天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
景行天皇の年齢 けいこうてんのう First update 2012/09/13
Last update 2012/11/01 137歳 古事記 乙酉AD25垂仁54年生 〜 庚午130景行60年崩 106歳 日本書紀 戊申BC13垂仁17年生 〜 庚午130景行60年崩 143歳 水鏡、紹運録、日本書紀一説 辛亥BC10垂仁20年生 〜 庚午130景行60年崩 140歳 神皇正統記 壬辰AD332 生 〜 己卯379景行25年崩 48歳 本説 和風諡号 日本書紀:大足彦忍代別天皇 古事記:大帶日子淤斯呂和氣天皇 宮 日本書紀:纏向日代宮 古事記:纒向日代宮 陵墓 日本書紀:山邊之道上 古事記:山邊之道上 父 垂仁天皇 景行天皇は垂仁天皇の第三子となる 母 皇后 日葉洲媛命 丹波道主王の娘 景行天皇の見えない実像 はじめ、景行天皇を語るに先立ち、記紀の記録から息子日本武尊の記述を外して、景行天皇だけを特化させようとしました。すると、景行天皇の存在が霞んでしまうことに気がつきました。景行天皇は日本武尊ぬきには語れない、存在が極めて薄い天皇だったのです。 【景行紀に記された記事の年代】(空欄は記載がない年)
12年〜19年の8年間景行天皇九州遠征 27年〜28年 4年間日本武尊九州遠征 40年〜43年 3年間日本武尊東国編成 53年〜54年の1年間景行天皇東国へ遠征 景行天皇の長期に及ぶ外征と大和内での業績の乏しさ 日本書紀と古事記では、その姿が大きく異なります。日本書紀は、景行天皇と日本武尊がともに一致団結、武力による国内統一を果たしたように見え、かたや古事記は、日本武尊に専ら武を負わせ、無謀な行動に恐れつつも見守る姿勢を貫いたものです。 遠征記録として日本書紀は、はじめ、景行天皇が九州を制圧、後に反乱再発に際し日本武尊を派遣しました。次に関東は日本武尊が先導し、その後、能褒野で薨去されたのを期に、景行天皇が確認の旅に出ています。一方、古事記では、外征については一方的に日本武尊の業績のみが語られ、景行天皇は登場していません。ただ二書の共通点もあります。どちらも一緒に行動していないことです。 日本書紀の景行天皇在位60年の内、日本武尊については15年間が日本武尊のことだけ語られています。 文字数で比較すると景行紀全体6,651文字中2,804文字(42%)が日本武尊の西征東征系譜の記録、景行天皇の西征東征記録は2,117文字(32%)です。合計74%が二人の西征東征記録で占められるとなります。 古事記では景行記4,307文字中、日本武尊のことだけが語られるのは3,504文字(81%)にもなります。(文字数は本稿の任意で算出)これだけ見ると、西征東征は日本武尊軍でなされた事のようです。景行天皇はどこで何をしていたのでしょう。ずっと大和に居続けた天皇とするには、あまりに内政記述が少ない天皇なのです。 天皇表記の始まり 景行天皇は、古事記において「天皇」と表記された最初の天皇です。日本書紀は第1代神武天皇からということになりますが、天皇の子供達が、某尊、某命ではなく皇子、皇女と記されるのもやはり景行天皇からです。大和地方部族から全国の統治者となり君臨した最初が景行天皇だというのです。 一般的認識は別として、少なくとも古事記、日本書紀の編纂者はそう考えたようです。 その辺の事情を探ります。古事記、日本書紀にとって、「天皇」という呼称は重要なキーワードだからです。 本稿では「天皇」という呼称をはじめて対外的に表明したのは天武天皇だと思っています。実際に利用したのは皇后でもある次期持統天皇で、夫の死後、「天武天皇」と奉り崇め、その後、孫の文武に生前譲位した際に、若い文武に対して権威を付ける意味からも「文武天皇」と皆に呼称させ、それ以降、定着、引き継がれたと考えています。 大タラシヒコと呼称された景行天皇 【記紀でタラシと呼称された天皇】
「タラシ」は漢字表記上、日本書紀では「足」、古事記では「帯」と書き表されました。 常陸風土記でも、景行天皇を「大足日子天皇」と呼んでいます。(信太郡、行方郡) 播磨風土記では、「大帯日子天皇」「大帯日古天皇」「大帯比古天皇」と書かれました。 一方、海外の優秀な文献、随書東夷伝倭国条に「倭王姓阿毎、字多利思比孤、号阿輩鶏彌」という有名な記述があります。この7世紀を記す随書であることから、和風諡号全体が7世紀頃に創作されたと性急な結論を出す書物が多いようです。そうでしょうか。日本古来の記録はすべて口伝えの伝承から成り立ちます。名前は特に重要で、個人を特定する人の連なりを示すものです。厳密に和風諡号は昔からこう決まっていたとはいいませんが、いろいろな言い回しで個人が語られたのは間違い有りません。それを、7世紀に体系的にまとめられたと考えます。古来「タラシヒコ」には意味があると思います。7世紀に「タラシ」と呼ばれ始めたわけではありません。逆で、昔から「タラシ」と呼ばれた天皇がいたので、彼らの共通した業績に則して、新たな近々の天皇にも「タラシ」と和風諡号が付けられたのだと思います。 その彼らの共通点とは何でしょう。 上記の表のなかで、業績が書かれていない孝安天皇兄弟や成務天皇を除くとすぐ気がつくのが、この5人はすべて自ら九州まで訪れているということです。舒明天皇は違いますが、それでも伊予までは間違いなく行っています。こう考えると成務天皇も父の意向を汲んでの地元ではない高穴穂宮(滋賀県大津市)で天皇になりました。だから稚足彦(若帯日子)なのです。本稿では即位後すぐに崩御された天皇と考えていましたら、さらに仲哀天皇がその思いを引き継いだはずで、これが足仲彦(帯中日子)なのです。それに対し、景行天皇は大足(大帯)です。王のなかの大王、「タラシ」天皇のなかの大「タラシ」天皇だと呼称されたのだと思います。 後の天皇には著しい移動記録はありません。応神天皇は九州生まれですが、あくまで活動拠点は大和です。「タラシ」とは、自ら足繁く行動した広い行動力をもつ意味があったと思います。 日本各地に広く伝承を残す景行天皇 風土記は国の指示に基づき収集された各地の記録です。記紀の影響をもつとも考えられる風土記ですから100%信用はできませんが、景行天皇には九州に景行天皇のいくつもの伝承が残っており、これは否定できないものです。 【5つの風土記における天皇登場回数比較】
*1.『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)に拠る *2.( )の数字は逸文にみえる天皇の回数 *3.聖徳太子以下は天皇として扱われていると判断した場合の回数 出典:「風土記の考古学3出雲国風土記の巻」山本清(同成社) 【本稿が数えた風土記の日本武尊記録】
こうして状況証拠を積み上げていくと、景行天皇の広い行動力を否定することは困難なのです。まだあります。彼の后妃は全国の娘達が並びます。大和の女性はいないようにも見えます。 妻達の素姓 景行天皇の印象を始めは低く捕らえていました。外征、戦闘はすべて日本武尊に任せ、自らは宮殿から離れず、80人の子作りに励む、臆病で猜疑心の強い天皇、まるで、多産なねずみのように見ていました。 しかし、これは間違いでした。 【景行天皇】
記紀共に子供の数が80人としています。伝承があったのでしょう。ただ、80とは漠然と多数の意味があると言われますから、厳密に数える必要もありません。3人の皇子以外は全国の長となったような記述ですが、地方行政機構が整っていたとも思えず、生まれた子はその地で育てさせ、長となることを願ったということころでしょう。 妻子一覧では日本書紀と古事記間で幾つも大きな違いがあります。 【景行天皇妻子一覧】記紀比較
注:ABCは古事記の八坂之入日賣命をAとし、妾A、妾Bと対応がわかるよう記述した。 ○皇后、播磨稻日大郎姫の子供の数です。日本書紀は日本武尊双子の兄弟2人だけ。古事記は5人もいます。主観的判断ですが、日本書紀のほうは日本武尊を強調したいために、他の子供達の人数をそぎ落としたように見えます。本稿では古事記の記述を正しいとします。ただ便宜上、漢字表記は日本書紀の記述の方がわかりやすいのでこのまま踏襲しました。 同様に、播磨稻日大郎姫の妹と景行天皇との出会いの美しい話の解釈は次のように考えました。日本書紀の后妃紹介記事では姉妹の名前は同一人物とされていますが、ここは古事記の記載とおり二人おり、実際、弟姫も後に後宮に入ったと考えました。弟姫のほうが景行天皇に最初出会いますが、断っており、かわりに姉の大郎姫を紹介しています。これは、まだ、弟姫が恋愛できる年齢に察していないためと判断しました。それで、美しい姉を紹介し、その場は辞退したのだと思います。周囲のものからも、姉を薦められていたのかもしれません。 ○一番子供の数が多い八坂入媛。日本書紀では13人の子、古事記は4人。ただ、古事記の表記は珍しく、八坂入媛の記述内で名前もわからない2人の妾を紹介し、それぞれ子2人と6人を生んだと別けて記載してあります。合計で12人です。ここでも日本書紀はこれを単純化し、1人の妃で連続13人を生んだとしたようです。本稿でも古事記の意見に賛同し、11人を3人の媛で生み分けたと考えました。ただ、年齢構成順では、1人が13人を生んだように2年おき順に出産したとして考証しました。日本書紀も一人で13人を生んだと年齢計算はしており問題ないと考えていたはずです。18歳から生みはじめても、13人×2年+18歳=44歳。少なくとも44歳以上は生きぬいた長期政権であったと考えて差し支えないようです。 ○訶具漏比賣は不思議な系譜を持つ女性です。記述を保留します。応神天皇の項でも迦具漏比賣(かぐろひめ)が妃として登場しています。この方が、年齢構成上は相応しいと思いますが、別途まとめる予定です。 ○もうひとつ不思議なことがあります。なぜ播磨の稻日大郎姫が皇后で美濃の八坂入媛が妃なのでしょう。日本書紀は皇后稻日大郎姫の薨去をわざわざ記載し、前皇后が薨去したので新皇后になれたように書いたのです。しかし、八坂入媛は崇神天皇の孫です。稻日大郎姫は孝元天皇の曽孫で血筋では薄く、身分は八坂入媛の方が位は高いはずです。しかも曽孫では天皇系譜上ではあまりに離れすぎで、このままではあり得ません。天皇の血筋と考えるのは無理があります。このへんも、もう少し先の天皇まで探った上で検討します。播磨稻日大郎姫を優位にしたのは、岐阜より播磨地区の支配を重要と考えていたということでしょうか。それとも、単に日本武尊の母だったからなのかもしれません。 【景行天皇の系譜】
【古事記による針間之伊那毘能大郎女周辺の系譜】
景行天皇106歳という年齢と史書 日本書紀の景行天皇は在位60年にして106歳で崩御されました。息子、成務天皇も在位60年で107歳でした。在位期間と年齢比較では大差ない天皇ですが、その内容はまるで違いました。数字のいい加減さには驚かされます。 垂仁37年に太子となられたとき21歳に基づくと143歳になります。少しのズレどころではありません。ちなみに、古事記は137歳です。 後の史書、水鏡、本朝後胤紹運録などは、この日本書紀即位年齢21歳を参考にして143歳にしています。140歳説については、神皇正統記は数字を丸める傾向があるので、「百四十三」の三が落ちたのかもしれません。 崩御年齢に基づく 太子年齢に基づく BC13垂仁15年 ? ( 1歳) 景行天皇降誕1 8垂仁37年 ? 21歳 景行立太子 25垂仁54年 ( 1歳) ( 38歳) 景行天皇降誕2 70垂仁99年 (46歳) ( 83歳) 垂仁天皇崩御 71景行 1年 (47歳) ( 84歳) 景行天皇即位 130景行60年 106歳 (143歳) 景行天皇崩御 ()は計算値 景行天皇の年齢 日本書紀によると、景行天皇は景行60年11月に近江国の高穴穂宮で崩御されました。大津市穴太地区が有力です。なぜ、死ぬ直前に滋賀まで訪れたのでしょう。よって、次の成務天皇も高穴穂宮で即位し、ここで崩御されています。古事記には高穴穂宮この記録はありませんが、息子は日本書紀と同じく高穴穂宮で即位し、そこで崩御されていますから、景行天皇が高穴補宮で崩御されたとしていいと思います。 積み上げ方式で、景行天皇18歳で日本武尊が誕生し、2年後に成務天皇が生まれました。21年の太子、24歳即位としました。すると、48歳に崩御されたことで、在位期間は25年となります。 【景行天皇年齢構成図】
注:黄色部分は外征時 つまり、景行天皇は即位するとすぐに遠征に旅立ったのです。それは生涯続いたと思われます。日本武尊とはどのような分担が行われたはまだわかりませんが、日本書紀に従えば、日本武尊が活躍する15年間は大和に戻ってじっとしていたことになります。今までの日本書紀の執筆態度からすると、二人の並列な業績を直列に一つに引き延ばす記事が多かったため、かなりの部分二人とも外征に出ていたと思われるのです。 永藤靖氏は、「常陸国風土記」を詳細に調べられたように、景行天皇の東国行きの話は完全に、日本武尊のステレオタイプと見ておられます。風土記では二人の行動は同じだというのです。その結果、景行天皇は東国には行っていないと結論づけています。これも極論だと思いますが、重要な指摘です。 景行天皇の真の姿 本稿では、これは日本書紀の記述が案外正しいのではないかと考えました。最初、九州を制圧。ところが、なかなか各地の反乱が収まりません。そこで同行していた16歳の息子を新たに別の前線に送り込みます。思いの外、日本武尊の才能が際だって目立つようになります。一段落したところで、関東に対して、自分かまだ動けないと判断し、先に日本武尊を西征させたと思います。いつ戻ったかは定かではありませんが、その後、息子が能褒野で薨去されたので、制圧を確実なものにするため、天皇自らが各地の要所のみを行幸。いったん戻り、最後、日本武尊が敗れた近江の地(山神の戦いの敗北)へ遠征し、そこで、病没したと考えました。 景行天皇の在位期間がほとんど外征していた根拠をまとめます。 1.景行天皇の妻子は子が80人と日本書紀最大ではあるがはっきりしていない。后妃の出身地も多彩。 2,英雄日本武尊は空想の産物ではない。実在した人物と考える。16歳で出征し、30歳で没した。 3.風土記には九州に景行天皇の多くの伝承があり、遠征に対して否定できない。 4.2番目の息子成務天皇の即位場所が近江であるから、最後、景行天皇がそこまで行ったことは確実だと思う。 5.古事記は景行天皇の記録を記録しなかっただけです。物語としては、圧倒的に日本武尊の方がおもしろい。景行天皇は比較され、地味な行動と写ったのでしょう。 6.子供も若いときから吉備、美濃と嫁を求めながら飛び回っていた。24歳即位と同時より、九州外征に出発。日本武尊が戦争に参加できる16歳になったとき景行天皇は33歳。それまでに西征は8年を費やしていました。他の妃たちはすべて現地調達。名古屋で息子が30歳で薨去したのだから、翌年には崩御となり48歳まで生きていたことになります。 問題は全国を歩き続けた景行天皇が不在の間、大和は誰が内政を指導していたのでしょうか。2人候補者がいました。 一人は景行天皇の兄、長男の五十瓊敷入彦命。一人は景行天皇の息子、成務天皇の弟、五百城入彦皇子。景行天皇の崩御後に即位した、成務天皇は近江から大和に戻る前に崩御された短期政権です。次の日本武尊の息子、仲哀天皇も大和に入ることなく、九州に向かい、そこで崩御されました。その間、大和政権を維持していたのは、この二人であると推測します。3人の天皇が不在のまま、大和に居続けたのはこの二人だからです。 五十瓊敷入彦命 景行天皇の同母兄です。2歳差と考えました。父は垂仁天皇、母は丹波の日葉酢媛命です。皇子として年長者は狭穂姫が生んだ誉津別命ですが、唖とあるので、五十瓊敷入彦命が実質の長男と考えられます。 父垂仁天皇は晩年、二人の息子に何が欲しいかと問われました。兄の五十瓊敷入彦命は弓矢が欲しいと言い、弟は皇位と答えたので、二人の望みに沿って二人の希望をかなえられたという伝承があります。結果、弟が景行天皇として即位したというものです。しかし、この結果に私は満足できません。もし、この回答通りなら、五十瓊敷入彦命の方が弓矢を持ち外征に出発し、景行天皇は天皇として大和に残るべきです。これはどういうことでしょう。実は、日本書紀には五十瓊敷入彦命の取った行動記録が結構細かく記録されています。垂仁天皇時の記録ですが、時間軸は無視しました。 垂仁30年、垂仁天皇がこの時、二人の息子に欲しい物聞くと、五十瓊敷入彦は弓矢と答えた。 垂仁35年、五十瓊敷入彦命は河内国の高石池(高石)、茅渟池(泉佐野)を作る。 又、倭狭城池、迹見池を作る。さらに諸国に令して、多くの池や溝を開かせた。 農業が盛んになり、百姓が富み豊かになった。 古事記には、血沼池、作俠山池(狭山池)、日下の高津池とある。 垂仁39年、茅渟菟砥川上宮(泉南)で一千口の大刀を作り、石上神宮(天理)の神宝に納める。 古事記では鳥取(泉南)の河上宮で太刀一千口を作った時、河上部を定めた。 垂仁87年、五十瓊敷入彦命は年老いたとして、管理権を妹大中姫に譲ろうとするが断られる。 結局、物部十千根大連(26年大連が初見)が管理したと伝わる。 (石上神社は物部氏の主神) 不思議な記録です。大和に対し、開拓事業に尽力したとこはわかりますが、なぜ、大刀を大量に作ったのか、なぜ、石上神宮に納めたのか。簡単に神々を奉ったでは納得がいかない行為です。 結果、こう考えました。 父、垂仁天皇は二人の皇子の性格をよく知っており、はじめから、景行には外征、五十瓊敷入彦命には内政の分担政治を考えていたのだと思います。その結果、景行は天皇として外征し、五十瓊敷入彦命は弓矢をもって、大和を守れと命じたのだと思います。部下である将軍が遠征するのではなく、大和の最高権力者が自ら出陣したのです。このことは結果的に大きな成果を生んだと思います。そして、この地味な五十瓊敷入彦命の存在の大きさを感じるのです。 こうした、外征に対する兵站を当時どこまで重視していたのせしょう。たぶん、当時は現地調達主義だったはずです。しかし、これだけの長時間の外征はなかなかできるものではありません。食料、弓刀物資、人力の後方補給支援部隊がいたはずです。いつの時代も軍隊には金が掛かるのです。内政を司る人物がいたのです。中国の例を見ます。 中国の始皇帝や漢の高祖ほどではないものの、景行天皇もその資質があったと思います。 始皇帝は中国全土を内陸の秦国から、中央に進軍した王です。大和王朝は血族関係という狭いものでしたが、始皇帝の人材登用、能力主義には目を見張るものがあります。王翦(おうせん)という武将がいました。始皇帝の戦闘会議において、20万人で足りるとする一般意見に対し60万人は必要と説きます。始皇帝は臆病者と怒り、王翦を退けましたが、実際戦闘は芳しくなく、始皇帝は素直に謝ったとあります。多くの兵を送る際、戦勝事後の自分への莫大な報奨金のことまで要求したとあります。地元の軍隊を根こそぎ持っていうわけで、逆に自分がその大軍で反乱を起こすと思われるのを避けるために、恩賞に夢中の小心者と思わせておくためだったと後に語ったとあります。 一方、漢の高祖には張良という有能な丞相がいました。弱い高祖軍です。強兵の項羽軍から逃げ回るばかりが続いています。でも、食料を絶やすことはありませんでした。逃げ回る先には必ず保管庫があり、保管庫を空にして休息の後、また戦いを仕掛け、また破れ逃げ回るのです。こうして、最後には、強い項羽軍はとうとう敗れたのです。後に認められ張良は多大な功績に対する莫大な報奨金をすべて断っています。自分が力を持ったと思われたくなかったとあります。王翦(おうせん)とは逆の行動ですが思いは同じです。その後、二人とも、老齢を理由にうまく退いています。皇帝の死後も生き続けたとあります。 五十瓊敷入彦命も一千口の大刀を石上神宮に納めたのは同じ思いがあったのではないでしょうか。刀を自分の手元には置いていません。戦場に送った残りかも知れませんが、それを私有することは一切していないことを態度で天皇に示したのだと思います。そして同様に老齢を理由に退いているのです。 もしかしたら、それでも殺されたのかも知れません。そういう状況も当時には多く見られるからです。彼の記録は景行天皇の項ではなく、わざと父の垂仁天皇の項に載せられているからです。でも本稿では信条的に生を全うしたと考えました。 天皇になった景行には内政での業績はほとんどありません。戦争に明け暮れていた感じです。 五十瓊敷入彦命の墓は宇度墓で大阪府泉南郡淡輪村字東陵がそれだと言われています。大変大きな墓です。全国26位の淡輪ニサンザイ古墳と言われています。中国始皇帝、漢の高祖の例ではありませんが、内政を司る人材なくして国の拡大はあり得なかったと思いました。 五百城入彦皇子 成務天皇の同母弟です。父は景行天皇、母は美濃の八坂入媛の第2子です。景行天皇には80人いる子供の中で、日本武尊、成務天皇とこの五百城入彦皇子は特別として除き、他の者は「別」として諸国に赴かせ国郡に封ぜられるとあります。古事記にはこの3人は太子として重要な名を負ったと書かれました。 『新撰姓氏録右京皇別下』によると高篠連氏(讃岐国那珂郡高篠郷が本拠?)の祖とみえ(続日本紀合とある)、同書左京皇別上、御使朝臣条にみえる気入彦命と同一人物とみる説があります。また、塵袋二所引尾張風土記に「葉栗郡若栗郷に宇夫須那云社あり、廬入姫誕生産屋地也」と見え、この廬入姫は皇子と同母妹であるから皇子と関係ある地と言われていますが、自分が調べた限りでは伝承はほとんどなく、五百城入彦皇子や息子の品陀真若王の状況がわかりませんでした。 しかし、歴史の事実は、品陀真若王を重要な血筋として位置づけています。後に応神天皇は、五百城入彦皇子の孫娘3人をこのあえて娶る行動を選択しているからです。その仲姫から仁徳天皇がうまれているからです。日本武尊や仲哀天皇側の娘ではありませんでした。むしろ、仲哀天皇の息子たち、籠坂王や忍熊王は応神天皇の母、神功皇后により殺されているのです。 【応神記】
品陀眞若王の3人の娘を娶る。高木之入日賣命。中日賣命。日賣命。〈この女王等の父、品陀眞若王者は五百木之入日子命が尾張連の祖、建伊那陀宿禰の娘、志理都紀斗賣を娶り生れた子なり。〉 【景行天皇の主な外征先】 99年 7月 垂仁天皇崩御 纏向宮 2年 3月 播磨国の稲日大郎姫を皇后 3年 2月 紀伊国に向かうが中止。代理を派遣。 4年 2月 美濃国 八坂入彦皇子(崇神天皇皇子)の娘、八坂入媛を娶る。 美濃の国造の神骨の娘二人を所望したが、子の大碓尊に奪われる。 12月 纏向に戻り、新たに日代宮をつくる。 12年 8月 周芳(山口県佐波)から筑紫にはいる。豊前国の長峡県、京に行宮を造営。 11月 碩田国(大分県)、日向国に高屋宮を造営。 13年 5月 熊襲平定。御刀媛が豊国別皇子を出産。 17年 3月 子湯県(宮崎県児湯郡) 18年 夷守(宮崎県小林)、熊県(熊本県球磨郡)、八代県豊村、高来県玉杵名邑、阿蘇国 筑紫後国の三毛(福岡県三池)の高田の行宮に入る。 八女県(福岡県八女郡)、的邑(福岡県浮羽郡) 19年 9月 日向から大和に帰る。 27年10月 日本武尊西征〜28年2月 40年10月 日本武尊東征 43年 日本武尊薨去 53年 8月 日本武尊が平定した国々巡幸を詔 10月 東海道から上総国 安房の水門 12月 綺宮 伊勢に帰る。 54年 纏向宮 倭に帰る。 58年 高穴穂宮(大津市穴太) 近江国志賀(滋賀県大津市)で崩御 参考文献 松本直樹「景行記の一文『天皇知其他女恒令経長眼亦勿婚而惚也』の読みと解釈」 早稲田大学教育部 学術研究(国語・国文学編)第55号2007 永藤靖「『常陸国風土記』の景行天皇―移動する王権」明治大学考古学研究所2009 半田康夫「景行天皇と菟狭の鼻垂」大分大学学芸学部紀要 第4号S30年1月 司馬遷「史記 白起・王翦列伝」野口定男訳 平凡社 司馬遷「史記 張丞相列伝」野口定男訳 平凡社 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |