天武天皇の年齢研究

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 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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反正天皇の年齢 はんぜてんのう

First update 2011/05/08 Last update 2011/05/08

 

            410反正5年崩     日本書紀

378戊寅  年生 〜 437丁丑 年崩 60歳 古事記

352仁徳40年生 〜 411反正6年崩 61歳 本朝後胤紹運録、皇年代略記

352仁徳40年生 〜 411反正6年崩 60歳 上記史書以外

432壬申  年生 〜 470庚戊 年崩 39歳 本説

 

和風諡号 瑞齒別天皇 (みつはわけのすめらみこと)

 

父   仁徳天皇

母   葛城磐之媛

  子 第一子 履中天皇。

    第二子 住吉中皇子

    第三子 反正天皇

    第四子 允恭天皇

 

   【日本書紀】         |   【古事記】

 夫人 津野媛  大宅臣祖木事の娘 | 夫人 都怒郎女  丸邇の許碁登臣の娘

  子 香火姫皇女         |  子 甲斐郎女

    圓皇女           |    都夫良郎女

 夫人 弟媛   夫人の妹     | 夫人 弟比賣   丸邇の許碁登臣の娘

  子 財皇女           |  子 財王

    高部皇子          |    多訶辨郎女

 

           

応神天皇       幡梭皇女

  ├――仁徳天皇   ├――――中磯皇女 

 仲姫   |     |

      |―――履中天皇(第一子)

      |     ├――――磐坂市辺押羽皇子

      |     ├――――御馬皇子

      |     ├――――青海皇女(一説に飯豊皇女)

      |    黒姫

      |

      ├―――住吉仲皇子(第二子)

      |

      |    津野媛(姉)

      |     ├――――香火姫皇女

      |     ├――――圓皇女

      ├―――反正天皇 (第三子)

      |     ├――――財皇女

      |     ├――――高部皇子

      |    弟媛(妹)

      |

      ├―――允恭天皇(第四子)

      |     ├――――木梨軽皇子 太子

    磐之媛命    ├――――名形大娘皇女

            ├――――境黒彦皇子

            ├――――穴穂天皇(安康天皇

            ├――――軽大娘皇女

            ├――――八釣白彦皇子

            ├――――大泊瀬稚武天皇(雄略天皇

            ├――――但馬橘大娘皇女

応神天皇        ├――――酒見皇女

稚野毛二派皇子―――忍坂大中姫

 

 

反正天皇の崩御年について

日本書紀によると、反正天皇は410反正5年1月23日に崩御されました。

年齢は書かれていません。ところが、平安後期から書かれはじめた、日本の歴史を語る史書のほとんどが反正天皇は411年反正6年に崩御されたとしています。本稿の知る限り、古事記を除きすべてといえます。

この原因は次期允恭天皇の即位間に1年の空位期間が日本書紀に存在するからと思われます。空位1年をないものとして、5年間に空位の1年をプラスして在位期間を6年としているのです。

個人的な感想ですが、いつの時代でも、日本書紀の誤記や矛盾に対し敏感に反応し、その度、新しい年齢仮説が登場しています。

古事記は越年称元法で履中と反正を6年としています。ですから、日本書紀の履中6年と反正5年プラス空位1年とするより、履中、反正がそれぞれ6年、6年とした方がすっきりするのです。允恭天皇の項でも述べましたが、これが正しいのかもしれません。

 

本稿はあくまで日本書紀の記述された、干支年にこだわりました。よって、反正の在位期間は5年とします。当時、反正天皇の研究過程で何らかの発見があり、当初6年の予定が急遽5年に変更されたとも考えられます。

 

なお、ほとんどの史書が60歳とするなかで、本朝皇胤紹運録と皇年代略記は61歳としています。

しかし、記述内容を確認すると、生年と没年は他の60歳説と同じままです。このままだと、61歳は計算違いにすぎないことになります。

ここでは、日本書紀の空位期間を意識した結果による計算誤差と考えておきます。

 

古事記が示す、反正天皇の年齢の不思議

允恭天皇は、仁徳天皇と皇后との間にうまれた4兄弟の末の弟です。その内、3人が即位しました。履中、反正、そして、この允恭天皇です。古事記はそれぞれの年齢と崩御年を伝えています。

 

  父   仁徳天皇 83歳  427年崩御      345年生

  第一子 履中天皇 64歳  432年崩御  計算値 369年生

  第二子 住吉中皇子    (427年薨去)推測

  第三子 反正天皇 60歳  437年崩御      378年生

  第四子 允恭天皇 78歳  454年崩御      377年生

 

日本書紀の継体大王と前後の天皇の年齢関係が明確であるのと同様、古事記でも、仁徳天皇と履中、反正、允恭の親子関係が明確です。但し、どうも計算を誤っているようなので困ります。

古事記の両者の崩御年と享年からの計算だと兄弟関係が逆転する

困ったことに、允恭天皇にとって兄の反正天皇より允恭天皇は年上となります。

これが兄弟ではないというような説が生まれる根拠に使われたりするのかもしれません。

 

【古事記による仁徳皇子4兄弟の年齢】

300  6777777777788888888889999999999 年

  年  9012345678901234567890123456789 齢

仁徳天皇 25――――30―――34―――――40―――――――――50――――――83

履中天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――64

住吉中皇子                                

反正天皇          @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――60

允恭天皇         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――78

青色=本稿が予測する古事記本来の年齢構成

 

しかし、反正天皇の年齢が計算違いと考え並べ替えて、第2子の住吉中皇子が履中、反正の間の生まれと考えると、きれいな兄弟の誕生履歴であることがわかります。青色で示します。仁徳天皇は25歳の年から磐之媛が2年半ごとに一人ずつ生まれたことになります。

これは本稿の手法と同じで、本稿が言うのも変ですが出来すぎです。

よって、本稿でもこの年齢を参照にして、今まで通り、単純に2歳ずつ差のある兄弟とします。

 

【反正天皇と周囲の年齢】年齢は本稿の推定値

400  4444445555555555666666666677777777778 年

年    4567890123456789012345678901234567890 齢

仁徳天皇 ――――――40――――――――49                      

履中天皇 PQRS―――――――――30――33――――37                

住吉中皇子NOPQRS―――――――――30                      

反正天皇 LMNOPQRS――――――――30――――35―――39           

香火姫         @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――

圓皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

財皇女             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――

高部皇子              @ABCDEFGHIJKLM―――――?     

允恭天皇 JKLMNOPQRS―――――26―――30―――――――3840――――――47 

雄略天皇                    @ABCDEFGHIJKLMNOPQ44

     ――――――――仁徳天皇在位―→←―履中―→←反 正→←―允恭天皇在位―→

 

上記年齢表の注意点

○反正天皇の4人の子は20歳から2年ごとに生まれたとした仮定値です。雄略天皇の花嫁候補になったことから、もう少し若い年齢かもしれません。

○仁徳天皇は、長男である履中天皇が18歳で生まれたとした仮定値です。

○応神、仁徳、履中、反正の各天皇の崩御年は60年干支で日本書紀と同じにしました。

 

 

体型描写の克明で特異な記録

古事記 反正天皇

此天皇、御身之長、九尺二寸半。

御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。

「この天皇は身長が約2.8m

歯の長さ約3cm、広さ約4mm、上下等しく斉(ととのい)、全く玉をぬいたようだ。」

 

日本書紀にも歯が一つの骨に見えたとして、瑞齒別天皇(みつはわけのすめらみこと)と名前が付けられたとあります。

広さ4mmは厚みの誤記という記事もありますが、どうでもいいことで、身長といい、信じがたいものです。歯と身体的に特徴をもった天皇だったというに留めたい。

 

言い過ぎになりますが、個人的には赤塚不二夫氏の漫画「おそ松くん」の「イヤミ」を連想してしまいます。情報屋、一癖ある小狡さ、事件にすぐ首を突っ込み、小器用なお節介といったイメージは同等のものです。

 

まるで業績を持たぬ天皇

古事記も日本書紀も反正天皇の項では彼の系譜を述べるだけで、他には何も書かれていません。

だからといって、決して架空の創作された天皇だとは誰も言っていません。

彼の存在は、前の履中天皇の即位に関わったことで確実であるからです。

 

住吉中皇子の乱

住吉中皇子(すみのえのなかつみこ)は履中の同母の次弟です。

難波高津宮で両皇子の父、仁徳天皇が崩御されます。

このとき、住吉中皇子が難波にあった履中の館を兵で取り囲み、焼き殺そうとします。

危うく難を逃れて、大和に入ったところに、次の弟、第3子のこの反正が駆けつけ、太子の履中に忠誠を誓います。ところが、弟に寝込みを襲われたばかりの履中はこれを簡単には信用しません。

逆に住吉中皇子を殺して、証し見せろと言われてしまいます。

そこで、反正は難波にとって返し、住吉中皇子の近習をだまし、厠で殺させます。また、大和の帰り道、その近習さえ、殺してしまいます。

だまし討ち、つまり、相手がかなりの実力者であることがわかります。正面からは太刀打ちできない力を持つものでしょう。よっぽど住吉中皇子の方が正々堂々としていました。

こうして、履中天皇は正式に即位し、その翌年、反正は太子の地位に就くのです。

 

反正天皇は淡路島の生まれ

この頃の記録では、天皇はこの淡路島で盛んに狩をされたとあります。「淡路」という言葉は祖父、応神天皇で4回、仁徳紀で1回、履中紀で3回、反正紀でこの誕生の記録、1回、允恭で1回あります。

そこを丹念に読むと、淡路島は九州の安曇氏の関西の船団拠点であることがわかります。難波の安曇江の港があり、この頃は名前の「住吉」からも住吉中皇子と親しい関係にあったようです。当然、反正天皇も自然旧知の間柄で面識があったはずです。住吉中皇子の内部事情に詳しかったといえそうです。反正を味方と信じ切っていたようです。

当然、磐之媛はこの淡路に夫に付き従い、結果、この地で出産したことになります。

 

妃と子供達

二人の妃を娶り、4人の子に恵まれました。

妃は日本書紀によると、大宅臣の祖先、木事(こごと)の津野媛とその妹、弟媛です。古事記では大宅臣ではなく和珥氏ですが、同族で同じことです。奈良盆地の東北の田舎の娘で、二人とも采女と言え、あまり身分は高くありません。雄略天皇の妃にも和珥春日氏の娘が采女から娘を出産したことから妃になった記事があります。

しかも子供達は女の子ばかりです。ひとり、最後に生まれた子が高部皇子(たかべのみこ)でしたが、古事記では多訶弁郎女(たかべのいらつめ)とあり女性です。

男性か、女性かはっきりしないのですが、無性のもの。つまりは、成人せずに亡くなったとし、歴史に名を残さなかったものとします。だから、反正天皇の子供達には相続争いとは無縁であったのです。

この娘らは、後に安康天皇によって、その弟、雄略の嫁にと望まれますが、強暴(凶暴)であるため、皆逃げたと記録されています。

 

ここで結論をだすのも早計ですが、兄弟相続の多さは、昔から日本にはそういう習慣があったと考えるより、単に、早死にした為に、直子相続ができない。そのため、兄弟で相続するしかなかったと考えたほうが自然のようです。

日本書紀、古事記や古代史書に従えば、この三兄弟は60歳前後で即位し、70歳過ぎに崩御されたことになります。成人に達し30歳を超えている息子達に皇位を譲らないのは、当時は兄弟相続の日本独特の習慣があったと仮定するのは当然なのでしょうか。むしろ古代天皇の年齢をこんなに年を取らせたまま歴史を語るほうがどうかしていると思います。

つまるところ、兄弟相続は、この頃の日本の習慣などではなく、単に短命であったために、実子即位には幼すぎるため、やむを得ず、兄から弟に引き継がれたにすぎないようです。

そして、この反正天皇も天皇に即位できたのは兄が短命であったためであり、次の允恭も同様で、そのため兄達の子供達の年齢が幼少であり、反正などの子供達などは皆女性であったからと思われます。

 

古事記に基づくこの頃の天皇の年齢 |  本稿の推定年齢

      即位時  崩御時   |  即位時  崩御時

仁徳天皇  50歳  83歳   |  21歳  49歳

履中天皇  59歳  64歳   |  33歳  37歳

反正天皇  55歳  60歳   |  35歳  39歳

允恭天皇  61歳  78歳   |  38歳  47歳

 

 

難波大阪に宮をおいた天皇

世間一般に言われる河内王朝の住人と呼ばれる一人です。

初代は父の仁徳天皇でした。

反正天皇は河内の丹比に宮廷を造りました。これを柴籬宮(しばかきのみや)といいます。

実は反正天皇以降、次の允恭天皇からまた元の大和に宮が戻ってしまいます。

その後、難波に宮廷が築かれるのは180年後の孝徳天皇まで待たなければなりません。これも当時の広い外に開けた世界に近い海、難波を理想としたからです。大和との対立関係からではありません。

反正天皇の兄、履中天皇も即位前は難波に父、仁徳天皇が用意してくれた、宮に住んでいたようですが、住吉中皇子の乱から大和盆地に戻ってしまいます。

突きつめると、難波に宮を本格的に構えたのは、父、仁徳天皇とこの反正天皇だけということになります。

反正天皇は進歩的な天皇ではありません。父が築いた難波宮地区から動いていない、取り残されたと考えられます。まさに、「天下太平」楽な何もしない天皇でした。

 

【歴代古代天皇の宮殿と墳墓】

代数 天皇 宮殿      墳墓(緑色=大阪

 1 神武 畝傍橿原宮   畝傍山東北陵

 2 綏靖 葛城高丘宮   桃花鳥田丘上陵

 3 安寧 片塩浮穴宮   畝傍山西南御陰井上陵

 4 懿徳 軽曲峡宮    畝傍山南織沙渓上陵

 5 孝昭 掖上池心宮   掖上博多山上陵

 6 孝安 室秋津島宮   玉手丘上陵

 7 孝霊 黒田廬戸宮   片丘馬坂陵

 8 孝元 軽境原宮    剣池嶋上陵

 9 開化 春日率川宮   春日率川坂本陵

10 崇神 磯城瑞籬宮   山辺道勾岡上陵

11 垂仁 纒向珠城宮   菅原伏見東陵

12 景行 纒向日代宮   山辺道上陵

13 成務 志賀高穴穂宮  狭城盾列池後陵

14 仲哀 穴門豊浦宮   恵我長野西陵

15    橿日宮     

15 応神 難波大隅宮   恵我藻伏岡陵

16 仁徳 難波高津宮   百舌鳥耳原中陵

17 履中 磐余稚櫻宮   百舌鳥耳原南陵

18 反正 丹比柴籬宮   百舌鳥耳原北陵

19 允恭 遠飛鳥宮    恵我長野北陵

20 安康 石上穴穗宮   菅原伏見西陵

21 雄略 泊瀬朝倉宮   丹比高鷲原陵

22 清寧 磐余甕栗宮   河内坂門原陵

23 顕宗 近飛鳥八釣宮  傍丘磐杯丘南陵

24 仁賢 石上廣高宮   埴生坂本陵

25 武烈 泊瀬列城宮   傍丘磐杯丘北陵

26 継体 樟葉宮            

      筒城宮

      弟国宮

      磐余玉穂宮   三島藍野陵

27 安閑 勾金橋宮    古市高屋丘陵

28 宣化 檜隈廬入野宮  身狭桃花鳥坂上陵

29 欽明 磯城島金刺宮  桧隈坂合陵

30 敏達 百済大井宮   河内磯長中尾陵

31 用明 磐余池辺双槻宮 河内磯長原陵

32 崇峻 倉橋柴垣宮   倉梯岡上陵

33 推古 豐浦宮   

      小墾田宮    磯長山田陵

34 舒明 飛鳥岡本宮   押坂内陵

35 皇極 飛鳥板蓋宮   (重祚)

36 孝徳 難波長柄豐碕宮 大坂磯長陵

37 斉明 飛鳥川原宮   越智崗上陵

38 天智 近江大津宮   山科陵

39 弘文 近江大津宮   長等山前陵

40 天武 飛鳥浄御原宮  桧隈大内陵

 

一方、父、仁徳天皇の膨大な土木事業の実績は有名です。どうも、大和盆地の狭い世界に飽き足らない大きな人間だったようにみえます。

確かに、河内に大型古墳が増えたのはこの頃ですが、あくまで墓であって居住空間ではないのです。

そして、土木事業の副産物としての膨大な土壌はこうした古墳にこそ利用された、と考えた方が自然のように思えます。

当時の大和の富と権力はもう奈良盆地内には収まる時代ではなくなっていたということです。こと陵墓に関しては、その造営範囲は近畿圏すべてに広がっていったのです。

新河内王朝などと片意地を張る必要などはないように思えます。

 

 

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