天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2013/03/15
Last update 2013/03/15 45歳 古事記 戊申BC553綏靖29年生~甲子BC477懿徳34年 77歳 日本書紀など主流 甲午154年生 ~癸未203年崩御 50歳 本稿
【日本書紀 懿徳天皇】
【古事記 懿徳天皇】
【懿徳天皇の年表】
注:懿徳1年9月丙子朔乙丑という日付干支は、理論上あり得ない、日付だといいます。確かに丙子が月のはじめの乙丑の日は60日目で30日を超えてしまいます。異文がないので、原本上の間違いと思われます。30日に当たる乙巳の勘違いかもしれません。自分の勉強のため、つまらぬ横道に逸れました。 【日本書紀 懿徳天皇の系譜】
【古事記 懿徳天皇の系譜】
記紀など系譜が異なる懿徳天皇 欠史八代で、日本書紀と古事記の系譜は子供の数が少し違うだけでほとんど同じです。 ところが、この懿徳天皇では大きく異なっています。しかも、日本書紀安寧紀では本説に対する異説があり、二通りの系譜があるのです。 【日本書紀 安寧天皇】
日本書紀と古事記の大きな違いは、懿徳天皇の皇后が、日本書紀は兄の娘、天豊津媛を娶るが古事記では磯城県主の飯日媛を娶っていることです。理解を早めるため、記紀の人名の漢字表記は以下説明文では日本書紀に併せました。 さらに、息子は、日本書紀は孝昭天皇一人ですが、古事記は二人です。また、懿徳天皇の兄弟は二人と三人です。懿徳はどちらも次男なので年齢計算上は問題になりません。 別に日本書紀は一書として異説を紹介していますが、これは古事記とほとんど同じと考えることもできます。ただ、一点違うのは、懿徳天皇の息子が日本書紀一書では一人だということです。 【日本書紀一書 懿徳天皇の系譜】
武石彦奇友背命について 【日本書紀 懿徳天皇】
この文章をどう解釈したらいいのかがわかりませんらない。 本稿でもよく使用する、宇治谷孟氏訳「日本書紀」は原文注を省略して、訳していません。 通常は「皇后(天豐津媛)が觀松彦香殖稻(孝昭)天皇生んだ」となり【】内はその原文注です。 その問題の原文中は【一説に、(孝昭)天皇の同母弟、武石彦奇友背命】とされ、古事記の多藝志比古命=武石彦奇友背命という扱いとなり、これは古事記と同じです。 これでいいのでしょうか。これでは「天皇母弟」は「孝昭の同母の弟」です。「懿徳の同母弟」もしくは「孝昭の母の弟」と読めないでしょうか。 「古事記伝」では「書紀に『后は孝昭天皇、一にいわく、天皇の同母弟、武石彦奇友背命という』とある。多藝志と武石とは音が通う。旧事紀にはこの御子はなく、安寧天皇の御子で、師木津日子命の弟に手研彦奇友背命がある」とあります。さらに、武石彦奇友背命とふりがなが違います。 本居宣長は「天皇の同母弟、武石彦奇友背命」と訳しましたが、多藝志と武石とは音が通うと、古事記と同文に考えることをためらっています。一案として、「先代旧事本紀」を引き合いに出し、「安寧天皇の御子で、師木津日子命の弟に手研彦奇友背命がある」と四兄弟説を紹介しています。「先代旧事本紀」を読んでみると、原文中の「天皇」は孝昭天皇ではなく、懿徳天皇だと言っているのです。【一説に、(懿徳)天皇の同母弟、武石彦奇友背命】 「先代旧事本紀」を偽書と断じ、現在も影響力のある本居宣長ですが、結構、「旧事紀」を珍重しているのです。本稿の見る限り、物部氏の古書とされる「先代旧事本紀」は、当時、日本書紀を無視してはそのまま世に送り出せず、日本書紀の記述に添って、物部氏古書の独自箇所を新たに挿入したように見えます。ここでも、日本書紀の記述のわかりにくい部分が、「先代旧事本紀」を読むと明快に説明がつけられています。単に日本書紀の一解釈なのか、物部古書に書かれていたものかはわかりませんが、当時の編纂者の感覚がわかり、興味深いものだと思います。 【先代旧事本紀 懿徳天皇の系譜】
突きつめると天皇(懿徳)母(渟名襲媛)の弟、武石彦奇友背命が孝昭天皇の父親と解釈出来ないのでしょうか。つまり、天皇系譜に孝昭天皇はいないことになります。孝昭天皇の母はそれこそ、磯城縣主、葉江の弟、猪手の娘、泉媛か、磯城縣主、太眞稚彦の娘、飯日媛なのかもしれません。 まるで異国からの新王朝などではありませんが、身内の見にくい権力闘争にもみえます。 中国史書によると、庚午190年に卑弥呼立ち、癸酉193年倭人大飢饉とあります。中国古代史書九州倭国の事情を分析したものですが、この頃、全体的に倭国大乱の時期なのです。 正直、これが正しいとはいえません。あまりに情報が少ないために、想像が膨らんだだけなのかもしれません。しかし、孝昭、孝安の二王朝は、一種違う性格を多く秘めています。短命の王権でしたが、その系譜から、彼らの苦悩がみえてくるのです。ようするに、懿徳天皇の系譜は乱れているのです。以下にその状況証拠を積み上げていきます。 【本稿の懿徳天皇系譜の一案】
年齢検証 古事記は45歳とだけあります。この頃の日本書紀は太子年齢しか示しません。安寧11年に16歳で皇太子になりました。その後、安寧38年に安寧天皇が崩御され、翌年即位、懿徳34年に懿徳天皇が崩御ですから、77歳と計算されます。 ほとんどすべての史書がこの77歳を示しています。 唯一、神皇正統録が78歳、皇代記は77歳ですが、80歳という異説も紹介しています。 神皇正統録は生年、即位年齢、在位年数をきっちり述べながら、77歳ではなく、78歳としました。おそらくは、空位1年を誤解していたのかもしれません。 【懿徳天皇の年齢構成】
本稿では、孝昭天皇は懿徳天皇の子ではないと考えていますが、この年齢構成上では、兄の娘を娶ったとして、日本書紀の系譜に添って、年齢分析をしました。新たな考え方は別途まとめて語ります。 上図の説明としては、欠史八代の統一事項として、 1.第一子は18歳とする。 2.太子年齢があり、崩御年齢の記載がないことから、太子年齢を重視した。 息子を太子と定めた同じ年に崩御されたと考えました。 3.同母の兄弟姉妹は2歳差とします。 よって、孝昭天皇の年齢は推定済みですから、186年生まれになります。孝昭を生んだ天豊津媛の年は18歳です。その娘を生んだ息石耳命は子を18歳で得たとして、生まれたのは、151年となります。 懿徳天皇はこの息石耳命の弟ですから、2歳年下です。154年生まれ、息子の孝昭を太子と定めた、203年50歳が、彼、懿徳天皇の崩御年齢となると計算上設定が可能です。つまり、懿徳天皇は息子、孝昭を33歳のときに得たことになるのです。 この2代後も姪との婚姻関係を持つ孝安天皇の話と続きます。この孝安天皇も懿徳天皇の場合も、年齢を高くするための方法に見えて仕方がありません。少なくとも、この懿徳天皇には、姪を娶る理由がないのです。系譜上は、磯城一族に囲まれた、安定した環境に思われるからです。 空位問題 日本書紀にあらわれた、空位期間は6回です。 神武―綏靖 3年間 懿徳―孝昭 1年間 成務―仲哀 1年間 応神―仁徳 2年間 反正―允恭 1年間 記述なし 継体―安閑 2年間 記述なし その中で、問題になるのが、懿徳―孝昭間の空位です。前後の記録を記すと、次の通りです。 【神武―綏靖】 丙子BC585神武76年 3月11日 神武天皇崩御 丁丑BC584空位 9月12日 神武天皇を畝傍山の東北陵に葬る。 戊寅BC583空位 記述なし 己卯BC582空位 手研耳命の乱 庚辰BC581綏靖 1年 1月 8日 綏靖天皇即位 【懿徳―孝昭】 甲子BC477懿徳34年 9月 8日 懿徳天皇崩御 乙丑BC476空位 10月13日 懿徳天皇を畝傍山南の陵に葬る 丙寅BC475孝昭 1年 1月 9日 孝昭天皇即位 次の成務―仲哀の1年間も似たような記述になっています。 【成務―仲哀】 庚午190成務60年 6月11日 成務天皇崩御 辛未191空位 9月 6日 成務天皇を倭國の狹城盾列陵に葬る 壬申192仲哀 1年 1月11日 仲哀天皇即位 【応神―仁徳】 庚午310応神41年 2月15日 応神天皇崩御 埋葬記事なし 辛未311空位 大山守皇子の乱(年の記述なし) 壬申312空位 菟道稚郎子を葬る(年の記述なし) 癸酉313仁徳 1年 1月 3日 仁徳天皇即位 【反正―允恭】 庚戌410反正 5年 1月23日 反正天皇崩御 辛亥411空位 記述なし 壬子412允恭 1年12月 允恭天皇即位 允恭 5年11月11日 反正天皇を耳原陵に葬る 【継体―安閑】 辛亥531継体25年 2月 7日 安閑天皇即位、同日 継体天皇崩御 12月 5日 継体天皇を藍野陵に葬る 壬子532空位 記述なし 癸丑533空位 記述なし 甲寅534安閑 1年 1月 倭国勾金橋宮に遷都 空位年は日本書紀の中には6回存在しますが、空位の間に書き込みはあったり、なかったりしています。ない場合は、崩御干支年と即位干支年があるだけその間の記事がないので、干支年を計算していくと、計算が合わず、空位だと気付く仕組みになっているのです。 懿徳と孝昭の間に実際空位があったかどうかは別として、日本書紀編纂者は故意に、空位期間を作り、畝傍山政権と葛城政権とはっきり区別したように見えます。 また、 通常の記述は 前天皇崩御→後天皇即位→前天皇埋葬 と、血脈の流れを感じさせますが、 ここだけ、 前天皇崩御→前天皇埋葬/後天皇即位 と、前後天皇をはっきり別けています。 やはり、何かあったと考えるべきだと考えました。 例えば、神武から崇神まで、いわゆる欠史八代があります。 × 神武天皇崩御→神武天皇埋葬(空位)/綏靖天皇即位 ○ 綏靖天皇崩御→安寧天皇即位→綏靖天皇埋葬 ○ 安寧天皇崩御→懿徳天皇即位→安寧天皇埋葬 × 懿徳天皇崩御→懿徳天皇埋葬/孝昭天皇即位 ○ 孝昭天皇崩御→孝安天皇即位→孝昭天皇埋葬 × 孝安天皇崩御→孝安天皇埋葬/孝霊天皇即位 ○ 孝霊天皇崩御→孝元天皇即位→孝霊天皇埋葬 ○ 孝元天皇崩御→開化天皇即位→孝元天皇埋葬 × 開化天皇崩御→開化天皇埋葬/崇神天皇即位 ○ 崇神天皇崩御→垂仁天皇即位→崇神天皇埋葬 このように、×で示したように、神武と綏靖との間は空位があり、政権が安定していない事情が透けて見えてきます。懿徳―孝昭、孝安―孝霊、開化―崇神の三箇所に、即位継承が順当でなかったことを印象ずける系譜記事になっていると考えられます。 次が、神功皇后から反正天皇まで記述順がおかしいのです。応神天皇は埋葬記事すらありません。 × 神功皇后崩御→神功皇后埋葬/応神天皇即位 × 応神天皇崩御→埋葬記事なし(空位)/仁徳天皇即位 × 仁徳天皇崩御→仁徳天皇埋葬/履中天皇即位 × 履中天皇崩御→履中天皇埋葬/反正天皇即位 顕宗、仁賢は親子の直系子孫ではありません。埋葬記事が前天皇崩御のすぐ後にあり、完全に区別しています。継体天皇は息子の安閑天皇即位のあとに、継体天皇崩御とあります。これに影響されて、武烈天皇の記述も×となり、イレギュラーな表現です。 × 雄略天皇崩御→雄略天皇埋葬/顕宗天皇即位 ○ 顕宗天皇崩御→仁賢天皇即位→顕宗天皇埋葬 × 顕宗天皇崩御→顕宗天皇埋葬/武烈天皇即位 ○ 武烈天皇崩御→継体天皇即位→武烈天皇埋葬 ? 安閑天皇即位→継体天皇崩御(空位)→継体天皇埋葬 × 安閑天皇崩御→安閑天皇埋葬/宣化天皇即位 × 宣化天皇崩御→宣化天皇埋葬/欽明天皇即位 × 欽明天皇崩御→欽明天皇埋葬/敏達天皇即位 時代が新しくなるに従い、記述がしっかり現実的な具体的表現にねり、×といた表現ばかりになります。天智天皇にも埋葬記事がありません。 × 孝徳天皇崩御→孝徳天皇埋葬/斉明天皇重祚 × 斉明天皇崩御→斉明天皇埋葬/天智天皇即位 ? 天智天皇崩御→天智天皇埋葬/天武天皇即位(万葉集など) × 天武天皇崩御→天武天皇埋葬/持統天皇即位 このように、はっきり区分するのは難しいものです。実際、古い記述ほど、埋葬記事が次天皇即位の前後を具体的にわからない場合、時系列に判断する場合、編集者としてこれを決めるには、ある基準があったのではないかと考えました。 土地継承 父、安寧天皇は和風諡号、磯城津彦玉手看天皇と磯城の名を持つ天皇です。 輕は奈良県橿原市大軽町付近といわれる、古代史でよく聞く名です。 この地に第四代懿徳天皇は曲峽宮(境岡宮)を建てました。 ところで第八代孝元天皇も境原宮(堺原宮)を建てました。 延喜式神名帳に、この郡に「輕樹村坐神社」が載っている。 本居宣長は江戸時代の頃の記録をかなり細かく場所を特定して記述してくれています。 「この宮は、上記の『かる村』から西の方、三瀬と言うところへ行く途中の、小高く広くなった岡越えの道で、坂がある。そのあたりだろう。 境は『坂合』だから、境岡と言える地形だ。またこの丘の上は広い原になっており、堺原宮(孝元天皇)もこの辺りかと思う。書紀には、曲峽宮とあるが、ある人が言うには、この宮の址は軽の南西にある。今も『まわりおさ』という田地の名が残っているそうだ。」 眞名子谷上 諸陵式に「畝傍山の南、纖沙渓上。大和国高市郡にある。兆域東西一町、南北一町、守戸五烟」とある。古事記伝には、「この御陵は畦樋村から西、吉田村へ越える道の少し南にある。すなわち畝火山の南の谷の中である。」 参考文献 古事記伝(現代語訳)21-3 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP117.html 「先代旧事本紀 訓註」大野七三校訂編集 批評社 2001 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |