天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
孝元天皇の年齢 こうげんてんのう First update 2013/01/16
Last update 2013/01/16 57歳 古事記 BC273孝霊18年生〜BC158孝元57年崩 116歳 日本書紀、如是院記、後胤紹運録 BC274孝霊17年生〜BC158孝元57年崩 117歳 水鏡、仁寿鏡、神皇正統記 等 甲戌254年生 〜 辛亥291年崩 38歳 本稿
【日本書紀が示す孝元天皇略歴】 孝霊36年1月 19歳にして皇太子に立つ。 孝霊76年2月 孝霊天皇崩御 孝元 1年1月14日 孝元天皇即位。この年、太歳丁亥。 孝元 4年3月11日 輕地に遷都。これを境原宮という。 孝元 6年9月 6日 孝霊天皇を片丘馬坂陵に埋葬。 孝元 7年2月 2日 下記系譜記事 孝元22年1月14日 後の開化天皇16歳を皇太子とする。 孝元57年9月 2日 孝元天皇崩御。崩御年齢なし。(太子年齢から116歳と計算される) 【日本書紀 孝元天皇系譜】
【古事記 孝元天皇系譜】合計5人
【日本書紀】
【古事記】
開化天皇では古事記だけが、世代的に異常に見えました。 ここ、孝元天皇では、系譜は日本書紀と古事記は類似しています。それなのに、世代的記述はもっとかけ離れて不自然なのです。 古事記における、孫の子孫と続く記述が異例です。 古事記の系譜は細にして微、魅力的ですが、矛盾だらけになり、しかし、修正されていません。なぜなのでしょう。 疑問1 伊香色謎命 なぜ、伊香色謎命は、孝元天皇と開化天皇に嫁いだのか。古事記との間に相違はありません。 記紀ともに伊香色謎命は孝元天皇とその息子開化天皇の二人嫁ぎ、それぞれから子供を授かります。 孝元天皇からは武内宿禰の祖父(古事記は父)となる彦太忍信命を生み、開化天皇から後の崇神天皇(古事記は妹、御眞津媛の二人)を生みました。 また、日本書紀は物部氏遠祖、大綜麻杵の娘で、皇后欝色謎との関係を認めていませんが、古事記ではこの皇后の兄の娘として叔母、姪の関係として、すべて穂積臣の祖としています。 もし、古事記のように妃、伊香色謎命が欝色雄と父娘の関係にあると下図の年齢表のように、孝元天皇は欝色謎皇后を早くに娶り大彦や開化天皇をつくり、晩年になって、伊香色謎命を娶り、彦太忍信命を作り、崩御され、すぐに息子の開化は妃だった伊香色謎命を皇后に迎え、崇神天皇を生んだことになります。 しかし、これは本当のことなのでしょうか。 どのような年齢関係が考えられるでしょうか。 条件は、孝元天皇3人の后妃に対し、二番目の妃となり1人を生んだこと。もう一つはその後、開化天皇に嫁ぎ、后妃4人の内、2番目に嫁ぎ2人を生んだことです。 つまり、順当に考えれば、孝元天皇が崩御したから開化天皇は孝元妃を娶れたわけです。 これは、孝元天皇崩御が原因である場合です。孝元天皇の晩年に嫁ぎ、子を生んだが、夫が亡くなったためにこれを引き継いだ開化天皇にすぐ嫁ぎ、皇后として3人の子を生んだ。これが一番自然です。 しかし、これを推進した力学はどこにあるのか。広い世界には、女性が次々、兄弟などと婚姻を繰り返す習慣があるところもあると聞きますが、日本書紀内でこのように引き継がれる天皇の例は見られません。しかも兄弟ではなく親子間でのことになるのです。かなり特殊といえます。本稿で知る限りでは、用明天皇の穴穂部間人皇后が用明天皇の崩御後、用明天皇の別の妃が生んだ子、田目皇子と結ばれ佐富女王を生んでいるくらいです。この間人皇后の場合、田目皇子は年齢が若く年が離れていたと思われます。 このような強引な例としては、有能な息子、開化に自分の妃を与えた。実力ある息子、開化が美しい父の妃を奪った、実力ある地元娘なので、孝元天皇から若い息子、開化に乗り換えた等です。ここでは、一番年齢検証しやすい晩年交代説で年齢を決めました。 【日本書紀に描かれた孝元天皇の系譜】
【古事記に描かれた孝元天皇の系譜】
【孝元天皇崩御から見える年齢推理】
つまり、孝元天皇は第一子大彦命を18歳で得、第二子、あるいは第三子となる開化天皇を21歳で得たとします。その後、成長した息子開化天皇は同様に、20歳で第二子後の崇神天皇を得たとします。よって、前年には伊香色謎命は開化天皇に再度嫁いだと考えられますから、このときが孝元天皇の崩御年のはずです。その2年前は孝元天皇の皇子彦太忍信を生んでいます。翌年、孝元天皇は埴安媛に武埴安彦命を生ませています。こうすれば、崇神天皇と彼に謀反する武埴安彦命が同世代人になれるのです。 いわゆる日本書紀に描かれた系譜上の最短の仮説になります。 上記図についての補足 孝元天皇崩御翌年を開化即位年として292年。崩御年が223年とし、開化天皇在位32年間と計算されます。 母皇后を尊び皇太后とした記事が孝元、開化、崇神にあります。むろん、皇太后や天皇、皇后といった位名称は記紀成立当時にあった称号で、崇神天皇時代にはまだありません。年齢上、天皇崩御時、皇后は生きておられたことになります。開化天皇母、欝色謎命71歳以上、崇神天皇母は伊香色謎命は52歳以上になります。どれを取っても長寿になるのです。ここでも開化天皇の存在位置には疑問が残りますが、ここでは一計算上の結果として残します。 孝元天皇 甲戌254年生〜辛亥291年崩 38歳 但し、これはまだ仮決めです。まだ、かなりのダブル部分があると思われるからです。 疑問2 伊香色雄兄妹 伊香色謎命には伊香色雄という弟がいたようです。同名であり崇神紀で「物部連祖、伊香色雄」とあり、旧事紀では、弟としているからです。ただ、大彦同様、崇神記紀で活躍するので、多少年代的に問題を残します。ただ、欝色雄と欝色謎皇后が兄妹なので、伊香色謎と伊香色雄も投影された兄妹として単純に同列にしてしまう記事もあります。記紀ともに、同母兄妹、姉弟すら書いていません。同祖で同名なので、同母でいいとは思いますが、安易に投影された創作系譜として扱うことに抵抗が残ります。 疑問3 四道将軍の一人、伯父大彦と甥崇神天皇の不思議な関係 この二人は、系譜上ではなんとかつじつまは合います。しかし、微妙なズレが気になるのです。 1.崇神天皇の四道将軍の一人として父親の兄である大彦をあごで使ったことになるのです。 まるで、祖父の子供達の反目(腹違いの子供達の争い)を孫の崇神天皇が、親兄弟を争わせ、その後に自らが、収拾し、矛を収めたように見えます。 2.後に崇神天皇は大彦の娘、御間城姫を娶っていますが、父開化天皇は大彦の弟ですし、崇神天皇自身も第二子(記では第三子)です。しかも迎えた御間城姫は最後、三番目の妃になるのです。つまり、大彦にとって御間城姫は熟年時に生まれた少し遅くに入内した娘とも考えられます。 3.記紀ともに孝元天皇の項で、この大彦の娘を紹介していません。日本書紀では垂仁即位前紀で、古事記は崇神記で紹介されているのです。古事記などは孝元記で二人の子の名前をわざわざ挙げながら、もう一人の御真津比売は無視しています。 4.さらに、名前が崇神天皇の名をそのまま使っています。日本書紀は御間城入彦と御間城姫、古事記は御真木入日子と御真津比売。つまり、夫の投影名であり、名前がはっきりわからなかったからと考えられるのです。さらに、母が誰だかわからないのです。御間城入彦皇后の通称にすぎないのです。 すると崇神天皇に捧げられた女性も考えられます。次期、垂仁天皇もやはり四道将軍の丹波彦主の娘4人が納められているのです。日本書紀にはありませんが、御真津比売は崇神天皇の妹も同名で少し気になります。 【日本書紀】 【古事記】
疑問4 倭迹迹姫とは 日本書紀によれば、倭迹迹日百襲姫は孝霊皇女で孫の代、崇神天皇時に薨去した巫女です。なぜ、孝元天皇に倭迹迹姫というあいまいな皇女を登場させたのでしょう。古事記伝の本居宣長は倭迹迹日百襲姫と倭迹迹姫があまりに類似名のために同一とあり、別伝があったと解釈しました。 古事記はどうして、こうもかけ離れた系譜を描いたのでしょう。日本書紀は孝霊天皇の子、倭迹迹日百襲姫の他に孝元天皇の子として倭迹迹姫を登場させました。このように日本書紀は古事記の内容を正誤は別として修正していることがわかります。 倭迹迹日百襲姫を孝霊天皇皇女にはしたくないが、系譜は明らかに孝霊皇女。日本書紀はここでも、開化天皇皇女に倭迹迹姫を登場させ、系譜矛盾を和らげている工作じみたものが見られるのです。 これでも時代が合いません。 それにしても、日本書紀の倭迹迹姫の原文注「一云、天皇母弟、少彦男心命、也。」とはどういう意味なのでしょう。古事記では大毘古の弟で、崇神天皇の時代に活躍する人物です。どれをとっても孝元天皇の孫に相応しいのです。
疑問5 武内宿禰の出自 武内宿禰の出自が、異常です。成務紀の記録に同日生まれとあります。これは同年同日生まれのはずです。少なくとも、成務天皇とは同世代です。なお、古事記が孝元天皇の孫にしているのに対し、日本書紀は孝元天皇の孫の子としています。よって、現実に近い日本書紀の記述に基づいてみます。いずれも一世代以上の開きがあるのです。 本居宣長は古事記伝で詳細な日本書紀の分析をしています。武内宿禰の年齢は、 1.生まれは景行4年から12年の間(景行3年から紀伊に住むこと9年間という記述に基づく) 成務天皇と(同年)同日生まれとすれば、 2.成務即位前紀に、成務天皇は景行46年に24歳で太子とあるから、景行23年生まれ。 3.景行紀には景行51年に立太子とあるから、これを24歳とすると、景行28年生まれ。 4.成務60年崩御時107歳とあるから、景行14年うまれ。 5.武内宿禰の最初の記述は、景行25年「武内宿禰を遣したまひて、北陸及び東方の諸国の地形、且百姓の消息を察しめたまふ」とあるが、景行12年生まれでは若すぎ、景行4年生まれでは、ますます、成務天皇生年とかけ離れてしまう。 6.景行51年に「棟梁之臣」 7.成務3年に大臣。 8.仁徳50年に仁徳天皇の雁の歌に、武内宿禰が答えたとある。 仁徳歌に「うちのあそ」と呼びかけており、義兄弟の味師内の内と同じで、大和国有智郡だといいます。 景行4年より、仁徳50年まで289年、景行12年からなら、281歳となる。 9.続日本紀の慶雲4年4月宣命に「汝の父藤原大臣の仕へ奉らへる状をば、建内宿禰命の仕え奉らへる事と同じ事」 10.天平8年11月条に臣下の忠誠の見本として建内宿禰をあげて「君に事ふるの忠を尽して、人臣の節を致しき」とあります。薨年は不明なので、「命長かりしことは、世に比なくて」 11.愚管抄などは380余歳との例をあげています。 武内宿禰の生年推理は上記1.に示したように、景行天皇4年から12年の間にあります。一方、景行43年に日本武尊が30歳で薨去された記述や成務天皇が107歳で崩御されたことから逆算すると、二人が同年に生まれたという計算結果に行き着きます。 そして、その直前に武内宿禰誕生逸話が記述されているわけです。本居宣長のように長々と詳細な分析も重要ですが、日本書紀は用意周到されたなかで、この三人が同世代を駆け抜けた男達だと描いていることに間違いありません。 【日本書紀が記す武内宿禰誕生年の推理】
本居宣長は日本書紀が年齢的に矛盾だらけだと言いたいらしい。 しかし、古事記が示す孝元天皇の孫では年齢計算する前に一世代以上の差が生じているのです。 いずれにしろ、ここでも、日本書紀は子を孫にすることで古事記の矛盾を解消しようとしているように見えます。だからといって、日本書紀が正しいとはいえない。日本書紀には作図の跡が感じられ、古事記の方が矛盾は大きいけれど素直な表記に見えるのは僕だけでしょうか。しかし、このままでは、日本書紀といえども、孝元天皇の子孫、武内宿禰が成務天皇と同年同日生まれ、少なくとも同世代にはならないのです。 【日本書紀が描く武内宿禰の系譜】
【古事記が描く武内宿禰の系譜】
史書の年齢 孝元天皇の年齢は古事記が57歳、日本書紀の記述はありませんが、丙午孝霊36年に19歳で皇太子になった記事から、116歳と計算されます。これは如是院年代記や本朝後胤紹運録に引き継がれています。 一方、117歳という説もありますが、これは水鏡の計算間違いが後世に引き継がれたようです。水鏡が種本とした、扶桑略記には孝元天皇の年齢は日本書紀と同様に記述され、皇太子年齢19歳のみです。水鏡も立太子年齢19歳と即位年齢60歳を日本書紀に則して記述しながら、年齢を117歳と計算違いで書いたのです。愚管抄も117歳と記述していますが、116歳説があることも書いています。仁寿鏡、神皇正統記、帝王編年記は単純に崩御年を117歳と丸写しです。水鏡は当時のベストセラーで、その影響力は計り知れなかったことがわかります。 欠史八代の意味 系譜と陵墓だけを語り、歴史を持たない天皇なら、思い切って歴史上から抹殺すれば、真実味を帯びてくるはずです。逆に、物語ねつ造のるつぼとさげすまされる記紀だとすれば、なぜ、欠史八代でも簡単な物語を作らなかったのでしょう。物語ねつ造の記紀だとするのなら、欠史八代の物語など簡単なはずです。 本稿では疑問ばかりを提示しました。ある程度の結論の心づもりはありますが、どうも、欠史八代すべてに関わる問題のようですので、すべてを分析したあとに詳細に証拠立てて述べたいと思います。 結論は、崇神天皇は和風諡号のとおり、神武天皇と同じだったと思われます。父、開化天皇と共に大和にやってきた崇神天皇の開いた新たな王朝であった可能性が濃厚です。 これは、大変な事になります。どうも、孝元天皇と開化天皇に系譜上のつながりはないのではないかと疑われるからです。矛盾には原因があるはずです。これだけの矛盾を正すには、周囲の多くの矛盾を一つ一つ正していくより、たった一つの中心を正すことで、すべてを簡単に矛盾が正されることもあるのです。 崇神天皇が関わる四道将軍の系譜矛盾こそ、それを象徴しています。 【四道将軍と関連する人達】
参考文献 「本居宣長『古事記伝』を読むV」神野志隆光 講談社メチエ2012 『古事記傳現』代語訳22-1 http://kumoi1.web.fc2.com/CCP121.html の年齢 てんのう First update 2010/05/04
Last update 2011/02/14 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |