937)は茨城県稲敷郡に出生、東京帝国大学(現・東京大学)英文科卒業後、横須賀の海軍機関学校(現・防衛大学校)で英語の教官をしていた。 第一線の英文学者として数多くの訳書を出しており、いわゆるインテリと呼ばれる部類の人間であった。 そんな浅野が心霊に興味を持ったきっかけは、原因不明の病気にかかった三男が祈祷師の予言・祈祷により奇跡的に治癒したことによる。心霊について調査研究しているうち、日本国内で当時もっとも実践的な心霊研究をしていた新興宗教団体「大本」(当時の教団名は「皇道大本」)に興味を持つにいたる。 1916(大正5)年、海軍機関学校を退官し(ちなみに後任の教官は芥川龍之介)、京都府綾部市にある本部を訪れたのが同年暮れのことであった。

翌年になり浅野は大本に入信し綾部に移住する。 当時、大本の指導者であった出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう)が「民衆の宗教」と表現していたとおり、それまでの大本の信者は農民中心であり文化人・知識人といわれる層の信者は皆無であったが、浅野の入信により信者層に大きな変化が起こった。 海軍・陸軍関係者や知識人が数多く大本に入信したのである。浅野は幹部となり、王仁三郎の片腕として大本の全国進出に大きく貢献した。

しかし、当時の「皇道大本」の「皇道」が天皇陛下ではなく大本独自の「皇道」、すなわち大本こそが真の神道であり国家の中心(=出口王仁三郎が国家の中心)とする独自の皇国史観(大正維新運動)を語っていたために、政府からは危険思想団体としてマークされていた。 さらに大本にとっては運が悪いことに、浅野の入信によって軍関係者やインテリ層の信者が増えたため、憲兵隊および京都府警は1918(大正7)年頃より内偵を開始し、王仁三郎や浅野は再三にわたって呼び出され警告を受けていた。 しかし大本の趨勢はとどまるところを知らず、ついに1921(大正10)年、王仁三郎や浅野をはじめとする幹部数名が逮捕、本殿の破壊命令が出されるにいたった(第一次大本事件)。 容疑は不敬罪および新聞紙法違反であった。新聞紙法により刊行されていた大本の機関紙「神霊界」に天皇を冒涜する記事が記載されたというのである。当時の新聞紙法には天皇を冒涜する記事を書いてはいけないとする条項があった。 独自の皇国史観の展開が天皇陛下への冒涜および国家転覆の煽動にあたるとしての弾圧であった。

浅野はこの事件で有罪判決を受ける。これが契機となり1923(大正12)年、浅野は大本を脱会し東京に戻って「心霊科学研究会」を設立した。 大本の思想をかなり引きずってはいたものの、宗教色を一切排除して純粋に科学的見地からの心霊研究を目指したようである。 これは現在で言うところのスピリチュアリズム(心霊主義)である。英文科卒の文系人間にしてはめずらしく理系人間的な発想であり、興味深い。 日本でスピリチュアリズムをはじめたのはおそらく浅野が初である。 なお、同志であった谷口雅春も浅野とほぼ同時期に大本を去るが、谷口は浅野とは違い宗教家としての道を歩み、「生長の家」を立教、成功を収めた。

「心霊科学研究会」は機関紙「心霊世界」「心霊界」などを刊行したのち、1929(昭和4)年には「東京心霊科学協会」となる。 浅野自身は霊界の研究に多くの時間を割き、守護霊研究のパイオニアとして、「交霊会」(霊能力者が霊魂を呼び、参加者にさまざまな心霊現象を見せる集まり)を通じて守護霊・指導霊の存在を繰り返しアピールした。

他の実績としては、東京帝国大学心理学科教授であった福来友吉博士による「念写」の研究発表などがあげられる。福来博士は他にも「千里眼(透視)」の研究も行っていたが、これらの研究がもとで東京帝大を退官させられてしまった。 非科学的な現象を肯定したというのがその理由である。福来博士は退官後も研究を続け、超心理学の草分け的存在として今日知られているところである。 なお「念写」とは、かの超能力少年清田君の得意技でもあったが、カメラのシャッターを切らずに念じるだけでフィルムに文字や景色が感光するという超能力の一種である。

1937(昭和12)年、浅野は逝去、東京心霊科学協会も第二次大戦中に活動休止となるが、終戦後の1946(昭和21)年に「日本心霊科学協会」として再興され、1949(昭和24)年に財団法人の認可が下り現在に至る。

■長南 年恵(おさなみ としえ 1863年12月6日(文久3年10月26日)〜 1907年(明治40年)10月29日)は、明治時代の霊能者、超能力者。現在の山形県鶴岡市出身。本名、登志恵(鶴岡市戸籍研究による)

成人してからも肉体的、精神的に少女のようであったという。また身辺には頻繁に神仏が現れ、会話をしたり、舞を舞っていたという。
元々小食であったが、20歳のころから全く食事をとらず、生水の他は生のサツマイモを少量のみという。
排泄物は殆ど無かったという。また汗や垢といったものも殆ど出ず、風呂に入らなくても髪や体はいつも清潔であったという。
空気中からとりだす神水は、密封した空の一升瓶の中に人々の目の前で満たしたという。この神水は万病に効くという。
べつに病人などではなく冷やかし等の目的の者と不治の病人には、神水は授からず、空瓶のままだったそうだ。
神水(霊水)の色について:赤、青、黄など様々な色があったそうだ。無罪となった裁判所での公判では、茶褐色。

1900年(明治33年)7月9日。全国紙新聞記者が懐疑の目を向け、目の前で霊水引寄せをしろと要求した。その結果、ひとりでに水が入ったのを認めざるを得ないという結論に至ったという。

1895年(明治28年)、長南年恵は詐欺行為(神水を用いて、医師の資格なしに病気治療と称するを行ったとして)を行ったとして、逮捕された。山形県監獄鶴岡支署に7月から60日間勾留されたが、証拠不十分で釈放されている。この勾留期間中、様々な現象が起きたという。
勾留期間、一切の排泄物が無かった。入浴が許されていなかったが、常に髪は清潔であり、体臭も無く、良い香りがしたという。
勾留期間、一切食事を取らなかった。
完全に外部と遮断された監房内で、「神水」「お守り」「経文」「散薬」などを空気中から取り出したという。
長期の拘留生活で足腰が弱って当然なのに、一升瓶15本分もある水の入った大樽を軽々と運んだ。
収監者の中で、ただ一人蚊に刺されなかった。
複数の係官が不思議な笛の音を聞いたという。

★物質化現象(ぶっしつかげんしょう、materialization phenomena)心霊現象の中では物理的なタイプに属すとされるもので、霊の一部や全体が何らかの物質を媒体として具体的な形として現れる、とされる現象のこと。

■御船 千鶴子(みふね ちづこ、1886年(明治19年)7月17日 〜 1911年(明治44年)1月19日)は、透視能力を持つ超能力者として福来友吉博士に紹介された女性。

熊本県宇土郡松合村(現・宇城市不知火町)にて、漢方医・御船秀益と、その妻・ユキの二女として生まれる。生まれつき進行性の難聴があり、成人するころには左耳が聴こえ難かったという。 繊細な感受性と豊かな情緒性を持っていたと言われる。また、観音菩薩を篤く信仰していたが、悲観的な感情にとらわれる面もあったという。 22歳のとき、陸軍中佐・河地可謙と結婚。ある日、夫の財布からなくなった50円が姑の使っていた仏壇の引き出しにあると言い当てたことで、姑は疑いをかけられたことを苦にして自殺未遂を起こしてしまう。 このことで結婚からほどなく離婚することになり実家に戻る。

実家では義兄(姉の夫)、中学校の舎監・体操教員であった清原猛雄に「お前は透視ができる人間だ」との催眠術をかけられたところ、優れた結果が出たため修練を続けることとなった。 その後、日露戦争時に第六師団が、撃沈された軍艦・常陸丸にたまたま乗っていなかった事を透視したり、三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円(現在の価値で約2000万円)を得るなどした。 また、樹皮の下にいる虫の存在や海で紛失した指輪の場所を言い当てたりしたという。中でも清原は千鶴子に人の人体を透視して病気を診断させたり、手かざしによる治療を試みた。

評判が広まった千鶴子を熊本県立中学済々黌の井芹経平校長が紹介すると、1909年(明治42年)から翌年の1910年(明治33年)にかけて、京都帝国大学医科大学の今村新吉教授(医学)や、東京帝国大学文科大学の福来友吉助教授(心理学)などの当時の学者が研究を始めた。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-11-2

明日の文化

これから、霊及び霊界について、あらゆる方法を以て、約二十年間の研究(茂吉大先生・大本をへて救世を立ち上げた)によって得たる成果を発表しようとするのである。 元来、霊なるものは、空漠として無に等しいものである以上、今直ちに実証的に確認し得られる方法はないのであるから、勿論学問として唯物的に成立させ得る事は困難である。 しかしながら、さきにも述べたごとく、停止する事を知らない科学の進歩は、学問的に、機械的に何人にも把握出来得るようになるであろう事は信じて疑〔わ〕ないのである。 吾々が今日、大なる恩恵に浴しつつある現代科学といえども、その初めはその時代の先覚者達が、夢にも等しい空想を描いた事が基礎となり、それがついに現実化し、学問的重要分野と成った事は明かな事実である。 この意味によってみても、霊の存在が確認され、霊科学が学問としての重要部門を占めるようになる事も時日の問題でしかあるまい。

たとえていうならば、今日野蛮未開人に対しこの空間には空気なる物質が存在するという事を、いか程説明しても信じないであろう事は今日の文化人に対し、霊及び霊界の存在を説明するとしても信じないであろう事と等しいと思うのである。 しかしながら、霊の実在を知る事によって事物を観察する時、まことによく透徹(とうてつ=澄みきっていること。透きとおっていること)し、矛盾や撞着(どうちゃく=つじつまが合わないこと)等の懼(おそ)れのない事である。のみならず唯物的科学を批判する場合といえども、その根源の剔出(てきしゅつ)が容易である事である。 この様な素晴しい力の発現はそれ自体が真理であるからである。この意味において、現在進みつつある世界の大転換も、その後における新しく生れるであろう新文化に対しての想像もつくであろう。 しからば、大転換以後の文化とはいかなるものであろうか、それは勿論、霊的文化の発生と、その飛躍であらねばならない。

そうして霊と物質との関係がある程度闡明(せんめい)する事によって、既成文化の躍進もまた素晴しいものがあろう。それは勿論、時は戦後であり、発生基地は、日本でなくてはならないのである。 そうして、空気が機械文明の発達によってその実体を把握し、人類に役立つものたらしめたと同様の意味において、今より一層機械が発達した暁、霊の実在を測定し、それを有用化するという事も、決して夢想ではないであろう。 ただ私は、霊と病気との関係を研究しつつ、ついに霊なるものの実体・因果関係等を知るに到ったのである。そうして、それらは人間の病原のみではなく、森羅万象あらゆる物の変化、流転等にまで、密接な関係のある事を知り得たのである。 しかしながらこの著述は、病気の解決が主である以上、大体その方針を以て説き進めるのである。

そうして、霊的科学を有用化し、人間の健康に対し、驚くべき偉力を発揮出来得るように大成さしたその事が、この日本医術なるもので、ただ時代より先んじたまでである。 又、霊なるものの実在を人類に知らしめる第一歩としては、霊の実体を誰の眼にも見得るような方法が生れなければならない。それについて、私は一のヒントを与えようと思うのである。先年、ある本に書いてあった。 西洋の霊科学者の一人が霊衣を見得る方法を発見したというのである。それはディシャニンなる薬剤を硝子(ガラス)に応用すれば、霊を視得るというのであるが、これは、充分の成果は挙げ得なかったとみえて、その後立消えになったようである。 ここで、考慮すべき事は、写真のレンズである。西洋においても日本においても、幽霊写真なるものが、今日まで相当映写されている。私も相当多数見たのであるが、真なるものと偽なるものとの両方ある事である。

しかるに科学者は、霊写真は全部作り物であるとなし、又、霊の研究者は、大抵真とするような傾向があるが、私のみる所では、偽もあるが、真なるものも確かにあるのである。 従って、写真のレンズは人間の肉眼よりも数倍物体映像の力即ち密度に対する敏感性を有しているのであるから、この理を推進めレンズの一層進歩した物が出来れば霊の映写は可能となるであろう。

右のごとく、精巧なるレンズが成功するか又は新しい光線の発見があるとすれば人体に対し、今日のX光線のごとき装置を以て霊視する時、霊衣及びその曇は掌(たなごころ)を指すごとく視得るであろうから、 その曇を施術者より放射する光波によって解溶するという状態をみた時、いかなる唯物論者といえども、霊医術の価値を信じない訳にはゆかないであろう。ここに到って初めて、霊科学は学問の一分野となるであろう。 そうして右の原理は、X光線の反対でなければならないのである。それはX光線においては、骨とか金属とかいう、密度の高いもの程光線が透過せず、それが顕出するのであるが霊を浮び出すにはその逆で、物質的密度の高い程通過し、 霊の密度の高いもの程捕捉顕出するという方法でなければならないのである。 又、右以外、写真の乾板を進歩改良させる方法である。たとえていえば、今日の赤外線写真のごとき、特殊の映像法の発明であって、それは現在の乾板でさえ、たまたま霊が映る位であるから、左程難事ではないと思うのである。 従って、その方面の専門家諸君に対し、研究を望むものである。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-12

生きているとは何か、という問いに答えます。生きるとは何かと問われた時、答える術を医学者は持っているだろうか。生きるとは、火水(いき)ることである。 森羅万象、それが社会科学的なことであろうと、自然科学的なことであろうと、すべて火水の交合、妙合によって解きあかせる。「旧事本紀」より。 我々の現代的感覚から言えば、単に過去、現在、未来、終止など動詞の活用を知るに便利であるというくらいの文法的意義しか見出せないものである。

「あおうえい」の父音と「かさたはまやらわ」の九行の母音、つまり火水の交合の結びなす大宇宙のマンダラである。物質が電子の配列のいかんによって水素となり、 あるいは酸素となるように、それぞれの声音が、それぞれの位置によってその特性を示すのである。(強く引き出されているのが陰陽道がそれである。)さらにその水素と酸素が組み合さって水となるように、 五十音単独で意義を有しながらも、さらに二つ、三つと組み合さって、また違った意義を有していくのである。名は全てのはじまりであり。 万物はその名霊(なのたま)通りの性質、特性を持ち、森羅万象は火水の言霊の響きに応じて、生成変化するものである。言霊学に有る程度まで通暁してくると、 自然とその玄義が朝風が朝霧に払われて、夕風に夕霧が払われて、今まで霧に覆われて見えなかったものが見え出すかのように、明瞭になってくるものである。

人の生前の善行、悪行は死後に於いて神の審判を受け、善魂は正神界に至り、悪魂は誅せられるものである。漠然と日々を送って行き、 死後始めて気が付くような事が有ってはならない。よくその点を悟るべきである。正神界に於いては、我々創成の生成化育し繁栄と御心をそそがれて居るもので有って、 ここに悪と云うものは無いのである。後世に於ける子孫の中にたまたま罪悪の生じる事は、皆自らの行為に依(よ)って起って来るものである。

今の現代残虐な行為が其れにあたるものである。子々孫々の中に悪を行う物が有るとすれば、其の先祖(近い、遠い)の悪行為に依(よ)り、魂のケガレが引き続いて来ており、 ケガレの重なりに依(よ)って猶悪行を積むと云う形態も顕れて来る事もある。罪行は、遠い先祖から来るものも有ろうし、 我々現在に於(お)いても積み重ねて霊魂を曇らせている場合も多いのである。(解消出来なくも無いがここでは簡単に述べることは出来ない。 小生が知る限りではこの世に一つしかないように思われる。よくテレビなんかで見ているが、一旦は解消するが無くなる訳でもない。)

どんな人でも持っている因縁霊がある。自分の両親から家族から家系をさかのぼっていくと、一代前で二人(父、母)、二代前で四人、三代前で八人、 四代前で十六人、五代前で三十二人、六代前で六十四人、七代前で実に百二十八人、その親戚関係を含めると膨大な人々が今の自分と「因縁」を持っていることになるが彼らがその昔、 この世でどんなことをしてきたのか。むろん、人間なんだから、善行もあれば悪行もあったろう。そうした因縁を私達は背負っていきているのである。

苦しめられたりその為に死んだ人達・その他(人間は復讐心がなかなか消えず、なんとか仇討ちしたいと現世にすさまじいほど執着心をたぎらせる。)は絶対に忘れるものではないのである。 今の自分なら忘れるであろうか?。いるのであれば会ってみ見たいものである。しかし前世で相したであろうと思い悔い改めて生きて行くことが出来るのであれば別だが?。
ちょっと横道にずれましたが話を戻しましょう。人の身は骨は父の精子から生じて、肉は母の卵子から生じる。

または人は天界から生を受けるときは日月の御霊の御恵みにより、生まれ出手から日月のウル、ナミを受けて一人前に成長するのである。 また恵みということを知らなければ政事は成り立たない。父母によって育てられるのも、心の潤いを与えられるのも、また東西南北の中にして国を治められるのも、 みな人を恵む心によるものである。このように諸々の政事の教えは、すべて形、務め、道、身を修めることの四道と、東西南北の四道を備えているものなのである。 天界高天原の外は常静天(とこなえ)といい、内は天といい、その中に日月、地球(くにたま)を含む星が位置する。

高天原の「ハラ」を腹にたとえて、その内側の天を胞衣(えな)に準えて、あたかも母胎の中に子が腹ごもるように、 高天腹と天の胞衣の中で日月星が腹ごもっているのだという。地球の人の誕生というものが霊的な視点において直結していくということである。 また、人の誕生は高天腹の中に受精し胎児として宿っている状態ともいえる。このように考えて見ると霊界は、 現界に現れて来るという現象が解る様な気がしてならないのである。予断であるが霊学というものを書いてみます。

「霊学」を学ぶ目的は、各自の心の奥深に秘められている「心の岩戸」を開くためである。 また「内部生命の探求」である。(心を浄くする)「内部生命」とは端的に「心の岩戸」であり、 「霊魂」のことである。★「霊学」は「鎮魂、帰神、太占い(ふとまに)」の三法からなる。「鎮魂」とは「無形の神界を探知する」法。 「帰神」とは「神界に感合(かんごう)する道」にして「幽祭の法」であるという。「太占」はト占(ぼくせん)の法で「形象法、音声法、算数法」の三法を示す。

★「霊学」の補足;学問という辞書的意味には「勉学すること、修めること。一定の理論に基づいた体系化された知識と方法」がある。霊的なものを扱う学問の一つに霊学があるが、霊学は「超感覚的認識能力の開発・深化を前提とした修業的 ・実践的霊界探求」であり「それに依拠した霊的知識の獲得を目的とする“学術”であり、何よりも行的学問」である。霊学は人間サイドからの霊界探求である。 霊訓は読む人の理解度に応じて、同じ霊訓であっても浅く読むのか深く読むのかによって違いが生ずるし、実生活における具体的適用にも差異が生ずる。また時代背景によって慎重に考えて、現実にどのような形で私たちの生活に応用できるかを考えなけ ればならない。

●霊訓を読んで霊界の知識を学んで(教理)、その学んだ知識をどのように活用霊術(法術)するかはまさに広義の霊学(教理+霊術法術)といえる。 ●霊学といえるためには実践や行を伴わなければならないが、「実践」とはまさに「利他愛の実践」であり、「行」とは「霊優位の生活スタイルの確立」といえる。この実践的思想の淵源(えんげん〜物事の起こり基づくところ。根源。みなもと)は最も高い霊界にあり、地上世界に霊訓という形で明かされた知識に沿って実践や行 を行う 。日頃から「心身浄化」の努力の必要性がある。

心身浄化は菜食主義の食事法と「意念の統制」の二つの方向から行う。
脇が述べる意念の統制とは「自分の我の働きに、ある制御を与えることである。それは本人の意志が強いか弱いか、努力するかしないか、 その強さ如何にかかっている。また自惚れ心の強い人は、反省心が起きないからこれが出来ない。それぞれ自分を振り返ってみよ」、「善い念を日々の反省や努力によって持ち続けることが必要不可欠」である。

この意念の統制のための「日々の努力と精神統一の実習とは、両々相まって、意念統制達成のための大切な基礎工事というわけである」。このように自己修養的な意念の統制は、精神統一の実習と結びつくことによって他者(生者や死者)との関係が生じてくる。精神統一を通して自己に纏わる「因縁霊」等の背後の霊の整理ができる。

この他者である背後霊の整理(浄化向上)がつけば、未浄化霊の影響力が薄れて本人が明るくなり、さらに家のもつれた因縁もほぐれてきて家族も明るくなる。そしてその周りも明るくなって徐々に個人の集合体である地域社会も変化していく。このように和製スピリチュアリ ズムでは、「意念の統制+精神統一」という行や実践による因縁霊(自分から見て他者)の浄化向上を通して、本人・家族や地域社会を変える方法をとる。いわば自己の意念の統制が前面に出て、他者(生者)に対する働きかけは二次的なもの(自己の背後の整理が優先する)になる。 因縁霊の浄化向上により自分を変えて周りも変えていくという目に見えない世界から整理していくために、地味で目立たない活動といえる。最後に家繁栄えるには『霊的家族=「家」と結びつき、この「家」を通して祖霊崇拝』『霊的同胞』意識して生きてゆかねばならないと思う。

●自己の足元を固める(霊優位、霊的視点の物の見方の確立)ことと、他者への働きかけ(利他愛の実践等)は同時並行的(自己の力量に応じた形で)になる。「利他愛の実践」と「意念の統制」(自己修養)とは相互にリンクしている。

●瞑想のやり方を習った人達に起こりやすい地球や宇宙を救うのに夢中になって、自分の人生をきちんとする暇がなくなってしまう人達」の弊害がある。この危険性は常にあるので、内省的で他者への思いやりを持った日常を心掛ける必要がある。 また霊能者とか極度の霊媒体質者には、いわば非常に安定性の悪い精密機械のような面があり、自己管理をキチンとしていかないと低い霊と感応道交してしまうところがある。

●現代人の頭脳はあくまで理智的、批判的、解剖的になっているから、いかに偉い霊覚者でも到底一人ですべての人に充分の満足を与え得る見込みはないが、個々で考え追及して行くべきことでしょう。

●霊覚者を無視してもいかず、霊覚者を崇拝しすぎてもいかず、たった一人の霊覚者でもいけないとあっては是非ともそこに出来るだけ多数の霊覚者を集めてこれを薫陶(くんとう=徳の力で人を感化し、教育すること)養成し、そしてその能力の厳密なる審査を実行しなければなるまい。 霊能者の『養成機関と審査機関』――この二つが 完全にそろったときに、ここに初めて心霊上、信仰上、微妙な問題に関して充分の解決を与え、人生指導の大目的に添い得る望みがある。そう行かねばならないでしょう。 霊覚無視の傾向にある既成宗教は無論時代の要求に添わないが、さりとて、徒に霊覚万能のやり方も弊害が多くあり過ぎて特殊部落を作ることになる。

★『利他愛の実践』として日頃から「心身浄化」の努力の必要性がある。心身浄化は菜食主義の食事法と「意念の統制」の二つの方向から行う。脇が述べる意念の統制とは「自分の我の働きに、ある制御を与えることである。それは本人の意志が強いか弱いか、努力するかしないか、その強さ如何にかかっている。また自惚れ心の強い人は、反省心が起きないから これが出来ない。それぞれ自分を振り返ってみよ」と述べて、「善い念を日々の反省や努力によって持ち続けることが必要不可欠」である。この意念の統制のための日々の努力と精神統一の実習とは、両々相まって、意念統制達成のための大切な基礎工事というわけである。

このように自己修養的な意念の統制は、精神統一の実習と結びつくことによって他者(生者や死者)との関係が生じてくる。精神統一を通して自己に纏わる「因縁霊」等の背後の霊の整理ができるうる。この他者である背後霊の整理(浄化向上)がつけば、未浄化霊の影響力が薄れて本人が明るくなり、さらに家のもつれた因縁もほぐれてきて家族も明るくなる。 そしてその周りも明るくなって徐々に個人の集合体である地域社会も変化していく。このように、『意念の統制+精神統一』という行や実践による因縁霊(自分から見て他者)の浄化向上を通して、本人・家族や地域社会を変える方法をとる。いわば自己の意念の統制が前面に出て、他者(生者)に対する働きかけは二次的なもの(自己の背後の整理が優先する)になる。 因縁霊の浄化向上により自分を変えて周りも変えていくという目に見えない世界から整理していくために、地味で目立たない活動といえる。

「利他愛の実践」と「意念の統制」(自己修養)とは相互にリンクしている。「自己修養」を怠った状態(「選ばれし者」「霊訓を教えてあげる」等の弊害あり)で高級霊界発の霊的知識の普及という いわば「錦の御旗」を掲げて突進する活動家に陥る危険性がある。 『意念の統制(霊優位の生活スタイル)+精神統一』により足元を固めて利他愛の実践や霊的知識の普及に取り組めば、マイナス面が解消される。さらに高級霊界から示された霊訓に沿った生き方を心掛ければ、人間界から霊界探訪を行って霊的教訓を見出そうとする立場の限界を乗り越えることができると思う。

■古神道の四魂説と、神智(しんち)学の身体観;現在のスピリチュアリズムにおいて、誤解されがちな問題の一つが、人間の霊的身体についての見解です。“古神道”では人間の身体構成を「四魂説」で説いていますが、この四魂説がスピリチュアリズムの身体観と一致すると考える人々がいます。 四魂説でいう荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)は、肉体・幽体・霊体・本体(神体)に相応すると言うのです。四魂説では、肉体以外に3つの霊的身体の存在があるということになりますが、浅野和三郎がこの四魂説を主張したことはよく知られています。 その浅野和三郎の影響が、現在の日本のスピリチュアリズムにも引き継がれています。またスピリチュアリストの中には、“神智学”の身体観をそのまま信じている人々もいます。神智学では、肉体以外に、エーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体といった複数の霊的身体があって、それらが肉体に重複しているとします。

その「多次元的身体」から、それぞれ異なるオーラが放射されていると言います。

どちらも的はついてはいますが、霊界知識でいえば霊線という膨大な線(波)で繋がれているのです。その中で人間界は生存している訳なのです。当然その線の中には善・悪という事柄も含まれている訳です。 所謂(いわゆる)因縁というものです。此の因縁というものがどれだけ自分自身を成功のミチやら堕落のミチへと進んでいるものなのです。だが全て進化の進むミチでもあるのです。 だがそれを進化のミチと知らずに嘆き人を恨んだりするほど どんどん進化のミチとは反対に進んでいくのが闇の世界なのであります。闇とは御存じのように前途が見えない世界であります。 で いかに自分自身の魂を磨く事が出来るかに係わって来るのです。見えない世界と人間界とは一蓮托生(いちれんたくしょう=善・悪 運命共同体)なのです。良いことをすれば良くなるし、良くないことをすれば良くないことが起こってくるものなのです。 当たり前のことですが・・・。自分自身イコール先祖であり我である。先祖は現在の自分である。その結果が表れたのが今の自分である。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-13

人間の到達する境地とはで書いてみます。人間の到達境地とは、魂の傾向がどのような方向に向かったかによって定まるものである。 或る人間の魂がその人間の霊的活動に共感すればするほど、その人間はそれだけ完成する。その魂の要求が肉体の機能によって満足させられている分だけ、 それだけその人間は未完成なのである。霊体は人間の中心点である。肉体(体)はこの霊体(魂)が物質界を観察し、認識し、そこで活動するのに必要な仲介者である。 そして霊体は幽体と肉体との仲介者でもある。霊体は空気の振動が耳に与える物質的作用から音の感覚を引き出し、この音を快として体験する。

霊体はこれを全て幽体を通して、肉体はそれによって物質界の理解に達する。人間は自分の全ての働きに霊の方向をとらせるのでなければ自分の使命を達成することが出来ない。 霊魂は自分だけの力で物質にも霊的にも向かうことが出来る。 物質界が感覚に与える印象だけに快感をもつ。そして霊的生活もこのことによって物質の領域にまで引き下ろされる。ですから霊魂の在り方によって、 霊自身を霊的方向か物質的方向かに位置ずけられる。


死とは、物質界の現実として考察するのなら、体(肉体)の機能のひとつの変化である。死んだ体(肉体)は幽体、霊体の仲介者であることをやめ、 その機能を物質界の諸法則にまったく従属させ、全く物質化し、そして自己をその中に解消させてしまう。感覚的には、ただ肉体のこの物質的経過だけが、 人間の死として観察される。そのあと霊魂に何が起こるかは、肉体の感覚では捉えられない。事実また、霊体(魂)を感覚的に観察できるのは、 それらが生存中に物質経過の中で自分の外に表すときだけなのである。死後はこのような表現はまったくできなくなる。

だから肉体感覚による観察とこの観察の上に打ち立てられた学問とは死後の魂(霊体と幽体)の運命にとっては何の役に立たないものである。地上生活において、 霊魂は肉体を通して物質界の中に組み込まれていた、霊魂を拘束する物質の本性に貫かれ、色づけされていたので、霊自身も物質界の方向に向わざるえなかった。 現界を去ったあとは、霊界にはいるのだが、肉体という衣類を脱いで、幽体という衣類で生活する。やはり霊体も入っているのである。この幽体が現界で色を染めて、 もろもろのことを取り計らう。準備期間をせねばならない。(執着を一切断つのに必要な期間)そのようにしてまた霊界的法則を身につけていくのである。

物質生活への依存度(霊魂)が物質的なものに拘束されていればいるほど、勿論この期間は延長される。現界にいるとき、肉体の快楽ばかりを追求 していたら、霊界に来てもそれを得ようとする。得られないものを得ようとして、その魂が永遠に満たされないまま、悪循環となってさ迷い続ける事になるのです。物質生活への依存度が少なかった人の場合は期間が短く、 物質生活への関心が強く、死後なお多くの欲望(執念・執着)、願望等が幽体の中に残っている人の場合は長く続く。

もうすこし解りやすく言うと、人は味合う楽しみは身体的なものではなく、霊的なもである。(霊細胞→幽細胞→肉体細胞で操っている。本霊が要求するものは霊細胞が要求し、 さらに肉体細胞が要求する。それが食欲となって現れる。)この欲望を満足させるためには、そのための身体器官である口腔や舌が必要である。

ところが死後、霊魂はこの同じ欲望はすぐには失われずにもっているのに、それを満足させる手段である身体器官を、もはやもっていない。そのため、激しい苦しみを、 霊魂は味合う。
霊魂が要求するものの中で、身体器官を通さずにはその欲求を満足させることの出来ないものは全て、このようにして霊魂を苦しませる。 霊魂が欲求を求めても、もはや無駄だと悟るまで持続する。吾が身を考えたらお分りになるであろう。だから子孫が祖霊を祭って食の執着を取ってもらうための準備期間を私達現界でさせて頂くことが基本姿勢である。それによって一切の執着が取れるように修行して頂くことが最大の使命である。勿論全ての霊魂ではないが地所生活に於いて最も粗末な事物に欲望を向けてきた人間だけが苦の世界陥ってしまう。あまり渇望にとらわれなかった人は、その苦の世界に陥らずに通過してしまう。なぜならこの状態の欲望があまり無いからである。この世の生活の中で欲望と同化する度合いが大きい程、それ故浄化される必要が大きい程、霊魂は長きにわたって、この苦しい領域状態から抜け出せないでいるのである。こうして、 あらゆる領域状態を通過して、幽界から霊界へと上がっていくのである。この状態はほとんど肉体的感覚はほとんどのこされていないのである。

★この地上に降り立った人間は分割した分霊魂であり、単なる『修行』及び『禊(みそぎ)』をするか『魂の向上』更にはこの地球を天国文明というか、『より良い国』・『理想世界』にするのが本来の役割なのである。 之を知らないが為に各国で争いや、はたまた家庭内での殺人事件などが繰り返されてるのが現状です。   霊魂観・魂界の光(風雷著)より引用。

豆知識-1;いい種を蒔けばいい実がなるし、悪い種を蒔けば悪い実がなる。そしていずれは蒔いた人が全部刈り取らなくてはならない。つまり良い事も、悪い事も、己がやった事は そっくり自分自身に返ってくるということです。いかなる人で在ったとしても、この世を去るときは、財産だとか地位とか名誉は一切持っていくことが出来ないのです。あの世へ 帰る時には、肉体はなくて、魂だけのすがたですから、持っていくのはその人が蒔いた種であるところの罪穢、あるいは功績だけなんです。そして蒔いた種の実があの世でなり、 各人はそれぞれの罪穢、あるいは功績に相応した霊層界へゆくことになるのです。現界というのは肉体界であり、霊層の高い人も低い人も、みんな一緒に暮らすことができます。

一番近いところでは家庭です。しかし、一旦肉体を脱いで魂の界に入ると、各々の霊層によってゆくべき霊層界が厳しく別けられます。(親子だろうが自分の行い次第なのです。 永い間かかって親子になったり兄弟になったり又出会うことにもなるのです。相応の理です。全て自分次第なのです)霊層界が違うと、お互いに話すことは おろか逢うこともできません。要するに、再生転生を繰り返している人間にとって、現界にいるときほど自由な所はないのです。又反面自由といことは、み魂を磨く良いチャンス を与えられているのです。ですから私達としては、本来の神の子(今は肉の子になっています。)に元還りすることが大切な事です。

上記まとめ;人間は霊体・幽体・肉体の三位一体から成っています。それは霊体(霊)が主で、幽体(心)が従で、肉体(体)が属の関係になっています。 これを「霊主心従体属」の法則といいます。宇宙構成の根本原理の一つです。人が死ぬということは、霊体・幽体・肉体の三位一体がほどける状態をいいます。 ホドケるからホトケ(仏)というのです。「霊魂不滅」という言葉があるように、人間の肉体は滅んでも霊は依然として生き続けています。 人が亡くなり、肉体という着物を脱ぎ捨て、霊体・幽体となり、指導霊に導かれ、幽界といわれる修行の場へ旅立つのが普通です。

そして幽界で三十年以内に現界に対する一切の執着を取る修行をさせられます。肉体細胞は顕微鏡で確認することは出来ますが、霊細胞や幽細胞などは極微で非物質のものですから、現在の科学では確認することはできません。 霊体と幽体とが一緒になって現れたものが幽霊です。また、幽体と肉体とが離れる現象では幽体離脱(体外離脱)というものがあります。

霊細胞・幽細胞・肉体細胞を浄化するには、神様のみ光によってのみ浄化させることができるのです。所謂霊的光力の業です。 神道などでは、水の中に入り行う禊ぎや御祓いや、キリスト教では水による洗礼を行いますが、これは水の時代に形骸化(けいがいか=成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして、形ばかりのものになってしまうこと。)された形であり、 霊細胞・幽細胞・肉体細胞を浄化させることはできません。

現在の人々は神様から離れてしまい、神様のみ光は入らなくなり、化学薬品などにより肉体の毒化も招いていて、魂霊も曇り汚れ、罪、穢れを多く包み積んでいますから、病貧争災といわれる不幸現象を招いているのです。 本当に霊細胞・幽細胞・肉体細胞を浄化すれば、放射線などを気にすることはなくなります。霊障も受けない人となり、不幸現象の元となる霊障は解消され、健和富の人とも成り得るのです。

豆知識-2昔から人類にはミソギハラヒの大仕組みが天地間の仕組みとして存続され、あらゆる宗教にミソギハラヒの形態が、何十万年と続いているのです。 ミソギハラヒとは、本来はどこまでも超古代のミソギハラヒで、霊(ミ)(実)削ぎ開陽霊(ハラヒ)という、大自然弥栄えの神仕組みの、厳然とした妙法でした。 言い換えれば、ミソギハラヒは、「霊質の汚濁毒化を削ぎ取って」、太陽の精霊のように暖かく清らかで明るく正しく、ス直な神性霊力の復活を意味する方法です。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-14-1

「旧約聖書とは」に触れます。モウシェ(モーゼ)が作ったものではありません。 モウシェより千年も前のゾロアスター(ペルシャの大聖者。上古第二代天皇の十六人の皇子の一人で、古文献に載っています。)が残した聖典『ゼンダ・アベスタ』をヘブライ語に和翻訳したものに過ぎません。 ゾロアスターとは、ダビデの先輩でヤマト族です。日本の「スメル族」出身の、ペルシャの大聖者です。ゾロアスターの信仰は、イエスの師ヨハネに伝わっています。(ちなみにアダムとイブという名は実はアダムイブヒ赤人女祖様(あかひとめそさま)というお名前の方である。) ユダヤ教の宗教思想の核になっています。「神は光なりき」の思想がそれに当たります。モウシェは十戒を石に刻みました。この十戒の文字は、実は日本の神代文字です。

十戒も日本にあったものをそのまま記したものです。ユダヤ人には読むことができなかったのではないかと思われます。イスラエル文字といえば、イスキリ文字があります。 しかしそれと別に、太古イスラエル地方に五色人の王様を派遣したとき、別の名前が与えられました。イエスの弟によって作られ『聖書』は、 はじめはヘブライ語やギリシャ語によって書き表され、それが原典になったといわれています。

言霊豆知識;イエスは当時の人類を改心させ、神様にひきつけさせるために水にて人類に洗礼を授けられた。つまりこれがイエスが人類に残された聖書の教えです。 しかれども我、すなわち自分よりも後の時代に訪れる方、つまり後の時代に自分のような役割(人間と神様をつなげる役)をする方は、精霊と火による洗礼を授けるだろう。

水によるバプティスマ

水は火の相対的な働きを示すものです。火が霊の面であるのに対し、水は体の面になります。体に順ずる心を主とした教えで当時の人類を導いてこられたのがイエスです。 (聖書はほとんどが心の法則や掟を教えているもの)つまりイエスは霊の世界についてはお前たちに示さない、それを示す方は自分よりも後の時代に訪れるのだと言っています。 しかも、その方が示されることに比べれば、自分が示したものはワラジもとるに足らずと言っています。つまり真理のごく一部であると述べているのです。 また伝道のなかで弟子に対しても「我、汝らに示したきことあまたあれど、今、汝らは得堪えず」と言っています。

つまり、本当は私はお前たち(当時の人類)に示したいことはたくさんあるのだ、しかし今、つまり科学の進化途上にある時代の人類にそのこと(霊の世界のこと)を話しても、 それを理解することはできないだろう。化学文明が進歩し、物質の奥の世界(素粒子の奥の世界)が人類に示されるようになってからでないと、 その世界のことは理解できないのだと言い残している。釈尊も同様に弟子からの問いに対して仏教とは真如の教えなりと述べています。

つまり、真のような教えという意味で月、体、心の教えだと言っています。イエス様もお釈迦様も霊の世界のことをほんとうは伝えたかったのですが、時代がそれを許さなかったのです。 だだし釈迦は入滅三千年後にそれを伝えるものが現れるだろうと日蓮に極秘に伝えたられたとされる三澤鈔の中にその予言を残しています。


要(かなめ);毒矢のたとえ  「永遠の魂がどうのこうのあの世がどうのこうの知ることよりも、今おまえに必要なことは一人でも多くの人を救済する法(毒矢を抜いて手当てする)を学ぶことです。」 とブッダ(釈尊=お釈迦様)がその弟子に諭(さと)している。

三澤鈔のなかの一部公開致します。

仏教の”ミロク下生経”の中には「正法を説く者世に現れる」とでている。しかも「在家より現る」とあります。在家とは本職でない、仏僧でないということで、 釈尊からいえば自分の弟子でない素人の方から現れるということです。今でもよく在家仏教ということがいわれております。  この点は、釈尊もイエスの同じことをいっているわけです。したがって仏教が真理の教えであるかの如く、またキリスト教もイエスのいったことを真理であるかの如く説いたならば、 これは釈尊やイエスに対しては邪である。釈尊やイエスからいったら邪教になる。真理であるかの如く説いてきたのは、いづれも弟子達が勝手にやっていることです。 このことを裏付ける一つが、日蓮上人の御遺言文集にあります。 日蓮上人の御遺言文集というのは、これを読むとわかるように、釈尊がいわゆる重大因縁である神界の秘め事として伝えましたことが、 日本においては弘法、日蓮に伝わっております。それで日蓮は、このことを自分の弟子の中のわずかな者に語っております。たしか三人だったと思いますが、それが三澤鈔にあります。 「我につきたりし者共に真の事をいわざりけると思いて佐渡の国より弟子共に内々申す法門あり」これは日蓮が佐渡に流されたときに、何時殺されるかわからないので、 その前にまだ本当のことをいわなかったことがあるのでいっておこうと思ったのでしょう。だから弟子共に内々申すことあり。即ち内緒に申しておく、といっている。

それは「仏より後」この仏は釈尊を指している。 「仏より後、加葉、阿難、龍樹、天親、天台、妙葉、伝教、義親等大論師大人師は知りて」そういう大論師達は知っている。 この中の天台というのは弘法をいっております。したがって弘法も同じことをいっております。「而かも其の心の中に秘めさせ給いて口より外に出し給わず」この人達が心の中に秘めてきた、 釈尊から伝わっている秘め事が一つあるのだということ。「其故に仏制して言う」この仏は釈尊のことで、釈尊はこのことを制限を加えていっているということです。 「我滅後末法に入らずば、此の大法言うべからずありし故なり」自分が死んで末法の世がこなければ伝えてはならない、公開してはならない。

それはブレーキ宗教だから神の経綸を知らせてはいけないといっている。「日蓮はその使いにあらねども其の時刻に当たる上に存外」即ち思いのほか、 この法門を悟っておれば、次のようなことがわかる。 「聖人出させ給うまで」ヒジリ(神霊界の仕組み及び霊界の仕組み・神の経綸・現世の仕組み・人間の構成・全世界宗教の正法説き明かす人)の人が出現されるまで、いわゆる応人のメシアが現界に出現するまでは、 ということです。「まず序文にあらあら申すなり、しかるにその法門出現せば」ところがその法門というものが再び出現したならば、 「正法像法に論師人師の申せし法門は」つまり今までのあらゆる大論師大人師が説いた法門というものは、「日出でて後の光、巧匠の後に拙きを知るべし」ちょうど日が出てから後の他の光のようにうすらいでしまうもので、 妙法として大論師や大人師即ち各宗門のえらい方達が、いくら巧みに説いたつもりでもまったくだらしのないものになってしまうのだということです。


かつてインドにアーリヤ人がはいった時代、日系の大様の中で一番勢力を持っていた王族が釈迦族というので、その王様のご子孫に生まれたのがカピラ(神日来)城のゴータマ・シッタッタ 、つまり光の玉であることを知ったひとであります。シッタッタというのは、向こうでは何事にもよく通暁(つうぎょう)した人ということです。それをサンスクリット語でシッタッタと言う、 まさに日本語そのままです。ちなみによく仏教でいわれる第四都卒天とは第四次元界の霊界です。いわゆる幽界です。此れを知らないのが仏教界だそうです。 釈尊が晩年に『ワレ見神実(けんしんじつ)に入れり』といわれたことが、その教えの中に残っています。この言葉は、丹波の元伊勢で修行したあと、発表されていますが、 釈尊は越中の白龍満堂で四十日間の行をされた後、本当は天照主日大神様(アマテラスヒオホカミ)のご神霊にお会いになっておられます。そして、大神様から色々のご神示 をいただいている。そのことが、釈尊の歴史からかくされいるのです。そのとき釈尊は、神の経綸を聞かされ『お前の役割は、三千年のあいだ導くことである。いわゆる仏滅の世 (ようするに天意転換期です。)が来て、世が移り変わって神の経綸が変わるまでの間お前が受け持てよ。惟神(カムナガラ)の教えを残してこいよ』と言われた。 系図をみると、日種王のご子孫に、カララ仙人という方が出ています。。したがって、カララ仙人は日本のご皇室の直系ですが、釈尊が一番最初に教えをうけたのは、このカララ仙人 からなのです。インドで、日本のご皇室の系統の王族の仙人に、第一番に釈尊が弟子入りをしていることは、ご自分が日系であったから当然のことだと思います。

釈尊が三千年にわたる経綸を神様から聞かれて、驚いて伝えられたのが、法華の説法です。だから、法華の説法はほとんど惟神(カムナガラ)の道そのままです。その後に説かれた 重大予言書は、今日支那仏教から隠されていますが、釈尊は「自分が死ねばこの説法を消すだろう、隠すようになるだろう」と弟子にいっておられるのが記録に残っています。 それが「法滅尽経(ほうめつじんきょう)」なのです。また日本の歴史を隠したら、釈尊についていくら研究しても分からないのは当然です。釈尊は三千年たつと、末法の世が くると説いた。イエスはそれを終末の世と説いた。末法の世とは五濁(ごじゃく)、五逆(ごぎゃく)、五乱(ごらん)が起こる。つまり五は霊を表すので、霊は曇り、霊は逆になりつまり肉体が主になり、 乱れた世になることを意味しています。物主霊従になっていることをハッキリ述べ゛、魔道(邪道)が盛んになって、手のつけられない乱れた世になるゾ、ということを予告して おられます。現代がまさに釈尊が予告したとおりになっています。そして「淫佚(いんいつ)濁乱(じゃくらん)すること男女を別たず」で男も女も同じように淫蕩(いんとう) になる世の中が来るぞと、ちょうどアメリカのエロ文化が入ってきているのと同じ状態を予告しておられます。色々と説かれております。

「諸天竜神泣涙(しょてんりゅうじんきゅうるい)するもこれを捨てて守護せず」、諸天はもろもろの天の神様で、梵天の天で、宇宙創造の神、絶対神をインドでは梵天ということです。 そして、竜神ですから大天津神界のハセリミ神界で、龍体化してご活動なさる神々をさすのですが、その神々が泣かれるようになる。おおまかはこのような事です。 その当時は支那の文明を受け入れなければ侵略される恐れがあり、中国におべっかいを使わなければならなかった時代です。その時に受け入れた仏教が今日も続いているので 御座います。だから釈尊の大事な教えは、全て骨抜きになっているのです。いわゆる日本が骨抜き状態になっている状態です。また日蓮上人のご遺文の中に、次のような個所が あります。『佐渡の国より弟子どもにないしょに伝えるぞ』と、これは釈尊自身が公開することを許されなかったので「ないしょに伝えたものである」ということを言っています。 (釈尊の特級研修会の中にある)。それは「釈尊が死んで末法の世にはいらない間は、この大法はけっして言っては相ならん」といって伝えた教えである。それを「ワシは本当の 直弟子にだけ話しておくよ」といって「大論師(だいろんし)の説いた法門は皆、日がでて後の光,巧匠(たくみ)の後に拙(つたな)きを知るべし」日が出てから後の光に照らされて みると、大論師いいかえると釈尊の弟子たちがたくみに伝えてきたことは、まことに拙いものであったことをしるであろう。この「後の光」とは「神の光」と言うことなのだそうです。

つまり光の神が出現した時は、お寺も仏像も坊さんの方々も皆霊験は消えうせてしまうだろう、と釈尊が自分の特別な弟子にだけ語ったが、一般公開を禁じたのである。 「それは、ワシはお前達だけに極意として伝えるゾ」といわれたのが、この日蓮の遺文なのです。もう本当の宗教はなくなったということも、うなづけてこられると思います。
なぜ小生がこんなに書くのかと言いますと神がいるぞ!そして霊界があるぞ!それに神の経綸(計画)があると言うことを伝えたい為なのです。それによって世界が変わっていくんだ と言う事をお知らせしたいだけなのです!!今すぐにとは云いませんが可なり世界的なことなので急いで受け入れなければならないような気がしてなりません。一刻を争う(いろんな意味で)と 思われますが強制的なことでもありませんが・・・。その人その人自身の問題でもありますが・・・。

言霊豆豆知識-1;今日では釈尊だ、弘法だ、日蓮だといって主神を押しのけて人物を主体として信仰しています。キリスト教も同じです。キリスト教でもイエスが信じたのは、 「キリスト」つまりギリシャ語でいう「メシア」であり、それは救世の神ということです。彼が「天の父」と呼んでいる神様です。日本では、「父神」といえば、天照主日大神様か、 この神様をお生みになられた国万造主大神様を指します。このようにイエスは救世の神を信じていました。教えを受け継いだ弟子たちは、イエス像を祀ったり、 イエスの母のマリアの像を祀って拝むようになりました。が しかし、釈尊にしてもイエスにしても、神の偉大な恩恵を世に伝え、人々を神のみ心に接しさせる役割であり、神のみ使いであったことは確かです。 人物主体の信仰はいけない。あくまで神主即神向であり、そのみ使いの師たちは師として敬人するのは当然のことといえます。しかし、順序を誤らないことが、正法神向では大切なことなのです。

言霊豆豆知識-2;釈尊、イエスなど、聖雄聖者といわれる人の生存中は、神との交流交感のもとに、多くの奇跡を起こしつつ説法が行われました。 釈尊はインド最高の仙術者であり、イエス(イスラエルの民)はエジプト、ユダヤを通じての霊術者でした。しかし、これらの聖者の没後数百年、弟子たちにより、仏教、キリスト教として伝わる頃は、次第に救霊、救世の霊力を 失ったのです。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-14-2

(補足)イ)釈尊の教え  釈尊は”仏三千年にして滅す”ということをいわされておりますが、釈尊の時代に、それが仏三千年にして滅すということが普及してしまったなら、どうせだめになるものならやってもしかたがない、 ということになってしまう。み弟子が釈尊にいっておりますように”もしこれを公開したならば、仏道を修ずるもの何人かあらん”ということで、みながやらなくなってしまう。 一応仏教・水・月の教えを盛んにして神をアイマイにし、遂には否定させないというと唯物思想がおきにくい。したがって、釈尊がいっておりますように”真如を説く”で、 大元をかくしたものを真如というのです。本体があらわれていれば、これは真=シン=マコトになってしまう。マコトの霊智になる。真ドウ一偏倒では唯物の思想が起きないという神のご経綸上、 この本体を釈尊はかくされなくてはならなかったし、イエスにしてもある程度ボカシながらブレーキはある程度人類へかけなければならなかった。 それが当時の神・仏・基・孔・孟の教えなどの、宗教宿命であり『宗教の本質』なのである。 イエス・キリストや釈尊たち聖者たちは水の時代の「真如の教え」「仮の教え」を人類に説いて行かれました。

●「人類の欲望などが行き過ぎないようにブレーキをかける役をされ、物質文明開発の意欲を進めるようにされたのです。これが世に言う「宗教」なのです。╋がほどけたもの、┃━がほとけ(仏)となります。 仏とは神が仏に化身され、仏界に降りられたものです。(例として天照主日大神→大日如来など)神仏一体で、どちらかが上でもなければ下でもないのです。 大日如来とは大きい日の神様から来られた如しの意。天照主日大神様が変化されて仏界へ降りられたお姿が大日如来。また仏は神であることが言霊より知ることができます。 観音様のカンノンのカンは神、ノンは音、古代神のことをノンノ様といっていました。ノンノは光の神のことをいいます。お寺の語源となった元の言葉は、天照主日大神の照(てら)から来たのです。 元は光、光の場という意味になり神の光を伸べる、または神の光を発揮する場所のことです。 神からホドケてきたものが「菩薩」で、神霊界から幽界の救いに降りたたれるのです。菩薩とは炎・日を去ったお方、正しくはボサッタといいます。阿弥陀如来などの如来とは日(火)の国から来た如しの意。 お寺の記号は卍で表しています。これは神十の右回転力(物主)を表しています。」 卍(まんじ)をサンスクリット語ではスワスチカと呼ばれ吉祥の印であると説明されています。

スワスチカの印は、弘法大師やヒットラーなどが用いていました。 弘法大師は卍を用い、ヒットラーはハーケンクロイツを用いています。 ハーケンクロイツは神の十が左回転したものです。ヒの霊統なので左回転になっています。(火・陽の回転の世、日系神の世、霊主の世) 卍は神の十が右回転したものです。仏教は月なので右回転の卍になっています。(水・陰の回転の世、月系神の世、物主の世) スワスチカの印は、スの神様を中心にした、天地創造の神様の四大源力となられた四柱の神様の大活躍を表現したものです。 四柱の神様が回転(活動)すればスワチカとなるのです。このスワチカは仏教には本来無かったもので、ムー大陸の太陽族の子孫のマヤ族のマークであったものが仏教に継承されたものだということです。 スワチカはインド文明を興したアーリヤ人の先祖のスメル族の太陽族が崑崙からシュメール(スメル皇族)の子孫がパミールを越えてインドへ渡り、そして仏教の思想になったといわれています。 ホドケの時代になると神より仏の方を尊ばせ、物質主体の考え方に進ませていかれたのも神様のご経綸なのです。弥勒観音などのミロクとは数霊で三、六、九と五、六、七と表します。

三六九と五六七を足すとどちらも十八になります。十八は数霊では神開くを表します。ミロク観音の下生する世、正神がお出ましする世を願うという所から来ています。(ミロク聖観音) ミロクとは天神七代のうち、五、六、七代の神様のことを指します。キリスト教ではメシア降臨の世と言われています。南無妙法蓮華教や南無阿弥陀仏のナムアとは数霊で七、六、五と表します。 七、六、五(現、幽、神)ナムアは水の時代の逆法の世、五濁・五逆の世。正神のご出現を願わない祈りなのです。いずれは滅び去る運命にあるのです。ナムア、ミダブツ、ナムアミ、ダブツは、逆法の祈り。 五、六、七(神、幽、現)ミロク(アミダ)は火の時代の正神の世。法の世ということになります。阿弥陀とは完成した方を表します。

 人類創造期の崇教から「ホドケ」させて宗教をつくらねばならなかった。確か阿難だと思いますが、第一の弟子が釈尊に、”仏教の教えは一口で申しますとどういう教えですか” と聞いておりますが、それに対して”真如の教えなり”と一言で答えております。真ではない、真の如き教えである。月の教えであり、かりの教えであることをハッキリいっている。 これは字でみるとおもしろいが、「月」という字は下を取ると「日」になるのです。だから月の中に日が含まれているのです。これはなかなか深い意味があるのです。 そういうわけで、仏教の中から日が生まれるわけです。要するに夜の世界が昼の世界になるわけです。 仏教はお釈迦さんが「仏滅の世が来る、それからミロクの世になる」と言って、つまり月の教えは夜の教えです。

それでは仏教でいう真理、即ち釈尊の言葉でいえば正法(ショウボウ)というのはいつ説かれるのかということについては、仏滅のとき、即ち末法の世、 いいかえると釈尊が死んでから三千年後といっております(ちょうど現代が三千年になることを思い出して下さい)。ついでにいっておきますが、現在の仏教学では、 五百年位差があるということになっておりますから、釈尊は今の仏教者のいう二千七百何十年からいえば、大体三百年から五百年の年代の差があるとすると、 今日がその三千年を過ぎていることになる。その頃には仏滅の時期がくるということをハッキリいっておるのです。

この様な事から想像致します所、ありとあらゆる説いている仏教・神道に至る全て説き明かされたと言う事になります。まだ未公開の秘め事を除いてですが・・・。 他にあるのならばお教えいただきたいものですが・・・。のち三百年(要するにこの間ではこれ以上のものが出ない)は説き明かされないということですがまさにイエス、釈尊が昔言われたことと同じ事を言われております。

釈尊という名は日本の古文献にしか出てこない方であり、生きた人物の釈尊を霊的な面から見ますと、すばらしい霊術者・印度最高の仙術の行者です。インドで一番の仙人と、いろんな術 の競争をされ、勝たれた方です。釈尊がみ弟子に何を教えたかと申しますと、印度の人物歴史では、『われは超人的な天眼(サンスクリットでは神の本性をみぬくこと)をもって、 もろもろの生死をみたり』ということです。要するにそれは、自分は超人的な力をもち、肉眼でない、超人的力でいわゆる霊眼を開いて神霊の世界、人間の世界、人間の生と死後 の実相世界を体験したからおまえたちに教えるのである、ということです。霊眼を開く術を教えたのである。そしてそれを一番早く体得したのが、例の第一の高弟、目連である。 そのように霊術を教え、霊眼を開かれた方です。パーラミター(到霊眼)は霊界の実相智に到達した、霊の世界を開いてみるというのが原語なのです。これが支那哲学の仏教になり、 いまの哲学になったから「到彼岸(とうひがん)」という字を使う。こういうところに、各宗教の本体の世界がねじこめられ、ごまかされてしまって、人間の哲学で解決しようという唯物論 になってしまった事実がある。悪いけれども、哲学は人間の知恵であり、人間の科学です。イエスを見ましても、実際のイエスは、やはり霊術者です。そして、当時の日本から 中央アジアにわたるあらゆる宗教を研究して、研究した上に霊術の探求(たんきゅう)をして、術をわきまえた。しかもこれは日本で学んでいる。その霊術をもってイスラエルの 救いに立ち上がった。ですからバイブルをごらんになれば、いたるところで霊術によって足が不自由な人を立たせ、中風を立たせ、目くらは目を開かせている。これこそ霊的光力なのです。

今日では国際心霊科学からいっても、人間にはハッキリ死後があることは、もう定説になってしまっています。神霊の実在は、これもはっきりしてきている。ただ今日の低次元の 唯物の科学では、証明するところまで科学がきていないという悲しみの世界にあるというだけの問題です。さて皆様のご先祖様も、皆様の家を恨んで死んだ女や男や、あるいは 皆様の先祖に殺された動物霊が、いかに皆様のお宅を恨み、その人を恨んで、気づいてあやまるまで、あらゆる方法で一家を皆殺しにしたり、苦悩苦悩と仕組んで、マコトにしつっこいくらい、 我々にいかに悪影響を及ぼしているか、健康に病気に、商売に事業に、果てしない悪活動をしていて早く気がつかないといけません。皆さんがこの霊的光力を習得され自分で体験 して見られればはっきりと解ると思います。万霊がわれわれ人間にはみえないピチピチとして活動しているところに人間の弱さがあり、一大共通盲点があることにしっかりとおつかみいただき ほんとうの幸せな人間になりつつ、神霊の実在を悟られることを願わずにはいられません。

豆豆知識;水といえども、 決して悪ではないし、そもそも宇宙の大根元の神様は、 善悪などお創りになってはおられない。 火のタテの働きあって、 そこにヨコの水の働きが十時に結ばれてすべてのものは生成する。 水の働きというのは、 実に重要な働きなのです。 水の世とはすべてが天地初発の時からの神様の経綸の一つであり、 今は金毛九尾などの邪神・邪霊が跋扈(ばっこ=わがもの顔に振る舞うこと。勝手気ままに振る舞う)しようとも、その中心となる水の副神の神々は悪ではないので、 今の世は神の経綸も知らずに、 自在の世にあって勝手に神より離れ、 欲心に操られた人々が火と水のホドケの世を招来(しょうらい)せしめてしまっただけである。 水の世は悪の世ではないのです。 あくまで火がタテであり主であって、 水はヨコ、 従であるということだけである。個々の所は大重要である。

(ロ)釈尊の予言

仏滅の時期が到来するということを予言した証拠に「法滅盡経(ほうめつじんきょう)」があります。これにははっきり仏滅というものを表現しております。 極秘の神界重大因縁として一般公開を極力避けているということからでありますが、 「三宝の処(ところ)無し、法滅せんとする時、女人(にょにん)は精進し恒(こう)に功徳を作(な)すも」女の人はわりあいに信仰を持って精進するといっております。 。釈尊は三千年前にこれをしっていた。 「男子は懈慢(けまん)にして法語を用いず」ここにある法語というのは、釈尊は後世発生した仏教を予め察しておりますから、 この場合はいわゆる仏教の無かった時代の教え即ち自分の金口(ごんぐ)の説法の義のことです。 その法が滅せんとするとき、女人は精進し恒に功徳を作すも、男子は懈慢にして法語を用いず、つまり、もう形骸的な宗教となってしまい、 そういう法語は用いないようになってしまうということです。 「眼に沙門(しゃもん)を見ること糞土(ふんど)を視るが如く信心有ること無し」沙門というのは坊さんのことです。 坊主を見てもウンコや土を見るようなもので、信心などはしないようになってしまう。まあそう見られるまでに坊主さん達が堕落、低価値化するということをいっているわけです。 この後に出てまいりますけれど、「法将(ほうまさ)に盡没(じんぼつ)せんとし登(と)そつ天の時諸天龍神泣涙するも之を捨てん」諸天龍神は泣いて捨ててしまうわけです。 「水と旱(ひでり)は調(との)わず、五穀は熟さず疫気(えきき)は流行し」水と旱調わずとありますが、今がちょうどそうです。たとえば北と南とではえらく様子が違ってしまう。 一方が断水で困っているかと思うと、他方では洪水がおきている。水と旱が不調である。また五穀は熟さない。日本では熟しておりますが、 支那では米を米国から輸入しなければならないような状態に何度もおかれている。 共産主義政権として農業政策はどちらも大失敗であった、ということは皆さんもご存知の通りです。米産の国であるインドが米にこまっている。あるいは、 最近アジアやアフリカのある国では米飢饉で、子供達は骨と皮になっている。これはみな米食民族です。疫気は流行し死亡する者多し。疫気流行の時代です。 あらゆるいろいろな病気が出ている。 「人民勤苦するも。県官(けんかん)は剋(こく)を計り」収賄(しゅうわい)これを事とするようになって「道理に順(したが)わず。皆楽を思いて乱れ」もうなんでも楽々、少しでも楽をしよう、享楽(きょうらく)、 レジャーブーム、軽音楽に踊り狂う。そうしてあらゆるミチは乱れる。秩序が乱れてくる。その代表的なのが全学連の全世界一連の運動になっている。 「悪人に転移するもの海中の砂の如し」悪人というものは砂のようにふえて行く。「善者は甚(はなは)だ少なく、若(も)しくは一、若しくは二、却盡(ごうつ)きんとするときが故に日月(じつげつ)は短に転じ、 人命は促に転じ、四十にして頭白し」四十にして頭の白くなる者が出てくる。そういえば、この頃は四十代で頭の白い人がふえてきました。 「男子は婬佚(いんいつ)にして精盡(せいつ)き夭命(ようめい)となる」男子は婬佚のために精力が盡きて寿命が短かくなる。

「或(ある)いは寿(じゅ)六十なるものあるも男子の寿は短し」男子の平均年齢は短くなる。「女人の寿は長く、七、八、九十或は百歳に至るものあるも」しかし女の人の方は長生きする。 本当に今は女性の方が長生きです。男の平均年齢というものは医学の都合のようように宣伝しておりますから、いい加減なものですが、しかしそれでも大体女性は七、八十歳と長くなっている。 でも人類本来の長命期とは比較にならぬ人類短命期がここ一、二万年である。 「大水忽(たちま)ち起こり卒(つい)に無期に至る」方々で洪水がおきてきている。中国でも日本でもアメリカでも世界中各地におきている。 このように洪水がおこってとうとうしまいには年がら年中風水害で荒らされると予告している。 「世人(せじん)信ぜざるがごとが故(ゆえ)に常有(じょうあ)ること無し。衆生雑類豪践(しゅじょうざつるいごうせん)を問わず没的溺浮漂(ぼつできふひょう)し魚のくらうところとなる」しまいに人間が魚に喰われるようになる。 そういえばその通りで、今はもう魚の毒のために人間が喰われているではありませんか。それから飛行機が海に落ちれば魚に喰われてしまう。 「福徳之地(ふくとくこれち)なりてんぱくにして自ら守り以て欣快(きんかい)となす。寿命は延長す。諸天衛護(しょてんえご)し月光世に出で、相遭(あいあ)うことを得て共に吾道を興(おこ)すも、 五十二歳の、首りょう厳経(ごんぎょう)、般舟三昧経先(はんしゅうざんまいま)ず化して滅(めっ)し去る…」

【ここで一言;聖者と言われる人は道端なんぞでは死なないし、ましては神の使いとなれば尚更なことである。よくよく考えてみれば解るものなのだが・・・。】

ここに突然五十二歳と出てきておりますが、これがなんで出ているのか仏教界ではわからないでいる。えらい坊さんに聞いてもわからない。 東大の先生やその他二、三人の方が”たぶんこの経文を写すときに誰かが他の経文にあったのを写し間違えて入れたんだろう”といって説明している。 何もわからないのです。実に滑稽です。釈尊は五十二歳のときにセイロン島を離脱している。そして日本へ出発しているのですが、 その証拠がこの法滅盡経にハッキリと出ているのです。 釈尊が日本へ脱出した。それで「舎利骨」についてですが、現在いわれているシャリ骨などというものは釈尊の骨とは断定できません。 釈尊は七丈の袈裟を脱ぎ捨てて日本に亡命しておりますが、それは変装するために、自分がまとっていた七丈の袈裟を路傍に倒れていた老人に掛けて出発した。 弟子たちは釈尊が倒れたと思い込んだ。というのはかけつけたときには、もう顔が腐ってしまっていた。そこで七丈の袈裟が掛けてあったので、 たぶんこれは釈尊であろうということになった。それで甘茶をかけて消毒した。甘茶は当時消毒剤として使われていたのです。 それが今日のオビンズル様に甘茶をかける風習として残っているのです。

この五十二歳の始めということと同時に、”りょう厳経”というところは、仏教者たちには今だにわからないでいる。先程も申しましたように、 他の経文からその文字だけはいってしまったのだろう、と苦しい説明をしなければならない。これは、おそらく釈尊が出発した何かのことがここにあったのでしょうけれども、 それを消したか偶然に五十二歳という年がここにポカッと出てくることは重大な問題なのです。 先程の骨の問題になりますが、釈尊の骨を探そうと思うのなら、これは日本でなければ永久に出てまいりませんでしょう。 「吾法の滅する時は譬えば油灯の如し。滅せんとする時に臨(のぞ)めば光明更に盛んとなり、是(ここ)に於いて便(すなわ)ち滅す」吾法の滅するときは、 たとえば油灯が消えるときの如しで、一度盛んになってから滅するといっている。これが蓮華の花、法華の花で、花は散るという原理になってくるわけで、 今、法華が非常に盛んになって、特にS学会のような法華の花が咲くことを釈尊はちゃんと予言している。灯というのは、最後に一度シューッと燃えてから消えるもので、 その原理をいっておるのです。光明、実は盛んとなりそれから滅するのであると、日蓮様の三澤鈔もその義を直弟子に秘密の大事として伝えているのもそれです。

「此の後よりは数々説くべきことは難し」これから以後は説くことができなくなってくるぞ。説くことは意味がなくなってくるということです。 「是(かく)の如きの後数千万歳にして弥勒当に世間に下りて仏と作(な)るべし」そのときにミロクが下生するのだと。そして仏さんのようになってくるぞと、 イエスはメシア降臨、惟神(カンナガラ)の歴史では七度目の天の岩戸開きなどといって斬を一つにしている。この天の時至って初めて「天下は泰平(たいへい)となり、 毒気は消除し、雨潤和適(うじゅんわてき)し五穀は滋茂(じも)し、樹木は長大となり、人の長(たけ)は八丈となり皆寿(いのち)ながし。 八万四千歳にして衆生(しゅじょう)の得度(とくど)するものは計を称(しょう)う可(べ)からず」バイブルでは神の契約としてエデン文明の姿を同じように述べている。要するに天国文明がくるぞ、 その前に毒気を消除する状態が出てくるぞ、
これはまさに今である。それからミロクの世が発生するのだというのです。

ミロクといっても、この法滅盡経でいっているミロクは応身のミロク、即ち肉体化したミロクです。それから”ミロク下生経”という経文になりますと、この法は法身のミロクになります。 即ちミロクの神様の方になります。そこでミロク下生経はここには載せてありませんが、これには”正法を説く者が素人から現れるぞ”というようなことが出てまいります。 この法滅盡経の文章は、写本ですが、このほかにもう一つ本当のものがあるのです。もっと文句が違っております。これはかなり修正してしまっている。 明治時代にあった法滅盡経はもっとはっきりしたことが書いてありました。 さて、終わりのところに、「四部(しぶ)の弟子経を聞きて悲惨(ひさん)ちゆう帳(ちょう)す」弟子がワーワー泣いたと書いてあります。それから本物の方には釈尊が、 自分の弟子がいずれこの経文を隠すようになるだろう、とさえいっております。その理由は仏法をおこす者がなくなってしまうからで、そのとき弟子が、 ”これを公開したならば仏道を修ずる者幾人かあらん”といって釈尊に答えております。この点は今の法滅盡経では消してしまっている。

そこで、”正法を説く者が世に現る”というのが、ミロク下生経に出てまいりますが、これも釈尊が死んでから三千年と出ております もうほとんど本当のミロク下生経の文章ではなく、方々が削ってしまってある。非常にはっきりしないものになってしまっている。しかし、ミロク下生経というのはまだある。 真理を説く者、即ち釈尊のいう正法(ショウボウ)を説く者がやがてミロクの下生の前に現れる。しかも素人から現れると書いてある。在家より現れると。釈尊の弟子からは出ないといっております。 したがって、自分の教えは真如なのである、という裏付けをハッキリつけている。そして信仰の本体を隠していたその本体は、正法を説く者が現れてからお前達に伝えるのだ、といっております。 イエスは「真理というものはいずれ真理のみ霊世に下りて汝らに真理を述べん」と釈尊同様逃げを打っている。知っていて逃げている重大因縁があったのです。

言霊豆豆知識;釈尊が説法した当時、釈尊の弟子の時代には、今のような葬式行事は、一切ありませんでした。たとえ自分の信者が死んだとしても、葬式行事はしませんでした。 仏教と葬儀というのは全然無関係なのです。それが、仏教の本体です。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-14-3

ミロク神の謎

祭りには、春祭りもあれば夏祭りもあり、秋の祭りもありますが、大きく分けて、火・水・土の三つの祭りに分けられます。これは日本だけではなく、世界中こういう成り立ちになっておりますが、 その中でも火祭りが、日本ではて一番多いのではないかと思います。水の祭りというと、水無神社のように水そのものを祀る神社もあるけれども、多くは月を祀る、月祭りの形である。

土の祭りは、これは国津神の祭りであって、天津神のタテの祭りであるのに対して、土の祭りは火と水が十字に結んで大地が出来、一切が安定する関係上、ヨコの祭りということになります。 産土(うぶすな)の神を祭った産土神の大元締めの神様は大国魂大国主神(おほくにたまおほくにぬしのかみ)でいらっしゃっるのです。この神様が地球をお創りになり、 土から生じる万物をお創りくださった。この大国魂神の後子孫が大国主神様で、この神様は日本にだけにいらっしゃるのではないのです。世界各国にいらっしゃるのです。 そして、地球に発生する鉱物も、生物も一切を統治していられるので、いわゆる宝の神様です。だから大きい袋を持っていらっしゃるでしょう。右手(物質)にお持ちの槌(つち) は、大地をつちかため修理固成するためであり、槌からぞくぞくと大地の宝、いわゆる大切な資源が出てくることを象徴したものなのです。こうして、産物を産み出すみ働きをなさるのが 産土の神様です。火(五)・水(六)・土(七)の三大神をミロク大神と呼ぶ。(天神五代、六代、七代の神様のことを五六七(ミロク)神といいます。)

釈尊はミロク菩薩(ぼさつ)と称(とな)えていますが、これはミロク大神が仏界へ降りてこられたのをこうして申し上げるので、五六七と書いてミロク(三六九)とよませています。 この数字を加えると十八になる。そこで観音様のお誕生日が十八日、これは十はカミで、八は開くという意味から「神開く」、いずれはまた神世が開いてくる、ミロク下生の世になると釈尊はいっているのです。 イエスはメシア、三四五の世、順序正しい世、釈尊はこれを正法(しょうぼう)の世と説いていますが、その時にメシアが降臨し、ミロクが下生(げしょう)するというもので、日本ではそれを七度目の天の岩戸開きが来ると表現しています。 日本の神話では天の岩戸開きには、奥様のほうの神がお出ましになっていますが、ご主人の天照主日大神(あまてらすひおほかみ)のほうは未だに出てこられない。

しかし、火の神様のご出現になり、七度目の天の岩戸開きのとき、夫神である天照主日大神様がご出現になるので、それを神開きといいます。 観音様のお祭りのときは、観音開きといいます。日本の正月に残っている風習の門松は、神の大地、神の地球になることを待つ(神土待つ=かどまつ)という祈りをこめて門松を 立てたのです。
永い夜の世が終わった十日の晩に、統一(十一)の神が出現される。いわゆるミロク大神様が出現なさる。それまで鐘を撞いて昼の世を待つ、これが除夜の鐘なのですが、 「除」というのは取りのけるという意味なので、夜が終わることになる。このようにして火・水・土三位の神が一体となって活動される世が来なければ人類は救われないのです。
火と水がホドケた仏(ほとけ)の世であったのが、古代神道の教えのように産霊(うぶすな)、一切の霊を結ぶ、火と水の霊を十字に結ぶ文明にならなければならない。 これが万世の霊の発生の元になり、今日の物理科学、あらゆる機械の元になるのです。「道」とは首だけのせて走ると書いており、霊を否定こそしないが、そこには能はない、 霊の世界は考えない。そうかといって物の世界だけを考えるかというとそうでもない。首というのは、頭と胴体をつなぐ働きをするものであるが、これはつまり霊界と肉体界を つなぐ心の世界を表しているのに過ぎないのです。


豆豆知識-1;五六七を解釈すれば、五は日であり、六は月であり、七は地の意味になるからで、すなわち順序正しい世界という事である。これについて一層深い意味をかいてみよう。 今まで夜の世界というのは、日が天に昇っていなかった時の事である。もちろん霊界の事象ではあるが、これを小さく地球にたとえてみればよく分る。 夜は月が上天にあって照らしていたが、段々地球を一周して、西の涯から下って地球の蔭に隠れる。すると太陽が東から昇って、中天に輝くとすれば、これが昼間の世界である。 そうなれば天は火であり、中界は水素の世界であり、地は依然として地であるから、これが五六七の順序である。右を一言にして言えば、昼の世界とは、今まで見えなかった日が、 中天に輝く姿で、それが五六七の世である。
ミロクとは五六七とも書きます。五六七を合計すれば十八の数になります。又 三六十八でもあります。又 十は神であり、八は寄せると人と云う字になります、 ですから十八は神人という事にもなり又十八は十は結びの形、八は開く形ですから経緯は 直であり縦であり天であり高さであり火であり火素であり日であり昼であり実相であり霊であり見えない世界であり男であり左であり精神的であり東であり、 は 曲であり横であり地であり水であり広さであり水素であり月であり夜であり真如であり体であり見える世界であり女であり右であり物質的であり西である)結んで開くという意味にもなります。
西方文明が九分九厘になって行詰った時、一厘の力が出て生かす。一厘の仕組が千手観音の御働きという事になる。太初から神様が御計画なされて決っているのであります。

天照主日大神(あまてらす ひ おほかみ)は昼間の神で、月読命(つくよみのみこと)は夜の神ということですが、天照主日大神が天の岩戸に隠れることとなってからは精神文化は途絶えるて物質文化へと発展してきました。岩戸隠れによって精神文化の代表だった神が隠れたために、神を否定し、物質文化が栄え、現在に至っているのであります。

豆豆知識-2;神と仏について説明するが、何千年前世が替った時があって、すべての神々は仏として化現された、例えば月読尊は阿弥陀如来となり、天照大神は大日如来と、 稚姫君尊(わかひめぎみ の みこと)は釈迦如来と、伊都能売神(いづのめ の かみ))は観世音菩薩となったようにである、この期間が夜の世界でいわゆる真如(しんにょ)の世であった、よく仏教では真如実相というが、 真如は真如の月すなわち夜の世界で、実相は昼の世界であるから、今までは真如を上に実相を下にしたのである、真如とは読んで字の如く真の如(ごと)しで真ではない、 釈尊が仮の娑婆といったのもそういう訳である、仏滅の世が来るといわれたのもその意味である、ゆえに今度霊界が転換すれば昼の世界すなわち実相世界となるのである。  右に関連し、法華経(ほけきょう)の意味を説く必要がある、法華経は読んで字のごとく仏法を華(はな)にたとえ一度華を咲かせるという意味で、それによって実を結ぶのである、 法華経二十八品(ぼん)のうち二十五番目の観音普門品がそれである。

話はかわるが、前述の如く主なる神は仏として化現し給うたのであるから、昔から神仏同根といい、仏神一如ともいわれたのである。今は丁度諸々の仏霊は本来の神格に復元されつつある大転換の過渡時代であるから、 釈尊の弟子に、法蔵菩薩という傑出した一人がいた。この法蔵菩薩が他界するや、阿弥陀如来の法名となって、霊界において一切衆生を救われたのである。 つまり現界は釈迦、霊界は阿弥陀が救うという意味である。そうして観自在菩薩は、終りには観世音菩薩と御名を変えられたのである。 さて霊の世界を司る法身(大日如来) 幽体神である報身(アミダ仏) 肉体化した仏様、応身(釈迦)の三身。この三仏が一体になっての、み働きがなければ、仏教の教え、救いは地上に起きてこないといいます。


豆豆知識-3;人は肉身を持っていますから、生きていくためにいろいろな魚や鳥や動物などを殺して食べる。国津罪は自分が生きるために犯してしまう罪です。 そして長い水の時代を通して、人を殺したり、陥れたり、苦しめたりしながらいきてきたわけですから、自分の前世、前々世、過去世、あるいはご先祖様が積んでしまったいろいろな罪。 こういった現界で生きていくために犯してしまった罪も国津罪となります。 一方でそれがまた、それぞれの殺された側の怨みや妬み、いろいろな曇りになり、それが魂に刻まれていく。それが憑依霊であり、自分は気がつかなくても自分の過去世、 あるいは自分のご先祖様が積んでしまった罪が憑いてきます。いいですか!現在殺人事件を起こした人間が死を迎えたとします。また同じく生きてた人間社会も死を迎えます。 さて死んだ人間が、又生まれ変わったとします。此の時にあいつが人を殺したなどと思う人間がいますか。分からないでしょう。これが魂というものです。見えないんです。 人間の悪さと、ずるさなんかは肉体では隠せますが魂は隠せようがないんです。だからやられたら(殺されたら)やり返すというふうに続いて行くわけです。これが霊とか憑依霊とか で言われることなんです。でこれが霊障の本体なのです。また国津罪を積むとどうしても霊障を背負ってしまいます。 人の病気の原因の八十パーセント以上がこの国津罪であり、いろいろな不幸現象の元になるのです。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-15

「神主とは」に触れます。天地創造神(神代七代の神。『聖書』では七代(天神七代にわたってなされた神様の作業、つまり天地創造の歴史全体を指しています。
天神七代【独り神・・一神で一代】
1. 國之常立神(くにのとこたちのかみ)
2. 豊雲野神(とよくむぬのかみ)
【二神で一代】
3. 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・妹 須比智邇神(すひぢにのかみ)
4. 角杙神(つのぐひのかみ)・妹 活杙神(いくぐひのかみ)
5. 意富斗能地神(おほとのぢのかみ)・妹 大斗乃弁神(おほとのべのかみ)
6. 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・妹 阿夜詞志古泥神(あやかしこぢのかみ)
7. 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・妹 伊邪那美神(いざなみのかみ)
の歴史が記されている文献には、先代旧事本紀、古事記、ブラーマンの経典、仏教の経分、成仏物経、弥勒下生経、 阿含経(あごんきょう)などなどがある。)のことを七日にして「創世記」に記されています。本来であれば七代としなければにならなかったですが・・・。)
を天祖・人祖・皇祖としてご祭祀(さいし)あそばされ、 自ら天職役(あまつりやく)と称されたのが本当の神主の始まりでした。したがって、何万年もの間、歴代の天皇は天祖。人祖。皇祖をご祭祀(さいし)されていたのです。 ところが、丹波の元伊勢から今の伊勢神宮の本宮が移された時以来、どうしたわけか、皇祖だけを天皇が直接ご祭祀するようになったのです。 天祖と五色人(いろびと)の人祖は祭祀から姿を消して、皇祖といっても、何百年間からの歴代の皇祖を省いた祀り方に切り換えられたのです。 その上、臣下(しんか)が神主となって祀るようになってしまったのです。
日本の古神道では、天地創造の歴史はやはり七代となっています。その七代目にはすべてを完成し終わられて、 神々はみな地上の高天原から神霊界から高天原にお帰りになった。そうして地上には、神様から出現した神々の代表者であるスメラミコトが、 五色人の統治役として出現されたのです。


生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-16

「古神道と神道とは」に触れます。古神道とは天地創造の原理(天地創造される時の歴史=神が非常なご苦心を重ねて人類を創造された愛の歴史)で、「霊・幽・現」「神・幽・現」三界の連動の法則を説いたものです。そして、 その根源は「無の世界」「霊の世界」にあります。これは、ヒマラヤの釈尊説法と同じです。したがってし宗教ではありません。 世の多くの人は神道をもって「古神道」だとして、今の進んだ世界では通用しないとしています。しかし、「古神道」とは、何も古いとか新しいとかの意味ではありません。 古神道とは、「神道」を中心とした天道とか大道とか、あるいは真の道とでもいうべきものなのです。つまり、「真」を神として、「真」を人とする人の道なのです。 特定の個人の教えでも、宗教でもありません。ですから、神道は世のいわゆる「神がかり」では決してありません。それは、 深遠な大自然の摂理と人間実在の道としています。「自然を神として先祖を敬い、人間の誠心を神とする道」は、古代人(縄文人)なのでしょうか。 また日本神道では、何事も「偏(かたよ)ってはならない」と教えている。
今も、私達の日常生活と実践のなかに生きているはずです。つまり、 神とは「尊ぶ心の表れ」です。

日本の神道では、天津神の上には大天津神がいらっしゃる。

豆々知識;国家神道は三千年前の日本を出してはいけないとおさえている。
今日では日教組、つまり共産党系が教育界を握っていて、極力日本の本当の歴史を隠し、抹殺(まっさつ)しております。
この思想が、日本の正しい歴史を知る上に、非常に災いをしているのです。



生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識-17-1

「豆まきを始めた由来」に触れます。神様のご経綸が進んでいくうちに、日の神様(正神系の神)に代わり月の神様(月系と水系の二系統)が政権を担当することになり、 副神系統の神々は大喜びして、「これからは、うるさい政治はなくなる」と、手をたたいて喜びました。しかしこれらのことも、 なにも副神の神々が自分かってにやったわけではなく副神に政権をとらせて人類に欲心を起こさせ、 それによって物質文明を進歩させようとしたもの全て主の大神様のみ意(こころ)、すなわち、一つのご経綸だったのです。つまりあまり厳しいので八百万の神様がとてもやりきれないというので、こういうやかましい神様は押し込めなければ楽はできないというわけで、押し込められたわけです。 押し込めた方の神様は天若彦(あめにわかひこ)神というのです。これはよく天邪鬼(あまのじゃく)と言いますが、天若彦というそれを後世天邪鬼と言って、つまり素直でない、なんでも横車を押すという性格の神様です。

それで国常立尊という神様を、艮(東北)に押し込めたのです。そこでそれを鬼門と言って忌み嫌ったのです。もっとも忌み嫌うわけです。 人間の方が間違ったことをすれば、そういうやかましい神様を嫌うわけですから、どうしてもそうなるわけです。 そうして鬼門除けと言って、いろんなことをやったのです。そういうわけで、三千年押し込められたとしてあります。 そうしてその神様が明治二十五年に大本教の教祖の出口なおという方に憑られて非常に怒鳴ったのです。

出口なお刀自の口を借りて怒鳴ったのです。その第一声が「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。 日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ。竹は外国であるぞよ」というそれが最初の獅子吼(ししく)です。 それで、大きな声をして怒鳴るので、気違い扱いにされて警察に引っ張られて、二十日か三十日間勾留されたのです。それが大本教の始まりなのです。

その艮の金神という神様は、押し込められて肉体の方はなくなりましたが、霊は霊界に行かれて閻魔大王になるのです。 それで閻魔大王というのは、善悪、罪穢れを裁く神様、裁くお役目です。閻魔大王というと非常に恐ろしがられたのです。 それが、本当は至正至直の神様ですから、そこで霊界に行っても、悪い人間が見ると恐ろしい顔に見えるのです。

これは霊がそういうことを言ってました。

それから心の善い人がゆくと、非常に柔和な慕わしい優しい神様のお顔に見えるのです。 これはおもしろいです。というわけで、そこで大本教のお筆先に「艮の金神はこの世の閻魔と現われるぞよ」とありますが、 「この世の閻魔」ということは、現界の審判をなされるということです。今までは霊界の、死んだ人を審判されたが、今度は現界で生きた人間を審判される。 「この世に現われて」というのですから、現界に現われて審判をするというわけです。「今までは蔭の守護でありたが、今度は表の守護になるぞよ」とありますが、すべて現界的になるわけです。

さてそのようなことで後世になって正神系の神々を封じこめるための呪術として行われるようになったのが、節分(ふしわけ「国常立尊が厳格でありましたため、他の神々から排斥されて押し込められた日を、節分というのであります。 冬から春に転換する、すなわち節が分かれるから節分というのであります。」)の豆まきや鰯(いわし)の頭に柊(ひいらぎ)を刺したりする行事なのです。 炒り豆は芽が出ません。二度と出で来るなという呪術をやっているのです。また、正神系の神々の方へ注連縄(しめなわ)【七五三で閉めたものをシメナワ(七五三縄)と言います。】 (七五三縄)を張ったり、鳥居を作ったりするのも、 同様の意味をもった神事といえます。また、民間習俗として定着しています。「鬼は外、福は内」といいながら豆をまく行事は、艮(うしとら)の金神(こんじん)を追い出す祭りが民衆化したものなのです。 つまり、艮の金神を鬼門(引退された国万造主大神様)は、東北の方角、つまり艮に神幽(かみさ)られましたので、艮の金神とご称名申し上げている神として特別視し、 できるだけ正神系の神々と人間が接触しないようにしてきたのが、今日広く行われている神社や寺の祭りなのです。正神の神はとても厳粛な神なので物質界が発展しないので一旦引退して、 ではいつ出て来たらよいか(いつ出て来るかは知っていたのですが)と尋ねた時、「いり豆をまいて芽が出て花が咲く頃になるだろう」と答えたのです。

前述したように炒り豆は二度と芽が出てきません。その他も同様なことです。それを後世になって節分といったのです。そして、炒り豆をご引退される正神の後ろからぶつけることによって呪いを確固たるものにしようとした象徴的な神事が、 今日の豆まき行事です。さらに、国万造主大神様(くり よろず つくりぬし)は「二」のみ役の神様で、「二の神」ともお呼びしたところから、「御ニ=鬼」としてしまいました。鬼にまつわるイメージを植え付け、「鬼門=きもん」とからめた迷信を仕立てあげたことになります。

知らず知らずのうちに鬼とののしっているのです。このようなことが、神社でも平気で行われているのが現状です。
恐ろしいことです。なぜ金神というかと、 神々は五次元界や四次限界においては龍体でご活動なさるわけですが、政権交代のときに正神の神々はその活動するところの体の面、つまり龍体を置かれていかれました。 人間でいえば肉体を脱ぎ捨てて幽体と霊体で幽界に行かれることと同じようなことです。また正神たちが残された金龍を切り刻んで、その臓腑まで煮て食べてしまいました。 これが今日の正月の風習として残っている「雑煮の祝い」なのです。

本来は餅汁といいます。もう少し解りやすく説明すると、国造主大神様は、主の神様を霊の面とすると体の面(物質)のみ役、いわゆる『に』のみ役ですから御『に』の神ともいうのですが、 それは恐ろしいものだということでオニにしてしまったのです。そして新しく政権をとったのが副神ですから『フクは内、オニは外』と呪術をかけた祭りが、 今の節分の豆まきの行事になっているのです。こんなことを何時までもやっているととんでもない事が起きて来るでしょう。このような事は人知では解りませんので、 真(心)眼を開いて読んで下され。まぁとこかしこと色んな事を書いておられるみたいですが、この様に解き明かされたのは無かったと思われます。解るのならば 福(神)は外(陰)、鬼(御二の神=日の神))は内(陽)となるでしょう。綾部地方は、鬼は内、福は外と逆に言う。出来る事なら豆まきはお辞めになった方がよろしいと思います。

様々な災いを追い払うことができるからとか言っているのは、上記で書いたように鬼は邪気としたからなのです。節分というものは「福は内、鬼は外」で、鬼の災いを避けるという、昔からの行事があるのです。 そのためにほうぼうの神社仏閣で豆まきをやるのです。ちなみに副は副神(陰)を意味しておるのです。全て根源がここの始まりから出発して色々な形で言われるように なったわけなのです。日の時代には正神と副神の神が十字に組んで発動する時である。あくまでも正神を縦として副神の方は横で働いていただかなくてはならないのである。

豆豆知識1;岩戸開きに、天宇豆売命(あめのうずめのみこと)が踊って大いに笑った。
天照大神は笑い声を不思議に思われ戸を少し開けられたという。
それで手力男命(たぢからをのみこと)が戸を開けた。
そして天照大神(あまてら おほかみ=奥様=水=夜の世界;主人は天照主日大神(あまてら す ひ おほかみ)=昼の世界=非常に厳しい神=順序正しい世界=ミロクの世)のお出ましを願い、御手を引いて出た。

そして再び岩戸に入れぬよう七五三縄(シメナワ)を張ったという。ここでも七五三縄(シメナワ)を使っている。

立春の前日は節分(ふしわけ)ですが、節分(ふしわけ)は神代のしきたりでは、神の経綸がひとつ進展する一段の節日(ふしび)・節分(ふしわけ)であったわけです。

★ いろはに・・・ゑひもせす泣くもなけぬ朝もある!!

【国祖は耐えに耐えた吐息を内にこらえ、涙を体内に呑む。今にして堪忍の緒を切れば体内に 積み上げられた悲憤の思いが、どれだけの力を爆発させるか、御自分でも分かるだけに泣くに泣けぬ、と思いであると・・・。】


豆豆知識2;
ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠たるものでなくて、神格を得た人間が住んでいた時代で、いわばこの前の昼間の世界といったようなものです。 その時に世界を主宰していた神様が国常立尊という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違ったことは許さないというような政策をとったために、 非常に多くの神様・・・八百万の神・・・から、その時分でも世論が、どうもあんまりやかましすぎてとてもやりきれない、だから押し込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押し込められたのです。

それで艮(東と北の間)のある地点に押し込めたのです。そうして、ふたたび世の中に出てこられないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に“炒豆に花が咲いたら出てきてもよい”と・・・ もっとも、炒った豆が芽を出すはずがないのですから・・・それを条件のようにして押し込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。これは大本教のお筆先にありますが、 「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向かって越したり、いろいろなことをすると恐ろしいというような説を作ったわけです。

それでなにごとも、鬼門は恐ろしいといは反対で、たいへんな良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういうことになったのですが、その根本はやはりその時に夜の世界になったわけです。 そこで、国常立尊様は火の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならないことになるわけです。また物質を界を発展させるためには隠退しなければならなということになるのです。お筆先には三千年としてあります。 それでいよいよ三千年(昼の世)たったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と言うことになるわけです。

出るについては、いろいろな・・・お筆先には三千世界の大芝居ということになってます。この押し込めた系統の神様・・・総大将は天若彦尊という神様で・・・これはよく天邪鬼ということを言いますが・・・ その神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。その押し込められた時には、わずかな部下を連れて隠退されたが、 それから命がなくなって、死んで霊界に行って、三千年の間、閻魔大王になったということになっているのです。

お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立替え立直しを致すぞよ」とあります。ということは、審判をされるということです。 今までは霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をするということです。つまりもう悪は許さないということになるのです。 そのために大本教というものをつくったのです。茂吉先生が大本信者になって、そういうことをいろいろ・・・表面的のことも、裏面=霊的のこともすっかり分かったので、

大本を脱退して、観音教からメシヤ教(茂吉大先生)というふうにつくったのです。お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。 梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」というようなことが書いてあるのです。 「三千世界一度に開く梅の花」と言って、梅というのは非常に重要なことになっているのです。それで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。

観世音菩薩は兄(こ)の花姫になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊都能売の神になるのです。これは兄の花姫と木の花咲爺姫(このはなさくやひめ)とありますが、兄の花姫というのは兄(あに)の花といって梅になるわけです。 梅が先に咲くから兄の花になるわけです。それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。この場合は仏界のお働きで、木の花咲爺姫は観音様になるのです。 富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。桜の枝を持ってます。

その富士山の木の花咲爺姫は頂上の真ん中に祭ってあります。頂上の上り口の右側にあるのが、久須志神社としてありますが、これは九頭龍権現といって、木の花咲爺姫の守護神になるわけで、龍で守護しているわけです。 これが最初に茂吉先生に憑った龍神です。それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。ですから兄の花姫は神様の働きになるのです。 それで木の花咲爺姫は仏の働きだからして、最初インドに出られたわけです。ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそういう因縁になるわけです。

そこで今年の節分(昭和29年2月)は、いよいよ艮の金神様がこの世の閻魔と現われるという最初になるわけです。ですから、これから審判が厳しくなるわけです。 けれどもこれは最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまりだんだん育つようになって行きます。 そのためかもしれないが、最近いろんな汚職事件が重なり合って出てきましたが、こういうのも一つの現われではないかととれるのです。

そういうようなわけで、神様のお仕組みは一歩前進したわけです。今年の節分というのはそういう意味があるのです。それで、そうなった結果はどうだというと、つまり善悪の立て分けということになっているのです。 ということは、善の方が勝ってゆき悪の方が負けてゆくのです。すばらしい宗教が、こんなにグズグズしているわけがないので、ドンドン発展しなければならないわけです。 しかし発展が遅いということは、つまり悪の方が押さえているからです。だから、これが分かって、感心して、信者になり、人間から人にもならせなければいけない、 と、そう思っていながら、ついグズグズしているということは、一方にそれを邪魔する霊があるからです。その邪魔する霊が、これからだんだん弱まっていきますから、そうすると順調にゆくわけです。

節分について、もう少し詳しく話をしてみます。節分というのは、古い時代に国常立尊という神様が、世界を支配していたということになっているのですが、その時分のことだから、世界といったところで全部だかどうだか分かりませんが、 まず日本を中心にして、そうとう広範囲に支配していたに違いないのです。

それで神様といったところで、やはり人間なのです。しかしその時分の人間は非常に霊が高かったのです。その時分は昼間の世界の終わりぐらいだったのですが、ところが長い時代にだんだん人間が、夜の世界のために穢れに穢れて、霊的にレベルが低くなったわけです。 それでよく「天神七代、地神五代」ということがありますが、天神時代というのは、天の神様・・・神道のほうで言うと「天津系」「国津系」あるいは「天津神」「国津神」と言いますが、天系です。 だいたい日本民族は天系なのです。

その天系だったころは天照天皇という最後の天皇が支配していたのです。それで、天照天皇が日本を逃げて、皇后様だけが残って、それが天照大御神と、こうなっているのですが、 それよりか前に国常立尊という神様が支配されていたのです。 その神様は非常に厳格で、つまり至正至直で、ごく正しいことでないと許さない、というようなことのために・・・これも神道の方にもありますが・・・ 大勢の神様が一致して押し込めたのが節分の晩としてあるのです。

その押し込めた方の総大将が天若彦という神様で、そうして、もう国常立尊は世の中に出られないようにというので、艮(東北)の方角に押し込めたとなっているのです。 そうして、艮に押し込めたからして艮の金神というお名前にもなり、艮の金神国常立尊となったのです。 そうして節分の晩に豆をまきますが、「炒豆に花が咲いたら出てもよい、さもなければ永久に押し込めてしまう」というわけで、それから炒豆をまいたのです。

それは三千年としてありますが、いよいよ三千年たって、その国常立尊様がふたたびこの世に現われる、その機関としてできたのが大本教です。 ですから大本教のお筆先に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国の世になりたぞよ。 日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」ということを教祖は獅子吼(ししく)したわけです。

最初大きな声をして怒鳴ったのです。それで気違い扱いされて警察に留置されたことがありますが、そういうわけで気違い婆さんにされたわけです。 それが明治二十五年の一月元日です。ですから「梅で開く」というが、梅というのは、花は五弁になってます。 これは五大州を形取ってあるのだそうです。

ですから「一度に開く梅の花」というのは、世界が一度に開くということなのです。ところが今年の節分は、いよいよ艮の金神様が表になる、つまり今まで三千年隠れていたのが表面になるのです。 それで、大本教を開いたのは、霊界がそうなったのです。ところが今度は現界がそうなる。ということになったのは、この節分にお知らせがあったのです。 そういうようなわけで、いよいよ表になるということと、それからお筆先に「今度はこの世の閻魔と現われるから」ということがあるのです。というのは、御隠退になっているときは、霊界に行かれて閻魔大王になるのです。

閻魔大王というのは、要するに霊界における審判の・・・今で言う検事総長とか最高裁判所長というような、そういった・・・裁きの最高の地位です。 ところが「この世の閻魔と現われた」というのですからして、いよいよ国常立尊様が現界の閻魔のお働きをされて今度は現界的の裁きをされるわけです。これが審判です。 そういうようなわけで、今年からまた非常に霊界が明るくなるわけです。明るくなると、善の方は非常によいですが、悪の方は反対に非常に苦しいことになります。 最近いろんな汚職事件が出ましたが、こんなに一度に次々に出るのは、今までに例がないでしょう。 これもやっぱりその一つの現われというように見られないことはないです。

そういうようなわけで、鬼門を非常に嫌って、鬼門は怖いように言いふらされたのは、今言った天若彦の方からそういう宣伝をしたわけです。 それで「福は内、鬼は外」と言いますが、「鬼」というのは、つまり鬼門の金神、艮の金神国常立尊様ということになるからして、 実は、一番善い神様、一番立派な神様です。

それでおもしろいのは、大本教の発祥地の綾部では、豆をまくときには「鬼は内、福は外」と言うのです。 それはやっぱりその時分から天若彦に対する反対のやり方だったわけです。そういうようなわけで、鬼門に越したり、鬼門の方を嫌うということは、人間が正しい人がなかったからです。 たいてい穢れている人や、肚の本当でない人がそっちに越せば、やはりそういった気を受けるから、浄化が起こるわけです。

それで浄化というのは災難や苦しみですから、そこで嫌ったというわけです。だから本当から言えば、もし方角をかまえば、鬼門に越すのがごくよいのです。 ただ病気と同じで、一時浄化作用が起こりますから、そこで怖がるのですが、そのために後がよくなるのです。 ですから他の宗教は、豆まきというと非常にさかんで、むしろ宣伝的にやりますが、茂吉大先生は絶対にやらないということは、そういう根本的の理由があるからです。


生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-17-2

『七五三の意味』

【七五三はお祝いしなくていい】 七五三のお祝と申しまして、子供を連れてお宮詣りをいたしますが、いかなるわけか。本当の神様を締め出して、次の神様をお祀りしているのであります。 五、六、七が本当で、いままでは夜の世界であったため、逆に七、五、三などのお祝いをしているのであります。節分の福は内、鬼は外と言うのと同じことで、お祝いしなくてもよろしい。 『本当の意味から言えば間違いで「シメ」と読むわけで、本当の神を締め出して、次の神を迎え祝う意味が伏在(ふざい=表に現れないで隠れて存在していること)している。 日本神話のなかで、天照大神が天岩戸から出た際、二度と天岩戸に入れないよう太玉命が注連縄(「尻久米縄」)で戸を塞いだのが起源とされる。しめなわ【注連縄/標縄/七五三縄】とも表記する。
七=土、五=火、三=水となり、いままでは夜の世界だから順序を間違っていたとも言えるが、
習慣上行なわれていることで、あまりとやかく言うべきことではない。』知識として覚える位で好いと思われます。

出雲大社など島根県では一般とは逆に左から綯い始めるものが多い。

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・元旦の紅白の鏡餅・・・国常立尊の骨と肉

・門松・・・国常立尊の墓標

・3月3日の草もち・・・国常立尊の皮膚

・5月5日の菖蒲(しょうぶ)のチマキ・・・国常立尊の髪の毛

・7月7日の小麦のソウメン・・・国常立尊の筋

・9月9日の黄菊の酒・・・国常立尊の血潮

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線香というものは、じつは艮の金様を呪って、家に入って来られないようにと、立てたものである。普通の香は、かまわない。

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「御線香は大神様へ(イブシ)の意味」 「全然上げなくてよい。上げぬ方がよい。仏であるから、絶対上げぬ方がよい。」 (註 床の間に線香を上げないほうがよいという意味であると思料される。)

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「正月について」

  (一)一月を正月という意味

(二)松竹梅のおかざりの意味

(三)〆飾り

(四)お飾りに使用する裏白、昆布、幣(へい)、海老など

(五)小豆粥(あずきがゆ)

(六)七草」

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上記これはたいした意味はない。

一月を正月というのは、年頭に当たっていままでの間違ったこと悪いことを反省して正しく出発しようという意で、正しく始める月という意味である。 松竹梅のおかざりは、松は六、竹は七、梅が五で、五六七になる。 故に本当は梅松竹と書くべきだが、松は一番位があるので松竹梅としたもので、やはりミロクという芽出度いことの予言でもある。

飾り七五三(しめ)縄の由来は、神代に国常立尊を艮(うしとら)へ押し込め、その系統の神々をも押し込め、ふたたびこの世に出られぬようにという意味でシメを張ったものだということになっている。 その他柊(ひいらぎ)はトゲトゲしているから悪魔除けの意味。

ぞう煮は尊の臓腑を煮て食うという意味で、小豆粥は血と筋を食う意味、また煎豆を撒くが、これは煎豆に花が咲いたら出よということなどで鬼門を非常に恐れた。 昔から良いことを反対に解したことはたくさんある。

裏白(うらじろ)、裏の白いということは浄いことで、裏に秘密や暗い蔭などないという意味。 白は清浄の色で、神主の着る白衣は浄衣という。

昆布はヨロコブの言霊で、幣は祓い浄める意味、ヌサから出ている。 橙(だいだい)は代々喜ぶにかけており、ゆずり葉は家督とか名とか継ぐ意味、海老は腰の曲がるほど寿命の長いこと。 要するに芽出度いものを集めたのである。

七草というのは一種の迷信である。昔から七の数を多く使ったものである。 子供が生まれればお七夜を祝い、死ぬと初七日とか七七四九日を最後の法要日とする。 春秋の七草、何々の七不思議、七曜、北斗七星等々で、また七は成り鳴るで物が完成する意味であるから、七草というのは正月が一期すんだというわけで、創世記にも、七日目に完成、日曜日に神が休んで祝うとある。」



生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-18-1

『宇宙万物の仕組みと数霊の働きについて』三月三日というと、ひな祭りの節句、モモの節句ともいいます。節句というのは 太古においては月一回ずつありました。一月一日、二月二日、三月三日、四月四日、五月五日、六月六日、・・・十二月十二日、 だというわけです。そのうちの習慣が代表的というか抽象的というか残ったのが三月三日、五月五日、七月七日の節句です。 それが三月がどうして女の節句で、五月が男の節句になっているのかというと、一(ヒイ)、二(フウ)、三(ミイ)・・・ という数霊があります。祝詞(のりと)では、日本は太古から数霊(かずたま)は神となっていた。神代時代の神のみ働きは、 言霊の四十八の神のみ働きと同時に、中臣(なかとみ)の大祓いの祈言にでてくる神の数による数霊のみ働きがあり、 この数霊で万象が支配されていくように神は仕組まれております。ですから人の命も年齢で支配され、物理科学もみな数で 支配されています。原子にしても原子核にしても、陽子の数と電子の数によってトリウムなります。人間になったり、 猫になったり、犬になったり、鳥になったりする。数霊の働きが宇宙にあるからです。何でも全部数字でいくよりしょうがないのです。 それによって、人知には数霊を計算する能力を与えて物質科学文明を地上に顕現していくように天地創造の時から仕組まれて しまっているのです。そういうみ働きとご意志が数霊なるわけです。ですからアインシュタイン博士が宇宙に意志ありと言われたのではないでしょうか。

神代には数霊、言霊のほかに色霊という大霊動の不思議な大不思議な仕組みがありますが、色霊の働きは今日までは総天然色 になってきています。数霊で一というのは、陰陽が合体した姿を一と書きます。火と水が一体化した神力が万象の一番もと になるから一(い、ひい、いち、もとはじめ等よむ)だからイロハでイでいの一番、いっちょらいの『い』ということになるのです。 この合一している陰・陽がホドケの原理で、神ホドキがおきると、陽と陰になって二つに分かれる。すなわち吹き分けられて フウ、二になる。一つが二つになるから一は一にしてあらず、二であり、二は二で本来一つである。この原理をフジ(不二) の理といい、富士の山の語源は、二というものは二ではない。実は一をホドいたものである。だから一体化した相(すがた)、 日本唯一の一即不二という。旦那さんと奥さんもたしかに二つなんですが、一つなんです。その二つがフジになっていると 子供ができて三になるから、これが三(みい)。言霊でいうと、一であったものがさけ、細かくなって産ずるのが三となります。



生き言霊に幸あれ!!


言霊豆知識-18-2

『男女の働き』 女となぜつけたか、言霊からいいますと、オは雄のオ、陽です。陽にンが一体化して初めてナる、男と一体化した 時女として成熟するのがオンナの働きによってオミ(ミは水)ナとなるのです。だから女というものは男を燃えさせる 力の根泉力となる本質がある人です。つまり「火は水によって燃え、水は火によって流動する」という宇宙創造の根本原理のことも、 忘れてはならないでしょう。火と火だけだとけんかになってなぐりあいがせいぜいですが、本当の意味で平和な文明を創るには、 男ではだめで、女が成らせる。だから、男というのは女の人のおかげで役割が果たすことができるのです。そこで男を生り也り鳴らせ、 間を釣りあすからひなまつりといいます。神代の言霊と制度は実にすばらしいく深いものがあります。ところでどっちが主体なのか というと、神様から見た時には男も女も差別がない。そしていわゆる無差別の差別、立て分けて立て分けなくって立て分けておられる。 男は女によってなければ燃えないし、といって女、水だけでは万世、産土力(うぶすなりき=産土神)は皆目でてこない。女の方が水の働きが できるのは火がないとだめです。真の働きにもって行く為には三月三日をひな祭りとし、五月五日を男の祭りにして、火│(たて)と水一(よこ)とが十字 になると一切が成り立っていくから、三と五の祭りのあとにナりナるの七月七日の祭りだけは残っている。そして三と五が結ぶと 開く。これが八になって弥栄えがおきる。成り生り也って発展の八という字や言霊となるのです。このように神様の仕組みからいきますと、 陰の力においては女、陽の力においては男というふうに立て別けて仕組んでおられますから、それを十字に結んだ時成就するわけです。

そこで陰と陽が十に結んで回転する姿が七という字になるわけです。立て別けとい面から男と女をみると、異性という立て別けが あります。その上に物質界はどこまでも霊主心従体属の法則で支配されているという関係がありますから、どちらかというと、 火が主体になっておりますから、男が中心にならないといけません。火と水の立て分けのない家庭になると乱れた家庭となってしまうのが現状です。 ですから火を燃やすのはミの役であり、ミを流動させてミの働きを完成させる主役はオノコであるという風に宇宙ができていることに 悟りを開ていいただきたいと思います。

豆豆知識;誕生日とは、父母産土感謝の日、今の子供たちは、誕生日とはプレゼントをもらう日であると勘違いしています。大人がその勘違いを子供たちに植えつけているのです。 これが、日本人の心を大きく狂わせています。何はさておいても誕生日こそは、自分を産み出してくれた三つの力に感謝申し上げ る日であります。 お父様、私を生んで下さってありがとうございます。お母様、私を生んで下さってありがとうございます。産土の神様、私を父母と結んでくださってありがとうございます。 こういう言葉を出せる子供の人生には、豊かな実りがもたらされて当然です。霊的感性が乱れた人には意味するところがわからないと思います。
父の力、母の力、産土の力の三つが結んで、子供が誕生するという摂理があるのです。 東洋と西洋の違いに関わらず、必ず、父母産土のムスビによって生み出されるのです。 父の奥に父なる神、母の奥に母なる神 父の力、母の力とは、肉体人間としての父親母親の力とのみ解釈してはなりません。 父の奥に父なる神が働いていらっしゃる。 母の奥に母なる神が働いていらっしゃる。父親となることが出来るのは、父なる神が働くから。母親となることが出来るのは、母なる神が働くから。 その尊さを子供に深く深く分からせることが、子育ての一大重要事であります。この重要事が、ほとんど忘れ去られようとしているのが現状です。


生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-18-3

『フの働き』 「フ」のみ働きのフの言霊は、吹く、噴き出す、富士山のフ、福の神のフ等々と色々あります。主の神様が、ヨトヤの神々、四十八柱(いろは四十八文字、 アイウエオ五十音の五十神ともなる。)の神々を産み出されるのですが、その一つ一つの神様にはそれぞれお役があります。そのみ役、み力を表現したのが五十音字で、 象型神名(象神名=カタカナ)というのですが、そのなかのフのみ役の神様、フの言霊は大きく分けて二つに分かれます。「フき分け」と「フき寄せ」の相反するみ働きです。 まず、スの大神様は、パーの原理で、一番最初に、時間と空間の神様を吹分けられて、ご自身から二神を創造されます。人間で言えば夫婦が入なければ子供というものが産まれませんが・・・。 という事で神々は、主の神様から自らのご神魂(しんこん)をフき分けられてお創りになられました。そしてまた別に二神をフき分けられて、天と地の神様を創られておられます。 さらに主の大神様は、火玉(ひだま)の神様を創られました。(これについては、ずっと後世の旧約聖書の創世記にもでています。)

要するに、かくフき分けられて神々を創造されてこられましたが、そういう不可思議力のみ働きをフのみ働きをフのみ働きというわけです。たとえば身近なところで、ふき掃除、 普遍、不偏(ふへん)、吹き払う等々のみ働きがもとになってきます。次に、「フき寄せるみ働き」ですが、風が木の葉が吹き寄せられると山になる。お金が回転してフき寄せられると 給料の札山にもなります。すると、色々なものを製造するみ働きにもなります。それを販売すると(フき分ける)お金が集められます。(フき寄せる)。出しっぱなしでもだめですし、 また出さないで貯金ばかりしていても、世の中の貨幣が流通しなくなり、社会の繁栄は逆に阻害されます。

お金は有益にどんどん使われ(フき分け)、どんどん集められる(フき寄せ)交互作用で流通が盛んになり、経済的に繁栄がもたらされるのです。このようなフき寄せとフき分けの二つのみ働きが上手に十字に結んで、 一体的に発揮されないと弥栄えとはなりません。
さて大天津神様は、このフのみ働きによってフき出されます。何が吹き出されるのかと申しますと、0・零・霊・Unseen(アンスィーン=不可視)なPower(パワー=力) から、フのみ働きによってあらゆる物質をフき出されるのです。カンナガラのナァム、無から有の仕組み、また仏教では、空即色(くうそくしき)、これが万象の物質化現象で、 そもそも神のフのみ働きです。

近代科学でいえば、宇宙科学、原子核物理学で追求している光子波、素粒子界というような極微(ごくび)な世界から、原子核、原子、分子、細胞 へと変化せしめられます。その基の力の一つがフです。たとえば、一つの種、この種には花も実も茎もありませんが、不可思議なことに、フき分けんとされる神の意力の波動が フのみ働きで、それらが姿、、像となって現れてきます。無形から有形を生ずるわけです。結局、種の中はには不可視ですが、実在をしているフの霊力の塊、すなわち「有りて在る」 ところの肉眼には見えない花や実や葉や茎の霊成型、霊像(ひがた)が、フのみ働きによっていれられています。

これが本当の神代語の『タネ』(今日も種といっていますが、これはタネの外側の見える方で中ではない)です。このようにおのおの神のデッサンは、すでにチャンと入っているということです。それが神様のフのみ働きによって、だんだん フき分けられ、フき寄せられながら、姿、形、像となつて現れてくるのです。すなわち一切物質、物象化してくるのです。人間の場合でも、精中のなかに不可視ですが、 神様がお創りになられた人間のヒガタ(フき寄せ)がはいり、これが種になります。さらにフき分け、フき寄せのみ働きを母体内で十ヶ月間受けると、人間の姿、形になって 出てきます。これが人間の肉体への移転、すなわち誕生です。この神様のフのみ働きがありませんと、私達はこの世に出てこられないわけです。

そこで、無即有で仏教的には色即是空(しきそくぜくう)の空から一切のものができ、色即物と化する。この関係が神のフのみ働きといいます。魂霊と肉体とが離れれば、霊魂は幽界人となり、肉体は土 になります。したがって灰になって、フき分けられ、今度は植物などの根でフき寄せられ、茎になり、葉になり、花になり、実にフき分けられるわけです。そのようにして、 宇宙万象が再生転生を繰り返してゆくのです。これはすべて神のフのみ働きによるものです。

また、フのみ働きは、霊魂や心の世界の中にもあります。フとは、富の反対の不真の反対の魔、よこしまな悪、邪悪などをフき払い、フき清めるものであります。これが、神様の霊・火の光のみ働きとなって出てまいりますと本当の真(しん=まこと)の光 になります。フのみ働きで、魂や心の中の邪悪、腐り、汚れ、曇り(霊的な)をフき分け、フき浄められますと、皆さんの霊細胞が浄まり、財穢が消え、先祖からの業が消えてくるのでする そうすると、自分の心の底にある真姿(ますがた)が形に現われるのです。これが富(フ)であります。此れこそが大元霊光力です。

光力を頂きますとそれにより浄まり、健和富の道へだんだんとはいっていくのであります。それが清浄化の理・ミソギハライの原理であります。そうするには霊的な力だけではいけません。万生の仕組み、弥栄えの原理は、万事、 霊が主で、心従(しんじゅう)、体属であると同時に、これらが三位一体で相即相入(そうそくそうにゅう)で働かなければならないのです。遵いまして、霊力増大には強い心の働き、大精神力の発揮、強力なフが必要になってくるのです。

あぁ カムナガラ タマヒ チハイマセ 生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-18-4

『七夕(たなばた)祭りの本義』 七と申しますのは実は神代の時代からの物語を表現したものの一つです。神代時代には毎月一回あったものです。 宇宙を創造し人類を創造された主の大神様のご出現期を待つ祈りが、七月七日の祭りです。その中で、今日主に残ったものは、 水の祭りであるところの三月三日と、火の祭りであるところの五月五日、更に成り生りの七月七日です。そこで七月七日の七夕祭りですが、これは本来五色人の祭りなのです。 この日は、いろいろな色旗をあげるわけです。何故かと申しますと、七というのは天地創造の原理であるところの、成り生り鳴り也るの七です。

七という数霊の霊動はこの原理を文字に示したものです。いわゆる神力が回転しますと、物質化され物質文明がおきるわけです。このような回転、陰の回転を表現したものが、 スワスチカの一つになっています。天地創造の神代七代の時、神様はまず神々に変化されました。
この変化される方が成りです。変化して「成ル」ということです。それから、 火と水・男と女・おしべとめしべを十字に結んで、物質化現象をおこすもとになります。そうすると、神道でいわれる産主土力(うぶすなりき)あるいは産霊(むすび)の 力が生まれる。これが「生り」です。現在ではこれを生産力といっていますが、あらゆる物の生産力、これを神代では産土力または産霊の力といったわけです。

そうして活動すると「鳴り」になります。そうしますと、今度は物が完成してきます。天地も人類もあらゆる生物も完成します。この完成をする姿が成就する方の「也り」 です。動物も植物も、そして最後に人間も成り生り鳴って也ったのです。ナルは音霊です。神様は万世をつくりになられる時に、色霊。音霊、数霊、言霊によって 創造されております。音霊は言語のもとにはならず、鳥や獣が鳴いたり、吠える声や、松風、波の音、鈴虫の音という音になる。このようにこの音楽によって、 大交響楽を奏でられているのが、天地、自然の姿です。けれども、それだけでは地上に神の文明を造り上げることは不可能ですから、そこで人間に言霊を賜ったわけです。 即ち、人間の想念を言葉にして表すところの力、源力(これを源霊という)を賜ったのです。ですから言霊、これは人間だけが科学文明をおこし得る基礎条件になっています。

言語と文字は五色人の中に共通につくられました。たとえば、霊を鎮める時にはシとズを使わないと鎮まりませんから、「オシズマリ」という言霊を発します。これは鎮魂(ちんこん)の業ともいいます。 静かにするときはSea(スィー)といいます。このスという言霊を使わないと止まるという心が動いてきません。このように世界の言葉は全部、共通の言霊でつくられているのです。

このように変化して、それから生むという現象をおこして、おすとめす、男と女になり完成するのです。人間界でいえば、文明を完成するということです。神界のような文明 を地上に成り生り鳴り也らせて、物質で現象化していく。これが神の子ヒトの役割です。しかし、鳴るの音霊の方だけでは文明はおきません。そこで人類だけに言霊 を与えておられるのです。その大仕組みを綴(つづ)ったものが、天地創造の歴史なのです。日本の古神道では、天地創造の歴史はやはり七代となっています。

その七代目にはすべてを完成し終わられて、神々はみな地上の高天原から神霊界の高天原にお帰りになった。そうして地上には、神様から出現した神々の代表者である スメラミコトが、五色人の統治役としてご出現されたのです。五色人の教化の中心者を神代ではスメラミコトといいました。それが今では、スメラミコトは天皇と呼ばれ、 日本だけの天皇になってしまった。本来は、世界五色人のスメラミコトであって、教化の中心者、統一者ということになるのです。このスメラミコトに、神々は現界でのお仕事 がお済になったため、現界のこと、人間界のことはお任せになって神霊界にお帰りになった、いわゆる「神休み給えり」ということになっています。これが神代七代であり、その七代 を詰めて七日としたのが、キリスト教の旧約聖書です。

火と水を結ぶ方の生り、すなわち産まれる方の産土力(うぶすなりき)の生りを表現したのが、牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい) 一年に一回会うということです。つまり、火の神と水の神を十字に結んだカミということになります。そこで、全人類が祈った神の再出現期、いわゆる神道でいうところの 七度目の天の岩戸開き。これも七という字がついています。ナりナりナって神の再出現期となる。これを七度目の天の岩戸開きといっています。そして科学的にいえば、 天地かえらくの歴史は、大体大きいのは地質学上七度目位になると思います。やはりそこでも七を使ったことは、成り生りの神様、つまり天地創造、人類創造の神様の 出現期であること、その出現期を待つ祈りが七夕の祭りの本体であるということになります。この成り生りの原理のナリは、あらゆるものの霊が物質化して天地を創造し、 あるいは神の子の霊成型(ひながた)が人間に化け、地上文明を完成していく原理です。これを天地不破の鉄則とも、悠久(ゆうきゅう)の原理ともいっています。 この根本原理で、宇宙を創造し人類を創造された主の大神様のご出現期を待つ祈りが、七月七日の祭りです。神代時代は毎年あった成り生りの月の祈りの祭りでした。

これは人類共通の祈りだったのです。この様に五色人の祈りであったので、七夕祭りに変わると言う関係になりました。これがスズと梵鐘(ぼんしょう)と木魚(もくぎょ) になのわけです。スズはチョン、チョンは芯で中心の芯万世悉(ことごと)く中心がありの芯で、目に見えないアンスィーンです。神道ではこれを隠身神(かくりみしん) といいます。本当の隠身神は芯の神のことをいいます。いわゆる主の神のことです。

天・空・地を貫いて神・幽・現の三界を統一するチョンの神様です。イエスが主よといっているのも、天の父よといっているのもそうです。 この主の神様が再びお出ましになられると神の出現期になる。七度目の天の岩戸開きとなる。あるいは仏教で言えばミロクの下生、バイブルではメシアの降臨と、みな同じ事を言っています。 そこで神の出現期を数霊で表したのが数字の十八で神開きというのです。

仏教では観音様のご本像は一尺八寸、御堂(みどう)が一丈八尺、更に釈尊のお誕生日を十八日にしてあるのは、ミロクの出現をいったわけです。
ですから、ミロクというのは言い換えますとミロクの出現期で、 釈尊のいった五・六・七(五・六・七を合わせて十八になります)五十六億七千万年後という謎が解けてきます。仏教でいうと、聖観音の再出現期、弥勒菩薩の出現期で、 この様に神道も仏教もキリスト教も一糸乱れず統制されて使われていることに気がつかなくてはならない。要するに、日の神様が雲隠れされてると中にチョンがなくなる。 これが梵鐘です。日の神様がいらっしゃらなくなるので、月の神様のご活動の中で、日の神様の出現期を待つわけです。月の神様ですから撞(つ)いて待つ。梵鐘を撞いて待つという ことになった。そしていずれは大地をつき固めなければならない。神代の天国の天国文明を地上に顕現しなければならないことを表したのが木魚(もくぎょ)です。

それが大黒様の槌(つち)の働きで、ツチかためなくてはならないということになったのです。このようにして神、観音の出現期を待つ。そこで除夜の鐘を百八つ撞いたのです。 バイブルに出てきますところの聖霊の降下もこの時期のことをいっています。このようにして、一旦物主文明になりましたが、今度はこれだけ発育した科学の物主文明を、 神性化した神代のような人々によって、高度な文明へと発展させなければならない。かつては人間のことを神人、Human of God あるいは超人といっていました。人類は発祥当時 は、実は野蛮な者は一人もいなかった。神様から化けた神の子ばかりですから善一途(いっと)でした。したがって神人であり、能力も超人的な能力を持っていたのです。

ところが、神様が物主文明をおこそうとされた時に、人類に支配欲や恋愛欲(お金があれば綺麗な女性が得られるなど、また女性は綺麗になろうなろうとする。するとお金のある ひとを捉まえることができるなどなど、現在は整形までもしている状態ですが魂を変えられる事が出来るなら・・・)の欲心を与えられました。その結果、地上に物主文明が進歩したのですが(乱れた世になってしまった)、物主文明には限界が訪れました。

その結果終末が現代です。物主文明は遂に終末にきているのです。ですからあらゆる面でも行きつ詰まりがおきる。今までのあらゆる科学原理で行きますと政治も行き詰まりますし、 人類の幸福も健康も行き詰まって病人だらけになってしまうのです。経済にしてもいくら努力してみたところで貨幣価値は下がり、貧乏人は増え、詐欺横領が増え究極は世界中が 困ってくる。そのうちに、段々と人間が狂って他人を殺すことさえ平気な世の中になります。

いわゆる釈尊の予告した五逆(ごぎゃく)・五濁(ごじゃく)・五乱(ごらん)のよであり、バイブルでいうところの世の終末です。このようにして、天地かえらくの大変動まで地上におこそうとしているのが現代の人類です。 それを神様は心配されて、ブレーキ宗教を出して、警告、警報を発して下さったわけですが、残念なことに人間の方は、物・金の方に夢中になりすぎてしまって、人間の心と、その心を自由に動かしているところの 魂、霊の世界をどこかへ葬ってしまったのです。それに気づいていただこうというのが七夕の祭りです。カゴメの唄−−これも神の出現を待つ唄であったわけです。

更に弘法大師の書いたイロハは四十八文字も、一番大切なヤハエの神知らずして何にもならないではないかという謎が秘められていることもそうです。かくして時期が今日到来 いたしました。要するに、ミロクげ下生、メシア降臨の前に、大嵐を一度神様が吹かせなければどうしようもないほど人間(人に生るまで間が有るという意味です→其れから人になる →日+十→ひ・と<タテは火、ヨコは水、合わせて火水>→所謂日の神)が穢れてしまって、もう神の子など、どこにいるのか分からない という時代になってしまったのです。このようにして、神から離れた人間の知恵で判断して、良いと思うのものを生み出したのが主義と思想です。ところが主義は「偏頗(へんぱ)なり (かたよる義)」という代名詞のようなものですから、主義は主義を生む。

したがって,対立と闘争の文明しかおこし得ない本質を持っています。それに夢中になってしまっているのが現代であり、このように人類は浮き草(彷徨う)人類になってしまった。 これをどう取り返すのかと・・・。これはもう奇跡を待つ以外にはないと思います。
ここに書くつもりが無かったのですが本当に心を改めるというような改心の時代ではないのです(小生は十八年目にして色々と理解できるように生りましたが・・・)。 危機迫る時代になっているのです。お一人お一人お考えになって戴きたいものです。

あぁ生き言霊よ光りある魂へ!!

言霊豆知識-19

『人が無(幽界・霊界)から生じ、無にきするなら、その途中の、生(現界)もまた無(幽界・霊界)の中にある』風雷著より



生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-20-1

『霊は血なり』 私たちが人類創世記の時代から続く、血の流れを受け継いで生まれてきたことは新ためて言うまでもありませんが、それらの親から子へと続く血統とは違って、 霊を受け継いで続く霊統と呼ばれる流れもあります。 この霊統は人種とも異なりますが、日本における霊統は、大別して大和系、出雲系、天孫系、土匪系のほぼ四分類と言われていて、これらの霊統が様々に入り乱れ、 複雑に影響し合って織りなされて行くのが現世の実相でもあるようです。

出口王仁三郎師(大本)は、日本は世界の雛形であると言いましたが、この霊統に関しても同様で、世界的な重要事件は、これら四霊統が中心となって展開すると考えられます。 霊は「レイ」とも「ヒ」とも読み、ヒは日、火であり、実は「チ」でもあって「チ」は血であり本質的には霊と日、火、血は同じものを意味します。

したがって、霊は血の中に存在しており、人の血が赤いのは日であり、火であるがためです。人も霊止(ヒト)であるといわれ、 古事記などに記述されている古代の天皇の御名には、「日継」「日子」の言葉が入っていますが、 これなども国体としての「日」を継承するのみでなく「血」「霊」の継承をも意味しているはずです。

また、小生は国粋主義者でありませんが、日本国旗の日の丸は太陽としての「日」を象徴するのは当然で、同時に霊としての火の色を用い、 霊の形である丸を表現しており、もちろんそこには、地球世界の霊たる位置付けも暗示されて神秘だと思います。

霊が血であるとしたら、血を汚すことは病気の原因つくり霊を汚すことにもつながり、そうなればこれまで幾度もお伝えしたように、霊主体従の法則が厳然としてあるのだから、 霊格が降下し、不幸への道を歩むように余儀なくされるので、血を汚すことは極力避けなければなりません。その意味では、 輸血は霊なので人様の霊を入れたらどうなるか。勿論自分ではないので拒絶反応ができるのは当たり前ですが、医学者の偏った価値判断には困ったものだと思います。

輸血などによって血を汚すのは極力避けるべきであるものの、輸血というものはだいたい生命が危急の場合使用したとしても、輸血した血は決してその人の血とは混じりません。 やがて痔の出血だとか、喀血だとかして排除されます。霊的光力というのは霊的輸血です。これが本当の輸血です。血液の霊化したものがこれ(霊的光力)です。

だから五分くらい霊的光力すれば、二百グラム輸血するよりも血が多くなります。出血が多いと霊が希薄になるんですが、霊的光力で霊を足すと血ができるんです。 輸血の仕方は心臓をやれば良いから、やはり霊的光力で心臓をやる。すばらしい効果がある。


また輸血によって血が汚れたとしても、その後、家族が心を一つにして、 死を覚悟するほどの決意で徳積みを精進すれば、かえって主神から祝福いただけるはずであり、それもきっと思いのほか短期間で浄まり、 むしろ以前より幸せになると思うのですが、命を放棄したのではいかんともし難いところです。 たいへん生意気で失礼な言い方になるでしょうが、人の命の尊さや、人間としての役割の重さを学んでほしいと心から思うからであり、 主神の熱き本意に触れずして頑(かたくな⇒意地を張って自分の主張や態度を変えないさま。)に神の道を行く方々に涙するものです。

とはいえ、麻薬類などは論外ですが、薬剤、食品添加物、開放的なSEX(所謂女性は子宮腟で吸収し、その人の霊質と体質が入り込み霊的障りの現象が起きてくる。 この点女性は点損である。いろいろと男性と接する女性は肌が荒れて、醜女と化して行く。それだけに男には警告が強い。また食する事で言えば口からは入った物すべて喉頭で食べ物の気を吸うのである。 物質の氣の霊気を吸って物質細胞へ栄養は溶け込んでいくのである。これも人間が霊体であるからである。よくよく考えて行動するべきである。最後に泣くのは自分であるから・・・。)

などと現代ではあまりにも血を汚すもので満ち溢れていますので、日常生活のレベルで注意を払わないと、知らない間に汚れが蓄積するのも事実であり、エイズはその恰好のサンプルであって、不特定多数の性行為によって血を汚す結果、 発病する確率が高くなると考えられます。この血の汚れに関しては人類の行為いかんで、今後幾らでも奇病、難病が発生するだろうと思います。


また、貧血は貧霊であり、霊が希薄なことも意味するため、世間で思っている以上に怖い状態であるから心すべきでしょう。霊が希薄なのは、 自分の霊が弱まっているわけですから、悪とつながる副霊の勢いが強くなって、邪神や動物霊、浮遊霊などの良くない影響を受けやすい状態となりやすく、 場合によっては、それらに翻弄され幸せから遠ざかってしまうことも考えられるからです。

そして、貧血は霊が原因ですから薬で直るわけがなく、逆に薬を飲めば霊が曇り汚れれて悪循環を重ねてしまいます。それゆえ、 貧血を防ぐには徳積みをして祖先から自分へと続く不徳を解消し、霊界を豊かにするより他に方法はありません。 以上の8つの摂理、法則は古代日本から脈々と継承され、神武天皇が出現した時代の頃から次第に、闇の中へと消えて行った「天成る道」の根本でもあったと小生は神(しん)じていますが、 江戸時代中期頃から再び、徐々ではありますがその影を神道の中に見せ始めており、こうした神道宗教の中にはかつて新興宗教と呼ばれ、 さまざまな弾圧などを被りつつ今日へ至っている団体も多くあります。これら神道宗教の教義の中には基本的な教えとして、 この世の摂理・法則がまとめられていると推察しています。

そして、この世の摂理・法則に基づいた生活を営み、徳を積みながら日々感謝をもって生活できる人となれば、地震など天変地変や、飢餓、病気、 争いごとなどに気を揉むことが減り、神にすべてを委ねながら健康で豊かで美しく、平穏で幸せな人生が送られるはずです。 そのために私たちは一歩一歩霊格の階段を上がるのみです。 日月神示にもこう書かれています。「行は、世界中の行、誰一人逃れるわけにはいかんぞ。メグリ果たしたものから、嬉し嬉しになる仕組み。 そなたの心配一応は無理ないなれど、何処で、どんなことをしていても、身魂磨けてさえおれば、心配なくなるぞ。心配は、磨けておらぬ証拠ぞ」 命の価値は魂の向上にあります。

経は霊で緯は体であるから、これが結んで力の発生となる。チカラのチは血で、霊であり、血は人体を経に昇降しているが、カラは殻で体であり、霊の容れ物である。 故に血である霊が脱出すれば、体は空となるからナキガラといい、肉体をカラダという。また人(ヒト)とは言霊学上ヒは霊であり、トは止であるから、霊が止まってヒトとなり、人というのである。 人間が生きている間は立体であるのは、経である霊の物質化である血が通っているからで、死と共に横体になるのは霊が脱出して、緯である体のみになるからである。 又人間立体の時は温かく、横臥(おうが=横になる事)すれば寒く、夜着を着なければならないのは、霊界においては火素が経に昇降し、水素が緯に流れているからである。

力なるものを言霊上から説いてみると、チは血であり、霊であり、カラは空であり、躰(からだ)であり、体である。 としたら、力とは、霊体合致して生まれるものである。また人の言霊を解釈してみるとヒトのヒは霊であるから、霊が体へ止まる。すなわちヒがトまるのである。 以上のごとく、力とは霊体一致したのものである。次に文字であるが、力の形は最初縦棒を引き、次に横棒を引いて十字に結ばせ、次に横棒の末端から、やや斜めの棒を引き、その尾が跳ね上がる。 つまり経緯結ぶや活動が起こる意味で左進右退に回転し始めるのである。すなわち力の活動である。

肉体の営みは子孫を残す上では必要なことだが、 それは正当な夫婦の間だけで許されるべきもので、 それゆえに神聖な営みであるはずである。 男と女の交わりは火と水を十字に組むことで、 そこにものすごい産土力(うぶすなりき)が生じる。 神の宇宙創造の原理そのものなのだ。 神聖なだけに、 不純なものは許されない。 太古の「生めよ、 増えよ、 地に満ちよ」 の時代は別としてである。 耽美な誘惑に打ち勝つのは、 心で制するからではない。 禁欲は神の摂理に反する。

だが、 制欲は必要で、 それは心で制して肉体が納得するようなものではない。 人類を増やすために、 神から賜った快楽なのである。 それを制御し得るのは、 霊性、 魂でしかない。 心で戒律を課しても、 肉体は弱いものなのである。 心よりもさらに奥の霊・魂の世界があくまで主体なのだということをわきまえならねばならないのである。 心は従属しているにすぎないもの、 ずっと肉体に近いものである。それを、 心の方を主体にして欲望のままに行動したら、 それはもはや人ではなくて獣に等しい……。そして子を産むことにより親になりえるのです。 其のことにより親と子の摂理が生まれるのです。そして夫婦は互いに補い合って生を桜花していくことが望ましい姿なのです。


予断ですが同性愛ってのは片方が男(陽)の霊で、片方が女(陰)の霊です。だから同性愛ってのは必ず二人が男と女の性格を持つ者です。これも一種の因縁で、 前世で男と女と愛し合ったけれども成功しなかった、その時の男が女に生まれ変ってくるんです。すると前の世の想念が染み着いているから相愛するのです。 これは無論間違ってるんですが、因縁ですからどうすることも出来ません。

同姓心中(霊界ではくっ付いて修行しますので不便です。それに恥ずかしいです。 又現界で生まれてくっ付いて出くるケースも有ります。)なんてやりますが、勿論いけません。 すべて陰陽でなりたっているのですから。同性愛は陰々になってしまうから間違いに決まってますが・・・。

●豆知識;男が女に生まれると変性男子(へんじょうなんし)で、女が男になるのが変性女子(へんじょうにょし)です。いくども女に生まれていた人が、急に男に生まれると女らしい男になるのでよく判ります。しかし変性することはいいことです。 男の強い性格と女の柔(やさ)しい性格が混り合うので性格が片寄らなくなるのです。



霊界は意志想念の世なりすべてのものは霊体なり!!


言霊豆知識-20-2

『霊主体従』 霊主体従とは、霊界の状態がそのまま霊身に影響し、それが現世に生きる我々の肉体や精神に必ず移写することを指し示しています。 すなわち、現世の一切の事象は霊界での状態に左右されますので、自分にかかわる霊界を良い状態としなければ、現世では良くなりようがないのです。

たとえば、川上で水を汚せば必ず川下が汚れるように、霊界にいる魂が濁って低い霊層界にいるのであれば、この世でも汚れた生活となって幸せとはなりづらく、一方、 清らかな魂で高い霊的位置にいる人(霊格の高い人)は、自然に幸せな人生を送ることができるという意味です。

これは単に個人単位だけでなく、血脈という幾千年に渡る血の流れにも影響されるので、先祖が霊界で苦しんでいれば、その血を引く人も何らかの形で苦しみ、 祖先が喜びに溢れた境遇であれば、現界に住む人々も幸せな暮らしができるのです。

もっと具体的に説明するならば、かつて人間界で善徳を積み、再び生まれ変わって来た人は必然的に霊格が高いので、ほとんどの場合、初めから祝福されたように明るく、 幸せな境遇、環境へと誕生するはずで、逆に、やっとの思いで地獄から這い上がって来たばかりの人は、霊格の高い人と比較して、 生まれながらに何かしらの不幸を背負って生まれて来るわけです。

もちろん、生まれた環境、境遇などの状態が、人生の未来まで続く固定的な条件として定められているわけでなく、 その後の人生における行いによって上層にも下層へも変化でき、善行を心がけ、霊格が上がればその分だけ着実に幸せとなり、悪徳を重ねていれば、今が良くても、 いつかは悲惨な状況となるのも必定です。したがって、霊格が低い位置にある人は徳積みをし、自らの霊格を上げない限り、どんなに知恵を振るい、 骨折っても徒労と帰することとなり、まさに無駄骨となるだけでしょう。

このように、私たちは霊界での魂の位置(霊格)に応じたレベルで、この世の生活を営むのですから、霊格が現世の人(体)の実体を支配している意味となり、 これを「霊主体従」と呼んでいます。しかし、時代によって、霊界の実態が現世に移写するまでの時間には遅早の差があるので、 悪行を重ねる輩が良い暮らしをしている世相や、逆に人として優れた良い人が不幸に苦しむ現実など、不公平があるように思われますが、 これまで説明したような必然性が隠されていて、霊界での状況は必ず人間の運命として反映されるのです。

さらにこの霊主体従の摂理は幅広く応用して考えれば、親子や夫婦、あるいは師弟関係や会社などでの上下関係にも関連し、その影響力に強弱の差はあるものの、 一定の運命共同体的要素のある組織、グループ内での人間関係にも生じています。

たとえば、子と親では親が霊であり、師弟では師が霊にあたります。同様に家庭であれば一家の主人が霊であり、会社では社長や役員、日本国では天皇、 もう少し広く解釈すれば総理大臣や国会議員等も霊に当るのです。また、世界で考えれば霊は日本、心は東洋、体は西洋になると言われています。

したがって、子供や部下など「体」の立場にある人達の不始末は、たとえどんなことであろうと、その因は「霊」たる立場である者の責任が大きいというわけで、 「霊」たる立場に立つ人々は一般人よりも、さらに厳しく魂を清めて行く努力が求められるのは当然です。


もっと具体的に表現するならば、例えば家庭内暴力、非行を始めとして家庭内のいざこざや病気さえも、一切が親あるいは夫に原因があるはずとなるのです。 といっても責めてはいけませんが、そこを出発点として考える意味で責任があると言うことであり、家族として集まった人々もまた、 永き年月を魂の向上にを求めていく存在である以上、霊たる立場の者へは心を尽くして支える努力をしつつ、お互いの力を合わせて幸せへの道を見つけ出すべきでしょう。

もちろんそれらは、目で見える現象面を追うだけでは分からない場合も多く、また現代日本においてこの点の解釈と問題点の指摘ができる人は極めて少数であり、 しかも、指摘される側も身体に染みついた癖を直していくようなものですから、性根をすえた真面目な取組みが要求される難解な問題と言えます。いずれにしても、 霊主体従の問題を乗り越えずして、幸福という目的地には到達できないのが厳然たる事実ですから、心して立ち向かいたいと思います。

また、話が横道にそれますが、かつて出口王仁三郎師が「大本教に起きたことは日本に起きる。日本に起きたことは世界に起きる」と言ったのも、 この霊主体従の理の意味にあるはずであり、この地球規模での困難な時代へと向かう今こそ、日本人の思想、行動がいかに重いものであるかを認識してほしいと思います。
霊が浄まってくると、想念が高まるにつれて、肉体細胞も浄まってくる。そうなれば自然に対する適応性が非常に敏感に働くようになるから、肉体細胞が危機を回避していく事になるのである。


天地は言霊水火(いき)に即して生きてくるものなり!!

言霊豆知識20-3

『神界には正神界と邪神界がある』
神界にも人間の霊界同様上、中、下と幾くつもの階層に別けられていて、格の差があるようです。そして、それぞれの神々は、それぞれの使命に基づき、 万物の清浄なる生育と幸せのため日々活動されていますが、神には正神と邪神との二つの神界があり、邪神も正神同様の階層となっていて、正神といえども、 格の高い邪神には歯が立たないのです。

しかし、この正・邪を善・悪や神・悪魔のような対比として単純に理解すのは間違いです。正神は時として厳しい面もありますが、明るく美しく誠意に満ちた心を育みながら、 人の魂の向上を導くために様々な援助を行なう立場であり、邪神は人を堕落と虚偽の世界に陥れ、怨念や邪な心を助長し魂を降下へと導く働きをする立場と考えるのが妥当だと思います。 人は物事がうまく進展しなかったり、不運や嫌な目に合った時など何か悪いものに邪魔されたような気持ちとなって、それを邪神のせいだと思い込む傾向がありますが、 これはまったく見当外れな場合が多く、むしろ、事がうまく進み、どんどんと成功すような状況をつくりながら人を有頂天にさせ、調子に乗せておいてから、 時間を掛けて知らず知らずのうちに人格や考え方などを歪めたり増長慢心にさせ、あげくの果てに魂を無明の闇に陥れ、奈落の底へと引きずり込んでいくのが邪神の常套手段です。 また、高位の邪神であればあるほどその手口は巧妙であり、また、この現世で影響力の大きな人物の心を狙うものです。

ですから、むしろ苦労、困難や謙虚を求めるのは正神のなせる術であり、快楽や奢り、慢心は邪神の領域であると思えばわかりやすいでしょうか。宗教戦争などと聞くと本当に情けなく、神の存在を否定したくなりますが、これらも自分の信仰する神の正しさを証明しようとする力みや、 神の御心を実現しようと思う、かたくな真面目さのあまり、心のバランスを欠き、いつしか正神の仮面を被った邪神に翻弄されているのが実態でしょう。

しかし、単純に邪神を忌み嫌うだけでは駄目なようです。と言うのは、現世は常に二つの相反する流れによって動かされているとしても過言ではなく、光と闇、 プラスとマイナス、熱と冷、陽と陰、愛と憎悪、歓喜と恐怖など、これらの背反して対峙する二つのエネルギーによって人間も切磋琢磨されており、またそこに、 宇宙のダイナミズムが生まれてくるのであって、邪神と言えどもなくてはならぬ存在で、彼らによっても私たちは、結果的に成長を促されている事実を見逃してはならないと思います。

「邪神もまた、主神が人々の心を磨くため、お造りになった」 と神が仰せなのもその意でしょう。信じがたい話ですが受け入れざるを得ない言葉であり、事件の渦中にいる者、それを傍観する者、 いずれも何らかのかたちで正邪の影響を受け、時には厳しすぎると思われるような場合もありますが、人の心や魂がそこで磨かれて行くのだろうと思います。


ところで、邪神は人の心の隙を衝いて、いつの間にか忍び込んでいるものですが、これらは私たち誰ものお腹にいる副霊、ほとんどが動物霊と言われていますが、 この副霊が邪神とつながっており、邪神は副霊を媒介して人の心を読み取って利用しているようです。 そしてまた、副霊を使って人の心を邪な考えで支配しようともしていて、人の心は正しい想念、波動を神から受け、邪念を副霊から受けていて、その二つの波動、 エネルギーの渦によって磨かれもし、汚れもしますが、人の心への影響度合いが副霊0;守護神10であれば神の如くとなり、 (しかし、現世に暮らす人として生きる力は無くなる)その逆は悪魔のような人間となってしまうのです。

このバランスをとって生き抜くことが人間としての行であり、人がその心に怒りや憎しみ、悲しみなどと心を曇らせれば、それをエネルギー源として副霊は強くなり、逆に、 人から感謝されたり陰徳を積むなどを行うと副霊は萎縮し、人の心への影響力を弱めます。一般に、程良いバランスと思われるのは副霊3;守護神7程度だと伝え聞いています。

余談話;宇宙霊界の話を致しますと、神様がお創りになった、火星や金星には高級霊人が住むが、低級霊人達は、木星、土星に住んでいると言います。また「地球以外いくら探しても住める所はないと言われています。 現界的な考え方ではこのようなことを言っても只のたわ言でしょうが・・・。」


生き言霊に幸あれ!!

言霊豆知識20-4

『霊界と現世はリンクしている。…この世は霊と物質(体)の二重構造 』

霊界と現世がリンクしていると想像すると、幽霊や怨霊を思うかもしれませんが、そうした部分は特殊な状態の話であり、 ここでは霊・物の二重構造が人とどうかかわっているのかを概念的にお伝えしたいと思います。 人は物質である体によってこの世の生活を営むことができますが、体を動かしているのは目に見えない心の動きであり、心は現実のさまざまな状況に反応しつつも、 実は心の奥の現魂(霊)から影響を受けているのが実相です。

現魂は霊界に存在する幽魂とつながっており、その幽魂こそが人の本当の実体(自己・意識体)ですが、目に映る現実世界の現象に惑わされ、 幽魂の想いがそのまま人の心に反映されることはまずありません。とは言え、心の深いところでは感じ取っていて、無意識の行動や直感的な判断で命が救われたなどの例にみるように、 時折、何かの弾みで魂の意識が人の心にまで浮き上がってくる場合もあります。

すべての人は霊界から反映する霊と物質である体とが密合した存在ですが、人の実体は霊界にある意識体(魂)であり、霊界にはそれら多くの意識体(魂)が住んでいて、 魂の意識状態がハッキリと露呈する明白な想念の世界となっており、意識体は常にレベル向上を願って精進しています。

ここでしっかりと認識していただきたいのは、霊界が自然にゆっくりと向上する世界に対して、現世では本人の言動によっては急激に向上できるチャンスのある世界(逆に言動によっては急降下もある)なので、 人がこの世に生を受けるのも、己の魂の意識レベルを速やかに向上したいがためです(魂の向上)。


人は自分の魂の声(本当の意識、気持)をキヤッチし、その魂の望む方向へ自分の言動をシフトして行けば霊界の魂の意識レベルが向上し、魂が向上すれば現世の自分自身がその分幸せとなります。 ただし、逆に魂の意識とは逆方向へ人生の舵をきれば魂は沈み、やがて現世の自分自身に不幸となって現われるのも摂理であり、実に霊界と現世とは相互にリンクしているわけです。 しかし残念ながら、現代の多くの人は「物」にとらわれてしまったため、霊界と現世のリンク性や、自分の魂の声を聞く謙虚な行為を忘れ、幸せへの道が閉ざされた状態になっていると思います。

こうした点を踏まえ、真の幸せを得るためにはまず神界や霊界の実相を学び、この世とのかかわりをしっかりと理解しながら、己の魂の向上を目指すところから始まるのです。 また一方、霊界人と我々とは密接に相関しており、霊界人は死によって物質的には消滅しているため、この世の人からは姿かたちが見えないものの、 霊線と呼ばれる線によって結ばれています。

この霊線は霊界人のみならず、神々や家族や親類、友人知人などと良くも悪くも現世で縁のある人々ともつながっており、 それぞれの関係の強さに応じて太い細いがあるものの、お互いの意識等は心の奥底で交流し、影響し合っているのです。稀に、 この魂でつながった線が見える人もいるようですが、世の中が線だらけに見えているかもしれません。

現世に生きる人が善徳を行い他者から感謝されると、それは光となって霊界の先祖に届き、先祖の霊格が上がり、幸せ度が高まります。先祖が霊格を上げると、 こんどは先祖が現世の子孫に感謝し、子孫の幸せとために霊界から力を振るいます。人生の大転換期や危機的な場面などで、 全く直観的なひらめきで万が一の危機を乗り切ったり、自分でも驚くような行動を咄嗟にし、命が救われたりすることが見られるのもけっして偶然でなく、 霊格の高い先祖すなわち正守護神の働きです。何辺と無く経験しております・・・。

逆に、先祖の多くが地獄にいて、現世の子孫に救いを求めているような場合、子孫はなかなか幸せにはなりづらく、徳を積むどころか不運に負けて罪を犯しやすいのですが、 犯罪で人を苦しめればその分霊格が下がり、自分だけでなく祖先もますます苦しむ循環に陥るので、現世の苦しみに耐えて善行を積むことで、互いに幸せの道を歩むのです。 こうして日々、霊界人と現世人は助け合いいたわり合い暮らしているのが実相なのです。

また、神や守護霊とのつながりについて言えば、額の中央部やや下あたりに天庭(てんてい)呼ばれている部分がありますが、ここは、 その名のとおり天から直流的に降りてくる正しき想念(神の意思)とつながっている所であり、ご先祖の代表者である守護霊は、人の肩にいつも乗っていて、 神様と同様に人が正しき道を歩むように導きの努力をされています。守護霊以外にも幾人かの先祖が子孫に付き、行動を共にしながら修行しているのも事実ですから、 人の言動によって清・濁の影響を受け、清浄な場所や清らかな信仰の話などによっても幸せとなれるので、私たちに責任ある生活態度が求められるのは言うまでもありません。

こうすると、人は誰もが守られているのだから、もっと平和で安らかな暮らしができても良いはずだなどと考えがちですが、残念ながら物事はそんなに単純ではないのです。 本守護霊を始めとして神々も安直に人を救おうとしたり、人間的な甘い優しさをかけたりはしないもので、ともすれば厳しい場合もあります。 なぜなら、神々は人間一人一人が邪悪な心や弱い精神から脱皮し、巧妙に仕組まれた誘惑や卑しい欲望に打ち勝ち、自立して正しき道を歩める魂の創造を目的としているのですから。 独り立ちを促すための愛の鞭と表現すればお分かりになるでしょうか。

したがって、直接的に手助けをするのは特別な場合を除いてほとんどなく、「虫の知らせ」のように、声なき声を五感でキャッチする程度しか表れないので、 単に気のせいだと思えば、それですべては終わりとなり、この時点で神や霊界を認める人と認めない人との差が歴然となるでしょう。 神や霊界を信じないのも本人の自覚や感性の問題であり、悲しいことではありますが生まれてから何を学んできたかの表れでもあり、やむを得ない帰結の姿です。


また、人のお腹(臍のちょっと上辺り)には、副霊と呼ばれる動物霊が付いていて、この副霊は自分自身の「欲望」を満たそうと常に働いています。 そして、欲望というと邪悪な欲や不正な欲だけを連想しがちですが、食欲や性欲などの生理的な欲もあれば「立派になりたい。人の為に頑張りたい」などと思う向上心や意欲なども実は欲の一種です。 ですから、こうした欲が人間から取り払われると、現世においては生活のできない腑抜けの役立たずとなるだけで、人生の意味が成り立たなくなってしまうわけです。 欲には悪いものばかりでなく、この世での修行には欠かせないものでもあり、この欲とどう付き合って行か、どうコントロールするか人としての大きなテーマなのです。

●今の時代でも霊憑り(れいがかり)と言われて、テレビでも話題にして放映されることがあるが、霊界は我々物質界となる現界人にとっては見えないし、さっぱり分からない世界。 それを良いことにあちらの住人もしくは動物霊とか言われる存在は好き勝手に、こちらの人間を翻弄しようとしていろいろ仕掛けてくるらしい。 まあ、そんなのは相手にしないのが一番良いのだろうけど、時たま、少しは心当たりがあるような事を当ててしまうので、すべてを信じてしまいやすい事もありがち。

しかし、あちらで見える世界というのも結構いいかげんな所があり、簡単にだまされてしまうとトンデモ無いことにもなる。またうまく騙すことに喜びを感じている存在もあるとか。 これは現界においても同様な奴がごまんと居るから、よほどしっかりしていないとついつい騙されてしまうのだ。

現在ではあまり神かがりなどとは言わないで、チャネリングとかと言っているようだが、霊界の見えない世界の事、全部を鵜呑みしてはいけない。 どれが真実かどうかなど誰も判定は出来ないという事を知っておくべきで、占いなども同様、当たる事もあるが、はずれている事もある。

そして鵜呑みにして振り回されないことが肝心。要はこの世界は自分の思うように動き出してしまう事になるからだと思われる。 というのは信じてしまうと、そういう世界が自分の世界に現実化してしまうのだ。だから霊がかりの言った事を自分が真実と思うと、そのような事が実際に起こり始めてしまうということになる。

それは自分は創造主としてのミニチュア版だという事だから。現実の創造者として力を与えられているという。霊能者、特殊能力者は凄い奇跡を見せてくれる。だがこんなものは誰でも肉体を離れて霊界人となれば当たり前の事。 我々はわざわざこの現界にそういう力を制限して生まれて来ているのだ。 だから、パワーとか奇跡とかにあまりとらわれ過ぎると(知識位に留めて置く)、本末転倒、制限ある肉体人として精一杯やれることに挑戦して来ていると思えば、霊界からたよりなども参考にすれども、まあたいした事ないわいと思っていた方が間違いないだろう。



人々の心に澄める月影を隠すは欲と罪の雲なり!!

言霊豆知識-20-5

『風邪は健康の素』 霊界に蓄積した罪穢れや、体内に蓄積した汚れ・毒素を排泄する際に起きる現象が病気と言われる症状に該当しますが、この時、 罪穢れが物質化した毒素・汚れを、スムースに体外へ出そうとして起きる自浄作用が発熱であり、固形物を気化したり、ゲル状、 液状に溶かして排出しやすい状況を体自らが作り出します。

多くの場合、初めは背中側・肩甲骨の間あたりの熱を奪って、溶かす必要のある患部へ熱を送るので、悪寒を感じるのは背中となりやすいのです。身体の各部を触り、 周辺よりも温かい部分があれば、そこが浄化作用を起こしている患部になるわけですが、多くは頭部や延髄・関節等、とくに頭部は最もよく使う場所なので汚れが滞留し、 そうした箇所で発熱現象が起きやすいものです。この最も基本的な浄化作用の典型が風邪であり、「風邪は万病の素」とは愚かな人間の判断であって、 「風邪は心身の健康の素」が本当だと思います。

もっと具体的に経過を説明すると、頭部など身体の一部に一定以上の毒素・汚れが溜まると、正常な状態へ早く戻そうとする体のメカニズムが働き、体温を上げ、 固まった毒素・汚れなどを溶かしながら、汗や尿などとして排泄しますが、この時、汚れがひどいと体温は相当に上がり風邪の症状を引き起こします。

さらに熱が上がれば、大量に溶けて出る排泄物は汗や尿だけでは間に合わず、血液や細胞、リンパ腺などへと流れ出て、排泄作用のポンプの役割をする咳や、 くしゃみなどで全身の毒素を吸引しつつ、痰や鼻水として体外へと出されるのです。


したがって、これらを注意深く観察すると、痰や鼻水は一定以上に体温が上がってから出始め、初めは毒素・汚穢が濃密で見るからに汚い状態ですが、順次、 体内から汚れが出て行くにしたがって、痰や鼻水はゲル状から水状へと変化し、色も薄い半透明となって咳やくしゃみも軽くなり、 汚れがしだいに少ない感じとなって行くのが見届けられるはずです。この症状をきちんと対処できれば、短期間で正常に戻り、 戻った際は以前より体がスッキリとしているのを感じるはずです。

こうした摂理に合った対処方法を行うようになった小生や家族は、風邪の場合、数時間にわたって40度程度の発熱をするものの、約一両日で症状はおさまり、 とは言っても、当初は本当に大変でした。

この作用が起きた際、各段階で投薬、解熱を行なえば、当然、自然の浄化作用を強制的にストップさせるわけですから、体内に毒素・汚れ等が滞留し、 予想外の別の症状に転化する場合があるだけでなく、霊界の汚濁が減らないので不健康、不運の根っこは清算できなかったことを意味するのです。 現代人の免疫力の低下や現代病の多くもここに起因します。小生が田舎に住んでいた頃のお話ですが近所の子供が風邪をひき、熱がなかなか下がらないので親が心配をして医者に連れて行き薬で熱を下げようとして、其の子供は いきなり熱を下げられたので耳が聞こえなくなったということを思い出しました。 したがって、通常は、発熱こそが体から毒素や汚れを追い出す最も優れた作用であり、昔の名医は風邪には薬を出さず、 「栄養をつけてしっかり睡眠をとりなさい」としていたと聞きますが、本当にその通りで、風邪を軽々しく扱うわけではありませんが、 体を冷やさないように気をつけながら、しっかりと熱を上げて汚れを体外へ出すことが大切です。

ちなみに、熱は汚れを排出するために上昇するわけですから、必要量排泄できたら自然に下がるのが摂理であり、また体力の程度にしか上がりませんので、 熱の高さで自分の真の体力を推し量れますし、熱で体が壊れることなどは起きません。むしろ、熱に怯えて解熱剤などで一気に下げたりすると、流れていた毒素、 汚れが停滞するので、かえって停滞した箇所で身体的な支障を招くケースも考えられるのです。かのヘレンケラー女史の三重苦の原因が、まさにその現象です。

また、熱が上がった場合、熱は順次体の下の方に拡がっていき、足の先まで熱くなったらそこで熱の上昇は終わります。幾度と無く経験済みです。 心配なさらず自分の体と意乗りの心が大切です。感謝の心が大切でする。とは言うものの心が折れそうになったりしますが、それもこれも自分の体を綺麗にさせてくれると思えばこそ耐えられます。

 近年、基本的な病気の原理にあてはまらないような症状も昨今(さっこん〜ちかごろ)急増していますが、それらはもともと浄化の摂理にもかかわらず、 別の要因によって違った症状と見えるのであり、たとえば、リュウマチや通風等の場合は、毒素・汚れなどが血液中に多く含まれるため、 流動性に欠けた血液が体内を巡る際、毛細血管等の微細な通路をスムースに通過しづらくなり、フィルターに目詰まりを起こしたような状態となって、 その部位に汚れがたまり、さらに汚れが汚れを呼ぶ悪循環に陥って、体の一部に蓄積されて固結するような症状となるです。

また、体内の汚れを増大させる要因として、飲食物に含まれる防腐剤や食品添加物なども挙げられますが、現代は経済優先、石油科学優先の文化によって人間の命、 魂の尊厳を傷つけるもので溢(あふれ)れているのは悲しい限りです。私たちは、薬と縁を切る努力をしながら免疫力を高める工夫を求め、自然治癒力を高めて行くべきでしょう。 上記の記述をまとめますと上便所(涙腺とまぶた・鼻・扁桃腺・耳・口))・中便所(肺・皮膚)・下便所(泌尿器・肛門・小便・痔・回虫)というような流れになって排泄されるのです。詳しいお話は又書きたいと思っております。

補足;食欲が減ったら減ったで食べなきゃいいんです。神様の方がこれ以上食欲が出ると熱が高くなって、今度は熱で苦しむなあと思われるからわざわざ食欲を無くしてエネルギーを取らせないようにして、 温度が体温に耐えられるよう持って行こうとしてくださっているんだから、食べなきゃいいんです。水だけ飲んでいたらいいんです。それじゃ清浄化は楽になって死ぬところが助かっちゃう。 生きてる以上でも清浄化が楽に済んじゃう。ス直に生きてりゃいいんです。 ただ霊的光力受けないと今の人は自然力では直し得ないですよ。何千年と薬を細胞の中に入れちゃってますから、本然の神の子としての細胞活動の能力がなくなっているから仕方がない。 それだけは考慮しておかないといけない。その後はス直にしてりゃいいんです。

豆豆知識-1;『真の営養学』 今日の営〔栄〕養学上、ビタミンがどうとか、カロリーが幾許(いくら)あればいいとか言うことは、実は、枝葉末節の問題であって、営養の根本は食物の霊気その物にあるのである。 しかし、この霊気なるものは、試験管では測定出来ないものであるから、いかに研究しても今日の学問の程度では判らないのである。 カロリーとかビタミンとか、蛋白とか、含水炭素とかいう物は、実は、霊気を取除いた後の糟(かす)のごときものである。 各項において細説したるごとく、人間は霊と体で成立ち、活動しているものであるから、食物も、その霊体両方の営養が必要なのである。

あらゆる食物、それらも悉(ことごと)く、霊体で成っているのであるから、新しい食物、即ち新鮮な野菜、漁りたての魚程、霊気を多分に含まれているのである。 この理によって、食物の腐敗するのは、霊気が放出するからである。食物にも霊気保持期の長短があって、穀類は一番保持期が永く、蔬菜(そさい)類がその次であって、魚が一番短いのである。 これは腐敗の時間をみれば、能く判るのである。随って、新鮮な物程、霊気が濃い訳である。

しかし、干物にすれば、比較的長く保持されるのは、塩の霊気を借りる為と、水分を抜く為とである。 (水は元来、右進左退の活動であって、空気とは反対の運動リズムである)缶詰は、密閉して、空気を遮断する為、空気中に放散すべき霊気が、保持されるからいいのである。
人間の精霊を養うには、食物の霊気であり、人間の体を養う物は食物の体である。しかるに、人間の活力の根源は、霊気の充実にあるのである。体の強弱は、実は、霊気の充実と否とにあるのである。 しかるを以て、健康の根本は、霊の多量に含む物を食えばいい。さすれば、精霊の活力を益(ま)し、精霊の活力が増せば、肉体の強健を増すからである。

彼の各種の滋養剤(じようざい〜からだの栄養となること)のごとく精製されたものは、霊気が発散して、稀薄になっているから、精霊を養う力はほとんど無くなっている為、何程、滋養剤を摂(と)るといえども、活力は増さないのである。 それよりもむしろ、新鮮なる野菜のごとき物を食す方が、どれ程賢明であるか知れないのである。 今日の科学は、霊を無視し、体のみに依(よ)って研究されたものであるから、間違っているのである。最も判り易い、例えば吾人(ごじん〜われわれ)、人間である。手足や五体が心を動かしているのではない。 心が四肢五体を動かしているのであるのと同じ道理である。

人間を構成している、あらゆる物質は、幾百種に上るか判らない。主なる物としては血液、細胞、筋骨、毛髪、水分、石灰質等、その一つ一つの中に、幾種類も成分が含まれてあるのである。 又各種の臓器、それらが皆一秒の間も停止する事無く活動しつつある。そのエネルギーは何に依(よ)るかと言うと、いずれも、食物から抽出されたる、霊素と体素とである故に、 あらゆる食物の成分には、人間の生活力に必要なる成分を、含有されていないものはないのである。

故に、理想から言えば、出来得るだけ種々の食物を摂るのがいいのである。 何が薬だとか、何がいけないとか、人間が理屈を付けるのが、間違っているので、この点からも、食べたいと思う物を、種々食べるのが、一番いいのである。


豆豆知識-2;食物について一例を挙げれば、夏は、茄子(なす)の香の物と枝豆を特に余計食べたらよい。これは、茄子を食べると非常に痰が出る。 その理由は、茄子は、体内の掃除をする力があるので、神は人間に、沢山食わしむべく、この野菜は、沢山生(な)るのである。

枝豆は夏季に限る野菜でこれも夏季多食すべく、与えてあるのである。又秋は、柿を出来るだけ食するといいのである。柿は冷えるというが、これは冷えるのでなくて、 体内の洗滌をするので、それが為に、小水の多量排泄となるのである。



生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-20-6

『病気の根本原因は血液の汚れ』 医学界では癌を始めとして、人類の特殊な病いや奇形などの異常な症状について、遺伝子に原因があるとの意見が根強くあります。しかし、 遺伝子そのものを狂わせる放射能やダイオキシンなどの毒物による症状を除けば、遺伝子と病気とは関係なく、それらは輪廻転生の歴史と、 現世の行いによって積み上げられた膨大な罪穢れの影です。

この影は霊界の反映として、人体の血の中に表れます。霊は「チ」とも呼ばれる通り、現世では血を示します。そして、この血を浄化しようとする働きが、 病気と呼ばれる状態を引き起こしているに過ぎません。ですから病いに気付いた時、なぜ自分の血が汚れているのか、なぜ霊界が汚れているのかを考えて素直に対応すれば、 浄化はスムースに循環して痛みや苦しみは大したものとならないのが「摂理」ですが、現代人はそれが分からないためにかえって事を大きくしているようです。

これらには、エイズや白血病などのように血液そのものに症状を見せるものもあれば、結核や癌、ハンセン氏病、膠原病、 そして最近の子供に多いアトピーなどのように二次的三次的作用を経る病いもありますが、人々の因縁や体質、生活環境、気候風土などの違いによって現れ方が異なります。 たとえば癌ですが、できた癌の病巣は血の汚れの結果であり、癌の塊が病気の原因ではなく、ましてやウィルスではありません。ですから、病巣を切除したとしても、 それは根本的原因を直したわけでありませんから、本人の心・言・行が変らない限りいずれ再発するのが当然なのです。

これらは、「お前の血は汚れているぞ」のサインであると受け止め、霊的汚濁、精神的汚濁、体的汚濁など根源的深度・汚濁の程度によって対処の難易度に違いがありますが、 徳を積む、他人に感謝される行為など、霊界をきれいにする心・言・行の積み重ねによって、心が自然と変り、血がきれいとなって、やがて癌は消えていくのが「摂理」であり、 それをさらに促進してくれるのが霊的光力です。

また、ウィルスや細菌類たちにしても、特殊な場合を除けば、人に死をもたらすために集まるわけではなく、蜜に群がる蟻のように、単に、 血液中に含まれた汚物を求めているだけだろうと思われます。とくに、エイズウィルスと呼ばれる微小生物の振る舞いを観察すれば、その意味が見えてくるでしょう。 ただし、こうした事例にまったく当てはまらない特殊な要因として、霊的障害が考えられます。とくに、怨念を受ける影響は極めて強く、 「一族郎党、末代まで祟る」「血のつながった者はことごとく呪ってやる」などの復讐心に燃え盛る霊界人が、霊界で暗躍する場合、 本当に摩訶不思議な症状や病気で苦悩することがあります。

現代人が摂理からかけ離れた考え方や、言動を常識とし、しかも金力、権力を求めるあまり、他者への思いやりに欠ける弱肉強食の思想が加速する時代でもあるので、 ますます複雑怪奇な病いが出現するのもやむを得ないかもしれません。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-20-7

『病気の治し方について』 病気一切の原因が毒素・汚れなどの浄化作用にあるとしたら、病気治癒への方策は論理上容易であるはずです。一つは今以上に罪汚れを作り出さないことであり、 次には、霊界に堆積した罪穢れをスムースに体外へ排泄すること、そして、できるだけ苦痛を伴わないで速やかに出すこととなります。しかし、 そう考えても残念ながら簡単にはいきません。なぜなら、その実行プランが現代人にはかなり難題と思われるからです。 以下、簡単なところから順じレベルを上げる気持ちで、その難題をご案内しますので、お考え下さい。

@ レベル1・飲食物に気をつける ・ なるべく薬は使用しない。

・ 酒、たばこを控える。
・ 農薬、防腐剤、添加物の少ない食品(水)を飲食する。
・ 極端な肉食は控える。
A レベル2・体質の改善に努力する ・ 最低でも週に一度は、軽運動などで汗を流す。

・ 日本の伝統食を中心にしてバランスの良い食事を摂取する。
・ 規則正しい生活をおくる。

B レベル3・考え方を柔軟にする ・ 物を大切に扱う。

・ くよくよしない。
・ 感謝、謙譲の気持ちを大切にする。
・ 人を悲しませたり、苦しめたりしないように配慮する。
・ 人に妬まれたり、恨まれたりしないよう心掛ける。
・ 人と和合するよう努める。
・ 人のために行動する。

C レベル4・人生の価値について考える ・ あらゆる命を大切にする。

・ 他者の尊厳を大切に考える。
・ 他人の幸せを祈る。
・ 親や先祖を大切にする。
・ 人から感謝されることを行なう。
・ 陰徳を積む

過去生で、人から強い恨みを受けているような特殊な状況がない限り、以上のステップで向上すれば病気とは自然に縁が切れるものです。 とくに日常生活でレベル4を実行できている人は、病気どころか円満な幸福者となっていると思います。 また、レベル4程度までに至れば怨念、怨霊の類も簡単には手出しできなくなり、やがて、恨み、憎しみで凝り固まった霊界人も改心の道を歩み出すはずです。


薬の害

先ずはじめに元来消化器能なるものは、定められた食物以外は処理出来ないよう造られている以上、薬は異物であるから処理されないに決っている。 それが体内に残存し、毒化し、病原となるので、この理を知っただけでも、人間は大いに救われるのである。しかも薬剤の原料はことごとく毒である事は、専門家もよく知っている。

さらにもう一言、新薬研究の場合、必ず毒物を原料とする。また近来流行のペニシリンにしても、原料は水苔(みずこけ)であるから毒物ではないが、人間の口へ入れるべきものではない。魚の餌として神が造られたものであるから、人間に役立つはずはない。 またよく薬の分量を決め、破ると中毒の危険があるとしているが、これも毒だからである。以上によって薬と名の付くものはことごとく毒であり異物である以上、消化吸収されず、体内に残って病原となるという簡単な理屈が分らないというのは、全く医薬迷信の虜(とりこ)になっているからである。

薬について医学の解釈であるが、それはどんな薬でも余毒は自然に排泄消滅するものとしている考え方で、これが大変な誤りである。というのは元来人間の消化器〔機〕能は、消化される物とされない物とは自ら区別されている。 すなわち消化されるものとしては、昔から決っている五穀、野菜、魚鳥獣肉等で、それらは人間の味覚と合っているからよく分る。これが自然に叶った食餌法(しょくじほう)である以上、これを実行していれば病気に罹るはずはなく、いつも健康であるべきである。


さて病気などに際して、薬が一時的に体を楽にしてくれるのは周知のとおりですが、人生の長丁場を考えると、薬の使用にはさまざまな問題をはらんでいると思います。 一つは副作用であり、この点については社会一般でも認識が広まっているようですが、さらに重要な点として体内残留と質的変化があります。 体内に入った薬は、時間とともに一定量は体外へ排泄されますが、相当な量が体内に残留しやがて有毒化するのです。例えば、消毒薬は患部周辺に滞留し、 やがて体内で猛毒に変質して人体を痛める原因となります。

また、頭痛薬、鎮痛剤、睡眠薬の類は後頭部や延髄付近に溜まりやすく、貧血、肩こり、冷え性などの温床となって、 イライラしやすくなるなどストレス・精神病の原因となる悪循環の元です。しかも神経を煩り、弱った場合などは動物霊など邪霊の影響を受けやすくなり、 思いもよらない事件に巻き込まれたりすることも考えられます。

あるいは、解熱剤や風邪薬は、体温を上げて体内をきれいに掃除しようとする自然な働きを急停止させるので、 循環器系統に異常をきたして想像外の症状を引き起こすことも考えられます。そして掃除を途中で止めるわけですから、体(上便所・中便所・下便所があります)は結局汚れたままとなって、体力、自然治癒力、 抵抗力を低下させ、虚弱体質を作り出す原因となります。 もちろん、事故などによる緊急時に薬等の使用はやむを得ないでしょうが、通常時には使用しない方が身のためであり、常用している人は順次速やかに使用量を少なくし、 過去に相当量使用した人は早く排泄できるように工夫(霊的光力で溶かす)し、徳積みを積極的に行うことをお勧めします。

薬にも病気目的以外に多数あります。私たちが知らず知らずに体内へ入れる薬として各種食品、食材に含まれる添加物、抗生物質などの薬剤や農薬の類が上げられますが、 これらも微量とはいえ濃度が高く、環境ホルモン問題にとどまらず、子孫への遺伝を含めて私たちの体を少しづつ蝕んでいるのは紛れもない事実であり、 現代人は自己管理として様々な注意、努力が要求されているのです。

豆豆知識;「わかもと」「ノルモザン」「ともさん」はたいしたことはないが、「アルバジル」は悪いんです。「アルバジル」を少し続けてのんで死ぬ人はたくさんあります。非常に悪い。 それから、「げんのしょうこ」・・・これが一番悪いです。「げんのしょうこ」は自殺です。あれをたくさん服んだ人は結局治らないです。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-20-8

『風水の原因は天地間の浄化作用』 風水の原因は天地間の浄化作用であって、なぜ浄化作用が発生するかというと、霊界における曇りすなわち眼に見えざる汚濁が堆積するのである。 それを風力によって吹き払い、雨水によって洗滌される、それがための暴風雨である。しからば右のごとき曇りとはいかなるものでいかにして堆積(たいせき)するかを解説してみるが、 それは人間の想念と言霊によるのである。 すなわち想念の悪に属するものとして不平、憎み、呪い、嫉(そね)み、個人的怒り、偽り、復讐心、執着等が、霊界を曇らせるのである。

次に言葉であるが、気候が悪いとか悪天候とか米の不作とかいうような自然に対する不平や、人に対する非難攻撃、怒号罵声、秘密欺瞞、咎め、愚痴等、 すべて悪から発するものは想念界の次位である言霊界を曇らすのである、それら種々の曇りの堆積の量がある程度を超ゆる時一種の毒素が発生し、 人間生活に支障を来すことになるので、その自然浄化が発生する、それが天地の法則である、前述のごとく霊界の曇りは人間の健康にも影響すると共に 草木特に農作物にも悪影響を与える結果凶作の原因ともなり、害虫の発生も旺盛になるのである。


ゆえに今日日本各地における松や杉を枯死させる害虫の発生もこの理によるのであるから、人間が大いに向上しない限り、これを防ぐ事は難しいのである。 言い換えれば日本人自身の過が、自分の国の松や杉を枯死さしているという訳であるから、人間の悪念と言霊は大いに慎まなければならないのである。 右の天災に引換え人災もまた怖るべきものがある事は何人も知る通りである。特に最も人間に被害を与えるものとしては戦争であろう。

小生はこの戦争の原因について、破天荒ともいうべき新説をかいてみるが、あまりに意外であるから、読者は心を潜めて読まれたいのである。 戦争とはもちろん集団的闘争であって、今日までの人類は平和を好むよりも争いを好むかに見える傾向が多かった。

それがひとり国際間のみではなく、国内各方面を見渡す時、争いのない所はほとんどあるまい。一役所、一会社、一組合等、いかなる集団の内部にも必ず絶間ない暗闘があり、 互いに相手を非難し排斥し合う、また同業者間の争い、家庭内の争いすなわち夫婦兄弟親子等の争い、友人間の争い等々、実によく争いを好む、電車汽車内、 道路上においてすら通行人同士の争いはしばしば見受くるところである。全く人間生活の中で争いの面のいかに多いかは今更言う要はない。 とすれば一体人間のこのような争いを好む性格は何に原因するかを説いてみるのである。

いかなる人間といえども、先天性及び後天性に種々の毒素を保有している。それらの毒素は人間が神経を使う個所へ集注するという、小生の唱うる説に従えば、 神経を最も使う局所としては首から上である。頭脳を初め眼鼻口耳等で手足は休むことがあっても右の機能は覚醒時中は一刻の閑さえなく活動している。 従って、毒素はこれらの付近に集溜するのは当然で、大多数者がいつも訴える首の周り肩の凝り等もそのためである。(首に関する手術などは絶対にしてはいけない)

この集溜毒素は時日を経るに従い一旦固結するが固結がある程度に達すると、反対作用すなわち溶解排除作用が発生する、これを浄化作用というのである。 その際必ず発熱を伴うが、それは毒素排除を容易ならしむるための固結の溶解作用で、それによって固結は液体化するのである。

この自然浄化が感冒であって喀痰鼻汁汗等の排泄物はその表われであるが、感冒の極軽微な浄化作用は、大抵の人は平常といえども持続しているのである。 これはほとんど気の付かない程度であるから、本人は健康と思っているがこの程度の人といえども決して真の健康的感覚はない。

何となれば精密に診査すると、頭脳全体から肩部にかけて必ず微熱があり、軽度の頭重、頭痛、眼脂(めやに)、鼻汁、耳鳴、歯槽膿漏、 頸肩の凝り等の自覚症状は必ずあるものであるから、これがために絶えず一種の不快感がある。この不快感こそ曲者である。すなわちこの原因によって怒りとなり、 怒りの具体化が争いとなり、争いの発展が戦いとなるのであるから、人類から闘争心を除去する手段としては、この不快感を除去する以外他に方法は絶対ないのである。


世の中の移らふ様をながめては立つべき時の来るを悟れり!!

言霊豆知識-20-9

『生と死』そもそも、吾々の住むこの地上は「霊界と現界」に区別されていることは、すでに述べた通りである。この理によって人間は、霊は霊界に属し、肉体は現界に属して いるから、人が死ぬということは、肉体から霊が離脱して霊界に復帰することである。故に、一般人が考えている死によって全部が消滅する――というような解釈は、 全然誤っているのである。これは約十年間位かけて色々と、人の死と霊界との関係を徹底的に研究し、動かすべからざる根拠を把握し得たのである。納得しがたいが事実であるから仕方が無い。 故に、死後人間の精霊は、直ちに霊界に入り、霊界の社会人となり、霊界の生活が始まるのである。そうしてまず人間が死の刹那(せつな)はいかなる状態であるかを、霊界から観察する時の模様を書いてみよう。

死即ち精霊が肉体から離脱の場合、概(おおむ)ね人体の三個所から出るのである。即ち前額部、臍(へそ)部、足の爪先からである。この区別はいかなる理由によるかというに、霊の清浄なるものは前額部、 中位のものは臍部、汚濁せるものは足部という訳である。そうして霊の清浄なるものとは、生前善を行い、徳を積み、それによって霊体が浄化されたるもの、足部は生前罪悪を重ねたるもの、 臍部はその中間である。 そうして、死の刹那を霊視したある看護婦の記録がある。これは最も好い例であると思うから書いてみよう。

これは、西洋の例であるが、人によって霊の見える人が、何万人に一人は日本にも西洋にもあるのである。この看護婦もこの種のものであったと見え、なかなかよく 書いてあった。詳しい事は忘れたが要点だけを誌(しる)す事にする。ある時、今や死に垂(なんな)んとする病人を熟視していると、額の辺から一条の白色の霧のようなものが濛々(もうもう)と立昇り、 空間に緩やかに拡がりゆくのである。そうして雲烟(うんえん)のごとく、一つの大きな不規則な塊のようなものになったかと思うと、間もなくしかも徐々として人体の形状になってゆき、 数分後には、全く生前そのままの姿となって空間に立ち、凝乎(じっ)と自己の死骸をみつめているのである。

その際死骸に取ついて、近親者が悲歎にくれているのに対し、自分の存在を知らしたいような風にみえたが、何しろ幽冥(ゆうめい=光が弱く暗いこと。黄泉(よみ)。 あの世。死後の世界・私たちが今生きている場所を顕世(うつしよ)という)ところを異にしているので、それを諦めたのかやや暫くして向直り、窓の方に進んで、 頗(すこぶ)る軽るげに外へ出て行ったというのであるが、これは全く、死の刹那をよく表わしているのである。

そうして仏教においては人の死を名付けて往生という。これは現界からみれば死に往くのであるから往死でなければならない。しかしながら仏界は霊界であるから逆になるので現界の死は仏界からいえば生即ち往生である。 又、死ぬ前のことを生前というのも右の意味に外ならないのである。そうして人間は、霊界における生活を何年か何十年何百年かを経て再び生れるのである。 かくのごとく、生更(いきかわ)り死に代り何回でも生れてくるのである。そうして霊界そのものは、人間に対しいかなる関係がありやというに、それは現界において、 神の御目的の受命者として、人各々の業務を遂行するにおいて、意識すると意識せざるとに関わらず、さきに説いたごとく霊体に汚穢(おわい)が堆積(たいせき)するのである。

それと共に肉体も病気老廃等によって受命を遂行し難くなるから、一旦体である衣を脱ぎすて霊界に復帰するのである。昔から霊の脱出した体を称してナキガラというのは、 そういう意味であり、カラダというのも同一の意味である。そうして霊魂が霊界に入るや、汚穢の堆積した量に対し、浄化作用が行われるのであって、ある程度、 清浄化した霊魂は再び現界に生れてくるのである。又、人は生れながらにして賢愚の別がある。これはどういう訳かというと、古い霊魂ほど賢いのである。何となれば、 再生の度数が多い為、現世の経験が豊富であるからである。それに引換え、新しい霊魂は経験が浅い為、どうしても愚かであるのはやむを得ないのである。

新しい霊魂とは霊界における生殖作用によって新生するのであるが、現界の生殖作用とは全然異なるそうである。又、誰しも経験する所であるが、見ず知らずの他人であっても、 一度接するや親子のごとく兄弟のごとく、否それ以上に親しみを感ずる事があるが、これは、前生において、近親者又は非常に親密な間柄であった為である。 これらを称して因縁というのである。袖すり合うも他生(たしょう)の縁とかいうような事も無意味ではないのであ。 又旅行などした時、ある場所に非常に親しみを感ずる事がある。それは前生においてその辺に住み、又は永く滞在していた為である。

右の様に、前世と今世との関係は、あらゆる事に影響しているのである。又、よくこういう事がある。非常に嫌いな物とか、恐ろしがるものがある。 たとえていえば、犬や猫・鼠等を見て恐ろしがったり、又は蛙、蟻、毛虫等のごとき虫類を怖れたり、水を見ると慄(ふる)えたりする人がある。 それらはどういう訳かというと、犬・猫・鼠等に噛まれて、それが原因で死んだので、その恐怖が霊魂に染み着いている為である。 又、虫類を見て恐怖の刹那顛落し、それによって死んだり、水に落ちて死ぬ等によって、その恐怖が霊魂に染みつき、それが全く解消しないうちに再生するからである。

以前、こういうのがあった。その人は、誰も居ない場所では恐ろしくて寸時も居られない。故に、一人留守居をする時は、 往来へ出て立っているのである。これはどういう訳かというと、前世の時、独居の際急に発病し、人を呼んでも来ない中に死んでしまったので、 その時の恐怖がのこっている為である。こういう人の例は割合多いものであるから、読者の知人にして、右と類似の行動がある人を観察する場合、 右の説を あくまでも参考 にすれば大抵判断はつくはずである。又、世間よく非常に心が良い人であるに拘わらず、まことに不幸な境遇の人がある。 こういう人に対し、その知人などが常に疑問を起すのであるが、この疑問に対し、次のごとく解くのである。

人間が前世において悪事を重ね、それが為、刑場において死罪になるとか、又は何らかの刑罰を受けるか、恨まれて生命を奪われる場合死に直面した時、 深く前非を悔悟し、悪の結果の恐ろしさを知って、この次生れた時は決して悪は為(な)すまいと心に誓うのである。

その想念が再生してからも強く滲(し)みつき、悪を厭(いと)い善事を為(な)すのである。しかるに再生しても前世における罪穢が未だ残存している為、 その浄化作用としての苦悩を受けなければならないのである――という理由である。
又、男子であって、非常に貞操(ていそう=男女が相互に性的純潔を守ること)の正しい人がある。自分の妻以外の婦人には決して関わりを作らないというのであるが、これらも前世において、婦人の為大(いだい)なる失敗をなし、 身の破滅にまで到り、死に際会して悔悟し、この次の世では、決して正しからざる婦人関係は作らないと固く決心したという訳である。

又、歴史を繙(ひもと)く時、ある時代の場面や人物などに、何かしら親しみか又は憎悪(ぞうお=愛情や友情の正反対に位置する態度・行動である)等関心を払わずにおられない事があるが、それらは自分がその時代に生れ合せ、 関係があった為である事は勿論である。

言霊豆知識1:因縁だから仕方がないと諦めるだけなら、人生は暗いものになって、仕事にも張り合いも出ず、結局悲観した一生を送ることになりましょう。またどんなに「因縁はない」と主張して見ても、 現実に背負わされている因縁は。決してなくなるものではありません。上記で書いたように、因縁によって現実に病気もし、また不幸災難にも遭遇するのであります。先ずは如何したら良いか よくここに書かれていることを素直に理解して考えてみたらよろしいかと思うのであります。

わが言霊に生命あれ生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-20-10

『霊と血と正しき神向き』 そもそも、人体の構成原素を大別すれば二種の原素から成立っている。それは、精霊と肉体とである。しかるに、今日までの科学は、 肉体あるを知って精霊あるを知らなかったから、半分だけの認識であったのである。それは、科学が進歩したといっても、精霊の実在を測定なし得るまでに到らなかった為である。 しかして、病気の根源は、精霊に最初発生するのであって、その順序として精霊の曇りが血液の汚濁となり、血液の汚濁が肉体への病気となるのであるから、 血液なるものは、実は精霊の物質化であるとも言えるのである。その証拠には、人間の死後忽(たちま)ちにして血液は凝結するので、血液の量積は何百分の一に減少する訳である。 即ち、血液を全身的に流転活動させつつあったそのエネルギーの脱出である。しからば、そのエネルギーは何であるか。その]こそ精霊その物である。

故に、死は精霊の脱出である。いわば、最早使用に堪えなくなった肉体を精霊は捨て去ってどこへか行ったのである。別な意味から言えば、精霊を繋ぎとめるとしては、 余りに肉体が破損し過ぎてしまったのである。宛(あた)かも壁は落ち、軒は傾き、雨露を凌(しの)げなくなったから、止むを得ず、 その破家を捨てて永年住んでいた住居人が引越して行ったようなものである。故に、人間の健康上最も緊要なのは清浄なる血液である。

しかるに、この血液を浄化する方法は、今日まで絶対に発見されていなかったのである。薬剤も、光線も、電気も、この力は無いのである。 それは、血液なるものは精霊の物質化である以上、血液を浄めんとすれば、どうしてもまず精霊を浄めるのが先である。 しかし、精霊の実在を知らなかった科学は、血液浄化法を発見されなかった事は当然な訳である。

しかし、この隠れている力である精霊なるものは、肉体以外の全部ではない。実は、精霊は外殻であって、その中に心なるものがあり、その又中心に魂なるものがあるのであって、 魂こそ実に人間五体の支配者であり、主である。そして、この魂なるものこそ、神から付与せられたる最貴重なるもので、実に良心の根源である。

故に、この魂の発動が意思となって心を動かし、その心が精霊を動かし、精霊が肉体を動かす順序である以上、魂から出発した良心の命ずるままに動けば、不正はないから、 決して失敗はないのであるが、ここに厄介なのは、精霊には種々の動物霊が憑依する事である。
この様な事を言えば、現代人は嗤(わら)うであろうが、小生は嗤う人達を嗤いたいのである。

何となれば、事実は厳然として否定すべくもないからである。その動物霊とは、狐狸、天狗、蛇、犬、猫、馬、蛙、鳥類等が主なるものであって、これらが精霊内に在って、 伸縮自在、無碍(むげ)に活動しているのである。普通は一個体であるが、人により二個体以上憑依の場合もある。いかなる人といえども、一個体は必ず憑依しているのであって、 この常憑者の外に、臨時に他霊が憑依する場合もあり、人間の死霊が憑依する事もあるのである。しかして、これら憑霊は、一切の悪の根源である。

故に、神から付与の内奥部の魂から発する善と、外部から憑依した動物霊から発する悪とが、絶えず心を専有せんと闘争しているのである。 随って、この中間に挟まっているところの心は、内からの魂に組せんか、外からの憑依に組せんかと、絶えず動揺し、昏迷(こんめい)しつつあるのが、現在における人間の想念の状態である。
この理さえ解れば、神向きに対しての正邪の区別が判然するのである。正しき神向きは、主の神が中心である。主の神は太陽神たる天照大神であるから、絶えず太陽の光明に照らされるのである。

この太陽の光明に人間が照らさるる時は、憑依している動物霊は畏縮して、自己の活動力が衰弱するので、本来の悪の活動力が鈍り、悪を以て心を捉える事が不可能となるのである。 悪の誘引が弱れば、心はどうしても魂、即ち良心に組しない訳にはゆかなくなるのである。この状態になった人こそは、真の神向きを把握し、魂の磨けた有徳者になったのであるから、 ここまでに成った人間は、病気、失敗、不幸からは全く解放されて、一身一家は栄えゆくばかりで、法悦を味い得るところの光明の生活者である。

これらの完全人間を造るのが我観音運動であって、この力は観音力より外には無いのである。 酒を好むのも、姦淫(かんいん=男女が道義に背いた肉体的交渉をもつこと)をするのも、争を好むのも、皆この憑霊が本来の悪を以て、その人の心を専有した結果である。しかるに、今日までのいかなる宗教といえども、 この憑霊を畏縮さすべき光の力が無かったのであるから、光明生活者たり得る者が無かった訳である。その証拠には、病者、飲酒家、姦淫者、争等の全く無い宗教団体は在ったであろうか。 遺憾ながら否と言わざるを得ないのである。霊的光力を受け日々神向きに邁進する人たちは時日の経過と共に、一歩一歩より向上しつつ、ついに全く完全な人間、光明な家庭を作り得るのである。

生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-20-11

『クリスマス』 クリスマスは、世間ではキリストの誕生日だと言っていますが、今のところキリストの生まれた日をどのようなキリスト学者、神学者も証拠を未だに解明できません。 ローマ時代、キリスト教がヨーロッパの方へ布教されたとき、一番北の方の今のスウェーデンやノルウェーあたりにも、キリスト教は布教されてゆきました。 北半球では、十二月二十二日頃、冬至を迎えます。日本では、冬至の日も太陽を見ることはできますが、北極に近いスウェーデンあたりでは、太陽が出てこない、一日中夜です。 そして冬至の日から段々昼間が長くなって行く。そして、冬至の翌日あたりから、一瞬日が見える日の出を迎えるのです。ですから太陽が生まれるということで、太陽の誕生日とされたのです。 それまで世界中に太陽信仰、いわゆる天照主信仰がありました。 その太陽信仰が元になり、冬至の翌日、朝になると太陽が出て来ることから、冬至の翌日を太陽の生まれる日としてお祝いしたのです。 ところがローマ時代になって、太陽の誕生日をスウェーデンの方のキリスト教会が、キリストの誕生日としてしまったのです。だから、冬至の後の十二月二十五日、太陽信仰の時代にあったみ祭りをクリスマスということにして、キリストの誕生日に決めたのです。 またサンタクロースというのは、スウェーデンが発祥の地であり、もともとは太陽信仰の大国主の神様の姿があのようなサンタクロースの形になりました。 大国魂の神、出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)は財宝の神様ですから、出雲大社で大国主命の像を見ると、大きな袋を背負い、大きな帽子をかぶっている。 この大国主命の姿がヨーロッパナイズされ、サンタクロースの姿に変えられているのです。

サンタクロースはどこから入ってくるかというと、たくさんプレゼントを持って煙突から入ってきます。どうして煙突から入ってくるのかというと、煙突はすすやホコリで、入ると真っ黒になる。つまり魂が真っ黒になると、ミソギハラヒの原理によりアガナヒをさせられる。 サンタクロースを通じてミソギハラヒの原理「償いなくして明かな霊になれない」という原理を啓示しているのです。 それは言霊をみるとよく分かります。クリスマスというのは「苦します」、という言霊に通じ、償いなくして明かな霊になれない、ということを意味しています。 サンタクロースは「さんざん苦労して苦しむ」、それがアガナヒであって、それが終わると、大国主命の変化したサンタクロースから、プレゼントが貰えますよ、ミソギはミソギで償いをすると今度は神様から「救い」というプレゼントが頂けるんですよ、ということを表現しているのです。 これは水の時代の「償いなくして明かな霊になれない」というミソギハラヒの原理を啓示しています。クリスマスソングに「ジングルベル♪」があります。 これを漢字で表すと『神来電鈴』となります。「神の世が来ることを願っている」ということを表しているのです。

大国主の大神様(大国魂神)について:大国魂神とは、そのご神魂(全精神)は多くの神々が大地の神として、全世界にわたっておられます。近世では、日本の大国主の神様もそのご分魂神として出現し、きわめて庶民的な神として知られています。 大国主の神様は大国魂神の御分魂(ごぶんこん=人間の魂の人間には人霊しか障っていませんが、分魂には御神霊も障っているのです)の神様で、神代において全世界に分派され、これが世界各国の建国、例えばイスラエルとかエジプトの文明を起こすのに、物の豊かさを導くため大活躍されました。 日本の大国主の神様は、かつて他の国に派遣された大国主神のご子孫にあたる方で、本国に帰られて、時代の文明開発に活躍された神様です。 大国魂神は、本来物質の開発の財宝を握っておられる神様です。大国主の大神様の姿がヨーロッパでは、サンタクロースの元となった神様です。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-20-12

『現界は修行の場』現界というところは必ず死ななければならない。これが限身神界(カギリミシンカイ=肉体には限りがある。限界がある。)の決まりです。これが神から観た死に対するもので、魂こそが本体であるという証なのである。 神様は現界という修行の場をそれぞれの魂に与え、肉体を着せて現界に降ろされました。 現界には、あらゆる霊層界から人が降ろされて来ています。幽界では同じ霊層界の魂だけで修行されているのに反し、現界では上を見ることも出来るし、下を見ることも出来ます。 自分の一生という限られた時間の中で修行をさせられているのです。これが天命、宿命というものであり、その中で霊層界を上げるのも下げるのも、その運命は自由だということになっていますが、幽界に帰った時、はっきりとその格差は神様によって裁かれ見せられるといいます。 生まれて死ぬまでこの現界という限身神界で、霊層を昇華させるために修行をさせられています。なので現界は修行の場であるということになるのです。 そのために私たちは色々な、悪い人や良い人という人達と巡り会わされます。霊層界の高い人もいれば、低い人もおられます。 現界の修行を立派に成し遂げるためには、自分より霊層界の高いと思える人と付き合っていくことが大切になります。 しかし、高い霊層界の人と交わっていくのは、自分の霊層界が低いと苦しく、辛い。自分より霊層界が低い人と付き合うほうがずっと楽です。 苦しくても高い霊層界の人と交わり、その人を見習って現界での修行を進めていくと、必ずその人の霊層界が上がっていき、それを気が楽だからと低い人とばかり付き合って、低いほうへ合わせていくと、自分の霊層界は下がっていくのです。 現界ほど霊層界を上げるために修行の進む場所はないのです。と同時に霊層界を落とす可能性もたくさんあります。神様は、低い人も、高い人も、より高い霊層界に進むように願われているのです。 霊層界を上げるために真剣に現界での修行をすることが大切となるのです。

生き言霊に光あれ!!


言霊豆知識-20-13

○『人間の責任』というのは、簡単に言うと「生きる価値観」です。「物質的な価値観」に支配されている人。たとえば「お金」とかですが! この世の中、 お金が全てだ! お金あれば、全て満たされるんだ! と、そこしか人生の価値観を設定出来ない無智な人もいます。でも、実際には、「お金=物質」で完璧に心が満たされている、 というのはありえない。いっとき満たされたとしても、すぐに不満や不足が生じ、それを埋めるためにさらに「お金=物質」を欲していくのです。際限なく続くのです。 さてどうしてこうなるのか、満たされる「心」というものは「抽象的(ちゅうしょうてき=事物を観念によって一面的にとらえ、実際の有り様から遠ざかっているさま)」なものなんです。

ところが、お金は、「物質的=具体的」なものですから、お互いに異質なものどうしてであるためその基本を忘れて、お金=物質だけで心=抽象を満たそうとするのです。 だからお金持ちの人は、いくらお金があっても心が満たされないから、異質なものどうしを掛け合わそうとしているからなんです。自然の理に沿(そ)うならば、まず、 お互いが同質なものでなくてはならないんです。響き合うとは、そういうことなんです。「お金」で「品物」が買える=これは自然なんです。どちらも「物質」として同質だから です。しかし「お金」で人の「心=魂しい」は変えない=お互いが異質だからなんです。そうすると、私達の「心」が満たされるのは同じ人間の「心」によってだけなんです。 現代はお金だけで繋がって生きている人達がいますが・・・。

親からの「愛情」、友達からの「友情」、恩師からの「励まし」、他人からの「思いやり」、人々からの「善意」、・・・。これらが、私達の「心」を満たしてくれるものなんですが、 全て自分以外の誰かの「心」なんです。「己れの心」は、他人の「心」によつてのみ満たされていくんです。それが自然の理です。抽象的な「心」が異質な「お金=物質」と直接 響き合うことはないのです。しからば、お金や物質の価値ちはいかなるものか? 「心」は抽象的なもの、単なるイメージですから「形」が無い。「形」が無いから、たとえば、 彼女のことをいくら好きでも、好きという自分の「心」は、彼女には見えない。だから何とかして、この「思い」を相手に伝えようと努力したりします。電話をしたりして、 花を贈ったり、指輪を贈ったり、それらの「物質的」な何かを贈ることで、彼女は初めて彼の自分に対する好意を知るわけですが、その「物質」にこもっている彼の「心」が、 彼女の「心」にも伝わったということです。こんなふうにして「物質」は、抽象的な「心」の具体的な表現手段になっていくのです。一般的には、物質に伴う金額が高ければ高いほど 「心」がこもっているといという社会通念があるので、みんなそうしょうとする。具体的な表現手段としての「物質」は、あくまでも抽象的な「心」によって意味づけられるんです。

ですから、「物」を「物」としてだけしか判断できないでいる。つまり「物質的な価値観」しかみいだせない人は、自分の「心」を本当に満たすことが出来ず、いつも不安の念にかられて 「地獄」を創りだしてしまうわけです。肝心なのは、見える「物」の一歩奥のに潜んでいる、見えない「心=抽象世界」を見抜くことでしょう。つまり「抽象世界=霊妙世界= 霊界に目を向けなければならないのです。」抽象的だから目に見えないけれども確かに存在する霊界を本当に信じて、自分の人生の目的は、己の霊性を高めることだと悟った時、心は しっかりと「心は天国」を創り出しており、すでに己は間違いなく「天国」にいると思います。もう、目に見える世界の「物質的な価値観」に囚われることが無いわけですから! 私達人間が死んだ時霊魂(幽体・霊体)が肉体から抜け出します。霊魂は、生きている時と同じそのままの姿をしています。ちょうど、ゆで卵の殻を上手にむくと同じ形の中味が 現れることと、一緒のことなんです。所謂(いわゆる)殻は肉体、白味が幽体そして黄色味が霊体となる訳です。もしこれが人間としたなら考えられない事でしょうが実際に存在しているのであります。卵が意志があっても 白味と黄色味が中に入ってるとは知りえないでしょう。そして雛(ひな)として姿を変えて育ちます。此れを人間で喩(たと)えるならば肉体が無くなり幽体と霊体となり霊界で修業するわけです。


○『死=霊魂と肉体の分離』その分離の仕方は、一般にの人は「お腹」から抜け出していくんですが、特別に天国(神界)へ直行(一時は幽界で現界の垢を取る業をする。 しかし一般人と違いそこの所は早い)する霊魂は、「頭」から上がって行くものですが、いきなり地獄のようなところに落ちる霊魂は「足」から抜けるということです。 生きてても死んでいても霊魂は霊衣に包まれているんですが、健全に生きている人の霊衣は、頭部が丸いという。ところが、肉体的寿命で「死」が近づいてくると、頭部が 三角になっていくという。そして仏教では葬儀などで、亡くなった人の頭部に三角頭巾にするのは、そのことをあらわしているのです。頭に比べて足の方は、霊衣そのものが薄い。

日本の幽霊に足がないのは、その辺りから来ているのだと推測できます。霊衣が薄くなって、頭部の形が三角になっていたら、どうしょうもないが、医者の見放したような重病人でも、 霊衣の頭部が丸く、厚みがあれば光の組替えで大丈夫です。私達も、健康で長生きしようと思うならば、普段から人間としての徳を積んで、霊衣を丸く、厚くしておくことが 肝心だと思います。徳に富んだ人の霊衣は、明紫色の光を発している。そんな人に触れると、時を忘れるくらい楽しく、明るく、さわやかで、知らないうちになんだか元気が 出てくるという。大本の出口仁三郎聖氏先生や日出麿氏先生の側にいくとその様な状態になったという。つまり、よい影響を受けて、こちら側まで生命力が旺盛になってくるものである。

反対に、憎しみや怒りに満ちている人の霊衣は、暗赤色の光を発している。生命力を阻害するものである。だからそれに触れると、こちら側まで疲れてきます。 生きる気力がス直に発揮出来ないような影響を受けてしまうのです。家庭内暴力とか、憎しみ合った夫婦とか、というのも影響を与えて子供にも悪影響が与えてしまうのです。 また、暗赤色が溜まると相手を攻撃し破壊し殺傷したい気持ちにまで駆り立たせる色なんです。ついでに言うならば、霊衣には匂いもあるのです。当然、徳の高い人のは良い 香りがするし、徳の低い人は腐った匂いがするようです。敏感な犬は人の霊衣の匂いで吠えたるするものなんです。例えば泥棒とかの霊衣の匂いで!人間が怖いという霊衣の匂いとか! こちらが側が心を開いて愛情を示せば(心を閉ざすとマイナスの匂い、心を開くとプラスの匂いが出る)襲ってはこないのであります。


生き言霊に光あれ!!

言霊豆知識-20-13

余談話;蚊の超能力⇒蚊の頭部の触角には人間には感ずることのできない二酸化炭素を敏感に感ずる感覚器官が備わっており、この二酸化炭素検知器で人間の呼吸で生ずる空気中の二酸化炭素の僅かな増加を感じた蚊は、止まっている壁から飛び立つ。最初は周りを飛び回っているが、 人間の体温から出る暖かさと湿度の高い空気の流れに触れると急に動きを変化させる。その温度感覚は1.2センチの距離で100分の15度の温度差にも感ずることができるというほど鋭敏なものだという。 この暖かく湿った気流はラジオビーコンが飛行機を滑走路へ降ろすのと同じように蚊を誘導し、ジグザグコースをとりながら目標の人の体に近づいて行く。 つまり、二酸化炭素と温度や湿度の微妙な変化に対する鋭い感受性によって蚊は人に近づくことが可能となり、血を吸うことができるのである。 あの小さな蚊にこんな鋭敏な感知器が備えられているとは全くの驚きである。また卵を産むために、血を吸うということだ。だから、血を吸うのは、メスの蚊だけなのだそうだ。この様な成虫の生き物を人間で創りだせようものか?

言霊豆知識-20-14

旧暦の仕組み:(1)まず、1年の長さを知る。
1年の長さが実は365日よりちょっと長いことは、かなり古くから判明していました。 地面に棒を立て、正午の影の長さを測ると、1年周期で影が伸びたり縮んだりします。 一番影が長くなる日(冬至)から、次にまた一番長くなる日までの日数・時間を計ればよいので、原始的手法でも比較的正確に割り出せます。 太陽の周りを地球が1周するのと同じこの長さは「1太陽年」と呼ばれます。 1太陽年は約365日と4分の1、もっと正確に言うと365.2422日となります。太陽暦では、この数字がすべての起点になります。

(2)そして1月の長さを知る。
「月」という言葉は、地球の周りを周回する衛星の名であると同時に、一定時間をあらわす時間用語でもあります。 その由来は、月の満ち缺けが約30日程度の周期で繰り返すことから来ています。 古代人にとって365日という周期は生活の上では長すぎ、約30日で出たり消えたりを繰り返す月の方が身近なサイクルでした。 これも完全に月が消えた状態から月が現れる瞬間から、次にまた月が現れる瞬間までを計測すればよいので、簡単です。一 回死んだ月がまた新しく生まれ変わるため新月と呼ばれ、月が新たに立つことから「つきたち」→「ついたち(朔日)」という言葉が生まれました。 一方、月が満ちた状態は「もちづき(望月)」と呼ばれます。そこで、これらの一周期のことを「1朔望月(さくぼうげつ)」と呼びます。 1朔望月の長さは29.530589日になります。太陰暦ではこの数字がすべての起点になります。

(3)年と月のどっちが大事?
以上の、1太陽年と1朔望月の長さは、どの文明でもだいたい正確に計測されていました。問題はどちらを重視するかです。 12朔望月の長さは29.5306×12で約354日になり、1太陽年とは誤差11日と近くなるため、「1年は12ヶ月である」という認識も、だいたいどの文明でもありました。 しかし、ずれた11日を放っておけば、どんどん狂っていってしまいます。 そこで、月を重視するか、年を重視するかで暦が変わってくるのです。 月を重視する太陰暦では、話は簡単です。朔望月の方を優先します。1朔望月は約29日半ですから、30日の大の月と29日の小の月をだいたい交互においていけば完成です。 1年の長さは30×6+29×6=354日となります。しかし、この暦では1年が11日づつずれていき、やがて17年もたてば夏と冬が逆転します。 よって、この暦は季節がない熱帯地方などでしか残りませんでした。 年を重視する太陽暦では季節はずれません。しかし、1年365日を12で割ると30日強。31日の大の月と30日の小の月を適当に配置することになりますが、 この場合は「月」という名にもかかわらず朔望月とは何の関係もなく、月齢(月の満ち缺け具合)と日にちがずれていきます。 約30日という便利なサイクルの目安として月齢が使えないというのも不便な話だったのです(現代人はあまり気にしませんが。15日に十五夜でなくても…)。

(4)そこで太陰太陽暦
そこで、太陰暦の月のサイクルを保ちつつ、季節がずれないように太陽暦で補正する、折衷案が生まれました。 それが「太陰太陽暦」です。太陰太陽暦の最大の特徴は「閏月(うるうづき)」の導入です。 さて、現在の暦では「閏年(うるうどし)」というものがあります。皆さんご存じでしょう。 1太陽年は365.2422日ですから、1年を365日とすると0.2422日余ってしまいます。 これが4年経つと0.2422×4=0.9688日。つまりほぼ一日狂ってしまいます。 そこで4年に1回、366日の年を設けて、これを調整するのです(ただし、これだとまだ0.0312日ずれるので400年に3回は365日に戻しますが)。 この場合、1日追加するだけなので、正確には「閏日(うるうび)」と言うべきなのですが、慣習的に閏年と呼んでいます。 これに対して閏月は、月そのものを追加します。つまり閏月がある年(これを閏年という)は、1年が13ヶ月となります。 そのため、太陰太陽暦の1年は最短で353日、最長で384日などと30日以上の開きがあることになります。 上記のように、12朔望月の長さは約354日であり、1太陽年は365.2422日なので、その差は約11日となります。 よってほぼ3年経つと、差が1ヶ月くらいになりますね。約3年に1回は閏月があるということになります。

実際には、もうちょっとだけ正確に把握されていました。 1朔望月(29.5306)と1太陽年(365.2422)の最小公倍数を探っていくと、235朔望月=6939.6884と、19太陽年=6939.6018日がほぼ同じこと(誤差は0.08日=約2時間しかありません!)が分かります。 19太陽年というのは、標準の1年=12ヶ月で考えると、19×12=228ヶ月となり、上の235ヶ月とは7ヶ月分違うということになります。 つまり、19年ごとに7回の閏月を置けば、季節と月がずれずにすむということが見つけられました。 閏月は、置かれた場所によって呼び名が変わります。 例えば三月と四月の間に挿入された場合、「閏三月」と呼ばれ、九月と十月の間に置かれれば「閏九月」となります。 問題は、この「閏月」をどうやって配置するかです。でたらめに挟み込むわけにはいきません。 世界各地の文明で、この閏月の置き方(「置閏法」といいます)こそが太陰太陽暦のもっとも重要な要素となりました。

太陰太陽暦の基本は太陰暦。 まず、太陰太陽暦では、月は太陰暦に従いますので、基本的に小の月は29日。大の月は30日。 ただ、これは「1日」という、人間生活にとって最も重要な時間の区切りを重視したためであり、前項でも述べたとおり、実際の月の周期は29.53日なので厳密な区切りは一日の途中になります。 月が完全に消えた状態から現れる瞬間を「朔(さく)」と言いますが、この「朔」は約29日半で一周、つまり朝に起きたり昼に起きたり、します。 この「朔」の瞬間が含まれる日を「朔日(ついたち)」と定義します。

余談ですが、昔の人は一日の始まりを夜明けと考えていました。ですから今で言う「未明」(午前3時頃とか)というのは前の日に含まれます。 しかし、暦の計算上では現在と同じく午前0時を一日の始まりとしていました。 一日を十二等分して「子・丑・寅…午・未…戌・亥」と十二支の名をつけていたことはよく知られています。 「正午」「午前」などの言い方で今も残っている「午の刻(正午の前後」は、だいたい太陽の南中時間(太陽が真南にくる瞬間)というので分かっていましたので、 そこから一日のちょうど半分(12時間)ずれた時刻を「子の刻」とし、それが暦の上では一日の始まりとなります。ですから、ここで話している「朔」が含まれる日というのも現代の感覚で理解してもらって結構です。

ちなみに実際の旧暦では数字は用いず干支(十干十二支)を使います。「十干十二支」とは支那で古来から数を数えるのに用いた漢字(十進法と十二進法に対応)で、十干は「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」。 十二支は「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」。これを合わせると「甲子」から「癸亥」まで、10と12の最小公倍数で60となります。歴史の授業で習う「壬申の乱」「辛亥革命」という名称や「甲子園」の名などはこの十干十二支を年に使ったものです。 支那を始め日本・朝鮮において60年以上用いられた年号は存在しない(唯一の例外は「昭和」)ので60もあれば十分で、例えば「明治壬午の年」なんていう言い方をしました。 この十干十二支は年のみではなく、日にちにも用います。

生き言霊に光あれ!!


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