天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
孝安天皇の年齢 こうあんてんのう First update 2013/02/14
Last update 2013/02/14 123歳 古事記 甲寅BC427孝昭49年生〜庚午BC291孝安102年137歳 日本書紀、本朝後胤紹運録等 甲寅BC427孝昭49年生〜庚午BC291孝安102年127歳 如是院年代記、仁寿鏡一説 甲子BC417孝昭59年生〜庚午BC291孝安102年120歳 仁寿鏡、神皇正統記 乙酉205年生 〜壬午262年崩御 58歳 本稿
【孝安天皇の系譜】
【日本書紀 孝安天皇年表】
【孝安天皇系譜】
室の秋津嶋宮について 孝安天皇が開いた場所、「室」は和名抄に大和国葛上郡牟婁郷(奈良県御所市室)にあります。 日本書紀の履中3年11月条「掖の上の室の山から花と摘んできた」とあります。 「秋津嶋宮」は、日本書紀の神武31年条に神武「天皇は出かけたついでに腋上の嗛間の丘に登り、国の形を見回して、『なんと素晴らしい国を得た。狭い国ではあるが、蜻蛉(とんぼ)が交尾しているように、山々が連なり囲んでいる国だなあ』と言った。秋津嶋という名はこれから起こった」とあります。 師木嶋と同様に倭国の総称の一つになったのでしょうか。 いずれにしろ、この頃の大和政権の勢力範囲は決して広いものではなかったのです。 史書の年齢比較 古事記は123歳と年齢のみです。 日本書紀は、この頃の天皇の崩御年齢は示しません。そのかわりに、ここでも太子時の年齢は示しています。孝昭68年20歳とあります。その後、孝昭83年の翌年即位元年ですから、孝安在位102年137歳と計算されます。本朝後胤紹運録を始め、多くの書が追随しています。 皇代記はさらに詳しく、孝昭68年太子、「年廿六或廿」。さらに孝安元年「即位年卅六」。孝安102年崩御。「年百卅七或廿」とあり、137歳とともに120歳説を紹介しています。 仁寿鏡は順が逆で120歳説を優先し「年百廿或百廿七」とします。「廿」と「卅」を見間違ったのでしょうか。 127歳説、如是院年代記は誕生を孝昭49年と正しく記し、在位年も正しく、ところが、崩御年齢だけが、127歳とあります。 神皇正統記も同様に、乙丑年即位、在位102年なのに120歳崩御とあるのですが、これは皇代記や仁寿鏡の一説を参考にしているようです。ただ、神皇正統記は数字を丸める傾向があるのでなんともいえません。 日本足彦國押人天皇の「足」問題 和風諡号において、日本書紀で「足」、古事記で「帯」、両方「タラシ」と読む天皇、御子は8人います。 【記紀でタラシと呼称された天皇】
このことは本稿、景行天皇のところで以下のように述べました。 「足」と名付けられた「その彼らの共通点とは何でしょう。 上記の表のなかで、業績が書かれていない孝安天皇兄弟や成務天皇を除くとすぐ気がつくのが、この5人はすべて自ら九州まで訪れているということです。成務、舒明は違います。それでも舒明は伊予までは間違いなく行っています。こう考えると成務天皇も父の意向を汲んでの地元ではない高穴穂宮(滋賀県大津市)で天皇になりました。だから稚足彦(若帯日子)なのです。成務天皇は本稿では即位後すぐに崩御された天皇と考えていましたら、さらに仲哀天皇がその思いを引き継いだはずで、これが足仲彦(帯中日子)なのです。それに対し、景行天皇は大足(大帯)です。王のなかの大王、「タラシ」天皇のなかの大「タラシ」天皇だと呼称されたのだと思います。 後の天皇には著しい移動記録はありません。応神天皇は九州生まれですが、あくまで活動拠点は大和です。「タラシ」とは、自ら足繁く行動した広い行動力をもつ意味があったと思います。」 ちなみに、古事記伝によると天押帶日子命も大倭帶日子國押人命も、いずれもみな美称だといいます。「押」は「おふし」で「大」の意味である。それは凡河内=大河内であり、凡海=大海、天武天皇の幼名を大海人皇子と言ったのも、この姓を取ったものです。 また、神代紀の一書に「熊野忍隅命」という名を、一書で「熊野大隅」と書いてあるので「押」=「忍」であり「大」の意味なのだそうです。 「帯」は借字で、「足」の意味で、万葉巻二(147)に「御壽者長久天足有」、記中で「たらし」に帯の字を借りて書いているのは、古歌に「御帯の倭文服結垂」とあるように、帯は結び垂れるものだからとありますが、本稿ではこれを採用しません。 孝安天皇の行動記録はないのでわかりません。しかし、その唯一の系譜などが示すあらゆる内容は、彼が外部からきた人間であることを示唆しているように見えてきます。少なくとも順調な治世ではなかったことが読み取れるのです。 1.母は皇族の娘ではなく、尾張の女です。 2.前天皇の墓を築くのが遅い。在位38年目になって、やっと前天皇を葬っています。 3.兄の娘を娶り、系譜を継いでいきます。一方、これは年齢に引き延ばし策にも見えます。 4.それも、他に2説あったことが書かれています。磯城又は十市の地元娘です。 4.一方、子は1人しかいません。(古事記は2人)長期政権とはとても思えません。 5.息子の太子就任年齢が遅い。一人だけの息子が26歳になってやっと太子になれたのです。 空想を広げると、兄とともに大和にやってきた孝安は、地元大和の娘と結びつきますが、その為に前天皇との諍いが長引いており、崩御直前まで息子に皇位すら約束できなかったのです。系譜上は、兄の娘を娶った形にして、血筋の繋ぐ形を造ったと考えられます。しかも、102年という長期政権の構図が出来上がるのです。 孝安天皇の母、世襲足媛 日本書紀では、世襲足媛は尾張連の遠祖、瀛津世襲の妹です 古事記では、 余曾多本毘賣は尾張連の祖、奧津余曾の妹と同じです。 いろいろ意見のあるところですが、孝安天皇は、孝昭天皇の皇子と考えるより、母は尾張地方の娘であったと強調したいのです。 この頃、大和政権がそれほど、強力な部族であったとは思えません。尾張の娘が大和に嫁いできたと考えるより、尾張で生まれた、後に孝安天皇となる日本足彦國押人命が大和に入り、土着部族と結びつき住み着いたとしたほうが合理的です。そのとき、兄の天足彦國押人命や、母の弟瀛津世襲も一緒に大和に乗り込んできたと思えます。だから、強力な武力を背景に外戚の名前が残ったのです。 また、普通に書かれていた、皇太后の称号も与えられていません。亡くなられていたか、そばにはいなかったことだけは確かです。 尾張連とは、「古事記伝」の表現を借りると、「尾張連は火明命(瓊瓊杵尊の兄、または子)の子孫であった、もと葛城にいたが、のちに国造となって尾張国に下り、応神天皇代に尾張連となった、というのです。」 さらに、本稿なりの解釈を加えれば、葛城にいた葛城部族の一部が、さらに東の尾張に移り住み、大きな勢力部族として台頭していました。その中で、前戻る者がいて、御所市周辺に勢力拠点を作ったということになります。 皇后、押媛の位置 孝霊天皇の母となる、孝安天皇の皇后、押媛の出自がはっきりしていません。 【日本書紀 押媛】
日本書紀は、押媛の出自を「乎」と疑問符にしています。かなり曖昧な伝承であったことがわかります。しかも、他に二人の女性を妃として紹介すれば簡単なのに、それをあえて、別伝の皇后として原文注で紹介しているのです。 兄弟の娘が「姪」です。 古事記伝でも「母は押媛という。おそらく天足彦國押人命の娘ではないだろうか」とあります。【このように疑って書いているのは、天皇の兄弟が天押帯日子命しかいない以上、姪とすればその娘に違いないが、誰の娘とも伝わっていないので、はっきりと決められないからだ。】 ようするに、はっきり、誰の娘かわからないといっているのです。 実は日本書紀では孝霊天皇の皇后細媛からさかのぼる皇后の出自が皆、曖昧になっていました。息子の孝霊天皇でも二つの異説を載せています。一つが春日の千乳早山香媛とあり、一つが眞舌媛で十市縣主等の娘となっています。 古事記では細媛は日本書紀と名前は同じですが、その出自は十市縣主の祖、大目の娘となっています。春日の千千速眞若比賣は別の妃で千千速比賣を生んでいます。つまり、細媛だか、千父早山香媛だか、眞舌媛だかわからないのです。出身も互いに近いですが春日や十市が候補になっています。 学説的には、多種の氏族を満足させる必要があり、天皇系譜に取り込んでいったとなるのでしょう。たしかに当時は氏族間でいろいろな伝承や系図が存在していたといえるのでしょう。 本稿では、実際には天皇一族側の方から積極的に、各氏族との関わりを深めていったと見るべきなのではないかと考えました。 磯城縣主葉江の娘 欠史八代ではもう一つ、日本書紀には、皇后に異説を紹介しています。 この孝安天皇の皇后では、磯城縣主葉江の娘、長媛と十市縣主五十坂彦の娘、五十坂媛の2人です。特にここでは長媛の父、磯城縣主葉江に注目します。 欠史八代のうち、第2代綏靖天皇から第7代孝霊天皇まで6人の天皇に一説に磯城県主の娘が登場し、さらに3代目安寧から6代目孝安天皇まで4人が磯城県主葉江がらみの娘です。これを無視することは出来ません。 2綏靖天皇皇后 一書云 川派媛 磯城縣主 の娘 3安寧天皇皇后 一書云 川津媛 磯城縣主葉江の娘 4懿徳天皇皇后 一云 泉媛 磯城縣主葉江男弟猪手の娘 一云 飯日媛 磯城縣主太眞稚彦の娘 5孝昭天皇皇后 一云 渟名城津媛 磯城縣主葉江の娘 6孝安天皇皇后 一云 長媛 磯城縣主葉江の娘 7孝霊天皇皇后 細媛 磯城縣主大目の娘 つまり、第3代天皇〜第6代の天皇はすべて磯城県主葉江の娘姉妹を娶っていたとも考えられるのです。すべて、一書ですから、はっきりしないので、「葉江」の名が使用されたともいえますが、いままでの経緯から、この天皇らは、時間軸に沿って一人一人引き継がれたのではなく、すべて並列に、同世代の男達だったと考えることができるのではないかと考えました。少なくとも、これは磯城という狭い土地のできごとに過ぎなかったのです。 太子就任年齢 日本書紀欠史八代で特徴的な表記の一つに崩御年齢を示さずに、太子就任年齢のみを記録したことが上げられます。 第4代 懿徳天皇 16歳 第5代 孝昭天皇 18歳 第6代 孝安天皇 20歳 第7代 孝霊天皇 26歳 第8代 孝元天皇 19歳 何故、崩御年齢を記さないのでしょう。計算上、崩御年齢はわかるのですが、どれも100歳を超える天文学的長寿になります。この太子年齢は、嘘ではない、のではないでしょうか。 少なくとも計算上では、当時からこういう年齢で太子に指名され、その後、天皇になったものと考えられていたと思います。 特に、孝安天皇から指名された孝霊の太子年齢は26歳と遅いのは象徴的で無視できません。 年齢根拠 まず、孝安天皇の皇子は一人とします。古事記に子が2人いて大吉備諸進命が挙げられています。 しかし、ここでは、古事記伝にもあるとおり、吉備彦の記事が紛れ込んだものとして、除外しました。 「大吉備諸進命(おおきびのもろすすみのみこと)。【この御子は書紀に見えないが、これは孝霊天皇の皇子「比古伊佐勢理毘古命、またの名大吉備津日子命をこの天皇の御子とでも伝え誤ったのか。というのは、この子に「吉備」という名を付ける理由がなく、また「進」も「伊佐勢理」と同意だからである。」 その上で、年齢設定しました。前提条件は前回と同じで、太子年齢に達したときが前天皇の崩御年。皇子が太子になった年が孝安天皇の崩御と考えました。実際はその間の出来事なのです。 孝安天皇の場合、皇后が同母兄の娘を娶り、孝霊天皇を生んだという系譜から、ほぼ全体像が浮かんできます。つまり、孝安天皇を無視して、女性側から積み上げていくわけです。 孝霊天皇の年齢は推定済みです。孝霊天皇が生まれた237年に母押媛は18歳とします。さらに、押媛の父、天足彦国押人がこの押媛を18歳で得たとします。すると、弟の孝安天皇は2歳違いとすれば、年齢が定まるはずです。 つまり、下図、孝安天皇1として20歳で太子になりましたから、翌年225年即位し、息子が太子のなった262年26歳に58歳で崩御されたと仮定できます。 もっとも、極論として孝安天皇兄弟は年差があったとも考えられます。皇后の押媛と同年と考えると、20歳になった翌年240年即位となり、崩御は同じ262年ですから、43歳となります。(孝安天皇2) 孝昭天皇も39歳(孝安天皇1の場合)または54歳(孝安天皇2の場合)で崩御と考えることができる、もしくはその間ということになります。 しかし、こう定めたとはいえ、孝安天皇1も2も非常に在位期間が長いので、信じることができません。ここでは、孝安天皇2のほうが現実的なようですが、あとでまとめますが、干支に重点をおくと日本書紀は孝安天皇1を基軸に考えていたことがわかってきました。この辺の事情は欠史8代のまとめで、細説します。 【孝安天皇の系譜に基づく年齢推理】
結果的に、兄の娘を娶ることで、どうしても長期政権になる仕組みになるのです。長期政権のはずがないのです。先に仮定したように、本稿では、孝安天皇は孝昭天皇の息子ではないと思うようになりました。系譜の多くの矛盾を正すには、たった一つ、軸となる「孝昭―孝安」の系譜を断ち切ればすべての問題が簡単に解消できると思います。 参考文献 「本居宣長『古事記伝』を読むV」神野志隆光 講談社選書メチエ 古事記傳(現代語訳)21−5 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP119.html ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |