天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
欠史八代の系譜矛盾 First update 2013/12/15 Last
update 2013/12/15 ここでは神武天皇と崇神天皇の間に続く欠史8代の記述矛盾をまとめます。 【日本書紀が示した第1代神武天皇〜第10代崇神天皇までの系譜】
まず、上記欠史八代といわれる各天皇の婚姻関係を一覧してすぐに気がつくことがあります。 第1代神武天皇から第6代孝安天皇までの勢力範囲の狭さ、乏しさです。 第1代神武天皇とその息子の第2代綏靖天皇は神と言いながら同じ姉妹を娶っており、 第3代安寧天皇も、第1代神武天皇、第2代綏靖天皇と同じ父の孫娘を迎えています。 玉櫛媛 ├―媛蹈韛五十鈴媛命(姉) → 第1代 神武皇后 ├―――五十鈴依媛命(妹) → 第2代 綏靖皇后 事代主神――鴨王――渟名底仲媛命 → 第3代 安寧皇后 また、第4代懿徳天皇と第6代孝安天皇は両者ともに自分の兄の娘を娶っています。 つまり、皆、同族間同士の交わりであって、周囲から孤立しています。 さらに、一伝として伝わる后妃女達に磯城縣主の名が多く見られることです。地元氏族とのつながりの中で、細々とやっと命をつないでいた感をぬぐいきれません。 昔から、この頃の天皇は磯城氏に多くを頼っていたと言われる所以です。 以下で、磯城氏を分析するように、物部氏も磯城氏、穂積氏も物部氏ですから、欠史八代すべての天皇が地元磯城氏に関わる娘達と婚姻関係にあったことになります。天皇一族にとってなくてはならぬ磯城氏族だったのです。自然の摂理として、天皇一族九州の血はどんどん薄まり、大和の地に吸収され同化していったともいえるのです。 皇后の記録 1神武天皇皇后、媛蹈韛五十鈴媛命。事代主~と玉櫛媛(三嶋溝橛耳~の娘)との間に生まれた娘 2綏靖天皇皇后、五十鈴依媛命。事代主~と玉櫛媛の娘、媛蹈韛五十鈴媛命の妹、 別伝に磯城縣主の娘、川派媛。別伝に春日縣主大日諸の娘、糸織媛 3安寧天皇皇后、渟名底仲媛命(渟名襲媛とも)。事代主神の孫、鴨王の娘 別伝に磯城縣主葉江の娘川津媛。別伝に大間宿禰の娘糸井媛 4懿徳天皇皇后、天豐津媛命。懿徳天皇の兄、息石耳命の娘 別伝に磯城縣主葉江の弟猪手の娘、泉媛。別伝に磯城縣主太眞稚彦の娘、飯日媛 5孝昭天皇皇后、世襲足媛。尾張連の遠祖、瀛津世襲の妹 別伝に磯城縣主葉江の娘、渟名城津媛。別伝に倭國豐秋狹太雄の娘、大井媛 6孝安天皇皇后、押媛。孝安天皇の兄、天足彦國押人命の娘か、とある。 別伝に十市縣主五十坂彦の娘、五十坂媛。別伝に長媛、磯城縣主葉江の娘 7孝霊天皇皇后、細媛。磯城縣主大目の娘 別伝に春日千乳早山香媛(眞舌媛)。別伝に十市縣主等の娘、眞舌媛。 妃に、倭國香媛(絚某姉)、妃に、絚某弟 8孝元天皇皇后、欝色謎命。穂積臣の遠祖、欝色雄命の妹 妃に伊香色謎命、物部氏の遠祖大綜麻杵の娘。妃に河内青玉繋の娘、埴安媛 9開化天皇皇后、伊香色謎命。物部氏の遠祖大綜麻杵の娘 妃に丹波の竹野媛。妃に姥津媛、和珥臣の遠祖、姥津命の妹。 注:黄色は磯城氏、橙色は大和地区、緑色はその他 磯城県主との緊密な関係 別伝に注目すると、磯城県主の娘たちが各天皇に密接に連なっていることがわかります。特に磯城県主葉江は娘3人を第3代安寧天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇に与えています。さらに、磯城県主葉江の弟猪手の娘が第4代懿徳天皇に嫁いでいます。しかし、3人の姉妹と1人の姪が、4代の天皇の后妃に選ばれていたとしたら、別伝と断りがありますが、明らかに世代矛盾です。 磯城氏が初期の大和政権に対して皇后を出しているのですが、同世代の磯城県主葉江の娘、4人の姉妹達が第3代から第6代の天皇に嫁いだことになり、4代の曾祖から孫までの天皇が、同じ姉妹を娶っているからです。これを単なる伝承の不備と片付けていいのでしょうか。 【日本書紀皇后別伝を強調した場合の系譜】
少なくとも第3代安寧天皇、第4代懿徳天皇、第5代孝昭天皇、第6代孝安天皇は代々に続く親子ではなく、兄弟と考えたほうが自然です。
磯城氏とは 磯城は大和国の地名です。城上、城下二郡がこれに当たります。師木とも志貴とも書きます。 地名として志紀が大和と河内の二箇所にあり、茨木もシキと読ませる幅広い地域です。 日本書紀では、神武紀2年に「弟磯城(名は黒速)を磯城県主とした」とあり、天武天皇紀に、「十二年冬十月、磯城縣主に連の姓を賜う」としています。弟磯城は兄を裏切り、神武天皇に味方する物語があり、饒速日命、長髄彦系の氏族とは異にしています。 饒速日命は神武天皇より早く天磐船で畿内に入った神で、神武天皇と争った長髄彦の妹を妻にしていました。 開化天皇 饒速日命 ├―――崇神天皇 ├――可美眞手命―日子湯支命―(数代)―大綜麻杵―┬―伊香色謎 ┌―三炊屋媛(妹) └―伊香賀色雄―大水口宿禰 └―長髄彦(兄) 饒速日命は長髄彦を裏切り、神武天皇側につきます。これが物部氏の祖先です。後に第10代崇神天皇は磯城に宮を移します。この天皇の母が伊香色謎命といい、物部氏の祖先大綜麻杵の娘です。ついでに穂積臣の祖先は大水口宿禰といい、伊香色謎の兄、伊香賀色雄命の子といい、崇神天皇の母の兄に当たります。これが、日本書紀が描く系図です。 古事記は、可美眞手命を宇摩志麻遲と書き、物部連、穂積臣、婇臣の祖とわかりやすく、孫は味饒田命(阿刀連等の祖)と彦湯支命(志貴連の祖)です 新選姓氏録は、磯城氏を3種の県主、連、首の3姓と別れています。 大和国神別で、「志貴連。同じき神(饒速日命)の孫、日子湯支命の後なり」 和泉国神別「志貴県主。饒速日命の七世孫、大売布の後なり」 和泉国皇別「志紀県主。雀部臣と同じき祖。(神八井耳命の後なり)」 河内国皇別「志紀県主。多朝臣と同じき祖。神八井耳命の後なり」 右京皇別 「志紀首。 多朝臣と同じき祖。神八井耳命の後なり」 新撰姓氏録には磯城県主の記述はありません。あるのは志紀県主と志貴県主です。磯城県主は日本書記独特の表記なのです。神八井耳命は神武天皇の皇子で第2代綏靖天皇の同母兄に当たります。 志貴系氏族は饒速日の子孫ですが七世孫などずっと後になって生まれた氏族であり、志紀系氏族は天皇一族から生じ別れたように見えます。もしくは和泉国と大和から遠ざけています。 先代旧事本紀に載せられた系譜によると、日子湯支命の四世の孫、伊香色雄命の子に、大新川命、十市根命、建新川命、大布命などがおり、その大新川と十市根が、初めて物部連という姓を賜い、十市根は石上の神宝を管掌したとされます。すると物部連になった十市根たちは、このときに石上に住居を移したとも考えられますが、弟の建新川と大燈zは師木の本拠に留まり、元のまま子孫まで師木縣主であり続けたとする説もあり得ます。 だから旧事紀では建新川を倭の志紀縣主らの祖と書いているのです。 物部連と師木縣主と別れた初めということになります。 先代旧事紀が語る天皇を守る重臣たちの系譜 物部氏が残したとされる、先代旧事本紀はこの頃の事情を詳細に記録しています。先代旧事本紀は江戸時代の国学者たちに偽書として排斥され現在に至りますが、現在も案外珍重されています。これによると祖先の兄弟が、各代の天皇の官僚を務めています。旧事記が語る、天皇に仕えた物部氏の始祖たちが、この欠史八代の重臣として登録されているのです。 【先代旧事本紀 巻第五天孫本紀】
これを世代別のくくります。物部の子孫たちは兄弟が歴代の天皇に仕えていたのです。これは、歴代天皇の在位が非常に短かったことを示しています。例えば、大禰、出雲醜、出石心の三兄弟は、3安寧、4懿徳、5孝昭の各天皇に使えていたのです。 第1代神武天皇に邇速速日命の子、 宇摩志麻治 第2代綏靖天皇に宇摩志麻治の子、彦湯支 第3代安寧天皇に 彦湯支の子、大禰 第4代懿徳天皇に 彦湯支の子、出雲醜 第5代孝昭天皇に 彦湯支の子、出石心 第6代孝安天皇に 出雲醜の子、三見宿祢 第7代孝霊天皇に 出石心の子、大矢口 第8代孝元天皇に 大矢口の子、欝色雄 大矢口の子、大綜杵 大綜杵の娘、伊香色謎 第9代開化天皇に 大矢口の子、大綜杵の娘、伊香色謎 大綜杵の子、大峯大尼 欝色雄の子、武建大尼 単純には決められませんが、先代旧事本紀が正しく、物部氏系譜通りに天皇家に関わり続けたと仮定すると、記紀が伝える親子が順に並んだ系譜ではなく、親子ではなく兄弟であったと時代的には次の系譜も仮定できるのです。 【欠史八代の違った系譜の試み】 1神武天皇―2綏靖天皇―┬―3安寧天皇 ├―4懿徳天皇――6孝安天皇 └―5孝昭天皇――7孝霊天皇―┬―8孝元天皇 └―9開化天皇――10崇神天皇 天皇系譜の矛盾 同じことは、第8代孝元天皇、第9代開化天皇、第10代崇神天皇にもいえます。これらの系譜矛盾がいろいろあり、その都度、ここにいままで語ってきました。その中でも甚だしいものの一つが崇神天皇と四道将軍、そして、倭迹迹日百襲姫、さらに、崇神天皇らが滅ぼした埴安一族との系譜による関わりです。 【孝霊〜崇神までの代表系譜】 【天皇世代ごとの関係図】
青色=天皇、黄色=后妃、緑=崇神天皇に仕えた四道将軍 崇神天皇によって四方に派遣された四将軍は、系図的には武渟川部は崇神と同世代ですが、大彦は神武の父の兄であり、吉備津彦や丹波道主などは、さらに祖父の代の人間です。また、崇神時代の巫女には数々の神話を生んだ倭迹迹日百襲姫がいますが、これも祖父の代の人間です。崇神天皇と大彦らが鎮圧した埴安媛も祖父孝元天皇の妃です。 これらを簡単に架空の話、神々の伝承などと棚上げするのには賛成できません。本稿ではどれも史実と考えています。たぶん記紀の系譜が間違っているのです。欠史八代の多くは親子ではなく、兄弟だと思うのです。 和風諡号の類似 このことは和風諡号との類似からも同様の連想をさせます。 井上光貞氏はその著書「日本国家の起源」において、日本書記が成立当時の天皇達の和風諡号が欠史八代のそれと類似することから、欠史八代は創作ではないかと主張したものです。 しかし、本稿では、その血縁関係の類似比較から、親子ではなく、兄弟ではないかと疑うのです。 大倭日子 (第4代懿徳天皇) 大倭根子天之広野日女 (第41代持統天皇) 大和帯日子 (第6代孝安天皇) 倭根子豊祖父 (第42代文武天皇) 大倭根子日子(第7代孝霊天皇) 日本根子天津御代豊国成姫(第43代元明天皇) 若倭根子日子(第9代開化天皇) 日本根子高瑞浄足姫 (第44代元正天皇) 持統天皇と元明天皇は異母姉妹であり、元正天皇と文武天皇も姉弟なのです。 【欠史八代和風諡号】
黄色は前之園氏「古代王朝交代説批判」に従えば、元名前で他は尊称、美称という。 欠史八代は実名であり後世の造作ではない。(田中卓「古代天皇の秘密」) 系譜矛盾を解く手がかり 北九州に宗像三女神を祀る宗像神社があります。日本書紀によると、天照大神と素戔嗚尊が話し合い、天照大神が素戔嗚尊の十握の剣を囓り、生まれたのがこの宗像三女神で、後にこの三女神を筑紫に降ろし天孫をお助けするよう授けたといわれています。 その宗像神社伝によると、宗像には10種類の古い系図がありました。最初の一つは名前が羅列されただけの古いものでしたがある時点で、いくつかの系図を一つに系線をもって、つなぎ合わされました。さらに、新しい系図が次々に書き加えられたという経緯が語られています。以下、現代漢字に統一して引用します。 「今、社務所次第を見ると、十一代氏尚までは歴代必ず人を異にし、一代二十年を越えるものが大半である。〜実際には(その後の系図の見るように)何度も交替して補任せられたのであり、社務次第ははじめの部分についてはその詳細な記録欠くままに、単に大宮司に任ぜられた経歴のある人々を、年代順に列記して、〜歴代大宮司の名だけを並べておいたものと認められる」 「これに反して、三の系図がこれを整理して、系線をもって結んでしまったことは、却ってその真を損なうものと言うことができよう」 その最古の一つは、ただ、名前が羅列されているもので、親兄弟のつながりが書かれていないものです。ところが、途中、これが、すべて一列に親子の系図として表されたというものです。ここの経歴が残る人物をさぐると、親子、兄弟、重複補任などが正確には確定できないものとして、そのままにされたのです。 この解析を可能にしたのは、10種類もの古い系図が存在でした。比較分析により、上記のことが解析できたのです。宗像系図は、記紀の欠史八代と同様、初代は直列に見えるものだったのです。 【10世紀初頭まで遡る宗像氏系図】
注:数字は大宮司の代数。15代以降は同一の宮司が繰り返し座しているのがわかる。 これを単純に日本書記に当てはめることはできませんが、日本書紀に書かれた上古の故事と系譜の不整合な矛盾は、宗像系図作成の歴史においても同様のことが起こったと仮定できるのではないでしょうか。 似通う直列配列の欠史八代の系譜や4懿徳と6孝安の兄の娘を娶る系譜も含め、合理的に説明できるのです。天皇系譜にのる古代リストには女性を含め、羅列され横に並べて記されていたと考えられます。当時、名前のみが順に記述されたリストを見て、兄弟としてではなく、一列に親子と考えたのです。二人の女性の名もありましたが、これも兄妹としてではなく、これも、娘、さらには次の天皇の皇后として位置づけられたのです。これは、日本書記全般に見られる、年代の引き延ばしの一環と思われます。 幸い第10代崇神天皇の故事の多くから、第8代孝元天皇から崇神天皇までは同一世代、もしくは近接した時代に生きていた方々であることが想像できます。 【欠史八代の伝承記録の再現事例】
実際は右から左に並べて名前だけが書かれていたのかもしれません。ここでは古事記の和風諡号を用いました。後に追記されたとされる、美称、尊称は省いています。また、孝安兄の天足彦國押人は孝安の和風諡号と同じで、これに美称が付いているだけなので、元は書かれていなかったと考えました。押媛も孝安の和風諡号と同名なので、孝安天皇の后妃ではなく、姉もしくは妹なのかもしれません。 現在でも、第1代神武天皇と第10代崇神天皇が同じ和風諡号を持つことから、二人を同一人物とした荒っぽい考え方も見受けます。また欠史8代を創作として簡単に歴史上から削除するのには賛成できません。 少なくとも、欠史八代は実在していたと考えます。 実際、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇まで、故事もないことから、名前だけでは推測不可能なのです。正確なところは、古代の記紀編纂者たちにもわからなかったと思います。そんなこのリストを破棄することなしに仮にすべてを親子関係として位置づけて見せたのが、欠史八代だったのではないでしょうか。 参考文献 「宗像神社史」(上・下・附巻)宗像神社復興期成会、吉川弘文館S41 田中卓「古代天皇の秘密」 太陽企画出版1979 井上光貞「日本国家の起源」 岩波新書1963 大野七三「先代旧事本紀訓註」 批評社2001 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |