ind

01

02

03

04

05

06

07

08

09

10

11

12

13

14

15

16

17

18

19

20


改 訂 W 人生構造


 

人 生 の 構 造(2)

 

 

< 利己の支持 >

 人々の「D協調の意思」が交わり私たちが誕生し、私たちの「@利己の自任」は「A利己の支持」によって包み込まれます。

 

< 警戒の孤立 >

それにより私たちは、“人々の好意”を当然のこととして積極的に要求し受け入れる「B自負の意思」を与えられ、しかも、何者にも縛られることを拒絶して人間の平等と調和へと向かう「C自由の意思」を与えられます。そして、さらに「A利己の支持」に応えることができる者となり人々と力を合わせて生きていきたいと願う希望、つまり「D協調の意思」を与えられます。

“三つの意思(BCD)”に立脚し“充実と誇りと希望”の“素晴らしい無上の存在である自分”。

しかし、私たちはまだその“充実と誇りと希望”が人々によって支えられていることを知りません。

自分にとって“人々の好意”は欠かせないのですが、私たちは“人々の好意”が自己本位の気まぐれなものであってたまたま今は与えられていてもいつ失われてしまうかも知れないものだと案じる「“人々の好意”に対する“必然性への不信”」の中にあり、“誇りと誇りがぶつかれば争いが生じ好意を失う”と警戒して慎重であり、人々を恐れます。

“自分が自分のことしか考えないから人々も同じだろう”そう類推する私たちにとって、人々の「B自負の意思」と「C自由の意思」は危険そのものであり「D協調の意思」は信頼できません。

私たちは、もし「D協調の意思」に基づいて人々に率直な好意を示したとしても、それは人々の「B自負の意思」と「C自由の意思」によってただ都合良く利用されてしまうに過ぎず、私たちの「D協調の意思」の目的である人々との固く結ばれた協力の日々を作り上げていくためには、何の役にも立たないのではないかと案じて「E警戒の孤立」に心を閉ざします。

“三つの意思(BCD)”に立脚し“充実と誇りと希望”の“素晴らしい無上の存在である自分”。しかし、「D協調の意思」を閉ざし“応分の責務”への情熱(積極性)を封じ込めて「E警戒の孤立」に停滞し、“人々の好意”に一方的に擁護されるその場を息を殺したまま動こうとしません。

 

< 憤りの孤立 >

そこで人々は私たちに、「D協調の意思」の積極的な実践を指導します(「F呼応の強制」)。

つまり、“自分だけを満たすのではいけない”と私たちを非難し、次第に自立へと向かわせます。私たちを人々と同様の自立した立場に追いやり、決して一人では生きることのできない自分、しかし利己である自分、そしてその利己を包み込んでいる“人々の好意”であることを知らせ、人々もまた私たちと同様にお互いに支え合うことなしには一日も有り得ない「“人々の好意”の必然」を悟らせ、「E警戒の孤立」を克服させようとします。

自立を促す人々の指導は、一方的な擁護への停滞に執着する私たちに“好意の剥奪”を匂わせる圧迫を伴って行われるため、私たちにとってそれは否も応もない強制と映ります。

私たちにとって“人々の好意”は自分自身の存在の前提であり、“好意の剥奪”を匂わせる恫喝(圧迫)は私たちの“自負の意思”“自由の意思”“協調の意思”を糞土のように扱いその主体性を放り出させ、私たちを狼狽と懇願の隷属に打ちのめす暴挙です。

私たちは「E警戒の孤立」に停滞し非難され、“「D協調の意思」の実践を歩まないのなら好意を剥奪するぞ”と匂わせる圧迫を受け、“三つの意思(BCD)”を糞土のように扱われてそのうえ“自らを決する主体性”を放り出し隷属せざるを得ない屈辱に激しく憤ります。しかしすべてを“人々の好意”に依存している身の上ではその扱いにも逆らえず、そ知らぬ顔で人々の言い分に従い従順を装います(「G憤りの孤立」)。

人々はそのような私たちの表向きだけの従順に満足することなく重ねて「F呼応の強制」をするので、私たちも重ねて憤り“憤りを秘める日々”が続きます。

 

< 虚言の孤立 >

私たちは“素晴らしい無上の存在である自分”への過信から、人々の“非難と圧迫”に対して当然にそれを打ち破ることができる自分であると考えていて、「“素晴らしい無上の存在である自分”に対して人々の認識が不十分であるから、それが私たちへの“非難と圧迫”につながっている」と思い、人々に向い“素晴らしい無上の存在である自分”を示してみせることで人々の“非難と圧迫”を解決することができると考えます。

私たちは、ありとあらゆる方法で“素晴らしい無上の存在である自分”を人々に認めさせようとして努めます。富を望み、地位を望み、体力を望み、美貌を望み、勇気を望み、潔癖を望み、羨望の的であることを望み、美しさ、気高さ、力強さのそれらのすべてこそふさわしい自分を示そうとします。

その中で私たちは、“人々の好意”にももちろん十分に応えられる自分を示そうとして思うに任せず自分の心を調べると、かえって“自分だけを満たすのではいけない”という人々の圧迫の趣旨に全く背いている自分、すなわち「@利己の自任」を自覚します。

“人々の好意”が与えられていてこその自分である私たちは、「自己本位を自任していると知られては自分への非難が決定的となり“人々の好意”を失うから、決して真実は漏らせない」自分の現状をそう判断し、「H利己の不安」に至ります。

「@利己の自任」を人々に責め立てられていると考える私たちは不安に駆られ、人々に調子を合わせる表向きだけの従順に加え、「@利己の自任」を抱える自分を自ら非難してみせ人々の側に立っている自分を主張します(「I虚言の孤立」)。

私たちは「@利己の自任」が非難されるものとばかり誤解していて、人々と一緒にその非難の輪に加わることができれば自分を守ることができるかも知れないと望みをつなぎます。

 

< 光明の現実 >

「E警戒の孤立」での停滞を非難され“好意の剥奪”を匂わせる圧迫を受け(F)、主体性を放り出し隷属せざるを得ない屈辱と秘密にしなければならない憤りを抱え(G)、“非難と圧迫”を一掃しようとして自分の心を調べれば底知れぬ自己本位にその露見を恐れることになり(H)、「自分は利己を憎んでいる」と嘘を並べる空虚(I)、それでいて何の成果も得られない現状。

私たちは実に情けない虚ろな現状を認めざるを得ず、もはや自分を救う手立てを自分自身に期待することができず、“素晴らしい無上の存在である自分”への過信を思い知らされます。

そして、「人々の私たちへの扱いが如何なるものであろうとも、私たちにとって“人々の好意”こそがすべてであるのだから、人々が与える処遇にあるがままの自分をゆだねてそこに道を求めよう」と決断し、人々が与える処遇に身をゆだねます。

そこに「“人々の非難を拒絶して尊厳を守る”と気負ったが、拒絶が挫折した無為の自分も尊厳を守られて“人々の好意”が共に在り、非難を誤解していた気恥ずかしい現実」が開かれ、自分を支えていてくれる者の存在を実感します(「J光明の現実」)。

 

< 支持の実践 >

人々が与える処遇にその身をゆだねることとなった私たちは、人々が私たちに与えた“非難と圧迫”の意味を誤解して受けとめてきた自分に気がつきます。

そして、「@利己の自任」を「A利己の支持」で包み込み私たちに“三つの意思(BCD)”すなわち“充実と誇りと希望”の“私たち自身”を与え、それをいつの時にも支え続ける人々の姿。また、「D協調の意思」を抱きながら「E警戒の孤立」の中でその積極性を限られたものにして封じ込め自分の権利を主張するばかりの私たちをも励ます人々の姿。それらを知るのです。

“人々の好意”は、単に私たちに生き延びるための便宜を提供してくれるばかりでなく、私たちが私たち自身で居られることそれ自体を支え、なおかつ“人々の好意”の享受について“人々にも同様に当然の値打がある”ことについて全く配慮のない私たちとも共に歩み続けてくれています。

私たちは、私たちに“三つの意思(BCD)”すなわち“充実と誇りと希望”の“私たち自身”を与え支えている者は人々であり、人々をこそ支えすべてを分かち合うべきであること、人々の利己と自分の利己とが“一つの利己による二つの表現(無数の表現)”であること、またその事実を自分のものにし孤立を克服していく人々をこそ育て上げなければならない自らの使命を自覚して歩み出します(「K支持の実践」)。

 

私たちは「D協調の意思」を与えられています。だからこそ子を育て、人々を思いやり、支え合って生きるべきことを知っています。

しかし、私たちは自分の人としての欲求を正面から見据え、自分の生きようとするその意欲がどこから生まれ何によって支えられているのかということについて自分自身を明確に知ることがなければ、曇りなく人々の手を握り締め信頼に満ちて人々との協力の道を築き上げて歩むことは叶いません。そこには“三つの孤立(EGI)”が横たわっているからです。

私たちは、“三つの意思(BCD)”すなわち“充実と誇りと希望”の“私たち自身”を与えられいつの時にも支えられ、“三つの孤立(EGI)”に自分を閉ざしながらも私たちが私たち自身で居ることができたその経緯を知り、人々の元へと駆け寄ります。

 

[ 論旨の要約 ]

「@利己の自任」を「A利己の支持」で包まれ「B自負の意思」「C自由の意思」「D協調の意思」を与えられ支えられる私たちは、“三つの意思(BCD)”に立脚し“充実と誇りと希望”の“素晴らしい無上の存在である自分”に満ちて“人々の好意”と支え合う自分を望みます。

しかし、その“充実と誇りと希望”が人々によって支えられていることを知らない私たちは、“自分が自分のことしか考えないから人々も同じだろう”との類推から今、眼前に注がれる“人々の好意”にも手放しでは信頼することができず“好意の漂泊”を警戒して人々に迎合し、「B自負の意思」と「C自由の意思」を隠して「D協調の意思」を保留し、「E警戒の孤立」に停滞します。

人々はそのような私たちを非難して「F呼応の強制」を行い自立へと指導します。指導は“好意の剥奪”を匂わせる圧迫を伴って行われるため、私たちはその“非難と圧迫”に“三つの意思(BCD)”を糞土のように扱われてそのうえ“自らを決する主体性”を放り出し隷属せざるを得ない屈辱に激しく憤ります。しかし、その憤りを私たちは“人々の好意”を失いたくない計算から人々に秘密にします(「G憤りの孤立」)。

私たちは“三つの意思(BCD)”を過信した“拒絶と抵抗”に立ち、“非難と圧迫”を一掃しようとして対抗します。その中で“人々の好意”にももちろん十分に応えられる自分を示そうとして思うに任せず自分の心を調べると、かえって人々の圧迫の趣旨に全く背いている自分、すなわち「@利己の自任」が明らかとなって「H利己の不安」を抱え、「@利己の自任」を言い逃れるために自分を自分の「@利己の自任」の被害者に仕立て上げます(「I虚言の孤立」)。

“三つの意思(BCD)”を糞土のように扱われてそのうえ主体性を放り出し隷属せざるを得ない屈辱と秘匿を要する憤り(G)、「@利己の自任」を自覚する不安(H)、嘘を並べる空虚(I)。

もはや自分を救う手立てを自分自身に期待することができず“三つの意思(BCD)”への過信を思い知らされ、人々の与える処遇に自分をゆだねると「J光明の現実」が開け、人々の指導(“非難と圧迫”)の真意を知ることで「“人々の好意”の必然」を認め「K支持の実践」に至ります。

 

 


index  / 文頭