天武天皇の年齢研究

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 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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清寧天皇の年齢 せいねいてんのう

First update 2010/12/31 Last update 2011/05/29

 

446允恭36年生〜498清寧5年崩 39歳 扶桑略記、愚管抄、神皇正統記など

444允恭34年生〜498清寧5年崩 41歳 一代要記、本朝皇胤紹運録など

443允恭33年生〜498清寧5年崩 42歳 皇代記

425允恭15年生〜498清寧5年崩 60歳 仁寿鏡(39歳とも)

494雄略11年生〜511清寧5年崩 18歳 本稿

 

和風諡号

白髮武廣國押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと(日本書紀)

白髮大倭根子命      しらかのおほやまとこのみこと           (古事記)

 

父  雄略天皇 清寧は雄略の第三子とある。

母  葛城韓媛 葛城円大臣の娘。

妻子 なし

兄弟 同母妹 稚足姫皇女(栲幡娘姫皇女) 伊勢大~の斎宮

   異母兄 磐城皇子   第一子

       星川稚宮皇子 第二子

   異母姉 春日大娘皇女(高橋皇女)元采女童女君の子。童女は春日和珥臣深目の娘

 

【清寧天皇関連系図】

               吉備上道臣田狭

                ├――兄君

                ├――弟君

        吉備上道臣――稚媛

                ―――磐城皇子

                ―――星川皇子

        允恭天皇――雄略天皇      

               | ――――清寧天皇

               | ――――稚足姫皇女

        葛城円大臣――|―葛城韓媛

               ―――春日大娘皇女

     春日和珥臣深目――童女君      ――高橋皇女

 葦田宿禰                  ―――手白香皇女(継体皇后)

  ――――蟻臣―――――荑媛       ――――橘皇女(宣化皇后)

  |            ――居夏姫  ―――――武烈天皇

  |            ――――億計王(仁賢天皇)

  |            ――――――弘計王(顕宗天皇)

  |            ――――――――忍海部女王(飯豊女王)

  ――――黒姫      ――――――――――橘王

  女     ――――市邊押磐皇子

        ―――――御馬皇子

        ――――――青海皇女(飯豊皇女)

       履中天皇

 

【清寧天皇関連年表】 年齢は本稿の設定によるもの

            又、西暦年号は27年のずれが継体大王より生じています。

494雄略11年 1歳    清寧降誕

505雄略22年12歳    皇太子

506雄略23年13歳 8月 雄略天皇崩御

               星川皇子の乱

           10月 清寧天皇に皇位の印が送られる。

507清寧1年 14歳 1月 清寧天皇、磐余甕栗(みかくり)に即位

508清寧2年 15歳11月 億計、弘計皇子が播磨で発見される。

509清寧3年 16歳 1月 摂津国から宮中に入る。

            3月 億計を皇太子とする。

            7月 飯豊皇女が男と交合。       

511清寧5年 18歳 1月 清寧天皇崩御           

               天皇の姉、飯豊青皇女が(おし)(ぬみ)(つの)(さし)宮で朝政

           11月 飯豊皇女が忍海角刺宮廷で崩御。

512顕宗1年     1月 顕宗天皇即位           

 

 

白髪天皇

 

生まれながらにして白髪であったといいます。

加齢により、色素が衰え白髪(しらが)になります。

先天性白皮症というメラニン色素欠乏による病です。作家、黒岩重吾氏は病気として清寧天皇を描かれています。

大きなストレスで突然白髪になるという記録もあります。

 

白髪とは銀髪といえます。人種による違い、黒髪、栗色、金髪、そして銀髪。

父の雄略天皇は、記録からも海外に娘を求めた天皇としても知られています。しかも、清寧天皇の母は韓媛(からひめ)といいます。日本書紀では、韓人(からひと)とは日本人と現地の女との間に生まれた子を指します。

韓媛は葛城圓大臣(つぶら)の娘です。葛城氏の祖、襲津彦は大陸に渡った経験者です。案外、広い人脈を持つ葛城氏のことですから、朝鮮にいた東欧系などの娘との間に生まれた子が韓媛として雄略天皇に納められた可能性を否定できないのです。

もっとも、銀髪は劣勢遺伝だそうなので、黒髪の天皇から銀髪が生まれるのか。

もし、そうなら、男性側の祖先にも大陸の血をもつ血筋があったことになり、想像だけは膨らみます。

門外漢の私にはよくわかりません。

また、この頃、「韓」という名は舶来イメージを持つ当時流行の名として、名家の子息、子女に珍重されたという記事もありますので、一概に二世の娘と断定もできないのです。

ただ、日本書紀にはっきり記述されていて、無視するわけにもいかず、無用な加筆をしました。

 

 

清寧天皇の実在性について

 

最近、日本書紀の記述を疑うあまりに多さのなか、この清寧天皇の存在も風前の灯火といえます。

確かに在位期間も短く、何ら政治的行動のない天皇でした。しかし、彼の存在は疑いようがないと思っています。

1.和風諡号のはっきりとした記述

実は、その後の顕宗天皇、仁賢天皇、武烈天皇、そして、継体天皇には和風諡号がないのです。

しかし、この清寧天皇にはあります。

 

和風諡号 白髮武廣國押稚日本根子天皇しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと

     白髮大倭根子命 (古事記)しらかのおほやまとねこのみこと

「武廣國押」は美称とあります。その後に現れる和風諡号は、安閑天皇以降です。

安閑天皇 広国押武金日天皇

宣化天皇 武小広国押盾天皇

この件は別にまとめてみたいと思っています。ここでは、メモするに留めます。

 

 

星川の乱について

 

簡単に語れば、雄略天皇が崩御されると星川皇子は母、吉備稚媛(わかひめ)の言葉に従い、大蔵を占拠し謀反を起こします。しかし、大伴大連室屋の機転で、すぐさま大蔵を囲み、焼き殺したというものです。

これに呼応して稚媛の里、吉備上道臣らは船軍40艘を率いて、瀬戸内海を上ってきましたが、すでに殺されたとわかり引き返したとあります。あわや大きな戦争になるところだったことがわかります。

単純に見えるこの反乱の根は深く、大和朝廷と吉備国の長い間の相剋があったと思われます。

 

この際、犠牲になったのは、星川皇子、吉備稚媛、吉備上道兄君、城丘前来目らでした。

 

稚媛の父は吉備上道臣(かみつみち)です。吉備窪屋臣とも言われています。いずれにしろ吉備国(きび)の者です。

稚媛はかつて吉備上道田狭(たさ)の妻で、二人の間には兄君(えきみ)と弟君(おときみ)の二人の子がありました。日本書紀が語るところでは雄略7年、世にも比いまれない美女、稚媛の噂を聞きつけた雄略天皇が、吉備上道田狭を朝鮮の任那の国司として左遷して、稚媛を手に入れたとあります。

さらに、雄略天皇は大和にいた吉備上道臣の子の吉備弟君らに新羅討伐を命じます。朝鮮にいた父に説得され、戦乱は避けられましたが、弟君は大和に内通していた妻の樟媛に殺されてしまいます。

城丘前来目(きのおさざきのくめ)は紀岡前来目とも書き、雄略9年3月さらなる新羅との戦いで戦死しています。

こうした私怨に象徴されるように、中央政府から吉備国に対し、無慈悲な要求が数多くあったことがわかりまし。

 

 

雄略天皇崩御により、史実に現れた群雄割拠の混乱は次のとおりです。

○吉備国―――吉備姫、星川皇子の乱

○播磨国―――履中天皇の孫(億計、弘計兄弟)の擁立。

○丹波国―――仲哀天皇子孫の存在

○近江連合――後の継体天皇

○飯豊皇女――大和朝廷の腐敗と短期政権の臨時擁立

○大和国内――平群氏など天皇位を狙う。豪族たちの分裂

○筑紫国―――九州磐井の乱(ただし、時代は少しずれる)

 

 

年齢設定

 

母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)です。葛城円大臣(つぶらのおおおみ)の娘となります。「元妃」とありますから、雄略天皇が皇子時代には嫁いでいたと思われますが、最初に生んだこの清寧が雄略の第三子と位置づけられたことから、生まれたのは遅かったようです。

兄は、磐城皇子と同母弟の星川皇子です。

この二人は、母が雄略7年に見初められて、宮廷に迎えられたため、翌年雄略8年に磐城皇子が生まれとしてみました。弟星川皇子を2歳差とし、その翌年に、第三子、清寧が生まれたと仮定できると思います。

つまり雄略11年に清寧が生まれたことになります。

 

400  9999999999000000000011111

年    0123456789012345678901234

磐城皇子  @ABCDEFGHIJKLMNO     

星川皇子    @ABCDEFGHIJKLM     

清寧天皇     @ABCDEFGHIJKLMNOPQ

稚足姫皇女      @ABCDEFGHIJKLMNO

                 雄略在位→←清 寧→←顕宗

 

清寧天皇には后妃はおらず、子もありません。14歳で即位し18歳で崩御した若い天皇となります。

年は「若干」と日本書紀、古事記に書かれます。「若干」とは、例外もありますが通常、20歳以下を指すと言われています。

すると、彼には、強力な補佐役が必要だったわけで、ここに、飯豊皇女が登場しても何の不思議ではありません。また、平群大臣真鳥が専横を極めていたとしても理解できます。

 

飯豊皇女は天皇か

よく、古事記 下巻扉の冒頭に記された、以下の記述が問題にされています。

古事記 下卷

起大雀皇帝、盡豐御食炊屋比賣命、凡十九天皇。

古事記は全体が上中下の3巻で編集されています。現在の在位天皇はこの下巻では、仁徳天皇から推古天皇が書かれ、日本書紀の記述と同一で18天皇です。それが19天皇とあるため、この飯豊皇女が天皇であるとの仮説が定着していたのです。

 

しかし、上巻、中巻には天皇の人数その他、何も記述がなく下巻だけに上記の記述があるため、「古事記伝」などは後人の加筆としています。

「飯豊天皇」とはっきり明記したのは鎌倉時代以降、扶桑略記やその後の本朝後胤紹運録によるものです。確かにこの頃の加筆かもしれません。

 

飯豊皇女は、日本書紀には清寧3年7月に男と交合(まぐあい)したとして登場し、清寧5年1月16日に清寧天皇崩御から飯豊皇女が亡くなる11月まで、政治を見られたとあります。そしてその翌年、1月1日に新たな天皇、顕宗が即位する形を造っています。

一方、古事記は年月をはっきり記していませんが、顕宗、仁賢が発見されたとき、迎えたのは清寧ではなくこの飯豊皇女としています。日本書紀では迎えたのは清寧3年4月のことです。

古事記の書き方は、この顕宗、仁賢の発見が清寧崩御のあとの出来事のような書き方です。清寧2年には天皇は崩御されていたのかもしれません。

 

いずれにしろ、飯豊皇女が、清寧即位の最初から天皇を補佐したことには間違いないと考えるべきでしょう。もっとも、二人は別々に行動していました。一心同体の国政の共同経営ではありません。

 

年齢という面から探るとどうなのでしょう。飯豊皇女は45歳と扶桑略記以降言われています。

清寧天皇の年齢が39歳や41歳に対してのものです。実際は清寧天皇14歳から18歳のときですから、飯豊皇女が同時に存在したとすべきだと思います。

 

飯豊皇女の出自

飯豊皇女の候補には2人の皇女がいます。

日本書紀は3つの説を紹介しています。顕宗天皇の妹、又は姉、叔母です。

古事記では1つで顕宗天皇の叔母とあります。

 

多数決では古事記が正しいようです。

 

顕宗天皇の叔母とする表記

日本書紀 履中元年

秋七月己酉朔壬子、立、葦田宿禰之女、黒媛、爲皇妃。

妃生、磐坂市邊押羽皇子、御馬皇子、青海皇女【一曰、飯豐皇女。】

 

古事記 履中天皇

此天皇、娶葛城之曾都毘古之子、葦田宿禰之女、名黒比賣命。

生御子、市邊之忍齒王。次御馬王。次妹、青海郎女、亦名、飯豐郎女。【三柱】

 

古事記 清寧天皇

故天皇崩後、無可治天下之王也。 

於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹、忍海郎女。亦名、飯豐王。

坐葛城忍海之高木角刺宮也。

 

顕宗天皇の兄妹、又は姉弟とする表記

日本書紀 顕宗天皇

弘計天皇【更名來目稚子】、大兄去來穗別天皇孫也。

市邊押磐皇子子也。母曰荑媛。

【荑、此云波曳。譜第曰、市邊押磐皇子、娶蟻臣女荑媛。遂生三男二女、

其一曰、居夏姫、

其二曰、億計王、更名、嶋稚子、更名、大石尊。

其三曰、弘計王、更名、來目稚子。

其四曰、飯豐女王、亦名、忍海部女王

其五曰、橘王。

一本以、飯豐女王。列叙於、億計王之上。蟻臣者、葦田宿禰子也。】

 

ふくろう皇女

「飯豊」を新撰字鏡「伊以止与いいどよ」と読ませます。

皇極4年3月、「休留」を「いいどよ」と訓じ、「ふくろう」のこととあります。

この頃、「いいどよ」とは、陰で男と交わるもの、という隠語があったと思います。「夜鷹」とも訳されるからです。「いいどよ」はあだ名なのです。

 

2人の兄弟には叔母の青海皇女と忍部女王という正式の名を持つ妹(又は姉)がいました。この2人とも「いいどよ皇女」とあだ名を付けられていたのです。

 

たぶん彼女の私生活も淫らだったと想像できます。というより、その頃の宮廷そのものが淫靡な環境にあったと考えるべきなのかもしれません。日本書紀は「巡省風俗」として、宮廷内の取締までおこなっているのです。宇治谷孟氏はこれを「民の風俗を巡察させられた」と訳しておられますが、これは中国文献の借用だから、その借用した文章の前後から、民衆の取り締まりと判断したようです。ここ日本書紀言葉だけの借用であって余分な解釈は不要です。前文の男と交合した証言に基づく調査だと思います。

 

まとめると、飯豊皇女の系譜には3説あります。

                              交合時  崩御時

1.市辺押磐皇子の子、第4子 忍海部女王 日本書紀     31歳  33歳

2.市辺押磐皇子の子、億計王の姉     日本書紀別伝   37歳  39歳

3.市辺押磐皇子の妹、青海皇女      日本書紀、古事記 48歳  50歳

 

よって、1.忍海部女王と3.青海皇女は別人です。ただ、両者とも「フクロウ」と不名誉な呼び名で語られた女性だったと想像します。そうした不安定な状況下の大和政権だったのです。

2.は1,3説を一つとしたいが為に、億計王の姉の可能性を示唆したものと言えそうです。

ゴシップ記事としては、年齢的に顕宗の妹のことにしたかったけれど、政治参加の年齢には若すぎるため姉ではないのかと疑ったのです。

しかし、朝政を聞いたとする皇女は古事記が述べているように、叔母である青海皇女のことではないでしょうか。

しかし、本稿では心情的には、日本書紀の手法に賛同し、飯豊皇女を天皇序列から排除しました。

 

日本書紀 清寧3年

夏四月乙酉朔辛卯、以億計王爲皇太子。以弘計王爲皇子。

秋七月、飯豐皇女、於角刺宮、與夫初交。

謂人曰、一知女道。又安可異。終不願交於男。【此曰有夫、未詳也。】

九月壬子朔癸丑、遣臣連、巡省風俗

「清寧3年夏4月7日、億計王を皇太子、弘計王を皇子とした。

秋7月、飯豊皇女が角刺宮で與夫初交(まぐわい)された。

人に語るには、「人並みに女の道を知りました。何ということはありませんが、もう男は交わろうとは思いません。【これに云う夫有りとは未詳である。】(原文注)

9月2日、臣連を遣わして、風紀を取り調べさせた。」

 

日本書紀 顕宗天皇即位前紀(清寧5年)

五年春正月、白髮天皇崩。

是月、皇太子億計王、與天皇讓位。

久而不處。

由是、天皇姉飯豐青皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政。

自稱忍海飯豐青尊

當世詞人歌曰、

野麻登陛爾、瀰我保指母能婆、於尸農瀰能、莒能陀萩I儺屡、都奴娑之能瀰野。

冬十一月、飯豐青尊崩葬。葛城埴口丘陵

「清寧5年春正月、白髮天皇が崩御された。

この月、皇太子が億計王に天皇位を讓位された。

久しく位が定まらなかった。

これ由、天皇の姉飯豊皇女が忍海角刺宮において臨朝秉政(みかどまつりごと)された。

自ら忍海飯豊青尊(おしぬみのいいどよのあおのみこと)と名のった。

当世の詞人が歌って曰く、

倭辺(やまとへに)、身が欲しものは、忍海(おしぬみ)の、

         この高城(たかき)なる、角刺(つのさし)の宮。

冬11月、飯豊青尊は崩御され、葛城埴口丘陵に葬られた。」

 

400   8888888889999999999000000000011111 年

年     1234567890123456789012345678901234 齢

市辺皇子  ――30                               

御馬皇子  ――27                               

青海皇女  ――22―――――――30―――――――――40―――――――4850   

居夏媛   HIJKLMNOPQRS―――――――――30――――?       

仁賢天皇  FGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――37――― 51

顕宗天皇  DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――35――38

忍海部皇女 BCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――3133   

橘王    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――?       

      ←安康←―――――――雄略在位23年―――――――→←清 寧→顕宗→

 

上記の表は市辺皇子が長女、居夏媛を20歳で得、他兄弟を2歳差として計算したもの。

 

 

以上、本稿では継体天皇が清寧天皇から武烈天皇の時まで二朝並立状態で推移したと考えました。

 

【清寧紀での年代比較】

506                 雄略23年 8月雄略天皇崩御

                            星川皇子の乱 

                         10月清寧天皇即位

507継体1年 2月交野樟葉宮で即位  清寧 1年   清寧天皇即位年

508継体2年             清寧 2年11月億計、弘計皇子を播磨で発見

509継体3年             清寧 3年 7月飯豊皇女が男と交合。

511継体5年10月綴喜宮遷宮に遷都  清寧 5年 1月清寧天皇崩御

                         11月飯豊青尊皇女が薨去。

512継体6年             顕宗 1年 1月顕宗天皇即位        

 

継体天皇が樟葉宮で自ら大王と名乗りを上げたとき、雄略天皇が崩御され、星川皇女が反乱を起こし、幼い清寧天皇が即位したときだったはずです。

また、継体天皇が綴喜宮に遷都したとき、清寧天皇が崩御され、飯豊皇女など朝廷内部が混乱していたときと時間軸が一致しているのです。

 

1.清寧天皇政権の不安定さ

2.飯豊皇女の国政参加など、政府内の分裂

3.吉備国を背景とした星川皇子の乱

4.播磨国による履中天皇孫の擁立

5.丹波国による仲哀天皇皇子の擁立

6.近江国による継体大王の擁立

 

これらのことが次々と順番に起こったことではなく、ほぼ同時の出来事だったのです。

 

 

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