『病気と霊』
病気とは清浄化作用の発生とその過程である事は前記で解説した通りであるが、これまでに霊に因る病気の相当多い事も知る必要がある。
之等も昔から相当唱えられて来た事で、特にある種の宗教の如きは病原の殆んどは霊作用としている位であるが、霊作用と清浄化作用と両方あるが、
両者は実に密接不利の関係にある事を知るのである。
何となれば病霊憑依は病者の霊体の曇りの部分に限られるものであるからであります。
故にその曇りの解消により或程度浄化されたる霊体に於ては肉体の病患もなくなるのみか、病霊の憑依も不可能となり心身共に健康者たり得るのである。
言霊豆々知識-1; タイの方では、最も位の高い医者は僧医と呼ばれる人たちで、医者の仕事とお坊さんの仕事を掛け持ちしているような存在と聞いております。
また、医者というのは、元を辿ると呪術師につながるという話もあります。
言霊豆々知識-2;次の事実をご存知ですか?
1)医者で人間ドックを受ける人はいない。
2)欧米先進国には人間ドックのようなシステムはない。
なぜだかわかりますか?
お医者さんたちは、“人間ドック”は殆んど意味がない、ということを知っているからです。特に癌などは、レントゲンなどで目視でわかる段階で、発見されてもほぼ手遅れです。
目視できる癌は、最低でも1cm以上、この時点でがん細胞はすでに10億、日々血液に流れ出し全身に流れる癌細胞は100万個といわれています。
また、“人間ドック”の検査で、特に問題がないといわれた人が、一年も経たずに死んでしまったり、癌の宣告を受けたりというようなことを聞いたことがありませんか?
欧米先進国でこんなことがあったら、権利意識の強い被害者はまず訴訟に持ち込みますので、病院がドンドンつぶれてしまいます。
日本では、年間100万人以上の人が病気で亡くなりますが三分の一が癌、三分の一は血流、血管、心臓などの疾患、残りの三分の一が、その他いろいろな病気という分類になっています。
3mmのがん細胞ですと、その癌細胞は2000万個、日々血中に流れ出す癌細胞も3万くらいということです。この程度あれば、生活環境を見直し、免疫がしっかりしていれば、完全治癒が期待できるのです。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-2
『世に物申す』
およそ世の中に命の要らない人は一人もあるまい(自殺者は別だが)。ところがこれ程尊い命が救われ、その原因である病気が治ってしまうとしたら、それで問題解決何も残らないはずである。
とはいうもののそんなドエライ治病法がこの世の中にある訳がないから、そんな戯(たわ)けた事をいったところで始まらないと誰しも言うであろう。
もちろん科学の努力といえどもこの事以外にはないが、今日までのところそれは全然不可能であった。ところがこの解決方法が発見されたとしたら、これこそ二十一世紀の大問題である。
例えば医学で見放された重難症患者が、疑っても信じなくとも容易に全治するという素晴しい医効は、古往今来絶対あり得ない事で、全く夢の現実化である。
むしろ余りの偉効に逆に疑いを抱く人さえあるが、それも無理はない。何しろ現代人は子供の時から、病気は医者と薬で治すものと教育され、常識となっているからである。
従って霊医術は、原子爆弾がブッ放(ぱな)されない以前、いくら説明されても分らないと同様であろう。
そのような訳でインテリ族中の丁髷(ちょんまげ)の人々はどんなに説明しても事実を目の前に見せても、信じ得ないその頑迷さは全く不可解である。
それどころではない、専門家の医師でさえ自分で見放した病人が霊射で助った奇蹟を見せられても、ただ首を捻(ひね)り溜息を吐(つ)くばかりで、進んで研究しようともしないロボット的態度である。
恐らくこれ程の迷信は人類史上類例があるまい。ところがそれと同様の不思議さがまだある。それはインテリ中の宗教学者である。彼らはいわく、元来宗教が病気を治すのは間違っている。
元々宗教は精神的救いであって、肉体的救いは医師の領分であるというのである。なるほど一応はもっともらしく聞えるが、一歩退いて考えればこうなるであろう。
それは医学で真に病気が治るとしたら問題はないが、事実は何程医学を信じ、博士や大病院にかかり、言う通りに最新の療法を受けても一向治らないどころか、反って益々悪化し、命までも危うくなるので、医療を諦め吾々の方へ来るのである。
ところが霊射を受けるやたちまち奇蹟的に全治するので吃驚(びっくり)して神向する。という訳でそれを聞き伝えた人々は後から後から来る。これは当然であって何ら不思議はない。
異常な発展がそれをよく物語っている。
これを春秋(しゅんじゅう)の筆法(ひっぽう)でいえば、霊的光力・霊射の発展は、全く医学の無力のためであるから、結果からいって医学が新宗教を発展させている訳である。
ゆえにもし医学が霊的光力で治らない病気を治すとしたら、患者は何を好んで世間から疑惑に包まれている神向に来るかという事である。
そうして医学も宗教も、その目的は人間の不幸を除き、安心立命を得させる点において同様であり、その根本が健康である以上、他のいかなる条件が具備しても零(ゼロ)でしかあるまい。
この意味においてどんなに有難い経文でも御説教でも、立派な学説でもそれだけでは幸福は得られない。単なる精神的慰安でしかないのは、今日の既成宗教を見ればよく分るごとく、そのほとんどが衰退(すいたい)の一途を辿(たど)っている。
これに気付かない限り、ついには潰滅(かいめつ)の運命あるのみと言わざるを得ないのである。
それに気が付いてか付かないでか、化宗教学者やらは口を開けば現当利益は低級なりと非難し、額へ八の字を寄せなければ読めないような活字の羅列(られつ=連ね並べること)をもって高級宗教のあり方としているが、これこそ現実離れの御道楽か、自己保全の御念仏でしかあるまい。
もしこれで救われるとしたら、それは大衆ではなく、一部の食うに困らない閑人(ひまじん)か、都会の仙人くらいであろう。諸君がそういう原稿を書きつつある間にも、大衆は病に悩み、貧に苦しみ、押寄せる社会不安に怯(おび)え、東奔西走(とうほんせいそう=あちこち忙しく走りまわること)しているのが現実である。しかもこれに対し数百数千年以前の教説の焼直しをしたとて、何の役に立つかと言いたいのである。
以上思うままをかいたが、これも世を憂(うれ=悪い状態になるのではないかと心配する。)うるの余りで諒(りょう)して貰(もら)いたいのである。
ここで重ねて言いたいが、医学でも宗教でも他(一集団とかで講義やらとかやっている)のいかなるものでもいい、とにかく人間の最大脳みである病を治す事で、ただそれだけである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-2
『汚職の母体』
周知のごとく昨今次から次へと、芋蔓(いもづる)式に出てくる汚職事件には、誰しもウンザリするであろう。
恐らくこんなに汚職問題が一度に重なり合った事は、未(いま)だ嘗(かつ)て例がないように思う。
もちろん司直(しちょく)の厳正な裁きによって、いずれは白黒判明するであろうが、それだけで済まされないところにこの問題の重要性がある。
というのは今回のそれは別としても、昔から年中行事のようになっているこのスキャンダルは、現われただけを裁いても、根本的解決とはならない以上、
どうしても徹底的根絶をしなければならないのである。ちょうどゴミ溜に蛆(うじ)が湧くようなものであるから、そのゴミ溜の清掃であって、
これ以外根本的解決はないと共に、国民も大いに要望しているに違いあるまい。ただ困る事にはその原因である急所が分っていない事である。
ではその急所とは何であるかというと、それこそインテリ族の最も嫌いな有神思想であって、実は汚職問題といえどもその発生の母体は有神思想とは反対の無神思想であるから始末が悪いのである。
言うまでもなく無神思想とは、ズルイ事をしても人の眼にさえ触れなければ済むとする怪(け)しからん考え方であって、しかも人智の進む程それが益々巧妙になると共に、
出世の第一条件とさえ思われている今日である。これを実際に当てはめてみると、そうはいかないのが不思議である。なぜかというとなるほど一時は巧(うま)くいったようでも、
早晩必ず化の皮が剥(は)がれるのは今度の事件をみてもよく分る。
しかしながら彼らといえどもある程度は分っているであろうが、根本的観念がこの世に神は無いと固く信じている以上、心の底から分らないため、たとえ今度のような結果になっても、
真に悔い改める事の出来る人は果して何人あるであろうか、疑わしいもので、大部分の人々はこうなったのはやり方がまずかったからだ、智慧が足りなかったためだ、だからこの次の機会には一層巧(うま)くやって、
絶対引掛らないようにしてみようと思うであろうが、これが無神族としての当然な考え方であろう。
従ってこの根性骨を徹底的に叩き直すには、どうしても宗教によって有神観念を培(つちか)う事で、それより外に効果ある方法は絶対ない。
しかも今日以上のような無神族が上に立っている限り、官界も事業界も古池と同様、腐れ水に溝泥(どぶどろ)や塵芥(ちりあくた)が堆積しているようなもので、
どこを突ついても鼻持ならぬメタンガスがブクブク浮いてくるように、今度の事件の経路をみてもそう思われる。故に今まで分っただけでも、あるいは氷山の一角かも知れないが、
これが国家に及ぼす損害や国民の迷惑は少々ではあるまい。それどころか国民思想に及ぼす影響もまた軽視出来ないものがあろう。
言うまでもなく上層階級の人々は、陰ではあんな悪い事をして贅沢三昧に耽(ふけ)り、政党や政治家などが湯水のようにバラまく金も、みんな国民の血や汗の税金から生み出すとしたら、真面目に働くのは嫌になってしまうであろう。
従ってお偉方が口でどんなに立派な事をいっても、もう騙されてたまるものかという気になり、今までの尊敬は軽蔑と変り、国家観念は薄くなり、社会機構も緩む事になるから、これが国運に及ぼすマイナスは予想外であると思う。
以上によってみてもこの問題の根本は最初にかいたごとく無神思想のためであるから、何よりもこの思想絶滅こそ解決の鍵である。
それには何といっても宗教家の活動によって、神の実在を認識させる事であって、たとえ人の眼はごまかし得ても、神の眼はごまかし得ないとする固い信念を植付ける事である。
そうなれば汚職事件など薬にしたくも起りようがあるまい。そうして今度の事件の立役者は、高等教育を受けた錚々(そうそう)たる人ばかりで、地位、名望、智慧など申し分ないであろうが、
なぜアンナ事をしたかという疑問である。これこそ無神思想のためであるとしたら、この点教育、学問と道義感とは別である事が分る。
そうしてこのような立派な人達が精一杯巧妙に企(たくら)んでやった事だから、知れる訳はなさそうなものだが、蟻の一穴(いっけつ)で、ちょっとした隙からそれからそれへと拡がって大問題となったのであるから、
どうみても神の裁きとしか思えないのである。
ここで今一つ重要な事は、日本は法治国といって誇っているが、よく考えてみると、これは飛んでもない間違いである。
何となれば法のみで取締るとしたら、法さえ巧く潜れば罪を免れ得て、悪い奴程得になる訳である。というように法という檻で抑える訳だから、人間も獣扱いであり、
万物の霊長様も哀れ片無しである。これが文化国家としたら文化は泣くであろう。小生は半文明半野蛮時代と言っているが、これを否定出来る人は恐らく一人もあるまい。
またこれについての一例であるが、今仮に目の前に財布が落ちているとする。
誰も見ていないとしたら、普通の人なら懐へ入れるであろうが、断じて入れない人こそ神の実在を信じているからである。
ところがこういう人を作る役目が宗教であるが、ジャーナリストはなはだ冷淡で、宗教を以って無用の長物視しているかのように、ともすればインチキ迷信扱いで、
民衆を近寄らないようにする態度は実に不可解である。これでは無神思想の味方となり、汚職問題発生の有力な原因でもあろう。これもこれまでの宗教というものは人を救うものではなく金が主体としているからでもあろう。
さもなくば脅しまがいなこともあるだからであろう。
如上(じょじょう)の意味において、為政者はこの際豁然(かつぜん)として心眼を開き善処されん事である。でなければこの忌わしい問題は、いつになっても根絶するはずもなく、
これが国家の進運を阻害するのいかにはなはだしいかは言うまでもあるまい。
ところでこれを読んでも例の通り馬耳東風見過ごすとしたら、いずれは臍(ほぞ)を噛む時の来ないと誰か言い得るであろう。
そうして今日国家が教育その他の機関を盛んにして、人智の開発、人心の改善に努力しているが、肝腎な無神思想を根絶しない限り笊水(ざるみず)式で、せっかく得た智識も善より悪の方に役立たせるのは当然であるから、
その愚(おろか)及ぶべからずである。何よりも文化の進むに従い智能犯が増えるという傾向が、それをよく物語っている。あえて世の識者(しきしゃ=物事に対して正しい判断をくだす力のある人。学識・見識のある人。)に警告するゆえんである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-3
『一切の災は浄化作用なり』
世の中のありとあらゆる災いは、浄化作用である事は常にいっているが、これについて現在国民全体が直面している主なる悩みについて詳しくかいてみよう。
まず第一は病気であり、第二は食糧不足であり、第三は汚職問題であろう。その中で第一の病気については、小生は常に余すところなく説いているから省くが、第二第三を説明してみよう。
これもいつもいう通り凶作の原因が肥料によって土を汚し、地力を弱らすためであるとしているが、もちろん風水害並びに冷害もこれに起因している。
風水害としては言うまでもなく、昨年のごとき洪水と高潮による稲の冠水であるが、この原因は以前もかいたごとく、ヤハリ浄化作用の現われであって、つまり肥料によって土を汚し、地力が弱体となった結果、
自然はそれを洗い清めて健康土壌にするのであって、これが神の摂理である。ちょうど病気の原因が薬毒であり、それが人体を弱らすから、快復させるため自然浄化作用が発生するのと同様である。
では一体右の理由は何かというと、この大地はその中心の地熱から放射されている地霊すなわち窒素によって、あらゆる植物を健全に生育させるのであるから、土が清浄でなければ地力が衰弱するからである。
この理によって土壌の不純物を掃滅する、それが自然浄化すなわち風水害である。すなわち水害の方は大地の汚れを水で洗う作用で、風害の方は空間に溜った汚濁を吹き払うのであるが、この汚濁にも二つの原因がある。
一は右のごとく地霊が放射される場合、地表にある不純物が邪魔するからと、今一つは人間が発する言霊(ことたま)である。すなわち悪口、不平不満、愚痴等々、つまり悪に属するものは霊界を汚濁させるための浄化である。
また冷害は肥毒の壁になっている地表が地熱を遮断するからと、害虫を死滅させるためであり、今一つは農民の愛が欠除している反映でもある。すなわち愛は熱であるからである。
次は今騒がれている汚職問題であるが、これももちろん不正行為によって国民の血税を浪費するからで、実に怪(け)しからん話である。
それが原因となって、その人の霊が曇るからこれを清浄にすべく浄化作用が発生する。つまり因果応報である。ところが面白い事には、その浄化の場合は享楽に相当するだけの苦しみであり、しかも利子が付くので、
それだけ大きくなるので、これが神律であるから、至公至平一厘の毫差(ごうさ)もない。この点人間の法律との異(ちが)いさは天と地であるから、絶対免れ得ないのである。従って一日も早くこれに目醒めて心から悔い改め、
その償(つぐな)いをするより方法はないのである。償いとは世のため、人のため大いに善徳を施す事であって、そうすれば浄化も軽く済み、再び立ち上る事が出来るのである。ところがほとんどの人はそれに気付かず、
一生懸命誤魔化そうとするのであるから、結果において益々罪は重なるばかりで、一生涯不遇な境遇とならざるを得ないのである。
何よりも喚(よ)び出し状が来てても、何だかんだと日を延ばそうとするが、これは疾(やま)しい点があるのを表白しているようなものである。たとえ罪状を否定しても駄目であるのは知れ切っている。しかもこういう卑怯な態度は国民思想にいかに悪影響を及ぼすか判っているはずで、
結局罪の上塗りという事になる。いつかも言った通り、「愚かなる者よ汝の名は悪人なり」の言葉もよく当てはまる。
以上のごとく現在社会の人間ことごとくといいたい程、不幸な運命に喘ぎ苦しみ、地獄社会の有様は、全く間違った想念と行為によって、人間自らが作っているのであるから、その愚及ぶべからずである。
ところがこの理を諭(おし)える役目の宗教でさえはなはだ冷淡であるのは不可解といってよかろう。以上のごとく何から何まで間違った世の中であればこそ、神は諭(おし)え救い給うのである。
言霊豆知識-38-4
『気候と天候』
気候と天候について、霊的解釈をしてみるが、科学的解釈に馴れた現代人には、この説は首肯出来かねるかも知れない。しかしながら、これは神示によるもので、確信をもって発表するのである。
まず一口に言えば、気候の変化も、天候のよし悪しも、人間が作るという事である。というと甚だ不思議に聞こえるかも知れないが、これから説くところを玩味されたいのである。
吾々が吾々の五感によって知り得る現界以外、霊界からの影響も読者は大体認識されたと思う。これについてまず、気候の変化の原因を書いてみるが、冬の寒さから夏の暑さに至るまでを、四季に分けられているが、
その時々の流れに従う気候の変化が順調に推移するのが本来であるにかかわらず、時によると異変する事がある。それは何のためかというと、全く人間の想念が、霊界に反映するからである。
例えば、人間大多数の想念が正しく温和であれば、気候もそのごとく温和順調であるが、平調を欠く人間が多い場合、すなわち愛と熱にとぼしく冷やかな人間の想念は、その時あるべき気候よりも寒冷となり、
その反対に、何かの出来事に昂奮し、情熱の適正を欠く場合、その時あるべき気候に対し温熱が過ぎるという結果となる。以上のほかに人間が悪に属する想念、すなわち不平不満、呪い、
自暴自棄等の多い場合、それが霊界に反映して、何となく陰鬱(いんうつ)の気が漂(ただよ)うのである。次に、人間が発する言霊であるが、これもすこぶる重大なる影響を与えるもので、悪に属するもの、
すなわち他人の悪口、不平、愚痴、偽り等の言葉は、霊界を曇らせる事おびただしいのである。以前、ある宗教者は、人の発する言霊がみえるので、例えば悪に属する言霊を発する時はドス黒い煤のようなものが、
煙のごとく口から出るのが見えるが、善に属する言霊の場合は、白色の薄光のようなものがみえるそうである。
この悪の言霊から発する煤のごときものが霊界を曇らすので、これが増量し、ある程度を越ゆる時、それを払拭消滅すべく自然浄化作用が発生する。ちょうど家の内外に塵埃が溜まれば、人間がそれを掃除するのと同様の理で、豪雨、台風、雷鳴や洪水、大火、地震などもそれであって、拭き払い、
洗い流し、焼却するという訳である。それには分担さるる神々があって、神道で唱える祓戸(はらいど)四柱の神で、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、瀬織津比売神(せおりつひめのかみ)、速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、速佐須良比売神
はやさすらひめのかみ)の御名によって、世界的浄めの業を行ない給うので、いずれも多数の龍神を使役せらるるのである。ここで、阿波の鳴戸について解説してみよう。
前述のごとき風水火の浄化によって集溜されたる汚物は、いかに処理せらるるかというに、各河川を通じて海に流れ、阿波の鳴戸の海底深く沈下さるるのである。
もちろん、全世界の汚穢であるから、その量はけだし驚くべきものがあろう。しかるに、地球の中心部は学者も言うごとく、巨大なる熱塊、いわゆる地熱であるから、鳴戸の海底深く沈下せる汚物は、絶えずこの地熱によって焼尽されるわけで、
日本は世界の汚物焼却場といってもよい訳である。人間が以上のごとき理を知ったなら、悪の想念や、悪の言霊は出来るだけなくすよう、心がけるべきである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-5
『運命は自由に作られる』
これから運命についてかいてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。
しかしこれは全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生まれながらに決ったものであるが、運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。
誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、前記のごとく人各々の宿命という枠で決められているからで、それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。
従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実はこれが仲々難しいので、むしろ不可能といってもいいくらいである。
この限度が分らないため、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。ところがその場合でも早い内に気が付き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、
宿命の限度が分っていないから、無理に押通そうとするので失敗を大きくするのである。
また世の中を甘く見すぎたためであった事ももちろんである。そんな訳で盛返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が醒める人が大部分である。しかしまだ目が覚めればいいが、
中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の醒めない人も大いにあるが可哀相なものである。以上は信仰のない人の運命をかいたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。
それについては霊の方面から説かねばならないが、つまり一切の苦しみは浄化作用である。浄化作用といえば病気だけのように思うかも知れないが、決してそうではない。すべての悩み苦しみの因はことごとく浄化作用である。
たとえば人に瞞され損をする、火事で焼ける、怪我や泥棒、家族の不幸、商売上の損や失敗、金の苦しみ、夫婦喧嘩、親子兄弟の仲違い、親戚知人との争いなど何も彼も浄化作用である。
このように普通浄化作用といえば苦しみで曇りを除るより方法はないから、曇りがあるだけは免れる事は出来ないので、曇りを減らすのが開運の絶対的条件である。つまりある程度魂が浄まれば、浄化の必要がないから不幸が幸福に変る事になる。
これが真理であるから、運は寝て待てではなく、運は浄めて待てというのが本当である。
ところが前記のように苦しまないで魂が浄まるその方法が信仰であるから、無信仰者に幸福は絶対ない訳である。しかし信仰にも色々あるから、立派な力のある神向でなくては、真の幸福は得られない。書いてある記述を読んでいただいて判断していただきたいものである。
知恵袋:●『あり難い と あり得ないの違い』 その確率はほとんど一緒だが、正しい心を持った者の人生には、あり難いことが次々と起こる。あり難いと似て非なる言葉、あり得ないとは、数字の確率論でいえば0パーセントという意味で。
絶対に起きないのだから、そういうことであろう。その論でいえば、あり難いは限りなく0パーセントに近い確率ながら、しかし実際に起こることなのである。
あり得ない奇跡が現実に起きた。ありがたいことである。難しい言葉を使えば邂逅(かいこう=思いがけなく出あうこと)、あるいは一期一会。感謝の気持ちを忘れずに。誰にでも簡単にできることである。どうだろうさっそく今日から試してみてはいかがであろうか。
●小生は聞いたことがある。いいことをすれば倍のいいことが返ってくると。反対に人を貶(おとし・貶す=けなす)めたり、悪さをして得た結果はやがて3倍の不幸になって返ってくると。すべての世の中は因果の関係があると。
結果には原因があると。それが因果律なのだと。
●どんな人にも人生は無駄がない。たとえば今、苦労と思われる境遇にある者でも、それは自分の魂を磨いてくれる修行なのだろう。そう思えというのではない。実際にそういうものなのだ。それを超えたところに、もう一つレベルの高い幸福がある。
神と呼ぶべきか、この宇宙の創造主と呼ぶべきかは勝手だが、創造主は越えられない者に試練を与えない。 その試練を乗り越えるために必要なのが、正しい心・魂なのだ。
●物質世界に生まれのは、物質世界は変化が多く、苦しいことや、悲しいことや、楽しいことなどなど様々な体験が出来るからである。だから物質世界は学校、あるいは修行の場
として創られている。人間は霊魂が宿った構造をしているがために人間は死んでも、本体である霊魂は、輪廻転生し生き続けるのである。だから、人間は肉体、幽体、霊体の三位一体、
で構成されているといわれる所以である。
●無為自然(むいしぜん)〜水の中にあっては水にとらわれず、音もなく泳ぎゆく鯉のように、全ての生命あるものは、生命の中心に静寂な叡智をそなえているものである。これが万物の根源である。
●寿命というのは、人間が年をとったら菜食にすればよい。薬を飲まないから薬の気がなくなる。そうしてまず八十過ぎくらいから菜食にすると、百以上は必ず生きるものです。
●種をまく時は、 種の一つ一つに言葉をかけてあげることが大事である。 優しい言葉。植物にも霊がある。だから、言霊をかけて上げることによって、植物の霊にとっては励ましとなるのである。
それから人間が作物を作るんじゃあない。 作物を育てるのは土であるし、水であるし、日の光でもある。人間は、ただそのお手伝いをさせて頂くだけである。まずは土つくりと、お世話をいさせて頂く人作りが肝腎なのである。
小さな粒のような種でも、地にまいたら芽を出して、やがては木になって実をつける。そんな繁茂繁栄する小さな種でさえ、 人間の知恵と力じゃ作れるものじゃあないし、すべてが神様の摂理と、神様のお力なのであることを知ることである。
●日本に仏教が渡来して来た後と云うものは全く神霊を御送迎申し上げることが衰えて神様へ感応することの術を失ってしまったのであります。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-6
『禁欲』
昔から立派な宗教家たらんとするには、禁欲生活をしなければならないように想われ、それが真理を悟り、魂を磨く最良の方法とさえ思われていた。
しかし小生は反対である。以下判りやすくかいてみよう。
そもそも、森羅万象一切は人間のために存在している事である。見よ、春の花、秋の紅葉、百鳥の囀り、虫の啼く声、明媚なる山水、月の夜の風情や温泉等々は、
何が故に存在するのであろうかという事を考えなくてはならない。いうまでもなく、神が人間を楽しませるために造られたものでなくて何であろう。
また人間が謡(うた)う美しき声や、舞踊や、文学芸術等も、もちろんそれによって当人も楽しみ、他人をも楽しませるのである。それのみではない、人間生活においてあらゆる美味なる食物はもとより、
建築、庭園、衣服等も必要のためのみではない。より娯しむべき要素が含まれている。飲食を楽しむことによって、栄養となり、生命が保持される。
住居も衣食も必要だけの目的であれば、甚だ殺風景のもので済む訳である。子供を造る事も必要の目的のみでない事は言うまでもない。
以上のごとく大自然も、人為的のあらゆる物も、一方それを楽しむべき本能を神が人間に与えられている以上、それを娯(たの)しむのが本当である。
それを拒否し、生存上必要のもののみに満足するという禁欲主義は、深き神の恩恵に対する背反的考え方である。また他の方面をみる時、今日までの特権者が利他的観念に乏(とぼ)しく、自分や自分一族の者のみの快楽に専心し、
社会や他人を顧慮せず、衆とともに楽しむという、人類愛的思想の発露が余りにもなかった。それは神の恩恵を独占する訳になろう。
翻って想うに、いにしえの聖者が粗衣粗食極端なる禁欲生活をなし、「祖師は紙衣(かみころも=紙を用いて作った衣服。 いわゆる腰の強い上質の紙を産する日本独特のもの)の五十年」的生活に尊き一生を捧げたという事は、神の恩恵に叛(そむ)く訳になろう。
それに気付かない世人は、宗教家を観る時、禁欲者でなくては有難くないように思う傾向があるのは遺憾である。このようなことで、禁欲に反対であるから普通人と同様の生活をすることが、これが神意に添(そう)うものと考えている。
従って地上天国とは、人類総体の生活が向上し、芸術・音術(音霊)その他の清い楽しみは大いに発達する世界をいうのである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-7
『言霊について』
彼の『聖書』に、「太初(はじめ)に言葉あり、万物これによって作らる」ということがあるが、これは言霊(ことたま)の活動をいったものである。
それについて言霊の根本義からかいてみるが、言霊はもちろん人間の音声と舌、唇、顎の活動によって構成発射するものであるが、それを発する根本は言葉によって表現せんとする想念であることはいうまでもない。
想念は意欲の表われである。解りやすくいえば人間が何らかの意欲が起るその意欲を言葉に表わすべく想念が活動する。もちろん想念の活動には正邪善悪、成不成等の判断力も活動する。これを総合したのが智慧である。
それらを具体化したものが言霊であって、言霊を具体化したものが行動である。この理によって、想念、言霊、行為の三段階と思えば間違いはない。
右のごとくであるとして想念は幽玄界に属し言霊は言霊(げんれい)界に属し、行為は現象界に属するのである。言わば、言霊は幽と物との中間である。念と行との媒介者といってもいい。
これによってみても言霊なるものはいかに重要性があるか判るのである。
言霊は傀儡師(くぐつし)と同様、鬼を出すも仏を出すも自由自在である。人を怒らすも笑わすも、心配させることも安心させることも悲しませることも喜ばせることも、波瀾を起させるも、和を造ることも失敗するのも成功するのも言霊次第である。
かような重要な言霊を軽々しく使用するのは、危険この上なしというべきである。
しかしながら、言霊のみをいかに巧妙に操ったところで、単なる技術でしかない。落語、漫才、講釈師と同様である。どうしても言霊はその根本に偉力を発揮せしむべき力がなくては、何の意義をなさない。しかも力といっても、それに善悪の区別がある。
すなわち悪の言霊は罪を構成し、善の言霊は、徳を構成する以上、人間は善の言霊を使うべく努力すべきである。善の言霊とは、もちろん誠が根本であり、誠は神からであるから、どうしても神を認めなければならない。
とすれば、神向き者でなければ、真の誠は発揮出来ないから、言霊といえども善的力が現れるはずがないのである。
豆豆知識;言霊で病気治療も出来るには出来るが、ただ単に“痛み去れ”と言霊を御発射毎にピタリと痛みは去るものの、病毒を取り去る事を主となされる御目的なるため痛みは去っても毒が取れないのである。これが言霊の術である。
御神力とは大変なもので、例えばいかなる頭痛でも又腹痛でもいかに苦しんでいる患者でも、誰それ(患者の氏名)の頭とか腹の「痛み去れっ」とおっしゃってフッフッと二回吹かれるとピタッと痛みが治るのであるから大変なものです。これが吹き分けの術である。
『雨でも風でも暴風雨でも皆神様の御心によってあるもので、雨よやめ雨よやめと言って(言葉の力だけではなく、 強い念を乗せなければだめなのであると同時に天と地を結ぶ無数の銀色の糸に直(じか)に触れ、 大自然の懐に抱かれている自分を認識し、
かつ自分というちっぽけな存在を捨てて 大自然と一体化した時にものすごいパワーが流れ込んでくるものですが・・・。これは偉大なる想念と言霊の術である。そして神の世界と言霊の理解が必要とされる。)、それを止める事は御神意に反する事で神意の御邪魔をする事になるからやってはならないのである。』
天地(あめつち)は一切万事言霊 水火(いき)に即して生くのものなり!!
言霊豆知識-38-8
『幸運の秘訣ついて』
この事についてかいた事があるが、今日の世の中を見れば見る程不幸な人が余りに多いので、一層徹底的にかいてみるのである。
言うまでもなく昔から人間の運不運程厄介な問題はあるまい。誰しも人心がついてから死ぬまでの間、この考えから離れられないのが人間としての必然性であろう。
というのは最も分りたいと思う事程、最も分り難いのが世の中の常であるからで、少しでも分るとしたらこれ程結構な事はあるまい。ところが、幸いなるかな小生はこの根本がハッキリ分ったのである。
そればかりか実地経験によっても少しの間違いはないので、ここに確信を以って説くのである。
それについては誰も知る通り、一口に運といってもこれ程茫漠(ぼうばく)たる掴まえどころないものはあるまい。
しかも自分ではどうにもならないので、あなた委(まか)せより致し方がないのはもちろんで、これが運というものであろう。
誰かが言った“人生は大賭博なり”とは宣(むべ)なるかなである。従ってどんなに偉いといわれる人でも、一応は諦めてはいるが、中々悟りきれないもので、これが人間の宿命とでもいうのであろう。
そこで何とかして幸運を掴みたい一念から活動も出来る訳である。それがためありもしない智慧を絞り、欲しい成りたいの苦労のしつづけで終るのが人生というものであろう。そうして運くらい皮肉なものはない。
掴もうとすればする程逃げてしまう。西洋の諺(ことわざ)に“幸運のチャンスは前髪のようなもので、通る瞬間掴まないとお終(しま)いだ”というが全くその通りである。
小生の長い経験によっても、運という奴に始終からかわれているような気がする。訳なく掴めそうで中々掴めない。目の前にブラ下っているから手を出すとスルリと抜けてしまう。
追いかけようとすればする程逃足の速い事、全く始末の悪い代物だ。
ところが小生はこの運という奴を確実に掴えたのである。だがそれを説明するに当って困る事には、信仰者ならイザ知らず、一般人には中々分り難い点がある。
というのは物を見る場合上面(うわつら)だけを見て中身を見ない事で、否(いな)見えないのである。
ところが運に限って因は中身の方にあるのだから、これが分らなければ運は決して掴めない。
という訳は人間が肉体を動かす場合、肉体自身が動くのではなく、中身にある心が動かすのであるから、幸運もそれと同様中身が肝腎である。
その訳を詳しくかいてみよう。まず右の理を押し広げるとこういう事になる。すなわち上面とは現実界であり、中身とは心霊界という目に見えない空間の世界である。これがこの大世界の組織であって、造物主はそう造られたのである。
故に心が肉体を動かすごとく、霊界が現界を動かすのである。しかも一切は霊界が主で現界が従であるから、運といえども霊界にある霊の運が開ければいいので、そのまま体に映り幸運者となるのはもちろんである。
では霊界というものを一層詳しくかいてみるが、霊界は現界よりも厳正公平な階級制度になっている。それが上中下百八十の段階になっていて、六十段ずつ三段階に分れている。
もちろん上が天国、下が地獄、中間が中有界(ちゅううかい)といい現界に相応している。
こんな事をいうと、今日の人間は直に信じられまいが、私(茂吉大先生)は神から詳しく知らされ、その上長い間霊界と現界との関係を実地経験によって、底の底まで知り得たのであるから、寸毫(すんごう)の誤りはないのである。
何よりもこの理を信じて実行に移し、幸運を掴んだ人は今までに数え切れない程あるばかりか、私自身としてもその一人である。それは私を客観的に見れば直ぐ分る。私がいかに幸福な境遇であるかである。
そこで今一歩進めて右の段階を説明してみるが、前記のごとく人間の体は現界に、霊は霊界にあるとしたら、百八十段中のどこかにいるはずであって、つまり籍のようなものである。
しかもこの籍は一定しておらず、絶えず上下に移動しており、運命もそれに伴う以上、人間は出来るだけ上段に昇るよう心掛くべきである。
言うまでもなく下は地獄界で、病気、貧乏、争いはもちろん、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、百鬼夜行、暗黒無明の世界であって、あらゆる苦悩が渦巻いている。
これに反し上段へ行く程反対に良くなり、天国浄土的平和光明、健富和(けんぷわ)の理想境であり、中段は中位である。
以上のごとく霊界の籍通りが体に移り、運命となるとしたら、霊の地位向上こそ幸運の根本である事が余りにも明らかである。
何よりも事実を見ても分る通り、世間よく出世をして人から羨(うらや)まれるようになり、自分もいい気持になって、いつまでも続くと思っていると、豈(あに)計らんやいつしか失敗転落、
元の木阿弥(もくあみ)となる例もよくある。というのはこの理を知らず、人力にのみ頼りすぎるからで、しかも人を苦しめ、無理をする結果、形だけは成功しても、霊は地獄に堕ちているので、
霊主心主体属の法則によりその通りの運命となるのである。そうして霊にも物質と同様重量があり、重ければ地獄に堕ち、軽ければ天国に上る。
昔から罪の重荷というが、その通りで、悪の行為は霊が曇り重くなるに反し、善の行為は軽くなり上へ昇るのである。
故に人間は悪を慎み、罪を作らないようにする事で、出来るだけ善を行い、霊を軽くする事こそ幸運の秘訣である。これが真理である以上、これ以外方法のない事は断言するのである。
といってもなるほど理屈は分るが、さて実行となると中々難かしいものである。ところが容易に出来る方法がある。
これこそ神向きであるから、幸運を得たい人は何をおいても、まず神向に入る事である。
■これから運命についてかいてみるが、ここで知っておかねばならない事は、世人はよく宿命と運命とを同一にしている事である。しかしこれは全然違うのでそれをかいてみるが、宿命とは生まれながらに決ったものであるが、
運命の方は人間次第でどうにでもなるもので、この点を知らなくてはならないのである。誰でもそうだが、いくらああしたい、こうなりたいと思っても、仲々思うようにゆかないのが、前記のごとく人各々の宿命という枠で決められているからで、
それから抜け出る事は無論出来ないようになっている。従って人間は自分のもって生まれた宿命の限度をハッキリ知る事が肝腎であるが、実はこれが仲々難しいので、むしろ不可能といってもいいくらいである。
この限度が分らないため、自分の力以上の計画を立てたり、身の程知らずの望みを起したりするので失敗するのである。ところがその場合でも早い内に気が付き、一旦陣を引いて出直せば苦しみも軽くて済むが、宿命の限度が分っていないから、
無理に押通そうとするので失敗を大きくするのである。また世の中を甘く見すぎたためであった事ももちろんである。そんな訳で盛返そうとしては失敗し、出直そうとしては腰を折られ、散々な目に遭ってやっと目が醒める人が大部分である。
しかしまだ目が覚めればいいが、中には不幸のドン底に陥ったまま死ぬまで目の醒めない人も大いにあるが可哀相なものである。以上は信仰のない人の運命をかいたのであるが、そこへゆくと信仰者は別である。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-9
『内臓の三位一体と霊的光力(摩訶不思議の業)』
そもそも、人間生活上体内の最も重要機能としては心臓、肺臓、胃の腑の三者であろう、
この事こそが常に唱うる火水土の三大原素から成立っており、右の三機能の活動についてここに説いてみよう。
それはこうである、すなわち火は心臓で、水は肺臓で、土は胃の腑に当るという事である、
何となれば心臓は火素を吸収し、肺臓は水素を吸収し、胃は土素を吸収する機能であるからである、
しかしながらこれについての今日までの医学の説明はまことに不徹底であった、
その言うところは濁った血液は肺臓が吸収する酸素によって浄められるというのであるが、
それだけでは本質に触れていない事はもちろんで、これを神示の医学によって解説してみるが、それにはまず霊界の真相から説き起さなくてはならない。
そもそも、霊界とは人間の五感に触れない無に等しき存在であるが、実はこれこそ万有の根源であって、この事を知らなくては真相の把握は不可能である。
火は水によって燃え、水は火によって流動するという原理は再三小生は唱えて来たが、
この原理こそ万有解決の鍵である、ゆえに不可視の存在であるところの霊界を識る前提としてまず空気界から説いてみるが、
今日科学によって唱えらるる酸素とは火精であり、水素とは水精であり、窒素とは土精であり、これが三位一体で、この三原素こそ一切万有の本質である、
極端な暑熱も極端な寒冷も中和の気候も、生物の生存に適合しているという訳は、
神秘極まる三原素の活力によるのである、
仮にこの地球から水素を無にすれば一瞬にして爆発し、火素を無にすれば一瞬にして氷結し、土素を無にすれば一瞬にして崩壊し零となる、これが真理である、
この理を考える時、初めに説いた心臓、肺臓、胃の三機能の基本的意味が判るはずである、
すなわち心臓は霊界から火素を吸収する、その作用が鼓動である、肺臓は同じく水素を吸収する、その作用が呼吸である、胃は現界から土素を吸収する、
その作用が食物の嚥下である、この理を一層徹底してみよう。
あらゆる病原である固結毒素溶解には熱を必要とする、それが浄化作用の第一活動で、浄化作用が病気症状でありとすれば、
病気の際の高熱は固結毒素溶解には多量の熱を要するからで、その際熱を吸収するために頻繁なる鼓動が発る、
また悪寒は患部に熱が集注するため他部は一時的減熱する、
またそれと同様呼吸が頻繁なのは心臓の活動を促進するためと乾燥を防ぐため、肺臓は水素を多量に吸収するからである。
そうして火素の根源はもちろん太陽が放射する精気であり、水素のそれは月が放射する精気であり、土素のそれは大地が放射する精気である。
しかしながら、右三者の主位はもちろん心臓であって、心臓が肺臓を動かし、肺臓が胃を動かすのである、
この理は胃に食物が不足しても直ちに生命の危険はないが、肺臓はそうはゆかない、といって一、二分の生命は持続出来るが、心臓に至っては数秒以上は不可能である、
医学においても死の場合、肺臓や胃の腑の事は言わない、必ず心臓麻痺というにみても明らかである。
そうして人間死するや、まず心臓の活動が停止するやそれまで人体に充実した霊すなわち火素が脱出し無熱となる、もちろんこれは霊界に帰属するからであり、
肺臓は呼吸が止るやそれまで体内に充満していた水素は空気界に帰属(きぞく=特定の組織体などに所属し従うこと)し乾燥が始まる、
胃ももちろん活動停止によって飲食は不可能となり、身体の硬化作用が始まる、これらによってみても前述の説を裏書(うらがき)している。
以上のごとく、火水土の三位一体の本質によって構成された人体である以上その病患を治癒するとしたら、
その方法も三位一体の力に依らなければ合理的ではないはずである、
これが霊的光力の原理であって、それを説明してみよう。
人間は霊と体の二元的要素から成立している以上、人間が生きているというその動きは、霊と体が密合一致し、霊が体を動かしているからである。
そうして霊は人体と同様の形状をなし、霊の中心に心があり、心の中心に魂がある。この三者一体の活動が意志想念となって表れ、この見えざる霊すなわち意志想念が肉体の支配者であるから、霊が主で体が従となる、
すなわち霊主体従である。これを判りやすくいえば人間が手足を動かす場合、手足が自主的に勝手に動くのではない、意志の命令に従って動くのである。眼も鼻も口も人体全部ことごとくがそうである。
病気といえどもこの原理の通りで、判りやすくするため、誰でも経験のある腫物を取り上げてみよう。腫物は最初小なる隆起ができ、それが漸次腫脹し、膨大し、赤色を呈し、発熱を伴い局部は痛み、痒み等の苦痛があるのが通例である。
この現象は体内の毒素が自然生理によって排泄さるべき活動が起こり、一局部へ集溜し発熱によってその毒結を溶解液体化し、排泄を容易ならしめる、それが自然良能作用である。また排出口を作るべく、皮膚をより薄く柔軟ならしめる。
故に赤きは、透明状となった薄皮を毒血が透して見えるのである。それから間もなく小孔が開きたちまち液体毒血膿は潟出し浄化が終わるのである。
さて諸仏中ひとり観世音のみは昔からご秘仏とされていた。これは深い神秘があるのである。
観世音のお働きは仏教渡来からであるが、その当時から最近まではただ霊のみの御救いであった。勿論人間が祈願することによって利益を賜るには賜ったが、それははなはだ微弱であった。
その理由として光の原素は火素と水素の密合であるが地素が欠けていた。故に利益を与える場合二元素のみであったから、力が不充分であったわけである。ところが霊界における大転換の時が迫り来った。
聖書中の世の終わり、最後の審判の時がそれである。これがため最も強力なる絶対的救済力が必要となった。この力こそ前述のごとく火水土の三位一体の力であって、土の力とは物質の原素で、人間の体に当たる。
光が体を通過することによって土素が加わり三位一体の力となる、すなわち観音力である。これを判りやすく言えば観世音菩薩の如意の玉から発揮される光素が、
玉の光の塊から光波は無限に放射されるのである。しからばこの光の玉のその本源はどこにあるかというと、これが霊界における観世音菩薩の如意の玉から、無限光を供給されるのである。
これがすなわち観音力であり、不可思議力妙智力とも言われるものである。如意輪観音が持し給う玉もこれである。
霊光光力は観音力に依るとされている、観音力とはもちろん菩薩から伝達されるところの光である、
しかしこれは霊的光であって、人間の眼には見えないが、眼に見えるところの太陽・電灯・灯火等の光は光の体であるのである、
そうして光の本質とはいうまでもなく火と水の密合であって、
すなわち火素と水素から成立っており、火素の多量であればある程光は力が加わるのである、
しかるに火と水だけの光の力だけでは不充分で、ここに土精を要する、
土精が加わる事によって完全な三位一体的力の発揮となるから素晴しい治病力となり、
その光波が人体を透過し、霊の汚濁は消滅され、それが体に移写して治病効果を奏(そう)するのである。
右の具体的方法としては、「光またはチョン」の文字を書いた紙を畳んで懐(ふところ=衣服の胸の辺りの内側の部分である)へ入れさせる、
光の文字には腕を通し、筆を通して、文字へ光波の精が滲透凝集(しんとうぎょうしゅう)する、(これは説明に困難だから仮に凝集の文字を用う)
そうしてその光の文字と、体内にある光の本元とが、霊線によって連係しており、絶えず光波を供給している、
もちろん観世音菩薩との霊線活動も同様であって、もちろん人類救済のための光波を無限に伝達され給うのである。
以上のごとく三位一体となって構成された人体である以上、三位一体の力による治病法こそ真理そのものであるといえよう、
全く空前の治病力を発揮し得らるるのは当然というべきである、
以上の原理の説明は非常に困難ではあるが、大体右によってある程度の概念を得たであろうと信ずるのである。
元来 光とは太陽そのもののように思うであろうが、そうではない。
本当は太陽と月との密合したものである。
そのように両極端の元素が光の本質とすれば、それが肉体に宿る以上、
肉体は土素であるから火水土の三位一体となる。
しかしそれだけなら普通人は土ばかりかというと、そうではない。
普通人にもそれぞれ光はあるが、ただ小さく弱いのである。
ところがこの光の力は非常に大きいもので、普通人の何万倍か何百万倍か、
あるいは無限大かも分らない程で、ほとんど想像を絶するといってもよかろう。
何となれば御守の文字である。光、チョンであるが、これを懐へ入れるや即座に人の病気を治し得る力を発揮される。
主神が自由自在に行使する神器であって、昔からいわれている如意宝珠、麻邇(まに)の玉がこれである。玉とは魂のことで絶対力の意味です。
主の神様の御神体と言ってもよいでしょう・・・。要するに光そのものです。
しかし、これは本当は人間が使うべきもので、これによって神力が出るのです。観音力って言うのはそういうものなんです。
ところがこの玉をいままでは使う人がなかったのです。時期が来てなかったから使えなかったんです。
夜の世界の間は水素が多かったので、その玉が水素に包まれていたんです。それが昼の世界になり水素が少なくなってきたので、それにつれて玉の光が強くなってきたのです。
さてこの力こそ御守の文字から放射される光のためである。だからと言って誰でも書けば出来るものでもない・・・。
この玉の光が神の霊線を通じて御守に伝達し、無限に光を供給するのである。
そのものの原理を知らねばならない。元来霊的光力を行う業は宗教ではない。
宗教以上のものであって、名称を付ける事は出来ないのである。そうして有りのままをいえば、宗教というものはある期間中の役目であって、
仮の救いであり、永遠性はないのである。最後に神に目覚めれば誰でも霊的光力ができるようになるのである。
胎臓界は「弥勒胎臓」と言って「弥勒」が未だ出現しない時代の仏教で、夜の世界のことです。
金剛界は昼の世界で、金とは太陽の光のことであり、「弥勒下生」後が金剛界になるのです。
●科学は水素と土素のみを研究の対象としていたので、現在は水と土の文化であり、これが文明の一大欠陥であったのである。
ところでここに驚くべき世界の一大異変をかかねばならないが、それは前記のごとく日、月、土の三原素から成立っており、日と月の交替によって昼夜の別があるが、
これは物の面から見た現象であって、これとは別に霊の面にも昼夜のあることである。もちろん物の科学では分りようがないが、霊の科学ならよく分る。
では右の異変とは何かというと、これこそ未(いま)だ嘗(かつ)て人類の夢想だもしなかったところの驚くべき世界の大転換であって、それが今や開始されんとしているのである。
それは昼夜を押拡げた歴史的異変であって、これを分るには時間的考察より外はない。すなわち霊界においては十年、百年、千年、万年にも昼夜の交替があることである。
すなわち地球の実体は火水土の三原素から成立っているごとく、宇宙間一切は三の数字が基本となっており、これが宇宙の鉄則であって、昼夜といえども三年、三十年、三百年、三千年というようになっている。
もちろんその物の性質と大中小によって、霊から物に移写するには若干の遅速はあるが、根本は正確に流転している。その三千年の転換期が黎明期(れいめい)に当るのである。
それは一九三一年六月十五日であって、この時を期として世界は昼になったのである。といってもある時期までは霊界の変化であるが、漸次(ぜんじ=しだいに。だんだん)現界に移写し、いずれは現実的に分るのである。
そうして霊界が昼になるということは、火素が増量することであって、徐々ではあるが物の世界にも移写しつつある。それは水主火従であったこれまでの世界が、逆に火主水従となることである。
しかし物の科学で分らないが、霊覚者なら充分分るのである。これによって今まで未解決であったあらゆる問題も、明確に解決されるのである。水(物質欲=暴きの世=真如の世)、火(精神=神との繋がり世=正しき世)である。
●医学では絶対不治とされ、死の宣告まで受けた患者が、医学の医の字も知らない人々が数日間の修業によって得た方法をもってすれば、たちまち起死回生(きしかいせい=死にかかった人を生き返らす意)的に全治するのである。
また彼の盲腸炎の激痛でも、術者が数尺離れた所から、空間に手を翳(かざ=霊的光力)すだけで、二、三十分で痛みは去り、間もなく下痢によって排毒され全治するのである。これも自分自身体験済みである。小生自身は三日間掛ったものでした。今は完治が早いものです。
●人間の病気は一日おきに良くなったり悪くなったりする。四十八時間が節になっている。塊がある場合には中指から霊を出すようにするとよいです。
この中指(指紋の辺りで)から出る霊は強いですから、小さい固まりはよく溶けます
●尾てい骨の付近に溜まった毒素のために、それが息切れの原因になります。よく、歩いて息の切れる人、特に坂などを上って息が切れる人は、尾てい骨の付近に溜まった毒素のためなのです。
というのは腰が重いから、それにつれてやっぱり足が重いのです。
●さてここで注意が必要であるが、奇跡を出すようになると慢心が起こる。病気を治せたのは自分ではなくどこまで行っても神様がお力を貸して下さっていることを忘れてはならないのである。 神様の力で病気が癒されるのです。神様との対話は、祈り(意乗り)です。
個々で面白い話をしてみよう;病をいやしてもらった人間にいえることは、必ず言うことがある。 あとになると必ず「あれはちょうどクスリが効いてきたのだ」 とか、「治る時期だったのだ」 ・「偶然だったのだ」などと言って、二度と相手にしようとはしないものだ。
またおかげを頂いても、大病が治り一時は感激しても、時の経つに従い忘れたり、迷ったりする人もあるが、こういう人はすでに縁が切れ、滅びの方へ回ったのだから、手放した方がいいのかもしれない・・・。以上によっても分る場合もある。素直に受け入れる人はいいが、そうでない人は縁なき衆生(親と子でも)として諦めるより仕方がないと思うのだが・・・。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-10
『真我とは』人間誰しも楽をしたいとか、 気持ちのいいことをしたいとか、 楽しいことをしたいとか、 おいしいものを食べたいとか、 どこかに遊びに行きたいとかいろいろある訳です。
さて、 そこでです。そのような心がどうして起こるのかということです。もちろん何も今言ったような心が、 すべて悪いと言っている訳ではありません。
楽しむときは徹底して楽しむ、 遊ぶときは徹底して遊ぶ、 というふうにですね、 すべてが神様のお恵みですから感謝して楽しめばいいのですが、でも、 そればかりだとどうなりますか?
人間、 どうなってしまうでしょう? だめですよね。 それでは、 何のために生まれてきたのかってことになります。 楽しむために、 楽をするために生まれてきたんですか?
そんなことのために、 神様は人をお造りになったんですか? 違いますよね 。でも、 ならどうして人間には楽をしたい、 人を蹴落としてでも人に勝ちたいって気持ちが起こるんでしょう。
そのことについて、お話します。つまり、 人間の自我についてです。 自我という言葉は、 誰しもが初めて耳にする言葉かもしれませんが、 自我といっても哲学家あたりが口角泡を飛ばして議論しているような、
人知でこねくり回した自我ではないです、自我とは、 心よりもさらに奥にある霊魂の状態ということなんです。自我と言いましても二つありましてね、 一つは高い自我で、 もう一つは低い自我です。
その高い自我は真我(しんが)といいまして、 低い自我を偽我(ぎが)というのです。真我とは、 神様から頂いた自我のことです。 神様は土で人をお造りになってから、
生命の息を吹き入れなさったって聖書(トーラー)には書いてあります。 土でお造りになったのは肉体ですけれど、 その生命の息というのが真我なんです。 つまり神様がご自分の霊質を引きちぎられて、
一人ひとりの眉間に入れて下さったんです。 それが真我で、つまり人の霊魂というものです。 私たちの肉体には霊魂が入っていますから、 私たちはこうして立って息もしているし、 話もできるんです 。
もし霊魂が入っていなければ、 その肉体はただの土の塊です。どうですか? 死んで魂が抜けるとその体は冷たくなりますでしょうし、 体は動かないでしょう。 放っておくと腐ります。
同じ肉体なのに生きている私たちは体が腐りもせずに、 立って動いて話ができる。 これは霊魂が入っているからなんです。 しかもその霊魂というのは、 神様の霊質なんです。 だからこそ、私たちは神の子なんです。
『いいえ、 私にはそんな霊魂は入っていない』なんていう人、いますか?「ですから、 聖書には、神は『ご自分に似せて』人を造られたと書かれているんです。
ですからこの真我、 つまり霊魂こそが人の本質なんです。目に見える肉体が本質ではないのです。 肉体が自分ではないんです。 ところが先ほど申しましたように、 人間には真我と反対の偽我というものもありまして、
楽をしたいとか人を蹴落としたいとか、 お金がほしいとか、挙げ句の果てには人を憎んだり恨んだり怒ったり、そんな想念はそこから出てくるんです。
人の本質は神様から頂いた真我という霊魂ですけれども、 それだけでしたら今申しましたような悪想念が出てくる訳はないし、 神様は善一途のお方ですからね。それなのに、そのような想念が出てくるというのは、
人間には真我とは別の偽我が存在しているからなんです。すべてのものには表と裏がありまして、光があれば闇がありますように、真我の裏返しが偽我なんです。まあ、ひと言で申しましたなら、真我は神様の御愛情の現れで、
偽我は人間の欲望と憎しみの現れなんです。でも、人間って、偽我の言う通りに行動する方が楽ですよね。そうでしょう? どうですか? 朝早くから神向きするより、ずっと寝ていた方が楽でしょ?
でも楽を追い求めていたら、どんどん真我から離れていってしまうんです。それはそうですよね。偽我は真我の対極なのですから。そして真我から離れるってことは、神様からも離れていってしまうってことなんです。
神様から離れていってしまったらどうなりますか?行き着く先は地獄でしょ?違いますか? そこで地獄へ行かないためには、自分の想念や行動が真我からのものか偽我からのものか、それを見極めることが大切になってくるんです。
自分自身が自覚を持って、自分の想念や行動を一つひとつ点検することが必要です 。いいですか。皆さんお一人お一人がそれをなさるんです。話を聞いて『ああ、 いい話だった』で終わってしまったら何にもなりません。
行動が、 実践が大事です。教えを請いたいって皆さんは思っておられるでしょうけど、自分を救えるのは自分自身なんです。「 神様は何かお考えがあって人間にそのような偽我をお許しになっているのでしょうし、
そのことは人知の計り知るところではありません。 今の時代ではまだ分からないことです。ですけど、真我のみが神様に通じる神の子としての本質であるということだけは、忘れないでほしいんです。
偽我とは、楽をしたいとか物やお金がほしいとかいう肉体保存欲です。つまり、自己愛から発する肉欲、物欲です。自己愛とは、自分さえよければ他人(ひと)様はどうでもいいといった自己中心的な考えです。
そんなところから発する偽我ですけれど、これがまた今自分が自分の意識だと認識できる表面に出てきてしまっているんです。しかし、表面には出てきていても、それは仮のものなんです。
仮のものはいつか滅びます。仮のものを真実だと勘違いする人も滅びます。表に出ている意識が本質ではないのです。それは肉体に属するものです。 表面の意識というものは、目で見て、耳で聞いて、
口で味わって、鼻でかいで、手で触って、そうして認識するものでしょう。すべて肉体を通してです。表面の意識が、本質ではないのです。あくまで本質は霊魂、つまり真我です。真我は永遠です。
ですから皆さんは自分の想念と行動を見つめ直し、反省して、真我と偽我をはっきりと見分けて下さい。いいですか? それは簡単なことではないでしょうけど、いちばん大切なことです。
豆豆知識;天地創造の昔から今に至るまで、そして未来へと流れは続いているんです。神様が時間というものをお造りになって以来ずっと。そしてその流れとともに進展する神様のご計画というものがあるんです。
その中で、私たちも生かされているのです。神様のみ意(こころ)は、 大自然の中にいちばんよく現れているんです。大自然には季節というものがあるでしょう。それと同じように 、
すべてのものごとには時期というものがある。太陽には太陽の、月には月の教えをもたらす時期っていうものがある。でも私たちは光の子なら、 太陽の教えを知らなくてはならないと思う。
でもやはり、 それにも時期というものがある。やがては光の子と闇の子の戦いの時期が来るでしょうけれど、闇の子の時代があり、つまり月の季節。月の季節に太陽の教えをもたらしたら、
人々の心の中では枯れ葉のように散ってしまう。でもいつかは、 神様のご計画も進んでいくんです。それが今の時代なのです。この世のすべてのものは、決して同じ状況ではあり得ないでしょう 。
すべてが刻々と変化していくけれど、でもその変化の中に厳として動かない久遠の真理というものもある。「久遠の真理・・・。」
「天地創造の前には万物は一体で、それが一位の唯一の神様なのです。そして聖書には『光あれ』という神様のみ言葉があったって書いてあるけど、まず火と水が創られて、それによって万物が生成化育してきた。それから土が生じて、火・水・土、 日・月・地の三位一体になっていったのです。」
●怒りは偽我からやってくる
●【真我と偽我】
人間をからだ・こころ・いのちの三つの視点で見つめることが大事であるが医療の見方からすると、からだの健康と、心の健康と、霊的な正しさを持った生き方、その三視点だ。
人間はもとよりお肉の塊だけであるはずもなく、そこに意識や喜怒哀楽といった感性の世界(パトス)と同居している。だからやりすぎ頑張りすぎの過度なストレスや、逆に何もしない怠惰(たいだ=なまけてだらしないこと)な精神は、同居している肉体細胞に影響を与える。つまり心が先行して肉体細胞の異常をつくり病を誘い、心が豊なら健全な肉体が維持できる。
西洋医学は、眼で見えるものだけを対象にした物質科学に依存してきた。だから壊れた人間の機械部品を修理することが西洋医の仕事だ。東洋医学は陰陽五行、動と静、寒熱(かんねつ)といった大自然のバランスに対応して生命場を論ずるから、人間のこころの健康と肉体の健康の両方のバランスを診(み)ている。
ところが霊的な健康というと、見えない心のさらに上を行くから観念的な世界で、見える物質の住人にはまるで馴染(なじ)みがない。しかし西洋でも東洋でも、物質科学が台頭する遥(はる)か大昔から基教、儒教、回教、佛教、神道などと一緒に、「今此処にある」存在の哲学が研究されてきた。
心のもっとも深いところに「生かしめている大きな存在」を古の聖人君子はもとより気付いていて「愛」・「法」・「(融)和」を生活の大本に据えていた。
「いのち」とは我が物だけではなく生かされているすべての存在に天から共通に与えられている生命エネルギーという考えにある。つまり「いのち」は自分の中にも、同時に内から外にも繋(つなが)り、家族や地域社会とも繋がっている。そしてその「いのち」は、より大きな「地球という巨大ないのち」とも繋がっている。
魂という日本的な表現も、「いのち」と同義同質と考えている。神智学では高次な意識、コーザル意識やメンタル意識は神我に近い概念である。
仏教にも六根を越えた未那耶識(まないしき=六根の元にあって、五感、六根を常に. 裏から支えている意識)や阿羅耶識(あらやしき=眼・耳・鼻・舌・身・意)、宇宙意識という高次意識の概念がある。こうした人間の肉質から遠く、高次な神仏の意識、性質をSprit とも霊性ともいい、
巨大な神意識の一部が「いのち」であるように感じている。別の見方をしてみよう。肉体の内部に五感肉体センサーと受感された反射意識がある。これを「五感六根」という。6番目の六根は「意」そのもので、情緒(じょうちょ=喜び・悲しみ・怒りなど突然引き起こされた急激な感情の動き)系を伴わない「重い、熱い、痛い、まぶしい・・・」などの単純反射意識である。それを仏教では「意」として「こころ(意識)」と分けている。
また神道では肉体、幽体、霊体、玄体、神体と肉体よりも精妙な波動意識体を順に指している。「いのち」、「たましい」、「Spirit」、「神体」はいづれも高次な神意識の領域で先にも言う同義とおもう。私達は物質世界だけに生きる偽我の領域を超え、さらにその奥にある真我の自己を見つめなければならない。
「真我」と「神我」とは同義同音である。私達の心の深奥(しんおう)は天、宇宙創造神と通づる。その神と通づる心のパイプの中核を純正自己といったり真我といったり霊性或いは魂とよんだりする。
自分の心には嘘はつけない。それは自己の中核が神我であることの証明で、その真(神)我が人間の純正本体で純正、信念、希望、創造、愛、勇気、進化、調和の八つの神霊波動を持つ。偽我とは肉体五感のセンサーだけでこの物質世界を認め、それのみが真実で、目では見えない愛や調和は認めない生き方である。
「われこそ」、「われ良し」、「われのみに」が偽我の生き方、物質世界に拘泥した生き方である。
モノ・カネ・肉体だけに縛られた日本の社会は、もう純正ヤマトの豊かさ心を取り戻さなくてはならない。人生の基底は、モノ・カネではなくてココロの充実であり、誰しも充実や喜びといった幸せを求める。モノカネが十分にあっても、瀕死の子供を身近にしていれば決して幸せではない。幸せの内容は心の状態なのである。
幸せとは・喜び・感動・感謝・充実に裏打ちされている見えない心である。従って心の本体、中核である真我に生きねば、心は情動に流され、執着し、自己保存に動く。真我とは拘泥(こうでい=こだわること)がない、独占がない、分離がない。あるのは「与える心」と「愛と調和」である。
・喜び・感動・感謝・充実は物のように手では掴めない心の内容である。真我の意識は愛・感謝・調和に加え進(神)化ユートピア建設の創造意念を加えられている。
真我とは霊性の本質であり、魂であり、先に言う「いのち」と同義である。ここがもとより人生の大きな終着駅でもある。この真我に裏打ちされてこそ、心は充実し積極的に人生を生きることが出来る。心が豊だからこそ肉体細胞も健全性が維持される。
そもそもの「いのち」とは愛し合い、認め合い、補い合う「全てのいのちの連動的状態」というもっと広くて大きなエネルギー状態を指す。
偽我の命は肉体のみの単一の生命活動だから、物質の栄養補給と排泄の代謝、入れ物である肉体諸器官の維持活動である。また機械部品のような修理交換で事足りる概念である。従って偽我の医療とは、部品の修理交換、油さしである。偽我の社会活動は金・モノ・名誉・地位が全てであって、金とGNP、肉体こそが正義である。
偽我は我ヨシ、我こそ、我のみにだから、お金が集まらない、モノが満足できないと苦悩、不安、怒りがフツと湧いてくる。偽我より表立ってはいないが「自己保存」もまた自己顕示、自己維持のワレが主体の個の思想である。これだけやったのに何故酬いない。ここまで努力したのに何故評価しない。また過度な自尊心などである。
不平不満それが高ずると、相手が悪いことになり、やがて怒りに変わり、極度には奪う行為にも走る。しかも建前で偽我をつくろう。
受け入れる余裕がないと人の特長は短所に映る。だが真我こそ、彼我(ひが=相手と自分)同胞、万物一体で、「受け入れ」と「共生」と「愛」こそ存在の基本と知っている。真我の生活からは怒りは絶対に生じない。怒りは全て偽我から出てくることを知るべしである。
この世は二つのものでできているんです。 それは真理と嘘の二つで、 真理こそが根本でその写し絵が嘘ということです。人間の中には真我(しんが)と偽我(ぎが)があるのです。しかも、永遠に不変のものがあるんです。
真理というものが。私たちが現在住んでる目の前にある山も景色も海も川もずっとあるでしょう。だから、これらもみんな真理だと思うとこれが違うんです。まあこのような屁理屈の論議はどうでもいいんですが・・・。
要するに簡単にいえば、今目に見えているものは、いつかは壊れてなくなるでしょう。だから、嘘であり陰ろうなんです。真理とは決してなくならないもの、そういったものなんです。それは決して目には見えないものなんです。
そして神様を信じるって、どういうことかというと、神様は全智全能なのです。それに向かって、人間の方から歩み寄ることなんです。それは人間は神様によって創られたのからなんです。人は神の子だ。子供が育って親になるように、
人も精進次第で神様のようになれる……その努力をすることが、 神様を信じるってことなのだと思います。一歩一歩と神様に近づくために歩み、神様と人との差を取っていく。
最後の段階で人が本当の意味で救われたといえるのは、人とを神様が一つになれた時ではないでしょうか。今日の教義というものは、ほとんど哲学化している状況であります。そんな難しい言葉やら並べ立てる必要が無いのです。
●【偽我同士のぶつかり合いをケンカという】
偽我の物質中心の生活は、早晩(そうばん=早いことと遅いこと)、モノ(者)とモノ(物)に振り回され自滅する。
2500年前から大釈迦は生・老・病・死の四苦に加えてもう4つの苦しみがあることを説いている。その4苦にさらなる4苦を合わせて八苦となる。愛別離苦(あいべつりく)とは「愛する者と別れる苦しみ」、怨憎会苦(おんぞうえく)とは「憎く嫌いな人に会う苦しみ」を言う。
求不得苦(ぐふとっく)とは「欲しい物が手に入らない苦しみ」を言い、五蘊盛苦(ごうんじょうく)の以上の四苦である。五蘊とは色・受・想・行・識から来るこだわりの苦しみ。簡単に云うと、人間の五官(眼・耳・鼻・舌・身・)で感じるものや心で感じるすべての物事にこだわりをつくる苦しみである。
偽我の物質世界では四苦八苦に翻弄される。が、誰しもが心の奥底に真我をもっている。真我、その使命の発見とその発揮が、今生に生まれた最大の理由である。
人の眼という可視光線域だけの視覚認識のとらわれ、耳に入る耳障りのよい話か中傷論で心揺れ、鼻の嗅覚による好き嫌いをもち、舌による味覚の良し悪しで自己判断し、
身にかかる重さや熱感、そしてこれら五感のセンサーによる物質世界の反応意識に振り回される。
真我の意識は、物質世界を超えた愛・調和・感謝の深い意識にあるから、仮に誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう=根拠のない嫌がらせや悪口などを言うこと)を聞いたところで「無意味な論」として平然としていられる。
偽我であれば、誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)には我慢できずに反論攻撃するか、その場で黙っていてもこころにトゲが刺さったまま持ち帰って、その苦しみの尾を引く。
ケンカは当事者同士の双方の誤解が生む。こちらの話を誤解して、白を黒と捉えた相手方。そしてこちらも相手方の世界を誤解して決め付けにかかる。片方だけの誤解なら話の次第で分かっても来ようが、双方の誤解それも物質世界に心を委ねた偽我同士のぶつかり合いだからケンカになるのは必然。
従って、怒り、ケンカ、不安、悲しみ、愚痴おおよそ不幸と名の付くものは物質世界での執着と自己保存。かさねていうが偽我同士のぶつかり合いを「ケンカ」という。
幸せとは ・喜び・感動・感謝・充実の四つを合わせることに他ならない。嬉しい楽しい、ウキウキ・ワクワクのその持続とは何か。日々の振り返り反省から偽我を消し去ることにある。
すべてを受け入れ、分離なく、いわれのない干渉(かんしょう=他人のことに立ち入って、口出しをしたり自分の考えを押しつけようとすること。)には相手方の守護霊にそっと「ご苦労様」ですと慰(なぐさ)めの祈り与えてみよう。
●此処に書かれいることは本当に分かっているのとは別のことです。 知っている内容が自分の命の糧そのものにならなければ、価値はないんです。どんなにすばらしい教えでも頭で知っているだけではだめで、それを日々の生活の中で実践し、己の血と肉にしなければだめなんです。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-38-11
『自然療法』元来、人間なる者は、神が造り給うた、森羅万象の中において、他に比ぶべき物なき最高の芸術品ともいうべきものである。
神に似せて造ったという聖書の言葉は、確かに真理である。故に、その霊妙不可思議なる構造たるや、到底科学などに依って解明せらるべきものではない、
ただ極表面又は一部分のみが漸(ようや)く科学に依って知り得た位のものであるから、科学に依って解決するには、今後、幾千年を要するか、
又は結局解決出来得ないかは断言出来ないのである。少し落着いて考えてみるがいい、人間の四肢五体の働きは勿論の事であるが、微妙なる意志想念の動き、
喜怒哀楽等の心の表現、蚤の歯で喰ってさえ痒(かゆ)くって堪らない程の神経の敏感、舌一枚で、あらゆる意志を伝え、その舌が又あらゆる飲食を味わい、
又世界の人類十八億をみても、一尺に足らない顔が尽(ことごと)く違うという不思議さ、それら諸々の事を考えただけでも、造物主の創作力に対し、
讃嘆(さんだん)せずにはおられない。
特に、生殖作用に到っては、一個の人間を創造さるる過程の神秘さは、言葉に絶するものがある。故に、ロボットのごとく、科学で造った人間でない限り、生命の神秘は、科学では解決付かない事は当り前の事である。
人あるいはいわん、恐るべき天然痘が種痘に依って解決出来たではないかと。
しかし、その事について、観世音よりの霊告に依れば、実は、何千年以前は、天然痘はなかったのである。
それが人間の罪穢に依って出来たものであって、癩病(らいびょう)、梅毒等と同じ様なもので、彼の癩病が一名天刑病と言わるるに見ても判るのである。
その罪穢の清算たる天然痘の、その清算を免れんが為の種痘であるから、本当から言えば決して良くないのである。
これが為に、人間の健康を弱らせ、寿命をいかに縮めつつあるかは、天然痘に罹るよりも、その損失は甚大なのである。
しかし、今日といえども、行を正しくなし、天則に反せざる人であったならば、種痘をしなくても決して、天然痘に罹(かか)るべきはずがないのである。
とは言うものの、そういう立派な人間は、未だ寥々(りょうりょう)たるものであるから、大光明世界実現までは、種痘も又止むを得ないであろう。
大光明世界になった暁は、今日の伝染病や重病は全く跡を絶つのであって、風邪とか下痢位が、病気として遺(のこ)るだけなのである。
次に、人間が一度病気に罹るや、それを駆逐(くちく=追い払うこと)解消すべき、人間自体の大活動が起るのである。それは、自家製造の薬が出来るのである。
人間の肉体は、元々大薬局と医学博士を兼ねた様なもので、病気という不純物が侵入するや否や、肉体内に病院を建ててる自家医学博士が即時診断、即時薬剤師に調剤させて病気治療を始めるのである。
それは素晴しい薬や器〔機〕械であって、実によく治すのである。毒な物を食えば、早速、体内薬局から下剤をかけて下痢をさせ排出するのである。
悪い黴菌が飛込めば、熱という大殺菌作用の治療法が行われ、又、物に中毒をすれば、内臓へ入れまいと外部へ押出して、皮膚に赤く斑点を現わし、痒みと熱を以て消失せしめ、又中毒によっては、
腎臓の大活動となり、水分で洗い、小便に依って排泄せしめ、塵埃(じんあい=ちりとほこり)を多量に吸えば、痰にして吐き出す等、実に巧妙を極めたものである。であるから、あらゆる病気は、自然に放置しておけば大抵は治るのである。
それを知らないから、科学で研究された薬や療法を用ゆるので、それが自然治療作用へ対して、大いに妨害になり、病気を長延(ながび)かせるのである。これを実証するには、諸君、もし病気に罹ったら極めて自然に放置せられよ。
その全快の神速なる意外の感に打たるべし。ただし、その場合、徹頭徹尾(てっとうてつび=始めから終わりまで)自然を尊ぶので、寝たければ寝、起きたければ起き、歩きたければ歩き、食べたければ喰べ、喰べたくなければ食欲の起るまでは、二日でも三日でも喰べないでいい。
熱が高ければ水枕位はいいとして、出来るだけ、手当をしないのがいいのである。こうすれば、いかなる病気も、実によく治るのである。
自然療法を推奨すると、医学は全然、必要がないかというと、そうばかりでもない。医学の中にも、全然、無益でないものもある。
それは、細菌学、衛生学の一部、戦争の際の外科、歯科医学、接骨等である。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-39-1
『霊界てき感謝』
霊界に於ては礼儀が正しく助けた霊は必ず礼に来る。また現界に於いてもそうであるが背後にいる指導霊が礼をするのである。その手段として、人の手を通じて物質で礼をする事もある。
よく思いがけない所から欲しいものが来たり、貰ったりすることがあるが、そういう意味である。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-39-2
『家相方位』
「家相方位について、大略を書いてみるが、人間には人相という事があるごとく、家にも家相があるのにはあるが・・・。一般知識として覚えてもよかろう。
人間も人相の良し悪しによって運不運に大関係のあるごとく、家相も良い悪いによって運不運に影響するのである。
家相は、易者等のいうのとは相当相違点があるが、世間一般の家相見が鬼門の方角を重要視する事は、小生も同様である。
ただ一般の解釈とが異うのである。そもそも鬼門とは、艮(うしとら)、すなわ即ち東と北との間であるが、
この方角に限ってなぜ重要であるかというと、この方角からはすこぶる清浄な霊気が流れてくる。
昔から鬼門を汚してはいけないというゆえんである。例えば便所、浴室、台所、出入口等があると、それらから発する汚濁せる霊気が、鬼門よりの霊気を汚すからで、
その結果として、病魔や禍いの原因である邪神悪霊が跳梁する事になるからである。
故に、艮から流れくる霊気は、より清浄に保たせなければならない。この意味において、もし出来う得れば艮の方角に小庭を造り、それへ雄松雌松を植え得れば理想的である。
次に裏鬼門であるが、もちろん艮の反対で、坤(ひつじさる)すなわち西南の間である。これは物質が流れ来るという福分の霊気であるから、より富貴を望む上において重要である。
それにはまず石と水を配するのがよい。例えば小さくとも池を掘り、石をあしらうというふうにするのである。
次に、入口は辰巳(たつみ)すなわち東と南の間がよい。
そうして門を入って玄関に至るまで、漸次高くなるのが最もよく、すべて家の位置は坂の中途、または坂の下、往来より低いのはあまり感心出来ないから、こういう家は長く住む事はおもしろくない。
しかし、高所といってもその附近からみて比較的高ければよいので、相当離れた所に山があっても差し支えはない。
また玄関が門から入って後戻りする位置はよくない。門から突き当たり、左右いずれか横のほうにある玄関がよい。
また玄関を入り、突き当たりが突き抜けになっているのもよくない。これは運勢が止まらず、行き過ぎる意味になる。
また奥の主人の間へ行くまでに二、三段高くなっているのは最もよい。家相を見るにあたって、磁石をおく場所が正しくなくてはならない。
しかるに多くの家相見は家を基本とし、家の中心から方位を計るが、これは非常な間違いである。
そもそも、家とは人間のための家であって、家のための人間ではない。人間が主で家は従である。
家を建てるも壊すも主人の意のままであるからである。従って家は主人が中心で、主人の安住所、すなわち寝床がそれであるから、寝床を中心に方位を計るべきである。
そうして、家の形は大体において凹みのある形はよくない、所々出っ張る個所のあるのがよい。
また鶴翼の陣といって玄関から両方へ棟が長く出る、これもよいのである。次に畳数であるが、十畳は火水又は結びの間といい主人の居間に適し、
八畳は火の間で、火は上位であるからこれも主人の居間によく、六畳と三畳は水の間であるから、妻女の居間によく、すべて畳数は偶数がよく四畳半、七畳九畳等は不可である。
故にそういう畳数の場合は、板の間を混ぜて偶数にすればよいのである。また床の間は向かって右、違棚は左が原則であるが、入口の関係上その反対でも差し支えはない。
床のない部屋なら、入口より離れたる所ほどよく、入口に接近したり、後戻りして床に面する形は最も不可である。
洋間は二階はおもしろくないから、下に造るべきである。それは、洋間は靴ばきであるから道路と同じ意味になり、上下逆になるからである。
次に方位であるが、何歳の年令は何の方角がよいなどというが、これはあまり意味がない。よく鬼門への引っ越しは悪いというが、これは反対である。
前述のごとく、鬼門は清浄な霊気に向うのであるから極めてよいのであるが、ここに問題がある。
それは鬼門に移住する場合、その人の業務や行為が正しくなければならない。
何となれば、鬼門の霊気は浄化力が強いから、邪念や不正行為のある場合、浄化が起こり苦痛が早く来るからである。
今日までの人間は、邪念や不正業務等の人が多いためそれを恐れ、鬼門を嫌う事になったのである。」いずれにしてもその人に浄化せねばならない時はどこえ引っ越ししても、浄化は行われるもので
いい場所に行こうがどうにもならないものであるのが真理である。浄化がなくなれば自然に動かされていくものでもある。
知恵袋:●神様は北へ祀るべきです(ただし玄関から見て神様を巻き込む祭り方は善くない)。北は霊で南は体ですから。北のほうの神様は霊的で日の神、天津神であり、南のほうの神様は体的で月の神、国津神です。
で、北のほうは霊気が強い、磁石が北を向くっていうのはやっぱり霊気による。北っていうのは言霊から言うと「気が足りる」ってことでね、気が満ちてる。
だから北に向かって拝むっていうことは立派に意味がある。東西でも東が霊で西が体であって、東と北の間、東北、艮(うしとら)、鬼門、これが一番いい。
世間でよく鬼門を嫌うでしょうが、あれは、いままで大いに邪神が働いていて悪いことをしてたので鬼門のほうへ越すと浄い霊気を受けてお裁きをいただくから、それで嫌っていたんのです。
ですから、正しいことをしてて間違いがなければ鬼門へ越すのなんかいいことで、なんでもない。
●鬼門(北東=東と北の間)のほうに便所がある場合は作り直すべきだが、そんな所へ住むのはその人の霊が低いからです。
作り直すことができなければ自分の霊を高くすることに努めるべきで、高くなれば自然と他のもっとよい所へ移って行けるようになるのです。
頼りないようだがこれが絶対の方法です。
●風向などは関係ない。方角は関係する。ただ艮(うしとら。北東)の方へは便所、湯殿等は作らぬ事で、これが肝腎である。
邪神とか邪霊を働かさぬようにするのは艮を汚さぬ事である。なるべく清浄な霊気の来るようすべきである。杉を植えると病人が出ぬのが本当である。木と火になる。
坤(ひつじさる。南西)には水と石をおく。家相の根本はこれである。向きは差支えない。
●平屋の住宅に二階を建て増すと、いろいろ災難が起ると申しますが、これは迷信である。一番悪いのは、子供の部屋を二階に作り、親父のは下に作る。
そうすると、子供は言うことを聞かないです。これだけは、どうしてもさけるべである。
◆区画整理などで新しい土地が墓の上とかで、骨が出る場合がございますが、本当はそういう所は家を建ててはいけないのです。
建てずに済む場合は建てない方が良いです。それから、もし、そこに霊がいた場合には、霊は人間に踏まれるという事は一番嫌うのですから、
そこだけは踏まないようにするのです。しかし、そこが神向き家なら、それは霊が救われるから良いです。
そうして、そこの家の仏壇に位牌をあげて、そうすると朝晩物をもらったりするから、そういう場所は建てても構わないです。
そういう場合の名前は、そういう骨だけの場合は、「諸霊」でも良いです。
よく方々に、「三界万霊供養」とかありますが、あれはそういう迷っている霊、決まりがつかない霊一切を救うという意味です。
以前は仏のほうにも、相当力があったからそれで良いが、今日では仏のほうは全然 力がないから、何んにもならないです。
◆色々と書きましたがなんにしても原因は自分にあるんで、自分が自分の運命を造るんです。言いかえれば運命はその人の徳によるんです。
いいことをすればいいことが多くなって運命はよくなるんです。なんのことはないんですが、ただできにくいんです。
「言うは易く行うは難し」です。しかし、いいことをやり出すと、いいことに興味が出てくるもんで、いいことをするのがおもしろくなり、悪いことをするのがバカバカしくてできなくなっちまうんです。
悪いことは癖がついてると離れ難いもんですが、神向きするとその癖が離れやすくなり、それだけいいことをしやすくなるんですよ。
それに、いいことをするようになれば神様の御守護があるからなおさらよくなるんです。といって、勿論その人にはその人だけの運命があるから、その運命だけのものはきますからね。
ただその場合、大難は小難にしていただき、小難は無難に振り替えていただけるわけなんです。
◆姓名や家相がいいだけでは、社会のため、人のために利益がないからなんにもならないです。姓名やなにかがいいからって、ぶらぶらしてたんじゃしようがないです。
本当は勿論両方とも揃えば一番いいです。どっちかって言えばまじめに働いたほうがいいです。お料理でも献立だけいくらよくったって食べないんじゃなんにもなりません。
◆植えて悪い木はない。ただ、木の種類によりこういうことがある。すなわち松、柳、銀杏の木は特殊の木である。
すなわち松、柳は龍神が憑依しやすく、松は雄龍、柳は雌龍で、財物などを集める縁起がよい。門冠の松を植えるのもそのいわれである。
銀杏はよく「化銀杏」などとも言われ、その実は人間の味がするとも言われて、実は人間霊が憑依しやすいのである。
この木はお寺や神社によくある木で、人家の庭の木ではない。その他の木にはこんなことがなく、よく果実の木を植えては不可と言われるが、うまい実がなる、
それを植えて食べることは神様の御趣旨に沿うことで、植えて悪いことがあるべきはずはないのである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-39-2
● 今世、 汝ら人々の心いよいよ神を離れいき、悪のみ盛える世なれば、神いささかの懸念ありて、ここに示しおくなり。汝ら本来聖霊聖体なりし神の分(わ)けみ魂(たま)を肉身に内蔵しあるも、
そを汚し行き過ぎて、此(これ)までは人類気まま許したるも、このままにては神策(かむはかり)成就(なりな)らせ難ければ、重大因縁のカケラを示しおかん。そは日用の糧(かて)の中に汝ら見出し得(う)るも、日用の糧を得られざるもまた罪と知りおけよ。
今は明(あ)かなに告げ申すことできぬ訳ある秘め事ある故(ゆえ)、神は罪をも許し給うも、天意はまだ今の世になければ、人々また神をも分からぬようなり果てんを神は憂れうるなり。
本来神の子霊止(ヒト)にてありしを、神より勝手に離れすぎていつしか人間となり果て、神の策(はか)りし神の国はますます遠ざかり行くならん。神の真(まこと)の名すら、知らざるべし。
神は天に在(ま)します御祖神(みおやかむ)よ。汝まず此事(このこと)、サトルこと肝要なり。それにはまず、汝自らの魂霊(たまひ)浄め大事中の大事にして、あまりにも穢れ多き身を霊削(みそ)ぎ)開陽霊(ハラヒ)すべし・・・。
尊き生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-40-1
『死後の種々相』
死にも種々あるが、脳溢血(のういっけつ)や卒中(そっちゅう)、心臓麻痺、変死等の為、突如として霊界人となる場合があるが、何も知らない世人は病気の苦痛を知らないから、
むしろ幸せであるなどというが、
これ等は非常な誤りで実はこの上ない不幸である。それは死の覚悟がない為、霊界に往っても自分は死んだとは思わず相変らず生きていると思っている。
然るに自分の肉体がないので遮二無二(しゃにむく)肉体を求める。その場合自己に繋(つな)がっている霊線を辿(たど)るのである。霊線は死後と雖も血族の繋がりがあるから、
霊はそれを伝わり人間に憑依しようとするが、憑依せんとする場合衰弱者、産後貧血せる婦人、特に小児には憑依しやすいので、多くは小児に憑依する。
これが真症小児麻痺の原因であり、又癲癇(てんかん)の原因ともなるので、小児麻痺は脳溢血の如き症状が多いのはその為であり、癲癇(てんかん)は死の刹那の症状が現れるのである。
例えば泡を吹くのは水死の霊であり、火を見て発作する火癲癇は火傷死であり、その他変死の状態そのままを現わすもので、夢遊病者(むゆうびょうしゃ)もそうであり、
精神病の原因となる事もある。 次に変死にて知りおくべき事がある。
それは他殺自殺等凡て変死者の霊は地縛の霊と称し、その死所から暫(しばら)くの間、離脱する事が出来ないのである。普通数間又は数十間以内の圏内に居るが、淋しさの余り友を呼びたがる。世間よく鉄道線路等で死者が出来た場合、
河川に投身者のあったその岸辺、縊死者のあった木の枝等よく後を引くが前述の理によるのである。地縛の霊は普通三十年間その場所から離れられない事になっているが、
遺族の供養次第によっては大いに短縮する事が出来得るから、変死者の霊には特に懇(とも)ろなる供養を施すべきである。
そうして凡ての死者特に自殺者の如きは霊界に往っても死の刹那の苦悩が持続する為大いに後悔するのである。何となれば霊界は現界の延長であるからである。
この理によって死に際し、如何なる立派な善人であっても苦痛が伴う場合霊界又は地獄に往くのである。又生前孤独の人は霊界に往っても孤独であり、
不遇(ふぐう)の人はやはり不遇であるただ特に反対の場合もある。それは如何なる事かというと、人を苦しめたり、吝嗇(けち)であったり、道に外れた事をして富豪(ふごう)となった人が霊界に往くや、
その罪に依って反対の結果になる。即ち非常な貧困者となるので大いに後悔するのである。
これに反し、現界にいる時社会の為人の為に財を費し善徳を積んだ人は霊界に往くや分限者となり、幸福者となるのである。又こういう事もある。
現界に於て表面は如何に立派な人でも、霊界に行って数ヶ月乃至一ヵ年位経るうちにその人の想念通りの面貌(めんぼう)となるのである。
何故なれば霊界は想念の世界で肉体という遮蔽物(しゃへいぶつ)がないから,醜悪(しゅうあく)なる想念は醜悪なる面貌となり、善徳ある人はその通りの面貌となるので、
これによってみても現界と異なっている事が知られるのである。
人間は如何なる苦悩にあうも、自殺は決して為(な)すべからざるものである事を知るべきである。
特に世人の意外とする処は情死である。死んで天国へ往き、蓮の台に乗り、たのしく暮らそうなどと思うが、これは大違いである。それを詳しくかいてみよう。
色慾道は無論不純なる男女関係の結果堕ち行く地獄であって、その程度によってそれぞれの差異がある。
たとえば情死のごときは男女の霊と霊とが結合して離れない。
それは来世までも離れまいという想念によるからであり、抱合心中のごときは、密着したままで離れないから不便と恥ずかしさのため大いに後悔するのである。
たまたま最近では見かけないが新聞の記事などに表れている 生まれた双児の体の一部が密着して離れないというのは情死者の再生である。
また世間で言う逆様事、すなわち親子兄弟、弟子と師匠などの不純関係の霊は、上下反対に密着するのである。一方が真直であれば一方は逆様という訳で、不便と苦痛と羞恥によって大いに後悔するのである。
これによってみても世間よく愛人同志が情死の場合、死んで天国で楽しく暮そうなどという事は思い違いもはなはだしい訳で、実に霊界は至公至平である事が分かるであろう。」
両性具有は心中者の合体再生
「中性とは」(註 中性・・・男性とも女性ともつかない性的状態。また、そのような人。)
中性というのは男と女と両方で、これは治りません。霊的です。前世に関係がある。
医者に行くと、男になりたいか女になりたいかと言われ、希望するほうを残して他を処理してしまうのです。そうするとちゃんと男なら男、女なら女になります。
これは前世で心中なんかしたのが再生した場合になるので、来世までも離れまいという想念のため、今度は離れないどころか一つになってしまうのです。」
抱合心中などは霊界へ往くや、霊と霊とが密着して離れないから不便この上なく、然(さ)も他の霊に対し醜悪(しゅうあく)を晒(さら)すので後悔する事著(いちじる)しいのである。
又普通の情死者はその際の想念と行動によって背と背が密着したり、腹と背が密着したりして凡ての自由を欠き、不便極まりないのである。又生前最も醜悪(しゅうあく)なる男女関係、
世に言う逆様事などした霊は逆さに密着し、一方が立てば一方は逆さとなるというように、不便と苦痛は想像も出来ない程である。
その他、人の師表(しひょう)に立つべき僧侶、神官、教育者等の男女の不純関係の如きは、普通人より刑罰の重いことは勿論である。このようなことぐらいは知識として覚えておいても損はないであろう。信じられないならば、霊界へ行ってから後悔するとよいでしょう。
【地獄】 修羅道
餓鬼道
色欲道
畜生道
この地獄道は現界で人々が行っていた通りの道へ行くのである。色欲道で情死したものによく抱合情死があるが、この人の罪により体が喰付き合って離れる事が出来ぬために、歩く事すら困難を感ずる様な事になる。
霊界に行って楽に暮せるものと思うと大変な違いで、霊界で反って苦しまねばならんのである。特に主人の妻と姦通しての情死などした時は、一人は立ち一人は逆に体が喰付き歩く事すら出来ぬ事になる。
又死んだら苦痛はなくなると思うと間違いで、これは霊界は現界の延長であるからである。病苦が霊にそのまま続くのである。
三原山で死んだのは焦熱地獄へ行くのであるが、これは焼死ぬからである。その焼死ぬ時そのままの状態が続くからなのである。
自殺は皆地獄行きである。水死は極寒地獄である。これは水に漬り通しであるからである。お産で死んだのは血の池地獄である。
病死すれば病気は無くなると思うと大違いである。決して治ってはいない。むしろ苦痛が酷くなっている。それはなぜかと言うと霊は感じが強いから、それだけ痛み苦しみが強いのである。
餓鬼道には供養されない霊が行くのである。又強欲非道の霊もこの道である。これは強欲の為に人を苦しめ悩ますからである。
供養の事については、色々の霊は喰うのであるが、本当の神様は食物は召上がらんで、反って神饌(しんせん)物に霊気を入れて下さる。
大神様は森羅万象皆自分のものであるから人の上げるものなぞ召上らんでも良いのである。召し上りたければ何んでも召し上がれる。それも決して盗み喰いするのではない。
これに反し餓鬼は店に並べてある食物等やたらに喰う。この為に店に列べてあるものは不味(まず)くなるのである。
今までの神様は人間の上げるものを食するだけの神様であったのであると言う事がよく判るのである。
畜生道へ落ちる霊は餓鬼道の霊が犬猫の食物を喰っているのを横から取って食べる様なのがあるが、それが獣と霊がくるみ合って終い、畜生道に落ちるのである。
犬や猫の中によく人間の用をするのがあるが、これらの霊が生れ更って来たもので人の用をして罪を赦されて次には人間に生れ更るのである。
その霊は人間に祀られるから自然それと同様に霊がくるみ合っている為、同様に祀られてこの次に生れる時人間に生れてくるのであってこれを転生という。
人が人に生れることを再生と言い、天から下るを降誕と云う。高貴の人の生れるのを生誕と言い、普通の人の生れるのを誕生と言う。又出生ともいう。
神様等のお生れを降誕と言うているのは良く判る。地獄で一番長く苦しんでいる霊は六千年であって、それからは最底の地獄の霊でも許されるのである。底の国とは海底である。
又死ぬ時に想念で一人々々が余程違うのである。生の執着の多少にて非常に違う。早く死んで極楽に行きたいと思って死ぬ人は早く生れ変ってこない。
なぜならば、自分の思った所へ行けた為、再び人として生れ変って来よう等と思わないからである。これに反して生の執着の強い人は早く生れ変ってくる。
脳溢血等にて急に死んだ人は特に供養しなければならん。生の執着の為に身寄りに懸って病気をさしたり等するのはこの様な霊に多い。
又親が赤坊の死を嘆くとこの為に早く生れ変って来るのが多いが、余り早く生れ変って来た児は良くない。
これは未だ赤坊の霊が浄化していないからである。この赤坊が浄化して後ならば立派な児に生れ代って来る。」
修羅道は、俗に修羅を燃やすという苦悩で例えば闘争に負け、復讐しようとして焦慮したり、自己の欲望が満足を得られないために煩悶したりする心中の苦しみが生前からあったまま持続し、修羅道界に陥るのである。
これらは現界でも霊界でも信仰によって割合早く救われるものである。
色欲道は読んで字のごとく色欲の餓鬼となったもので、男子にあっては多くの婦人を玩弄物視し、貞操を蹂躙する事を何とも思わず、多数の婦人を不幸に陥れた罪によって陥るのである。
このため地獄においては生前騙され、酷い目に遇った女性群が責めたてる。その苦痛は恐ろしく、いかなる者といえども悔悟せざるを得ないのである。
そうしてこの苦痛たるや、生前罪を造っただけの女の数と、その罪の量とを償うのであるから容易ではないのである。
これによってみても世の男子たるもの、自己の享楽のため女性を不幸に陥らしむるごとき行為は大に慎しまなければならないのである。
右に述べたごとき罪は男子に多い事はもちろんであるが、稀には女性にもあるので、自己の享楽または欲望のため貞操を売ったり、姦通をしたり、男性を悩ましたりする事を平気で行なう女性があるが、これらももちろん色欲道に堕ち苦しむのである。最近は非常に多い。
焦熱地獄は放火をしたり、不注意のため大火災を起こし、多くの人命財産を犠牲に供する等の罪によって落ちる地獄である。
蛇地獄は無数の蛇が集って来るので、その苦痛たるや名状すべからざるものがある。この罪は自己の利欲のため、多くの人間に被害を与える。
例えば大会社の社長、銀行の頭取等が自己利欲のため不正を行い、多数者に損害を与えたり、政治家が悪政によって人民を塗炭の苦しみに陥したりする怨みや、戦争を起こした張本人に対する犠牲者の怨み等々が蛇となり復讐をするのである。
●人霊が蛇霊となる際は、足部から漸次(ぜんじ=しだいに・だんだん)上方へ向かって抜けていく場合は、相当の年月を経て霊界にて蛇霊化するものであるという。
蟻地獄は殺生の罪であって、例えば虫、鳥、小獣等を理由なきに殺生する。それが蟻となって苦しめるのである。それについてこういう話がある。
その目撃者から聞いた事であるがある時木の上に蛇が巻き着いていた。見ていると数羽の雀が来て、その蛇を突っつき始めた。遂に蛇は木から落下して死んでしまった。
そのままにしておいたところ数日を経て、蛇の全身が無数の蟻になったのである。その蟻が群をなして幹を這い上り、その巣の中のまだ飛べない何羽かの雀の子を襲撃した。
もちろん雀の子は全部死んだのであるが、実に蛇の執念の恐ろしさを知ったと語った事がある。
蜂室地獄は無数の蜂に刺される苦しみ。人間一人入れる位の小屋に入れられ、その中に何百という蜂群が、全身所嫌わず襲撃するのだそうである。
この罪は芸者として多くの男子を悩まし、大勢の妻君が霊界に入ってから嫉妬のため蜂となって復讐したのである。
霊がひどい地獄に落ちた場合、地獄の釜に入れられるというが、それは形容です。本当の釜の中に入れられるわけじゃありません。お盆には地獄の釜のふたが開くなんて言いますがね。
これはなんでしょうね、地獄の中でもごくひどい所のことを指すんでつまり密閉されてるような格好になるんでしょう。
釜ってのも、ふたをされてるようなっていう形容でしょうね。だから、字にとらわれないで、ただ地獄のことだと思えばよい。」
「獣の世界は畜生道で地獄の世界である。人間が堕落すれば畜生になる。畜生界と人間界は異うが関係はある。
鳥は異う。普通の鳥は天狗界で、孔雀、鳳凰、鶯等特殊の鳥は天国へ行く。」
次に地獄界は伝説にあるごとく、獄卒として赤鬼青鬼がおり、トゲトゲの付いた鉄の棒を持って、規則に違反したり反抗したりする霊を殴るのであるが、これは肉体の時打たれるより痛いそうである、
何となれば肉体は皮膚や肉によって神経が包まれておるからで霊ばかりとなると直接神経に当たるからで実に堪らないそうである。
そうして地獄の幾多の霊がよく言う事に、何程苦痛であっても自殺する事が出来ないので困るそうである。
なる程自分達は既に死んでいる以上、この上死にようがないからである。この点霊界は厄介な訳である。また地獄界を亡者が往来する場合火の車に乗るのだそうである。
地獄界の霊は自身の苦行または子孫の供養によって漸次向上するのであるから、子孫たるもの供養を怠ってはならないのである。
ある霊を救い鎮祭してやると、その霊いわく。「今日御礼と御願いに参りました。御蔭で極楽へ救われ嬉しくてなりません。私の嬉しい気持はよくお判りでしょう」という。
なる程その霊が憑依するや、私は何とも言えない嬉しさが込み上げて来る感じである。
次いで霊の御願というのは、「どうか再び人間に生れて来ないように神様に御願して頂きたい」と言うので、不思議な事を言うものかと思いその理由を質ねると、
「極楽は生活の心配がなく実に歓喜の世界であるに反し、娑婆は稼いでも稼いでも思うように食う事さえ出来ずコリゴリしたこと言うのである。
これによってみると、霊界行も満更悪いものではないらしく、死ぬのも楽しみという事になるが、
それには生きている中に善根を積み天国行の資格を作っておかなければならないという訳である。
大部分の人間は地獄に行く
人間が一度現世を去って、死の関門を通過するには、肉体という衣を脱ぎ棄てるのである。
人間の肉体は現界に属し、霊体は霊界に属しているものであるから、肉体が病気又は老齢の為に、頽廃(たいはい)して使用に耐えない以上、精霊はその不用化した物質である肉体を捨てて霊界に往くのである。
そうして霊界において再び現世に出生する準備をしなければならない事になっている。その準備とは浄霊作用である。
しかるに大部分の人間は、生存中における罪の行為による穢が相当に多いので、霊界においての厳正公平なる審判に遇って、大方は地獄界に堕ちて行くのである。
●夫婦、親子でも、霊層界が違えば、あの世へ行けば別々になる。しかし同じ位なら、同じような所へ行く。霊界では、神様のお許しを得て一緒に遇えるが、そうでないとなかなか遇えぬ。
身魂の階級で違ってくる。仏壇内の御夫婦の位牌は、一緒であるが、片方が地獄に落ちていると仏壇までも来られず、お盆のとき顔を合わせることしかでき得ないものもあるという。
再婚せず、一人でいる場合は、結婚していてもいなくても霊線が繋がっている。一方が愛し、一方が嫌がっている場合は半分位、両方嫌っていればごく細く霊線は繋がっており、
両方が愛し合っている場合は夫婦関係、極めて太くなっている。再婚すると、切れたと同様、細くなる。再婚する位だから死者に対し、執着はない訳であるから、霊線は切れたも同様であり、新配偶者との太い霊線が出来る。
霊界では八衢(やちまた=下層階)以下では結婚できない。天国(中有界以上は)ではできる。非常に愛し合った同士が天国へ行けば、天国で結婚できる。
もちろん、天国で結婚するのも全然 因縁がなくては出来ない、霊界でも生殖作用が行われるが現界と余程違う。想念の世界であるから・・・。
また、生まれる前から結ばれている場合もあり、一旦切れてから、また結びつく場合もあるという。
●この世で夫婦でも霊界ではたいてい別々な所へ行ってしまう。会いたいとて、会えない。修行が出来ると神様の許しを受けて会いに行けます。
ある階級の者は夫婦生活ができる。だから、現界で一生懸命、人助けして修行しておけばできる。死んでから、一緒になると言いますが、心中なんかしたら体がくっついてて離れない。
やがて許されて、別々な所へ行ってしまいます。この修行とは執着をとることです。たとえ、神の許しを頂いて会えたところで、キス1つできないのです。
キスなんかしようとすれば体が硬直してしまう。これは執着があるからです。霊界というところは、位により場所が違う所でもあるのだという。
●霊界では年とったり若くなったりするし、そうしないのもある。それはその人の希望による。男が死んで、霊界へ行って女になったりする。
大抵は男に生まれたり、男が女に生れたりする。前の世に女に生まれた人は毛はない。ズーッと男ばかりに生まれるのはない。同性愛などはそうで、一方が男霊、一方が女霊である。
●死後の霊的関係はあるともないともいえる。想い合うのは霊線によって交流するので、一方が死んでからは早く忘れる方がよい。いつまでも執着するとそれで引張られる。
悲しいとか慕はしいというのは百ケ日位まではよいが、それを過ぎればなるべく忘れる。一ケ年位経つと全く忘れた方がよい。霊にとってはよい。
再婚の場合、死んで一年以内はいけない。一年経てばいい。霊界の規則としてはよい。故に霊の障りがあるとしても大した事ない。
霊的関係は執着に因るのであるから、執着を早く除る方がよい。夫婦でも五十日、百日、一ケ年位思い出す程度でいい。よく霊が言う事だが、自分は引張られていていい所へ行けない」と。
つまり、生きてる人が執着で引張っている。だから出来るだけ忘れた方がよい。執着があるから、かけるのは喜ぶが、あまり執着して行く所へ行けぬのも困る。
写真に憑って拝んでもらいたいというのがある。写真は死んでから一年位かけぬ方がよく、一ケ年以後かけた方がよい。
『複数のつむじについて』
○「曲ったり二つある人がよくある。人間が生れる場合、滅多にないが二人が一人に生れる事がある。この時は二つつむじの場合がある。
非常に仲がよいとか、親子で、特に親しい男女関係で、非常に親しい、一つになりたいと思う時(双方の希望で)一つになる。」
■人間は肉体的に五感を持っておりますが、死んでからでの五感は肉体のある時と異う。肉体という障害物がない。
人間は肉体的に感ずる。例えば大阪まで行くのに四時間位かかるが、霊だと三分か五分で行く。
高級になると一分ないし何秒である。神様になると一瞬である。霊は浄化される程軽くなる。意志想念のままになる。五感からいうと大体同じである。
地獄の霊などブタれる時の痛さを嘆く。(神経だけのようなものだから、肉体のある時より何層倍も痛い。死のうと思っても死にようがない。
着物を着る時も、娑婆時代に着た物を想念のまま着る)
■賽(さい)の河原について⇒「賽の河原は仏界にあって子供の地獄で、子供が石を積むとくずされ積んではくずされると言われている。」
「本当の子供の地獄界では賽の河原というのがある。地獄の一番上等で、八衢の最上層部にある子供の地獄である。」
賽河原は子供の地獄、地蔵尊は阿弥陀の化身で、教の時は法蔵、地面の上で救う時は地蔵となる。
最後にもう一つ付け加えるのならば、いくら心理学を学ぼうとも哲学を学ぼうとも、霊の世界を説かなければ何も変わるものでもない。心の真理を説いても根元を説かなくては表面だけを綺麗にしょうとも意味がないのである。
経済学も同様である。全て霊的に見て判断して行かねばこれから先は混沌とした世界になっていくであろう。またその為には霊を理解したならば闘霊精神が必要になっても来るものでもある。
精神力が養わないと、浄まった霊は強くならない。霊(霊行)を浄めては訓練する。そして精神力を強め体力(体行)を付ける事が大切です。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-40-2
仏教においては死ぬ事を往生というが、これは霊界からみれば生まれ往く訳だからである。また死ぬ前を生前といい神道にては帰幽といい転帰というのも同様の理である。
そうして、霊界人となるや昔から言われている通り、まず三途の川を渡り閻魔の庁に行くのであるが、これは事実であって多数の霊から聞いたそれは一致している。
閻魔の庁とは現界における法廷と同じである。しかも三途の川を渡り終るや屍衣(しい)の色が変化する。すなわち罪穢の最も少なきものは白、次は各薄色、青、黄、赤、黒というように、
罪穢の軽重に従い右のごとき色彩となるのである。ただ紫だけは神衣としてある。
閻魔の庁においては祓戸(はらいど)の神が主任となり、各冥官が審問に当たり、それぞれ相応の賞罰を決めるのであるが、その際極善人は天国または極楽に、
極悪人は地獄へ堕つるのであって、普通人は中有界(ちゅうゆうかい)、神道にては八衢(やちまた)、仏教にては六道の辻と称する所に行くのであるが、
大多数はこの中有界に行き、ここで修行するのである。
修行を受ける第一は教誨師(きょうかいし)の講話を聞く(この辺のところは限界にもよく似ている。真に移し世であることがわかる。話を聞こうともしないのは良く似ているし結構な時間んが掛かるものである。)ので、それによって改心の出来たものは天国へ行き、しからざるものは地獄行きとなるのである。
右の修養期間は、大体三十年を限度とし行き先が決まるのである。教誨師は各宗教の教師が当たる事になっている。
ここで霊界の構成についてかくが、霊界は上中下の三段階になっている。その一段はまた三段に分けられ合計九段階である。
すなわち上段が天国、中段が中有界、下段が地獄となっており、現界は中有界に相当する故に、仏語の六道辻とは極楽の三道、地獄の三道へ行く訳で、
神道の八衢とは右のほかに、上は最高天国、下は根底の国が加わるのである。そうして天国と地獄の様相を端的に説明すれば、最高天国に昇る程光と熱が強烈になり、
ほとんど裸体同様の生活であって、昔から絵画彫刻に見るごとく至尊仏は裸体である。これに反し最低地獄に落つる程光と熱が稀薄となり、極最低は暗黒、無明、
凍結状態である。故にこの苦しみにあうや、いかに極悪非道の霊といえども改心せざるを得ないのである。
以上はごく大体の説明であるが、現代人が見たら荒唐無稽(こうとうむけい=根拠がなくでたらめなこと)の説と思うかも知れないが、二十数年にわたり多数の霊から霊媒を通じ、または他のあらゆる方法によって調査研究し、
多数の一致した点をとって得たところの解説であるから、読者におかれても相当の信頼をもって読まれん事を望むのである。【茂吉大先生の実践と経験によるものである】
彼の釈尊の地獄極楽説も、ダンテの神曲も決して作為的のものではない事を、小生は信ずるのである。右のごとく、上中下三段階へ往く霊に対し、死人の面貌を見ればおよそ判るのである。
すなわち、なんら苦悶の相がなく鮮花色を呈しさながら生けるがごときは天国行きであり、陰欝(いんうつ)なる淋しき面貌をし蒼白色(そうはくしょく=あおじろいこと)、黄青色(きあおしょく)、つまり一般死人の状態は中有界行きであり、
苦悶の相著しく、暗黒色または青黒色を呈するものは、もちろん地獄行きである。面白い話があるが死体の額に霊的光力を加えるとピンク色になる。何度も経験している。
勿論その時には、神より授かった神向き讃詞(さんじ)及び神歌(弔霊)を拝誦してたむけさせて上げるのだが・・・。以上は、霊界における基礎的知識を得るためのものである。
大豆知識;●神は何千年に渉って天国的文化を形成する目的の下に、経と緯の経綸をされて来たのであるが、其経の経綸の代表的宗教としては仏教であり、緯の代表的宗教としてはキリスト教であった。
緯の経綸こそ物質文化の進歩発展の基本であって、即ち科学である。今日驚くべき文化の発展は全くキリスト教以来の世界的経綸である事は言う迄もないが、茲に於てキリストは何故生れたかという事や其他の点に就て次に詳しくかいてみよう。
まずは仏教の真髄は霊が主であり、キリスト教のそれは体が主である事である。とすれば今之を仮に善と悪とに別けてみると、霊は善に属し体は悪に属するといってもいいが、併し此場合の善悪は決定的のものではなく只強いて別けるとすればそうなるのである。
換言すれば霊を主とすれば霊主体従となり、体を主とすれば体主霊従となるからである。今それらに就て順次解説してみるが、善と悪とに就て徹底的に解釈をするとなると之は仲々難しい問題であって、今日迄此問題を真に説き得た者は殆んどないといってもいい位である。
何となれば此事は大宇宙の主宰者である主の神の権限に属するからで、即ち哲学的に言えば宇宙意思である。従って主の神以外の凡(あら)ゆる神でも分り得ないのは当然で況(きょう)や人間に於(おい)てをやである。若し此問題を説く人があるとすればそれは人智から生れた想像の範囲内であって、それ以外一歩も出ないのである。
処がそれを茲(ここ)に解説しようとするのであるから、仲々大変ではあるが、といって想像的所産ではなく神示によるものであるから別段困難はないのであるというのは、時期来って地上天国建設の大任(茂吉大先生)を負わされたのは、或程度主神の真意が感得(かんとく=感じ取ること)されるからで、読者は此点よく心に止めて読んで貰いたいのである。
そうして今茲に説明する処の理論は常に説く処の大乗よりも一層大乗ともいうべきもので、勿論前人未踏の説であって、文字や言葉での表現は寔(まこと)に困難である。従って角現代人の頭脳で解し得る程度と共に神から許されたる枠内だけの事を説くのである。
抑々、主神の御目的なるものは、之も常に曰う如く真善美完き理想世界を造るにあるから、其御目的に必要程度に迄物質文化を進歩発達させればいいのであって、それが今日迄の世界の歴史であると思えばいい。其意味を以て現在の文化形態を審(つぶ)さに検討する時、最早時期の来ている事に気附くであろう。
以上の如く物質文化が此程度に迄進歩発達したに就ての古代からの課程を凝視する時、其処に何を見出すであろう。といっても人間の頭脳での発見は困難であるが、今それを解説しようと思うのである。それは世界の一切は真意による経綸である事を充分知らせたいからである。
そこで先づ人類の最大苦悩である処の善と悪との摩擦即ち闘争であるが、此闘争なるものの原因は言う迄もなく悪であるから、愛の権化ともいうべき神は何故悪を造られたかという事である。此事は昔から何人も知ろうとして知り得なかった謎であったが、それを今ここに解こうとするのである。
それに就ては先づ心を潜めて歴史とそうして文化の進歩の跡を顧り視る事である。としたら其処に何を発見するであろうか?それは意外にも人類の闘争によって如何に文化の進歩を促進したかという事である。若しも人類が最初から闘争を好まず平和を愛していたとしたら、物質文化が仮令生れたとしても、
其発達は遅々たるもので到底今日見る如き目覚しい発達は遂げ得られなかったに違いない。此事をよく考えてみたら悪なるものが如何に必要であったかが分るであろう。処で茲に問題がある。それは此善悪の摩擦が文化の進歩に必要であったとしても、悪は無限に許されるものではない。
いつかは停止される運命が来るに決まっている事であって、今日其時が来たのである。何となれば、現在の文化形態を見ればよく肯ける。即ち戦争手段として驚くべき武器の進歩である。言う迄もなく彼の原子破壊の発見であって此発見こそ人類の破局的運命を示唆しているもので、
最早戦争不可能の時期の来た事の表われでなくて何であろう。之によってみても闘争の根本である悪なるものの終焉は、最早寸前に迫っている事に気付かなければならない。勿論常に唱える昼夜の転換の如実の現われでもある。之を歴史的に見てもよく分る。
若し悪を無制限に許されたとしたら、社会はどうなったであろう。人間は安心して業務に従事し、平和な生活を営む事は出来ないで、遂には魔の世界となって了い、一切は崩壊するに決まっている。としたら或時期迄の統制も調節も必要となるので、其役目として生れたものが宗教であり、
その主役を荷った者が彼のキリストである。崇教の教義の根本が人類愛であるのもよくそれを物語っている。それによって兎も角白色民族の社会が魔の世界とならずに今日見る如き素晴らしい発展を遂げたのも、全くキリスト的愛の賜物でなくて何であろう。以上によってキリスト教発生の根本義が分ったであろう。
そうして今一つ忘れてならない事は無神論と有神論である。之も実をいえば経綸上の深い意味のある事であって、それは若しも人類が最初から有神論のみであったとしたら、悪は発生せず闘争も起らないからそれに満足し立派な平和郷となり、よしんば唯物科学が生れたとしても発展性はないから到底地上天国の要素たる文化的準備は出来なかったに違いない。
処が無神的思想が蔓(つる)った結果、形のみを主とする以上、今日見るが如き絢爛( けんらん=華やかで美しいさま。きらびやかなさま)たる物質文化が完成したのであるから、全く深遠微妙なる神の意図でなくて何であろう。然し表面だけしか見えない唯物主義者などは、それからの真意を汲みとる事は到底出来まいが、右の如く愈々(いよいよ)悪の発生源である無神論は、最早有害無用の存在となったのである。
としたら世の多くの無神論者よ一日も早く覚醒(かくせい=目を覚ますこと)されるべきで、若(も)し相変らず今迄通りの謬論(びゅうろん=誤った議論)を棄(す)て切れないとすれば、気の毒乍(どくなが)ら滅亡の運命は君等を待ち構えているのである。何となれば善悪切替の時機は決定的に接近しており、其場合神業の妨害者は絶対力によって生存を拒否されるからである。
そうして神は無神論者を救う手段として採(と)られたのが、神の実在を認識させる事であって、其方法こそ霊的光力である。霊的光力の救いを求めに来る数多くの重難病患者などが、忽ち全快の恩恵に浴して此世に神は確かに存在する事を知って翻然と目覚め今迄の無神論の誤りを悔い忽ちにして有神論に転向するのは百人が百人皆そうである。
何よりも此実例はお蔭話として数え切れない程で、一点の疑いを差挿み得ないであろう。以上の如く今日迄は悪なるものも大いに必要であった事と、今日以後は二義的存在として制約される事が分ったであろうが、之に就て別の例を挙げてみようと思う。それは原始時代に於ける彼のマンモスや恐竜の如き巨大動物である。
それは今世界の各地に時折発見される骨であるが、之によってみても実在したものであったに違いない。其他にも大蜥蜴やそれに類した奇怪な動物が旺んに横行していた事は想像に難からないが、今は影も見えないという事は全く自然淘汰による為であろう。其理由は不必要となったからであるのは言う迄もない。
必要というのは、何しろ地球が形成され相当期間地殻が脆弱であった為、それを踏み固めしむるべく多くの巨大動物を作り其役に当たらせたのであって、大方固まったので淘汰された事と、自然硬化作用と相俟って、漸く立派な土壌となったので、神は植物の種子を造り蒔いた処、漸次植物は地上に繁茂し、生物の生活条件が完備したので、
茲に人間始め凡ゆる生物を造られたのである。併し乍ら最初の内は至る処、猛獣毒蛇等々が棲息し、人間を悩ました事であろう。そこで其時の原始人は之等動物との戦闘こそ生活の大部分であったであろう。之等動物の幾種かは、時々発見される骨や其他部分品等によっても大体は想像がつくのである。勿論之等大部分の動物も自然淘汰されたものであろう。
それらに就て想われる事は日本に於てさえ彼の日本武尊が其毒気に中てられ生命を失ったという説にみても、それ程獰猛な奴が到る処に棲んでおり、人畜に被害を与えたに違いあるまい。処が其様な有害無益の生物も歳を経るに従い消滅又は減少しつつあるのである。従而最早今日では人畜に危険を及ぼすような動物も、
種類によっては殆んど死滅したものも尠くないようである。此様な訳で遂には動物といえば家畜動物のみとなろう事も想像されるのである。
以上説いた如く文化の進むに従って、必要であったものも不必要となり自然淘汰されるとしたら、最後に至って人間と雖(いえど)も自然の法則から免れる事は出来ないのは勿論である。としたら人間に対するそれは何かというと、勿論人間に内在する悪である。曩(さき)に述べた如く今後の時代は悪は有害無益の存在となる以上、
悪人は淘汰されて了うのは当然な帰結である。之を一言にしていえば進化の道程として動物と同様の人類が進化し半人半獣であった人間が即ち外表は人間、内容は獣であった。其獣性を除去して全人間にするのが、今や来らんとする神意の発動であって、それに服従出来ない者が自然淘汰によって滅亡の運命となるのである。
以上の如く善悪の人間が清算され、善の人間が大多数となった世界こそ、地上天国の実相である。右によっても分る如く、滅亡の一歩手前に迄来ている悪人を悔改めしめ、犠牲者を少なくする其救いこそ、神の大愛である事を知らせるのが大神命なのである。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-40-3
『神を頭で考えてもわかなぬ、素直な霊眼で見よ、汚れた眼では見えないもの、神の存在は奥の奥のさらに奥の奥に中にあるもの、ただひたすら感じるものなり』
●神様は人間の目で見ることはできません。それは、神様が霊的存在だからです。人間の目では、霊を見ることはできないのです。しかし、目に見えないからといって、
ないと断定できまないのです。力というものを考えてみてください。力とはそれを引く人の力が加わるからでしょう。 とすると力というものは確実にありますよね。
加わった力は前に進もうとしますよね。でも、力というものは目に見えますか? 見えないでしょう。だから、目に見えないからといって、ないとは断定できないんです。
それゆえに神様のことを、『在りて有るもの』というふうにいいます。確かに実在し、ピチピチと生きておられる御存在なのです。しかし、目では絶対に見えません。
そこでどうすれば神様の足もとの踝(くるぶし)だけでも見せて頂けるのか、ということになります。お互いの人間を見ればいいんです。人は神様が全智全能を振り絞られ、
ご自分のお姿に似せて創られたのです。だから、人はすべて神の子であると言っているのです。でですから、お互いが神の子であり、神さまの分(わ)けみ魂(たま)である霊魂が入っているのです。
つまり、そのお互いの霊魂に、 神様をわずかながらでも見いだせるはずです。 だから、人はお互いに拝(おろが)み合うこと、尊敬し合うことが大切で、
他人を拝(おろが)めばすなわち神様を拝することになるんです。どんな人も皆同じ貴さの神の子なんです。そうなると、お互い他人の悪口を言ったり、他人を傷つけたりするのは大変なことでしょう。
例えば、他人の悪口を言ったとすると、その相手の魂をお創りなったのも神様ですから、創り主であらせられる神様の悪口言ってることになるのではありませんか。
だから、神様に近づきたいと思う人は、まわりの人々に奉仕することが大事です。いいですか、自分の家族だけじゃだめです。家族ではないもの、通りすがりのもの、
または自分に攻撃を加えようとしていたり、自分を嫌っているような人に対してでも、神様が私たちお創りくださり育み生かして下さっている愛、その与えられている愛と同じ愛を今度は私たちが他人(ひと)様に与えていくんです。
不平不満でむさぼる心は地獄です。与えるということは足りることを知ることで、そこには自ずから感謝の想念が生じ、心は調和で満たされ、神様と波調を合わせることができるでしょう。
要するに、神様と波調を合わせるとは、 神様の愛のみ意(こころ)と同じ心になってしまうということなんです。
●偶像崇拝しても、決して神様には通じません。神様と波調を合わせるには心を静かに落ち着かせ、調和を保たなければだめなんです。
人間同士のお互いの尊敬は必要ですけど、人間を神様のように拝むのは間違いです。人間を崇拝しちゃだめです。崇拝すべきは目に見えない天の神様だけです。
●確かにこの様な説法は偉大な叡智に心は満たされるが、しかし要は、その話の内容と自分の実際の行動とが一致しているかどうかだ。話の内容を自分の血とし肉としなければ、
いくら学んできたことを人々に受け売りしても波動は伝わらない。自己対する訓示である。
●今の世は人間を簡単に殺したり、傷つけたりしているが、神様が必要とされてお創りになっておられる人間を、またそれぞれの役目があるはずの人間をいとも簡単に殺してしまう。
百獣の王といわれるライオンでさえお腹がいっぱいのときには、すぐ目の前をウサギが跳ねていても決して殺したりはしないはずです。意味もなく生き物を殺し、
また同種である人間同士で殺し合うなどというのはライオンなどの獣以下の所業なのである。また集団でする行為(殺人)は動物の集団であり動物以下の集団なのです。
その様なところでは何一つ見出すことはできないでしょう。
●神様とは、天地に普遍に実在する神様です。どこそこの寺院にだけ祀られているというような神様ではありません。神様はおひと方でも、人々が神様を見る見方は一様ではありませんが。
神様は智・情・意そのものですし、また愛そのものでもあります。その神様もいろんな国のいろんな民族はいろんな見方をして、神様のひとかけらを全部と思い込んで、
人間の頭で勝手にそれぞれの民族でそれぞれの神様の名前を称(とな)えているのです。例えばねエジプトではラー、ペルシャではアウラマツダと呼び、ギリシャではゼウス、そしてユダヤ(イスラエル)ではヤハエ(アドナイ)と称しています。
これは名前が違うだけで、みんな御一体の神様です。つまり天地創造の大元の親神様はおひと方で、各民族でその一部をとらえて勝手にいろんなお名前でお呼びしているにすぎないんです。その大元の神様はすべての生き物の繁栄のために、
それら一切を統一運営なさる大源力で、人と万霊の共通の主(ぬし)なんです。天地の創造から、霊智(ミチ)の本源で、宇宙の意志となり、光となり、絶対力となってこの世を照らす主(ぬし)なんです。
そして人々は神様を自分たちとかけ離れた存在と勝手に決めつけてしまって、それに人と神様との仲介役をさせてます。でも本来の神と人との一体感、つまり神人一体が強く自覚できたなら、仲介役はいらないはずです。
人が誰しも直接に祈り、手を組むことができるそういった神様こそ、本当の神様ではないでしょうか。
●光を求めるものは光が来るのを待っているのではなく、 自分の足で光に向かって歩いていかなければだめなのです。待っていたのでは何も見つかりません。
●身分云々(うんぬん)にこだわる人間は、ここに書かれている事は理解はできないでしょう。神様からご覧になれば、人間が人知で勝手に作った律法やらなどには何の価値もないのです。
どんな高価な物やお金であったとしても、真理はお金で買えるものではありません。
●元来神様の普遍の道というのは聞いてしまえば当たり前のことで、その当たり前のことが分からなくなっていてそれを模索しているのが今の世の中。つまりは、宇宙の根本の法則について、書き綴っているのです。
●神様はどこにでも存在される普遍の愛です。神の国というのはどこか別のところにあって肉の目に見えるものではなく、目には見えませんけど私たちの住むこの世と表裏一体なのです。
要は、その神の国をはっきり認識できるかどうかじゃないでしょう。神の国はこの世と一体であっても、物質の世界ではなく霊の世界なんです。では、認識さえすれば、その国の門に入れる訳です。
でもその門は低くて狭いですよ。頭を垂れて、己を低くしないと入れないし、またはこの世のもの、この肉体でさえ持っては入れないでしょう。偽りの我を捨てて真我を自覚し、浄まった魂だけが入る門でしょう、きっと。
今日の状態では無理だとしても、本人の自覚と努力次第ではその門を入れない人は一人もいないんじゃないかと思います。ただ、入れるのに入ろうとしないだけじゃあないかと思います。
要は心の持ちようと、魂の状態です。そうすれば、生きながらにしてここは天国になるんです。神様は決して天国と地獄などというふうに、分けて造られたりはしていません。
『地獄というのは』『人間の悪想念(自分自身が創ってしまう世界=いかに醜い魂であったか)、つまり悪い心が集まる世界、所謂悪い心でも部類が色々ある世界い』が集まって勝手にそのような世界を作ってしまったんです。だから、心の持ちようで生きながらこの場が天国である人だけ死んでからも極楽に入り、
地獄の生活を送っていれば死んでからもやはり地獄行きです。何度も言いますが、神様は人間を懲らしめるために地獄を造られたんじゃないんです。たとえ貧しくても生きることが幸せに感じられ、
働くことに喜びを見出し、愛の中で生活をしていれば、今の暮らしのままで天国です。あの世に天国を求めないで、今のこの地上を天国にしてしまうことが大切です。
この世で苦しんで死んでから天国へ行くことだけを目的として生まれてくるなら、人は初めから生まれてこなければいい。生まれて来たからには、死んでからというよりこの世で何か目的があるはずです。
最後になぜ地上に天国を創りたもうと神は考えようとしたのか。所謂神霊界みたいな世界をこの物質界に顕現したいと思い、神には出来ない物づくりやら、芸術やらと・・・それをご覧になりたい一心で
この世を創り、また神霊界みたいな天国を地上にも顕現したいと考えたのです。神様は人間みたいに手で物を創ったりすることは出来ないのです。ただ意力の世界ですから細かい事は出来ないのです。
例えば山を出現したいと思えば意力(いりき)で出来るし、地球を創ろうとすれば意力で出来ることになりますが、ただそこに何を創ろうかと考えたならば色々苦心が必要になって来ますから
時間が掛かるわけです。そのようなことで地球が出来てきて人間の雛型を創り現在に至っているわけです。後の細かい事は前後を良く読んで熟読してください。ですから生きながらにして天国は地上界なのです。
神の世界には不平不満がないのです。神々において遣るべく事を忠実にこなしていき、日々歓喜の世界なのです。地上界みたいにやれ大変だとか、自分の方が上だとか下だとか、儲かったとか儲からなかったとか、
お前が悪いとかあなたが悪いとか、色々不平不満だらけですが、神の世界は与えられたことに感謝をして、たとえそれが大変なことでもあいつは楽をしているなんて考えることはないんです。また損得勘定はないのです。寛大なのです。
自分の出来る限りの力を出している世界なのです。そして「心の歓び」こそが報酬なのです。ですから神の世界は上もなければ下もないのです。皆それぞれが尊重し合っている世界なのだと聞かされております。もちろん地上界みたいなお祭りもあるし楽しい世界なのが神の世界だそうです。
私達は限界おいても「心の有り様」の次元(レベル)で行動し生きている訳ですから、死んで霊界へて行っても、同じ基準でやっていくことなんです。つまり現界を「うつし世」というように、霊界の写しでもあるわげす。
●人間は言う。みんな必死なんだよ。ただ、その日一日生きるために必死なんだよ。愛だの神だの希望だのってきれいごとを並べるけど、自分たちはかまっていられないんだと。そんなこと言っていたら、野垂れ死にしちまうんだと。同情するんなら金をくれとか、などなどと、
でも、生きていかなきゃなならないと。はいつくばってでも生きていかなきゃならないと。それで悲しくても苦しくても、歯を食いしばって働くんだ。へたな同情はかえって迷惑なんだと。
人は誰でも苦労して、歯を食いしばって働いています。それは先祖代々そうしてきたからで、またそうすることしか知らないからです。でも此のまでの書き記した事をス直に信じて、自分の心の奥ふかいところを掘り下げてみれば、
そうすれば、今まで知らなかった宝を見つけることができるでしょう。その心の中に、自分では気がつかない宝が埋まっているんです。ただそのことを知らないで、それを足の下に踏みつけて働いているだけなんです。
此の宝を見つけた時、初めて自分の物の考え方や基準が分かり日々安らかな人生を送る事が出来るでしょう。
●この世には、人間のツルが今や伸び放題です。飾りたてたきれい事だけの言葉、荘厳な儀式や形式、これらは枝と葉です。そういうものばかりが茂っているから、日光すなわち神の光は人々まで届かないんです。
だから言葉の枝葉を切り取れば、人としての生活の赤裸々な幹ばかりが残り、そうして初めて多くの実を結ぶことができるのです。
●神様の教えっていうものは、究極は人類の救いだろうし、人々を霊的に救う力がないのなら、今日ではそれは魔以外の何ものでもない。人の病すら癒せない神力ってこの世にあるのか、はなはだ疑問が起こる。人の病すら癒せない神力仏力で、
どうして魂の病を癒すという立場を主張できるだろうか。どうして、魂の次元で人を救うことができるのだろうか。だからこれまでのものは全て引っ繰り返すぞ!と神が申されているのではないか?
●自己を完成するためだけの修行には、何ら愛が感じられない。人に説法するためではなく自分の疑問を解決するためだけに禅定をしていても、偉大な光明の叡智は何ら回答を与えてはくれない。つまり、叡智はそこまでは甘やかしてはくれないのだ!
●人間は、人生を粗方得てくると、それを正当化しようとするものだ。いくら真理を教えても自分の生きてきた人生を正当化し悟ろうとはしないものだ。
●真理は永遠不滅であっても、ひとたび現界に下ろされたらすべてのものはいつの日か変化(へんげ)してしまうのだ。
●人は一度地上に下ろされると、すべてが分からなくなってしまうのです。肉体という衣を着ると、何も見えなくなってしまうんです。光の天使として使命をもって地上に下ろされた指導霊が地上で堕落し、いまでは地獄の支配者になっているという例もずいぶんあるという。
又幽界へ戻ってからも地上で積んだ穢れのためにすぐには高次元へ帰れず、幽界でしばらくは垢落するという。
たいていの人は外院、 穢土に生まれ変わるのが実情とのこと。そこで地上の垢を落とし、執着を断ち、そして再び地上に下りるのです。そうした輪廻の輪から解脱し得て浄まった魂のみ、この内院に入れるという。
どんな人でも地上で修行している以上、 自覚つまり自己確立を地上にてしなければなりません。ましてや霊界の秘儀を全部知らさせることは許されてはおりません。また神様から特別のお許しがあったとしても、それはそれからのことです。
●ある一種の方便として、神殿を通して神と自分との波調を合わせる場所も必要な時もある。しかし偶像崇拝ではいけません。
●よく今生での肉体年齢は十歳にも満たない子供かもしれませんけど、魂は何千年と転生を繰り返してくると、生き換わり死に換わりして、現界に降りてくるたびに一つのことに精進したら、七度目くらいの転生で人から天才って呼ばれるようになる。神様は人それぞれ、
その人に合った方法でお使い下さるんです。神様の芸術を地上に顕現するのは、ほかの動物ではできないのです。
●迷いが出たら生まれてからこのかた自分が生きてきた姿、そしてその心を徹底的に点検し、反省する。そして決して自分を裁くなという。裁くのではなく、悪かったことはス直に詫び、二度と同じ過ちをせぬことを誓うのだという。それが改心なのだという。
そうすることによって心の垢は洗われ、神の光が一気に注がれるという。また無心で行けという。無心とは心を失くしてカラにすることではない。ただひたすら神を想う心、それが無心なのだという。
●ここで八正道といものを考えてみよう。八正道とは物事を正しく見る、正しく思う、正しく語る、正しく仕事をする、正しく生活する、正しく道に精進する、正しく念ずる、正しく定に入る……であるがこれらを基準として今までの生活を反省すること。
その昔の自分が果たして正しく物事を見て、正しく物事を考えて判断し、正しく言葉を語り、正しく生活し、正しく真理を求め、 正しい願望を持ち、 正しく自分を見つめていたかどうか、今の自分の目から昔の自分を客観的に見ていくのだ。どうだろうか自分になにか湧きあがるものが無いだろうか。
此れが、自分を正しく判断できる材料になるのである。
●人間は生きてる中で、目に見えないことを感じる事が沢山ある。例えば風はみえない。木々が揺れる。葉っぱが舞い上がる。ガラスの窓が音を立てる。などなどによって初めて
見えない「風」という現象を感じる事が出来るのである。ですから「風」といものを目の前に表すことは出来ないのです。しかし感じ取る事が出来るのです。「神」の存在も然(しか)るです。
ですから一つの現象で霊的光力というものがあるのです。普通であれば病となれば病院に行き医者に係るわけですが、しかし何べんも書いていますが、薬とは毒ですので体を治すことは出来ないのです。
そこで「神」が創られた肉体は光で癒してやるのが原理なのです。そこで霊的光力で奇跡(奇跡を通して神を感じる取る事が出来る)ということが起こりえるのです。ですが本当は奇跡でも何でもないことなのです。
左記に書いたように「神」という存在を感じる取る事が出来れば当たり前のことなのです。それが「神」は「光なり」といわれる所以(ゆえん)なのです。
●我々の目は、ものごとの外見しか分からない。その人自身を知ろうとすれば、心の眼を開かねばならない。そしてそれよりももっと奥深いのが、霊的な眼であるのだ。その霊的な眼で見れば、この世界を構成している五つの元素はすべては万象ことごとく一切、霊が主体だということである。
人間のとっても肉体は、この現界で生活するための服にすぎない。中身の霊魂が大切なのである。死とは単に服を脱ぎ捨てるだけで、霊魂はなくなる訳ではない今の肉体という服を捨てるわけで、中の人間は同じです。
空はそのまま色なのである。つまり、『色は空とは別のものでないし、空も色とは別のものではない。色はそのままで空であるし、空もそのまま色である』と。
つまり真意は霊とその霊によって構成される霊界、すなわち空と物質の世界、すなわち色とは表裏一体、相即相入で、別々のものではないのである。
●本来、神理というのは分かりやすいものなのである。万人に理解できて、そしてまたすぐに実践できるものだ。神理から遠くなったものほど人知でこねくり回されて難解な訳の分からないものになっている。
霊界と現界が別の存在でないということは、今こうして私たちがいる現界もすなわち霊界ということです。物質は細かい塵(ちり)でできておるが、その塵もまた極微の塵の集まりだ。
そのスカスカの部分が霊界なのだ。だから肉の眼では見えないし、無であり零(れい)であるといえよう。だから空なのだ。しかし、本当に何もないかというと、そこには神の智・情・意が充満している。
その霊を物質化させる、すなわち無から有へと創造し、産みだすことができる唯一のお方、それが神様なのです。すべての法も存在も空であり、つまりは現象界のあらゆる物質も霊が元であり、霊が主体であるということなのだ。
霊が元になってそれが物質化したのが色なのだ。だから霊界こそが大いなる実在界であり、魂の故郷で、この世はすべて仮の現象界、霊界の写し鏡でしかないのである。
●第四次元世界、つまり幽界といって、人が死んでから行く世界であり、生まれて来る前にいた世界でもある。神様のおわします神霊界は、さらに次元が高い。輪廻から解脱し得て入ったものだけが、高次元へと昇華していくのだ。
輪廻とは幽界で生活し、現界で修行し、また幽界へ帰り、幽界での修行が終わればまた現界に下ろされるその繰り返しのことである。この世のものも、例えば水でも氷になったり溶けて水に戻ったり、湯気になったりもするだろう。
それと同じことである。水は水だが、氷は土と同じ、湯気は火と同じだ。火と水と土の三位一体が、この世を、いや神界・幽界・現界の三千世界を構成する実相なのである。
聞いてしまえば、簡単なことではあるが、しかしその簡単なことが、簡単なまま世に伝わっていないのが現実なのである。
霊界こそが魂の故郷であり、幽界は心の世界(思いの世界・想念の世界)である。そしてこの現界だけが肉体の世界で、物質の世界だから、人はとかく現界に下りてきて肉体をまとうと眼・耳・鼻・舌・身の五官に振り回されて、
それらで感知できるものがすべてだと思い込んでしまいがちだ。しかし、実在界である霊界には 生滅(しょうめつ=生まれることと死ぬこと)もなく 垢浄(汚れ(垢)と、清い(浄)もの)もない 永遠不滅の世界である。つまり五官などという肉体的なものは存在せず、
従って迷いもない大調和の世界であり、大いなる光明の世界である。そういう所が、本来の魂の故郷なのである。
●この様な事を本当に魂(次元をあげるには)で受け入れるには甘えていては、とても入れぬ。自力だけで行こうという思いあがりはよくないが、他力だけに頼っていてもだめだ。自力で入るものなのである。
他力によって与えられた地力を最大限に発揮して自らの足で入るという心意気と祈り、他力にすがる心があってこそ、自力の足りないところを神様の他力は補って下さる。自力だけでは現界があるが、
重い荷車を引いて坂道を登って力尽きた時に、他力が後ろから押してくださるのものである。自力だけではとても重い荷車を坂の上まで上げることはできないし、逆に荷車を引こうともせず他力に頼みますと言っても荷車は動きもしないものである。
●さて全ての機根は東方にあり。いわゆる此の日本にあるのである。魂の輪廻(サンサーラ)の秘密とか、昔の天変地異のこととか書いてある古文献だ。さらに東の方の海に沈んでしまった大陸にあった大帝国のこととか。全てあるのである。
●神の子と言われるわけはすべてが神の神力が、 この人間も神の力を受けられるようにできている。すべての世界が神の力の充満界なのである。人間にはチャクラというものがある。人の体のそれぞれの部分にチャクラはあって、
そこで神の力を吸収するのである。それが最も重要なのが額の中央の眉間なのである。いわゆる第三の目なのである。 そここで神の力を人は受けることができるのである。良く言われることではあるが、肉の目を閉じて心の目を開けというのは、
もっと大事な目なのである。それでよく霊の眼を開けといっているのである。
●魂は永遠だとか。人は死んでも、必ず復活するんだとか。人が死ぬとその肉体は生まれ出た大地に帰るが、肉体を形作る要素はほかの肉体となって蘇るとか、つまり肉体は復活するということで古来から考えられていたので儀式などなどが行われてきたのである。
しかしそれは間違っているのです。確かに魂は永遠で、人が死んだからとて魂が滅びることはなく、永遠の生命を生きます。ちょうど旅人が川を渡る舟から降りるのと同じで、死とはそれまでの肉体という舟から魂だけ降りることです。
そしてあちらですなわち霊の世界での生活が始まるのです。でも、肉体の復活はあり得ないのです。つまり、死んだらおしまいということになるのです。死を迎えて乗り捨てられた肉体舟には、永遠の復活はありません。
肉体は土から造られたものですから、死んだら土に返るだけです。(この様なことはあまり人間界では知る由もないでしょうけれども、でも物質界では全て最後は塵もしくは灰になってしまうのである。語弊があるかもしれないが・・・。しかるに土に帰るのである。地に戻る。)
ほかの肉体として復活するというのは、いちど土に返った物質が新しい乗り舟の材料になるということで、 肉体がそのまま復活するということはありません。
しかし土に神の吹きによって入れられた魂は永遠ですから、再び現界に別の肉体を持って再生してきます。これが輪廻です。魂の再生はあっても、肉体の復活というのはないんです。
肉身が復活する訳ではなく魂のみが輪廻を繰り返し、生き代わり死に換わりつつ。神のみ意を地に成らしめるために修行をするのです。
●今でも人の魂は、これまでこの世のあらゆる生物を経験してきて、人間の肉体が造られてから今に到るまで、すべてのものには普遍の法則があって、不完全から完全へと進むのだという人がいる。
しかし人間の霊魂は、神様がほかの動物は区別して造られたものですが。この様に言っても納得いかないでしょう。しかし誤りは誤りとして、正していかねばならない思います。
天地創造の最高神はおひと方で、真理の峰はただ一つのなのですがそこは、人知のみでは到達できないでしょう。例えば、人間が猿の子孫だなんてことは、どうやって分かったのか。
それは、昔から、我々の間で語り継がれてきたか、誰かに教わったとかだと思います。人知によって語り継がれてきただけのことを、真理と盲信するのはいかがなものか。
体験しかないのです。人の話を鵜呑みにして上手に受け売りしたところで、相手には波動は伝わりません。厳として動かぬものを自らの中に秘めておくことが大切で、それが体験ということではないでしょうか。
たとえば人間の祖先が猿であるとするならば、人は何度も生まれ変わるものでしょうから、すべての人々は輪廻によって復活するでしょう。では猿からと思われるあなた自身、かつて猿や鳥として生きていたことを覚えてますか?
輪廻では、前世の記憶はないのが普通であるが、とにかく一人として過去世が猿や鳥だったと語った人はいたでしょうか。自分の体験で証明できないってことは、たとえどんなに素晴らしい人から聞いたことでも、
真の自分の知識にはなり得ないのではないでしょうか。つまりそれは、憶測にすぎないのです。この世界が創られてから、人類が存在しなかった時代はなかったはずです。
もしそんな時代があったとすれば、再びそんな時代が来るかもしれません。しかしそのようなことが、神のみ意(こころ)でしょうか?
まず神様の御思念によって万生の霊成型が創造され、このエーテル(創造主の息)の段階がさまざまな生物ということで現れているのです。神様のご意志の充満界は、肉の眼では見えないのです。
肉の眼では見えないほどの極微の実相界で、それこそが霊の世界であり、物質の根本である霊体、すなわち魂を構成しているのです。 エーテルが濃くなって波動が荒くなると、
すべてのものは物質化して目に見える肉体という衣をつけたのです。ですから肉体というのはあくまで乗り物であって、乗っている魂こそが大元なんです。人は人、猿は猿なんです。
人類は神様が全智全能を振り絞られ、ご自分の主姿として創られた訳ですから、人は皆神の子で、決して猿の子、鳥の子ではないのです。では森の猿が一匹くらい人間に変化したのを見たことがあるでしょうか。
猿から人間の子供が生まれたということを、聞いたことがありますか?ないでしょう。
●大きな盲点少し長いですが読んでみてください。
ある地獄に落ちた霊が、自分がどうして地獄に落ちたのかどうしても理解できずにいました。その霊はこの世で人間として生活していた生前には何ら悪いことはしておらず、むしろいいことをしてきたと思っていました。
それは、慈善事業で多くの人々の命を救ってきたというのです。それは、飢えているものに食事を施し、病人に薬を与え、命を救ってきたようです。だがそれは、肉体的にあるいは物質的に人を救ってきただけであって、なんら霊的な救いをしてこなかったことになります。
それにしても、肉体的、物質的であったにせよ善意で隣人愛を踏み行った人が、いくらなんでも地獄に落ちるというのはどういうことなのでしょうか?
つまり、まず行って病人を癒せ、しかる後に福音を伝えよということですが、今多くの隣人愛に燃えて損得抜きで活動されている方で、「病人を癒せ」は実践している方でも、「しかる後に〜」の方がおろそかになっているとお互いに幸せにはなれないのです。
なぜ幸せになれないのか、そして前述の慈善事業をして地獄に落ちた人の場合は、なぜそれだけで地獄にまで落ちてしまったのでしょうか。
物質的、肉体的援助を必要とする状況にある人というのは、すなわち不幸な人ということですね。そういう人は、そういう不幸な状況になってしまった霊的原因があります。
それはその人の過去世に包み積んできたカルマに起因します。そして、前に述べたように『神様』はその人を幸せいっぱいにするように数々のお仕組みを下さいます。でもカルマがあったら幸せいっぱいにできないので、カルマを清算してその人が幸せになるようプログラミングを発動させます。
悪いカルマは、その人が災難に遭うことで清算されます。ところが傍の人が、かわいそうだからというだけの理由でその人を助けたりしたら、せっかくの『神様』のプログラミングを止めてしまうことになるのです。
最近、水難事故が増えていますが、痛ましいのはその溺れている人を助けようとして飛び込んだ人が一緒に溺死してしまう。ひどい場合には助けようとした人だけが亡くなるということすらあります。
以前に駅のホームから転落した人を救おうとして線路に降りた人が、進入してきた電車にはねられて、転落した人ともども即死という悲惨な出来事もありました。
そういう時、「なんでこんな隣人愛に満ち溢れた人がこんな目に?」と疑い、「やはり神などいないのではないか」とかいう疑惑が頭をもたげ始め、「その人はたまたま運が悪かっただけだ」と断定する人もいます。
しかしはっきりと言っておきます。総ての現象には「たまたま」ということはあり得ません。世の中には一切偶然というものはなく、総てが『神』の仕組みの中での必然なのです。
不幸な人を助けようとした人が不幸な目に遭ってしまう…これも必然ならその真因は何でしょう。それは、不幸な目に遭っている人もその人が幸せになるようにという『神』のプログラミングによって、一時的に一見不幸と見える現象が起こっているのです。
前にも書いた通り『神』のされることに一切の無駄はなく、さらに、善一途の『神様』がされることだけに総てがよくなるための仕組みなのです。
それを表面的な現象だけを見て、奥にある霊的仕組みを覚らずに、「かわいそうだ」というだけで物質的、肉体的にだけ救うとカルマ消しにつながる状況に介入することになり、その人を幸せにする『神』のプログラミングをお邪魔することになってしまうのです。
そうなると、その人が背負うべきカルマが自分に付け替えられてしまうという現象が起こってしまいます。
そこで、「正義感」というのは人間社会を渡っていく上での美徳とされていますが、それが強すぎるととんでもないことになるので気をつけないといけません。
よく、自分の身を犠牲にしてでも人を救うのが利他愛だと考えている人がいますが、自分の身といえどもそれは『神様』から戴いた体なのです。自らの身を犠牲にするというのはその『神』から戴いた体を大事にしないことになるので罪になるのです。
そして、人類の幸せの最小単位が家庭ですが、自らを犠牲にして他人を救うというのは守るべき家族を悲しませ、守れないことになりますから本末転倒です。
だからと言って、溺れている人を見て見ぬふりをするのも最低の行為です。そういう時はつかまるべきものを投げてあげるとか、報酬をもらって人命救助をすることを仕事としている人を呼んで救助を要請するとかすればよいのです。
そういう人が救助するのは、それも最初から『神』の予定に入っていることになりますから、カルマの付け替えは起こりません。
決して、自分が助けようと飛び込んではいけません。最近問題になっているいじめですが、いじめの現場を目撃した場合、もちろん報酬をもらって教育をしている教師などはすぐにそれを止めなければなりませんし真剣に対処しなければなりませんが、そうでない場合、例えばクラスメートなどは自分が助けに入るとさらに騒動が大きくなります。
今度は自分がいじめられる側になるかもしれません。しかしこれも、だからと言って見て見ぬふりをするのは最低の行為です。見て見ぬふりとは、一度視界に入ったものから視線をそらしてしまうことです。しかし、見てしまった以上、視線をそらしてはいけないのです。
じーっと視線を送り続けるのです。いじめている方も、見られているとわかれば、本来そのいじめられている人が負うべきカルマ以上のひどいことはしないでやめてしまうはずです。
このように、自分が「善(よ)し」と想ってやったことも『神』の仕組みのお邪魔をすることがあるのです。人知で「いい」と思ってしたこと、このようなものを「小乗の善」といいます。
人間はその「小乗の善」を善だと思い込んでいます。しかし、『神様』は「大乗の善でなければ悪とさえ見られる」ということです。つまり、人知でいくら「善」だと思っても、それが『神』のみ意に合わなければ、悪ということになってしまうのです。
ボランティアでの医療行為は、一般的には善と思われがちですが、クスリによる治療はどこまでも小乗の善です。薬毒患者を増やすだけになってしまいます。
よしんばそれで病気が治っても、その人がその病気をしなければならなかった真因、その人のカルマを消してその人を幸せにしようという『神』の仕組みをお邪魔したことになるのです。
(もちろん、前述の人命救助を仕事としている人と同様、報酬をもらっている職業としての医師や看護師、薬剤師などは、カルマの付け替えは起こりません)。
ですから前章で言ったように、人知では「善悪の判断」はしてはならないのです。人間社会でも、相手に「よかれ」と思ってしたことが裏目に出て、相手を傷つけてしまうということがありますね。
人間同士だと相手を傷つけるだけで済みますが、相手が『神』だとそれでは済まないということです。
カルマというのは何の努力もなしに消えるものではありません。そのカルマを消すためにクリーニング現象や試練を戴いている人を、かわいそうだからとか強すぎる正義感から何の苦労もさせないで救ってしまうとその相手の罪は消えなくて、結局はまたいつかその消えなかった罪を消すためのクリーニング現象が起こります。
結局はその人のためにもならないのです。したがって、この章の最初に述べた地獄に落ちた霊のように、自分もその慈善事業が『神』の仕組みのお邪魔をしたということで地獄へ落ちなければならなかったのです。
では、飢えに苦しみ、病気で苦しんでいる人たちに対しては、どうすればいいのでしょうか。
これも見て見ぬふりをしたならば、イエスの言う「すべての人に救いの手を差し伸べよ」、「すべての隣人を愛せよ」という教えに反します。
そこで、イエスの言葉は、「まず行って病人を癒せ、しかる後に福音を伝えよ」ということになるのです。
相手が必要としていないのに、お節介に強すぎる正義感から手を差し伸べてはいけません。しかし、そういう時でも視線はそらさずに、視線を送り続けるのです。そうすると、向こうから救いを求めてきます。
救いを求められたら、手を差し伸べます。そして、もし食事を与え、病気を手当てして癒したのなら、次に「福音を伝えよ」ということです。「救われました」→「よかったですね。はい、さようなら」で『真理』を述べ伝えないとすなわち片手落ちになり、『神様』のお邪魔になるということなのです。
つまり、物的、肉体的に救ったのなら、今度は霊的な救いまでもっていくということです。
まずは、なぜその人がそのような状況になったのかということを理解させる。過去世のカルマを『神様』の大愛で清算して幸せいっぱいになるために、『神様』がクリーニングをして下さっているのだということを覚らせる。
すべての原因は自分にあるということも分かって頂いて、その原因をまずは神様にお詫びする。そして霊的に生まれ変わらせる……そこまでもっていって初めて霊的救いになるのです。これをしなかったために、あの生前に慈善事業をしていた御霊は地獄へ落ちてしまったのです。
ただし、順序を間違えてはいけません。イエスは「まず行って病人を癒せ、しかる後に福音を伝えよ」と、この順番で言われました。まだ苦しんでいる最中の人に「それはあなたの罪穢です。お詫びをしなさい」などともっていくと、ただでさえ苦しんでいる人を絶望のどん底に突き落としてしまいます。
まずは救って差し上げる。そのあとで霊的『真理』を伝えて、「罪穢をサトってのお詫び」へと持っていくのです。
とにかく、他人のことに興味本位で介入しないということが大切です。
自らが感謝の心を持って穏やかに生きていくことは、その他多くの人々を救う利他の働きが生まれます。自らが本当に開運して幸せいっぱいにならなければ、他人を本当の意味で救うことなどできません。自己犠牲の上に立つ利他は、『神様』のみ意に合いません。
人間が本当に幸せになるのは、今の世間の常識ではだめなのです。便利だと思って使っていたものが原因で公害が起きて人間が苦しんでいるように、人間の知恵では先のことは読めないのです。
つまり、幸せになるためには、強すぎる正義感は捨てるということです。
自分の行動が『神』の御計画、人類全員が幸せいっぱいになるという地上天国文明建設のためのお役に立っているかどうか、『神』の御用をしているつもりで実はお邪魔をしていないか、「我(われ)善(よ)し」と思っていることが実は小乗の善で、
『神』の仕組みのお邪魔をしていないかと常に問いかけ、神に『神』のみ意にかなった行動をしていれば、人はおのずから幸せになっていくのです。それでも幸せにならないとすれば、まだどこかが『神』のみ意とずれているということです。
この辺のところが理解出来るならば、いろいろと起きてる諸問題が解決になろうかと思います。
●幸せになる家庭…優しさだけでなく、厳しさをともに十字に組もう。
子供をかわいさのあまりに溺愛して甘やかすことや、力や能力の弱い人を無条件にかばうということは、その人に必要な学習する機会を奪うので、“愛”ではなく“よけいなオセッカイ”にもなります。
幸せの最低限の条件は、まず社会構成の最小単位である家庭が幸せでなければなりません。まずは夫婦が基本ですが、次に親子の関係が問題になります。この関係が悪いと、幸せな家庭とはいえません。
親は子供を一人前に教育する役目があります。教育とは「教え育てる」こと。育てるとは添え木をして助けることです。助けるとは、向上するように力添えをしたり、導いたりすることです。
それに対して甘やかすとは、相手が全く向上しない親切の押し売りや、相手のわがままを通してばかりいることです。
親が子に、また総ての隣人に与える愛は優しくも厳しい愛でないと自分も周りも幸せにはなれないのです。優しいだけではだめですし、厳しいだけでもだめなのです。特に女性の方は、強すぎる正義感が罪の元であるように、
強すぎる母性愛も罪の元となることを識(し)らねばなりません。
●人を本当の幸せに導くため、その人の魂の核を向上させるために「神試し・神篩い」をされます。本当にその人が「神中心」の想念を確立しているかどうかを試されます。その時は、神様はその人のいちばん弱いところをついてこられます。影の自分と表の自分との確答があります。
生き言霊に光あれ!!
言霊豆知識-40-4
“王、仏の到るを見て、遙かに両手を挙げ、足を接して言く、「唯願わくは如来よ、手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ」・・・・・仏袈裟の裏より金色の臂を出す。掌は蓮華の如し、即ち手を似て父王の額上に著く・・・・・”
この経典は釈迦の父の浄飯王(じょうぼん・おう(のう)の臨終について書いたお経である。この中の“手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ”とあるのをみれば、父王はすでに釈迦の「手あて」に満腔の信頼をよせていることがよくうかがえる。恐らく釈迦の「手あて」はこれまでもしばしば行われ、奇跡的効果をあらわしていたものであろう。
“即ち手を似て父王の額上に著く”とあって、父の額の上に「手あて」をしたものであろう。
この経典の一句を見て思うことは、父王が臨終の病床で釈迦に求めたことは譲位でもなく、医療、医薬でもなく、ただ「手あて」を最上のものとして欲求されたことである。
“唯願わくは如来よ、手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ”と言っている。一国の国王が臨終に際して求めたのはお経よりも「手あて」だったのである。“唯願わくは如来よ、手を我が身に触れ、我をして安きを得しめよ”とある如く、「手あて」をして病気を治してくれとはいっていない。
「手あて」にすがって安心立命を得ようとしているのである。「手あて」は実際に患者に安心感を与えるものである。ことに重病者は生気(霊気)枯渇(こかつ=かわいて水分がなくなること)しているから人膚を欲するものでありいろいろな方法でこれを求めるものである。手をあて、撫で、擦するだけで目に見えない生気、霊気が補足されるから満足感が湧き安心が得られるのである。
父王の求めに応じて釈迦(“悟りを得た者”という意)はさっそく“手を似て父王の額上に著く”、すなわち額に「手あて」を施されたというのである。悪霊邪神は多く背後から出入りされ、善神善霊は眉間から出入りするといわれるから「額上手あて」がこの際は一番合理的だと思う。
すなわち、よい霊気を受け入れるに最も適わしい場所だからである。この場合の「手あて・霊的光力」は病気治療(肉体救済)の意味よりも霊的救済(たましいの安心、永遠の救済)が主になっているのである。実際に「手あて療法・霊的光力」を受けている患者の死はいかにも安楽であり穏やかである。
また苦しんでいるものでも「手あて・霊的光力」をするといかにも安らかに楽になることが現実に確かめられることが多い。だから「手あて・霊的光力」はたんに肉体的な病気を治すだけではなく、魂の安定、霊的救済の意識をもつものであると確信させられるのである。
つぎに、同じく仏説浄飯王般涅槃教に
“時に浄飯王は是の語は聞き己りて歓喜踊躍して、自ら勝ゆる能はず。即ち自らの手を似て仏手を捉り、其の心上に著く、王は臥処に於いて、仰向(あおむき)に合掌し・・・・”
とあり、これは父の浄飯王が、我が子(釈迦)の入り来たれるをみて喜びにたえず、自ら釈迦の手をとって自分の心臓の上にその手をつけさせ、自分は臥処(ふしど=寝床)しながら静かに合掌しているさまをあらわしている。また曰く
“王、臥処に於(お)いて、合掌して心に世尊の足下に礼す。時に仏の手掌は、故に王心に住り、無常対至し、命尽きて気絶え、王は歓喜踊躍(かんきようやく)して逝きたり”
とある。これによると釈迦は父浄飯王の臨終の際まで、王の心臓部に「手あて」をして、その病苦をやわらげると同時に、さらに父王の霊的な向上と、魂の安住について尽くされたことと察しられる。
知恵袋1:現在、「手あて」「手かざし」というと、日本では大本系の教団が主流だが、意外に思われるかも知れないが、この手のひら療法が最も普及しているのがアメリカだと言われているのである。
これは「レイキ」と呼ばれるハンドヒーリングが中心となっているようだ。また『朝晩神様(意乗り合わせ)』に手を合わせている人の手は、格別によく効くとされている。
知恵袋2:徳の高い人の霊衣にふれ、霊衣に包まれると、ふんわりと真綿で包まれたような柔らかい温かいものを感じ、人の心の痛手や傷をいやすとともに、肉体の病気をも癒し、
草木や作物を育成する力があるとされている。樹木を一本々々なでて歩かれたり、霊をこめて歩かれると樹木の勢いがよいのだともいわれている。
知恵袋3:キリストの「手あて療法」については一般によく知られているが、釈迦の「手あて療法」についてはあまり知られていない。最近「釈迦の医学」や「仏教医学の研究」などの大著が次々と出ているが、釈迦の「手あて療法」についていっこうに紹介されていないのが残念である。
知恵袋4:さて伯家神道を中心とした古神道の行法についてふれてみる。この伯家神道は、明治維新まで八百年以上にわたり、代々神祗伯(じんぎはく)を継承してきた白川伯王家(しらかわ は おおけ)に伝承されてきた古神道で、
白川伯王家【白川家は神祇官の長官たる神祇伯として、神国日本の支配者たる天皇がマスターすべき様々な行法を伝え、また歴代天皇に伝授してきたという栄光の過去をもっている。
神道には多くの流派があり、それぞれに秘伝を伝える家系があるが、宮中のみ伝えられる行法を伝授してきた白川伯王家は、なみいる神道家の中でも名家中の名家と言っていいだろう。
したがって伯家神道は、天皇家を頂点と仰ぐ日本の神道の流れの本流とも言うべき流派なのである。】は宮中祭祀を司ってきた家柄である。
その行法はもともと菊のカーテンの奥深いところで〈天皇の行〉として行われていたこともあって、一般的には知られることがなかった。とくに、明治維新にともない伯王家が廃止されたため、
その行法はほとんど埋没してしまった。
その行法とはそれは、目をつぶっての行法であり、本来、口外してはならない秘密の事柄なのだが、この伯家神道の行法の本質に迫ってみた。一言で言うと、それは生命力を強め、神々と一体化していくための、神ながら〈鎮魂法〉である。
その過程で、手かざしによる浄霊なども行われるのだが、明治天皇はみずから、この行をうけられ、三千柱以上を“ご浄霊”されたという。
この伯家神道の行法は、ある面では生長の家の神想観や白光真宏会の精神統一行に、また別の面では崇教真光や世界真光文明教団などの、大本→世界救世教系の浄霊法・手かざし等とよく似ているのである。勘違いをして頂きたくないのは中身を指して言っているわけではないので悪しからず。
知恵袋5:手あて療法・霊的光力(光の大玄霊)の特長は、たとえ、よくならないとまでも毒にならないことはもちろん、非常に気持ちが良く、精神的安定と慰安が与えられ、なにか心強いものが感じられる。もし「手あて・霊的光力」によって多少でもよくなり、
また全治した場合は、自らの生きる力、生命力を発見して生き甲斐を覚えるようになるだろう。ところが医者や薬で治った場合は、たとえ治っても一生、医者さま、薬さまの前に頭があがらず、ひれ伏してしまい、
神からあたえられたせっかくの内部生命力を一生知らずじまいに終わり、禅語にいわゆる「随所に主たり」ではなく「随所に奴れいたり」に成り下がってしまうのである。すなわち、いつも環境に支配されて自己確立ができなくなってしまうのである。
今日の日本人は単にアメリカに隷属(れいぞく=つき従って言いなりになること)しているだけではない、医者や薬にまで隷従(れいじゅう)して頭があがらない状態である。薬品から解放される道は「自然医学」を立て、自然療法に道を求める以外に方法はないであろう。
「手あて療法・霊的光力」は最もすぐれた自然療法の一つであると信ずる。というと、いかにも、今日の医学を全面的に否定している如く聞こえるかも知れないが、毛頭そんな考えはない。言う意味は「医者や薬の奴隷になるな」ということである。
自然治癒作用にも限度がある。自然に放任しておいてよい患者と悪い患者とがある。医者も薬も大いに必要なのかもしれない。しかし、ただそれは患者自身の内部生命力を助けるために、外部からお手伝いするだけのものだということを医者も患者もよくわきまえてすべきだということである。
医者や薬を活用すべきか否かはどうか・・・、医者は薬に使われてはならない。なぜもっと自らを信じ、自らを頼らんのか、もっと「わが仏」を信じ、「手前味噌」に自信を持てということである。今日は「手前味噌」や「手料理」に自信がなくインスタント食品で間に合わせようとするから健康を害するのである。
「わが手を使わずすべて他人任せ」にするからいけない。自分の健康、生命までも医者任せ、薬まかせにしようとしている。病気が治らないときはあの医者は駄目だとか、あの薬は効かないなどと、すべて医者のせい、薬のせい、にしてしまって自らの責任、努力ということをあまり考えないようである。
何度も言うが「手あて療法・霊的光力」は病気治しが目的ではないし、一宗教に留まらせてその人間を支配してしまう事でもない。いつも言うことでもあるが宗教とは導き手なのです。またその人の心又は魂を強くさせてあげられれば良いわけでそれ以上もそれ以下もないのだと思うのである。
そして全て万人に「人は神の子」たる尊厳(そんげん=気高く犯しがたいこと)をさとらしめ、全人類を種々な偶像支配から解放しようとするものである。方法としては専門治療家をつくることが目的ではなく、家庭療法として発展させ、人類一人々々の人間回復を図ることが目的なのである。
知恵袋6:またこの治療法においては術者が特に精神統一をするとか、精神的に「治れ」とか「治そう」とか格別に力む必要はない。また患者においても、術者に疑念をもっていようが、反抗心をもっておろうが、そんなことにはあまり関係ない。ただ患部に手をあてさえすれば必ず治癒効果を期待することができる。
しかし、全き効果を速やかに奏するためには神向きなきより有った方がよく、疑念をもってするよりは信頼するがさらによく、雑念あるよりは精神統一するはなおよく、予期作用を加味するならばいっそう良いことは知れたことである。しかし、たとえそれらを除いても、なおかつ「手あて・霊的光力」の本質的効果は変わるものではないということを述べたにすぎないのである。
知恵袋7:現在の医学では不治の病気が幾つもある。併しこれ等の病気はどうしても治らないものであろうか。初めの頃小生は、医学が進歩さえすれば治し得るだろうと考えていた。併し今は、はっきり見えない霊的可能性を信じ得るようになった。また徐々にこんな風に考えるようになった。医学が今迄のように物質的にのみ人間を見、病人を診て居る間はとても駄目である。
人間は霊肉二つの要素から成り立っている。現代の医学は肉の面だけを見、霊に触れて居ない。然し霊が主で肉体は従である。この主である霊を閑却(かんきゃく=あいまいな言葉の意味を確認)して居るところに病の治らぬ理由があるのだ。従ってこの二つの要素を対象とした治療方法が見つかれば、どんな病気でも治し得るに相違ないと。
その後、神霊の導き(霊的光力は神を知れば誰でも出来るものだと)を受けるようになってから(神霊などという言葉を持ち出すと、科学者や常識家たちは忽ち眉に唾をつけ、この時点で読む事はしないだろうが)霊的要素なるものの実態を掴むことが出来た。そしてここに記するように病の真因を知り得たのである。この真因を除くことが『不治の病』を治し得る唯一の方法であり、又病気に犯されなくなる唯一の道であると確信を得た。
こうして小生は、長年抱いて来た二つの夢をやっと解決することができたのである。 色々と言葉を拝借(はいしゃく)して書いてあります。
何よりも大切なのは経験である。病気が治る、健康になるという事実である。何か新しい療法が現れ、これに依って病気が治ると云う事実を提示したなら、謙虚な態度でこれを研究して見るべきである。そして良きを採り、悪しきを捨てて己の薬籠(やくろう)を豊にすべきである。
ところが現在の医学界の風潮は反対である』、貴重な人命を取り扱う医師達に対し、きびしく警告を与えてるのである。
これは単に、医学界ばかりではなく、生命の霊的本質、宇宙の実相を知らざる時代遅れの唯物的思想家や、物質万能の科学者達にたいして与える啓蒙(けいもう=人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと。)の金言(きんげん=不滅の真理を表す言葉)であらねばならない。
また手あて療法・霊的光力(光の大玄霊) 然るだが基本は、神力と真心であり、人間の真心と神の救いの癒しの力とがピッタリと一致するとき、其処に絶妙偉大なる力が発現されてくるのである。
釈迦やキリストも病人に手を当てて治したと言われるが、少なくても病気治療と云う点では、釈迦やキリストに劣らない絶大な力を発揮することが可能なのである。
人間の真心とは、手あて療法・霊的光力を施す者の真心と、それを受ける者の真心のことであり、神の力を頂く「受け器」をととのえる事が、最も大切であることは言うまでもない。
重要なのは、信じる信じないではなく、そこにある事実だということのみです。科学的に実証できようとできまいと、治ったという事実のみを小生は謙虚にうけとめるべきだと思うのです。
知恵袋8:霊学的には、「いろは」の一つずつには、それぞれの言霊に対応した神様(四十八)が居られますが、それぞれのお役目があります。そして、いろはの「す」というところにいるのがすべて統一しておられる神様(スの大神様と申し上げる)で、この神様にお願いして、癒しの力を送っていただくのです。
この霊的光力は、一度伝授を受ければ、特殊なことをする必要はなにもありません。つながる神様を意識するだけで、エネルギーが流れます。ヒーリングの方法は、手を直接当てても、かざすだけでも、イメージするだけでもよく、自分の普段使っているヒーリングスタイルでそのまま真手のエネルギーが流れます。
但し、つながり方を強化するため初めのうちは、行法を行う必要があります・・・。
知恵袋9:『治療者』が『治療される者』にパワーを送ると、『治療される者』の生命力は回復していく。すると今度は『治療される者』から『治療者』に対して、新しいパワーが戻ってくる。それによって治療者の力はさらに強くなってくる。『鎮魂』=『霊的光力』には、霊魂のコミュニケーションとして、このような構造が内在してるのである。
すなわち、『和法』の論理的帰結(きけつ=ある事柄を原因または理由として、そこから結果として出てくる事態)としては、『治療する者』と『治療される者』という関係性が解体されるのである。
★まとめ:私達は先祖の積んで呉(く)れた善因の結果も、悪因の結果も受けているのであります。病気の原因は大体霊的なものと言い得ます。病気は真剣に自分を反省する機会であり、それによってみ魂の浄化向上があるのです。
多くの場合これを機縁として神を知ることになるのです。神と人との関係、霊界の存在とその消息を知ることになれば、病気もまた捨て難いのであります。
病気には憑依霊による原因がなかなか多いのです。祟るには祟るだけの理由があるのですから、霊力で無理矢理に追い出したり、封じ込んだりした場合には家庭の誰かに憑依して不幸をみます。
この霊的光力を熱心に行いますと、憑霊は憑いておれなくなるのです。それも無理に引き離すのではなく、癒し人を通じて働く高い神のおさとしが憑霊に加えられて、次第に憑霊の方で悟って行くのです。
そして悟ればもう人間に憑いて苦しめたりいたしません。却ってその人を守護するようになります。人間ばかりではなく、生きとし生けるものすべて霊があります。
よく狐に憑かれたとか、生霊に憑かれたとか、死霊に憑かれたとかいって苦しめられている方がありますが、それは事実であって決して迷信ではありません。
昔から、それぞれの宗教が心の糧として人々を善導された功績は偉大でありますが、それにも関わらず浮かばれぬ霊がこの世に充満して現世人に憑依して救いを求め、また恨みを晴らさんとして災禍不幸をなしています。
この世が罪悪と汚濁に満ち、人類が常に闘争と病苦に悩まされ勝ちなのも専(もっぱ)らそのためで、こうした罪業に罪業を重ねて「あがない」の総決算たる最後の審判を迎えなければならないようになったのは余儀ないことです。
私達は神の子だから、病気も不幸もないと説き聞かされて成る程と思って悟ったつもりでも、病気、不幸、災禍からのがれません。現実には病気もし災禍にも遭(あ)います。
憑霊も憑くだけの理由があって憑いていることが多いのです。それを施術者の霊力によって強引に引き離されますと、その霊はかえって恨みをもつようになります。
ふだんは何でもないにしても、一寸した躓きがあると、そこにつけ込まれて、酷(ひど)い目に遭(あ)わされることがあります。その家族を狙って襲いかかることもあります。
この場合は最も弱い人か最も大切な人が狙われます。これがいろいろの災厄となって起こる大きな原因の一つでもあります。
ところが霊的光力の場合は、決してかかることはありません。霊査してその霊を知り、これが悟りのために手段を講じます。例えば霊を祀るとか、霊の悟りになる祈言(のりごと)をあげるとかすべきです。
憑依霊を救って成仏させれば、霊は感謝し、その人を守護するようになります。贖(あがな)いをすませば病気も災禍も免れることができます。
憑依霊は憑くだけの理由があって憑いているのですから、憑依霊を無理に暴力的に押し除けても病気は一時的に消えます。しかし浄化したのではないから危険であります。
強力な霊力の持ち主が早逝したり、また不運なのは邪霊の復仇(ふっきゅう=苦痛または損害とほぼ同程度の苦痛または損害を相手に対して強制手段を用いて加えることをいう)をうけるからであります。
なかには狂人になる方もあります。
病気や災禍は邪霊達が救いを求めるか、または恨みを晴(はら)さんとして病気や不幸に陥(おと)し入れるのですから、ただ押し除けたのでは決して救うことはできないのです。真心込めた浄化に限るのであります。
浮霊した霊を霊査によってさとし、憑依霊を浄化することによって、本当の救いが来るのだと思います。
まったくの素人が霊査をすれば、霊に振り回されたりして危険かも知れませんが、ある程度の訓練や経験(上級者なら判ると思うがある程度時間を置いてからする)を積んだ「審神者」なら霊障解消に有効な手段なのであるとも思います。
●心得:伯家神道の教えは、明治になって失われてしまった。しかし、である。神道研究家の間には、伯家神道の口伝とされる、ある予言が伝えられているのである。
その予言に従えば、なんと日本は2012年に滅びてしまうという(日本の国体が滅亡してしまう)。それは、「伯家に伝えられた祝の神事を授けられない天皇の御世が百年続くと、日本の国体が滅亡してしまう」というものである。
「祝の神事」とは伯家が代々の天皇に伝授する行法のこと。最後にこの「祝の神事」を受けたのが明治天皇で、大正天皇が即位した1912年から100年後が2012年にあたるのである。
天皇~格化の原理である~人合一(しんじんごういつ)の優れた形式である「祝の~事」が、明治五年~祗制度が廢止されるとともに宮中行事から消え去つた事にある。
白川伯王家の血筋の者を探し出し、来年2012年の今上天皇の誕生日12月23日までに 十種神宝御法(祝・ハフリの神事)を執り行わなければならない。因みに・・・
国体(こくたい)とは、その国の基礎的な政治の原則を指し、日本語の文脈で使用されるさい、通常は「天皇を中心とした秩序(政体)」を意味する語となっている。
ですので、地球が滅亡するとか日本が沈没するとかそういう類の話ではないんです。
2012年に「天皇を中心とした秩序(政体)」が崩壊してしまうという予言なわけです。
伯家の予言も、伯家系統の宗教家に降った神示も、結局その起源は同一であり、これらは霊界からの交叉通信のように、全部を組み合わせることによって、はじめて全体の意味がつか
めるのではないだろうか。
明治維新後、八百年以上にわたって皇室祭祀と天皇の行法を伝承してきた伯家が廃止されると、伯家神道は事実上埋没してしまうのである。
いっぽう、古代の民衆神道の甦りとして幕末から明治にかけて発生した教派神道も、国家神道の成立によってキバを抜かれ、教祖たちが直接、神と出会って授けられた〈教え〉のうち、国家
神道と抵抗する部分は、捨てられたり、隠されたりしてしまった。
戦後、国家神道体制の崩壊で、それから自由になったが、そのときは神道そのものが人々から嫌われてしまった。というのも、一般庶民には、神道=国家神道と誤解したからであろう。その
ため、古神道は神道という形で復活することができず、新宗教としての諸教というかたちで、古神道の一部が復活しただけだった。
いっぽう、伯家神道なきあとの皇室神道は、天皇のいわゆる人間宣言によって、これもますます形骸化(誕生・成立当時の意義や内容が失われたり忘れられたりして、形ばかりのものになってしまうこと)したからであろう。ところが、1970年代に入って、公害問題、自然保護・・・・等々が叫ばれるようになり、〈宇宙船
地球号〉というような認識が一般的なものになってくると、古神道が再び動き出したのである。というよりも、それまで地下に埋没していた古代の神々が地球の将来を憂え、人類を救おうとし
て動き始めたのである。
そのため、埋没した神々は、自分たちに代わって伯家神道の道統を動かし、その行法を行わせたり、その行法とほとんど同じことをしている古神道系の新宗教派系の宗教団体を動かし
て、自分たちを地上に出させよう、としているのである。
天皇は古來「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、第一に「統治する」働きと第二に「~を祭る」働きの二つを體現(たいげん=具体的なものとして示すこと)するのが本來の姿である。
第一の働きである「統治する」働きを完遂(かんすい)するための原理は「天地創造の~の心の隨(まま)に」と云ふ原理である。
文字によらず言葉によらず其れを體得(たいとく)する方法が「ヲノコロの祕法」と呼ばれるものであった。
「ヲノコロの祕法」と不離一體のものではあるが、此れが「十種~寶御法」であり、「祝の~事 = 御修行」と呼ばれる行法體系である。
【「十種~寶御法」=伯家神道に伝わる教えは十種神宝御法というものが中心になります。『先代旧事本紀』(せんだいくじほんき)には饒速日尊(にぎはやひのみこと)が、
天神御祖(あまつみおや)から天璽瑞宝(あまつしるしみずのたから)十種神宝を授かったと記されています。
そしてその十種神宝を、自分の子供の宇摩志麻治(うましまじ)に伝え、その宇摩志麻治は神武天皇に献上します。
よって多くの人たちは、この十種神宝とは十種類の宝であると思っていますが(実際に十種類の宝の絵が残されています)、伝わる十種神宝御法とは、天皇が天照太神と御同体になられる行として伝わっております。
それは、神人合一、即身成仏と目指すところは同じです。ただ日本に神代から伝わる法が十種神宝御法なのです。】
天皇は本來「祝の~事」をマスターする事によつて、天地創造の~から始まって皇祖皇靈を迎へ、親しく~々と交わり、しかるべき作法をもって靈を拜してゐたのである。
天皇は、ある形式をもって~を拜(はい)する存在に成ると云ふことである。~を拜(はい)する時に其のしかるべき作法が伝授(でんじゅ)されるわけであるが、此れを「~拜(しんぱい)の式」と呼んでゐる。
然し、意圖(いと)したか否(いな)かは別として、明治維新はかかる重大な事柄(ことがら)を葬り去ってしまったのである。
国民の尊崇は~祕の中にある。皇室は~事が基本である。『禁祕抄』(順徳天皇著・承久年間成る)は宮中の故實・慣例を記したもので、其の中に「禁中は年中、~事を以て大事とする」との意が記されてゐる。
皇室は幾度か危機に瀕したが、必ず天皇は~事を守り祭祀王の道を守られたのである。然るに「明治憲法では、御政務とて、~事中心の生活を侵害してゐる」と言ふのが、明治の公家達の言葉である。
此のことは「現行憲法」でも變はる事はない。 ましてや「皇室外交」とて、天皇を政治外交の場に引き出すことは天皇の御本質を損なふものである。
明治22年、明治憲法が制定されたとき、○當時(とうじ)の公卿(くぎょう=公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位)の世界では、今の天皇(明治)は 金帝 次の天皇(大正)は 銀帝 其の次の天皇(昭和)は 銅帝 其の次の次の天皇(平成)は 泥帝(どろてい) そして五代目(元號未定)は 哀帝(ないてい)
と、噂されてゐたと云ふことです。 此の豫言に從へば、まさしく今の平成天皇は泥帝。 そして其の次の天皇は、哀帝(ないてい)。
詰り「哀帝(ないてい)」は、暗に「廢帝(はいてい)」を示唆(しさ=それとなく知らせること)する語であり、今の皇太子の代は、廢帝(はいてい)であると云ふことに成ります。
天皇は文字通り「現人~(あらひとがみ」であり「生き~樣」であられたのですが、時代が下るにつれてカリスマ性はどんどん失はれてゐます。
昭和天皇は皇太子時代に英吉利(イギリス)に留學し、英國國教會(プロテスタント)の影響を受けた隱れキリシタンだと云われてゐます。
また、昭和天皇が「わが人生で一番樂しかつたのは英吉利留學時代であった」と感想を述べてをられたのを何かの本で讀みました。
なにより先の大戰で亞米利加に原爆を落とされ、マッカーサー配下の若い米軍將校たちが1週間で作り上げた日本國憲法上、天皇は國民の象徴であり其れ以上のものではなくなってゐます。
亞米利加(アメリカ)流の民主主義が正しいかどうか小生にはわかりませんが、此處で皇統二千六百數十年の歴史と大和心(なごやかで調和した心)を持ちつづけてきた日本民族の魂と其の集合意識が完全に解體され、國民は精~的な支柱を失ひ秩序をなくしてゐます。
親が子を殺し、子が親を殺す。云はんや他人の命など一顧だに値しない。ITバブルを作り出し、額に汗する事もなく數百數千億圓を稼ぎ出す者を譽めそやし英雄扱ひ、こつこつとまじめに正直に働くものを搾取し踏みつけ馬鹿にする世相。
錢を稼いだやつだけが勝ちだ。そうした世相が耐震僞造マンションで大もうけをするものたちを生んだのです。適者生存、自由と權利をふりまわし、エゴイズムと無秩序を是とするのが亞米利加流民主主義ではないでしょうか。
此の民主主義の毒が國民全體の頭と精~を支配するように成ったのは昭和22年新憲法公布からです。
1868(明治1)年より1912(明治45)年7月30日の明治天皇 死去までの時代。
1912(大正1)年7月30日から1926(大正15) 年12月25日までの,大正天皇の在位期間。
1926(昭和1)年12月25日から1989(昭和64) 年1月7日までの昭和天皇の在位期間。
1989(平成1)年1月7日から(未定)大變恐れ多い事ですが、若(も)し平成天皇の在位を2012年と仮定すれば、大正天皇即位1912年から2012年で丁度100年です。
「2012年に日本の危機が訪れる」という不気味なものは、天皇家の古神道である伯家神道の口伝の中にも見出せます。「祝(ハフリ)の神事を行わない天皇が百年続くと、日本の国体は崩壊する」という恐るべき口伝です。
祝の神事とは、天皇が即位する時に大嘗祭(だいじょうさい)で行う秘密の神事です。日本の霊性の保護をつかさどる天皇の秘儀伝承は、2012年が猶予限界期にあたり、それを乗り越えないと日本のいままでの体制が崩壊するというものです。
明治天皇までは祝の神事を行って即位しましたが、問題は、皇太子が天皇に即位する時行われる「 祝(はふり)神事 」にある。 大室寅之祐が明治天皇となる際にはこの 祝神事(はふりしんじ)を受けたようだが、明治の始めに神祇伯(じんぎはく)が廃される時、
「 祝神事 」の破壊の危険性が察知され、関係書類や道具は秘匿(ひとく=秘密にして隠しておくこと)された。( 現在も行方不明。)こうして大正天皇(1912年7月30日即位)以降の天皇はこの即位の神事を受けていない。
白川伯王家には、「 祝神事が100年断絶、或いは4代続けて受けない場合、天皇家は滅びる。」との言い伝えがあり、今年の7月30日をもって丁度100年を迎える。また豫言とは警告である。
時あたかも平成の終わりを告げようとしており、癌を煩った平成天皇がその病身を東北被災地に運んで被爆し、気管支炎など様態が悪化したとも伝えられているが、
後を継ぐ皇子たちの間で繰り広げられている「 平成の壬申の乱(じんしんのらん) 」が長らく話題となって来た。しかも今年の干支は十二支の漢字は違うものの同じ「 じんしん = 壬辰 」の年。
大正天皇から昭和天皇、今上天皇(きんじょうてんのう=現に在位する天皇を示す呼称である)とすでに80数年経過して、百年目になるのが2012年です。現在は天皇の霊性が岩戸に隠れた状態という人もいます。
古神道の立場からいうと、祝の神事は天皇が日本という国土に、“天皇霊”の霊力を降臨させて、加護をいただくヒモロギ(依り代)になる儀式です。その依り代になる儀式が大嘗祭(だいじょうさい)であり、
それを司ったのが伯家神道なのです。
いわば日本そのもの“鎮護祭”を代々天皇家が行っていました。そういう祭りによって、神の「御稜威(守護オーラ)」が日本を覆います。御稜威とは神の加護のことです。その霊力がだん
だん落ちており、2012年に破綻するというのです。
逆に考えますと、2012年までに祝の神事という“鎮護祭”を行えば、再び守護力が復活し、危機は脱出でき、不死鳥として復活できるということなのです。これは大いなる切り札の一つです。
「そんな社会の崩壊や天変地異は来るものか」このように無視するのはカンタンです。しかし、阪神大震災・オウム事件・東北大震災を経験した今、絶対来ないという保証もありません。
それを“危険を知らせる大いなる警鐘”“地球環境問題を解決するための叱咤激励”と受け止めて、地球が大規模な自浄作用を起こさないで済むような状況にしていくことです。
これらは2012年をうまく乗り越えれば、輝かしい未来が待っているとも解釈できるのですが・・・。
“不二と鳴門の仕組み”によって人間の「心の岩戸開き=精神文明=霊文明」が否応なく求められる時代になったようです。
★言われごと:明治簒奪政府は、なぜ「 祝(はふり)神事 」を廃絶したのか? 明治以降、皇太子の教育係が欧米のキリスト教宣教師であることと関係しているように思えてならない。
しかも、第2次大戦後、皇室予算の削減と云う表向きの理由で宮家が廃絶されたが、発生論的には、雄系(男系)だけで家督を継げば3代の後には断絶する可能性が極めて高いことが知られていて、
つい最近まで、まさにそのような展開となっていたのです。 明治維新の際のイギリス、第2次大戦後のアメリカによるかもしれないその深謀遠慮が効を即し、世界で最も古い皇統の断絶が目前に迫ろうとしていたのですが、
そこに誕生したのが、秋篠宮の悠仁親王誕生。 これによりかろうじて男系皇統は命脈を保った訳です。
がしかし、125代続いた天皇家は決して男系による万世一系ではなく、むしろ女系でいくつもの王朝の交代をつないで来たのが実際のところです。
さて、白川伯王家ですが、この「 伯 」の一字が気になります。神武天皇に先立つウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)王朝です。
官製偽書である古事記・日本書紀以外の多くの古史古伝では、50〜70代続いた王朝とされていますが、鹿島・松重・中原史学では、アナトリア半島(トルコ)タガーマのハラン
(高天原)から東遷して来た流れがウガヤフキアエズ王朝であり、現在の満蒙・渤海・遼東遼西・朝鮮半島辺りにいた?貊(かいはく)・扶餘族であり、その末裔が現日本の天皇家である。としています。
問題は、この「 ワイ貊(ワイハク・カイハク) 」の エェ族と貊(メク)族ですが、貊族は「 伯族 」とも書き、その王:饒速日(ニギハヤヒ)が一族を率いて日本に亡命してきたとする研究者も多くいます。
つまり、ハランの初代アマテル王(天照)の皇統を受け継ぐニギハヤヒの伯族が神武(イワレヒコ)の軍門に下り、その即位の儀式を執り行う神官になった。【ワイハクとは中国の
黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から北朝鮮東部にかけて、北西〜南東に伸びる帯状の地域に存在したとされる古代の種族】
平城新羅王朝から、わい貊扶餘の末裔である平安百済王朝に移行して安泰期に入ったこの時期に、神祇伯が中臣氏(イシン・東表・任那・新羅系)から
伯族・百済系延信王に移された。と推理しますが如何でしょうか? この頃、占いの中心が 殷・東表 (とうびょう → 後に豊国 → 豊前・豊後へと推移 )系の亀卜(きぼく:マラッカ海峡辺りだけに棲息する亀の甲羅を焼いて占う)
から陰陽道へと移行している点も関連してるように思えます。
ちなみに、中国皇帝は即位の際、泰山(たいざん:山東半島)の山頂で天帝から地帝権を授かる儀式を執り行いますが、これを初めて行ったのが、ペルシャ・バクトリア系の秦の始皇帝。
漢の時代には初期には泰山に登ってたようですが、以降の皇帝はあまり登らなくなったようです。
このウガヤフキアエズの皇統にせよ、始皇帝の皇統にせよ、その王権神授の様式にはシュメールや、その後のミトラやゾロアスターを奉じるアーリア系の影響が感じられますが、しかし、
日本にはそれに先立つ縄文文明(実はあまり知られてないが極めて高度な科学文明)があり、日本の皇統には、大嘗祭(だいじょうさい)の添い寝の儀式に感じられるアニムズム的縄文様式も習合してるようにも思えます。
今後、日本が生き延びていく原理は何かである。世界から尊敬される國に成る事であり、かつ~から愛される國に成る事である。
世界から尊敬され、~から愛される國に成る原理がまさに、生命としての日本人の核である天皇の姿勢である。
其の天皇の姿勢を傳統に基づいた姿に育てる教育制度が~祗制度の中の「祝の~事」であった。(祖靈崇拝と自然崇拝が天皇を中心とする信仰共同體國家日本の土台である。
日本民族は古来、祖靈と自然を神と崇め、祭って来た。わが國の傳統信仰の祖靈崇拝と自然崇拝が、天皇を中心とする信仰共同體國家日本の土台、言い換えれば日本國體の根幹を成している。そしてそれは、國民道徳・道義精神の根幹でもある。
わが國の神々の中で、最尊最貴の神として信仰され崇められている神であらせられる天照大神は、御皇室の祖先神であると共に、自然神である太陽神である。 )
此の復元によってこそ日本が世界の中で生き延びる事の出來る第一條件が整うと云えよう。
日本が悠久なる歴史の中で其の國體(こくたい)を保ってこられたのは、其の時其の時の爲政者と國民の努力にあった事は勿論のことであるが、もっと大きな力は、目に見えない國魂(くにたま)の力なのである。
其の意味で日本を守る國魂の力は絶大なものがあると云ってよい。
其の日本を守ろうとする國魂の慈しみの心を、今なお失はさせずに嚮(きょう)かはせてゐる力が、天皇の國魂に對(たい)する「~拜の式」なのである。
最後に縄文時代の太陽信仰 所謂 霊的神向き 神縄文時代が到来してきたように思えます。
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豆知識1として:「神道」とは一言で分けても、
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@ 「祭りタイプ」・・・森羅万象の大自然に神を感じ、その恩恵に感謝や畏怖を示す「祭りが中心」の古神道の基。
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A 「神社タイプ」・・・大きく捉えれば天皇を現人神とし、伊勢や皇室をメインにして祭りを行う・秩序を正す
B 「教派タイプ」・・・明治維新時に認められた神道十三派・その後の派閥(新興神道も含む)で分けるやり方。
※『感謝や畏怖』 の中から道教や陰陽道、仏教の影響を受け、 『人の心に教え諭す感』が強い
C 「民俗タイプ」・・・上記に当てはまらず、その地域特性のものや成り立ちが限定されるもの
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分ける為の「分類」ではなく「分け方」によっても変わってくるから本当にややこしいです。
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ちなみに@〜Cはだいだい判りやすく分けたものですので・・・。
この上記の4点の組み合わせや歴史の深さ、また派閥の考えがミックスして大まかに 『神道』 です。
正直言って、「正しい」「正しくない」がないのです・・・・。正解がないのでキリがないのが実情です(結局は「思想」の分野ですから)
でもその中で、「古神道」と「神道」に分けるとするならば・・・・・
「なるべく余計なものが混ざっていない」・・・に重きを置いています。
また「見えないものという共通のもの」なので形として思想が現れている「仏教」などを差別しません。
神社の成り立ちの一つとして、一部の研究者からは「仏教」が上げられています。これは、
「形のないものを鎮座させる概念(=形に現す)を作った」という理屈からです。
古い、純粋な神道に近いものって何?ということになりますが、
結局、「思想」から始まり、思想とは個々の価値観が基になっている話なので、水掛け論になりやすい。
古神道と神道の違いは、簡単に「その成り立ちで一番、変化があった戦前・戦後以降」を目安にしています。
神道(祭りタイプ)とは、日本では八百万(やほよろず)の神々がいらっしゃると言われ、森羅万象の現れです。
色んな意見を吸収し、色んな融合を繰り返し、また一番の良い所は
「一つの意見が絶対ではない」「数が多いので色々な考え方が出来る」というところでしょうか?。
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豆知識2として:『仏教』とは【@仏之教(説仏教) A仏説教(仏即教) B成仏教】と考察できます。
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「仏之教」とは仏すなわちブッダ(仏陀)の開いた教えをいいます。
その仏陀は歴史上の人物としては、「ガウタマ・シッダールタ」と呼ばれます。
一般の人達が継承しているのは、お敬いの気持ちを込めて「お釈迦さま」と呼んでいます。難しく言いますと…
釈迦(Shakya・所属種族名) 牟尼(muni・聖者の意味) 仏(Buddha・目覚めた人)
<シャカ族出身の聖者で目覚められた方>
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仏教の展開〜お釈迦様経典の中から自分たちが信じるものを一つ選び、それをもとに教えを説く団体がいくつもあらわれました。これが宗派の興(おこ)りです。
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涅槃宗(ねはんしゅう)、 成実宗(じょうじつしゅう)、 三論宗(さんろんしゅう)、
法相宗(ほっそうしゅう)、 華厳宗(けごんしゅう)、 天台宗(てんだいしゅう)
臨済宗(りんざいしゅう)、 曹洞宗(そうとうしゅう) など
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簡単に時代別に仏教の伝来を見てみると、
・奈良時代には、法相宗、華厳宗、律宗(りつしゅう)などが中国から伝来。
・平安時代には、最澄が天台宗を、空海が真言宗を唐からもたらす。
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現在の日本における仏教の宗派についてみていきましょう。
第二次世界大戦前までは、「13宗56派」といわれていました。そのうち主要な「13宗」については、江戸時代以降かわっていません。13宗をあげてみますと…
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@華厳宗 A法相宗 B律宗 C天台宗 D真言宗
E融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう) F浄土宗 G浄土真宗
H時宗(じしゅう) I臨済宗 J曹洞宗 K黄檗宗(おうばくしゅう)
L日蓮宗
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奈良時代は仏教の黎明期(れいめいき)でした。
「南都六宗」といわれるように、奈良を中心として6つの宗派が活躍しました。
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南都六宗
@三論宗 A成実宗 B法相宗 C倶舎宗(くしゃしゅう) D華厳宗 E律宗
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平安時代には仏教に対して予言や祈祷など、神秘的な力が期待されました。
この時代、唐に渡って仏教を学んだ二人の天才が活躍しました。最澄と空海です。彼らは中国の仏教を基盤としながらも独自の理論をかかげ、日本のオリジナル仏教への一歩を踏み出したといえます。
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最澄
天台宗
もともとあった中国の天台宗の教えに、密教や禅などを組み込んだ。『法華経』を中心とする。
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空海
真言宗
神秘的な修業を行い、この身このままで成仏(即身成仏)を究極の目標とする。
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仏教には「八万四千の法門(教え)」があるといわれ、膨大な数の経典が今に伝えられています。経典・お経はお釈迦さまが書かれたのではなく、お釈迦さまが入滅されてかなり年月を経てから、後の時代の弟子たちが編纂したものです。
しかしそれによって教えの解釈に違いが生まれ、インド→中国→日本と伝わる過程で、新しい経典が次々に生まれることになりました。
僧侶たちは、研究を重ねて多くの経典の中から自分たちが大切にしたいものを選び、それを拠り所として教義を確立していきました。
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根本経典が宗派ごとに違ってくるので、ご本尊も異なっています。それは経典ごとに大切なことを説く仏さまが異なっているからです。
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法相宗は、薬師如来(やくしにょらい)
華厳宗や律宗は、毘盧舎那如来(びるしゃなにょらい)
天台宗は、釈迦如来(しゃかにょらい)他にも臨済宗・曹洞宗なども釈迦如来です。
真言宗は、大日如来(だいにちにょらい)
そして浄土真宗・浄土宗は阿弥陀如来(あみだみょらい)
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また同じ宗派でも寺院によってはご本尊が釈迦如来であったり観音菩薩であったりします。
これは長い歴史の中でお寺が宗派を変えたことに理由があったり、地域の性格に依ることもあります。
四国の八十八カ所礼場などは、宗派に関係なく、観音菩薩を本尊にしていることが多いようです。
仏教の展開を追ってみましたが、仏教自体の歴史も長く、宗派の歴史も長く、今回紹介できたのも、ほんの一部でしかありませんが豆知識としてはこれ位で良いでしょう。
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