天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
崇神天皇の年齢 すじんてんのう First update 2012/11/01
Last update 2013/08/01 辛卯AC151年生 〜 戊寅AC318年崩 168歳 古事記 壬辰BC149開化 9年生〜 戊申BC 30崇神68年崩120歳 日本書紀、愚管抄、正統記 癸巳BC148開化10年生〜 戊申BC 30崇神68年崩119歳 水鏡、皇年代。皇胤紹運録 辛卯BC150開化 8年生〜 戊申BC 30崇神68年崩121歳 如是院年代記 辛卯AC293年生 〜 辛卯AC331崇神 8年崩 39歳 本稿
御間城姫皇后紹介記事に伴う、珍しい記述法 崇神天皇の皇后、御間城姫は孝元天皇皇子、大彦の娘です。 しかし、御間城姫の子、垂仁天皇が第三子と書かれ、古事記には、他の二人の妃の後に書かれるなど、後宮に入るのは遅かったと思われます。 【日本書紀 崇神天皇元年】
「2月16日、御間城姫を皇后に立てた。これより先、皇后は、 垂仁天皇・彦五十狹茅・國方姫・千千衝倭姫・倭彦命五十日鶴彦を生んだ。」 何度も言っていますが、元年など最初に書かれる后妃の紹介記事はこの年に皇后になったとはかぎりません。これらは全体の后妃一覧になっています。後年皇后になった場合でも、最初の妻子紹介記事に合わせまとめて書かれるケースが多いのです。 その上で「先是」という表現があります。普通、妃の紹介時に使われ、皇后より先に娶られたことがわかる表現です。 ここでは子供の紹介記事より前に書かれています。つまり、皇后になる前に5人の子供達を生んでいたことになります。本稿ではこれを重視しました。古事記の表現から御間城姫は他の二人の妃より後に嫁いでいます。よって、崇神天皇はすべての子供達を作ったあとに即位した天皇と推測されるのです。 【崇神天皇の妻子年齢関係図】
崇神天皇の年齢 年齢考証で気がついたことですが、この崇神天皇は若いと感じさせる記述が多いことです。 特に一説として、はっきり崇神天皇の寿命が短いと書かれています。 【垂仁25年3月一説】
「先皇の崇神天皇は神祀をお祭りなさったが、詳しくこの根源を探らないで、枝葉に走っておられた。 それで(崇神)天皇は命が短かった。」宇治谷孟訳 その他、皇太子就任年齢が19歳で、皇太子と他の天皇と比較して早い。 また、后妃は3人だけで、子供は11人です。 本稿はこれらを重視し、40歳前に崩御され、在位期間も短いと考えました。 崇神天皇崩年問題 日本書紀によれば、崇神天皇の崩年はBC30辛卯年です。あまりに非現実的な数字で、誰も信じていません。本稿では大切な証言の一つと考えています。でもその前に、これまでの考え方の推移をみて置く必要があると思います。これも大切な研究成果の蓄積があるからです。 日本の古代史を年代学的に解明する鍵のひとつに、古事記の崇神天皇崩御の解読にあるとする暗黙の了解があった時期がありました。今でも引きずり続ける課題でもあります。考古学の観点からも、古墳の発生時期では一般に、西嶋定生氏の考え方に代表されるように、3世紀後半から4世紀初期に求められるということです。 学術的には古事記の記述が基本にありました。古事記によれば戊寅年崩御です。この「戊寅」の解釈が問題です。干支は60年で一巡します。「古事記伝」で本居宣長はBC43年として、明治以前までの通説でした。日本書紀の記述に影響を受けたものです。 明治以降、大局的に分類して258年説と318年説が登場します。 菅政友が258年としました。「古事記年紀考」と言われるもので、景行天皇と息子、日本武尊などの年齢関係から、崇神天皇崩御を318年とすると、崇神と成務間が37年で近すぎると考え、さらに60年遡り258年としたものです。確かに、本稿の年齢推敲もこれに行き着き、37年間では無理だと気がつきました。 那珂道世は「上世紀年考」で、初代神武天皇の年齢まで遡り、論理的に同様の97年前の258年を割り出しました。 末松保和は「古事記崩年干支考」と言われます。あらゆる歴代天皇の平均在位年数を調べると、11年から14年の間になります。崇神と成務3代間37年は平均12年弱で一番近いことから、やはり、318年が正しいとしたものです。 当時、318年を是認するとすれば、崇神天皇は女王卑弥呼以降の存在となり、3世紀当時、近畿大和地方の実情が歴史学的には皆目不明となり、大和朝廷が実在していたか、どうかさえ疑わしくなっていまいます。なかなか受け入れがたい説でした。 本稿は当初から318年説に近い考え方をもっていました。ただ、菅政友氏の言うように記紀の記録から37年に垂仁、景行、成務3代を詰め込むにはむりがあるのです。結局、基準は古事記ではなく、いままで採用してきた、日本書紀の干支、辛卯年崩御を採用して話を進めることにしました。日本書紀は辛卯331年崩御、同時に、その前、開化天皇崩御は同様に癸未323年で翌年、甲申324崇神元年となり、在位期間は8年間と考えられるのです。 【古代天皇崩御年研究の推移】
さらに年齢にこだわれば、日本書紀には、前紀開化天皇28年に19歳で皇太子となり、崇神在位68年で崩御、年120歳とあります。しかし、開化天皇紀には19歳とあるのです。120歳として逆算すると計算上20歳にしなければなりません。 なぜ、間違ったのでしょう。煩わしい間違いですが、以下にまとめてみました。 【日本書紀の崇神垂仁年齢表記】
垂仁誕生年でも同様の間違いがありました。このことは垂仁天皇の項でも述べましたが、日本書紀編纂の年号計算に西暦の利用していた形跡があります。 簡単に繰り返しますと、 まず、この頃の天皇在位は西暦表示だと10単位でくくられていることです。 垂仁崩御は垂仁100年と切りのいい数字になるはずでした。ところが、西暦使用の弱点で紀元前から紀元に切り替わる時点で一年の誤差が生じます。垂仁在位中、計算上この0年に遭遇し、干支を適用した際に100年が垂仁在位は99年になったと思われるのです。しかし、崇神天皇や開化天皇の年齢表記での修正はなされませんでした。その結果、垂仁の誕生年は1年ずれたままとなり、崇神天皇でも120歳というわかりやすい年齢に設定されましたが、太子就任年齢を同様に1歳間違ったまま記述されたのです。 宗教闘争 崇神5年に大飢饉、疫病が大和を襲います。疫病が蔓延し、民の半分以上が死んだとあります。結果、百姓が流離し、反乱一揆の勃発です。国は治まっていなかったのです。 その対応は、祈りしかなかったようですが、徹底していました。あらゆる神、八十萬神が対象です。ただ、その中でも、崇神天皇が重要と考えたのは天照大神と倭大国魂の二神で、重点的にあがめ奉ります。しかも、一緒に祈るのは失礼だとして、天照大神には娘の一人豐鍬入姫、倭大国魂には淳名城入姫命に託しています。結果的には、豐鍬入姫は、天照大神を倭磯堅邑(場所不明)で祭ることができましたが、淳名城入姫は倭大国魂を祭ることができません。やせ衰え、髪が落ちたとあります。これを倭迹迹日百襲姫が救います。 【崇神天皇の3巫女】
豐鍬入姫の父は元、木国(紀伊)の出身です。兄、豐城入彦は崇神天皇の長男です。皇位は三男の垂仁が相続しましたが、東国一切を任されています。その豐鍬入姫が祭った天照大神とは天皇家の新しい神です。 淳名城入姫は尾張の娘です。後の景行皇后、八坂入媛は兄八坂入彦の娘です。倭大国魂とはすなわち大国主神ですが、出雲というより地元の神を指していると思います。衰弱したということは地元神に受けいれられなかったことを示しています。 この二人の巫女は崇神天皇の皇女です。上記の年齢でも15歳前後と若いはずです。 倭迹迹日百襲姫は三輪山の主、大物主神の妻となり身を捧げた巫女です。 いわゆる、地元神の大物主神は、倭大国魂神であり、大国主神です。崇神天皇は三輪山の麓にはじめて進出しましたが、倭迹迹日百襲姫によって、やっと、地元の倭大国魂神を祭ることができたのです。 崇神天皇はこうして地元にも受け入れられたのです。ただ、後年には大物主神は去り、倭迹迹日百襲姫も陰(ほと)を突き刺され辱めを受け、急死しています。後に、崇神天皇は神の扱いが粗雑で短命であったと次の垂仁紀で批判されています。 こうして崇神天皇は、神々を祀り、災害も治まったとして、次の段取り、四道将軍、すなわち軍隊を地方の出立させるのです。 なお、この倭迹迹日百襲姫は同時代の巫女ではありません。孝霊天皇の娘です。崇神天皇の祖父、孝元天皇の義妹にあたります。時代が違います。あとでまとめますが、次々にこうした事例が頻発に起こる現象はこの崇神天皇の項では際立っているのです。 【崇神天皇に関わる巫女達】
崇神天皇と四道将軍 井上光貞氏は「崇神以下三代について伝わる旧辞物語をみると、それは倭を中心に、せいぜい畿内を支配する程度の政権を樹立したにすぎない」と言われました。 その通りで、以下に占める四道将軍の地は日本書紀では北陸、東海、西道と漠然としており、具体的な地は丹波だけです。しかも、古事記には吉備津彦の西道の記録はありません。日本書紀が「四方を征する」という言葉に基づき、無理に四方を創作したのかもしれません。 さらに、時間軸が違い、そのまま読むと、いろいろな時代(孝霊、孝元、開化、崇神)をこの崇神天皇でまとめたような記述になっています。このことは崇神、垂仁、景行の三代は一つの日本統一という流れを見せつけています。崇神で四方に部隊を出発させ、垂仁で広い情報収集、景行で自ら日本武尊とともに九州、東海地区の重要拠点をほぼ、踏破した仕組みになっています。むろん、完全な征圧、日本統一かどうかは別問題です。 よくいわれることですが、記紀に描かれた数多の天皇のなかでも、崇神天皇は実在した天皇と言われています。日本武尊や神功皇后は文学、物語、神話的なおとぎ話とされ、事実から遠ざけられます。 当時の記録はほとんどが伝承であり、真実と空想の区別は安易にできないと思います。ふるいにかけるのなら、その目の粗さはどういう基準にしたかをもっと厳密に規定すべきです。というより、それは不可能です。おとぎ話もいろいろな視点から観察すると真実が見えてきます。むしろ、おとぎ話を注視するほどに、そこにはそぎ落とされた、シビアな現実が見えることさえあるのです。日本武尊は懸命に生死をかけ働き、30歳で病没した一武将であるだけかもしれません。神功皇后も息子のためだけに生き抜いた女なのかもしれません。聖徳太子も天皇になれなかった一皇子にすぎないかもしれないのです。個人がどう輝くのかは時代が何を求めていかたに依存します。記録のほとんどは天皇、皇子の記述ばかりですが、伝承という一般民衆の目を通して増幅され、もしくは無視された記憶の積み重ねです。美しい記憶の数々が、天皇の話に置き換わり表現されていると思うのです。 四道将軍の行動範囲
「9月9日、大彦命を北陸に、武渟川別を東海に、吉備津彦を西道、丹波道主命を丹波に遣わされた。 詔りして『もし教えに従わない者があれば兵を以て討て』といわれた。それぞれ印綬を授かって将軍となった。」 有名な全国への派兵命令です。はっきり、従わない者は殺せと命令したものです。大和軍事国家宣言です。琵琶湖の北東と北西、そして東と西への派兵です。ここに南がありません。 ところが、崇神天皇がまず、命令を下したのは、叔父、武埴安彦への討伐命令でした。 武埴安彦の謀反は伯父、大彦が倭迹迹日百襲姫に占った結果、発覚したものです。 埴安彦は北の山背から、妻の吾田媛らの軍隊は東の河内と二方面から襲ってきたのです。大きな勢力であることがわかります。つまりは、国内すら統一できていない状態です。 この武埴安彦とはどんな人物なのでしょう。彼は孝安天皇と河内の青玉繋の娘、埴安媛から生まれ、妻も河内の娘です。河内が勢力地区であることがわかります。主力部隊は伯父の大彦とその息子、武渟川別です。大彦は父開化天皇の実兄であり、東海を任された武渟川別は大彦の息子です。つまり、崇神天皇は、叔父の武埴安彦を殺すためにもう一人の伯父大彦親子に依頼したのです。 武渟川別は後に東国を任されていますが、別件で崇神は長男豊城入彦にも東国を任せています。二人とも東国での武勇は聞こえてきません。 もしかしたら、父兄弟の喧嘩だったのでしょうか。天皇になった崇神天皇にはこのとき父はいません。つまり、父の兄弟達をけしかけ、殺し合わせた事になります。 吉備津彦は孝霊天皇の皇子です。祖父の弟になります。 日本書紀の吉備津彦の戦闘方法は正面衝突ではありません。「遮」という表現です。事例を調べましたが、横からかすめ取る、待ち伏せる、といった戦略だったようです。地理的にも、吉備は河内の後方ですから、大和に向かう河内の軍勢を後ろから襲ったイメージが想像されます。 【日本書紀における「遮」の使用例】
「●崇神10年〜時に(崇神天皇)は吉備津彦命を遣わして、吾田媛軍を討たせた。大坂で迎えて(?)大いに破った。吾田媛を殺して、その軍卒をことごとく斬った。 ●垂仁2年〜赤絹百匹を持たせて任那王に贈られた。ところが新羅人が途中これを奪った。 ●景行40年〜山に邪~、野には姦鬼がいて、往来もふさがれ、多の人が苦しむ。 ●允恭5年〜途中密かに待ち受けて、道で殺した。」宇治谷孟訳 正々堂々と戦ったとは言い難い表現なのです。 吉備津彦らが播磨に入ったときの状況が古事記にあります。 【古事記、孝霊天皇】
「大吉備津日子命と若建吉備津日子命とは、二柱ともどもに播磨氷河の崎に忌瓮をすえて神を祭り、播磨を入口として吉備國を平定なさった。」次田真幸訳の訳です。現代語に訳されると「和した」が「平定」に変わるのです。これが孝霊天皇のとき、二人で吉備国を征圧したときの表現です。 「言向け和す(ことむけやわす)」ですから、平和協定といえそうです。「平定した」という訳はおかしい。吉備国は大和国にはすこぶる強国であったことがわかります。その結果、吉備に入っていた吉備津彦らは背後から崇神天皇に力を貸していたとなるのです。 【四道将軍と関連する人達】
それだけではありません。以下もどう考えればいいのでしょう。この件は、景行天皇の項でも述べました。 ただ、日本書紀の稚武彦は古事記では「若日子建吉備津日子」ですが、播磨稻日大郎姫の父は「吉備臣等祖、若建吉備津日子」と微妙に違うことから別人かもしれません。 【日本武尊の母の系譜】
さらに、丹波道主も問題です。開化天皇の孫で日子坐王の子になります。ただ、古事記の日子坐王の系図はあらゆる有名人に結びつくため、作られたと考えました。 こう考えると、丹波道主も丹波に攻め入った崇神天皇の将軍の一人にすぎず、丹波道主の娘達ではない可能性があります。丹波遠征で得た姫5人を大和に送り、崇神の息子垂仁天皇に捧げたとも考えられるのです。逆に、旧来丹波氏族の道主が崇神天皇の圧力に屈し、娘5人を崇神に差し出したとも考えられます。 いずれにしろ、崇神天皇は年齢研究からは同世代の丹波道主、建沼川別と父の代の伯父大彦に命じて叔父、武埴安彦を殺したことになります。このように四将軍の人間関係は複雑で歪です。 系図をそのまま信じると、崇神天皇は父、祖父の代を含む3代の力を結集したすごい天皇ということになります。というより、系図がばたばたなのです。前から感じていたことですが、時間軸がばらばらなのです。 最初は、いろんな事象を崇神天皇に集中させたのではないかと考えました。そうすることで、崇神天皇以前の欠史8代を何らかの理由により、系譜のみを載せることで、崇神天皇を強調し、大きく見せる効果が出せます。しかし、これだけ多くの時間のずれが発覚すると説明しきれません。 むしろ、四道将軍は記述通り崇神天皇が起こしたのではないかとも考えられます。すると、この時間のずれをどう判断すればいいのでしょう。 だんだんと欠史8代を系譜のみ描いた直接の原因が見えてきました。 ここまでは、崇神天皇までは、系譜は正しいとして話をまとめます。 系譜を重視し、四道将軍の行動は開化天皇から崇神天皇の在位期間中にあった、何世代にわたる長期的な戦闘とも考えられます。しかし、そうなら、なぜ、武埴靖彦の謀反を孝元天皇か開化天皇の時点で語らなかったのでしょう。それを何らかの意図に基づき日本書紀編者は崇神天皇に集約して記載したと考えました。開化天皇以前の8代の天皇を一章に括ってみせたものとします。 倭迹迹日百襲姫の話は孝元、開化の頃の話、吉備津彦の河内侵略も同じ頃、大彦の武埴安彦の征伐は開化頃の話、その息子、建沼河別の東方遠征は崇神天皇の息子、豐城入彦命と重複であり、丹波道主の丹波征服は崇神崩御前後の話であり、その成果としての日葉酢姫ら5姫を垂仁天皇の後宮に納めた「喚丹波五女、納於掖庭」と続いたと思います。 もし、この四道将軍の話の時間軸を同じとするならば、違った解釈が必要になります。それは別途開化天皇(欠史八代)でまとめます。系譜の操作が必要になるからです。 かぐや姫 垂仁天皇の妃の一人と古事記が位置づけた迦具夜比売(かぐや姫)です。物語と結びつけた古事記同様に本稿でも、どこまでも、古事記の記述を本当だとして追求していくと面白い事実が見えてきます。
かぐや姫は開化天皇の曽孫です。それに比べ、娶った垂仁天皇は開化天皇の孫で1世代ずれています。しかし、かぐや姫の系図が長子子孫と考えられるのに対し、崇神天皇は次男で、垂仁天皇も3男なので、年齢関係も緩和され、13歳ぐらいの差ではなかったかと推測でします。 かぐや姫の物語は、お爺さんが竹藪で見つけた娘ですから、木津川流域にある筒城村伝承地に住むこの大筒木垂根王の娘、かぐや姫はもっと若いと思われます。年の差や子供がいることも奇異に見えますが、お爺さんである大筒木垂根王の落ちぶれようはどうでしょう。飛ぶ鳥の崇神天皇の勢いの中、その兄の子大筒木垂根王にとって、叔父もしくは甥の垂仁天皇にも見放されていたようです。 稲荷山鉄剣に描かれた系図(2012/04/12追記)
さきたま古墳群のうち稲荷山古墳から発見された鉄剣に描かれた文字は最近の大発見です。ワカタケルと読める雄略天皇にこの剣の持ち主らしいヲワケが仕えたと書かれていたからです。そこにある系図の最初はオオヒコとよめ、孝元天皇の長男、大彦に違いないともいわれています。 長い系図で寿命の長短や系図の信憑性からあまり問題にされませんが、世代的に合わないのです。 この欠史八代など、むしろ天皇系譜に問題があるのではないかと疑っています。 御間城と任那 「みまな」は普通「みま」+「な」となり、「な」は国を指します。語源は古朝鮮に由来するといいます。 日本書紀の崇神天皇の項で任那が紹介されています。任那と関連する記述が多いことから、崇神天皇は朝鮮から来たともいわれる天皇です。 日本書紀が主張する任那の起源 日本書紀における任那の最初の記述です。 【崇神天皇65年秋7月】
「任那国がソナカシチを遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること2000余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。」宇治谷孟訳 垂仁天皇の項で、ある説として、大加羅の王子、阿羅斯等が日本に来たとき、まず、穴門(山口県)で日本の王と名のる伊都都比古に会ったとあります。さらに出雲国を通り、最後、大和国に入ったというものです。この年、崇神天皇が崩御されたとあります。3年後、祖国に帰る許可を得、戻るのですが、御間城(崇神天皇)の名を賜り国名にするよう示唆され、赤織の絹を賜り、戻ったといいます。結局、赤絹は新羅軍に奪われ、これが争いの始まりとされています。 ここではいろいろ重要な事実を日本書紀自身が語っています。 まず、任那は朝鮮加羅国と、はっきりいっています。 位置も明快で、筑紫国を北に海を渡り、筑紫の約2000里先、筑紫は新羅の西南にあたります。新羅を「鶏林」と書き、距離を示すなど、大陸の資料によるものと思われます。 穴門(山口県)に大和国とは別の王国が存在し、さらに、九州筑紫国が別に日本内で並立していたことを示しています。崇神天皇の晩年には穴門以西などがまだ大和の支配を受けていなかったことを物語る伝承といえます。 また、任那は加羅のことであり、少なくとも近畿大和王朝のものではありません。ましてや血族的な宮家としてのつながりもないのです。 任那は御間城入彦=崇神天皇の御名に与えたような文章になっています。そうした、地名、名称が天皇に由来する記事は有り余るほど書かれていますから、本来は古朝鮮語で、それが日本語化されたものと考えます。加羅国は逆に中国からの呼称でしょう。「任那(みまな)」の文字は倭側で名付けられた当て字でしょう。とてもこの漢字を「みまな」とは読めません。日本語独特の当時の外来語の漢字の当て字です。百済(くだら)、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)と皆同じです。本来「みまな」は加羅国住民が一般に使っていたのでしょう。現代流にいえば、ニッポンとジャパンです。日本人はジャパンと呼称しますが、諸外国はジャパンです。中国は加羅と呼称しました。加羅国上層部はこれを「大加羅」と胸を張って見せたのです。倭も大倭などと言ったりしています。大和側はこの朝鮮の加羅国を本来の任那と呼称するとはっきり宣言しているのです。実際はすでに日本側通称として任那がまかり通っていたと想像します。 以下に、有名な説を2つ確認しますが、ここでは忠実に日本書紀の記述を尊重します。 日本書紀の記述をはっきり理解し、これらを基本に任那問題を別に語ることにします。 今はまともに信じる人は少なくなりましたが、江上波夫氏と水野祐氏の大陸からの侵略説を無視するわけにはいきません。現在も形を変え生き続けています。大陸からの流入説の真偽はともかく、重要な日本古代史初代の定説だったからです。 騎馬民族日本征服論−江上波夫氏 「四世紀のはじめ、崇神天皇を中心とする騎馬民族は、九州の地に上陸した。そして一世紀たらずのおち、四世紀末ないし五世紀のはじめに、強大な王権を畿内に確立したのであろう。しかもそのあいだに、南朝鮮任那地方における彼らの旧勢力は随時衰微し、新羅の勃興と高句麗の南下によって任那国はつねに圧迫される形となり、四世紀の後半には、天皇氏らは早くも任那への外征の軍をおこしてその旧勢力を回復したのである、かくて、一方において南朝鮮への進攻、他方において国土統一を成しとげた一応の安定期が、あの強大な古墳で知られる応神朝であった。応神王朝には南朝鮮から多数の人びとが帰化したが、それは蒙古人が色目人を、満州人が重用したのにひとしく、征服王朝がおのれの種族を利用して被征服民にたいする支配力を強化しようとしたことにほかならない」江上波夫『騎馬民族国家』 この説が発表されたのは1948昭和23年5月といいますから、戦後間もない頃です。座談会で、北方アジアの考古学にくわしい東京大学の江上波夫氏が、座談会の席上、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表されたのが始まりです。 4,5世紀の頃、北方系の騎馬民族が次々と南下したという事実、北シナにおいては、五胡における十六国の建国、朝鮮においてはツングース系の騎馬民族の高句麗から別れ南下し、ツングース系扶余族の百済王朝を建国、当然、日本にもその流れは止まらなかったといいます。 考古学的にも三韓時代に入ると北方系文化としての性質が百済でも新羅でも濃くなります。日本でも、4,5世紀を境にして、にわかに金や銀でできた冠、耳飾りや馬具、騎馬戦用の細身の鏃件、帯金具など、古墳文化が大陸的、騎馬民族的な性質をもち、前期古墳といちじるしく異なるのです。 また、文献的証拠としては崇神天皇が御真木入日子という名をあげ、任那の語幹はミマ、ナは土地であり、一方、ミマキのキは城の意味で全体として「任那の王」という意味になるといいます。 これに対し、学会のみならず、ジャーナリズムにも話題をまき起こり、東洋史家、考古学者、言語学者らにより、あらゆる角度から批判的な検討がなされました。この有名な騎馬民族渡来説は、現在でもある意味、変化しながら、いろいろな渡来説が唱えられ、こうした傾向は今も続いています。 しかし、一方で、現在こうした自由な議論がなくなりました。自由がないのではなく、議論がなくなり言いたい放題です。専門家が口出しをしなくなり、各分野でも縦割りで横への批判が少なくなりました。最近では考古学発掘が活発になり、一方で歴史学者は次から次に出土される発見を恐れ、自らの自由な特に突飛な発想など控えるようになったように見えます。安易に仮説を提示して、覆るのが怖いのです。 一番自由なのは頂点にたつ高名な歴史学者なのかもしれません。先日見た額田王と鏡女王が同一人物だとする説などは僕もビックリしました。 三王朝交代説−水野祐氏 江上波夫氏の騎馬民族説の出たあと、1954昭和29年に発表されました。早稲田大学の水野祐氏で、古代王朝が血統の異なる三王朝に交替していったというものです。 崇神王朝、応神・仁徳王朝、継体王朝に分けられたこれらの王朝は、和風諡号で「イリ」「タリ」「ワケ」など特徴的な違いがあること、宮、陵墓の位置が、三輪、河内、近江に分類され、応神天皇の出生や継体の出自が曖昧であることなどあらゆる角度から検証されました。例えば「ワケ」は分派、傍流を皇朝の嫡流から識別する政治的意識を強調しています。 崇神天皇が実際の国家統一者であり、神武天皇ではなく起源を古く見せるため欠史八代の系譜など造作された可能性が高いとしました。 応神天皇はもともと北九州の豪族で、大和政権を簒奪しました。 継体天皇も近江か越前の豪族で、皇位を簒奪したと記しました。 特徴的なものとしては、邪馬台国論に及び、北九州は南九州の狗奴国に席捲され、そんな狗奴国もさかのぼればツングース族で九州に侵入した部族で、言葉も朝鮮古語と関係深いといいます。 (水野祐『増補日本古代王朝史論序説』) 江波氏の学説も同じですが、大きな主題のせいか、批判されていくなかで、補強され続けていくことになり、元の実態を探り要約する作業は、正直、本稿では荷が重いものです。 しかし、この二氏によって、それだけ大きな反響と影響が広く及んだことは間違いありません。万世一系を否定し、現天皇は大まかな意味で神武ではなく継体系子孫、となるなど、今もいろいろな方が普通に使われています。 任那國、遣蘇那曷叱知(追記 2013/4/26) 少し、異説を述べたい。以下の記述があります。 崇神65年 7月 任那の蘇那曷叱知が来日 崇神68年12月5日 崇神天皇崩御 垂仁 1年 1月2日 垂仁天皇即位 垂仁 2年 蘇那曷叱知が任那に帰国 垂仁 3年 3月 新羅から王子の天日槍が来日 垂仁天皇は任那の蘇那曷叱知が帰国するさい、父、崇神天皇の御名、御間城をとって、任那と国名にするよう授けたといいます。普通、名前を授ける行為は、自分の功名を与えることです。そのよい例が、日本武尊です。殺した敵からタケルの名前を譲り受けたのです。これと同様なら、実は崇神天皇は任那のこの男に殺され、沢山の戦利品と御間城の名前を手に入れ、任那に凱旋帰国したのかもしれません。 翌年、今度は新羅の王子と名のるものが来日しました。倭国側は淡路島の地を与えたとありますが、満足しなかったようです。結局、自ら但馬国の選び、住み着いた、とも考えることができます。 この頃、大和の地は国内(特に九州)に限らず、大陸からもいろいろな人がやって来ていたということです。 参考文献 江上波夫『騎馬民族国家―日本古代史へのアプローチ』中公新書 水野祐『増訂日本古代王朝史論序説』小宮山書店 井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中公文庫 市村其三郎「崇神天皇崩年戊寅考」『東洋大学紀要13号』東洋大学学術研究会1959.05 佃收「崇神天皇と扶餘」『古代文化を考える48号』2005冬 東アジア古代文化を考える会 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |