天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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成務天皇の年齢 せいむてんのう

First update 2012/07/22 Last update 2012/10/07

 

辛巳261年生    〜  乙卯355    年崩  95歳 古事記

甲申 84景行14年生 〜 庚午190成務60年崩 107歳 日本書紀

癸未 83景行13年生 〜 辛未191成務61年崩(109歳)扶桑略記、紹運録

乙酉 85景行15年生 〜 辛未191成務61年崩 107歳 愚管抄

癸未 83景行13年生 〜 辛未191成務60年崩 108歳 一代要記

辛亥351年生     〜 壬午382成務 3年崩  32歳 本説

 

和風諡号 日本書紀:稚足彦(わかたらしひこ)天皇  古事記:若帶(わかたらし)日子(ひこ)天皇

皇宮   日本書紀:高穴穂(たかあなほ)宮   古事記:近淡海(ちかおふみ)志賀(しが)高穴穂(たかあなほ)

陵墓   日本書紀:狭城盾列(さきのたたなみ)陵  古事記:沙紀之多他那美(さきのたたなみ)

 

父  景行天皇 その第3子(日本書紀)、第4子(古事記)が成務天皇に当たる。

母  皇后 八坂入姫命 美濃の八坂入彦皇子(崇神天皇の皇子)の娘

子  不明。日本書紀に「男無」とある。

   古事記では和訶奴氣(わかぬけ)王とある。母は弟財郎女(おとたからのいらつめ)建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘(穂積臣等の祖。)

 

【成務天皇関連年表】日本書紀の記述より

 84景行14年  1歳 成務天皇降誕

113景行43年 30歳 日本武尊薨去30歳 32歳?

116景行46年 33歳 成務を皇太子24歳(成務紀)

121景行51年 38歳 成務を皇太子   (景行紀)

130景行60年 47歳 景行天皇崩御106歳

131成務 1年 48歳 成務天皇即位1月5日

132成務 2年 49歳 景行天皇を山辺道上陵に葬る。母前皇后八坂入姫命を皇太后とする。

133成務 3年 50歳 武内宿禰を大臣。成務天皇と同日生まれという。

134成務 4年 51歳 全国の国郡に長、県邑に首を置く詔

135成務 5年 52歳 全国に造長(みやつこおさ)を置き、盾矛を賜る。国県を分け邑里を定めた。

178成務48年 95歳 足仲彦尊(仲哀)31歳を皇太子とする。(仲哀前紀記述より)

190成務60年107歳 成務天皇崩御。(成務6〜59年まで一切記述なし)

 

【成務天皇系譜】

          両道入姫命

  播磨稻日大郎姫   ├――――仲哀天皇

    ├―――小碓尊(日本武尊)  ├―――応神天皇

    ├―――大碓皇子     神功皇后   |

  景行天皇                  |

    ├―――成務天皇            ――――仁徳天皇

    ―――五百城入彦皇子――品陀真若王  |

    |              ├―――仲姫  (仁徳皇后)

  八坂入媛             ├―――高城入姫(仁徳皇后の姉)

  (美濃の娘)           ├―――弟姫  (仁徳皇后の妹)

              尾張の金田屋野姫命

 

各史書の矛盾と曖昧な記述の多さ

日本書紀の年齢記述には多くの誤りがあります。特に崩御年齢と太子年齢が一致していません。またかと最初単純に考えていましたが、その後の史書に目を移すと目を覆うばかりの惨状になってしまうのです。煩わしいことですが、原因理由をまとめておく必要を感じました。

日本書紀では、190成務60年に107歳で崩御とあります。問題は太子になった年齢です。成務即位前紀では116景行46年24歳の時と書かれたのですが、107歳崩御では33歳のはずです。しかも前景行紀では太子になるのは景行51年のこととされたのです。38歳になります。

 

生誕       84景行14年  (1歳)

太子(成務紀) 116景行46年        24歳

太子(景行紀) 121景行51年 

即位      131成務 1年 (48歳) (39歳)

崩御      190成務60年 107歳  (98歳)        ()内は計算値

 

ところが、その後に書かれた扶桑略記が問題をさらに複雑にしてしまいます。以降、成務天皇在位を61年としたからです。つまり、成務と仲哀の間にある日本書紀の空位1年はなかったと考えたのです。

その結果、扶桑略記は成務天皇の崩御年齢を示しませんでしたが、83景行13年に生まれ、131成務1年49歳で即位と書かれていますから、在位が61年ですので、崩御年が191成務61年109歳と計算されます。

愚管抄はこの記述を修正して見えます。成務在位期間を61年とした上で、崩御年齢は日本書紀の記述107歳を尊重したのです。その結果、誕生年が1年遅れます。

一方一代要記は成務在位を60年としましたが、年齢推移は扶桑略記に準拠しましたから、崩御年齢は108歳です。

なぜ、空位年がないと主張できたのでしょう。次期仲哀が太子に立った成務48年で31歳だとあるからです。これだと、仲哀天皇は仲哀9年53歳で崩御されたことになります。52歳崩御と書かれてあるのです。しかし、空位期間の1年がないとすれば53歳は52歳となり解決するのです。中世の史書はこの記述を重視していたと思われます。

日本書紀の編纂過程で年齢修正が入った形跡であると考えたほうが無難のようです。

 

【成務天皇 史書別】

     888888889 〜 2223333 〜 8889999 成務

年    234567890 〜 7890123 〜 8890123 年齢

日本書紀   @ABCDEFG〜―――――48―――〜――――07    107

扶桑略記  @ABCDEFGH〜―――――49―――〜―――――09   109

愚管抄     @ABCDEF〜―――――47―――〜―――――07   107

一代要記  @ABCDEFGH〜―――――49―――〜――――08    108

在位期間  ――――――景行天皇――――→←――成務天皇――― ←仲哀

 

日本書紀に記された仲哀天皇以前の在位年の信頼性

この頃の歴代天皇の系譜は、第10代から順に崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、そして第13代、成務天皇です。このなかで垂仁天皇、景行天皇、成務天皇と続く三代天皇の崩御年が同じ干支庚午(こうご)年という珍現象が日本書紀で描かれています。在位年がそれぞれ同じ60年なのはどういうことなのでしょうか。この頃になると在位年すら信用できなくなっています。

実は古事記では、この間の垂仁天皇と景行天皇の崩御年が示されていません。崇神天皇崩御318年と成務天皇崩御355年はわかっていたのです。その差が37年間です。たぶん、この頃の垂仁、景行天皇の崩御年は古事記も日本書紀の編者もわからなかったのだと思います。

そこで、古事記の記述を見た日本書紀の編者は37年=12年+12年+12年+1年と分解して考えたのではないでしょうか。これを、年号を引き延ばすために60年干支に置き換え、60年+60年+60年+空位1年としたのです。12年干支を60年干支に置き換えたのです。垂仁天皇の在位年は別に考える必要がありますが、日本書紀は大まじめに成務天皇の在位年を60年としたのです。

つまり、成務天皇と仲哀天皇間に横たわる日本書紀が示す1年の空位期間は調整年数と考えられます。

明らかに干支を意識したものです。これは日本書紀の作為と考えられます。

そこで本稿では、これ以前の天皇在位期間は日本書紀に即した考え方を捨てます。

古事記も在位期間は不明ですが、崩御年はわかっており、次期、仲哀天皇即位の前年としました。

また、古事記の記述に従い、崇神天皇の崩御年から、37年後が成務天皇の崩御年と予測できます。

つまり、成務天皇の在位期間はこのままでは不明のままなのです。

 

【古代天皇の崩御年】

 

代数  天皇名

日本書紀

崩御年     在位期間

古事記

崩御年    在位期間

10代 崇神天皇

11代 垂仁天皇

12代 景行天皇

13代 成務天皇

    空位

14代 仲哀天皇

戊寅BC30年 68年間

庚午  70年 99年間

庚午 130年 60年間

庚午 190年 60年間

         1年間

庚辰 200年  9年間

辛卯318   −

        ―

        ―

乙卯355 (37年間)

        ―

壬戌362 ( 7年間)

 

成務天皇と武内宿禰と日本武尊

成務天皇は武内宿禰と同日生まれです。

三年春正月癸酉朔己卯、以武内宿禰、爲大臣也。

初、天皇與武内宿禰、同日生之。

故、有異寵焉。

 

景行3年に武内宿禰が生まれたような記述がありますから、昔から同年生まれではないとされていますが、ここでは、岩波版注釈の通りで、本来の趣旨は同年・同日の意味だった考えます。

武内宿禰は別途大がかりな検証が必要です。

 

一方、意外と知られていませんが、日本武尊(やまとたけるのみこと)も成務天皇と同年生まれと計算されます。

成務天皇 84景行14年生〜190成務60年 107歳崩

日本武尊 84景行14年生〜113景行43年  30歳薨

これも日本書紀内で微妙な計算誤差があります。

 

成務天皇は116景行46年24歳で太子とありますから、誕生は93景行23年なのかもしれません。

日本武尊は 97景行27年16歳で出征とありますから、誕生は82景行12年なのかもしれません。

 

系譜のニュアンスでは成務天皇は日本武尊より後に生まれたようですから、2歳年下としてみました。

いずれにしろ、この三人は同世代の人だと結論付けします。

 

日本武尊は景行43年に薨去されました。その後、景行51年に景行天皇は大宴会を開いています。成務は武内宿禰とともにこの時、欠席しています。なぜ、欠席したのでしょう。

この大宴会は年号上、日本武尊の死後8年後のことですが、記述上では薨去の後、すぐに大宴会の記事となっているのです。日本書紀の年号記述には注意する必要があるのです。実際には、この大宴会は日本武尊薨去のすぐ後に挙行されたと思われるのです。景行天皇は日本武尊の死をまるで喜んでいるようです。これに対し、息子の成務と武内宿禰は日本武尊の死を悼んでいるようです。また、父景行天皇のこうした幾夜も続いた、どんちゃん騒ぎに危惧していたと書かれています。

少なくともこの頃、武内宿禰は成務と行動を共にしていることは注目に値します。

 

日本書紀に子供の記録はありません。一方、古事記では一児が記録されています。

建忍山垂根(たけおしやまたりね)の娘(穂積臣等の祖)、弟財郎女(おとたからのいらつめ)を娶り、一子、和訶奴氣(わかぬけ)王を生む。」古事記

しかし、この妃は日本書紀では、日本武尊の妃の一人になっているのです。

次妃、弟橘は穗積氏忍山宿禰の娘である。稚武彦王を生む。」日本書紀

 

ようするに、ここでは単純に記録違いと考えるより、成務天皇は日本武尊と間で子供達が混乱を起こすほど近しい関係だったと考えたいのです。

 

年齢根拠

成務天皇の年齢は応神天皇の誕生年と日本武尊の二つ年齢から割り出しました。

 

まず、応神天皇は成務天皇の弟五百城入彦の孫娘3人を娶りました。二番目の娘、仲姫が仁徳天皇を生みます。一番目と二番目の娘を2歳差として、その真ん中で応神天皇が生まれたとしました。応神天皇にとって、1歳年上と1歳年下の姫を同時に娶った形です。

 

次に三人娘の父品陀真若王は18歳で長女と思われる高城入姫を生ませたと考え、さらにその父、五百城入彦は20歳で品陀真若王を生んだと考えました。品陀真若王が五百城入彦の第何子目に当たるかわからないから20歳です。そのすぐ上の同母兄が成務天皇になります。2歳上としました。

 

一方、成務天皇は景行天皇の第3子、古事記では第4子です。第2子が日本武尊です。双子の弟ですから、成務天皇より2歳年上としました。母が違うので不明な部分が多いのですが、2人の年差はあると思えません。

日本書紀は年齢が同年生まれとしています。すると、仲哀天皇は日本武尊が18歳のときの子供となります。かつて仲哀天皇の年齢を考察するなかで、私自身もっと高齢ではないかと考えていたのですが、高齢にできない理由がこの成務天皇の年齢による拘束事項です。

 

その結果、日本武尊は30歳で薨去されますから、景行天皇はその後崩御され、成務天皇に引き継がれるのです。成務天皇の在位期間がわからないので困りましたが、最短でその翌年には崩御されたとしても、成務天皇即位は380年となり、成務天皇の在位は3年間しかないことがわかります。

 

【応神天皇から遡る成務天皇の年齢予測】

300 555555566666666667777777777888888888899 年

年   345678901234567890123456789012345678901 齢

応神天皇                                     @A41

仲姫                                        @

高城入姫                                    @AB

品陀真若王                  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS

五百城入彦ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―?

成務天皇CDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――3032         

日本武尊−EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30            

仲哀天皇             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24  

                   ――――景行天皇在位―→←成務←―仲哀天皇→

 

検証

1.成務天皇は景行天皇と同じ宮で崩御されました。高穴穂宮です。琵琶湖近江の地です。本来、即位によって新しい宮を築造すべきところ、それが出来なかったのは在位期間が極めて短いと考えられます。

 

2.日本書紀に妻子の名がありません。少なくとも「男無」(仲哀前紀)です。古事記でも1妃1子にすぎません。こう少ない事例では若いと想像できます。しかし、これ以上若くはできません。

 

3.感覚的イメージになりますが、景行天皇は第2子の日本武尊を太子と定めず、第3子の成務を後継者と定めています。ところが、成務天皇は太子を実弟の五百城入彦皇子にせず、日本武尊の息子をわざわざ指名して譲ったのです。日本武尊が薨去された後の成務天皇への太子指名であり、さらにその後英雄の記憶が新しいなかでの仲哀天皇への譲位と考えることができると思います。

 

4.成務天皇の母、八坂入媛は13人の子供を生みました。古事記はこれを3人の媛の子と別けています。古事記のほうが正しいと思いますが、年齢検証では、順に生まれたとしました。日本書紀が同一媛の子供と主張する以上、時間的間隔があるはずです。案の定、2歳差で生み別けたと考えると成務誕生から26年で景行天皇崩御の4年前に生み終わる計算で、つじつまは合うのです。

 

5.日本書紀の記述では、日本武尊は113景行43年30歳で薨去。仲哀が誕生したのは、その36年後、149成務19年となっています。父の死後、20年も後でなければ、息子の仲哀天皇は生まれてこないのです。年齢だけでなく、在位年も引き延ばされていると考えて当然と考えました。系譜を疑う有力な説もありますが、ここではまだ触れることはできません。

 

6.成務天皇の記述では在位は60年も続いたのに、その内容は上記の年表に見るように1年から4年と崩御前1年の記録だけです。あきらかに、短期政権であり、年号の引き延ばし以外には考えられません。

 

 

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