天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
孝徳天皇の年齢 こうとくてんのう First update 2009/05/23 Last update 2011/01/29 654白雉5年10月10日没 日本書紀 616推古24年生〜654白雉5年没 推定39歳 本稿の主張 596推古 4年生〜654白雉5年没 59歳 興福寺略記、如是院年代記等 605推古13年生〜654白雉5年没 50歳 神皇正統記 幼い頃は軽皇子と呼ばれる。 父 茅渟王 押坂彦大兄皇子の子 母 吉備姫王 桜井皇子の娘 姉 皇極天皇 孝徳天皇の同母姉 天武天皇の母 皇后 間人皇女 皇極天皇の娘 妃 小足媛(おたらし) 阿倍倉梯麻呂の娘 子 有間皇子(640舒明10年生−658斉明4年没 19歳)を生む。 妃 乳娘 蘇我山田石川麻呂の娘 蘇我馬子――――法提郎媛 注:○内数字は年齢推定順 ├――――古人大兄皇子 @ 舒明天皇 ├――――天智天皇 B 押坂彦人大兄皇子 ├――――天武天皇 D ├――――茅渟王 ├――――間人皇后 C 大俣王 ├――――皇極天皇 | ├―――――――――孝徳天皇 A 桜井皇子――吉備姫王 | | | ├―――有馬皇子 蘇我山田石川麻呂―――乳娘 | 阿倍倉梯麻呂――――――小足媛 【孝徳天皇の関連年表】 616推古24年 1歳 孝徳天皇降誕(本稿仮説) 629舒明 1年 14歳 姉、宝皇女の夫、舒明天皇即位 638舒明10年 23歳 舒明天皇が有馬温泉に行幸 640舒明12年 25歳 息子の有馬皇子生まれる。 642皇極 1年 27歳 舒明天皇崩御により姉、皇極天皇即位。 645皇極 4年 30歳 皇極天皇の息子、中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺。 大化 1年 孝徳天皇即位。大化の改新スタート。 649大化 5年 34歳 左大臣、右大臣が次々に没する。 654白雉 5年 39歳 孝徳天皇崩御 600 11111111122222222223333333333444 年 年 12345678901234567890123456789012 齢 舒明天皇RS――――――――――――――――――――――――――――49 古人大兄 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――31 孝徳天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――39 有間皇子 @AB―19 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 間人皇女(孝徳皇后) @ABCDEFGHIJKLM―37 諸々の歴史書ではあまり記載されない孝徳天皇の年齢ですが、それでも、和漢合符、興福寺略記、如是院年代記は59歳と記録しています。同じ母をもつ兄弟として姉、皇極天皇の年の2歳年下の弟と位置づけています。 それとは別に神皇正統記は50歳とありますが、資料研究編でも述べましたが、これは59歳の誤記と考えられます。「五十九」の「九」の文字の脱落した「五十」とした表記、もしくは50歳代という意味で数字を丸めたとも考えられます。この書物では他にもそうした事例が少なからず見うけられるからです。 一方あらゆる歴史書を比較研究してまとめられた本朝後胤紹運録では孝徳天皇59歳説を採用せず、年齢は提示していません。つまりわからないとしたのです。 以下に述べますが、舒明天皇の長男、古人大兄皇子より若いはずの孝徳天皇の年齢が59歳では日本書紀の記述と矛盾しているからです。 【古来文献による孝徳天皇の年齢】 600 11111111122222222223333333333444 年 年 12345678901234567890123456789012 齢 舒明天皇RS――――――――――――――――――――――――――――49 皇極天皇QRS―――――――――30―――――――――40――――――――――68 孝徳天皇OPQRS―――――――――30―――――――――40――――45―――59 有間皇子 @AB―19 古人大兄(本稿)@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――31 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 間人皇女(孝徳皇后)本稿推定 @ABCDEFGHIJKLM―37 孝徳天皇が古人大兄皇子より年下とすることについては重要で説明が必要です。 645皇極4年6月14日軽皇子こと後の孝徳天皇は、姉の皇極天皇から天皇位を引き継いでほしいとの依頼をこの一時期、拒否しています。その理由を二つ挙げ、自分より古人大兄皇子がよりふさわしいとしているのです。 古人大兄皇子は、舒明天皇の直系の息子であり、年長者であるというのです。 日本書紀 孝徳天皇 即位前紀
年長者の意味は、舒明天皇の皇子である古人大兄皇子、中大兄皇子、大海人皇子の中で古人大兄皇子の年齢が一番上だというばかりでなく、自分、軽皇子(後の孝徳天皇)を含めたこの天皇即位候補4人のなかでも一番の年長者といったのです。だから、自分より古人大兄皇子が天皇にふさわしいと辞退してみせたのです。 つまり孝徳天皇の年は古人大兄皇子より若く、中大兄皇子より年上といえるのです。 実は現在に至っても、孝徳天皇の59歳説は生きています。しかも上記の日本書紀の解釈を歪めているのです。原文は古人大兄皇子を「年長」とはっきり書かれているのに、「天皇にふさわしい年齢」とぼかした解釈が少なからず見られます。 また、孝徳天皇の息子、有間皇子は658斉明4年19歳で殺されたとされています。 日本書紀の658斉明4年11月の記述に「方今(有間)皇子、年始十九、未及成人」 これから逆算すると有馬皇子が生まれたのは640年舒明12年となります。また、638舒明10年に舒明天皇らが有馬温泉に行幸されたことが知られています。舒明天皇の妻である宝皇女とその弟の軽皇子こと孝徳天皇も同行していたはずです。ここでの思い出が息子の名前となったと思われます。 すると有間皇子の生まれたときは、孝徳天皇の59歳説では46歳のときの子となり、やはり高齢すぎるようです。 孝徳天皇の年齢を上げたくないのには理由は他にもあります。 当時の重臣である左大臣阿倍倉梯麻呂と右大臣蘇我山田石川麻呂から娘が孝徳天皇に捧げられていることです。同様にこの二人の重臣は娘を天智天皇にも与え夫人としているのです。政略的な意味合いがあったとしても、孝徳天皇と天智天皇には極端な年齢差がないと考えました。娘の父は娘に相応しい年齢の権力者に嫁がせ、その幸せを祈るものです。 阿倍倉梯麻呂――――小足媛 蘇我山田石川麻呂――乳娘 | | ├―――有馬皇子 吉備姫王 | | ├――――――――――孝徳天皇 ├――――皇極天皇 | 茅渟王 ├――――間人皇后 ├――――天武天皇 ├――――天智天皇 舒明天皇 | ├――――新田部皇女 | ├――――飛鳥皇女 阿倍倉梯麻呂―――――橘娘 ├――――大田皇女 ├――――鸕野皇女 蘇我山田石川麻呂――遠智娘 また、実姉、皇極天皇の娘を皇后に迎えていることです。 これは天皇家の正統な血筋、舒明天皇を父に持つ娘、間人皇女を迎える政略結婚です。 しかし、身分の低い女性ならいざしらず、皇族の嫁として極端に大きな年齢差はないと考えました。姉、皇極天皇とは年の離れた弟と考えたほうが自然と判断しました。 とは言うものの、皇極天皇の実弟です。孝徳天皇の亡くなる前、間人皇后に贈った日本書紀に載る歌を詠むと、この二人にどうしても年の差を感じてしまうのです。対等に愛し合う妻への歌というより、妻を愛玩物のようにして扱う歌に見えます。 日本書紀 孝徳紀白雉4年
ある程度は差のある夫婦ではあるのでしょうが、皇極天皇とも年差のある姉弟と考えました。 姉、斉明大后は自分の娘ではありますが、弟の孝徳天皇に権威を持たせるために、古くからの天皇の血を受け継ぐものとして、舒明天皇の娘である間人皇女を与えたのです。孝徳天皇は間人皇女を皇后として迎えることで天皇になる確実な条件を得たのです。これこそ政略といえるでしょう。そうしなければ、彼は天皇にはなれなかったのです。 また、日本書紀は皇極天皇の頃、中臣鎌足が中大兄皇子と知り合う前、軽皇子こと後の孝徳天皇と知り合っていたことを紹介しています。 皇極紀3年1月1日
「三年春一月一日、 中臣鎌子連を~祗伯に任ぜられたが、再三辞退してお受けしなかった。 病と称して退去し摂津三嶋に住んだ。 このころ輕皇子も脚の病で参朝されなかった。 中臣鎌足は以前から輕皇子と親しかった。 それでその宮に参上して侍宿をしようとした。 〜 中臣鎌子連は人となりが忠正で、世を正し救おうという心があった。 それで蘇我臣入鹿が君臣長幼の序をわきまえず、国家をかすめようとする企てを抱いていることを怒り、つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げ得る盟主を求めた。」宇治谷孟訳 中大兄皇子と中臣鎌足の出会う蹴鞠の場面の直前の記事です。 宇治谷氏の訳では以前から中臣鎌足は軽皇子と親しかったと訳されています。「曾善於輕皇子」は「曾(いさむき=以前)より輕皇子に善し(うるはし)」と訓じられていますが、軽皇子が善人と知られていた、程度で面識はなかったと思います。日本書紀も孝徳紀で人となりを「柔任」、温和な人柄で人望があったとしています。 また「侍宿」とは皇子宮につめて夜も泊まることです。舎人の宿直と同じではないと思いますが、この時代、主人側も優秀な人材を求め、訪ねるものを歓待する風習があったと思われます。 このように、中臣鎌足は中大兄皇子に巡り会う前、多くの王と会い盟主を探していたようです。それは戦国時代の自分を生かす指導者を捜す浪人の姿を連想します。 日本書紀は眼前の蘇我入鹿を憎むという狭い理由を掲げていますが、ここはもっと広い意味で日本を変革したいという思いがあったのです。 自分の主君に相応しい職さがしの為にあらゆる代表に会っていました。そのなかの一人に軽皇子がおり最後に中大兄皇子と巡り会うのです。 通説ではこのとき軽皇子は49歳、そんな年寄りに自分を託そうなどと考えるほうがどうかしています。中臣鎌足はこのとき25歳です。通説でも31歳。天智天皇は19歳でしかないのです。 本稿ではこのとき軽皇子は29歳で中臣鎌足とは同年齢代の人間です。まさに乙巳の変を目前に控え、皆自分から前に出ようとする若いエネルギーが爆発する一瞬でもあったと思うのです。 以上のことをまとめると、孝徳天皇の年齢設定には以下の条件である必要があります。 1.孝徳天皇は皇極天皇の同母弟であることから、皇極天皇より若い。 2.史書に59歳とした文献があるが、実姉皇極天皇の2歳年下と設定された可能性がある。 3.日本書紀の記述から古人大兄皇子より年下であること。 4.孝徳天皇の息子、有馬皇子が640舒明12年生まれであること。孝徳天皇の59歳説では46歳のときの子となり孝徳天皇はもっと若いと推定できること。 5.孝徳天皇の側近の阿倍倉梯麻呂と蘇我山田石川麻呂は孝徳天皇と姉の息子である天智天皇の両者に自分の娘を納めています。このことからも孝徳天皇と天智天皇とは近い年齢ではないかと考えられること。 6.姉の娘、間人皇女(天智天皇の妹)を皇后として妻に迎えていることから、政略的であるとしても孝徳天皇は姉の皇極天皇とはある程度年の差がある弟と推測できること。 7.中臣鎌足は自分の盟主を探す当初、孝徳天皇と天智天皇を同列に考えていたと思われること。 8.遠山美都男氏が述べるように、天皇位に擁立する場合30歳以上が一つの条件であったと思われること。つまり、孝徳天皇が即位した645大化1年には30歳にはなっていたと思われること。 年齢推定の本稿の常道ですが、まず孝徳天皇の長男の年から逆算した年齢を仮説として設定してみました。有馬皇子が生まれたときの孝徳天皇の年齢を20歳としてみました。しかし、これだと孝徳天皇として即位した645大化元年には24歳で若すぎるようです。 そこで、即位年齢は30歳以上との慣例に基づき、年齢を30歳としてみました。有間皇子が生まれた時が25歳で許容範囲内として、没年齢は39歳となります。若いようですが、亡くなる前に詠んだ間人皇后への歌には59歳では歌えない、あまりに未練がましい激しい渇望が感じられるところからこの39歳説を考えました。 本稿でも20歳ほども年齢を引き下げた例は他に見当たりません。 このことは、姉、皇極天皇の年齢をも引き下げる要因ともなったのです。 孝徳天皇の年齢条件をまとめると次のようになります。 1.596推古 3年生まれ 59歳 史書による姉、皇極天皇の二つ下とした年齢 2.612推古20年生まれ 43歳 古人皇子より年下−上記で推定した古市皇子の年齢 3.616推古24年生まれ 39歳 30歳で即位したと仮定した年齢 4.621推古29年生まれ 34歳 長男有間皇子を20歳で得たと仮定した年齢 5.626推古34年生まれ 29歳 天智天皇より年上。 600 11111111122222222223333333333444 年 年 12345678901234567890123456789012 齢 舒明天皇RS――――――――――――――――――――――――――――49 古人大兄 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――31 孝徳天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25―――39 有間皇子 @AB―19 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 間人皇女(孝徳皇后) @ABCDEFGHIJKLM―37 本節の冒頭に掲げた年齢構成を再度示しました。ご確認ください。 これらを考えるとき、あの大化の改新について再考する必要があると思います。 645大化元年6月14日、孝徳天皇即位に際して、7名のブレーンが発表されます。 日本書紀 孝徳天皇
つまり大化の改新を推進したのは次の8名です。 孝徳天皇 父は茅渟王、母は吉備姫王。 そのため、直系の舒明天皇の娘、間人皇女を皇后として娶ります。 皇極上皇 孝徳天皇の実の姉です。皇祖母身尊と呼ばれた。 中大兄皇子 後の天智天皇で皇極天皇の子です。この時、皇太子となります。 阿倍倉梯麻呂 左大臣となります。孝徳、天智の両天皇に娘を納めています。 蘇我倉山田石川麻呂臣 右大臣となります。孝徳、天智の両天皇に娘を納めています。 中臣鎌足 内臣として、大錦の冠位を授けられました。 沙門旻法師(日旻) 国博士(国政上の顧問) 高向史玄理 国博士 日旻(にちみん)法師は高向玄理(たかむこげんり)とともに、608推古16年に中国に渡った遣唐使の同期であり、632舒明4年に日旻のほうが先に帰国、次いで640舒明12年に高向玄理が帰国しています。 大化の改新は孝徳天皇を中心としたこの8名により運営されたとしてもよい表現です。よく、大化の改新は天智天皇と中臣鎌足でなされたもの、孝徳天皇は傀儡とした意見を耳にしますが、大化の改新はやはりこの8人全員の参加なくしてはあり得なかったと思います。 孝徳天皇もこのとき理想に燃えていたはずです。 しかし、その5年後を境にして、この孝徳天皇を囲むブレーンが次々死んでいきます。 649大化5年 3月17日 左大臣、阿倍倉橋麻呂が難波京で没。 3月25日 右大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣、自殺。 653白雉4年 6月 摂津の阿曇寺で日旻法師没。 ?月 天智天皇らは難波宮の孝徳天皇を離れ、大和に戻る。 654白雉5年 2月 高向玄理、遣唐使に任じられ日本を離れ、唐で客死。 10月 孝徳天皇、一人失意のなか難波宮にて薨去。 653白雉4年孝徳天皇の知恵袋でもある日旻が亡くなると、天智天皇は、孝徳天皇の反対を押し切り、難波宮を離れ大和に戻ってしまいます。このなかに、孝徳天皇の姉、皇極上皇、孝徳天皇の皇后、間人皇后、天武天皇がおり、百官がことごとく鼠の群れのようにこれに従い難波宮を離れたといいます。 しかし、奇妙にみえますが中臣鎌足だけは難波宮に一人留まりました。翌年正月に孝徳天皇より中臣鎌足だけに紫冠を授けられ、加増までされているからです。賞罰の決定権は天皇にあります。皇太子である中大兄皇子が中臣鎌足に紫冠を授けたはずはないのです。 そして、2月に大化の改新のメンバーの最後の一人、高向玄理までもが遣唐使を任じられ、日本を離れてしまいました。かなりの高齢であったはずですし、命がけの大陸への旅路です。一行は2月と5月の二船に分乗して出発しました。 「留連すること数月、新羅道を取りて、莢州(らいしゅう)に泊まり、遂に京に至りて、天子に観え奉る」とあり、伊吉博徳の言葉として、押使高向玄理をはじめ、学問増恵妙、覚勝らが、唐で客死し、他に3名が遭難死したことを伝えています。 ついに10月1日孝徳天皇は病の床につきます。それを聞いた天智天皇は、皇極上皇、孝徳皇后、天武天皇ら公卿と再度、難波宮に赴き孝徳天皇を見舞ったとあります。たぶん、中臣鎌足が知らせたのでしょう。 まるで死神のような中臣鎌足の存在です。 こうして10月10日に孝徳天皇が難波宮の正殿で崩御されました。8名で始めた大化の改新のメンバーは一挙に5名が亡くなり、皇極上皇、天智天皇、中臣鎌足だけになりました。 歴史上の大改革、大化の改新は幾多の矛盾を露呈し、事実上の終焉を迎えました。しかし、この理想はその後の日本の政治を形作るうえでの重要な指針となったことも事実です。 大化の改新は天智天皇中心ではなく、亡くなられた孝徳天皇を中心とした、阿倍倉橋麻呂、蘇我倉山田石川麻呂臣、日旻法師、高向玄理らが興した理想郷を目指した政治改革だったのではないでしょうか。それを現実派の天智天皇、中臣鎌足、皇極上皇の離反から瓦解したものと考えてみました。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |