天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
日本武尊の年齢 やまとたけるのみこと First update 2018/06/20 Last update 2018/07/23 甲申AD 84景行14年降誕 〜 癸丑AD113景行43年崩 30歳 日本書紀 壬午AD322垂仁21年降誕
〜 癸丑AD353景行23年崩 32歳 本稿 日本武尊は景行天皇の最初に生まれた双子の弟です。年齢は30歳と日本書紀に書かれました。同時に景行27年、西征時16歳とあります。すると、景行43年に崩じたとすれば32歳になりますが、いずれにしろ若くして亡くなったと想定したいようです。 好意的に考えれば、景行40年条は29歳なので、時間経過があるとして、最後の「時年卅」とは景行41年なのかも知れません。その流れで、景行43年条は3つの陵が造り終えた年とも考えられます。(2018/7/6追記) 【景行天皇紀】
景行27年と書かれた九州熊襲を討つとき、日本武尊は「日本童子(やまとおぐな)」と称し、童子、童女の髪型伝承から、15,16歳と考えたようです。 また、息子の仲哀天皇が、自分が子供のときに、父、日本武尊が崩じたと語った伝承があったのでしょう。日本武尊30歳の崩御なら、最短で18歳のとき仲哀が生まれたとしても崩御時、仲哀は15歳です。 【仲哀天皇】
本稿は記紀書かれた伝承記事を重視しています。疑うべきは、いい加減な、年代表記、数字の方なのです。 日本武尊の崩御年齢が若い伝承があるなかで、父景行天皇が106歳では、あからさまに矛盾が露呈します。 【日本書紀における日本武尊と仲哀天皇親子の系譜】
双子の兄、大碓皇子 例えば、景行4年2月、景行天皇は美濃に入り、八坂入媛を娶り、成務天皇が生まれます。その年に、日本武尊の双子の兄大碓命に命じて、同じ美濃国造の噂高い姉妹の容姿を調べさせています。ところが、大碓は自ら密かに通じたとあります。古事記もほぼ同じ内容です。日本武尊は景行27年に16歳で西征とあるので、この景行4年は、双子の大碓小碓兄弟は生まれていません。矛盾です。 日本武尊の死後に仲哀天皇が生まれる記述 最大の矛盾は、日本武尊が薨去された後、35年目に息子の仲哀天皇が生まれた年齢設定になっていることです。 日本武尊 AD 84景行14年生〜
AD113景行43年薨 30歳 仲哀天皇 AD149成務19年生〜
AD200仲哀 9年崩 52歳 このように日本書紀に書かれた日本武尊の時間記録は記紀旧辞との間にひどい乖離があり、いたるところに矛盾が満載です。 このままでは、二人は親子でないことになってしまいます。これが日本武尊は天皇と血縁関係がないという説にもつながります。真実がどうかは別として、記紀は日本武尊を天皇家の皇子と位置づけていますので、当初は数字に整合性があったはずです。 この矛盾の原因は日本書紀が天皇の年齢を平気で高齢にしながら、天皇ではない日本武尊のような年齢も修正していないことにあります。日本武尊の若いとする有力な伝承があり、天皇の年齢だけを強引に引き延ばしたと考えれば、年齢矛盾が生じるのは当然です。さほど驚くことではありません。 60年の引き延ばし 現行の日本書紀では父日本武尊誕生AD84年から息子仲哀天皇崩御AD200年までが117年間です。本稿はここでも、60年を差し引いた57年間が本来設定されていた姿と考えました。 117年−60年=57年 ただ、これでは日本書紀の年齢に沿って考えると、仲哀天皇52歳崩御では日本武尊が6歳で仲哀を生んだことになります。10歳程度多いのです。すでに、仲哀天皇の項でも説明したように、52歳崩御は長すぎます。整合させるには、仲哀年齢を42歳と10歳引き下げなければなりません。 (16−1)歳+(52−10)歳=57年 【日本武尊と仲哀天皇の年齢関係とその改善策】
少し気になるのが、日本武尊が16歳で仲哀を生んだとなることです。ありえないことではありませんが、本稿は第一子出産年齢の下限を18歳と考えています。これは日本武尊が30歳ではなく、32歳崩御と考えれば良いのです。父景行天皇も18歳で日本武尊を生み、日本武尊が18歳で仲哀天皇を生む命の連鎖と考えました。 【景行天皇の二人の皇子との年齢関係予測】
原文の漢字表記から感じる年齢考察の揺らぎ 日本書紀は日本武尊が崩じた年を、原文漢字では「是歳也、天皇踐祚卌三年焉」としています。和文では「是歳、天皇踐祚四十三年なり」と言い切っていますが、原文の「焉」は基本的には疑問符です。感情的な断定、疑問を打ち消すような強い思いを含む言葉ではないのでしょうか。「景行43年薨去に違いない」と訳したほうが相応しい、編纂者が算出した景行43年なのだと思います。 著者には漢文の素養がないので、以下は余分な解釈かもしれませんが、日本書紀が示す数字の後にはよく「乎」や「焉」という文字が使われ、気になるので調べました。どちらも本来、疑問符だと思うからです。原文に対する和文で調べると「乎」は疑問符で、問題ないのですが、「焉」がよくわかりません。 「大漢和辞典」によると、第一はやはり疑問符、むろん、語調を整える助辞とか、断定の意を表す助辞の意味もあります。「焉」は漢文独特の言葉「いずくんぞ」とも読まれ、疑問・反語そして推量と続く言葉です。【安んぞ・焉んぞ・悪んぞ・寧んぞ】(副詞)(「いずく(何処)にぞ」の変化)漢文訓読の用語で、後に推量表現を伴って反語を表す。(どうして・・であろうか、そうではない)となるのです。 数字に関する和文で「なり」と訳されることに、どうしても疑問が残ります。この言葉どちらも「か」と訳すべき言葉で、日本語では表現できない複雑な感情、日本書紀編纂者の正直な息づかいを感じる言葉だと思うのです。勢いを強める助詞だとしても、疑問・反語が伴うと思います。「断定」だとしても、確定しきれない気持ち、思いが込められた文字だと解釈してはいけないのでしょうか。 古事記に面白い比較例がありました。日本武尊が、東征を父景行天皇から命じられたときの有名な言葉です。 「天皇既所以思吾死乎」=「天皇、既に吾死ねと思ほす所以乎」、そのあと、 「猶所思看吾既死焉」 =「猶(なお)吾既(すで)に死ねと思ほし看(め)すなり」と 「乎」「焉」両方が使い分けられています。二度目に使われた「焉」は断定の「なり」ではなく「乎」より強い思い、強い疑問符ではないでしょうか。現代訳では、 「やはり天皇は吾に死ねと思っている」 とはっきり決めつけていますが、ここは 「やはり天皇は吾に死ねと思っているのか」と諦めきれない思いと自分に言い聞かせる思いが交錯した感情表現にしたいのです。日本語では表せない機微がみえて面白いと思いました。日本書紀の数字には「乎」や「焉」が多いのは、日本書紀編纂者の推測の気持ちが多分にあるからだと思います。 【日本書紀 日本武尊と仲哀天皇の年齢】
【本稿 日本武尊・仲哀天皇の年齢】
景行天皇を父としない吉井巌氏の説 吉井巌氏『ヤマトタケル』によると、古事記から描き出された系譜を見て、あり得ないと景行天皇と日本武尊の親子関係に疑問を抱いています。
「どのような事情を考えても、父である人が、その子の曽孫と結婚するということはありえないことで、景行天皇とヤマトタケルとの親子関係を切って、二人を他人と考えれば、内容上の矛盾はすべて除かれるのである。」 確かに、古事記の景行天皇のところを系譜にまとめると、上記のように景行天皇の子孫、訶具漏比売が景行天皇の妃として若建王を生む記述があります。これを詳しく示すと次の通りです。 【古事記 景行天皇の系譜矛盾】
古事記はいろいろな伝承を神代の記録から掲示しています。そのために上記のような矛盾が生じたのでしょう。日本書紀はこの古事記の矛盾に気付いたようで、迦具漏比賣命の記録は一切載せていません。 【古事記(景行・仲哀・応神)における日本武尊の系譜】
古事記には漢字表記が違う4回の「カグロ姫」の記述があります。 @とAは同じ系譜を示すので「訶具漏比賣命」「迦具漏比賣命」の「訶」「迦」の文字の違いはありますが同じ人を指します。同様に、「大江王」と「大枝王」も同じ。日本書紀の「彦人大兄」と同一人物です。ただ、記録が別にあったと判断できます。 本稿の考えでは、矛盾を正すには、景行記に書かれた@の文言「訶具漏比賣。生御子、大枝王」を削除するべきです。つまり、同名の迦具漏比賣命が景行天皇妃と応神天皇妃のどちらにもいたか、たぶん、景行妃の方が日本武尊の母、伊那毘能大郎女の妹、伊那毘能若郎女の間違いです。このままだと日本武尊の曾孫、須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売が大江王を生んだということになり、吉井巌氏が描く、訶具漏比売の夫に景行天皇が再登場し、系譜のループが生まれるのです。 伝承群を分解してみると、3種類の系譜が混在しています。 1.景行天皇――日本武尊――仲哀天皇――応神天皇 2.日本武尊――若建王――須売伊呂大中日子―訶具漏比売 3.大江王――大中比売――香坂・忍熊王 これを無理につなぎ合わせる必要はないのです。むしろ、いろいろな伝承を現在に残してくれた古事記そのものに感謝したいくらいです。 応神記にも同じ迦具漏比売が応神天皇の妃として登場しています。日本書紀が紹介されていない迦具漏比売ですので否定され、無視されることが多いのが実情です。年齢研究の立場では、この迦具漏比売は景行天皇の妃と考えるより、応神天皇の妃と考えた方が相応しいと思います。 【古事記に載る迦具漏比売の二重系譜解消の提案系譜】
紀年を外すと見える日本武尊が崩じた後の生々しい実情 日本武尊が景行43年に崩じ、その後17年後に景行天皇が崩御されます。本稿は年齢検証から、これは7年間に過ぎないと考えました。 日本武尊薨去の記事の次が、8年後の景行51年正月に飛び、大宴会が開かれ何日も続いたとあります。同年8月に成務が皇太子になります。次の成務即位前期紀には景行46年のこととあり、それは日本武尊薨去の3年後のことです。このように実際には、この大宴会は日本武尊薨去のすぐ後に挙行された可能性があります。 宴会理由は書かれていませんが、景行天皇は日本武尊の死を喜んでいるようです。これに対し、息子の成務と武内宿禰は日本武尊の死を悼み、父のこうした宴会に参加せず、国家存亡の危機と宴会そのものに危惧を抱いているような表現です。宴会の翌年、日本武尊の母播磨稻日大郎姫がなぜか急逝。2ヶ月後、皇后を成務の母八坂入媛に切り替えています。これらのことが、短期間で行われたのでしょう。緊張感漂う日本武尊没後の事象といえます。 さらに我が子を偲ぶ旅として、東国に巡航。永藤靖氏は、「常陸国風土記」を詳細に調べ、景行天皇の東国行きの話は完全に、日本武尊のステレオタイプと分析されました。風土記では二人の行動は同じだというのです。それゆえ、景行天皇は東国には行っていないと結論づけていますが、ここは肥大化した日本武尊軍閥の景行天皇による統制の一環と見ることも可能です。東国再制圧が目的ではなく、軍内部の一本化、支配地域の掌握の為の巡行と思われます。日本武尊が歩んだ各地の要所のみを景行天皇が巡ったのはむしろ当然の行軍だったのです。 その後、大和に一旦戻りますが、休む間もなくすぐに、景行天皇は近江国に向かい、その高穴穂宮で崩御されました。この宮殿は大津市穴太地区が有力です。日本武尊が唯一敗れた伊吹山の神、もしくはこの地を治める有力な息長氏などとの調停を目指していたのかも知れません。後に、景行天皇に同行したと思われる仲哀天皇がその息長氏、息長帯比売を皇后に迎えたことも自然の流れです。 次の成務も景行天皇に同行しており、旅先での景行の葬儀に立ち会い、同地、高穴穂宮で即位しますが、この地で崩御されたので、短期在位の天皇でしょう。たぶん、成務天皇に皇位継承後の力はなく、実弟に引き継がれることなく、軍事力に勝る日本武尊の息子仲哀に引き渡されたのでしょう。 アレキサンダー大王と似る人生 古代ギリシャの北、小国マケドニア王の息子アレキサンダーは、父の残した軍隊を率いて一大帝国を築きました。 BC356年に生まれ、18歳で父に従い、ギリシャ全域を制圧。2年後、父が暗殺され、それ以降、ペルシア王国さらにインドまで遠征、部下達の進言により見切りをつけBC324に帰国しました。その間、各国の娘を娶り、宥和政策をとり、部下達にも奨励。帰国した翌BC323年、蜂に刺されて急逝。32歳です。暗殺説もあります。その後、母、妃、異母兄弟の反目、遺将たちの離反。国はばらばらに分断され王家の血は断絶しました。 追記:塩野七生氏から、死亡原因について「現代の研究者たちは、マラリアということで一致している」と教えられた。また、細かなことだが、BC356年7月生まれBC323年6月10日死亡なので、数えで享年33歳となる。(2018/7/23) 日本を投影して想像するに、大和という内陸から南下、遠征した日本武尊です。九州地区は大和より古く、より文化水準は高い土地ですが、中国史書、魏志倭人伝などに書かれた通り小国群です。ギリシャのような都市国家の形成条件は、複雑なリアス式海岸にあると言います。日本の地形と似ています。日本武尊はバラバラな部族をひとつずつ制圧したのでしょう。 有名な英雄は、いろいろな民族が自らの血につながった直系の人物としがちです。日本武尊も同じかもしれません。古事記には息長氏との関連を示す系譜があります。天皇一族も、息子の一人を、双子にしてしまうことはよくあるようにも思えます。 参考文献 神谷政行『神武天皇の年齢研究』叢文社 2018 吉井巌「ヤマトタケル」学生社 S52 松本直樹「景行記の一文『天皇知其他女恒令経長眼亦勿婚而惚也』の読みと解釈」早稲田大学教育部 学術研究(国語・国文学編)第55号2007 永藤靖「『常陸国風土記』の景行天皇―移動する王権」明治大学考古学研2009 塩野七生「ギリシャ人の物語V」新潮社2017 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |