天武天皇の年齢研究

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 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

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 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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孝霊天皇の年齢 こうれいてんのう

First update 2013/01/31 Last update 2013/02/02

 

                         106歳古事記

己卯BC342孝安51年生〜丙戌BC215孝霊76年128歳日本書紀、本朝後胤紹運録等

癸酉BC348孝安45年生〜丙戌BC215孝霊76年134歳水鏡

丁酉BC324孝安69年生〜丙戌BC215孝霊76年110歳仁寿鏡、神皇正統記、帝王編年記

丁巳237年生     〜壬辰272年崩御     36歳 本稿

 

 

日本書紀

古事記

和風諡号(わふうしごう)

(  )

陵墓(    )

(おお)日本(やまと)根子(ねこ)(ひこ)(ふと)()天皇

黒田の(いほ)()

(かた)(おかの)(うま)(さか)

大倭(おおやまと)根子(ねこ)日子(ひこ)賦斗邇(ふとに)

黒田の(いほ)()

(かた)(おか)(うま)(さか)()

 

年齢根拠

孝霊天皇は欠史八代のなかでも、御子の数が一番多いようです。古事記で8人、日本書紀で6人です。

年齢について古事記は干支も示さず106歳という年齢のみです。

日本書紀は立太子時年齢を示しながら、崩御年齢を示していません。何故なのでしょう。孝安76年26歳で太子とあるのですから、計算上、孝霊76年128歳崩御と計算されます。

これを愚管抄、神皇正統録、皇年代略記、本朝皇胤紹運録が引き継ぎました。

水鏡の134歳はわかりません。日本書紀の記述を正確に引用しています。孝安治世が102年で、その76年26歳で太子、53歳で即位、崩御年が孝霊76年です。にも関わらず、崩御年齢を134歳としています。

110歳説が、仁寿鏡、神皇正統記、如是院年代記、帝王編年記で採用されています。これも、根拠不明です。ただ、仁寿鏡は母の素性を「押姫命」とすべきところを「押姫命」として、水鏡と同じ間違いをしています。水鏡を参考に見ていたことがわかります。記紀の「姪」だとありえないとは言えませんが、現実離れしているので、姪ではなく、姉と考えたくなるのもわかります。この件は孝安天皇の項で再度、検討したいと思います。

 

【日本書紀 孝霊天皇系譜】

孝昭天皇             細媛

  ├―天足彦國押人――押媛    ├――孝元天皇(第一子目)

  |          ├――孝靈天皇

  ├――――――――孝安天皇 

世襲足媛           

 

ところで、神皇正統記は孝霊36年の年に触れ、この年に古代中国周が滅び、秦の始皇帝が即位したことを伝えています。中国では失われた孔子の全経が日本に残っているなどとして中国の書物を証拠に挙げ、「孔子の時代ですら、わが日本のことを知っていたのだから、秦の時代にわが国と通じていたことは怪しむにたりないのではなかろうか」と日本を誇る記事があります。

日本書紀が天皇を長寿にして、歴史を引き延ばした理由もわかるような気がします。

日本書紀のおかげで、つい最近まで、日本は中国にも勝るに劣らない長い歴史を有する国と堂々と国際社会に対峙できたのです。この間違いを正すことは重要なことです。

 

【日本書紀による孝霊天皇年表】

孝安 76年1月 5日、26歳で孝霊が立太子。

孝安102年1月 9日、孝安天皇崩御。

      9月13日、孝安天皇を玉手丘上陵に葬る。

      12月4日、皇太子は黒田に遷都、これを廬戸宮という。

孝霊 1年 1月12日、孝霊天皇即位。母を皇太后とした。この年、太歳辛未。

孝霊36年 1月 1日、孝元を皇太子とする。

孝霊76年 2月 8日、孝霊天皇崩御。

 

【日本書紀】

父  孝安天皇 孝霊天皇は第一子

母  押媛(おしひめ) 孝安天皇の兄、(あま)(たり)(ひこ)(くに)(おし)(ひと)の娘

皇后 細媛(ほそひめ)命 磯城(しきの)(あがた)(ぬし)大目(おおめ)の娘(又は(かす)(がの)()()(はや)(やま)()媛、又は()(した)媛 十市(とおちの)(あがた)(ぬし)等の娘)

   子  孝元天皇

妃  倭國香媛(かひめ)(又名、(はへ)(いろ)()

   子  (やまと)()()()(もも)()姫命

      (ひこ)五十()()(せり)(ひこ)命(又名、吉備津彦命)

      (やまと)()()(わか)()姫命

妃  (はへ)(いろ)()

   子  (ひこ)()(しま)

      (わか)武彦(たけひこ)命 (吉備臣の始祖)

 

【古事記】

娶  (くはし)()()命。十市(とをち)(あがた)(ぬし)の祖、大目の娘。

   生 孝元天皇  〈一柱〉

又娶 春日の()()(はや)()(わか)()()

   生 ()()(はや)()()命。〈一柱〉

又娶 ()()()()()()() ()()()()命。((はえ)()()()の姉)〈四柱〉

   生 ()()()()()()()()()命。

     日子(ひこ)(さし)(かた)(わけ)命。(高志(こし)()(なみ)臣、(とよ)(くに)(くに)(さき)臣、五百(いお)(はら)君、(つぬ)鹿(かの)(あまの)(あたい)の祖)

     比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)命。又の名、(おお)()()()()()命。(吉備上道(かみつみち)臣の祖)

     (やまと)(とび)()()(わか)()比賣。

又娶 (はえ)()()()。(()()()()命の妹)〈二柱〉

   生 ()()(さめ)()命。((はり)()(うし)鹿()臣の祖)

     (わか)日子(ひこ)(たけ)吉備津(きびつ)日子(ひこ)命。(吉備下道(しもつみち)臣。笠臣(かさのおみ)祖。)

        生 播磨(はりまの)稻日(いなびの)大郎姫(おおいらつめ)。(景行天皇皇后)

御子は合わせて8柱(男王5、女王3)

 

【日本書紀】

        磯城縣主大目――細媛    

孝昭天皇             |

  ├―天足彦國押人――押媛   ├――孝元天皇(第一子)

  |         ├――孝靈天皇

  ├―――――――孝安天皇  | ├―――倭迹迹日百襲姫命

世襲足媛            | ├―――吉備津彦命(崇神紀の四道将軍の一人)

                | ├―――倭迹迹稚屋姫

                | 絚某姉

                ├―――彦狹嶋

                ├―――稚武彦(吉備臣の始祖)

               絚某弟

 

【古事記】

春日の千千速眞若比賣

       ├―――――千千速比賣

十市縣主大目―|―細比賣

       |  ├――孝元天皇

       孝霊天皇

        | ├――夜麻登登母母曾毘賣

        | ├――日子刺肩別命

        | ├――大吉備津日子

        | ├――倭飛羽矢若屋比賣

        | 阿禮比賣(蠅伊呂杼の姉)

        ├――日子寤間

        ├――若日子建吉備津日子―――播磨稻日大郎姫(景行天皇皇后)

       蠅伊呂杼(阿禮比賣の妹)

 

年齢推定

日本書紀に孝霊天皇の崩御年齢はありません。ひとつ孝安76年1月5日、26歳で孝霊が太子になった記事があるだけです。よってこれに頼りました。いろいろな考え方がありますが、天皇が太子を立てることは行動記録が何もないので、その時以降に前天皇が崩御され、その翌年が太子の即位年です。そこで、単純に立太子年を前天皇の崩御年としてみました。孝霊の立太子が26歳と遅いからです。

同様に、次期孝元天皇は19歳立太子ですから、その時が孝霊天皇の崩御年となります。

孝元天皇の年齢は推理済みです。

孝霊天皇の第一子が孝元天皇ですから、孝霊天皇18歳時の子供として概要を固めてみました。

また、倭国とはどこを指すか不明ですが、倭国(はえ)(いろ)の姉妹が孝霊天皇に納められたのは、権力を得た即位後と考えることができ、倭迹迹日百襲姫の生年は265年ぐらいと推定できます。崇神天皇誕生は293年と推定済みですから、このままでは+28歳は倭迹迹日百襲姫が年上と設定できるのです。ただし、これは最短の予測にすぎません。前天皇崩御が太子使命の直後という前提で考えているからです。

 

【孝霊天皇と御子の年齢関係図】

200 55555566666666667777777777888888888899999

年   45678901234567890123456789012345678901234

孝安天皇――――――――          

孝霊天皇QRS―――――26―――30―――――36

孝元天皇@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――38

倭迹迹日百襲姫        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――

吉備津彦             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

倭迹迹稚屋姫             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――

彦狹嶋               @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――

稚武彦                 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――

開化天皇                    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―

崇神天皇                                       @―

      孝安在位――→←――孝霊在位――→←――――――孝元在位―――――――→←開化

 

もう一つの四道将軍

吉備津彦命と(わか)武彦(たけひこ)命は、二柱ともども播磨氷河の崎に忌瓮(いわいべ)をすえて神を祭り、播磨の道の口として吉備國を言向けして和したまひき(平定しました)。平和的なものと思われます。但し、古事記では日本書紀のように四道将軍ではなく、吉備平定は書かれていないため三道将軍となり崇神天皇時のことではないように見えます。

しかし、一方で古事記は(はえ)()()()が生んだ(わか)日子(ひこ)(たけ)吉備津(きびつ)日子(ひこ)命が播磨(はりまの)稻日(いなびの)大郎姫(おおいらつめ)(景行天皇皇后)の父といっているので、吉備平定が崇神天皇時のことではないとはいえないのです。この辺の系譜の乱れはものすごい数にのぼるのです。

 

崇神天皇をめぐる壮大な時間が流れる歴史神話をどう解釈するか

                            ┌――豐鍬入姫

      ┌倭迹迹日百襲姫             ├――淳名城入姫命

孝霊天皇―┼―孝元天皇―┬―開化天皇―┬―崇神天皇――┴――垂仁天皇

      |      ├×武埴安彦 |            ├――景行天皇

      |      |      └―彦坐王―丹波道主―日葉酢姫  |

      ├―吉備津彦 └―大彦―――――武渟川別           ├―日本武尊

      └―稚武彦――――――――――――――――――――――――播磨稻日大郎姫

 

このように一瞥して、欠史八代の各代がもっともっと重なっているように思えます。このなかでの年齢設定は単に仮設定にすぎません。孝霊天皇の子供達から崇神天皇の子供や甥の4代にわたる世代が、崇神天皇の伝承に関わっているのです。これだけ、多いと一人一人を正したり、まとめて物語、創作話と片付けるより、天皇系譜だけを一筋、検討するだけで解決する方法もかるのです。

 

 

(やまと)()()()(もも)()姫とは

倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇と倭国()媛((はへ)(いろ)())との間に生まれました。

笠井真也氏によれば、卑弥呼に擬せられた伝承上の女性となります。「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫」『考古学雑誌14−7』1924。笠井真也氏は当時、卑弥呼の墓・箸墓説を唱えた独特の邪馬台国大和説はその真偽は別として特筆すべきものです。

同様に、倭迹迹日百襲姫の地位と巫女的性格から、これを女王卑弥呼とし、崇神天皇を女王の男弟に比定し、箸墓を卑弥呼の(ちょう)とみなす学説があります。上田正昭「大王の世紀」小学館、吉井巌「天皇の系譜と神話」2

また、卑弥呼擬定説には景行天皇の妹、倭姫命(日本武尊に草薙剣を与える)を内藤湖南氏などが唱えており、一定しません。

しかし、日本書紀本来は、卑弥呼は神功皇后に擬しています。

卑弥呼は中国歴史書には西暦240前後に活躍した巫女女王であることが書かれています。

伝承としての物語からは崇神天皇とは同じ世代のことのように見えますが、系譜をたどり崇神崩年干支から積み上げれば、「世代数からすれば明らかに矛盾」すると何方も感じているはずです。

 

倭迹迹日百襲姫の伝承は記紀などすべて、崇神天皇の時代の伝承記事です。

1.崇神天皇が災害の原因を極めるさい、神がかりして三輪山の神である大物主神(地元神)の神託を伝えた。(崇神7年)

「我は倭国の域内に居る神、名は大物主神ぞ」とは一般的には倭を狭義の一部大和地区を指すとして考えられています。広義の倭、すなわち日本全体とは区別します。しかし、ここでは、よそ者排除の言と考えたい。大物主神は狭義の一地区の神などではなく、いわゆる古い日本の大神なのです。この後、日神祭祀は主舞台が伊勢に移り、天皇の国見も天香具山に移り祭祀は大きく変わることになるからです。神懸かりは変わらぬものの、雷神、蛇体の水神としての自然神、タタリ神から天皇自ら神祭りし、皇女を経由して祈るようになるのです。

 

2.武埴安皇子の謀反を予知し、大彦(孝元天皇皇子)に知らせる。(崇神10年)

倭迹迹日百襲姫を筆頭に、日本武尊に草薙刀を授けた倭姫、応神天皇を生んだ神功皇后、清寧天皇の後、天皇になったかもしれぬ飯豊青皇女など、いわゆる巫女王と十把一絡げにするような定義は、あまり好まないのでここではまとめて語りませんが、それぞれに印象強い活躍は個々には語りたいと思っています。

 

3.後に、大物主神の妻となる。

  大物主神の蛇体を見知り、離別され、急居したはずみで陰部に箸が突きささって死ぬ。

【日本書紀 崇神10年】

是後、倭迹迹日百襲姫命、爲大物主~之妻。

然其~常晝不見、而夜來矣。倭迹迹姫命語夫曰、

「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之。

明旦仰、欲覲美麗之威儀。」

大~對曰、「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」

爰倭迹迹姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇。

其長大如衣紐。則驚之叫啼。時大~有耻、忽化人形。

謂其妻曰、「汝、不忍令羞吾。吾還令羞汝。」

仍踐大虚、登于御諸山。

爰倭迹迹姫命仰見、而悔之急居。【急居、此云()()()】則箸撞陰而薨。

 

仍葬於大市。故時人號其墓、謂箸墓也。

是墓者、日也人作、夜也~作。故運大坂山石而造。

則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「この後、(やまと)()()()(もも)()姫命、大物主神の妻となる。

しかれども、その神つねに昼は見えずして、夜のみ(みた)す。(やまと)()()(びめ)命、(せな)に語り曰く、

『君常に昼は見えたまはね、明らかにその()(かお)を見ること得ず。願はくは(しば)し留まりたまえ。

明日に、(あお)ぎて、美麗(うるわ)しき威儀(みすがた)を見たてまつらむと(おも)ふ。』

大神(こた)へて曰く『言理灼然なり。吾、明日に(なんじ)櫛笥(くしげ)に入り居らむ。願はくは吾が形に驚きましそ』

(ここ)に倭迹迹姫命、心の裏に(ひそか)(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、(まこと)美麗(うるわ)しき小蛇あり。

その長さ(ふと)(した)(ひも)のごとし。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。時に大神()ぢて(たちまち)に人の形となりたまふ。

その妻に(かた)りて曰く、『汝、(しの)して吾に(はぢみ)せつ。吾還り汝に(はじみ)せむ。』

より大虚(おおぞら)()みて、御諸山(みもろやま)に登ります。

(ここ)に倭迹迹姫命(あお)ぎ見て、悔いて急居(つきう)。【急居、此を()()()という。】則ち(はし)(ほと)()きて薨ず。

 

()りて大市(おほち)に葬りまつる。故、時人(ときのひと)、その墓を(なづ)けて、箸墓という。

この墓は、(ひる)は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運び造る。

則ち山より墓に(いた)るまでに、(おおみ)(たから)()ぎて()()()(手渡し)にして運ぶ。時人歌して曰はく、

  大坂に 継ぎ登れる (いし)(むら)を ()しに越さば 越しかむかも」

 

この印象的な話はもう少し分析が必要です。

3−1.(やまと)()()()(もも)()姫命と(やまと)()()(びめ)命と二つの名前が登場しています。(やまと)()()()(もも)()姫命は孝霊天皇の皇女であり、(やまと)()()(びめ)命は孝元天皇の皇女です。日本書紀の倭迹迹日百襲姫と古事記の夜麻登登母母曾毘賣が同一人物とわかりますが、なぜ、日本書紀だけは倭迹迹姫を登場させたのでしょう。本居宣長はこの二つの名前は同一人物だが、生まれには二説の別伝があると解釈しました。

「土佐国風土記」逸文所引の「多氏古事紀」にも崇神朝に倭迹迹日百襲姫が大三輪大神の婦になった伝承が見えるといいますが、古事記には、(やまと)()()()(もも)()姫命の話は一切ありません。

「古事記伝」の本居宣長は日本書紀に言及し倭迹迹日百襲姫と大物主神との婚姻関係を丹念に調べて記しています。古事記にはないことで、この趣旨に添えばいいのに、次元が合わないこと無理につじつま合わせようとしているのはどうしたのでしょう。むしろ、日本書紀は日本書紀の次元に立って、何らかの考え方に沿い、倭迹迹日百襲姫の死を崇神天皇時のこととして記したのです。記紀をごっちゃにする必要はないと思います。混乱するだけです。

 

      倭國香媛

        ├――――倭迹迹日百襲姫

 押媛     ├―――――吉備津彦

  ├―――孝靈天皇         伊香色謎

孝安天皇    ├―――孝元天皇     ├――崇神天皇

       細媛     ├―――大彦 |

              ├――――開化天皇

              ├―――――倭迹迹姫 

             欝色謎 

 

3−2.この巫女女王の箸で陰を突いていて死ぬというショッキングな表現には不審が残ります。

「悔いて急居(つきう)」という表現ですが、漢字でも「急に座る」、読みの「つき」は衝(き)と同じで、「う」は座(う)と同じで万葉集にも書かれます。「どすんとすわった」事故死とする岩波版の訳は正しいのでしょうが、夫が去り、嘆き悲しみ「悔いて」いたわけですから、自殺とする意見があるのもうなずけます。

余計なことですが、人は自分の胸や腹を刺せても、自分の陰部を突き刺して死ぬ自殺はあり得ません。物語を注意深く読むと、驚いて腰砕けたところに、箸が突き刺さった事故死となっています。このほうがまともですが、むしろ、ここは、正体がわからないために大物主神と象徴された地元男性に辱めを受け、殺害された他殺と考えたいものです。大物主神は自らこの巫女を辱めると言っているのです。それほど、他国からやってきた天皇王家にとって、地元の神に受け入れられるには、大きな労力と時間を要したと言いたかったのではないでしょうか。

 

3−3.一方、疫病、百姓の流離、反逆の国の乱れを大物主神の子が祈り、世を正します。この子、大田田根子を見つけ、崇神天皇と大物主神の間を取り持つのが日本書紀では倭迹迹日百襲姫です。この大物主神の話は古事記では、別の解釈がされています。()()()()()()(いく)(たま)(より)()()との話になっています。

古事記では、()()()()()()は大物主神が三輪山の神の化身、蛇にとなって活玉依売と結ばれた後の4代末裔としています。

【大田田根子の系譜】()は古事記の記載

     大物主大神

       ├―(櫛御方命)――(飯肩巣見命)――(建甕槌命)――大田田根子命

陶津耳――活玉依姫

 

4.(はし)(ばか)古墳について

一般に倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)命の墓と伝わる古墳です。

全長276mの前方後円墳、後援部径160m、高さ26m

 

【箸墓古墳】奈良県桜井市大字箸中小字茶屋ノ前他



 

Google Mapは写真画像でご覧下さい(なっていなければ、右上「写真」をクリック)

中央上下に伸びる道は山辺道です。北には景行天皇陵や崇神天皇陵があり、右にスクロールすると大きな三輪山が見えてきます。下方は桜井市です。

 

4−1.上記最後にある歌の意味「大坂山に下から上までつづいている石(はなかなか重くて大変だが)、手渡しで渡して行けば、渡せるだろうかなあ。」となります。

 

4−2.天武天皇紀に壬申の乱において、「三輪君高市麻呂・置始連菟、上道に当たりて、箸墓のもとに戦う」とあり、位置的にも間違いないようです。

 

4−3.石を人の手渡しで運ぶという壮大で美しい話は播磨風土記にもあります。

「日下部の里(人の姓によって〔里の〕名とした。)土は中の中である。

立野 立野とよぶわけは、昔、(はに)(しの)()()宿禰が〔大和と出雲とを往き来して〕出雲の国に通うとき日下部の野に宿って、そこで病気にかかって死んだ。その時出雲の国の人がやって来て、多勢の人を立ちならばせて〔手から手に〕運び伝え、〔揖保〕川の礫を上げて、墓の山を作った。だから立野とよぶ。すなわちこの墓屋を名づけて出雲の墓屋といっている。」吉野裕訳 東洋文庫 平凡社

土師氏の始祖は垂仁天皇紀に出てくるこの野見宿禰のことであり、出雲から招かれ、土師氏が大王の古墳を含む多くの古墳を造営に関与しています。人身御供を埴輪に切り合えた切り替えた人物としても有名です。手渡しはよく行われた例なのか、どちらかが引用した可能性も否定できません。

箸墓造営の記録から、箸墓は「土師墓」の意だとする土橋寛氏の見解もあります。

いずれにしろ美しい話です。

 

4−4.奥田尚氏の研究によると葺石の材質は丸みの輝石斑栃(米偏)岩質が多いが板状割石のカンラン石単斜輝石玄武岩の産地は大和から河内に入った「芝山」で採掘されたものと言われています。中に入れないのにと疑問に思ったのですが、近畿地区の古墳用材研究の第一人者といわれています方です。「宮内庁で管理されているため、外部からの観察しか行えない。南側の道路から〜、池の南斜面に〜、」論文を読んでいると歯がゆさが伝わります。この芝山からの石は天理市の下池山古墳や東殿塚古墳などにも運ばれていました。一方、箸墓後円墳にある竪穴式石室の石材は、大阪市柏原の芝山の玄武岩であることが判明し、崇神紀の「大坂山」の石とは「二上山」ではなく「芝山」と考えるべきだといいます。(白石太一郎他「箸墓古墳の再検討」『国立歴史民族博物館研究報告』第三集)から「(3)箸墓古墳の石材の原産地」S59/1

 

4−5.箸墓古墳は当初、円噴だったものが、前方部が後に付け足されたとする説も有力なようです。

このように、確かに、大和の箸墓古墳は美しく考古学的にも魅力的が尽きない古墳です。発掘したいベスト1と言われる魅力的な古墳です。

 

参考文献

内藤湖南「卑彌呼考」『芸文』1-4 1910 『内藤湖南全集第7巻』1970 筑摩書房より閲覧

笠井新也「卑彌呼即ち倭迹迹日百襲姫命」『考古学雑誌』14-7 1924

白石太一郎、杉山晋作、奥田尚他「箸墓古墳の再検討」『国立民族博物館研究報告第3集』1984

山上伊豆母「オホ氏とその伝承−『多氏古事記』をめぐって−」『日本書紀研究5』

 

 

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