天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
志賀海神社と阿曇氏 しかうみじんじゃとあずみうじ First update 2014/02/26
Last update 2014/03/11 読み 現在の志賀海神社は、神名帳では志加海神社、景行紀に志我、万葉集に鹿、四可、之加、同郡に志訶郷、釈日本紀には風土記を引いて、資訶嶋などと一定していません。 古事記伝の本居宣長などは、「古い書物にも清音の字を書いているので、『しか』と清んで読むべきである」とし、読みも「しかノわたつみノかみノやしろ」と読むように指示しています。海=海神(わたつみ)だからです。 阿曇は安曇とも書かれます。全国に大きな広がりを見せていますが、この2種で安定しています。「海積(あまつみ)」から阿曇となった説が有力とされています。また、本居宣長は「阿曇の曇の字は、『どむ(どん)』の音を転用している」ともあり、現在の高島市安曇川を「あど」と発音しているのも納得できます。 場所 志賀は志賀海神社の所在地(福岡市東区志賀島)、筑前国糟屋郡志珂郷 阿曇は阿曇郷(福岡市東区と福岡県糟屋郡新宮町付近)の一体。志賀の地区も阿曇氏の本貫地として含む考え方もありますが、ここではあえて区別します。 「糟屋郡を和名抄には、加須也と註し、阿曇・志珂・香椎・柞原・勢門・池田・大村・敷梨・厨戸の九郷を載す。但し大村・敷梨・厨戸諸郷は今其所在詳ならず」(帝国地名辞典) 阿曇氏同族 阿曇犬飼連・海犬養(無姓・連・宿禰)=犬養の伴造に任じられます。 凡海氏=海(部)氏の有力氏が名乗る。海部の伴造、阿曇氏と同祖関係を主張しています。 八木氏=和泉国和泉郡八木郷。海~・綿津見~の後裔と称します。 阿曇氏の足跡 阿曇氏勢力範囲は筑前・肥前・豊後・対馬・周防・播磨・隠岐・伯耆・阿波・淡路・畿内・近江・信濃など。美濃や山河の厚見・渥美の地名を東国進出として説く説もあり、広大です。 阿曇氏を南方系異民族とする見解もあります。あり得る話と思いますが、根拠が乏しく、手放しには賛成できません。 主題 ここでは、視点を大和ではなく、北九州において考えます。 主題は、阿曇氏の本貫地を筑紫国志賀島とすべきか、という点に限定します。 これに疑問を呈した樽崎干城氏の考え方に本稿は驚かされましたが、その論点には注目した一人です。 この点をまとめ、志賀島神社と阿曇氏との関わりを考えてみました。 概要 古来、北九州沿岸は海部集団の根拠地として名実共に広く認められていました。結論を先に述べれば、綿津見神が北九州のあらゆる海部氏族の信仰の対象でした。その綿津見神を阿曇氏も信仰していたということです。そのなかでも阿曇氏は北九州でも屈指の有力氏族です。北には宗像氏がいました。阿曇氏は綿津見(海神)三男神を祀り、宗像氏は三女神を祀っています。いわばペアー神といえるのです。当初、綿津見神の方がメジャーであり、広く各氏族が綿津見神を信仰していたと考えられます。 記紀文献を通して大和朝廷の立場からみると、後に宗像氏は女性を朝廷に納めることで、その地位を確保し、宗像信仰を広めたと思われます。 阿曇氏において、大和との関わりは宗像氏より古く、難波津の阿曇江に拠点を持つなど、どちらかというと、商業に根ざしたもっと広範囲な船貿易を実践していた氏族と考えます。新撰姓氏録でも、阿曇氏は海部の伴造とあります。中央に対し、阿曇氏は海産物などの貢献により、主な職掌と考えられています。だからといって、阿曇氏が全国海部の長などと初めからうがった考えは持ちません。海部の一つが阿曇氏です。大海人氏という氏族もいますが、むしろ、大海人氏は逆に阿曇氏の一氏族にすぎません。 現在は志賀島内部に綿津見三神を集約して祀られていますが、本来はもっと広大な三カ所の拠点による制海権を誇っていたと思います。隣の宗像三女神の沖ノ島、大島、陸の辺津と現在まで維持された貴重な例に見ても、綿津見三~はかつて対馬、壱岐島、志賀島の三島、もしくは今は知られていない陸の拠点があったのではないかと想像できます。憶測を進めれば、香椎宮がそれではなかったかとも思えます。 綿津見~は阿曇氏だけの~ではありません。北九州の多くの海部族の~だったはずです。だから、古代中国の金印が、今から見れば離れ小島の志賀島から出土したからといって、不思議なことではないのです。 阿曇氏の地が北九州海運族として、志賀島に近い福岡県糟屋郡近辺に集中していたことから、阿曇氏が祭祀を司る立場にいたことも当然です。実力者であったことでしょう。 九州に基盤を持つ、海の一族が世界を相手に海運業を生業として活躍し、日本の各地に広がり、大和朝廷とは一線を引きながら、最後には悲劇的な対立と拡散していったこの大氏族を分析します。 阿曇氏は古代日本において屈指の大氏族の一つであったと考えています。 志賀島から出土した、金印 以下、福岡市博物館ホームページから引用 「一辺が2.3cmの金塊でつまみは蛇をかたどられている小さなもの。 文字は「漢委奴国王」 読みは「漢の倭の奴国の王(かんのわのなこくのおう)」 福岡市博物館 http://museum.city.fukuoka.jp/ 1784天明4年に偶然に、田んぼから掘り出された。今その場所は海中に没したが志賀島の金印公園の海側に当たる。古老の証言と阿曇家に伝わる「筑前国続風土記附録」に付いていた絵図で確定した。」 目的は定かではありませんが、古代中国との関係を示す貴重なものです。 なぜ、志賀島に埋められたかについて。 「墳墓説」「隠匿説」など偽物説まであります。この地区全体の守護神である綿津海神を祀る志賀海神社によって大切に厳重に保管されていたと考えれば、矛盾はありません。元は高台に大きな社があったはずです。後に津波などで、倒壊したと思われます。これを思い起こさせるように現在の志賀海神社は島の頂きにあり、しかも南面に移築されています。この地方、奴国の~であり、その~を祭る綿津見三神。ここから出土されたことは至極当然です。 天武天皇の幼名は大海人皇子 天武天皇の幼名を大海人皇子といいます。この天武天皇が崩御されたとき、 【天武紀朱鳥1年】 第一、大海宿禰蒭蒲、誄、壬生事。 誄(死者の生前の功徳をたたえて哀悼の意を述べる言葉)の第一に大海宿禰蒭蒲という人物が、皇子の養育係として天皇の幼時のことを語ったとあります。これが「大海人」の由来といえます。大海氏は後に、凡海氏と名を変えますが、海神綿積神の子、穂高見命の後、とあるとおり、阿曇氏と同類です。 このように、天武天皇は一方では宗像の娘を娶るなど、九州との関わりは大きいと考えられます。 本稿では天武を尾張氏系統とする説には賛成できません。天武に大切にされなかったといって、九州阿曇氏との関わりを無視する理由にはなりません。母皇極(斉明)、伯父孝徳、兄天智、妻持統も阿曇氏を有効に利用していますが、天武天皇は逆に厳しく対応するのは、いかに阿曇氏を意識していたを示す証拠です。 【新撰姓氏録】 右京神別下 地祇(土着の~) ○宗形朝臣 大~朝臣同祖。吾田片隅命之後也。 ○安曇宿禰 海神綿積豊玉彦神子、穂高見命之後也。 ○凡海連 同~(海神綿積~)男穂見命之後也。 新選姓氏録において右京神別下に記されていますが、宗像朝臣条の次に並べられています。この本の傾向として、同系種族か地域が同一であることがわかります。 摂津国神別 地祇(土着の~) ○凡海連 安曇宿禰同祖。綿積命六世孫、小栲梨命之後也。 ○阿曇犬養連 海~大和多羅命三世孫、穂己都久命之後也。 河内国神別 地祇(土着の~) ○宗形君 大國主六世孫、吾田片隅命之後也。 ○安曇連 綿積神命兒、穂高見命之後也。 未定雑姓 右京 ○凡海連 火明命之後也。 河内国 ○安曇連 干都斯奈賀命之後也。 「地祇」とは、大辞泉によれば、天孫降臨以前からこの国土を治めていた土着の神のことです。このことをはっきり意識して綿津見~を見る必要があります。 綿津見~とは 志賀海神社が祀る神がこの綿津見三神です。 神話、黄泉の国から戻った伊弉諾尊は筑紫の日向の川で行った禊祓により、いろいろな~が生まれてきます。その中で、日本書記は 海の底に沈み濯ぎ生める~を、底津少童命、次に底筒男命、 潮の中に潜き濯ぎ生める~を、中津少童命、次に中筒男命、 潮の上に浮き濯ぎ生める~を、表津少童命、次に表筒男命。 筒男三神は是即ち住吉大神なり。少童三神は是阿曇連らが所祭る神なり。 そこのところ、古事記では伊邪那岐命の禊祓によって出生したのは、 水底に滌ぎ賜う時成りし神の名を、底津綿津見神、次に底筒之男命。 水中で滌ぎ賜う時成りし神の名を、中津綿津見神、次に中筒之男命。 水上で滌ぎ賜う時成りし神の名を、上津綿津見神、次に上筒之男命。 この三柱の綿津見神は阿曇連らが祖神と、もちいつく(崇め祀る)神なり。 阿曇連らは、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。 その底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱神は、墨江の三前の大神なり。 (大阪市住吉区の住吉大社に祭られる神) 本稿では、一般化した古事記の表記、「綿津見~」で統一します。 三人の筑紫の綿津見~と住吉の筒之男命はそれぞれ双子~ということになります。 筒之男命を祀るのは住吉津の津守氏(瓊瓊杵尊の兄、天火明命~の子孫)とは、神代の話としては神功皇后を守る天照大神とその妹~とともにいた~で後に穴戸(山口県)に社を建ててもらった氏族です。そのまま神功皇后と畿内に移り住んだようで、後に住吉大社となりました。元来は大海神社(住吉大社内)を氏神として難波地区の隆盛にのり繁栄した氏族です。天武時代には無視出来ぬ力を有していました。今では、志賀海神社は逆にこの巨大化した住吉大社の摂社に過ぎないのです。 古事記だけに載る、宇都志日金拆命は新選姓氏録では阿曇連、綿積~命児、穂高見命之後也(河内国神別、地祇)とあり、長野県安曇野の穂高神社でも、主祭~として祭られています。 【先代旧事本紀 第一卷 神代本紀 陰陽本紀】 復沉濯於海底時、因以生二神。 號曰、底津少童命。次、底筒男命。 復潛濯於潮中時、因以生二神。 號曰、中津少童命。次、中筒男命。 復浮濯於潮上時、因以生二神。 號曰、表津少童命。次、表筒男命。 凡有六神矣。 底津少童命・中津少童命・表津少童命、此三神者、阿曇連等齋祠-筑紫斯香神。 底筒男命・中筒男命・表筒男命、此三神者、津守連等齋祠-住吉三前神。 神名帳云、攝津國住吉郡住吉坐神社四座。 先代旧事本紀では、この筑紫の志賀~を斎祠するのは阿曇連等といっています。綿津見三神は阿曇族だけの~ではないのです。 【釈日本紀六巻−阿曇連等所祭~】 神名帳に曰く、筑前国糟屋郡志加海神社(並名~大)。 筑前国風土記に曰く、糟屋郡資珂島、昔時氣長足姫尊が新羅に行幸した時、御船が夜時に此の島に来て泊まる。陪従有り、名を大濱、小濱という。この小濱に勅して此の島に遣わされて火を探し求めさせた。早くも火をもって帰ったので、大濱が近くに家があったのかと問いただした。小濱が答えるには、此の島と打昇浜と近く連接していて、ほとんど同じ場所だといっていいくらいです。そこで近嶋といった。今では訛って志珂島という。 【日本書紀だけに載る神功皇后の守護神】 仲哀9年3月 神功皇后、吉日を選び、新たに造った齋宮に入り親ら~主となる。武内宿禰に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を呼んで審~者とした。(神功皇后紀) 仲哀天皇に教えさとしたとされる四~を名を聞いた。(神功皇后紀) 伊勢國の五十鈴宮(伊勢神宮)に居ます~、名を撞賢木嚴の御魂天疎向津媛命(天照大神)。 幡荻穂に出た吾は、尾田の吾田節の淡郡に居ます~。(天照妹の稚日女尊) 天事代虚事代玉籤入彦嚴の事代主~。(事代主~) 日向國橘小門の水底に居ます、表筒男・中筒男・底筒男~ (なお、これは住吉神であり、綿津見神ではありません) この四神は、後に神功皇后が難波に向かうときにも現れ、神功皇后を擁護する神です。 履中紀 履中が即位する前、仲皇子が履中を殺そうとして失敗、側近の阿曇連濱子が捕らわれます。しかし、顔に入れ墨をされただけで、殺されませんでした。後にこの入れ墨を指し「阿曇目」と言われる所以と言われましたが、阿曇族は元々入れ墨の習慣がありましたから、恩赦で許されたということでしょう。阿曇族の海洋技術の知識を手放したくなかったということです。後に天皇は常に住吉邑におり淡路島に狩りに出かけたり、讃岐、阿波に注視しています。入れ墨の話も豊富です。みな、阿曇族の拠点となっていた所です。 ここで、皇后が薨去されます。この原因が車持君の横暴を筑紫の三~が咎めたためだとわかります。一般にこの~は宗像三女神と言われています。しかし、ここは、話の流れからも、筑紫の三神とは綿津見神三神のことではないでしょうか。宗像三女神の名が出るのは、天武以降のはずだからです。本稿でも別項で書いた宗像の記述を修正しなければなりません。 以下、天武天皇以降の話です。 万葉集に志賀島の歌が多く登場します。 まず、石川君人朝臣は神亀年間(724〜9)に太宰少弐=石川少郎とも言われる官僚の歌です。 【万葉集B278】石川少郎歌一首 然之海人者 軍布苅塩焼 無暇 髪梳乃小櫛 取毛不見久尓 志賀の海女は 藻刈り塩焼き 暇なみ 櫛笥の小櫛 取りも見なくに しかのあまは めかりしほやき いとまなみ くしげのをぐし とりもみなくに 「志賀の海女は海藻を刈り、塩焼き、暇がない。櫛箱の櫛を取って見なしない。」 右今案 石川朝臣君子号曰少郎子也 右は、今案ふるに、石川朝臣君子、号を少郎子といふ。 【万葉集F1230】羈旅歌 海辺の歌(1196〜1239)古集 千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾者不忘 壮鹿之須賣神 ちはやふる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我れは忘れじ 志賀のすめ神 ちはやぶる かねのみさきを すぎぬとも あれはわすれじ しかのすめかみ 「恐ろしい神の荒れ狂う鐘の岬を漕ぎ過ぎてしまったとしても、われらは忘れまいよ。志賀にいます海の守り神のご加護を」(伊藤博訳) 【万葉集J2742】 壮鹿海部乃 火氣焼立而 燎塩乃 辛戀毛 吾為鴨 志賀の海人の 煙焼き立てて 焼く塩の 辛き恋をも 我れはするかも しかのあまの けぶりやきたてて やくしほの からきこひをも あれはするかも 「志賀の海人が、煙立て焼く塩の辛さ、辛い恋を私はしている」 右一首或云石川君子朝臣作之 右の一首は、或いは「石川君子朝臣作る」といふ。 【万葉集N3652〜5】 至筑紫舘遥望本郷悽愴作歌四首 筑紫の舘に至りて、遥かに本郷を望み、悲しびて作る歌四首 之賀能安麻能 一日毛於知受 也久之保能 可良伎孤悲乎母 安礼波須流香母 志賀の海人の 一日もおちず 焼く塩の からき恋をも 我れはするかも しかのあまの ひとひもおちず やくしほの からきこひをも あれはするかも 「志賀の海人が一日も欠かさず焼く塩、なんと辛い恋を私はしているのだろう」 思可能宇良尓 伊射里須流安麻 伊敝妣等能 麻知古布良牟尓 安可思都流宇乎 志賀の浦に 漁りする海人 家人の 待ち恋ふらむに 明かし釣る魚 しかのうらに いざりするあま いへびとの まちこふらむに あかしつるうを 「志賀の浦で漁をする海人、家人が待ち焦がれているであろうに、夜を明かして魚を釣っている」 可之布江尓 多豆奈吉和多流 之可能宇良尓 於枳都之良奈美 多知之久良思毛 可之布江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも かしふえに たづなきわたる しかのうらに おきつしらなみ たちしくらしも 一云 美知之伎奴良思 一には「満ちし来ぬらし(みちしきぬらし)」といふ。 「博多湾の入江に向かい鶴が鳴き渡る。志賀の浦に、沖の白波が立ち寄せて来るらしい。」 伊麻欲理波 安伎豆吉奴良之 安思比奇能 夜麻末都可氣尓 日具良之奈伎奴 今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松蔭に ひぐらし鳴きぬ いまよりは あきづきぬらし あしひきの やままつかげに ひぐらしなきぬ 「今から秋になるらしい。山の松の木陰にひぐらしが鳴いている。」 以下が志賀志賀白水郎の有名な事件を扱った歌です。 【万葉集O3860〜9】 筑前國志賀白水郎歌十首 724神亀1年、宗像部津麻呂は対馬に年粮(食料米)を送る船の舵取りを命じられたが老齢のため、船仲間の志賀島の白水郎(あま)荒雄と交替したが暴風雨のため沈没。妻子らの悲歌10首。以下意訳 「神龜年中(724〜8年)に、大宰府では、筑前国宗像郡の百姓宗形部の津麻呂に命じて、対馬送粮の柁師に宛た。時に津麻呂、滓屋郡志賀村の白水郎荒雄の許に詣り語って曰く、『僕、小事あり。けだし、聞いてくれるか』荒雄答えて曰く、『郡を異にすといえども、船を同じくすること日久しい。志は兄弟より篤し、殉死することありといえども、あに復辞さずや。』津麻呂曰く、『府官、僕を差して対馬送粮の柁師に宛た。容齒衰老し、海路に堪えず。故に来りて祗候(伺候=上位に対する謙譲)す。願わくは相替わることを垂れよ』於いて是により荒雄許諾し、遂にその事に従う。自ら肥前国松浦縣の美祢良久の崎より船を發だし、直すぐ対馬を射して海を渡る。すなわち、たちまちに天暗冥く、暴風は雨を交え、ついに順風なく、海中に沈没した。これに因りて、妻子等、犢慕(子牛が母牛を慕う心)に勝えずしてこの歌を裁作る。或いは、筑前国の守山内憶良、妻子の傷みに悲しみ、志を述べてこの歌を作るという。」 王之 不遣尓 情進尓 行之荒雄良 奥尓袖振 大君の 遣はさなくに さかしらに 行きし荒雄ら 沖に袖振る おほきみの つかはさなくに さかしらに ゆきしあらをら おきにそでふる 「大君が遣わされたわけでもなく、自ら進んで出かけた荒雄らが、沖で袖を振っている」 荒雄良乎 将来可不来可等 飯盛而 門尓出立 雖待来不座 荒雄らを 来むか来じかと 飯盛りて 門に出で立ち 待てど来まさず あらをらを こむかこじかと いひもりて かどにいでたち まてどきまさず 「荒雄らを帰り来るか来ないかと、飯盛りして、門に出で立ち待てど、いっこうに帰って来ない。」 志賀乃山 痛勿伐 荒雄良我 余須可乃山跡 見管将偲 志賀の山 いたくな伐りそ 荒雄らが よすかの山と 見つつ偲はむ しかのやま いたくなきりそ あらをらが よすかのやまと みつつしのはむ 「志賀の山、そんなに木を伐らないで。荒雄らのよすかの山と、ずっと見つつ偲びたい。」 荒雄良我 去尓之日従 志賀乃安麻乃 大浦田沼者 不樂有哉 荒雄らが 行きにし日より 志賀の海人の 大浦田沼は さぶしくもあるか あらをらが ゆきにしひより しかのあまの おほうらたぬは さぶしくもあるか 「荒雄らが行った日から、志賀の海人が住む大浦田沼はどうしてこんなに寂しいのだろう。」 官許曽 指弖毛遣米 情出尓 行之荒雄良 波尓袖振 官こそ さしても遺らめ さかしらに 行きし荒雄ら 波に袖振る つかさこそ さしてもやらめ さかしらに ゆきしあらをら なみにそでふる 「官人はためらいもなく遣わす。自ら進んで行った荒雄らが波間で袖を振っている。」 荒雄良者 妻子之産業乎波 不念呂 年之八歳乎 待騰来不座 荒雄らは 妻子が業をば 思はずろ 年の八年を 待てど来まさず あらをらは めこのなりをば おもはずろ としのやとせを まてどきまさず 「荒雄らは妻子の暮らし思わないだろう。八年を待てど帰って来なかった。」 奥鳥 鴨云船之 還来者 也良乃埼守 早告許曽 沖つ鳥 鴨といふ船の 帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ おきつとり かもとふふねの かへりこば やらのさきもり はやくつげこそ 「沖つ鳥 鴨といふ船の 帰り来ば 也良の崎守 早く告げこそ」 奥鳥 鴨云舟者 也良乃埼 多未弖榜来跡 所聞許奴可聞 沖つ鳥 鴨といふ船は 也良の崎 廻みて漕ぎ来と 聞こえ来ぬかも おきつとり かもとふふねは やらのさき たみてこぎくと きこえこぬかも 「沖の鳥、鴨という名の船が也良の崎を廻り帰って来たと、聞くことはないのかも。」 奥去哉 赤羅小船尓 褁(果+衣)遺者 若人見而 解披見鴨 沖行くや 赤ら小舟に つと遺らば けだし人見て 開き見むかも おきゆくや あからをぶねに つとやらば けだしひとみて ひらきみむかも 「沖行く赤い小舟に何か預けておけば、もしかしたら、あの人が見つけて開いて見てくれるかも」 大舶尓 小船引副 可豆久登毛 志賀乃荒雄尓 潜将相八方 大船に 小舟引き添え 潜くとも 志賀の荒雄に 潜き逢はめやも おほぶねに をぶねひきそへ かづくとも しかのあらをに かづきあはめやも 「大船に小舟引き連れて海に潜ってみても、志賀の荒雄に逢えることなどあろうか。」 この歌10首には、現在までにおびただしい論文があるといいます。ただ、伊藤博氏も言うとおり、「この事件の犠牲者を最も苦しんだのは、(宗形)津麻呂である。彼が〜遺族の前で、人目かまわずうずくまり、見る影もなく泣き崩れていたことであろう。」「諸研究は、いかなる次第か、この人物の立場や心情に思いを向けることがない。」本稿も同感です。多数の論議、例えば10首の正しい順序や山内憶良の関わり、荒雄への厳しい解釈などには興味がありません。その上で、疑問や思いをまとめました。 1.糟屋郡志賀村の荒雄と宗像の津麻呂は住む場所は違うけれど、一緒に船を出す仲間です。「郡を異にす」とありますが、これは万葉集編者大和官僚からの視点であり、本来は「国が違う」ぐらい遠い意味があったはずです。 2.仕事を承諾した志賀村の荒雄は積み荷をまず、松浦半島の先端まで海岸線に沿い運び、そこから壱岐島、対馬と海上最短の直線コースを選択しています。海の怖さを熟知した行動といえます。「美祢良久の崎」が五島列島にあるらしいのですが、とりません。 3.年差ある両人(宗像の津麻呂と志賀の荒雄)、働き盛りの男の方が海に沈んだ訳ですから、幼い子をもつ妻の嘆きはさらに大きかったでしょう。 4.年上の宗形部の津麻呂が年下の志賀村の荒雄に頼み込んでいるのです。「祗候して」ですから上司の前にやってきて指示を待つような態度なのです。遠い志賀の家まで訪ね行き頼んだのです。よほど親しいか、よほど困っていたのでしょう。この志賀村の荒雄も相当の実力者であったはずです。 5.延喜式によれば、太宰府からの要求は、対馬への漕送は穀二千石で、毎年、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後が国ごとに順番に運送させることにあります。当時として大変名誉なこの仕事を宗像は放棄したことにもなるのです。 (2014/3/11追記)6カ国へ太宰府からの要求とありますが、対馬への漕送の運搬は、本来は昔から北九州海人達で決められていたことです。後から大和の出先機関である太宰府が法整備したものでしょう。慣習がいつしか国からの命令にすり替わることは、いつの時代でもあるものです。もしくは、北九州を昔から支配していた大和とは別の地元王国がすでに決めていたことでしょう。 6.同じ宗像郡に代行できる人達がいなかったのでしょうか。何故、宗形の津麻呂は同じ宗形の船に任せず、わざわざ遠い志賀村の荒尾に頭を下げてまでして頼んだのでしょう。 当初から、綿津見~を祭る北九州は、壱岐や対馬まで含む広い範囲をカバーした一国家と想像できます。対馬を守る為に食糧などを送ること重要な分担作業のはずです。よって宗像や阿曇、志賀、北九州全体の海人達は同等だったはずです。ところが、大和朝廷の力が増し、天武妃(胸形徳善の娘)に子が生まれたことで、宗像が大和朝廷から格別に扱われ、上位に立ったのではないでしょうか。北九州の秩序に危惧を抱いた宗像の長はわざと老齢を理由に仕事を志賀村の長に回したと考えました。 宗像大社側から見る志賀にいます海の守り神、綿津見三神とは(資料 宗像神社史) 「北九州から南朝鮮に至るルートは、海北道中なる語をもって呼ばれているが、これに二大海路がある。一は那津(博多湾)或は松浦潟(唐津湾)を経て、壱岐・対馬に至り、ついで海北即ち朝鮮に達するもの、一は宗像郡の大島・沖ノ島・対馬を経て、南朝鮮に達するものである。」(上巻P31) 「正月一日 正三位社節供神事 應安神事次第(甲本)に『同日、正三位事』とある。正三位社は第三宮に近い同宮(辺津宮)の所管社である。應安神事次第乙丙丁本には『同日、正三位事』の肩書きに『志賀大明神也』とある。筑前糟屋郡志賀島の綿津見(わたつみ=海神)三神(志賀海神社)のことで、当時当社(宗像社)では、この神を祓の神としていたようである。」(下巻P67) 「大菩薩御縁起に朱書して『是志賀大明神』とあるのは、筑前志賀島なる志賀海神社の祭神をいったもので、当社ではこれを祓所の神であるとしている。これ等を併せ考えると、祭祀執行に際して祓所の神たる地位にあったと見てよい。吉野期中神事目録に『正三位三社』といっているが、その三社は『志賀大明神』というところから見れば、志賀綿津見三神を指したものであろうか。」(上巻P396) 「延喜式神名帳によれば、壱岐・対馬二島が眇たる海中の小国に過ぎないのに、官社は前者に29社、後者に29社を数える。九州本土の北辺についてこれを見ると、筑前國に19座、その中にわが宗像神社・織幡神社をはじめとして、筥崎宮・住吉神社・志加海神社・於保奈牟智神社(大己貴神社)を見、筑後国に4座、その中に高良神社等があり、肥前國に4座、その中に田嶋神社等がある。いずれも壱岐・対馬二島の住吉神社、海神社・和多都美神社等とともに、海外交渉について、特に神験を仰がれた神々であり、筑前の於保奈牟智神社の如き、神功皇后紀に、その社を立てて祀ったが故に、軍衆自ら聚まったという大三輪神のことであるという。また香椎宮も式外ではあるが、ひとしく神験を仰がれたこと、周知の通りである。」(下巻P30) 宗像大社といえども、北九州中央の綿津見~を中心とした、各神社と連携しているのです。 史書に載る北九州志賀島と阿曇氏の略歴 景行12年10月 大分の土蜘蛛(景行天皇らに従わぬ地元氏族)を滅ぼせるかを占い祈った神は 志我~・直入物部~・直入中臣~の三~である。(直入=大分県直入郡) 仲哀9年9月 物見として磯鹿の海人、名は草を遣わしたことで西北の海に山や国があることを知る。 神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄った(筑前国風土記) 阿曇氏の祖である阿曇磯良が三韓への舵取りを務めた。 応神3年 阿曇連の祖先大濱宿禰が遣わされて、漁民たちの騒乱を鎮めた。膳職伴造の始まり。 履中即位前期 謀反人、住吉仲皇子の部下、阿曇連濱子を捕らえる 履中1年4月 阿曇連濱子に入れ墨をして許す。 624推古32年 僧尼を統率し、阿曇連を法頭にする。この頃までに蘇我氏と接近している。 642皇極 1年 阿曇連比羅夫が外交関係に活躍 646大化 2年3月 東国に遣わされたなかに阿曇連がおり、朝集使として質を欠き罰せられた。 656斉明 2年、3年 西海使小花下阿曇連が百済との外交に活躍 661天智 2年 8月 朝鮮、白村江海戦に敗退。時に大將軍大錦中阿曇比邏夫連。 668天智 9年 9月 阿曇連頬垂を新羅に遣わす。 673天武 2年 胸形君徳前の娘、尼子娘が天武天皇の宮人となり、高市皇子を生む。 678天武 7年12月 筑紫大地震 681天武10年 2月 阿曇連稲敷が帝紀編纂企画に参加 684天武13年11月 八色の姓制定に際し、阿曇連から宿禰を賜る 686朱鳥 1年 8月 天武天皇崩御。大海宿禰麁蒲が壬生のことで誄を述べた。 691持統 5年 8月 祖先の墓記を阿曇氏も上申する。 698文武 2年 3月 筑前國宗形・出雲國意宇二郡を除き、神職と郡司の兼帯を止める。 701大宝 1年 3月 凡(大)海宿禰麁蒲、陸奥で冶金を試すが失敗。 724神亀 1年12月 志賀島の白水郎(あま)荒雄の海難事故(万葉集巻16) 791延暦10年 安曇宿禰継成配流により高橋氏に内膳職を奪われ、朝廷との関わりを失う。 859貞観 1年 志賀海神社、従五位上の位を賜る。(三代実録) 967康保 4年 施行された延喜式神名帳に名神大社と記載。
1347貞和3年 志賀海神社に石造宝篋(ほうきょう)印塔(以下志賀海神社HP記述) 中世 末社375社、社領50石、奉仕する者百数十名と繁栄した。 豊臣秀吉、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等が寄進。
江戸時代 現在の社殿が再興。 1784天明 4年 古代中国の金印が志賀島の田んぼから出土。(福岡市博物館) 1926大正15年 志賀海神社、官幣小社となる。 2004平成16年 志賀海神社、平成の大改修。 2005平成17年 志賀海神社、福岡県西方沖地震により一部損壊する。 現在の志賀海神社 「志賀海神社(しかうみじんじゃ)は、福岡県福岡市東区志賀島の南側にある神社。龍の都とも呼ばれ、表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)・仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)・底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)の三柱を祀る。全国の綿津見神社の総本宮である。代々阿曇氏が祭祀を司る。 本殿・拝殿 左殿に仲津綿津見神、併せて神功皇后 中殿に底津綿津見神、併せて玉依姫命 右殿に表津綿津見神、併せて応神天皇が祀られる。 鹿角堂 拝殿前の広場の隅にある建物。 狐格子がはめられ、奉納された鹿の角が建物を埋め尽くしている。 石造宝篋(ほうきょう)印塔 亀石 神功皇后の三韓征伐のおり、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れた故事に ちなんで後世奉納されたもの。 摂社 沖津宮(勝馬地区)、仲津宮(勝馬地区)、今宮神社(境内)、弘天神社、大嶽神社 末社 20社」 海人と阿曇は違います。簡単にいえば、海人は普通名詞であり阿曇氏は固有名詞。 阿曇氏の広範囲な活躍から、イコールと考えがちだが、同じではありません。北九州出身のこの氏族は当初北九州に地盤を置いていました。綿津見三神を信仰していますが、それは北九州の他の氏族も同じです。志賀海神社はこれを総括した綿津見三神を祀る神社です。阿曇氏に実力があり、志賀海神社の祭祀を司るのも当然だったと思われますが、阿曇氏だけの志賀海神社ではないことには注意する必要があります。 日本国内で、多くの海人がいます。阿曇は海人の一氏族にすぎませんが、日本だけに留まらない広範囲に活躍した記録だけが残ります。特に、朝鮮への外交に関しては独壇場にあったといえます。日本国中の海人の中から阿曇一族を見分けるには、入れ墨の習慣の有無を見るとわかりやすいと思うのですが、間違いでしょうか。 参考文献 樽崎干城「阿曇氏考(一)−志賀島本貫地説への疑問-」同志社大学日本文化史研究会 1969 次田真幸「海幸山幸神話の形成と阿曇連」日本神話研究3 学生社 S52/7月 宗像神社史 上・下・附巻 宗像神社復興基成会編 吉川弘文館1966 大野七三訓註「先代旧事本紀」 批評社 H1 雲の筏「古事記伝6-2神代四之巻」(現代語訳)http://kumoi1.web.fc2.com/CCP071.html 志賀海神社 http://www.sikanosima.jp/shrine-shikaumi/ 宗像大社 http://www.munakata-taisha.or.jp/ 福岡市博物館 http://museum.city.fukuoka.jp/ ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |