天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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弘文天皇(大友皇子)の年齢 こうぶん(おおとも)

First update 2009/03/22 Last update 2011/08/14

 

647大化3年生まれ 〜 672天武1年没 26歳(扶桑略記)

648大化4年生まれ 〜 672天武1年没 25歳(懐風藻)、本稿

 

父 天智天皇    23歳のとき大友皇子が誕生

母 宅子娘(やかこのいらつめ) 伊賀采女 生没不明

妻 十市皇女   (父、天武天皇)葛野王 の母と言われる (懐風藻)

  耳面刀自   (父、中臣鎌足)壹志姫王の母  (本朝皇胤紹運録)

子 葛野王     669年生まれ〜705年没37歳没  (懐風藻)

  壹志姫王    従四位下         

  与多王     大友姓を賜る

 

【関連系図】

  額田王

   ├―――――十市皇女

  天武天皇    ×?(懐風藻説を本稿ではとらない)

          |

  宅子娘     ├――――葛野王(淡海真人の祖)――池辺王――淡海真人三船

   ├―――――大友皇子

  天智天皇    |├―――与多王(大友姓の祖)

          |女

          ├――――壹志姫王

  中臣鎌足―――耳面刀自

 

【大友皇子関連年表】

 648大化 4年      1歳 生誕

 663天智 2年     16歳 日本軍が白村江にて、唐と新羅連合軍に敗退。

 664天智 3年     17歳 唐より郭務宗来日

 665天智 4年     18歳 郭務宗、高官の劉徳高に従い来日

 667天智 6年     20歳 大津宮に遷都

 668天智 7年     21歳 大海人皇子が東宮となる。

 669天智 8年     22歳 息子、葛野王生まれる。

                  郭務宗来日

 671天智10年1月6日 24歳 太政大臣に任じられた。

                  大友が宣命し、大海人が冠位・法度のことを施行された。

         9月       天智天皇、病の床につく。

        10月15日    天武天皇、吉野に退く。

        11月10日    郭務宗ら二千人が大挙して来日。

        12月 3日    天智天皇崩御。

 672天武 1年5月24日25歳 壬申の乱勃発(天武天皇ら吉野脱出)

         5月30日    郭務宗 唐へ帰国のため出発。

         7月23日    壬申の乱に敗れ、大友皇子、自縊。

1870明治 3年7月       政府より弘文天皇と追諡された。

 

【大友皇子関連年齢】

600年 4455555555556666666666777777777 年

     8901234567890123456789012345678 齢

天智天皇―23――――――30―――――――――40―――――46

大友皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25

葛野王                       @ABCDEFGHI―37

天武天皇 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――43

十市皇女             @ABCDEFGHIJKLMNOPQR

注:天武、十市は本稿説に基づく

 

 

大友皇子の年齢

大友皇子の年齢は懐風藻と扶桑略記に記載されています。特に、大友皇子の子孫とされる淡海真人三船が作ったといわれる懐風藻の冒頭を飾る大友皇子小伝に、亡くなられた時25歳とはっきり書かれていますのでこれを採用します。扶桑略記には671天智10年太政大臣になった記事があり、その時、25歳とあるため、没年は計算上26歳になります。日本書紀も年齢記載はないものの、太政大臣に任じられた年を扶桑略記と同じ天智10年としています。扶桑略記の他の記述からは、懐風藻を見ていたと思われる記述が散見されるところから、25歳というメモリアルな歳を太政大臣就任の歳としてしまったものと考え、あくまで年齢だけは懐風藻を尊重しました。

 

大友皇子即位説――皇太子そして天皇になれたのか

1870明治3年7月、時の政府より弘文天皇と追諡されました。それまでは、大友皇子は皇太子として薨去されたと扱われてきました。

日本書紀には、天智10年に太政大臣に就任したものの、皇太子になったという記述さえありません。

あくまで皇太子は天智天皇の東宮大皇弟である大海人皇子という立場で貫かれています。

 

あれだけ、天智系の人々を祭り上げる懐風藻も大友皇子の天皇即位の事実を伝えていません。小伝の表題も「淡海朝大友皇子 二首」とあります。もっとも、序文に続く目録には「淡海朝皇太子二首」との表現が隠れるように記述されているのですが、どうも自信なさげなのです。この懐風藻にのる大友皇子の小伝をまとめると次のようになります。

 

  「年甫弱冠、拝太政大臣。           667天智6年 20歳

  「年二十三、立為皇太子。           670天智9年 23歳

  「会壬申之乱。天命不遂。時年二十五。」     672天武1年 25歳

 

20歳のはじめに太政大臣になり、23歳で皇太子、壬申の乱に会い、天命を遂げられず、25歳で死んだとあるのです。日本書紀には、天武10年に太政大臣になったとあり、この懐風藻の記述と明らかに矛盾しています。

横田健一氏は、様々論証されたうえで、「懐風藻伝の信憑性は確実を欠くのである」とされました。

「白鳳天平の世界」横田健一 昭和48年 創元社

 

これに対し、日本書紀と懐風藻のつじつまを合わせようとして、中山薫氏は、「年甫弱冠」は20歳代であるとして、日本書紀の24歳太政大臣の記述に矛盾はないとされました。23歳で皇太子になった大友皇子はそのあと24歳で太政大臣になったことになります。

さらに、日本書紀の記録、

  日付           記述     対象者    内容          

  天智 7年 5月 5日  大皇弟    大海人皇子  蒲生野の狩り      

  天智 8年 5月 5日  大皇弟    大海人皇子  山科野の薬狩り     

  天智 8年10月15日  東宮大皇弟  大海人皇子  鎌足に大織冠を授ける  

  天智10年 1月 6日  東宮太皇弟  大海人皇子  冠位、法度を施行    

  天智10年 5月 5日  皇太子    大友皇子   小殿での田舞     

  天智10年10月17日  東宮     大海人皇子  天皇、病により寝所へ  

  天智10年10月19日  東宮     大海人皇子  吉野に入る       

 

の中で、天智10年5月5日の「皇太子」だけは記述のうえから、大友皇子に違いないとされました。

日本書紀 天武 上に「天命開別天皇元年、立為東宮。」とあり、大海人皇子は天智天皇の皇太子となりますが、天智8年の中臣鎌足薨去により、皇太子の位は9年に大友皇子に移ったと解釈されました。

「懐風藻 大友皇子伝の解釈」日本書紀研究21 塙書房 平成9年

 

しかし、この説は皇太子のあとに太政大臣になることになり極めて異例です。また、東宮の大海人皇子と皇太子の大友皇子が同時に存在したかのような記述が日本書紀にあったことになり不自然で賛同できません。

 

一方、他の歴史書では、扶桑略記が天皇になったと伝えています。

 

「(天智天皇十年)辛未正月五日。以、大友皇子、為、太政大臣。年廿五歳」

「(大海皇子)入、吉野山。公卿等相従送此。同月。立、大友太政大臣、為、皇太子。」

「十二月三日。天皇崩。同月五日。大友皇太子。即為、帝位。生年廿五」

 

1月5日、日本書紀の記述と同様に、大友皇子は太政大臣に就任します。

その後、大海人皇子が吉野に去ったので皇太子なれたのです。病床での天智天皇との会話の流れで皇太子の地位を返上したものと思われます。

12月3日、天智天皇が崩御されたため、自動的に皇太子大友は天皇になった、というものです。

 

また、水鏡も

天智天皇10年12月3日、失させ給しかば同き其5日、大伴皇子、位に付給。

とあり、扶桑略記と同様の解釈です。

 

年中行事秘抄、正月、始置太政大臣事の条も

天智天皇10年正月己亥朔庚子、大友皇子始為太政大臣、天皇男也、後為皇太子、即帝位云々

とあります。

 

一代要記、帝王編年記、本朝皇胤紹運録は語っていません。

 

昔から、日本書紀は天武天皇の皇位継承を正当化させるために、大友皇子の即位の事実を隠したとする説がありました。

そうしたことから、明治以降には、大友皇子は天皇になっていたとして弘文天皇を追諡されました。

また、後に述べる大海人皇子の提案により倭姫王が天皇に即位もしくは称制したとする説もあります。

 

ここでは、次のような理由から、皇太子はなれた大友皇子ですが、天皇にはなれなかったと考えます。

その理由は次のとおりです。

 

1.吉野に去った大海人皇子はもう東宮でも皇太子でもなかったはずです。天智天皇に自分は出家するので大友皇子を皇太子にしたらと言っているのです。もしも、大海人皇子が東宮のままなら、天智天皇の崩御後、近江京がここまでのんびりしていたはずもありません。

 

2.天智天皇が崩御されたとき、大友皇子は25歳でしかありません。天皇位を継ぐにはまだ周囲を説得させる力がありません。後に文武天皇などが未成年で天皇になれたのは大きな後ろ盾(持統皇后)がいたからです。

 

3.大友皇子は皇太子のまま、祖母、斉明天皇の崩御後の父、天智天皇を見習い、称制という形で政治を代行したと思われます。まるきりの空位のままでよいはずもありません。大友皇子は現実的にみても、権力を掌握している地位にいるのです。あと5年間辛抱すれば天皇になれるはずでした。

 

4.大友皇子を擁護する懐風藻ですら、大友皇子が即位したとは書きませんでした。日本書紀の記述が間違いで、本当に即位していたことを隠していたとするならば、そのことを誇らしく書いたはずです。

また、古代天皇の漢風諡号を作ったといわれる、懐風藻の作者の淡海真人三船も、この大友皇子に漢風諡号を付けていません。つまり、懐風藻自身が大友皇子は天皇にはなれなかったと言っていることになります。

 

しかし、懐風藻の20歳での太政大臣、23歳の皇太子説はでたらめです。他の歴史書や現代のどんな仮説より懐風藻の記述が一番的はずれのものなのです。

 

 

大海人皇子が退いたときの天智天皇への提案の意味

 

日本書紀、天武即位前紀の記述は、天智天皇に大海人皇子のこれからの朝廷構想を語らせています。大海人皇子にとって、この時から壬申の乱は始まっていたのです。

有名な箇所なので全文を掲げます。

 

天武天皇即位前紀

四年冬十月庚辰、天皇臥病、以痛之甚矣。

於是、遣蘇賀臣安麻侶、召東宮、引入大殿。

時安摩侶、素東宮所好。

密顧東宮曰、有意而言矣。

東宮於茲疑有隱謀而愼之。

天皇勅東宮授鴻業。

乃辭讓之曰、臣之不幸、元有多病、何能保社稷。

願陛下擧天下附皇后。

大友皇子、宜爲儲君

臣今日出家、爲陛下欲修功徳。

天皇聽之。

即日、出家法服、因以、收私兵器、悉納於司。

 

「四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重体であった。

蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮(大海人皇子)を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。

安麻呂は元から東宮に好かれていた。

ひそかに東宮を顧みて、「よく注意してお答えください」といった。

東宮は隠された謀があるかも知れないと疑って、用心された。

天皇は東宮に皇位を譲りたいといわれた。

そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。

願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。

そして大友皇子を皇太子として下さい。

私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます」といわれた。

天皇はそれを許された。

即日、出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。」

宇治谷孟訳(句読点、段落は本稿任意)

 

天武天皇のこの構想はすごいと思います。

なんと、現、天智皇后である古人大兄皇子の子、倭姫王を天皇にして、大友皇子を儲君(まうけのきみ)にすべきだといったのです。

儲君とは、日本書紀で他に3例あり(反正天皇、木梨輕太子)、そこに「太子是爲儲君」とあり、儲君=太子とはっきりあります。

これは自分の皇太子位を返上し、出家するというものです。吉野に退くときには、武装解除した大海人皇子が皇太子の位も返上したと考えるのが常套です。

この提案は天智、天武の両兄弟が天皇の血を引き継いではいなかったとも考えられるものです。血を受け継いでいないとすると、この提案は大きな意味を持つことになります。古くから続く天皇家に地位をお返しするという表現になるからなのです。

直近の舒明天皇の血を受け継ぐ、間人皇女はすでにこの世になく、古人大兄皇子の子、倭姫王しかいないことになるのです。もしそうなら、この提案は、天智天皇にとって斬新で説得力のあるものだったはずです。

中国唐の制度にも存在しない太政大臣とは何なのでしょう。

そもそも、太政大臣はこの大友皇子が最初です。日本書紀岩波版補注には、「天皇に代わって国政を統理するものであったとみられ、皇太子摂政の伝統をおうものとみなされている」とあります。

その後、草壁皇子の皇太子に対する大津皇子の太政大臣、持統天皇を補佐する太政大臣の高市皇子、聖武天皇に対する太政大臣長屋王がいます。

私見ですが、太政大臣は大変に高い位だとは思いますが、決して、天皇にはなれぬ職だったのではないでしょうか。天皇になれるのは皇太子だけです。よって、天智天皇の即位当時の方針では太政大臣である大友皇子は皇太子にするつもりはなかったと思います。

この天武の提案は大きな方向転換を意味していました。

 

案外、天智天皇は本音で天皇位を大海人皇子に与える心づもりがあったのではないでしょうか。

しかし、天皇を取り巻く近江朝の環境は大海人皇子を受け入れるものではなかったようです。

 

倭姫王が素直に天皇位を継いだとも思えません。

倭姫王としてもそんな依頼は拒絶したはずです。万葉集の倭姫王の天智天皇への悲しみの挽歌は本物です。私には天武天皇の巧妙な策略に見えます。はっきり、大友皇子を天皇にしろとは言わず、倭姫王という新たな天皇候補が擁立させられた形です。朝廷は一時期にしろ、この提案に混乱させられたはずです。

それでもこの提案を天智天皇はよしとし、実行に移されたのです。天智10年11月23日、大友皇子は仏前にて、5人の臣下と香炉をもって忠誠を誓い合ったとあります。

そして29日、改めて、天智天皇の前で大友皇子を奉じて5人の臣が改めて誓ったのです。

天智天皇崩御の5日前の出来事です。日本書紀は皇太子、東宮に大友皇子がなったとは書きませんでしたが、これがその儀式に違いありません。日本書紀独特の表現方法です。主軸を離れたものを冷たく事象として伝えただけでした。

 

皇太子を囲んだこのときの5人の家臣はその後の壬申の乱の結果、

 

  左大臣蘇我赤兄臣(そがのあかえのおみ)   捕らえられ、流刑

  右大臣中臣金連 (なかとみのかねのむらじ) 捕らえられ、斬殺。

  蘇我果安臣   (そがのはたやすのおみ)  近江国犬上川の戦いに敗れ、自殺。

  巨勢人臣    (こせのひとのおみ)    捕らえられ、流刑

  紀大人臣    (きのうしのおみ)     不明。逃亡か。天武12年生存の諸伝も残る。

 

大友皇子自身は、皆に逃げられ、山前と言われる場所で、自ら首をくくって死んだとあります。

 

壬申の乱の近江朝からみた敗因

壬申の乱の敗因はいろいろ考えられます。

大友皇子側からみると、この頃はそれどころではなかったはずです。

671天智10年1月6日24歳で太政大臣に任じられましたが、9月には天智天皇が病の床につき、10月には大海人皇子が吉野に退いてしまいました。

そんなとき11月10日、唐の郭務宗らが二千人を引き連れ大挙して来日したのです。最近の研究では、白村江などの戦いでの敗残者の引き渡し交渉であったといわれています。

その最中、12月3日に天智天皇が崩御されたのです。葬儀の準備で目のまわる忙しさでしょう。本来一年以上は殯の儀式が続くのです。自分自身、皇太子として、父の葬儀を取り仕切った形です。

天武天皇らが吉野を脱出したのが翌年5月24日でした。

5月30日には郭務宗が唐へ向け帰国のため出発とあります。

6月頃になって、やっと軍兵を集めるため、吉備と筑紫に使者が派遣された記事があります。筑紫大宰栗隈王はこれを断っています。当然です。近江以上に九州は戦後処理でそれどころではなかったのです。栗隈王の怒りが目に見えるようです。

近江側のやっと戦闘態勢らしい様相が見え始めたのは7月なってからではないでしょうか。しかし、その頃にはすでに体勢は決していました。破竹の勢いの天武天皇軍を止めることはかなわず、7月23日壬申の乱は大友皇子の自縊で終わったのです。

 

大友皇子の人物像

懐風藻にのる大友皇子が書いた漢詩の評価は概ね良好のようです。そのはずです。日本に残る一番古い最初の漢詩だからです。ひいき目に見ても悪く批評するものもありません。

 

大友皇子は「皇太子者。淡海帝之長子也。」

懐風藻の作者はよほど、「長子」という言葉が好きなようです。

「身体は魁大にして奇偉、立派な趣は弘深く、目の様子は鮮やかに輝き、ふりかえりみる様子はかがやかしくて、立派な風采であった」と絶賛しています。

また、唐の使者、劉徳高と会っており、大友皇子を評し、「この皇子、風骨は世間の人に似ず。実にこの国の分にあらず」と褒め称えたといいます。彼は665天智4年に来日していますから、18歳の大友皇子を見たことになります。しかし、ずば抜けた人物と褒めているようでが、一流外交官が軽々しく言う言葉とも思えないのです。日本という野蛮な国にもったいないすばらしい男という意味にもとれる、日本を軽蔑した言葉になるからです。劉徳高の言葉というより、懐風藻の作者、淡海三船の創作のように見えます。この作者は、他でもみられますが、周囲を小馬鹿にしたような言葉使いが多いのです。

 

さらに、大友皇子が見た夢占いを中臣鎌足に託したと書かれています。鎌足はそれに答えて、天智天皇崩御の後に悪賢いものが皇位を狙うでしょう。しかし、善を行う者だけは助かるのです。徳を積まれますように、と言って、娘に身の廻りの世話をさせてくれといい、親戚関係を作ったと書いています。

これは明らかに後日、大友皇子に襲いかかる悲劇を知るものの弁であり、それこそ懐風藻の作者の創作であることがわかる逸話の一つです。また儒教精神の固まりのような教えです。

兵法書、六韜(りくとう)を愛読した冷徹な鎌足の言葉には見えません。むしろ、現実には兵法家として、中臣鎌足は自分の娘達をこの大友皇子と近い将来、敵になる大海人皇子の両者に与えることができたことのほうが意味のほうが重要です。

また、鎌足は主君筋にあたる天智天皇には娘を納めていませんから、本稿ではこのふたり、大友と天武の年齢が近い可能性についても別で論じました。

 

 

葛野王の年齢 かどのおう

669天智8年生 〜 705慶雲2年12月卒 37歳(懐風藻)

 

父 大友皇子

母 懐風藻に十市皇女とあるが、疑わしい。

子 池辺王 従五位上、内匠介。淡海真人らの祖、三船の父とする。

      727年、無位より従五位下を受けている。

  聖宝  法務僧正。東大寺別当。醍醐寺東南院建立。小野元祖。延暦9年76(78)歳入滅。

      「但不知行方。飛行他方。観音應化。或文珠」

      (本朝皇胤紹運録)この聖宝の記録は現在、間違いとされています。

  藤並王―――御友王―――淡海大野

        淡海清直

 

 正四位上 式部卿で亡なくなったとあります。

 

懐風藻には、この葛野王について大きな二つのことを伝えています。

一つは葛野王が天武天皇の娘、十市皇女を母だと言っていることです。

もう一つは、持統天皇の跡継ぎ問題で弓削皇子を叱りとばしたという記事です。

 

簡単に繰り返すと、十市皇女が葛野王を産んだとすると、天武天皇にとって孫となる葛野王は年齢的には長皇子や穂積皇子と同年齢のはずです。あまりにひどい扱いです。天武天皇の孫とはとても考えられません。年齢でも十市皇女ではまだ10歳程度のはずです。もし大友皇子と同等の年齢とすると彼女の死亡年齢が30歳にもなり、息子を一人置いて自殺した身勝手な母親像は似合いません。今もなおむりに年齢合わせようと歴代の学者たちが悪戦苦闘しているのです。

また、少し年上でしかない弓削皇子を叱ることのできる身分でないことは明らかです。持統天皇にこうした発言があったとしても、弓削皇子を押さえつけるまではなかったと思います。葛野王の生き方は終生天武持統朝に阿(おもね)るものです。そんなことができる男ではないと思います。

 

この有名な二つの記述を本稿は否定しました。

ここでは述べません。リンク先を指定してご確認ください。

 

葛野王の母親を推理する

葛野王の母は十市皇女ではありません。では、誰なのでしょう。

 

十市皇女が大友皇子の妻で、葛野王を産んだとする記述は、懐風藻にしかありません。

淡海三船の卒伝がのる延暦4年7月の続日本紀や本朝皇胤紹運録にも記述がありません。

物語にされた扶桑略記、水鏡、愚管抄、宇治拾遺物語の各書物にさえ、壬申の乱のとき父天武天皇に秘かに知らせたとする、この有名な大友皇子の妃の名を書いていません。どこにも、十市皇女が大友皇子の妻と書いていないのです。

 

大友皇子は生母の出身地名から伊賀皇子とも呼ばれました。

また、大友という名は近江国滋賀郡大友郷(滋賀県大津市坂本付近)に本拠があった大友村主氏(渡来系氏族)から皇子の乳母が出たことに基づくものなのでしょうか。

こうした地区の名称から、大津遷都は天智天皇がすでに大友皇子を後継者に擬するねらいがあっとする説もあります。

 

葛野とは山背国葛野郡にあります。山城国八郡の一つが葛野郡です。倭名抄に加止乃、と註しています。この広さの中に橋頭、大岡、山田、河邊(かわのべ)、葛野(かどの)、川島、上林(かむつはやし)、櫟原(いちはら)、高田、下林(しもつはやし)、緜(綿)代、田邑(たむら)の12郷を有します。

この中の葛野郷は、京都市右京区西京極葛野町付近といわれています。この辺は葛野連の勢力下で物部氏と同族をいわれる一族です。

 

井上満郎氏によれば、河勝の居地をいう。河勝が聖徳太子下賜の仏像で建立した寺院が「蜂岡寺」で「葛野蜂岡寺」ということから、秦氏の居住地であったとしています。「東アジアの古代文化 最終号」大和書房2009

秦氏が渡来系氏族であることはいうまでもありません。

この葛野王を調べれば調べるほど、優秀な渡来系の人たちの名前が続々と出てきます。

 

皇子の周囲には、つねに沙宅紹明(さたくしょうめい)、塔本春初(とうほんしゅんしょ)、吉大尚(きつたいしょう)、許率母(きょそつも)、木素貴子(もくそきしら)など渡来系の学者たちの姿があったようです。「懐風藻」

この記述は、そっくり日本書記に載っています。天智10年、大友皇子が太政大臣就任直後の官位授与のもので、さらに詳しく紹介されています。懐風藻の作者はこれを引用しただけなのかもしれません。

 

日本書紀 天智紀10年1月

是月、

以、大錦下授、佐平余自信沙宅紹明、法官大輔。

以、小錦下授、鬼室集斯、學職頭。

以、大山下授、達率谷那晋首、閑兵法。木素貴子、閑兵法。憶禮福留、閑兵法。

       塔本春初、閑兵法。本日比子、賛波羅、金羅金須、解藥。鬼室集信、解藥。

以、小山上授、達率徳頂上、解藥。吉大尚、解藥。許率母、明五経。角福牟、閑於陰陽。

以、小山下授、餘達率等、五十餘人也。

 

懐風藻にものる渡来系の人達について岩波版の注に基づき、懐風藻に抽出された5名について若干の説明をしておきます。

 

沙宅紹明(さたくしょうめい) 沙宅氏は百済の貴族です。藤氏家伝に「才思頴拔、文章冠世」と評され、鎌足の碑文を作ったとあります。天武2年閏6月、大錦下の位で没。外少紫・大佐平を贈られています。

「法官」とは近江令官制では式部省に相当します。平安以降は刑部省を指し、中国でも司法省のことを指しました。「大輔」は次官の意です。

 

塔本春初(とうほんしゅんしょ)百済滅亡により渡来した百済の軍人といわれています。後に塔本陽春が麻田連と賜姓され、姓氏録に「麻田連、出自、百済国朝鮮王淮也」とあります。天智4年8月に、長門国(山口県西部)に派遣され、城(き)を築いたとあります。ちなみに憶禮福留は筑紫に大野城を築いた軍人です。

 

吉大尚 (きつたいしょう)  任那に住んでいた倭人で、弟の少尚らとともに帰国、世々医術を伝え、文芸に通じていたようです。後に、子の宜らが吉田連に賜姓されたと氏姓録などにあります。

 

許率母 (きょそつも)    天武6年5月に、大山下、大博士とあり、五経に明るいとありますから学者だったようです。

 

木素貴子(もくそきし)   白村江敗戦に後、天智2年9月7日、百済の最後の砦、州柔城(つぬのさし)が陥落しました。そのとき妻子共々、祖国を捨て、日本の軍船で日本に向かったとあります。余自信(あぐり)、憶禮福留の名前もあることから、上記の全ての人々もこれに関連した避難民といえそうです。姓氏録に林連の祖とあり、葛野郡上林郷、下林郷などを本居としたと書かれています。

 

天智天皇自身が百済系などの渡来人を重用したことは知られています。

 

また、壬申の乱で戦死したものの多くに渡来人が関係していることに驚かされます。瀬田川の戦いでの将軍はなぜか渡来人だったことは有名な話です。

旧氏族の多くが参戦しなかったか、裏切ったりしているのです。たぶん、天武天皇側の巧妙な取り込み獲得戦略があったからとも思えますが。

 

大友皇子や葛野王の周りからは優秀な渡来系氏族で固められていた事実ばかりが浮かび上がるのです。自分の出自に自身のない身分だったため、渡来系の優秀な学者などを広く重用し、教えを受けていたとする説があります。

 

このなかで育った大友皇子です。渡来系氏族の娘の一人が大友皇子に見初められ、葛野王が生まれたとは考えられないでしょうか。だから、懐風藻の作者は正直に書けない卑母を隠し、あまりに高名な娘を偽って母だなどと言ってしまったのかもしれません。普通氏族の娘だとしたら、懐風藻もわざわざ、天武の娘を母などとは書かずにすんだはずです。わざわざ母を明記したのです。だからこそ不自然であり、渡来系の娘が母ではないのかと疑ってしまうのです。

また、大友皇子の子孫のなかでも、はっきり葛野王の子孫ではないと嫌った一族もいるのです。

 

葛野王の人物像

 

懐風藻に小伝が残っているのですが、大変立派な人間として描かれています。

「度量や振舞いは広く大きく、風采や識見は優れて秀でていた。才能は国家主要な職務にあたるのに十分であり、門地は天子の親族、皇族であられる。幼年のころより学問を好み、経書・史書などに博通じておられた。詩文を作ることもたいへんお好きで、それに書や画にも堪能であられた。」江口孝夫氏訳

また、天武帝の嫡孫として浄大肆を授けられ、治部卿に拝した、とあります。

 

しかし、彼の漢詩への現代の評価は最低のものです。

「少々ポーズをとるところがある。〜単なる模倣は遊びの域を出ない。〜単純さをまぬかれない。」

「大げさであるが、中国の教養を得意げに振り回す、そこに若気、稚気さが見える〜」江口孝夫氏

「この詩は古詩の作風で、まず習作である。佳いものではない。」

「この詩集において老荘道術の迷信が、巳に深く上流に浸透したことがわかる。この詩のみならず、その老荘的思想に左右せられたものの多いのを見るのである。さて、この詩は、論ずるに足らぬものである。」林古渓氏

 

「淡海帝の孫、大友皇子之長子なり」という派手な言葉使いが気に掛かります。別に、大津皇子の小伝でも、天武天皇の長子とし、後世の学者たちを悩ませています。この懐風藻は自分に有益な人物をすぐ長子などとうそぶく傾向があるのです。

弓削皇子を叱りとばした葛野王ですが、皇太后はこの一言が国を定めたと喜び、特に「正四位」を与えたとありますが、当時はまだない位です。しかも正四位上とも正四位下でもないのです。これも言葉を濁しているように見えるのです。

 

大友皇子はこうした渡来系の娘から、葛野王が生まれたと予測します。

そうでなければ、なぜ、天武天皇の長女とうそぶき十市皇女を登場される必要があるでしょう。

母を正直に紹介できぬ事情があったと考えたくなるのです。

この葛野王やその息子、池辺、さらに孫の淡海三船と、中国儒教系学者の家系にみえるのは思いこみでしょうか。

 

 

もう一人の息子、与多王

 

与多王(與多王) (本朝皇胤紹運録)

 母は不詳

 子 (大友)都堵牟麿―┬――黒主(六歌仙の一人)

            └――夜須良麿

 

滋賀県の三井寺(みいでら)は当時、園城寺(おんじょうじ)と呼ばれ、壬申の乱で敗れた大友皇子の菩提を弔うため、686天武15年、建立したと伝えられます。与多王の屋敷である田園城邑(田畑屋敷)を寄進し、天武天皇により「園城寺」の名を授かったといわれています。その後、一時、近江朝没落とともに衰退しましたが、御井寺として再興されたといいます。その後、三井寺となりますが、これは天智、天武、持統3代の天皇の産湯として遣われた井戸があるとされたことによります。

 

 

大友皇子落人伝説

 

史実では、672天武1年7月23日、山前(やまさき)で自害されました。この地の特定はなされていません。大友皇子の首は村国連男依(むらくにのむらじおより)らによって、天武天皇の待つ不破宮に運ばれました。後に、自害峰と呼ばれる3本杉の下に葬られたと当地の伝承にあります。御陵候補地としては茶臼山古墳(大津市秋葉台)や御霊神社(大津市鳥居川)があるますが、現在は「弘文天皇長等山前陵」とされる円城寺境内の亀岡古墳(大津市御陵町)が認定されていますが定かではありません。

 

伝承によると、首実検されたものは身代わりで、蘇我赤兄や蘇我大飯らとともに上総国(千葉県君津市)まで逃げ延びたというものです。そこの白山神社はもと田原神社といわれ、伝承のもとになるところです。天武天皇の勅願寺の一つです。ここに小川宮を建てましたが、すぐに天武天皇の知るところとなり、送られた兵により再び敗退、この地で自害したとあります。妃の十市皇女もおりましたが、出産がもとで子ともども亡くなりました。村人により筒森神社が建てられ奉られたといわれます。

白山神社の裏には円墳があります。これは古墳時代前期と思われる近くの前方後円墳の陪墳といわれています。ここに大友皇子の墓があります。また、小櫃台という地名の近くにあり、これが大友皇子の墓とする伝承もあるそうです。

 

ただ気になるのは近江の三井寺である園城寺は全国白山神社の総本山とされるそうです。

網野一彦「古代天皇家血の争乱」歴史読本(臨時増刊43号)新人物往来社1983年12月通28巻19号

与多王の大友皇子への思いはよほど強かったのだと思います。

この激しい思いが大友皇子を生き返らせたように見えます。白山神社を通して落人伝説が生まれたようです。京都の白山神社こと三井寺は、この与多王が私財をなげうってまでして建てた大友皇子のための寺です。兄弟の葛野王より、よっぽど父思いです。その子孫は真人姓にはならなかったものの、大友村主姓として命をつないでいくことになります。

葛野王のように、天武持統朝に迎合し、高い官位を得ることはありませんでした。

また、葛野王らは自分が大友皇子の子供というより、天智天皇の孫であることを強調していました。その結果、淡海真人姓が葛野王の子孫に与えられました。751天平勝宝3年三船に賜姓されたことに始まります。淡海の氏名は、近江国(滋賀県)の地名に基づきます。

また、淡海宿禰姓を河嶋皇子の子孫に、施基皇子の場合は、その子孫を春原王とされているのです。

しかし、与多王は大友村主姓を与えられました。与多王は大友姓を得られ、かえって喜んでいたのかもしれません。

 

 

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