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改 訂 W 人生構造


 

- 略 記 再 掲 -


 

@自己本位を自任する在り方

“自分の利益の実現を求める自己本位な欲求”に自分をゆだねる在り方、“自分が自己本位であることを自分自身に向かって容認し、その容認を自分の任務として少しの遠慮もない在り方”、つまり“利己”。

 

A利己を支持する人々の好意

私たちの「@自己本位を自任する在り方」をそのままにどこまでも大切に包み込み重んじ、共に助け合う私たちとの日々を願って注ぐ、暖かくて限りのない“人々の好意”。

 

B好意を当然と求める自負心

「@自己本位を自任する在り方」の私たちが「A利己を支持する人々の好意」を注がれることで与えられ支えられる私たちの、“人々の好意”を当然のこととして受け取るべき自分だと自負し、人々に積極的に関わって“人々の好意”の確保を広げていこうとする“自負の意思”

 

C好意に頼らざるを得ぬ不服

「@自己本位を自任する在り方」の私たちが「A利己を支持する人々の好意」を注がれることで与えられ支えられる私たちの、“人々の好意”に依存する以外に生きるすべのない自分の限界、その限界の不自由さを全く不服なこととしてその不自由さを一掃してしまいたいと望むような、何者にも束縛されることを拒絶する“自由の意思”

 

D好意に応えたい協調の希望

「@自己本位を自任する在り方」の私たちが「A利己を支持する人々の好意」を注がれることで与えられ支えられる私たちの、“人々の好意”こそ私たちが生きてある躍動のその基盤のすべてだという認識に基づく、「“人々の好意”に応えて共に助け合い“応分の責務”を果たすことで自分を役立たせたい」と願う“協調の意思”

 

E好意の漂泊を警戒する孤立

“自分が自分のことしか考えないから人々も同じだろう”との類推から今、眼前に注がれる“人々の好意”にも手放しでは信頼することができず、“人々の好意”の漂泊を警戒して全力で人々に迎合する。自分の「B好意を当然と求める自負心」と「C好意に頼らざるを得ぬ不服」を人々の怒りの原因になると判断して隠す一方、自分も人々のそれを恐怖し、「D好意に応えたい協調の希望」の表明を保留して“応分の責務”への積極性を封じ込める。その私たちの“漂泊を警戒する孤立”

 


F好意に応えた生き方の強制

私たちに“三つの意思(BCD)”すなわち“充実と誇りと希望”の“私たち自身”を与え、それをいつの時にも支え続ける「A利己を支持する人々の好意」。その必然性に気づいて人々に対して果たすべき役割に目覚め、「D好意に応えたい協調の希望」の実践を生きる。それを求める人々の指導(強制)。

 

G強制に憤るが飲み込む孤立

「E好意の漂泊を警戒する孤立」での停滞を非難され、「D好意に応えたい協調の希望」の実践を歩まないのなら好意を剥奪するぞと匂わせる圧迫を受け、“三つの意思(BCD)”を糞土のように扱われてそのうえ“自らを決する主体性”を放り出し隷属せざるを得ない屈辱に激しく憤る。しかしすべてを“人々の好意”に依存している身の上ではその扱いにも逆らえずに憤りを飲み込んで、そ知らぬ顔で人々の言い分に従い従順を装う。その私たちの“憤りを飲み込む孤立”

 

H自分の利己を自覚した不安

“憤りを秘める日々”が続き、人々に向けて“素晴らしい無上の存在である自分”を示そうとして思うに任せず自分の心を調べると、かえって人々の圧迫の趣旨に全く背いている「@自己本位を自任する在り方」を自覚する。そこでの「自己本位を自任していると知られては自分への非難が決定的となり“人々の好意”を失うから、決して真実は漏らせない」その判断が私たちに与える不安。

 

I利己を非難する虚言の孤立

「H自分の利己を自覚した不安」を抱える私たちがその不安から逃れようとして、今度は人々の前で自分の利己を非難して見せ、自分の「@自己本位を自任する在り方」を憎む自分であることを主張して人々に迎合し、“人々の好意”をつなぎとめようとする。その私たちの“利己への虚言の孤立”

 

J孤立が歩み得る光明の現実

“非難と圧迫”に“拒絶と抵抗”で応じるが何の成果もなく、かえって自己本位を自覚した不安と言い訳に追われ“三つの意思(@AB)”への過信を思い知らされ、人々に身をゆだねる。そこに「“人々の非難を拒絶して尊厳を守る”と気負ったが、拒絶が挫折した無為の自分も尊厳を守られて“人々の好意”が共に在り、非難を誤解していた気恥ずかしい現実」が開け、人々の非難の真意を究明する。

 

K利己を支持する好意の実践

私たちに“三つの意思(BCD)”すなわち“充実と誇りと希望”の“私たち自身”を与え支える者は人々であり、人々をこそ支えすべてを分かち合うべき自分を知る。そこでの、人々の利己と自分の利己とが“一つの利己による二つの表現(無数の表現)”である事実への自覚と、それに基づく実践。


 


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