天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
古人大兄皇子の年齢 ふるひとのおおえのおうじ First update 2008/10/09 Last update 2011/08/14 日本書紀には古人皇子とある。また、吉野太子、古人太子ともある。 父 舒明天皇 母 蘇我馬子の娘、法提郎媛(ほうてのいらつめ) 子 倭姫王 母の名は不明。後に天智皇后となる。 弟妹 蚊屋皇子 母は吉備国の蚊屋采女(かやのうねめ)。 葛城皇子 (後の天智天皇)母は皇后 宝皇女(後の皇極天皇) 間人皇女 (後の孝徳皇后) 大海人皇子(後の天武天皇) 【古人大兄皇子の関連系図】 女 蘇我馬子―――法提郎媛 ├―――倭姫女 糠手姫(田村皇女) ├――――古人大兄皇子 | | | 蚊屋采女 | | | ├―――蚊屋皇子 | ├―――――――――舒明天皇 | 押坂彦人大兄皇子 ├―――――――天智天皇 | ├―――――――天武天皇 ├―――茅渟王 ├―――――――間人皇女 大俣王 ├――――皇極天皇 | ├―――――――――――――孝徳天皇 吉備姫王 【古人大兄皇子の関連年表】 615推古23年 1歳 古人大兄皇子降誕(本稿) 626推古34年 12歳 天智天皇降誕 629舒明 1年 15歳 父、舒明天皇即位 641舒明13年 27歳 父、舒明天皇崩御 643皇極 2年 29歳 蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲、山背大兄王を自殺させる。 645皇極 4年 31歳 6月12日乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。 13日蘇我蝦夷殺害。 14日古人大兄皇子は吉野山に引きこもる。 孝徳天皇即位 9月謀反の罪により天智天皇により殺害される。 600 1111111122222222223333333333444 年 年 2345678901234567890123456789012 齢 舒明天皇S――――――――――――――――――――――――――――49 古人大兄 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――31 大倭姫王(天智皇后) @ABCDEFGHI― 天智天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOP―46 日本書紀に「大兄」とあり、9月の「或本伝」に「古人太子」として、古人大兄皇子は舒明天皇の長男にして皇太子に準ずるものであったと言われます。 乙巳の変のときは三韓の調を貢る日に天皇のそばに侍しています。そんな高い位の古人大兄皇子の年齢はいくつだったのでしょう。 ここは舒明天皇の長男として、舒明天皇20歳の時に生まれたとまず、仮定してみました。すると645大化元年9月、34歳で後の天智天皇こと中大兄皇子による乙巳の変のあと殺されたことになります。 しかし、舒明天皇が崩御されたとき、この古人大兄皇子が即位せず、皇后が位を引き継いだ大きな理由の一つ、後継者がまだ未熟など、定まらないためです。 また、蘇我入鹿が山背大兄皇子を急襲したのは古人大兄皇子に天皇位を就かせたいが為です。古人大兄皇子が相応しい年齢に近づいたからと思われます。当初34歳案では、舒明天皇が崩御されたとき31歳となり、十分天皇に即位する資格があったことになります。30歳以上が天皇即位に相応しい年齢だったと思われます。よって、父、舒明天皇が亡くなったときは30歳に足りなかったと考えたいのです。 そこで、上記のバランスを考慮して、31歳で亡くなられたとしました。 遠山美都男氏も「天皇と日本に起源」のなかで古人大兄皇子は乙巳の変の「当時おそらく三十歳前後であったと思われる」と述べられています。 つまり、父、舒明天皇が亡くなったとき、27歳で30歳に満たないという条件に違わず、山背大兄皇子を殺された年は29歳で、蘇我入鹿は来年にでも古人大兄皇子を即位させる準備に入ったことを意味する理由になります。そして、乙巳の変で中大兄皇子が蘇我入鹿を殺した31歳の年、古人大兄皇子は当事者の中大兄皇子より天皇になるよう進められます。これは天皇になれる年齢に古人大兄皇子が達していたことを意味しています。しかし、当然危険を感じた古人大兄皇子は即位を辞退するわけですが、結局その後、中大兄皇子らに殺されることになるのです。この経緯は後の天武天皇への天智天皇の即位催促の逸話にそっくりです。このとき、天武天皇こと大海人皇子も天皇位につける年齢になろうとしていたのです。これが本稿での解釈です。 古人大兄皇子の死後、娘の大倭娘皇女が天智天皇の皇后になりますが、古人大兄皇子20歳のときの子として考えると、天智天皇より8歳年下ということになります。古人大兄皇子が亡くなったとき、大倭姫王は12歳です。どうも、そのあと、娘を奪った気配がしています。別で述べる予定ですが、天智天皇の性癖と思われるところがあります。孝徳朝時の左大臣阿倍倉梯麻呂の娘や右大臣、蘇我倉山田石川麻呂の姪娘も同様で、父親を殺したのちに幼い姫たちを娶ったと思われる節があるのです。 しかし、この倭姫王には天智天皇への挽歌が万葉集に4首も残ることから、必ずしもお飾りだけの日陰の皇后ではなかったと思います。 乙巳の変は興味深い事件です。 詳細な記述は後日に譲るとして、ここでは舒明天皇のもう一人の息子について触れます。 蚊屋皇子は吉備国が母の母国となる大豪族の家系です。 母を蚊屋采女(かやのうねめ)と書かれています。吉備国から捧げられた蚊屋一族の娘です。一口に吉備国といっても家系には、下道、上道、香屋(賀夜、賀陽、蚊屋)、三野(御野)、苑(薗、曾能)、笠(賀佐)などの諸氏がいたといわれます。 乙巳の変で古人大兄皇子を奉じていた蘇我入鹿が殺されると、古人大兄皇子は自ら天皇位に就くことを断り、吉野に隠棲してしまいます。 こうまで頑なに天皇位を拒み続けたのには理由があります。自らを天皇へと奉じた蘇我本宗家が滅び、何時しか自分の周りには味方するものは少なく、父の妻の一人であった現天皇、皇極天皇一派によって固められていたのです。身の危険さえ感じていたのでしょう。 しかし、吉野に退いたとはいえ、世間では彼のことを吉野太子、古人太子と讃えます。くしくも中臣鎌足が言ったように、彼は正統な天皇の後継者であり年長者でもあるのです。外戚の皇極天皇一派に天皇位を奪われたという機運もあったのではないでしょうか。事実、天皇当事者である皇極天皇は自分の位をまず、息子の天智天皇に譲ろうとして、天智天皇の参謀である中臣鎌足の助言で断られてしまいます。すると彼女は古人大兄皇子など眼中にないかのごとく、実弟の孝徳天皇に天皇位を譲ってしまうのです。 こうなると、天皇家の純血は薄まるばかりです。同時にそのことは、皇極天皇一派にとっては純血の古人大兄皇子がますます煙たい存在となるのです。 日本書紀によれば、古人大兄皇子が謀反を企てた仲間には、蘇我田口臣川堀、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津がいたとあります。つまり彼らが吉野の地に同行していたのです。そのなかの、吉備笠臣垂が裏切り密告したとあります。 これが蚊屋一族の同胞である吉備国のものです。おそらく、蚊屋皇子は古人大兄皇子に見方していなのではないでしょうか。意外かも知れませんが皇極天皇一派はわりと閉鎖的な集団です。蚊屋皇子としては皇極天皇に味方しにくいのです。ましてや世間的には古人大兄皇子のほうが正統なのです。吉野に同行したかは別として蚊屋皇子は古人大兄皇子に同情的でした。 しかし、一族は決断します。汚名を浴びようが生きる道を選んだのです。 天智天皇の祖母の名も吉備姫王というからには吉備国にゆかりがあった女性です。彼女にすがったのかもしれません。 その後の蚊屋皇子の足跡はありません。しかし、蚊屋の地名が近江にあり続けます。また、古人大兄皇子謀反の仲間たちの多くはその後にも活躍し日本書紀に名を残しているのです。 日本書紀に言うとおり、一族のものである古人大兄皇子とその子が殺され、妻妾が自殺したのです。古人大兄皇子の血だけが根絶やしにされました。 ただ、その中に唯一人、倭姫王が渦中から拾われます。12歳より若いと思われる年です。後日天智天皇の皇后となる女性です。なぜ、妾ではなく皇后にしたのでしょう。ここに天智天皇が血族としての天皇になる資格のないものだったのではないのかと疑うひとつの理由があります。 天智天皇の晩年、自分の天皇位を譲りたいと弟に相談したとき、天武天皇は断りながらもその天皇位は皇后の倭姫王に託したほうがいいと言っているくらいなのです。 この二人の兄弟にとって、倭姫王とはなんだったのでしょう。そうまでして、なぜこうも天皇家の純血にこだわらなければならなかったのしょう。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |