天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
忌部宿禰子首の年齢 いんべのすくねのこびと First update 2013/10/20
Last update 2014/04/16 654白雉5年生〜719養老3年閏7月15日卒去 66歳 本稿推定 忌部子首の事績 日本書紀と続日本紀には、忌部子首(子人)の記事が比較的に多く残っています。 1.壬申の乱における功臣 2.氏姓のめざましい昇進、「首→連→宿禰」 3.国史編纂事業に参画 4.伊勢神宮奉幣使 5.出雲国司 こうした経歴をもつ広い見識から、以下についても大きな貢献、ないしは関与があったのではないかと考えました。 1.古事記(出雲神話など)編纂助言者 2.(出雲国)風土記編纂の立役者 3.(出雲)神賀事、服属儀礼の立案者 さらに、上記括弧()を除いてみると、もっと大きな視野をもつ事業推進者であった可能性もあります。 以下、彼が歩んだ事績を一つずつ検討していきます。 忌部氏とは 斎部の旧姓が忌部です。音は同じで文語の「いむべ」です。 836延暦22年に忌部宿禰浜成等により、忌部を斎部に改める許可が下りています。 翌年、斎部宿禰広成によって忌部氏の旧記録となる「古語拾遺」が撰上されました。 現存する新撰姓氏録には忌部氏の記述はなく、むしろ、新しい斎部氏として載っています。 【新撰姓氏録 右京神別上】 斎部宿禰。高皇産霊尊の子、天太玉命の後なり。 この高皇産霊尊は日本創世三柱神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)の一人です。 古事記では、忌部の神である天太玉命は、天孫(瓊瓊杵尊)とともに地上に降りた神の一人です。 布刀玉命は天岩窟神話で5人の神々の一人として登場します。天照大神が岩屋に隠れ闇夜になった世を元の戻すため天岩窟の前で、天兒屋命〈中臣連等の祖〉が祝詞をとなえ、布刀玉命〈忌部首等の祖〉が賢木を捧げ、伊斯許理度賣命〈作鏡連等の祖〉が鏡をつくり、玉祖命〈玉祖連等の祖〉は勾玉をつくり、天宇受賣命〈猿女君等の祖〉が踊ったとあります。 天孫降臨の際に従う神も、天兒屋命、布刀玉命、伊斯許理度賣命、玉祖命、天宇受賣命、この5人の神々です。 この神々は後に伴造と呼ばれることになる、連姓を筆頭に造、首など天皇に直接奉仕する集団という意味を持ちます。記紀作成上で生まれた新しい神々である可能性が濃厚です。 「古語拾遺」では、高皇産霊神は3神を生んだとされ、 高皇産霊神が生んだ娘の名は栲幡千千姫命[天祖の天津彦尊(瓊瓊杵尊)の母である。] 生んだ男の名は天忍日命[大伴宿禰の先祖である。] 生んだ男の名は天太玉[斎部宿禰(忌部)の先祖である。] その太玉命が率いる神の名は天日鷲命[阿波の国の忌部の先祖である。] 手置帆負命[讃岐の国の忌部の先祖である。] 彦狭知命[紀伊の国の忌部の先祖である。] 櫛明玉命[出雲の国の忌部の玉作りの先祖である。] 古事記や古語拾遺にあるように、当初、忌部氏は中臣氏と共に宮廷の祭祀権を分掌し協力していました。それが、いつしか中臣氏に独占されるようになります。735天平7年忌部宿禰虫名・鳥麻呂らが朝廷に訴え、それが認められ、伊勢神宮奉幣使に任じられています。それ以降も二氏間でのトラブルが続き、こうした経緯から、808大同2年に「古語拾遺」が平壌天皇の召問に応じて、斎部宿禰広成によって撰上されました。 このように、忌部氏(神璽鏡剣の奉呈儀式)と中臣氏(寿詞の奉読儀式)は双璧の間柄なのです。 (神祇令)歴史上からも、中臣氏同様、忌部氏も古い氏族ではありません。 和田萃によると、「四・五世紀代の王(大王)は最高権力者であるとともに、もっとも有能な司祭者としての側面を備えていたが、五世紀後半ごろから、大王に代わって宮廷祭祀にあずかる物部・忌部といった氏族が出てくる。六世紀(欽明朝)になると、中臣・三輪といった氏族がこれに加わったようである。」 忌部首子麻呂 神代を除いた日本書紀における、忌部氏の初見は645大化1年7月で、忌部首子麻呂が神幣を課すために美濃国に遣わされたことです。(原文:忌部首子麻呂、於美濃國、課供~之幣) 神弊とは「御幣」、「神幣」、「幣」とも言われ、神道の祭祀で用いられる捧げ物(幣帛の一種)で、白い紙(2本の紙垂)を木または竹の棒(幣串)に挟んだものです。 賀茂祭では「阿礼」といわれるものです。 大化改新以前の「首」という氏姓は、一般に地方の「伴造」、もと「県主」であった氏族、村落の首長、或いは渡来系と考えられています。 この東国派遣記事には、次のような当時政府の思惑がありました。孝徳天皇の「上古の聖王のあとに従い、天下を治める」という方針に従い、蘇我石川麻呂大臣が「それには、先ず各地の紳祗を祭り鎮めて、後に政事を謀ろう」とはじめられたものです。まず、東の要である2箇所、すなわち美濃国に忌部首子麻呂、尾張国に倭漢直比羅夫を神幣使として遣わされたのです。 その9年後ぐらいに本稿の忌部首子首が生まれたと思われ、忌部首子麻呂は父親にふさわしい年と思われます。年齢に関しては最後にまとめます。 壬申の乱の功臣 忌部首子首の初見は壬申の乱での672天武1年7月3日の記述です。荒田尾直赤麻呂は忌部首子人とともに古京を守備していました。19歳ぐらいと思われます。舎人から将軍に抜擢された大伴連吹負将軍が乃楽山(今の平壌駅付近)にいたとき、古京(飛鳥?)を守るべきとする赤麻呂の献策により、南に遣わされ、橋を壊し防御壁を築きます。その後、近江の敵に乃楽山が撃破され八口(場所不明)の高台まで南下を許しますが、この防御壁が見え、近江兵は伏兵を恐れ、撤退したとあります。 乃楽山と古京を結ぶ中間に稗田村があります。その東側に近江軍がここまで南下したという八口です。ここは和名抄の大和国添下郡矢田郷のこととする古くからの説がありましたが、現在では、もっと飛鳥に近いところに守備したはずで距離的に無理と否定されています。案外、荒田尾直赤麻呂と忌部首子人らはこの稗田村に防御柵を築いていたのではないでしょうか。 首子、連姓を賜る 680天武9年1月8日、忌部首子は首姓から連姓を賜わりました。 当時としては大変な出世です。4年後に天武天皇は後にいう八色の姓といわれる大氏姓改革を行いますが、このときは、まだ首姓が連姓などにはとてもなれなかった時代です。それも、天皇が向小殿にご出座になり、並み居る王卿等がいる宴席上で、天武の舎人であったと思われる忌部首子首に、連姓とする詔を賜ったのです。このとき同時に昇進した者の記事はありません。弟がいたようで「則ち弟色弗と共に悦び拜ゆ」と、二人の喜ぶ姿を表現しています。涙を流して喜んだのでしょう。並み居る高級官僚の仲間入りです。朝臣、宿禰が出来るまえの世襲となる連姓になれたのです。大事件であったはずです。現在の書物では、「天武朝における賜姓の初見、壬申の乱の際の活躍によるもの」等、冷ややかな扱いです。 帝紀と上古の諸事編纂 忌部子首のいろいろな事績の中でも、天武天皇の詔からはじまった「帝紀と上古の諸事」編纂の一員になれたことは重要です。 【日本書紀 天武10年3月】
丙戌(17日)に、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまう。大嶋・子首、親ら筆を執りて以て録す。 小錦中忌部連として、他の11名とともに「帝紀と上古の諸事」編纂を命じられたのです。天智朝で定められた「小錦中」は後の従五位相当です。王族を除けば、第2位の地位に位置します。天武13年の氏姓改革では、子首はさらに宿禰姓を得ています。 この国史編纂に天皇から指名された12名の中で、大嶋と子首が自ら筆をとって記録したと特に記されています。この中心的な執筆担当である一人大嶋とは中臣連大嶋ですが、もう一人「子首」とは誰を指すのでしょうか。「小首」は12名の中では二人います。小錦中忌部連首と大山下平群臣子首です。ここでの「小錦中忌部連首」は、壬申の乱時は忌部首子人と書かれ、天武9年に連姓を賜い、「子人」とも書かれています。平群臣子首の方は、これ以外事例がないのでよくわかりません。 しかし、執筆は「大嶋・子首」の順となる記述です。身分順と考えられ、この子首は大嶋より低い平群子首のことです。このとき、忌部子首は小錦中で、大山上の中臣大嶋より上位です。また、「忌部連子首」と書かずに「忌部連首」で、「平群子首」と区別して書かれています。よって、執筆を担当したのは中臣大嶋と平群子首だと思います。 ところが、ことはそう簡単ではありません。 「日本古代氏族人名辞典」坂本太カ。平野邦雄監修 吉川弘文館 平成2年版では、 「忌部宿禰子首 いんべのすくねこびと 〜 天武十年三月、小錦中の時、詔をうけて川嶋皇子・忍壁皇子らとともに「帝紀」及び上古の諸事を記し定めることとなり、中臣連大嶋と子首がみずから筆をとって録した。」 「平群臣子首 へぐりのおみこびと 〜 天武十年三月、詔により川嶋皇子・忍壁皇子・中臣連大嶋らとともに、「帝紀」及び上古の諸事の記定作業に参加し、大嶋とともにみずから筆をとって録した。」 二人とも、大嶋と筆をとったと書かれているので困ります。他の論文をみても、岩波版日本書紀の注釈でも、このことを問題視したものは見当たりません。 それにしても、「是日、忌部首首、賜姓曰連」という原文には、少し違和感を覚えます。忌部首首(いんべのおびとこびと)と和訓されていますから、「忌部首子人」と書けばいいのに、わざと「首首」としたのです。嫌み、妬みでしょうか。たぶん逆で、親しみある身近な存在として、気楽に表現を変えているのかもしれません。忌部子首は天武天皇の舎人の一人で、天武天皇の側近として皆からも気に入られていたと思います。 686朱鳥1年9月、天武天皇が崩御されました。 【日本書紀 691持統紀5年8月】
「八月の己亥の朔辛亥(13日)に、十八の氏、【大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・釆女・穂積・阿曇】に詔して、其の祖等の墓記を上進らしむ。」 政務を引き継いだ持統天皇も、天武の国史編纂を意識していました。 持統がまず行ったのは各氏族の墓誌の蒐集です。18もの氏族から墓誌に記された故人の事績、没年齢などを提出させたのです。 それまで帝紀編纂に従事していたのは、王族を除き6人です。その中で、中臣氏と忌部氏は持統の調査の対象になっていません。2氏の詳細な資料はそろっていたと思われます。忌部連子首と中臣連大嶋が深くこの編纂事業に深く関わっていた証拠の一つです。
文武天皇の時代となり、出来上がった大宝律令により官位が改訂されました。 702大宝2年3月11日「従五位下を位一階昇進し従五位上」と書かれています。天武14年から冠位の考え方が位階と大きく変わり、その時の位階がわからず、一概には比較できませんが、黛弘道氏や武光誠氏の強引な手法をもって参考にすれば、元々、小錦中だったのですから、従五位上になったとしても、この時は昇進したとはいえません。 704慶雲1年11月8日、伊勢大神宮に遣わされ幣帛などを捧げた。原文: 遣従五位上忌部宿禰子首、供幣帛・鳳凰鏡・窠子錦、于伊勢大神宮。 この伊勢神宮奉幣使の役目は神道の祭祀で用いられる捧げ物、幣帛・鳳凰が描かれた鏡・竜の爪が描かれた鏡を伊勢神宮に奉納するものです。後に、儀式化されていきます。 その4年後、今度は出雲国司に任じられ出雲に向かっています。机上だけでない、地方祭祀を直に目で見てきた実力者です。父も改新の詔で東国に派遣された実績をもち、天武天皇の崩御後の国史再編成に際しても、中断していたとはいえ、引き続き実質的な執筆担当の一人だったのではないでしょうか。 しかし、おそらくは出雲国司のまま3年で戻っています。この頃は国司の任期は6年(大宝律令以降は4年)ですが、次々と昇格記事が続くため戻ったと考えられます。中央で引き続き何らかの貢献をしていたからこそのと思われます。 大和に戻った711和銅4年4月7日正五位上を授かります。このとき、出雲国司を退いたとする説があります。それでもいいのですが、たぶん身分は出雲守(国司)のままです。この時、太安万侶も同時に同格昇格しています。その場で、元明天皇に両者は引き合わされ、太安万侶の古事記編纂を手助けするよう命令されたのかもしれないと考えるといろいろな意味でぴたり一致します。その後、日本書紀では大幅に削られることになる多くの出雲神話の知識が、古事記編纂に取り入れられたと思われます。この太安万侶の古事記編纂作業は1年で完成しました。 「風土記」撰述の目的 【続日本紀 713和銅6年5月条】
「五月甲子(2日)、畿内と七道との諸国の郡・郷の名は、好き字を着けしむ。 その郡内に生れる、銀・銅・彩色・草・木・禽・獣・魚・虫等の物は、具に色目を録し、土地の沃塉、山川原野の名号の所由、また、古老の相伝ふる旧聞・異事は、史籍に載して言上せしむ。」 一般に諸国に風土記撰述の命を下したとされる記述です。具体的な「風土記」の名はありませんが、地名、産物、古老の伝聞などの蒐集記事は現在断片的に残る「風土記」と考えていいようです。日本書紀編纂を意識した本格的な情報収集といえます。 これも「政府で行う帝紀旧辞の記定に対し、新しい資料を追加蒐集しようとする試み」と考えられます。もっとも帝紀資料には間に合いませんから、地理志などの中国史書大系「書」の体裁を整える予定があったのかもしれません。 さらに、古事記の提出の翌年に出されたこの風土記編纂の詔は、忌部子首による中央政府への献策の結果かもしれません。風土記編纂責任者は国司の役目です。自らも出雲国司として出雲各地元国造に作成を命じたと思われます。そのことでさらに、昇格。そして、翌年から日本書紀の本格的な編纂作業が、別に始まったのです。 出雲国風土記の特徴 出雲国風土記は現存する、常陸、播磨、出雲、丹後、肥前の5風土記の中でも一番完成度が高く、唯一の完本と紹介されることもあるものです。 現在、記紀の記述と相違する出雲神話の貴重な文献と高く評価されています。 三部構成になっています。序文として、国司の忌部宿禰子首の覚書と思われる記述を含む国の総括的記述、本論として合計9つ郡別の郷、社、山野・河川・池・島、植物や地名の由来・伝説・産物、郡境路程などが整然と区分され順に記述されています。巻末に主要道、軍事施設、風土記の完成年月日と最終筆録者、責任者の名が記されたものです。 713和銅6年の詔から20年の歳月を掛け、733天平5年に完成、聖武天皇に奏上されました。 忌部宿禰子首は完成を見ることなく亡くなられています。 風土記などの中央官庁への提出は国司から行われるべきものです。 序文の中にある国司忌部宿禰子首の言葉と思われる挿入句がこれです。 「老、細思枝葉、裁定詞源、亦、山野.浜浦之処・鳥獣之棲・魚貝海菜之類、良繁多、悉不陳。 然、不獲止、粗挙梗概、以成、記趣。」 「老、枝葉を細しく思へ、詞源を裁定し、また、山野・浜浦の処・鳥獣の棲、魚貝・海菜の類、やや繁多にして、悉には陳べず。然れども、止むをえざるは、粗、梗概を挙げて、記の趣を成しぬ。」 「私は、枝葉のことにまで細やかに思案し、伝承の根本にわたって判断をくわえて記定した。また、山や野・浜や浦の所在・鳥や獣類の棲みか、魚・貝・海菜などはいささか繁雑多様であるからそのすべてにわたって述べることはしない。そうはいうものの、どうしても止むをえないところは、その概略を列挙して、記録としての体裁を形づくった。」吉野裕訳 「老」とは「年老いた私」と言う意味で、60歳を超えた国司忌部宿禰子首のことだと思います。さらにこれは考え過ぎかもしれませんが、記の趣とは、自分たちが書いた古事記をイメージしていたのかもしれません。文章も元明天皇の風土記編纂の詔の内容を意識したすこぶる類似した記述になっています。 出雲国は意(お)宇(う)郡(ごおり)に国府があります。出雲大社がある島根県出雲市大社町杵築のはるか東、鳥取市の山中に位置します。この広い国を各郡司が分担して書かれていることも大きな特徴です。 他の風土記は、中央から派遣された国司の手によって編纂された体裁をもつものです。出雲風土記は地元の国造、出雲臣廣嶋によってまとめられたものです。大和への最初の神賀使、出雲国造果安の子です。 序文 記述なし(一部、国司忌部宿禰子首) 意宇郡 郡司主帳海臣、出雲臣 少領出雲臣、 主政林臣 擬主政出雲臣 島根郡 郡司主帳出雲臣 大領社部臣 少領社部石臣 主政蝮朝臣 秋鹿郡 郡司主帳日下部臣 大領刑部臣 権任少領蝮部臣 楯縫郡 郡司主帳物部臣 大領出雲臣 少領高善史 出雲郡 郡司主帳若倭部臣 大領(日)置部臣 主政部臣 神門郡 郡司主計刑部臣 大領神門臣 擬少領刑部臣 主政吉備臣連 飯石群 郡司主帳(日)置首 大領大私造 少領出雲臣 仁多郡 郡司主帳品治部 大領蝮部臣 少領出雲臣 大原郡 郡司主勝部臣 大領勝部臣 少領額田部臣 主政(日)置臣 最終章 秋鹿郡 神宅臣金太理 (編集責任者)国造意宇郡大領出雲臣廣嶋 神賀事(服属儀礼) 話を戻します。 713和銅6年5月 諸国に風土記撰述の詔が下されます。翌年、忌部宿禰子首は従四位下に叙せられました。同年2月に日本書紀編纂がスタートしています。そして、3年後、 716霊亀2年2月 出雲国造果安により最初の神賀事(服属儀礼)が上京し天皇に奏上されました。以降これが国造の代替わりに儀式として定着します。 神賀事は、朝廷が古代の在地勢力による服属儀礼を、代表として出雲国造に命じて行わせたとする説や、出雲国造が自らの系譜を朝廷の神話体系の中に売り込むべく始めたとする説などがあり、定かではないとあります。この儀式は古代日本において他の国造に見られない出雲国造独特の儀式であって、古事記において出雲神話が非常に大きなウェートを占めていることや、国造制の廃止後も出雲国造が存続された理由とも切り離すことのできない儀式なのです。(wiki) 古事記偽書説 このことが、現在になって、古事記偽書説の証拠とされています。 このとき、日本書紀はまだ、完成されていません。だから、出雲国司(朝廷側)から出雲国造(出雲側)への指導はあり得ないとされ、この最初の新賀事(服属儀礼)の4年前にすでに出雲神話が書かれた古事記が完成したとするのはあり得ない、もっと後世の作に違いない、偽書である証拠の一つにされたのです。 出雲国司の忌部子首ならば、古事記の元を天武天皇らとともに築いた者の一人ですから、古事記を引き継ぐ日本書紀が完成する前に、内容が同じ出雲国造神賀詞が行われたとしても、古事記が偽書となる理由にはなり得ないと思います。まさに、この新賀事は彼が指導し、古事記で描いたシナリオ通りの形だったのです。 2ヶ月後、716霊亀2年4月、船秦勝が出雲国司となります。忌部子首がいつ出雲国司を退いたかは定かではありませんが、この時交代したとすると納得できます。 そして2年後、718養老2年1月に忌部宿禰子人が従四位上に叙せられました。翌年閏7月15日、卒去。散位とありますから、すでに出雲国司を引退されていました。稗田阿礼と同等の年齢と考えれば、天武10年を28歳として、時に66歳だったと思われます。 後に、斎部広成(=忌部)は807大同2年に平城天皇の召問に応じて「古語拾遺」が著されました。 中臣氏と祭祀権を争う材料にするためだけに執筆されたと考えるべきではないでしょう。 忌部宿禰子首が残した古事記編纂資料が忌部氏の手元にあったと思います。これを参考にできたからこそ、「古語拾遺」が容易に作成出来たのではないかと考えられるのです。 「古語拾遺」とは古事記、強いては日本書紀の関連性を示す重要な書物と言えそうです。 稗田阿礼との共通姓 本稿では、太安万侶が聞き取りした稗田阿礼とは、実はこの忌部宿禰子首ではないかと考え、状況証拠をひとつひとつ積み上げて記述してきました。 普通、古事記に出雲の記述が多いのは出雲が大和にとって、かなり特殊な位置づけと考えられていました。忌部子首=稗田阿礼と考えれば、国史編纂担当者として、かなり出雲の伝承に精通していたと思いました。出雲の詳細の記録なったのはそのためです。その後に書かれた日本書紀では、出雲の記事を隠すために抹殺したというより、関係のない伝承記事をドライに削除したと考えた方が実務的で無理がないと思います。出雲の特殊性は大和との大きな戦いの有無は別として、大和側にも出雲に詳しい執筆者がいたからなのです。 天武10年の帝紀編纂のメンバー12名です。本稿ではこの中に稗田阿礼が必ずいると考えました。稗田阿礼は天武天皇の舎人の一人です。舎人ですから、王族や臣姓を外します。連もしくは首姓でしょう。さらに太安万侶が古事記編纂を開始する711和銅4年に生存していたのですから、没年が知れるなかで残るのは、忌部子首(719年卒)だけです。 上記のとおり、荒田尾直赤麻呂は忌部首子人とともに古京を守備したとあります。乃楽山と古京を結ぶ中間に稗田村があります。古京を守備するために、稗田村が選ばれたのではないでしょうか。 また「阿礼」とは、賀茂祭では幣帛(白長い紙のついた棒)のことを「阿礼」といわれています。この名が残っていたものと思われます。天武天皇らは若き舎人、忌部子首を、「稗田で名をあげた阿礼(幣帛)」、などとあだ名とされていたのではないでしょうか。 稗田阿礼=忌部宿禰子首でないとしても、二人は同時代に活躍した同世代人です。この年齢はそこから求めました。年齢も相応しいものなのです。 【記紀等史料による忌部宿禰子首年表と年齢予測】 645大化 1年7月 忌部首子麻呂が神幣を課すために美濃国に遣わされた。 654白雉 5年頃 忌部首子首が生まれる。 1歳 672天武 1年7月3日 壬申の乱、荒田尾赤麻呂は忌部首子人と古京を守備した。 19歳 680天武 9年1月8日 忌部首首が連姓を賜う。 27歳 681天武10年3月17日 小錦中忌部連首らが帝紀と上古の諸事の編纂を命じられた。28歳 684天武13年12月2日 八色姓により忌部連から忌部宿禰に改姓 31歳 686朱鳥1年9月9日 天武天皇崩御 33歳 691持統5年8月13日 持統天皇は十八氏に詔して、祖等の墓記を上申させた。 38歳 702大宝2年3月11日 官位改訂に伴い従五位上 49歳 704慶雲1年11月8日 忌部宿禰子首が伊勢大神宮に遣わされ幣帛などを捧げた。 51歳 708和銅1年3月13日 正五位下忌部宿禰子首を出雲守(国司)に任じた。 55歳 711和銅4年4月7日 正五位上を授けられる。国司を退く説あり。 58歳 711和銅4年9月 勅語の旧辞を撰録するよう太安万侶に詔(古事記序文) 58歳 712和銅5年1月 古事記を太朝臣安万侶、元明天皇に献上(古事記序文) 59歳 713和銅6年5月 元明天皇、諸国に風土記撰述の詔が下される。 60歳 714和銅7年1月5日 忌部宿禰子首、従四位下に叙せられました。 61歳 同年2月に日本書紀編纂がスタート。 715霊亀1年1月10日 太朝臣安万侶が従四位下に叙される。 62歳 716霊亀2年2月、出雲国造果安により最初の神賀事(服属儀礼)の奏上 63歳 716霊亀2年4月、船秦勝が出雲国司となる。 718養老2年1月、忌部宿禰子人が従四位上に叙せられました。 65歳 719養老3年閏7月15日 散位・従四位上忌部宿禰子人卒 66歳 720養老4年5月 日本書紀が舎人親王により元正天皇に奏上される。 723養老7年7月7日 民部卿・従四位下太安万侶卒。 733天平5年 出雲風土記完成。 803延暦22年3月14日 右京人正六位上忌部宿禰浜成等は忌部を斎部に改めた。(日本逸史) 803延暦23年2月13日 斎部宿禰広成が「古語拾遺」を撰上。(古語拾遺) 参考文献 飯田季治「古語拾遺新講」明文社S18 佐伯有清「新選姓氏録の研究」吉川弘文館S61 吉野裕訳「風土記」東洋文庫 平凡社1997 「日本古代氏族人名辞典」坂本太カ。平野邦雄監修 吉川弘文館H2 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |