天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2011/03/06
Last update 2011/04/10 418允恭 7年生 ~ 479雄略23年崩 62歳 日本書紀 366丙寅年生 ~ 489 己巳年崩 124歳 古事記 376仁徳64年生 ~ 479雄略23年崩 104歳 愚管抄 皇胤紹運録、扶桑略記 387仁徳75年生 ~ 479雄略23年崩 93歳 扶桑略記、一代要記 400履中 1年生 ~ 479雄略23年崩 80歳 神皇正統記 429反正 4年生 ~ 479雄略23年崩 51歳 扶桑略記一説(他93歳) 463生 ~ 506雄略23年崩 44歳 本稿 諱は大泊瀬幼武(おおはつせのわかたけ) 父 允恭天皇 雄略は允恭の第五子とある。 母 皇后 忍坂大中姫 父は応神皇子、稚野毛二派皇子 子 木梨軽皇子 太子 名形大娘皇女 境黒彦皇子 安康天皇 大草香皇子の妻、中蒂姫(履中皇女)を妃にする。 軽大娘皇女 木梨軽皇子と関係 流罪 八釣白彦皇子 雄略天皇(大泊瀬稚武天皇) 但馬橘大娘皇女 酒見皇女 皇后 草香幡梭姫皇女(橘姫)くさかのはたびひめ 大草香皇子(仁徳天皇皇子)の妹。 三妃 元妃 韓媛 葛城圓大臣の娘 雄略により殺害。 子 清寧天皇 雄略の第三子とある 稚足姫皇女(栲幡娘姫皇女) 伊勢大神の斎宮 自殺。 稚媛 吉備上道臣の娘 又は吉備窪屋臣の娘 子 磐城皇子 長子とある。 星川稚宮皇子 雄略死後、乱を起こし、母とともに殺害される。 童女君 春日和珥臣深目の娘 元、采女。一夜で孕み出産した。 子 春日大娘皇女(高橋皇女)後に、仁賢天皇に嫁ぎ、7人の子を生む。 紀年に関わる保留事項 本稿では紀年に関して、日本書紀の記述を第一に考え、推敲を重ねてきました。 しかし、継体大王を天皇序列から外したため、すでに、その前天皇、武烈、仁賢、顕宗、清寧の各天皇の干支年や西暦年号にずれが生じてしまいました。 それでも、相対年号としての元号(天皇の在位期間)は日本書紀に基づき変更していません。 ←21代雄略→|←22清寧→|←23顕宗→|←24仁賢→|←25武烈→|←27代安閑→ |←―――――――26代 継体大王――――――――――→| つまり、25代武烈天皇以前の年号は単純計算で27年の差が生じることになります。 日本書紀において雄略崩御年は己未479雄略23年です。古事記とはすでに継体大王で4年のずれ、雄略に至り、合計10年のずれを生じています。 本稿では紀年を日本書紀に基づいていることは今までの通りです。 年齢設定 日本書紀は年齢を示されていません。 しかし、允恭7年12月に雄略天皇が誕生した逸話が書かれており、これに基づけば62歳となります。 本稿ではこれを採用しませんでした。允恭天皇の項で詳細に述べますが、允恭天皇の紀年が違うこと、雄略誕生秘話が強引に挿入された形跡がある文章であること、以下で説明するように、雄略天皇が即位した頃の年齢を日本書紀自身が若いとしており、本稿でも、年齢に関わるあらゆる点で、雄略天皇が62歳のような高齢とは思えないからです。また、古事記の124歳のちょうど半分の62歳です。できすぎの数字といえます。(2011.04.10追記) 本稿はこれまで、こうした場合、古事記に記述された年齢を基に年齢を予測してきました。 ところが、この雄略天皇に至っては124歳としているのはどうしたわけでしょう。 天皇。御年。壹佰貳拾肆歳。【己巳年八月九日崩也。】 「雄略天皇、御年124歳【489年8月9日崩御】」 (注 【】内は原文注) 崩御年は己巳年とありますから、西暦489年に当たります。 逆算すると366丙寅年生となり、兄どころか父允恭天皇や伯父履中天皇より年上になってしまいます。当然でしょう。なお、この原文注は、写本により、あるものとないものがあるといいます。 清寧天皇を調べる過程で雄略天皇の子供たちの年齢が意外と若いことがわかってきました。 また、後で語っていきますが、先代、23代顕宗、24代仁賢の親、市辺押磐皇子の父、17代履中天皇から弟、19代允恭天皇とその子供が21代雄略天皇ですから、ぐるり巡ると20歳ぐらいで即位したとしか思えないのです。すると、在位23年として、40~44歳で崩御したと予想できます。 荑媛 ├―――顕宗天皇 磐之媛 ├―――仁賢天皇 ├――――履中天皇―――市辺押磐皇子 | ├――――反正天皇 ├――手白香皇女(継体皇后) 仲姫 ├――――允恭天皇 ├――橘皇女 (宣化皇后) ├―――仁徳天皇 ├――――安康天皇 ├――武烈天皇 応神天皇 ├――――雄略天皇―――春日大娘皇女 ├―――稚野毛二派――忍坂大中姫 ├――――清寧天皇 弟媛 皇子 韓媛 古事記は雄略天皇から以前の天皇の年齢をすべて、記しています。雄略天皇がその最後の天皇となり、最後のしわ寄せのせいで、長大な年齢となったようにも見えます。 この件はしばらく置くとしても、年齢に関し何らかの下支えがほしいところです。 あいにく、いままで参考にしてきたどの史書も51歳、80歳、93歳、104歳とばらばらでどれが正しいのかわかりません。 その内、古事記の年齢に関わる記事で、笑い話のような逸話を見つけました。 あるとき雄略天皇は三輪川の辺で衣服を洗濯する美しい娘に出会います。その娘に後で宮中に迎えようと約束しますが忘れてしまいます。一途な娘は80年待ちましたが、迎えにこないので、自ら天皇を訪ねるというものです。 次田真幸氏の解説では80年とは漠然と長年という意味で「数学的実数を示すものでない」とあります。その通りと思いますが、124歳-80歳=44歳で、本稿の目的の年齢に合致します。ありえない124歳の年齢から多数という概念の80年という歳月を差し引くと44歳という真実が本当に現れるものなのでしょうか。 124歳とした何か別に大きな理由があったと思いますが、ここでは、とりあえずこの44歳を仮置きして話を進めます。 【雄略同母兄弟の年齢】 400 5555555555666666666677777777778888888 年 年 0123456789012345678901234567890123456 齢 允恭天皇 ⑰⑱⑲⑳―――――――――30―――――――――40――――――47 忍坂大中姫⑰⑱⑲⑳―――――――――30―――――――――40―――――――――50――――? 木梨軽皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―――――――――30 名形大娘皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―――――――――30―――――? 境黒彦皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳――――――――29 安康天皇 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳――――――27 軽大娘皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―22 ? 八釣白彦皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳――23 雄略天皇 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―22―――44 但馬橘大娘皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―――? 酒見皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―? ――――允恭天皇在位―――→安康→←雄略― 雄略天皇は允恭天皇と忍坂大中姫皇后との間に生まれた7番目の子です。母であるこの皇后は応神天皇の皇子稚野毛二派(わかのけふたまた)の子です。正統な血を引き継ぐものとして、皇后になるべくしてなり、9人の子を生みました。よって、18歳から順に生んでいったと考えました。その中に、4番目に安康天皇、そして7番目に後の雄略天皇がいたことになります。 問題点も多々あります。 仮に日本書紀の記述通り、雄略天皇の在位期間が23年とすると、22歳で若くして即位したことになります。逆に、それでも雄略の子供達の年齢は皆、さらに若いのです。雄略天皇の子作りは23歳ぐらいから始まる、やや遅いと思われます。 多産の母の例では、堅塩媛13人、推古天皇7人の場合など子作りが終わる頃と、夫天皇が崩御される時期が一致するケースが多いのですが、ここでは違います。 夫の興味が皇后から衣通郎姫に移ったのかもしれませんが、極端すぎるようにも見えます。 年齢設定的にはもう少し若いほうが矛盾が少ないのです。が、だからといって、雄略天皇の年齢を下げるわけにはいきません。同母兄である前安康天皇との共同した王室確保政略があり、そんな子供にはできないからです。 【雄略天皇と皇子の年齢関係】 400 88888888889999999999000000000011111 年 年 01234567890123456789012345678901234 齢 雄略天皇 ⑱⑲⑳―22―――――――30―――――――――40―――44 春日大娘皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳―――――――――― ? 高橋大娘皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪―? 磐城皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯ 星川皇子 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭ 清寧天皇 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱ 稚足姫皇女 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯ ←――― 雄略在位期間23年 ―――→←清 寧→顕宗→ 以下に后妃とその子供達の年齢を説明し検証していきます。 この時代の頃までさかのぼると、ゴシップまがいの記事が多くなります。こうした恋愛事件が、まじめな研究家からみると日本書紀の記述に疑問を呈し、信じられないといわれる要因の一つになるようです。本稿ではこれらもすべて伝承の事実として捉えます。なぜなら、伝承記事とはそうしたおもしろおかしく、逆に残酷でおどろおどろした事件だからこそ、後世まで残りやすい現実の伝承だと思うからです。 草香幡梭姫皇女(橘姫)くさかのはたびひめ 子はありません。 雄略の兄、安康天皇の導きにより、皇后として迎えられます。 仁徳天皇の皇子、大草香(おおくさか)の妹だからでしょう。 兄、草香皇子は自分のこの妹を「醜い」が、と言っています。また、古事記は、「今まで外に出さず大切」にしていた、「この時を待っていた」と言い訳しています。 婚期をすぎた女性であることがわかります。 10歳前後は年上の皇后ということだったのかもしれません。 でも、古事記ではこの皇后の存在は大きく、控えめですが、雄略天皇を支えていたことを示す逸話がそこかしこに残されています。 また、雄略天皇もこの皇后の意見を素直に聞いていますから、信頼していたように見えます。 兄安閑やこの草香皇后を含めた年齢関係について詳細は安康天皇の項で述べます。 童女君とその娘、春日大娘皇女 かすがのおおいらつめのひめみこ 春日大娘皇女は当時采女の童女君(おみなのきみ)が生んだ娘です。日本書紀によると、交合してすぐに妊娠したため、雄略天皇が自分の子であるかを疑ったのですが、物部目大連の進言で納得し、童女君を采女から妃に格上げしたとあります。 雄略天皇(21代) ├―――春日大娘皇女(7柱) 童女君 ├――――第一高橋大娘皇女 ├――――第三手白香皇女(26代継体皇后) ├――――第五橘仲皇女 (28代宣化皇后) ├――――第六武烈天皇 (25代) 仁賢天皇(24代) 一晩で7回もやったというのですから、それを聞いた大連も目を丸くしたことでしょう。雄略天皇の若さを象徴する話です。 さらに言えば、すぐに妊娠したとわかるという意味は、突きつめれば、一晩しか相手をしてくれなかったことになりますから、かわいそうな娘です。 このことにより生まれた子は春日大娘皇女と言われました。雄略にとってはじめての子、長女と思われる名前です。後に仁賢天皇に嫁ぎ7人の子を生みました。その中に継体天皇皇后、宣化天皇皇后、武烈天皇などがいます。本稿の年齢研究によりこの子らの年齢は推定済みです。 童女君が生んだ子の歩き廻る可愛い姿を目撃し、物部目大連に諭されたのです。関係したとき童女君は采女だったといいますから、このとき雄略はすでに即位していたはずです。 具体的にまとめると、雄略天皇即位した年、22歳で采女、童女君と関係します。23歳で春日大娘皇女が生まれ、翌年、2歳になる幼い春日大娘皇女の立ち姿を見て、自分の皇女と認めます。采女、童女君を妃としました。 その後、この娘、春日大娘皇女は20歳で仁賢天皇の子を出産したことにしました。相手の仁賢天皇は30歳でした。逃げ回っていた天皇ですから、これでいいのかもしれません。 ところで母の童女君の父は春日和珥臣深目です。和珥氏は天武天皇の頃には大春日氏として、蘇我氏と同様に天皇の外戚として大氏族に成長しています。応神天皇の頃から名が出てきますが、雄略天皇の頃はまだ納めた春日娘がまだ「采女」にすぎず、地方豪族扱いであった象徴的な事象といえると思います。 吉備稚媛と二人の子、磐城皇子と星川皇子 磐城皇子と星川皇子は同母兄弟です。 允恭天皇―――雄略天皇 ├―――磐城皇子 ├―――星川皇子 吉備上道臣――吉備稚媛 ├―――兄君 ├―――弟君 吉備上道臣田狭 雄略7年に母、吉備稚媛が宮中に入ったとあることから、磐城皇子を雄略8年生まれとし、その弟星川皇子を2歳差としました。この後、雄略23年崩御の際、星川皇子とその母が乱を起こし焼き殺されました。星川の変は清寧天皇の項で語りました。年齢面に限って言えば、この吉備稚媛は再婚で、すでに2人を生んでいましたから、雄略天皇と大差ない年齢であったと思います。 ただ、一緒に殺された2人の子は16歳と14歳であることになります。母、吉備稚媛の恨みの深さによるものなのか、故郷吉備から吉備稚媛に対し強い政治的圧力であった為か、想像はいろいろ可能ですが、いずれにしろ哀しい話です。 なお、長男の磐城皇子には殺された記述はありません。でも、以降消息はなく、本稿ではこの変のために時期はずれたもののやはり殺されたと考えています。 この吉備稚媛などの例でも、美しいと評判の人妻まで元夫を廃し、強引に迎えています。 皇后は祖父となる仁徳天皇の娘、草香幡梭姫皇女ですから、年上の皇后ということになります。 年増好みとも受け取れます。 韓媛と二人の子、清寧天皇と稚足姫皇女 清寧天皇は葛城円(つぶら)大臣、韓媛(からひめ)の娘が生んだ子です。 三妃のうち「元妃」とあり皇子時代からの妃と解釈できます。しかし、その父、円大臣は雄略即位の前年、目弱王をかばったため雄略天皇に殺されています。韓媛を差し上げますとも命乞いしたようです。ですから、宮中に入ったのは雄略1年以降です。 葛城氏は、応神天皇以降、特に仁徳天皇では皇后まで輩出し、繁栄した一族ですが、この頃は嫌われていたようです。大臣職はこの雄略天皇により位置づけられたものといわれますが、葛城氏ではなく平群氏が新任されたことによりどんどん遠ざけられていきます。 清寧自身は雄略天皇の第3子とありますから、生まれたのは第2子と思われる星川皇子より遅く生まれ、年下と判断しました。1歳下としました。 その妹、稚足姫皇女は斎王となります。伊勢大神祠に侍るとあります。はじめて、伊勢斎宮に入った巫女といわれています。後に天武天皇の娘、大伯皇女も13歳で斎王になりました。この清寧3年を13歳としました。兄清寧と2歳差の妹となり年齢矛盾はありません。 しかし、この稚足姫皇女こと栲幡娘姫皇女は雄略3年、男に穢され妊娠したと疑われ自殺したと書かれました。後に無実とわかる事件です。 年齢検証の結果、ありえない若さであり、これを否定します。 実は、安閑天皇1年に類似した話があります。これと錯誤したのだと思います。自殺が事実としても、上記のように雄略3年ではなく、清寧年間以降のことです。 百済から来た池津媛(いけつひめ) 日本書紀 雄略2年7月の記述です。 雄略の宮にいた百済の池津媛を石川楯(たて)と通じたため両人を殺害した事件です。 百済新撰を文献として注釈しています。「己巳年、蓋鹵王(がいろ)が即位。天皇は美女を乞う。慕尼夫人(むに)の娘、適稽女郎(ちゃくけいえはし)を天皇にたてまつる。」 しかし、この年号が合わないので困ります。 己巳年は489年で日本書紀では仁賢2年、古事記では雄略天皇崩御年に当たる。 蓋鹵王の在位期間は三国史記では455年~475年 日本書紀上、雄略2年は458戊戌年 日本書紀では紀年元年、2年には、通常天皇の婚礼記事を集中させていることが多いことも事実です。ここでもこの記事は雄略年間のことと考えたい。 ちなみに本稿では己巳年は489雄略6年と想定しています。 この頃の百済の状況は最悪で悲惨といえます。三国史記に残る蓋鹵王の魏国への支援依頼の上表文は、それは必死なもので悲鳴そのものです。隣国高句麗の暴挙を憎み、これを退けるためにはどんなことでもすると訴えています。 「もし救援していただけるのであれば、必ず、田舎娘(自国の娘を卑しめて表現)を送って(貴国の)後宮の掃除をさせ、あわせて子弟を送って、(天子の)外厩の世話をさせましょう。」井上秀雄訳 しかし、蓋鹵王はこの後の高句麗との戦いに敗れ死んだようです。子供達は落ちのび避難させていました。後に即位しています。 その後、己巳489年には、蓋鹵王が頼みとした魏国にまで侵略されています。 こうした百済の婚姻人質政策は何カ所にも見られます。倭(日本)にもこうした依頼があったとしても不思議ではありません。それに対する、雄略側の対応はひどいもので、石川楯と一緒にして焼き殺したとあるからです。 この事件には重要な後日談が残ります。 池津媛を殺されたと知った、百済の蓋鹵王はもう二度と媛を送らないと怒ります。 しかし、弟を送ったようで、その結果、日本で武寧王が生まれたといいます。 この問題は多くの天皇と墓碑、人物画像鏡などの考古学資料が重なります。 さらに 南宋が語る倭の五王、特に「武」=「雄略」について 雄略紀はなぜ、中国との交流をすべて「呉」という言葉で統一したのか。 埼玉県行田市の稲荷山古墳で発掘された刀剣に刻まれた銘文など など、非常に重要な案件です。 この時期の先代天皇を含む案件のため別に、まとめるつもりです。 その他の女たち ○伯父、反正天皇の娘たち 草香皇子の妹が皇后に迎えられる前、兄安康天皇は伯父、反正天皇の娘達を雄略に嫁がせようと躍起になっています。しかし、雄略のことを「恒に暴強」と皆逃げたとあります。 雄略天皇の強烈な個性が見える話としてはおもしろいのですが、なぜ、安康天皇は弟の雄略のためにこうも親身になって嫁探しに奮闘したのでしょう。 ○引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ) 古事記に載る逸話です。三輪川の辺で衣服を洗う少女と出会い、名を問います(求婚)。少女のそれに答えます(承諾)。その美しい容姿から、「他の男に嫁ぐな。今に宮中に召そう」と約束し、後日を期すというものです。一途に操を立て、少女は80年待ち続けます。天皇は忘れており、訪ねてきた老婆を見て、自分のために操を貫き通した行動に感動し、多くの贈り物をしたとあります。 引田氏は三輪、阿倍氏と同族を言われています。現在の桜井市初瀬付近といいますから、天皇とそれほど離れた住まいではなかったはずです。乘田神社(ひきた)があります。九州の疋田物部との関連も想定されています。 本稿で年齢検証に使用した逸話です。たぶん、現実には少女にとっては長い数ヶ月(80日か)だったのだと思います。一方、訪ねてきた田舎娘を改めて見て、宮中の美女に囲まれた天皇には、しおれた花としか見えなかったようです。この娘は自然の中でこそ光輝く乙女だったのだと思います。 ○吉野の童女(おとめ) 古事記に載る逸話です。吉野川の浜で「形姿美麗」の童女と会い、その場で婚(まぐわ)ったとあります。その後、さらに吉野行幸の際、かつての場所に御呉床を立て、再度童女を召し、自ら琴を弾き、舞わせたといいます。この野を阿岐豆野(あきづの)と言うようになったという逸話です。 この天皇、かなりの知識人だと思います。楽器を弾きこなし、歌を作り歌う。こうした学芸に伴い、政治行動も馬鹿力だけに頼らない論理的な、数多くの氏族を集結させ、組織力を組み立てる能力のあるものといえそうです。 ○倭の采女日野媛(うねめ ひのひめ) 日本書紀の話です。吉野から帰りますが、皇后も皇太后も怖がってそばにも寄りません。それを迎え、酒をついだ采女が日野媛です。「面貌端麗、形容温雅」とあります。即座に気に入り、手を取って後宮に入ったとあります。 日野媛は大倭国造吾子籠(あごこ)の妹です。仁徳天皇が崩御され、太子の履中が、弟、住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)との争いで、忠義の証しとして采女を奉ったとあります。これが、日野媛です。これ以降、采女を奉ることが習慣となったといいます。 その後、雄略天皇は皇后の意見を入れ、宍人部(ししひとべ)として、娘とその氏族の身分を安堵したとあり、その結果、臣、連、伴造、国造らもそれに習い、こぞって人を奉ったとあります。 ○春日丸邇(わに)の佐都紀臣(さつき)の娘、袁杼比売(おどひめ) 古事記です。采女が続々と続きます。婚うために春日に向かうとこの娘に会いますが、逃げたとあります。結局、説得させられたのか、酒席に侍り、天皇のそばにいつもある脇息の下に敷かれた板になりたいと、歌います。 ○伊勢国の三重の采女 捧げた酒杯に偶然、葉が入り、それを怒った天皇が撃ち殺そうとしますが、娘は歌でこれを吉兆として表現し、逆にこの才色ある娘に褒美を賜ったとあります。 なぜ、万葉集の冒頭歌が、雄略天皇の歌なのか。 そして、この歌は忘れられません。万葉集の冒頭歌です。 どうしてこの歌が冒頭にあるのか、いろいろな思いがあります。 万葉集 巻第一 雑歌
「籠(かご)や、箆(へら)や。その籠や、箆を持って、この岡で、菜を摘んでいなさる娘さんよ。家をおっしゃい。名をおっしゃい。この大和の国は、すっかり天子として、私が治めて居る。一髏(いったい)に治めて私が居る。どれ私から言いだそうかね。わたしの家も、名も。」折口信夫訳 (一部、文字を現代仮名などに直しています。) 日本書紀や古事記に語られる、多くの乙女達の逸話と矛盾しません。この歌がどの娘への歌かなどと探す必要もないでしょう。 さらに、「日本霊異記」でも冒頭の話は雄略天皇に関わる逸話の紹介記事から始まります。 雷を捕まえた少子部栖軽(ちいさこべのすがる)の話で、その経緯から飛鳥の雷丘(いかづちのおか)の由来となるものです。 おもしろいのは、この天皇の従者は夜、天皇と后(きさき)が大安殿の寝殿で、婚合(まぐわい)していたところに偶然入ってしまい、雄略を恥ずかしがらせたとあることです。 なぜ、こんな内輪の話を知っていたのでしょう。 「日本霊異記」の編者は薬師寺の僧景戒(けいかい)ですが、もとは「俗家に居て、妻子を蓄え養ふ物無く」とあるので、妻帯して貧窮していたようです。出身は和歌山県名草郡(現在の海草郡)とあり、彼も大伴氏の出身と推定されています。日本霊異記は787延暦6年には一応まとめられたようです。 万葉集が758天平宝字2年以降といわれますから、彼は万葉集を知っていたことになります。 万葉集も大友氏の歌が多く最終歌も大伴家持の歌が掲げられています。 また、大伴氏はこの雄略天皇に認められ、名門氏族として台頭しています。もとは摂津から和泉沿岸が故地といわれ、のちに磯城、高市地方に進出しています。物部氏と同じ「連」姓です。天皇に仕える側近です。近習の親衛部隊に近いといいます。大伴氏にとって、雄略天皇は大恩のある始祖王的存在だったのではないでしょうか。ちなみに、物部氏も連ですが、その性格は、軍隊としては大伴氏のように内には向かず、外に対し強権を発動した形跡が濃厚です。警察的色彩が濃い、武力種族です。 雄略が天皇即位を目指す最初の政治行動は、即位前年に示された、物部連と大伴連の2氏を大連に抜擢したことだったのです。ついでに言えば、大臣職に葛城氏ではなく平群臣を当てて平群大臣としています。ここに、大まかですが、組織作りの原型が見えてきます。単に部族の大小、強弱、新旧は関係なくなっていくのです。 万葉集はその出来栄えのすばらしさから、現在日本を代表する歌集となっていますが、もとを正せば、大伴氏の私歌集だったと思います。だからこそ、雄略天皇の歌に始まり、大伴家持の歌で締めくくられたのです。日本霊異記の冒頭の逸話も同じ理由によるものと推測できます。 いずれにしろこんなに年齢がばらばらな伝承を残している天皇はいないのです。 当時の世界(中国)に向けた上表文を「倭王武」として残したようです。 全国の氏族が挙って雄略天皇を称えた遺物を我々に宝剣などに残しました。 個性が強く、「大悪天皇」、「有徳天皇」と真逆の評価です。 たぶん、日本書紀内だけでも、有名人(名の有る人)の殺人の記録保持者でしょう。 歌を歌い、琴を弾き、古事記、日本書紀、万葉集などに自作の歌を残した才人でもあるのです。 采女(うねめ)制度を作ったのは履中天皇ですが、これを育成、確立し、最大限利用したにしては、子供の数は多くありません。 強大で迅速機敏な行動力とは裏腹に、その範囲はそれほど広いものではありません。 この天皇が崩御されることにより、独裁者としての「大王」のイメージは実質的に滅びます。ここから、新しい「天皇」という組織作りの苦労が始まった気がしています。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |