天武天皇の年齢研究

kamiya1@mta.biglobe.ne.jp

 

−目次−

 ホーム−目次 

 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

image007

 

2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

image008

 

2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

image009

 

 

 

孝昭天皇の年齢 こうしょうてんのう

First update 2013/02/28 Last update 2013/03/15

 

                           93歳 古事記

甲寅BC427孝昭49年生〜戊子BC393孝昭83年 114歳 日本書紀など主流

甲寅BC427孝昭49年生〜戊子BC393孝昭83年 120歳 愚管抄、興福寺略年代記

丙寅186年生      〜甲辰224年崩御     39歳 本稿

 

 

日本書紀

古事記

和風諡号(わふうしごう)

(  )

陵墓(    )

()(まつ)(ひこ)()(えし)()天皇

掖上(わきのがみ)(いけ)(ごころ)

掖上(わきのかみの)博多(はかた)(やま)上陵

()()()()()()()()()

葛城の(わき)(がみ)

掖上(わきのかみ)の博多山上

 

【孝昭天皇の系譜】日本書紀

父   懿徳天皇

母皇后 (あま)(とよ)()(ひめ)命 懿徳天皇の長男、(おき)()(みみ)命の娘

皇后  ()()(たらし)媛 二子を生む。尾張連、(おき)()()()の妹

   (一云、()()()()媛 磯城縣主葉江の娘)

   (一云、(おお)()媛   (やまと)(のくに)(とよ)(あき)()()媛の娘)

    子  (あま)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)命(和珥臣等の始祖)

       日本(やまと)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)天皇(孝安天皇)

 

【孝昭天皇 古事記】

娶、()()()()()()命 尾張連の祖。(おき)()()()の妹〈 二柱 〉

  生  (あめ)(おし)(たらし)()()命 (かす)()臣、(おお)(やけ)臣、(あわ)()臣、小野臣、柿本(かきのもと)臣、(いち)()()臣、大坂臣、

             ()()臣、()()臣、()(ぐり)臣、()()臣、()()臣、()()(やま)臣、伊勢(いせの)飯高(いいたか)

             (いち)()君、(ちかつ)(おお)()(くにの)(みやつこ)の祖

     (おお)(やまと)(たらし)()()(くに)(おし)(ひと)

 

【孝昭天皇の年表】

懿徳22年 2月12日 18歳で皇太子

懿徳34年 9月 8日 懿徳天皇崩御

空位 1年10月13日 懿徳天皇を畝傍(うねび)(やま)の南、(まな)(ごの)谿(たにの)(かみ)陵に葬る。

孝昭 1年 1月 9日 孝昭天皇即位

      4月 5日 皇后を尊んで皇太后と呼ぶ

      7月    掖上(わきのかみ)に遷都。(いけ)(ごころ)宮という。この年太歳丙寅。

孝昭29年 1月 3日 系譜記事

孝昭68年 1月14日 孝安(日本(やまと)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)尊)を皇太子。年20。

孝昭83年 8月 5日 孝昭天皇崩御

孝安38年 8月14日 孝昭天皇を掖上(わきのかみの)博多(はかた)(やま)上陵に葬る。

 

【日本書紀 孝昭天皇】

    ――懿徳天皇           (一云、磯城縣主葉江の娘、長媛)

        ├―――孝昭天皇     (一云、十市縣主五十坂彦の娘、五十坂媛)

息石耳命――天豐津媛    ├――天足彦國押人――押媛

              |           ├――孝霊天皇

              ├――――――――――孝安天皇

     (葛城氏)――世襲足媛

        (一云、渟名城津媛、磯城縣主葉江の娘)

        (一云、大井媛、倭國豐秋狹太媛の娘)

 

和風諡号

孝昭天皇の和風諡号は日本書紀では()(まつ)(ひこ)()(えし)()天皇とありますが、古事記では()()()()()()()()()命です。読みが同じなので見落としていましたが、この名前には崇神天皇の和風諡号、御間城(みまき)入彦(いりびこ)五十瓊殖(いにえ)天皇と通じます。しいては「任那」に通じます。本居宣長によれば、「名の意味は、「御眞」は()()()(いり)()()()()()()()などの「御眞」と同じで、御孫の意味か、地名などか、定かでない」とあります。

2013/3/15追記

 

年齢考証

古事記は単に93歳。

日本書紀は例の如く、崩御時年齢を記さない。孝昭天皇83崩御。ただし「父の天皇の22年に皇太子となった。年18歳」とあるから、114歳ということになる。岩波版「日本書紀」でも113歳と注に間違いがあります。これは懿徳と孝安にある空位1年間を無視した結果です。

愚管抄は在位83年、「元年乙丑歟丙寅、卅二即位」と日本書紀からと思われる正確な計算値を示しながら、年を「百廿」と間違えたようです。興福寺略年代記や帝王編年記も120歳とありますが、114歳の日本書紀の記述も併せて載せています。

 

年齢根拠

孝安天皇、孝霊天皇など、以降の年齢は検証済みです。すべて、同様の基準で算術計算しています。すべての子を18歳で出産し、太子就任年齢のとき、この孝昭天皇の場合、18歳ですが、前天皇が崩御。よって、翌年が即位年になります。

欠史八代の最後にまとめますが、この方法は、日本書紀が築いた、干支崩御年に相関関係にあることに気がつきました。日本書紀は2歳ほど年齢幅に余裕をもって計算しているようなのです。まだ確定的とはいえません。取りあえず、算術計算で推論を進めます。

少なくとも、日本書紀は春秋二倍説のような、掛け算、割り算では年齢を設定していません。ある特定数字、例えば、60などを足す、引くなどして、計算していると思われます。

 

【孝昭天皇の年齢】

200 0000000000111111111122222222223333333333

年   0123456789012345678901234567890123456789

懿徳天皇―――                                    

孝昭天皇―――1820―――――――――30――――――――39               

天足彦國押人 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――

  押媛                    @ABCDEFGHIJKLMNOPQR―

孝安天皇     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――33――

孝霊天皇                                     @A―

 ―懿徳在位―→←―――――孝昭天皇在位――――――――→←―――孝安天皇在位―――――

 

系譜記事が遅い理由

日本書紀における系譜記事は、基本的には、即位年に近い縁起の良い年にまとめて一覧する約束になっていることが、記されています。正確には、皇后と生んだ子供の記録です。

ところが、孝昭天皇の系譜記事は孝昭29年1月3日と妙に遅いのです。

何故なのでしょう。

 

【初代天皇の系譜記事掲載年】

第一代 神武天皇 神武 1年1月 1日 

第二代 綏靖天皇 綏靖 2年1月(日付無し)

第三代 安寧天皇 安寧 3年1月 5日

第四代 懿徳天皇 懿徳 2年2月11日

第五代 孝昭天皇 孝昭29年1月 3日

第六代 孝安天皇 孝安26年2月14日 兄の娘を娶ったから遅くなった記述か。

第七代 孝霊天皇 孝霊 2年2月11日

第八代 孝元天皇 孝元 7年2月 2日

第九代 開化天皇 開化 6年1月14日 先妃の別記事があり。

第十代 崇神天皇 崇神 1年2月16日

第十一第 垂仁天皇 垂仁1年2月 9日

第十二代 景行天皇 景行2年3月 3日 他皇后の別記事が後にあり。

第十三代 成務天皇 なし

第十四代 仲哀天皇 仲哀2年1月11日

この孝昭天皇の子、孝安天皇も系譜記事がと26年とやはり遅いです。ただ、孝安天皇の妻子記事は、皇后は兄の娘だったという現実がありましたから、遅れたと説明できます。しかし、孝昭天皇の妻子をもらう記事が説明できません。

 

皇后は葛城(葛木)の娘

孝昭天皇の皇后になったのは、()()(たらし)媛です。尾張連の祖先、(おき)()()()の妹とあります。(おき)()()()は旧事紀では、孝昭31年に大臣となり外戚の地位を獲得しています。

旧事紀に「三世の孫(あめ)(おし)()命。この命は、葛木の土の神、(つるぎ)()命の娘、()()()()姫を妻として、二男一女を生んだ。(おき)()()()命、次に(たけ)()()命、妹()()(たらし)姫命、またの名は日置(ひおき)姫命と言う。」

和名抄には、大和国葛上郡に日置郷がある、とあり、日本書紀神武2年に「(つるぎ)()という者を葛城国造とし」ています。つまり(おき)()()()は後に、尾張に渡り、そこで血筋を切り開いたと思われます。

妹の()()(たらし)媛は、葛上郡日置郷ですから、掖上(わきのがみ)(葛城)の(いけ)(ごころ)宮を開いた孝昭天皇は、父の居た橿原から、移り住み、地元の娘を娶ったことになります。先代旧事本紀では、

「四世の孫、(おき)()()()命、またの名(かつら)()(ひこ)命は、尾張連らの祖である。(あめ)(おし)()命の子」とあり、また

(あめ)(おし)()命は、(あめの)()(あかり)命の子、(あめの)()()(やま)命、その子、(あめの)(むら)(くも)命の子である」といいます。

 

【先代旧事本紀】

      葛木の土の神、劔根命――賀奈良知姫

                    ├―――瀛津世襲、又名葛木彦命(尾張連の祖先)

                    ├―――建額赤

                    ├―――世襲足姫(又名を日置姫)

天火明命――天香語山命―天村雲命――天忍男命   ├――天足彦國押人(和珥臣等の始祖)

                         ├――孝安天皇

神武天皇――綏靖天皇――安寧天皇――懿徳天皇――孝昭天皇

 

皇后の異説

孝昭天皇の皇后は()()(たらし)媛です。しかし、欠史8代のほとんどの皇后には、他の后妃の可能性を残した、記述になっています。

ここでは2人「一云、()()()()媛 磯城縣主葉江の娘」

      「一云、(おお)()媛 (やまと)(のくに)(とよ)(あき)()()の娘」

つまり、2人の子、(あま)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)命(和珥臣等の始祖)と日本(やまと)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)天皇(孝安天皇)の母は上記の2人の娘の子である可能性もあるのです。

ところが、この2人の娘には問題があります。今すぐには結論を出しませんが記しておきます。

まず、()()()()媛。磯城縣主葉江の娘です。この磯城縣主、葉江は、第三代綏靖天皇、第五代孝昭天皇、代六代孝安天皇の三人の天皇に皇后を送り込んだかもしれぬ、実際、実力者と考えられる人物です。

一説だから、今まであり得ないとして取り上げられないのかもしれませんが、欠史八代を一人ずつ見ていくと、周囲がかなりかぶった情報が多いことにすぐ気付きます。これは、天皇序列を直列に時間軸で見ているからで、葉江を基準に見れば、一世代で生まれた娘達を三人の天皇たちに順次、与えたとも考えられると思います。

もう一人が、大井媛 (やまと)(のくに)(とよ)(あき)()()の娘です。つまり、(やまと)(のくに)(とよ)(あき)の女王の娘を孝昭天皇の皇后として送り込んだことになります。単純に、これは(やまと)(のくに)(とよ)(あき)()()の誤記だとする説や十市県主系図には大間宿禰の孫に豊秋狭太がおり、その娘が大井媛としているという説もあります。本稿では男性優先の考え方は捨てるべきで、()()女王が、自分の娘を孝昭天皇に与えたとする、日本書紀一説を大切にしたいと考えています。

最近はやりの文章ねつ造説や誤記説に簡単に組するわけにはいきません。父の名前を出さない理由があったはずです。母系制が優先と考えてもいいのですが、この時代は戦闘状態、いわゆる戦国時代に似た状況にあったと考えています。各部族が山の上に高地性集落を築き、掘で周囲を覆う生活であったことがわかっています。父がいない子供は多くいたかもしれないのです。

 

孝安天皇と孝昭天皇の宮

この2人の共通点は他に、宮と陵が他の8代の中でも葛城に近い片寄った場所にあることです。

孝安天皇の宮(むろ)」は和名抄に大和国葛上郡牟婁郷(奈良県御所市室)があります。

日本書紀の履中3年11月条「(わき)(かみ)(むろ)の山から花と摘んできた」とあります。

(あき)()(しまの)(みや)」は、日本書紀の神武31年に「天皇は出かけたついでに(わき)(かみ)(ほほ)()の丘に登り、国の形を見回して、『なんと素晴らしい国を得た。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)(とんぼ)が交尾しているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と言った。秋津嶋という名はこれから起こった」とあります。

()()(しま)と同様に倭国の総称の一つになったのでしょうか。

いずれにしろ、この頃の大和政権の勢力範囲は決して広いものではないのです。「狭い国」だったです。

「掖」と「腋」に違いはないようです。

孝昭天皇の宮はその掖上(わきのがみ)(いけ)(ごころ)宮(奈良県御所市池之内)といいます。大和志では「葛上郡(わき)(かみ)池は井戸村(奈良県御所市井戸)に在り」とあります。なお、南葛城郡掖上村名は明治22年の命名(御所市東北部):追記

古事記伝には、「『掖上の室の山』とある牟婁郷も葛上郡である。新撰姓氏録の秦の忌寸の條に、「大和の(あさ)()()の掖上の地」とあるのも同じ所だろう。いまの朝妻村も同郡で、室村からも遠くない」とあります。

時代が下りますが、推古21年11月に「掖上(わきのがみ)(いけ)畝傍(うねび)池、()()池を作る」と書かれています。なぜか、欠史8代の主要地です。その一つがこの掖上(わきのがみ)(いけ)になります。

また、持統4年2月に「掖上(つつみ)(いでま)して、公卿大夫の馬を観覧された」などが見えます。

なお、御所市本馬は明治22年に掖上村と命名とあるから、現在地と断定することはできません。

本馬の東南に独立した丘陵があり、土地で本馬山といい、通証は本間を(ほほ)()の転として、本馬山の南に位置する国見山を(ほほ)()岡としたといっています。

 

孝安天皇と孝昭天皇の陵墓

孝安102年1月、孝安天皇が崩じ、同年9月13日には、玉手(たまて)の丘の上の陵に葬った」と見えます。

諸陵式に「玉手の丘の上の陵は、室の秋津嶋の宮で天下を治めた孝安天皇である。大和国葛上郡(玉手村)にあり、兆域は東西六町、南北六町、守戸五烟」とあります。

前皇廟陵記に「玉手村、室村の西北、河の東にある」と言い、

大和志には「玉手村にある。陵の南に天神の祠があり、小さな塚が二つ、村の中にある」といいます。

 

問題は、孝安38年8月14日、孝昭天皇を掖上(わきのかみの)博多(はかた)(やま)上陵に葬ったことです。崩御された38年も後に葬られたことになり、あまりに遅い埋葬です。

古事記伝も「腑に落ちない」と言っているのです。

延喜式に「掖博多山上陵、在大和国葛上郡。兆域東西6町、南北6町。守戸5烟」とあり、

陵墓要覧に所在地を奈良県南葛城郡大正村大字三室字博多山(今、御所市)としています。

大和志には「室村にある。陵のそばに八幡の祠と塚四つがある」です。

なお、古事記伝では「一般に御陵の地を「山の上」、「坂の上」などと書いてあるのは、上であれ下であれ、「そのあたり」ということである」と注意してくれています。

 

まとめになるかわかりませんが、懿徳天皇の宮、陵がある畝傍山から、孝昭天皇は離れた葛上郡に居を構えますが、嫁を迎えることができたのは即位から多くの年月(紀は29年後)が経っていました。その孝昭天皇が崩御されると、次の孝安天皇も、同地に宮を構えますが、父、孝昭を葬ることができたのはこれも多くの年月(38年後)が必要だったのです。

ところが、孝安天皇崩御されると、孝霊は即位同年、すぐに、同地に孝安を葬り、この地を捨て、磯城郡田原本町黒田に移っていったことになるのです。ここは和珥氏の本拠があるところです。(いお)()宮と言われました。黒田(くろだ)は和名抄に「大和国城下郡黒田郷は『くるだ』」とあり黒田村があったといいます。出雲国風土記には土の色が黒いので黒田という逸話があります。大和志には「(みや)()村と黒田村の間にある(みやこ)(のもり)」とあります。

 

この葛上に住んだ天皇は孝昭天皇と孝安天皇の二代に過ぎなかったのです。ただ、孝昭天皇が得た2人の息子のうち、上の皇子は、和珥の始祖として、黒田、天理地区に移っていったと思われます。即ち、春日一族がここから始まったと日本書紀は書き記しましたが、つまりは、この地の豪族、春日一族に吸収されたわけです。即位した孝霊天皇は母、押媛の父、天足彦國押人、言い方を変えれば、伯父を頼って和珥春日氏に合流したといえるのです。

 

 

(あめ)(おし)(たらし)()()命の子孫 古事記は春日氏を筆頭に同族など16氏を具体的に列記しています。日本書紀には、これらを和珥臣等の始祖とまとめてみせます。

和珥氏の祭神天足彦国押人命が息子として組み込まれたという説があります。現在では各豪族の始祖が皆、天皇から生まれたとする、指針があったされています。

本稿では、結論は同じですが、天押帯彦命そのものが、春日氏の人間であったと考えます。

孝昭天皇の第二子となる「日本(やまと)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)」こと孝安天皇が、第一子「(あま)(たらし)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)」の娘を娶りますが、これ即ち、春日氏の娘を娶ったと考えました。2人の名前の違いは「日本」と「天」だけで意味のない名前だからです。

 

【欠史八代と地元氏族の関わり】    

     ――懿徳天皇        

         ├――孝昭天皇  

息石耳命―――天豐津媛   ├――孝安天皇

  葛城氏―――――――世襲足媛   ├――孝霊天皇

  和邇(春日)氏―日本足彦国押人―押媛   ├――孝元天皇

  磯城縣主大目――――――――――――――娘細媛  ├――開化天皇

  穗積臣遠祖―――――――――――――――――――欝色謎   ├――崇神天皇

  物部氏遠祖―――大綜麻杵――――――――――――――――伊香色謎命

 

春日(かすが)(おのみ)

春日は大和国添上郡春日にある地名です。

本居宣長は、天武13年に朝臣とされた大春日臣の「大」という字に興味を示します。新撰姓氏録の左京項別には「大春日朝臣は、孝昭天皇の皇子、天帯彦國押人命から出た。仲臣令は家に千金を重ね、(かす)を積んで(かき)とした。仁徳天皇がその家に行った時、(かす)(がき)の臣と名乗れと言った。後に改めて春日臣となった。桓武天皇延暦20年、大春日朝臣の姓を賜った」と説明が続きます。

 

本稿の興味は、なぜ、和邇氏とせず、比較的新しい春日氏の始祖としたのでしょう。

延喜式には、添上郡に、和爾坐赤坂比古神社、和爾下神社を載せ、現在に至ります。

一般的には、和邇氏は大和国添上郡南部の和邇(天理市和邇)より起こり、春日市は添上郡春日(奈良市春日野)を根拠としています。

雄略元年には春日和珥臣深目がおり、仁賢元年には和珥臣日爪が欽明2年には春日日爪臣と変わっています。和邇氏は朝鮮系の名前なので、変化したとも言われます。

本居宣長は「春日氏」と「大春日氏」の違いを長々記述していますが、結局のところ、本稿では、和珥=春日臣で、その一部が大春日臣と称しましたが、天武13年の八色の姓でこの大氏族は大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、櫟井臣、柿本臣などに朝臣としてはっきり分割されたと考えています。

その後、和邇氏は開化天皇の皇子、日子坐王と深く結びつく系譜を組み立てています。孝昭天皇の段では春日といい、開化では和邇といい、春日より和邇のほうが古いのですが、時間軸を逆にして区別するところが面白い。古事記には、天足彦国押人命を春日氏の始祖とした和邇氏への遠慮を感じます。

 

(おお)(やけ)

大宅は、和名抄の大和国添上郡大宅に春日、大宅と二つ並べて掲げる郷です。武烈紀の歌や万葉巻18(4089)に詠われています。

(あわ)()

粟田は和名抄に「山城国愛宕郡、上粟田、下粟田」とある地とあります。

()()

延喜式神名帳に「近江国滋賀郡、小野神社二座、【名神大】」というのがこの氏神である。

(かきの)(もと)

新撰姓氏録の大和国皇別に「柿下朝臣は大春日朝臣と同祖、天足彦國押人命の子孫である。敏達天皇の御世、家の門に柿の樹があったので、柿本臣氏とした」とあります。

延喜式神名帳には、「山城国紀伊郡、飛鳥田神社は一名柿本社」とあり、また大和国葛下郡に柿本村があるとあります。歌仙と呼ばれる柿本人麻呂はこの氏の人です。

(いち)()()臣((いち)()臣)

壹比韋は大和国添上郡(いちひ)()の地名で、古事記の應神天皇の段の歌にも「()()()()()()()()()()()」とあらわれています。

 

以下には、八色の姓に朝臣として載らない氏族になります。順番も違わぬことから、古事記執筆担当者は日本書紀の八色の姓を知っていたと思われます。

 

(おお)(さか)

大坂は地名で、和名抄に備後国(やす)()郡大坂郷があり、これとされていますがはっきりしません。次の阿那臣と親しい関係にあるからです。

本居宣長は「和名抄には大和国葛上郡に大坂郷がある。延喜式神名帳に同国葛下郡、大坂山口神社がある。この大和の大阪は古い書物に時々見えるから、これかも知れない」といいます。

()()

和名抄の備後国安那(やすな)郡を指すようです。日本書紀、景行27年12月に「穴海」、安閑2年5月に「婀娜國」とあるからだといいます。「『やすな』は『あな』と言うことを嫌って、後に言い変えたのである」とあります。

 

()()

丹波国多紀郡から出たといわれるが、はっきりしない

 

()(ぐり)

和名抄に「尾張国()(くり)郡葉栗郷」があります。

()()

和名抄に尾張国智多郡とあり、万葉巻7(1163)に「()()()(うら)」の歌がります。羽栗臣の後に記述されているからここだろうと言います。

 

()()

和名抄に「上総国()()郡」とあります。本居宣長は「身狹」を別姓としています。

 

()()(やま)

本居宣長はこの地名も姓も、古い書物に見当たらないといいます。だからなのでしょうか、今になっても「右へならえ」状態で、わからないまま進歩していません。

岩波版では、万葉集2巻132「石見国角」の里に(たか)(つの)(やま)があるからこれに因んだものか、とあります。

 

伊勢(いせの)飯高(いいたか)

和名抄に「伊勢国飯高(いいたか)郡」があります。

(いち)()

和名抄の「伊勢国(いち)()郡」とあります。

(ちかつ)()(うみの)(くにの)(みやつこ)

これは小海の国造です。

 

参考文献

「先代旧事本紀 訓註」大野七三校訂編集 批評社 2001

古事記傳(現代語訳)21−4 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP118.html

 

 

本章先頭へ       ホーム目次へ

©2006- Masayuki Kamiya All right reserved.