天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
仲哀天皇の年齢 ちゅうあいてんのう First update 2012/07/01
Last update 2012/10/07 己丑149成務19年生 〜 庚辰200仲哀9年崩 52歳 日本書紀他 辛未311年生 〜 壬戌362年崩 52歳 古事記 丙寅366年生 〜 己丑389仲哀7年崩 24歳 本説 父母 父 日本武尊 第12代景行天皇の第二子 母 兩道入姫 第11代垂仁天皇の末娘 子 1.稻依別王(犬上君・武部君、二族の始祖) 2.仲哀天皇(足仲彦天皇、帶中日子天皇) 3.布忍入姫命 4.稚武王 妻子一覧 皇后 氣長足姫尊爲皇后(息長帶比賣命) 子 譽屋別皇子(品夜和氣命)(古事記) 応神天皇(大鞆和氣命。亦名品陀和氣命。) 先娶 大中姫(大中津比賣命) 叔父彦人大兄(大江王)の娘 子 麛坂皇子(香坂王) 忍熊皇子 【日本書紀に基づく仲哀天皇年表】 149成務19年 1歳 仲哀天皇降誕 178成務48年 30歳 太子(31歳と記される) 190成務60年 42歳 成務天皇崩御 191空位 192仲哀 1年 44歳 仲哀天皇即位(成務天皇に世継ぎがいないためとある) 193仲哀 2年2月45歳 角鹿に笥飯宮を建てる。淡路屯倉を定める。 193仲哀 2年3月 紀伊の徳勒津宮(和歌山市新在家)に入る。 193仲哀 2年6月 豊浦津(山口県豊浦郡)に泊まる。7月神功皇后と合流。 9月 穴門豊浦宮(下関市豊浦村)を建てる。 199仲哀 8年1月51歳 筑紫橿日宮(福岡市香椎)に入る。 200仲哀 9年2月52歳 筑紫橿日宮で崩御(52歳) 喪を隠し、船で屍を穴門豊浦宮に移す。皇后同行せず。新羅役。 12月 応神天皇降誕。 202神功 2年11月 仲哀天皇を河内国の長野陵に葬る。 【仲哀天皇の系譜】 狹穗姫 |―――――袁那辨王(第1子) |日葉酢媛命(5柱) | |―――五十瓊敷入彦命(第2子) | |―――景行天皇(第3子) 垂仁天皇 |―――櫛角別王 | |―――大碓命(双子の兄) | |―――小碓命(日本武尊) | 播磨稲日大郎姫 |―――稻依別王 | | |―――――――――――仲哀天皇(第2子) | | |―――布忍入姫命 | | | |―――稚武王 |――麛坂王 |―――――――――兩道入姫皇女(末子)4柱 |――忍熊王 綺戸辺 |―――眞若王 | |―――彦人大兄王――――――――――大中姫 播磨稲日稚郎姫 譽屋別皇子の出自 本稿では、神功皇后が生んだ子は譽屋別皇子と応神天皇の二子とする古事記説を採用します。その理由は、神功皇后が応神天皇を生んだ年齢が29歳と当時としては高齢に成るため、その前に出産した経験があると考えました。 ちなみに、日本書紀は神功皇后の子供は応神天皇ただ一人です。3番目の妃に來熊田造祖大酒主の娘弟媛がおり、その生んだ子が譽屋別皇子としています。 大中姫の父母 仲哀天皇には二人の妃がいました。一人は神功皇后であり、もう一人がその前からいた大中姫です。麛坂皇子と忍熊皇子を生まれました。 仲哀天皇の年齢を探るとき、まず、応神より先に生まれた麛坂皇子と忍熊皇子の年齢がわからなければなりません。大中姫は仲哀天皇の叔父彦人大兄の娘とあります。母は庶妹の銀王を娶り大中姫を生んだとあります。 1.日本書紀は仲哀天皇の叔父彦人大兄の娘大中姫を最初に娶るとあります。 2.古事記は大江王とあり、大中姫は大中津比売命と書かれ、香坂王・忍熊王を生んだとあります。 3.景行天皇と伊那毗能若郎女との子として、日子人之大兄王をかかげています。この伊那毗能若郎女は日本武尊の母と姉妹です。 4.新撰姓氏録は「景行天皇皇子、息長彦人大江端城命之後也」とあります。 一方、日本武尊の曾孫、須売伊呂大中日子王の娘、訶具漏比売の子が大江皇子としています。大枝王とも書かれます。これを認めると系譜が長大で複雑になり、年齢的にありえません。実は応神記にこの迦具漏比売が応神天皇の妃として再登場しています。通説では、日本書紀応神紀では紹介されていない迦具漏比売ですから、否定されがちです。年齢研究の立場では、景行天皇の妃と考えるより、応神天皇の妃と考えた方が相応しいと思います。 【迦具漏比売の系譜】
ややこしいですが、簡単に考えると、彦人大兄王は日本武尊と母同士が姉妹で姉の子が日本武尊、妹の子が彦人大兄王(大江王)で、母は彦人大兄王の義妹(日本武尊の妹など)と考えました。 麛坂皇子と忍熊皇子 仲哀天皇には4人の皇子がいました。生まれた順に麛坂皇子>忍熊皇子>譽屋別皇子>応神天皇です。 下から確認すると、応神天皇は父仲哀天皇が崩御された後、神功皇后が生んだ最後の皇子です。その兄が譽屋別皇子ですが、一切記録がないので、夭折したと思われます。その前、麛坂皇子と忍熊皇子がもう一人の妃大中姫が生んだ兄弟です。大中姫は神功皇后より早く宮中に入った妃です。しかも、父は夫仲哀天皇と同じ、日本武尊の弟、もしくは義弟です。大中姫の母がよくわかりませんが、銀王と呼ばれる、これも日本武尊の妹、又は義妹であるようです。ですから、麛坂皇子、忍熊皇子は日本武尊直系、もしくは景行天皇の直系といえる皇子で身分は神功皇后より高いと思います。 神功は皇后と名付けられていますが、後の天武天皇の母、皇極天皇の時と同じと考えられます。後に自ら天皇となり、二人の皇子も天皇になりましたが、舒明天皇の妻になったときは、身分低き者でした。天智、天武より年上の身分高き古人大兄皇子がいたのです。 神功皇后も仲哀天皇の一妃に過ぎず、後に子が応神天皇として即位したため、仲哀天皇の皇后と格上げされたと思います。 ですから、二人の后妃に大きな時間の差があったとは思えないのです。4人の皇子は順に生まれたと考えられます。生まれたばかりの応神天皇と共に神功皇后が戦った相手、麛坂皇子と忍熊皇子は、それ相応の年齢に達していた皇子とは思えないのです。幼い皇子だったと想像されます。そう考えて、神功皇后と麛坂皇子、忍熊皇子の戦いを読み直すと、なるほどと思える記述が多くあることに気がつきます。 まず、二人の最後の姿です。まず、麛坂皇子は赤猪に襲われ、食い殺されたといいます。その後、弟、忍熊皇子も、皇后軍のだまし討ちにあい、逃げてしまいます。最後、河に身投げしたとあります。まともに闘っていないのです。何とも力なき皇子たちなのです。麛坂皇子は柔らかな肉であり、忍熊皇子は泳げない皇子です。いわゆる子女と同じ扱いです。幼い皇子達をまもる烏合の衆といえそうです。皇子達に強いリーダーシップは見えません。組織された軍隊ではありません。 二人を支えた氏族は誰だったのでしょう。忍熊皇子の後ろ盾は難波の吉師部の祖先、伊佐比宿禰と石上君の祖先の倉見別です。吉師部氏は朝鮮系の官位を示す名前といわれますが、これにこだわる必要はないでしょう。むしろ、大彦命に通じるとあります。大彦命は崇神天皇四道将軍の一人で北陸道を征した人物です。石上君は新撰姓氏録によれば日本武尊の出自とあります。日本武尊の長男で仲哀天皇の兄、稲依別王の子孫です。 ちなみに神功皇后側ですが、武内宿禰、大三輪(大神)氏、物部氏、大伴氏とわかりやすく、その後、天皇家に密着し、大氏族にのし上がる面々です。中臣の名もありますが、後から挿入された不自然さが見られるのでここでは除外します。 つまり、この戦いは意外にも狭い争いにすぎません。日本武尊の子仲哀天皇が崩御された後におこった一族の内輪もめといえます。神功皇后、武内宿禰らが九州地区から引き連れたもの達の応援を得て権力を掌握したのです。大和盆地の地元旧氏族などは静観しているように見えます。 戦場も、吉備から難波、菟道と進み、最後は琵琶湖の瀬田で終わっています。南大和盆地には入っていません。 何故、神功皇后は仲哀天皇一族を根絶やしにし、その結果、息子の応神天皇に、成務天皇系の大和王家の子孫との婚姻政策に力を注いだのです。また、最初に娶った三姉妹の娘は、前大王、成務天皇の弟の子の娘たちです。次は大和和邇氏の娘たちであり、次は九州日向の娘達ということになります。応神天皇は自分の父、その父、日本武尊の娘、孫娘達との婚姻関係を組んでいません。日本武尊の子孫訶具漏比売を妃に迎えるのは応神天皇の最晩年になってからです。 【古事記 応神天皇】
銀王(庶妹) |――――――大名方王 播磨稲日稚郎姫 |――――――大中姫 |――――叔父彦人大兄 | 垂仁天皇――――――――兩道入姫皇女 |――――麛坂皇子 | | |――稲依別王 |――――忍熊皇子 | 播磨稻日大郎姫 |―――――仲哀天皇 | |――――小碓尊(日本武尊) |――――誉屋別皇子 | |――――大碓皇子 |――――応神天皇 |――景行天皇 神功皇后 | 女 |――――成務天皇 |――――仁徳天皇 |――――五百城入彦皇子 | 八坂入媛 |―――――品陀真若王 | 尾張媛 |――――仲姫 (皇后) |――――高城入姫 (皇后の姉) |――――弟姫 (皇后の妹) 女 成務天皇と仲哀天皇の間にある1年の空位期間 成務天皇崩御後、仲哀天皇即位年の間に1年の空位期間があります。 ところで、仲哀天皇は庚辰200仲哀9年52歳で崩御とあります。また、戊午178成務48年に31歳で太子になられた記事があります。しかし、52歳崩御を基準に計算すると成務48年は30歳になり1年少ないのです。この誤差は空位期間をなくせば簡単に解決します。 ほとんどの史書が52歳です。古事記と日本書紀が52歳なのです。当然と言えるでしょう。唯一、仁寿鏡だけが53歳とあります。これは、太子年齢記事が31歳と計算すると53歳になるからと思われます。また、珍しく扶桑略記は崩御年齢を示してしていませんが、壬申年44歳で即位とありますから、52歳崩御は日本書紀と同じです。崩御年齢記載を避けたのは太子年齢の矛盾を慮った為かもしれません。 いままでの経験から、本稿では仁徳天皇の空位期間を除き、空位期間はなかったとしてきました。そこでここでも何らかの力学が働いたものとして空位期間を外して考えました。 古事記と日本書紀の在位年 もう一つ、古事記と日本書紀の在位年には微妙な違いがあります。古事記は355年に前成務天皇崩御され、仲哀天皇に引き継がれ7年後の362年に崩御されました。日本書紀は仲哀9年崩御です。実質2年差があります。ここでは古事記の記述に沿って7年間とします。日本書紀の記述に揺らぎが見られるからです。 以下が一番の理由ですが、本書と古事記の絶対年誤差が27年になるとずっと思ってきました。27年の意味は継体天皇や応神天皇の項で述べました。継体天皇の在位期間のずれが、古事記は単純にずらし続けていたのです。仲哀天皇の在位7年間とすると、古事記は本稿とぴたり27年の誤差となります。 【仲哀天皇の在位期間】
年齢根拠 崩御年齢では日本書紀も古事記も同じ52歳としています。神功皇后の年齢も同じく100歳で同じです。 仲哀天皇52歳崩御はもっと若いのではないかと考えました。 まず、妃が二人しかいません。神功皇后と大中姫です。そして二人とも子供達の年齢は非常に若く、むしろ仲哀天皇が崩御されるとき、この二人はまだ幼いと表現したほうが相応しいと思いました。 次に、仲哀天皇の母は垂仁天皇の末娘と思われる兩道入姫皇女です。祖父の娘になります。仲哀即位したとき、まだ生きておられ皇太后とされたとあります。一概に即断はできませんが、母が健在で天皇になる場合、雄略天皇の母など例など数多くあります。父天皇が若くして崩御され、その子に譲位されたときによく起きる現象です。 また、父日本武尊が薨去されたとき、自分、仲哀はまだ、成人に達していないと言っています。 冬十一月乙酉朔、詔群臣曰、朕未逮于弱冠、而父王既崩之。 もっとも、30歳で崩御されましたから、皇子である仲哀が若いのは当たり前ですが、伝説の英雄、日本武尊はもう手の届くところにいます。日本武尊は天皇にはなりませんでしたが、日本書紀では、仲哀の前天皇の成務と日本武尊は同じ年の生まれです。仲哀も成務も日本武尊と同じく、若くして亡くなったと想像ができるのです。 仲哀天皇の業績は52年の生涯で淡路に屯倉を定めたことぐらいです。あとは九州に向かい崩御されたのです。ただ、彼には行動力があり、広さがあります。 これは想像ですが、父でもある英雄、日本武尊は仲哀天皇の憧れであったと思われます。天皇九州巡幸は、父の足跡をたどる旅でもあったはずです。 18歳即位のはずですから、通常の日本書紀の立場に立ち返れば「若干」と表現されるべきでしょうが、それがありません。そのはずです。日本書紀は仲哀天皇を52歳と宣言してしまっているからです。 なお、本稿では神功皇后の年齢を41歳としましたから、これももう8歳若くに修正しなければなりません。ただ、ここはもう少し崇神天皇の項までまとめた上で、訂正することにします。少し自信がありません。在位年など頼るよりどころがまるでないのです。単純に人の生死を単純計算し積み上げているに過ぎないからです。 その結果、下図は、日本武尊は18歳で長男稲依皇子を出産、仲哀は第二子ですから20歳で生まれたとしました。日本武尊が薨去されたとき30歳、時に子供達は13歳と11歳です。幼い頃父が亡くなったという記事に則しています。その仲哀天皇も早くに祖父、垂仁天皇の娘を娶ります。ですから、たぶん年上でしょう。仲哀天皇も18歳から麛坂皇子、忍熊皇子がうまれたとしました。 天皇になった頃、美しいと評判の神功皇后の噂を聞きつけ、敦賀に向かい、笥飯宮を造り滞在します。 仲哀天皇には偉大な父の業績を継ぐという大きな目標がありました。その為の熊襲退治です。九州に向かいます。父も16歳で九州に向かったのです。遅いくらいです。 神功皇后が同行していないのは、妊娠したため皇后の体を気遣ったものと思われます。 しかし、3ヶ月後には呼び寄せています。船酔いの話や如意玉を海から拾う話などから、まもなく出産を暗示するような記述が続きます。しかし、記述は突然仲哀8年になります。皇子を亡くし、葬式で悲嘆に暮れる沈黙の日々が続いていたのかもしれません。 九州の地では仲哀天皇は皆から思わぬ反対にあいます。今さら痩せた土地の熊襲征伐をしてもメリットがないからです。それより、合流した神功皇后の、宝の山の新羅を目指すべき、との意見に皆が賛同します。その結果、仲哀天皇は崩御されたのです。 その翌年、応神天皇が生まれ、麛坂、忍熊の両皇子は九州から引き連れた神功皇后の軍により殺されました。 本稿の年齢推定は、従来の手法に立ち返り、応神天皇など子供達の年齢から、逆算してみました。 【仲哀天皇と周囲の年齢関係】
©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |