天武天皇の年齢研究

kamiya1@mta.biglobe.ne.jp

 

−目次−

 ホーム−目次 

 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

image007

 

2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

image008

 

2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

image009

 

 

 

顕宗天皇の年齢 けんぞうてんのう

First update 2010/12/12 Last update 2011/05/05

 

440允恭29年〜487顕宗3年 48歳 扶桑略記、一代要記、愚管抄など

450允恭39年〜487顕宗3年 38歳 古事記、水鏡、本朝後胤紹運録

477允恭 年間〜514顕宗3年 38歳 本稿

 

父  市辺押磐皇子 履中天皇の長子

母  荑媛 蟻臣の娘 生三男二女   蟻臣は葦田宿禰の子、葛城襲津彦の孫

      其一 居夏姫

      其二 億計王(おけ)又の名、嶋稚子、大石尊など   後に、仁賢天皇(第24代)

      其三 弘計王(をけ)又の名、來目稚子(くめのわくご)後に、顕宗天皇(第23代)

      其四 忍海部女王 またの名を飯豊女王(億計王の姉ともある)

      其五 橘王

皇后 難波小野王 允恭天皇の曽孫、磐城王の孫、丘稚子王の娘

      子はない

叔父    御馬皇子

叔母    青海皇女 一説に飯豊皇女

 

【顕宗天皇関連年表】 年齢は本稿の設定によるもの

   安康 1年 5歳

   安康 3年 7歳 近江国蚊屋野で父、市辺押磐御子が雄略天皇のために殺される。

            丹波国与謝郡に避けた。

            播磨国縮見山(しじみ)の石屋に逃れ、播磨国明石に行く。

   雄略 1年 8歳

506雄略23年30歳 8月 雄略天皇崩御

               星川皇子の乱

           10月 清寧天皇即位

507清寧1年 31歳

508清寧2年 32歳11月 億計、弘計皇子が播磨で発見される。

   清寧3年 33歳 1月 摂津国から宮中に入る。

            7月 飯豊皇女が男と交合。       

511清寧5年 35歳 1月 清寧天皇崩御           

           11月 飯豊皇女が忍海角刺宮廷で崩御。

512顕宗1年 36歳 1月 顕宗天皇即位           

513顕宗2年 37歳 8月 雄略陵の破壊をやめる。

514顕宗3年 38歳 4月 顕宗天皇、八釣宮で崩御           

 

【顕宗兄弟の系図】

               吉備稚媛   

                ├――磐城皇子―――難波小野王

                ├――星川皇子      |

        允恭天皇――雄略天皇           |

              |  ├―――春日大娘皇女  |

              | 童女君      |   |

              ├――――清寧天皇  |   |

 葦田宿禰         葛城韓媛       |   |

  ├――――蟻臣―――――荑媛         |   |

  |            ├――居夏姫    |   |

  |            ├――――億計王(仁賢天皇)

  |            ├――――――弘計王(顕宗天皇)

  |            ├――――――――忍海部女王(飯豊女王)

  ├――――黒姫      ├――――――――――橘王

  女     ├――――市邊押磐皇子

        ├―――――御馬皇子

        ├――――――青海皇女(飯豊皇女)

       履中天皇

 

年齢設定

古事記に顕宗天皇は38歳とあります。兄、仁賢天皇の年齢表記はありません。

この兄の年齢は、他の史書によると、50歳もしくは51歳と言われています。兄の仁賢天皇は弟より11年後に亡くなっています。つまりこの兄弟は1,2歳の差であったようです。

 

ところが、顕宗天皇は38歳だけでなく、別に48歳とする説があります。扶桑略記、一代要記、愚管抄などです。48歳とすると、弟の顕宗天皇が年上になってしまいます。天武天皇の年上説のような展開です。

中世の歴史書は、単純に兄の年齢を50歳、弟の年齢を48歳と2歳差に書いたようさえ見えてくるのです。この48歳説の始まりは扶桑略記辺りでしょうか。

 

【史書に記された顕宗天皇の年齢比較表】

     生年     即位  年齢    在位   崩御  宝年

古事記                   8年       38歳

日本書紀        乙丑        3年  (丁卯)

扶桑略記        乙丑  46歳   3年   丁卯  48歳

水鏡          乙丑  36歳   3年       38歳

愚管抄         乙丑  36歳   3年       48歳

一代要記        乙丑        3年   丁卯  48歳

紹運録  允恭39年  天皇元年      3年       38歳

 

上記表は史書を成立年代順に上から下に並べたものです。

まず、古事記が38歳としました。ただ、在位期間が8年とあります。前記、清寧天皇の在位期間、即位、崩御年は書かれていません。

そこで、日本書紀は在位期間について顕宗天皇を3年、清寧天皇を5年と分け合計を8年として解決させています。

平安後期になると、48歳と唱える史書が著されます。扶桑略記です。しかし、ここで、「卅八」を「卌八」としてしまったか、写し間違いを犯したようです。

水鏡は扶桑略記を底本としているといわれますが、この48歳説を採用せず、38歳のままです。

その後、扶桑略記をよく引用している愚管抄は48歳と扶桑略記の記述をそのまま転記したようです。崩御3年前の即位年は36歳と正しく書いているからです。

扶桑略記の影響力は大きかったようです。その後の史書、一代要記、皇代記、仁寿鏡、神皇正統記、興福寺、如是院などの各史書がそのまま48歳説を採用しているからです。

室町時代になって、本朝後胤紹運録がこれらを修正し、古事記、日本書紀を合わせた形で38歳と戻したのです。生年まで「允恭39年」と念をいれたものです。

 

以上から本稿も38歳とします。ただ、生年は允恭年間としました。允恭天皇の在位期間が42年間あったとはとても思えないからです。

また、絶対年は継体天皇を天皇序列から外したため27年のずれが生じています。相対年は日本書紀に準拠していることに変わりありません。

 

 

なぜ、兄は皇太子でありながら、弟に皇位を譲ったのか

 

日本書紀において、弟が兄を差し置いて、皇位に就くという記述はここ以外にはありません。

もちろん、譲り合う歴史は何度もありましたし、兄を殺して皇位に就いた弟がいたかもしれません。

 

この兄弟は性格が異なっていたようですが、人もうらやむほど仲のよい二人でした。

二人の長い逃亡生活が強い結びつきを生んだのかもしれません。

播磨風土記には、一人の女性を二人で譲り合い、この女性を老婆にしてしまった逸話さえ残っています。

 

日本書紀はこの顕宗天皇を絶賛しています。「天皇は長らく辺境の地においでになって、万民の憂え苦しみをすべてよく知っておられた。虐げられたものを見ると、自分の体を溝に投げ入れられるように感じられた、徳布き恵み施して、政令をよく行われた。貧しき恵み、寡婦を養い、人民は親しみなついた。」

(宇治谷孟訳)

一方、兄、仁賢天皇は「幼くして聡明敏才多識、壮年にして恵まし、へりくだり穏やか」と評しました。

感情豊かな弟と理性的で頭脳明晰な兄といったところでしょうか。

 

追記 双子説

和田萃著「ヤマト国家の成立―雄略朝と継体朝の政権」文英堂2010によると、オケ王とヲケ王を双子の可能性が高いといいます。ヤマトタケル伝承で、オホウス皇子とヲウス尊は双子とされていることから同じものだといいます。非常に説得力のあるもので、賛同します。本稿の年齢は二人のどちらに併せるべきかわかりませんが、そのままにしておきます。2歳差にしましたから、間を採れば問題ないとはおもいます。ただ、実在性が乏しいような記述が見られ、その件は賛同できません。顕宗には子がないとか、仁賢には系譜以外に伝承記事がないからといいます。本稿では継体天皇が並立していたためと考えています。

2011.05.05

 

顕宗天皇と仁賢天皇の皇位継承問題

1.経緯

顕宗、仁賢は履中天皇(りちゅうてんのう)の孫、市辺押磐皇子(いちべおしわみこ)の子です。

安康3年に天皇が崩御されました。このとき顕宗は7歳、兄は9歳です。近江国蚊屋野で父、市辺押磐皇子が雄略のために殺されるという事件が起きます。雄略は安康天皇が生前、市辺押磐皇子を頼みとしていたのを恨み、市辺皇子を殺し、自ら帝位に就いたのです。

そこで、部下たちに付き添われ逃避行が始まりました。丹波国与謝郡に避け、さらに播磨国縮見山(しじみ)の石屋に逃れ、播磨国明石に行き、名前を変えてまでして、その地の縮身屯倉首(しじみのみやけのおびと)に仕えたとあります。その間、部下が絶望し自殺しており、逃亡などされたことでしょう。

その後、都では雄略23年8月に雄略天皇が崩御されます。10月には息子の清寧天皇が即位しました。このとき顕宗は30歳になっていました。

2年後、豪族たちの宴席で、弟の顕宗が指名により舞い踊り歌るなかで、自分たちが市辺押磐皇子の子、天皇家の血筋であると公表したのです。こうして、億計、弘計皇子が播磨で発見さたとして、翌年、宮中に皇子として正式に迎えられ、子のない清寧天皇は兄、仁賢を皇太子と定められたのです。

さらに、2年後、清寧5年1月に天皇が崩御されます。ところが、ここで、皇太子の兄、仁賢が皇位に就かず、これを弟の顕宗に譲ると辞退します。

1年あまりの譲り合いが続き、結果的に、弟、顕宗天皇が即位したというものです。

 

2.状況

この逸話は日本書紀の清寧、顕宗、仁賢の項で3度も繰り返し語られ、古事記でも風土記でも載る有名な事件だったようです。

その周辺状況から解析します。

まず、明石という田舎で、こうした身分の者が、天上の雄略天皇の崩御を知っていたということです。明石は後の源氏物語でも描かれているように、光源氏が政戦に敗れ一時身を引いた寒々とした土地です。

決して、この二人は牛馬のごとく、農奴の身分ではなかったということです。忠実な舎人(部下)もおり、20年の歳月が経てば、片田舎において周囲の人々はこの高貴な人たちを無視できなかったと思います。すでに秘密ではなかったのです。本稿の年齢研究でも、雄略天皇の娘を娶り、雄略生前から子を生んだりしているのです。

播磨国側の密かな野望が見えてきます。なにしろ、切り札としての錦の御旗ならぬ天皇の孫をいただいていたのです。これを利用しない手はありません。

 

また、この頃の畿内大和は尋常ではありません。

雄略天皇が崩御され、すぐに星川皇子の乱が勃発します。これは故雄略妃の吉備姫が息子を天皇にしたいための乱です。日本書紀は、吉備姫の母国吉備国が大船団を率いて、大和に迫ったと記録しています。あわやキューバ危機といえる状況下でもあったのです。

本稿でもこの時期に継体天皇が立ち上がったと考えています。同時期、丹波国に仲哀天皇の子孫がいるとして、大和は軍隊を派遣し逃げられたりしているのです。各地で国々が蜂起する群雄割拠の時代といえます。

 

また、宮廷内部もおかいい。飯豊皇女が見知らぬ男と交合したと平然と語ります。

兄弟が天皇位を譲り合うこの間に飯豊皇女が忍海(おしぬみ)の角刺宮(つのさし)で政(まつりごと)を代行するという事態が起きています。実力者、平群大臣真鳥の差し金でしょうか。なぜか、都合よく11月に飯豊皇女が忍海角刺宮廷で崩御され、顕宗天皇が翌年1月に皇位に就くのです。

 

古事記では、歌垣の場において一女性を顕宗皇子と平群臣鮪が争い、結果、鮪を暗殺してしまいます。天皇家の思い人を平然と奪う鮪といい、奪われたと怒り鮪をすぐに殺す顕宗皇子、どちらも尋常ではありません。

 

こうした状況下で、兄である皇太子が皇位を引き継がず、弟に皇位を譲ったのです。

 

3.実情

弟、顕宗は言っています。履中天皇の孫である自分たちの身分を明らかにすべきだ。今の自分たちは「苦しんで人に仕え、牛馬の世話をしている。名を明らかにして、殺される方がましだ。」

しかし、本音は、セレブで豪奢な生活を満喫したいと夢を見ていたのではないでしょうか。

 

しかし、兄、仁賢はもっと冷静だったようです。「自分から暴露して殺されるのと、身分を隠して災厄を免れるのと、どちらがよいか。」命あってのものだね、今の生活もそれほどひどいものではない、と言っていたのです。天皇や皇太子になっても、現在の大和朝廷は腐りきっている。渦中に飛び込むなど愚の骨頂だ。

今の生活でいいではないか。

しかし、播磨国周囲のもの達にとって、このまま埋もれてはもらっては困るのです。この二人には金がかかっているからです。大和の頂点に上ってほしい。そして、この貧しい播磨国を救済してほしい。

 

雄略天皇が崩御され、周囲から煽てられ、急かされ、とうとう、顕宗は宣言してしまいます。

宮中に向かい入れられ、兄が皇太子と立てられました。人望もあったと思います。しかし、いざとなると皇位を弟にと拒否したのです。弟は吃驚したことでしょう。なにしろ、そんな責任ある重職に就きたかったわけではありません。優雅に贅沢したい弟でしたから当たり前でしょう。

これが、11ヶ月もの間、譲り合いが続いた本音でしょう。兄、仁賢はやはり、落ち目の大和朝廷に未練はなかったのです。本当に命の危険さえ感じていたのだと思います。それにしても、弟も弟ですが、兄にも覚悟が最後まで定まりませんでした。その証拠に、弟が天皇となり顕宗3年の後4月に弟が亡くなり、また8ヶ月もの間、皇位を引き継がず、ぐずぐず、拒み続けることになるのです。

 

 

平群鮪との争いは武烈(日本書紀)か、顕宗(古事記)か?

 

歌垣(うたがき)は古来、日本の風習のなかでも民衆の楽しみの一つです。

少し強引ですが、現在のカラオケと言ったところでしょうか。自由に歌って見せるのです。すばらしい風習だと思います。

その歌垣で、皇子と平群鮪(へぐりのしび)が一女性をめぐって歌で争ったというものです。その結果、皇子は平群鮪を殺してしまいます。このエピソードが日本書紀、古事記のどちらも同様な話として紹介されながら、日本書紀は対象の皇子が武烈だといい、古事記では、顕宗だというものです。

 

平群氏は武内宿禰後裔氏族の一つです。平群都久(つく)宿禰を祖としています。武内宿禰の子として、この木菟宿禰が仁徳天皇と同年同日に生まれたとあります。古くからの大和氏族と言えます。

大臣職は、成務天皇により、武内宿禰がはじめて就任して以来のものといえます。その後、履中天皇の頃からの葛城円(つぶら)大臣が雄略即前に殺され、これ以降、平群氏に代々伝わったものです。その後、巨勢、蘇我に引き継がれていきます。

葛城円大臣は武内宿禰の曾孫で、葛城襲津彦の孫、葛城玉田宿禰の子とあります。だから、履中の孫にとって、少しは因縁のある平群氏であったともいえそうです。

 

時代的には、平群木菟が仁徳、履中で活躍し、雄略天皇に平群真鳥が大臣として抜擢され、その子、鮪(しび)が武烈(日本書紀)、もしくは顕宗(古事記)に殺され、最後に真鳥大臣は仁賢8年に殺されています。

真鳥は殺される際、塩に呪いをかけ、そのため武烈は敦賀の塩しか食べられなくなったといいます。なぜ、敦賀なのでしょう。本稿は武烈天皇が継体大王に生かされた傀儡だったと考えています。継体の故郷、敦賀に足を向けて寝られない状態だったとして、その逸話が素直に頷けるのです。

 

つまり、雄略天皇即位時に抜擢された平群真鳥が20歳ぐらいとして、息子の鮪がこの頃生まれたとすれば、雄略天皇が23年の在位とすれば、顕宗天皇の歌垣が鮪、28歳ぐらいとなり、武烈前夜では40歳ぐらいになってしまいます。

本稿でも武烈天皇は11歳で即位、20歳で崩御されたと想定しました。歌垣が武烈天皇のことだとは考えられないのです。

ここは、顕宗天皇即位前のことと考えるべきでしょう。

 

【平群臣親子と顕宗天皇の年齢関係】

400 888888888899999999990000000000111111年

年   012345678901234567890123456789012345齢

顕宗天皇CDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――35――38 

平群真鳥OPQRS―――――――――30―――――――――40―――――――――5061

平群鮪     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――28    

        ←―――――――雄略在位期間――――――――23-清寧-←顕宗←仁賢

 

すると日本書紀の武烈天皇対平群鮪の歌争いは虚構となります。あえて古事記説を覆したのは、なぜなのでしょう。想像にすぎませんが、平群鮪の殺害から、平群大臣真鳥一族滅亡の一連の動向を一つの恋愛事件として封じ込めたかったように思えます。

 

もう少し、日本書紀と古事記の記述の違いを比較してみます。

 

【歌垣物語の書紀と古事記の記述相違】

      日本書紀             古事記

時期    武烈天皇即位前          顕宗天皇即位前

場所    海柘榴市(つばきち)の歌垣    歌垣

相手    平群臣鮪(しび)         平群臣志毘(しび)

乙女    物部麁鹿火の娘、影媛       宇陀首等の娘、大魚(おふを)

争いの原因 婚を約した相手はすでに      婚姻を望む相手の手を

      鮪のものであった。        先に鮪が取った。

政治事情  平群真鳥の国政政断        家臣は皆、朝は朝廷、昼は鮪の家に

      天皇宮を造成しながら自ら住む。  集まる。

結果行動  その夜、大伴連金村と相談     翌朝、兄、仁賢と相談

      退路をふさぎ、楢山で殺す。    寝込みを襲い殺害する。

      後日、父、真鳥も殺害する。      

 

その他、歌垣の話は、播磨風土記にもあります。ここでは、顕宗と仁賢が一女性をめぐり譲り合うという内容になっています。

なぜ仁賢でなく、顕宗や武烈なのか、おもしろいと思います。顕宗も武烈も感情的人間として同等と考えていたように見えます。

どちらの逸話も平群鮪を闇討ちにしています。また顕宗も武烈も、平群氏に真正面から対抗できるほどの実力がないことも証明しているのです。

 

結局、総合的に判断すれば顕宗即位前のことだったと思います。最高権力者の皇子が庶民の歌垣に参加できたのは、一番近い逸話としては、播磨風土記の、まだ身分を明らかにしない頃の話だったからでしょう。

平群臣鮪の殺害理由を、古事記は恋愛事件としたのです。さらに日本書紀は、後年、平群氏の本宗家といえる、平群大臣真鳥までをも殺害した理由として、武烈天皇の逸話として集約して見せたのです。これは、裏で継体大王の武力が介在していたのを隠すためだったからではないでしょうか。

 

大伴連金村が武烈天皇から軍隊を拝借し、真鳥大臣を討ち、その後軍隊をお返ししたという表現は、武烈天皇より継体大王から軍隊を借りたとしたとするほうが自然に思えます。黒岩重吾氏ははっきり、継体大王側の武力がこれを殺したとしました。

政治的な言葉で飾れば、大和の天皇はその権威において豪族近江王、継体に命じ、平群氏を征圧させた、といえるのです。

 

 

本章先頭へ       ホーム目次へ

©2006- Masayuki Kamiya All right reserved.