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改 訂 W 人生構造


 

人 生 の 構 造(4)

 

 

人々は私たちに、「E好意の漂泊を警戒する孤立」を解消して「D好意に応えたい協調の希望」を積極的に実践していくことを求めます。かといって当の人々自体が、「E好意の漂泊を警戒する孤立」を解消して「D好意に応えたい協調の希望」を、必ずしも積極的に実践できている訳ではありません。

 

人々も私たちと同様に「E好意の漂泊を警戒する孤立」を抱え、他の人々から「F好意に応えた生き方の強制」を受けています。人々もまた、「E好意の漂泊を警戒する孤立」を指摘してそれを非難しながら行われる強制に、自分の尊厳が踏みつけにされたと憤り、強制が「@自己本位を自任する在り方」そのものを非難していると誤解しています。

 

それでも人々は私たちに対して、人々自身の「D好意に応えたい協調の希望」に応え得る私たちの生き方を求めます。人々が自分の「D好意に応えたい協調の希望」を自分では積極的に実践できずにいたとしても、彼らが自分の「D好意に応えたい協調の希望」の理想のパートナーとしての私たちを求めることは当然で、それが人々の私たちへの「F好意に応えた生き方の強制」ともなっています。

 

人々の強制を私たちの「@自己本位を自任する在り方」への非難であると誤解し、“人々の好意”を失うわけにはいかず、かと言って「@自己本位を自任する在り方」を離れ去る気持ちもない私たちは、あたかも自分が自分の「@自己本位を自任する在り方」の被害者であるかのような立場を取って、人々に自分の身の上を嘆いて見せます。私たちは、「“人々の好意”の享受について“自分には当然の値打がある”」という確信(「B自負の意思」)の中で、人々に甘えます。

そんな私たちの前に、「F好意に応えた生き方の強制」に正面から応えるような生き方をする人々が現れると、私たちはそれらの人々と自分とを比較されることによって、さらに自分の甘えに満ちた言い訳が暴露されてしまうことになるので、なおさら「H自分の利己を自覚した不安」を積み上げられ、その場から目をそらして逃げ出してしまいます。

 

「F好意に応えた生き方の強制」は、人々の「D好意に応えたい協調の希望」に応じる生き方を私たちに対して求めるところの、人々の“切なる願い”です。その“切なる願い”を私たちは、私たちの「@自己本位を自任する在り方」への非難であると誤解してきました。しかし、その誤解の中で苦しげに言い訳に追われる私たちを、やはり人々の“切なる願い”が支え続けてくれています。

“切なる願い”を抱いていることは人々に向かう私たちも同様のことであり、私たちと人々とはお互いの“切なる願い”に応える生き方を知ることで一体となり、孤立を拭い去ります。


 


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