天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
宗像大社と宗像氏 むなかたたいしゃ と むなかたのうじ First update 2013/08/20
Last update 2014/01/31 宗像大社は出雲大社、伊勢神宮に引けを取らない歴史と規模を有する神社です。 宗像総社は福岡県宗像市田島2331にあります。 まず、カタログ、ホームページの記事などから概要をまとめます。 宗像大社URL http://www.munakata-taisha.or.jp/ 宗像大社の御祭神 宗像大社とは以下の三宮を総称したものです。 沖津宮(おきつぐう) 沖ノ島 田心姫神 (たごりひめのかみ) 中津宮(なかつぐう) 大島 湍津姫神 (たぎつひめのかみ) 辺津宮(へつ ぐう) 宗像市田島 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ) 韓国釜山と沖ノ島145km(真中に対馬)、沖ノ島と大島49km、大島と総社辺津宮11km 宗像大社の由緒 宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、昔から外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。 「日本書紀」には、「歴代天皇の政を助け、丁重な祭祀を受けられよ」との神勅(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、お祭りされるようになったと記されています。宗像三女神は天照大神と素戔嗚尊の誓約のもとに誕生したとあります。 天照大神の神勅により、大陸との交通の要路にあたる「海北道中」(宗像より朝鮮半島に向かう古代海路)に降臨)、以降、国家の守護神として崇敬されてきました。 沖ノ島(沖津宮) 九州と対馬とを結ぶ玄界灘のほぼ中央に位置します。 紀元前3,500頃 沖ノ島に生活遺蹟あり。縄文時代前期文化の遺物。その土器の破片は約3,700点にのぼり、それ等の口縁部破片より観るに、その個体数は250余に達す。 4世紀後半より7世紀中葉に至る約3世紀の長期にわたり、大和朝廷による大規模なる国家的祭祀が行われたと推定される。その祭祀遺蹟の大規模なること、わが国においては類例を絶し、遺蹟は19箇所、その中調査等で10箇所、発見せられし祭祀遺品は21,000点に達す。その後の調査にて、祭祀遺品は22箇所となり、祭祀遺品も新たに数千点発見される。 4世紀後半から9世紀末にかけて、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかり、そのうち八万点が国宝に指定されました。これらの宝物は国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、神様にお供えされたものです。 奈良時代を経て9世紀末遣唐使の廃止される以降、急速に衰退した。 主体は5〜7世紀応神〜天智天皇の三韓撤収辺りといわれる。 この神宝は、神宝館に所蔵、展示。その他、二千数百年前に交通安全のためにお供えされた、人、馬形、舟形といわれる石製の形代(代用品)などが国宝となっている。 その内容や遺跡の規模の大きさなどから、沖ノ島は「海の正倉院」と言われています。 住人はなく、神職のみ女人禁制の神の島として、宗像大社の管理下にあります。
大島(中津宮) 中津宮は島の南側にあり北側には沖津宮遥拝所があり、天気の良い日に沖ノ島が拝める。 鎌倉時代まで遡ることができる七夕伝説発祥の地といわれています。 「正平年中行事」(1346)には「七月七日、七夕虫振神事」とあり、境内にある牽牛社、織女社に参籠し、水に映る姿によって男女の縁を定める信仰あります。 宗像総社(辺津宮)宗像市田島 本 殿 国の重要文化財。1578天正6年に大宮司宗像氏貞が再建。 柿葺の流麗な屋根、五間社流造の建物で、安土桃山時代初期の特色があります。 拝 殿 国の重要文化財。1590天正18年、時の筑前領主・小早川隆景が再建。 切妻妻入造で、屋根は本殿と同じく柿葺。 祈願殿 約800台収容できる、第一駐車場前ある。車のお祓い、交通安全、安全運転を祈願。 (本来は海の航行上のお祓いが重要な役目だったと思われます) 高宮祭場 上高宮遺跡として、宗像三女神の降臨地の伝承地。 沖ノ島と並び我が国の祈りの原形を今に伝える全国でも数少ない古代祭場。 第二宮・第三宮 第二宮に沖津宮の田心姫神を、第三宮に中津宮の湍津姫神。伊勢神宮の 第60回式年遷宮(昭和48年)に際し、特別に下賜された別宮古殿を移築再建したもの。 神宝館 古代、神体島 沖ノ島で行われた大和政権による祭祀で奉献された約80,000点におよぶ国宝の神宝類は、神威を象徴する至宝として社宝の要。重要文化財の中世文書や阿弥陀経石、石造狛犬などは、宗像一族の大いなる繁栄を物語る貴重なものです。皇室をはじめ、福岡藩主など多くの人々の敬神の念をしのばせる逸品の数々。宗像三女神への信仰の尊さに触れることのできる展示空間です。 主な祭事一覧 ○春季大祭(4月1〜2日) 一年に一度、虫干しを兼ねて宗像大社で所蔵する神宝や古文書を一般公開していた「保存会」に始まるお祭りです。「主基地方風俗舞」など。 ○夏越の大祓式・夏越祭 大祓神事を中心に行われ、古歌を奉唱しながら神職と共に茅の輪をくぐり、厳しい夏を健やかに過ごせるよう祈ります。 ○七夕祭(大島
中津宮) ○秋季大祭(田島放生会)10月1日から3日まで 秋季大祭の幕開けを飾る「みあれ祭」から始まり、古式ゆかしい祭典が執り行われる「高宮神奈備祭」で幕を閉じます。1日目に「主基地方風俗舞」が、二日目には「流鏑馬神事」と「翁舞」が 、三日目には「浦安舞」と「悠久舞」が奉奏される。 ○古式祭 12月15日に近い日曜日 午前6時斎行【場所】
清明殿 道主貴〜あらゆる道を司る最高神〜 宗像大社は、またの御名前を「道主貴(みちぬしのむち)」 「日本書紀」によれば、国民のあらゆる道をお導きになる最も尊い神として崇敬を受けたことが記されています。古代より、「道の神様」としての篤い信仰を集めていたことを表しています。 宗像大社は、交通安全の守護神として人々から篤く崇敬されています。 「貴(むち)」とは最も高貴な三神に贈られた尊称 宗像大社の道主貴 (みちぬしのむち) (宗像三女神) 伊勢神宮の大日靈貴(おおひるめのむち) (天照大神) 出雲大社の大己貴 (おおなむち) (大国主命) 以下、さらに深く追求してみました。 神勅について 神勅額を宗像大社では三女神鎮座の根幹として、宗像三宮それぞれの拝殿に掲げています。 宗像大社のホームページ、カタログは、三女神を天照大神の子とした、日本書記の神代第六段一書の記述を採用していますが、日本書記正伝や古事記を確認する必要があります。 日本書紀神代第六段正伝 素戔嗚尊は根国に旅発つに先立ち、別れの挨拶をしようと高天原の姉、天照大神を訪ねた。天照大神はこれを疑い武装して身構える。素戔嗚尊はここで男を生めば心は清く、女なら邪心があると誓約します。 そこで、天照大~は素戔鳴尊の十握劔を取り三つに折り、天の眞名井で振りすすいで、カリカリと噛み砕き吹き棄てた。細かな霧から田心姫、湍津姫、市杵嶋姫の三女神が生まれました。 一方、素戔鳴尊は天照大神が身につけていた、みずらと八坂瓊の五百箇の御統を取り、噛みちぎり吹き出したところ、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(天孫、瓊瓊杵尊の父)、天穂日命(出雲臣・土師連等祖)、天津彦根命(凡川内直山代直等祖)、活津彦根命、熊野橡樟日命の五男神が生まれました。 天照大神が言うには、私のものから生まれた五男神は我が子であり、三女~は素戔鳴尊に授けた。これが、筑紫胸肩君等が祭る~です。日本書記はさらに3つの別伝を紹介しています。 一書(第一)では、天照大神は自ら誓約し、素戔嗚尊の心が清ければ男を生むといい、自分の持つ十握劔からは瀛津嶋姫、九握劔から湍津姫、八握劔から田心姫の三女~が生まれます。素戔嗚尊もやはり自分の五百箇の御統の瓊から五男神を生んだ。勝ち邪心がないことが判り、日~は生んだ三女~を筑紫洲に降ろし「汝三~よ、宜しく降り居る道中の天孫を助け奉り、天孫の爲に祭られよ」と教えた。 黄色の部分が宗像大社拝殿に掲げられた神勅額漢文です。このように、本伝と内容が真逆になっています。宗像大社はこれを採用しましたが、三女神の名前は本伝としました。 他に二つの「一書」がありますので、確認しておきます。 一書(第二)では、二人一緒に誓約し、天照大~の希望により、自分の剣を素戔嗚尊に、逆に曲玉を受け交換します。八坂瓊の曲玉から生れた~が市杵嶋姫命、遠瀛にいるです。同様に瓊の中から生れた~を田心姫命、中瀛にいる神で、瓊の尾から生れた~を湍津姫命、海濱の神です。あわせて三女~。素戔嗚尊も天眞名井に浮かび寄せた剣をくい切って吹出され気の中から五男神が生まれました。 一書(第三)では、日~は、素戔嗚尊に悪い心がなければ、男の子を生むだろう。さすれば、私の子として、高天原を治めさせようと言います。先ず、自分の十握劔を食べ生れた子は瀛津嶋姫命、又の名を市杵嶋姫命、九握劔から湍津姫命、八握劔から田霧姫命。そこで、素戔嗚尊は自分の五百箇の御統の瓊から六男神を生みます。素戔嗚尊の勝ちです。日~が生んだ三女~は葦原中國の宇佐嶋(豊前国宇佐説もあるが、一般には沖ノ島を指す)に降り住まわせました。名付けて道主貴(道中の神)と申します。筑紫の水沼君等が祭る~がこれであると記されました。 さらに古事記は、日本書記の正伝と同じですが、三女神を須佐之男の子であり、胸形の地にいて宗像君等があがめ祭る三座の大神である、とはっきり紹介しています。ただし、固有名や勝敗の件は一切論じていません。 【古事記 上 天照と須佐之男の天安川誓約】 完全武装した天照は須佐之男に「邪心のないことがどうしてわかるのか」と問うと「それぞれ誓約をして子を生みましょう」と答えました。天照大御神が先ず建速須佐之男命の十拳劔を受け取り、三つに打ち折り、噛み砕き、吹き出た霧から生まれた神の御名は多紀理毘賣命、又の名を奧津嶋比賣命。次に市寸比賣命、又の名を狹依毘賣命。次に多岐都比賣命。〈三柱〉。一方、速須佐之男命は天照の左の角髪に巻いた八尺勾玉の五百津の美須麻流珠を取り、天の眞名井に振り滌いで噛み砕き、吹き出た霧から生まれた神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(天孫瓊瓊杵の父)。右の角髪に巻いた珠からは天之菩卑能命(出雲系初志の祖神)。御鬘に巻いた珠からは天津日子根命。左の御手に巻いた珠からは活津日子根命。右の御手に巻いた珠からは熊野久須毘命(島根県八束郡の奇し霊の意)。〈五柱〉 この結果を天照大御神は次のように告げます。後に生まれ五柱男子は我が物實から生まれたから我が子です。先に生れた三柱女子は汝の物實からですから汝の子です。よって、多紀理毘賣命は胸形の奧津宮に坐す。市寸嶋比賣命は胸形の中津宮に坐す。田寸津比賣命は胸形の邊津宮に坐す。この三柱神は胸形君等のあがめ祭る三座の大神である。 基本的に記紀神話は天孫、瓊瓊杵尊は天照大神の孫として描かれています。ですから、五男神は天照大神の子のはずです。素戔嗚尊による三女神は素戔嗚尊の子です。 読み直すほどに感じることは、出雲神話と同じにおい、戦いの足音が聞こえることです。大和の神、天照大神はいつも、素戔嗚尊に対し、完全武装しています。しかし、力ある荒々しい地方の代表神、素戔嗚尊はむしろ、そんな天照大神を懸命になだめようとし、高天原まで訪れているのです。 古事記に詳細に紹介された出雲神話は日本書紀では削除されてしまいましたが、ここでははっきりと勝負しています。誓約で五男神を生んだのは素戔嗚尊が正しいのですが、天照大神の子供にされてしまいます。三女神は素戔嗚尊の子なのですが、天照大神によって地上に降ろされ、後の天孫の為に力を尽くせと命じているのです。いつの間にか、三女神も五男神もすべて天照大神に従う子供達になっているのです。 天照大神は後の持統天皇の姿を写したものと言われています。ここで生まれた五男神の一人、瓊瓊杵尊の父正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は草壁皇子に比定されます。天武と持統との間に生まれた草壁皇子は九州で生まれているのです。 【日本書記 神代系譜】
天武天皇と宗像氏の関わり 天武天皇と宗像氏との関わりは明確で。宗像君徳善の娘、尼子娘を娶り、高市皇子が生まれたことです。 【日本書紀 天武2年状】
宗像は宗形、胸形、胸肩とも表記されています。「君」姓は天武の八色の姓により、「朝臣」姓に昇格しています。 また、天武天皇自身も若き大海人皇子時代に、兄、中大兄皇子(後の天智天皇)とともに九州に赴いており、少なくとも、この地で草壁皇子と大津皇子が生まれているのです。 類聚三代格によると、893寛平5年10月29日の太政官符に引く氏人、高階真人忠嶺等の解状に、かつて高市皇子が氏賤・年輸部物を分かち宗像の神舎を修理させ、永例としたことが見えます。高階氏は高市皇子の後裔氏族です。 先日、九州宗像大社の高向正秀宮司様とお会いしたおり、高市皇子の母、尼子娘の話で盛り上がりました。尼子娘は九州宗像君徳前の娘です。魏志倭人伝の記述から、九州出身の母をもつ高市皇子は入れ墨をしていたかもしれないと私見を述べましたところ、むしろ、母の尼 子娘が胸から肩まで入れ墨があったのではないかとおっしゃるのです。なるほど、日本書紀は宗像氏を胸肩氏とも表記しているからです。私は、尼子娘は胸の豊かな美しい女性だから宗像を胸形と書いたと思っていたといったら、面白がっておられました。 宗像郡海部郷 吉田東吾「大日本地名辞典」によれば、和名抄にも載る古い地区。「今岬村神湊村なるべし、天武帝妃、胸形君の女に尼子の名あり、尼子すなわち海部子の謂にて此中郷の所因ならん」とあります。 宮地獄古墳 この古墳は、宗像君徳善の墓という説があります。福岡県福津市宮司元町の宮地獄の中腹に近いところに存します。一名王塚とも呼ばれ、円墳で壮大なものです。全国でも二番目という巨石を用いた横穴石室があります。現在の宮地獄神社(宗像75社の一つ)の奥宮として不動神社と称しています。 宗像神社史によれば、「その後、大和においては、胸形徳前の女尼子娘が、後の天武天皇たる大海人皇子の妃として後宮に入り、宗像氏が皇室と特別の関係をもつようになって、そのことが一層進んだと見るべきであろう」確かに、年代的にもこれに相応しい古墳です。 宗像氏とは 【新撰姓氏録 右京神別下】 宗形朝臣。大神朝臣と同じき祖。吾田片隅命の後なり 大神朝臣は素佐能雄命の六世孫。大国主の後なり 【新撰姓氏録 河内国神別】 宗形君。大国主命六世孫、吾田片隅命の後なり 【西海道風土記逸文−「防人日記(下)」より】 「西海道の風土記いわく、宗像の大神が天から降って埼門山に居られた時に、青蕤の玉をもって、(一本に八尺絮蕤玉とある)奥津宮の表象とし、八尺瓊の紫の玉をもって中津宮の表象とし、八咫の鏡をもって辺津宮の表象とし、この三つの表象をもって神体の形として三つの宮に納め、そして納隠れ給うた。それで身形の郡という。その大海命の子孫は、今の宗像朝臣等がこれである。云々。」 宗像神社史によれば、「宗像三女神には劔玉から化生されたという伝承があるが、これは西海道風土記逸文に三女神の神体をいって、奥津宮には青蕤玉、中津宮には八尺蕤紫玉、邊津宮には八咫鏡を、それぞれの「表」として留め置いたと見えていることと併せ考えるべき問題である。「物實」(古事記)、「物根」(日本書紀)、「表」(西海道風土記逸文)というのは、ともに後世の神の「みしるし」・「神體」・「御霊代」のことである。沖ノ島の祭祀遺蹟からは鏡・玉・劔など夥しい遺物が発見されている。〜従って、悠久の古から、三女神を奉祀する三宮の祭祀が、相並んで行われたことを示すものと考えられる。」 「いずれにしても、宗像族による原初的な祭祀は、早くから出雲的乃至地方的のものをその根底に置いていた。」 宗像氏の出自 【古事記 上 大国主の神裔】 ゆえに、この大國主神、胸形の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣命を娶り生める子は、阿遲鉏高日子根神(雷神)。次に妹高比賣命。亦の名は下光比賣命。この阿遲鉏高日子根神は、今、迦毛大御神(葛城村に鎮座する神)という也。〜 【先代旧事本紀 四、地神本紀】 宜しく筑紫國宇佐嶋(豊前国宇佐郡宇佐)に降り居して、北海(海北)の道中に在るべし。號を道主貴と曰ふ。因て之に教えて曰く、「天孫を助け奉り、天孫の為に祭所よ。」則ち宗像君の祭所の神なり。一云、水沼君等の祭神は是なり。 宗像氏系図 【先代旧事本紀四地神本紀】
新撰姓氏録や先代旧事本紀にあるように、出雲系の大物主神が宗像三女神と結びつき、その六世の孫である吾田片隅命の後裔が宗像君とされることからも、その出自は出雲系です。 大和朝廷との関わりに関しては、天孫降臨の前のことであり、宗像は出雲より早く大和王朝に同調した様子がうかがわれると思います。 文献史料からみる宗像 宗像神社史によれば、「垂仁天皇の御代、任那に日本府が置かれ、次いで景行天皇の筑紫巡行、神功皇后の三韓征伐等による九州の地、及び沖ノ島・大島・田島が海北道中の要衝の地として重要視される条件を具備するに至った頃、また応神・履中天皇の御代に皇室が当社に或いは織女を献じ、或いは部民を寄せられるなど、格別の崇敬を致されるに至った時代に入ってのことと思われる」とあります。 ●神功皇后の征新羅の役に、宗像大社、神助を加へ賜う。【三代実録、貞観12年2月15日条】 ●応神41年、天皇崩御と同じ月に阿知使主らが呉より筑紫に至る。その際、胸形大~が同行した工女を求めたとあります。阿知使主は兄媛を工女として胸形大~に奉りました。これが筑紫國の御使君の祖です。その後、大和に着いた阿知使主は大鷦鷯尊(仁徳天皇)にも三婦女を奉ったのです。この女人等は呉衣縫・蚊屋衣縫と呼ばれました。【日本書紀、新選姓氏録】 ●履中5年3月1日、筑紫に居た三~が大和の宮中に対して言はく、「何故我が民を奪うのか。吾、今、汝を慚みせむ」(領民収奪の託宣)と。三女神への祈祷のみで、祭祠がなかったからです。 同10月皇妃が亡くなります。天皇は皇妃を失った理由を求めました。ある者曰く、「車持君は筑紫國に赴いたおり、人民を調査し、貢納物を徴発し、さらに充~者(神戸)までも奪取しているからです」と。すぐに天皇は車持君を呼んで問いただし真実とわかります。「車持君とはいえ、縱に天子の百姓を検校した罪一也。さらに、神に分け寄せまつる車持部を重ねて奪い取った罪二也」よって、惡解除・善解除(お供えの為の一切)を責任を負わせ、長渚崎(尼崎市長州)に出して、祓え禊ぎをさせます。詔して曰く、「今より以後、筑紫での車持部支配を停める」と。乃ちことごとく取り收め、それぞれ三~に奉る。【日本書紀】 ●雄略9年春2月甲子朔、凡河内直香賜と采女を遣わし、胸方~を祀らしめたまう。このとき香賜が采女を奸す。天皇、これを聞いて曰く、「~を祠り福を祈るのは、慎みがなければならぬ」と難波日鷹吉士を遣わし誅そうとしました。香賜は逃亡します。天皇はさらに弓削連豐穗を遣わし、普く國郡縣を求め、遂に三嶋郡藍原(茨木市大田)に於いて、捕らえこれを斬る。さらな天皇新羅親征を宗像神の神戒により、これを停め給う。【日本書紀】 ●大化の頃、宗像郡建置せられ、ついで神部として宗像社に寄進せらる。【令集解16選叙令同司主】 673天武2年、胸形君徳前の娘、尼子娘を天武天皇の宮人として納め、高市皇子を生む【日本書記】 684天武13年11月、胸形君姓から朝臣姓を賜る。 698文武2年3月9日、筑前國宗形・出雲國意宇二郡に限り、三等親以上の郡司連任(親族が続けて任用すること)を許された。【続日本紀】宗像大領(郡司の長官)と宗像神主を兼帯し、隠然たる勢力をもった。 709和銅2年4月、宗形朝臣等抒 筑前國宗形郡大領。外従5下より外従五位上。 721養老5年1月25日、正7位下胸形朝臣赤麻呂に絁十疋。【続日本紀】 723養老7年1月16日 筑前國宗形郡八神郡の少領以上の親の連任を許される。【令集解】 738天平10年2月、筑前國宗形郡大領宗形朝臣鳥麻呂が宗像神主として外従5位上を授かる。 745天平17年6月、筑前國宗形郡大領宗形朝臣與呂志が外従5位下。 745天平17年1月7日、宗形朝臣赤麻呂を外正五位上。【続日本紀】 752天平勝宝4年11月筑前國宗像郡荒城郷の戸主、宗形朝臣人君、優婆寒を勧進。 767神護慶雲1年8月4日、筑前國宗形郡大領外従六位下宗形朝臣深津外従五位下を授ける。僧寿応の勤めにより玄海町鐘崎も船瀬を築造する。妻、無位竹生王に従五位下。【続日本紀】 778宝亀9年4月、外従8上より外従五位下宗形朝臣大徳、筑前國宗形郡大領。 781天応1年、この頃、辺津宮に宗形三所大神を合祀す。この頃、宗形社造営か 798延暦17年大領兼神主外従五位下宗像朝臣池作卒去。郡司の世襲を廃した。 800延暦19年12月4日、宗像氏による宗像大領と宗像神主との兼帯を停めしめられた。【類聚三代格7太政官符】 925延長3年10月9日、諸社宮司ともに宗像宮司も上宣の官符によって補任せられる【日本紀略】 「宮司」職名この頃からか。 源清平 九州宗像宮の大宮司初代。光孝天皇の孫、一品式部卿是忠親王の二男、 宇多天皇の甥、醍醐天皇の従兄弟 877元慶元年、源清平誕生 902延喜2年、文章生 903延喜3年、従四位下 授けられた。以降 諸国の守や勘解由長官・右大弁などの要職を歴任。 912延喜12年、臣籍降下 清平王改め、源朝臣清平(尊卑分脈) 941天慶4年、参議 公卿に列す。太宰大貳を兼ねる。 942天慶5年、太宰府に赴任のため奏上。当時、太宰帥は欸官、事実上の太宰帥として赴任。 在任中、宗像宮の菩薩位を授けられた。はじめて、宮司を置いた、とされる。(ともに、疑問説あり) 945天慶8年、認知太宰府にて薨去(69歳) 「当時、地方の発展は中央の皇族・貴族を崇めること甚だ深く、その門流を地方に迎えると、これを中心に縁を結んだことは、清和源氏、桓武平氏の例でも明らかである。宗像氏の場合には、よく似た例として、九州菊池氏の場合を挙げることができる。宗像氏も同様で、初代「清氏」なる人物が創出されたと想像される。その中納言なる官も、清平の参議がいつしか昇らせて行ったによるものであろう。 他説もあるが、その類を外れない。成立は鎌倉時代の頃と思われる。」宗像神社史 979天元2年、太政官符によって宗形氏能がはじめて大宮司職に補任。 1094嘉保1年、氏助の弟氏季が大宮司になってから、いくつかの分流ができたことに相まって、極めて複雑な相承関係が展開されるに至った。 本来が氏中の長者によって、大宮司職が継承されるという原則の崩壊であり、同一人物の再任・三任・五任に及ぶものもあるに至った。 1132長承元年、武力による大宮司の争奪となり、宗像社は風潮のまにまに、鳥羽院□と特殊関係を結び、皇室御領の班に入り、その庇護のもと存立を全うした。 代数もほぼ統一されてはいるが、79代とするものと80代とするものがあるようです。 明治に入り、すべての神職の世襲は廃止された。 このように、宗像大社は、出雲大社と同等であり、それ以上に高市皇子や朝廷から庇護を受けています。698年には宗像、出雲二郡だけ、三等親以上の郡司連任(親族が続けて任用すること)を許されました。しかし、798年には郡司の世襲を廃止されます。(出雲大社も同じ)800延暦19年12月4日、宗像氏による大領と神主との兼帯を停められてしまい、すべての神社と同格にされたのです。祭政分離を意味し、一大変革と言えるものです。一時的に急速に衰退、源清平を九州宗像宮の大宮司初代として迎えた形を取りながら、逆に中央の歴史に頼らない独自の宗像の歴史が始まり、今日に至ると考えられます。 【10世紀初頭に遡る宗像氏系図】
参考文献 宗像神社史 上・下・附巻 宗像神社復興基制会 吉川弘文館1966 宗像大社URL http://www.munakata-taisha.or.jp/ ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |