天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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任那 みまな―崇神から欽明へ― 

First update 2012/012/16 Last update 2012/12/16

 

任那(みまな)御間(みま)()

「みまな」は一般に「みま」+「な」と別けられ、「みま」は「主」、「な」は「地」を指します。語源は古朝鮮語で日本訛が入ったものと言われます。

私的想像ですが、日本語の「みんな」はここから来ていると思っています。

一方、崇神天皇の和風諡号は御間城(みまき)(いり)(ひこ)五十()()()天皇です。古事記は御真木入日子印恵命ですから同音と考えていいようです。任那が御間とミマで同音のため、問題視されています。日本書紀の崇神天皇の項で始めて任那が紹介されたように、任那と関連する記述も多く、崇神天皇は古朝鮮から渡ってきた渡来人と急性な結論を示す文書を見かけます。この件は話が大きすぎるため保留し、ここでは「任那」に焦点を絞り、この正体を探ります。

 

御間城(みまき)のキは新羅(しらぎ)のキと同音です。新羅は百済から見れば新しい国の意味で、こう名付けられたと考えられます。新羅を書き記している「三国史記」は、大和朝廷を表す日本書紀と同様、新羅が長い歴史を持つ国と描かれています。新羅は最終的に他の二国(百済、高句麗)を統一する国だからです。しかし、客観的に見ても、例えば中国史書でもその名が登場するのは遅く「梁書新羅伝」ではじめて設けられました。

梁国は502年〜557年の中国南朝時代の国です。そこには、「新羅は小国ゆえ、みずから(中国に)使者を派遣して礼物を貢献することができないでいたが、521普通2年新羅王の募秦(法興王、諱は原宗)が初めて使者を出した。使者は百済(の使い)に随って(入朝し)、方物(土地の産物)を献上した」とあります。「東アジア民族史1正史東夷伝」井上秀雄他訳注 東洋文庫。

この521年は継体15年に当たります。この頃から急激に勢力を拡大した国なのです。そして、任那と衝突しだすのもこの頃です。新羅の大きな繁栄は、一方で任那滅亡(532年もしくは562年)と密接につながるのです。

御間城入彦のイリ(入)は崇神、垂仁、景行に共通する和風諡号で、タラシ系と共存しないと日本書紀岩波版注にあります。

五十()()()は後に()()()と書かれ、崇神天皇を指しますから、これが本来の名前のようです。ちなみに五十はイと読ませ、斎とか多数の意味と言われます。

 

日本書紀が主張する任那の起源

日本書紀における崇神天皇の晩年に任那の最初の記述があります。

 

【崇神天皇65年秋7月】

任那國、遣()()()(しつ)()、令朝貢也。任那者、去筑紫國、二千餘里。北阻海、以在鷄林之西南。

「任那国がソナカシチを遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること2000余里。北のかた海を隔てて鶏林(新羅)の西南にある。」宇治谷孟訳

 

さらに、長文なので原文は省略しますが、要約します。

垂仁天皇2年になって、この()()()(しつ)()は国に帰ったとあります。ある説として、大加羅の王子、()()()()(名前が違うが同等と考える)が日本に来たとき、まず、穴門(山口県)で日本の王と名のる伊都都比古(いつつひこ)に会ったとあります。さらに出雲国を通り、最後、大和国に入ったというものです。この年、崇神天皇が崩御されました。3年後、祖国に戻るのですが、()()()(崇神天皇)の名を賜り、国名にするよう示唆されたといいます。赤織の絹を賜り、戻ったようです。結局、その赤絹は新羅軍に奪われ、これが任那(大加羅)と新羅の争いが始まったと書かれています。

 

ここではいろいろ重要な事実を日本書紀自身が語っています。

まず、任那は朝鮮半島の南に位置する加羅のことであり、少なくとも近畿大和王朝のものではありません。距離を示し、新羅のことを鶏林と表現するなど、中国史書に基づく引用記事だとわかります。

「朝貢」や「賜る」という上下関係を示す言葉が使われていますが、これは大和朝廷の長が一個人に対して使ったもので、国対国の外交関係としては対等と考えるべきです。むしろ、大和国王は大加羅のこの男に対し、最恵国待遇的な扱いで気を使っているように見えます。

加羅国の王子と称するものの証言から、穴門(山口県)に大和国とは別の王国が存在し、別に九州筑紫国が日本内で並立していたことがわかります。崇神天皇の晩年には穴門以西は、まだ大和の支配を受けていなかったことを物語る伝承といえます。ましてや朝鮮半島はさらに遠いのです。

任那(みまな)()()()(いり)(ひこ)=崇神天皇の御名の一部を与えたような文章になっています。そうした、地名、名称が天皇に由来する伝承記事は有り余るほど日本書紀には書かれています。しかも、本来任那は古朝鮮語で、それが日本語化され使われていたものと考えます。「任那」の漢字を「みまな」と単純に日本語では読めません。これは半島南部、百済(くだら)、新羅(しらぎ)の発音と類似するものです。現在では古朝鮮地元での正確な発音はわかりませんが、本来「みまな」は加羅地域住民が一般に使っていたものではないでしょうか。交易の地として、人との往来を感じる表現です。

逆に、「加羅国」という言い方は中国が認めた呼称でしょう。現代日本に置き換えれば、ニッポンとジャパンです。大和朝廷は任那と地元での通称を尊重しましたが、中国は加羅と呼称しました。後に加羅国上層部はこれを「大加羅」と胸を張って見せたのです。倭も「大倭」などと言ったりしています。

 

任那滅亡の最後の記録

 

【日本書紀 562欽明23年】

廿三年春正月、新羅、打滅任那官家。

【一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國・古嗟國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國。合十國。】

23年春正月、新羅、任那の官家を打と滅しつ。

【一本に云く、21年、任那滅という。總ては任那と言別ては加羅國・安羅國・斯二岐國・多羅國・卒麻國。古嗟國・子他國・散半下國・乞飡國・稔禮國と言ふ。合せて十國なり。】

任那が滅んだときの日本書紀の記録です。

滅亡の経緯は順をおって記しますが、ここで重要なことは、任那とは加羅国など10国の総称だと日本書紀自身が語っていることです。任那という10国の地域全体を示す地域名称なのです。

官家の問題もありますが、まず、本文の「總言〜、別言〜」の表現です。

和文は「(すべ)ては〜と言い、別ては〜と言ふ」と読み下しました。全体を任那とよび、加羅国、安羅国など細かく別けています。しかし、任那とはそれほど大きな範囲を示していないと思います。それは詳細の10国の名称から、村落ごとに書かれた記述に見えるからです。ここでも書かれているように、任那とは加羅國・安羅(あら)國・斯二岐(しにき)國・多羅(たら)國・卒麻(そつま)國・古嗟(こさ)國・子他(した)國・(さん)半下(はんげ)國・(こつさん)國・稔禮(にむれ)國という10国の総称です。

崇神天皇の頃、遠い大和朝廷にとって任那は加羅一国と大まかに認定しましたが、欽明の頃までには詳細に理解され、10カ国の一つが加羅になっていたということです。

 

日本書紀では、任那は217回、加羅は37回記述されています。この加羅の使用事例をみると、垂仁の任那由来記事の2件と神功皇后摂政時の朝鮮史書の引用記事6件、応神天皇で葛城襲津彦の朝鮮での逸話3件です。後は継体21年以降ですが、あくまで朝鮮国内記事のものです。

 

古朝鮮歴史書からも確認します。

【三国遺事巻一 五伽耶の条】

阿羅伽耶・古寧伽耶・大伽耶・星山伽耶・小伽耶。又、本朝史略云、太祖天福五年庚子、改五伽耶名、一金官・二古寧・三非火・餘二阿羅・星山。

伽耶(かや)とは「阿羅伽耶・古寧伽耶・大伽耶・星山伽耶・小伽耶である。『本朝史略』には、太の天福五年庚子(940年)、五伽耶の名称を改めたとして、一金官・二古寧・三非火、残りの二つは阿羅と星山だといっている。」金思Y訳

 

この地区はあくまで五伽耶としています。安羅や加羅という名称がありますから、全体を地区と考えれば任那地域のことと思われます。郡立国家といえます。

 

【三国遺事巻二 駕洛国記の条】

国称大駕洛、又称伽耶、即六伽耶之一也。余五人各帰五伽耶主。

東以黄山江、西南以滄海、西北以地理山、東北以伽耶山、南而爲國尾。

「国を大駕洛(から)、または伽耶(かや)国と称したが、これは六伽耶の一つであり、残り五人もおのおの帰って行って五伽耶の主となった。東は黄山江、西南は滄海、西北は地理山、東北は伽耶山がそれぞれ境界をなし、南は国のはてになっている。」金思Y訳

 

すなわち、大駕洛=伽耶=大加羅=任那と思われます。加羅や任那は古朝鮮資料ではその使用頻度は低いものです。任那として使用された特例としては、三国史記に、朝鮮統一をなした英雄、新羅の金庾信が任那加羅(良)人とあるといい、墓碑のひとつから任那が使われた発掘事例があるぐらいです。むしろ、周辺国の中国、高句麗国、倭国が頻繁に任那や加羅を使用しています。

ただ、注意すべきは、これら三国遺事や三国史記の文章は新羅滅亡後高麗王11代文宗の時代(1046〜1083)の文人の書いたものを用いています。高麗や中国の影響化にあると考えるべきでしょう。中国が用いていた加羅の音にこだわり語源を駕洛、伽耶に求めたと思われる記述になっています。

 

任那の海外資料

任那使用の海外初見で一番古い資料は、高句麗の広開土王碑(414年建立)です。

 

【広開土王碑 一部抜粋】

十年庚子。ヘ遣歩騎五萬。住救新羅。從男居城。至新羅城。満其中。

官兵方至。倭賊退□□□□□□□□來背息。追至任那加羅從抜城。

城即歸服。安羅人戍兵抜新羅城。□城倭満。倭潰城□。□□□□□□□

□□□□□□□□□□□□□□□。安羅人戍兵〜    (□は不明文字)

「10年庚子に(広開土)王は、歩兵と騎兵を合わせて5万名を派遣して新羅を救援するようにした。高句麗軍が男居城から新羅城に至るとそこに人が満ちていた。官兵(高句麗軍)が到着するや倭賊は退却した。・・・高句麗軍がその後を急ぎ追撃して任那加羅従抜城に至ると城はただちに降伏した。その時、安羅人衛戌兵が新羅城を陥落させ、□城には倭人たちが満ちていた。倭人達が崩壊すると、城・・・安羅人衛戌兵たち・・・」広開土王陵碑 朴時亨 全浩天訳 そしえて

 

西暦400年のことで北の高句麗王が見た朝鮮半島の南海岸線一帯の話です。日本書紀では履中1年ですが、この頃の記述は120年のズレがありますから応神11年のことです。新羅、任那加羅、安羅、倭の言葉が使われています。任那加羅とあることから、正式名称は任那加羅が正しいというものもありますが、正確には任那地区の加羅と考えるべきだと思います。

 

中国正史宋書からの検証

425〜443元嘉年間に倭国王珍が宋朝に入貢して、

使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍倭国王」と自称したという有名な記述があります。ここに、任那という言葉があります。加羅の文字がありません。倭にとって加羅は任那に含まれると考えていたと思われます。

 

451元嘉28年に宋朝が倭国王済に

使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍倭国王」を初めて加授しています。やっと倭が中国に認められた形です。ここで興味深いのは中国側が百済を外し、加羅を追加したことです。五国と減らさず、六国諸軍事はそのままに配慮がなされました。中国としては、加羅国という統一名の国名があるからです。任那を加羅とそれ以外の任那地区と分離したものと思われます。中国にとって百済は高句麗と共に倭よりも古くからの友好国です。簡単に、倭国のグループにはできないのです。安東将軍が安東大将軍になるのは、宋朝が滅ぶ1年前(478年)倭王武に対してでした。

 

南斉書加羅国伝

「加羅国は三韓(馬韓・辰韓・弁韓)の種族である。〔南斉の高帝の〕建元元年(479)、〔加羅〕国王()()が遣使朝貢した。〔高帝は〕詔して言った。加羅王の荷知は、海外より使者を遣わし、東方のかなたから貢納してきた。〔荷知に〕輔国将軍・本(加羅)国王〔の官爵〕を授ける。と」(山尾幸久訳)東アジア民族史1正史東夷伝 東洋文庫 平凡社1980

 

偶然なのか同年、倭王武も南斉に遣使を遣わし「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事・安東大将軍」から将軍号を進めて「鎮東大将軍」とされています。さきほどの新羅伝の記事と同じで、百済か倭が加羅遣使を伴い遣使したものとも考えられます。

 

少し横道に逸れますが、倭済の叙勲などは高句麗、百済に準じるもので、決して超えるものではありません。位の高さは征東鎮東安東です。一例としてこのとき、

   高句麗王は、「使持節・都督営州諸軍事、征東大将軍、高句麗王」

 又、百済王 は、「使持節・都督百済諸軍事、鎮東大将軍、百済王」です。

これに対し倭王は、「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓、六国諸軍事、安東将軍、倭国王」だったのです。

現代流にいえば、中国宋国社長に対し、事業本部長が高句麗であり、百済営業所長を兼ねる営業所統括が百済であり、倭国王は6営業所を任せられた東京支店長といった組織です。倭国自身が理解していたのかわかりませんが、宋国にとっては、倭国の上位に百済がいて、さらに上位は高句麗なのです。

少なくとも高句麗や百済はすでに「鎮東大将軍」もしくはそれ以上であり、倭国は使持節・都督倭・新羅・任那・秦韓・〔慕韓〕六国諸軍事・安東将軍などと喜んでいますが、上位の百済や高句麗には痛くもかゆくもないのです。しかもこの時、安東将軍であり大将軍ではないのです。

 

官家と屯倉

官家の意味は、日本書紀岩波版補注がいうように、官家(みやけ)屯倉(みやけ)で「屋舎・倉庫にたいする敬称」にすぎません。垂仁27年に「是歳、興屯倉于來目邑。【屯倉、此云、彌夜氣】

この年、屯倉を来目村にたてた【屯倉を「みやけ」という】とあります。この読み方を指定した原注が現代の我々に誤解を生じさせたのです。使用頻度を比較すると国内で屯倉(みやけ)といい、海外で官家(みやけ)と使い分けています。

この屯倉が官家として日本書紀に最初に使われるのは神功皇后紀の最初、朝鮮に渡った10月のことです。ちなみに、2ヶ月後の12月には神功皇后は筑紫に戻り、応神を出産しています。急襲して三韓(新羅、百済、百済)から貢ぎ物を送り続けると約束させたとあります。それで「(うちつ)官家屯倉(みやけ)」を定めました。

ここで官家と屯倉が同時に使われています。

次に現れるのは、ずっと時代が下り、雄略天皇20年になってからです。

この時、高麗王が大軍で百済を降し、生き残ったもの達が倉下に集まり、食糧も尽き憂い泣き叫ぶ悲惨な状況が描かれています。そこを官家といっているのです。官家は人を指しません。あくまで、海外にある屯倉であり、本来の意味は倉庫などの建物を指す言葉だと思います

 

官家の管理者

ところで、継体23年4月7日、任那王が来朝して曰く

海表諸蕃、自胎中天皇、置内官家、不棄本土因封其地、良有以也

「海外の諸国に、応神天皇が官家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです」と言っています。

 

はっきり、任那宮家の管理は大和朝廷ではなく、その土地の者が管理していることを示しています。すべて、官家は地元の加羅人などが管理している加羅国など地元国のものなのです。大和朝廷の官僚は一人もいないのです。

「官家の任那」ではありません。「任那の屯倉」です。また、「直轄領」という古い現代語訳も違うでしょう。大和朝廷は屯倉の中の貢ぎ物がほしいのです。口約束であり、国の支配、被支配の関係は何も保証されていません。

単なる力関係ですから、倭軍が帰国など遠くに退いたり、新羅など古朝鮮諸国の国力が栄えれば、大和朝廷に貢がなくなるのは当然なことなのです。

 国と国との間に力の差が歴然としている場合の外交としてやることは決まっています。戦国時代、毛利元就の若い頃は、兄弟が人質にされたり、婚姻関係を結んだり、こっちに味方し、あっちに裏切りの連続でした。あの織田信長も武田信玄や上杉謙信に高価な贈り物や祝文を欠かしませんでした。

古朝鮮側から見た倭国は当時野蛮な国だったと思います。幾度も記述された倭人の襲来とは奪略行為であり、国という領土争奪戦ではありません。あの神功皇后でさえ、朝鮮半島に渡る目的は、宝物がある朝鮮を目指すといっているのです。結果、朝鮮からは贈り物や美しい夫人(中国や百済には美人計という名の中国兵法三十六計という戦術、外交手段があるのです)を送っています。学問芸術、仏教の派遣も欠かしません。決してひれ伏してなどいないのです。れっきとした国際上での外交手段です。おだてられ、まつりあげられることが支配だと考えているようでは、外交に関してはズブの素人です。これでは、軍隊を半島に派遣してもいいように利用されたのではないかと思ってしまいます。

 

任那日本府

雄略7年是歳条に、吉備上道臣田狭が「任那(みまなの)(くにの)(みこともち)」に任じられた、とあります。また、この子の弟君も新羅を討つべく遣わされたといいます。

国司とは国の行政官として中央から派遣された官吏のことです。同じ言葉の九州太宰府でさえ確立は8世紀ごろのことです。任那はさらに遠いのです。ここでの国司とは「みこともち」と訳された通りです。

吉備臣親子はどちらかというと、左遷され、任那に追いやられた親子のはずです。これ以外でも任那に派遣されると、皆、任那や百済、新羅の味方に急変しています。朝鮮側にとっては外交上の来客に過ぎないのです。

雄略8年2月条に、吉備臣小梨が「日本(やまとの)(みことのち)」の将軍としてみえています。これが日本府の初見です。「任那王」は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子を勧めて、新羅の危機的状況を救うべく、救援におもむかせたとあります。「将軍様」とおだてられ、高句麗兵をだまし討ちにして何とか打ち勝ったようですが、正面攻撃で高句麗軍を破ったわけではなりません。たぶん、呉国への遣使護衛兵だったのではないかと思われます。

どうやら日本府とは移動している官僚機関、司令本部に過ぎないようです。欽明2年7月には安羅日本府とあります。日本府とは、「日本」という言葉も変ですが、臨時に派遣された外交府のことです。

岩波版には「日本府=任那支配のための朝廷の出先機関」と書かれていますが違うと思います。「日本府行軍元帥等」とは、呉国遣使に随行し、たまたま駐留していた警護部隊のこと、日本などという名称はなく、和訳のとおり「やまとのみこともち」であり、「太宰府」的な官僚機関だったのでしょう。8世紀の律令時代と混同させる必要もなく、単に、大王の御言葉を伝える者達なのです。

 

任那割譲の真相

日本書紀512継体6年12月、百済から任那の4県((おこし)()()(あろし)()()娑陀(さだ)牟婁(むろ))を譲るように請うてきた。理由は百済に接し、他国から防衛しやすいからというものです。穂積臣押山と大伴大連金村の奏上により許されたが、その勅使の任を物部大連麁鹿火は妻の諫めに従い病と称して断っています。その後、大兄皇子(後の安閑天皇)が断りの使者を送りますが、百済より今さらできないと拒絶されてしまいます。

 

527継体21〜22年の磐井の乱

九州の磐井が大和の継体大王に対し、火・豊二国にも勢力を張り、外に海路を断って、高句麗・百済・新羅・任那・の貢職船を自己のもとに誘致したとあります。

継体21年6月、新羅に任那の南加羅・喙己呑(とくことん)を奪われ、近江毛野臣が6万の兵を率いて任那に向かうが途中筑紫君磐井に遮られ、目的が果たせなかったともあります。

近江毛野臣は文官です。ここでいう6万もの大軍はどこの軍隊でしょう。むろん存在したとしても朝鮮半島には渡っていないことは確実なことです。単に、これから語られる近江毛野臣の不運を磐井のせいにしているかのように見えます。

529継体23年3月、さらに百済国は加羅国の多沙津まで要求しています。海に通じる海路の確保が目的です。押山臣により伝奏されました。ところがその勅使に対し、加羅王がそんなことを勝手にされてはこちらが困るとねじ込みます。そこで、この件は諦め扶余を賜ったとあります。弱腰外交です。日本にとってはどちらでもいい対岸の火事なのです。

このため、加羅は日本を怨み新羅と結んだとありますが、その後、その新羅に刀伽(とか)古跛(こへ)()()()()の三城を奪われてしまいます。

実はこの頃の新羅も大変なのです。やはり倭国を遠ざけ、高句麗とよしみを通じたのですが、高句麗から軍隊はくるし、あわてて、行軍中の倭軍に救いを求め、なりふりかまわず死にものぐるいの様相です。

 

任那滅亡への軌跡

日本書紀には「529継体23年、新羅が四つの村を掠め人々を率いて本国に帰った」とあります。四村とは、金官(きんかん)背伐(へだつ)安多(あた)委陀(わだ)、ある本では多多(たた)()須那(すな)()和多(わた)()()のことといいます。

三国史記では、同じ記事が532年のこととして「金官国王の金仇亥が、王妃および三王子とともに国の財物をもって来降した」とあるのです。

ここで、日本書紀とのこの3年のずれがあり、本稿では継体天皇の項で述べたとおり、継体崩御は28年とし、3年の空位がないものと考えました。つまり532年が正しいのです。日本書紀が故意に529年と3年事実をずらした証拠の一つと考えられます。

また三国遺事でも、同様532同年駕洛(から)国仇衝王が薨去されたとありますが、同じ事象として562駕洛(から)国滅亡説の二種類があることになります。

日本書紀の記述に従います。このとき、任那の一部がここで滅んだのです。この後、任那復興が大和内に呼びかけられますが、結局、その30年後の562欽明23年任那一帯がすべて新羅に併合され、完全に任那が滅んだのです。

 

なお、このときの大和朝廷の「みこともち」、近江毛野臣のとった行動はぶざまなものです。

加羅は新羅から攻められ、加羅国は大和に調停を依頼します。そこで任那に入った近江臣は天皇の御言葉を伝えるべく新羅王に来るよう要請しますが、王自身は来ないので、再度、来訪を依頼。すると、新羅王は上臣を兵三千とともに遣わします。これを見た近江臣は熊川から引き上げ己叱己利(こしこり)城に隠ってしまいます。多多羅の新羅軍はここで待つこと3ヶ月、ちょっとした弾みで戦闘状態となり、四村が滅んだと、日本書紀自身が記述しています。

継体24年10月、(本来は3年のズレで継体27年のこと)任那に何の益にもならぬ毛野臣は勝手にかき乱したとして任那からも見捨てられます。帰国の途上、対馬で病死しました。失意の死と言えますが、加羅国は大変な死者を出しているのです。ここに大和軍の姿はありません。近江臣は一人朝鮮南部の内乱を収拾しようとし毅然と戦い、破れプライドを傷つけられた大和高級官僚だったとみることもできます。

 

540欽明1年9月 大伴金村はこの任那割譲に際し、つるし上げられています。この古朝鮮との交渉のまずさは置くとして、これらは政争の具にされた感ががします。新羅と任那の激しい戦闘状態の現状を憂うことなどさらさらありません。ただ、身内の大伴金村のせいに責任追及ばかりしています。そんな中、新羅は勢い盛ん、大和朝廷はすでに太刀打ちできなくなっていたのです。

 

542欽明3年4月、安羅、加羅、散半奚、多羅、子他と任那日本府(みこともち)の吉備臣が百済に行き、「日本の天皇の意思は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。〜。どんな策によって任那を再建できるだろうか」と百済の聖明王と相談しています。つまり、この頃任那はもう実質的には存在していないことがわかります。

しかも、みんな新羅を憎みながら、驚くことに安羅の日本府は新羅と影で通じあっているという状況です。さらに、任那の執事と日本府の執事を百済に呼んだが来ないという状況が続きます。

加羅など、任那住民の直接の悲惨な情景とは別に、日本府や日本から派遣された官僚たちの態度は、目を覆うばかりの状態であり、自分の保身、言い訳、自分以外の非道、無知、暴力を非難ばかりしています。挙げ句の果てに、その責任を廻りになすりつけ合っていることがわかります。国が滅ぶよく見かける風景です。

 

任那滅亡

562欽明23年に任那が滅びました。

この年号は任那加羅側の記録、三国遺事巻二、駕洛国記と同じです。ただ、新羅側から三国史記新羅本紀では同年、伽耶が反乱を起こしために討伐したという内乱の形にしています。

三者の文章を掲げます。

 

【三国遺事巻二、駕洛国記】(滅ぼされた側の悲惨な記録)

「仇衡(衝)王、金氏。正光2年に即位して、治世42年目の保定(後周の武帝の年号)2年壬午(562)9月に、新羅第24代眞興王が軍をおこして攻めて来ると、王はみずから軍を指揮したけれども、相手は数が多く、こちらは少数で、対戦できなかった。そこで兄弟の脱知爾叱(につ)(こむ)はみやこに留めおき、王子、上孫、卒支公らを新羅に送って降伏した。」金思Y訳

 

【三国史記新羅本紀】(勝利者側の記録)

「(562真興23年)9月、伽耶が反乱を起こした。(新羅)王は異斯夫に命じてこれを討伐させ、斯多含(したがん)を副将とした。斯多含は五千騎を率いて先鋒隊となり、(伽耶城)の栴壇門(せんだんもん)におしいり白旗を立てた。城中では恐れおののいて為すすべを知らなかった。斯多含が軍隊を率いてやってくると、(伽耶軍は)一度にすべて降伏してきた。その論功行賞では斯多含が第一位であった。王は(その功績を)賞して、良い耕地および捕虜二百人を与えようとした。斯多含は三度辞退したが、王が強いて与えたので、その捕虜を受け取り、解放して良民とし、その耕地は(一緒に戦った)戦友たちに分け与えた。(それで)国人は彼のこの行為を賞賛した。」井上秀雄訳注

 

【日本書紀562欽明23年】(当事者を装う第三者の記録)

「(562年)春1月、新羅は任那の官家を討ち滅ぼした。【−略−】

夏6月、詔して、『新羅は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で、わが恩義に背き、官家をつぶした。わが人民を傷つけ、国郡を損なった。神功皇后は、聡明で天下を周行され、人民をいたわりよく養われた。新羅が困って頼ってきたのを哀れんで、新羅王の討たれそうになった首を守り、要害の地を授けられ、要害の地を授けられ、新羅を並外れて栄えるようひきたてられた。神功皇后は新羅に薄い待遇をされたろうか。わが国民も新羅に別に怨があるわけでない。しかるに新羅は長戟・強弩で任那を攻め、大きな牙・曲った爪で人民を虐げた。肝割り足切り、骨曝し屍焚き、それでも何とも思わなかった。任那は上下共々、完全に料理された。王土の下、王臣として人の粟を食べ、人の水を飲みながら、これをもれ聞いてどうして悼まないことがあろうか。〜』」宇治谷孟訳

 

三者の証言はどれも正直な記録だと思います。だからこそ比較すれば一目瞭然で、任那は大和朝廷にとっては遠い記憶に基づく遠い土地の話だったことがわかります。既得権だけを主張し、恨み辛みをぶちまけ、愚痴るばかりの欽明朝でした。だからといって、その任那奪回行動は素振りばかりで、日本国内をうろうろするばかりでした。

その40年後、600推古8年になって、任那復興のため、万余の大軍を新羅に送り、新羅王を降伏させ、以降『任那の調』の貢進を約束させる、と言う記事がありますが、「万余の大軍」はどう見てもおかしい。若い境部臣をそそのかして、百済と昔からよしみを通じる穂積臣がでっち上げたとも思える記述です。たぶん天皇も不審に思ったのでしょう。後で難波某を二人、新羅と任那に派遣して調べさせています。

学術上「任那の調とは、旧支配地に対する権益を象徴するもの」とあります。

その通りですが、もっとはっきり言えば、加羅などが滅んだ任那地区を新羅が併合しても、大和国には関係ないのです。大昔の口約束に則り、贈り物がほしいわけで、任那の民が滅んでも、次に支配した新羅が肩代わりしろというのが「任那の調」という常識のないものなのです。

その後、新羅は拡大し続けます。新羅からの贈り物は単なる外交辞令に過ぎないのです。世界情勢に疎い日本はプライドばかりは強く、中国で席順を争うという恥ずかしい行為にまで発展しても気づかないのでした。

 

まとめ

本書の考えるところでは、古代朝鮮半島に倭国の領土支配はなかったと思います。

日本書紀を読んでの結論です。大和朝廷にとって、任那は完全に統治仕切れぬ九州より遠い朝鮮半島のことです。当初、大和朝廷がいう任那とは大雑把で、じつは加羅国のことなのです。

時代が下り、結果的に、任那は百済と新羅の間の地域名として確立していきます。加羅国は5,6カ国(日本書紀では10カ国)の任那地域の一国だったのです。

任那にあった官家とは加羅国の屯倉、貯蔵施設、広くはこれを含む館全体を指します。

任那は日本にとって、大陸から金や鉄さらには文化や資材、機材を輸入する交易の拠点であり、加羅はこのことで潤った国、発展した独自国だったと思われます。

日本府とは少数の兵を従えた官僚の組織集団に過ぎません。一時的滞在したもの達で加羅や安羅にとっては一時的なお客様にすぎないと思います。

かつて大昔、倭が新羅、任那沿岸を襲い、誓わせた貢ぎの約束は、あくまで力関係上の口約束に過ぎず、引き上げれば、新羅、百済、加羅はいつでも復活したのです。

それを、倭国側は何を勘違いしたのか、外交上の稚拙さが露呈しています。外交官が頭を下げ、贈り物を届けることを支配と勘違いしていたのです。それも遠い昔、応神天皇の頃の口約束に基づくものです。

最後、新羅の急激な成長のなか、百済との狭間の中で、任那諸国はその一部を一旦は百済に奪われ、最後、新羅にすべて吸収、併合されたのです。

大和朝廷では、そんな中、大伴金村が悪い、近江臣が悪いなど、責任をなすりつけあっています。任那の地では日本府の役人たちは、この戦乱の中、天皇の指示だとして動かず、つまりは天皇のせいにして、最後には身の安全をはかり帰国するばかりです。本当に血を流していたのは任那、百済、新羅の人々だけでした。

 

 

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