天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
武内宿禰の年齢 たけのうちのすくね First update 2018/07/20 Last update 2018/07/20 丙戌AD86景行16年降誕〜丁卯AD367仁徳55年282歳薨去 『扶桑略記』『仁寿鏡』 甲申AD84景行14年降誕〜壬戌AD362仁徳50年279歳以上 『日本書紀』 甲午AD334景行 4年降誕〜癸酉AD433仁徳即位元年薨去 本稿 『扶桑略記』(仁徳)五十五年丁卯〜春秋二百八十二歳薨。歴六代朝二百卌四年也。 『愚管抄』 大臣武内宿禰、此大臣帝六代御うしろみにて、二百八十余年を経たり。隠れたるところを知らず。 『一代要記』当代(仁徳)五十年壬戌薨年二百九十巳経六代。但薨年不詳 『仁寿鏡』 仁徳五十五年薨 年二百八十二。 その他、『水鏡』280歳、『公卿補任』312歳、一説295歳、『海東諸国記』340歳、『石清水社史系図』360歳、 中国『宋史日本伝』307歳など 武内宿禰は大変な長寿です。成務天皇と(同年)同日生まれとあるので、これがAD84景行14年とすると、AD362仁徳50年に歌われた武内宿禰の歌が残っているので、少なくとも279歳以上のはずです。薨去年はわかりませんが、扶桑略記や仁寿鏡が仁徳55年薨を主張しています。その結果、天皇6世代(景行、成務、仲哀、神功、応神、仁徳)に仕えた記録があることから、忠孝の祖とも言われています。 『続日本紀』では天平8年11月条に臣下の忠誠の見本として「建内宿禰」を「君に事ふるの忠を尽して、人臣の節を致しき」、「命長かりしことは、世に比なくて」などと評価しています。 神功皇后に寄り添い、審神者としての役割を果たし、渡来人との交流もあり幅広い人脈をもつ人でもあります。武内宿禰の系図の裾野は大きく広がっています。 日本書紀(古事記)が示す武内宿禰の主な記事
注:網掛がない記事は日本書紀のみ。応神13年は古事記のみ。 (古事記)は日本書紀だけでなく古事記にも同一記録あり。 上記は日野昭氏が分析されたものに基づくものです。日本書紀のほうが、古事記より内容が豊富です。唯一古事記独自とされる髪長姫の話も武内宿禰の関与が書かれていないだけで物語は日本書紀にも出てきます。応神9年の話は武内宿禰の名がないだけで、古事記にも書かれています。時間が経つと伝承は話が大きく広がり、描写もより細かになります。日本書紀は古事記を見て書いていることはあきらかです。 現在、武内宿禰はその実在を否定されています。岩波版「日本書紀」補注に代表されるように「武内宿禰の実在性については、その可能性はうすく、伝承上の人物であることはあきらか」となっています。あまりに長寿であることを前提に、いろいろな人物の合算だとか、蘇我氏の始祖としてねつ造された説や内臣中臣鎌足に利用されたとする説などいろいろあります。 300歳などあり得ないと安易な否定は本末転倒です。また、天皇のために創作された人物という解釈は本来逆で、武内宿禰の大きな存在があったからこそ、天皇系譜に組み込まれ、蘇我氏などに利用されたのだと思います。こうした例は日本武尊でも著しく、大和朝廷だけでなく他の多くの氏族が武内宿禰や日本武尊との血縁関係を主張しています。 本稿は日本書紀が天皇在位を故意に長くしたことで、年齢が引き延ばされたと考えています。記紀が示す伝承の一つ一つがあまりにリアルです。生死をぎりぎりに渡り合う彼の生き様は共感できます。 今更、武内宿禰は実在した、などと主張すると馬鹿にされそうですが、あえて年齢にこだわります。 武内宿禰の父と系譜 武内宿禰は8代孝元天皇を始祖に持つ天皇家の人間と描かれています。 具体的に見ると、古事記と日本書記では系譜が少し異なります。古事記は、武内宿禰について孝元天皇と妃の一人伊迦賀色許賣命との間に生まれた比古布都押之信を父と紹介しています。日本書紀は一代多く曾祖父として、彦太忍信を祖父、屋主忍男武雄心を父としました。たぶん、時間管理を始めた日本書紀において、孝元天皇の孫が武内宿禰では、系譜に無理があると気付いたのでしょう。伝承の進化形といえます。日本書記が屋主忍男武雄心を継ぎ足したようです。日本書紀にはこのような継ぎ足しのような人が他でもよく登場しています。 【古事記が描く武内宿禰の系譜】
【日本書紀が描く武内宿禰の系譜】
武内宿禰の誕生年 成務天皇は武内宿禰と同日生まれです。「同日」とは、本来の趣旨は同年・同日の意味です。日本武尊が双子であるのと同じ手法で、天皇系譜に載る人物の横に並べ、時間軸を揃え、取り込む一つの手段です。 成務天皇崩御はAD190成務60年107歳とありますから、生まれはAD84景行14年になります。 【日本書紀 成務天皇3年条】
成務「3年春2月1日、武内宿禰を大臣とされた。天皇と武内宿禰は同日生まれであって、そのため特に可愛がられた。」宇治谷孟訳 武内宿禰のように生まれた事情を日本書記が記すのは珍しいことです。武内宿禰が長寿であることを知っていて、彼らなりに調べたようです。それによると、景行3年、天皇の紀伊行幸は不吉として中止され、替わりに派遣されたのが武内宿禰の父屋主忍男武雄心です。その紀伊に9年間住み、土地の娘、影媛を娶り武内宿禰が生まれました。 【日本書紀が描く武内宿禰誕生】
本居宣長は「古事記伝」のなかで、武内宿禰が生まれたのは父が紀伊にいた景行4年から12年としました。ところが、これでは同じ年齢と紹介された成務天皇の年齢と合わないため、日本書記の記述自体を疑っています。 成務天皇の誕生年は年齢記述から3種類が考えられますが、計算上一番早い誕生でも、景行14年生まれで、武内宿禰が生まれた景行4年から12年には入らないのです。 拙著『神武天皇の年齢研究』で述べたとおり、景行4年に成務天皇の母が紹介されているので、成務は景行4年生まれの可能性があると書きました。他の古代天皇も同様ですが、后妃、日嗣の皇子の紹介年度は、子の誕生が同時に母の地位を保証しているのです。 日本書紀の記述に沿い、本居宣長が示した景行4年からの生まれとも一致します。武内宿禰は景行4年、紀伊生まれです。 【本稿が試算した景行天皇・成務天皇の年齢と武内宿禰誕生】
武内宿禰の政治参画 次に問題にされるのが、武内宿禰の最初の記述です。景行25年「武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を査察させられた」とあります。よく解説書に、日本武尊が景行27年16歳で九州に出陣する事前調査として説明されるものです。この点、本居宣長は、景行14年生まれとしても12歳、若すぎるとあります。 この旧辞をよく見ると、日本武尊は最初、西の九州に向かうのであって、武内宿禰は東方を調査しているのです。たぶん、この伝承は日本武尊が西征から戻り、東が騒がしくなる景行天皇晩年の事ではないでしょうか。 本稿は景行天皇在位60年を半分の30年と考えています。日本武尊は23年には薨去され、景行25年と書かれた武内宿禰の東方行きは、そのままの年号を使い、景行天皇自身が東国、北陸をめざす晩年の旅の事前調査と考えたほうがいいと思います。すると、このとき武内宿禰は22歳です。日本書紀の年号引き延ばしの際に生じた伝承記事の配列の乱れ、誤解といえます。 武内宿禰と神功皇后との出会い 武内宿禰の東方そして北陸諸国を視察した経験が、景行天皇晩年のことであったとすれば、さらに武内宿禰が活躍する様子が見えてきます。 神功皇后(気長足姫)は琵琶湖から北陸に拡がる息長系氏族と考えられます。景行・成務天皇の最期の地、高穴穂宮は現在の琵琶湖大津です。北陸遠征に随行したと思われる仲哀に気長足姫を紹介したのも武内宿禰だったかもしれません。その後、成務天皇も亡くなり、引き継いだ仲哀天皇のいる九州に神功皇后を導いたのも武内宿禰です。後に生まれた応神に、かつての幼なじみ亡き成務天皇の弟の孫娘3人を引き合わせたのも武内宿禰のような気がします。日本武尊との接点はあまりなかったとしても、次々替わる天皇達と関わり続ける武内宿禰の技量は計り知れません。 武内宿禰の最晩年 武内宿禰最晩年の歌が、古事記には仁徳の巻の最後に載り、日本書紀には仁徳50年の記事として紹介されました。仁徳天皇が「汝こそは世の遠人、汝こそは国の長人」と長寿を称えたうえで、大和の地で雁が卵を産んだ話を聞き、長老の武内宿禰に、このようなことが昔もあったのかと問い、武内宿禰は、聞いた事がないと答えた歌です。 この伝承も古事記から日本書紀へ進化する様子がよくわかるものです。古事記では老齢の武内宿禰を「召す」と宮廷に呼び出していますが、これを日本書紀は修正し、老人を気遣うように、使者を武内宿禰の元に遣わし問うています。 古事記では、仁徳記の終盤の記事であり、これに沿って日本書紀も仁徳50年の晩年のことにしたのでしょう。 この時、武内宿禰の返歌は古事記に二つありますが、日本書紀は一つだけを載せました。問題はその日本書紀が省いたと思われる古事記に残る歌です。
日の御子(皇子)であるあなた様が、いつまでも末永く国をお治めになるしるしとして、 雁は卵を産んだのでありましょう。(次田真幸訳) 原文漢字は万葉仮名風の当て字なので省略しましたが、日野昭氏や倉野憲司氏などが指摘しているように、武内宿禰は仁徳天皇のことを「皇子」と呼んでいます。仁徳即位前の歌なのです。この歌は天皇位を継ぐのは仁徳、あなたが相応しいと言っているのです。しかし、日本書紀は、古事記の掲載位置の方を尊重し、この伝承歌を矛盾するとして落としたようです。日本書紀に限らず古事記にも、武内宿禰を長寿にしたい意図があったと思われるのです。 歌の意味合いから、日本書紀の上では即位前2年間の空位の頃の歌とするのが妥当と考えます。よって武内宿禰薨去は即位前後です。 長寿年齢の推理 従来から言われる武内宿禰と関わりがあった殿上人は6人です。しかし、年齢に関わる実際の記録は、3人に過ぎません。 武内宿禰の年齢=成務天皇の年齢+仲哀天皇在位年+応神天皇の年齢
日本書紀の記述から武内宿禰の年齢を求めてみると、雁の歌が残る仁徳50年の翌年を薨去年にすると280歳で、一般史書が多く採用しています。どれも、日本書紀の記述に沿って計算していたようです。 AD84景行14年生〜AD363仁徳51年=280歳 これまでの情報と本稿の天皇在位年から年齢を求めてみます(拙著『神武天皇の年齢研究』参照。)成務天皇と同じ年AD334景行4年に生まれ、崩御年齢は37歳でした。次の仲哀天皇は空位1年と在位9年で10年。応神天皇は仲哀天皇崩御の翌年を1歳としているので50歳。仁徳天皇即位前に2年の空位。翌年の仁徳元年には薨去されたと考えました。結果、ちょうど100歳。百寿です。これが日本書紀編纂者が考えていた武内宿禰、本来の年齢です。 成務天皇降誕AD334景行4年生〜AD433仁徳即位元年薨去 =成務37歳+(空位1年+仲哀在位9年)+応神50歳 +(空位2年+仁徳1年)=100歳 【武内宿禰の年齢】
現実的には古事記のように、神功皇后の摂政在位を認めず、応神天皇在位を32年と考えれば82歳となり、武内宿禰の年齢はさらに下がりますが、これ以上の数字を弄るのは無意味です。 100歳−9年−(41年−32年)=82歳 参考文献 神谷政行『神武天皇の年齢研究』叢文社2018 日野昭「武内宿禰の伝承」『日本古代氏族伝承の研究』永田永昌堂S46 藤井浩一郎「武内宿禰の正体」河出書房新社 2012 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |