天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
允恭天皇の年齢 いんぎょうてんのう First update 2011/04/29
Last update 2011/05/11 453允恭42年崩 日本書紀 377 丁丑 年生 〜 454 甲午 年崩 78歳 古事記 374仁徳62年生 〜 453允恭42年崩 80歳 他すべて 434 年生 〜 480允恭10年崩 47歳 本説 和風諡号 雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと) 父 仁徳天皇 母 葛城磐之姫命 兄 履中天皇 住吉中皇子(すみのえのなかつみこ) 反正天皇 義弟 大草香皇子 母は日向髪長媛(ひむかのかみながひめ) 義妹 幡梭皇女 後に雄略皇后 皇后 忍坂大中姫 父は稚野毛二派皇子(応神皇子) 母は弟比売真若比売命(稚野毛二派皇子の母の妹)古事記 子 木梨軽皇子 太子 名形大娘皇女 境黒彦皇子 穴穂天皇(安康天皇) 軽大娘皇女(古事記曰く、衣通郎女) 木梨軽皇子との恋 八釣白彦皇子 大泊瀬稚武天皇(雄略天皇) 但馬橘大娘皇女 酒見皇女 妃 弟姫(衣通郎姫) 皇后の同母妹 日向髪長媛 ├―――――――幡梭姫 荑媛 ├――――――大草香皇子 ├――――顕宗天皇 |磐之媛 ├――――仁賢天皇 | ├――――履中天皇―――市辺押磐皇子 | | ├――――住吉中皇子 | | ├――――反正天皇 ├―――武烈天皇 仲姫 | ├――――允恭天皇 ├―――橘皇女 ├―――仁徳天皇 ├――――安康天皇 ├―――手白香皇女 応神天皇 ├――――雄略天皇―――春日大娘皇女 | ├―――稚野毛二派皇子 | ├――――清寧天皇 | 弟媛 ├――――忍坂大中姫 韓媛 ├―欽明天皇 ├――――衣通郎姫 | ├――――大郎子――(乎非(オヒ)王)――彦主人(ヒコウシ)王 | 弟比売 ├―――継体天皇 振媛 注()内は上宮記による表記 青地は古事記表記 【允恭天皇皇子の年齢】年齢は本稿の推定値 400 5555555555666666666677777777778888888 年 年 0123456789012345678901234567890123456 齢 允恭天皇 PQRS―――――26―――30―――――――38―40――――――47 忍坂大中姫PQRS―――――――――30―――――――――40―――――――――50――――? 木梨軽皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30 名形大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――? 境黒彦皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――29 安康天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27 軽大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22 八釣白彦皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――23 雄略天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22―――44 但馬橘大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 酒見皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―? 衣通郎姫IJKLMNOPQRS―――24―――――30―――――――――40――――――――? ――仁徳天皇在位―→←―履中―→←反 正→←―允恭天皇在位―→安康→←雄略― 年齢設定 本稿では彼の年齢を47年と設定しました。 いままでの通り、妻子などの年齢からの積み上げる方法で年齢を考えてきた結果です。 主に、雄略天皇の年齢を基準にしています。安康天皇が即位し、弟の皇后を娶るとき、まだ未成年であったという記事などに基づいています。 むろん、雄略天皇自身の各后妃、その子供達の年齢検証からも同様の結果が得られました。 兄、安康天皇は同じ母から生まれた兄弟ですから、8歳年上として検証し矛盾はありません。 また、長男の木梨軽皇子と軽大娘皇女との恋愛事件も30歳と22歳の結末として、これも妥当なものだと思います。 これらに基づき、允恭天皇の年齢は応神天皇の正統な孫を皇后に迎え、夫婦同年齢と考えました。18歳から子供を作り続け、長男の木梨軽皇子、安康天皇、雄略天皇を得たとして年齢を逆算した結果です。 しかし、日本書紀によると允恭天皇の在位期間は42年間です。 古事記では兄、反正天皇が437年に崩御され、この允恭天皇が454年に崩御されたとありますから、その在位期間は17年です。42年間とはずいぶん違います。 少し考えれば、この42年は長すぎるとすぐわかります。本稿ではいままで在位期間に変更はしていません。継体天皇だけ、並立王朝と考えたため、それ以前の天皇の干支に27年のずれが生じていますが、相対的に前後のすべての在位期間は日本書紀の記述通りに考えてきました。 日本書紀以降の天皇在位期間は単純平均で15年です。長い日本の歴史の途上には譲位制度がありましたから、これを加味し幼少時の即位から崩御までとしても29年間です。 歴代天皇でも允恭天皇以前の天皇を除くと、昭和天皇の63年間、明治天皇の45年間に次いで第三位の長期政権となります。長寿の推古天皇でも32年です。 どうも何か調整しているような在位期間です。 この在位期間を変更することは大変なことです。 つまるところ、直近の兄天皇、反正、その兄の履中はいつ崩御されたとすればいいのでしょう。 別に倭の五王の在位期間などで表現しようとも試みましたが、中国歴史書から導かれる在位期間があまりに合わないので諦めました。 結論的に、干支崩御年を使用しました。年齢検証の結果から、この干支崩御年を干支年は同じと考え、60年相対年として利用すると驚くほどすっきり収まったのです。 これは応神天皇の在位年には120年のずれがあるという有名な事実に基づきます。 |日本書紀崩御年 在位期間 |本稿崩御年予測 在位期間 | 絶対年誤差 15代応神天皇 | 庚午310年 41年間 | 庚午430年 41年間 | 120年 16代仁徳天皇 | 己亥399年 87年間 | 己亥459年 27年間 | 60年 17代履中天皇 | 乙巳405年 6年間 | 乙巳465年 6年間 | 60年 18代反正天皇 | 庚戌410年 5年間 | 庚戌470年 5年間 | 60年 19代允恭天皇 | 癸巳453年 42年間 | 庚申480年 10年間 | 27年 細かいことは、時の天皇の項で順次説明します。 すると、允恭の在位期間は10年ということになります。 允恭、反正間の1年の空位期間 日本書紀の記述によると、反正天皇が崩御され、允恭天皇が即位する間、1年間の謎の空位年があります。 庚戌410反正5年1月23日 反正天皇が崩御。 辛亥411 記事がありません。 壬子412允恭1年12月 允恭天皇が即位。 形は1年間の空位ですが410年2月から412年11月まで都合2年9ヶ月間にもなります。 ここでの2つの矛盾 1.辛亥411年の空位期間に何の説明もありません。 允恭天皇は「篤病」重い病と称して、即位を拒み続けたからと現在の我々は良心的な解釈しています。 2.日本書紀はいままで、厳格に翌年称元法に基づき表記されてきました。つまり即位年の翌年が元年(1年)となります。しかし、ここだけは、日本書紀は即位年=允恭1年としています。 つまり、この1年は空位年が間違いなのか、翌年称元法が間違いなのかということです。 この二つは正しい計算結果を示しているのです。 410年に反正天皇が崩御され、411年12月に允恭天皇が即位されたとすれば、412年が允恭天皇1年になるのです。なにも空位などと大騒ぎをする必要はないのです。 日本書紀は厳密に計算された年号に則して各事情を記入していたのです。 正しくは 庚戌410反正5年 1月23日 反正天皇が崩御。 辛亥411年 12月 允恭天皇が即位。 壬子412允恭1年 允恭天皇が即位元年。 となるはずです。 こうすれば、上記1,2の問題点、即位を拒んだ期間が長すぎる、翌年称元法がここだけ使用していないなどの矛盾がなくなります。 はっきり言って、即位記事は辛亥411年の日本書紀執筆者の記入ミス、もしくは、表現が難しいため、わかっていてこう現在のように表記したのかもしれません。 日本書紀は翌年称元法を使用しているために架空の空位年が生まれたということなのです。 あるいは、古事記では、履中天皇と反正天皇の在位期間を同じ6年間(越年称元法)としています。 これに則して考えると、反正天皇は翌年の辛亥411年反正1月23日に崩御されたのかもしれません。 すると、履中、反正ともに在位期間が6年になり、また当年12月に允恭天皇が即位となり、ますます流れがすっきりします。 しかし、これだと崩御年干支が微妙にずれてしまうなど、いろいろややこしいことになるので、本稿では採用しません。あくまで、日本書紀の記述に則して話しを進めます。 允恭天皇の崩御年 允恭天皇の崩御年は古事記と日本書紀では、 日本書紀 癸巳453允恭42年1月14日(乙亥朔戊子) 古事記 甲午454允恭18年1月15日(己亥朔癸丑)注:18年は越年称元法による計算値 絶対年にはこの二つの史書はちょうど1年のずれしか生じていません。 つまり、この二つの重要な書物は允恭天皇の崩御年では一致しているということです。 勘ぐって考えれば、古事記は在位のずれを長い在位期間の雄略天皇で、日本書紀は長い在位期間の允恭天皇で調整したようにも見えるのです。 日本書紀の執筆陣の違い 日本書紀の執筆はその時代時代で担当が別れ作成されたといいます。特に、一般に言われているのは、最初から雄略天皇前までとそれ以降ではずいぶんとその内容が異なります。 例えば、年代を安康3年以降は元嘉暦が使われ、それ以前は儀鳳暦が使われたとする小川清彦氏の研究があります。どう違うかまだよく理解していません。この論文をまだ読んでいません。このことを紹介する記事をよく目にしますが、名前だけの紹介記事が多く、説明があっても、簡略化されていてよくわからないのです。 しかし、年齢を調べていくと、確かに、この雄略天皇までとそれ以降では全然違うように思えます。 この允恭天皇の在位期間の操作はこの象徴的なものでしょう。 以上に基づき、日本書紀や古事記の表記との整合性を検証していきます。 允恭天皇の病 一つのヒントは允恭天皇が壮年になってから即位したという事実です。 日本書紀はこの允恭天皇の生い立ちを意外と克明に描写しています。 允恭天皇は仁徳天皇皇后から生まれた四兄弟の一番下になります。もっとも、その皇后の死後、仁徳天皇は髪長姫を寵愛し、大草香皇子などが生まれています。 生まれたときから、「岐嶷」なる秀逸な容姿と形容されています。 「總角」という当時男子の髪型で、17,18歳までは「仁惠儉下」仁愛に満ち遜っていたといいます。 ところが「及壯篤病、容止不便」とあります。「壯」を「男盛り」と古訓されているように、20歳を超えて病を得たようです。 父仁徳天皇も彼の病を知っており、その父から、たとえおまえが長生きしたとしても皇位の継承など無理だ、と言われているからです。本稿でも、父が崩御されたとき、允恭は26歳になっていました。 また、兄たちにも「我(允恭自身)を愚かだと軽んじられた」といいます。 履中天皇6年に長兄、履中天皇が在位6年で崩御されます。時に允恭32歳。 次に弟の反正天皇が在位5年で崩御されます。時に允恭37歳。 このとき、次を引き継ぐ候補として、仁徳天皇の皇子はこの允恭と大草香皇子が居られました。 大草香皇子には白羽の矢は立たなかったのは、人格の「仁孝」というより、大草香は成人していたものの、明らかに年が上であったからだと思われます。 ところが、まだ病は続いてしたようで、允恭自身は皇位継承をしたがりません。 その後、即位した3年に新羅から呼び寄せた医師の治療に効果があり、病はけろりと直ったとあります。何だったのでしょう。 この後に子作りをし始めたとも考えにくいので、子作りには支障はない病なのです。 あくまで、想像ですが、 上に立つものが部下に対して、甘い評価は決してあり得ません。父や兄たちが見たこの允恭に対する評価は正しかったと思います。 優秀な父や兄たちと比較され、抑圧された劣等感の固まりではなかったかと想像します。現代流に言えば、財閥企業の社長を中心とした優秀な息子達の中の一番年下の東大浪人生といったところでしょうか。 思いもよらず、兄達が次々に亡くなり、自らが天皇という雲の上に突き抜けることが出来て、病はあっさり直ったということです。一種のノイローゼであったと想像しています。 この病気のきっかけは何でしょうか。父仁徳が崩御されたとき、衣通郎姫は20歳。たぶん、それ以前にこの允恭は、妻、忍坂大中姫を通じて、この妹を知っており、気持ちを隠してしたと思われます。 単純に恋煩いといったら失礼ですが、何もかもが思い通りにならない今の自分にうんざりしていたのかもしれません。 そういえば、この允恭天皇だけが、仁徳天皇の子供ではないという学説があります。 仁徳天皇が崩御され、それを引き継ぐのは長子、履中のはずでしたが、次子の住吉中皇子が反乱を起こします。これを、第三子の反正が履中に味方し、住吉中皇子を倒し、履中天皇を擁立させるというものです。この事件に、この允恭が関わった形跡はありません。 だからといって、親子、兄弟でないとは早計な考え方だと思います。その他、難しい理由根拠の数々があるのでしょうが、ここでは、単純に日本書紀、古事記に書かれている系譜が事実として、允恭天皇は仁徳天皇の子として話を進めます。 つまりは爪弾きにされていた皇子だったのです。 盟神探湯(くがたち) これは、允恭天皇の唯一の政治行動です。 世の中には、重い責任を任されると優秀な人間に変貌する方もおられますが、允恭はどうだったのでしょう。 氏素姓を正すという見極めの裁定は、この頃から難しいことだったようです。氏素性の正当性を見極めることは至難の業で、後世、膨大な系譜資料が作成され、大変な労力を要しました。 そうした中で、允恭天皇はこの盟神探湯の方法を正式採用した唯一の大王です。新撰姓氏録にも紹介されるほどの有名な解決方法です。 垂仁25年3月に中臣連の祖に盟神主(くがぬし)に占わせたとありますから、本来は占いです。真偽を探る方法として、応神9年4月、継体天皇24年9月にも用例が見られます。 しかし、この盟神探湯は一言でいって、半丁賭博と同じです。神聖な熱湯に手をいれ火傷をしなければ素姓は正しく、やけどをすれば素姓卑しきものとされるのです。 当初、簡便で即決されるこの方法はもてはやされたことでしょう。何しろ大王が認めた技です。しかし、いつも正しいわけがありません。本当に素姓の正しいものはたとえ酷い火傷を負っても、訴え続けた人もいたはずです。いつしか人はこれを信じず、江戸時代の「生類憐れみの令」ではありませんが、次の代には決して引き継がれることはなかった、悪法だったと思います。問題点の着眼点はすばらしかったのですが、解決策は最低でした。 この簡便な判断方法は後世になっても人の記憶に留まったようです。それほど、人の氏素性を正すことは大変な労力が必要なことでした。 忍坂大中姫皇后 応神天皇皇子、稚野毛二派皇子の娘です。母は息長氏の娘です。 天皇の血筋の曖昧なあの継体天皇は、忍坂皇后の兄、大郎子の三代目の息子だと上宮記は伝えています。 忍坂大中姫の長兄、大郎子――乎非(オヒ)王――彦主人(ヒコウシ)王――継体天皇 あまり意味はないかもしれませんが、大郎子が忍坂大中姫より2歳年上として432年生まれ。本稿で継体天皇が生まれたとする489年までが57年間。3代目になりますから、3で割ると19歳です。 それぞれの父が息子を19歳で生み引き継いだと計算され、矛盾はありません。 継体天皇は意外と天皇の血筋に近い存在だったと実感しています。 応神天皇は5代目の孫というより、允恭天皇や雄略天皇にも近いのです。 この皇后、気性は激しい女性のようです。 雄略を出産したときなど、夫の浮気に逆上し、産屋を焼き、自殺しようとしました。 また、40歳に近づき夫に天皇即位の順番が廻ってきたとき、ぐずぐずしている夫をけしかけ即位させた婦人です。食事を絶ち、即位しなければ死ぬと迫ったのです。 9人の子供を生んだ実績が大きな地位を保障しているようです。 忍坂大中姫皇后は34歳までに9人の子供を生み分けました。これだけ多産の后妃の例では、欽明妃、堅塩媛や推古女帝など、夫の死別するまで生み続けた女性が多いのですが、この忍坂大中姫は違いました。末娘を生んだ後14年間、允恭天皇崩御まで子を生んでいません。たぶん、夫の愛情は彼女の妹、衣通郎姫に奪われた形です。衣通郎姫は日本の歴史に残る美女と噂の高い女性です。 それでも、彼女は生きつつづけます。夫が崩御し、息子の安康天皇から皇太后と呼ばれます。さらい次の雄略天皇の在位期間では幡梭皇后と二人で雄略の暴力沙汰を心配する、嫁と姑の仲の良い姿を想像させます。そこには息子にやさしく教え諭す姿さえ描かれています。 その後の清寧天皇時には記述が見あたりません。生きていれば74歳になります。雄略2年の記事、52歳までは確実に生きていた女性です。 衣通郎姫(そとおしのいらつめ) 衣通郎姫はあだ名で、本名ではありません。 女性の美しさの示す日本語のすばらしい表現の一つです。 日本書紀
「弟姫は容姿絶妙で、並ぶものなし。 その麗しき体の輝きは、衣を通して外に現れた。 時の人、名付けて衣通郎姫と言う。」 古事記
「衣通郎女。 御名を衣通王と負はせる所以は、 その身の光、衣より通り出づればなり。」 この俗称は、履中天皇の娘、中蒂姫や古事記では允恭天皇の娘、軽大娘皇女でも使われていますが、この忍坂大中姫の妹が代表格でしょう。 この衣通郎姫の話が、允恭天皇の後半生、7年から11年を独占します。ついでに記せば、14年に阿波の大真珠の逸話が前後のなんの脈略と関係なく登場し、最後、23、24年で木梨軽皇子の兄妹恋愛事件があり、飛んで42年に崩御記事となります。 やはり、強引に紀年を引き延ばした形跡が濃厚です。 日本書紀も古事記も日本書紀も允恭天皇崩御の後、木梨軽皇子はこの事件により殺されたとあります。 やはり、古事記の記述の方が真実で、允恭崩御前後の木梨軽皇子の事件であったと思います。 【日本書紀による允恭天皇在位42年間の記述】 年 允恭 111111111122222222223333333333444 5 123456789012345678901234567890123456789012 反 婚姻等 衣通郎姫に 阿 木梨 允 正 一般記事 関わる 波 皇子 恭 崩 事件 伝 騒動 崩 → ←――――――――――――允恭 天皇 在位 42 年間――――――――――――――→ 注:青地は日本書紀に記述がある年、無地は日本書紀に記述がない年。 衣通郎姫の件は実際にはどうだったのでしょう。 古事記では藤原之琴節郎女と書かれています。忍坂大中姫の同母の妹です。 この兄妹は上から生まれた順に、大郎子、忍坂大中姫、田井之中比売、田宮之中比売、衣通郎姫、取売王、沙禰王の7人です。第2子と第5子ですから、単純計算で6歳は違う妹となります。忍坂大中姫30歳が雄略天皇を生むとき、24歳くらいのはずです。 日本書紀によれば、允恭天皇の在位期間は42年ですが、雄略天皇はその允恭7年に生まれました。 すると雄略天皇の年齢は、36年(允恭残在位)+3年(安康在位)+23年(雄略在位)=62歳 となります。 本稿の試算では、允恭天皇即位まえに、忍坂大中姫は記録に残る8人のすべての子を出産し終わっています。そのまえに兄二人が天皇になっているのです。天皇に即位してから、子供を作りはじめた若年ではないはずです。 また、この日本書紀の雄略誕生の記述も何か強引に挿入された記事に見えます。 7年12月1日に、天皇の琴に合わせて皇后が舞われています。 行きがかりから、天皇に自分の妹、衣通郎姫を紹介しなければならなくなり、その名を告げます。 天皇は喜んで、その娘を召そうとしますが、この娘は姉を恐れ、従いません。 とうとう部下を差し向け、強引に連れてきます。 ただ、宮には入れず、藤原の地に住まわせたとあります。 皇后が出産のときに天皇はこの藤原の地に赴きます。 これを皇后は知って、産屋を焼いて自ら死のうとしたのです。 天皇は驚き、謝り、慰め機嫌をとったとあります。 允恭天皇は誠に心根のやさしい男でした。つまりは優柔不断で、決めたことを最後まで貫き通す貫禄はなかったようです。 これが、12月1ヶ月間の記事です。妊娠9ヶ月の妊婦に舞を舞わせるのは何か変です。 これは挿入記事と思われます。上記で述べたように、これらはすべて即位前の事象です。 子供達を次々出産するなか、允恭は妻の美しい妹の噂を耳にします。衣通郎姫が18歳ぐらいのときでしょう。宮に迎えようとしますが、妻や本人からも拒まれます。雄略を出産するときには、強引に藤原の地に連れてきていたというのが本当のところでしょう。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |