天武天皇の年齢研究

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 史料調査 

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 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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安寧天皇の年齢 あんねいてんのう

First update 2013/03/31 Last update 2013/03/31

 

                           49歳 古事記

戊申BC553綏靖29年生〜甲子BC477懿徳34年  57歳 日本書紀他すべて

乙亥135年生      〜己酉169年崩御     35歳 本稿

 

 

日本書紀

古事記

和風諡号(わふうしごう)

(  )

陵墓(    )

()()()(ひこ)(たま)()()天皇

(かた)(しお)(うき)(あな)

(うね)()(やま)(みなみ)(のみ)(ほと)(いの)()

()()()()()(たま)()()

(かた)(しお)(うき)(あな)

(うね)()山の()()()

 

【日本書紀 安寧天皇年表】

綏靖25年       皇太子、年21

綏靖33年 5月    綏靖天皇崩御

      7月 3日 太子即天皇位  

安寧 1年10月11日 前綏靖天皇を(やまと)桃花鳥(つき)(だの)(おかの)(うえ)陵に葬る。

            前皇后を皇太后とする。この年、太歳癸丑(紀元前548年)

安寧 2年       (かた)(しお)に遷都。これを(うき)(あな)宮という。

安寧 3年 1月 5日 系譜記事

安寧11年 1月 1日 懿徳天皇を皇太子に立てた。

安寧38年12月 6日 安寧天皇崩御。57歳。

懿徳 1年 8月 1日 安寧天皇を(うね)()(やま)(みなみ)(のみ)(ほと)(いの)()に葬る。

 

【日本書紀 安寧天皇系譜】

父  綏靖天皇 安寧は綏靖天皇の太子。

母  五十()(すず)(より)(ひめ)命。事代主~の次女。姉は神武正妃、(ひめ)()(たら)五十()(すず)(ひめ)

皇后 ()()(そこ)(なかつ)(ひめ)命(又の名、()()()媛)事代主~の孫、鴨王の娘

   一書云、磯城縣主葉江の娘、川津媛

   一書云、大間宿禰女、糸井媛

子  (おき)()(みみ)

   (おお)日本(やまと)(ひこ)(すき)(とも)天皇(懿徳天皇)

(別伝)皇后は三皇子を生んだという。

   (とこ)()(ひこ)(いろ)()

   (おお)日本(やまと)(ひこ)(すき)(とも)天皇(懿徳天皇)

   ()()()(ひこ)命(()使(つかひ)連の始祖)

 

【古事記 安寧天皇】

妻  (かわ)(また)()()の兄、()()縣主()()の娘、()()()()()

子  (とこ)()()()()()()()

   (おお)(やまと)()()(すき)(とも)命(懿徳天皇)

   ()()()()()

     子 (名は未記載) 伊賀()()(いな)()()()()の稻置、三野の稻置の祖

        ()()()()命  (あわ)()()()宮に居て二女がいる。

           子 姉、(はえ)()()()(又の名、()()()()()()()()()()()命)孝霊天皇妃

             妹、(はえ)()()()                  孝霊天皇妃

 

【日本書紀 安寧天皇系譜】

     神武天皇

 玉櫛媛   ├――綏靖天皇

  ├―媛蹈鞴五十鈴媛 ├――安寧天皇

  ├―――――――五十鈴依媛  ├―息石耳命―天豐津媛

事代主神             |        ├――孝昭天皇

                 ├――――――懿徳天皇

事代主~――――鴨王――――渟名底仲媛命(渟名襲媛)

             (一書云、磯城縣主葉江の娘、川津媛)

             (一書云、大間宿禰女、糸井媛)

 

【古事記 安寧天皇系譜】

                余曾多本毘売

 綏靖天皇             ├―天押帯日子―忍鹿比売 

   ├――安寧天皇        |        ├――大吉備諸進

河俣毘賣   ├――常根津日子  |        ├――孝霊天皇

|妹      ├――懿徳天皇   ├――――――孝安天皇   ├――夜麻登登母母曾毘賣

|       |    ├――孝昭天皇            ├――大吉備津日子

|       |    ├――多藝志比古命     ――蝿伊呂泥(4柱)

|       |  飯日比賣  ―不詳      |    ├――若日子建吉備津日子

|兄      ├――師木津日子―┴―和知都美――――┴――蝿伊呂杼(2柱)

└縣主波延―阿久斗比賣

 

ここで特徴的なのは、古事記と日本書紀の記述が大きく違っていることです。日本書紀では別伝まで載せています。この別伝が古事記とほぼ同じという書き方になっています。前から思っていたことですが、日本書紀の編者は古事記の内容をかなり意識しているのではないでしょうか。

これは、懿徳天皇の項でも載せましたが、それ以外で気が付いたことを述べます。

安寧天皇の子は日本書紀では2人と別伝3人とあり、その増えた皇子の名が、磯城津彦命(古事記でも師木津日子と音は同じ)です。しかも、別伝でありながら、日本書紀は()使(つかひ)連の始祖と系譜の存在を紹介しています。なぜ、磯城津彦命を排除し、別伝に別けて記したのでしょう。

古事記では、この師木津日子について、細かく語っています。孫娘2人が孝霊天皇に嫁ぎ、生まれた(わか)()()(たけ)()()()()()の子が(はり)()()()()()()(おほ)(いらつ)()景行天皇皇后として日本武尊を生む)となります。しかし、ここでも系譜上には無理があります。

さらに言えば、孝霊天皇は後に吉備系の流れを生む、もしくは、埋もれていきますから、特殊な事情があるようです。

 

安寧天皇の年齢

古事記は相変わらず、49歳とだけあります。

日本書紀は57歳です。欠史八代の各天皇はほとんど崩御年齢が示されません。その代わり太子年齢が示されているので計算値に頼ることになります。第4代懿徳天皇から第9代開化天皇までです。

開化天皇の崩御年齢は原文ではなく「一云」という一説の形を取り、確定的表現ではありません。

 

【日本書紀の年齢表記】

    天皇名

太子年齢

 

崩御年齢        (古事記)

第1代 神武天皇

第2代 綏靖天皇

第3代 安寧天皇

第4代 懿徳天皇

第5代 孝昭天皇

第6代 孝安天皇

第7代 孝霊天皇

第8代 孝元天皇

第9代 開化天皇

     15歳

神武42年

綏靖25年21歳

安寧11年16歳

懿徳22年18歳

孝昭68年20歳

孝安76年26歳

孝霊36年19歳

孝元22年16歳

甲寅年  45歳

神武76年48歳

         

 

 

 

 

 

 

神武76年127歳   137歳

綏靖33年 84歳    45歳

安寧38年 57歳    49歳

懿徳34年        45歳

孝昭83年        93歳

孝安102年      123歳

孝霊76年       106歳

孝元57年        57歳

開化60年一云115歳  63歳

                             (開化崩御年齢は本文にはない)

 

いつものことですが、同一人物に二種類以上の年齢が示されると必ずといっていいほど、年齢矛盾が生じます。この安寧天皇の場合も、太子年齢と崩御年齢の二つの年齢が示されました。安寧38年57歳で崩御されたのなら、太子年齢は綏靖25年時11歳のはずです。しかも、太子懿徳生まれたのは15歳のときとなります。太子年齢、綏靖25年に21歳なら67歳崩御となります。この方が、懿徳という子を25歳で得たことになり、妥当といえます。

ところが、その後の史書は日本書紀の計算違いから、各種の年齢が考え出されているのですが、この安寧天皇に関しては、すべての史書が57歳とし、太子年齢に基づく67歳説は存在していません。

本稿では、ここでも太子年齢を根拠としました。同様に父綏靖天皇18歳時の最初の子として計算し、太子となった21歳のとき綏靖天皇が亡くなったと計算しました。

 

【安閑天皇の年齢案】

100 3333333444444444455555555556666666666777

年   3456789012345678901234567890123456789012

綏靖天皇――――――――――――――――――――――                 

安寧天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS22―――――――30――――35   

息石耳                    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―

天豊津媛                                    @AB―

懿徳天皇                     @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―

在位年 ――――――――――綏靖天皇在位――――――→←―――安寧天皇在位―――→←――

 

日本書紀の即位月の異常

 1月 神武、綏靖懿徳孝昭孝安孝霊孝元、崇神、垂仁、成務、仲哀、

    応神、仁徳、反正、清寧、顕宗、仁賢、舒明、皇極、斉明、天智、持統

 2月 懿徳履中、継体、安閑、天武、持統

 3月

 4月 敏達

 5月 

 6月 孝徳

 7月 安寧、景行

 8月 崇峻

 9月 用明

10月

11月 開化、雄略

12月 允恭、安康、武烈、宣化、欽明、推古

 

多くの天皇は1月に即位しています。年初の良い日を選んだことでしょう。わからない天皇もこの1月が無難として入れているかもしれません。ちなみに、1月1日即位は神武天皇と応神天皇と顕宗天皇と持統天皇だけです。この4人の天皇の即位日付には計算上の区切りとしてのこの日付が必要だったことがわかってきました。神武でまとめます。

2月も月遅れで良い日を選んでいるようです。12月即位も翌年が元年(即位1年目)となるケースが多いようです。

しかし、4月〜11月の天皇即位は異常というか、何らかの事情によるものと推測できます。

特に、ここで欠史八代に話題を絞れば、この3代安寧天皇と9代開化天皇の即位月は、記事がないこともあり、余計な推測をしてしまいます。

 

安寧天皇の陵墓の名「()()()

古事記には「美富登」、日本書紀は「御陰」、延喜式では「御蔭」です。

岩波版には「ホトは朝鮮語にもpochi(陰門)の語があり、奈良朝では女陰をいう」とあります。

「『美富登』は語源的には男女の陰部と其の由来を一にせるものの、彼にありては『()』の轉義として生殖器の名となれるものなるに反して、此れは原義のままなる(つち)の『脹処』即ち『丘』の異稱(称)であるのである。」「安寧天皇御陵名義私考」生田耕一 東洋語学乃研究・金沢博士還暦記念

諸陵式に「畝傍山西南、御蔭井上陵。片鹽浮穴宮、御宇、安寧天皇。在、大和国高市郡。兆域、東西三町。南北二町。守戸五烟。」とあります。本居宣長は「『ほと』を嫌って、『みかげ』と言い換えたのかも知れない」と面白い見解を一例として述べています。

18世紀に書かれた英国の「ファニーヒル」(Fanny Hill)というポルノグラフィの原点とも言われる書があります。訳せば「かわいい丘」ということですが、世界的に共通した、もっとも大らかなイメージをもつ丘を表す表現です。嫌うとか隠すという表現はこの当時の人々に対しては正しい表現ではありません。

さらに、日本書紀の読み方には

     「(うね)()(やま)(みなみ)()(ほと)()()」岩波版

     「(うね)()(やま)(みなみ)()(ほと)(いの)()」古事記伝   の二種類があります。

岩波版「当時の命名法を考えるに、おそらく、井の形貌によって、ミホトヰの名をつけたものであろう」とありますが、古事記伝では「()(ほと)(のい)は吉田の里の路傍にあって、普通の小さい井戸である。御陵はこの井戸から一町あまりのところで、西北の方に当たる」と恐ろしく具体的です。「この御陵は吉田村というところにある。畝火山の西南に付いた高い岡で、日本書紀に「南」とあるのは、諸陵式からすると「西」の字が脱けたのだろう。かの慈明寺村の南にある御陵と全く同じ様子だ。」なお、「上」は「丘の上」という意味ではありません。「(あた)り」となります。

 

(うき)(あな)の宮

陵墓はわかりやすい、畝傍山の南ですが、宮は定まりません。現在3説あるといわれます。(Wiki

1.奈良県橿原市四条町付近 (『帝王編年記』『和州旧跡幽考』)

2.奈良県大和高田市三倉堂・片塩町 (『大和志』『古都略紀図』)大和志には宮の址まであると言う。

3.大阪府柏原市内 (『古事記伝』『大日本地名辞書』)

1、2の両説が有力です。しかし、橿原市の西にある大和高田市「片塩」「浮孔」の町名・施設名(例:浮孔駅)は全て、2説に基づいた近代以降の復古地名に過ぎないようです。

1説はいわゆる祖父神武天皇の橿原神宮そばの北に位置するわけです。

最初、本居宣長がいうように日本書紀の「遷都於片鹽」あるのは、みな漢籍を真似て書いているだけで、この頃は後世のような大移動ではなかった、と思っていました。

 

日本書紀で使用される、「遷都」や「遷」の言葉を調べてみました。

この第3代安寧天皇から第11代垂仁天皇まで続いて使用されたこの言葉は、以下、仲哀、神功、安康、雄略、継体3回、安閑、宣化、欽明、推古、舒明2回、皇極、孝徳3回、斉明3回、天智2回、持統に使われているのです。欠史八代以外で使われる事例は、穏当でない状態で「遷都」や「遷」が使われているように見えるのです。「遷都」はやはり、大きな意志決定による行動を表現するために使われたと考えたいのです。欠史八代は激しい戦乱の時代だったのではないでしょうか。

神武天皇、綏靖天皇と同様に橿原市周辺に子供達が宮に居て天下を治めたと固執する必要はなく、遠い河内に遷都したと考えたようが正しいような気がします。

よって、本稿では、第3説を採用します。

 

(うき)(あなの)(あたえ)の名が新撰姓氏録の河内国神別にあります。

続日本後紀三に「女嬬河内国若江郡の人、浮穴直(なが)()に姓を与えて春江宿禰とした」とか、「伊豫の国の人、浮穴直()(つぐ)、同姓()(とこ)らに、姓を与えて春江宿禰とした」とあります。これらはいずれも春江宿禰という姓を与えたのを考えると、河内の国にいたのと同じ氏だろうと本居宣長は紹介しています。

古事記では母の名が河俣毘賣ですから、出身地、川俣を思い合わせると、河内国若江郡ではないのか。この若江郡も志紀郡の北に隣接しています。

河内志では、(かた)(あす)()河を志紀郡と安宿郡との境にある石川の旧名と言っていいます。

「石川は、石川郡から古市郡を経て、河内国(あす)宿(かべ)郡の西、志郡の東の境界付近を北へ流れ、大和川に入る川である。国府の渡しというのは大和国平群郡から、摂津国住吉郡に通じる大道で、この川を渡るところである。」

天皇の名、()()()()()(たま)()()の「師木」も関係があります。「志紀郡」また「玉手」(安寧の和風諡号)というのもこの石川に近く、いろいろ関連があるから、この宮はこの川に近いところだったのだろう。

賀茂真淵は「冠辞考」の中でこの宮を交野郡にあると言った。交野郡にある舟橋川を、片足村川とも言う。岩波版にも、地名辞典を紹介し、「河内国大県郡(堅上・堅下郡)はもと片塩といい、万葉集1742の片足羽河はこの地を通るのでその名がある」といいます。

このように、河内地区に安寧天皇の痕跡が多く残るのです。

 

 

()()()()()

安寧天皇の皇后です。延喜式神名帳に、摂津国嶋上郡、()()()神社(大阪府高槻市清福寺町232)があります。日本書紀の鴨王の娘、渟名底仲媛命にも三島鴨神社(大阪府高槻市三島江2丁目737)が近くにあります。淀川流域であり、大阪湾に注ぎます。磯城津皇子の子、()()()()命は(あわ)()()()宮にいたとあります。淡路島の()()は反正天皇の生まれた地でもあり、外界への広がりを感じます。

 

以下、安寧天皇の三兄弟です。

(とこ)()()()()()()()

()()()」は「()()()」と同じで、書紀ではこの名を「(いろ)()」としており、神代巻、~武の巻、欽明の巻、孝徳の巻でも「兄」の字を同じように読む。和名抄にも「兄は、日本紀にいわく、『いろね』」とある。同母兄という意味らしい。記紀は同じことを言っているのです。

(おお)(やまと)()()(すき)(とも)(懿徳天皇)

はじめて大倭と名付けられたこの系統では大きな名前といえます。ます「すき」とは磯城、師木と同じといいます。

()()()()()

()()()()()命には2人の子がいましたが、上の子の名前が書かれていません。

ただ、「伊賀()()(いな)()()()()の稻置、三野の稻置の祖」とあります。この三氏の(いな)()()()のことです。

但し、伊賀国は元伊勢国だったものを、天武天皇9年に4分割し、一つを伊賀としたらしいので比較的新しい国です。だから、()()()()、三野と言うべきなのかもしれません。

須知は和名抄に「伊賀国名張郡、()()」また延喜式神名帳には「同国阿拝郡の()()(あら)()神社」。

()()()和名抄に、「伊賀国名張郡は『なばり』」とあり、

三野は持統紀に、「伊賀国伊賀郡、()()」と見えます。

また、日本書紀に「磯城津彦命は()使(つかひ)連の祖」とあります。天武の八色の姓で宿禰姓を得ています。猪養(猪甘)部の伴造氏族といわれ、猪養氏は天足彦国押人命の後裔と新撰姓氏録の和泉国に載っています。

つまり、孝昭天皇の長男の後裔です。

 

安寧天皇の和風諡号

()()()(ひこ)(たま)()()天皇です。古事記も()()()()()(たま)()()命で同じです。

前之園亮一氏は古代初期天皇諡号を詳細に研究した上で、欠史八代が架空の産物と結論つけました。

()()()(ひこ)=「地名+ヒコ」はシキ地方の首長の名としてふさわしい。(たま)()()=タマテ+ミ=玉でつくられたものの神霊(ミ)で、神霊概念表示語であり、「正確の異なる二つの名をつなぎ合わせてつくられたことを物語っている」といいます。「古代王朝交替説批判」吉川弘文館

 

しかし、安寧天皇は磯城の名を持つ天皇であり、その母、妻子ともども磯城(師木)に溢れています。上記で見たように「玉手」も地名であり、矛盾はありません。和風諡号だけでは架空の造作物とは判断できないと思います。

しかし、前之園亮一氏もその洞察力はすばらしい。「安寧がシキ地方の実在の王者であったからではない」と言いながら「安寧だけがシキツヒコを称しているのは、この天皇が師木県主所生の最初の天皇であることを強調するため」にほかならないと言っているからです。本当にその通り、しかし、実在した人物と考えます。

「師木県主氏所生の天皇は安寧、懿コ、孝昭、孝安である」ことはよく知られた事実です。孝昭、孝安についてはすでに触れました。4人の王による一つの支配権が存在したことは確かだと思います。

 

参考文献

「安寧天皇御陵名義私考」生田耕一 東洋語学乃研究・金沢博士還暦記念

「『欠史八代』について」前之園亮一 学習院史学雑誌 第21号1983.4

本居宣長 古事記伝(現代語訳)21−2 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP116.html

 

 

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