天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
仁徳天皇の年齢 にんとくてんのう First update 2011/07/10
Last update 2012/08/05 399仁徳87年崩 日本書紀 290応神21年生 〜 399仁徳87年崩 110歳 扶桑略記、皇胤紹運録等すべて 345 乙巳年生 〜 427 丁卯年崩 83歳 古事記 410 庚戌年生 〜 459 己亥年崩 50歳 本稿 大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと) 父 応神天皇 仲哀天皇の第四子、母は神功皇后 母 仲姫命 五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の孫。 皇后 葛城磐之媛 葛城襲津彦の娘 子 履中天皇 (大兄去來穗別天皇) 住吉仲皇子 反正天皇 (瑞齒別天皇) 允恭天皇 (雄朝津間稚子宿禰天皇) 皇后 八田皇女 菟道稚郎子皇子の妹 妃 日向髮長媛 日向諸県君牛諸(ひむかのもろがたのきみうしもろ)の娘 大草香幡梭皇女(はたびひめ) 後に、雄略天皇皇后 妃 菟道稚郎姫皇女 子なし 他 雌鳥皇女 八田皇女の妹、隼総別皇子と関係 他 桑田玖賀媛 女官(丹波国桑田郷出身という) 他 黒比売 吉備海部直の娘(古事記の逸話) 全体で5男1女、古事記と一致 日向諸県牛諸――日向髮長媛 ├―――――――――――大草香皇女 日向泉長媛 ├―――――――――――大草香皇子 ├―――――――|――――――幡梭皇女 ├―――眉輪王 | 葛城襲津彦―――磐之姫命 ├―――中蒂姫命 | | ├―――履中天皇 | | ├―――住吉仲皇子 | | ├―――反正天皇 | 仲姫皇后 | ├―――允恭天皇 | ├――――仁徳 天皇 応神天皇 | | ├―――――八田皇女 | ├―――菟道稚郎子皇子| 女 ├―――――雌鳥皇女 | ├―――宮主宅媛 | | ├―――――菟道稚郎姫皇女 ├―――小丑媛 和邇日觸使主 紀年の考え方 今まで新しい世代から順に古い世代へと過去をさかのぼる形で、一人一人の年齢を積み上げてきました。 この時代までさかのぼると、天皇の年齢はおろか、在位期間まで信用できないことがわかります。 仁徳天皇の在位期間が87年はありえないのです。あの昭和天皇でも64年です。87年は長すぎます。允恭天皇の42年も長いですが、彼の場合、日本書紀で内容を探ると、業績のほとんどが11年間に集約され、あと突然42年の崩御の記述になっていました。明らかな年号の引き延ばしとわかりました。 この仁徳天皇でも同じかと考え、同じ手法を用いて下記に示しました。ところが、この仁徳天皇の記述では2,3年おきにまんべんなく事象が配置されています。 最後の20年間だけ記事がありませんが、「20年あまり天下太平」であったと、ご丁寧に断り書きされていました。これは逆に出来すぎた配列と言えます。この年表は机上で作成されたものと考えていいのではないでしょうか。 【仁徳紀に記された記事の年代】
在位期間の選定 そこで、気がついたのですが、年齢検証の結果から、干支崩御年を日本書紀の干支年は同一と考え、60年で一周する相対年として利用すると驚くほどすっきり収まったのです。 これは応神天皇の在位年には120年のずれがあるという有名な事実に基づきます。 いままで、すべての天皇の在位年は、允恭天皇以外、変えていません。允恭天皇の在位期間も長すぎると考えたからで、その理由は干支年を合わせるためではないかと考えました。 仁徳天皇のところでも、干支年としては変更しません。87年−60年=27年 27年間、これが仁徳天皇の在位年です。これでも歴代天皇の在位年の中でも長期政権になります。 こうして年齢を積み上げ、親、兄弟、息子たちの年齢分布からみると、きれいに収まるのです。 よって、この仮説にも基づき、検証を続けることにしました。 |日本書紀崩御年 在位期間 |本稿崩御年予測 在位期間 | 絶対年誤差 15代応神天皇 | 庚午310年 41年間 | 庚午430年 41年間 | 120年 16代仁徳天皇 | 己亥399年 87年間 | 己亥459年 27年間 | 60年 17代履中天皇 | 乙巳405年 6年間 | 乙巳465年 6年間 | 60年 18代反正天皇 | 庚戌410年 5年間 | 庚戌470年 5年間 | 60年 19代允恭天皇 | 癸巳453年 42年間 | 庚申480年 10年間 | 27年 つまり、仁徳元年は日本書紀とちょうど120年のずれが生じたことになります。なぜ、仁徳天皇で60年も引き延ばす必要があったのでしょう。 古事記では、父応神天皇が394甲午年崩御され、仁徳天皇は427丁卯年崩御です。その間34年ですが、日本書紀と同様に考え、2年の空位を経て3年目に即位したとすると、在位期間は31年となります。 非常に魅力的数字ですが、あくまで本稿では干支年を重視しましたので、在位期間は27年として話をすすめます。しかし、古事記在位年と非常に近いと思います。 年齢根拠 【仁徳天皇と子供達の年齢】年齢は本稿の推定値 400 22333333333344444444445555555555 年 年 89012345678901234567890123456789 齢 応神天皇 ――崩 仁徳天皇 RS21――24―――――30―――――――――40―――――――――50 履中天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―32―38 住吉仲皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30 反正天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28―39 允恭天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26―47 大草香皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――31 幡梭皇女 @ABCDEF―? ―応神→空位←―――――仁徳 天皇 在位 27年間―――――――→ 仁徳天皇の子供達の年齢はいままで散々に述べてきました。 そのなかで長男履中が生まれたときを、慣例手法で1仁徳は20歳前後だと考えていました。 仁徳天皇は応神天皇の第4子とあります。 古事記は83歳としています。 日本書紀は年齢を記述していません。 それ以外の過去の歴史的史書のすべてが110歳としています。 これはどうしてでしょう。 例えば「本朝後胤紹運録」によれば、 治八十七年。応神二十一年庚戌誕生。天皇元年癸酉正月即位。八十七年正月十六日崩。【百十】。 扶桑略記はさらに細かく、 行年廿四即位。廿七年皇子誕生、履中天皇。卅五年、皇后磐之媛崩。卅八年八田皇女、立為皇后。 卌年皇子誕生、反正天皇。六十二年皇子誕生、允恭天皇也。 とあるのです。これだと、反正、允恭は磐之媛の子供ではなくなるのですが。 | 古事記 | 日本書紀 | 他史書 仁徳降誕 |(345年) | | 290応神21年 1歳 応神崩御 | 394年(50歳) | 310応神41年 |(310応神41年 21歳) 仁徳即位 | | 313仁徳 1年 | 313仁徳 1年 24歳 仁徳崩御 | 427年 83歳 | 399仁徳87年 | 399仁徳87年110歳 注:()内は記述はないが、計算値によるもの 空位期間3年の考え方 最初、無視した、110歳説でしたが、即位するまでの年齢は110歳説と同じになるのです。 即位年齢24歳を考慮すると、空位3年は本当にあったのかもしれません。 しかし、ここでは、偶然ですが、空位期間を3年間与えると、年齢がすんなりと解決するのです。 長男、履中は仁徳19歳のときにうまれたことになります。 史書の説に従います。 仁徳天皇は応神21年に生まれます。応神41年21歳のとき、父応神天皇を失います。そして、24歳で即位したのです。そして、87年の在位期間ではありませんが、1干支60年を差し引いた27年間在位期間を通して、50歳で崩御されたのです。 これは、すべての史書が描いた、誕生、父崩御、そして即位とさらに干支年のすべて同じもので、変更していないことになります。 仁徳天皇は実在の人物か 現在、仁徳天皇の存在は今や風前の灯火です。 一人の天皇の業績を応神と仁徳の二人に分けたという考え方があります。業績に類似や重複記事が多いというのです。逆に、播磨風土記は「大雀天皇」、「難波高津宮天皇」と使い分けた表現があることから、二人の業績を一人に合成したという説もあります。 こうした応神、仁徳の系譜偽造説には賛成できません。 確かにこの頃、年号が半世紀は乖離していると考えられることから、日本書紀が架空の天皇を想像したとする思い付きは理解できます。また、国際的な動向記事が少なく、男女の浮いた話が多く、その中でも父天皇の妃を譲り受けたり、幡梭姫が二重三重に登場するなど、異世代婚が多く、わかりにくい表現が多々あります。 一つ一つ、明確にする必要があります。 一つ、応神と仁徳の業績二分説は、仁徳が応神天皇の意志をしっかり引き継いだ結果と考えたい。応神天皇の業績をそのまま引き継ぎ、見事に完成させているのです。 一つ、「播磨風土記」内の天皇名の記述違いは、この書物がもつ性格から、これが多くの伝承記事の集積であり、単純にその伝承記事の元資料が別の伝承に基づくもので、統一できずにそのまま記録されたと考えたい。 仁徳天皇を疑うもう一つ大きな理由があります。 第二次大戦での戦中教育に利用された、至上で高潔無比な仁徳天皇像の打ち壊しです。 これを覆す、戦後の学者達の行き過ぎた努力だと思います。気持ちは理解しますが、戦争を知らない我々は、改めて仁徳天皇像を見直してみる必要があると思います。 聖帝、仁君論 有名な話ですが、仁徳天皇は高殿に登って遥かににながめるに、人家の煙があたりに見られない。これは人民が貧しいからに違いない。そこで、3年の無税とし、自らも質素倹約したとあります。 中国の聖王を意識した、王朝の開祖としたイメージ論があります。突きつめて架空のものだともいいます。 仁徳天皇はなぜ仁徳なのか。 なぜ、この頃、人民は貧困にあえいでいたのでしょう。 その一つの原因は、これまで続いてきた畿内での相続争いや氏族間闘争ではなかったかと思います。 また、それ以前の天皇は過去に続く戦乱の連続だったはずです。 神功皇后の朝鮮への侵攻や東征、仲哀天皇の九州熊蘇征伐、景行天皇やその子、日本武尊の西征、東征など戦乱の連続であったことがわかります。また、垂仁天皇では丹波征圧。崇神天皇の四道将軍により始まったように見える、国の拡張方針、軍隊覇権です。 この頃の、仁徳以前の天皇たちは、狭い大和の地に落ち着いていません。日本中を駆けめぐっていたのです。 大和王朝優位を決定づけた難波開発計画 仁徳天皇は大阪に住まわれた最初の大王です。難波を中心とした広範囲におよぶ土木事業が特徴的です。この大事業が、日本書紀では仁徳10年から14年の5年間に集中的に語られています。 しかし、これだけの大規模な土木事業が5年で完成するとも考えられず、仁徳天皇の生涯事業と考えられます。 細かく見ていきます。下記は、仁徳天皇時代に行われた難波土木事業の仮説の数々です。
1.仁徳元年、都を難波に造営します。これを高津宮といいます。
仁徳天皇は大阪を統治した天皇です。「坐難波之高津宮。治天下也。」 2.しかし、塗装や装飾は後回しにして3年間の課役を止められました。 ようやく、仁徳10年に課役を科して宮室を建造します。人は皆、労役を惜しまなかったとあります。
「10年冬10月、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。人民は促されなくても、老人を助け幼き者もつれて、材を運び土籠を背負った。昼夜を分けず力をつくしたので、幾何も経ずに宮室は整った。これで今に至るまで聖帝とあがめられるのである。」(宇治谷孟訳) 課役を止めたのではなく、課役が集まらなかったと言えるほど、この地区の人々の生活は苦しかったのだと思います。彼の言動には、日本全国の民衆の貧しさを嘆いているというより、どこか他の地区との比較をした難波の地を見ている表現のように見えます。 父、大王の命令ではじめて難波に来て、この地区の惨状を目撃した仁徳だったのではないでしょうか。 もしかしたら、この地区では税を納める習慣もなかったのかもしれません。毎年、河が氾濫し、家が流され、人が死んでいったのです。これが毎年繰り返されていた土地なのです。 3.土地を開墾し、河の氾濫を防ぎ、溝を掘り、堤を築けと詔を発します。 目的は河内平野の水害防止と開発で、大和王朝初の大規模な治水事業の発布といえます。
「11年夏4月17日、群臣に詔して、『いまこの国を眺めると、土地は広いが田圃は少ない。また河の水は氾濫し、長雨にあうと潮流は陸に上り、村人は船に頼り、道路は泥に埋まる、群臣はこれをよく見て、溢れた水は海に通じさせ、逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ』といわれた。」(宇治谷孟訳) 仁徳天皇の業績は難波地区に限っています。よって、詔の「この国」とは日本中ではなく、狭義であり難波地区を指すと思います。 4.難波の堀江の造成、茨田堤の築造
仁徳「11年10月、宮の北部の野を掘って、南の水を導いて、西の海(大阪湾)に入れた。その水を名づけて堀江といった。また北の河の塵芥を防ぐために、茨田(まんだ)の堤を築いた。」(宇治谷孟訳) 5.山城の栗隈県(くるくまのあがた)に灌漑用水を引かせます。
仁徳「12年冬10月、山城の栗隈県(今の宇治市大久保辺)に、大溝を掘って田に水を引いた。 これによってその土地の人々は毎年豊かになった。」 3.茨田屯倉(まんだのみやけ)を設立します。
4.和珥池(わにのいけ)、横野堤(よこののつつみ)の築造をします。
5.橋の建造も次々起こしていたことでしょう。
「14年冬11月、猪飼津(いかいのつ)に橋を渡した。そこを名づけて小橋(おばし)といった。」 6.都の南門から丹比邑(たづひのむら)に至る大道の増設。
「この年、大通りを京の中に造った。南の門からまっすぐ丹比邑(羽曳野市丹比)に及んだ。」 7.感玖大溝(こむくのおおみぞ)の掘を削り、田地を開拓。
「また、大溝を感玖(河内国石川郡紺口か)に掘った。石河の水を引いて、上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦など四カ所の原をうるおし、四万頃(しろ)あまり(頃は中国の地積単位で百畝をいう)の田が得られた。そこの人民達は豊かな稔りのために、凶作の恐れがなくなった。」(宇治谷孟訳) なお、1頃=1代(しろ)は稲1束が収穫できる田圃の広さといいますから、毎年4万束の収穫が見込まれたことになります。また50代(しろ)は1段といわれます。 古事記にのる治水事業
「秦人(はたびと)を役(えだ)て、茨田堤(まむだのつつみ)、また茨田三宅(みやけ)を作る。 また、和邇池(わにのいけ)・依網池(よさみのいけ)を作る。 また、難波の堀江を掘りて、海に通はす。 また、小椅(をばしのえ)を掘る。 また、墨江(すみのえ住吉)の津(港)を定めた。」(次田真幸訳) その中でも茨田堤の工事は、難事業だったようです。 人身御供として、二人も殺されています。 一人は地元、河内の茨田連衫子(まんだのむらじころものこ)で、この地区の長(おさ)の子供だったようです。 もう一人は武蔵の強頸(こわくび)です。地方からここで働いていた労働者でしょうか。水に沈められるとき泣き叫んだとあります。なぜ武蔵の人が難波の開発事業に協力していたのでしょうか。 このように、大阪は徹底的に掘り返され、そして生まれ変わったのです。 実際はどのような人たちが働いたのでしょう。 古事記では作業は秦人(弓月君が連れて来た帰化人)とあります。秦人を用いて造るとはその知識や技術を利用したという意味。組織力、人力を期待したものではないようです。 これだけの大規模な長期にわたる治水事業です。老若男女が昼夜を分けずに力を尽くしたとあります。それでも毎年の大水に苦しんでいた地元の人だけではとても手に負えない大変な作業だったはずです。地元住民だけとも考えられません。 どうやって、全国からこれだけの人を集めたのでしょう。 そこにはいつの時代にもの横たわる、戦後の大量軍人の再就職問題があったように思うのです。 戦国時代、豊臣秀吉の大陸進出したわけの一つに長い戦乱で溢れた職業軍人たちの対処が大陸進出であったとする説があります。ここにも父、応神天皇時代以前の負の遺産があったと思います。 まして、大陸から逃れてきた大量な避難民たちの対応も頭痛の種だったはずです。 これがこの時代のニューデール政策だったと思うのです。 結果、畿内を制する者が、日本全土を制するに価する、巨大な富の原動力となります。その後の天皇たちの能力の優劣に左右されることなく、富は拡大し続けたのです。 矛盾しない膨大な難波治水事業と巨大古墳建造 こうして見ると、仁徳天皇は日本中を見据えていた聖王ではありません。彼は難波の地を中心に見ていたことがわかります。聖王の位置づけは後年、日本書紀制作の時代になってはじめて、この天皇によって、大和王朝が日本で最大の実力を蓄えることができたと気づいた結果だったと思います。 そして、彼の生活、政治態度も生涯変わりませんでした。質素倹約は彼にとって常識です。現代でも富をこつこつ築いた社長にそうした性行を多く見かけます。 こんな逸話があります。日本武尊(やまとたけるのみこと)の白鳥陵の陵守を遥役にあてられた、とあります。理由は「この陵はもとから空であった。」そこでその墓を守る人たちを干拓事業などに廻したのです。 いわゆる質素倹約は彼の肌にしみ込んだ汗の結晶です。ある意味、無駄を嫌う、終生ケチなのです。 結果的に、祟りがましい現象が起こり中止していますが、仁徳天皇の性格がわかる逸話だと思います。 仁徳天皇陵も同じ発想から築かれたのではないでしょうか。 元は土木事業で生じた残土集積場、これが彼の墓の元だったと思います。彼には無駄という文字はないのです。土塊ひとつ無駄にしなかった天皇でした。 仁徳陵をあの5世紀に造られた大山古墳として位置づけられています。日本書紀の仁徳天皇は4世紀とした年代が合致しないということになっていますが、本稿の年齢、時代研究でも5世紀の人間です。矛盾しません。 結果的に世界最大規模の陵を建設したことになるのですが、はじめから、天皇陵として計画されてはいなかったと思います。膨大な土木事業の副産物の残土の処理に困った末の苦肉の策だったように思えます。彼の陵は高くそびえず、ただ巨大なのです。低い山稜にも関わらず、現在ではかなり崩れています。十分な版築技法が最初から徹底されなかったということではないでしょうか。 さらに、息子達の陵墓もこのとき定められていたのかもしれません。 また、部下達の墓と呼ばれる多くの陪塚も、そんな延長なのかもしれません。 天皇陵の名称 史書の記述の違い | 日本書紀 | 古事記 | 延喜式 仁徳天皇陵 | 百舌鳥野陵 | 毛受耳原 | 百舌鳥耳原中陵 履中天皇陵 | 百舌鳥耳原陵 | 毛受(もず) | 百舌鳥耳原南陵 反正天皇陵 | 百舌陵 | 毛受野 | 百舌鳥耳原北陵 后妃の姿 仁徳天皇の后妃を冷静に分類してみると、彼の婚姻計画は非常にバランスの良いものです。 それは、3つに分類されます。1つ目が葛城氏、2つ目が和邇氏、3つ目が日向氏です。 多くの娘を娶ったように見えますが、氏族的にはこの3氏を主体とした婚姻関係であり、子供の数も他の天皇と比較しても多産ではありません。 葛城氏は大和地区南部の有力豪族です。当然の婚姻です。一方、北部には和邇氏という有力豪族がいたのです。これら氏族と婚姻関係をもつことは重要だったはずです。しかし、仁徳天皇は和邇氏と露骨に直接、婚姻関係をもつことを避けています。葛城氏の後からということもあったのでしょうか。慎重です。応神天皇の娘として婚姻を結んでいきます。 もう一つが、父の生まれ故郷、九州の地の娘達でした。 日向諸県牛諸―――――髪長媛 葛城襲津彦―――磐之媛 | | | 応神天皇―――――仁徳天皇 | | ├――――――八田皇女 ├――――――菟道郎子 和邇宮主宅媛 葛城磐之媛と和邇八田皇女 仁徳天皇と葛城磐之媛の愛憎劇は有名です。 仁徳は好色で、磐之媛は嫉妬深い女性といわれています。 しかし、そこに見えるのは磐之媛の地位の高さです。仁徳天皇に決しておもねることはありません。 なぜ、こんなに強く振る舞えたのでしょう。逆に仁徳天皇の方がまるで入り婿のように磐之媛に気を遣うのはなぜなのでしょう。 やはり、そこには圧倒的な軍事力を有する葛城襲津彦の娘であるというプライドがあったと思います。 葛城媛の嫉妬の強さは、葛城氏の勢力の強さと比例します。嫉妬できる環境、葛城氏の強大な力が背景にあるのです。 磐之媛は嫉妬深いといいますが、その嫉妬の対象は主に、和邇八田皇女に対してであって、他の妃との間には明らかな温度差があります。桑田玖賀媛の場合でも、一方的に仁徳天皇が磐之媛に気を遣うだけで、磐之媛自身には八田皇女の場合のような思い切った行動は見られません。 それとは別に、これが一番の理由だと思いますが、その影には氏族間同士の熾烈な権力闘争があった、その表現の一つと考えられることです。 これが即位前、3年の空位期間に象徴されます。 この空位は父応神天皇が皇位を若い菟道稚郎子皇子に託し、崩御されたことに起因しています。 日本書紀によれば、太子菟道稚郎子皇子は年上で実力者の仁徳に皇位を譲ろうとし、仁徳がそれを断ったことから空位が生じたとしています。その上、さらに兄の大山皇子までが皇位を狙いますから話がややこしくなったのです。 本人達の思いはいろいろ想像できますが、実際は、豪族間の勢力闘争があったことも忘れてはならないと思います。 菟道稚郎子は和邇氏の娘が生んだ子です。結局、自殺してしまいますが、その妹が八田皇女です。 和邇氏はこの皇位闘争には敗れます。和邇氏の次の秘策は、妹の八田皇女を即位した仁徳天皇に嫁がせることでした。それに真っ向から反対したのが、やはり葛城氏です。和邇八田皇女は応神天皇の皇女でもありますから、現在の皇后磐之媛より、位が高くなってしまいます。 結局、磐之媛自身は葛城氏族の重圧と夫仁徳天皇の愛をつなぎ止められずに自殺します。もしかしたら、磐之媛の激しい嫉妬と八田皇女への反感に辟易した仁徳天皇自身が、磐之媛を幽閉してしまったのかもしれません。ここまで行くと小説の世界です。本当の磐之媛の思いはどうだったのでしょう。 少なくとも、磐之媛は葛城磐之媛としての自覚をもって、一人果敢に戦い抜いた女性といえると思います。 こうして、和邇氏は八田皇女を皇后にすげ替え、権力を手中に収めます。さらに八田皇女の妹、雌鳥皇女まで仁徳天皇に嫁がせようとしますが失敗しています。雌鳥皇女にはすでに隼皇子と恋愛関係にありました。日本書紀では、これに怒った仁徳天皇が隼皇子を殺した形になっていますが、どうでしょう。 恋人と引き裂かれ、仁徳天皇に嫁ぐ雌鳥皇女の気持ちをどうしても考えてしまいます。和邇氏の露骨な婚姻政策に仁徳自身が釘を刺したのかもしれません。これも小説の世界なのかもしれません。 さらに、古事記は八田皇女の義妹、菟道稚郎姫皇女も仁徳の妃であることを伝えています。和邇氏の徹底した権力への執着心は小説を超えています。 桑田玖賀媛 桑田玖賀媛(くわたのくがひめ)という丹波国桑田郷出身の女官を可愛いと思いましたが、葛城磐之媛の嫉妬が怖くて、仕方なく部下の播磨国の速待(はやまち)に譲ろうとします。ところが、急な病で死んでしまったとあります。玖賀媛はこれでも丹波国の有力者の娘だったのでしょう。丹波国の代表として宮に来たのです。仁徳の妃にならなければ、部下の速待では意味がないのです。自殺と考えていいでしょう。 古事記にのる黒比売の記録 また、黒比売(くろひめ)がいます。吉備海部直の娘です。古事記での話です。 美しい黒比売を召そうした仁徳天皇に対し、磐之媛は嫉妬に狂います。それだけに吉備氏の実力がわかります。結局、これを恐れた黒比売は故郷に逃げ出します。難波津で船に乗るところを見つかり、徒歩で帰らせられたとあります。 これも、磐之媛の嫉妬というより他氏族を閉め出そうとする葛城氏の謀略に思えます。 髪長媛の年齢 日向髪長媛(ひむかのかみながひめ)は応神天皇に捧げられるために九州日向からきた娘です。これを息子の一人、仁徳が熱望したために譲ったという逸話が残っています。ここでは磐之媛は問題にしていません。なぜでしょう。 後に仁徳天皇と髪長媛との間に生まれた大草香皇子は、磐之媛の生んだ第4子允恭天皇より若いとこがわかっています。 日本書紀の記述内容でも八田皇女やこの髪長媛が宮中に迎えられたのは葛城磐之媛の薨去後とあります。 つまり、応神天皇に捧げられた髪長媛は非常に若い娘であったと考えられるのです。 戦国時代、信長の妹、お市の末娘、お江(ごう)は12歳にして、佐治一成、当時16歳に嫁ぎました。1584天正12年のことです。 髪長媛も同じと考えられます。すると、仁徳天皇のしたたかな考え方が見えてきます。若い仁徳は父の新しい側室髪長媛の美貌に横恋慕したのではなく、父から大切な品物を授かるような感覚で髪長媛を所望し、これを受け取り大切にしたのです。 彼は第一後継者ではないのです。彼は九人の皇子の第四子であり、父が太子に指名したのは弟の菟道稚郎子皇子でした。この頃の仁徳は、絶えず父の目線を意識していた、多くの皇子の一人に過ぎないのです。 父応神天皇も晩年です。すぐには抱けない幼い女ですから喜んで譲ったといえそうです。 若い仁徳は大喜びです。 応神紀13年
「大鷦鷯尊、髪長媛と既(すでに)得交(まぐはひ)すること慇懃(ねんごろ)なり。 獨(ひとり)髪長媛に對(むかひて)歌(みうたよみして)之曰(のたまはく)、 道の後(しり) コハダ嬢女(おとめ)を 神の如(ごと)、聞こえしかど 相枕(あいまくら)枕く。 又、歌之曰、 道の後(しり) コハダ嬢女(おとめ)を 争はず 寝しくをしぞ 、愛(うるわ)しみ思ふ。」 歌の意味は男女の交わりを愛でた歌ですが、本稿では神のように清らかな幼い乙女が逆らうことなく一緒に添い寝してくれたと、その喜びを大人びた表現で父に感謝した歌と考えています。二人ともまだ若く、髪長媛はまだ12歳以下だったでしょう。 むろん髪長媛の返歌もありません。それこそ、当時髪の長いとは幼い女の子の象徴だったはずです。この子が後に成長し、仁徳天皇の孫にあたる安康天皇の恋敵、大草香皇子と、雄略皇后となる幡梭皇女を生むのです。 【応神、仁徳と髪長媛の年齢関係】年齢は本稿の推定値 400 22333333333344444444445555555555 年 年 89012345678901234567890123456789 齢 応神天皇 ――崩 仁徳天皇 RS21――24―――――30―――――――――40―――――――――50 髪長媛 IJKLMNOPQRS―――――――――30―――――? 大草香皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――31 幡梭皇女 @ABCDEF―? ―応神→空位←―――――仁徳 天皇 在位 27年間―――――――→ 草香幡梭皇女 現在もひどい紹介記事が辞書に残っています。 本稿でもよく参考にする坂本太カ、平野邦雄監修「日本古代氏族人名辞典」吉川弘文館平成2年度版です。 「草香幡梭皇女くさかのかたびのひめみこ 仁徳天皇の皇女。履中・雄略両天皇の皇后。 『古事記』には波多毗能若郎女、別名長日比売命・若日下部(わかくさかべ)命、『日本書紀』にはまたの名橘姫皇女とある。 母は日向髪長(ひむかのかみなが)媛。大草香(おおくさか)皇子(大日下王とも)の同母妹。 『日本書紀』履中巻によると皇妃から皇后となり、中蒂(なかし)皇女を生んだというが、安康巻には雄略の皇后となるいきさつが記されている。 すなわち、安康天皇は幡梭皇女を弟大泊瀬(おおはっせ)皇子(のちの雄略天皇)に配すべく、坂本臣の祖根使主(ねのおみ)を大草香皇子のもとに遣わした。 ところが大草香から安康への贈物を盗んだ根使主は、偽って大草香を拒絶した旨を報告したので、怒った安康は大草香を殺し、皇女を大泊瀬の妃とした。 しかし、『日本書紀』の年立てからみれば仁徳の皇女が仁徳崩御後五十年余年を経て皇后となるのは無理。なお『古事記』仁徳段には若日下王の御名代として若日下部を置いたとある。」 一人の草香幡梭皇女が義兄の履中皇后となり子をもうけ、さらには、義理の孫の雄略皇后になるはずがありません。 日本書紀の複雑な記述のせいにしての平然と「履中・雄略両天皇の皇后」(下記4.6.)と書くことが信じられません。 明らかに、履中皇后と雄略皇后の幡梭皇女は別の女性です。 それを知りながら、それ故か、このような史実に混乱がみられます。昔からの謎の一つです。 【氏族辞典】 忍坂仲媛 ├―――――安康天皇 磐之媛 ├――雄略天皇 | ├―――――允恭天皇 | | 応神天皇 ├―――――履中天皇 | | ├―――――仁徳天皇 ├―――|――中蒂姫 仲媛 ├――――――草香幡梭皇女 ├―――眉輪王 ├―――――――――――――大草香皇子 日向髪長媛 まず、原文に注目し、整理します。幡梭のすべての記述です。 1.応神紀二年「妃日向泉長媛、生大葉枝皇子、小葉枝皇子。」 応神記、 「娶日向之泉長比賣、生御子、大羽江王、次小羽江王、次幡日之若郎女。【三柱】」 2.仁徳紀元年「妃日向髮長媛、生大草香皇子、幡梭皇女。」 仁徳記、 「髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子、亦名大日下王。 次波多毘能若郎女、亦名長日比賣命、亦名若日下部命。【二注】」 3.履中紀元年「妃幡梭皇女、生中磯皇女。」 4.履中紀六年「立草香幡梭皇女爲皇后。」 5.安康紀元年「天皇爲大泊瀬皇子、欲聘、大草香皇子妹幡梭皇女。」 「願得幡梭皇女、以欲配大泊瀬皇子。」 「但以妹幡梭皇女之孤、而不能易死耳。」 「大草香皇子者不奉命、乃謂臣曰、其雖同族、豈以吾妹、得爲妻耶。」 「復遂喚幡梭皇女、配大泊瀬皇子。」 6.雄略紀元年「春三月庚戌朔壬子、立草香幡梭姫皇女爲皇后、更名橘姫。」 そんななか日本書紀通釈がやっと、少しまともな仮説を立てます。 幡梭皇女は二人おり、一人は仁徳皇女だが、もう一人は応神皇女だというものです。 上記の1の記述です。日本書紀にはないのですが、古事記には日向之泉長比売が幡日之若郎女を生んだとあります。履中皇后はこの幡梭媛であろうというものです。 幡梭皇女は応神の娘か仁徳の娘か。 上記のように幡梭媛は同一人物などではなく、2人いたのです。そうしないと、年齢構成上、明らかに矛盾が生じます。しかし、これもよくいわれる異世代婚になります。少し無理があります。でも不可能な設定ではありません。 【日本書紀通釈説】 忍坂大中姫 ├――――――――雄略天皇 磐之媛 ├―――安閑天皇 | ├―――允恭天皇 | | 仲媛 ├―――履中天皇 | | ├―――――仁徳天皇 ├―――中蒂姫 | 応神天皇 | | | | ├――――――|―――幡日之若郎女 ├―眉輪王 | 日向之泉長比売 ├――――――――大草香皇子 | ├――――――――――――――幡梭皇女 日向髪長媛 【通釈に基づく幡梭皇女の年齢】年齢は本稿の推定値 400 22333333333344444444445555555555 年 年 89012345678901234567890123456789 齢 応神天皇 ――崩 幡梭皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――? 中蒂姫 @A―26 履中天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――38 仁徳天皇 RS―――24―――――30―――――――――40―――――――――50 髪長媛 IJKLMNOPQRS―――――――――30―――――? 大草香皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――31 幡梭皇女 @ABCDEF―? ―応神→空位←―――――仁徳 天皇 在位 27年間―――――――→ 本稿でもこの説を有力視しています。しかし、年齢構成上、多少無理をしないとなりません。応神天皇が崩御される数年前に生まれたとしました。履中天皇と幡梭皇后はそれほど、年齢が違うとは思えません。履中天皇の生活環境はあまり衛生的ではなかったようで、子供の誕生が皆遅いのです。幡梭媛31歳、中蒂姫はその中やっと生まれた皇女だったと考えればいいのかもしれません。 しかし、少し年齢構成に無理があります。 そこで、年齢構成上すっきりさせるために、髪長媛が雄略皇后となった幡梭皇女の他にもう一人大草香皇子と同等の年齢の草香幡梭皇女がいたとしてみました。古事記、日本書紀では髪長媛は大草香皇子と幡梭皇女の2人した子を生んでいません。記述漏れなのでしょうか。矛盾が残ります。 大草香皇子と草香幡梭皇女は双子だったのかもしれません。 そう考えると、思い当たるのですが、この幡梭皇女には別名が多いのです。 そして、この兄妹は名前が同じです。 大草香皇子 = 幡梭大郎子= 大日下王 草香幡梭皇女 = 幡梭若郎女= 若日下部命 双子とすると一方の子を無いかのような記述になったにも、当時の風習から考えられることです。 【本稿説】 忍坂大中姫 ├――――――――雄略天皇 磐之媛 ├―――安閑天皇 | ├―――允恭天皇 | | 応神天皇 ├―――履中天皇 | | ├―――――仁徳天皇 ├―――中蒂姫 | 仲媛 ├―――草香幡梭皇女 ├―眉輪王 | ├――――――――大草香皇子 | ├――――――――――――――幡梭皇女 日向髪長媛 【仁徳天皇と周囲の年齢】年齢は本稿の推定値 400 22333333333344444444445555555555 年 年 89012345678901234567890123456789 齢 応神天皇 ――崩 仁徳天皇 RS21――24―――――30―――――――――40―――44―――――50 履中天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――38 中蒂姫 @A―26 髪長媛 IJKLMNOPQRS21――――――――30――――35? 大草香皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――31 幡梭皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 幡梭皇女 @ABCDEF―? ―応神→空位←―――――仁徳 天皇 在位 27年間―――――――→ ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |