天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
神功皇后の年齢 じんぐうこうごう First update 2012/05/28
Last update 2012/06/24 170成務40年生 〜 269神功69年崩 100歳 日本書紀、愚管抄、他すべて ?生 〜 ?崩 100歳 古事記(一部写本になし) 己未359年生 〜 戊戌398年崩 41歳 本稿 日本書紀:氣長足姫尊、 古事記:息長帶比賣命 開化天皇の曾孫、気長宿禰王の娘。母は葛城高顙媛 仲哀天皇の皇后。後の応神天皇を生む。 【日本書紀上の神功皇后系譜】
古事記は母系の系譜が詳しい。(応神記) ここでは読みにくいので多遲摩を但馬と漢字を入れ替えます。日本書紀にもある場合、代用して意識的に統一しています。 【古事記の神功皇后系譜】
二大古書を比較して、大きな違いは日本書紀では神功皇后の子は応神天皇一人ですが、古事記では 兄に品夜和氣命(ほむやわけのみこと)がいることがわかります。日本書紀では譽屋別皇子(ほみやわけのみこ)は別の妃の子となっています。本書では、記録が別になく、母が曖昧なことから、神功皇后の早くに生まれた子だが、早くに亡くなったとしました。 神功皇后の父母は父が日本書紀、母は古事記が詳しい。これを双方正しいとして合成します。もっとも、日本書紀に記載された神功皇后の父、気長宿禰王には名前がありません。神功皇后が息長帯姫命ですので、たぶん、父は息長氏由来のものと推測したものと考えられます。古事記と日本書紀には差はないと思います。 【日本書紀+古事記の神功皇后系譜】
3代前が開化天皇であるかは別途注意が必要です。また古事記の記述も、祖先が新羅王と過剰反応する必要もないと思います。7代も前の祖先です。これが父母ともに大陸系なら別ですが、むしろ、母方の由緒ある但馬国氏族であることのほうが重要です。 神功皇后の大陸への想い 朝鮮への侵攻は、女性らしい欲から始まりました。むろん、それはその時代の指向であり、誰もが思い描いていた夢だったと思います。それを、この女性は易々と具現化して見せたのです。 神功皇后は神がかりされて言われています。 「熊襲の荒れてやせ衰えた国より勝る宝のある国、例えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩しい金・銀・彩色など沢山ある。私が祀れば、きっと、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。」仲哀紀 「私をよく祀れば、美女の眉のようで、金銀の多い、眼の輝く国を天皇に捧げよう。」神功皇后紀 「西の方に国がある。その国には、金や銀をはじめとして、目もくらむようないろいろの珍しい宝物がたくさんある。私は今、その国を服属させてあげようと思う。」仲哀記 じつは夫の仲哀天皇はこの神懸かりを信じていません。 その結果、翌日には神に殺されます。日本武尊がすでに大まか達成した北九州から、さらに僻地にまで、今さら再度かき回しに行きたいと思う者など誰もいなかったのではないでしょうか。それより、戦うに安く、より多くの利益を約束される、西の海を越えた国のほうがもっと魅力がありました。 最初、兵士が集まらなかったとあります。九州各地で兵士を募集したとする伝承が残っています。 結局は九州各地を転戦し、兵力を拡大し続けた結果といえましょう。 神功紀での年号の考え方 例によって、日本書紀の記述のある年号を照合しました。無地の部分は日本書紀に記述がない年です。 【神功皇后紀に記された年代】
よく見ると、崩御から摂政になられ、翌年神功摂政2年に夫、仲哀の葬儀を行った事実以降、神功のいききした姿はほとんど見いだせません。直論すれば、神功皇后紀の記録は神功摂政2年から69年の崩御まですべては海外文献の丸写しです。13年に応神皇太子は北の海、敦賀に武内宿禰と行っていますが、神功皇太后は同行していません。 海外記事の中には、葛城襲津彦の海外遠征のような生々しい記事もありますが、応神天皇紀でも再度登場する不思議な記述になっています。 もう少し海外事情に関して、細かにみていきます。 【神功摂政紀】
注:【】内は原文注 上記は年号最初の文言を代表して取り出したものです。 己未239神功39年、239年魏志倭人伝景初三年六月、倭女王が遣使した記事の写し。 庚申240神功40年、240年魏志倭人伝正始元年、太守が倭に使者を遣わした記事の写し。 癸亥243神功43年、243年魏志倭人伝正始四年、倭王がまた遣使した記事の写し。 丙寅246神功46年、斯摩宿禰を卓淳國に遣使した記録があったような記述。そのなかで、 百済の肖古王(346〜375)が登場する仕組みになっています。 丁卯247神功47年、百濟王が使いを送り、朝貢されました。ここに、神功摂政と太子が登場し、 故仲哀天皇の意志がかなったと喜んだとあります。 己巳249神功49年、朝鮮に渡り出陣し、卓淳国から新羅を攻める。百済から肖古王親子が参戦。 庚午250神功50年、朝鮮より軍と百済の使いが帰ってきた。使者は神功摂政に、百済は 朝貢を絶やさないと約束し、皇太后を喜ばせたとあります。 辛未251神功51年、朝鮮使が再来日。皇太后はこれ以降にも朝貢を絶やさないよう、 太子と武内宿禰に仰せられたので、百済に使者を送ったとあります。 壬申252神功52年、朝鮮使、再々来日。重宝を納めた。これ以降、毎年朝貢は続いたといいます。 丙子255神功55年、375年三国史記(近)肖古王30年に薨ず。120年のずれ。 丁丑256神功56年、376年三国史記近仇首王1年(諱、須とあり同一)120年のずれ。 壬午262神功62年、382年の百済記の記述と一致していると日本書紀が語っています。 この中心人物、遣沙至比跪は葛城襲津彦となります。 しかも、同様の記事が応神天皇14年にも語られます。 甲申264神功64年、384年三国史記近仇首王10年に王が薨じた、記事に一致。 乙酉265神功65年、385年三国史記枕流王2年に王が薨じた記事に一致。 丁亥266神功66年、266年武帝泰初二年十月、晉起居注の記事を紹介し、「倭女王遣重貢獻」。 確かに晋書武帝紀に「泰始二年、十一月己卯、倭人来献方物」とあります。 つまり、神功皇后の日本書紀での扱いは、年号と人物が重複交差するるつぼということです。 日本書紀の120年のずれは周知の事実です。にも関わらず神功39〜43年は魏志倭人伝の239〜243年を引用して、120年戻して日本書紀自身の表記を合わせています。その後、また120年ずらせた百済記の記述を引用した形ですが、現在には伝わらない記録の数々です。百済国王の変遷記録をまことしやかにそこに挿入したような形です。 最後、また年代を120年古くして266神功66年に晋書の266年の記事を引用するのです。 しかし、ここで示された、「倭女王」は239神功39年に示された「倭女王」と同一人物でないことがわかっています。女王卑弥呼は北史に「正始中(240〜248)、卑弥呼死す」とあるからです。一般的には娘の「壱与」と混同していると言われています。日本書紀はこれを同一人物として誘導してように見えます。同じ神功皇后紀の記述のなかで語られたことだからです。 今どき、神功皇后=女王卑弥呼と考える人はほとんどいません。 しかし、日本書紀にはそれを臭わせる記述になっていますが、そこに注視すると、神功皇后が卑弥呼であるとは、一言もいってはいないのです。有名な魏志倭人伝の年号記述を抜粋します。 魏志倭人伝 238景初2年 6月倭の女王が朝献を求める。 240正始1年 魏から倭国に使者 243正始4年 倭王が魏に献上 245正始6年 魏より仮託 247正始8年 帯方の太守が魏に報告。狗奴国と不和であると。 張政らを倭に遣わす。 ? 卑弥呼死。13歳の壱与を立てる。 北史に「正始中(240〜248)、卑弥呼死す」とある。 ちなみに、神功皇后や葛城襲津彦などの日本人の姿が混ぜられ記録されていますが、その内容は自信なさげです。ここでの記述は2重にも3重にも記録がダブっているのです。 よって、次のように解釈しました。 1.日本書紀の神功皇后の摂政在位は69年です。本稿の共通した例に類推するに、ここでも60年干支分が引き延ばされたと考えました。すなわち神功皇后の正式の在位は69から60を差し引いた同じ9年です。 こう考えると、干支をずらす必要はありません。応神天皇在位41年の前に、神功皇后9年在位があり、その前に仲哀天皇が庚辰380年に仲哀天皇が崩御され、日本書紀の記述と一致するからです。 ですが、本稿ではそう考えませんでした。応神天皇はあくまで年齢41歳としました。よって、この41年のなかに神功摂政9年もかぶるとしました。その理由が以下になります。 2.古事記では、応神天皇崩御(甲午394年)、父仲哀天皇(壬戌362年)ですから、在位は32年と推測できます。神功皇后の在位記録はありません。 3.日本書紀の応神天皇の在位期間は41年です。古事記との差が同じ9年になります。 4.つまり、日本書紀の応神天皇在位年は古事記にはない神功皇后の記録9年が継ぎ足され、日本書紀の応神在位年には古事記と同じ応神天皇在位32年と神功摂政年9年が内在していると考えるべきなのです。 5.もう一つ斉明天皇との共通点です。この二人の女性は朝鮮遠征を命じた女性天皇として、非常に共通点が多い、多すぎる皇后としていろいろ取りざたされています。重祚された斉明天皇在位は7年です。その前皇極天皇時代は2年で合計9年になり、本説の神功皇后9年予測と偶然ですが一致しています。これは、ちょっとこじつけ気味でしょうか。 【日本書紀と古事記の応神天皇在位年の差】
神功皇后の年齢 こうなると神功皇后の年齢はひどく引き下がります。 神功皇后の年齢は古事記も日本書紀も同じ100歳とあります。伝承があったのかもしれません。日本書紀を逆算すると、はじめて紹介記事で載った仲哀2年には24歳、夫が急死した仲哀9年に31歳。翌年摂政となり、69年在位したとなります。 さらに上記の考え方を取り入れると、9年摂政在位とすれば、神功皇后は41歳で崩御されたとなります。応神天皇を出産した仲哀9年は31歳にもなります。当時、初めての子供を31歳で出産することは大変な高齢出産だったと想像します。そこで、ここは古事記の記述に則し、応神を出産する前、敦賀(福井)の笥飯宮にいる若い頃に第一子を得ていたと考えました。 なお、ただ享年100歳というわかりやすい数字にも違和感があります。100歳から逆算したのではないかと疑いが残ります。この件は夫、仲哀天皇でもう少し黙考してみます。 【神功皇后の年齢比較】
さらに神功皇后像を描き出します。 仲哀2年冒頭の神功皇后の紹介記事は日本書紀の通例通り、仲哀全期にわたる結果表示です、仲哀天皇が神功にはじめて会ったのは、当時の結婚適例期、神功の故郷と思われる敦賀に行った時でしょう。美しいと噂の高かった息長帯姫を娶るために敦賀にいき、笥飯宮まで建てています。その後、仲哀天皇は一人九州に向かい、門司の豊浦で後から神功皇后を呼び寄せます。別れがたかったようで、我慢できなかった様子です。なぜ最初から同行させなかったのでしょう。なにか、神功皇后をいたわる気遣いを感じます。たぶん妊娠か。もしくは出産か。月日の表示は厳密に考える必要はないでしょう。疑うとすれば、豊浦に着いてすぐ、如意珠(にょいのたま)を得たとありますから、このとき出産か。古事記による最初の子、品夜和気命でしょう。しかし、すぐ亡くなったと想像します。その後、この子の記録は一切ないからです。 仲哀9年、若く美しい神功皇后は神がかりして、朝鮮の金銀財宝が欲しいと夫にねだります。仲哀天皇は皇后の占いを信じず、崩御されます。 未亡人となった、それからの壮絶な苦労は余りあるものです。兵を募って九州全土を巡ります。朝鮮に渡ります。幸運にもまだ高句麗という新たな敵に遭遇する前でしょうか。帰国した途端にまた、急な出産です。その後、仲哀天皇の他の子供達を皆殺し、自分の生まれたばかりの子を太子とし、自分は摂政となり、政治を代行します。こうして神功摂政2年に仲哀天皇の葬式をやっと執り行うことができました。ところが、神功9年、すなわち、応神9年、41歳で崩御されたと考えます。自分の息子はまだ9歳でしかありません。さぞ、思いを多く残して亡くなられたことでしょう。忠臣達に託した形です。一人の母として、我が子に全人生を捧げた一生だったと推察できます。 神功13年、元服といえる13歳となった太子は武内宿禰大臣と共に、笥飯大神を拝む為に敦賀に赴いたとあります。その後、大和に戻り、神功皇太后に報告し、二人で酒を飲み交わしたと書かれています。歌は武内宿禰が代行して歌っています。まだ、歌を歌える歳ではないからでしょう。 神功皇太后の郷里に皇后自ら赴かなかったのは、すでに亡くなっていたからです。わざわざ、敦賀に赴いた理由も母を想っての行動と考えればわかる気がします。応神天皇は墓前に報告したのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |