天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
安康天皇の年齢 あんこうてんのう First update 2011/04/10
Last update 2012/06/03 456安康3年崩 日本書紀 56歳 古事記 401履中2年生 〜 456安康3年崩 56歳 他史書すべて 457年生 〜 483安康3年崩 27歳 本説 父 允恭天皇 安康は第二子または第三子とある。 母 忍坂大中姫 皇后 父は稚野毛二派皇子(応神皇子) 子 木梨軽皇子 太子 名形大娘皇女 境黒彦皇子 安康天皇(穴穂天皇) 軽大娘皇女 木梨軽皇子と関係したことから、伊予へ流罪 八釣白彦皇子 雄略天皇 但馬橘大娘皇女 酒見皇女 皇后 中蒂姫 もと大草香皇子(仁徳天皇皇子)の妻。 子 眉輪王 大草香皇子との間に生まれた子 日向髪長媛 ├―――――――――――――――――――幡梭皇女(はたひ) 日向泉長媛 ├―――――――――――大草香皇子 | ├――――――|――――草香幡梭皇女 ├――眉輪王 | 応神天皇 | | | | | ├―――仁徳天皇 ├――――中蒂姫命 | |仲姫命 ├――――履中天皇 | | | ├――――允恭天皇 | | | 葛城磐之姫命 ├――――安康天皇 | | ├――――――――――――雄略天皇 ├―――――稚野毛二派皇子 | 弟媛 ├――――忍坂大中姫 息長眞若中比賣 【安康同母兄弟の年齢】 400 5555555555666666666677777777778888888 年 年 0123456789012345678901234567890123456 齢 允恭天皇 PQRS―――――――――30―――――――――40――――――47 忍坂大中姫PQRS―――――――――30―――――――――40―――――――――50――――? 木梨軽皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30 名形大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――? 境黒彦皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――29 安康天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27 軽大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22 八釣白彦皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――23 雄略天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22―――44 但馬橘大娘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 酒見皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―? ――――允恭天皇在位―――→安康→←雄略― 年齢根拠 安康天皇は住んでいた石上の穴穂宮で即位したことから、当時は穴穂天皇(あなほのすめらみこと)といわれました。父、允恭天皇とその皇后から生まれた9人兄弟の4番目の子です。ちなみに、7番目が後の雄略天皇になります。 皇后である母の忍坂大中姫は応神天皇の娘で由緒正しい系統ですから、夫とほぼ同じ年齢と想像できます。その姫が18歳から順次9人の子が生まれたと仮定します。当然、3年間隔であったり、年子でうまれたこともあると思います。考え方はいままでの通りです。あくまで計算値として割り切り配置しています。なにか別の有力な資料があれば随時変更していきます。 雄略天皇の年齢は検証済みです。ですから、この兄は雄略天皇の年齢の6歳年上と考えました。 すると25歳で即位し、27歳で崩御されたことになります。天皇即位には少し早いようですが、本来は長兄の30歳木梨軽皇子の即位が順当だったはずです。不祥事により、急遽安康天皇が担ぎ出されました。むしろ、彼は長兄に対抗意識を抱いていたようです。 実子の記録はありません。また、子はないとも書かれていません。 当然、若いと想像できます。自分の皇后を定めた経緯から、新たに妃を定めるまでに至らぬまま、殺されたとして、矛盾はないと考えました。 古事記は56歳としています。これに準じてか他の史書もすべて56歳としています。 古事記の示す年齢は重要で、本稿でも年齢が示されると採用してきましたが、弟、雄略天皇の124歳という年齢から事情が違ってきました。 ちなみに、古事記の56歳を採用すると、紀年に即して、約6歳年下の弟雄略天皇は51歳で即位し、在位期間23年を通し、73歳の高齢で崩御ということになります。この56歳は採用できないのです。 強引に56歳に意味を見つけようとすれば、年齢2倍説があります。本来は28歳であったと考えればいいのです。日本書紀は雄略天皇の年齢を62歳としています。これは古事記の記述124歳のちょうど半分なのです。 安康天皇は眉輪王の弑逆という一つの事件伝承が、この天皇の存在を確実なものにしています。 眉輪王の弑逆 中国古代史では当たり前に用いられた「弑逆」(しいぎゃく)です。弑逆とは君夫など目上のものを殺すことです。通常、最高位の皇帝暗殺などに使われます。 日本書紀の記録で、「弑逆」の言葉が使用されたのは3例だけです。 新しい順に、崇峻天皇暗殺、この安康天皇暗殺、そして、垂仁天皇暗殺未遂です。日本書紀が正しければ、実際に天皇が弑逆されたのは2人だけということになります。 眉輪王(まよわのおおきみ) 眉輪王は仁徳天皇の皇子、大草香皇子と履中天皇の皇女、中蒂姫(なかしひめ)の間に生まれた王です。 大草香皇子には妹がいます。幡梭皇女(はたびのひめみこ)といいます。後に雄略皇后となる女性です。 天皇に即位したばかりの安康天皇は弟、雄略のために、この幡梭姫を娶せるために大草香皇子のもとに使者を送ります。これを受けた大草香皇子は承諾の印として押木玉縵(おしきのたまかずら)を贈ります。ところがこの使者、根使主(ねのおみ)はこの髪飾りを私物化して偽り、婚姻を拒否されたと安康天皇に報告します。これを聞いた天皇は怒り、兵を送り、大草香皇子を殺してしまいました。 こうして幡梭皇女を弟の雄略に与え、自分は殺した大草香皇子の妻、中蒂姫を自分の皇后にしたとあります。「甚寵」(甚だしく寵愛)とありますから、べた惚れだったのでしょう。 この2年後の安康3年8月、連れ子として宮に入っていた眉輪王は、天皇の寝込みを襲い殺したというものです。 これが、公式の記録ですが、当の日本書紀の執筆者も言外でこれはおかしな事件であることを正直に記録しています。 それにしても、登場人物たちの正体がはっきりしません。同じ名前が各所に見られ、日本書紀や古事記がというより、現在の学者達のほうが惑わされ、いろいろな説を主張されています。まず、これを整理する必要があります。 眉輪王の年齢 古事記には目弱王(まよわのみこ)とあります。目が悪かったのでしょうか。 古事記によると、眉輪王は当時7歳です。 また、雄略天皇が眉輪王を殺すとき、雄略天皇の歳は「当時童男」とあります。成人していないのです。本稿でもこれに準じ、幡梭姫婚姻時の年齢は19歳としました。 しかし現在、この二つの年齢記録記事を多くの人が信じていないようです。それほどに、年齢記事には矛盾が多いように見えるのでしょう。理解できないこともありません。でも、本稿の研究では、どうしても眉輪王や雄略天皇を若くしないと他とのバランスが悪くなることがわかってきました。 7歳の幼い子が、皇后の膝枕のなかの成人男性を殺せるはずもありません。7歳が正しいとすれば、大草香皇子の子、眉輪王の名のもとに弑逆した、その近親者たちが暗殺に荷担した、と考えられます。雄略天皇の謀略説があります。しかし、首謀者はやはり、元夫を殺された皇后中蒂姫でしょう。最後には、眉倭王は母と一緒に死んだと考えられるからです。常に宮中では母と共にいたのだす。沐浴のため山宮に行幸された際も母と一緒です。夫が殺され安康天皇に嫁ぐ際の条件であったと思われ、母の強い意志を感じます。案の定、安康天皇は連れ子となる眉輪王を嫌っています。 長髪姫 ├―――――――――大草香皇女(幡梭皇女) ├―――――――――大草香皇子 仁徳天皇 ├――――眉輪王 ├―――履中天皇―――中蒂姫 ├―――反正天皇 | ├―――允恭天皇 | 葛城磐之姫 ├―――安康天皇 ├―――雄略天皇 忍坂大中姫 中蒂姫(なかしひめ) 眉輪王の生んだ中蒂姫です。中磯(なかし)皇女とも書きます。 日本書紀履中紀には履中天皇の娘で、妃幡梭皇女が中蒂皇女を生んだとあります。 また、雄略紀には、中蒂姫皇女はまたの名を長田大娘皇女といい、初め仁徳天皇の子、大草香皇子に嫁ぎ眉輪王を生んだとあります。日本書紀は混乱を避けるように、はっきり、中蒂姫が履中天皇の皇女と記述しています。 それにも関わらず、同じ名前が乱立し混乱しているとして、この長田大娘皇女(ながた)は允恭天皇の子にも同名の名形大娘皇女(ながた)がいるため、履中天皇の皇女ではなく、允恭天皇の皇女という説があります。 この説によれば、安康天皇と同母の姉弟の婚姻となり、それでなくても、木梨軽皇子の件で神経質になっているそのときにありえないことです。日本書紀ははっきり、中蒂姫は履中天皇の娘としているのです。 近親相姦説はありえません。 その中蒂姫は眉輪王を20歳で生んだとして設定しました。 すると、安康天皇は1歳年上となります。 ただ、前夫、大草香皇子が叔父の允恭天皇に近い年齢のはずですから、10歳ぐらいは年上と思われます。 これでも大きな矛盾はないと思います。 古事記によると、
此れよりのち、天皇、御床で昼寝をしたさい、「おまえは何か心配なことがあるか」と問われた。 これに「天皇のあつい恵みを頂戴し、何の心配ごとがありましょう」と答えた。 女性の本音とたて前の凄まじい会話です。この後すぐに殺すからです。 ことが成就すると、中蒂姫は眉輪王と一緒に葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の自宅に逃げ込みます。この円臣(つぶらのおみ)は、中蒂姫の父、履中天皇に見出された寵臣で、その後、ずっと天皇一族に仕えた人です。中蒂姫が頼ったのも道理です。たぶん、円臣も子供の頃からの中蒂姫を見ていたはずです。実際、中蒂姫の救援依頼に答え、二人を匿ったのです。 葛城円大臣も最初から慎重です。長期戦に持ち込もうとしていたようにも見えます。雄略に自分の膨大な財産分与を提案、自分の愛娘、韓姫までを捧げようとします。 一方、雄略の兄達(境黒彦皇子29歳、八釣白彦皇子23歳)も眉輪王を殺すことに消極的でした。いままでの安康天皇のやり方には賛同はしていなかったということです。雄略は彼らも殺してしまいます。 このままでは大変な大きな戦争に発展したはずです。ところがそうはなりませんでした。この頃の巨大な葛城氏は、襲津彦の孫の時代です。安康天皇の父、允恭や反正、履中の母は皆、有名な葛城磐姫皇后です。 雄略は評判の乱暴者でしたが、その考え方は思想的に大きなものだったと思います。安康個人に対する好き嫌いではなく、大王家の存亡を考えています。大きく肥大し、天皇に従わなくなりつつある葛城本宗家をここで殲滅する必要があったのです。 その結果は、雄略軍に葛城の屋敷を包囲され、あっという間に、みな殺しにされたのでした。骨が分別できず、一緒の棺に入れ葬ったとあります。 この徹底した即断即決、そしてその行動の早さ。これは雄略が崩御されたときも、彼の部下たちに引き継がれました。星川皇子の叛でも共通した対応が見られるからです。一挙に、元凶を絶つ、原因を排除して、大きな戦争になることを防いだのです。 この結果、歴史的に考えると、まずこの葛城氏が滅びます。次に、平群氏、そして、大伴氏、物部氏、最後に蘇我氏と続きます。大王家と氏族間の長い抗争の歴史でもあると思います。最後に藤原氏が政権を握るのです。 大草香皇子 大草香皇子は仁徳天皇の皇子です。応神天皇の皇子とする説や実際それに類似する皇子の名もあるようですが、日本書紀の記述に沿います。 安康天皇は大草香皇子の妻、中蒂姫を皇后とし、雄略天皇も大草香皇子の妹、幡梭皇女を皇后としています。このことは逆の意味で、大草香皇子の身分の確かさを証明しています。 また、父、允恭天皇が即位する際、この大草香皇子も天皇候補の一人でした。この大草香皇子は允恭より歳が若いことから、天皇位は允恭に決まったという経緯をもつ実力者です。 允恭天皇よりは年下でも、他の皇子らより年上のはずです。 しかも、彼の妃となる、中蒂姫は義兄、履中天皇も娘です。親子ほどは離れていないと思います。 その可能性のある若さ、最年長の木梨軽皇子より1歳年上としました。もっと上かもしれません。 その他の即位候補者に長男の履中天皇の皇子で市辺巌皇子がいます。顕宗、仁賢天皇の父です。しかし、本稿の研究では、彼は木梨軽皇子と同程度の年齢でしかありません。この件は、履中天皇のところで、仁徳天皇の息子達として全体をもう一度見直すつもりです。 年齢をまとめると、眉輪王が28歳のとき生まれました。妻、中蒂姫は20歳。 31歳で当時24歳の安康に殺されたことになります。 安康天皇によって殺されましたが、元を正せば、これは根使主の偽証から、安康が大草香皇子を殺すことに発展したものです。 根使主は後、身につけていた押木玉縵の髪飾りが露見し、雄略天皇に殺されています。 最初から堂々としたものでした。特に髪飾りを秘匿していた様子もありません。雄略天皇に問われるままに、大草香皇子から奪ったことを認めています。たぶん、兄の安康天皇には了解済みといったところでしょう。雄略の皇后、大草香皇女の訴えにより、あえなく殺されることになったのです。 幡梭姫(はたび) 大草香皇子の妹です。父は仁徳天皇です。 母は日向髪長媛と言われ、はじめ応神天皇に捧げられたこの女性を息子の仁徳が譲り受けたという経緯をもちます。当時、仁徳天皇には葛城磐之姫という皇后がいましたから、なかなか別の妃をもてず、八田皇女と同様、皇后が薨じたのちの妃と思われます。 幡梭姫の幡梭には同名の娘が多いので混乱しますが、九州の娘にこの名がよく使われています。この時期、九州の娘が多いのも特徴的です。 日本書紀履中紀には履中天皇の娘で、妃幡梭皇女が中蒂皇女を生んだとあります。この幡梭皇女は応神天皇が日向泉長媛に生ませた娘で別人です。 また、 大草香皇子の妹であるところから大草香皇女ともいわれています。兄安康天皇の推挙により、安康1年に雄略のもとに嫁ぎました。 ただ、幡梭姫、後の雄略皇后の年齢が問題です。大草香皇子の2歳差の妹だと、雄略とは12歳年上となります。これでもいいのですが、気分的におもしろくないので突きつめると、ぎりぎり仁徳天皇が亡くなった年(仁徳天皇の項を参照)の生まれとして、4歳差までに近づけることは可能です。つまり、実際はその間(4歳〜12歳)の年上の皇后をもつ夫、雄略だったと思われます。 ここでは下記の実例に則し、9歳年上としました。ただ、年の離れた皇后をもつ天皇がいた事実を話したいだけで、根拠があるわけではありません。 平安時代、藤原道長は四女の威子(いし)(1000長保1年生〜1036長元9年薨)20歳、これを元服したばかりの11歳、後一条天皇の許に入内させています。しかも、威子と後一条は叔母甥の関係にあることでは幡梭姫と同じです。威子自身は、このことをひどく恥ずかしがったという逸話が残っています。生後間もない夫を抱いた経験のある威子です。結果的には27歳、29歳で二人の娘を生みました。後一条天皇が崩御されると、すぐその4ヶ月後に亡くなられ、皆を悲しませたといいます。 【安康、眉輪王との関連年齢】 400 5555555555666666666677777777778888888 年 年 0123456789012345678901234567890123456 齢 安康天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――27 眉輪王 @ABCDEF 中蒂姫 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26 大草香皇子@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28――31 幡梭皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――31―――? 雄略天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22―――44 ――――允恭天皇在位―――→安康→←雄略― 木梨軽皇子事件について この有名な悲恋物語は、その後の安康天皇と雄略天皇が若くして即位したことを証明する重要な事件でもあります。 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)は允恭天皇と忍坂大中姫皇后との間に生まれた長子です。 允恭天皇の晩年、正式に太子となります。 ところが、美しい妹の軽大娘(かるのおおいらつめ)に恋い焦がれて、密通してしまいます。
「允恭23年春3月7日、木梨軽皇子を立てて太子とされた。 容姿佳麗。見る者は自づから感じた。 同母妹の軽大娘皇女もまた艶妙。 太子、常に大娘皇女と合いたと念じた。罪有ることを恐れ、黙した。 しかし感情はすでに盛り、ほとんど死ぬばかりであった。 とうとう、空しく死ぬ者よりは、罪有りといえども、我慢できぬと。遂に竊(ひそ)かに通ず。」 翌年にはことが明らかとなり、太子ゆえに罰することができず、軽大娘を四国の伊予に流したとあります。 ところが、日本書紀の記述が突然、允恭42年に飛び、1月、允恭天皇崩御の記事となるのです。 そして、10月の葬礼が終わった時、「太子行暴虐、淫于婦女」として国人は誹り、郡臣は従わずに安康についたため、ここに争いが起こります。 そこ結果、木梨軽皇子は自殺し、12月に安康が天皇に即位したというものです。 歌が3首掲げられましたが、どれも木梨軽皇子から皇女への一方的な歌です。 古事記では、 木梨軽太子は、父允恭が崩御されたことで、密かな思いを現実なものとするため行動に移します。 このことで、百官や天下の人々の心は、安康に移ってしまいました。二者間の争いの結果、軽太子は捕まり、伊予湯に流されることに決まりますが、これに追いすがる軽大郎女と「共自死」というものです。 木梨軽皇子の歌は6首、軽大郎女は2首となります。衣通王(そとほりのみこ)、軽嬢子(かるおとめ)とも書かれています。 日本書紀の允恭在位期間は42年です。古事記では前反正崩御から允恭崩御までの期間が17年しかありません。どうやら、允恭天皇は木梨軽皇子を太子と定めて、すぐに亡くなったものと推察されます。 この説話は古事記の筋書きのとおりに、歌垣などで皆に歌われ伝承されたものだったのでしょう。 長い間に民間伝承の中で美しく脚色されていった物語をそぎ落としてみせた日本書紀ですが、政治色が入り込み、逆に木梨軽皇子を非難する一方的な文章になったようです。 木梨軽皇子は安康天皇と同じ允恭天皇の皇子です。また、軽皇女は4番目の安康天皇のすぐ下の妹です。単純計算でも木梨軽皇子とは8歳差のある同母の兄妹です。 少なくとも、この事件は安康天皇即位直前にあった話です。こうした物語が40歳兄と30歳すぎの妹が織りなした恋愛事件とは思えません。ずっと若い、エネルギーがほとばしる熱烈の恋愛事件だったはずです。 本稿の試算でも、木梨軽皇子が殺されたときが30歳であり、軽大郎娘は22歳と考えました。 もっと若い話なのかもしれません。 このことから、この後すぐ即位した弟、安康天皇やさらに下の弟の雄略天皇がそれほど年を取っていないと考えたのです。 近親相姦という汚い学術用語で締めくくるつもりはありません。生物学的にも健全でないとして、忌み嫌うこの習慣は現在でもあります。日本では大らかなほうで、韓国では、今でも同じ姓、例えば「佐藤」同士の男女は血縁関係がなくても結婚もできない厳しいものなのです。 倭の五王について 私はいままで、宋書にある倭の五王、特に確定的とされた、倭武と雄略天皇が同一人物とする説を信じていませんでした。見かけ上の名前が違うことは別としても、年代もその在位年も異なり、皇位の兄弟委譲の類似を指摘されながら、雄略以前の系図が一致しないからです。いろいろな説が乱立する有様だからです。むしろ、吉田武彦氏の九州王朝説の方が、説得力があると考えていました。 倭武に的を絞れば、477年、倭は宋に対し遣使し、興が死に弟武が即位したことを伝えたのです。 この年は、日本書紀では雄略21年に当たります。崩御2年前のことです。とても雄略が即位したばかりとは思えない記事になります。 また、その後、武王は502年にも中国梁から「征東将軍」に任じられているのです。これは日本書紀では雄略天皇はとうに崩御され、武烈4年です。年号が合いません。 ところが、継体大王の項で天皇序列から、継体大王を外すことで、それ以前の天皇らの在位年が引き下げられたことから、雄略=武とする説に対し、在位年で少なからず一致したことに驚きました。 本稿の方式をもちいると、502年は雄略19年となり、中国史書と一致するのです。 そこで喜び勇み、それ以前の4王についても検討を開始したのですが、徒労に終わりました。結局わからなかったのですが、少なくとも、雄略天皇が倭武王であるという、状況証拠の一つにはなりそうだと思いここに報告する次第です。 「宋書」倭国伝 順帝の478昇明2年、倭国の遣使が宋国に奉った倭王武の上表文
坂元義種「倭の五王」に基づく。句読点は本稿の任意。変換できない漢字は略字に入れ替えた。 上記は、倭王武が、中国南宋の順帝に送った上表文です。 この文章は大変におもしろく、いろいろな情報が詰まっています。ここでは、その中の 「奄喪父兄」=にわかに父兄を喪(うしな)い だけに言及します。 倭王武とは雄略天皇のことと言われています。本稿もそれでいいと考えていますが。年代が合わず、王たちの消息から推し量れる在位期間も一致しないので困ります。 このことは、別項でまとめるとして、安康天皇に的を絞ります。 倭の五王の件は非常に重要ですが、難しい案件です。まずは、外堀からじっくり研究します。 日本書紀によると、雄略天皇の父、允恭天皇の崩御の3年の後、兄安康天皇が続けて崩御されました。 弟の雄略天皇はこのことを言ったとすれば、よく一致していることになります。 しかし、宋書に記された武の兄、興の在位期間は15年続いたと思われ、この言葉と矛盾します。 しかもこの武の上表文は届けられた478昇明2年は日本書紀によれば、雄略22年に当たり、翌年には崩御されるわけですから、矛盾します。この上表文は、自分が王位についたので「開府義同三司」の称号を認めて欲しいというものだから、即位して間のない頃のはずなのです。 日本書紀の記述から当時の日本と呉国の往復には約2年半かかっています。それほど大きな誤差が生じるはずがないのです。 本稿の年号のずれによっても8年の誤差になります。日本書紀の20年の誤差よりは少し修正されたのかも知れませんが依然に正体がつかめないのです。 それにしても、この南宋は翌年には滅び、梁国に取って代わられます。この亡国寸前の時にわざわざ上表文を届けるとはよほど世間知らずなのか、手放しに爵位獲得のタイミングが良いなどとはとてもいえません。 当然、せっかく得た爵位は紙切れになり、次に建国された梁国へは改めて遣使を送らなくてはならず、その梁国も滅ぶとさらに次の南斉国にも武は遣使しているのです。 かといって、中国側は日本の遣使に対し、ご苦労様と受け入れるばかりではありません。ちゃんとお礼の使節を遠い日本にも派遣して、現地調査をしています。この頃の中国の周到な高い外交情報収集能力には恐れ入るばかりです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |