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改 訂 W 人生構造


 

「C好意に頼らざるを得ぬ不服」

「@自己本位を自任する在り方」の私たちが「A利己を支持する人々の好意」を注がれることで与えられ支えられる私たちの、“人々の好意”に依存する以外に生きるすべのない自分の限界、その限界の不自由さを全く不服なこととしてその不自由さを一掃してしまいたいと望むような、何者にも束縛されることを拒絶する“自由の意思”

 

解  説

私たちは、「@自己本位を自任する在り方」を「A利己を支持する人々の好意」によって大切に包み込まれることで「B好意を当然と求める自負心」を育まれます。つまり、私たちは“人々の好意”を受けて生きるということが自分にとっては至極当たり前で、それでこそ当然という自負に満ちた受け止め方をしています。

そればかりか、私たちは何者にも縛られることを拒絶し、自分が“人々の好意”に依存して生きる以外にすがるべきもののない現実、それさえも大いに不自由でわずらわしいことと不服に感じていて、“人々の好意”を用済みにしてしまえる超越した存在となってその不自由さを一掃してしまいたい、そのような願いを強く抱きます(「C好意に頼らざるを得ぬ不服」)。

私たちは、それほどに自由な存在であることを人々から容認され、保護されています。

私たちは、“人々の好意”に縛りつけられている自分の現実を不自由に感じる思い上がりを抱き、しばらくの間その思い上がりすらも人々によって包まれながら、苦悩の道を歩みます。

しかし、「C好意に頼らざるを得ぬ不服」つまり“自由の意思”とは、私たちにすべての人々からの心の完全な独立を果たさせ、何者にもとらわれることのない“自由な個人”であることを私たちに与えるものです。

“自由の意思”とは、私たちが人々の対等と平等を肯定し、森羅万象に対してこそ謙虚であるべきことを認め、個の協調による生命のダイナミズムにこそ自己を捧げようとする意欲へと私たちを導く生命のエネルギーそのものの姿、私たちの生きて在ろうとし何事か為さんとするエネルギーそのものの姿に他なりません。


 


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