天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
皇極天皇(斉明天皇)の年齢 こうぎょく(さいめい) First update 2009/07/05 Last update 2011/01/29 通説 594推古 2年生 〜661斉明7年7月崩御 68歳(水鏡など) 帝王編年記 601推古 9年生 〜661斉明7年7月崩御 61歳 本稿の主張 607推古15年生 〜661斉明7年7月崩御 55歳 宝皇女と言われた。 孝徳天皇死後、重祚して斉明天皇となる 父 茅渟王 (押坂彦人大兄皇子の子) 母 吉備姫王 (桜井皇子の子) 同母弟 軽皇子 (後の孝徳天皇) 前夫 高向王 一子 漢皇子 後夫 舒明天皇 二子 葛城皇子(後の天智天皇) 三子 間人皇女(後の孝徳皇后) 四子 大海皇子(後の天武天皇) 天武天皇の父母、兄弟の系図 蘇我稲目――堅盬媛(13柱) ├――用明天皇( 1番目)――――???―――高向王 ├――桜井皇子(10番目)――――吉備姫王 ├――漢皇子 ├――推古天皇( 4番目) ├――――皇極天皇 欽明天皇 | | | | | 大俣王(漢王の妹) ├―孝徳天皇 ├―天智天皇 | | ├―――――茅渟王 ├―間人皇后 ├―――敏達天皇 | ├―天武天皇 宣化天皇――石姫皇后 |├―――押坂彦人大兄皇子 | |廣姫皇后 ├―――――――舒明天皇 | | | ├―蚊屋皇子 ├――――糠手姫(田村皇女) | 蚊屋采女 伊勢の大鹿小熊――菟名子夫人 ├―――古人大兄皇子 | 蘇我馬子―――――――――――――法提郎媛 【皇極天皇の関連年表】 607推古15年 1歳 宝皇女(後の皇極天皇)降誕(本稿主張) 626推古34年 20歳 葛城皇子(後の天智天皇)降誕 629舒明 1年 23歳 舒明天皇即位。山背大兄王を退ける。 630舒明 2年 24歳 飛鳥岡本宮に遷る。 第1次遣唐使 631舒明 3年 25歳 有馬温泉に行幸 638舒明10年 32歳 有馬温泉に行幸 639舒明11年 33歳 百済宮を造る。 12月伊予の湯の宮に行幸(〜12年4月) 641舒明13年 35歳 舒明天皇崩御 642皇極 1年 36歳 皇極天皇として即位 645皇極 4年 39歳 乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。 大化 1年 孝徳天皇即位。母の実弟。大化改新スタート。 654白雉 5年 48歳 孝徳天皇崩御 655斉明 1年 49歳 母が斉明天皇として重祚。 658斉明 4年 52歳 10月紀の湯へ行幸(翌年1月まで)、有間皇子の変。 661斉明 7年 55歳 1月 朝鮮に遠征。 娘、大田皇女が孫となる大伯皇女を出産。 母、斉明天皇崩御 667天智 6年 斉明天皇、娘とともに埋葬。 【本稿の主張】 600 1111122222222223333333333444444 年 年 5678901234567890123456789012345 齢 舒明天皇―――――――30―――――――――40――――――――49 皇極天皇HIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――38――55 孝徳天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―39 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―46 天武天皇 @A―43 【通説】 600 1111122222222223333333333444444 年 年 5678901234567890123456789012345 齢 舒明天皇―――――――30―――――――――40――――――――49 皇極天皇―23――――――30――33――――38―40―――――――――50―――68 孝徳天皇S―――――――――30―――――――――40―――――――――50―59 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―46 天武天皇 @ABCDEFGHIJKLMN―56 皇極天皇68歳という年齢は水鏡に始まり、一代要記、皇胤紹運録にいたるまで、多種で採用された年齢です。帝王編年記のみ、61歳としています。68歳説は夫、舒明天皇の一つ下の年齢にあたり、いかにもありそうな年齢です。また弟の孝徳天皇とは2つ違いとされています。 ところで日本書紀は継体紀元年3月14日の分注の記述によると、「后妃の記載は、先後があるといえども良い日を選んで、後宮の定めに従い、まとめて記載した」とあります。つまり、個々の天皇は死んで初めて、その后妃の人数が確定できるというものです。それを、それぞれの帝紀のはじめに、身分に合わせ、まとめて后妃を記載したというわけです。 このことは、重要で、舒明2年1月12日の記事に、宝皇女(後の皇極天皇)は舒明天皇の皇后とありますが、皇極天皇は舒明2年のこのときに皇后になったとはいえないのです。正確には、舒明天皇崩御時には皇后であった、というものです。 このことをまずおさえた上で、本書は皇極天皇がじつはずっと若かったのではないのかと推定してみました。 まず、その理由を箇条書きにしてみます。 1.系図から夫、舒明天皇とは年齢格差があった夫婦あるとしたほうが自然であること。 2.彼女が夫である舒明天皇の子を出産した時期は舒明天皇の他の夫人が皇子を出産した時期より遅いこと。 3.斉明天皇は神功皇后と非常によく似た経歴をもつ女性であること。 4.皇極天皇が天智天皇ら3名の皇子を生んだときの年齢は通説の年齢では高齢すぎること。 5.実弟、孝徳天皇の年齢がずっと若いと思われること。 6.あらゆる書物が彼女を若々しく、魅力的、精力的、愛情豊かな女性として描いていること。 大俣王(漢王の妹) 敏達天皇 ├――茅渟王―――皇極天皇 ├――――押坂彦人大兄皇子 ├――――天武天皇 広姫皇后 ├――――――――舒明天皇 糠手姫(田村皇女) 以降、その詳細を説明します。 皇極天皇の親の男系図をたどっていくと、舒明天皇は押坂彦人大兄皇子の「子」ですが、皇極天皇は押坂彦人大兄皇子の「孫」になります。この押坂彦人大兄皇子は歴史にほとんど登場しないことから、早世したと思われ、その兄弟となる舒明天皇と茅渟王(皇極天皇の父)はそれほど離れた年齢とは考えられないのです。同世代の兄弟であり、年齢は近いと思われます、つまり、押坂彦人大兄皇子の子である舒明天皇と孫である皇極天皇が1歳違いの夫婦になるとは思えません。まさに、宝皇女(後の皇極天皇)は父の弟と結婚したのですから。 堅盬媛(13柱) ├――――桜井皇子(10番目)―――――吉備姫王 ├――――推古天皇( 4番目) ├――――皇極天皇 欽明天皇 | 大俣王(漢王の妹) | | ├――――敏達天皇 ├―――――茅渟王 ├―――天武天皇 石姫皇后 ├――――押坂彦人大兄皇子 | 廣姫皇后 ├―――――――――――舒明天皇 糠手姫(田村皇女) 次に、皇極天皇の母方の血筋をたどっていきます。 皇極天皇の母、吉備姫王は欽明天皇と蘇我大臣稲目宿禰の子、堅盬媛の間に生まれた13人の子のうち10番目の子、桜井皇子の娘です。その年齢を推定するキーになる人物は生没のわかっている推古天皇です。欽明天皇の第4子といわれます。 順に、@大兄皇子(用明天皇)、A磐隈皇女、Bおとり皇子、C豊御食炊屋姫尊(推古天皇)、Dまろ子皇子、E大宅皇女、F石上部皇子、G山背皇子、H大伴皇女、I桜井皇子、J肩野皇女、K橘本稚皇子、L舎人皇女の七男六女です。この日本書紀に記載された順は、同母内では男女の別なく生まれた順であるはずです。 この中で、10番目の桜井皇子が皇極天皇の母、吉備姫王の父です。本書の基準に従い、子供を母親は二年ごとに一人を産む前提で考えます。推古天皇が554年の生れですから、その後6番目の子の桜井皇子は566年前後の生まれと計算され、これを仮定値としておきます。 その桜井皇子の諸伝は伝わっていません。その子供の吉備姫王が桜井皇子の長女なのか不明ですが20歳で女性に産ませたとします。吉備姫王は585敏達14年生まれ、643年皇極2年9月に亡くなっていますから、没年は59歳になり矛盾はありません。 また、同様にこの吉備姫王が20歳で皇極天皇を生んだとすると、皇極天皇の生年は604推古12年になります。天智天皇を23歳で出産したことになります。 このとき、夫、舒明天皇は34歳です。現在の通説では、皇極天皇は33歳で天智天皇を生んだことになっているので、23歳で生んだとする上記の計算による本書の考え方の方が自然です。しかし、夫、舒明天皇との年齢差は14歳になることになります。 500 677777888889999900000111112222 年 年 802468024680246802468024680246 齢 推古天皇NPR―――――――――――――――――――――――――――75 桜井皇子BDFHJLNPR――――――? 吉備姫王 ACEGIKMOQS―――――――――――57 皇極天皇 ACEGIKMOQS―55 茅渟王 ACEGIKMOQS―――――? 押坂皇子@BDFHJLNPR――――――? 敏達天皇S―――――――― 37 仮定に仮定を継ぎ足すと真実が遠いものになるため、ここでは単純に、皇極天皇が天智天皇を生んだ626推古34年の年齢を20歳と設定してみました。すると、吉備姫王が21歳で皇極天皇を出産、桜井皇子が22歳で吉備姫王を得るとすることで、上記の説明をほとんど替えることなく説明できます。 また、皇極天皇の父の家系図を追うと父、茅渟王を母、吉備姫王と同年齢として、その父、押坂彦人大兄皇子が20歳で茅渟王を得、さらにその父、敏達天皇20歳の時、押坂彦人大兄皇子を得たとすっきり説明できます。 もっとも敏達天皇の年齢説は幾多もあり、ここでは37歳説を採用した場合です。この説を採用した根拠は一口で言うと、敏達天皇の妻となる推古天皇の年齢と一番近いから、ということになります。ここでは、さらなる詳細な説明は省きます。 なお、皇極天皇は舒明天皇に嫁する前に高向王との間に漢皇子を生んでいます。18歳くらいのときに生んだ子となります。この皇子の消息は以後知られていません。 皇極天皇 607推古15年生まれ〜661斉明7年24月没 55歳 600 11111111122222222223333333333444 年 年 12345678901234567890123456789012 齢 古人大兄 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――34 舒明天皇RS――――――――――――――――――――――――――――49 皇極天皇DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――――――55 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 直木孝次郎氏は「古代日本と朝鮮・中国」(P76)神功皇后の伝承から、「神功皇后が六世紀中葉以降、とくに推古天皇以降の天皇・女帝と、はなはだ類似した性質をもつ」と記載されています。 私はむしろ、神功皇后は斉明天皇と生き写しと思っています。 直木孝次郎氏は類似点として以下のように述べておられます。 1・夫天皇に先立たれた皇后が、死ぬまで、政治、軍事の実権をにぎる。 2・皇后自身が自ら、海外朝鮮遠征軍の指揮にあたっている。 3・和風諡号の類似性 4・異世代婚の分布の偏りが、この両者に多く見られること。 この四例を述べていますが、対象を皇極天皇に絞り込むとまだまだあります。 5・神功皇后も皇極天皇も祭礼巫女に近い。 6・それぞれの夫には3人の妻がいた。 7・前妻の子供を死に至らしめていること。仲哀天皇の大中姫の2人、舒明の先妻に1人 8・神功皇后の息子は二人。斉明天皇にも二人。 9・伊予湯に神功皇后、宝皇女(後の斉明天皇)それぞれ夫婦ともに訪れている。 10・舒明天皇の蚊屋皇子の消息はよくわかりませんが、応神天皇と誉屋別皇子との間の皇位の譲り合も類似しています。 大酒主―――弟媛 | 備中国賀陽臣―――蚊屋采女 ├――――誉屋別皇子 | ├―――蚊屋皇子 |神功皇后 | |皇極天皇 |├―――応神天皇 | |├――天智天皇 日本武尊――仲哀天皇 | |├――天武天皇 ├――――かご坂皇子 | 押坂彦人大兄皇子―舒明天皇 ├――――忍熊皇子 | ├―古人大兄皇子 彦父大兄――大中媛 | 蘇我馬子―――――法提郎媛 さらに類似点を具体的に探ります。 ○仲哀天皇も舒明天皇も父は天皇ではありません。仲哀天皇の父は日本武尊であり、軍人としてすぐれた資質を持ち合わせていたようですが、遠征の途中に病に倒れました。舒明天皇の父は押坂彦人大兄皇子で敏達天皇の長子として実力者であったようですが、記録がほとんどないことから早世したと考えられています。どちらも天皇になる条件をそろえていた者でしたが、即位をしていません。 ○そんな二人は、権力者の娘を娶ります。仲哀天皇は「大兄」と記される系統正しい皇子の娘、大中媛であり、舒明天皇は蘇我馬子の娘、法提郎媛です。当然、天皇の位はその息子達に嗣がれると目されていたはずです。 ○ところが年を経て、この二人の天皇はうら若い美しい妻を新たに迎えたのです。いつ迎えられ皇后になったかは定かではありません。日本書紀の記述でははじめから皇后のようにも見えますが、迎えたときは皇后ではなかったはずです。さらにこの二人の皇后の系図が単純に高貴な生まれのものとはいえないどちらかといえば卑しい身分のものといえそうです。 ○夫婦の年齢差ですが、仲哀紀に従えば、仲哀2年に仲哀天皇45歳、神功皇后24歳ですのでその差24歳です。一方、舒明紀の記述と本書の推定に従えば、舒明2年、舒明天皇38歳の時、皇極皇后24歳でその差14歳あったと計算できます。どちらも年齢差のある夫婦であると考えられます。 ○そして、神功皇后は応神天皇をひとり産みました。なお、古事記では誉屋別皇子と応神天皇の二人を生んだとしています。日本書紀の記述では誉屋別皇子は異母兄弟とされました。一方、皇極天皇も皇子としては二人、天智天皇と天武天皇を生みます。 ○後に、この新しい妻たちは年上の前妻の子供を殺してしまいます。仲哀天皇では、かご坂皇子、忍熊皇子であり、舒明天皇の古市大兄皇子です。 ○さらにのち、応神天皇の指名した太子、菟道稚郎子は仁徳天皇に帝位を譲るという事件が起きています。天智天皇と古人大兄皇子、孝徳天皇の関係とも、天智天皇の息子、大友皇子と天武天皇の相続争いともとれ、相通るものです。 以上のように、こうした類似性から次の重要な予測が生まれてきます。 仲哀天皇の崩御の後、神功皇后は応神天皇を出産しています。 応神天皇は仲哀9年2月仲哀天皇死後、その10ヶ月後の12月に生まれたと日本書紀は書いています。 古事記も仲哀天皇死後、神功皇后は三韓出兵に伴い出陣し、九州に戻ってから応神天皇を生んだとしています。その出兵期間は不明ですが、仲哀記に仲哀天皇は壬戌の年、52歳で崩御されたとあり、その子、応神天皇は甲午の年130歳で崩御されたとありますから、応神天皇の生まれた年は乙酉の年とわかります。すると、干支年は60年で一回転しますから、仲哀天皇崩御から応神天皇誕生の間に23年の空白が生まれることになります。 古事記の年代表記は信用できないといえばそれまでですが、応神天皇が仲哀天皇の死後生まれたものであることは日本書紀の記述と同じです。 神功皇后を伝説として史実から退けるのは容易いことです。しかし、現在、天皇の血筋は応神天皇から新たな古市王朝が始まったとされるのが有力です。 日本書紀を記録した者達は天武天皇の母、皇極天皇の時代を思い、この神功皇后伝説を描き出し皇極天皇を投影したのではないのかと考えられるのです。 神功皇后同様に、皇極天皇は夫、舒明天皇の崩御後に大海人皇子(天武天皇)を出産した、 と推測できるのではないでしょうか。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |