天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
孝昭天皇の年齢 こうしょうてんのう First update 2013/02/28
Last update 2013/03/15
93歳 古事記 甲寅BC427孝昭49年生〜戊子BC393孝昭83年 114歳 日本書紀など主流 甲寅BC427孝昭49年生〜戊子BC393孝昭83年 120歳 愚管抄、興福寺略年代記 丙寅186年生 〜甲辰224年崩御 39歳 本稿
【孝昭天皇の系譜】日本書紀
【孝昭天皇 古事記】
【孝昭天皇の年表】
【日本書紀 孝昭天皇】
和風諡号 孝昭天皇の和風諡号は日本書紀では觀松彦香殖稻天皇とありますが、古事記では御眞津日子訶惠志泥命です。読みが同じなので見落としていましたが、この名前には崇神天皇の和風諡号、御間城入彦五十瓊殖天皇と通じます。しいては「任那」に通じます。本居宣長によれば、「名の意味は、「御眞」は御眞木入日子、御眞津比賣などの「御眞」と同じで、御孫の意味か、地名などか、定かでない」とあります。 2013/3/15追記 年齢考証 古事記は単に93歳。 日本書紀は例の如く、崩御時年齢を記さない。孝昭天皇83崩御。ただし「父の天皇の22年に皇太子となった。年18歳」とあるから、114歳ということになる。岩波版「日本書紀」でも113歳と注に間違いがあります。これは懿徳と孝安にある空位1年間を無視した結果です。 愚管抄は在位83年、「元年乙丑歟丙寅、卅二即位」と日本書紀からと思われる正確な計算値を示しながら、年を「百廿」と間違えたようです。興福寺略年代記や帝王編年記も120歳とありますが、114歳の日本書紀の記述も併せて載せています。 年齢根拠 孝安天皇、孝霊天皇など、以降の年齢は検証済みです。すべて、同様の基準で算術計算しています。すべての子を18歳で出産し、太子就任年齢のとき、この孝昭天皇の場合、18歳ですが、前天皇が崩御。よって、翌年が即位年になります。 欠史八代の最後にまとめますが、この方法は、日本書紀が築いた、干支崩御年に相関関係にあることに気がつきました。日本書紀は2歳ほど年齢幅に余裕をもって計算しているようなのです。まだ確定的とはいえません。取りあえず、算術計算で推論を進めます。 少なくとも、日本書紀は春秋二倍説のような、掛け算、割り算では年齢を設定していません。ある特定数字、例えば、60などを足す、引くなどして、計算していると思われます。 【孝昭天皇の年齢】
系譜記事が遅い理由 日本書紀における系譜記事は、基本的には、即位年に近い縁起の良い年にまとめて一覧する約束になっていることが、記されています。正確には、皇后と生んだ子供の記録です。 ところが、孝昭天皇の系譜記事は孝昭29年1月3日と妙に遅いのです。 何故なのでしょう。 【初代天皇の系譜記事掲載年】
この孝昭天皇の子、孝安天皇も系譜記事がと26年とやはり遅いです。ただ、孝安天皇の妻子記事は、皇后は兄の娘だったという現実がありましたから、遅れたと説明できます。しかし、孝昭天皇の妻子をもらう記事が説明できません。 皇后は葛城(葛木)の娘 孝昭天皇の皇后になったのは、世襲足媛です。尾張連の祖先、瀛津世襲の妹とあります。瀛津世襲は旧事紀では、孝昭31年に大臣となり外戚の地位を獲得しています。 旧事紀に「三世の孫天忍男命。この命は、葛木の土の神、劔根命の娘、賀奈良知姫を妻として、二男一女を生んだ。瀛津世襲命、次に建額赤命、妹世襲足姫命、またの名は日置姫命と言う。」 和名抄には、大和国葛上郡に日置郷がある、とあり、日本書紀神武2年に「劔根という者を葛城国造とし」ています。つまり、瀛津世襲は後に、尾張に渡り、そこで血筋を切り開いたと思われます。 妹の世襲足媛は、葛上郡日置郷ですから、掖上(葛城)の池心宮を開いた孝昭天皇は、父の居た橿原から、移り住み、地元の娘を娶ったことになります。先代旧事本紀では、 「四世の孫、瀛津世襲命、またの名葛木彦命は、尾張連らの祖である。天忍男命の子」とあり、また 「天忍男命は、天火明命の子、天香語山命、その子、天村雲命の子である」といいます。 【先代旧事本紀】
皇后の異説 孝昭天皇の皇后は世襲足媛です。しかし、欠史8代のほとんどの皇后には、他の后妃の可能性を残した、記述になっています。 ここでは2人「一云、渟名城津媛 磯城縣主葉江の娘」 「一云、大井媛 倭國豐秋狹太媛の娘」 つまり、2人の子、天足彦國押人命(和珥臣等の始祖)と日本足彦國押人天皇(孝安天皇)の母は上記の2人の娘の子である可能性もあるのです。 ところが、この2人の娘には問題があります。今すぐには結論を出しませんが記しておきます。 まず、渟名城津媛。磯城縣主葉江の娘です。この磯城縣主、葉江は、第三代綏靖天皇、第五代孝昭天皇、代六代孝安天皇の三人の天皇に皇后を送り込んだかもしれぬ、実際、実力者と考えられる人物です。 一説だから、今まであり得ないとして取り上げられないのかもしれませんが、欠史八代を一人ずつ見ていくと、周囲がかなりかぶった情報が多いことにすぐ気付きます。これは、天皇序列を直列に時間軸で見ているからで、葉江を基準に見れば、一世代で生まれた娘達を三人の天皇たちに順次、与えたとも考えられると思います。 もう一人が、大井媛 倭國豐秋狹太媛の娘です。つまり、倭國豐秋の女王の娘を孝昭天皇の皇后として送り込んだことになります。単純に、これは倭國豐秋狹太雄の誤記だとする説や十市県主系図には大間宿禰の孫に豊秋狭太彦がおり、その娘が大井媛としているという説もあります。本稿では男性優先の考え方は捨てるべきで、狹太女王が、自分の娘を孝昭天皇に与えたとする、日本書紀一説を大切にしたいと考えています。 最近はやりの文章ねつ造説や誤記説に簡単に組するわけにはいきません。父の名前を出さない理由があったはずです。母系制が優先と考えてもいいのですが、この時代は戦闘状態、いわゆる戦国時代に似た状況にあったと考えています。各部族が山の上に高地性集落を築き、掘で周囲を覆う生活であったことがわかっています。父がいない子供は多くいたかもしれないのです。 孝安天皇と孝昭天皇の宮 この2人の共通点は他に、宮と陵が他の8代の中でも葛城に近い片寄った場所にあることです。 孝安天皇の宮「室」は和名抄に大和国葛上郡牟婁郷(奈良県御所市室)があります。 日本書紀の履中3年11月条「掖の上の室の山から花と摘んできた」とあります。 「秋津嶋宮」は、日本書紀の神武31年に「天皇は出かけたついでに腋上の嗛間の丘に登り、国の形を見回して、『なんと素晴らしい国を得た。狭い国ではあるが、蜻蛉(とんぼ)が交尾しているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と言った。秋津嶋という名はこれから起こった」とあります。 師木嶋と同様に倭国の総称の一つになったのでしょうか。 いずれにしろ、この頃の大和政権の勢力範囲は決して広いものではないのです。「狭い国」だったです。 「掖」と「腋」に違いはないようです。 孝昭天皇の宮はその掖上の池心宮(奈良県御所市池之内)といいます。大和志では「葛上郡腋上池は井戸村(奈良県御所市井戸)に在り」とあります。なお、南葛城郡掖上村名は明治22年の命名(御所市東北部):追記 古事記伝には、「『掖上の室の山』とある牟婁郷も葛上郡である。新撰姓氏録の秦の忌寸の條に、「大和の朝都間の掖上の地」とあるのも同じ所だろう。いまの朝妻村も同郡で、室村からも遠くない」とあります。 時代が下りますが、推古21年11月に「掖上池、畝傍池、和珥池を作る」と書かれています。なぜか、欠史8代の主要地です。その一つがこの掖上池になります。 また、持統4年2月に「掖上陂に幸して、公卿大夫の馬を観覧された」などが見えます。 なお、御所市本馬は明治22年に掖上村と命名とあるから、現在地と断定することはできません。 本馬の東南に独立した丘陵があり、土地で本馬山といい、通証は本間を嗛間の転として、本馬山の南に位置する国見山を嗛間岡としたといっています。 孝安天皇と孝昭天皇の陵墓 孝安102年1月、孝安天皇が崩じ、同年9月13日には、玉手の丘の上の陵に葬った」と見えます。 諸陵式に「玉手の丘の上の陵は、室の秋津嶋の宮で天下を治めた孝安天皇である。大和国葛上郡(玉手村)にあり、兆域は東西六町、南北六町、守戸五烟」とあります。 前皇廟陵記に「玉手村、室村の西北、河の東にある」と言い、 大和志には「玉手村にある。陵の南に天神の祠があり、小さな塚が二つ、村の中にある」といいます。 問題は、孝安38年8月14日、孝昭天皇を掖上博多山上陵に葬ったことです。崩御された38年も後に葬られたことになり、あまりに遅い埋葬です。 古事記伝も「腑に落ちない」と言っているのです。 延喜式に「掖博多山上陵、在大和国葛上郡。兆域東西6町、南北6町。守戸5烟」とあり、 陵墓要覧に所在地を奈良県南葛城郡大正村大字三室字博多山(今、御所市)としています。 大和志には「室村にある。陵のそばに八幡の祠と塚四つがある」です。 なお、古事記伝では「一般に御陵の地を「山の上」、「坂の上」などと書いてあるのは、上であれ下であれ、「そのあたり」ということである」と注意してくれています。 まとめになるかわかりませんが、懿徳天皇の宮、陵がある畝傍山から、孝昭天皇は離れた葛上郡に居を構えますが、嫁を迎えることができたのは即位から多くの年月(紀は29年後)が経っていました。その孝昭天皇が崩御されると、次の孝安天皇も、同地に宮を構えますが、父、孝昭を葬ることができたのはこれも多くの年月(38年後)が必要だったのです。 ところが、孝安天皇崩御されると、孝霊は即位同年、すぐに、同地に孝安を葬り、この地を捨て、磯城郡田原本町黒田に移っていったことになるのです。ここは和珥氏の本拠があるところです。廬戸宮と言われました。黒田は和名抄に「大和国城下郡黒田郷は『くるだ』」とあり黒田村があったといいます。出雲国風土記には土の色が黒いので黒田という逸話があります。大和志には「宮古村と黒田村の間にある都杜」とあります。 この葛上に住んだ天皇は孝昭天皇と孝安天皇の二代に過ぎなかったのです。ただ、孝昭天皇が得た2人の息子のうち、上の皇子は、和珥の始祖として、黒田、天理地区に移っていったと思われます。即ち、春日一族がここから始まったと日本書紀は書き記しましたが、つまりは、この地の豪族、春日一族に吸収されたわけです。即位した孝霊天皇は母、押媛の父、天足彦國押人、言い方を変えれば、伯父を頼って和珥春日氏に合流したといえるのです。 天押帶日子命の子孫 古事記は春日氏を筆頭に同族など16氏を具体的に列記しています。日本書紀には、これらを和珥臣等の始祖とまとめてみせます。 和珥氏の祭神天足彦国押人命が息子として組み込まれたという説があります。現在では各豪族の始祖が皆、天皇から生まれたとする、指針があったされています。 本稿では、結論は同じですが、天押帯彦命そのものが、春日氏の人間であったと考えます。 孝昭天皇の第二子となる「日本足彦國押人」こと孝安天皇が、第一子「天足彦國押人」の娘を娶りますが、これ即ち、春日氏の娘を娶ったと考えました。2人の名前の違いは「日本」と「天」だけで意味のない名前だからです。 【欠史八代と地元氏族の関わり】
春日臣 春日は大和国添上郡春日にある地名です。 本居宣長は、天武13年に朝臣とされた大春日臣の「大」という字に興味を示します。新撰姓氏録の左京項別には「大春日朝臣は、孝昭天皇の皇子、天帯彦國押人命から出た。仲臣令は家に千金を重ね、糟を積んで堵とした。仁徳天皇がその家に行った時、糟垣の臣と名乗れと言った。後に改めて春日臣となった。桓武天皇延暦20年、大春日朝臣の姓を賜った」と説明が続きます。 本稿の興味は、なぜ、和邇氏とせず、比較的新しい春日氏の始祖としたのでしょう。 延喜式には、添上郡に、和爾坐赤坂比古神社、和爾下神社を載せ、現在に至ります。 一般的には、和邇氏は大和国添上郡南部の和邇(天理市和邇)より起こり、春日市は添上郡春日(奈良市春日野)を根拠としています。 雄略元年には春日和珥臣深目がおり、仁賢元年には和珥臣日爪が欽明2年には春日日爪臣と変わっています。和邇氏は朝鮮系の名前なので、変化したとも言われます。 本居宣長は「春日氏」と「大春日氏」の違いを長々記述していますが、結局のところ、本稿では、和珥=春日臣で、その一部が大春日臣と称しましたが、天武13年の八色の姓でこの大氏族は大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、櫟井臣、柿本臣などに朝臣としてはっきり分割されたと考えています。 その後、和邇氏は開化天皇の皇子、日子坐王と深く結びつく系譜を組み立てています。孝昭天皇の段では春日といい、開化では和邇といい、春日より和邇のほうが古いのですが、時間軸を逆にして区別するところが面白い。古事記には、天足彦国押人命を春日氏の始祖とした和邇氏への遠慮を感じます。 大宅臣 大宅は、和名抄の大和国添上郡大宅に春日、大宅と二つ並べて掲げる郷です。武烈紀の歌や万葉巻18(4089)に詠われています。 粟田臣 粟田は和名抄に「山城国愛宕郡、上粟田、下粟田」とある地とあります。 小野臣 延喜式神名帳に「近江国滋賀郡、小野神社二座、【名神大】」というのがこの氏神である。 柿本臣 新撰姓氏録の大和国皇別に「柿下朝臣は大春日朝臣と同祖、天足彦國押人命の子孫である。敏達天皇の御世、家の門に柿の樹があったので、柿本臣氏とした」とあります。 延喜式神名帳には、「山城国紀伊郡、飛鳥田神社は一名柿本社」とあり、また大和国葛下郡に柿本村があるとあります。歌仙と呼ばれる柿本人麻呂はこの氏の人です。 壹比韋臣(檪井臣) 壹比韋は大和国添上郡櫟井の地名で、古事記の應神天皇の段の歌にも「伊知比韋能、和邇佐能邇袁」とあらわれています。 以下には、八色の姓に朝臣として載らない氏族になります。順番も違わぬことから、古事記執筆担当者は日本書紀の八色の姓を知っていたと思われます。 大坂臣 大坂は地名で、和名抄に備後国安那郡大坂郷があり、これとされていますがはっきりしません。次の阿那臣と親しい関係にあるからです。 本居宣長は「和名抄には大和国葛上郡に大坂郷がある。延喜式神名帳に同国葛下郡、大坂山口神社がある。この大和の大阪は古い書物に時々見えるから、これかも知れない」といいます。 阿那臣 和名抄の備後国安那郡を指すようです。日本書紀、景行27年12月に「穴海」、安閑2年5月に「婀娜國」とあるからだといいます。「『やすな』は『あな』と言うことを嫌って、後に言い変えたのである」とあります。 多紀臣 丹波国多紀郡から出たといわれるが、はっきりしない 羽栗臣 和名抄に「尾張国葉栗郡葉栗郷」があります。 知多臣 和名抄に尾張国智多郡とあり、万葉巻7(1163)に「知多之浦」の歌がります。羽栗臣の後に記述されているからここだろうと言います。 牟邪臣 和名抄に「上総国武射郡」とあります。本居宣長は「身狹」を別姓としています。 都怒山臣 本居宣長はこの地名も姓も、古い書物に見当たらないといいます。だからなのでしょうか、今になっても「右へならえ」状態で、わからないまま進歩していません。 岩波版では、万葉集2巻132「石見国角」の里に高角山があるからこれに因んだものか、とあります。 伊勢飯高君 和名抄に「伊勢国飯高郡」があります。 壹師君 和名抄の「伊勢国壹志郡」とあります。 近淡海國造 これは小海の国造です。 参考文献 「先代旧事本紀 訓註」大野七三校訂編集 批評社 2001 古事記傳(現代語訳)21−4 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP118.html ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |