天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2013/04/12
Last update 2013/04/12 45歳 古事記 己丑BC632神武29年生~壬子BC549綏靖33年崩御 84歳 日本書紀 他すべて 乙未118年生 ~乙未155年崩御 38歳 本稿
【日本書紀 綏靖天皇の系譜】
【古事記 綏靖天皇の系譜】
【日本書紀 綏靖天皇の系譜】
【古事記 綏靖天皇の系譜】
【綏靖天皇 年表】
綏靖天皇の容姿を示す日本書紀の表現
現代語訳 天皇は風采が整い、立派であった。幼い時から気性が雄々しく、壮年になって 容貌すぐれ堂々としていた。武芸人に勝れ、志は高くおごそかであった。(宇治谷孟訳)
日本書紀において、こうした美辞麗句の使用はよく言われることです。例えば、岩波版では「魏志や漢書による文が目立つ」とあります。もっと言えば、「藝文類聚」等の類語辞典の例文をそのまま借用したところがあるともいわれています。実は日本書紀編纂者達は広い知識の持ち主ばかりではなかったのです。本稿も念のため、確認してみました。「藝文類聚」そのものまでは確認していませんが、日本書紀内でも結構、頻繁に同じ引用がされていました。 これまで本稿は、引用記事と知りながらも、そこに何らかのイメージをもって引用していると感じていましたが、この綏靖天皇は引用記事のオンパレードすぎます。さすがの日本書紀編纂者達も人間像まではわからなかったということでしょうか。 欠史八代の否定―神明説 前之園亮一 古事記によれば、綏靖天皇の母、富登多多良伊須須岐比賣命、又の名を比賣多多良伊須氣余理比賣といいます。後に改名したのは「富登」(女性性器を指す)を嫌ったからだと書かれています。三嶋湟咋の娘、勢夜陀多良比賣が美和の大物主神と結ばれて生まれた娘です。 「神八井耳命やその弟の綏靖天皇(神渟名川耳尊)は元来、神武天皇の皇子ではない」という説があります。「元来、大和の三輪山の大物主神の孫であり、~生母、伊須気余理比売も神武天皇の皇后ではなく、狭井河の神の妻であり」巫女であった。「ところが、6世紀前半ごろの皇統譜整備のさいに、~切り離されて、神武天皇の皇后・皇子にされてしま」ったというものです。 「理由第一に、伊須気余理比売の家は狭井河の辺りにあったと「古事記」に記されていること、 第二に、彼女の名のヨリヒメは神霊がよりつく女性すなわち巫女を意味していること、 第三に、彼女の祖父三嶋溝橛耳神も水に縁のある神であること、 第四に、彼女が産んだ日子八井耳命・神八井命・神渟名河耳尊いずれも井・河など水にかかわる 言葉を共有しているが、これは川の神である父親の性格を受け継いでいるものであること、 第五に、神武天皇は井・川など水に関する名前や性格をもっておらず、三子と間になんら 共通性がみられないこと」からだといいます。 本稿の最初は、このように詳細な分析までには及びませんが、漠然と同様に後の創作と考えていました。しかし、正面から分析して気がついたのですが、記紀は物語こそ描かれていませんが、その内容は天皇一人一人が緻密であり独自性があると感じました。記紀にこれだけの資料があれば、編纂者達が物語を描くなど簡単なことだったはずです。それを、あえてせず、系譜だけを記述したのは、そうしなければならぬわけがあったのではないかと考えました。 前之園亮一氏のこれらひとつひとつの理由は大いに賛同します。しかし、だからといって、周囲の氏族がことごとく神武天皇系譜に取り込まれていったとする理由にはなりません。むしろ、大和側から見れば、よそ者の神武天皇のほうが、大和の各氏族と積極的に交わり、地元祭神をも受け入れていったのだと思います。だからこそ、神武天皇が迎えた皇后の妹を神武の子綏靖も娶らせ、その土地に密着していったのです。 綏靖天皇の年齢 ここでも、古事記は年齢45歳とだけ伝えています。重要な指摘と思いながらも対応のしようがありません。日本書紀には神武と綏靖の間に空位期間が3年あり、52歳で綏靖1年即位、在位33年にして84歳で崩御されたとしたのです。なお、空位問題は、神武天皇のところで述べます。 他史書は日本書紀の記述に忠実で、どれも同じ84歳です。ただ日本書紀は欠史八代では太子年齢だけしか示していませんがこの綏靖天皇には太子年齢の記述がありません。そのかわり、神武天皇崩御時の年齢48歳を示しています。面白いことに、大概同天皇に二つの年齢を示した場合、干支年齢の計算が合わないのですが、ここでは一致しています。 年齢推理ですが、ここでも単純に子の安寧天皇が生まれた年齢が綏靖天皇18歳のときとしてみました。兄の神八井耳命が2歳年上です。兄弟2人(古事記では3人)の母、媛蹈韛五十鈴媛命が20歳で最初の子を生んだとしました。神武天皇はこの媛を7媛女の中で一番年長者を選んだと言いますから、もう少し年上かもしれません。 古事記では、神武天皇の日向で得た第一子、多藝志美美命(日本書紀では手研耳命)は天皇崩御した後、この皇后、比賣多多良伊須氣余理比賣(日本書紀では媛蹈韛五十鈴媛命)を娶ったとあります。たぶん、2人の年齢差はあまりなかったものと思われます。 問題は綏靖天皇に太子年齢が記されていないことです。神武42年に太子になったとありますから、計算上は14歳となりますが、記されていない以上、使用できません。そこで、崇神天皇と同様、干支年を復活させました。 日本書紀で神武天皇は干支丙子BC585神武76年に崩御されました。いままでの経験則から60年干支ずつずれている状況がありましたから、丙子AD136年が一番近く適切な位置です。すると、神武天皇崩御時、綏靖は19歳、140綏靖1年23歳で即位、155綏靖16年に崩御38歳と計算されます。即位前年22歳の綏靖が義兄手研耳命43歳を殺害したことになります。 【綏靖天皇の年齢】
兄、神八井耳命の子孫について 日本書紀は多臣として、ひとくくりしています。古事記はそればかりではなく幅広く氏族との関わりを記しています。一覧にします。 意富臣 大和国十市郡飫富郷を本貫の地とする多臣 「古事記」の撰者太朝臣安万侶もこの一族。 小子部連 雄略紀に少子部連蜾嬴の伝説がみえる。多朝臣と同祖。 坂合部連 新撰姓氏録摂津国皇別に大彦命の後裔とある。 火君 肥国(熊本県八代郡)にちなむ氏族名。 大分君 碩田国(豊後国大分郡)。 阿蘇君 肥後国阿蘇郡にちなむ氏族名。 筑紫三家連 筑前国那珂郡三宅郷にちなむ氏族名。 雀部臣 新撰姓氏録―和泉国皇別に多朝臣と同祖とある。通常、武内宿禰後裔氏族の一つ。 雀部造 未詳。 小長谷造 小長谷若雀命(武烈天皇)に御名にちなむ氏族名。 都祁直 大和国山辺郡都介郷にちなむ氏族名。 伊余國造 伊予国(愛媛県)の豪族。 科野國造 信濃国(長野県)の豪族。 道奧石城國造 陸奥の磐城国(福島県の東部)。 常道仲國造 常陸国那珂郡の豪族。 長狹國造 安房国(千葉県の南部)長狭郡にちなむ氏族名。 伊勢船木直 未詳。 尾張丹波臣 尾張国丹羽郡にちなむ氏族名。 島田臣 尾張国海部郡島田郷にちなむ氏族名。多朝臣と同祖 新撰姓氏録に、「神八井耳命之後也。五世孫武恵賀前命孫仲臣子上」が 成務天皇の御代で活躍が見られる。つまり、三世代時代が合いません。
これだけ長い系図です。平均年齢誤差や系図違いで一概におかしいといえませんが メモしておきます。系図資料:「新撰姓氏録の研究 考證篇第二」佐伯有淸 踏鞴(たたら)という言葉 古代の製鉄場と言われる踏鞴は「鞴(ふいご)を踏む」という言葉が示すとおり、火に空気を送り込むことで高温を生む製鉄精錬技術を指します。 「『古事記』や『日本書紀』が記載しているような製鉄が、この時代には大陸でもまだ行われたおらず、楽浪文化も呉国もなかった時代である」とは窪田蔵郎氏の言葉です。「『日本書紀』が天衣鞴として鹿の一枚皮で吹子をつくり使用したことを、あたかも見ていたかのように述べている点である。」 確かに記紀が示す紀元前の世界ではあり得ないことです。本稿では、それを修正したい。年代や年齢数字だけが間違っており、物語、記事は正しいと思うからです。 「わが国の鉄器が弥生期前半の若干例のみが鋳造で、その後は鋳造品が非常に少なくなり、あとは鍛造ものばかりになっている。おそらくその原因は、初期の鉄製品が輸入品であった」というところから日本の製鉄技術がはじまります。弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山あいの沢のような場所で自然通風に依存して天候のよい日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も真木を燃やしつづけ、ごく粗雑な鉧塊(還元鉄)を造っていた。」日本でも行われたこうした技法は「火吹き武のような素朴な道具を工夫することは、世界各国の原始製鉄民族において共通なことである。」こうして「大陸との文化交流がさかんに行われた西暦300年から500年ぐらいにかけて形成加工に使用された。」踏鞴の応用技術は「朝鮮より渡来した皮細工の工人などによってもたらされた、北方系の送風技術ではなかったかと思われる。」こうして日本各地に広がったのです。「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎 講談社学術文庫2005 引用が長くなりましたが、神武天皇皇后、媛蹈韛五十鈴媛命やその母、勢夜陀多良比賣(古事記)が、神武天皇側ではなく大和側の女性達の名に被せられた「踏鞴」という言葉に注目しました。神武東征が成立したこの時代に、こんな昔から精錬技術があったというより、神武天皇の時代は大和側でも精錬の技術がある程度、取得していたことを示す、そんな新しい時代にすでに入っていたと思われるのです。 河俣毘賣 古事記では綏靖天皇皇后として安寧天皇を生みました。 日本書紀は安寧天皇を生むのは、神武天皇皇后の妹、五十鈴依媛とあります。天皇の叔母にあたります。しかし、一書にこの磯城縣主の娘、川派媛(漢字は異なるが音は同じ)を取り上げました。また他に、春日縣主、大日諸の娘、糸織媛をあげています。すなわち、日本書紀は、古事記の河俣毘賣の記述を知りながら、これを一書に落とし、別の系譜を示した事になります。だからこそ、重要な女性なのです。 河俣は地名です。和名抄に「河内国若江郡河俣郷(大阪府東大阪市川俣本町10−38 川俣神社」とあります。延喜式神名帳に「同郡、河俣神社」も載っています。しかし、延喜式神名帳に大和国高市郡にも川俣神社(奈良県橿原市雲梯町689)があります。「安寧天皇の母、河俣毘賣を祀った神社と思われます。しかしこれは、やはり河内の地名から出たのだろう。この後に生まれた御子は、いずれも河内に縁があるからだ。その国の女性を娶って、この河俣毘賣を生んだのだろう。そうだったら、河俣はその母の本郷などではないか」と本居宣長は推理しています。 結局、日本書紀は綏靖天皇を地元磯城の媛を娶ると、するより、神の子、しかも、神武天皇皇后の妹という格付けを選択したと考えられます。しかし、息子、安寧天皇の和風諡号、磯城津彦玉手看天皇からも母は磯城(師木)の女と考えた方が自然です。 葛城高岡の宮とは 現在、奈良県御所市大字森脇に高丘宮址の碑が建てられている、といいまが、場所の特定はされていません。日本書紀には「遷都」と書かれていません。「都葛城。是謂高丘宮。」とあります。 和訳も「葛城に都つくる」とあるのですが、建設するや移動したというより、むしろ、以前から住んでいた葛城を都にしたという意味ではないでしょうか。「高丘」とは、この頃どこも皆、高地性集落の部落を形成していたと思われます。 陵墓衝田岡について 現在宮内庁が「桃花鳥田丘上陵」としているのは、橿原市四条町字田ノ坪の塚根山で1863、文久3年以降に定められた陵墓です。それまでは神武陵として整えられていきました。根拠不明のまま、突然、別に神武陵が指定され、空いた墳墓が綏靖天皇陵にされてしまいました。別にあった、もともとの綏靖陵は大和誌にもある橿原市慈明寺町水仙塚のスイゼン塚(主膳塚)古墳とされていました。前方後円墳です。綏靖=スイゼン、島田丘と呼ぶ伝承があるといいますが、これも時代が合わぬ前方後円墳や漢風諡号の相似では、学術的にも目を背けたくなる現状といえます。 現在も在所不明の綏靖天皇の陵墓については、本居宣長の意見が一番相応しいように思えます。 「神武、安寧、懿徳の陵のように畝火山につながっている場合、いずれも畝火山のどこそこの陵と書かれている。ところが、この綏靖の陵は、畝火山のことを言わないで、単に衝田の丘と言うから、畝火から離れたところにあるのは明らかだ。もしその主膳塚だったら、畝火山のほとりに当たるから、必ず「畝火山の西北」などとあるはずだ。」 【記紀の初期天皇らの陵墓】
日本書紀「倭の桃花鳥田丘上陵」の「桃花鳥」とは、和名抄に「トウ(刀+鳥)は和名『つき』」とある鳥の名だ。今は「とき」と言う。「鴇色」というのも、この鳥の色を言う。「トウ(刀+鳥)」は漢名では朱鷺ともいう。(古事記伝より) 延喜式諸陵式に「桃花鳥田丘上陵 葛城高丘宮、御宇綏靖天皇。在、大和国高市郡。 兆域東西一町、南北一町、守戸五烟」 【「花鳥」といわれた他の古代陵墓名】
大和志に「身狹の桃花鳥坂の上の陵は高市郡鳥屋村の西南にある。東に小さい陵があり、俗に倶知山と言う。また、桃花鳥の野は三瀬村にある」という。 他に「延喜式神名帳には、葛下郡、調田坐一事尼古神社がある。もし高市郡との境に近いならこの地だろう。昔と今とでは、国の境が変わっていることがあるからだ。しかしこの神社も今詳細が分からないので、確実にこうだとも言えない。」古事記伝 現在、疋田は葛城市新庄町で、調田坐一事尼古神社があります。祭神は一事尼古大神、事代主大神です。 欠史八代のなかで唯一の病死とわかる天皇です。5月に入り「天皇不豫」したまい、10日に崩御されたとあります。たぶん、この名前のない宮は葛城の高丘にあるといいますから、案外、宮と同じ所に葬られたのではないでしょうか。父、神武、兄、さらにまた、安寧、懿徳と畝傍山に続けて葬られました。畝傍山に葬られました。なぜ、彼だけが畝傍山ではなかったのでしょう。つまり、次の安寧天皇は即位後はっきり片鹽に正式に遷都したと書かれたのです。綏靖天皇関係者は一人見捨てられたようにみえるのです。 その後の繁栄は、天皇側ではなく、結局、兄、神井耳命の後裔の方であり、師木一族、多一族、物部一族だったようです。 参考文献 「日本書紀」山田英雄 教育社歴史新書 「日本の古代11―ウヂとカバネ」前之園亮一 中公文庫 「新撰姓氏録の研究 考證篇第二」佐伯有淸 吉川弘文館 「鉄から読む日本の歴史」窪田蔵郎 講談社学術文庫2005 古事記伝(現代語訳)21-1 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP115.html ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |