天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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舒明天皇の年齢 じょめいてんのう 

First update 2009/05/22 Last update 2011/01/29

 

593推古1年生〜641舒明13年崩御 49歳

         扶桑略記、一代要記、神皇正統記、本朝皇胤紹運録など

 

幼少時は田村皇子という。即位後、高市天皇、田村天皇ともいわれる。

 

父  押坂彦人大兄皇子        敏達天皇の長子と思われる。

母  糠手姫皇女(あらてひめのみこと)田村皇女とも言われる。敏達天皇皇女。

妻子    田眼皇女 推古天皇の娘  若くして薨去したと思われる。

   皇后 宝皇女(天豊財重日足姫) 葛城皇子 (後の天智天皇)を産む

                   間人皇女 (後の孝徳皇后)

                   大海人皇子(後の天武天皇)

   夫人 法提郎媛 蘇我馬子の娘  古人大兄皇子を産む

                   布敷皇女(皇子)       紹運録

      手坏娘  蘇我蝦夷の娘  箭田皇子?          一代要記

      香櫛娘(挟挟浪娘)靈田臣鈴子の娘 押坂錦向皇女(皇子) 紹運録

   嬪  姉子娘  吉備蚊屋采女  蚊屋皇子を産む

 

【舒明天皇の関連系図】

蘇我馬子―――――――――――法提郎媛

推古天皇               ―――――古人大兄皇子

  ├――――――――――――田眼皇女|蚊屋采女      

  |   糠手姫(田村皇女)  | |├――――蚊屋皇子 

敏達天皇   ―――――――――舒明天皇        

  ├―――押坂彦人大兄皇子     ―――――天智天皇

広姫皇后   |           ―――――天武天皇

       ―――茅渟王     ―――――間人皇女

      大俣王   ―――――皇極天皇

            ―――――孝徳天皇

           吉備姫王

 

【舒明天皇の関連年表】

593推古 1年  1歳 舒明天皇降誕

615推古23年 23歳 古人大兄皇子降誕  (本稿)

618推古26年 26歳 中国隋滅び、唐が立つ。

626推古34年 34歳 葛城皇子(後の天智天皇)降誕

629舒明 1年 37歳 舒明天皇即位。山背大兄王を退ける。

630舒明 2年 38歳 飛鳥岡本宮に遷る。

             第1次遣唐使

631舒明 3年 39歳 百済より王子豊璋を人質として受け入れる。

             有馬温泉に行幸

632舒明 4年 40歳 唐より遣唐使の答礼使、高表仁の来日。

638舒明10年 46歳 有馬温泉に行幸

639舒明11年 47歳 百済宮を造る。

             12月伊予の湯の宮に行幸(〜12年4月)

641舒明13年 49歳 10月百済宮で舒明天皇崩御

642皇極 1年     12月滑谷岡(なめはざまのおか)に葬られる。

643皇極 2年     9月押坂陵に改葬される。

 

600 1111111122222222223333333333444 年

  年 2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇S―――――――――――――34――――――――――――――49

古人大兄(本説)ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――31

天智天皇              @ABCDEFGHIJKLMNOP46

 

舒明天皇の年齢は49歳といわれます。これは現存する資料の中で扶桑略記が初めて主張し、神皇正統記、皇胤紹運録、一代要記などの数多くの歴史書でも採用された年齢です。他の年齢説は見当たりません。現在の人名辞典でも、年齢不詳とせず、この49歳説を採用しているものも見られます。

本編もこの49歳説を採用して話を進めますが、疑問がないわけではありません。

舒明天皇の母親、糠手姫皇女(田村皇女)の年齢です。664天智3年に亡くなっているので、息子となる舒明天皇を17歳で出産したとしても、この母親は88歳というかなり高齢まで生きておられたことになってしまうからです。

 

舒明天皇の妻となる女性は4名います。推測されうる妻となった順に述べることにします。

 

まず、田眼皇女(ためのひめみこ)です。推古天皇が敏達天皇の子として生んだ7人の6番目の子となります。古事記では敏達記で多米王と記されています。日本書紀の舒明紀では、舒明天皇の后妃紹介記事に載せられていないことから舒明天皇即位前に亡くなったと推測されます。子供もなかったようです。長命であれば、彼女こそが皇后に相応しい女性だったはずです。

 

次が、蘇我馬子大臣の娘、法提郎媛(ほほてのいらつめ)で、日本書紀では皇后となった宝皇女(後の皇極天皇)の次に夫人として紹介されています。古人大兄皇子を生みました。「大兄」とあることから、舒明天皇の長男であると考えられます。

 

次が、吉備国の蚊屋采女(かやのうねめ)で蚊屋皇子を生みました。

天皇家からみて采女であることから身分は低いものですが、吉備国の大豪族の家系です。

吉備国から捧げられた蚊屋一族の娘です。一口に吉備国といっても、下道、上道、香屋(賀夜、賀陽、蚊屋)、三野(御野)、苑(薗、曾能)、笠(賀佐)などの諸氏がいたといわれます。このなかの香屋氏の娘と思われます。

日本書紀によれば、641舒明13年に舒明天皇が崩御さ、乙巳の変で蘇我入鹿が殺されると古人大兄皇子は謀反を企てたとあり、その仲間には蘇我田口臣川堀、吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津がいました。そして、そのなかの吉備笠臣垂が古人大兄皇子を裏切り密告したとあります。

これが蚊屋一族の同胞である吉備国のものです。蚊屋皇子は古人大兄皇子に味方していたのではないでしょうか。

意外かも知れませんが皇極天皇一派はわりと閉鎖的な集団です。蚊屋皇子としては皇極天皇に味方しにくいのです。ましてや世間的には古人大兄皇子のほうが正統なのです。蚊屋皇子が古人大兄皇子と吉野に同行したかは別として蚊屋皇子は古人大兄皇子に同情的でした。

しかし、吉備一族は決断します。汚名を浴びようが生きる道を選んだのです。古人大兄皇子ではなく天智天皇を選んだのです。

その後の蚊屋皇子の足跡はわかりません。しかし、蚊屋の地名が近江にあり続けます。また、謀反の仲間たちはその後には許され、辛うじて日本書紀に名を残すことになるのです。

 

最後が、宝皇女こと後の皇極天皇です。天智天皇、天武天皇の母です。

歴史書、本朝皇胤紹運録通説では舒明天皇の皇后この宝皇女は1歳年下で、息子の天智天皇は舒明天皇22歳、皇極天皇21歳のときの子としており、まさに理想的な夫婦像となります。

しかし、現在、天智天皇の年齢はこれより12歳若くなり626推古34年生まれとされていますから、舒明天皇34歳で天智天皇が生まれたことになり、遅生まれとなります。

 

【本朝皇胤紹運録などに基づく年齢通説】

600 1111111122222222223333333333444 年

  年 2345678901234567890123456789012 齢

舒明天皇S―――――――――――――34――――――――――――――49

皇極天皇RS――――――――――――33―――――――――――――――――68

天智天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――58

皇極天皇(本稿)IJKLMNOPQRS――――――――――――――35――55

天智天皇(日本書紀)        @ABCDEFGHIJKLMNOP46

 

本稿では天智天皇が若くなったことで、母、皇極天皇も若くする必要があると考えました。

詳細は皇極天皇の項に譲ります。

 

その結果、舒明天皇はこの若く美しい皇女に惚れ込んだと思われる節が見えてきます。王宮を数々建て、全国の温泉を巡るなどこの舒明天皇の温和しい性格からとは思えない行動力が垣間見えてくるのです。新しい建物を次々たて、旅行好きなど派手な性格は妻であるこの後の皇極天皇に相応しいものです。

 

 

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